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=== 2023.1.20 === 10時半頃に取った南の空です。この時は雲が見えませんでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空にも雲はありませんが、薄いベールがかかった感じです。南~西の方向のようにスッキリとはしていません。 13時45分頃の東方向の空。少しグレーがかった雲が出ています。 南の空南西方向の空 西方向の空 ベランダから頭上の空の雲を撮ってみました。今後は時折撮ってみようと思っています。 南の空17時頃にも撮ってみました。青空の中にどの方向にも雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 夕陽が雲に映えていました。雲を撮り始めてから初めてかも・・・。 東方向の空東の空の方が雲の広がりが大きい感じでした。さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第七で抽出した歌から始めます。巻第七は1首だけでした。読めば歌意が通じますので、巻第八に移ります。改めて巻第八「哀傷歌」を読み直していて、見過ごした歌に気づきました。1/15に掲載列挙した歌の第720首と第836首との間になります。ここで補足させていただきます。 亡き人のかたみの雲やしぐるらむゆふべの雨にいろは見えねど 太上天皇 803 『源氏物語』の「夕顔」に詠まれている歌「見しひとの煙を雲とながむれば夕の空もむつまじきかな」を本歌とするそうです。「見し人」は古語辞典に「以前に知り合っていた人」と説明されています。「かたみの雲」は、火葬にした煙の形見の雲の意。歌の抽出で用いた岩波本では「しぐるらむ」と表記されていますが、他の参照本では「しをるらむ」と表記されています。いずれにしても、雨を降らすのであろうかの意。この歌には「雨中無常という事を」という詞書がついています。和歌所当座歌合での題だそうです。(亡き人の荼毘の煙の形見の雲が雨を降らすのだろうか。夕方降る雨に形見の雲から降ったかどうかはっきりとは判らないけれど) あはれ君いかなる野辺の煙にてむなしき空の雲となりけむ 辨乳母 821詞書に「後朱雀院うせ給ひて、源三位がもとにつかはしける」とあります。「あはれ君」は後朱雀院をさします。源三位は後朱雀院の乳母。歌意はそのままで理解できます。「雲」は荼毘の煙を連想させ、あるいは煙が雲になったと見立てているのでしょうか。この2首が抜けていました。 尋ね来ていかにあはれとながむらむ跡なき山の峯のしら雲 寂蓮法師 836やっと第836首です。この歌、詞書がなければ「尋ね来て」は寂蓮法師と思ってしまいます。詞書は長い。 前参議教長、高野にこもりゐて侍りけるが、やまひかぎりに侍りぬと聞きて、 賴輔卿まかりけるほどに、身まかりぬと聞きてつかはしける藤原忠教の子の教長が出家して高野山に籠もっていたのですが重病に陥ったのです。それを聞いて、教長の弟の頼輔が高野山に出向きます。しかし教長は亡くなります。その訃報を聞いた寂蓮法師が藤原賴輔に対し歌を人にことづけて送ったという状況です。高野山に尋ね来て、つまり高野山に行き山にいるのは藤原賴輔です。(高野山まで尋ねて行かれて、どれほど悲しい思いで眺められたことでしょう。兄君のもはやおられぬ高野の峰にかかる白雲を) 北へ行く雁の翅にことづてよ雲のうはがきかき絶えずして 紫 式部 859この歌にも詞書があります。「浅からず契りける人の、行き別れ侍りけるに」と。「浅からず契りける人」とは、紫式部が深く姉妹の契りを結んだ人をさし、彼女は西海の地に下っていくのです。その人に、要望という形で離別の歌を贈ったのです。巻第九「離別歌」に採録されている歌。別れて行く人からみれば、父に同行し越前国に向かう紫式部は北に住まうことなります。「かりの翅にことづてよ」は、蘇武が雁の翅につけて文を送った故事を踏まえているそうです。「雲のうはがき」は雁のたより。手紙。雁が雲の中を押し分けるように飛ぶことに掛けているとか。上書きと上掻き。「かきたえずして」は絶えず手紙を書いてという意。(北国に渡って行く雁の翅にあなたの文を託してください。絶えず手紙を書いて雁のたよりとして送ってほしい) これやさは雲のはたてに織ると聞くたつこと知らぬ天の羽衣 寂昭法師 864『伊勢物語』に詠まれた「これやこの天の羽衣うべしこそ君がみけしと奉りけれ」を本歌とするとか。「これやさは」は、この衣がそれではの意。「雲のはたての」は、雲のはての、天人の機で。「たつこと知らぬ」は、裁つ必要がない、天衣無縫の天人の羽衣。作者の名を寂照法師と記す本もあります。(この衣がそうなのか。雲のはての天人の機で織ると聞く、あの裁ち縫う必要が無いという天の羽衣なのですね) 思ひ出でばおなじ空とは月を見よほどは雲居に廻りあふまで 後三条院御歌 877『拾遺集』に採録されている「忘るなよほどは雲居になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで」(巻第八・470)が本歌だそうです。「思ひ出でば」は、思いだしたら。「おなじ空とは」は、同じ空に照るものとしてはの意。月は1つで同じ。無数の星は場所により見え方が異なるでしょうね。「ほど」は、隔たり、距離。なので「ほどは雲居に」は、雲居のように遙かに遠い所。この雲居という言葉は、宮中・禁中の意味合いでも使われます。「雲井にめぐりあうまで」は、再び宮中でめぐり逢うまで。月、雲井、めぐりが縁語になります。(私のことを思い出したら空の月を見よ。同じ月をみつめよう。月が巡ってくるように、空遠く離れた所に赴いているあなたと再び宮中で巡り逢うまでは) 旅衣たちゆく浪路とほければいさしら雲のほども知られず 法橋奝然 915この歌には「入唐し侍りける時、いつ程にか帰るべきと人のとひ侍りければ」という詞書がついています。この質問に応えた歌です。「旅衣」は、二句(たちゆく波路)の序。衣は裁つものということで、裁つ⇒立つ、という繋がりから。「たちゆく波路遠ければ」は、出かけて行く海路は遠いから。「いさ」は、わからないことを問われた時の応答の声。さあ、よくわかりません(いさしらず)。そこで「いさしら雲」と言ったのだとか。「程」は、時の意。(旅衣を裁ち、出かけて行く海路は遠いので、さあ、白雲のかなたから何時帰れるかは自分にはわかりません) 都をば天つ空とも聞かざりき何ながむらむ雲のはたてを 宜秋門院丹後 959この歌は、建永元年(1206)7月25日に行われた卿相侍臣歌合において、「羇中暮」という題を得て詠んだ歌だとか。巻第十は「羇旅歌」を収録しています。「覊」は「たび。故郷を離れてよその地に身を寄せる。たびずまい」(『角川新字源』角川書店)という意味です。「羇旅」は「旅に出ること」(『新明解国語辞典』三省堂)。「夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて」(古今集巻第十一・484)が本歌だそうです。「何ながむらん」は自分自身のじっと見つめる行為をいぶかっている様子。「はたて」は、極(はて)の意。(都が空にあるものとは聞かなかったよ。なぜ私はじっと眺めているのだあろうか、あの雲の極の彼方を)巻第七から巻第十の中からわかりづらい語彙を含む歌を6首抜き出してみました。併せて、見過ごしていた歌2首をここに加えました。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.21 === 9時40分頃に撮った南の空。青空の下に、かなり雲が出ていました。白雲の中に、グレーを帯びた雲も見えます。南西方向の雲 西方向の雲 頭上の雲 東方向の空は、いつものパターンです。グレーの濃淡のある雲が稜線の上空をほぼ覆っています。 15時20分頃に撮った東方向の空。雲の姿は変化していますが、曇った空模様が続いていました。 南の空も、午後には曇り空に変化。グレーの濃淡はこちらの雲の方が強くなっています。南西方向の空 西方向の空 晴から曇りに変化した一日でした。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫補遺太上天皇 :「ジャパンナレッジ」弁乳母 :ウィキペディア難波頼輔 :ウィキペディア藤原教長 :ウィキペディア 能「石橋 ~躍動美の極致・獅子舞~」 ワキ寂昭法師について :「柴田稔Blog」拾遺集 和歌データベース :「国際日本文化研究センター」卿相侍臣歌合 和歌データベース :「国際日本文化研究センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.31
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=== 2023.1.17 === 9時45分頃に取った南の空です。曇り空です。 東方向の空南西方向の空 西方向の空 ベランダから見える空全体が曇っていました。雲の姿は方向によってやはり異なります。 南の空12時半頃には青空に変化していました。 東方向の空には白い横雲がたなびいています。南西方向の空 西方向の空 さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第四で抽出した歌から始めます。 雲間よりほしあひの空を見渡せばしづごころなき天の川波 祭主輔親 317この歌には「七月七日、七夕祭する所にてよみける」という詞書が付いています。これを読むと、ぐっと歌意がわかりやすくなります。古語辞典に「ほしあひ(星合ひ)」が載っています。陰暦七月七日の夜、牽牛・織女の二星が夫婦の語らいをするということの意。「しづごころ」は静心で、静かな心、落ち着いた心の意。なので、「しづこころなき」はせわしなく騒いでいるの意味に逆転します。(雲の間の七夕の空を見渡すと、牽牛と織女が逢瀬を急ぐからか、天の川がせわしなく騒がし気に波立っているように感じるなぁ) たつた山夜半にあらしの松吹けば雲にはうときみねの月かげ 左衛門督通光 412「風吹けば沖つ白波たつた山夜半にや君が一人こゆらむ」(古今・994)を本歌とするとか。「あらしの松吹けば」は、山風が松の間を吹き抜けていくという意でしょう。「雲にはうとき」は、雲には全く関係ないということで、雲には少しも妨げられないの意。「月影」は月の光。月明かりの意。(立田山に夜更けに強い山風が松の間を吹き過ぎれば、雲には少しも妨げられずに、月の光が輝いていることよ) 横雲の風にわかるるしののめに山飛びこゆる初雁のこゑ 西行法師 501「横雲」は横にたなびいている雲。「わかる(別る・分かる)」は古語辞典によれば、遠く離れて会うことができなくなる。死んで、会えないようになるの意。「風にわかるる」は、風に吹かれて山から離れるの意。山から離れて行けば、再び山とその雲が会うことはできないですね。「しののめ」を辞書で引くと、夜明けがた。早朝の意。気づいたことは、しののめは漢字で「東雲」と記すこと。この歌には雲という漢字が2つ入っていることになります。「初雁」は、(その秋に)はじめて、北方から渡ってきた雁(がん)です。(風が吹き横雲が山から離れて行くのが見える夜明けがたに、山を飛び越える初雁の声が聞こえてきた) 吹きまよふ雲ゐをわたる初雁のつばさにならす四方の秋風 皇大后大夫俊成女 505「吹きまよふ」は、風の吹き荒れるの意。「雲ゐ」は雲居で、空の意。「四方の秋風」についてです。参照文献によりますと、『源氏物語』の「須磨」に「枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに」という一節があり、そこから「四方の秋風」というフレーズが作られたと言います。そこに藤原俊成女の教養が反映しているということなのでしょう。(吹き荒れる空、四方から吹く秋風の中、馴れない翅をならしつつ雁が飛んで行く) 鵠の雲のかけはし秋暮れて夜半には霜や冴えわたるらむ 寂蓮法師 522「鵲(かささぎ)の渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜は更けにけり」という家持の歌を本歌にしているそうです。「家持集」に載る歌です。有名な歌です。一方、この歌自体が新古今の第620首として収録されています。「鵲の雲のかけはし」は、七夕の夜、鵲が天の川に渡す空の橋です。「秋暮れて」は、秋も終わり近くなっての意。「冴えわたる」は、一面に凍るの意。寂蓮(1139年頃~1202年)は平安時代後期から鎌倉時代初期、大伴家持(718年頃~785年)奈良時代後期の歌人です。(鵲が天の川に渡す空の橋は、晩秋の夜中には冷たい霜を一面に置いているのだろうか)=== 223.1.18 === 9時半過ぎに撮った南の空。昨日とはうって変わり青空にほんわり雲が浮かんでいます。 東方向の空は頻度の高いケースですが、グレーの雲が稜線の上を覆っています。 南西方向の空 西方向の空 13時半頃の南の空。グレーの雲が広がりつつあります。 東の空稜線上には、大きなグレーの雲がかかり、その上には青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 南の空17時過ぎに、もう一度空を眺めに出ると、グレーの雲の姿は大きく変化しましたが、青空には薄いベールが架かったような感じです。南西方向の空 西方向の空 南西から西の方向も同様です。 東の空13時半頃の雲と17時過ぎの雲とでは、雲の姿が大きく変化しています。勢いのあるグレーの雲が離れて行き、穏やかなグレーの雲の漂いに変化した感じです。雲がたりのつづきです。巻第六に移ります。 月を待つたかねの雲は晴れにけりこころあるべき初時雨かな 西行法師 570「月を待つ」は月の出を待つ。「たかねの雲」は高嶺の時雨雲。「こころあり」は思いやりがある。「こころあるべき」は、思いやりがあるに違いないの意。(月の出を待っていると、高嶺の雲が初時雨を降らせたがたちまち止み、空が晴れたよ。月を眺めたい私の心を知ってくれている思いやりのある初時雨に違いない) 世の中に猶もふるかなしぐれつつ雲間の月のいでやと思へど 和泉式部 583「猶もふるかな」の「ふる」は「降る」と「経る」の懸詞。「しぐれつつ」は雨がしぐれるの裏に、自分が涙を流していることを暗喩する。「雲」は時雨を降らせる雲であり、迷いや悩みの暗喩にもなっている。「いでや」は感動詞「いでや」と「出でや」の懸詞とされる。また「出でや」には月が出る意味とともに出離の意味が込められているとか。(雲間から月が出ようと思っても、猶降りつづく時雨雲のために出られない。同様に、私は憂き世を出て出家しようと思いつつできかねて涙を流すだけの日々を送っている) 折こそあれながめにかかる浮雲の袖も一つにうちしぐれつつ 二條院讃岐 584「折こそあれ」は折もあろうに。「ながめ」はじっと物思いに沈みながら見つめること。「袖もひとつに」は袖もともに。「打ちしぐれつつ」は、涙のしきりに落ちること。袖が涙で濡れる意もこめる。(折もあろうに、物思いに沈みつつ眺める空に時雨雲が出ている。雲が時雨を降らせるのと一緒に、悲しさで涙がしきりに落ち袖がしぐれている) たえだえに里わく月のひかりかな時雨をおくる夜半のむら雲 寂蓮法師 599「たえだえ」は、とぎれとぎれ。切れ切れ。「里わく月のひかり」は、里により月が照るところと照らないところがあるという意。「わく」は区別する。「時雨をおくる」は、時雨をふらす。「むらくも(叢雲)」は集まり群がっている雲。一群れの雲。(とぎれとぎれに里によって月の光が射しているよ。夜半の叢雲が時雨を降らせるているために) 夕なぎにとわたる千鳥波間より見ゆるこじまの雲に消えぬる 後徳大寺左大臣 645「夕なぎに」は夕方風の無くなったときに。「とわたる」は古語辞典を引きますと、「と渡る」と「門渡る」が載っています。前者は「と」が接頭語で、単に渡る意。後者は「川戸」「瀬戸」を渡る意。この歌では後者の意で、海峡を渡る。(夕方の風が止んだときに、海峡を渡る千鳥が波間に見える小島にかかる雲の中に消えてしまったよ)巻第四から巻第六の抽出歌から、合計9首を抜き出しました。一読して歌意を理解できなかった歌です。また、巻第四を読み直していて、二首見落としていることに気づきました。 月影の澄みわたるかな天の原雲吹きはらふ夜半のあらしに 大納言経信 411 山の端に雲のよこぎる宵の間は出でても月ぞなほ待たれける 道因法師 414そのままで歌意は汲み取っていただけるでしょう。二首補足させていただきます。一方で雲の文字が入っていない第417首(式子内親王作)の歌を加えていました。これは削除です。これらの訂正をいたします。やはり・・・・ミスがありました。まだほかにもあるかも・・・・。歌の抜き出しは、この辺りで一区切りと致します。=== 2023.1.19 === 10時前に撮った南の空。この日も青空です。南西方向の空 西方向の空 東方向も青空の広がり 東方向の空16時40分頃に眺めると、稜線の上に青空が見えるもののその上にはグレーの雲が覆う形に変化しています。 南の空南西方向の空 ズームアップ 西方向の空 同様にズームアップ 地上近くに風が吹いていなくても、天空では風が吹いているのでしょうね。ほぼ同じ位置から眺めていますと、漂っているように見えても、思いのほか速い形で移動していると感じます。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫補遺大中臣輔親 :ウィキペディア十訓抄「祭主三位輔親の侍」原文と現代語訳・解説・問題|説話集 :「四季の美」久我通光 :ウィキペディア徒然草 第100段 :「山梨県立大学」二条院讃岐 :ウィキペディア女房三十六歌仙 :ウィキペディア徳大寺実定 :ウィキペディア新三十六歌仙図 西行法師 :「和泉市久保惣記念美術館 デジタルミュージアム」 三十六歌仙の各掛幅を見られます。源経信 :ウィキペディア道因法師 :「百人一首を探ろう」【26】道因法師和歌への執心 『小倉百人一首』あらかるた :「小倉山荘」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.28
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最強寒波襲来中・・・・。昨日(25日)、朝起きてベランダから外を見れば雪景色。初雪です。かつ私の住む辺り(宇治市)では大雪(経験的に・・・)の部類です。冒頭の自宅ポストに積もる雪の量。これほど積もったのはあまり経験していないように思います。 自宅の駐車場に置かれた車に積もった雪も記録として撮っておきました。 今朝(26日)起きて、ベランダから外を見るとき、目にしたのが物干し棹のミニつららです。「つらら」って漢字ではどう書くのだったかな・・・・。調べてみると「氷柱」ですね。日常生活の範囲で冬期につららを見る機会がないので、すぐに思い浮かびませんでした。 棹を右方向に眺めて行くと氷柱が成長するプロセスが感覚的に分かりそうな様子が現れていました。「落ちる水滴が凍って、棒のようにたれ下がった氷。家の軒先や山の岩などに見られる」(『日本語大辞典』角川書店)。この辞書には、英語では icicle と併記されています。序でに、英和辞典を引くと、 icicles hanging from the roof (屋根から垂れ下がっているつらら)という文例が載っています。(『ジーニアス英和辞典』大修館書店)上記の国語辞典には、『源氏物語』(末摘花)の歌が用例として載っています。 朝日さす軒のたるひはとけながらなどかつららのむすぼほるらむ 「つらら(氷柱)」は俳句歳時記では冬の季語です。手許にある数冊の歳時記を調べてみますと、知らなかったことをいくつか学ぶことができました。『能因歌枕』には「つららとは薄氷をいふ」とあり、かつては水面に張った薄氷を意味していたと言います。現在「つらら」と称しているものは、古くは「垂氷(たるひ)」と称したそうです。上掲末摘花の歌にある「軒のたるひ」は「軒の垂氷」として用例に引かれています。(資料1)『明解古語辞典 新版』(三省堂)で「垂氷」を引くと、「雨・雪などの水が、軒・岩かどなどから、したたりながら凍ってたれ下がったもの。今のつらら」と説明され、用例には同様に末摘花の歌が引かれています。一方、「つらら」は「今の、氷」と記されています。瀬戸内寂聴訳『源氏物語 巻二』の「末摘花」を繙くと、 朝日さす軒の垂氷は解けながら などかつららの結ぼほるらむ の歌の下に、 「軒のつららは 朝日に解けているのに 池に張った薄氷は あなたの心のように どうして解けないのやら」 と歌意を説明してあります。この歌、源氏の君が早く帰るのを姫君(末摘花)のせいにして詠んだのです。しかし、姫君は「むむ」と笑うばかりで返歌を詠めない。源氏の君はそのまま帰ってしまうというシーンです。『千載集』の巻六「冬」には、権中納言経房の次の歌が載っているとか。 氷、初結といへるこころをよめる をし鳥の浮寝の床や荒れぬらんつららゐにけり昆陽の池水ここの「つららゐる」は氷が張っているという意味。(資料1)清少納言は『枕草子』に「日ごろ降りつる雪の、今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじうしたり。・・・・銀(しろがね)などを葺きたるやうなるに、水晶の滝などいはましやうにて、長く、短く、ことさらにかけわたしたると見えて、いふにもあまりてめでたきに・・・・」(第283段)と、「垂氷(=つらら)」を語っているとか。(資料1)「つらら」が今の「氷柱(つらら)」の意味で使われることに変化したのはいつ頃からなのでしょうか。手許の歳時記のいずれもその点は付記ですので、不詳。手許の歳時記を読み比べると、複数の書に例句として掲載のものがあります。まずそれをご紹介します。 朝日かげさすや氷柱の水車 鬼 貫 みちのくの町はいぶせき氷柱かな 山口青邨 みちのくの星入り氷柱我に呉れよ 鷹羽狩行 夕焼けてなほそだつなる氷柱かな 中村汀女 小さき葉も小さき氷柱や皆氷柱 高木春子全部列挙すると多くなりますので、個人的な好みとして印象に残る句を少しここに掲げます。(資料1,2,3,4) 御仏の御鼻の先へつららかな 一 茶 千本の氷柱の中にめざめけり 有馬朗人 越中の碧くしづかな氷柱かな 佐川広治 大華厳瑠璃光つらら打のべし 川端茅舎 人煙や氷柱の端の玉雫 草 田 男上掲句の語彙で、「いぶせし」は「①心の中のもやもやが、ふっきれない様子。ゆううつだ。②むさくるしい」(『新明解国語辞典』三省堂)の意。「人煙」は「[炊事の煙の意]」(同上)です。「つらら(氷柱)」から、連想が広がってしまいました。この辺で終わります。 ベランダの物干し棹のつららは、見に行く(14:05)と既に消え去っていました。空には、グレーの大きな雲が漂っていますが、青空が見え太陽の光も射しています。スマホの天気予報が示す宇治市の現在温度は5度。今日の予報では最高5度、最低-6度だとか。参照資料1)『基本季語500選』 山本健吉著 講談社学術文庫2)『虚子編 季寄せ 改訂版』 三省堂3)『改訂版 ホトトギス 新歳時記』 稲畑汀子編 三省堂4)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川晴樹事務所補遺昆陽池 :ウィキペディア昆陽池 :「伊丹市」昆陽池(伊丹市) ミニ日本列島 :「ひょうごため池保全県民運動」『枕草子』原文 – 全323段と奥書(Part 2/2):「ORIGAMI - 日本の伝統・伝承・和の心 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.01.26
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=== 2023.1.14 === 10時45分頃に撮った南の空です。南西方向の空 この日は雨でした。=== 2023.1.15 === 9時過ぎに撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方向も、空一面にどんよりした雲がかかっています。 14時過ぎの南の空ですが、変わらずグレーの雲が空を覆っています。南西方向の空 西方向の空 遠くの西の空には、少し青空が見えました。 夾雑物が多いのでズームアップして空の一部を切り取ったかたちですが・・・・・。 東方向の空朝に見られた一部の白雲はもう消えていました。この日はたしか一日曇り空でした。曇り空の雲の姿もやはり変化しつづけています。さて、雲がたりです。『新古今和歌集』から抽出した「雲」を詠み込んだ歌の数が多いので、通読してほぼ歌意が読み取れそうな歌ははぶきます。語彙がわかりづらいものや、工夫のある歌、興味深い歌などに焦点をあてて、私の覚書を兼ねてご紹介していきたいと思います。二書を参照資料としつつ、理解できた範囲で歌意をまとめていきたい所存です。おつきあいください。(理解不足が多々あるかもしれません。ご寛恕ください) 霞立つすゑのまつやまほのぼのと波にはなるるよこぐもの空 藤原家隆朝臣 37この歌、『古今和歌集』(以下、古今)の第1093首(以下、数字のみ)の「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波を越えなむ」を本歌とするそうです。「すゑ(末)の松山」は陸前国宮城郡の枕詞。(末の松山にはほのぼのと霞が立ち、波間を見るとほのぼのと横雲が波から離れようとしているよ。) 春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるるよこぐもの空 藤原定家朝臣 38「風吹けば峰に別るる白雲の絶えてつれなき君が心か」(古今・601・壬生忠岑)を本歌とし、夢の浮橋は源氏物語の巻名からの連想によるものとか。夢を浮橋に喩えているそうです。「とだえして」はと切れての意味なので、「わかるる」とは縁語。(春の夜の夢が途切れてしまった。目を覚まして山を眺めると、横雲が峰を離れて動き出そうとしている。) 葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかるしら雲 寂蓮法師 87「桜花咲きにけらしなあしびきの山のかひより見ゆる白雲」(古今・59・紀貫之)を本歌とするとか。(葛城連山の高間山に桜の花が咲いたようだ。立田山の奥にかかる白雲も桜の花なのかな) 白雲のたつたの山の八重ざくらいづれを花とわきて折らまし 道命法師 90「雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきてをらまし」(古今・337・紀友則)を本歌とするとか。「わきて」は区別しての意。(白雲がかかる立田山の八重桜、白雲と桜を区別して折ることができたのであろうか) 白雲の春はかさねてたつた山をぐらのみねに花にほふらし 藤原定家朝臣 91「白雲の立田の山の滝の上のをぐらの嶺に咲きををる桜の花は山高み・・・」(万葉・1747・高橋虫麻呂)が本歌だとか。(春は他の季節とは違い、白雲と桜の雲が重なって山にかかっているよ。立田山の小倉の峰に花が咲き匂っていることだろうな) 岩根ふみかさなる山を分けすてて花もいくへのあとのしら雲 藤原雅経 93「石根(いわね)踏み隔(へな)れる山はあらねどもあはぬ日まねみ恋ひわたるかも」(万葉・2422)が本歌だとか。「分けすてて」は踏み分けてすすむの意。(岩を踏み、幾重にも重なる山を踏み分けてきた。来し方をふりかえれば、花と白雲が幾重にも重なって見えることよ) さくら花夢かうつつか白雲のたえてつねなきみねの春かぜ 藤原家隆朝臣 139この歌は本歌が「世の中は夢かうつつかうつつとも夢ともしらず有りて無ければ」(古今・942・よみ人知らず)と「風吹けば峰に別るる白雲のたえてつれなき君が心か」(古今・601・壬生忠岑)の2つだとか。「た(絶)えて」は消えたという意。(桜花と見たのは夢なのかうつつなのか。白雲が消えて今はなく峰には無常な春風が吹いている) 花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風 藤原雅経 145「花さそうふなごり」は花を散らした後の残りの風の意。「雲に吹きとめて」は雲に吹きとどめての意。(桜の花を散らした後の残りの風をしばらくは雲に吹きとどめ、花の香を匂わせておくれ。春の山風よ)巻第一、巻第二の18首から8首をとりあげました。桜の咲いた状態を花雲に見立て、白雲と重ねて詠む歌の技巧がかなり使われていることを知りました。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.16 === 9時50分頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空この日もまた、曇り空で一日が始まりました。南から西にかけての空と比べると、東方向の空にはグレーを基調にしながらも白雲が稜線の上に漂っています。もう少し、新古今を続けます。巻第三です。 卯の花のむらむら咲ける垣根をば雲間の月のかげかとぞ見る 白河院御歌 180この歌は、堀川百首にある「卯の花のしららに咲ける夕ぐれは賤しが垣根ぞ月夜なりける」が本歌だとか。卯の花はウツギの花で初夏に白い花が咲くそうです。それで「しららに」と詠まれているのでしょう。それに対して、「むらむら咲ける」は群をなしてところどころに咲いているの意。(卯の花が垣根のあちこちに群がって咲いている。雲の間から洩れる月の光かと思ってしままうよ) ひとこゑはおもひぞあへぬ郭公たそがれどきの雲のまよひに 八條院高倉 208「ひとこゑは」は一声だけではの意。「おもひぞあへぬ」は、はっきり郭公だと思うことができないの意。「雲のまよひに」は雲にまぎれての意。(一声だけでははっきり郭公だと思えない。たそがれどきの雲にまぎれて姿も見えないし.....) 聲はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそぐ宵のむらさめ 式子内親王 215「声はして涙は見えぬ郭公わが衣手のひづをからなむ」(古今・149・よみ人しらず)が本歌。「ひづ」はひどく濡れる意。「雲路にむせぶ」は郭公が悲しげに鳴きながら雲の道を通るの意。「むらさめ(村雨)」は古語辞典によれば、「時々思い出したようにぱらぱら降り過ぎ、やんだかと思うとまた一しきり降る雨。秋から冬へかけてよく降る」(悲しげに鳴き雲路を行く声が聞こえた。今、鳴いた郭公の涙なのだろうか、日が沈んだ今、村雨が降り出したわ・・・・) いかばかり田子の裳裾もそぼつらむ雲間も見えぬ頃の五月雨 伊勢大輔 227「いかばかり」はどんなにかの意。「田子」は農夫の意。「そぼつ」はひどく濡れるの意。五月雨のもとでの田植の時季を詠んだ歌。(どれほどひどく、田植えをする農夫たちは濡れていることでしょう。雲の切れ間も見えず五月雨の降るなかで) 雲まよふ夕べに秋をこめながら風もほに出でぬ萩のうへかな 前大僧正慈円 278「雲まよふ」は雲が乱れ動くの意。「秋をこめながら」は秋らしい景色をこめつつの意。「風もほに出でぬ」は風もまだ秋風らしい様子をみせないの意。「ほに出でぬ」は「萩」にもかかります。(雲が乱れ動く夕空に秋の気配を感じるが、風にはまだ秋風らしさがなく、まだ穂を出していない萩の上を吹きすぎていくよ)抽出した15首のうち、5首を拾い、歌意を私流にまとめてみました。さて、雲の変化に戻ります。16日には、14時50分ごろにもう一度空を眺めました。 南の空には青空が見え、軽やかな感じの白雲が漂っています。 南東方向の空 東の方向の空もまた青空に。稜線の上に白雲がたなびいています。稜線のすぐ上空は雲が厚く、さらにその上には青空を挟んでやわらかい雲がたなびいていました。 西方向の空は雲が少なく、青空です。やはり、グレーの雲より白雲の方が、気分は晴れやかになりますね。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫*『新訂 新訓万葉集』 上・下 佐佐木信綱編 岩波文庫補遺ウツギ :「みんなの趣味の園芸」空木 (うつぎ) :「季節の花 300」ハギ(萩) :「みんなの趣味の園芸」萩市の公園で ハギの花が見頃 :「NHK」萩 (はぎ) :「季節の花 300」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.24
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道路傍の案内板上大谷の古墳公園を出た後、幹線道路に戻り道沿いに西方向に進みました。下大谷バス停の先、信号のある交差点で左折して、南に方向を転じます。芝ヶ原地区を通過することになりますので、以前探訪した時の記憶を辿り、史跡芝ヶ原古墳に少し立ち寄ってみました。 ここは入口の傍に「史跡芝ヶ原古墳」碑が設置してあります。 入口を入った先にまず見える前方後方墳です。 古墳の傍に設置された案内碑。他にも案内板が設置されていますが、省略します。 上掲古墳は丘陵地の高台にあり、後方墳の北側は丘陵地の斜面となり、かなりの高低差のある凹地が広がり、遊歩道が設けてあります。 傾斜地を降りた凹地に城陽市域にある古墳群を立体化した模型地図が設置されています。 高台にある後方墳北辺側の遊歩道傍から、北西側を眺めると、住宅地の背後の森にみえる辺りが久津川車塚古墳です。 立体模型でこの地域を西側から眺めると、手前の青丸が久津川車塚古墳で、赤丸が芝ヶ原古墳のあるところです。芝ヶ原古墳の左(南)の灰色の方形区域が「正道官衙遺跡」の位置になります。 この後、下大谷橋に戻り、下大谷地区を歩いてみたのですが、スマホの地図アプリには下大谷古墳(1号墳)の表示がないので行き着けず失敗。ここも課題として残りました。周到な準備でなかったのが原因というところ。運動不足の解消にはなりました。再び、元の交差点を横断し、幹線道路沿いに南方向を目指します。 せっかくここまで戻って来たのだからと、「正道官衙遺跡」にも立ち寄ることに。 ここも北東側の入口は丘陵地の高台にあり、眼下に平らな方形の官衙遺跡を眺めることになります。 坂道を下ると前方に庁屋(ちょうや、左)と副屋(そえのや、右)の復元建屋が見えます。以前に探訪したときは、副屋の北側、かつて正倉があった場所の景色をほとんど撮りませんでした。そこで、折角の機会なので今回は補足としてその場所に着目しました。 副屋から北を眺めた景色。ここに正倉があったそうです。 この官衙の正倉遺跡地北辺から南を眺めた景色です。 庁屋を北西側から眺めた景色庁屋からはこの官衙遺跡の中央を南進し、この遺跡の南辺にある細い小径を西端まで試しに歩いてみました。西端には直立に近い傾斜度のコンクリート階段が設置されていましたので、何とか住宅地域の道路に出ることができました。まあ、この方向から正道官衙遺跡にアプローチする人はないでしょう。勿論標識は見当たりません。ここからはJR城陽駅まではあと少し。 終着点に戻りました。振り返ってみると、幾つか未訪古墳を残しました。三度目の正直じゃないですが、次の機会にはこの未訪古墳を踏破したいと思います。ご鸞いただだきありがとうございます。補遺城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 城陽市史跡巡りマップ :「城陽市教育委員会」 今回、探訪記事をまとめていて、入手した情報です。 この地図のことを知っていたら、もっとスムーズに史跡めぐりができたのに・・・・。 pdfファイルのダウンロードができます。次回は遅ればせながら利用しよう・・・・。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡探訪 京都府城陽市 歴史散策 -3 芝ヶ原古墳・丸塚古墳探訪 京都府城陽市 歴史散策 -4 久津川車塚古墳・芭蕉塚古墳・平川廃寺跡ほか
2023.01.22
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=== 2023.1.11 === 8時過ぎに撮った南の空です。やわらい感じの雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 9時15分過ぎに撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西の方向にかけては、雲の姿と青空がいい感じです。 16時45分過ぎに東方向の空を眺めると雲が見えません。 南の空南西方向の空 西方向の空 三方向のいずれにもはっきりとした雲の姿は見えませんでした。さて、『新古今和歌集』巻第十六「雑歌 上」から、「雲」を詠み込んだ歌の抽出を続けます。(資料1) 紫の雲にもあらで春がすみたなびく山のかひはなにぞも 円融院御歌 1447 さもあらばあれ暮れ行く春も雲の上に散る事知らぬ花し匂はば 大納言経信 1462 照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける 皇大后宮大夫俊成 1467 袖のうら波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ 中 務 1495 廻り逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜はの月かげ 紫 式部 1497 浮雲は立ちかくせども隙もりて空ゆく月の見えもするかな 伊勢大輔 1500 浮雲にかくれてとこそ思ひしかねたくも月の隙もりにける 参議正光 1501 忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月のこころありせば 皇大后宮大夫俊成 1507 いかにして袖に光のやどるらむ雲居の月はへだてこし身を 皇大后宮大夫俊成 1508 心にはわするる時もなかりけりみよの昔の雲のうへの月 左近中将公衡 1509 むかし見し雲居をめぐる秋の月いまいくとせか袖にやどさむ 二條院讃岐 1510 月澄めばよものうき雲そらに消えてみ山がくれを行く嵐かな 藤原秀能 1523 雲をのみつらきものとて明かす夜の月や梢にをちかたの山 右大将忠経 1546 雲かかる遠山畑の秋さればおもひやるだに悲しきものを 西行法師 1560 みなかみの空に見ゆるは白雲のたつにまがへる布びきの瀧 二條関白内大臣 1650 ひさかたの天つをとめがなつごろも雲居にさらす布引の瀧 藤原有家朝臣 1651 山別れ飛ゆく雲の帰り来るかげ見る時はなほたのまれぬ 菅贈太政大臣 1691 都より雲の八重立つおく山の横川の水はすみよかるらむ 天暦御歌 1716 ももしきのうちのみ常に恋しくて雲の八重立つ山はすみ憂し 如 覚 1717 雲ゐ飛ぶ雁の音近きすまひにもなほ玉章はかけずやありけむ 女御徽子女王 1717 天つ風ふけひの浦ににゐる鶴のなどか雲居にかへらざるべき 藤原清正 1721 いにしへの馴れし雲居を忍ぶとや霞を分けて君たづねけむ よみ人知らず 1722 かくしつつ夕べの雲となりもせばあはれかけても誰か忍ばむ 周防内侍 1744 夕暮は雲のけしきを見るからにながめじと思ふ心こそつけ 和泉式部 1806 世の中をおもひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲 皇大后宮大夫俊成 1846 われ頼む人いたづらになしはてばまた雲わけて昇るばかりぞ 1861 ひさかたの天の八重雲ふりわけて下りし君をわれぞ迎へし 紀 淑望 1866 ながめばや神路の山ニ雲消えてゆふべの空を出でむ月かげ 太上天皇 1875 さやかなる鷲の高嶺の雲井より影やはらぐる月よみの森 西行法師 1875 むらさきの雲の林を見わたせば法にあふちの花咲きにけり 肥 後 1930 むらさきのくもぢに誘ふ琴の音にうき世をはらふ峯の松風 寂蓮法師 1938 あひ見ても嶺にわかるる白雲のかかるこの世の厭はしきかな 源 季廣 1959 立ち入らで雲間に分けし月影は待たぬけしきや空に見えけむ 西行法師 1977巻第十六から最後の巻第二十の「釋教歌」までには、33首あります。つまり、累計しますと、見落としがなければ「雲」を含む歌は全部で136首あるということになります。 (追記 2023.1.27:合計数を136に訂正)再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.1.12 === 9時40分頃に撮った南の空です。雲を見ませんでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、薄曇り感はありますがこの方向も雲を見かけません。 13時45分頃の東方向の空です。午後も雲の姿はありません。 南の空南西方向の空 西方向の空 天気に恵まれた一日を過ごせたということになります。=== 2023.1.13 === 8時15分過ぎに撮った東方向の空です。全体薄墨色のベールに覆われた感じで、その向こうから太陽が射しています。 南の空には少し明瞭にグレーの雲で覆われているのが見てとれます。南西方向の空 西方向の空 14時少し前に、東方向の空を眺めると、グレーの雲が見て取れ、厚みが増しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 12日とはうって代わり、終日曇空で終わりました。さてこれで『古今和歌集』と『新古今和歌集』に詠み込まれた「雲」の抽出を終えました。905年に成立した最初の勅撰和歌集と1205年にほぼ成立したとされる8番目の勅撰和歌集の間には300年の歳月の隔たりがあります。それを対比してみますと、雲に関わる表現、語彙が増えていることに気づきます。両和歌集から語彙を抽出してみます。『古今和歌集』 雲、白雲、雲ゐ、雲井 雲ゐと雲井は雲居と同じ意味で一語とみれば、語彙は3種類です。『新古今和歌集』 雲、白雲(しら雲)、雲居(雲ゐ、雲井) よこぐも(横雲)、浮雲(うき雲)、夕立の雲、叢雲(むら雲、村雲)、紫の雲 八重雲、 雲路、むらさきのくもぢ、雲間 新古今和歌集になると、雲の表現が多様化し、9種類の表現法が加わってきます。300年という歳月が和歌を詠む行為を進化/深化させ、表現が豊かになったということになるのでしょうね。こんなところで、歌の抽出のご紹介を終りといたします。つづく参照資料1)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.21
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標識に従い、一筋目を南方向に左折します。右側にこのコンクリート階段が見えます。先ほどの古墳公園の感覚で、これがその入口と推測できます。 階段を上がりきると、「上大谷古墳群第14号墳」の表示があります。その傍に、さらにコンクリート階段が設けてあります。 さらに階段を上ると、比較的平らな場所になっています。西方向に歩むと、 右方向に、角柱の標識が建てられいます。「城陽市指定史跡 上大谷一四号墳」と表記されています。 西方向を撮った景色 西側から、上ってきた階段の方向(東)を撮った景色です。階段が二段になっていましたので、少し古墳らしい感じを受けるくらいで、標識がなければちょっと小高い削平地という印象だけになる感じです。さて、メイン道路に戻り、道路を横断して北側の3番目の古墳公園を目指します。 道路を横断すると、階段が前方に見えます。歩道面には左の画像の状態の標識がありました。右側は読みやすいように回転させたものです。十字路の横断箇所ではありませんので、十字路方向に14号墳への方向が示されていることになります。 コンクリート階段を上がり、途中で振り返って撮った景色です。メイン道路の反対側に見える石垣の箇所が、第14号古墳の位置です。3番目の古墳公園との高さの違いもイメージしていただけることでしょう。 古墳公園の入口近くには、今では判読がしづらくなってきた案内板が設置されています。「上大谷古墳群 城陽市指定史跡名勝天然記念物(史跡) 平成2年4月16日 指定 上大谷古墳群は、4世紀後半から7世紀の古墳時代を通じて築かれた古墳群で、20基の古墳からなる。円墳・方墳・前方後円墳などさまざまな墳形が集合し、各種の埋葬施設をもっている。出土品の中には、日本でも出土例の限られている虁鳳鏡(きほうきょう)、飛禽文鏡(ひきんもんきょう)などがあり、久津川古墳群の中でも特色ある古墳群といえる。 古墳群は、宅地造成計画の中で確認された。20基の古墳のうち1~5、8、14、18~20号墳の10基が現状で、17号墳の横穴式石室は移築され、宅地開発事業者の協力で保存が図られている。 保存された各古墳は、古墳群の中でも代表的な古墳であり、上大谷古墳群を理解する上で貴重である。 説明板は、18~20号墳の保存地区内に設置している。 城陽市教育委員会 」(案内板 説明文転記) 案内板の左上に「上大谷古墳群位置図」が掲載されています。色調補正の画像処理をしてみました。この古墳位置図を後で見て分かったことですが、最初の古墳公園での第1号墳は前方後方墳。第14号墳は方墳だったそうです。古墳分布図の右上側に▲印があります。その位置にこの案内板が設置されています。これで、位置関係がご理解いただけるでしょう。 案内板から一番近い最初の角柱標識見えます。近づくと「上大谷第18号墳」です。 東方向に、「上大谷第19号墳」の角柱標識が立っています。 更に東方向に並ぶ形で、「上大谷第20号墳」の角柱標識が見えます。この第20号墳がこの古墳公園の東端エリアになります。18~20号墳は円墳だったそうです。 古墳公園の中央寄りから東側方向を眺めた景色をパノラマ合成してみました。 第20号墳の北側からこの古墳公園の北辺を西方向に眺めた景色です。北辺に沿って、道路が通っています。 位置関係の目印になるものが写っていて分かりやすい方からアプローチしましょう。 上掲の景色の背後には、この案内板の裏面が写っています。古墳公園の入口側に案内板の正面が向いています。この石組はこちらに移築された第17号古墳の横穴式石室です。 第19号古墳の南方向に移築されています。 北側から樹林の向こうに石室石組の一部を眺めた景色 この古墳公園の西側から道路沿いの北辺の境界フェンスを東方向に撮った景色上掲の案内板の説明と古墳分布図、これまでの現地探訪をまとめます。上大谷古墳群は、20基存在していたようですが、現在は前方後方墳(第1,8号墳)、円墳7基(第2,3,4,5,18,19,20号墳)、方墳1基(第14号墳)の合計10基が保存されています。そして、第17号墳の横穴石室が移築保存されています。つまり、古墳9基が消滅したことになります。この整理をしていて、第8号古墳を探訪できていないことに気づきました。ネットで地図を見ていたとき、地図拡大のレベルにより、第14号古墳の古墳公園が隠れて古墳公園が3ヵ所に見えたのが記憶に残っていたのです。現地探訪では第14号古墳を訪れたことで、3ヵ所の探訪を終えたつもりでした。ところが、地図の拡大レベルを上げると、古墳公園は4ヵ所だったのです。第8号古墳が1つの古墳公園になっているのです。上掲の分布図を現地では詳細に確認しなかったので、第8号古墳の存在を見落としていたことも要因の一つです。先に探訪した戸塚古墳群について、再度資料を確認しますと、前方後円墳1基と円墳6基の合計7基からなる古墳群です。古墳公園として第6,7号古墳が保存され、戸塚古墳として墳丘の一部が保存されているそうです。(資料1)地図上では古墳公園と明示されるのは1ヵ所ですが、地図には表記のない「戸塚古墳」があったのです。合計3基とカウントしますと、戸塚古墳群では4基の古墳が消失したことになります。現在保存されている古墳では2ヵ所が未探訪地として課題に残りました。これは後で気づいたこと。さて、この2ヵ所の古墳公園を終えて、メインの道路に戻り、下大谷の方に下って行きます。つづく参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 補遺上大谷古墳群 :「古墳マップ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へ
2023.01.19
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=== 2023.1.8 === 10時15分頃に撮った南の空です。(1月7日はうっかり雲を撮り忘れました。) 東方向の空東方向にかけてはグレーの雲が空を覆っています。 南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては青空が広がっています。 13時半頃には、東方向の空にも青空に浮かぶ白雲を見るように変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 しかし、16時半近くになると、再び東方向の空は曇り空に逆戻りです。 南の空南西方向の空 西方向の空 空は全体にグレーの雲で覆われる様相に変化していました。さて、『新古今和歌集』巻第十一「戀歌 一」から、「雲」を詠み込んだ歌の抽出を続けます。(資料1) よそにのみ見てややみなむ葛城や高間の山のみねのしら雲 よみ人知らず 990 わがおもひ空の煙となりぬれば雲居ながらもなほ尋ねてむ 忠義公 1007 しるしなき煙を雲にまがへつつ世を経て富士の山と燃えなむ 貫 之 1008 白雲のみねしもなど通ふらむ同じみかさの山のふもとを 藤原義孝 1011 下もえに思ひ消えなむけぶりだにあとなき雲のはてぞ悲しき 皇大后宮大夫女 1081 消えねただしのぶの山の峰の雲かかる心のあともなきまで 藤原雅経 1094 ながめわびそれとはなしにものぞ思ふ雲のはたての夕暮の空 左衛門督通光 1106 たのめてもはるけかるべきかへる山いくへの雲の下に待つらむ 賀茂重政 1130 逢ふことのむなしき空の浮雲は身を知る雨のたよりなりけり 惟明親王 1134 わが恋は逢ふをかぎりのたのみだに行方も知らぬ空の浮雲 右衛門督通具 1135 有明はおもひ出あれや横雲のただよはれつるしののめの空 西行法師 1193 玉ぼこの道は遙かにあらねどもうたて雲居にまどふころかな 朱雀院御歌 1248 思ひやる心は空にあるものをなどか雲居にあひ見ざるらむ 女御煕子女王 1249 ほの見えし月を恋しと帰るさの雲路の浪に濡れて来しかな よみ人知らず 1261 いくめぐり空行く月もへだてきぬ契りしなかはよその浮雲 左衛門督通光 1273 風吹かば峯に別れむ雲をだにありしなごりの形見とも見よ 藤原家隆朝臣 1292 いわざりき今来むまでの空の雲月日へだててもの思へとは 摂政太政大臣 1293 思ひ出でよ誰がかねごとの末ならむ昨日の雲のあとの山風 家隆朝臣 1294 忘れゆく人ゆゑ空をながむればたえだえにこそ雲も見えけれ 刑部卿範兼 1295 さてもなほ問はれぬ秋のゆふは山雲吹く風も峯に見ゆらむ 藤原家隆朝臣 1316 思ひやるよその村雲しぐれつつあだちの原に紅葉しぬらむ 源 重之 1351 君があたり見つつを居らむ伊駒山雲なかくしそ雨は降るとも よみ人知らず 1368 中空に立ちゐる雲の跡もなく身のはかなくもなりぬべきかな よみ人知らず 1369 雲のゐる遠山鳥のよそにてもありとし聞けば侘びつつぞぬる よみ人しらず 1370 思ひやる心も空にしら雲の出で立つかたを知らせやはせぬ 兵部卿致平親王 1413 雲居より遠山鳥の鳴きて行くこゑほのかなる恋もするかな 躬 恒 1414 雲居なる雁だに鳴きて来る秋になどかは人の音づれもせぬ 延喜御歌 1415 初雁のはつかに聞きしことづても雲路に絶えてわぶる頃かな 西宮前左大臣 1417 巻第十一から巻第十五「戀歌五」までには28首ありました。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.9 === 10時頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 この時西方向は少し青みがかった空でしたが、一日中、曇り空だったと思います。それで、この時刻以外は撮りませんでした。=== 223.1.10 === 8時15分頃に撮った南の空です。青空に白雲がわずかに浮かぶ。やはり青空がいい! 東方向の空は、やはりグレーがかっていました。南西方向の空 西方向の空 10時半頃になると、南の空にグレーの雲が湧き起こっています。青空が垣間見える程度。 東方向の空は、グレーの雲が大きく広がっています。南西方向の空 西方向の空 雲が大きく広がっています。 14時半頃に再び空を眺めますと、東の山並みの上をグレーの雲が覆うものの、青空がその上に見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の変化・動きは活発でした。余談です。ふと、「曇(くもり)」という漢字の成り立ちが気になりました。漢字については「六書」と総称される「漢字の構成・運用に関する六つの種別」があり、「象形・指事・会意・形成[以上構成]・仮借・転注[以上運用]」(資料2,3)と説明されています。「曇」という漢字は、「会意」であり、「日の下に雲があり、太陽を雲がおおうことをあらわす」ということと解字されています。そこで、字義はくもる。雲が天に広がるという意味。くもらす。という意味になると説明されています。(資料2)「会意」とは「漢字の構成部分のそれぞれが意味を持っている種類のもの」(資料3)を言うそうです。ナルホドです。つづく参照資料1)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫2)『角川 漢和中辞典』 貝塚・藤野・小野 編 角川書店3)『新明解国語辞典 第五版』 金田一京助 山田忠雄(主幹)他 三省堂 [付記 2023.2.3 第1022首(曾禰好忠)を削除しました。 雪を雲と誤読して抽出していたために訂正 ] [追記 2023.2.7 第1316首 抽出見落としのため追補 ]補遺忠義公 ⇒ 藤原兼通 :ウィキペディア 藤原義孝 :ウィキペディア曽禰好忠 :ウィキペディア左衛門督通光 ⇒ 久我通光 :「ピクシブ百科時典」賀茂重政 :「コトバンク」惟明親王 :ウィキペディア右衛門督通具 ⇒ 堀川通具 :ウィキペディア刑部卿範兼 ⇒ 藤原範兼 :ウィキペディア源重之 :ウィキペディア致平親王 :ウィキペディア西宮前左大臣 ⇒ 源高明 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.18
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戸塚6・7号墳のある古墳公園を出て、スマホの地図に次の古墳公園を目的地に設定して進みました。前回の最後の景色がその起点付近です。ナビの指示に従い、大谷地区の住宅地内の道路を進みます。冒頭の道路標識は大谷バス停の北にある交差点で撮りました。改めて地図で確認にしますと、交差点で右折し、大谷川沿いに道路を進めば、東城陽中学校に到ります。ナビに従い、交差点を横断して北に坂道を上ります。大谷川が境となり上大谷地区の住宅地に入ります。目的地のすぐ近くまで来ながら、ここで失敗をしました。スマホの地図で位置関係を十分確認せずに、ナビの指示に頼り進んだ折、一筋間違えて曲がったようなのです。お陰で戸惑う羽目に・・・・。ナビの指示は、本人の現在位置を起点に目的地への方向指示を出してくれるので、こちらが間違えば方向指示が変化し、逆にまた方向感覚が狂い始めた次第。丁度、坂道を下ってくるこの住宅地域にお住まいと思える人がいらっしゃったので、古墳公園について尋ねてみました。すぐ近くですよと、そちらの方向に行くからと、ご親切に古墳公園の入口まで案内していただけました。感謝! ラッキーでした。私は目的地よりそれて行き過ぎていたのです。ナビの使い方もコツがあるようです。良い経験になりました。正しくは、上掲の交差点から北に坂道を上り、最初の辻を左折して、一筋目を左(南)に入ったところが目的地でした。道路の右(西)側にこの階段が見えます。そこが古墳公園の入口です。 古墳公園の上まで案内していただきました。入口の写真を撮るために、一旦階段を下りて入口前に戻り気づいたのですが、道路面に設置された蓋の上に標識が貼り付けてありました。そこに「上大谷1~5号墳」の名称と階段方向への矢印が明記されています。上大谷古墳群は「市指定史跡」になっています。「3世紀前半から7世紀にかけてつくられた前方後円墳2基、方墳8基、円墳10基からなる古墳群です。現在は、横穴式石室1基を移築保存したものを含めた11基が古墳公園として保存されています。出土した銅鏡3面も市指定文化財に指定されています」(資料1) コンクリート階段を上がると、最初に見えるのが、「上大谷古墳群5号墳」です。近くに角柱の標識も設けてあります。 上大谷古墳群4号墳 上大谷古墳群3号墳 上大谷古墳群2号墳 上大谷古墳群1号墳 この古墳公園内の中央辺りから北方向を撮った景色 下段の右端のフェンスの先に石段の最上段が見えます。 古墳公園の南東側にもこの古墳公園への通路があります。 古墳公園の東側はフェンスで囲われ、道路側との間に一段低く削平された空間が広がっています。この1号~5号墳のある古墳公園から、今度は上記の通り気づいた案内標識をナビに使います。 北に歩み、住宅地のメイン道路に戻ると、歩道の角にも蓋の上に標識があります。メイン道路を西方向に歩めば、第14号墳に行けるようです。 南側歩道を進むと、一筋先で南方向に向う道路傍にこの標識を見つけました。方位が分かりやすいように再現するとこんな感じです。メインの道路を矢印の指示通り、東に戻れば先ほどの古墳公園になります。南への道路を入ると、第14号墳。メインの道路の反対(北)を眺めると住宅の間に階段道がかなり上まで伸びています。その道を上れば、上大谷17号~20号墳に行けるということです。まずは、上大谷14号墳のある古墳公園を探訪し、その後17号~20号墳にいくことにしました。つづく参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 補遺 改めてネット検索して入手した情報です。上大谷古墳群 :「古墳マップ」城陽の歴史遺産、上大谷古墳群を次世代に :「LIVING kyoto」城陽を歩こうシリーズ 第2弾 :「KCN京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -1 古墳公園(尼塚6・7号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へ
2023.01.16
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=== 2023.1.5 === 8時半頃に撮った南の空です。 この時、東方向の空にはグレーの雲が覆い、青空がちらほらと見える状況です。南西方向の空 南西から西方向の空は、ブルースカイで雲はほとんど見えません。 13時半頃の東方向の空は変わらず曇空。青空の点在もなくなっていました。 南東方向の空の雲も厚いですが、青空が少し見えます。 南の空 南西方向の空 西の空にも雲が現れてきました。さて、『新古今和歌集』巻第四「秋歌 上」から、「雲」を詠み込んだ歌の抽出を続けます。 雲間よりほしあひの空を見渡せばしづごころなき天の川波 祭主輔親 317 み山路やいつより秋の色ならむ見ざりし雲のゆうぐれの空 前大僧正慈円 360 しきしまや高円山の雲間よりひかりさしそふゆみはりの月 堀河院御歌 383 月影の澄みわたるかな天の原雲吹きはらふ夜半のあらしに 大納言経信 411 たつた山夜半にあらしの松吹けば雲にはうときみねの月かげ 左衛門督通光 412 秋風にたなびく雲のたえまよりもれ出づる月の影のさやけさ 左京大夫顕輔 413 山の端に雲のよこぎる宵の間は出でても月ぞなほ待たれける 道因法師 414 雲はみなはらひはてたる秋風を松にのこして月を見るかな 摂政太政大臣 418 月をなほ待つらむものかむらさめの晴れゆく雲のすゑの里人 宮内卿 423 ふもとをば宇治の川霧たち籠めて雲居に見ゆる朝日山かな 権大納言公実 494 秋風に山飛び越ゆるかりがねのいや遠ざかり雲がくれつつ 人 麿 498 横雲の風にわかるるしののめに山飛びこゆる初雁のこゑ 西行法師 501 白雲をつばさにかけて行く雁の門田のおもの友したふなる 西行法師 502 むら雲や雁の羽風に晴れぬらむ聲聞く空に澄める月かげ 朝惠法師 504 吹きまよふ雲ゐをわたる初雁のつばさにならす四方の秋風 皇大后大夫俊成女 505 秋風の袖に吹きまく峯の雲をつばさにかけて雁も鳴くなり 藤原家隆朝臣 506 鵠の雲のかけはし秋暮れて夜半には霜や冴えわたるらむ 寂蓮法師 522 移りゆく雲にあらしの聲すなり散るかまさ木のかづらきの山 藤原雅経 561 月を待つたかねの雲は晴れにけりこころあるべき初時雨かな 西行法師 570 雲晴れてのちもしぐるる柴の戸や山風はらふ松のしたつゆ 藤原隆信朝臣 573 世の中に猶もふるかなしぐれつつ雲間の月のいでやと思へど 和泉式部 583 折こそあれながめにかかる浮雲の袖も一つにうちしぐれつつ 二條院讃岐 584 秋篠やとやまの里やしぐるらむ生駒のたけに雲のかかれる 西行法師 585 さだめなくしぐるる空の叢雲にいくたび同じ月を待つらむ 源 泰光 596 今よりは木の葉がくれもなけれども時雨に残るむら雲の月 源 具親 597 たえだえに里わく月のひかりかな時雨をおくる夜半のむら雲 寂蓮法師 599 夕なぎにとわたる千鳥波間より見ゆるこじまの雲に消えぬる 後徳大寺左大臣 645巻第四から巻第六「冬宇多」には27首ありました。雲の変化に戻ります。 16時半頃の東方向の空です。一日グレーの雲が形を変えながらたなびいていました。 南の空 空の一部をクローズアップして・・・。南西方向の空 西方向の空 西の空と東の空は雲の姿に大きなコントラストを感じる一日でした。=== 2023.1.6 === 9時40分頃に撮った東方向の空 上空をクローズアップ 南の空 上空をクローズアップ 南西方向の空 西方向の空 雲がたりに戻り、更に巻第七「賀歌」からの歌の抽出を続けます。 神無月もみぢも知らぬ常磐木によろづ代かかれ峯の白雲 元 輔 720 尋ね来ていかにあはれとながむらむ跡なき山の峯のしら雲 寂蓮法師 836 北へ行く雁の翅にことづてよ雲のうはがきかき絶えずして 紫 式部 859 これやさは雲のはたてに織ると聞くたつこと知らぬ天の羽衣 寂昭法師 864 思ひ出でばおなじ空とは月を見よほどは雲居に廻りあふまで 後三条院御歌 877 別路は雲居のよそになりぬともそなたの風のたより過ぐすな 大蔵卿行宗 894 ここにありて筑紫やいづこ白雲の棚びく山の西にあるらし 大納言旅人 901 白雲のたなびき渡るあしびきの山のかけはし今日や越えまし 紀 貫之 905 東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲居に世をやつくさむ 壬生忠岑 907 都にて越路の空をながめつつ雲居といひしほどに来にけり 御形宣旨 914 旅衣たちゆく浪路とほければいさしら雲のほども知られず 法橋奝然 915 明けばまた越ゆべき山のみねなれや空行く月のすゑの白雲 家隆朝臣 939 白雲のかかる旅寝もならはぬに深き山路に日は暮れにけり 権僧正水縁 950 白雲のいくへの峯を越えぬらむ馴れぬあらしに袖をまかせて 藤原雅経 955 都をば天つ空とも聞かざりき何ながむらむ雲のはたてを 宜秋門院丹後 959 巻第七から巻第十「羇旅歌」には15首ありました。雲の変化を、13時すぎにも撮ってみました。 東方向の空 南の空南西方向の空 西の空 続けて雲を眺めていますと、南から西の方向は青空が見えても、東方向の空はグレーの雲が漂っている比率が高いようです。東の方向は地形的に山並みが続いていますので、雲もその影響を受けてるのでしょう。雲を詠み込んだ歌の抽出をしていると、峰と白雲をセットにして詠んでいる歌がかなりあります。山と雲は景観としてつながるのですね。余談です。歌を抽出していて、「みね」について、「峰」「峯」「嶺」という漢字が使われていることにきづきました。手許の漢和辞典を引いてみました。まず、「山(やま)」の第一の字義は「土地の高く隆起した所。峰・岳・丘などの総称」(資料2)です。そして、「峰」は「嶺」と同じであり、直接関係する字義は「①やま。たかやま。山の険しく高いもの。②みね。山の頂。とうげ」(資料2)です。「山のとがったいただきの意を示す」(資料3)とも。「峯」が「峰」の「本字」(資料3)という説明もあります。「嶺」は少し語義が広がるようです。こちらは「山のみねつづきを原義」としていて、そこからくるのでしょうか、字義は広がり、「①みね。ね。山のてっぺん。②山のつらなるもの。連山。③やまみち。さかみち。」(資料2)と説明されています。つづく参照資料1)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫2)『角川 漢和中辞典』 貝塚・藤野・小野 編 角川書店3)『角川 新字源』 小川・西田・赤塚 編 角川書店 追記:2023.1.27 巻第四で見落としていた第411首と第414首を加え、「雲」を含まない第417首 (式子内親王作)を載せていましたので削除しました。補遺式子内親王 :ウィキペディア藤原俊成女 :ウィキペディア和泉式部 :ウィキペディア紫 式部 :ウィキペディア二条院讃岐 :ウィキペディア宜秋門院丹後 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.15
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昨年10月初旬に、JR奈良線の城陽駅を起点にした歴史散策をご紹介しました。その時、地図を見ると表示される「古墳公園」を探訪できなかったという課題を残しました。そこで、1月11日(水)は天気が良かったので、コロナ禍での運送不足への補いを兼ねて、積み残した探訪課題を今年初の探訪として試みることにしました。まずは、新春からの失敗談。昨年記録のまとめをしているときに追加印刷していた地図を引っ張り出しておき持って出る積もりが、他のものを準備していてうっかり携帯するのを忘れるというポカミス! お陰で今まで使う事のなかったスマホの地図での目的地設定によるナビを利用しました。スマホの地図ナビもやはり使い慣れないと戸惑う部分があることも初体験でした。余談はさておき、城陽駅東口を出て目的地の古墳公園を目指します。地図上では、「古墳公園」という明記の場所が5カ所あります。まずは、駅から一番近い古墳公園を目的地にして出発です。 駅前の広い道路沿いにまずは東に歩み、城陽中学校前の道路を北に進みます。 その先はT字路になっています。正面の北側は正道地区です。右折してメイン道路沿いの歩道を進みます。 途中に雑木林風の一画があります。この先で、北方向への道路を進めば、「正道官衙遺跡」の方に行くことができます。さらに少し先へ歩めば、幅の広い道路が分岐します。ナビの指示通りに右側の道路沿いに進みます。 道沿いに進めば、「尼塚」のバス停があります。その先が「深谷郵便局」側のバス停。その先に信号機があり、そこを通り過ぎた先で道路の北側の住宅地内の道路、坂道を登っていくことになります。 スマホのナビは便利ですが、ナビの指示に集中して歩いていると、経路の目印となる周りの景色の確認を忘れがちになるという陥穽に嵌まって終いました。この辺り、地図を再確認しつつまとめています。地図をご覧いただくとお解りいただけますが、上記の分岐点付近からは住宅地内の道路が南北方向に近い形で平行に配置されていますので、目的地に到る経路は幾通りもあると言えます。 坂道を上って行った突き当たりが古墳公園への入口でした。 左の写真の生垣の向こうに見えるのが、地図で対比すると「友が丘第一集会所」です。右の写真が、車止めのある先の景色。手前の立て看板には、「大谷第一児童公園」と表記されています。 古墳公園の入口 フェンスを境界にして入口はオープンです。山道を上がると 平坦な丘陵地になっています。 西方向の眺め まず古墳公園を東方向に進んでみました。 ここは公園になっていて、遊具が設置してあります。 こちらの端からはこんな景色が西方向に展望できます。この公園の西方向を探訪します。 南方向への坂道 北方向への坂道 西方向に進む途中に、両側に丘陵地を下って行ける道がありました。 西方向に歩む公園内は平坦です。 その先にはこんな広がりになっています。 地理院と判読できる石標が建てられています。標準点になっているのでしょうね。 その先に進むと、案内板が設置されています。 この古墳公園は「尼塚6・7号墳」でした。「尼塚古墳群は、4世紀後半に作られた前方後円墳1基と円墳5基、8世紀初めにつくられた円墳1基の7基からなる古墳群です。現在は、6・7号墳2基が公園として保存されています。」(資料1)案内板には、6・7号の円墳の大きさが説明されていますが、古墳公園として保存されているこの円墳の発掘調査は行われていないそうです。現状を見る限り、私には円墳というイメージも抱きにくい感じの平坦さでした。ここの2基は、立地・規模から4世紀後半に築造された古墳と推定されているそうです。 石標の設置側を眺めた景色現存古墳の位置確認ができたところで、この丘陵の稜線を引き返し、もとの入口まで戻ります。 住宅地の道路に戻り、スマホのナビを次の古墳公園に設定し直し、東方向へ住宅地内の道路を進みます。続く参照資料1) 城陽市内の見学できる古墳 :「城陽市」 探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -2 古墳公園(上大谷古墳群1~5号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -3 古墳公園(上大谷14号墳、17~20号墳)へ探訪 京都府城陽市 歴史散策その2 -4 帰路にふたたび:芝ヶ原古墳・正道官衙遺跡 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府城陽市 歴史散策 -1 久世神社・久世廃寺跡・久世小学校古墳ほか探訪 京都府城陽市 歴史散策 -2 正道官衙遺跡探訪 京都府城陽市 歴史散策 -3 芝ヶ原古墳・丸塚古墳探訪 京都府城陽市 歴史散策 -4 久津川車塚古墳・芭蕉塚古墳・平川廃寺跡ほか
2023.01.13
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=== 2023.1.3 === 8時45分頃に撮った南の空です。この日の朝も南の空には雲があまり見られませんでした。 東方向の空 西方向の空 9時半前には、東方向の空に雲が見られるように変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 10時すぎに眺めた東方向の空。山際のすぐ上ににだけ白雲がたなびいています。 南の空こちらも遠方に白雲が広がり、上空には雲があまりありません。 西方向の空 13時前には、東方向の空にはグレーの雲が大きく広がっていました。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西の空にも雲が漂っています。さて、『古今和歌集』の次は、手許にある『新古今和歌集』を調べてみました。前者は醍醐天皇の命により平安時代、905年に成立した勅撰和歌集です。後者は後鳥羽院の命により鎌倉時代初期に成立した8番目の勅撰和歌集。1205(元久2)年にほぼ完成。そして最終的な撰歌を後鳥羽院が行っているそうです。また、手許にある学習参考書によれば、「『万葉集』『古今和歌集』と並び三大歌集と称される。『幽玄』という理念が完成され、文学のみならず能や茶道などにも大きな影響を与えた」と史的評価を受けている歌集です。(資料1)手許の文庫本は「初句索引」なので、私の雲調べには役立ちません。最初から歌を通読していくことにしました。この文庫も長年書棚にあり、時折単発的に参照するだけでした。「雲」を詠み込んだ歌の有無というテーマを考えただけで、字面だけでも通読してみる機会になりました。『古今和歌集』では「雲」を詠み込んだ歌はそれほど多くはなかったのですが、『新古今和歌集』には、思ったよりも数多くの歌が読まれていることを知りました。回を分けて列挙してご紹介したいと思います。(資料2)まずは巻第一「春歌上」より 霞立つすゑのまつやまほのぼのと波にはなるるよこぐもの空 藤原家隆朝臣 37 春の夜の夢のうき橋とだえして峯にわかるるよこぐもの空 藤原定家朝臣 38 故郷にかへるかりがねさ夜ふけて雲路にまよふ聲きこゆなり よみ人知らず 60 しら雲のたえまになびくあおやぎの葛城山に春風ぞ吹く 藤原雅経 74 葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかるしら雲 寂蓮法師 87 白雲のたつたの山の八重ざくらいづれを花とわきて折らまし 道命法師 90 白雲の春はかさねてたつた山をぐらのみねに花にほふらし 藤原定家朝臣 91 吉野山はなやさかりに匂ふらむふるさとさらぬ嶺のしらくも 藤原家衛朝臣 92 岩根ふみかさなる山を分けすてて花もいくへのあとのしら雲 藤原雅経 93巻第二「春歌下」より 白雲のたなびく山のやまざくらいづれを花と行きて折らまし 京極前関白太政大臣師実 102 ふもとまで尾上の桜ちり来ずはたなびく雲と見てや過ぎまし 左京大夫顕輔 124 散りまがふ花のよそめはよし野山あらしにさわぐみねの白雲 刑部卿頼輔 132 さくら花夢かうつつか白雲のたえてつねなきみねの春かぜ 藤原家隆朝臣 139 散るはなの忘れがたみの峰の雲そをだにのこせ春のやまかぜ 左近中将良平 144 花さそふなごりを雲に吹きとめてしばしはにほへ春の山風 藤原雅経 145 春ふかくたづねいるさの山の端にほの見し雲の色ぞのこれる 権中納言公経 156 初瀬山うつろふ花に春暮れてまがひし雲ぞ峯にのこれる 摂政太政大臣 157 柴の戸をさすや日かげのなごりなく春暮れかかる山の端の雲 宮内卿 173=== 2023.1.4 === 9時半過ぎに撮った東方向の空 南東方向の空 南の空西方向の空 再び歌の抽出を続けます。巻第三「夏歌」より 卯の花のむらむら咲ける垣根をば雲間の月のかげかとぞ見る 白河院御歌 180 雨そそぐ花たちばなに風すぎてやまほととぎす雲に鳴くなり 皇大后宮大夫俊成 202 夜をかさね待ちかね山のほととぎす雲居のよそに一聲ぞ聞く 周防内侍 205 ひとこゑはおもひぞあへぬ郭公たそがれどきの雲のまよひに 八條院高倉 208 わが心いかにせよとてほととぎす雲間の月の影に鳴くらむ 皇大后宮大夫俊成 210 聲はして雲路にむせぶほととぎす涙やそそぐ宵のむらさめ 式子内親王 215 いかばかり田子の裳裾もそぼつらむ雲間も見えぬ頃の五月雨 伊勢大輔 227 さみだれの雲のたえまをながめつつ窓より西に月を待つかな 荒木田宇良 233 郭公くもゐのよそに過ぎぬなり晴れぬおもひのさみだれの頃 太上天皇 236 五月雨の雲間の月の晴ゆくを暫し待ちけるほととぎすかな 二條院讃岐 237 夕ぐれはいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ 藤原定家朝臣 247 露すがる庭のたまざさうち靡きひとむら過ぎぬ夕立の雲 権中納言公経 265 十市には夕立すらしひさかたの天の香具山雲がくれ行く 源俊頼朝臣 266 ゆふだちの雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山に日ぐらしの聲 式子内親王 268 雲まよふ夕べに秋をこめながら風もほに出でぬ萩のうへかな 前大僧正慈円 278最初の3巻だけで、33首の歌に雲が詠み込まれています。雲の変化に戻ります。 13時間に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 午後1時前には、全面的に雲が厚く空を覆う形に変化していました。つづく参照資料1)『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p80-812)『新訂 新古今和歌集』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫補遺『新古今和歌集』とその周辺 :「国文学研究資料館」新古今和歌集 :ウィキペディア新古今和歌集 :「ジャパンナレッジ」後鳥羽天皇 :ウィキペディア藤原定家 :ウィキペディア飛鳥井雅経 :ウィキペディア藤原家隆 :ウィキペディア寂蓮 :「コトバンク」新古今和歌集の内容と解説、和歌一覧|新古今集 :「四季の美」新古今和歌集の代表作品一覧:これだけは読みたい有名20首:「短歌のこと」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.12
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2003年の雲の変化を眺める段階に到りました。=== 2023.1.1 === 8時15分過ぎに撮った南の空は雲がなく青空です。元旦としては喜ばしい空でした。西方向の空 東方向の空には、山並みの上に雲がたなびいていました。 13時15分頃に撮った東方向の空は、白雲が山並みの上にたなびく一方で青空となっています。 東方向の上空(45度位か)を眺めた雲です。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 15時過ぎに撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 さて、雲がたりについて、また一歩進めます。古典文学で随筆といえば、やはり『枕草子』を想起します。清少納言は雲について、書きとめているのか。書きとめているとしたらどのように・・・・。そこで部分読みしか出来ていない書棚の文庫本上・下巻を引っ張り出してきて、調べてみました。下巻の巻末に、「語彙索引」が付いています。凡例の最初に、「原文中の注意すべき語彙を適宜選択して項目を立てた」と記されています。この語彙索引を手がかりに「雲」を記した箇所を抽出してみます。(資料1)雲は冒頭の文から現れます。 春は、曙。やうやう白くなりゆく山ぎはすこし明(あか)りて、 紫だちたる雲のほそくたなびきたる。 [1:第1段、以下同様] (春は、曙。ようやくあたりも白んでゆくうち、山の上の空がほんのり明るくなって 紫がかった雲の細くたなびいた風情) 資料1の現代語訳を引用します。以下同じ。さすがに随筆ですので、自然界の雲の状態を描写しています。雲の色を描写する「紫」は、脚注によれば「当時の紫は、赤みがかったいわゆる古代紫」を意味するするそうです。(資料1、以下同様) 鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居まで聞こゆる、いとめでたし。 [38] (鶴は、たいへんいかつい恰好の鳥だが、鳴く声が天までとどくというのは、 すばらしい)幾度かでてきている雲居です。ここでは「空」の意味で使われています。 正月十よ日ほど、空いと黒う、雲も厚く見えながら、さすがに日はけざやかに さし出でたるに、・・・・・ [139] これは段の冒頭の文です。 (正月十日過ぎのころ、空は真黒に雲も厚く見えながら さすがに断(き)れ間から日は明るく照っているのに、・・・・・)第148段では、「名恐ろしきもの」として「青淵。谷の洞。・・・」から列挙していき、「雷は、・・・・。暴風(はやち)。」の次に、「不祥雲(ふさうぐも)」が挙げられています。脚注によれば、「凶変の前兆」を暗示するような雲を意味するそうです。当時の人々には、そんな怖れを抱かせ共有できる雲の姿があったということでしょうね。 日は、入日(いりひ)。入り果てぬる山の端に、光なほとまりて、赤う見ゆるに、 薄黄ばみたる雲の、たなびきわたりたる、いとあはれなり。 [237] (日は、入日。沈んでしまった山の頂に、光がなお残って、赤く見えているのに、 薄黄ばんだ雲の、長くたなびいたのは、とても趣深い)そして、第240段では、雲そのものについて語っています。 雲は、白き。紫。黒きも、をかし。風吹くをりの雨雲。明け離るるほどの、 黒き雲やうやう消えて、白うなりゆくも、いとをかし。 「朝(あした)に去る色」とかや、詩(ふみ)にも作りたなる。 月のいと明(あか)き面(おもて)に、薄き雲、あはれなり。 [240] (雲は、白いの。紫。黒いのも、いい。風の吹く時の雨雲の動き。 夜の明け離れるころの、黒い雲がようやく消えて、あたりの白んでゆく風情も、 とてもいい。 「朝に去る色」とか、漢詩にもよんでいるようだ。 月のとても明るい面に、薄い雲というのも、趣深い) この先の第286段では、3月の頃、物忌みによりある所に居た時、宰相の君から贈られた歌に対して、清少納言が歌を返したことを記しています。 雲の上も暮しかねける春の日を所からともながめつるかな [286]この歌は現代語訳はされず、脚注で歌意が説明されています。「雲の上でも(中宮も)暮らしかねていた春の日の所在なさをさびしい場所柄のせいとばかり思っていました」と。ここで初めて「雲の上」は象徴的に宮中の意味で使われています。さらには中宮を表象する意味で使われているようです。 本文の末尾には、ある本に写されている文が補足列挙されています。その中に、 [十三] 硯の箱は、重ねの蒔絵に、雲鳥の文。 (硯の箱は、重ねの蒔絵を施したもので、雲鳥の模様)現実の雲ではなく、硯箱の表面に描かれた図柄としての雲について触れていることになります。尚、「雲」という漢字が名称の一部として出てくる事例が他にあります。第37段に「出雲の国」、第144段に「出雲筵(むしろ)の畳」、第38段と第208段に寺名の「雲林院」がでてきます。私が語彙索引から調べた限りでは、これだけが「雲」にまつわる記述箇所です。清少納言は自然界の雲について、相対的に多く語っていることがわかります。『枕草子』に記された「雲」についてはこれで一旦ひと区切りと致します。雲の変化に戻ります。=== 2023.1.2 === 10時過ぎに撮った東方向の空です。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 14時前の東方向の空 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 つづく参照資料1)『新版 枕草子 付現代語訳』 上・下 石田穣二訳注 角川文庫補遺古代紫 :「岩瀬商店」古代紫 :「伝統色のいろは」物忌 :「ジャパンナレッジ」枕草子のおもしろさを読む(10)2018年3月号 :「春耕 春耕俳句会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.10
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ふとしたことがきっかけで、自宅2階南向きのベランダからの空の雲を撮り始めました。変化しつづける雲の動きは眺めだすとおもしろいものです。併せて、「雲」という言葉を切り口に色々な局面を眺めてみたいと思います。それを思いつきで「雲がたり」と称しました。いわば雲をキーワードにした私的な関心事としてのリサーチです。おつきあいいただけるとうれしいです。観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -1 2022.10.11~10.31の雲、 雲って何?観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -2 2022.11.2~11.7、 雲の形「10種雲形表」、「雲」という漢字観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -3 2022.11.14~11.19、「百人一首」の歌に詠まれた雲 俳句の季語(秋の雲、鰯雲ほか)と事例9句観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -4 2022.11.24~12.4、 『万葉集』の歌に詠まれた雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -5 2022.12.5~12.11、 『古今和歌集』の歌に好い込まれた雲 歌の列挙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -6 2022.12.14~12.20、 『古今和歌集』抽出歌7首 私的な歌意解釈 「行雲流水」(禅語)の由来観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -7 2022.12.23~12.24、 『古今和歌集』抽出歌6首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉『おくのほそ道』に記された雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -8 2022.12.25~12.26、 『古今和歌集』抽出歌8首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉の他の紀行文に記された雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -9 2022.12.27~12.28、 『古今和歌集』抽出5歌首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉により詠み込まれた雲の句の列挙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -10 2022.12.29~12.31、 『古今和歌集』抽出3歌首 私的な歌意解釈 松尾芭蕉により詠み込まれた雲の句の列挙(2)2023.1.8時点で、10回になりました。今後はこの一覧表を追補していきたい所存です。どこまで続けられるでしょうか・・・・。未知数です。観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -11 2023.1.1~1.2、 清少納言『枕草子』に記された雲観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -12 2023.1.3~1.4、 『新古今和歌集』巻第一~巻第三 抽出33首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -13 2023.1.5~1.6、 『新古今和歌集』巻第四~巻第十 抽出41首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -14 2023.1.8~1.10、 『新古今和歌集』巻第十一~巻第十五 抽出28首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -15 2023.1.11~1.13。 『新古今和歌集』巻第十六~巻第二十 抽出33首観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -16 2023.1.14~1.16。 『新古今和歌集』巻第一~巻第三 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -17 2023.1.17~1.19。 『新古今和歌集』巻第四~巻第六 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -18 2023.1.20~1.21。 『新古今和歌集』巻第七~巻第十 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -19 2023.1.22~1.25。 『新古今和歌集』巻第十一~巻第十二 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -20 2023.1.26~1.29。 『新古今和歌集』巻第十三~巻第十五 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -21 2023.1.30~2.1。 『新古今和歌集』巻第十六~巻第十七 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -22 2023.2.1~2.4。 『新古今和歌集』巻第十八~巻第二十 抽出和歌から抜き出した和歌の私的な歌意解釈観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -23 2023.2.5~2.7。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -24 2023.2.8~2.9。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』より その2観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -25 2023.2.10~2.13。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 一行物』より その3観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -26 2023.2.14~2.16。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続 一行物』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -27 2023.2.17~2.20。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続 一行物』より その観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -28 2023.2.21~2.25。 禅語の中に出てくる雲 芳賀幸四郎著『禅語の茶掛 続々 一行物』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -29 2023.2.26~2.28。 禅語の中に出てくる雲 西部文浄著『茶席の禅語 (上)』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -30 2023.3.1~3.4 禅語の中に出てくる雲 西部文浄著『茶席の禅語 (下)』より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -31 2023.3.5~3.8 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -32 2023.3.9~3.12 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -33 2023.3.13~3.17 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -34 2023.3.18~3.22 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -35 2023.3.23~3.28 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -36 2023.3.29~3.31 雲の変化だけを記録観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -37 2023.4.1~4.3 『広辞苑』(初版)に載る雲を含む語彙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -38 2023.4.4~4.8 『日本語大辞典』(初版)に載る雲を含む語彙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -39 2023.4.9~4.11 『大辞林』(初版)に載る雲を含む語彙観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -40 2023.4.12~4.16 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -41 2023.4.17~4.20 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -42 2023.4.21~4.24 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -43 2023.4.25~4.30観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -44 2023.5.1~5.4観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -45 2023.5.5~5.8観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -46 2023.5.9~5.10 快晴と雲量。青空の色調。青空との同義語。観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -47 2023.5.11~5.13 禅語の中に出てくる雲 『毎日感謝したくなる 禅ごよみ365日』 桝野俊明著 より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -48 2023.5.14~5.16 禅語の中に出てくる雲 『毎日感謝したくなる 禅ごよみ365日』 桝野俊明著 より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -49 2023.5.17~5.20 西行法師『山家集』上・春に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -50 2023.5.21~5.23 西行法師『山家集』上・夏、秋に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -51 2023.5.24~5.26 西行法師『山家集』上・冬、中・恋、雑(前半)に載る 雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -52 2023.5.275.29 西行法師『山家集』中・雑(後半)に載る 雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -53 2023.5.30~5.31 西行法師『山家集』下・雑に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -54 2023.6.1~6.3 西行法師『山家集』の附録に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -55 2023.6.4~6.6 源実朝『金槐和歌集』巻之上に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -56 2023.6.7~6.10 源実朝『金槐和歌集』巻之中に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -57 2023.6.11~6.15 源実朝『金槐和歌集』巻之下に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -58 2023.6.16~6.17 『源氏物語』に載る雲を詠み込んだ歌 「桐壺」~「賢木」観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -59 2023.6.18~6.20 『源氏物語』に載る雲を詠み込んだ歌 「須磨」~「薄雲」観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -60 2023.6.21~6.23 『源氏物語』に載る雲を詠み込んだ歌 「野分」~「浮舟」観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -61 2023.6.24~6.28 『紫式部集』に載る雲を詠み込んだ歌観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -62 2023.6.28~7.3 某総合病院の個室の窓から観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -63 2023.7.3~2023.7.6観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -64 2023.7.7~2023.7.11観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -65 2023.7.12~2023.7.15 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -66 2023.7.16~7.19 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -67 2023.7.20~7.24 観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -68 2023.7.25~7.28観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -69 2023.7.29~7.31観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -70 2023.8.1~8.2 坂村真民全詩集第一巻より観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -71 2023.8.3~8.4 坂村真民全詩集第一巻より 2観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -72 2023.8.5~8.6 坂村真民全詩集第一巻より 3観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -73 2023.8.7~8.9 坂村真民全詩集第一巻より 4観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -74 2023.8.10~8.12 坂村真民全詩集第一巻より 5観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -75 2023.8.13~8.15 坂村真民全詩集第一巻より 6観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -76 2023.8.16~8.18 坂村真民全詩集第一巻より 7観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -77 2023.8.19~8.21 坂村真民全詩集第一巻より 8観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -78 2023.8.22~8.24 坂村真民全詩集第一巻より 9観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -79 2023.8.25~8.28 坂村真民全詩集第一巻より 10観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -80 2023.8.29~8.31 坂村真民全詩集第一巻より 11観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -81 2023.9.1~9.4 坂村真民全詩集第一巻より 12観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -82 2023.9.5~9.7 坂村真民全詩集第一巻より 13観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -83 2023.9.8~9.10 坂村真民全詩集第一巻より 14観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -84 2023.9.11~9.13 坂村真民全詩集第一巻より 15観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -85 2023.9.14~9.16 坂村真民全詩集第二巻より 16観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -86 2023.9.17~9.19 坂村真民全詩集第二巻より 17観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -87 2023.9.20~9.22 坂村真民全詩集第二巻より 18観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -88 2023.9.23~9.25 坂村真民全詩集第二巻より 19観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -89 2023.9.26~9.28 坂村真民全詩集第二巻より 20観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -90 2023.9.29~9.30 坂村真民全詩集第二巻より 21観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -91 2023.10.1~10.3 坂村真民全詩集第二巻より 22観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -92 2023.10.4~10.6 坂村真民全詩集第二巻より 23観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -93 2023.10.7~10.9 坂村真民全詩集第二巻より 24観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -94 2023.10.10~10.12 坂村真民全詩集第二巻より 25観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -95 2023.10.13~10.15 坂村真民全詩集第二巻より 26観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -96 2023.10.16~10.18 坂村真民全詩集第三巻より 27観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -97 2023.10.19~10.21 坂村真民全詩集第三巻より 28観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -98 2023.10.22~10.24 坂村真民全詩集第三巻より 29観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -99 2023.10.25~10.27 坂村真民全詩集第三巻より 30観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -100 2023.10.28~10.31 坂村真民全詩集第三巻より 31観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -101 2023.11.1~11.3 坂村真民全詩集第三巻より 32観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -102 2023.11.4~11.7 坂村真民全詩集第三巻より 33観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -103 2023.11.8~11.10 坂村真民全詩集第三巻より 34観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -104 2023.11.11~2023.11.14 坂村真民全詩集第四巻より 35観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -105 2023.11.15~2023.11.17 坂村真民全詩集第四巻より 36観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -106 2023.11.18~11.20 坂村真民全詩集第四巻より 37観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -107 2023.11.21~11.23 坂村真民全詩集第四巻より 38観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -108 2023.11.24~11.26 坂村真民全詩集第四巻より 39観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -109 2023.11.27~11.29 坂村真民全詩集第五巻より 40観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -110 2023.11.30~12.3 坂村真民全詩集第五巻より 41観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -111 2023.12.4~12.6 坂村真民全詩集第五巻より 42観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -112 2023.12.7~12.9 坂村真民全詩集第五巻より 43観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -113 2023.12.10~12.12 坂村真民全詩集第五巻より 44観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -114 2023.12.13~12.16 坂村真民全詩集第五巻より 45観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -115 2023.12.17~12.19 坂村真民全詩集第六巻より 46観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -116 2023.12.20~12.22 坂村真民全詩集第六巻より 47観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -117 2023.12.23~12.25 坂村真民全詩集第六巻より 48観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -118 2023.12.26~12.28 坂村真民全詩集第六巻より 49観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -119 2023.12.29~12.31 坂村真民全詩集第六巻より 50観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -120 2024.1.1~1.3 坂村真民全詩集第六巻より 51観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -121 2024.1.4~1.6 坂村真民全詩集第六巻より 52観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -122 2024.1.7~1.10 坂村真民全詩集第六巻より 53観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -123 2024.1.11~1.13 坂村真民全詩集全六巻より 54観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -124 2024.1.14~1.16 坂村真民全詩集 全巻より 55観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -125 2024.1.17~1.19 坂村真民全詩集 全巻より 56観照 ベランダから見た雲の変化と雲がたり -126 2024.1.20~1.24 坂村真民全詩集 全巻より 57 付記 上記の坂村真民全詩集 全巻は手許にある第一~六巻を意味します。 『坂村眞民全詩集』(大東出版社)は全八巻となっています(2024.2.24時点)。以上
2023.01.09
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=== 2022.12.29 === 10時前に撮った東方向の空 南の空 西方向の空はほぼ雲が無く快晴 16時15分頃に撮った東方向の空 南の空 南西方向の空 西方向の空 === 2022.12.30 === 8時半頃に撮った東方向の空 南東方向の空 南の空西方向の空 さて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。私が調べ得た範囲で残る歌は三首になりました。 雲はれぬ浅間の山のあさましや人の心を見てこそやまめ なかき 1050手許の本によれば、初二句(雲はれぬ浅間の山の)は「あさまし」の序詞だそうです。そして、「浅間の山」が「あさまし」と同音で掛けられています。浅間山は長野県北佐久郡にある山です。(資料1)この句の表層的な意味としては、雲がかかったままの浅間山の噴火活動は嘆かわしいので人の気持をわかって止んでほしいということを述べているようです。しかし、本音は別の歌意にある点が脚注に説明してあります。それを参考にします。 (あの人にはほんとに呆れてしまうよ。私の心をはっきりとみきわめてから、 私と手を切るのなら切ればいいのに)「なかき」は平中興のことで、忠望王の子とも、右大弁季長の子とも言われているとか。922年に美濃権守となり、930年没。『古今和歌集』には二首撰歌されているようです。(資料1)浅間山は有史以来の活火山です。1128年には大規模なマグマ噴火が起こったようですが、それ以前は685年に噴火した記録があるようです。平中興が生きていた時代はどうだったのでしょうか。(資料2) うきめをばよそめとのみぞのがれゆく雲のあはだつ山のふもとに あやもち 1105この歌は巻第十「物名部」に収録されている歌です。「あやもち」は「元永本には『凡の山もち』、筋切には「凡山茂」とある」人で、伝未詳とか(資料1)。この「あやもち」に与えられたお題は「そめどの あはた」です。「そめどの」は藤原良房の邸宅で、清和天皇の離宮となります。「あはた」は粟田で三条から逢坂山の方向への出口。粟田口。このあたりに、藤原基経の粟田院があったそうです(資料1)。その地名がお題になっています。 (この世での憂い成り行きを、私は余所事のようにみなして、 雲がさかんに立っているあの山のふもとへ、この世から遁れていきましょう) さわぎなき雲の林に入りぬればいとど憂き世のいとはるるかな 惟喬親王 1131これは異本に収録されている歌で、花山法皇本で第945首の惟喬親王の詠歌の続きに収録されていると言います。「雲林院にて詠める」という詞書が付いています。雲林院は、京都市の大徳寺の南に在ったお寺です。「現在は観音堂一宇が残り、十一面千手観世音菩薩を本尊として、大徳寺開山の大燈国師木像、中興の江西和尚の木像が安置され法燈を継いでいる」(資料3)という状況です。 (騒ぎのないこの雲林院に入り暮らしてみると、 ますます憂き世を避けて心静かに生きていける思いがすることよ)『古今和歌集』の歌に出てくる「雲」は、自然界の「雲」を直接的に詠じる以外に、亡くなった人の表象として眺めたり、宮中のことに喩えたりと、様々な意味を重ねていることがわかります。『古今和歌集』の「雲」を詠み込んだ歌については、拙い歌意解釈でのまとめをこの辺りで終わりたいと思います。再び、雲の姿と変化に戻ります。 11時半頃の東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 15時15分頃の東方向の空 南の空南西方向の空 さて、もう一つの雲がたり、松尾芭蕉の句についての続きです。『笈の小文』に掲載の「京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲」から始めた「雲」を詠み込んだ句の話です。手許の『芭蕉俳句集』(岩波文庫)をもとに、上五、中五、下五が一列に索引に使われている「三句索引」を一部利用して、チェックしやすい部分をまずご紹介しました。句の途中で「雲」が入っている句を抽出するのに、「三句索引」を句のパーツからのチェックではなく、一旦本文として年代順の句を読み進めることでチェックしてみることにしました。その後で「三句索引」の確認をしてみました。(資料4)本文を通読して抽出した句は以下のとおりです。『笈の小文』の句を加えると、前回ご紹介の句に加え、さらに10句が詠まれていることになります。 百里来たりほどは雲井の下涼(したすずみ) 63 延宝4年(1676) 33歳 行雲(ゆくくも)や犬の欠尿(かけばり)むらしぐれ 81 延宝5年(1678) 34歳 観音のいらかみやりつ花の雲 261 貞享3年(1686) 43歳 花の雲鐘は上野か浅草歟(か) 285 貞享4年(1687) 44歳 一尾根はしぐるる雲かふじのゆき 316 同上 あの雲は稲妻を待つ(まつ)たより哉 417 貞享5年・元禄元年 45歳 やすやすと出(いで)ていざよふ月の雲 716 元禄4年(1691) 48歳 鶴の毛の黒き衣や花の雲 795 元禄6年(1693) 50歳 蝶鳥のうはつきたつや花の雲 970 年次不詳手許の文庫本では、芭蕉作と確定している句を982句掲載し、その後に「存疑の部」(530句)、「偽書簡中の句」(26句)、「誤伝の部」(208句)が収録されています。上記抽出は982句の範囲で行いました。また、芭蕉の句には、繰り返し推敲された句は時系列に併載されていますが、この本では一句の番号が振られています。その場合は、「雲」の文字を含む最後のものを表記しました。芭蕉は、自然界の「雲」そのものを詠むこと以外に、「雲井」(雲居)で雲あるいは空全体を表したり、「花の雲」という形で見立てをしています。「花の雲」は手許の古語辞典では、「桜の花が一面に咲いているさまを雲にたとえて言う語」と説明しています。例示されているのが、「花の雲鐘は上野か浅草か」です。序でに、「雲」という文字だけで言えば、「出雲守」と詠んだ句(80)、「雲雀」を詠んだ句(289,699)にも気づきました。こんなところで、松尾芭蕉に関係した「雲」の抽出も一旦終了と致します。『古今和歌集』と芭蕉関連の紀行文や句集からの抽出にもれがあるかもしれません。その点はご寛恕ください。=== 2022.12.31 === 10時半頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 12時45分頃の東方向の空 南の空西方向の空 思っていたより穏やかな2022年の最終日でした。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 浅間山 有史以降の火山活動 :「気象庁」3) 雲林院 :「京都観光Navi」4)『芭蕉俳句集』 中村俊定校註 岩波文庫補遺浅間山 :ウィキペディア天明3年の大噴火 :「浅間火山博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.08
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=== 2022.12.27 === 8時頃に撮った東方向の空。朝曇り状態です。 南の空 ほんの一部青空が見えます。ズームアップにて。南西方向の空 西方向の空 9時半頃に撮った南の空。気持ちの良い青空が見えるように。 一方、東方向の空はグレーの雲が留まっています。さて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。巻第十五「恋歌五」で載せ忘れた歌から始めます。 葦辺より雲井をさして行く雁のいやとおざかるわが身かなしも 819手許の本の脚注によれば、「葦辺より」は「いやとおざかる」の序詞だそうです。「雲井」はすでに「雲ゐ」という表記で詠まれた歌を取り上げています。ここの「雲井」は空をさすとか。(資料1) (葦のはえた水辺から空をめざして雁が飛んで行く。おお、みるみる遠ざかる。 去って行く雁をみていると哀しくなるなぁ。去って行ったあの人のよう・・・・)歌を拾い出していくと、「よみ人しらず」の歌は収録歌がまとまっているところは、その先頭にだけ表記されているようです。詠者名付記のものは「よみ人しらず」とご理解ください。 たれ見よと花咲けるらむ白雲のたつのとはやくなりにしものを 856「たれ見よと」について、「庭の花を、見るべき主人も今はいないのに、という遺族の心を余情とする」と脚注にあります。「白雲のたつの」は「白雲のたつ野」で、「庭のさびしく荒れた感じを野といっている」とのこと。 (庭を愛で世話をした主はもういない。白雲のたつ野のように、はやくも庭は さびしく荒れ始めている。いま庭に咲くこの花は誰に見て欲しくて咲くのだろう) 風ふけど所もさらぬ白雲はよをへておつる水にぞありける みつね 929脚注には、この上の句の五・七は、遠望する滝を白雲に見立てたと解説しています。この凡河内躬恒の歌はその前に載る壬生忠岑の歌をうけて、同じ滝について詠んだ歌です。比叡山の坂本にある音羽の滝を眺めて詠じた歌です。巻第十七「雑歌上」に所載。 (ここから眺める滝は、あたかも風が吹いても動こうとはしない白雲のよう。 時を経て白雲から落ち来る水がきっと滝になって流れ落ちているのだろう)前回、惟喬親王の歌をご紹介しました。その巻十八「雑歌下」には、雲を詠み込んだ歌があと2首あります。 みやこ人いかがととはば山たかみ晴れぬくもゐにわぶとこたへよ をののさだき 937詞書によれば、小野貞樹(生没年不詳)が甲斐守、つまり現山梨県辺りの国司の長官として赴任していた時に都へ上って行く人に詠んでやった歌だそうです。(資料1,2)脚注の語釈でほぼ歌意が説明されていますので、それを総合してみます。「晴れぬくもゐ」は掛詞だとか。(資料1) <都の人が、私がどのように暮らしているかと尋ねたならば、 山が高いので晴れることなく雲がかかるところ。心の晴れることもない遠方 そこでさびしく暮らしていると答えてくれよ> あしたづのひとりおくれてなく声は雲のうへまできこえつがなむ 大江千里 998大江千里は「百人一首」の第23首として登場する平安前期の歌人。百人一首に撰歌された歌は、『古今和歌集』巻第四「秋歌上」に第193首として収録されています。中古三十六歌仙の一人です。(資料3,4)脚注によれば、この歌は、鶴について詠じながら、その歌の裏には、おのれの昇進が遅れていることを宮中の天皇の御耳に入るように伝えてほしいという暗喩があるそうです。「雲」に宮中の意味が重ねられています。そういえば、「雲上人」という宮中の人々をさす語彙がありますね。 (鶴が仲間からひとり遅れていて鳴いている。その鳴く声は雲のかなたまで聞こえ 仲間たちに届いていてほしいものだなぁ。 友よりひとり昇進の遅れている私の気持を天皇の御耳に申し上げてほしいものよ)この辺で一区切りにして、雲の姿に戻ります。 14時半ごろに眺めた東方向の空に青空が見えました。 南東方向の空 南の空は青空が点描となりコントラストがはっきりとした曇り空。 西方向の空 もう一つの雲がたり。松尾芭蕉は『おくのほそ道』で、一句に雲を詠み込んでいました。芭蕉は他にも雲を詠み込んだ俳句を作っているのか。手許に岩波文庫の『芭蕉俳句集』(1975年6月第7刷)があります。(資料5)巻末に載る「三句索引」を利用しました。三句(上五・中七・下五)の冒頭表現を索引にしたものです。取りあえず、三句索引から抽出できる雲に関連した句を調べてみますと、11句あります。以下のとおりです。 雲とへだつ友かや雁のいきわかれ 41 寬文12年(1672) 29歳 雲を根に富士は杉なりの茂(しげり)かな 38 延宝4年(1676) 33歳 夏衣いまだ虱(しらみ)をとりつくさず 250 貞享2年(1685) 42歳 雲折々人をやすむる月見哉 251 同上 雲の峰幾つ崩(くずれ)て月の山 531 元禄2年(1689) 46歳(おくのほそ道) さみだれの雲吹きおとせ大井川 865 元禄7年(1694) 51歳 六月や峰に雲置(おく)あらし山 875 同上 ひら々とあぐる扇や雲の峰 886 同上 湖やあつさをおしむ雲のみね 891 同上 日にかかる雲やしばしのわたりどり 905 同上 此秋は何で年よる雲に島 922 同上三句の冒頭ではなくて、途中に「雲」が詠み込まれているならこの三句索引では句を拾えません。一句ずつの確認は、また別途調べてみたいと思います。さて、この辺りで「雲がたり」を一区切りにいたします。雲の姿に戻ります。12/27の16時頃に撮った空です。 東方向の空 南の空 大きな雲が漂い、青空が広がっていました。 西方向の空 === 2022.12.28 === 8時15分頃に撮った東方向の空。雲が見えません。 南の空 西方向の空 この日の朝は、まさに快晴でした。こんな空は久しぶりです。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 小野貞樹 :「Milord Club ミロード倶楽部」3) 大江千里 :ウィキペディア4) 大江千里 :「コトバンク」5)『芭蕉俳句集』 中村俊定校註 岩波文庫補遺中古三十六歌仙 :ウィキペディア三十六歌仙 :ウィキペディア三十六歌仙 :「WEB画題百科事典Wiki」(立命館大学アートリサーチセンター)三十六歌仙繪 新宿区・須賀神社[天王様] :「東京都神社庁」佐竹本三十六歌仙絵 壬生忠峯 :「文化遺産オンライン」リポート“絵巻切断”から100年、京都で「佐竹本三十六歌仙絵」展 :「美術展ナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.07
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=== 2022.12.25 === 8時15分頃に撮った東方向の空。曇り空です。 南の空 南西方向の空 西方向の空 14時15分頃午後になると、東方向の空にも青空と白雲が見えるように。 南東方向の空 南の空 南西方向の空 西方向の空 午後にはさらに青空が広がる感じに。さて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。巻十一「恋歌一」から続けます。 逢ふことは雲ゐはるかになる神のおとにききつつこひ渡るかな つらゆき 482ここでの「雲ゐ」(=雲居)は、脚注によると「空」の意味です。「なる神」は雷のことで「いかづち」です。また、「おと」に対する枕詞でもあり、「雲ゐ」とは縁語になるそうです。さらに、ここでは「おと」は噂に聞くという意味を表しているとか。(資料1) (空がはるかかなたにあるように、貴方に逢えるのぞみはありません。 空から雷の音が響いてくるように、あなたの噂を耳にして、 あなたを恋いながらこの歳月を過ごすばかりなのです) 夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて 484第483首に読人しらずとあり、そのあとは詠者の明記は「恋歌一」にはありませんので、この歌も読人しらずの一首なのでしょう。辞書によれば「はたて(果たて)」は「はて、限り」の意。「あまつそら」は「天つ空」で「空、天空」の意です(『明解古語辞典 新版』三省堂、以下古語辞典と称す)。 (夕暮れになると雲のはてに向かって物思いにふけります。 天空にいるように思える人を恋い慕っています)素人として素直に読むとこんな意味かと思います。参照資料の補注を読むと、この歌の解釈は様々あるそうです。「夕暮れの雲のはたて」というフレーズについて、「夕焼の赤い雲が長い旗のように靡き、旗手が乱れている情景から、尽きせぬ物思いをする喩え」という解釈があり、物思いの乱れを読み取る解釈や、「あまつそらなる人」を自分より身分の高い人とする解釈。「人」は男か女か、いずれともとれるようです。この歌一首、解釈は定まらないとか。歌を読み、その思いに共振できればそれで良いのかもしれません。 風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か ただみね 601脚注によれば、上句(五・七)は、「たえて」の序詞になるとか。そしてこの上句は「まったく」という意味に転じて序詞としていて、下句に「つれなき」という否定をともなっていると言います。「たえて」は、峰の白雲が風のために切れるの意味だそうです。(資料1)巻十二「恋歌二」に収録されています。 (風が吹けば峰にかかる白雲が切れて去り行くように、 まったく貴方の心は無情そのものですね)「ただみね」は壬生忠岑(生没年未詳、平安時代前期)。三十六歌仙の一人で、この『古今和歌集』の撰者の一人です。(資料2) 雲のなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみ世をばへぬらむ とものり 753「なぐ」は古語辞典によれば、「凪ぐ:海風が静まる」の意です。「いとはれて」は脚注によれば「いと晴れて」と「厭はれる」とが掛けられているとか。(資料1) (雲なく、風もなく、たいへん晴れた朝を迎えている私 だけど、人に厭われるだけでこの世を過ごしているだけに虚しい)「とものり」は紀友則(平安前期)。三十六歌仙の一人。紀貫之の従兄。『古今和歌集』の撰者の一人ですが、歌集の完成前に没しているそうです。(資料2) あま雲のよそにも人のなりゆくかさすがにめには見ゆるものから 784巻十五の「恋歌五」に収録されたこの歌には、長い詞書が付されています。その意味は次のとおりです。在原業平が紀有常の女の許に通っていたのだが、うらむことがあって、しばらくの間、昼間に家を訪ね夕方には家を出て帰るという状況だった。その時に詠んでことづけて届けさせた歌。つまり、紀有常の女は、業平の妻です。妻問婚の風習の時代ですので、通常なら夕方に通って来て朝帰るというパターンです。その逆の行動を業平がとったということですので、不仲であることが見え見えの状況の時に詠んだ歌になりますね。「あま雲」は天の雲で、「よそ」の枕詞になるそうです。「よそ」は余所で、遠方を意味します。「なりゆく」はここでは心が変わるという意味だそうです。 (天の雲が遠くにあるように、私のあなたへの思いもよそよそしくなったものよ。 その疎遠さはやはり人目には見えることだろう。昼間に通っているのだから) あまつかぜ雲のかよひぢ吹きふきとぢよをとめのすがたしばしとどめむ 872このよしみねのむねさだ(僧正遍昭)の歌は既に触れていますのでスキップします。 あまの川雲のみをにてはやければひかりとどめず月ぞながるる よみ人しらず 882第882首は巻十七「雑歌上」に収録されています。「雑歌」は「ぞうか」と読みます。手許の辞書には、「和歌集の歌の部位の一つ。春・夏・秋・冬・恋以外のもの。また、以上のほか、賀・離別・羇旅・物名・哀傷などにも入らないもの。それを集めた部類」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。この歌、脚注の2項をつなぐと、歌意がそのまま解釈できますので、引用します。 <天の川は、雲が水脈であって、流れが速いので、 天の川に光を映しとどめることもなく、月は速く流れている>(資料1) おほぞらを照りゆく月しきよければ雲かくせどもひかりけなくに あま敬信 885この歌、詞書に、文徳天皇の時代に斎院交代の疑義が出されるという問題が発生しましたが、問題なしとのことで終焉したと言います。これを受けて詠まれた歌だそうです。 (大空に照り行く月は清いのでたとえ雲が月を隠しても月の光は消えないことよ。 斎院は清浄でいらしゃるので、暗い疑いがあっても、消え去ることはないのです) 白雲のたえずたなびく峰にだにすめばすみぬる世にこそありけれ これたかのみこ 945惟喬親王は文德天皇第一皇子です。母が紀氏であったために帝が東宮にと望まれたそうですが、藤原良房の勢力に勝てず、比叡山の麓小野の里に隠棲されることになります。(資料1)この歌は惟喬親王が詠まれた歌。 (白雲が絶えることなくたなびく峰のすぐ麓にでも、住んでみれば住める。 そんな時代の中で生きている我が身なのだ)この辺で一区切りにして、雲の姿に戻ります。=== 2022.12.26 === この日も、8時15分頃に撮った東方向の空。朝曇りの状態です。南の空 南西方向の空 西方向の空 ベランダから眺めたほぼ上空の雲 11時45分頃に眺めた東方向の空の雲の変化 東方向の上空の雲の姿。45度位の斜め上方向だったと思います。南西方向の空 西方向の空。少しズームアップで。もう一つの雲がたり。松尾芭蕉は他にも紀行文を残しています。手許にあるもう一冊の文庫本で調べてみました。こちらには、『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』が収録されています。(資料2)まず『野ざらし紀行』です。これは芭蕉自らが命名したタイトルではないそうです。のちの世の人々の間で一般通行の名称になったと説明されています。(資料2)この紀行文の発句が「野ざらしを心に風のしむ身哉」から始まりますので、後に通称される名称がここに由来するのでしょうか。「野ざらし」は脚注に「野に捨てられさらされて白骨となった髑髏(されこうべ)。行き倒れを意味する」(資料2)とあります。芭蕉は41歳の秋にこの旅に出ました。野垂れ死にするかもしれない覚悟での旅立ちだったのでしょう。 この紀行文には2カ所で「雲」が記されています。 関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。第二句の後に続く文です。箱根の関を越える日の状況が記されています。自然現象としての雲そのものを客観的に記録しています。もう一カ所は、二上山当麻寺に詣でた後、よし野に行くところでの記述です。 独(ひとり)よし野おくにたどり(て)けるに、まことに山ふかく、白雲峯に重り・・・ここも事実描写としての雲を記しています。『野ざらし紀行』は岩波文庫本で原文が13ページというものです。長年書架に眠らせていて、初めてそのボリュームを知るというていたらくです。だけど、ふと思いついた動機から、原文をまず通読だけでもする機会になりました。『鹿島詣』は原文7ページです。芭蕉44歳の時の月見がてらの鹿島行だったそうです。ここには「雲」は記述にでてきません。『笈の小文』は原文22ページの紀行文です。導入の文章中では、「造化にしたがひ、造化にかへれとなり」というフレーズが印象的です。そして、「旅人と我名よばれん初しぐれ」を発句として旅が始まります。愛知県の鳴海にとまる前のところで、 風雲の便りともおもひなして、・・・・ と、初めて「雲」が出てきます。己の旅を比喩的に表しているのでしょう。 京まではまだ半空(なかぞら)や雪の雲鳴海で、かつての飛鳥井雅章公の宿に芭蕉が泊めてもらえた時に詠んだ句に「雪の雲」が詠み込まれています。江戸から京まで、鳴海は中間地点というところですね。この紀行文に雲という字が現れるのは2カ所でした。『更科紀行』は原文5ページ。これもタイトルは芭蕉の命名かどうか不詳のようです。この短い紀行文の冒頭文後半に「雲」が出て来ます。 ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云脚注に「自然の風景を楽しもうとする気持をかきたてる者。すなわち風狂者」と説明があります。「越人」とは、蕉門十哲の一人、越智氏を指します。『更科紀行』の旅に同行した人。 雲路にたどる心地せらる脚注を参考にすると、木曾街道の名所の一つで、上松・福島間にある棧(かけ)はしや寝覚の床という語句で有名な寝覚を過ぎて、四十八曲と称される所について記す箇所にこの一節が記されています。「雲路」は「<鳥などが空を飛ぶ道・雲の行くえ>の意の雅語的表現」(『新明解国語辞典』三省堂)です。ここは比喩的に使っているのでしょう。 さらしなや三よさの月見雲もなし 越人脚注によれば、「三よさ」は、「8月15日・16日・17日の三夜」を意味するそうです。ここは雲そのものがないことを詠み込んでいます。月が煌々と輝いていたことでしょうね。『更科紀行』に「雲」の字が登場するのはこの3カ所でした。手許の文庫本には『嵯峨日記』が付いています。序でにこれもチェックしてみました。原文は15ページです。本文と句に「雲」という文字は使われていませんでした。奥の細道の大行脚を終えた芭蕉は、その後、郷里の伊賀上野に滞在し、その年近江の大津で年を越します。湖南の幻住庵にしばらく隠棲し俳諧活動の拠点としました。元禄4年(1691)4月18日から5月4日まで、京都・嵯峨にある落柿舎に滞在し、この日記を記しました。芭蕉48歳の時です。元禄4年9月には、江戸へ帰る旅に出ました。(資料2)さて、この辺りで「雲がたり」を一区切りにいたします。26日には、14時40分頃にも雲の写真を撮りました。 東方向の空南の空 南西方向の空 西方向の空 一日の中で、雲の姿は大きく変化し続けています。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2)『芭蕉紀行文集 付嵯峨日記』 中村俊定校注 岩波文庫補遺芭蕉総合年表 伊藤 洋:「芭蕉DB」野ざらし紀行 :ウィキペディア野ざらし紀行(序) :「芭蕉DB」松尾芭蕉自筆の「野ざらし紀行図巻」半世紀ぶり再発見 10月に京都で公開 :「美術展ナビ」鹿島詣 :「芭蕉DB」笈の小文(松尾芭蕉 主な紀行文) :「三重県」更科紀行 :「芭蕉DB」木曾海道 :ウィキペディア嵯峨日記(さがにっき) 芭蕉48歳 :「私の芭蕉紀行」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.06
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=== 2022.12.23 === 13時半頃に撮った南の空 東方向の空 西方向の空=== 2022.12.24 === 8時半頃に撮った南の空 南西方向の空 西方向の空 東方向の空 東方向の空 10時過ぎさて、雲がたりとして『古今和歌集』の歌の続きです。私的な歌意理解です。 雲井にもかよふ心のおくれねばわかると人に見ゆばかりなり ふかやぶ 378清原深養父のこの歌には、詞書が付されています。「あひしりて侍りける人の、あづまの方へまかりけるを、おくるとてよめる」親しくしていた友人が東国に赴任する際の送別の歌として詠んだ歌です。雲井は雲居と同義でしょう。雲居には、雲あるいは空という意味と併せて、第三義に「はるか遠く離れた所」という意味が古語辞典に出ています。 (はるか遠くへと旅だつあなたに取り残されないように、 私の心が一緒についこうとしているのが他の人には見えていることでしょう) 白雲のこなたかなたに立ちわかれ心をぬさとくだく旅かな よしみねのひでをか 379この歌に付された詞書は「友のあづまへまかりける時によめる」です。深養父の歌の続きに載っていますので、同じ人への送別歌と考えるのが素直でしょうね。脚注によると白雲は「立ち」の枕詞になるそうです。「ぬさ」にも「五色の絹を細かく切って袋に入れ、旅人は道の神の前で撒いて供えた」(資料1)と注に説明があります。 (東国と都、あなたは別れて旅だっていく。貴方が神に供えた幣の如く、 この別れの悲しみに私の心は千々に砕けてしまっています) 白雲のやへにかさなるをちにてもおもはむ人に心へだつな つらゆき 380連番として、紀貫之の詠んだ歌が続きます。「みちのくへまかりける人によみてつかはしける」と詞書にあります。別れに立ち会えないので、歌を認めてことづけたということでしょう。「をち」は「遠」で、「をもわむ人」は「君を思うであろう人」つまり貫之自身をさす表現だそうです。「心へだつな」は「心を隔てるな。忘れずに親しく思っていてくれ」(資料1)と脚注にあります。 (白雲が幾重にも重なるみちのくにという遠方へ遠方に行っても、 君を思っている私のことを、忘れずに親しく思っていてほしいものです)これら三首は多分同じ人物への離別歌なのでしょうね。第379首は良岑秀崇だそうです。そして、良岑秀崇の歌はこれ一首だけの採録だとか。(資料2) あしひきの山たちはなれ行く雲のやどりさだめぬ世にこそありけれ をののしげかげこの第430首は、巻十の「物名」(モノノナ・ブツメイ)に収録されています。「題である物の名前を隠して詠み込む歌。掛詞の技法を用いる。・・・隠喩とも呼ばれる」(資料1)とのことで、題と歌意は無関係でよいそうですが、「きわめて知的な題詠の一種である」(同上)とか。この歌の題は「たちばな」。この脚注を読んでから歌を読むと、巧妙に「たちはな」が「たちはなれ行く」の中に詠み込まれています。 (山に棚引いていた雲が、山から離れて行き漂っていく。 同様に、居場所を定めえない無常な世の中であることよ・・・) 郭公(ほととぎす)みねの雲にやまじりにしありとはきけど見るよしもなき 平あつゆきこの第447首も、上掲「物名」に収録されています。題「やまし」は脚注によれば、「花菅(はなすげ)と同じ、ゆり科の多年生草本。夏、淡紫色の小花が穂状にならぶ」(資料1)という植物だとか。 (ホトトギスはあの峰にかかる雲の中に紛れ込んでしまったのか。 ホトトギスの鳴く音が聞こえてはいるが、その姿を見る方法がなくて残念) あしひきの山べにをれば白雲のいかにせよとか晴るる時なき つらゆき 461これも題「よどがは」に対する詠歌です。ひとつ前の歌に「つらゆき」とありますので、この歌もつらゆきの作歌と思います。先歌にも使われている「あしひきの」は「山」「峰」などにかかる枕詞です。 (山辺に居たところ、峰にかかる白雲がてこでも動かず晴れ渡る時がなかった) 巻十一は「恋歌」になりますので、この辺でひと区切りに。雲の姿に戻ります。 東方向の空、11時半頃 南西方向の空 15時頃、南の空西方向の空 南西方向の空 東方向の空もう一つの雲がたり。松尾芭蕉は紀行文中最高の傑作と称される『おくのほそ道』を残しました。手許の岩波文庫によれば、原文はわずか49ページです。その後に「曾良随行日記」が併載されていますので、解説を含め219ページというボリュームの文庫本になっています(資料2)。『おくのほそ道』に全訳注がつくと、それだけで360ページ余の文庫本になります(資料3)。この2冊を参照して、芭蕉が『おくのほそ道』で「雲」に言及しているかを調べてみました。( )内の現代語訳は資料3からの引用です。「月日は百代の過客にして、・・・・」という有名な「冒頭」の書きだし文に続き、まず出て来ます。 予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、・・・・ (私もいつの年からか、ちぎれ雲が風に吹かれて大空を漂うのを見るにつけ、・・・)「尿前の関」の「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」の句の後の文に、 雲端につちふる心地して (「雲の端から土砂まじりの風が吹きおろして来る」と詠んだ杜甫の詩句 そのままという気がして)「羽黒」の後半には、3カ所にでてきます。3カ所は本文、1カ所は句中です。 雲霧山気の中に氷雪を踏んでのぼる事八里 (雲や霧のたちこめる山気の中を万年雪を踏んで登ること八里) 更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ (さながら太陽や月の運行する雲間の関所に踏み入るのではないかと疑われるほど) 日出て雲消ゆれば湯殿に下る (朝日が出て雲が消え去ったので、湯殿山に下って行った) 雲の峰幾つ崩れて月の山 (夏空に幾つも入道雲が立っていたが、あの雲がいったい幾つ崩れ、幾つ築き 上げたのが、月光のもとに白く神々しくそびえるこの月山なのであろうか)原文を通読して「雲」という字を見つけたのはこの6カ所です。尚、寺名として「雲岩寺」、僧名として「法雲法師」が出て来ますが対象から除きます。「須賀川」には、「空曇りて物影うつらず」という記述があります。芭蕉は「雲」そのものをさほど意識していなかったように感じました。徒歩の旅では雲よりも雨が降るかどうかの方が気がかりだったことでしょう。余談ですが、雨そのものは「飯塚」「笠嶋」「末の松山」に記述があります。この辺で一区切りとします。 16時半前、南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空留まることなく移りゆく雲、一日の時刻の変化につれて、様々な姿形、表情を見せてくれます。おもしろいものです。つづく参照資料1)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 良岑秀崇 :「Milord Club ミロール倶楽部」3)『おくのほそ道 附 曾良随行日記』 杉浦正一郎校註 岩波文庫4)『おくのほそ道 全訳注』 久富哲雄 講談社学術文庫 補遺奥の細道 伊藤 洋:「芭蕉DB」江東区芭蕉記念館 ホームページ俳聖 松尾芭蕉翁 ホームページ河合曾良 :ウィキペディア曾良 伊藤 洋:「芭蕉DB」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらの一覧表から関連記事をご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.01.04
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2022.11.20今年は「卯」年。冒頭のウサギは地元の宇治神社の手水舍で撮りました。「スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社」 2017.1.10の再録ですが、ご紹介しています。 2022.11.20宇治神社と世界遺産に登録されている宇治上神社は、上社・下社として一体のような神社でしたので、勿論ともにウサギは神の使いですので、それぞれの神社のお守りはウサギに因んだ形のものが使われています。卯年に限りません。ずっとです。 2019.8.13もう一箇所、京都市左京区にある岡﨑神社もウサギと縁がある神社です。この画像は以前に撮って、ブログでご紹介したものです。 「探訪 京都・左京 丸太町通を東に -3 岡崎神社 (1) 境内社と本殿まわり」「探訪 京都・左京 丸太町通を東に -4 岡崎神社 (2) 子授けうさぎ像・雨神社・能舞台ほか」 2019.8.17に探訪記でご紹介しています。ウサギに縁のある神社のご紹介です。<失敗譚>もう一つのブログ「遊心逍遙記」(gooブログ)で、昨年のクリスマスの頃、私の手続きミスでトラブル発生。ログインが出来なくなり、新規に「遊心逍遙記その2」を開設する羽目になりました。自分のブログ記事へのアクセスの便宜のために、記事へのリンク一覧を作成することで想定外の時間をこの年末年始に費やしていました。その結果が上掲のご紹介に留まりました。除夜の鐘の後に、近くの神社へ初詣に行っただけ。コロナ禍でもあり、まあイイカ・・・・・。初詣代わりに過去ログを見直しました。今年も拙ブログ記事にお付き合いいただければ幸いです。
2023.01.03
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