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奈良県の史跡探訪の際に、難読地名を見たことがきっかけで調べ始めました。まずは近畿圏全体は調べてみようかと・・・・・。奈良、京都、滋賀、大阪、兵庫の続きとして、三重県に踏み込んでみたいと思います。伊賀市 阿保(アオ)、印代(イジロ)、出後(イズゴ)、上野西日南町(ウエノニシヒナタマチ)炊村(カシキムラ)、 上友生(マミトモノ)、治田(ハッタ)、枅川(ヒジカワ)、平野清水(ヒラノショウズ)、生琉里(フルサト) 喰代(ホウジロ)、鳳凰寺(ボウジ)、猿野(マシノ)、真泥(ミドロ)、山畑(ヤバタ)伊勢市 小俣町(オバタチョウ)、小木町(コウギチョウ)、佐八町(ソウチチョウ)、東大淀町(ヒガシオオイズチョウ) 御薗町高向(ミソノチョウタアカブク)、 いなべ市 員弁町暮明(イナベチョウクラガリ)、大安町石榑北(ダイアンチョウイシグレキタ) 北勢町麻生田(ホクセイチョウオウダ)、千司久連新田(センジグレシンデン)、治田外面(ハッタドモ) 尾鷲市 早田町(ハイダチョウ)、行野浦(ユクノウラ)亀山市 小下町(コミザチョウ)、太岡寺町(タイコウジチョウ)、椿世町(ツバイソチョウ)、能褒野町(ノボノチョウ) 両尾町(フタオチョウ)熊野市 新鹿町(アタシカチョウ)、 桑名市 多度町御衣野(タドチョウミジノ)、長島町源部外面(マガシマチョウゲンベドモ)、殿名(トノメ) 西汰上(ニシユリアゲ)、能部(ノンベ)、矢田磧(ヤダカワラ)、志摩市 阿児町安乗(アゴチョウアノリ)、国府(コフ)、磯部町迫間(イソベチョウハサマ)、鈴鹿市 稲生(イノウ)、五祝町(イワイチョウ)、北長太町(キタナゴチョウ)、野辺(ノンベ) 土師町(ハゼチョウ)、津 市 安濃町粟加(アノウチョウオウカ)、草生(クサワ)、一志町大仰(イチシチョウオオノキ) 上弁財町(カミベザイチョウ)、芸濃町雲林院(ゲイノウチョウウジイ)、戸木町(ヘキチョウ) 美杉町八手俣(ミスギチョウハテマタ)、南河路(ミナミコウジ)、鳥羽市 畔蛸町(アダコチョウ)、石鏡町(イジカチョウ)、相差町(オウサツチョウ)、名張市 薦生(コモオ)、布生(フノウ)松阪市 飯高町猿山(イイタカチョウエテヤマ)、乙栗子(オトグルス)、射和町(イザワチョウ) 嬉野釜生田町(ウレシノカモダチョウ)、川原木造町(ウレシノカワラコツクリチョウ)、平生町(ヒロチョウ) 白粉町(オシロイチョウ)、大足町(オワセチョウ)、菅生町(スギュウチョウ)、田牧町(タイラチョウ) 土古路町(トコロチョウ)、甚目町(ハダメチョウ)、深長町(フコサチョウ)、駅部田町(マエノヘタチョウ) 御麻生薗町(ミオゾノチョウ)、岩内町(ヨウチチョウ)、四日市市 赤水町(アコズチョウ)、朝明町(アサケチョウ)、小古曽(オゴソ)、大治田(オバタ) 萱生町(カヨウチョウ)、小生町(コモチョウ)、馳出(ハセダシ)、海山道町(ミヤマドチョウ) 茂福(モチブク)、参照資料三重県の郵便番号今までに難読地名さがしをした地域については、こちらの地域一覧をご一読いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 奈良県・京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県
2019.01.31
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美術館の展示会場とはドアで区切られて、「玄庵」が独立した区画に再現されています。昨年(2018)に開館記念の第2回展を鑑賞に行った際の感想をまとめた記事で少しご紹介しています。今回訪れてこの茶室の一画に入り壁際を眺めたとき撮影可という掲示が目に止まりました。丁度そのとき一人で茶室を眺めることができましたので、写真を撮ってみました。そのご紹介をします。この茶室は、神戸・御影に所在する旧村山家住宅にある茶室「玄庵」(国指定重要文化財)をこの中之島のビル内に写して再現するというプロジェクトが実行された成果です。都心のビルの中に山中の静けさをたたえる「市中の山居」をめざしたものだそうです。 「玄庵」の建つ空間に入ると、垣根が境界となり戸があって、茶室への内露地がまず手前に見えます。この露地についても職人さんが御影「玄庵」に何度も通い、現地の色彩や質感を観察し、精密に再現されているといいます。 茶室の背後の壁面は大きなスクリーンになり、デジタルCG映像がプロジェクターで投影されています。茶室の外の空間の時間の移ろいによる明るさ、季節の移ろい感などを変化させ、茶室空間を演出しています。しばらく眺めていると、その空間環境の変化による茶室の雰囲気の移ろいを味わうことができます。茶室の躙口(にじりぐち)あたりを眺めますと、躙口の左側、茶室の壁の傍に「刀掛石」があり、躙口の上部に「刀掛け」が設けてあります。かつては、客として招かれた武士は刀掛石に一歩上がって、露地を歩んできたときの佩刀を、ここで「刀掛け」の棚に預けるということなのでしょう。 躙口の踏石から茶室内を眺める感じで写真を撮りますと、室内はこんな感じに見えます。客座の斜め前方に「炉」が見えます。 この再現された「玄庵」写しの最大の特徴は、茶室の正面は壁がなくて広い開口部にしてあり、茶室の内部をオープンに垣根の外側から眺め、観察できることです。 「玄庵」の再現が完了したとき、正面の壁部分は取り外しができる形できっちりと再現されていたようです。この区画の壁面に設けられた玄庵再現プロジェクトのプロセスを記録した動画上映を見ていて知りました。これがその画像です。 玄庵・正面の右斜め前に、この茶室の解説パネルが設置されています。それでは、茶室の内部の観察をいたしましょう。 躙口を潜り、茶室内に入ってから外を眺めると、露地の飛石の連なりが見えます。 茶室の正面の左寄りに「床」が設けられていて、左側には黒色の襖越しに一畳の「相伴席」が見えます。床の左側の壁には「墨蹟窓(花明窓)」が設けてあります。相伴席側の窓からの外光が、この墨蹟窓を経てほのかに床に明かりを投げかけるということでしょう。 正面から床を眺めるとこんな景色です。 御影の玄庵は藪内流家元の草庵式茶室「燕庵」を本歌とする写しだと言います。つまり、この中之島玄庵はその再現なのです。この茶室は「三畳の客座に台目畳の点前座を付した『三畳台目の茶室』です。」(解説パネルより) 右側には「下地窓」があり、上部が緩やかな曲線を描く中柱の向こうに、「点前座」と「茶道口」が見えます。 点前座側の茶室外観です。左側から、下地窓、風炉先窓、右側壁面の窓が色紙窓と称されるようです。 これは説明パネルから切り出したものです。点前座と客座を茶道口側から眺めた景色がわかります。風炉先窓側の上部に、「雲雀棚(二重棚)」が設けてあります。 正面の屋根のこの部分は、客座上部の傾斜を付けた天井部分に設けられた「突上窓」の外側にあたります。客座の上部からやわらかい光を取り入れるという工夫なのでしょう。これだけ窓が設けてあると、茶室内はけっこうやわらかい自然光に包まれた静けさを演出する空間になっているのではないでしょうか。最後に、上記したこの玄庵再建プロジェクトの記録動画からいくつかの画像をご紹介します。 玄庵が「仮組み」された状態。「中之島玄庵」の姿が見える形になったところです。この部材が一旦解体され、この美術館のこの建設現場に移されます。 「本組み」 仮組みの手順に沿って、もう一度組み上げるプロセスの風景です。 屋根が「萱葺」の技法で施工されているところ。 萱葺屋根の表面を刈り込み均等に仕上げを行う作業の場面です。 幅の細い竹を密に編み上げた竹小舞下地に、ワラなどが入った土を壁下地として塗り込んでいく「荒壁」づくりの左官作業の場面です。 「中塗り」という左官作業の工程が続きます。目の細かい土を平滑に塗り上げていく作業が行われています。 さらに、御影「玄庵」を再現するために、「上塗り」は粗めの風合いが出るように作業が重ねられたそうです。茶室がどのようにして建てられるのか、そのプロセス全体を大凡理解できる記録映像は寺社などで茶室を拝見するのにも有益です。現地でこの中之島玄庵をご覧の際には、この記録映像をぜひご覧になることをお薦めします。その制作プロセスは一見の価値があると思います。最後にこの再現建築プロジェクトについて、説明パネルから抽出しておきたいと思います。 設計・監修 中村昌生氏 京都伝統建築技術協会理事長 (付記:2018.11.5逝去) 施工 安井杢工務店(京都府向日市) 元禄元年(1688)創業。伝統工法仕上げ 露地監修 中根庭園研究所(京都市)「伝統的な匠の技と現代のテクノロジーが融合した」(パネル説明より)成果が、この市中の山居を成し遂げたのです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料中之島玄庵の一画に設置の説明パネルと記録動画中之島香雪美術館 ホームページ補遺藪内家の茶 ホームページ 茶室・露地 8.燕庵京都伝統建築技術協会 ホームページ中村昌生さん死去 :「朝日新聞DIGITAL」安井杢工務店 ホームページ中根庭園研究所 ホームページ茶室材料・銘木・北山杉 <納材経歴> :「松文商店」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 大阪・北区 中之島香雪美術館 「物語とうたにあそぶ」観照 大坂 中之島香雪美術館 開館記念展「珠玉の村山コレクション」
2019.01.29
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昨年春にオープンし、開館記念展として、”「珠玉の村山コレクション」~愛し、守り、伝えた~”のシリーズ展が継続的に行われてきました。そのシリーズ展の最後、第5回が「物語とうたにあそぶ」。冒頭の写真は当日の入館券半券です。物語・うたと言えば、まず思い浮かべるのは『伊勢物語』『源氏物語』『小倉百人一首』、各種勅撰和歌集名、六歌仙、三十六歌仙などです。今回のコレクション展示では、そういう連想のかなりの部分を初見の作品群で満たされました。会場入口には、真っ先に藤原定家が書写したとされる小倉色紙一幅が展示されています。「定家様」と呼ばれる書体で色紙の中に縦横はっきりとバランスをとり四方形に歌が書き込まれています。次の大江匡房の歌が記されている色紙です。(鎌倉時代・13世紀) 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ昨年訪れた時に購入した図録には「本作のような現存作品が当時のものと一致する確証はない」と留保した説明が付記されています。しかし、入口で藤原定家の小倉色紙一幅を目にすると、やはりオッ!という感じ・・・・・・。入館券の下部の絵は、一見、源氏物語のどこかの場面?と思いそうですが、これは「伊勢物語図色紙」(室町時代、15世紀)の1枚でした。今回の展示構成は、「第1章 源氏物語」「第2章 絵になる物語」「第3章 うたの景色」「第4章 うたをたのしむ」「第5章 歌を詠む人」という章立てになっていて、エピローグが「伊勢物語図色紙」です。紙本着色の色紙17枚が一挙に展示され、最後を締めくくっています。上掲の色紙絵は、伊勢物語第49段(若草の妹)を題材にしたものだとか。第49段には次のような贈歌と返歌が記されています 昔、男妹のいとをかしげなりけるを見をりて、 うら若みねよげに見ゆる若草をひとの結ばむことをしぞ思ふ と聞こえけり。返し、 初草のなどめずらしき言の葉ぞうらなく物を思ひけるかなこれは兄が妹のういういしい美しさにはっと目を見はる場面で詠まれた歌のやりとりだそうです。それでは、色紙の場面にどうつながる? 実はこの段の話は、「塗籠本」では、「妹のいとをかしげなるが琴(きん)ひきけるを見をりて」とあるそうです。こちらだとストレートに色紙の場面に結びつきますね。 これは今なら多分比較的容易に各所で入手できるPRチラシの表紙です。 このチラシの絵に番号を追記してみました。入館券に載る色紙絵は番号7に該当します。図録で再確認してみますと、17枚の「伊勢物語図色紙」のなかから、次のものがチラシで紹介されていることになります。 番号3:第14段(くたかけ)、番号1:第20段(春の紅葉)、番号2:第23段(筒井筒) 番号5:第23段(高安の女)、番号9:第58段(田刈らむ)つまり、17枚中6枚の色紙絵が今回の展示への誘いとして紹介されているのです。「筒井筒」は伊勢物語の中では、最も良く知られた第23段の始まりの場面です。この第23段では、後に男には高安の里に通っていく妻の家ができたのです。ところが、男はあることからその高安の女がいとわしくなり、行かなくなります。その理由を本文では、「はじめこそ心にくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)とりて、笥子(けこ)のうつは物に盛りけるを見て、心憂がりていかずなりにけり」と語っています。この理由の箇所が、ちゃんと絵の中に描き込まれています。「第1章 源氏物語」では、江戸時代のものですが、源氏物語の写本五十四冊セットとそれを納める箱が展示されています。この箱、外観は黒漆塗りで被蓋(かぶせふた)の上に「源氏物語」と記されているだけです。中に6つの内箱が2列3段重ねになっているのです。興味深かったのは、箱には装飾がない代わりに、各内箱の正面に五十四帖のそれぞれの巻名が蒔絵で記されていたことです。源氏物語図屏風や源氏物語五十四帖のいずれかの場面を描いた画帖の一部、対幅の作品はいわばコレクションの定番と言えそうです。今回初見の作品群を楽しめました。 PRチラシの裏面から、作品例示の箇所を切り出して引用します。第1章で特に、おもしろいと思ったのは、2列左端に載っている作品でした。室町時代・16世紀に作成された「源氏系図」だとか。「源氏物語」に登場する人物の各家系を整理しまとめたものだそうです。大勢の人々が登場する「源氏物語」の理解を助ける為のツールは江戸時代には大量に作られていて、各所でよく見かけます。その発想と工夫はやはり古くから取り組まれているのですね。この家系図をまとめるというのは、なんと11世紀頃まで遡れるそうです。「香雪本は、三条西実隆(1455~1537)が長享2年(1488)に統一・補正した系統の系図」(図録より)だといいます。この「源氏系図」の表紙は、紫式部の有名な「石山寺起筆伝説」の場面を描いているものです。「第2章 絵になる物語」では2つの絵巻が特に目に止まります。一つは番号4を付したものです。江戸時代・17世紀の作品で、岩佐又兵衛(1578~1650)とその工房により製作された極彩色の「堀江物語絵巻」です。岩佐又兵衛は荒木村重の末子であり、浮世絵の源流ともみなされる人。この「堀江物語絵巻」は「古浄瑠璃絵巻群」の一つだそうです。「堀江物語」というのは坂東下野の豪族堀江家の悲劇を扱い、両親を殺された息子太郎が親の仇討ちをするという話です。坂東武士の武勇伝が描かれています。戦う武士群像の描き方は色彩の鮮やかさとともに見応えがあります。もう一つはチラシの裏面、上から第3列の絵巻です。「浦島物語絵巻」(江戸時代、17世紀)で、中世に物語化されて、御伽草子として成立します。浦島太郎の話は童話として誰もが知っているものですが、御伽草子の浦島は本文で詠まれる歌の違いから、4種類に分けられると言います。私たちは、浦島太郎が亀を助けたことから竜宮城へ誘われるストーリーとして親しんでいます。岩波文庫の『御伽草子 (下)』に収録されている「浦島太郎」も本文に「これは竜宮城と申す所なり」と記されています。この村山コレクションの「浦島物語絵巻」では、浦島は蓬莱に連れて行かれ、蓬莱で乙姫と夫婦になるというストーリーになっています。絵巻の絵は専門家の絵師により細密に描かれた作品です。大人の鑑賞絵巻になっていると言えます。「八十六翁原在中画」と落款に記された「小督図」は「平家物語」に登場する小督の物語の一場面です。源仲国が「想夫恋」を弾奏する調べを聴き、嵯峨の奧の小督の居場所を突き止めるという場面が描かれていますが、86歳という年齢を微塵とも感じさせない華やぎのある絵が描かれています。「第3章 うたの景色」このセクションには、チラシ裏面の第2列中央に載っている酒井抱一(1761~1828)筆「十二ヶ月景物図短冊」や、その右に載っている池田孤村(1803~1868)筆「赤染衛門百人一首歌意図」が展示されています。 やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月をみしかなという歌の意を絵画化したというものです。池田孤村という絵師を初めて知ったのですが、江戸琳派の祖と称された酒井抱一の高弟の一人だそうです。このセクションには、蒔絵や陶器の作品も展示されていて、様々に味わえますが、中でも葛飾北斎(1760~1849)筆「肉筆画帖」の中の「鷹」が展示されていました。見応えがある肉筆画です。画帖は全十図あり、期間中に展示替えが行われるようです。「第4章 うたをたのしむ」のセクションで印象深いのは『古今和歌集』から『新続古今和歌集』までの勅撰和歌集21が「二十一代集」として、二人の分担で書写されたフルセットがそれを納める黒漆塗りの書物箪笥と一緒に展示されていたことです。勅撰和歌集は歌集により収録数が異なりますので、実際は28冊にまとめられているようです。書物箪笥は左9段、右12段となり、引き出しの高さがそれぞれ異なり、各引き出しに和歌集の表題が蒔絵で記されています。まさにすべてが手作り一品生産というものです。たぶん、こういう類いのセット品が高名な公家や著名な大名の邸には所蔵されていたのでしょうね。実質を伴う教養の文化資産として、あるいはステイタス・シンボルの所蔵品として・・・・・。番号8を付けた「四十二の物あらそひ絵巻」(江戸時代・17世紀)はこのセクションに展示されています。これは、源氏物語で春秋いずれが優れるかを競われているように、42の題のもとに対立するものの優劣を歌に詠み込むという趣向で、物語の筋を保ちつつ絵巻物に仕上げたもので、「中世期の子女の教材として制作されたものと考えられている」(図録より)と言います。こういうのが全訳されていると、当時の人々の考え方もわかりおもしろいでしょうね。番号11を付した作品は、(伝)小野道風(894~966)の「継色紙」(平安時代・10世紀)だとか。「第5章 うたを詠む人」 このセクションで、住吉具慶(1631~1705)筆「六歌仙絵巻」、(伝)円山応挙(1733~1795)筆「歌仙図」、(伝)藤原信実筆「猿丸太夫」など、歌人、歌仙が登場します。番号6を付した(伝)前嶋宗祐筆「小野小町図」もここに展示されています。チラシ裏面の第1列左端の「小倉百人一首歌かるた」一揃もまたここに展示されています。かるたに使われている料紙からして金泥で草花を描き、上部に金銀箔を散らすというもので、そこに歌仙絵や歌を手書きするという作品です。これを完成させるのに大勢の人が分業していたのでしょうね。眺めて楽しむだけで充分! かるた遊びに使うのにはもったいないでしょうね。最後に、番号10を付した陶器です。これは古清水の「色絵佐野渡形香炉」です。これが香炉? 一見したとき不明。展示品を観察していて、何となくわかりました。騎馬する公達の袖のところが空隙になっています。この公達像が香炉の蓋に相当するようです。香を焚くと袖口から煙が立ち上り、香りが漂うということのようです。そして、この香炉、新古今和歌集に収録された藤原定家の歌を踏まえて、「佐野渡」を造形化した香炉だそうです。造詣の深い人が見れば、すぐに連想が湧くのでしょう。私は説明を読んで、やっと、ナルホド・・・・・です。佐野は和歌山県新宮市にある地名です。 駒とめて 袖打ち払う かけもなし 佐野の渡の 雪の夕暮江戸時代以降に、藤原定家の評価が高まってきたといいます。こんなところで、この「物語とうたにあそぶ」のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*出品リスト 入館時に入手した資料*図録 『「珠玉の村山コレクション」~愛し、守り、伝えた~』 中之島香雪美術館*『伊勢物語 (上)全訳注』 阿部俊子訳注 講談社学術文庫*『御伽草子 (下)』 古市貞次校注 岩波文庫補遺中之島香雪美術館 ホームページ伊勢物語 紹介と研究のページ京都大学附属図書館所蔵 奈良絵本コレクション [伊勢物語] 源氏物語の世界 ホームページ原在中 :ウィキペディア岩佐又兵衛 :ウィキペディア岩佐又兵衛 :「コトバンク」酒井抱一 :ウィキペディア池田孤邨 :ウィキペディア[四十二の物あらそひ] 上巻欠 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」六歌仙 :コトバンク百人一首の風景 ホームページ三十六歌仙 :「コトバンク」赤染衛門 :ウィキペディア嵯峨嵐山文華館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 大坂 中之島香雪美術館 開館記念展「珠玉の村山コレクション」
2019.01.26
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これは現在なら手軽に入手できる特別展示・PRチラシの表紙です。「仏教の思想と文化-インドから日本へ-」というシリーズ展の一環です。平常展という名称がシリーズ展と改称されたようで、今回は「シリーズ展3」となっています。龍谷ミュージアムは、堀川通に面し西側にある西本願寺に対して、堀川通の東側で西本願寺の前にあります。館内は、「第1部 アジアの仏教」(2階展示室)、「第2部 日本の仏教」(3階展示室)という形で展示構成されています。その中で標題に記した「仏教美術のいきものがたり」と題したテーマでの特別展示に光が当てられています。仏像美術と言えば、仏像そのものの造形に目が向いてしまいます。しかし、その仏像と一緒に寄り添うように動物が造形されている場合が多いことがわかります。普段目にしていても仏像そのもの以外は見ていてもそれほど意識していないのです。この特別展示のように「仏教美術のいきものがたり」という視点を提起されることで仏教美術に現れる動物たちを再認識する機会になりました。一方、個人的には新たな学びに一歩踏み込むことも始まりました。 通常のシリーズ展であり、今回の図録はありませんので、このチラシや関連資料と記憶でのまとめです。チラシに現れた動物群に一部番号を追記しました。番号1は孔雀です。後半の展示になるようですが、孔雀明王が孔雀の背に結跏趺坐しています。番号2の鹿は「春日鹿曼荼羅」の図に登場します。番号3は白象を始として鳥獣が数多く集まっている部分をさします。これは釈迦涅槃図の一つに描き込まれた鳥獣だったと記憶します。そこで番号4です。 イメージを伝える為に、チラシから切り出して、見やすく回転処理加工をしてみました。動物が浮き彫りにされたものの断片です。仏教の世界と動物の関わりが大きく出てくるのが、「ガウタマ・ブッダ(釈迦)の前世の物語」(過去世)といわれる「ジャータカ」(本生、本生話、本生譚...)です。これは「兎本生浮彫」と称される物語を浮彫にしたものだそうです。燃えさかる火の中に斜め上から飛び込み己の身を布施として、善業のために苦行者に捧げようとする兎が前世でのガウタマ・ブッダだそうです。この浮彫では、猿とジャッカルはわかりますが、このジャータカにはカワウソも出てくるそうです。そして、猿=シャーリプッタ(舎利弗)、ジャッカル=モッガラーナ(目連)、カワウソ=アーナンダ(阿難陀/阿難)と前世が対応するとされています。この「兎本生浮彫」は3世紀頃、ガンダーラ出土のもので、龍谷ミュージアム藏です。当時の人々はジャータカを知っていてこの断片を含む浮彫を眺め、それが信仰と結びついていたのでしょう。ブネールには「シビ王本生」というジャータカがあるそうです。シビ王は、鷹に追われて逃げてきた小鳥(ハト)を救うために、自分の腿を切り裂きその肉を代わりに鷹に与えようとし、遂には自分自身を与えようとするお話です。このジャータカが、5世紀後半の中国・敦煌莫高窟第254窟に「シビ王本生図」が壁画として描かれているそうです。そのパネル写真が展示されています。他にもパキスタン北西部に伝わるジャータカに「摩訶薩埵太子本生」があります。このジャータカ自身は知らなくても、法隆寺にある国宝玉虫厨子の側面に描かれた「捨身飼虎」図のお話と言えばピンとくるでしょう。飢えた虎の親子に出会った薩?太子が自らの身を虎の親子に投げ与えて飢餓から救うという話です。ここでは、虎が登場します。敦煌莫高窟第254窟にはこの摩訶薩埵太子本生図壁画も描かれていて、こちらは後期にパネル写真が展示される予定です。番号5は展示室中央近くにでんと置かれている石像です。けっこうな大きさの獅子像ですが、その顔がなんともユーモラス! 2~4世紀、ガンダーラ出土のものです。 チラシの裏面の一部を切り出し、引用します。「アジアの仏教」の中に現れてくる「いきものがたり」の一部です。釈迦寂滅後、各地にストゥーパ(舎利塔)が建立されますが、そのストゥーパには、時計回りに仏伝の浮彫が施されました。釈迦の誕生から入滅(般涅槃)までの生涯と入滅後の重要な場面を絵伝として彫り込んだ作品群です。この仏伝にも様々な動物が登場します。チラシの上段・左側は仏伝浮彫「托胎霊夢」(龍谷ミュージアム藏)と称される場面です。釈迦の母になる摩耶夫人は、6本の牙を持つ白象が右脇から胎内に入る霊夢を見て、釈迦を懐妊したと言われています。その場面が浮彫にされています。尚、これとは別の言い伝えもあるようです。釈迦が生まれますと香水・香湯で洗い浄める「灌水」という場面があります。2~3世紀のガンダーラ彫刻の仏伝浮彫「灌水」(龍谷ミュージアム藏)には、釈迦の頭部上に二匹のナーガが冷水と温水を注ぐ形で登場しています。仏伝浮彫の関連で言えば、釈迦の「出城」および「愛馬との別れ・衣服交換」の両場面では馬(愛馬カンタカ)、サールナートでの「初転法輪」では鹿、「火神堂内毒龍調伏・毒龍の提示」では龍、「酔象調伏」には象、釈迦が火葬にされた後の「舎利運搬」には象がでてきます。下段の左は、ガンダーラで出土したもので、化粧皿と称されていますが、その使用目的は不詳だとか。発見された時にその形から化粧皿と呼ばれ、それがそのまま使われているのだとか。上掲の皿には空想上の動物・有翼の海馬が彫り込まれています。他にも化粧皿には、獅子の他に、空想上の動物・ケートスやグリフィンなどを彫ったものが展示されています。脇道に逸れますが、仏教美術に寄り添う動物という視点で改めて眺めますと幾つか出て来ます。 *獅子の背上の蓮華座に坐す文珠菩薩像 *象の背上の蓮華座に坐す普賢菩薩像 *象の背に坐す帝釈天像 *鵞鳥の背上の蓮華座に坐す梵天像 *水牛の背に跨がる大威徳明王像 *干支の冠を付けた十二神将像などです。もとに戻ります。今回の特別展示では、絹本着色の図像としての釈迦十六善神像・文珠菩薩五尊像・普賢菩薩騎象像・阿弥陀如来像などがほとけに寄り添ういきものに光を当てる作品として前期期間展示されています。後期には、展示作品の入れ替えが予定されています。 2階の展示室への入口だったと思いますが、こんなフォトスポットが設けてあります。鑑賞に訪れた子供たちが喜びそうなスポットです。PRチラシに登場する動物たちの配置が異なっています。小さな子供さんが丁度前に立つと、動物たちが左右を囲んでくれるような景色に撮れるのでしょうね。 板張りの通路には、展示室への誘いとして、ちょっとした遊び心が見えます。今回の特別展示の「いきものがたり」というテーマでは、2階の「第1部 アジアの仏教」の「第3章 大乗仏教とガンダーラ・西域」のセクションに展示された仏伝浮彫の中にも、その関連がいくつかみられます。一方、特集展示は3階展示室で行われていました。「仏教の世界観」、「仏教説話に登場するもの」(壁画と仏伝浮彫が中心)、「ほとけや神に寄り添ういきもの」(絹本着色の図像、上記の化粧皿・獅子像など)という区分で展示されています。一つ忘れてならないのは、2階に設けられた「ベゼクリク石窟復元展示」の展示室です。何度か鑑賞しているのですが、あまり意識していなかった「いきものがたり」の一例がここにもあります。巨大な過去仏諸像の間に、ラクダが描き込まれているのです。最後に、2階展示室の中央の壁面に、特別陳列として野生司香雪筆「釈尊絵伝」としてシリーズ7作品が展示されています。併せて「釈尊絵伝」作成にかかる書簡類も展示されています。”野生司香雪(1885~1973)は、明治から昭和の時代を生きた日本画家。法隆寺金堂壁画の模写で知られる荒井寬方とともに、大正6年(1917)から翌年にかけ、インドのアジャンター石窟において壁画の模写事業に参画した。”(展示品リストより)仏教美術作品に対し、違った視点で眺めて、作品の関連性や歴史の奥行き、伝搬の地理的広がりなどを味わい楽しめる機会でした。ご一読ありがとうございます。参照資料*上掲PRチラシ*REC講座 ”「仏教の思想と文化-インドから日本へ-」 龍谷ミュージアム提携講座 特集「仏教美術のいきものがたり ~聖獣と怪獣~” 講座レジュメ資料*今回の展示品リスト*『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社*釈迦八相図 :「新纂 浄土宗大辞典」*八相成道 :「新纂 浄土宗大辞典」補遺ジャータカ :「コトバンク」兎の話 林光雅訳『ジャータカ物語』より :「小さな資料室」捨身飼虎図は宇宙の真理をあらわす :「福聚講」 捨身飼虎図が載っています。浮彫仏伝「托胎霊夢」図 :「考古用語辞典」釈迦八相図 :「梵音画音」ケートス文皿 :「MIHO MUSEUM」グリフォン :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.01.23
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先日、前進座、京都での初春特別公演を観てきました。山田洋次監修・脚本による「裏長屋騒動記」という芝居です。これは山田洋次監督が前進座と一緒に今回初めて手掛けることになった舞台演劇の創作だそうです。この芝居の元ネタは落語の「らくだ」と「井戸の茶碗」だと冒頭のチラシに記されています。わたしはこの2つの落語ネタを知りませんので、白紙でこの演劇を楽しみました。これらの落語については、観劇後にネット検索で得た情報を補遺に載せておきたいと思います。観劇日が遅かったので、京都公演も明日14日の1日を残すだけ。10日間の公演というのは短い気もします。かつては、京都四条の南座が初春公演の場所となっていたのですが、南座の耐震構造工事などで一時休館になって以来、その都度公演場所が変化してきました。南座は昨年、11月に歌舞伎公演を皮切りに再オープンされました。今年の前進座初春公演は、京都駅ビル内の「京都劇場」です。劇場内の構造も異なり、花道がない場所でどういう芝居になるのだろうか・・・・と指定席につくなり、思った次第です。 これは当日の観劇券ですが、美術展覧会のチケットと異なり、ごくシンプルで実質本位の観劇券です。歌舞伎でも能でも観劇券は似たようなものだなとあらためて思います。さて、この芝居、山田洋次監督が脚本を書いたそのねらい「本当に笑える楽しい喜劇」の芝居になればという観点は、充分に満たしていたと感じました。内容は、江戸の典型的な裏長屋が舞台となり、そこのつましい住民たちの住む長屋で起こった騒動の顛末芝居です。芝居全体を通して中軸となる人物は紙屑屋の久六(=嵐芳三郎)です。裏長屋に紙屑の買い取りで巡回する久六が騒動に巻き込まれていくという筋立てです。独り芝居の場面が結構多くて客席を遺憾無く惹きつけているように感じました。久六は老婆とたしか3人の子を養う中年男で、亡くなった父親から紙屑回収に専念し目利きの必要な骨董品を商売ネタにしてはならないと言われて、真っ正直な紙屑屋に徹しています。その久六が裏長屋に住む浪人卜斎(=松寿喜八郎)の娘お文(=今井鞠子)に呼び止められて、卜斎の家に立ち寄ります。卜斎は伝手を頼り仕官先をさがす浪人。娘のお文との親娘二人暮らし。卜斎は傘貼り仕事、お文は縫い物の賃仕事でなんとか糊口をしのぐ生活。卜斎が病に罹り、借金が重なっているという状態。卜斎はやむなく家宝の仏像を紙屑屋久六に買ってほしいと懇願します。親の言を守り、骨董品を扱わない久六は一旦は拒絶しますが、卜斎の窮状と懇願に見かねて200文で買うのです。それが高く売れたら、差額を折半するという条件を自ら出して・・・・。久六はその仏像を背負い籠にいれて、紙屑買い入れの巡回をします。その籠の中の仏像を垣間見た蔵屋敷の若侍作左衛門が久六を自宅に呼び寄せ、その仏像を手にとって見て買い取るのです。作左衛門(=忠村臣弥)は骨董品好きのちょっと三枚目ぎみという独身侍です。婆や(=河原崎国太郎)との二人暮らし。婆やは作左衛門の骨董品好きで妻帯を考えないこととやりくりにやきもきしているのです。婆やの所作がおもしろい。久六は己が骨董品の品定めをする力が無いことと買い値を伝えた上で、作左衛門納得の300文で売ります。これが一つの騒動の契機になります。なぜか? 作左衛門がその仏像を清めようと作業を始めると、何やら仏像の胎内から音がするのです。確かめるために台座をいじっていると外れて、なんと中から50両の小判が出て来た!作左衛門はビックリ仰天。婆やは仏像を買ったのだから、その50両は今後の暮らしに役立つとうれしそう・・・・。だが、作左衛門は、仏像は買ったが仏像胎内の50両は別だと考え、久六を介して元の持ち主に返そうとします。久六は持ち慣れない大金を懐に、作左衛門と卜斎の間を往復する羽目に。卜斎は仏像胎内から出て来た大金の話を聞いても、仏像を売ってしまった後のことは最早己に関わりなしと、受け取ることを拒絶します。いっそ、その金を自分のものに・・・・と途中で邪心が久六に起こりますが、正直者の久六は即座に否定。久六が板挟みとなっていくプロセスの四者四様の姿(久六、卜斎、作左衛門、婆や)がおもしろい。後に、作左衛門は自ら50両を卜斎に返金に出かけます。長屋の井戸の傍で卜斎の住まいを知りたくてお文に声を掛けます。そして卜斎の娘だと知るとともに、卜斎が留守ということを告げられます。作左衛門は卜斎自身に直接返金できず、一方お文に一目惚れ・・・・・・。この仏像の噂が作左衛門の仕える藩主・赤井綱正の耳に入ることになります。この綱正自身も大の骨董品好きです。作左衛門は叔父に同行して、藩主綱正(=河原崎国太郎)に目通りし仏像を見せなければならない羽目になります。仏像を見るなり綱正は自分がその仏像に惚れ込み、買い取りたいと言い出す展開に。この殿様、一種のバカ殿様ぶりで、滑稽でユーモラスという設定が楽しいところです。200文の仏像が、とんでもない金額に展開していきます。一方、久六は別の騒動にも巻き込まれる羽目に。浪人卜斎の住まいの隣は壁を隔てて裏長屋の鼻つまみ者、”らくだの馬”(=松浦海之介)の住まい。入居以来店賃をビタ一文家主の吾助(=柳生啓介)に支払ったことがないというならず者。彼が裏長屋に来た魚屋から季節外れのフグを巻き上げます。そして、卜斎の家から包丁を借り、自分で調理して食べ、そのフグに当たって死んでしまうのです。そこに兄貴分の”緋鯉の半次”(=藤川矢之輔)が訪ねてきます。賭場でスカンピンになってから来た半次は死んだ”らくだの馬”の弔いを出すということで、この裏長屋に一騒動巻き起こすのです。紙屑の買い取り巡回で裏長屋に来た久六は、”緋鯉の半次”につかまり、家主への弔いに関わる難題の伝言に行かされる羽目になります。この弔いにまつわる騒動がもう一つの滑稽なドタバタ喜劇になる山場です。家主の家に乗り込み、半次が死人の馬を踊らせる。それに久六も巻き込まれるというドタバタ場面、その後、らくだの馬の遺体の傍で半次に久六は無理矢理酒を飲まされ、最後は半次が久六の変貌に飲み込まれるという場面がともに実に滑稽極まりないというところ。最初に登場してきた半次の醸し出す雰囲気が、最後は大きく変じてしまう落差がおもしろい。それぞれの役回りに応じた場面場面でのユーモラスなしぐさが客席の笑いを引き出して行きます。仏像の胎内から50両が出てくる騒動話の顛末は途中のプロセスである程度予測されます。しかしそこに一捻り加えられています。藩主が登場する筋書きに展開され、騒動話が大きくなることで、この芝居の最後が一層ハッピーエンドの顛末へと盛り上がるという次第です。素材となった2つの落語が、巧妙に換骨脱退されていて、芝居のストーリー展開に変容しています。和歌で言えば、本歌取りの脚本というところでしょうか。最後の場面で、鳶の竹五郎(=松浦海之介)が木遣りを唄います。なかなか良い唄いっぷりでした。花道がないために、客席側の通路が代用されていました。また、舞台に一番近いA列の座席が撤去されて、舞台の延長線にもなっていたようです。客席の間にのびる平坦な花道ではなく、階段状の傾斜のある通路を使う演技は、役者側には大変な面もあるでしょうが、一方でそれなりにアット・ホームなムードが生まれていたのでは・・・・と思います。指定席の位置の関係で、その花道の姿が見づらかったのが少し残念でした。前進座の芝居には、現代社会の様相をとらえたアドリブ的なフレーズや動作が取り入れられていることが良くあります。今回もいくつかあります。その取り入れ方が面白さを加えていました。そのネタばれは控えておきましょう。新春早々に、ストーリーの展開を楽しみながらも、大いに笑える喜劇でした。ご一読ありがとうございます。参照資料PRチラシ裏長屋騒動記 :「前進座」補遺らくだ 落語 :「落語あらすじ事典 千字寄席」らくだ(落語):ウィキペディア井戸の茶碗 落語 :「落語あらすじ事典 千字寄席」井戸の茶碗(落語):ウィキペディア山田洋次 :「映画.com」山田洋次 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.01.13
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初詣として禅居庵を訪れた後、建仁寺に来ても滅多に足をのばさない八坂通に南門から一旦出て、建仁寺の「勅使門」を正面から久々に眺めました。 これは建仁寺の北門の近くに設置された案内図です。勅使門の正面から眺めると、法水池-三門-仏殿-方丈が一直線上に並び、三門の開かれた扉から仏殿が見えます。 勅使門の西側に南門があります。 境内から眺めた勅使門。ここから北門へと境内の通路を通り抜けます。 方形の法水池の中央に石造反り橋が架かっています。東側に回り込みます。 法水池の東側に南北に真っ直ぐにのびる参道があり、その東側に「浴室」があります。 浴室の北側、参道の東に、石畳の参道がのび、一段高くなった境内地に見えるのが「開山堂」への楼門です。参道入口傍に、「扶桑佛心宗 第一開山 千光祖師榮西禅師入定塔」と刻された石標が立っています。開山栄西禅師の塔所です。千光国師は栄西禅師の諡号です。この楼門は三間一戸、重層、入母屋造り、本瓦葺です。明治20年(1887)洛西鳴滝の妙光寺から移したものと伝えられています。門内の中央に開山塔が明治17年(1884)に建てられています。礼堂と相の間、祠堂からなる建物です。明治期の代表作となっている建物といいます。(資料1)この開山堂は時折、特別公開されるようです。一度特別公開の折りに拝見しました。開山堂の北には、南から両足院・毘沙門堂が並び、少し東に奥まった位置に西来院が位置します。これらの塔頭は以前にご紹介しています。その先に、北門があります。 北門の西側境内地に庫裡が位置し、庫裡と西側の方丈との間に、この玄関が見えます。貴賓を受け入れる玄関口でしょう。「最初禅窟」と墨書した衝立が置かれていました。日本史の年表を見ますと、日本における臨済宗を開山する栄西禅師が中国(宋国)から帰朝されたのは鎌倉時代、1190(建久2)年です。この建仁寺が創建されるのは1202(建仁2)年です。一方、道元禅師が帰朝され、曹洞宗が始められたのは1227(嘉禄3)年です。つまり、ここが本山としては最初の禅の修行場ということになります。1190年に帰朝、1202年まではどうされていたのか? 栄西禅師は、まず九州で教義弘通を始め、1198年には『興禅護国論』を著します。これは当時の仏教界の一大勢力だった天台宗延暦寺・衆徒の圧迫に対する対抗として立場を明確にされたのでしょう。1198年は、法然上人が『撰択本願念仏集』を著し、浄土宗の立場を明確にされた年でもあります。仏教界が大きく変動しつつある時代だったのです。栄西禅師は、1199(正治元)年、鎌倉に下り寿福寺を建立します。将軍源頼家をはじめ鎌倉武士の信仰を得ていきます。その後、1202年に東山綾小路の河原に佐々木定綱・畠山重忠等の助けを得て、一宇を建立するに至るのです。3年の歳月を費やし、建仁寺が竣工したそうです。(資料1,2)尚、当初は延暦寺との関係を顧慮し、叡山の末寺という形をとり、止観院・真言院の二院をおき、天台・真言・禅三宗一致の寺ということからスタートしたそうです。教義弘通のための妥協だったのでしょう。蘭渓道隆(大覚禅師)の代に至って、禅宗のみの寺に改められたといいます。(資料1) 方丈は築地塀で囲まれています。方丈の庭に入る「中門」です。方丈の庭側から眺めたこの門は既にご紹介しています。外側の景色をここに補足します。 昨年、京都の文化財特別公開の折りに、建仁寺塔頭・久昌院を訪れています。久昌院の北側に位置するのがこの塔頭「堆雲軒」です。1346(正平元)年霊洞院の正中西堂禅師が創建した塔頭だそうですが、天文年間に焼亡したとか。1680(延宝8)年、実伝慈篤禅師により再興されたといいます。実伝禅師は上林春松(宇治製茶業の旧家)の子だとか。その関係か、この塔頭には現在五条坂の陶工たちにより「急須塚」が建立されているそうです。(資料1)さて、建仁寺の北門を抜けると、祇園花見小路は俗世界の混雑ぶりです。新春の観光客で溢れていました。 「祇園甲部歌舞練場」の前を通り過ぎるとき、久しぶりに遠望するこの建物の傍に、異質なものを垣間見ました。好奇心から表門をくぐり場内に入ってみました。 巨大なカボチャのオブジェです。草間彌生作。 歌舞練場のこちらの建物「八坂倶楽部」を会場にして、草間彌生展「永遠の南瓜展」がフォーエバー現代美術館コレクション展第2章として開催されています。2018.5.3~2019.2.28の期間です。ネット検索してみたところ、作品123点が一挙公開されているようです。(資料3) 1871(明治4)年に京都でわが国最初の博覧会が西本願寺で開催されました。「これを機に,京都府と民間によって創設された京都博覧会社は,明治5年,西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会を開催。」(資料4)ということになり、この博覧会の付博覧として1872年から「都をどり」が創始されました。外国人観光客もたくさん訪れたそうです。(資料1,4)1873年には、当時花見小路の西側に在った建仁寺塔頭清住院を改造して、第2回都をどりから歌舞練場として使用されたそうです。そして、1913(大正2)年に、現在の場所に歌舞練場が新築移転して、現在に至ります。(資料1,4)この歌舞練場は現在、耐震工事のために一時休館が続いています。このまとめのために少し調べていて、このことを知りました。歌舞練場の玄関は、本館・別館ともに唐破風屋根です。獅子口には「歌舞練場」の文字が刻まれています。いままで幾度も「都をどり」を見に来ていますが、意識しませんでした。視点を変えると、新たな発見があるものです。花見小路の途中で東に祇園の小路を曲折しながら抜けて、八坂神社に立ち寄りました。参拝客が多いのを承知で、せっかくここまで来たのだから立ち寄って行こうと・・・・。 四条通の東端になる西楼門から本殿に向かったのですが、本殿手前まではまさに満員電車の車内のような状態でした。本殿前の参拝所に向かう人々と参拝を終えて西楼門から出ようとする人々との鬩ぎ合いの状態でした。人の流れに沿って少しずつ進むしかありません。石段部分が大混雑ですが、社殿のある境内域は比較的混み具合は緩やかでした。 拝殿の南面に大きな絵馬が置かれていました。 帰りは、八坂神社の正面になる南楼門を抜けて、少し遠回りですが三条に抜けることにしました。 西楼門に対して、正面のこの南楼門は様変わりしてのんびりした感じ!次回はこの経験を活かして参拝しようと思った次第。 南の石鳥居です。 この石鳥居から通りを挟んで南西角のこんな風情のある一隅を眺めつつ、東大路通に戻りました。細部まで行程を考えた初詣ではありません。護王神社と禅居庵・摩利支天は今年の干支からみで行ってみようという思いつきから始まった・・・・・一人歩き。そこで一応個別の記事としてご紹介しました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂2) 『新選 日本史図表』 監修:坂本賞三・福田豊彦 第一学習社3) 企画展示 草間彌生永遠の南瓜展 :「フォーエバー現代美術館」4) 京都の博覧会 都市史 :「京都市」5) 祇園甲部歌舞練場 :「都をどり公式ウェブサイト」補遺開山栄西禅師 :「建仁寺」栄西 :「コトバンク」明菴栄西 :ウィキペディア蘭渓道隆 :「コトバンク」蘭渓道隆 :ウィキペディア堆雲軒[建仁寺](京都市東山区) :「京都風光」都をどり 公式ウェブサイト祇園の歩き方 :「祇園商店街振興組合」八坂神社 ホームページ草間彌生 :ウィキペディア【京都 祇園】フォーエバー現代美術館・『草間彌生 永遠の南瓜展』へ。:「高槻+αジャーナル」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院(初夏の特別拝観) 2017年に6回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院 探訪 京都・東山 建仁寺塔頭 久昌院探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に 2018年に5回のシリーズで方丈・法堂内部の細見をご紹介しています。スポット探訪 京都・東山 初詣 建仁寺禅居庵 摩利支尊天
2019.01.09
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大和大路通を南下し、京都ゑびす神社に立ち寄った後、建仁寺の塔頭・禅居庵の摩利支天堂(本堂)を訪れました。禅居庵は建仁寺境内の西南端に位置します。大和大路通に面した西門は冠木門の形式です。 過去数度禅居庵を訪れています。正月2日に訪れてみたのは、この狛亥像でおわかりですね。今年の干支にあたりますので、別の時季の風景との違いも感じたくて訪れました。 参道の両側には五色の幕が張り巡らされています。境内にも狛亥像があちらこちらに奉納されています。まず参道途中にあるのがこの像です。下段は西門側を背景に撮った狛亥像です。 参道途中の南側には絵馬所があり、 参道途中の北側には覆い屋(亥堂)の中に疾駆する亥の銅像が祀られていて、その足元の台座上には願いをかけた亥みくじが沢山奉納されています。これはマスコット的な感じの陶製亥像です。それでは、ここでまず禅居庵の表門をご紹介します。 建仁寺の正面となる南門と同様に、八坂の塔(法観寺)に向かう八坂通に面しています。 唐門で四脚門の形式です。門扉の前面中央に「摩利支尊天」と太文字で墨書された大きな提灯が吊り下げてあります。左の柱に立て掛けられた看板には、「開運勝利」「亥歳の守り本尊」と記載されています。 軒丸瓦や破風のところに輪宝紋がレリーフされています。十二剣のこの輪宝紋が禅居庵の寺紋でしょうか。ホームページには載っていないようですので、個人的な推測です。木鼻はごくシンプルです。唐破風の兎毛通はあまり見かけない意匠です。 正面の参道には参拝者が列を作っていました。 本堂の正面中央には向唐破風の向拝があり、その先端部に大きな香炉が置かれています。線香をたむけて参拝祈願する人が列をなしているのです。本堂に安置された摩利支天像に参拝祈願するには、香炉より本堂寄りの位置からできるようになっています。そこには摩利支天像と結ばれ繋がった五色の綱が設けられていて、その綱を手に結縁して参拝できるようになっていました。勿論、本堂内に入り正面から参拝することもできます。 向唐破風の両側傍にも狛亥像が奉納されています。 西側から 東側から 向唐破風の向拝は後補されたものだそうです。摩利支天堂(本堂)は方三間、単層ですが裳階がついている唐様仏殿です。京都には数少ない中世の禅宗様仏殿として貴重な遺構となっています。(資料1)尚、摩利支天堂は、戦国時代の兵火で焼失したのですが、天文16年(1547)に織田信長の父・信秀により再建されたと伝えられるそうです。(資料2)この禅居庵は、鎌倉時代後期、元弘3年(1333)に小笠原信濃守貞宗が、元国からの来朝僧・清拙正澄(せいせつしょうちょう:大鑑禅師)を開祖として建立した臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。(資料1,3)この本堂に祀られているのは大鑑禅師が来朝の折に元の国から将来された摩利支天像で、秘仏として祀られているものといいます。(資料2,3)摩利支天はサンスクリット語のマリーチの音写です。威光・陽焔とも訳されるそうです。「もと梵天などの子と称し、よく身を隠し、障礙を除いて利益を増すとインド民間に信仰された。猪に乗った童女の姿で、別に三面六臂の像もある」(資料3)と説明されています。「日月の光を神格化したもので、その姿は天女形をあらわし、足下に猪を踏んでいる」(資料1)という説明もあります。古来、摩利支天は武士の守護神、枕本尊として崇められてきたようです。(資料1,4)このマリーチが仏教に取り入れられて、仏法を護る善神として位置づけられているのです、禅宗では摩利支天を大切にされているそうです。禅居庵の秘仏となっている摩利支天像は、七頭の猪の上に座した三面六臂の天女の姿だとホームページの記述と御札や御守に示された姿形から拝察できます。(資料3)摩利支天堂内は撮影禁止です。ネットで調べてみますと摩利支天像の姿をいくつか画像で見ることができます。 ギメ東洋美術館蔵 法雲寺(山名史料館「山名蔵」)これらはウィキペディアから引用しました。(資料5)他にもその姿を幾つかのサイトで拝見できます。一つは、高野山霊宝館が所蔵される図像です。こちらからご覧ください。摩利支天堂の屋根を眺めてみましょう。 降り棟の鬼瓦の写真が撮れました。 一方の先端は鬼瓦が龍像として造形されています。 軒丸瓦にレリーフされた紋は「三階菱」です。三階菱は小笠原氏の家紋ですので、禅居庵を建立した小笠原氏に由来するのでしょうか。(資料6) 本堂の東側におみくじや御札の授与所があり、その前に手水舎があります。 手水舎の覆い屋の通常蟇股の部分も見応えがあります。 一面は龍像の透かし彫りとなっています。 松 竹 これは植物名が不詳です。梅ではなさそう・・・・・。 木鼻もしっかりと獅子像が彫り込まれています。つづきに境内地で拝見した他の箇所をご紹介します。 西門を入った境内の北側には築地塀の傍に地蔵堂「小松地蔵尊」があります。南側は現在、駐車スペースに使われています。 西門から入った参道の北側にこのお堂と小祠が並んでいます。金網戸の区画内部に小社が並んでいます。その一社は「荒熊大権現」の扁額が見えます。右端の独立区画の堂内には石仏が安置されています。これらの詳細は不詳です。東端の小祠には、「三光威徳天」の扁額が掲げてあります。 この後、建仁寺境内の方に禅居庵内の「ゆずりあいの道」と名づけられたこの石畳の通路を通り抜けます。 その前に見たのがこの庵内看板です。新年大祭の行事が今日(8日)から始まっています。 建仁寺境内から入って来たとき、摩利支天堂に向かう唐門の正面がこの景色です。「ゆずりあいの道」の反対側の起点になります。 通常、この庫裡や玄関前の庭は摩利支天堂への通路としての通過点です。 建仁寺境内から禅居庵に入る山門(東門)になります。これで摩利支天堂ほかのご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂2) 建仁寺禅居庵摩利支尊天堂とあじさいの花 :「京都検定合格を目指す京都案内」3)禅居庵 ホームページ4) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房5) 摩利支天 :ウィキペディア6) 小笠原氏 :ウィキペディア補遺清拙正澄 :「コトバンク」小笠原貞宗 :ウィキペディア東林山法雲寺 ホームページ山名氏史料館『山名蔵』 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -5 禅居庵 摩利支天堂
2019.01.08
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大和大路通を南に下り、禅居庵に行く前に通りの西側にある「京都ゑびす神社(恵美須神社)」に少時立ち寄りました。2日の午後3時過ぎに訪れましたので境内は混んでいず、写真を撮りやすい状況でした。ここは正月早々よりも、1月10日の「十日ゑびす」とその前後が一つのピークです。あと少しでその日が来ます。逆に、2日はすいていたのかもしれません。この神社は大和大路通の東側に位置する建仁寺と同じ小松町にあります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 通りに面した石鳥居の背後に冠木門があり、その冠木の正面中央には、神紋の三柏紋とその両側に波濤文を象った金色のレリーフが見えます。 門を入ると左側(南)に手水舎があります。 大きな臥龍像が手水鉢の南東隅上で起ち上がろうとする感じです。その龍の口から水が注がれています。 正面の参道を進むと2つめの石鳥居があります。参拝者がこの前に群がっています。 何だろうとよく見ると、鳥居の額束のところに掲げられたにこやかに笑むエビス顔の下に取り付けられた箕(キ:み、ちりとりの意)に賽銭を投げて箕の中に入れようとしているのです。うまく入ると願いごとが叶うといわれているそうです。福箕なのです。(資料1)「十日ゑびす」の大祭期間中はなげられないようにしてあるそうですので、福箕に願掛けされたい人は別の日にお出かけくださいね。 唐破風屋根の参拝所には、参拝した信者の御供え用の飾り棚が設けてあり本殿は見えません。数日後に迫った「十日ゑびす」にはこの棚一杯に御供えが飾られていることでしょう。祭神は八代言代主神(やえことしろぬしのかみ)・大国主神(おおくにぬしのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)です。(資料1)当神社のホームページを参照すると、「八代言代大神」という表記ですが、手許の本(資料2)では「八重事代主大神」という表記で紹介されています。『古事記』を読みますと、「大国主神、また神屋楯比売命(かみやたてひめのみこと)を娶(めと)して生みし子は、事代主神」(資料3)と記されています。手許の他書でも事代主神、事代主命という表記が一般的です。尚、事代主神の「ことしろ」は「言(こと)知る」の意味を表し、託宣をつかさどる神だと言います(資料3)。また、その後、大国主神が建御雷神(たけみかづちのかみ)との対話の中で「我が子八重言代主神」と語る場面が『古事記』に出てきます。(資料3)興味深いことに、事と言のそれぞれが出て来ています。この事(/言)代主神(/命)が、蛭児(/子:ひるこ)神とともに、恵比寿(えびす/戎)様として祀られています。「えびす神」は海のはてからやってきて人々に福を授けるものとされてきたそうです。また、大国主神と事代主神は対として祀られることが多いそうです。大国主神を農耕の神、事代主神を漁業の神とされてきたと言います。さらに、「事代主命信仰は、漁民が多くいた出雲の美保神社(美保関町)から起こったとされている」そうです。(資料4)エビスは「えべっさん」の名で親しまれています。京都ゑびす神社は西宮神社、今宮戎神社とともに日本三大ゑびすと称されます。西宮神社の祭神は、えびす大神(蛭児大神)、天照大御神、大国主大神、須佐之男大神です。(資料5)大阪今宮神社の祭神は、天照皇大神・事代主命・外三神です。(資料6)エビスという言葉は、ゑびす、恵比寿、恵美須、蛭子、戎、夷と様々に表記されているようです。社伝によれば、栄西禅師が中国(宋)から帰国の際、海上にて暴風に遭遇したおりに夷神の守護により難を逃れることができたと言います。帰朝し建仁寺を創建するにあたり寺の鎮守としたのが当神社の起こりだそうです。(資料1,2)当初は建仁寺の境内にあったそうですが、応仁の乱後に現在地に移されたといいます。(資料2)室町時代に京都で七福神信仰が興ったとき、この神社が「都七福神めぐり」のエビスとされたそうです。(資料1,2) 唐破風屋根の鬼板や破風の装飾金具には神紋が象られています。 北側 南側社殿の両側面には、「三十六歌仙」と思われる絵額が明治41年10月中旬に奉納されています。北側では菱格子戸越しに、神楽太鼓が見えます。 社殿の南側面のこの箇所には、注連縄の張られた下のところに、厚板の戸があります。それをゑびす様に聞こえるように拳でコンコンコンと叩くのです。参拝に来たことをお知らせし、願いごとを叶えていただくために・・・・・。 ここの破風にも神紋のレリーフ金具が付けられています。 西側の連子窓から垣間見ると、ゑびす像や昇龍像あるいはゑびす像をレリーフした瓦が置かれています。 こちらの通路の先には西門があり、路地の突き当たりが南北の宮川町通です。 この門の南側には「御鳳輦蔵」があり、東隣に「神馬」舍があります。それでは通路を引き返し、境内の探訪を続けましょう。社殿の南側は社務所です。北側に進むと、境内社が並んでいます。 覆い屋の下に八幡神社と猿田彦神社が東面して並び、 境内北東隅には「天満宮」の遙拝所が設けられています。北野天満宮ということでしょう。 臥牛像も奉納されています。 北側には南面する形で「岩本稲荷社」が鎮座します。 大和大路通の石鳥居から正面の参道を参拝所前に進む途中に、北側に分岐する参道があります。その先にあるのが「小松天満宮」です。堂内には「天拝山荒行の像」と称される菅原道真像が安置されているそうです。「無実の罪によって太宰府の配所にあった道真が、筑紫の天拝山で行をしている忿怒の姿をあらわしたもの」(資料2)といいます。 小松天満宮の西側には「白太夫社」が配されています。大和大路通に戻るのですが、小松天満宮の東側には境内の北辺に沿って他にもいくつかご紹介するものがあります。 福箕の掲げられた石鳥居の傍の狛犬像の東には近年設けられた感じの「ゑびす像」が置かれています。 その南東側で、参道に近いところにかなり古そうな「ゑびす像」があります。その背後に東面する小社がありますが、未確認です。あとでも調べて見ましたが不詳です。 これは、正面の石鳥居をくぐって、すぐ右側(北)、東北隅を眺めた景色です。築地塀の手前に並ぶのは「財布塚(左)・名刺塚(右)」です。ここは、「日常使用する財布と名刺に感謝の念をささげ、開運を祈って使い古した財布と名刺とを奉納する」(資料2)ための塚だそうです。他の神社で見かける針塚、人形塚などと同種の思い・心情・願いが込められているのでしょう。これで境内を一巡です。かなり以前に二度「十日ゑびす」の際に訪れたことがあります。大和大路通には出店が立ち並び、境内は溢れんばかりの参拝客でした。縁起物の福箕・福熊手・福鯛・宝船などなど、大小様々あることに驚いた次第です。大小は勿論、その費用に比例しています・・・・・。ゑびす信仰の象徴とも言える笹はこの神社の独自の「御札」の形態がルーツだそうです。京都ゑびす神社の「由緒」のページに具体的に説明されています。こちらからご覧ください。遅まきながら、初めてその由来を知った次第です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東』 竹村俊則著 駸々堂 p263-2652) 京都ゑびす神社 ホームページ3) 『古事記(上)全訳注』 次田真幸著 講談社学術文庫 p135,p1594) 『知っておきたい日本の神様』 武光誠著 角川ソフィア文庫 p47-515) 由緒・歴史 :「西宮神社」 6)今宮戎神社 ホームページ補遺都七福神めぐり ホームページスクナビコナ :ウィキペディア少彦名命 :「コトバンク」少彦名命 :「玄松子の記憶」【動画】京都ゑびす神社で十日ゑびす大祭 2018.1.10 :「産経フォト」京都ゑびす神社へ。「財布塚」で愛用のお財布を供養 :「ライターあぶんこの気まま都あるき」少彦名神社(神農さん) :「くすりの道修町資料館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.01.07
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前回、スポット探訪として「菅原院天満宮神社」をご紹介しました。その冒頭で触れたのが、烏丸下立売の交差点の南西角に位置するこのレンガ造の教会堂です。現在は通年公開となりましたが、春と秋の京都御所一般公開が行われていた頃に、幾度もこの落ち着いた重厚な外観の教会堂を眺めながら通り過ぎていました。写真を撮ることは今までなかったのですが、この機会に外観だけ撮ってみました。教会内部を拝見した訳ではありませんので探訪とは言えません。観照という視点で少しご紹介します。この「聖アグネス教会聖堂」は1985(昭和60)年6月1日に京都市指定有形文化財に指定されている建物です。(資料1)このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 教会の北東隅に位置する三層の鐘塔 烏丸通に面した教会の側面を西側歩道から撮るとこんな感じになります。烏丸通に面して、教会名が表示されています。 鐘塔の烏丸通側にこの案内板が建物と調和するレンガ造りの外観パネルに嵌め込まれています。1875(明治8)年にミス・エディが米国聖公会から渡日し、大阪・川口居留地に「エディの学校」を開校したのが始まりのようです。その学校が5年後の1880年に、「照暗女学校」と改称されます。英語名では、St. Agnes school と称されていたそうです。そして1895(明治28)年に京都のこの地に移転し、「平安女学院」と改称されて開校されます。その新校舎が明治館と称されたそうです。(資料2) 菅原院天満宮神社の境内の西端から見えたこの建物が「明治館」と称されているものです。神戸の居留地は有名で知っていましたが、大阪に居留地があったということは知りませんでした。少し調べてみますと、明治元年に大阪が開港されたときに同時にその付近約26,000㎡の区域を外国人居留地が設けられたそうです。現在の大阪市西区川口1丁目にある本田小学校北西角に「川口居留地跡」の石標が立っているそうです。1899(明治32)年の条約改正により居留地が廃止され、川口の港機能の低下により、居留民は神戸へ離れていったといいます。(資料3)川口居留地が廃止される前に、この学校は京都に移転していたことになります。一方、居留地の廃止後、その区域は大阪市に引きつがれます。「あとへはキリスト教関係者が定住、病院・学校(特に女子教育)の経営に力が注がれた。」(資料3)そうですので、この学校の移転は一つの動きだったのでしょうね。ネットで検索すると、川口1丁目には、同じ日本聖公会の教会堂として、川口基督教会が現存し、大阪主教区の主教座聖堂だそうです。西区には日本基督教団(大阪教会、大阪九条教会、浪花教会)や日本キリスト教会(大阪西教会、大阪北教会、西九条ハニル教会)なども存在することがわかります。少し広がり過ぎました。本に戻ります。案内板の説明から、この聖アグネス教会聖堂が平安女学院のチャペルとして、1898(明治31)年に建築されたこと。設計者はアメリカ人J.M.ガーディナーであること。ガーディナー設計の初期の教会堂作品として貴重な建物であることがわかります。説明文に、「三廊式バシリカ平面」という用語が出て来ます。バシリカはローマ時代に作られた長方形の公共建築物のことで、裁判所・商取引所。集会所に用いられたそうです。その長方形の基本構造が初期キリスト教会の聖堂の建築様式に取り入れられたと言います。バシリカ式聖堂の代表例は、ローマにあるサンタ・マリア・マッジョーレ教会堂だとか。(『日本語大辞典』講談社) これはウィキペディアより引用した平面図です。現状は変更が加わっているかも知れませんが。イメージは湧くと思います。 烏丸通の西側歩道で菅原院天満宮神社の方に進み、振り返って撮った景色です。米国聖公会のミス・エディの活動から現在の平安女学院が創立され、その学校のチャペルとしてこの教会堂があり、現在では「日本聖公会」という組織の京都教区の中心ということのようです。共通のキーワードは「聖公会」になります。”「聖公会(せいこうかい)」は、カンタベリー大主教を精神的指導者とするイングランド国教会から生れ、世界165ヵ国以上に広がる40の管区(Province)と6つの特別管区(Extra-Provincial 小規模な自治区)からなるキリスト教会です。信徒は8,5000万人。各管区はいくつかの教区を持って教義を共有していますが、それぞれが自治権を有しています。”(資料5)淵源がイングランド国教会であり、西方キリスト教会の中では、信仰面でローマ・カトリックとプロテスタントの両者の要素を兼ね備えていて、その中間に位置する教派だそうです。 交差点から下立売通に入り、北東隅の鐘塔と入口を眺めた景色 下立売通の北側から南西方向寄りに眺めた景色。右側に建つのが平安女学院の校舎です。 レンガ造の教会の下立売通に面し、西端にある入口。右に「京都教区」の表示が見え、左側に「聖アグネス教会」の銘板が見えます。 外観を眺めていて、最後に気づいたのはこれ!下立売通に面する教会の敷地内で、南側歩道のすぐ傍にこの井戸と石造水槽があったのです。水槽の側面には「活水」と刻されています。教会堂を建築するときに、こんな和風の井戸を作るという発想はないでしょうから、以前にここにあった邸の中に設けられていた井戸がそのまま遺されたのだろうなと推測します。これもまたこの地の歴史を語る遺物かも知れません。最後に、J.M.ガーディナーが設計し日本に遺した作品について、触れておきます。ネット検索から知り得た情報です。実際の建物の写真等は補遺をご覧ください。良いサイト記事をいくつか抽出してみました。(資料6,7) 遺愛学院本館 1908(明治41年)函館市杉並町 重要文化財 遺愛学院旧宣教師館(ホワイトハウス)1909(明治41年)函館市杉並町 重要文化財 日本聖公会弘前昇天教会 弘前市 日本聖公会山形聖ペトロ教会 1910(明治43)山形市木の実町9-22 日本聖公会秋田聖救主教会聖堂 1930(昭和5)年 秋田市保戸町中野6-3 日本聖公会福島聖ステパノ教会 1905(明治38)年 福島市置賜町8-29 日本聖公会日光真光教会 1918(大正7)年 日光市本町1-6 オランダ王国大使館 1927(昭和2)年 東京都港区芝公園3-6-3 外交官の家(旧内田家住宅) 1910(明治43)年 横浜市中区山手町 聖ヨハネ教会堂 愛知県の明治村 重要文化財 元は京都市下京区河原町五条 長楽館(旧村井吉兵衛別邸) 1909(明治42)年 京都市東山区 円山公園傍J.M.ガーディナーは建築設計を行う一方で、現在の立教大学のルーツとなる「立教学校」の第3代校長を務め、「築地居留地に立教大学校(St. Paul's College)を建設し、完成後校長に就任」(資料7)しているそうです。立教大学との関わりが深いアメリカ人だったのですね。この「立教学校」は、1874(明治7)年にアメリカ聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が東京築地の外国人居留地に聖書と英学を教える私塾として開設したそうです。(資料8)一つの教会堂から、京都の平安女学院大学と東京の立教大学が、アメリカ聖公会の日本での活動から生まれて来たという繋がりにまで広がりました。関心を持ってみると、興味深いものです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 京都市指定・登録文化財-建造物(上京区) :「京都市情報館」2) 平安女学院のあゆみ :「平安女学院大学」3) 8.川口居留地跡 :「大阪市」4) Basilica di Santa Maria Maggiore Da Wikipedia, l'enciclopedia libera.5) 日本聖公会とは :「日本聖公会管区事務所」6) ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー :「近代建築写真館」7)ジェームズ・ガーディナー :ウィキペディア8) 立教大学について :「立教大学」補遺バシリカ :「コトバンク」バシリカ式聖堂の起源はローマ時代のバシリカ :「忘れへんうちに Avant d'oublier」サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 :ウィキペディアJ.M.ガーディナーの近代建築 :「造形礼讃」遺愛女子中学校・高等学校宣教師館(函館の建築再見) :「関根要太郎研究室@はこだて」遺愛女子中学校・高等学校本館(函館の建築再見) :「関根要太郎研究室@はこだて」横浜山手・外交官の家 :「近代建築写真室@東京」日本聖公会日光真光教会 :「レトロな建物を訪ねて」長楽館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.01.06
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前回ご紹介した護王神社から烏丸通を南に下がると下立売通の交差点があります。現在その南西角にはレンガ造りの聖アグネス教会聖堂があります。その南隣りの建物の2階、連子に掲げてある大きな絵馬が目に止まりました。よく見ると、亥ではなくて丑と手前に子が小さく描かれています。左の方に、「菅原院天満宮神社」と記され、「昔絵 十二支じゅん」と付記されています。この付記で、牛(丑)がメインになる図柄の意味が理解でき、さらにナルホドです。この建物は境内にある社務所の2階部分でした。 すぐ南に、烏丸通に面して石鳥居が立ち、「菅原院」の扁額が掲げてあります。表門には今年の干支「亥」の文字を記した絵馬が掛けてあります。 石鳥居の南側石柱の傍に「菅家邸址」の石標が立っています。この位置はかつての「平安左京一条三坊十二町」にあたるそうです。(資料1)この前の通りは過去幾度か歩いているのですが、今まであまり意識しませんでした。この機会に詣でて、境内を拝見することにしました。 よく見ると、石鳥居の北側に立つ石灯籠の竿には「天満宮」と刻され、その上部に「菅原院 御𦾔跡」と二行に刻されています。さらに石灯籠の左斜め奥、表門の前に神社名を記した社号碑が立っています。 石灯籠の左に「由緒書」と題した駒札があります。この場所は、菅原古人-清公-是善と三世に相伝されてきた邸址で、菅原道真が参議藤原是善の子としてこの地で誕生した場所だったのです。知らなかった!駒札によれば、世の人々は「菅原院」と呼び、当時はこのあたりに広大な邸地が広がっていたようです。道真が継承し邸宅としたそうですが、道真の没後に一宇が建立され「歓喜光寺」と号したそうです。後に歓喜光寺は下京の六条河原院に移転したのですが、社殿はここに残り、祭神として道真公を祀る形になり、現在に至るそうです。(駒札、資料2) 表門を入ると、左側(南)に手水があります。臥牛像の口から水鉢に水が注がれています。 参道の正面に狛犬が見え、境内地が一段高くなっています。 社殿は狛犬から北西方向に見え、南面する形で建てられています。 これは南側の狛犬の背後の建物の壁面に掲示されている「再刻 内裏図」です。天保8年(1837)春の再刻と左下に明記されています、赤い丸を追記した右側に紙が貼付されています。そこが現在地になります。 部分図を切り出して反転してみました。その図に方位と烏丸通の名称を追記しました。この画像の下辺中央の画鋲の右にこの神社名の紙が貼付されています。下立売通の南側になり、内裏の「下立売御門」が東に見えます。江戸時代末期には「宇佐美」と称する邸地に隣接して神社が存在したということになるのでしょうね。 南面する本殿。唐破風の手前の屋根のところが参拝所になっています。 唐破風の屋根の獅子口と破風の装飾金具、兎毛通及び本殿の棟などに星梅鉢紋がレリーフされています。 唐破風は本殿に上る階段部分の屋根になっています。その柱の両側に鉾が建ててあります。本殿内部はほとんど見えません。祭神は菅原道真公、是善卿と清公卿を祀っているそうです。少し脇道に逸れます。北海道の名付け親で北方探検家の松浦武四郎が、菅原道真ゆかりの場所を25カ所選び、明治18年(1885)に「聖跡二十五霊社巡拝双六」という絵入りで配列された双六を作りました。それがどんなものかはネットに公開されています。(資料3)そこに選ばれた聖跡の第一番がこの菅原院天満宮神社です。京都市内では、他に4つの聖跡が選ばれていて、双六の上り、第25番目が「北野天満宮」です。ふと他の4カ所は祭神として誰を祀っているのかに関心が湧き、調べ直してみました。各箇所の祭神で、菅原道真公以外に相殿としている祭神を一覧にしてみます。 2番 錦天満宮 道真公だけで相殿はなし (資料2,4) 3番 菅大臣天満宮 尼神(あまがみ)、大己貴命(おおなむちのみこと)(資料2,5) 4番 吉祥院天満宮 本殿には道真公。吉祥院天女社に吉祥天女、菅原清公卿、 菅原是善卿、伝教大師、孔子 (資料6,7) 25番 北野天満宮 中将殿(管公のご子息)、吉祥女(管公の北の方) (資料2,8)こうみると、結構祭神の祀りかたにバリエーションがみられます。もとに戻ります。 唐破風の蟇股の位置は、松と梅の透かし彫り彫刻を大きく広げた形になっています。 その上の大瓶束の両側には咲き誇る梅の木が透かし彫りにされています。 本殿前の狛犬像 参拝所辺りから東を眺めますと、臥牛銅像が奉献されていて、その東側に社務所の建物が見えます。このこじんまりとした境内を、一通り巡ってみましょう。 本殿は瑞垣としての塀で仕切られ、紅白の幕が張り巡らせてありました。西側の塀の手前に御神木があり、その根本に小さな牛の像が置かれています。傍の石灯籠の竿には、「施文教」という文字が刻されています。 石造の臥牛像に、お地蔵様のよだれかけに相当する被布がかけてあります。これは何と呼べばいいのでしょう・・・・・。 境内地の西端、御神木の南に、「地蔵社」があります。小社の名称は地蔵ですが、祭神は「天道大日如来(出世石神)」と説明板に記されています。小社の南側に石仏の地蔵尊が祀られています。知の仏である大日如来は、経典や曼荼羅図で、胎蔵界大日如来と金剛界大日如来がよく知られていて、これらは一対のものとして、日本密教の本尊になっています。密教系の本尊であるためか、釈迦・薬師・阿弥陀という三如来と比べて、民間にはなじみの薄い如来です。その中で、京都市内などごく限られた地域に、大日如来の民間信仰として「天道大日如来」信仰が流布したと言います。その天道大日如来が天道念仏の信仰対象となり、お地蔵さん(地蔵菩薩)を祀る「地蔵盆」と習合して行ったそうです。その結果、天道大日如来と地蔵菩薩が習合して、お地蔵さんと同じように扱われて信仰されるように変容したようです。(資料9,10) 地蔵社の南側に、末社として「梅丸大神社」(左)と「和融稲荷社」(右)が祀られています。和融稲荷社の祭神は稲荷大神ですのでよくご存知だと思います。梅丸大神社の祭神は梅丸大神で、こちらは「癌封じ(できもの)皮膚病(アトピー等)各種病気」という風に病気平癒の祈願信仰の対象になっているそうです。(掲示の説明文より)末社として位置づけられている梅丸大神社のルーツはどこか、少し調べた範囲では不詳です。 これは梅丸大神社の南側の景色です。表門から入り、一段高くなった境内地へ石段を数段上って、西方向の正面に見える景色になります。左側の小社は「戸隠社」と称されています。2種類の提灯が吊されています。祭神は、戸隠大神で天手力男命(たじからおのみこと)です。この小社には九頭龍大神も併せて祀られています。戸隠大神のルーツは、信州戸隠山の戸隠神社でしょう。戸隠神社には九頭龍社(祭神・九頭龍大神)が祀られています。(資料11)尚、箱根の芦ノ湖には九頭龍伝説があり九頭龍信仰の聖地として、「九頭龍神社 本宮」があります(資料12)。また、福井県嶺北地方には「九頭竜川」があり、「毛谷黒龍神社」も福井市に所在します(資料13)。 戸隠社の北側に石灯籠が置かれています。その右に「天満宮御遺愛燈籠」と刻された石標が立っています。道真遺愛の石灯籠だそうです。(資料1) 西を見上げると、レンガ造りの建物が見えます。冒頭に記した教会に関連する建物です。次回、少しご紹介したいと思います。 参拝所の東側にも石灯籠が置かれ、その背後に絵馬所があります。その右端に立つ石標が右側の写真です。これは、上記の松浦武四郎が明治期に奉納した「聖跡二十五霊社順拝双六碑」と称されるものです。碑の上部に「聖跡廿五拝 第壹番」と二行書きで刻されています。 北側の石段を下りて目に止まったのが、塀に立て掛けられたこの看板です。その後で、上段の景色に見える石碑に「管公御初湯の井」と刻されていることに気づきました。やはり大きな看板にまず目が行きます。道真が生まれた時に、この井戸の水が汲まれて産湯として使われたそうです。 井戸の西側に梅の木があります。その傍に見えるのがこの石碑です。「神(道真公)は古梅を遺愛され今に残る」とでも解すればよいのでしょうか。刻み込まれた歌は私には流麗な書体を判読できません。残念・・・・・。一つ、私にはこのまとめをしていて解明できないことに気づきました。上記の「3番 菅大臣天満宮」に関連します。通常「菅大臣神社」と称され、「菅大臣天満宮」とも呼ばれます。この境内地もまた、石鳥居の傍に「菅家邸址」の石標が立つ場所です。そして、現在の境内地に「菅公誕生水」と称される井戸が伝えられているのです。(資料2)明確な記録が残っていないとするならば、記録と記憶・伝承の狭間に位置する論点となるのでしょうね。菅家の邸が同時期に複数あっても、また身分・役職等に応じて邸地が移転しても不思議ではありません。道真誕生の地もまた、ロマンの世界に連なります。 一段高くなった境内地との境、社務所の南西にこの「参拝者用の給水所」が設けてあります。中央の黒い石板には菅原道真が幼名で阿呼(あこ)と呼ばれた五歳の時に、菅原院の庭に咲き誇る梅の花を眺めて詠んだと伝わる歌が刻まれています。(資料1) 美しや 紅の色なる 梅の花 阿呼が顔にも つけたくぞある 当日社務所で購入した小冊子(資料1)を読み、興味深い記述を見つけました。併せてご紹介します。この神社のロケーションについてです。この神社の位置から北東方向は「御所」の先に「下鴨神社」が位置し、逆に南西方向には「二条城・神泉苑」が位置します。鴨川の伏流水を源とする地下水のラインがこの方向にあるようです。また、この菅原院天満宮の北西方向には「古来の聖なる山・衣笠山」があり、かつてはこの地から遠望できたのでしょう。そしてそのライン上に「北野天満宮」が位置しているそうです。松浦武四郎が作ったという二十五霊社順拝双六の第4番に「吉祥院天満宮」が挙げられています。この吉祥院天満宮から真っ直ぐ北にラインを引くと、北野天満宮が所在するのです。興味深くかつおもしろいですね。昭和初年に北野天満宮の御旅所が西ノ京に設けられたそうです。(資料1)それまでは北野ずいき祭の日に神輿がこの菅原院天満宮神社に渡御し、枇杷がここで神輿に献じられる行事が行われていたと言います。中世に書かれた百科事典ともいえる『拾芥抄(しゅうがいしょう)』に「北野祭日、神氏来此所、取枇杷供神云云」という一文が記されているそうです。かつては、菅原院天満宮神社が北野天満宮の御旅所の機能を持っていたということだそうです。(資料1,2)最後に、一点補足しておきます。この場所で境内地が二段になっているのはなぜか・・・・です。当神社の公式サイトに説明がありました。引用します。「現在の社殿は昭和御大典の折、境内整備を行い、境内を倍の大きさに広げその西側半分を土を盛り高くし、それと同時に本殿を東向から南向に変更し1m石を積み上げその上に本殿を移築しました。」(菅原院天満宮神社について)それで西側が一段高い境内地になっていたのですね。この辺で、ご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『菅原道真公御生誕の地 菅原院』 濱田浩太郎著 菅原院天満宮神社2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p249,p2523) 聖跡二十五霊社順拝双六 :「松浦武四郎案内処」4) 錦天満宮について 歴史 :「錦天満宮」5)菅大臣神社(菅大臣天満宮)(京都市下京区):「京都風光」6) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p35-387)吉祥院天満宮 京のスポット :「KYOTOdesign」8)国宝 社殿 御祭神 :「北野天満宮」9)『仏像 心とかたち』 望月信成・佐和隆研・梅原猛共著 NHKブックス10)天道大日如来 :「京都通百科事典」11) 戸隠神社について :「戸隠神社」12)九頭龍神社 本宮 :「箱根神社」13)黒龍神社のご案内 :「毛谷黒龍神社」補遺菅原院天満宮神社 公式サイト聖跡二十五霊社 聖跡二十五霊社順拝双六 明治18年(1885) :「京の霊場」松浦武四郎の石碑をたずねて :「『歴史と国家』雑考」信州戸隠山 戸隠神社 ホームページ九頭龍川 :ウィキペディア十二支の由来 :「まんが日本昔ばなし」十二支のはじまり :「おはなしの中の しごとの力」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 北野天満宮細見 -1 東門・手水舎・竃社・名月舎 7回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・上京 北野天満宮細見 補遺探訪 京都・御土居跡巡り -2 北野天満宮境内の御土居探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -2 五条天神社、管大臣神社探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -3 管大臣神社(2)、紅梅殿、神明神社探訪 大阪天満宮細見 -1 表大門・神水舎・本殿と諸建物・大将軍社 4回のシリーズでご紹介しています。
2019.01.05
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今年の干支・亥に縁の深い、「護王神社」に昨日(2日)出かけました。多分大勢の参拝客だろうなとは思いつつ・・・・・。冒頭の大きな絵馬は、石鳥居と表門の先、正面の拝殿に置かれています。護王神社は、京都御苑の西側、烏丸通に面していて、北の今出川通と南の丸太町通とのほぼ中間、下長者町通の南側に位置します。烏丸下長者町の交差点が北東角になります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 護王神社の正面に行き、まず1枚撮りました。正面はロープを張り入場と退場に二分し警備員が常駐です。境内に入るためには列に並んで下さい、それ以外は入れませんという次第。参拝者の列は正面から時計回りの方向で並んでいます。仕方がありませんので、列の後尾につくために、烏丸通⇒境内地南側の通⇒室町通⇒下長者町通とほぼ一区画弱歩き回り、烏丸通から下長者町通に30mほど入った位置の最後尾に並ぶ羽目に! そして、再び、正面の石鳥居を眺めたのは1時間待ち後でした。 石鳥居の手前には、狛犬の代わりに、一対の猪像が配されています。 表門の上部にこれらが掲げられています。右は護王神社の神紋でしょう。左側は、護王神社が「足腰の守護神」として名を知られていることを表しています。 拝殿の手前にも石造猪像が置かれています。雌雄一対の猪が対峙する形だそうで、和気清麻呂の随神(霊猪)として位置づけられているといいます。境内に入っても、すぐには本殿前に行けません。拝殿の右側に人の列ができていますが、境内で再びジグザグと蛇行した列に並ぶこと20分ほどでやっと、参拝所に至るという状態でした。この状態は正月はじめだけの一時的現象でしょうけれど、参拝までは時間のかかる状況でした。門のところで入場制限をされているので、参拝を終えれば、比較的境内は参拝者の流動性はスムーズでした。 表門を入ると、右側ある「霊猪手水舎」 手水舎の水鉢に注がれる水は、猪像の口がの水の注ぎ口になっています。左の写真に参拝者の列が見えます。このブロンズ猪像の鼻をなでると幸せが訪れると言われる「幸運の霊猪」だそうです。(資料1)人を入れずに猪像を撮るのに気が行き、鼻をなでるのは忘れていました・・・・・・残念。 拝殿の北側を列の流れに合わせて歩み、本殿を囲む唐門と透かし塀の手前近くまで、何とか・・・。 拝殿の西面では、本殿に向かう形でイノシシが立ち上がり、参拝客を「ウエルカム! おこしやす」と歓迎してくれています。拝殿天井には、赤地に金字の「亥」と「イノシシ」の疾駆する姿が描かれた凧でしょうか・・・・が、吊されています。 唐破風の中門のところ、参拝所までは臨時の木製スロープが設けられて参拝の流れをスムーズにする工夫が施されていました。本殿は屋根が眺められるだけです。祭神は、和気清麻呂(わけのきよまろ)と姉の和気広虫(ひろむし)です。そして、藤原百川(ふじわらのものかわ)と路豊永(みちのとよなが)が配祀されています。(資料1,2)和気清麻呂は辞書を引くと次の簡潔な説明が一例として見られます。(『日本語大辞典』講談社)「奈良末・平安初期の廷臣。皇位を望む道鏡を、宇佐八幡宮の神託を受けて阻止したため大隅に流されたが、のちに召還され桓武天皇のもとで栄進した。平安遷都を推進」と。近江の保良宮で孝謙(称徳)女帝が道鏡を「寵幸」し始めた後、法王宮職という官庁を新設し、道鏡を法王にし天皇同様の待遇にします。さらには、天皇の位につけたいという望みを懐き、己に仕える広虫(出家して尼法鈞と称す)の弟であり、37歳で近衛将監(このえのしょうげん)の和気清麻呂を選び、宇佐八幡宮へ神託を伺いに派遣させたのです。しかし、清麻呂は、女帝の願いを否定する神託を持ち帰ります。「わが国は開闢以来、君臣定まれり。臣をもって君とすること、いまだこれあらず。天つ日嗣には、かならず皇緒(皇儲=皇族)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」勿論、道鏡は激怒します。そして、清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられて、官位剥奪のうえ、大隅配流となったのです。(資料3)同様に、和気広虫については、「奈良末期の女官。清麻呂の姉。孝謙上皇に仕え、上皇の出家に従い自らも出家。道鏡事件で備後に配流。道鏡失脚後召還され、桓武天皇のもとで栄進した」(上掲同書)と記されています。女帝の怒りを受けた広虫(=尼法鈞)は、還俗させられて、別部狭虫(さむし)と改名されて備後へ流罪となったのです。この事件から半年を経ないうちに、孝謙上皇は病気となり後継者を指名しないまま、770(宝亀元)年8月4日53歳で亡くなります。同時に道鏡は没落します。(資料3)皇位を継承したのが光仁(こうにん)天皇で、その次が桓武天皇となります。桓武天皇が平安京に遷都することを決めた時、造宮使の長官は、はじめ小黒麻呂だったのですが、後に清麻呂にかわったそうです。その結果、清麻呂は京都の基礎を築く功労者となったのです。(資料2,4)護王神社がこの地に移ったのは意外と新しく、1886(明治19)年です。その淵源は、和気清麻呂が河内国に生前に神願寺を建立したことにあるそうです。清麻呂の死後、寺は洛西高尾山に移されて、神護国祚真言寺と号したそうです。文覚上人が神護寺を再興します。この時、境内に清麻呂が「護王善神」として祀られたそうです。それが当社の起源となります。(資料1,2)”江戸時代末の嘉永4年(1851)、孝明天皇は清麻呂公の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治7年(1874)には「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。”(資料1)とのことです。現在のこの場所は、平安時代の儒者滋野貞主の邸址で、その後大納言藤原成道の邸となったそうです。成道は蹴鞠の名手といわれた人で、邸内に鎮守蹴鞠大明神を祀っていたそうです。こちらは、現在の「白峰神宮」として、遷座し大きな神宮に発展しています。(資料2)京都御所からみれば、ここは南西方向になります。裏鬼門にもあたりますので、御所を護るという意味合いもあったのでしょうか・・・・・。北東方向(鬼門)には、著名な諸神社並びに比叡山延暦寺が位置します。 唐破風の屋根の獅子口と破風の装飾金具には菊花紋がレリーフされています。そこで、祭神である和気清麻呂とイノシシとの関係はどこから? という由来です。 表門に向かって左側に、この案内板が設置されています。道鏡の怒りを買い大隅に配流となった和気清麻呂(=別所穢麻呂)がその途中で、宇佐八幡宮に感謝のため参拝に赴くときに、三百頭もの猪が現れて守り、道案内したと伝えられているそうです。そのプロセスで、清麻呂が悩んでいた足萎えが治ったということから、「足腰の守護神」とみなされて、敬われるようになったそうです。 参拝所に向かって、左(南)側に御神木「招魂樹(おがたまのき)」があり、その根本に「願掛け猪」の石像が鎮座します。その前に沢山立てられているのは「座立亥串(くらたていぐし)」と称される願かけの串です。(資料1) 中門の左回廊の南に「祈願殿」があり、その斜め左前にこの屋根の設けられた一画があります。 中央奥の上段に展示されているのは「吉野山秘境 霊木猪」です。 城所ケイジ作のチェインソーアート作品が奉納展示されています。 拝殿側を振り返ると、参拝者列で境内の片側は満ちています。 社務所の玄関口の西側は、「猪コレクション」の展示場所になっています。それでは、上掲「霊猪手水舎」の北側をご紹介します。 手水舎のすぐ北隣りには「かりんの木」があります。この木は護王神社が当地に遷座した当時からあり、樹齢は100年を越えていて、1974(昭和49)年に京都市の「名木百選」に選定されています。その果実の効用から「ぜんそく封じの御神木」として知られているようです。(駒札より) さらに北側には、「針の碑」と歌碑が並んでいます。 「針の碑」の北隣りに「伊勢神宮遙拝所」が設けてあります。その隣りには、「心鎮」と刻された石板を嵌め込んだ石碑が見えます。 境内地の北東隅円筒状の石の側面に「足腰陶板塚」と刻されている空間があります。どのように使うのかは不詳。そして、北端側には、境内末社が並んでいます。 足腰陶板塚の西隣が「祖霊社」(右)で、その隣りが「久邇宮家御霊殿」の駒札が掛けられた社です。 その隣りに「和気清麻呂像」が立っています。その傍に説明板が立っています。「昭和17年、滋野国民学校(滋野中学校)に建立され、その除幕式は護王神社の奉仕によって行われました。平成14年、学校の廃校を機に京都市教育委員会より護王神社に貸与されました。」(説明板転記)立像の西隣りの小社は説明の掲示も見えず不詳です。 立像の手前にこの設備があります。足形石板の上に立ち手摺を持ち、前方の足跡碑に交互に自分の足を合わせるという軽度な足腰の運動具のようです。神社に参拝し、自分で軽度な足腰のトレーニングをできるスペースが設けられているものと思います。「足腰陶板塚」のスペースもその一環の場所かもしれません。 さらに西方向には、東面する形で、「護王会館」があり、その手前の南側に「大イチョウ」の木があり、北側に「和気清麻呂公銅像」が建立されています。これは1998(平成10)年、和気清麻呂1200年祭記念として建立されたそうです。造形作家松本繁来作で、台座の銘板文字は茶道裏千家前家元千玄室筆だそうです。(資料1) 銅像の背後には大きな「さざれ石」があります。幅2m、高さ3mの巨巌です。 さらにその背後、護王会館の前方壁面沿いに、様々なイノシシの剥製品などが集められています。一見の価値があります。 護王会館の南東側で、拝殿の北側の「聖鳳殿」の背後(西側)に位置するのがこれらです。本殿に向かって右側の招魂樹の傍に、「足萎難儀回復の碑」があります。左の足形の上に足を乗せ、「護王大明神」碑を両手で撫で、自分の体の部位を撫でて祈っている人を見ました。その右側には一段高い足形石とその前に手摺があります。こちらは足の屈伸運動をするための運動具でしょう。願掛け祈りと足腰運動実践の勧めということでしょう。数人の列に並んで試してみました。その北側に、もう一つの「霊猪の手水舎」が設けてあります。こんな感じで、比較的小規模の境内地を一巡りして、表門から退出しました。 表門の外側、すぐ北側の一隅にもう一頭の猪像がありました。護王神社はまざに「亥づくし」の神社です。様々な表情の猪像を拝見できます。 最後に、境内を囲む塀に掲げられたこの文をご紹介して終わりたいと思います。京都大学名誉教授上田正昭氏が記された「護王神社の主神・和気清麻呂と広虫」という一文です。副題が「古代の社会福祉の先駆者」と記されています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 護王神社 ホームページ2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p2493) 『日本の歴史3 奈良』 青木和夫著 中公文庫 p520, p530-5344)『日本の歴史4 平安京』 北山茂夫著 中公文庫 p74補遺和気清麻呂 :ウィキペディア和気清麻呂 :「コトバンク」和気神社 公式サイト 岡山県和気郡和気町藤野1385和気神社 京都府八幡市 :「MINAKOBNUSHI」和気清麻呂像 :「千代田区観光協会」猪に乗った和気清麿(足立山にまつわるお話) 妙見神社平安京遷都の立役者 和気清麻呂の墓 :「姓氏・名字のルーツ京都探訪日記」和気清麻呂公墓(高雄山神護寺) (6) :「電子の小箱」史跡伝和気清麻呂公墓所 :「たびおか-旅岡山・吉備の国-」藤原百川 :「コトバンク」路豊永 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.01.03
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