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『源氏物語』の「御法」で、紫の上が法華経千部供養の法会を主催された折、「花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり」と述べています。 <花散里と申しあげたお方や明石の君などもお出向きになる> (資料1)つまり、花散里の御方や明石の君などもこの法会に列席します。余談ですが、本文について、手元の書の頭注を読んで気づいたこと!花散里御方、明石とあり、明石は呼び捨ての記述です。ここには花散里と明石との身分差を表す意図が潜んでいるとあります。身分差という障壁がきっちりと書き込まれているのです。そこまで考えずにこの本文を転記していました。ウ~~ン・・・・・。確認してみますと、花散里は、源氏の父である桐壺院の女御であった姉(麗景殿女御)の妹です。明石は、明石の入道の娘。近衛中将の官を捨てて国守の播磨守となり、後に出家してそのまま明石の浦に住みついた明石の入道の一人娘です。いわゆる受領階層の娘ということになります。「北の廂に、方々の御局どもは、障子ばかりを隔てつつしたり」 <御方々のお席は、寝殿の北廂に、襖だけを仕切り仕切りしてしつらえてある>(資料1)冒頭の様子がその描写の具現化です。ここでは、北廂の東西方向が襖障子や屏風、几帳を仕切りに使い、東側に花散里の御方、西側に明石の君の御局が設定されています。そして、冒頭の場面は、西側の明石の君の御局が具現化展示されています。 西廂を北側から眺めた情景塗籠を自らの席とされる紫の上に仕える女房たちが西廂に居並ぶ後姿です。北廂とは襖障子で仕切られています。 北廂の奥(南)側は床面が一段高くなっています。ここは西廂に近い西端です。手前(北)側には、明石の君が準備された「捧物」が唐櫃に納めて置かれているようです。 奥(南)側には、二階厨子が並べて置かれ、ここにも様々な捧物が置かれている様子。 旧暦の3月10日、明石の御方が御簾越しに匂宮(5歳)と対面しているのでしょう。(資料2)(女性が畳の上に座っていることから、明石の御方と推測しました。参照の掲示パネルにはこの点の明記はありません)「このころとなりては、何ごとにつけても心細くのみ思し知る。明石の御方に、三の宮して聞こえたまへる」 <(紫の上は)このごろともなると、どんなことにつけても余命を心細くばかり身にしみてお感じになる。そのお気持ちを明石の御方に、三の宮をお使者としてお申し上げになる> (資料1)三の宮は帝の第三皇子、匂宮です。匂宮の母は明石の中宮ですので、紫の上のお使いという形で祖母である明石の御方に、紫の上の歌を届けるのです。 北廂の御簾の向こうには畳が置かれ、手前の匂宮は茵(シトネ、褥)に座っています。 御簾を介して紫の上の文を渡す匂宮紫の上は、死期の近いことを予感し、明石の御方に歌を贈ります。 惜しからぬこの身ながらもかぎりとて 薪尽きなんことの悲しさ 紫の上 瀬戸内寂聴さんは、こんなふうに訳されています。(資料3) もはや惜しくもない この身だけれど ついにこれを最後と 薪が燃え尽きるように 死んで往くのが悲しくて 明石の御方明石の御方は、紫の上の贈歌を拝見して、返歌を認めます。「御返り、心細き筋は後の聞こえも心おくれたるわざにや、そこはかとなくぞあめる」 <ご返事は、こちらからも心細い筋合いのことを申しあげるのでは、心づかいが足りないと後々に取り沙汰されようかと、当りさわりなくお詠みになったようである> (資料1) 薪こる思ひは今日をはじめにて この世にねがふ法ぞはるけき 明石の御方 寂聴訳 千年も薪こり菜つみ水汲み 法華経奉仕をなさるのは 今日の御法会がそのはじめ はるかな御寿命の涯までも 法の道を成就なさる遠い道のり (資料3)この後の『源氏物語』の本文は、よもすがらから朝ぼらけにかけての法会の状況を語り、最初にご紹介した「陵王の舞」の場面に転じていきます。 明石の御方の袖口に見る色目のかさね 北側から北廂の明石の御方と控える女房たちを眺めた情景 こちらは花散里の御方の御局です。襖障子を仕切りにして、屏風や几帳を立てて、御局が設けられています。 花散里の御方の背後に置かれた屏風と高灯台「事はてて、おのがじし帰りたまひなんとするも、遠き別れめきて惜しまる」 <御方々は、法会が終わってめいめいに帰ろうとなさるが、それにつけても紫の上は、これが永遠の別れのようで、名残惜しく思わずにはいらっしゃれない> (資料1)紫の上は、花散里の御方に、歌をお贈りになります。 絶えぬべきみのりながらぞ頼まるる 世々にと結ぶ中の契りを 紫の上 (資料1) 寂聴訳 やがて命の絶えるわたしの 営む最後の法会こそ その功徳によって結ばれる あなたとの永久の御縁の その頼もしさよ (資料3) 花散里の御方 それに対して、花散里の御方は、ご返事として歌を詠みます。 結びおく契りは絶えじおほかたの 残りすくなきみのりなりとも 花散里の御方 寂聴訳 あなたと結ばれた御縁の 絶えることがあるものですか もはや余命少ないわたしは どんな法会でも有り難いのに こんな盛大な法会に結ばれて (資料3) 几帳の部分図 几帳は移動可能で空間を隔てる便利な室内建具の1つです。土居と称する木製の四角の台に、足と呼ぶ丸柱が二本立てられ、上部に手と呼ぶ横木が渡されています。その横木に帳(トバリ)が垂らされます。野筋と呼ぶ長い紐が裏で折り返されて、表に二条になって垂れ下がります。この場の女房は几帳の裏側に座していることになります。几帳は、幅を縫い合わせる時に、中ほどを少しずつあけておき、意図的に几帳の「ほころび」を作っておくそうです。そのほころびが「かいま見」に利用されるとか。女性が男性と対面する場合、多くは几帳を隔てとしたそうです。また、几帳は衣類を掛けることにも利用されました。(参照資料) 左端の几帳は、野筋が左側に垂れ下がっているのがわかります。つまり、この几帳は、襖障子の側に表を向けて置かれています。東廂と北廂の間の襖障子が開けられた場合、几帳の表が東廂に向けられているわけです。 襖障子紫の上と花散里との贈答歌のやり取りが記された後、この法会の催しが次の文で締めくくられます。「やがて、このついでに、不断の読経、懺法など、たゆみなく尊きことどもをせさせたまふ。御修法は、ことなる験もみえでほど経ぬれば、例のことになりて、うちはへさるべき所どころ寺々にてぞさせたまひける」 <この法会に引き続いて、そのまま不断の読経や懺法など、あれこれの尊い仏事を怠りなくおさせになる。御修法(ミズホウ)は、格別の効験も現れぬまま月日が経っているので、これが日常のようになり、しかるべき所どころ、寺々で引き続いておさせになるのであった> (資料1)御修法というのは、病気平癒の祈祷。いわば一般的な祈祷です。格別な効験がでないけれど引き続き寺々等で行ってもらっていると言うことを、きっちりと紫式部が書いています。現実を冷徹に観察した事実・体験を記述し反映させているところはさすがだと感じます。権威にこびることなく、実にシニカルでもあります。一点だけ補足しておきたいと思います。紫の上は、寝殿の塗籠を自身の座とします。この二条院としての見立てでは、寝殿の西の塗籠に相当する場所を見立てに使っているだけのようです。手元の本によりますと、塗籠は、「母屋の東西どちらかや廂などに設けられる、壁で囲まれた閉鎖的空間をいい、二間四方になる場合が多い。出入口は妻戸になるが、その位置は様々で、明かり取りがあるとの説がある」(参照資料より) また、「母屋や廂などに設けられた部屋。周囲を壁にして塗り込め、妻戸をつけて出入口とする。大きさは一定しない。おもに納戸として使用された」(資料4)と説明されています。この六条院春の御殿の寝殿では、塗籠の壁で囲まれた箇所の壁自体が省略されているように見えます。その位置は寝殿の全体から判断できます。この展示では、座とした場所の位置を見立てて具現化されていると考えるのが適切なのだろうと思いました。紫の上が主催した法華経千部供養の法会場面をこれで終わります。今回の企画のもう一つのハイライト「産養(ウブヤシナイ)」の場面に移りましょう。つづく参照資料*『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作画 小学館1.『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館 p495~4992.当日いただいた小冊子「令和6年2月~ 展示」号と会場に掲示の説明パネル3.『源氏物語 巻七』 瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 p2574.『源氏物語必携事典』 秋山虔・室伏信助 編 角川書店 補遺風俗博物館 ホームページ七僧 :「コトバンク」散華 :「飛不動 龍光山正寶院」塗籠 建築用語辞書 :「東建コーポレーション」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.05
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法華経千部供養の法会のために、母屋に安置された普賢菩薩像普賢菩薩は合掌し白象の背上の蓮華座に結跏趺坐する姿で、平安時代以降に制作された作例が多いそうです。(資料1) 普賢菩薩は仏の理性を示す菩薩で、諸菩薩の上位とされています。慈悲をつかさどり、堅固な菩提心を持ち、女人往生を説いたため、極楽往生を願う女性たちの篤い信仰を受けました。(資料1)寝殿の北側に回ります。 女房たちは表着の上に付ける裳を背後に広々と広げて北廂に居並んでいます。 さらに後ろ(東)の方にも居並んでいます。 北側から北廂とその先の塗籠辺りを眺めますと、 左(東)にも女房が控え、 法華経千部供養の主催者・紫の上が塗籠を法会におけるご自身の座としています。『源氏物語』の「御法」には、「南東の戸を開けておはします。寝殿の西の塗籠なりけり」 <紫の上は、南と東側の戸を開けてご自分のお席にしていらっしゃる。そこは寝殿の西の塗籠なのであった> と記されています。 (資料1) 紫の上右手には数珠が握られています。 傍近くに置かれた調度品奥側から、唐櫛笥(カラクシゲ)、鏡箱、鏡台、泔坏(ユスルツキ)、火取(ヒトリ)ここで、法華経千部供養として行われた法華八講の3日目、五巻の日に行われる行事「薪(タキギ)の行道(ギョウドウ)」の様子を眺めましょう。この行事は寝殿内の母屋と廂を使って具現化されていますので、部分的にしかみることができません。 行道の眺め 寝殿の南西側から 行道の眺め 寝殿の南側から 法華経第五巻・提婆逹多品(ダイバダッタホン)に、釈尊が前世で薪を拾い、水を汲んで仙人に仕えて妙法を得たという話が載っています。”この段を唱する時は薪と水桶を背負った六位の蔵人と七僧が「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水くみ仕へてぞ得し」(行基作)と歌いながら本尊の周りを右廻りに歩き廻る”という「薪の行道」が行われます。(資料2)「今回の展示では、七僧、薪や水桶持ちの六位の蔵人に加え、殿上人が高位の方々の捧物(ホウモチ)を手に行道し、上達部がこれに続いて行道する姿を展示」してあります。」上掲は行道の行事に加わる上達部たちの具現化です。冒頭の普賢菩薩坐像の背景に薪あるいは水桶を前後に棒に吊して歩む蔵人の姿が垣間見えます。 行道する七僧の姿 寝殿の南東側から 透渡殿の東からの眺め 行道する僧の姿 南東側の庭から 東廂を行道する七僧の姿 東側の庭から「御法」には、次の文が記されています。「七僧の法服など品々賜す。物の色、縫目よりはじめて、きよらかなること限りなし。おほかた、何ごとも、いといかめしきわざどもをせられたり。」<七僧の法服などをそれぞれの身分に応じてお与えになる。それらの色合い、仕立て方をはじめとして善美を尽くされる。すべて何もかも、まことにおごそかで立派な法会を営まれた>と。 (資料1)さらに、その続きに、この法会について、紫の上は源氏に詳しいことを語らず、それ故源氏も立ち入った助言をしていなかったにも関わらず、儀式作法にかなっていたので、源氏が感心されたということが述べられていきます。 寝殿内の見えにくい箇所が具現化された様子は、「薪の行道」説明パネルが掲示されています。他にも説明パネルが備えてあります。 寝殿の南東側の透渡殿(スキワタドノ)にも、法会に列席した殿上人が座っています。 庭には童が待機しています。 南東隅に馬も待機しています。 寝殿の南西隅、東廂の南端に展示された十二単この辺りで一区切りとします。つづく参照資料*『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作画 小学館1.『仏尊の事典』 関根俊一 編 エソテリカ事典シリーズ1 学研 p78-792.『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館 p495~499補遺法華八講 :「コトバンク」仏に関する基礎知識:普賢菩薩 :「高野山霊宝館」普賢菩薩 :ウィキペディア成仏は法華経にあり 提婆達多品 ”ざっくり納得 法華経のすべて” :「日蓮宗」法華経 提婆達多品 法華経の現代語訳 :「カクヨム」法華経 普賢菩薩勧発品 法華経の現代語訳 :「カクヨム」「優曇華」とはどんな花? 滅多に見られない貴重な花です :「1からわかる親鸞聖人と浄土真宗」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -1 法華経千部供養(1) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へ
2024.06.04
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今年もグルーン・カーテンがほぼできて、今朝オーシャンブルーの初花が開花!!第1号です。 グリーン・カーテンは少し前にほぼ出来上がっていました。 花をズームアップすると、葉裏に昆虫がくっついています。アリでしょうか? 早くも葉は食い荒らされてきています。下の方がかなり荒らされていて、 上の方は今のところ大丈夫のようです。でも、時間の問題かも・・・・・。 グリーン・カーテンの傍に置かれたプランターには、ユリが咲いています。 少し前から咲いていましたが、いつからだったか・・・・意識していませんでした。 小さな庭の西端、ブロック塀の傍で、ガクアジサイが咲いているのに気づきました。 ガクアジサイの根本を見ると、赤色で小ぶりののガクアジサイが咲いています。 玄関口の東側にこの花が開いています。家人に尋ねると、ムラサキツユクサだとか。 西側の窓の下の棚には、このベビーサンローズの花(たぶん・・・・・)が開いています。これは家人に今朝言われて、知りました。ネット検索して知った花名です。別名がアプテニアだそうです。オーシャンブルーの花、第1号をきっかけに、小さな庭を眺めると咲く花が入れ替わっています。小さな庭に咲く花記録がまた1ページ増えました。補遺ガクアジサイ :「四季の山野草」ムラサキツユクサ :「みんなの趣味の園芸」ベビーサンローズ :「花と緑の図鑑-Garden Vision」アプテニア(ベビーサンローズ)の育て方 :「植物ノート」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.06.03
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先月末(5/29)に、今年の2月から始まっている展示を鑑賞する目的で風俗博物館に行って来ました。堀川通をはさみ、西本願寺の前(東側)、龍谷ミュージアムの北にあります。展示フロアーはビルの5階。会場に入ると眼前にこの景色が広がっています。 入場券半券 1/4の縮尺で再現された六条院春の御殿の寝殿が、今回の企画展示では、紫の上の私邸・二条院に見立てられ、紫の上(43歳)主催で法華経千部供養が執り行われる場面が具現化されています。『源氏物語』「御法」に描かれた場面です。正面の階の右側の母屋に普賢菩薩像が安置され、法華八講の法会が行われている場面です。 塗籠手前の南廂に源氏(51歳)が着座しています。サブ・タイトルは、~仏の御教えの結縁・准太上天皇の正妻格として後援された紫の上の法要と惜別~ です。「年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける法華経千部、急ぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける」 <紫の上は、これまで長い間、内々の御発願としてお書かせ申していらっしゃった法華経千部を、急いでご供養になる。ご自分の私邸のようにしていらっしゃる二条院でお催しになるのだった>(資料1)と、『源氏物語』の「御法」に述べられています。この法華八講は紫の上個人の発願として行われました。「三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなどもうららかにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま遠からず思ひやられて、ことなる深き心もなき人さへ罪を失ひつべし」3月10日(旧暦)に法華経千部供養が執り行われました。この時の法会の様子が書き込まれています。<仏がおわしますと聞く西方浄土の有様もそう変わりはあるまいと想像されて、特に信心の深い人ではなくても罪障が消滅するというものであろう>と語る人の思いが記されています。(資料1)「法華経千部は1日1部を35人で作成して完成に3年を要する」(資料2)という準備がまず必要です。”この法華経千部供養は法華八講(法華経八巻を4日間で講説する)の形で行われており、3日目の第五巻提婆逹多品を講ずる日は「五巻の日」とも称されて最も盛大になり、夜に入って「薪(タキギ)の行道(ギョウドウ)」が行われた。”(資料2)と言います。法華経八巻が八座に分けられ、一日に朝座と夕座の2回で4日間の法会となります。”参会する人々に饗膳が振る舞われた後、講座の開始を知らせる鐘が鳴らされ、法会を行う僧達が参入する。一同が堂に入り、講師が高座に登ると、声明が唱えられて散華が行われる。初日の最初の講座で願文が読み上げられ、その後、講説(経典について講釈すること)、論議(教義上の質問に問答すること)、誦経(経文を暗誦する)、行香(焼香の香を配る)という流れで進行していく。”(資料2)というものだそうです。それでは、法華経千部供養の場面を眺めていきましょう。 龍頭の船 鷁首の船 寝殿前庭にある池には、龍頭と鷁首の二種の船がうかべられています。 簀子に坐るのは右大将の夕霧です。 鉦鼓 階に向かって左側の楽人たち 釣太鼓 階に向かって右側の楽人たち 供養の法会に列席する源氏と夕霧ほか 階前の両側には、器に盛った散華のための花を捧げ持つ童たちが並んでいます。 階の傍に立てられた裂幡(キレバン)「夜もすがら、尊きことにうちあはせたる鼓の声絶えずおもしろし」 (資料1) <夜もすがら、尊い読経の声に合わせて打ち鳴らす鼓の音が絶えず聞えて興をつないでいた> ほのぼのと夜が明けてゆく朝ぼらけの中で、陵王の舞が始まり、「陵王の舞ひて急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに」 <陵王を舞って急の調べになるときの終り近い楽の音が、はなやかにまたにぎやかに聞こえてくると>(資料1)と記されるシーンです。舞は陵王、曲は蘭陵王と言われ、唐楽左方走舞の名作中の名作だそうです。中国・北斉(549~577)の蘭陵の王・長恭は、戦場での士気を鼓舞するために恐ろしい面をつけて戦い大勝利を得ました。この時喜んだ部下達が陵王の舞を作ったと言います。(資料2) 別の舞人が控えています。こちらは「落蹲(ラクソン)(納蘇利ナソリ)」を舞う舞人。二人舞の時には納蘇利と称するそうです。蘭陵王と番舞(ツガイマイ)になり、高麗楽右方走舞の代表曲。(資料2)この法会を記述する最初の方に、「楽人、舞人などのことは、大将の君、とりわきて仕うまつりたまふ」 <楽人や舞人のなどのことは、大将の君(=夕霧、右大将)が、特にご奉仕になる>と記されています。(資料1) 鴨居には華鬘が掛けてあります。「薪の行道」 行事を行う殿上人の姿が見えます。 普賢菩薩像の前には、護摩壇の上に法具が整然と並べてあります。その左右前方の赤色の大床子の上に並べた巻物は書写された法華経の一部です。護摩壇の手前の机には、法華経の経巻を開けて載せてあります。それでは、見られる範囲で寝殿内の様子も眺めます。つづく参照資料*『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦 編 須貝稔 作画 小学館1.『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館 p495~4992. 当日いただいた展示解説パンフレット 令和6年2月~ 展示号補遺法華八講 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」法華八講 :「コトバンク」華鬘 :ウィキペディア舞楽 ”陵王” YouTube雅楽GAGAKU 「蘭陵王」公演-平安雅楽会 YouYube舞楽”納蘇利” Bugaku "Nasori" YouTube舞楽「納曽利」Bugaku “Nasori” , Gagaku YouTube雅楽とは :「日本雅楽會」舞楽 :「文化デジタルライブラリー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -2 法華経千部供養(2) へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -3 法華経千部供養(3) へ 観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -4 産養(ウブヤシナイ)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -5 かさね色目に見る美意識 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -6 遊びと日常 & 竹取物語 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2024年2月~ の展示 -7 等身大の装束展示ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」 7回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介 2014年探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介 2016年
2024.06.02
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「本願寺伝道院」北側面には、正面通に面して、道路沿いに石柱が立ち並び、その間を鎖と錠でつないであります。敷地境界を明示しています。錠がありますので、このスペースは自転車等の駐車スペースに利用されるのかもしれません。興味深いのは、石柱上面に鎮座する石像群です。 No.1 No.2 No.3 振り返った景色翼のような形が彫り込まれていますので、鳥をイメージしているのでしょうか。縦方向に少し押しつぶしたような感じの造形です。 No.4象をイメージさせる石像。しかし、胴体の後部の翼のような部分が不可思議。 No.5鼻は象の鼻のようですが、脚部は上掲の象様石像とは異なります。スフィンクスの脚の感じを連想します。さらに、こちらも翼が付いているようにも見え・・・。 No.1~No.3と同類型の石像に見えます。 No.6 振り返った景色 No.7これはNo.4と同類型のようです。 No.8 No.9 No.1~No.3と同じ類型のようです。 No.10これは上掲諸像とは異なり、獅子に近い感じです。 No.11正面通に面した境界石柱の西端です。No.10と同類型のように見えます。 No.12 油小路通に面した境界石柱の北端です。これはNo.5と同類型のようです。 No.13No.10と同じ類型に思えます。 No.14No.1~No.3の類型につながる感じ。 これは、No.4と同類型に思えます。 No.15 No.16こちらは、No.5の類型につながるようです。 No.17再び、No.1~No.3と同類型が鎮座しています。 No.18最後はNo.10と同類型です。これらの石像群のイメージのソースは何処にあるのでしょう・・・・・。西欧のロマネスクの怪物図像やイスラム美術の図像とも結びつきそうにありません。獅子様のイメージは、スリランカの獅子像や日本の寺の木鼻に彫刻された獅子像が比較的ソースとして繋がるように感じます。(資料1)鳥様並びに象様の石像たちのソースに関連する資料もまた不詳です。不可思議です。そこがおもしろいところかもしれません。 本願寺伝道院前から正面通の西方向を眺めますと、今も昔ながらの商家の町並みが保たれています。堀川通の手前、東側に西本願寺の総門が正面通に向かって建っています。これは、昭和34年(1959)に交通量増加に対応するための堀川通りの拡張計画が立てられたときに、その要請に対応して、東側歩道傍に総門が移転されたのです。総門はこれが3度目の移転になるとか。(資料2)その先に見えるのは御影堂門です。余談ですが、かつて豊臣秀吉の時代には、御影堂門・総門を西端として、正面通は東山の方広寺まで、方広寺大仏殿の正面の通りとして一直線に延びていていたそうです。正面通は現状、途中で分断されています。現在は東山の豊国神社正面の石段と大きな石鳥居のところが東端となる形で通り名は残っています。西本願寺の背後から先も、正面通は千本通まで通り名が続いています。(資料3)少しマニアックなご紹介でしたが、これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 獅子図 :「Toshi's Homepage "ジャワ探求-南の国の歴史と文化”ほか」2. 境内と建造物 :「お西さん」3. 正面通 :ウィキペディア補遺スフィンクス :ウィキペディアイスラム美術 :ウィキペディアイスラム文化の建築や装飾、様式の特徴を画像で解説【中世の様式②】 :「インテリアのナンたるか」ロマネスク :ウィキペディアエミール・マールと巡るロマネスク美術8 世俗的図像と怪物的図像:「ロマネスクの宇宙」怪物 :「唐草図鑑」幻想的な動物、鳥獣文、植物文、唐草文、組紐文・・・ロマネスク美術館へようこそ! :「4trvel.jp」バンブローナからプエンテ・ラ・レイナへ :「石の表情-ロマネスク紀行-」マンティコア :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -25 レトロな銅像(二宮金次郎像)& レトロな建物(伝道院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2024.06.01
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2つのミュージアムへの往路は、普段と少し異なる道を歩きました。JR京都駅の正面を出た後、塩小路通~七条通~西洞院通とジグザクに北に歩み、正面通との交差点で左折して、正面通を西に進みました。この時、北側の建物を全く意識せずに歩いていたのです。一筋西、東中筋通との辻の北東角、真新しい屏が鍵型に凹んだ区画に、 今では、長い歴史のある小学校などで、時折みかける二宮尊徳の少年時代の像! なつかしい像を目に止めました。背後の建物が何か、全く考えもしませんでした。塀が高いので無視。 台座の正面に銘板が嵌め込んであります。「植柳小学校の碑」と題字。そういえば、この辺りに学校があったな・・・・。銘文には次のようなことが記されています。*明治政府による明治5年の学制発布より早く、明治2年9月16日に、下京第19番組小学校として、町衆により山川町に開設された。*明治7年(1874)9月、児童数急増により柳町の現在地に移転。教室は本願寺から伏見城の遺構・関雅殿の寄贈を受けた。校名を植柳小学校に改称。植松町と柳町の町名に由来。*当時の小学校は、原則地元負担による運営。寄付金、分担金、本願寺の援助金など。*平成22年(2010)3月31日、閉校。140年の歴史。児童数減少による。 下京渉成小学校に統合*二宮金次郎像は、小学校の正門の横に設置されていた。帰宅後に調べてみますと、正面通の北側、東中筋通と西洞院通の間の区画に位置した小学校の敷地が、デュシタニ京都という名のホテルに建て替わっていました。2023年9月にオープン。京都市内も少しずつ変貌している!! 観光都市化が進展しているよう・・・・。 辻を横断し西に入ると、このレトロな建物が見えます。レンガ造りの建物。一筋西が油小路通で、油小路通と正面通との辻の南東角がこの建物の入口になっています。建物の東と北側面を東から眺めていく形になります。 建物の東面に六角形の尖塔風の箇所がまず目にとまります。例えば、スリランカのジャミ・ウル・アルファー・モスクの建物の一部、あるいはドイツのドレスデン城の塔の一部などを連想します。(資料1,2)各面にステンドガラスが嵌め込まれた窓が設けてあるように見えます。西欧の教会の窓にイメージがリンクします。 イスラム圏のモスクに見られる球形状の屋根-例えばマレーシアのプトラ・モスクの屋根の一部-の異国情緒と方形層塔のイメージを組合わせたような意匠です。装飾的要素をかなり組み入れている感じ。 反りの急な切妻造の屋根の側面を切り取って組み合わせた印象を受けます。合掌部の拝(オガミ)には、三ツ花懸魚が設けてあります。 北側面に設けられた窓の周囲は石材が装飾的に組み込まれているようです。デザインは比較的シンプル。スッキリしています。壁面上部に石材が横縞状に使われていて連続性を感じます。 正面通に面して、道路との境に石柱を建てて、鎖でつなぎ、敷地境界が明示されています。石柱の上面に石像が乗っていて、おもしろいアクセントになっています。後で細見します。 辻の南東角に設けられた入口。レンガ造りの建物に併せて扉は金属製で質実剛健という感じ。 扉の上のアーチ状に組み合わせた石材の部分を眺めますと、ここにも懸魚の意匠が取り入れられています。 入口前は石段が設けてあり、石段の両側先端には、ここにも奇妙な獣の彫像が石柱上面に鎮座しています。若干、阿吽形像の印象を抱きます。狛犬像的機能を兼ねているのでしょうか。魔除け封じ・・・・。 油小路通に面した建物の西側面。デザインとしては同じ形がこちら側にも連続しています。 道路に面した境界表示のスタイルも同じです。 敷地の南西側には、通用門でしょうか、門が設けてあります。門扉の上部はアーチ状の意匠が取り入れられて、粗いメッシュ状の金属柵で防備してあります。侵入防止策としては当然でしょう。 門扉の前面通路の両側、油小路通に面する境界に、ここにも彫刻像の付いた石柱が建てられています。手前は象だと識別できますが、南側の獣は何でしょう・・・・不明です。 重要文化財の指定を受けた建物で、現在は「本願寺伝道院」として、浄土真宗本願寺派僧侶の布教・研修の道場として使用されているそうです。 (案内文より)文化財としての指定名称は「旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)」この名称で、どのような目的を持った建物であったかが分かります。この建物は、明治45年(1912)に東京帝国大学教授伊東忠太の設計、竹中工務店の施工により建築されました。諸建物が併設されていたのですが、現在はこの「本館」のみが残っているとのこと。「伊東忠太の提唱した『建築進化論』(石材や鉄に依存しつつも欧化でも和洋折衷でもなく、日本建築の木造伝統を進化させること)を明確に表現した建物で、外観は古典様式に基づくものの、開口部まわりや軒まわり、塔屋の形態などにサラセン様式、日本の伝統的な様式が用いられています」(案内文一部転記)それでは、改めて、境界石柱上の奇妙な獣たちを眺めてみましょう。つづく参照資料1. モスク :ウィキペディア2. 【2023年最新】ドイツの古都ドレスデンのおすすめ観光地10選!定番や穴場を厳選 :「NEWT」補遺観照 諸物細見 一覧表伊東忠太 :ウィキペディア伊東忠太 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」伊東忠太の建築一覧 日本建築めぐり :「建築パース.com」伊東忠太とインド建築 神谷武夫サラセン :「コトバンク」ドイツの城口コミランキング :「4travel.jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2024.05.31
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昨日(5/29)、西本願寺前にある龍谷ミュージアムに出かけてきました。その北にある風俗博物館の展示を鑑賞することとの併せて・・・・。まずはこちらのご紹介。 これはこの春季特別展のPRチラシの表紙です。特別展タイトルの「太陽神と弥勒信仰」には、「バーミャン大仏の」という修飾句が付いています。さらに、そのバーミャンに「文明の十字路」という冠語句が付いています。バーミャンはかつてユーラシア各地の文化が行き交う場所として要衝の地だったのです。サブタイトルとして「ガンダーラから日本へ」がつづきます。 バーミャン大磨崖の石窟のほぼ全景がミュージアム前の大型PRパネルに使われています。残念なことに、巨大な東西のバーミャン大仏は2001年に破壊されてしまいました。このバーミャン大磨崖の石窟群周辺をドローンを使って撮影した10分ほどの映像プレゼンターションを3階のミュージアムシアターで見ることができました。両大仏が完全に破壊され空洞である景色を眺めることは哀しい・・・。 こちらはPRチラシの裏面です。後ほど部分引用します。 入場券この特別展は、 第1章 バーミャン遺跡と東大仏の太陽神 第2章 西大仏の兜率天と弥勒 第3章 アジアに広がる弥勒信仰 第4章 弥勒信仰、日本への4章構成で展示されています。第1章の入口近くには、「玄奘三蔵坐像」(奈良・薬師寺蔵)が置かれています。「大唐西域記」巻第一(龍谷大学図書館蔵)が展示されています。玄奘三蔵は630年頃にバーミャンを訪れたそうです。この第1章と第2章には、バーミャン遺跡を調査した研究者達の記録・研究資料と、壁画の描き起こし図が展示されています。東大仏龕天井壁画は、ゾロアスター教の太陽神・ミスラの姿が、6世紀後半に描かれたと考えられているそうです。この描き起こし図が展示されています。併せて、太陽神やその周囲の神々が当時流通した金貨・銀貨に造形されていることが、各種の展示貨幣(平山郁夫シルクロード美術館蔵)からわかります。 PRチラシより ガンダーラの2~3世紀の「スーリャ柱頭」(平山郁夫シルクロード美術館蔵)も展示されています。スーリャ柱頭とは「ストゥーパの表面に装飾的に設けられた、付け柱の柱頭として制作された部材と考えられる」というもの。ここには4頭立ての馬車に乗り、正面を向き、右手を上げて2本の指を立て、左手に槍を握る太陽神が彫刻されています。(図録より) PRチラシに載せられたこの図は、「バーミャン西大仏龕壁画描き起こし図」(宮治昭監修・正垣雅子筆、龍谷ミュージアム蔵)の部分図で、空を舞う飛天たちが、三人一組で大仏に向かって散華供養する場面の一部分です。西大仏の石窟内の天井には、弥勒菩薩と兜率天の様子が描かれていたとバーミャンの石窟壁画研究の結果から推定されています。西大仏は下生の弥勒大仏と推定されています。壁画そのものは6世紀末~7世紀初頭に描かれたものですが、弥勒菩薩像そのものは20世紀初頭の段階で殆ど剥落していたと言います。弥勒信仰は2~3世紀頃に、ガンダーラ地域で盛んになっていたそうです。 これは当日購入した図録の表紙です。ガンダーラで2~3世紀に制作された「弥勒菩薩交脚像」(平山郁夫シルクロード美術館蔵)です。ガンダーラの弥勒は菩薩形で表現されています。兜率天上の弥勒菩薩です。兜率天上の弥勒菩薩像が数点展示されています。弥勒信仰の源になる経典群が展示されています。バーミャンを含む中央アジアに弥勒信仰が伝播しますと、この地で、弥勒の上生(ジョウショウ)信仰と下生(ゲショウ)信仰と呼ばれる独自の信仰形態が生み出されてきたと言います。そして、これが東アジアに伝播していきます。 これは図録の裏表紙です。 中国・東魏、544年作の「菩薩半跏思惟像」(台東区書道博物館)です。中国では、単独の半跏思惟の菩薩像は、弥勒との関連が深く、兜率天を思い描く(思惟する)姿と認識されるようになるそうです。また、中国・北斉、557年作の「菩薩半跏思惟像」(東京藝術大学大学美術館蔵)や「弥勒菩薩交脚像」(中国・北魏、6世紀前半、浜松市美術館蔵)が展示されています。 「弥勒下生信仰変相図」(朝鮮半島・高麗、1350年、和歌山・五坊寂静院蔵)併せて、「弥勒仏碑像」(中国・唐、750年、東京藝術大学大学美術館蔵)が展示されています。「中国では、椅子に両足を下ろして坐る『椅像』は、下生の弥勒と結びついていた」(図録より)そうです。上掲変相図の描き方も同様です。弥勒下生の典拠は「弥勒下生経」とされるそうです。釈迦入滅後の56億7000万年後、兜率天から弥勒がこの世に降誕、つまり下生して、仏陀となり人々を教化するという説話です。椅坐するのは弥勒仏の姿です。そして、弥勒信仰は日本に伝播してきます。第4章が最後のセクションです。 図録・裏表紙より「菩薩半跏像」(朝鮮半島・朝鮮三国時代、7世紀、京都・八瀬 妙傳寺蔵) PRチラシより「弥勒半跏思惟像」(日本・白鳳、666年、大阪・野中寺蔵)半跏思惟像は弥勒として信仰されていきます。さらに、 PRチラシより「弥勒菩薩坐像」(重文、日本、平安時代・9世紀、奈良・法隆寺蔵) 「弥勒菩薩立像」(日本、鎌倉時代・12~13世紀、和歌山・霊源寺)弥勒菩薩の坐像や立像も造立され、弥勒信仰が広がります。弥勒菩薩像を本展でガンダーラから日本まで通覧して、同じ様式を継承しながらも、顔の表情が地域・風土に合わせて変容した造形となっていくことが、やはり印象的でした。信仰者が共感しやすい相貌というものは、やはり人間集団にとり変化していくということなのでしょうか。一方、この特別展で知ったことがいくつかあります。1.「日本では古くから、如来形と菩薩形の両方の弥勒が制作されてきた」(図録より) 第4章で「弥勒如来坐像」を3点鑑賞しました。 重文、木造彩色、日本、平安時代・10世紀、奈良・法隆寺蔵 重文 滑石、日本、慶因・頼円作、長崎県・壱岐島鉢形嶺経塚出土、 平安後期・1071年、奈良国立博物館 秀弁・長弁作 木造、日本、南北朝・1340年、滋賀・櫟野寺蔵 今まで弥勒如来を意識することがありませんでした。2.「チベット訳ブッダチャリタ」という釈迦の一代記には、釈迦は太陽にたとえられているそうです。彫刻においても太陽と似た姿で表現されるとか。3.『日本書記』巻第二十の敏達天皇13年(584)9月条に、百済より帰還した鹿深臣が弥勒菩薩石像、佐伯連が仏像を将来したと記されていること。弥勒菩薩の名称が記録されているのです。『聖徳太子伝』第三冊(龍谷ミュージアム蔵)には、この弥勒菩薩像を貰い受けた蘇我馬子が、弥勒菩薩像を本尊として、興厳寺、別名豊浦寺を建立したということ。4.「弥勒菩薩来迎図」(模写、梅原幸雄筆、1980年、東京藝術大学大学美術館蔵)、「兜率天曼荼羅」(鎌倉~南北朝時代14世紀、愛知・密蔵院蔵)も初めて見ました。5.「法相曼荼羅」が描かれていて、弥勒菩薩が法相宗の始祖であり、唯識学の教主とみなされていることも初めて知ったことです。法相曼荼羅が唯識曼荼羅とも称されることも、興福寺蔵と法隆寺蔵の掛幅を見て知ったことです。最後に、同ミュージム2階にある中国・トルファンの「ベゼクリク石窟」大回廊の原寸大で復元展示をご紹介します。石窟の壁画という観点でイメージが連鎖していくかもしれません。 このあたりでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽信仰と弥勒信仰 ガンダーラから日本へ』 龍谷大学ミュージアム、三井記念美術館 2024*「文明の十字路・バーミヤン大仏の太陽信仰と弥勒信仰 ガンダーラから日本へ」出品リスト*PRチラシ補遺20年を経てバーミヤーン大仏の破壊を振り返る :「文化遺産の世界」バーミャン石仏破壊から20年 写真で見る、破壊の前後 :「日本経済新聞」アフガニスタン タリバンによって破壊されたバーミヤンの大仏の現状 2021/09/06バーミヤン15年目の春 東京藝術大学COI拠点 YouTubeバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群 :ウィキペディア弥勒菩薩 :「コトバンク」弥勒菩薩 :ウィキペディア弥勒如坐像(長崎県鉢形嶺経塚出土) :「奈良国立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.05.30
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三条通に残るレトロな建物の1つがこれです。旧日本銀行京都支店です。 現在は京都博物館の別館ホールになっています。三条通に面した入口に向かって、正面右の柱に「京都市 京都文化博物館」の銘板が掲げてあります。外観をもう少し眺めましょう。 この建物は三条通(東西)と高倉通(南北)の北西角に位置します。 高倉通から南端を見上げた景色 レンガ造の外壁に白い花崗岩が装飾的に組み合わされています。石材には控えめでシンプルな意匠の彫刻が施されています。窓の上部の意匠が1階と2階で異なり単純な壁面にしていないところが巧みです。レンガ造、二階建で、一部地下一階。屋根はスレート(粘板岩)・銅板葺だそうです。外観は三条通に面して左右対称。この意匠は19世紀後半にイギリスでよく使われた様式と言います。(「建物の概要」より) 建物の入口この建物は自由に入ることができ、右側の通路伝いに、京都文化博物館の本館に行くことができます。それでは、入口から中へ。 左右にドアがあり、入口正面の扉とこのドアとで、二重構造になり、この手前の空間は風除室となっています。 右の開いているドアから1階に入り、内側から撮った景色正面の内側に細長い案内掲示板が設置されています。 そこに掲示の1階平面図です。 銀行の支店1階ですので、前にはカウンター(営業台)が横一列に設けてあります。手前の空間は、現在の銀行の支店と同じ。客溜り(公衆溜)です。 中央部のカウンターに近づくと、こんな感じです。カウンターの内側は営業室。客溜まりと営業室は、がっしりとした木製格子と まるで門扉のような金属柵が窓口に設けてあります。現在の銀行支店のカウンターとは大きな違い。この柵のデザインが西欧風なところが、当時はハイカラなイメージだったのでしょうね。 カウンターの窓口を引き上げると下に隙間ができます。お客と銀行員の応対が始まる場所。お金を預けるのか、引き出すのか、あるいは・・・・・。それはそうと、当時、日本銀行の京都支店を利用する客とはどのような人々だったのでしょうか。今まで考えたことがありません。 日本の近代建築の祖ともいうべき辰野金吾とその弟子・長野宇平治が設計しました。明治36年(1903)9月に着工、明治39年(1906)6月に竣工。明治27年(1894)4月に、東洞院通御池上るに、日本銀行京都出張所が開設され、明治39年7月に、ここに新築移転となりました。明治44年(1911)6月に京都出張所から京都支店に名称変更されたそうです。昭和40年(1965)10月に、日本銀行京都支店は河原町二条の現在地に移転しました。この建物のその後の利用経緯は省略します。「建物の沿革」に記されています。 右側の通路を歩むと、営業室の側面に入口があります。営業室内に入って東端側を南から撮った景色です。この営業室の空間は、現在は別館ホールとして、音楽会や展覧会等、様々な活動に貸し出され利用されているようです。5/22に訪れた時はたまたまオープンな状態でしたので、元営業室内に入り眺めることができました。 営業室は、2階までの吹抜の大きな空間になっています。 2階は回廊部分が張り出した形式です。1階の左右(東西)には、応接室、所長室や文書課室、2階には上等室、大広間が設けられていたそうです。(案内掲示板より) 営業室内から、カウンターを眺めた景色。左は東側、右は西側になります。 営業室の空間 漆喰塗りの柱状上部の装飾意匠 2階 各室の窓枠上部の装飾意匠 営業室 西端の扉周辺の装飾意匠 この営業室空間に、銀行職員の事務机が担当毎に島を作って配置されていたようです。当日入手したリーフレットに掲載されている戦前のこの営業室の様子の写真を引用します。(英文リーフレットより) 吹抜空間の天井と照明の景色 営業室内からカウンターの中央部を眺めた景色。カウンターの向こう側は入口・風除室の填め込み硝子窓のある側面が見えています。 英文案内掲示板2階も拝見したいものですが、そんな案内は見かけませんでした。細見としては、まだまだ見落としているところがあると思いますが、この辺りでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。補遺日本銀行 ホームページ [広報パンフレット] 日本銀行 その機能と組織 PDFファイル DLできます 日本銀行には誰が預金口座を開設していますか?日本銀行京都支店 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表
2024.05.27
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京都文化博物館で開催中の「松尾大社展」を鑑賞してきました。(5/22、水)この写真は、当日購入したこの神宝展の図録表紙です。サブタイトルは「みやこの西の守護神(マモリガミ)」。松尾大社は、京都市西京区・嵐山の南域、桂川の右岸(西側)に位置します。この表紙は松尾山を背景にした松尾大社の社殿の景色です。今では、お酒の神様としてポピュラーになっています。松尾大社は、嵐山に縁の深い渡来民族の秦氏が創建に関わった神社です。文武天皇の大宝元年(701)、飛鳥時代に、秦忌寸都里が勅命を奉じて、松尾山の磐座に鎮まる神霊を祀る社を山麓に創建したと伝えられています。都が平安京に遷都されてからは、都の西の守護神となります。 PRチラシ 京都文化博物館入口の手前にある掲示板には、案内チラシと同形式のポスターが掲示されています。 入場券の半券この企画展は、松尾大社の初めての大規模な神宝展になるそうです。PRチラシのキャッチフレースは、「9割の展示品が初公開!!」という特別展です。京都文化博物館の4階と3階が展示会場となっていて、全体は プロローグ 受け継がれる信仰 第1章 名所としての松尾大社 第2章 天下人と松尾大社 第3章 所領と神事 第4章 信仰の顕在という構成になっています。ほとんどの展示品が初公開だという点がなるほどと感じたのは、松尾大社に関わる文書類が展示品の大半を占めている点です。神社史に関心の高い人々や研究者には、現存する文書類を間近に閲覧できる垂涎の展示となることでしょう。私のように主として墨筆された古文書類を読みこなせない者にとっては、残念ながら猫に小判の類いです。掲示の解説文を頼りに、累積された歴史の長さを感じるばかりです。プロローグでは、伊勢神宮で編まれた神々の系譜が「神祇譜伝図記」(江戸時代、18世紀)としてまとめられ、その中に「大山咋神」が位置づけられていて、付記の文に「松尾」という語が記されています。前期末ギリギリでしたので、「松尾大明神縁起」(江戸時代)の一通を見る事ができました。第1章は、「名所として」に関連して、「京名所絵巻」(江戸時代18世紀、佛教大学附属図書館蔵)、「洛外図屏風」(8曲1双、江戸時代17世紀、福田美術館)、「洛中洛外図屏風」(6曲一双、江戸時代17世紀、個人蔵)が展示されていますので、比較的親しみやすいセクションです。 PRチラシより例えば「京名所絵巻」は京都を囲む周囲の山麓に位置する神社仏閣が中心になっていますので、緑の中に点在する寺社を鳥瞰する感じの絵巻です。松尾大社の箇所は掲示案内が付されていますのでわかりやすい。「洛外図屏風」が8曲という形で描かれているのは珍しいと思いました。一般的には6曲という形ですので。 酒銘屏風 日本酒の酒銘(ラベル)を貼交ぜて、調度として構想し制作された現代の作品です。これは撮影OKでした。「お酒の神様」として親しまれる松尾大社にとっては、ここに現代の信仰の一端がシンボライズされていると言えるかもしれません。 右隻 左隻私は下戸の方なので、地元のいくつかのラベルしかわかりませんが、日本酒好きの人には楽しい屏風と言えそうですね。こんなにも酒銘があるのかと驚くばかりです。これでも全てではなさそう。「酒銘を寄せた醸造会社は関西近県にとどまらず北海道、宮城、福井、北陸、岐阜、愛知、鳥取、岡山、広島、山口、福岡など広域に及ぶ」と、説明文に記されているだけですから。興味深かったのは「亀牛玉宝印版木」です。2匹の亀の図柄の中央に、一方は「松尾社」他方は「神璽」の文字、その両側にそれぞれ「牛玉」「宝印」の文字が彫り込まれた版木です。これは様々な神社で発行されている牛玉宝印の護符だそうです。紀伊の熊野三山のものが著名とのこと。なぜ、亀の図柄? 松尾大神は亀を御使としているから、亀の姿が使われているそうです。第2章は、天下人らが松尾大社に与えた朱印状等がオンパレードです。 PRチラシよりこれは織田信長が与えた朱印状です。天正13年(1585)に豊臣秀吉が与えた朱印状も展示されています。圧巻は、德川家康以来德川家茂に至るまでの朱印状がずらりと展示されていることです。家康・秀忠・家光・家綱・綱吉・吉宗・家重・家治・家斉・家慶・家定・家茂と12通並んでいます。家宣・家継・慶喜の3将軍は発給していないそうです。内容は全て共通しています。山城国内の933石の社領を認め、境内の諸役を免除するという内容です。(図録より)神社運営においては根幹事項です。天下人と神社の関係がよくわかります。第3章は引き続き文書が主体です。 PRチラシより最初に、この「山城国松尾神社近郷絵図」(鎌倉時代14世紀)が展示されています。鎌倉時代の松尾大社の様子がうかがえます。下文、書状、院宣、教書など様々な文書が展示されています。松尾大社の所領と社領経営に関心のある人には興味深い文書類でしょう。 PRチラシよりその中の1つに「源頼朝書状」(文治2年/1186年)が展示されています。横領等が進んでいた遠方所領3ヵ所について、松尾社が鎌倉幕府に訴え出たことに対しての下知状だそうです。(図録より)こういう文書が残っている故に、当時の状況や諸制度などの実態がわかってくるのでしょうね。興味深かったのは、江戸時代の神事を記録した「松尾社三箇大神図」(万治2年/1659年6月19日)です。略図による絵図。特に、松尾社の社殿の中に神宮寺も描かれていることに興味をもちました。やはり江戸時代には神宮寺があったのかと。最後の第4章がやはり見どころです。老年の男神像を中央にして、左には壮年の男神像、右にはチラシや入場券に使われている女神像と、神像三軀が横一列に安置されています。 三軀とも平安時代9世紀に針葉樹の一木造で制作された神像です。松尾社の神宮寺に祀られていたとか。神像としては日本最古級だそうです。(図録より)男神の壮年と老年の相貌のコントラストに見どころがあります。いかめしさの相の違いを感じられるように思います。ほかにも、女神像3軀、男神像と僧形神像各1軀が展示されています。平日の午後、来館者が比較的少なくて、静かな雰囲気の中でゆっくりと展示品を眺めることができました。 松尾大社の境内の建物の大きなパネル写真が掲示され、その前に菰包みの酒樽が置かれています。お酒の神様信仰を表す境内の景色を感じとれる壁面です。 こんな記念撮影用スポットも設置されています。メディアワークス文庫に著者:浅葉なつ、イラスト:くろのくろ『神様の御用人』という作品があるそうです。「ある日突然、神様たちの御用を聞いてまわる”御用人”に任命されたフリーター・良彦の東奔西走の日々を描いた」(掲示説明文より)シリーズで、その第7巻に松尾大社の摂社・月読神社が登場すると言います。この背景のイラストは、第7巻のカバーイラストで、月読神社の境内の景色だとか。付録として2点ご紹介します。 京都文化博物館の2階、エスカレーターを上がったところに、紫式部像が置かれています。特別展に行った時は、4階・3階での鑑賞を終えて、この2階の平常陳列と企画展示を眺めます。エスカレーターで降る前に、この像をちらりと眺めるのがルーティンになっています。紫式部は、今の大河ドラマ「光る君へ」では中心人物の一人。 京都文化博物館と京阪電車の三条駅との往還で、三条通を歩いていて初めて目に止まった石標「勤王志士 西川耕蔵邸趾」です。幾度も歩きながら気づかなかった! かつ不敏にしてまったく連想も働かない人物名です。あなたは、ご存知でしたか?京都の町中には知らない事が一杯!ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『松尾大社展 みやこの西の守護神』 京都府文化博物館 2024*松尾大社展 展示品一覧表*PRチラシ補遺松尾大社 ホームページ松尾大社 :「京都観光Navi」お酒の神様を祀る「松尾大社」。境内の見どころや注目ポイントをチェック! :「そうだ 京都、行こう」西川耕蔵邸址 :「フィールド・ミュージアム京都」西川耕蔵招魂碑 :「フィールド・ミュージアム京都」西川耕蔵 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -1 松尾大社(1):楼門、本殿、神輿庫、南末社ほか 4回のシリーズでご紹介
2024.05.26
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5/22に久しぶりに三条に出ました。目的は京都文化博物館に行くためです。冒頭の景色は三条大橋東詰の南側から撮りました。三条大橋の通常の姿を眺めるのもまた久しぶりです。橋のスッキリした姿を眺めることができます。平日の昼近く、人通りも比較的少ないので橋の記録として撮りました。 少しズームアップしてみました。欄干は白木のままです。すっきりしています。今までの擬宝珠や金具が元のまま取り付けられたのでしょう。 橋の東詰、南側歩道と対岸を撮ってみました。その後、まず北側に横断します。 北側の東詰に金属板製の駒札「三条大橋」が設置されています。「この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正18年(1590)で、豊臣秀吉の命により奉行増田長盛が大改造を行った。 また擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると 『洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるもの也、盤石の礎は地に入ること五尋、切石柱は六十三本也(以下略・・・・)』とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。 かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。 以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。 元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和25年の改造によって今の姿に改められた。 現在の橋の長さは74m、幅15.5m。なお、橋の西詰北側には、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。 京都市 」(駒札全文転記) 橋の北側、東詰より 擬宝珠(北側) 欄干に取り付けられた金具 上流側(北方向)の景色。御池大橋が見えます。 橋の北側歩道を歩みつつ、欄干を撮りました。 北側歩道で振り返ってみた景色 北側、西詰の欄干柱と擬宝珠。保存されている天正期の橋の石柱 保存されている石柱の近くから、みそそぎ川を眺めた景色。川床が張り出して設けてあります。四条大橋から三条大橋にかけて、年中常設の川床もあれば、夏季だけに床を設置される箇所もあります。京の夏の風物詩の1つです。もう1つ、この鴨川に関連しては、この鴨川側の岸にずらりと座り込む人々の列が連なる景色が夏には常態となって行きます。ご覧いただきありがとうございます。こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) 観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) 観照 京都市 三条大橋 木製高欄(南側)の更新観照 京都市 三条大橋 木製高欄(北側)の更新 (続)観照 京都市 三条大橋 木製高欄の更新完了 (続々)
2024.05.25
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5月17日に、アマリリスとサボテンの花とともに、三輪の薔薇が咲いたということに触れました。この三輪のバラが今日、 花咲く大家族に大きく進展!! 淡い色の三輪が17日時点のバラです。その周りに、バラが咲いてこんな風に・・・・。 異なるアングルで撮ってみました。 一番最初の一輪のバラの茎に、新たにバラが集まって咲いています。ちょっと賑やかになりました。バラの近況ご紹介です。ご覧いただきありがとうございます。
2024.05.22
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河鍋暁斎筆 龍神に観音図 (資料1)軸装の絵としても、龍が様々な絵師により描かれています。インターネットで入手でき、利用できる画像を探してみました。ソースは参照資料として一覧にしています。また、直接ここに掲示をできませんが、リンクにより閲覧できるものについて補遺に掲げました。検索した範囲でまとめ、覚書を兼ねご紹介します。画像は単純に入手順で並べています。お楽しみください。 狩野探幽筆 龍図 江戸時代・17世紀 (資料2) 狩野山雪筆 双龍図 江戸時代・17世紀 (資料3) 鑑貞 龍図 模本 養信模 江戸時代・文化10年(1813) (資料4) 宗澗 龍図 模本 佐平次模 江戸時代・天保8年2月 (資料5) 元信 龍図 模本 勝川模 (資料6) 古永徳 龍図 模本 模写不詳 (資料7) 探幽 水中龍図 模本 養州模 (資料8) 月澗 龍図 模本 晴川院模 (資料9) 楊月澗 龍図 模本 晴川模 (資料10) 牧谿 龍図 模本 模写不詳 (資料11) 王若水 双龍図 模本 岩井晴澤模 (資料12)龍図の模写が結構行われていて、それら模写図が残されていることもわかりました。つづく参照資料1. 河鍋暁斎筆 「龍神に観音図」2. 狩野探幽筆 「龍図」 :「ColBase」3. 狩野山雪筆 「双龍図」 :「ColBase」4. 鑑貞 龍図 模本 養信模 :「ColBase」5. 宗澗 龍図 模本 佐平次模 :「ColBase」6. 元信 龍図 模本 勝川模 :「ColBase」7. 古永徳 龍図 摸者不詳 :「ColBase」8. 探幽 水中龍図 模本 養州模 :「ColBase」9. 月澗 龍図 模本 晴川院模 :「ColBase」10. 楊月澗 龍図 模本 晴川模 :「ColBase」11. 牧谿 龍図 模本 模写不詳 :「ColBase」12. 王若水 双龍図 模本 岩井晴澤模 :「ColBase」補遺王若水/双龍図 :「文化遺産オンライン」掛軸 曽我簫白筆 「雲龍図」 ニュー・ザウス・ウェールズ州立美術館蔵曽我簫白筆「雲龍図」大胆な筆致でデフォルメしたユニークな雲龍:「古美術景和」龍図 京都国立博物館蔵 :「文化遺産オンライン」楊月澗 龍図 会心斎模 :「文化遺産オンライン」王若水 ⇒ 王淵 :「コトバンク」牧谿 :ウィキペディア鑑貞 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表
2024.05.21
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玄関先の南東側の一鉢に、アマリリスが大きくて真紅の花を咲かせました。 赤いアマリリスの花言葉は「輝くほどの美しさ」だとか。色により花言葉が異なるとか。(資料1) アマリリスの手前の鉢に咲いている小さな花は、調べてみますと、サルビア・コネクシア・コーラルピンクのようです。(資料2)一方、サルビア・コッキネアにも似ている感じがするのです。(資料3)どうなのかなぁ・・・・・。サルビアの仲間はいろいろあるんですね。サルビアって言うだけにしておきましょうか。 また、玄関先南西側に置かれた一鉢のサボテンの花が咲きました。 家の南壁面傍に置かれたもう一鉢のサボテンにも、花が咲いています。画像検索をしてみますと、白檀と説明を加え販売しているサイトと画像が沢山ヒットします。ポピュラーなサボテンの種類のようです。サボテンも調べてみますと、花言葉があります。「枯れない愛」「情熱」「燃える心」だそうです。(資料4)5/8にご紹介した地植えのトケイソウも次々に花咲いています。ラベンダーもしかり。一鉢のデンドロビュームも咲いています。そして、 地植えのバラの木が、また、三輪の花を咲かせました。 ふと見ると、小ぶりな葉にこんな花が目に止まりました。画像検索してみますと、ノイバラの花のようです。(資料5)次々と花開く、いい時季です。園芸は家人の趣味で、私は写真を撮るだけ・・・・。そうそう、大きく枝を広げたキンモクセイと蔓が伸び放題になったジャスミンの剪定は手が届かないからと、恒例の役割が回ってきますね。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. アマリリスの花言葉は?色ごとにも花言葉がある? :「FLOWER」2. サルビア・コネクシア・コーラルピンク :「みんなの趣味の園芸」3. サルビア・コッキネア 草花図鑑 :「ふなばしアンデルセン公園」4. サボテンの風水|花言葉や置き場所について :「AND PLANTS」5. ノイバラ 植物雑学事典 :「岡山理科大学 生物地球学部 生物地球学科」補遺アマリリス :「みんなの趣味の園芸」サルビア(宿根性) :「みんなの趣味の園芸」ノイバラ(野茨・野薔薇):「松江の花図鑑」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.05.17
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ジャスミンが一斉に咲き、ほぼ枯れてきました。すると、バトンを引き継いだように、ジャスミンに重なるように蔓を伸ばして、建物の壁際にトケイソウが咲き始めました。 先ほど写真を撮りました。5~6のトケイソウが開いています。 蕾がたくさんついています。 しばらくはトケイソウが順次花開くことでしょう。手元の一書によると、トケイソウの花言葉は「聖なる愛」 (資料1)ネット検索してみますと、「聖なる愛」と併せて、「信仰」「宗教的な熱情」という花言葉を載せています。(資料2)一方手元の歳時記数冊を引いてみましたが、季語には載っていません。ネット検索してみますと、夏の季語として取り上げているウエブサイトに出会いました。(資料3,4,5)こんな句が事例に掲載されています。 日々の峠泊まりや時計草 答推 「綾錦」 (資料3) どの国の時計に似たる時計草 後藤比奈夫 (資料5)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.『366日の誕生花の本』 瀧井康勝著 日本ヴォーグ社2. [トケイソウの花言葉]怖い意味はある?花の特徴や由来は?:「Green Snap STORE」3. 時計草(とけいそう/とけいさう)三夏 トケ栽培管理 トケイソウの育て方イソウ:「きごさい歳時記」4. 時計草(とけいそう) 俳句季語辞典 :「夏井いつきのおウチ de 俳句くらぶ」5. 時計草 夏(三夏)・植物 :「わたしの俳句歳時記」補遺トケイソウの仲間の基本情報 :「みんなの趣味の園芸」トケイソウ :「花と緑の図鑑」栽培管理 トケイソウの育て方 植物栽培ナビ :「住友化学園芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.05.08
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一輪のバラが枯れ、代わりにバラ二輪が今、咲いています。 今朝(5/5)と撮りました。 玄関口のもう一つの雨樋に巻き付いているジャスミンの房に、大きな蜂が飛び回っていました。 そのジャスミンの下に置かれた一鉢に、一輪のマチルダが咲いています。 玄関口の左側の一鉢には、淡い紫色のブルームーンがこれも一輪咲いています。このブルームーン、念願かなって今年やっと咲いたと家人が喜んでいる花です。 好き勝手な方向に伸びているラベンダーも花開いています。 ラベンダーの南西傍、庭中央部の駐車場のコンクリート地の水まきで湿り気が残るところに、蝶が一匹舞い来たり、止まっています。 道路から玄関へのアプローチの途中に、デンドロビュームが咲いています。 ネットで画像検索しますと、ヒメヒオウギのようです。 道路への手前には、シランとともに、この花が咲いています。これもネット検索によりますと、ブルビネ・フルテスケンス(ハナアロエ)のようです。庭の西端の幅の狭い花壇には、 マルバシャリンバイ(シャリンバイ)のようです。これもネット検索にて。 こちらはトキワツユクサのようです。これもネット検索してみました。 こちらも検索してみますと、アリウムという花の一種のようです。様々な花が咲き、春爛漫・・・・・。家に居れば、静かな連休です。花の名を知らずとも、無心に咲く花々を眺めるひとときはいいものです。花の名前、間違いがあるかも知れません。花の名前には疎いので・・・・・。晴れが続くとやはり気分が良い!天気予報では月・火は雨になるそうですが・・・・。ご覧いただきありがとうございます。補遺マチルダ :「IBARAKI FLOWER PARK」バラ苗[新苗]マチルダ国産苗 :「バラの家 公式本店 ロサオリエンティス」ブルームーンの育て方 :「篠宮バラ園」デンドロビューム :「みんなの趣味の園芸」ヒメヒオウギの仲間 :「みんなの趣味の園芸」ヒメヒオウギ(姫檜扇)とは?育て方・栽培方法|植物図鑑 :「LOVEGREEN」ブルビネ・フルテスケンス(ハナアロエ) :「たけじいの気まぐれブログ」ハナアロエ :「花の家」マルバシャリンバイの花が咲きました :「東北造園株式会社」マルバシャリンバイ :「四季の山野草」トキワツユクサ :「四季の山野草」アリウムの写真 :「みんなの趣味の園芸」アリウム・ロセウム :「みんなの趣味の園芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.05.05
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京博の七条通に面した南門の傍に掲げられた特別展の大型PRパネル(A) 入口傍の南面する壁面を飾る大型PRパネル(B) これはこの特別展「雪舟伝説」のPRチラシの表紙です。二つ折のA4サイズです。 今回の特別展のおもしろいところは、このチラシを広げるとその中央に記された ※「雪舟展」ではありません!という言葉が眼に飛び込んでくることです。特別展のサブタイトルは「-『画聖』の誕生-」で、画聖には「カリスマ」というルビが振られています、本展の展示は、 第1章 雪舟精髄 第2章 学ばれた雪舟 第3章 雪舟の継承 -雲谷派と長谷川派- 第4章 雪舟伝説の始まり -狩野派の果たした役割- 第5章 江戸時代が見た雪舟 第6章 雪舟を語る言葉 第7章 雪舟受容の拡大と多様性という構成になっています。このチラシの見開きページ、なかなか巧みなキャッチフレーズが使われています。チラシと展示構成を対比すると、次の通りです。第1章・第2章 ⇔ これが雪舟だ! <雪舟精髄>には、通期で9点を展示。6点が国宝、3点が重文です。 久しぶりに、「天橋立図」「慧可断臂図」を見ることができました。 <第2章 学ばれた雪舟>のセクションは、1点の入れ替えが前期・後期にありますが、ここも9点で、雪舟筆の絵と伝雪舟筆3点です、大半が重文です。 つまり、最初に雪舟画のエッセンスがドンと展示されています。 雪舟の回顧展ではないのです。まずコレを見よ!これがお手本だという感じ。第3章 ⇔ 雪舟を次ぐのは俺だ!第4章 ⇔ 江戸時代の雪舟評価を確立 ー狩野派の仕事-第5章~第7章 ⇔ みんな雪舟が好きだった室町時代の雪舟がこれほどの影響を与えていたのか!を認識できた特別展でした。ここまでとは考えてもいませんでした。例えば、2010年に「長谷川等伯」展で、等伯が水墨画へ傾倒とその作品を鑑賞しましたが、牧谿・玉澗等の中国画家の作品の影響を受けたという認識で、雪舟の名を書き入れた等伯の作品は等伯の自負心の現れかくらいに受け止めていました。 入場券の半券 平成知新館の手前に設置された特別展の案内パネルここに鶴が二羽並んでいます。入場券には、左が雪舟筆、右が若冲筆と付記されています。上掲のPRチラシの表紙も同様です。チラシには、 雪舟筆「四季花鳥図屏風(右隻)」(重文、室町時代15世紀)が載っていますので、引用します。雪舟筆花鳥画を見るのは私は初めてのような気がします。この屏風絵、六曲一双として左隻とともに展示されています。雪舟は花鳥画も多く描いたそうですが、雪舟真筆と認め得唯一の作品だそうです。現在は京都国立博物館蔵になっています。伊藤若冲は若き頃、伝手を頼り京都の寺々の障壁画を拝見し模写して修練した時期があったそうです。若冲はこの屏風絵を何処かで見たのでしょうか。あるいは他の花鳥画の鶴でしょうか・・・・。この四季花鳥図屏風は、第3章で、雲谷等益筆「四季花鳥図屏風」(六曲一双、江戸時代17世紀、京都・東福寺蔵)の展示にリンクします。雪舟の屏風をモデルにして雲谷等益が描いているのですが、木の枝ぶりや色遣いの違い、一部省略その他で微妙に異なり、独自性が加えられています。模本とは言えない、独自性を加えた写しになっています。雪舟流を継承するという意図は明かです。 雪舟筆「四季山水図巻(山水長巻)」(国宝、文明18年/1486年 毛利博物館蔵)第1章に展示。この図巻長さ16mに及ぶ大作です。展示室の中央に全図巻の写真版が掲示されていて、開催期間中を三期にわけ、3分の1ずつ巻替をする旨が表示されていました。これは第一期展示の部分図です。冒頭の大型パネル(A)にこの図巻が使われています。3分の1を見るだけでも、迫力を感じます。この作品は、まず第3章で、雲谷等益筆「四季山水図巻(山水長巻副本)」(重文、江戸時代17世紀、毛利博物館)の展示にリンクしています。「本作は模写ではあるが、細部描写には少なからず原本との相違点があり、等益自身の作品としての完成度を有する点も見逃せない」(図録の作品解説より)と評されています。雲谷は雪舟のモチーフと筆墨を流派の基礎として継承して行ったそうです。さらに、第5章で、狩野古信筆「雪舟筆四季山水図巻模本」(国宝、江戸時代、享保10年/1725年、毛利博物館蔵)の展示にリンクします。 雪舟筆「秋冬山水図」(国宝、室町時代15世紀、東京国立博物館)雪舟精髄の作品の一つとして展示されています。 これは平成知新館で入手した「京都国立博物館だより」の最新号(2024年4・5・6月号)の表紙です。上段の右は若冲の鶴、左は上掲の「秋冬山水図」の左図・冬の山水図です。下段は、上掲「四季山水図巻(山水長巻)の中のさらに部分図、森閑とした山道を歩む人物と同行する従者の姿が切り出されています。 伝雪舟筆「富士三保清見寺図」(室町時代16世紀、永青文庫蔵)第2章に展示されています。右に海、左の清見寺と山のその向こうに富士山を眺めるこの構図。上掲の京博入口手前の壁面の大型パネルの図はこれです。雪舟の絵に学んだ後世の画家たちは同じビューポイントから風景を描くという形の定番が生まれていきます。第4章の狩野派では、狩野探幽筆「富士山図」(江戸時代、寛文9年/1669年)、狩野山雪筆「富士三保清見寺屏風」(江戸時代17世紀)が展示されています。第7章では、 曽我簫白筆「富士三保図屏風」(六曲一双、江戸時代18世紀、MIHO MUSEUM蔵)さらに簫白筆「富士三保清見寺図」(江戸時代18世紀)、山本探川筆「富士三保清見寺図」(江戸時代18世紀、永青文庫蔵)、鶴亭筆「富士山図」(江戸時代、安永5年/1776年、旧ピーター・ドラッガー 山荘コレクション蔵)が展示されています。加えて、「富士三保松原図」という名称で、桜井雪館筆(江戸時代18世紀)、原在中筆(江戸時代、文政5年/1822年、静岡県立美術館)、狩野永岳筆(江戸時代19世紀、静岡県立美術館蔵)の作品が展示されています。画家達の描いたバリエーションが鑑賞の楽しみになります。 PRチラシよりなんと、「駿州八部富士図」という名称で、司馬江漢までもが同じビューポイントから描いているのです。(江戸時代、寛政元年/1789年)また、司馬江漢筆「駿河湾富士遠望図」(江戸時代、寛政11年/1799年、静岡県立美術館蔵)という作品も出ています。少し角度が変わりますが類似の構図です。 これは平成知新館1階の正面の壁面に設置の記念写真撮影場所を兼ねた大型パネルです。ここには、曽我簫白筆「富士三保清見寺図」の部分図が使われています。第3章には、上掲の雲谷等益の作品の他に、 雲谷等顔筆「山水図襖」(重文、14面のうち4面、桃山時代16~17世紀、京都・黄梅院蔵)が展示されています。ここには、雲谷派と並んで、長谷川等伯の作品が2点展示されています。一つは、等伯筆「山水図襖」(16面のうち8面、桃山時代、慶長4年/1599年、京都・隣華院蔵)です。もう一つが、 「竹林七賢図屏風」(六曲一双、桃山時代、慶長12年/1607年、京都・両足院蔵)です。この屏風には、下段左端の襖に、「自雪舟五代」と記されているのです。この時期より等伯は「雪舟より五代」と自称し始めたと言います。雪舟の後継者であるという自負が現れています。第4章では、江戸時代に狩野派が雪舟の評価を確立する役割を担ったようです。当日購入した図録には、 図録表紙 図録裏表紙狩野探幽筆「山水図屏風」(六曲一双、江戸時代17世紀、京都・長福寺蔵)が使われています。これは探幽が采女と称していた頃の作品で、采女の署名があります。若い時期に探幽が雪舟の筆法を学んでいたということを明らかにする作品だそうです。 チラシよりこちらは屏風(六曲一双)の全体図です。図録表紙の部分は、上掲京博だよりの表紙の中段に部分図として使われています。最後の第7章は<雪舟受容の拡大と多様化>です。上記した作品以外で、このセクションで印象に残った作品を幾つか列挙しておきたいと思います。*酒井抱一筆「雪舟筆金山寺図模本」(江戸時代18~19世紀)をみて、酒井抱一も雪舟から学んでいるのを知りました。*尾形光琳画、尾形乾山作「銹絵山水楼閣図四方火入」(江戸時代18世紀、大和文華館蔵)は初めて見た作品です。その図柄は雪舟のモチーフや描法を継承していることがよくわかります。*葛飾北斎筆「山水図」(江戸時代19世紀)が展示されている。その描法は雪舟の草体山水図に学んだ可能性が指摘されていて、北斎の貪欲な学びの姿勢に一層の興味を抱きました。*狩野芳崖筆「寿老人図」(明治時代19世紀、静岡県立美術館蔵)は、第2章に展示の伝雪舟筆「梅潜寿老図」(重美、室町時代15世紀、東京国立博物館)とモチーフがリンクしていて、時空の隔たりを越えたつながりがおもしろいと感じました。*山口雪渓筆「十六羅漢図」「三十三観音図」(ともに江戸時代17世紀、京都善導寺蔵)の絵そのものは興味深いのですが、雪舟画とどの点でつながるのか、私にはいまひとつわかりません。*勝川春章筆「初宮参図巻」(江戸時代18世紀、似島美術館蔵)という春画巻が展示されていて、部屋の一隅に軸装の箱が描かれている場面が開示されています。その箱に雪舟筆と明記されていて、傍に掛軸が掛けてあるというもの。江戸時代に雪舟が広く知られていたということでしょうか。「みんな雪舟が好きだった」 春画絵巻なので部分絵の開示です。図録を見ると、絵巻全体が部分絵とともに掲載されています。おもしろい。第2章に、伝雪舟筆「琴棋書画図屏風」(六曲一双、重美、室町時代16世紀、永青文庫蔵)が展示されています。長谷川等伯、狩野探幽、山口雪渓それぞれの描いた竹林七賢が展示されていますので、雪舟自身は竹林七賢を描いているのだろうかという関心が残りました。本展には展示がありませんでしたので。 平成知新館を出ると、今秋の特別展予告が目に止まりました。「法然と極楽浄土」です。今年の10月の楽しみが一つできました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*本展のPRチラシ*図録『特別展 雪舟伝説 「画聖」の誕生』 京都国立博物館 2024*「特別展 雪舟伝説」出品一覧・展示替予定表補遺雪舟 :ウィキペディア雪舟、涙で描く 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」雪舟《四季山水図》について 狩野探幽の言葉 :「ARTIZON MUSEUM」雪舟とは何者ゾ?水墨画のスーパースター、その人生と代表作を徹底解説【アート】 :「和楽.web」相国寺と雪舟 :「臨済宗相国寺」雪舟とは 晩年を益田で過ごした「画聖」 :「益田市」雪舟画像 :「文化遺産オンライン」秋冬山水図 雪舟等楊筆 :「文化遺産オンライン」山水長巻 雪舟 :「綴 TSUZURI 文化財未来継承プロジェクト」(Canon)紙本淡彩牧牛図<雪舟筆/(仿李唐)> [牧童] :「山口市」山水図 :「文化遺産オンライン」紙本墨画山水図 雪舟筆 :「文化遺産オンライン」国宝 天橋立図 :「京都国立博物館」雪舟像 (探幽縮図) :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 噴水のあるエリアのツツジ へ観照 京都国立博物館 -2 京博の表門(西門)& 西の庭のツツジと保存物 へ
2024.04.30
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京博の表門(西門)の正面大和大路通に面する形で表門が位置しています。通りから数十m東に入ったところにレンガ造りの門があります。このレンガ造りの門は、現在の明治古都館とセットになり、フランス・ルネサンス様式の洋風建築として建築されました。明治28年(1895)に竣工し、同30年(1897)5月1日に開館式が行われたそうです。設計者は赤坂離宮を設計した片山東熊博士です。(資料1,2) 現在は、向かって右(南)の門柱に、「獨立行政法人 國立文化財機構」、左(北)の門柱に「京都國立博物館」の銘板が掲げてあります。開館当初は帝国京都博物館と称され、明治33年(1900)に京都帝室博物館に改称されました。大正13年(1924)、京都市に下賜され、恩賜京都博物館と呼ばれ、昭和27年(1952)文化財保護法の施行に伴って再び国に移管され、京都国立博物館に改称されたという経緯があります。(資料1)さらに、現在は、「独立行政法人国立文化財機構法」のもとでの京都国立博物館設置という位置づけになっています。(資料3)この法律は、平成12年6月1日の施行です。(資料4) 門扉の意匠明治30年頃の京都では、極めてハイカラな洋風建築の出現だったことでしょう。カルチャーショックの源だったかもしれません。しかし、今では東山の山並みの緑のなかで、レンガ造りの外観がしっくりと融和してしまっています。 北側には「太閤石垣(方広寺の石垣遺構)」があります。そのため、表門のレンガ塀(袖塀)は、南側と比較するとかなり短くなっています。 南側に伸びる袖塀は長い再び構内に戻り、西の庭を巡りました。 ここにもツツジが咲いています。 西の庭には石造物ほか、様々なものが野外保存され、西の庭を飾ってもいます。 室町時代(15世紀)の「不動明王立像」です。怒りを表す恐ろしげな表情と姿で表現されているのは、「慈悲の心のみでは救えないものをはげしい怒りで救うため」(傍の説明文より)と言います。明王は密教特有の尊像です。 別の一隅には、ツツジを背景に、 鎌倉時代(13世紀)の「地蔵菩薩坐像」が鎮座します。地蔵菩薩は、釈迦の寂滅の後、弥勒仏がこの世に現れるまでの仏不在の時代に、衆生を数う役目をもつのが、地蔵菩薩と考えられています。僧侶と同じく頭を丸めて袈裟を着た姿です。弥勒仏が現れるのは、56億7000万年と気が遠くなるような先と考えられています。なんという時間軸のスケールでしょう・・・・。「本像は、現実感のある表情や衣文の気吹くなどに鎌倉時代の特徴がうかがえ、制作は13世紀にさかのぼると考えられる」(傍の説明文より)と言います。東大寺の復興にあたり、中国から石工を招いていた影響が石彫像の流行として現れているとか。日本史の年表を見ますと、「1190 西行没後、重源、東大寺再建」「1195 東大寺再建供養」「1203 運慶・快慶 東大寺金剛力像」という史実の項が記されています。 東大寺大仏殿の前に据えられている国宝「金銅八角灯籠」の実物大複製品が置かれている一隅にもツツジが咲いています。こんな感じで、京博の敷地内にはツツジが見頃です。ここしばらくはツツジの最盛期であることでしょう。それでは、特別展の鑑賞に、平成知新館に向かいます。参照資料1. 建物概要 :「京都国立博物館」2.『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p109-1123. 国立文化財機構について :「独立行政法人国立文化財機構」4. 独立行政法人国立文化財機構法 :「e-GOV法令検索」補遺京都国立博物館 ホームページ片山東熊 :ウィキペディア片山東熊 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」片山東熊の建築・旧東宮御所(現・迎賓館) :「コンドルたちのつくった東京」迎賓館赤坂離宮 朝日の間 :「内閣府」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 噴水のあるエリアのツツジ へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「雪舟伝説」 へ
2024.04.29
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4/25に京都国立博物館(以下、京博)に行ってきました。目的は特別展「雪舟伝説」の鑑賞です。ちょうどツツジが咲きそろってきていました。そこで、京博のツツジたよりから始めます。冒頭の景色は、南門を入って平成知新館に向かうアプローチの入口付近から明治古都館を眺めた景色です。 目を北西側に転ずれば、半円に囲む生垣越しに平成知新館とその手前の噴水のあるエリアが見えます。 ツツジが咲きそろっています。 アプローチを進むと、ツツジが花開き、三色模様をなしています。 西の庭(南西)方向を眺めた景色 明治古都館側の芝生にもツツジが同様に。 アプローチの東側前方には、特別展の大型パネルが見えます。ウエルカムのサインでしょう。 南東方向に目を転じます。 平成知新館に近づいてから、噴水のあるエリアを眺めた景色 平成知新館の入口前から噴水のあるエリア沿いの通路を西方向に進みます。 ツツジの生垣傍からの眺め 円形の噴水池の北側から、東方向の眺め。南門から平成知新館に向かう通路より、噴水のあるエリアは一段低くなっていますので、こんな景色になります。 噴水を挟んで南西方向のツツジを眺めた景色 噴水池の東辺から眺めたロダン作「考える人」像です。 京博に行くたびに、その季節の「考える人」像を撮り続けています。飽きることなく・・・・。 噴水のあるエリアの西端側に行きつつ撮った景色この後、京博の表門(西門)の風情に触れたくて、西門を出て、外から京博を眺めてみました。次回は、西門の景色と西の庭を一部ご紹介します。つづく補遺京都国立博物館 ホームページ 建物概要 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -2 京博の表門(西門)& 西の庭のツツジと保存物 へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「雪舟伝説」 へ
2024.04.28
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玄関手前の雨樋に蔓を這わせて伸び上がるジャスミンが一挙に花開いてきています。今朝(4/28)撮りました。 蕾がまだまだ目につく箇所もあり、 かなり花開いている箇所もあります。 ほぼ全体を眺めるとこんな感じ・・・・。満開とまでは言えません。 まさに、小さな白い花の乱舞 一匹の蜂が白い花の辺りを飛び回っていました。スマホ画面での現在(13:10)の天気予報は、 27℃、曇り時々晴れ、最高29℃、最低13℃空を見上げると、朝見られた青空が今は見えません。平穏に時が過ぎていく・・・・・そんな午後。ご覧いただきありがとうございます。
2024.04.28
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<Ⅳ-2 神々と儀礼>のセクションに進みます。冒頭のレリーフは、「トラルテクトリ神のレリーフ」と称されています。玄武岩 高さ73cm、幅58cm アステカ文明 1325~1521年トラルテクトリは「大地の母または主」という意味だそうです。この神は「当時の人々のコスモロジーのなかで二重の役割を担っていた。一つは生殖機能で、植物が育つサイクルの始まり、動物や人間さらには星の誕生に関わるものだった。一方で、貪欲な存在としての側面も持ち合わせており、この神自身の体内から出た生き物の血や死体を貪るのだった。そのため、アステカの宗教では、大地は母の子宮であると同時に、あらゆる生き物の墓でもあった」(図録の解説を一部転記)「アステカの神々は天上界の13層と地下界の9層に住み、暦に応じて地上の万物や天体の動きを支配したといいます。神々は時に多様な神格に分かれたり、融合して唯一の絶対神になったりすると信じられたため、様々な神を祀る神殿が造営されました」(案内パネルから一部転記) 画像処理で色彩補正をしてみました。 「トラロク神の壺」 土器、彩色 高さ35cm、幅32cm アステカ文明 1440~1469年トラロクは「大地を人格化した雨の神」です。「雨神トラロクは太陽神ウィツィロポチトリと共に大神殿に祀られ、多くの祈りや供物、生贄が捧げられた。水を貯える壺にトラロクの神を装飾があり、雨や豊穣の願いが込められたものと考えられる」(傍に掲示の説明文転記) 「テスカトリポカ神の骨壺」 高さ32.9cm、幅17.5cm アステカ文明 1469~1481年テスカトリポカとは、「煙を吐く鏡」という意味だと言います。「不可視で、あらゆる場所に存在する万物の神、創造神であり、槍もしくは2本の矢で射抜かれたときにだけその姿を表した」そうです。(図録の解説を一部転記)壺の内部を調べたところ、部分的に焼かれた男性の骨が納められていました。戦死した指揮官と考えられています。 「ミクトランテクトリ神の骨壺」緑色岩 高さ7cm、幅9cm アステカ文明 1469~1481年ミクトランテクトリは、「死者の世界の主」を意味し、痩せこけた骨のみの姿で表されます。「火打ち石の斧やナイフを持ち、生贄の心臓を抜き出す神でありながら、一方で生を与える役割も併せもつ」そうです。(傍に掲示の説明文転記) 「シウコアトル」 火打ち石、トルコ石、黄鉄鉱 長さ36cm、幅6cm アステカ文明 1325~1521年シウコアトルとは、「火の蛇」という意味だそうです。太陽神ウィツィロポチトリなどの神々が手にする武器だとか。波打った形の固い褐色の火打ち石に彫刻を施したナイフです。 「エエカトル神像」 玄武岩 高さ41.6cm、幅20cm アステカ文明 1325~1521年「風を意味し、生と豊穣を司る神。カワウやペリカン、クイナなどの嘴(クチバシ)の形に似た赤い口が特徴的である」(傍に掲示の説明文転記) 「プルケ神パテカトル像」 玄武岩 高さ36.5cm、幅23cm アステカ文明 1469~1481年「リュウゼツランの発酵酒プルケは、アステカの儀礼で重宝された。パテカトルは、その発酵を促す植物オクパトリを発見した神。プルケは今も、テキーラとメスカルに並ぶメキシコを代表する地酒である」(傍に掲示の説明文転記)テノチティトランの大神殿の下で発見され、月の女神コヨルシャウキの石彫に関連した埋納石室に納められていたとのこと。(図録より) 「アウマドール(香炉)」土器、彩色 長さ63cm、口径22.2cm アステカ文明 1325~1521年丸い椀状の部分が香炉。熱くなった炭を入れ、その上に樹脂を置くことで芳香を放つ白い煙が立ち昇ります。「燃焼を容易にするため、三角形が4つずつ合わさった形の空気穴がほどこされているが、この形は世界の中心と四方を表現している。柄とその先端の部分は、芋虫と蝶を表しており、火の特性である変容する力のシンボルである」(図録の解説を一部転記) 「テポナストリ(木鼓)」 木 長さ20.5cm、幅64cm アステカ文明 1325~1521年横長の太鼓です。「音や振動がよく伝わるよう、上部や下部に銅が使われている。天然ゴムをつけた撥(オルマイトル)を用いて、宗教儀礼や戦闘の場において演奏された」(傍に掲示の説明文転記) 「笛」 土製、彩色 左:長さ18.5cm、幅5.2cm 右:長さ13.2cm、幅4cm アステカ文明 1325~1521年笛はメソアメリカを代表する管楽器のひとつです。 「ウェウェテオトル神の甲羅形土器」 土器、彩色 長さ21.5cm、幅13.5cm アステカ文明 1486~1502年1990年代にメキシコシティの大聖堂で地盤沈下対策工事が行われた時に発見されたと言います。「地下4.3mの建物跡から発見された甲羅形の供物。下の歯を2本突き出す表現は、火の神ウェウェテオトルの特徴と一致する」(傍に掲示の説明文転記)展示室の壁面には、アステカの代表的な神々の図像が描かれています。何とか見られる図像だけ掲載します。うまく撮れなかった図像が1点あります。 テスカトリポカ ケツァルコアトル ウィツィロポチトリ トラルテクトリこのセクションの最後の展示は、小さな金製装飾品でした。ここでもうまく撮れなかったのがあります。本特別展のPRチラシに載る画像を切り出してみました。 これを併用します。図像に付記された英字の順でご紹介します。a 「人の心臓形ペンダント」 高さ2.9cm、幅1.7cm アステカ文明 1486~1502年 b「テスカトリポカ神とウィツィポチトリ神の笏形飾り」 高さ14.8cm、幅3.2cm アステカ文明 1486~1502年 c「トラルテクトリ神形飾り」 高さ8.6cm、幅5.3cm アステカ文明 1486~1502年d 「巻貝形ペンダント」 高さ2.9cm、幅3.3cm アステカ文明 1486~1502年e 「鈴形ペンダント」 高さ2cm、幅0.9cm アステカ文明 1486~1502年 f「耳飾り」 左:高さ8.3cm、幅4.2cm 右:高さ89cm、幅4.2cm アステカ文明 1486~1502年これらの金製品は近年、テンプロ・マヨール(大神殿)の3箇所の埋納石室から出土したもの。「最新発掘成果~金製品一挙公開~」だそうです。「テンプロ・マヨールを中心とする都の『聖域』では、これまで15.5%にあたる1.9ヘクタールの面積が調査されています。近年では68か所の埋納施設から10万点を越える遺物が出土し、特に金製品はメソアメリカでは珍しいものとして注目を集めています」(案内パネルの説明一部転記)古代メキシコ地域の発掘調査・研究は今なお着々と継続されています。新たな発見と古代メキシコの文明がさらに解明されることを期待したいものです。これで、特別展「古代メキシコ」の覚書を兼ねたご紹介を終わります。序でに国立国際美術館で眺めた彫刻2点をご紹介します。 地下2階の平常展示はクローズドでしたが、この作品だけ展示されていました。マーク・マンダース(1968- )作 「乾いた土の頭部」 2015-16傍の小さな掲示を見ずに、作品だけ眺めてそのトリッキーさに惑わされてしまいました。乾いた土頭部の表層が剥がれそうな脆さを感じさせる作品。美しい1/2の頭部。後で掲示文をみると、「ブロンズ、彩色」と明記されていました。おもしろい! 地下1階に戻って、眺めたのがこの彫刻です。ヘンリー・ムーア(1898-1987)作 「ナイフ・エッジ」 1961/76 ブロンズ側面からは眺めなかったのですが、意外と薄くてたいらだとか。刃物の切っ先に似ているところから、このタイトルが付いたと言います。ムーアの作品はそのフォルムに暖かみを感じます。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺テンプロ・マヨール :ウィキペディアテンプロ・マヨール :「世界遺産オンラインガイド」Templo Mayor Museum ホームページTemplo Mayor at Tenochtitlan, the Coyolxauhqui Dtone, and an Olmec Mask :「Khan Academy」テスカトリポカ :ウィキペディアケツァルコアトル :ウィキペディアウィツィロポチトリ :ウィキペディアトラルテクトリ :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ
2024.04.27
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<Ⅲ-5 チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市>のセクションに入ります。 壁面には、チチェン・イツァの「エル・カスティーヨ」と呼ばれるピラミッドの大きな写真パネルが掲示してあります。斜めから撮りました。冒頭の地図では左側に小さな写真が載っています。線をたどると、この都市の中央に位置します。地図・右上の写真:左は「ツォンパントリ」、右は「大球技場」地図・同右下:左は「戦士の神殿」、中央は「金星の基壇」、右は「グラン・セノーテ」9世紀にマヤ文明の中心はユカタン半島の北部に移り、10世紀頃にはチチェン・イツァが、マヤ地域での最大の都市になります。(案内パネルの説明より)近年の考古データから1000~1100年頃に衰退したものと考えられているそうです。 「チチェン・イツァのアトランティス像」 石灰岩 高さ85.5cm、幅47.5cm マヤ文明 900~1100年 「王座の下に置かれた、両手で王座と王を支える人物像。チチェン・イツァでは身なりが異なる複数の像があり、宮廷の様々な人物を表すとみられる」(傍に掲示の説明文転記) 「トゥーラのアトランティス像」 玄武岩、彩色 高さ80cm、幅41cm マヤ文明 900~1100年こちらは、防具を着けた戦士の姿です。同様に王座の支えと考えられています。 「チャクモール像」 石灰岩 高さ94cm、幅105cm マヤ文明 900~1100年「腹の上に皿状のものを持つ石像であり、そこに神への捧げ物を置いたと解釈されている。チチェン・イツァとトゥーラから多く見つかり、両都市の関係を示す。その後、チャクモール像はアステカにも受け継がれた」(傍に掲示の説明文転記)チャクモールという名称は現代の研究者がつけた便宜的な呼び名であり、古代の名前はわかってはいないそうです。「15~16世紀のメキシコ中央部のチャクモールには、心臓の図が彫られたものもあるため、人身供犠の犠牲者から取り出された心臓を置くこともあったと考えられる。800年以前のマヤやメキシコ中央部にはチャクモールやそれに似た像は見つかっていないため、その起源も謎に包まれている」(図録の解説を一部転記)ようです。このチャクモール像の背景は、チチェン・イツァの「戦士の神殿」の大きな写真が壁面になっています。その神殿にチャクモール像が置かれているのが眺められます。 「イクの文字のペンダント」 ヒスイ 高さ16cm、幅18.5cm マヤ文明 600~1000年 壁面には、「グラン・セノーテ」の景色の写真パネルが展示されています。ペンダントは、このグラン・セノーテに投げ込まれていた供物のようです。「ペンダントの中央にマヤ語で風を意味し、かつ人の息、生命力、風の神、雨の神なども象徴するT字型の切り込み(イクの文字)がある」(傍に掲示の説明文転記)作品です。グラン・セノーテ出土の「カエル形装身具」(金銅合金製)、「鈴付き甲羅形ペンダント」(銅と金めっき製)の小品が展示されていましたが、写真がうまく撮れませんでした。 「サンダル」 銅と金めっき 長さ15.4cm、幅8.5cm マヤ文明 1200~1540年 このサンダルも上掲グラン・セノーテからの出土「実用か供物用かは不明だが、人身供犠の生贄が履いていた可能性も考えられる」(傍に掲示の説明文転記)そうです。 「モザイク円盤」 木、トルコ石、貝、サンゴ、黄鉄鉱、粘板岩 直径24.5cm マヤ文明 900~1000年 エル・カスティーヨの古い方のピラミッド内から出土「戦士が腰の後ろに着けた鏡の飾りである・・・・トゥーラの戦士の石像にも表現されており、両都市のつながりを示す」(傍に掲示の説明文転記)最後はいよいよ<アステカ文明>です。<Ⅳ-1 大国への道>というセクションから始まります。その最初に、 「メンドーサ絵文書(複製)」が展示されています。原品 1541年頃 洋紙 高さ35.5cm、幅25cm(閉じた状態)これは、スペインによる征服後の1541年頃、ヨーロッパ製の紙に先住者が記録し、スペイン語の書き込みが付け加えられた文書です。この文書に、テノチティトラン創設の場面が描かれているそうです。「岩に生えたウチワサボテンの上に鷲がとまる図像は、のちに訪れる王国の繁栄と共に、太陽神ウィツィロポチトリを表している」とか。(傍に掲示の説明文転記)そうです。 テノチティトランの案内パネルが掲示されています。 1325年頃、メキシコ盆地にあるテスココ湖に浮かぶ島に、メシーカ人が首都テノチティトランを築きました。やがて人口20万人以上の大都市へと成長したそうです。「メシーカ人は近隣の都市と同盟を結び、1430年頃にはアステカ王国として体制を整えます。征服により現在のメキシコとグアテマラ国境までを版図とし、その広大な領域支配における貢納制が王国の基盤となりました」(傍に掲示の説明文転記)スペイン人の到来と多くの都市がアステカ王国に反発しスペイン人に加担したことにより、1521年アステカ王国は首都が陥落し、滅亡に至ります。 テノティトランには「大神殿(テンブロ・マヨール)」が築かれました。Aのエリアが大神殿で、Bのエリアは「鷲の家」と称されています。 「男性像」 安山岩、貝 高さ62.5cm、幅21cm アステカ文明 1325~1521年「理想的な男性の躯体の美しさや、賢明さなどの倫理的な模範を表す。一般庶民(マセワリ)もしくは神の像であり、本来は布などの素材でできた装束をまとっていたとの説もある」(傍に掲示の説明文転記) 「マスク」と「耳飾り」「マスク」 貝、黒曜石、蛇紋岩 高さ22.5cm、 幅21.5cm テオティワカン文明 200~550年「耳飾り」 緑色岩 左:幅7.2cm 右:幅7.5cm アステカ文明 1469~1481年「テオティワカンの仮面に、メシーカ人が目や歯、耳飾りをつけるなど、手を加えたもの。彼らは過去の文明の遺物を掘り起こし、それらを魔術的な力をもつ聖なるものとみなし、大神殿に奉納していた」(傍に掲示の説明文転記) 展示室の中央に、「鷲の戦士像」が置かれています。一周して全体を眺めることができます。 土製 高さ170cm、幅118cm アステカ文明 1469~1486年上掲の大神殿平面図、鷲の家(B)のエリアの☆印のところから出土したとか。「戦闘や宗教に重要な役割を担った勇敢な軍人である鷲の戦士とみられる像。鷲の頭飾りを被り、羽毛や鈎爪の装束を身に着ける。勇ましく戦死して姿を変えた戦士の魂や、太陽神の姿を表すという説もある」(傍に掲示の説明文転記) 鷹の戦士像の背後の仕切り壁面に設置された大きな写真パネル。これは大神殿(テンブロ・マヨール)内に築かれたツォンパントリ(ドクロの基壇)です。もう一つの壁面にはこの大きな写真パネルが掲示されています。 画像処理を加えてみました。「太陽の石」と称されています。図録には載っていませんので、調べてみますと、「アステカの暦石」と称される事もあるようですが、暦の機能はなく、アステカの宇宙観、時間観、歴史観を表す石彫の造形物だそうです。(資料1)この石彫の造形物、考古学ではテマラカトゥルと呼ばれていて、「生贄の石」だとか。人身供犠の儀式に使われたようです。この石彫の表面から血液反応がみられ、赤と黄色を基調とした色素も発見されているそうです。それでは「Ⅳ-2 神々と儀礼のセクションに進みます。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」20231. 太陽の石 :ウィキペディア補遺チチェン・イツァ :ウィキペディアCHICHEN ITZA :「マヤ遺跡探訪」チチェン・イツァ :「世界遺産オンラインガイド」マヤのピラミッドに科学のメス、謎を解明へ :「NATIONAL GEOGRAPHIC」アントニオ・デ・メンドーサ :ウィキペディアアステカ :ウィキペディアテンプロ・マヨール :ウィキペディアテンプロ・マヨール :「世界遺産オンラインガイド」戦士の神殿 :「4travel.com」【世界遺産】チチェン・イッツァ遺跡は見所満載!観光に役立つ豆知識とは?:「世界トリップ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.26
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「パカル王とみられる男性頭像(複製)」 漆喰 高さ40.8cm、幅20.6cm 原品 マヤ文明 620~683年頃<Ⅲ-4 パカル王と赤の女王 パレンケの黄金時代>のセクションの最初にこの複製頭像が展示されています。原品はパレンケの「碑文の神殿」のパカル王墓内で見つかったそうです。 会場に掲示されたパレンケの神殿配置図では、右に縦に2つ並ぶ建造物写真の上段が「碑文の神殿(パカル王墓)」です。実線をを辿ると位置がわかります。パレンケの最盛期は615~683年のキニチ・ハナーブ・パカル王の治世だそうです。「ジバンチェの侵攻により荒廃したパレンケの王位に12歳でついたパカルが、活発な建築活動にとりかかり、戦争と外交により周辺都市への影響力を取り戻すのは40代以降のことである。王宮の拡大に多くの労力を注ぎ、マヤ地域で最も壮麗な建造物の一つにした」(図録の解説文転記)パカル王は、マヤ人としては高齢の80歳で亡くなったと言います。 「96文字の石板」 石灰岩 高さ59cm、幅135cm マヤ文明 783年783年にキニチ・クック・バフラムの即位20周年を記念して彫られたものだそうです。 この碑文の模写図が掲示してあります。 「パレンケ王朝系譜」のパネルが掲示されています。中央の左の頭像がパカル王、右のマスクが赤の女王。バフラム王は系譜図の最下端です。 「デュペの石板」 石灰岩 高さ41.8cm、幅27.7cm マヤ文明 654年頃パレンケの王宮南部の「地下の建物」の完成を記録した石板で6つの石板の一つ。18世紀半ばにパレンケが発見された後、初期の探検家ギジェルモ・デュペが1807年に持ち帰ったことで、この名があると言います。 「葉の十字の神殿の南わき柱」 石灰岩 高さ174cm、幅34cm マヤ文明 692年「キニチ・カン・バフラムは、父の王墓である碑文の神殿ほか、パレンケの守護神を祀る十字グループと呼ばれる神殿群を築いた。本石彫はそのひとつ、葉の十字の神殿内、祠入り口のわき柱を飾った」(傍に掲示の説明文転記) 「太陽の神殿の北の石板」 石灰岩 高さ123cm、幅90cm マヤ文明 692年「太陽の神殿の祠にあった石板。中央の戦士はパカル王の息子キニチ・カン・バフラムとする説が強い。テオティワカンの嵐の神を表す胸のペンダントなど壮麗な装いは、トニナに勝利した祝いの祭礼における姿と考えられる」(傍に掲示の説明文転記) 「香炉台」 土器、彩色 高さ53cm、幅45cm マヤ文明 680~800年土器の香炉台はパレンケ特有のもので、キニチ・カン・バフラムの代に作られるようになったそうです。「マヤの儀式では、コーバルという木の樹脂から作られた香がさかんに焚かれたが、そのための石や土器で作られた香炉が、神殿や住居の内部やまわりに置かれた」(図録の解説転記)香炉自体が神を表し、この香炉台の人の顔はキニチ・カン・バフラムかもしれないとか。 「香炉台」 土器、彩色 高さ81cm、幅41.5cm マヤ文明 680~800年夜間に地下界に入った太陽の神が描かれていると考えられています。 「香炉台」 土器、彩色 高さ72cm、幅46cm マヤ文明 680~800年こちらは、マヤ神話において重要な役割をもつ鳥の神と考えられるそうです。 「キニチ・アフカルを表す文字」 漆喰 高さ13cm、幅15.5cm マヤ文明 722~742年西暦722年に即位したキニチ・アフカル・モ・ナフブの王名の前半部を示すそうです。ナフブ王はトニナに対して劣勢となったパレンケの栄華を取り戻すために、十字グループと称される神殿群の南に、新たに神殿群を造営したそうです。 「漆喰彫刻」 漆喰 高さ13cm、幅16cm マヤ文明 734年「キニチ・アフカル・モ・ナフブが造営した19号神殿の漆喰彫刻。マヤ神話のトウモロコシ神の子である英雄、フーン・アガウとみられる」(傍に掲示の説明文転記)この特別展のハイライトの一つは「レイナ・ロハ」の発見です。レイナ・ロハとは「赤の女王」という意味で、パカル王の妻、イシュ・ツァクブ・アハウ王妃と推定されています。赤の女王の展示室に行く前に、スクリーンの映像でのプレゼンテーションがあります。 その一つがこれ。「碑文の神殿(パカル王墓)」の西隣りに「13号神殿」があります。王と王妃は隣り合う神殿に埋葬されたのです。 1994年始めに13号神殿の考古学調査が実施されました。一枚岩の石棺の発掘調査で、深紅の辰砂(水銀朱)に覆われ、多くの装飾品を身に着けた女性の遺体が発見されたのです。遺体が辰砂で覆われていたことから、「赤の女王」と呼ばれるようになりました。状況証拠から、パカル王の王妃と考えられています。 そして、遺体に伴う副葬品の研究が進展し、この頭飾りに至るまでの復元が試みられました。 図録のカバー表紙の一つに使われているのが復元された「赤の女王のマスク」「赤の女王の冠」「赤の女王の首飾り」です。「赤の女王」展示室に進みましょう。赤の女王の墓室を模したした展示空間が演出されていましす。 展示室の中央に設置されたガラスケースに石棺内部の当初の状態が復元されています。赤の女王の足元と両側面の三方向から展示品を眺めることができました。 人骨等の研究から復元された赤の女王の生前の顔が頭部側に描かれいます。 「頭飾り」 ヒスイ輝石岩、貝、石灰岩 高さ19cm、幅15cm 「冠」 ヒスイ輝石岩 直径25cm「マスク」 孔雀石、ヒスイ輝石岩、黒曜石 高さ20cm、幅14cm「首飾り」 玉髄 長さ25cm「胸飾り」 ヒスイ輝石岩 高さ36cm、幅46cm 左肩の傍に「貝」が置かれ、その中に「小像」が見えます。「貝」 ウミギクガイの一種であるスポンディルス貝「小像」石灰岩 高さ6cm、幅2.3cm貝は、「原初の世界を想起させるものとして供えられたと考えられ、小像は、肉体が滅びた後でも女王の姿がわかるように、生前の姿をとどめおくためのものであったと思われる」(図録の説明より転記) 「小マスク」 緑玉髄、貝、黒曜石 高さ12.5cm、幅8.4cm左手の指先より少し下方に「小マスク」が置かれています。これは、腰のあたりに置かれた手斧の形をした石灰岩製の3枚の板の「ベルト飾り」とこの「小マスク」を合わせて、「ベルト」を構成するものと考えられています。左手の横に置くことにしたのには何らかの理由があったのでしょうね。石灰岩のベルト飾りは、各、高さ17.5cm、幅6.1cm。 「腕飾り」 緑色岩 各 高さ14.5cm、幅12cmこれは右手の腕飾りを撮りました。左手にも同様に腕飾りを着けています。部分図を撮り忘れたのがあります。左手の臂辺りに「針」が置かれています。 緑色岩 長さ11cm 「針は織り手をつかさどる神とつながりがあり、生殖力、若さ、健康を表すとされる。これらを赤の女王は来世で手に入れたいと願ったのかもしれない」(図録の解説転記)両足には「足首飾り」が着けられています。 ヒスイ 各直径1.5cm 特別展のPRチラシに載る「赤の女王」です。マヤ文明の最後の展示、<Ⅲ-5 チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市>に進みます。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺パレンケ :ウィキペディアPALENQUE :「マヤ遺跡探訪」古代都市パレンケと国立公園 :「世界遺産オンラインガイド」Tomb of the Re Queen From Wikippedia, the free wncyclopediaThe Red Queeen and Her Disters: Womenof Powerin Golden Kingdoms :「THE MET」Mystery Queen in the Maya Tomb :「NATIONAL GEOGRAPHIC」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.24
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「書記とみられる女性の土偶」 土製 高さ15.5cm、幅10cm マヤ文明 600~950年右手に文書を携えている表現から、女性の書記と考えられています。 「骨製品」 骨 マヤ文明 600~950年書記の使った筆の柄かと想定されているようです。<Ⅲ-2 マヤ世界に生きた人々>のセクションでは、いろいろな土偶と生活の道具が展示されています。「大規模な農地造成に向かない熱帯のマヤ低地では、都市と周辺部の境界があいまいでした。商業や工芸品制作などの経済活動は、都市の住民のみに集中せず、農民もある程度の石器づくりなどを行なっていたようです。 また、都市に住む上流階級の人々も政治や外交活動だけでなく、儀礼の執り行ないや公共建築の計画など多様な仕事に従事しました。例えばマヤ文字を書き残した書記は、文字の習得のほかにも、天体観測やそれに基づく暦の記録、彩色土器などの美術品の制作や音楽などにも優れていたようです。」(案内パネル転記) 「道化の土偶」 土製 高さ16.5cm、幅9cm マヤ文明 600~950年「太った男」と呼ばれるタイプの土偶。綿入れのような防具を着用していて、都市において儀礼的な格闘を行った道化師と推測されているそうです。 「織物をする女性の土偶」 土製 高さ16.5cm、幅10.3cm マヤ文明 600~950年機織りはマヤの女性にとり重要な仕事であり、女性の社会的地位や誇りと結びついていたと言います。大きな耳飾りと首飾りを着けていることから高位の女性と考えられています。 「紡錘車」 土製 左:直径3.3cm 右:直径2.9cm マヤ文明 年代不明 「紡錘」 木 長さ14.7cm マヤ文明 年代不明「このような紡錘車に木の棒などを通したものに、綿花の先端部をつけ、独楽(コマ)のように回しながら綿を引き延ばして、糸を撚った。・・・・紡錘車は王公貴族の住居からも出土しており、上流階級の女性も長い時間をかけて糸を紡いだと思われる」(図録の説明より) 「鹿狩りの皿」 土器、彩色 高さ10cm、直径31.6cm マヤ文明 600~700年マヤ地域で鹿は最も重要な狩猟対象であり、動物性タンパク源だったと言います。この皿には、周辺に鹿の頭飾りを被り吹き矢で狩猟する様子と、中央に仕留めた鹿を背負って運ぶ狩人が描かれています。「鹿の頭飾りは狩猟の際の偽装のほか、儀礼や戦争の際に支配者層が被ることもあり、何等かの象徴的な意味をもつと考えられる」(傍に掲示の説明文一部転記) 「押型」 土製 高さ9.2cm、幅3.5cm マヤ文明 600~950年 「押型」 土製 左:高さ2.8cm、幅4cm 右:高さ4.6cm、幅4.1cm マヤ文明 年代不明「赤や黒、白などの顔料が付着した例があり、布や皮膚に文様をつけるための道具と考えられるが、印(はんこ)のように紙などに使われた可能性もある」(傍に掲示の説明文転記) 「貴婦人の土偶」 土製、彩色 高さ21.6cm、幅10cm マヤ文明 600~950年マヤ・ブルー色のドレスで、儀礼か宮廷での謁見のための装束と思われるとか。大きな頭飾りを着けている頭部は、トウモロコシの実のように頭蓋変形し、トウモロコシ神に似せたものと考えられるそうです。 「戦士の土偶」 土製 高さ14.9cm、幅10.7cm マヤ文明 600~950年この姿は実戦向きではなく、都市で行われた儀礼的戦闘の闘士、あるいは儀式用の盛装をした戦士を表していると考えられています。 「捕虜かシャーマンの土偶」 土製 高さ28.8cm、幅14.9cm マヤ文明 600~950年帯を巻いた頭飾りは神官を表すとされますが、ヒスイではなく紙帯を耳のピアスの穴に通していることや、左手に巻かれた縄の表現から、高位の戦争捕虜の可能性があると考えられています。 「円筒形土器」 土器、彩色 高さ16.7cm、幅8.6cm マヤ文明 600~850年カカオ飲料に使われた土器。円筒形土器に上からカカオ飲料を徐々に垂らすことで泡立てて飲むことが好まれたそうです。<Ⅲ-3 都市の交流 交易と戦争>のセクションに移ります。「マヤ地域では各地で都市国家が群雄割拠し、盛んな交流が行われました。定期的な儀礼や王の即位の際には他の都市の王や貴族が訪問し、美しい彩色土器などを交換したり、貢物として食料を贈ったりしたようです。また、王朝間で婚姻関係を結ぶことも、重要な外交戦略のひとつでした。 戦争では位の高い人物を捕虜にすることが重視され、多くの場合、捕虜は生贄に捧げられました。マヤ低地南部では、ティカルの王朝と、ジバンチェとカラクムルを拠点とする王朝とが二大強国としてライバル関係にあり、多くの都市がその影響下にあったと考えられています」(案内パネルの転記) 「円筒形土器」 土器、彩色 高さ16cm、幅15.2cm マヤ文明 600~850年カカオの飲料用に使われたと思われる土器。宮殿での外交儀礼の場面が描かれています。動物の頭飾りを被り、体を黒く縫った人物は外交使節を表し、左の方に、出迎える側の人物が鳥の頭羽飾りを被っていると言います。 「道標」石灰岩 高さ30cm、幅11cm マヤ文明 600~800年パレンケの中心部と周辺の町をつなぐ道の開設を記念して建てられた石彫と考えられるもの。 「首飾」 貝、緑色岩 長さ132cm マヤ文明 250~1100年マヤ人は、ヒスイとウミギクカイを特に珍重したそうです。ヒスイはグァテマラ南東部のモタグア川流域でのみ産出され、ウミギクカイは太平洋沿岸で採取されるもの。それらが交易によりもたらされたのです。中央のペンダントはトウモロコシ神を表すそうです。 「神の顔形エキセントリック(両面加工石器)」 チャート 高さ31.7cm、幅26cm マヤ文明 711年頃金属を持たない古典期のマヤの人々は、黒曜石やチャートなどでナイフなどの実用の道具を作り、一方、祭祀具も制作しました。「4つの角にみられる人の顔のような造形は、世界の四隅を守る神の姿か」(傍に掲示の説明文転記) 「アラバスター容器」 アラバスター(トラバーチン) 高さ17.5cm、口径16cm マヤ文明 800~1530年炭酸カルシウムが層状に堆積した半透明のアラバスターで作られた容器。メソアメリカ各地で珍重されたと言います。 「猿の神とカカオの土器蓋」土器、彩色 高さ18.3cm、口径33cm マヤ文明 600~950年猿はカカオの果実が好物だそうです。この土器蓋には、猿の神が表され、首にカカオの実の装飾が見られます。カカオの主産地はメキシコのチアパス州からグァテマラにかけての太平洋岸です。カカオは飲料の他に通貨としても使われたそうです。 「トニナ石彫153」 砂岩 高さ73.5cm 幅55cm マヤ文明 708~721年マヤ地域南西の辺境トニナ出土。捕虜を描いた石彫です。トニナからは捕虜を描いた石彫が特に多く出土するそうです。好戦的傾向が強い地域だったようです。捕虜は服や装飾品を剥がされ、ピアスの穴には紙の帯を通されて縄で縛られました。捕虜は、さらし者にされたの人身供犠に捧げられたり、奴隷にされたりすることが多かったと言います。 「トニナ石彫171」 砂岩 高さ50cm、幅136cm マヤ文明 727年頃球技の場面を描いた石彫。中央のゴムボールの上に、マヤ文字で西暦727年にあたる年が記されているそうです。トニナのアクロポリス、水の宮殿出土。右がカラクルム王、左がトニナの王であり、両国の外交関係を象徴するものと考えられるとのこと。 「トニナ石彫171」に画像処理(色彩補正)を加えてみました。 「書記の石板」 石灰岩 高さ132cm、幅71cm マヤ文明 725年頃「耳に通された紙の帯は捕虜、左手の旗状のものや右手に掛けられた布は、儀式用の装束を表わすと考えられる。儀式を行なう捕虜か、捕虜のような姿で儀式を行なう神官とみられる」(傍に掲示の説明文転記)「書記の石板」という名称は、この人物の右手に持つものが筆のように見えることに由来するそうです。その解釈が適切かどうかは不明とのこと。 「書記の石板」に画像処理(色彩補正)を加えてみました。一隅で次のセクションへのスクリーン・プレゼンテーションが行われています。 <Ⅲ-4 パカル王と赤の女王 パレンケへの黄金時代>のセクションに進みます。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺Maya Civilization From Wikipedia, the free encyclopediaMaya script From Wikipedia, the free encyclopediaトニナ :ウィキペディアTONINA 1 :「マヤ遺跡探訪」TONINA 2 :「マヤ遺跡探訪」カカオ :ウィキペディアグァテマラ共和国 :「外務省」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.23
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昨日(4/22)、小さな庭に薔薇が一輪咲いていました。夜来の雨は、今朝止みかけていました。 薔薇を見ますと、花はうつむいて、 花びらは雨滴をまとっています。手元の本には、薔薇の花言葉がいろいろ出ています。(資料1)「わが心、君のみが知る」「照り映える容色」「愛」「愛らしい」「温かい心」「美」(黄色のばら)「尊敬」(白色のばら) 雨樋に蔓が巻き付いて二階の方に伸び広がっているジャスミンも、昨日咲き始めていました。 部分的に白い花を咲かせています。 4/8時点では、まだこんな感じだったのですが・・・・。 ジャスミンの小さな蕾一つひとつに、今朝は雨滴が留まっています。 一日のことですが、白い花がさらに広がっているように感じます。 ジャスミンの蕾に雨滴がひとやすみ。ジャスミン(Jasmine)は、「神様からの贈り物」という意味のペルシャ語「ヤーサマン(ヤースミーン)」が語源となっているそうです。淡いピンクの蕾から白い花が咲くハゴロモジャスミンは、羽衣伝説の「天の羽衣」をイメージして名前がつけられたとか。ハゴロモジャスミンの花言葉は「誘惑」「官能的な愛」「優しさを集めて」。「あなたは私のもの」という花言葉も。(資料2)手元の本は、「インドでは、恋人からジャスミンを贈られると、髪に編み込み、変わらぬ愛の印とするとか。『愛の花』と呼ばれるのはこのため」と述べ、花言葉を「愛らしさ」と記しています。(資料1) 玄関前の鉢にも、紫色の花、シランが咲き始めています。この和名は紫色の蘭に由来するそうです。この花もちょっとうつむいて・・・・・・。シランの花言葉は、「あなたを忘れない」「楽しい語らい・変わらぬ愛」「苦しむ勇気」だとか。(資料3)ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1. 『366日誕生花の本』 瀧井康勝著 日本ヴォーグ社2. ハゴロモジャスミンはどんな花? 特徴や花言葉、育て方について:「GARDEN STORY」3. シラン 花言葉 :「花言葉・誕生花」(HanaPrime)補遺ジャスミン :ウィキペディアジャスミンとカロライナジャスミン(有毒) :「東京都兼好安全研究センター)ジャスミンの香りと効能・使い方 :「AROMA SOMMELIER アロマソムリエ」シラン :「みんなの趣味の園芸」シラン 生薬の花 :「日本薬学会」テイカカズラ 生薬の花 :「日本薬学会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.23
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それでは、<Ⅲ マヤ 都市国家の興亡>に進みます。いよいよ<マヤ文明>です。冒頭の景色は、<Ⅰ 古代メキシコへのいざない>での、スクリーンによるプレゼンテーションで触れられたマヤ文明におけるパレンケに所在する「碑文の神殿」です。図録カバーの裏表紙にその神殿の部分拡大図が使われています。 「マヤ地域に、碑文や王墓を伴う王朝が明確に成立したのは、1世紀とされます。その後、250年から950年頃にかけて、ピラミッドなどの公共建築、集団祭祀、精緻な暦を特徴とする都市国家が花開きました。 熱帯低地のマヤ都市では食物の長期保存ができず、権力による経済の統制や、強力な軍隊の保有は困難でした。その代わりに、建築活動や集団祭祀による共同体の結びつきを維持することが重要視されました。祭祀空間を築き、暦に沿って祭祀を執り行なうことは、王の重要な役割であり、そうした王の功績を顕彰する碑文の存在が、王権のよりどころでした。 マヤ地域が政治的に統一されることはなく、交易や外交使節の往来などの友好的な交流、時には戦争による覇権争いを通じて、群雄割拠する都市国家が興亡を繰り返しました。」(掲示パネルの案内文転記)<マヤ文明>の展示は、<Ⅲ-1 世界観と知識>のセクションから始まります。 「星の記号の土器」 土器、彩色 高さ9cm、直径35cm マヤ文明 700~830年頃「中央の十字形と4つの円か成る黒い記号は、金星などの星、尾を引く図像は流星と考えられる。メソアメリカでは、金星は太陽と月と並ぶ重要な星として崇められ、観測の対象とされた」(傍に掲示の説明文転記)マヤの人々は、天体の動きを観測し、精緻な暦を作成。都市の広場での集団祭祀や自然界に存在する聖なる場所で儀礼を行うことは、社会の秩序維持に必要なことと考えていたそうです。「地上から見えない期間を挟んで、明けの明星、宵の明星としての期間からなる金星の周期が584日であることが正確に記録された。 メソアメリカを通して金星は戦争、狩り、破壊などを象徴するものと考えられた。この金星の周期などと対応し、複数の男性神が金星に関連するものとして、マヤや他のメソアメリカの神話で語られる」(図録の解説一部転記)そうです。 「吹き矢を使う狩人の土器」 土器、彩色 高さ7.7cm、直径36.8cm マヤ文明 600~850年体を黒く塗った狩り神、あるいはその姿を真似た狩人を描いているそうです。マヤ人は現代に至るまで、粘土玉を詰めた吹き矢を、鳥を撃つために使ってきたとのこと。吹き矢の狩りは神話上の英雄の行為をなぞるものでもあったのです。 「夜空を描いた土器」 土器、彩色 高さ9cm、直径24.5cm マヤ文明 600~830年半分は中央に月を描いた夜空の様子。あとの半分の文様の意味は不明なのですが、夜行性の鳥の羽かと、推定されています。天体をモチーフにする図柄は多くみられるそうです。 「セイバの土器」 土器、彩色 高さ7cm、直径37.3cm マヤ文明 600~830年セイバは、熱帯雨林の中で高く真っ直ぐにそびえ、白っぽい色の幹をもつ木のことです。人々にとっては神聖な木を意味し、地下世界と地上の世界、天上界をつなぐものと考えられたそうです。 「金星周期と太陽暦を表す石彫」 高さ74cm、幅70.5cm マヤ文明 800~1000年この石彫は、チチェン・イツァの「金星の基壇」と呼ばれる建物を飾っていた彫刻です。「左側が金星、右側が太陽暦の年を表わしており、縦の棒が数字の5を、8つの丸印が8を意味する。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年分にあたることを示すと考えられる」(傍に掲示の説明文転記)この図のスタイルから、チチェン・イツァの人々が、メキシコ中央部の文化要素を取り入れていたことがわかるといいます。 「トニナ石彫159」 左岩 高さ58cm、幅73cm マヤ文明 799年頃「トニナの王8(名称不詳)に捕らえられたポボイの捕虜が描かれている。碑文には、戦いに長けた王8が多数の捕獲者という称号をもっていたこと、西暦799年に先祖の墓に火を入れる儀式を行なったことなどが記されている」(傍に掲示の説明文転記)マヤ人は、「先祖の墓を開け松明を持って入り、骨や副葬品を取り出したりすることがあった。それは祖先とのつながりを強め、現世の王の権威を確認する意味もあった」(図録より)とのこと。また、中央の捕獲された人物は、「チフの都の者の捕獲者」という称号を持つ高名な戦士だったそうで、マヤの戦争では高名な高位の人を捕虜にすることが重要だったようです。「捕らえられたポモイの人が、衣服を剥がされ、縄で縛られ、ヒスイの耳飾りの代わりに紙の帯を耳に付けられるという、辱められた姿で描かれている」とのこと。(図録より) こちらは次の <Ⅲ-2 マヤに生きた人々> のセクションの始まり。仕切りとなる壁面にこの図が描かれています。この壁面の前に展示されているのが、 「支配者層の土偶」 土製、彩色 高さ21.8cm 幅9.5cm マヤ文明 600~950年「大きな口を開けた蛇の冠を被り、壮麗な服を着て、円形の王座か椅子に座っている。このような豪奢な服装は、大きな祭祀の装いである。王ないしそれに次ぐ高位の男性を表した土偶であろう」(傍に掲示の説明文転記)左手に袋を持っています。コーバルと呼ばれる樹脂を使った香を入れているかもしれないと推定されてうます。(図録より)展示品を見ていると、壁面に映写されていくものがあるのに気づきました。それはマヤ文字の映写でした。 後で少し調べてみますと、左側の部分は点と棒により数字を表しているようです。下に数字が明示されていることと対応しています。マヤ数字は五進法的であると同時に二十進法的な位取り記数法のようです。(資料1)一方、右側の絵文字は「頭字体」(頭または横顔を描いた字体)と称するそうで、これも数字を表しています。頭字体では、13以降は10を表すあご骨がつくそうです。(資料2)マヤ文字解読のための試行錯誤の歴史は古いそうですが、1950年代になって黎明期を迎えたそうです。「旧ソ連の言語学者ユーリ・クロノゾフが、マヤ文字に日本語の仮名のような音節文字が存在することに気づき、またテキストの構造も、ちょうど漢字仮名交じり文のような、表語文字と音節文字の組み合わせである、と見抜いたのである。これによって神秘のマヤ文字の解読は確かな戦略を得た」(図録、p100より)と言います。現在では、「マヤ碑文学」が成立し、マヤ考古学は今、歴史考古学的な段階に入っているとこと。今後ますます、マヤ文明の実態が明らかになっていくようです。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」20231, マヤ数字 :ウィキペディア2. マヤ暦 :「地球ことば村」補遺マヤ文明 :ウィキペディア謎に彩られた古代文明・マヤ文明 :「THE PLANET」(Nikon)マヤ文字の神秘 :「モリサワ」マヤ文明の数字(マヤ数字)を生成する :「Qiita」マヤ文字 :ウィキペディアユーリー・クノロゾフ :ウィキペディアチチェン・イッツァ :ウィキペディアチチェン イッツァの魅力!見どころや歴史などを解説 :「NEWT」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.22
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朝、雨が降り始める前に撮りました。小さな庭に、ツツジが咲き始めました。 ツツジの左側の方に、3種の花が咲いています。画像検索で調べてみました。 ツルニチニチソウ チロリアンランプがこの2箇所だけに咲いています。ウィキペディアでは、ウキツリボクという名称で項目があり、園芸においてはチロリアンランプとも呼ばれると説明されています。 1本だけ咲いているこの花、イングリッシュ・ブルーベルのように思えます。花はどうして咲く時期がわかるのでしょう。素朴な疑問です。ご覧いただきありがとうございます。補遺ツルニチニチソウ :「みんなの趣味の園芸」アブチロン・チロリアンランプ :「川崎市総合教育センター」ウキツリボク :ウィキペディアイングリッシュ・ブルーベル :ウィキペディアイングリッシュ・ブルーベル :「After Gardening」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.21
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入口近くに展示のこの「鳥形土器」がまず目を惹きつけました。土器に奇妙な装飾片が付いています。発掘者は「奇妙なアヒル」と命名したそうです。ナルホドと感じます。 土器、貝、緑色岩 高さ24.5cm、幅35cm テオティワカン文明 250~550年城塞の西に位置する住居址内で発見された埋葬体の副葬品多くの貝製品と共に出土しており、メキシコ湾との交易を行う貝商人が住んでいた可能性を示唆するそうです。<Ⅱ-4 都市の広がりと多様性>と題した案内パネルと図録の解説によりますと、発掘調査により蓄積された考古学データからいくつかの事項が明らかになります。要点は次のとおり。*西暦200年頃までに三大ピラミッド、死者の大通りなど中心部が計画的に整備された。*その後、周辺部に多くは石造の集合住宅が建設された。その数は2000ほど。*窓がなく、多くの部屋の漆喰の壁に極彩色の壁画を飾るグループの住居群と、 都市の境界地区の壁画のない質素な住居群に住む集団との社会階層差が存在した。*土器、黒曜石、貝製品などを作る専門家集団の工房跡が発見されている。*オアハカやマヤなどからの移民集団居住区が発見されている。*国家に従事する戦士の存在。軍事力と国家統率力の強い多機能な国際都市だった。 「嵐の神の壁画」 土漆喰、鉱物顔料 高さ48cm、幅91cm テオティワカン文明 350~550年嵐の神が、トウモロコシを入れた籠を背負い、右手にトウモロコシを持ち、それを人々に与えている場面あるいは、トウモロコシの儀礼場面の描写と考えられているそうです。「口からの吹き出しは、言葉、歌、または儀礼の呪文と思われる」とか。テオティワカンの多くの建物-住居群、公共建造物、儀礼施設-が赤を中心とした多彩色の壁画で飾られ、都市空間を彩っていたそうです。 「嵐の神の屋根飾り」 土製、彩色 高さ69.5cm、幅55cm テオティワカン文明 250~550年大半の住民は、中央の中庭とそれを囲む四方の部屋というアパートメント式住居施設に住んでいました。中庭に面した四方の部屋の上部に、屋根飾りが設置されていたそうです。展示の屋根飾りは、頭飾りを被り、両手をかざした嵐の神を象っています。アステカ文明で「トラロク神」と呼ばれた嵐の神は、雨と農耕を司ったそうです。 「香炉」 土器、彩色 高さ57.9cm、幅40.4cm テオティワカン文明 350~550年香炉は、香を焚くくびれた胴部を持つ本体と、装飾片で飾られた蓋からなる土製の香炉台セットです。「本作は、鷲と蝶の図柄を中心に、矢と盾、鏡など戦士の装具がちりばめられ、死んだ戦士の鎮魂の儀式に使われたと思われる」(図録の解説より部分転記)装飾片は型造りで大量生産、香炉台は目的に応じて組み合わせを変えるという方法がとられたようです。 「香炉」 土器、彩色 高さ67.4cm、幅44cm テオティワカン文明 350~550年「香炉の多くは住居から出土し、祖先を祀る儀礼に用いられた。香炉を制作する工房跡が発見されており、国家が生産を管理していたとみられる」(展示品傍の案内転記)香炉台の工房跡は、城塞の北区で発見されているそうです。 蓋の中央部を切り出し、明るく画像処理してみました。「本作の中心となるメッセージを構成する蓋の中央にはマスクを貼りつけ、頭部には死んだ魂のメタファーである蝶や鷲、花、羽毛などで飾られた頭飾りを模し、向かって左側に弓矢の束と鏡、右側には盾と鏡、また胴部には『年の束(暦のサイクル)』と呼ばれる符号片が5つ並ぶ。死んだ戦士を弔う道具だったと考えられる」 (図録の解説より部分転記) 「マスク」 石灰岩、貝、黄鉄鉱 高さ17.5cm、幅15.8cm テオティワカン文明 350~550年テオティワカンのマスクは世界中の博物館などで550点ほど見つかっているそうです。このマスクは都市中心地区の工芸家区域で出土した数少ない事例の一つ。一部未完成か。制作直後で未使用のまま遺棄された可能性があるマスクだとか。「テオティワカンの特徴的な眼孔、鼻、口元の丁寧な加工がみられ、頬には象嵌予定であったと思われるくぼみがあり、使用痕のない耳と頭部の小穴はつなげて使用する意図を示唆している」(図録の解説より部分転記) 「盾を持つ小像」 土製、彩色 高さ14.8cm、幅17.9cm テオティワカン文明 450~550年テオティワカンの土偶は戦士像が圧倒的に多いそうです。しかし、副葬品としては出土しないとか。子どもの玩具だったかもしれないと言います。なお、本作は像の背面に支え棒がつけ加えてあるので、飾り用の可能性も考えられるそうです。 「人形骨壺」 土器、緑色岩、彩色 高さ34cm、幅21.2cm サポテカ文明 450~550年移民住民の地区で出土したもので、サポテカ族の制作品の特徴を示すことから、テオティワカンに持ち込まれたものが出土したと考えられているそうです。「おそらくテオティワカン住民と交雑したサポテカ血縁集団のリーダー、もしくは神格化した先祖、神を表わしたと推測される」(図録の解説より部分転記) 「三足土器」 土器、漆喰、鉱物顔料 高さ15cm、幅16.4cm テオティワカン文明 450~550年「典型的なテオティワカン様式の三足土器。心臓を抉られた生贄と、その心臓を挿したナイフを手に持つ神官もしくは戦士が描かれる。生贄儀礼は古代国家の最大の関心事であった」(展示品傍の案内転記) 「鏡の裏」 土製 直径26.5cm テオティワカン文明 450~550年黄鉄鉱の鏡の裏に貼り付けられた土製の円盤に描かれた図像です。羽を広げた鷲と円盤の中央に盾と、交差した投槍器が併せて描かれています。テオティワカンで初めて認識される歴史的人物を描いている可能性があるそうです。「マヤ文字解読によると、マヤ低地の中心センター、ティカル地域で記録されたテオティワカン王は『投槍フクロウ』と命名され、378年の『侵入』といわれるティカル征服を企て、のちに自身の息子をティカル王につけたと解釈されている」(図録の解説より部分転記)とのこと。この後、第Ⅲ部の<マヤ文明>のセクションに移ります。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺テオティワカン :ウィキペディアアトラトル :ウィキペディアアボリジニ文化体験 アトラトルを使った槍投げ − Spear Throwing at Rainforestation Nature Parkサポテカ文明 :ウィキペディア古代メキシコの都市形成史:世界の知的体系化と物質化 研究成果報告:「KAKEN」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.20
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第Ⅱ部はテオティワカン文明です。<Ⅱ テオティワカン 神々の都>というタイトルになっています。テオティワカン文明は、「前100年頃、メキシコ中央高原の海抜2,300mほどの盆地に興り、後550年頃まで栄え」、「約25K㎡の都市空間に、最大10万人ほどが住んでいたとされます。その民族、使われていた原語や文字などはわかっておらず、謎の多い文明です」(案内パネルより)テオティワカンは一大宗教都市だったと考えられているそうです。それ故、<神々の都>なのでしょう。この地図を部分拡大します。 死者の大通り(④)の北端に「月のピラミッド」(①)があり、この死者の大通りに面して、東側には「太陽のピラミッド」(②)と「羽毛の蛇ピラミッド」(③)が並んでいます。当時の人々の世界観がこの都市の中心地区に表れています。死者の大通りを中軸に建造物が整然と配置されているのです。「近年の調査により、最盛期にはメソアメリカのほぼ全域に影響力をもった国際都市であり、各地から人や物が集まる、活発な多民族国家の都であったことが明らかになりつつあります」(案内パネルより)第Ⅱ部の始まりは、<Ⅱ-1 太陽のピラミッド>です。 太陽のピラミッドこのセクションでは、壁面全体を使いこのピラミッドの景観写真パネルが設けてあります。観光客とピラミッドのスケール比を考慮しながら、写真パネルを眺めると迫力を感じます。「太陽のピラミッド」は、死者の大通りに面し、日没の方向にむいて建てられ、高さ64m。西暦200年頃の建設で、その後に増築されています。テオティワカンで最大の建造物。地下にトンネルがあり、最奥に王墓があったと推定され、王墓の上に建てられた神殿と考えられているようです。 真っ先にコレ! 「死者のディスク石彫(セキチョウ)」安山岩 赤い彩色痕 テオティワカン文明 300~550年1964年の発掘調査により、太陽のピラミッドの正面の「太陽の広場」から出土。中央の頭蓋骨は口から舌を出し、鼻の開いた穴にはナイフが差してあったとみられています。頭蓋骨の周辺には光が放射状に放たれるようなモチーフの装飾ディスクが彫り込まれています。メソアメリカでは日没は死、日の出は再生を意味するものとされました。地平線に沈んだ(死んだ)夜の太陽を象徴すると解釈されているそうです。 「マスク」緑色岩、黄鉄鉱 高さ10.8cm、幅11.2cm テオティワカン文明 150~250年ピラミッドの中心付近で出土。テオティワカンで確認されている最古のマスクだとか。瞳に黄鉄鉱が使われています。王墓に捧げられた奉納品と考えられるとか。 「頭飾りとペンダントを着けた小立像」 緑色岩 高さ16.2cm、幅5.1cm テオティワカン文明 150~250年この像、かつては耳飾りも着けていたとみられています。 「小立像」 緑色岩、貝、黄鉄鉱 高さ25.9cm、幅7.4cm テオティワカン文明 150~250年この二種の立像は、ピラミッドの中心付近で出土。儀礼品セットの中心付近に倒れた状態だったと言います。実在の高貴な人物、あるいは生贄となった人物を表すか? 同定するデータに欠けるそうです。 「火の老神石彫」 安山岩、彩色 高さ60cm、幅66cm テオティワカン文明 450~550年頭の上に火鉢を載せています。2012年に太陽のピラミッドの頂上部から出土。頂上部での火に関わる儀式で使われたとみられるそうです。同神の石彫は多くは住居群でみつかるとか。本作は最大で、通常使われない顔料も残っていたといいます。 太陽のピラミッドと死者の大通りの景観写真パネルがもう一つの壁面に展示されています。大型写真パネルは会場の雰囲気を大いに高めます。<Ⅱ 月のピラミッド>のセクションに進みます。月のピラミッドは地図の①のところです。太陽のピラミッドに続き、2番目に大きなピラミッド。「発掘調査により、このピラミッドは西暦100年頃に建設され、その後約50年おきに、一回り大きなものへと、6回の増築が行われたことが明らかになっています。増築時には生贄が豪華な副葬品とともに捧げられていて、その数は37人に及びます」(案内パネルより)付近での出土品から、このピラミッドが月や水などを象徴していたと考えられることから、この名称がついたようです。 月のピラミッドの前には、「月の広場」を囲む形で、小、中型の神殿ピラミッドが対称的に設置されています。月のピラミッドの頂点は、背後にそびえる聖なる山の頂上と重なる様に設計されていると言います。 「耳飾りを着けた女性立像」ヒズイ輝石岩、黄鉄鉱、貝 高さ30.6cm、幅11.4cm テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓2出土 「首飾り」貝 長さ49cm、幅64.5cm(マウント) テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓2出土 「立像」 黒曜石 高さ49.8cm、幅12.4cm テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓2出土月のピラミッドの埋葬墓2からは、両手を後ろで縛られた生贄1体とピューマやオオカミ、ヘビやワシなどの動物と、上掲3点他の副葬品が出土したのです。 「モザイク立像」蛇紋岩、ヒスイ輝石岩、貝、黄鉄鉱 テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓6出土 上:「蛇形エキセントリック(両面加工石器)」 黒曜石 高さ39cm、幅7cm下:「ナイフ形エキセントリック(両面加工石器)」 黒曜石 高さ45.6cm、幅8cmテオティワカン文明 200~250年 埋葬墓6出土蛇形は羽毛の蛇神、ナイフ形は嵐の神が持つ稲妻を示すと言います。 「錐(キリ)」ヒスイ輝石岩 上:長さ11cm、下:長さ9.6cm テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓6出土「埋葬墓6の生贄2体の肩に刺さった状態で発見された。王や高位の神官が行う『放血』という自己犠牲の儀式を示すものか。素材のヒスイはグァテマラから運ばれたもの」(説明文転記)埋葬墓6からは、生贄12体が出土。上掲の副葬品は墓の中心部から出土したそうです。 「小坐像」 緑色岩 高さ6.1cm、幅3.5cm テオティワカン文明 250~300年 月のピラミッド 埋葬墓3出土 この墓には、異なった装飾品を着けた男性の生贄4体が並行に並べられていたそうです。「中央二人の陰部近くに、他の奉納品と共に置かれていた。・・・・神官を示す逆T字形の頭飾りと、取り外し式の耳飾りを着け、高貴な人物にのみ許される胡座の坐像は、生贄犠牲者に関わる王族メンバーを表しているのかもしれない」(図録説明より)とか。 「耳飾り、首飾り、ペンダント」ヒスイ輝石岩 テオティワカン文明 300~350年 耳飾り:(左)幅7.8cm、(右)7.5cm 首飾り:長さ47.5cm ペンダント:高さ4.5cm、幅10.8cm 月のピラミッド 埋葬墓5出土 埋葬墓5では、生贄3体が胡座の姿勢で発見されました。中央の中心人物がこの装飾品セットを身に着けていたそうです。展示品の説明文には、「3人の被葬者はテオティワカンの拡張期に争ったマヤの生贄だった可能性がある」とのこと。図録によると、このような装飾品セットは、マヤ圏ではマヤ王権のシンボルとして出土するそうです。<Ⅱ-3 羽毛の蛇ピラミッド>のセクションに進みます。 死者の大通りの南端で、通りに面して、一辺約400mの大儀式場「城塞」があり、その中心神殿が「羽毛の蛇のピラミッド」です。この大儀式場には都市の住民10万人を収容可能な規模だそうです。 このピラミッドの写真パネルに見える正面階段の両側の基壇部分がさらに拡大され展示室壁面を飾っています。壁面を飾る石彫の実物がこの写真パネルの前に展示されています。その一つが、 「シパクトリ神の頭飾り石彫」 安山岩、漆喰 高さ82cm、幅145cm テオティワカン文明 200~250年「シパクトリ」は時(暦)の始まりを象徴する創造神です。 「羽毛の蛇神石彫」 安山岩、漆喰 高さ61cm、長さ185cm テオティワカン文明 200~250年「羽毛の蛇神は天上界を治める太陽を、明けの明星として導く金星のシンボルであり、地上界においては民を治める聖なる王権の象徴とされる。羽毛の蛇ピラミッドは聖なる王権を誇示し、羽毛の蛇神により授与される戴冠式を表すメソアメリカの最初のモニュメントだった」そうです。 「指令棒(采配)」 木 長さ56.5cm、幅8.2cm テオティワカン文明 200~250年権力の象徴である羽毛の蛇神の頭部が彫られています。 「鼻飾り」緑色岩 上:高さ7.1cm、幅6.5cm 下:高さ6.5cm、幅7.8cm テオティワカン文明 200~250年上は、「ガラガエヘビの尻尾を象ったもので、高位の戦士か神官の象徴」下は、「シパクトリ神の頭飾りに付随するモチーフで、権力を象徴」 地下トンネルを描き加えたピラミッド図のパネルが展示されています。2003年には、羽毛の蛇神ピラミド下に地下トンネルが偶然発見されたと言います。地下トンネルの長さは103m、入口は垂直の穴で深さ15mに及び、水平にピラミッドの中心に向かっているそうです。内部が既に盗掘されていて、本来の機能は不明だとか。このトンネルの最奥部に王墓を備えていた可能性が高いそうです。 「立像」 緑色岩、黄鉄鉱 高さ50.5cm、幅20.5cm テオティワカン文明 200~250年 「立像」 緑色岩、黄鉄鉱 高さ36.5cm、幅14.8cm テオティワカン文明 200~250年この男性像は荷物を背負っている姿だったそうです。 「トランペット」 貝 高さ20.5cm、幅39.5cm テオティワカン文明 150~250年投槍器を持った人物が描かれています。 「トランペット」 貝 高さ23cm、幅40.5cm テオティワカン文明 150~250年ワニに似た神が描かれています。これらは、巻貝の先端を切り取り、吹き口とした楽器です。修験者が携えるホラ貝を連想しました。これらトランペットに描かれた図は、マヤ様式の図像に類似しているそうで、遠隔地との交流があった証拠になります。 「嵐の神の土器」 土器 高さ28.5cm、幅21cm テオティワカン文明 150~250年農業に欠かせない雨を司る嵐の神はテオティワカンでは最も重要な神のひとつです。水差し容器です。 「椀」 土器、漆喰、彩色 高さ10.8cm、口径43cm テオティワカン文明 200~250年「オレンジ色で、表面がよく磨かれた薄い容器は、テオティワカン南のブエブラ地域で生産され、市場での交換のために持ち込まれた」(展示説明を転記)上掲の立像から椀までの展示品は地下トンネルの最奥部から出土したものといいます。テオティワカン文明の展示の最後は、<Ⅱ-4 都市の広がりと多様性>というセクションです。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺古代都市テオティカワカン-太陽と月のピラミッドがそびえる神々の都市:「世界遺産ガイド」 テオティワカン :ウィキペディア太陽のピラミッド :ウィキペディア月のピラミッド :ウィキペディア月のピラミッド、太陽のピラミッド、死者の通り :「富山国際大学」太陽と月のピラミッド、テオティワカン 地球が見える2007年 :「JAXA」2993点の太陽のピラミッド :「gettyimages」 435点の月のピラミッド :「gettyimages」1191点の羽毛の蛇のピラミッド :「gettyimages」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.19
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大阪中之島美術館で「モネ -連作の情景」を鑑賞した後、久しぶりに美術館をハシゴしました。南隣りにある国立国際美術館で開催中の特別展「古代メキシコ」を続きに鑑賞してきました(4月12日)。 受付カウンターの近くのバナーエスカレーターで地下3階の会場まで下ります。 入口手前のバナー 入場券の半券共通に現れているものが古代メキシコで栄えた諸文明のシンボルになっています。 髑髏は「死のディスク石彫」と称され、<テオティワカン文明> 仮面は「赤の女王のマスク・冠・首飾り」と称され、<マヤ文明> 人物は「鷲の戦士像」と称され、<アステカ文明> 図録の表紙これは当日購入した図録のカバー表紙です。今回の図録のおもしろい点は、図録のカバーは、上掲の3つのシンボルのどれかを選択できるようになっています。私は、マヤ文明のマスクを選びました。 図録の裏表紙ここには、マヤ文明で築かれた「碑文の神殿(パカル王墓)」の景色が使われています。他のシンボルの図録裏表紙が何かは確かめていません。各文明の遺跡かなと想像していますが・・・。今回の図録、もう一つ今までの展覧会図録と異なる興味深い特徴があります。普通、図録の表紙は背の部分に展覧会の名称が記されています。今回はカバー表紙の背の部分には特別展の名称が記されているのですが、これを外すと、図録本体の背の部分は図録のページが綴じられた状態がそのまま見える形になっているのです。綴じ目がみえる形なので、図録の見開きページを完全に開ききることができる形になっています。見開きの2ページに跨がる写真は全体が見やすくなる利点があることに気づきました。さて、この特別展は全体が次の4部で構成されています。 Ⅰ 古代メキシコへのいざない Ⅱ テオティワカン 神々の都 Ⅲ マヤ 都市国家の興亡 Ⅳ アステカ テノチティトランの大神殿Ⅱ以下ではさらに展示内容がいくつかのセクションに区分されていきます。この特別展のうれしいいことは、会場内作品の撮影OKとなっていたことです。後で見ますと撮影に失敗した作品もありましたので、それらを除いたご紹介になります。展示会場の雰囲気などもご紹介できれば・・・・と思っています。それでは、「古代メキシコへのいざない」から始めましょう。 第Ⅰ部の案内パネルには案内文にこんな地図が付されています。今から13,000年以上前に、狩猟採集民がシベリアからアメリカ大陸に渡り、長い放浪を経て大陸を南下し、メキシコに到達しました。数千年かけてこの地の生態系に適応し農耕を基盤にした定住生活を営むように変化したそうです。そして多くの民族集団が形成されました。前1500年前にメキシコ湾岸部に興ったのが<オルメカ文明>。ほぼ同時期に、メキシコ中央高原やオアハカ地域にも中核的な集落が生まれ、都市が形成されていきます。<テオティワカン>、<マヤ>、<アステカ>はメキシコの古代都市文明の代表的な存在となるのです。地図の①はメキシコ湾岸部、②はメキシコ中央高原、③はオアハカ地域、④はマヤ低地、⑤はマヤ高地、⑥はメキシコ西部、⑦は太平洋南部地域、⑧はメソアメリカ南東部です。メソアメリカとは、「メキシコの大部分と中央アメリカのグァテマラ、ベリーズ、エルサルバドルおよびホンジュラス、ニカラグァ、コスタリカの一部を指す」領域で、16世紀のスペイン侵攻までは、この地域に様々な古代文明が栄えた文化史的領域を意味します。第Ⅰ部は、メソアメリカ最古の文明である<オルメカ文明>の出土品展示から始まります。 「オルメカ様式の石偶」 ヒスイ 高さ8.4cm、幅5.6cm 前1000~前400年小さな石偶です。「人とジャガーの特徴を併せもつとされる幼児の像」で、宗教的観念を表すものと考えられているそうです。 「マスク」土製・彩色 高さ9.6cm、幅16.9cm テオティワカン文明 350~550年テオティカワンの香炉台を飾った型づくりのマスク。鼻飾りと円形耳飾りが目立ちます。神官あるいは戦士を表すとか。 「貴人の土偶」土製・彩色 高さ27.2cm、幅10.5cm マヤ文明 600~950年この青色はマヤ・ブルーと呼ばれ、植物から採ったインディゴ(藍)とパルゴルスカイトという粘土を混ぜた顔料が使われています。ユカタン半島西岸のハイナ島は墓地として使われ、写実的な土偶が墓の副葬品として多く出土しているそうです。 「装飾ドクロ」 高さ15cm、幅14cm アステカ文明 1469~1481年「死者の世界の主」であるミクトランテクトリ神を表していると言います。「頭蓋骨を胴体から切り離し、前頭に毛を挿し込み。目のくぼみに貝殻と黄鉄鉱を嵌めたマスク」で、歯には生前に装飾的な加工が審美的な理由から施されていて、この頭蓋骨は20~30歳の成人男性のものとか。 展示の途中に、各文明が築いたピラミッド、神殿、王と王妃の墓などの壮大なモニュメントをスクリーン映像でプレゼンテーションする箇所があります。以降のセクションで、これらの景色が巨大な壁面パネルとして再登場します。展示会場の雰囲気を盛り上げる環境装飾になっています。それはちょっとした現地見学疑似体験となる大きさです。 「ジャガーの土器」 土器 マヤ文明 600~950年 高さ24.8cm、幅23.1cm ジャガーの頭部を象っています。ジャガーはアメリカ大陸では食物連鎖の頂点に位置するそうです。「メソアメリカでは、ジャガーは王や戦士の権威の象徴であり、神秘的な力をもつものとして崇拝された」「その一方、ジャガーは神への生贄として捧げられたり、その美しい毛皮のために狩られたりすることもあった」そうです。マヤ低地などの熱帯雨林がジャガーの主な生息域です。 「フクロウの土器」土器・彩色 マヤ文明 250~600年 高さ17.5cm、幅25.2cm 容器の蓋にフクロウの頭部が表されています。墓の副葬品。メソアメリカ全域に多様なフクロウが生息すると言います。「フクロウは、死者を予言する地下世界の使者と考えられた」 「クモザルの容器」アラバスター(トラバーチン)、黒曜石 高さ25cm、幅14.5cm 中央ベラクルス 950~1521年クモザルはメソアメリカの低地部に生息。「マヤ神話における猿は、神による創造の過程で、人間が作られる以前に、喋ったり神を崇めたりすることのできない失敗作として生まれ、森にととどまることになったとされる」マヤの神話で、クモザルは道化やいたずら者として表されているそうです。クモザルの目に黒曜石が嵌め込まれています。 「チコメコアトル神の火鉢(複製)」 土器・彩色 アステカ文明 1325~1521年メキシコ中央部の農民が最も崇拝した、熟したトウモロコシの女神で、その名は「7つ蛇」の意味だそうです。香炉です。手にはトウモロコシを二重にした形のセンマイトルという笏(シャク)を握っています。頭飾りは神殿の形をしていて巨大です。アマカリと呼ばれる飾りだそうです。 「メタテ(石皿)とマノ(石棒)」 玄武岩 テオティワカン文明 250~550年石皿:長さ27.6cm、幅18.1cm 石棒:長さ28cm、幅5.6cmトウモロコシの実を細かく挽き、すりつぶすための石皿と石棒です。現在も、トルティーヤを作るために同様の道具が使われているとのこと。 「暦の文字」 漆喰 高さ19cm、幅31cm マヤ文明 647年頃 パレンケの「パカル王が築いた『忘れられた神殿』の柱を飾った碑文の一部」で、「左側の数字が10、右側の文字が暦の20年の単位であるカトゥンを表わす」そうで、西暦647年3月5日にあたるそうです。これはそれぞれの数字関連する神の顔で表していると言います。 「夜空の石板」 安山岩 高さ54.5cm、幅29.2cm アステカ文明 1325~1521年 メキシコシティ出土「夜空を主題とする浮き彫りの石板。両脇には金星と星、中央にはワシと兵士が表されている。戦争や生贄で亡くなった兵士の魂は、太陽と共に天球上を旅しなければならなかった」 チェチェン・イツアにある「大球技場」の景色が壁面に掲げてあり、 「球技をする人の土偶」 土製・彩色 高さ12.7cm、幅12.4cm マヤ文明 600~950年帽子を被り、厚い防具を着け球技をする人の土偶です。主に腰を使って大きなゴムボールを打つ球技だそうで、王公貴族が重視したと言います。球技は戦争や人身供犠とも関連したそうです。 「ユーゴ(球技用防具)」 石 中央ベラクルス 600~950年腰につける防具。石製のものが実際に使われたのかは不明。石製は祭祀具で、実用品は木や革製という説もあるとか。 「ゴムボール」 ゴム 直径20.7cm マヨ族・現代のものゴムの木の樹液と熱帯朝顔の樹液を混ぜて作った中が空洞ではないボールです。腰で打ち合う球技の他に、グローヴやステックを用いるものなど様々で、球技場の形も異なるそうです。スポーツとしてだけでなく、人身供犠を伴う宗教儀礼や外交使節を迎える儀式として古くから行われてきたという説明パネルも掲示してあります。「人身供犠(ジンシンクギ)」については、次の説明パネルが掲示されています。「人間を生贄にする古代メキシコの慣習は『万物は神々の犠牲により存続しており、自らも他者のために犠牲を払うべき』という倫理観に基づくものでした。斬首や慎蔵の剥奪などの残虐な手法は、国家の覇権の誇示にも利用されました」 「シペ・トテック神の頭像」 玄武岩 高さ15cm、幅13cm アステカ文明 1325~1521年シペ・トテックとは「皮を剥がれた我らが主」という意味だそうです。「生贄となった人間の皮を身にまとった男性として表され」、「戦争とも関連づけられ、アステカの王たちは、戦争時はこの神に扮した」とか。 「テクバトル(儀礼用ナイフ)」 チャート、黒曜石 アステカ文明 1502~1520年左:高さ19.3cm、幅8cm 右:高さ12.8cm、幅5.8cm黒曜石は目を表していて、擬人化したものとみられるとか。 「歯状ナイフ」 チャート 長さ39cm、幅6.9cm アステカ文明 1469~1481年これらは生贄用のチャート製ナイフですが、埋納石室から出土したもので、使われた痕跡はなく儀礼用です。古代メキシコの様々な文明をいざないとして紹介した後、いよいよ各文明の展示セクションに導かれていきます。最初は、テオティワカン文明です。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺メソアメリカ :ウィキペディアオルメカ :ウィキペディアチョコレートの始まり(メソアメリカ文明) :「日本チョコレート・ココア協会」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.18
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総門を入ると、右側に「放生池」があります。参道を進み、右折すると「三門」前に至ります。その三門の前に放生池があります。総門を入り、すぐ右に進めば、放生池の西辺です。池をはさみ、東に三門が見えます。北西隅に見えるのが、下段の石碑です。「水廊 山□放光」(第2字私には判読できません) 日曜日(4/14)に東宇治図書館に行った続きに、萬福寺の放生池に立ち寄りました。池の西辺、築地塀沿いに咲く桜は既に葉桜になりつつあります。なごりの桜をしばし眺めてきました。来訪者はちらほらで、静かでした。 池の西辺から三門を眺めても、桜の木々が少しなごりを留めるくらいです。 池の西辺と築地塀との間に設けられた小川の流れ 池の南辺に回り込み、北を眺めた景色。左端に総門が見えます。白壁の建物は「看門寮」という木札が掛けられた建物です。その名称から想像すると、門衛所という意味合いでしょうか。この建物の背後の左端手前に見えるのが、上掲の石碑です。咲く桜はわずかに・・・。黄檗霊園のある丘陵地が背景となっています。ツツジの咲く時期が良い所です。 池の東辺から西方向の眺め 池の東辺を南側から眺めて。桜、さくら、なごり惜し。 三門は三間三戸、重層の楼門造りです(重文)。 大棟の中央に火焔付宝珠 降棟の鬼瓦 稚児棟の鬼瓦 二層目の正面に隠元禅師の書による「黄檗山」の扁額が掲げられ、一層目の中央の扉の上部に隠元書「萬福寺」の扁額が掲げてあります。 三門前から総門へ戻る参道の曲がり角あたり。こちらが本来の参道です。ご注目いただきたいのは、平石を敷き詰めた参道ではありません。正方形の平石が菱形に敷かれてていて、両側を角柱状の石が一列に敷き詰められています。「石條」(せきじょう)と称するそうです。この形式は、龍の背の鱗をモチーフにしたデザイン。萬福寺の伽藍全体が龍をモチーフにした形でもあるそうです。石條(参道)は龍の体の一部。総門の外側、道路を挟んだ西側には、「龍目井」が二つあります。龍の左右の目に喩えられた井戸です。 総門を入った後の参道に戻って目に止まったのが、この「石條」の左(北)側に咲き誇る1本の木です。 八重桜が満開に近く、咲き誇っていました。この放生池の周辺では紅一点という感じになりつつあるところです。時をずらして花開くのはいいですね。華やかさがよみがえります。 なごりの桜から満開の頃を想像するだけで終わらずに、咲き誇る八重桜を楽しめたのがラッキーでした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*境内散策 :「萬福寺」補遺黄檗宗大本山萬福寺 ホームページヤエザクラ :ウィキペディア八重桜の種類図鑑 :「Green Snap STORE」 牡丹桜との違いや品種ごとの違いや香り、開花時期は?(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -1 墓地と駐車場の桜 3回のシリーズでご紹介 2023年4月スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介 2022年1月探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 7回のシリーズでご紹介 2022年4月探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -1 霊園のツツジ、北向地蔵尊、宝蔵国師開山塔と諸石塔 2回のシリーズでご紹介 2021年5月
2024.04.17
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昨年初めて大阪中之島美術館を訪れた時は、京阪電車中之島線の「渡辺橋」駅で下車して美術館に向かう際、この位置と視点から美術館の建物を眺めるということがありませんでした。 建物の手前まで真っ直ぐに行き、この階段傍の美術館名表示を見て、階段を上がって建物の広場の傍に置かれた ヤノベケンジ作「シップス・キャット(ミューズ)を眺め、芝生の広場の野外展示を眺めて、美術館の入口に向かいました。そのため、この広場に続く館内のフロアーを1階と錯覚してしまったのです。実は2階です。今回は広場に野外展示はなく、芝生が広がるだけでした。 展覧会場へはエスカレーターで一気にあがります。ただし、2階から4階へはこの真っ直ぐなエレベーターで4階まで吹抜の空間を上昇します。4階で5階へのエレベータに乗り換えです。この吹抜空間がビルとしては実に開放感があって良い。ゆったりと、ゆとりの空間という感じです。 5階の展示室を巡って、出口から出ますと、4階への緩やかな階段があります。この階段から見えるのがこれです。 4階と5階の一部が吹抜の空間になっていて、この巨大な像が4階のフロアーに置かれています。ヤノベケンジ作「ジャイアント・トらやん」全長約7mあるそうです。北加賀屋にあるMASKから2022年冬、開館前にこちらに引っ越した作品です。(資料1)4階から2階へは降りのエスカレータで一気に下へ。 2階の一隅に、モネ展の大きな案内パネルが設置されていました。 2023.11.24エスカレータの設置された吹抜の空間は、1階への幅の広い階段が設置されたエリアに連なり、そこはさらに1階までの吹抜の空間になっています。 2階の東側の通路を南に進みます。建物の南東角、ガラス壁面越しに眺めた景色。ここ、かなり広いスペースになっています。「多目的スペース」として位置づけられています。 振り返ってみた2階フロアーの景色。正面に見える立方体の反対側(北面)にエレベーターが設置されています。 南側のガラスウォールに近づいて、国立国際美術館と大阪市立科学館を眺めた景色余談ですが、2023年11月に初めて訪れた時には、 仮設の個展ギャラリーとして利用されていました。 2023.11.24吹抜空間に戻り、1階への階段を下ります。 1階の中央部の西側に「ホール」が設けてあります。壁面にHALLの表示。まずは南に進みましょう。 バリー・フラナガン作「ボウラー」(1990年)というブロンズ像が置かれています。 通路の先は、1階の南の出入口です。左(東)側は、ショップエリアです。後でご紹介。 それでは、逆に北方向に進みましょう。 1階の北側の出入口 北の出入口から外に出ますと、すぐ右(東)側には、堂島川に架かる田簔橋に向かう道路への通路になっています。 左(西)側は駐車場です。この駐車場の上が、芝生の広場になっているのです。美術館の正面側からみれば、外観の一見は階段で丘に上がれば芝生の広場があるという景観に見えます。 建物の東側に出てみました。 美術館の東側の道路傍から眺めると建物の1階東面はこんな景色です。北と南のショップエリアの間に、東側の出入口があります。 南のショップエリアは、「HAY OSAKA」というデンマーク系インテリアプロダクトブランドのお店。 1階の東側、歩道に面して手前(北側)のショップエリアは、カフェレストラン「ミュゼカラト」があります。2階のエリアに連接する歩道橋からテラス席を撮ってみました。併せて、美術館の東側面の景観がおわかりいただけるでしょう。 歩道橋を渡辺橋駅の方向(東)に渡って、道路の東側から撮った景色 1本の桜の木が満開でした。「モネ -連作の情景」を鑑賞し美術館内を巡ってみた後、展覧会のハシゴをしました。国立国際美術館で開催の特別展「古代メキシコ」に立ち寄りました。次回はこちらをご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*施設案内 :「大阪中之島美術館」1. 【開館まで残り15日!】 :「大阪中之島美術館」補遺大阪中之島美術館 ホームページYANOBE KENJI ホームページMASK [MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA] ホームページ (おおさか創造千鳥財団)バリー・フラナガン :ウィキペディアThe Estate of BARRY FLANAGAN ホームページ(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪中之島美術館 -1 「モネ -連作の情景」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-1 外観と芝生広場 3回のシリーズでご紹介
2024.04.16
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先週の金曜日(4/12)に大阪中之島美術館に出かけてきました。「モネ -連作の情景」を鑑賞するために。 展覧会は5階の展示室。2階から一直線のエスカレーターで一気に上ります。 これはモネの展覧会のPRチラシ。2つ折のA4サイズ。掲載の絵を後で引用します。 前売り券を事前に購入していました。上掲チラシの表紙と同じ絵が使われています。この絵は、「3章 テーマへの集中」と題するセクションに展示されている「ラ・マンヌポルト(エトルタ)」(1883年、メトロポリタン美術館蔵)と題する絵です。チラシの絵は原画と比べると右側が少しカットされています。入場券ではさらに右側がカットされた絵になっています。波が激しく湧き立ち、トンネル状の岩に砕け散り、岩の内側に光が当たっている様子のポイントを感じるのに支障はありません。この絵では、岩の上部がカットされた構図です。一方、この絵の右隣りには、同じ場所がトンネル状の岩の上部を描きこみ、横方向を更にカットした縦長の構図で描かれた「エトルタのラ・マンヌポルト」(1886年、メトロポリタン美術館蔵)が展示されていました。一方、「ラ・マンヌポルト(エトルタ)」の左側には、「アヴァルの門」(1886年、島根県立美術館蔵)と題する同じエトルタの近くで描かれた絵が展示されています。これもひとつの連作なのかもしれません。展示は5章構成になっています。 一部の絵について撮影OKでした。 1章 印象派以前のモネ 2章 印象派の画家、モネ 3章 テーマへの集中 4章 連作の画家、モネ 5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭<1章 印象派以前のモネ>画塾で学んだモネは他の画家と同様に、サロン(官展)に入選して成功することを目標としていました。1865年に2点の海景画が入選しデビューを果たしたと言います。このセクションには、印象派としての絵を本格的に描き出す以前の初期作品が展示されています。 PRチラシから引用「昼食」(1868-69年、シュテーデル美術館蔵)と題するこの絵はサロンに落選した作品だそうです。伝統的な手法による絵だなと思います。1章に展示されている作品の中では一番サイズが大きい絵(231.5×151.5cm)です。展示されていた風景画には明るさを感じました。<2章 印象派の画家、モネ> 1870年代~80年代にモネはパリ北西のアルジャントゥイユで暮らしはじめ、セーヌ川流域を拠点に、各地を訪れて絵を描いたそうです。 PRチラシから引用この「モネのアトリエ舟」(1874年、クレラー=ミュラー美術館蔵)と、その隣りに「アトリエ舟」(1876年、ヌシャルテル美術歴史博物館蔵)が並べて展示されています。前者はアルジャントゥイユで描かれた作品です。このセクションでは、「ヴェトゥイユ」(1880年頃、グラスゴー・ライフ・ミュージアム蔵)、「ヴェトゥイユの春」(1880年、ボイマンス・ファン・ペーニンゲン美術館蔵)、「ヴェルノンの眺め」(1886年、クライスラー美術館蔵)が印象に残りました。<3章 テーマへの集中>最初にノルマンディー地方のエトルタで描いた作品に触れました。このセクションには、同じノルマンディー地方のブールヴィルで描いた作品が5点、その中にブールヴィルの断崖と海を描いた作品が4点展示されています。モネは「人影のない海岸など原初的な自然の風景を好んで描いた」(図録説明より)そうです。同じ風景の遠景あるいは近景を描き、太陽の光が生み出す断崖の変化、空の色や雲の変化、海の波の変化と印象をモネの目に映った情景として様々に描いています。中でも「プールヴィルの崖、朝」(1897年、福田美術館蔵)はまさに印象的風景という作品です。 PRチラシから引用これはイタリアのリゾート地、避寒地のボルディゲラで描かれた「ヴェンティミーリアの眺め」(1884年、グラスゴー・ライフ・ミュージアム蔵)です。この地で描かれた作品ではこの1点だけが展示されています。モネはパリとは違う地中海の明るい色彩や輝く太陽の光の違いなどを描くのに苦労したとか。モネはそのことをジヴェルニーで待つアリスに書き送っているそうです。(図録の解説より)<4章 連作の画家、モネ>1883年春、モネは42歳の時にセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住みます。そこはヴェトゥイユの下流に位置します。このジヴェルニーがモネの終の棲家となります。積みわらはジヴェルニーの秋の風物詩。この積みわらの景色がモネにとって体系的に「連作」の手法を実現する契機となったと言います。(図録の解説より) 「ジヴェルニーの積みわら」(1884年、ポーラ美術館蔵) 「積みわら、雪の効果」(1891年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵)この2点はチラシからの引用です。積みわらの作品は4点展示されています。1884年の作品が当初のもので。積みわらの光景をそのまま描いていますが、陽光を受けて変化する積みわらの光と影の描写が連作として変化していき、抽象化された積みわらに行き着きます。4点の展示ですが、作品の変貌が味わえます。 これは当日購入した図録の裏表紙です。「チャリング・クロス橋、テムズ川」(1903年、リヨン美術館蔵)の部分図が使われています。この隣には連作として「テムズ川のチャリング・クロス橋」(1903年、吉野石膏コレクション蔵)が展示されています。尚、図録の解説によれば、チャリング・クロス橋の連作は34点が知られているそうです。このセクションには、 撮影OKの箇所があります。ウォータールー橋を描いた連作の展示箇所です。 「ウォータールー橋、曇り」(1900年、ヒューレイン・ギャラリー蔵) 「ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ」(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー) 「ウォータールー橋、ロンドン、日没」(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)この連作も積みわらと同様に、ウォータールー橋の風景という要素はどんどん捨象されていき、日没の橋そのものの光と印象に絞りこまれていきます。<5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭> このセクションの最後の展示室は出口の手前で、多角形の広場風になっていて、特定の作品を除き撮影OKです。展示室両側を部分的に撮ってみました。 「芍薬」(1887年、ジュネーヴ美術歴史博物館蔵) 「睡蓮」(1897-98年頃、ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵) この作品の部分図が、購入した図録の表紙に使われています。CLAUDE MONETの文字が表紙に均等に配され、右下に展覧会のタイトルが小さな押さえとなっていますPRチラシの表紙の一面にもこの部分図が使われています。 「睡蓮」(1907年、石橋財団アーティゾン美術館蔵) 「睡蓮」(1914-17年、群馬県立近代美術館蔵) 「睡蓮、柳の反影」(1916-19年、北九州市立美術館蔵) 「睡蓮の池」(1918年頃、ハッソ・プラットナー・コレクション蔵) 「藤の習作」(1919-20年、ドゥルー美術歴史博物館蔵)モネは、ジヴェルニーの自宅敷地に、「花の庭」と「水の庭」を整備し、「水の庭」で睡蓮を栽培し、1890年代後半からは300点もの<睡蓮>に取り組んだそうです。「池には日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植えた」(図録の解説より)のです。上掲の作品はこの庭の草花の絵ですね。ジヴェルニーの庭、訪れてみたいなあ・・・・・・。1840年パリ生まれのクロード・モネは、1926年、ジヴェルニーで86歳の生涯を閉じました。「今日、モネは印象主義の創始者として、また抽象美術の祖としても国際的に功績が認められている」(図録の解説より)展覧会場を出た後、この美術館そのものに目を向けてみることに・・・・。初めてこの美術館を訪れた時に、錯覚していたことや見落としていたことがあったからです。展覧会の続きに、この美術館の再探訪をしてみました。つづく補遺クロード・モネ :ウィキペディアClaude Monet From Wikipedia, the free encyclopediaクロード・モネとは? :「This is Media」 代表作「睡蓮」などの有名絵画と生涯を分かりやすく解説!クロード・モネ :「美術手帖」Claude Monet (1840ー1926) :「THE MET」(The Metropolitan Museum of Art)印象・日の出 :ウィキペディアコレクション クロード・モネ :「ポーラ美術館」睡蓮 クロード・モネ :「国立西洋美術館」GIVERNY:ジヴェルニー、モネの庭園 :「O'bon Paris」ジヴェルニー :「BonNoyage.jp」ジヴェルニー :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪中之島美術館 -2 館内を巡る & 外観 へ
2024.04.15
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今朝、玄関へのアプローチの傍のプランターにポピーが咲いていることに気づきました。9282 この品種、ガーデニング用のシャーレーポピーだそうです。花言葉は「いたわり」「思いやり」「恋の予感」「陽気で優しい」などとか。(資料1) 2024.4.12アザレアは満開になりました。 道路側、南から今朝、小枝を3本切り取り、仏壇への供花にしました。咲き誇っていたアーマンディはもうほとんで枯れてしまいました。小さな庭にも、日々変化が生まれています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.ポピーってどんな花? 色・品種ごとに異なる花言葉や育て方をご紹介 :「GARDEN STORY」補遺ポピーの育て方 :「dinos」ポピーの仲間 :「JATAFF」(農林水産・食品産業技術振興協会)アザレア :「みんなの趣味の園芸」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.13
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伏見桃山陵の南の傾斜地に「乃木神社」があります。最寄りの駅は、JR奈良線「桃山」駅。近鉄京都線の「桃山御陵前」駅がJRの桃山駅から西方向500m位に位置します。一方、伏見桃山陵に一番近いのは京阪電車宇治線「桃山南口」駅だと思います。JR桃山駅からは東方向になります。 神社の門を入ると、参道の左側の桜が満開でした。最近になって、「桜狩」という言葉を知りました。紅葉狩という言葉は以前から知っていたのですが、桜は花見という言葉と直結していますので、それ以上に考えたことがなかったのです。辞書を引くと、「桜」の項に「桜狩」が併記され、「桜の花を観賞して山野を歩くこと」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明されています。伏見桃山陵はかつて豊臣秀吉が建てた伏見城のあった山の上にありますので、桜狩と言ってもおかしくはないでしょう。歳時記を調べてみますと、「花見」と同様に「桜狩」も季語として載っていました。 乃木神社は乃木希典を祀る神社。この胸像の台座正面には「学習院長時代の乃木将軍」と刻されています。「乃木希典大将夫妻を神として祀るということ」と題した案内板が門の近くに設置されていますので、正確にはご夫妻が祀られている神社です。1916(大正5)年9月の創建。伏見城(1595~1616)があった頃には、板倉周防守の屋敷跡だったところだそうです。(案内板より)今回は境内の桜を眺めることを主体にしてご紹介します。10日の午後に訪れたとき他の参拝者はなし。境内の静けさと桜を満喫できました。 参道を拝殿向かって歩むと、左側に「長府乃木邸」(旧邸)と傍の桜の木が見えます。室内にかつての様子を再現した家族の塑像が置かれていますが、塑像修復作業中の掲示が出ていました。 拝殿への途中の参道両側に巨大な石灯籠、拝殿手前に狛犬像が設置されています。 拝殿前左側に「乃木の名水 勝水」(御神水)が水を湛えています。龍頭の口が水を注いでいます。ここでも龍に出会いました。 境内の桜を眺めた後、伏見桃山陵に向かいます。神社前の道路を北方向に進めば、御陵内の脇道からメインの参道に入ることができます。 御陵の参道この参道の景色の少し手前、右側に、 駒札「伏見城に使用されていたと思われる石材 宮内庁」が設置され、石材が保存されています。 「明治天皇陵」の正面の景色 この陵内の右側に、1箇所だけ桜の木が見え、満開でした。 後は、御陵正面の少し急な石段参道の途中に桜の木をもう1箇所眺めることができました。 石段参道を下る途中で見上げた桜。乃木神社前の道から御陵内に入らずに、手前で交差する御陵の南側沿いの道路に右折して歩めば、この急な石段参道の入口に行くことができます。石段道を下り、この道路に出て、左折し道沿いに坂道を下ればJR奈良線が見えます。高架下を通り過ぎ、左折して線路沿いの道を進み、山科川に向かいます。 JR奈良線の軌道側壁のコンクリート壁面に、今では埋め込まれているかのように石灯籠が残されています。その傍に「伏見城御舟入址」と題した駒札が設置されています。伏見城を築く為に、宇治川を北に迂回させる大土木工事を行い、宇治川と山科川の合流点に御舟入(河港)が設けられました。この辺りが、その御舟入の北崖になるようです。(駒札より)近くに見える住所表示は伏見区桃山町新町です。この辺りから南に舟入があったのでしょう。今は南方向全域が住宅地になっています。 山科川(上流側)の景色 桜並木の背後は、小栗栖中学校と小栗栖市営住宅がある辺りだと思います。京阪電車とJR両線の「六地蔵」駅の北方向、山科川右岸(西側)沿いに「MOMOテラス」というショッピングセンターがあり、この傍から右岸堤防の上流方向に桜並木があります。そこから、上流側を眺めた景色です。 右岸の下流側の桜を眺めます。対岸に見えるのは「六地蔵総合病院」です。 ショッピングセンターを訪れる人々に慣れているのか、すぐ傍にいても鳩は飛び去ろうとはしません。 右岸の堤防道沿いに下流に向かえば、京阪電車宇治線の六地蔵駅が最寄駅になります。JR奈良線の六地蔵駅は、山科川の橋を渡った先になります。 堤防にはこの黄色い花が咲き始めました。ネットで画像検索してみますと、セイヨウカラシナのようです。(間違っているかもしれません・・・)これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。補遺伏見桃山 乃木神社 ホームページ明治天皇伏見桃山陵 :「宮内庁」伏見城 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」伏見桃山陵 :ウィキペディア伏見城 :ウィキペディア伏見桃山時代とは :「伏見観光協会」今はなき伏見城の跡を行く :「京都歴史ウォーク」(京都史跡ガイドボランティア協会)山科川 :「AGUA」セイヨウカラシナとは?特徴・見分け方や食用としての食べ方をご紹介! :「BOTANICA」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -2 桃山御陵(明治天皇陵・昭憲皇太后陵)
2024.04.13
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雨上がりの今朝(4/9)撮ったアザレアです。五分咲きを越えたくらいでしょうか。道路から玄関口へのアピローチの角、キンモクセイの木の根元。細長い小さな花壇の南端で、これまでボケの花が咲き誇っていた所です。まだ少し咲くボケの花の上を覆うようにして、アザレアの花が開いています。 集まって花開いている箇所 4/4には、蕾を付けたアザレアが目に止まるくらいの状態でした。 アザレアの下に、ボケが咲いています。 4/6には、花が開き始めました。 4/7に撮りました。 4/8に撮りました。 アザレアの花言葉は、いろいろと数多くあるようですね。(資料1)「あなたに愛されて幸せ」「青春の喜び」「恋の喜び」「満ち足りた心」「節度の愛」「節制」「充足」「禁酒」 2024.4.7玄関の傍の鉢植えにはレインリリーが咲いています。 2024.4.8 レインリリーの花言葉は、「汚れなき愛」「潔白な愛」「期待」だとか。(資料2) 2024.4.8ボケの花がちょっと隠れるように咲いています。健在です。 2024.4.8玄関脇の雨樋に巻きついて伸びているジャスミン。ここ数日で一気に蕾を一杯つけるようになってきました。花の季節が巡ってきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. アザレアの花言葉 名前の由来 :「花言葉 誕生花」2. レインリリー :「花を楽しむブログ」補遺アザレア :「みんなの趣味の園芸」アザレア :ウィキペディア夏に元気なレインリリーを次々咲かせたい :「みんなの趣味の園芸」ゼフィランサス・ハブランサス(レインリリー)の育て方・栽培方法 :「園芸通信」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.09
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仁王門通沿いの琵琶湖疏水の桜琵琶湖疏水の流れが東から来たり、北に向かって屈折する角から、東方向を撮った景色です。「杉浦能公演 春 百満」を京都観世会館で鑑賞するために、午後出かけてきました。会館に入る前のひととき、桜撮りをしました。琵琶湖疏水(以下、疏水)沿いに眺めた満開の桜をお楽しみください。 少し移動して鉄柵のすぐ傍から疏水を東方向に眺めて。正面に東山の山並みが見えます。朱色の橋は神宮道の「慶流橋」です。 仁王門通側に回り込み、北方向に流れる疏水を桜の花越しに眺めます。「二条橋」が見えています。 岡崎公園の南東角が対岸に。木々のむこうは「みやこめっせ」です。 仁王門通沿いの散策路から眺めた「みやこめっせ」の建物散策路を東に進みます。 「みやこめっせ」の東隣りは「京都国立近代美術館」です。 近代美術館の正面側近くの対岸から眺めた「平安神宮の大鳥居」大鳥居は神宮道にあります。 慶流橋の南詰から眺めた近代美術館傍の桜の並木。遊覧船が運航しています。 西から別の遊覧船がこちらに向かってきます。慶流橋の西側歩道からの眺め。 慶流橋の西側歩道から東側歩道へ横断します。疏水の北側には「京都市京セラ美術館」。疏水の東方向に見える橋は「広道橋」です。 疏水を遡上する遊覧船 大鳥居。14時14分に撮りました。この時点で青空、晴れ! 慶流橋を渡って、近代美術館側(神宮道の西側)に。今、京都国立近代美術館では、特別展「没後100年富岡鉄斎」が開催中です。慶流橋傍にこの案内板が出ています。 対岸の仁王門通の南側にある「有鄰館」が桜の木の向こうに見えます。有鄰館の東隣りが「京都観世会館」です。 仁王門通に戻り、京都観世会館に入る前に「白川」の桜を見にちょっと立ち寄りました。白川は京都市動物園の南で疏水に一旦合流した後、慶流橋の少し西で再び白川に戻ります。 仁王門通の近くの白川では、ここの桜が見事です。 ふと川に目を向けると、思わぬ光景が目に止まりました。 居心地が良さそうですね。さあ、そろそろ行かないと・・・。 白川の右岸(西側)から眺めた大鳥居と桜です。京都・岡崎からの花だよりです。ご覧いただきありがとうございます。補遺みやこめっせ ホームページ京都国立近代美術館 ホームページ藤井斉成会 有鄰館 :「京都ミュージアム探訪」京都観世会館 オフィシャルWebサイト白川(淀川水系) :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.07
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小さな庭で分散していたムスカリのプランターや鉢。それを玄関のアプローチの通路脇に家人が集めたとか。 道路から 通路半ばから 鉢やプランターが一箇所に集まると、ムスカリもちょっと賑やかになって見映えがします。 通路脇の小花壇に咲くクレチマス・アーマンディ。 玄関扉の前には、スズランスイセンが一鉢、咲いています。この花も、うつむいて咲いています。 花の重さで下向きなのでしょうか。 上に向かって咲くのが恥ずかしいのでしょうか・・・・。ちょっと、記録に留めるために撮りました。現時点(11:00)は、空はほぼ晴れています。スマホの天気予報では、現在19度。最高21度、最低11度。午後は曇りという予報です。補遺スノーフレーク(ヒガンバナ科) :ウィキペディアスノーフレーク(鈴蘭水仙)の育て方 :「GreenSnap」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.03.30
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これは、2023年7月に祇園祭・後祭の山鉾巡りをした時、新町通の八幡山近くで、屏風祭として開示されている町家の座敷を通りから拝見して撮った写真です。2023年の祇園祭のブログ記事に載せています。屏風に描かれた龍という視点で捉えると、過去の見聞から寺社仏閣、美術館、博物館、個人宅という様々なところに、屏風絵が所蔵されていることに気づきます。そこで、屏風の龍について、龍探しをしてみると、屏風絵としての龍図をそれなりに見つけることができました。以下、調べた範囲で出会えた龍たちのご紹介です。なお、順番はほぼ見つけた順でランダムのままです。☆ 海北友松筆 「雲龍図屏風(右隻)」六曲一双 北野天満宮蔵 (資料1)☆ 俵屋宗達筆 「雲龍図屏風」 紙本墨画 フリーア美術館蔵 (資料2)☆ 長谷川等伯筆 「龍虎図屏風」六曲一双 ボストン美術館蔵 (資料3)☆ 円山応挙筆 「雲竜図屏風」 (資料4)☆ 曾我蕭白筆 「群仙図屏風」六曲一双 (資料5)☆ 武井周発筆 「雲龍図屏風」紙本墨画/六曲屏風一隻押絵貼 愛媛県美術館蔵 (資料6)☆ 岡田嘉則筆 龍屏風「雲龍図」 現代 (資料7)☆ 雲龍図-屏風絵 栖足寺 お寺の小さな美術館 ドラゴンアートミュージアム 現代 (資料8)現時点で私が見つけたのはこれくらいです。天井画や襖絵と同様に、屏風絵もまた、現代において脈々と龍図を描くという行為が継承されていることがわかります。また、「綴プロジェクト」という形で、高精細度複製画技術を使った文化財の継承と鑑賞の機会を広げる活動も行われています。私は京都国立博物館と建仁寺でその実例を拝見したことがあります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 雲龍図屏風(右隻) 海北友松 :「文化遺産オンライン」2. 俵屋宗達筆 「雲龍図屏風」 :「Canon 綴 TSUZURI」3. 龍虎図屏風 長谷川等伯 :「Canon 綴 TSUZURI」4. 雲竜図屏風:円山応挙 :「日本の美術」5. 紙本著色群仙図〈曽我蕭白筆/三十五歳の款記がある/六曲屏風〉:「文化遺産オンライン」6. 武井周発筆 「雲龍図屏風」 :「文化遺産オンライン」7. 【館内屏風展示のご紹介】龍屏風「雲龍図」 :「LIFUL 介護」8. 【雲龍図-屏風絵】 150㎝X150㎝ お寺の小さな美術館 ドラゴンアートミュージアム 栖足寺本堂内にオープン A small museum in a temple Japanese Dragon Art Museum facebook 補遺―重要文化財 雲龍図屏風 特別公開― 北野天満宮 facebook曾我蕭白《群仙図屏風》狂気なる自我──「狩野博幸」影山幸一 :「artscape」岡田嘉則 :「foriio」2024年屏風展示のご報告 :「オーシャンプロムナード湘南」かっぱの寺 栖足寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山
2024.03.25
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10日前、3/14に「三月半ば 庭に咲く小さな花たち」で、咲き始めた写真を載せました。数日前から、アーマンディが満開の状態になってきました。 朝から小雨が降っています。スマホの天気予報では、12時15分過ぎの時点で11度、霧雨。夕方まで雨が続く。最高13度、最低7度という予報です。 クレマチス・アーマンディは、中国が原産地。漢名では「小木通」だそうです。(資料1)クレチマス・アーマンディの花言葉は「高潔」(資料1)、「心の美しさ」(資料2)手許の本では、クレマチスについて「心の美」と述べています。(資料3) 葉に雨滴が留まっています。 つぼみの花がありますので、しばらく咲き続けてくれそうです。庭に咲く花々の開花記録として・・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. クレチマス・アーマンディ :「GKZ 植物事典」2. 写真素材: クレマチス アーマンディ :「PIXTA」3.『366日 誕生花の本』 瀧井康勝著 日本ヴォーグ社補遺クレチマス(春咲き) :「みんなの趣味の園芸」クレチマスの花言葉:花言葉や花名の由来、種類、歴史は? :「Hana Saku」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.03.24
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禅宗以外にも龍との縁が深いことは、「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」のシリーズで触れてきました。いわば、その続きにもなります。天井画と襖絵などの領域で龍が描かれているかというという点です。龍探しをしてみますと、やはり龍はいます!!まずは天井画からご紹介します。☆ 東叡山寛永寺(天台宗) 根本中堂の天井絵「叡嶽双龍図」 東京都台東区 (資料1) 創建400周年記念事業の一環 日本画家 手塚雄二筆☆ 圓長寺(浄土真宗本願寺派)本堂の天井画 日本画家 村田林藏筆「雲龍図」(資料2) 長野県須坂市☆ 御寺泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山) 京都市東山区 (資料3) 仏殿 天井画「雲龍図」 公開 舎利殿 天井画 狩野山雪筆「龍図」 「鳴龍」として知られる。 非公開☆ 五智山蓮華寺(真言宗御室派別格本山) 本堂の天井画 西村公朝筆「雲龍図」 昭和53年(1978)に天井画が仏師西村公朝により復元された 京都市左京区 (資料4)☆ 狸谷山不動院(真言宗修験道大本山)会館の天井画 三輪兆勢筆「白龍の図」(資料5) 昭和40年(1965)作 京都市左京区一乗寺 非公開 ☆ 浄福寺(浄土宗) 本堂の天井画 山田文厚筆「雲龍図」 非公開 (資料5)一方、襖絵の方も龍探しでいくつかの事例に出会うことができました。☆ 最上稲荷山妙教寺(日蓮宗)墨絵画家 OHGUSHI 筆 八大龍王尊「雲龍図」襖絵(資料6) 岡山県岡山市 ☆ 本能寺塔頭龍雲院(法華宗) 柏原晋平筆「雲龍図」襖絵 京都市中京区 (資料7)☆ 十念寺(西山浄土宗) 曽我簫白筆「雲龍図」襖絵4面 非公開 京都市上京区 (資料8,9)===「禅と龍」への追補 ===龍探しで新たに見つけた龍たちのご紹介です。☆ 圓徳院(臨済宗建仁寺派) 高台寺の塔頭 書院 赤松燎筆「白龍図」襖絵 (資料10) 本尊正面の室中襖絵 平成7年(1995)制作 京都市東山区☆ 天龍寺(臨済宗)方丈の襖絵 若狭物外筆「雲龍図」 昭和33年(1957)作(資料5,11) 京都市左京区嵯峨☆ 大徳寺(臨済宗) 臨黄ネットの「第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図」は、法堂の天井画を紹介して いますが、この他に非公開のものとして、次の2ヵ所があるそうです。(資料5) 山門の天井画 長谷川等伯筆「雲龍図」 非公開 仏殿の障壁画 海北友松筆「雲龍図」 非公開☆金地院(臨済宗) 南禅寺塔頭 東照宮拝殿の天井画 狩野探幽筆「雲龍図」 拝殿の外から覗いて拝観できるそうです。 (資料5,12)☆麟祥院(臨済宗) 妙心寺塔頭 方丈(本堂) 海北友雪筆「雲龍図」襖絵 非公開(資料13)この辺りで龍探しの一区切りとします。つづく参照資料1.【東叡山寛永寺 創建400周年記念事業】「根本中堂」天井絵 内覧会 YouTube2. 仏画・襖絵・天井画 :「村田林藏 日本画の世界」3. 文化財・施設一覧 :「御寺泉涌寺」4. 蓮華寺(れんげじ)(Rengeji) :「京都通百科事典」 5. 京都市内のおもな龍図 PDFファイル :「Kyoto City Official Travel Guide」6. 最上稲荷山妙教寺 八大龍王尊「雲龍図」ふすま絵 :「OHGUSHI」7. 本能寺・龍雲院 襖絵奉納 :「KASHIHARA SHINPEI official information」8. 十念寺(じゅうねんじ)(JyuunenJi) :「京都通百科事典」9. 曽我簫白筆「雲龍図」襖(十念寺蔵)について 安井雅恵 PDF 京都市文化財保護課研究紀要 創刊号 2018年3月 ネット検索にて入手10. 圓徳院の見どころ 室中襖絵「白龍」 :「圓徳院」11. 天龍寺 大方丈 :「天龍寺・御朱印」12. 南禅寺塔頭 金地院 :「京都つれづれなるままに」13. 海北友雪筆 麟祥院本堂障壁画 :「公益財団法人住友財団」補遺東叡山寛永寺 ホームページ最上稲荷山妙教寺 ホームページ 長さ9メートル超 巨大「雲龍図」 最上稲荷で特別公開へ 26日から【岡山・岡山市】 :「8OHK」襖絵「雲龍図」 OHGUSHI作 / "UNRYU-ZU" by OHGUSHI YouTube芸術・情熱・苦悩6年。国際賞二冠を達成した10mのふすま絵「雲龍図」の長きにわたる挑戦とその軌跡 :「PRTIMES STORY」本能寺 ホームページ御寺 泉涌寺 真言宗泉涌寺派総本山 ホームページ蓮華寺 真言宗御室派別格本山五智山 ホームページ圓徳院 ホームページ圓徳院 :ウィキペディア金地院 :「京都観光Navi」浄土宗浄福寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧条
2024.03.22
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冒頭の写真は、地元にある黄檗山萬福寺の塔頭「瑞光院」を訪れた時に拝見した、山門の右側にある御堂の天井に描かれた龍図です。 堂内には隠元禅師念持仏の準堤観世音菩薩像が安置されています。拙ブログでは、「黄檗山萬福寺とその周辺を巡る」の探訪記シリーズの中でご紹介しています。前回触れていますが、本山の萬福寺は伽藍の配置で龍が示されており龍図自体は見かけません。各宗派の本山の周辺には、塔頭寺院があります。それらの塔頭や宗派に所属する寺院の中には天井画に龍図が描かれているお寺があることでしょう。しかし、瑞光院と同様に、インターネットでホームページを開設し情報開示されていないお寺も多くあると思います。一方、お寺自身からのインターネット情報発信がない場合でも、探訪記などで龍図に触れた記事があります。インターネットで龍探しの旅では役立つ情報です。ネット検索していて、瑞光院とこの天井画他のブログ記事を見つけました。補遺をご覧ください。この龍探しの旅では、探訪記などで取り上げられている龍図情報も気がついたものはできるだけ参照資料に活用しご紹介させていただきます。禅宗系の寺院での龍探しをしてみました。法堂や本堂の天井の雲龍図、また障壁画の雲龍図などを探してみました。順不同です。クリックしていただくことで、参照資料にアクセスしていただけます。☆ 建仁寺塔頭霊源院(臨済宗) 天井画の龍図 京都市東山区 (資料1)☆ 西陣興聖寺(臨済宗) 本堂の雲龍図 京都市上京区 (資料2)☆ 本覚寺(曹洞宗) 天井絵・雲龍図 岐阜県羽島市 (資料3) 1850年大和絵の絵師・浮田一恵(宇喜多一恵)作☆ 長壽寺(臨済宗妙心寺派) 本堂天井画 安藤美香(実香)筆「雲龍図」 (資料4) 長崎県北松浦郡小値賀町☆ 西光寺(曹洞宗) 本堂の天井絵「雲龍図」 川崎市麻生区 (資料5) 12年に一度辰年に一般公開されるそうです。☆ 長泉寺(曹洞宗) 本堂 飛騨の匠・山口権之正筆「龍の大天井絵」 (資料6) 塩尻市奈良井☆ 龍頭山鳳仙寺(曹洞宗) 本堂脇間の天井画「雲龍」 宮城県亘理郡山元町 (資料7)☆ 沖縄市観音寺(曹洞宗) 龍の天井画 書家根本みき筆 (資料8)ここまでが探せた範囲の天井に描かれた龍のいるお寺です。禅寺には、もう一つ、龍のいる場所として障壁画があります。多くは襖絵としてダイナミックに描かれています。襖絵の龍探しを試みました。以下の龍たちに出会いました。☆ 天龍寺(臨済宗) 曽我簫白筆「雲龍図」襖絵 ボストン美術館所蔵の高精細度複製 京都市右京区嵯峨 綴プロジェエクトの制作・奉納 (資料9)☆ 龍安寺(臨済宗) 細川護熙筆「雲龍図」襖絵 京都市北区 (資料10)☆ 満昌寺(臨済宗建長寺派)雲竜図襖絵(非公開) 横須賀市 (資料11) ☆ 無量寺(臨済宗東福寺派) 長沢芦雪筆「龍図」襖6面 和歌山県・串本町 (資料12)☆ 大雲寺(曹洞宗) 武居梅坡作「水墨雲龍の図」 群馬県高崎市 (資料13) 襖絵を屏風絵に修復今までに襖絵の龍を見つけたのは以上です。龍探しの旅を続けていて、板戸に龍が描かれている一事例に出会いました。☆ 龍頭山 庄川寺(曹洞宗) 森山信谷画「龍虎水墨画板戸」 (資料14) 新潟県見附市庄川町この「禅と龍」を調べていて、他宗派のお寺にも天井画や襖絵などに描かれた龍にいくつか出会いました。つづく参照資料1. 臨済宗建仁寺塔頭霊源院 facebook 2. <PR>春の特別公開【西陣興聖寺】:「京都観光Navi」3. 本覚寺 (岐阜県羽島市) 天井絵・雲龍図 :「お寺の風景と陶芸」4. 長寿寺本堂の天井画について :「臨済宗妙心寺派 長壽寺」5. 西光寺 :「川崎・麻生観光協会」6. 長泉寺を知る :「長泉寺」7. 鳳仙寺について :「曹洞宗 龍頭山 鳳仙寺」8. 【水墨画|沖縄市観音寺に龍の天井画を奉納】 :「書家根本みき」9. 雲竜図 曽我簫白 文化財未来継承プロジェクト:「CANON 綴TSUZURI」10. 龍安寺 令和5年度 細川護熙筆「雲龍図」襖絵特別公開 :「京都観光Navi」11. 寺宝 雲竜図襖絵(非公開) :「建長寺派 満昌寺」12. 串本無量寺応挙芦雪館ご案内 ホームページ 13. 大雲寺の武居梅坡作 水墨雲龍の図 :「高崎市文化財情報」14. 龍頭山 庄川寺 :「曹洞禅ナビ」補遺直原玉青を堪能して…瑞光院 :「御朱印で居心地いい日にしよう」【京都府京都市】霊源院で墨龍図に感動しました【あじさい寺】 YouTube臨済宗 興聖寺 ホームページ ← 西陣 興聖寺天井画を描く7日間の制作ストーリー|総まとめ編|水墨画Art Vlog YouTubeみんなの寺 沖縄市観音寺 ホームページ沖縄観音寺 建長寺派 満昌寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 7回のシリーズでご紹介
2024.03.21
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これは超有名な興福寺の阿修羅(アシュラ)像。ウィキペディアの画像を引用。(資料1)阿修羅は八部衆に属します。元は古代インドの異教の神々の一つ。これらの神々が仏教に取り込まれ、仏法を守護する護法善神とされ、8つの部族に再編されて八部衆と総称されるようになりました。阿修羅はその八部衆の一部族です。この八部族は『法華経』の第3「比喩品」や『金光明最勝王経』などの経典に登場します。「天・龍・夜叉(ヤシャ)・乾闥婆(ケンダッパ)・阿修羅・迦楼羅(カルラ)・緊那羅(キンナラ)・摩睺羅伽(マゴラガ)」の八部族です。仏像としては天部に属します。わが国の仏教史においてこの八部衆への信仰は、奈良時代に限定されているそうです。(資料2)阿修羅を含む興福寺の八部衆が代表例になるのは、なるほどと思います、阿修羅像を最初に出せば、「八部衆」という護法善神のグループが印象に残るでしょう。この八部族の一つに、「龍」部族が組み込まれています。これが龍神です。梵名ナーガを漢訳したのが「龍」で、この龍が八部衆での総称となります。「その起源は、古代インドのナーガ族の蛇を神格化した信仰(大海に住む、雲をよび雨を降らす魔力を持つと信じられていた人面蛇尾の半神)にさかのぼり、ナーガ族が仏教徒になった折に仏教に取り入れられて、護法善神になったと考えられている」(資料2)とのことです。つまり、この時点からナーガは仏教との縁が深くなっていったのでしょう。仏教が東漸し、中国に入り経典が漢訳されるとともに、ナーガは龍として中国化されたのでしょう。さらに日本に仏教が伝播されて、現在の龍のイメージが確立・伝承されていると言えるようです。過去の探訪記録写真をベースに、「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」をまとめました。その折、浄土宗系の寺院では山門(三門)や建造物、灯籠などに龍像が使われている事例を取り上げています。 それが禅宗系の寺院になれば、さらに方丈の襖絵や法堂の天井画などに龍が現れます。このシリーズの最初を、 2018.11.10京都・建仁寺(臨済宗)の方丈の襖に描かれた海北友松筆「雲龍図」から始め、 2018.11.10建仁寺法堂の天井に描かれた小泉淳作筆「双龍図」をご紹介し、 東福寺(臨済宗)本堂の天井画、堂本印象筆「蒼龍図」にも触れました。 2012.3.16この「【龍/Dragon】探しの旅」で前回、狩野光信が慶長10年(1605)に相国寺法堂天井画「蟠龍図」を描いていることに触れました。相国寺も臨済宗の一本山です。わが地元の宇治市には黄檗宗の本山萬福寺があります。ここには龍図は描かれていませんが、山内の伽藍配置が龍を表しています。萬福寺については、拙ブログにて、「スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見」と題して、ご紹介しています。さて、京都には本山のある寺院が多いのですが、非公開もあれば撮影禁止のお寺も数多くあります。各地に出かけるということもそう簡単ではありません。そこからインターネットでの龍探しがリンクすることに・・・・。臨済宗と黄檗宗が合同で「臨黄ネット」という公式サイトを開設されています。このサイトに「展示室」というセクションがあります。ここに法堂(はっとう)の天井に描かれた龍について、「第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図」という紹介があります。(資料3)この第6回の記事で、 妙心寺 萬福寺 南禅寺 建長寺 東福寺 円覚寺 大徳寺 方広寺 永源寺 天龍寺 相国寺 建仁寺 向嶽寺 佛通寺 国泰寺の天井に描かれた龍と出会うことができます。簡潔な説明も付記されています。龍探しがまとめてできて、対比的に龍を鑑賞できる有益で便利なページです。このシリーズの冒頭に、八部衆の一つ、龍神に触れて、法堂の天井に描かれる理由が記されています。法堂は住職が仏法を大衆に説くための建物・場所です。天井の龍は、「それが法の雨(仏法の教え)を降らすという意味や、龍神が水を司る神であるため、火災から護るという意味がこめられます」(資料3)とのこと。「第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図」へのアクセスは龍探しの旅でのお薦めです。曹洞宗のお寺ではどうでしょうか。もう一つの禅宗として、やはり龍との縁はあるはずです。臨済宗の他のお寺も龍情報が開示されているでしょうか。【龍/Dragon】探しの旅を続けます。順不同になりますが、まずは龍に出会えた事例を三ヵ所ご紹介します。☆ 永興寺(曹洞宗) 本堂に「天井龍図」、庭には「龍の尻尾」をモチーフにした石造物があります。京都市山科区に所在。(資料4)☆ 高台寺(臨済宗) 開山堂天井の龍図。京都市東山区に所在。通常は非公開。(資料5)☆ 西光寺(曹洞宗) 天井絵「雲龍図」。川崎市麻生区に所在。(資料6)さて、どこまで辿れるか・・・・龍探しのネット旅を続けます。つづく参照資料1. 阿修羅 :ウィキペディア2.『仏尊の事典 壮大なる仏教宇宙の仏たち』 関根俊一 編 学研3. 第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図 :「臨黄ネット」4.山科 永興寺~本堂・龍の天井画&庭園・龍尾の石造~ :「とっておきの京都プロジェクト」5. 非公開文化財特別公開~高台寺・開山堂龍図~ YouTube6. 川崎市麻生区・西光寺 天井絵「雲龍図」を特別公開 :「タウンニュース」補遺臨黄ネット 臨済禅 黄檗禅 公式ネット海北友松 :ウィキペディア海北友松 :「美術手帖」小泉淳作 公式ホームページ京都最古の禅寺 建仁寺 ホームページ 小泉淳作筆「双龍図」、海北友松襖絵「雲龍図」 繋ぐ黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ臨済宗東福寺派大本山 東福寺 ホームページ堂本印象美術館 ホームページ 堂本印象について高台寺 ホームページ高台寺 :「京都観光Navi」曹洞宗雲長山西光寺 ホームページ 永興寺(京都市山科区) :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に 5回のシリーズでご紹介スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -1 塔頭の門前を眺めて 9回のシリーズでご紹介
2024.03.19
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この狩野派略系図は桃山時代を中心にしたもの.2015年の特別展開催PRチラシから切り出した略図の引用です。 こちらは手許にある図録の表紙。京都国立博物館で特別展覧会として、2007年に「狩野永徳」展が、2015年に「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」展が開催されました。冒頭の略図は、2015年の図録に挟んで残していた展覧会PRチラシに掲載されている略系図です。この2つの図録を糸口に、インターネットでの龍探しをしてみました。「狩野永徳」図録には、洲信印がある「雲龍図屏風」六曲一双が収録されています。洲信とは永徳洲信で、狩野永徳のこと。この雲龍図屏風は、今治河野美術館蔵です。ネット情報では、伝狩野永徳筆で開示されています。(資料1)同図録には、紙本淡彩の山楽筆蟠龍図縮図一幅も収録されています。2007年のこの特別展覧会で初展示された京狩野家に伝来するもの。東福寺の天井画を縮図で描いたもので筆者は不明とのこと。ネット検索しましたがこの縮図の画像は調べて見た範囲では開示されていません。「桃山時代の狩野派」図録には、狩野孝信(右近孝信)筆「羅漢図」(東福寺蔵)が二幅収録されていて、その一幅は、羅漢たちの頭上はるかの天空に龍が現れた図です。2023年に京都国立博物館で特別展「東福寺」が開催されました。この特別展の中で、吉山明兆筆「五百羅漢図」が展示されました。この明兆が描いた五百羅漢図の中の第46号と第47号の「羅漢図」二幅が孝信筆なのです。明兆筆の原図が損傷したので、狩野孝信がその二幅を描いたということなのでしょう。図録に明記はされていませんので、私的な想像です。「東福寺」展は前期に鑑賞しましたので、第46号の展示を見ましたが、第47号の龍が描かれた方は図録で眺めたに留まります。孝信筆「羅漢図」に現れるの龍像に、ネットのブログ記事で出会いました。(資料2)永徳以前に狩野派で龍を描いた人がいるのだろうか? 調べていて見つけました。狩野派の祖は正信(祐勢正信)。その子の一人、元信(永仙元信)が龍を描いています。京都・清水寺の傍にある「地主神社」の拝殿に狩野元信筆「丸龍」図が天井画として現存していることを今にして知った次第です。(資料3)この龍、にらみ龍として有名だとか。地主神社は縁結びで有名な神社。永徳の子である光信(右京光信)は、慶長10年(1605)に、相国寺法堂天井画「蟠龍図」を描いています。板絵著色。 禅宗と龍図は縁が深いので、そちらを探る時に触れたいと思います。(資料4) 狩野山楽は、狩野派の門弟ですが、京狩野の祖となった画家です。山楽は「龍虎図屏風」六曲一双(京都・妙心寺蔵)として、 龍図を描いています。(資料5)狩野派で、江戸幕府御用絵師となったのは孝信の長子、狩野探幽(探幽守信)です。探幽は、「波に龍図」(大場家蔵、資料6)、「龍図」(資料7)、「龍虎屏風地取」(資料8)を描いています。探幽の弟の尚信(主馬尚信)が、尾形光琳との合筆で「瀧龍図」を描いているのを知りました。狩野派の龍探しを試みて、見つけたのは、山楽の婿養子となった後継者、 狩野山雪筆「龍虎図屏風」の部分図です。(資料10)狩野派の龍を調べていて気づいたことは、正信を祖とする狩野派において、狩野家の系譜は、歴代原則的には「信」の一字を継承しているようだということでした。この辺りで、一区切りと致します。ご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1. <雲龍図屏風> 伝狩野永徳筆 今治市河野美術館蔵:「IM アイエム internet museum」2. 桃山時代の狩野派 :「THE SALON OF VERTIGO」3. 狩野元信筆「丸龍」 にらみ龍 :「京都 地主神社」 4. 狩野光信 :ウィキペディア5. 狩野山楽 :ウィキペディア6. 波に龍図 狩野探幽 :「世田谷デジタルミュージアム」7. 探幽/龍図 :「文化遺産オンライン」8. 探幽/龍虎屏風地取 :「文化遺産オンライン」9. 瀧龍図(狩野尚信・尾形光琳合筆) :「MIHO MUSEUM」10. 狩野山雪/龍虎図屏風 龍 :「壁紙ギャラリー KAGIROHI」補遺狩野派 :ウィキペディア狩野元信 :ウィキペディア狩野永徳 :ウィキペディア伝狩野永徳筆「雲龍図屏風」 国府叢書・文化財絵はがき :「今治市立図書館」1089ブログ 【禅展】研究員のおすすめ 「山楽の吼えるトラ」:「東京国立博物館」 狩野山楽筆「龍虎図屏風」(京都・妙心寺蔵)狩野山雪 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.18
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わが家の玄関への短いアプローチの角に置いたプランターにムスカリが咲いているのに気づきました。 このプランターの側の もう一つの鉢にもムスカリが咲いていました。 アプローチに沿った右側の細長い花壇には、クレマチス・アーマンディが花を開き始めました。私は写真を撮るだけで、花を育ててはいません。花は家人の趣味。花の名前は教えてもらう方です。後でネット検索してみる程度・・・・。咲いた花を見るのは楽しみですが。 その下で、スイセンが今、たくさん咲いています。2月27日にブログに載せた時よりも数が増えているという程度なのですけれど。 今日はそのスイセンの北側、ブロック塀の傍にこの花が咲いていることに気づきました。ツルニチニチソウだとか。 アプローチの左側、玄関寄りに移動させた鉢植えのジンチョウゲが満開になってきました。3月4日時点では咲き始めだったのですが。 ジンチョウゲの西側には、地植えのラベンダーが好き勝手に伸びています。 オーシャンブルーのグリーン・カーテンを取り除いたスペースに置かれたプランターのエンドウの白い花を見ていると、その陰にエンドウの果実ができています。大小2つです。 植木鉢から手前方向に横に伸び出したヒマラヤユキノシタ。真っ直ぐ上に伸びてくくればいいのに、なぜこんな伸び方になるのでしょう。不思議かつおもしろい。 西側の花壇のクリスマスローズの花の数がちょっと増えた感じ。やはり下を向いて咲いています。奈良・東大寺の「修二会」お水取りもいよいよ終盤です。明日、15日が最終日。いよいよ、春が近くなってきた・・・・・そんな気がします。若い頃から、幾度か二月堂前まで見物に行ったお水取りの行事。それは、私にとっては、春の始まりへの象徴です。スマホで確認すると、当地の現在の天気予報は、やや曇り、12度、最高気温は15度。新聞の天気予報は、終日晴れマークです。補遺ムスカリ :「みんなの趣味の園芸」クレマチス・アーマンディの育て方 :「ヤサイエンゲイ」スイセン :「みんなの趣味の園芸」ツルニチニチソウ :「みんなの趣味の園芸」ジンチョウゲ :「みんなの趣味の園芸」ラベンダー :「みんなの趣味の園芸」エンドウ :ウィキペディアヒマラヤユキノシタ :「みんなの趣味の園芸」クリスマスローズ :「みんなの趣味の園芸」お水取り :「奈良国立博物館」修二会 :「東大寺」令和6年度 修二会 拝観について :「東大寺」 ライブ配信 ニコニコ生放送 3月1~15日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 寒空に咲く庭の小さな花たち観照 寒空に咲く庭の小さな花たち(2)
2024.03.14
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(資料1)前回、北斎館企画展のPRチラシを最後に引用しました。そのチラシに使われていたのがこの龍図です。これは信州小布施の東町祭屋台天井絵の「龍図」。桐板着色肉筆画です。小布施の北斎館に展示されています。 (資料1)こちらも絹本着色の肉筆画で「富士越龍図」。嘉永2年(1849)1月に描かれた図で、落款は九十老人卍筆とあるものです。北斎はこの年に亡くなっています。 (資料2)北斎はこの同じ構図の「富士越龍図」を紙にも描き、こちらには佐久間象山の画賛が記されています。どちらが先に描かれたかは不詳で、意見が分かれているようです。(資料2)また、嘉永2年(1849)作「雲龍図」でギメ美術館所蔵の肉筆画があります。あべのハルカス美術館で2017年秋に開催された特別展「北斎-富士を超えて-」に出展されていたそうです。そして、この「雲龍図」は、嘉永2年(1849)に描かれた「雨中の虎図」(太田記念美術館蔵)と対になる画幅だと言います。2023年に東京で、「生きるが如く描く 北斎肉筆の宇宙」という展覧会が開催されました。NTT東日本の展覧会PRページで、北斎の次の「雲龍図」を知りました。(資料3) この絵は、弘化2年(1845)、86歳で描いた肉筆画だとか。(資料4)龍さがしの旅の初めに、北斎の描いた龍で出会ったのは現時点では北斎漫画とあわせてこれくらいです。つづく参照資料1) 葛飾北斎 :ウィキペディア2) 富士越龍図 :ウィキペディア3) 生きるが如く描く 北斎肉筆の宇宙 :「NTT東日本」4) 雲龍図 :「小樽芸術村 収蔵品データベース」補遺画狂人葛飾北斎の美術館 北斎館 ホームページ葛飾北斎の足跡を訪ねて小布施・北斎館へ!名作勢揃い【長野】 :「和楽」【4K】葛飾北斎の天井絵が躍動する祭屋台:長野・小布施「北斎館」| nippon.com YouTube小樽芸術村 ホームページ北斎の晩年に迫る!今秋、あべのハルカス美術館で「北斎-富士を超えて-」が開催:「アソビュー」 ギメ美術館所蔵の北斎肉筆画掲 葛飾北斎 雨中の虎 :「太田記念美術館」東洋の仏教美術が集まる最大の美術館 - Musee Guimet ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.12
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(資料1)年初から辰年に因んで、「時空を跨ぎ龍の棲息地へ」と題して、過去に探訪してきた寺社仏閣や祇園祭の探訪記録写真から、そこで出会った龍たちを抽出してご紹介しました。ご紹介の一区切りを先般終えました。数日前にふと思ったのです。手軽に実際に探訪や鑑賞に出かけられないなら、代わりにインターネットで龍探しができるのではないか。龍は様々なところに登場しているのではないか・・・・・と。インターネット検索での龍探しの旅ならば、絵画・彫刻・織物等の世界にも、日本と世界の区別なく各地各スポットに存在する龍像にも、情報が公開されている限り、自由に飛び回り、アクセスできるのではないか。思いつくままに龍探しをするのも一興かと。自由に公開できそうな画像はご紹介し、龍と巡り逢えるブログ記事などがあれば、リンクを張ってご紹介できるかもしれない。気が向いた時に、時折、思いつくまま、行き当たりばったりで、龍探しの旅にでかけることにしました。ご興味があれば、お付き合いください。冒頭の画像は、『北斎漫画二編』に載る龍図です。6コマ目。右のページには「龍」と明記されています。左のページの上段にも龍らしきものが描かれています。左上は「應竜」と読めます。中段の左は「□竜」、右は判読できません。北斎が空想の龍の仲間をこれらは描画したのでしょうね下段は、たぶん「うわばみ」、大きな蛇の図。大蛇は龍につながるというイメージなのでしょうか。国立国会図書館デジタルコレクションは、情報の宝庫。これは文化年間に新刻された北斎漫画。「尾陽 東壁堂」と内表紙に記されています。それが明治11年に出版され、インターネット公開(保護期間満了)されています。北斎漫画を国立国会図書館デジタルコレクションで手軽に楽しむことができます。 (資料2)『北斎漫画四編』にも、見開きページにまたがる形で黒雲の中に龍が描かれています。その周りには人物画などが並んでいます。 (資料3)『北斎漫画十三編』には、剣にまとわりつく龍が描かれています。左には「倶利伽羅不動(クリカラアフドウ)」と記され、この剣龍は倶利伽羅不動の索なりという意味に受け取れる語句が記されています。不動明王は右手に宝剣、左手に羂索を握る姿です。羂索は「不動明王や羂索観音などの持物(ジブツ)で、五色の糸を撚りり合わせた縄の両端に金具をつけたもの。仏・菩薩が衆生を救済する働きの象徴とされる。けんじゃく」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。ここではたぶんこの龍が羂索と見立てられているのでしょうね。 (資料4)『北斎漫画十二編』に載るこの図には、「灰吹き大蛇」と付記されているように読めます。見開きの2ページにまたがって龍が大きく描かれています。辞書を引きますと、「灰吹き」の項に、「灰吹きから蛇が出る」ということわざが載っていて、「小さなこと、または予想しないことから意外な結果が生じる」と説明されています。「灰吹き大蛇」はこのことわざをもじった語句かもしれません。大蛇をさらに巨大化した化身を龍とみなしていたのでしょうか。ならば、とてつもない結果を予感させる絵が描かれているということになりますね。それは、吉か凶か。この絵の雰囲気からすれば、大凶の予感・・・・・かも知れまえん。恐ろしや・・・・・・と惑う人々の姿なのでしょう。 (資料5) こちらは長野県の小布施に所在する北斎館の2021年秋の企画展のPRチラシの引用です。北斎が描いた龍が左上に取り入れられています。この龍はどの絵から登場してきたのでしょうか・・・・・。つづく参照資料1) 北斎漫画 2編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 6/34コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」2) 北斎漫画 4編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 5/33コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」3) 北斎漫画 13編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 5/33コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 北斎漫画 12編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 25/34コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 過去の企画展 :「北斎館」補遺国立国会図書館デジタルコレクション 検索トップページ画狂人葛飾北斎の美術館 北斎館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.10
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我が家の小さな庭の西端の花壇に、ボケ(木瓜)が咲きました。山渓ポケット図鑑1『春の花』によりますと、中国原産の落葉低木だとか。 つぼみのボケが花開く時を待っています。 クリスマスローズが咲き始めました。この花もうつむいて咲いています。 ちょっと強引に、花のお顔を見せてもらいました。上掲の図鑑を引くと、クリスマスローズはヨーロッパ原産の多年草。日本でクリスマスローズより広く普及しているのは、3~4月に開花する春咲きクリスマスローズと呼ばれるものだそうです。こちらかもしれません。いずれにしてもクリスマスローズ属の花です。 敷地・小さな庭の南西隅に南天がふさふさと実をつけています。常緑低木です。三月になりました。奈良の東大寺二月堂では、お水取り「修二会」の行事が既に始まっていることでしょう。春が近づいてきました。小さな庭の花たちはその先駆けなのでしょう。今日の天気予報は、最低2度、最高14度。曇り時々晴れと、当地では報じています。スマホの画面表示では、現在12度です。三寒四温の「寒」中になるのでしょうね。ご覧いただきありがとうございます。補遺ナンテン :「みんなの趣味の園芸」クリスマスローズ :「みんなの趣味の園芸」ボケ :「みんなの趣味の園芸」お水取り :「奈良国立博物館」修二会 :「東大寺」令和6年度 修二会 拝観について :「東大寺」 ライブ配信 ニコニコ生放送 3月1~15日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.03.04
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今日の宇治市の天気予報は、最低3度、最高7度です。朝方には雪の予報がありましたが、雪を見ないですみました。午後5時時点で、スマホの画面は、6度、曇り時々晴れと予報が出ています。この寒空のもとでも、今日、小さな我が家の庭にはいくつかの小さな花が咲いています。 ブロック塀側の小花壇に数本のスイセンが咲き、 壁際に群生するラベンダーが小さな花をほんの少し開いています。南面するリビングのガラス戸前のオーシャンブルーは枯れましたので、一旦ツタを切り取ってしまい、根元の茎だけ残して、グリーンカーテンを取り除きました。 今、プランターに植えたエンドウが白い花を咲かせています。スイセンなどと違い、下向きに咲いています。恥ずかしそうに・・・・と感じてしまいます。 下向きの花弁の上に、雨滴が留まっていました。 側に置かれた鉢にジンチョウゲが花を咲かせ始めていました。『日本語大辞典』(講談社)で「じんちょうげ(沈丁花)を引くと、花弁のように見えるのは萼(ガク)だそうです。外側は紅紫色、内面は白色。小さな白い花が開いています。 「かおりは沈香に、花はチョウジに似ているところから」この花の名が付いたといいます。 別の箇所に置かれたプランターにも、ジンチョウゲが花を開かせています。 もう一つの鉢に咲く花は、 ヒマラヤユキノシタだそうです。家人がそう教えてくれました。花はそれぞれに精一杯生きているのでしょうね。小さな庭の花の記録としてまとめてみました。補遺スイセン :「みんなの趣味の園芸」ラベンダー :「みんなの趣味の園芸」ジンチョウゲ :「みんなの趣味の園芸」ヒマラヤユキノシタ :「みんなの趣味の園芸」エンドウ :ウィキペディアDISH// - 沈丁花 [Official Live Video]沈丁花 歌詞 石川さゆり :「Uta-Net」the shes gone「ラベンダー」Music Video 「スイセンが咲く丘」Blue Sheep / 1st アルバム収録曲空音 / 「水仙」 in VROOM powered by au 5G八代亜紀『花水仙』(Official Audio)七つの水仙 / ブラザーズ・フォー ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.02.27
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=== 2024.1.20 === 南の空南西方向の空 9時30分過ぎに撮りました。小雨が降っていましたので、窓際から二方向だけ撮りました。 観察経験では、雨が降ている時の空はいつもこんな感じです。 南の空 14時40分過ぎに眺めると、雨は止んでいました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も空は雲で覆われていますが、雲の形はわかりやすくなっています。 南の空南西方向の空 16時35分頃に空を眺めると、再び雨が降っています。二方向を撮っただけ。 雲の形は少しわかりやすい程度です。雨が降ったり止んだりという一日でした。=== 2024.1.21 === 南の空ベランダの手すりには、雨の降った跡が残っていました。雨は止んでいました。11時10分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空前日に続き、どの方向の空も銀鼠色の雲で覆われています。 東方向の空15時30分近くに撮りました。稜線上空は雲で覆われています。一方、山並みは思いのほか明瞭に眺めることができました。光の射し具合でしょうか。 南の空南は、大な雲とちぎれ雲が浮かび、青空が広がっています。天気が回復していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 頭上にも青空が広がっていました。 南の空16時55分過ぎに撮りました。大きな雲は飛び去り、雲の姿は様変わりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上空では、一塊の大きな雲が漂い、山並みの手前には青みが強い素鼠色で鏃状の雲が浮かんでいました。曇りのち晴れの一日です。さて、この雲がたりから逸れて、坂村真民さんの詩についてのご紹介の最後です。真民さんが「わたしの願い」として、三つ目に採りあげているのは、「二度とない人生だから」という一行です。この一行は次の詩に由来します。 二度とない人生だから 二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけていこう 二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないように こころしてゆこう どんなにか よろこぶことだろう 二度とない人生だから 一ぺんでも多く 便りをしよう 返事はかならず 書くことにしよう 二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう 二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりいのふしぎを思い 足をとどめてみつめてゆこう 二度とない人生だから のぼる日しずむ日 まるい月かけてゆく月 四季それぞれの わがこころを あらいきよめてゆこう 二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し そういう詩を 一篇でも多く 作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために この大願を 書きつづけてゆこう 詩集「海から海に立つ虹」⑤ p90-91この「二度とない人生だから」を詠み込んだ詩が、詩集「しんみん川」に収録されています。併せてお読みいただくと、真民さんの思いに近づけるのではないでしょうか。詩の題に「人」が入っている詩をご紹介します。その他にも、「天女のごとく」、「気づく」、「詩国の皆さんへ」という詩が、「二度とない人生だから」に連なる詩として収録されています。 ある人に あなたは天国のことばかり思うて どうしてこの地上の美しさに 心うばわれないのですか あんたは天国にばかり目を向けて どうして大地の美しさに 目を向けないのですか あなたが熱砂の国に生まれたなら わたしは敢えて申しませんが 山あり川あり海あり 四季折々の花が咲き 春夏秋冬の鳥が鳴く この豊かな国に生まれながら 遠い処ばかり見つめて過ごし あの世へ行ったら むしろ神さまは愚か者よと お叱りになるかも知れません どうか神の造り給うた このとりどりのものを じっと愛の目で見つめて 二度とない人生を 生きてくださいませんか 詩集「しんみん川」 ⑥ p8 まわりの人に こんな美しい如来さまがおられ こんな優しい菩薩さまがおられ 呼んでいられるのに 寄ってゆくこともなく お声をきくこともなく あくせくと日を過ごし お金のために 体も心もくたくたになり 二度とない人生を わびしいと思いませんか 今からでもおそくないから 少し生き方を変えてみませんか 天地と一体になる 広い世界が開けてきます 若い時とまたちがった 喜びが生まれてきます いかがです 一緒にまいりましょう 詩集「しんみん川」 ⑥ p52 ある人へ 光が射しているのに あなたはそれを浴びようとしない 呼んでおられるのに あなたはそれを聞こうとしない 手をさしのべておられるのに あなたはそれを握ろうとしない お経にもそんな人のことを 書いてあります どうか素直な心になって 二度とない人生を 意義あるように生きて下さい 詩集「しんみん川」 ⑥ p337二度とない・・・というフレースは詠み込まれていませんが、真民さんの生き方を端的に詠まれた短詩を最後にご紹介して終わります。 一心 限りある命だから 蝉もこおろぎも 一心に鳴いているのだ 花たちもあんなに 一心に咲いているのだ わたしも 一心に生きねばならぬ 詩集「しんみん川」 ⑥ p379 さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.22 === 南の空 14時55分頃に撮りました。空はほぼ快晴状態です。午前中は撮り忘れ・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 太陽の位置の関係で、頭上の青空だけが見やすく撮れています。 東方向の空稜線上空はあまり見かけない雲の構図です。小型の雲が縦方向に連なるように見えるところがおもしろい。雲の家族のお散歩・・・・風という感じ。 東方向の空17時近くに撮りました。稜線上空は形を何とか見分けられる程度の雲で覆われていました。 南の空 遠くに白雲が横に広がり、手前の空は青空で小さな雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 西から南西にかけての雲の姿はあまり見かけない形でした。こういう雲はどのように呼ぶのでしょうか。 西の遠くの空に夕焼けが見られます。電線が邪魔なのですが・・・・空の一部を切り出してみました。 頭上の空コロナ禍の中で、ふと思って「ベランダから見た雲の変化と雲がたり」をブログに書き始めたのが、2022年12月22日。いつまで続けられるか未知数のままでの試みでした。「2022.10.11~11.7の雲」から始めて、今日(2024.2.24)のブログへの書き込みで、1年と2ヶ月続けることができました。1年余の雲の変化を曲がりなりにも記録に留めることができました。コロナ禍もひとまず終息してきたようです。最後に『坂村眞民全詩集』(大東出版社)全六巻を通して雲を探す試みで、雲がたりに取り組み、全詩集をひとまず通読することもできました。これを区切りとして、このシリーズをひとまず終わりに致します。今後は、撮る場所を限定しないで、おもしろいな、素敵だなと感じる雲があればブログに書き込みたいと思っています。このシリーズをご覧いただきありがとうございます。 付記 大東出版社のホームページを最後にアクセスして、今知ったことです。 『坂村眞民全詩集』は、第7巻・第8巻がその後出版されて、全8巻に なっていました!! 全6巻でなく全8巻であると訂正致します。 手許にはありませんので、このシリーズとしては一区切りです。 あと2巻、読む楽しみができるとともに、課題を残すことにもなりました。補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について二度とない人生だから 藤掛廣幸 YouTube大東出版社 ホームページ 「坂村真民の世界」というページが設けてあります。 (上記の付記はここを見て・・・。誤情報へのお詫びを兼ねて併記しました) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.24
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=== 2024.1.17 === 南の空 9時25分過ぎに撮りました。快晴の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空にも雲はなさそうです。少し靄がかかっているように見えました。 東方向の空15時50分近くに、稜線上空を眺めると青空が広がり、雲はなし。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、そして頭上も引き続き快晴の状態が続いています。良い天気です。 南の空 17時20分過ぎに撮りました。雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も、空は雲で覆われた状態に変化していました。=== 2024.1.18 === 南の空朝、雨降っていました。10時10分近くに、窓際から南と南西方向だけ撮りました。南西方向の空 南の空南西方向の空 16時30分近くに、もう一度、二方向だけ撮ってみました。 静かに小雨が降り続く一日でした。さて、雲がたりから逸れて、坂村真民さんの詩についてのご紹介のつづきです。真民さんが「わたしの願い」として、二つ目に採りあげているのは、「めぐりあいのふしぎにてをあわせよう」という一行です。この一行は次の詩に由来します。 めぐりあい 1 人生は深い縁の 不思議な出会い 2 世尊の解かれた 輪廻の不思議 その不思議が 今のわたしを 生かしてゆく 3 大いなる一人のひととのめぐりあいが わたしをすっかり変えてしまった 暗いものが明るいものとなり 信じられなかったものが 信じられるようになり 何もかもがわたしに呼びかけ わたしとつながりを持つ 親しい存在となった 4 子を抱いていると ゆく末のことが案じられる よい人にめぐりあってくれと おのずから涙がにじんでくる 5 めのみない人たちとの ふしぎなめぐりあいが このごろのわたしに かぎりない力をあたえる 手をにぎりあって 喜びあう めしいの人たちとの あたたかい交わりが いまのわたしに ひとすじの光をあたえる 6 めぐりあいの ふしぎに てをあわせよう 詩集「赤い種」 ① p289-290全詩集には、ほかに「めぐりあい」と題する詩が三篇、「めぐり会い」と題する詩が一篇、収録されています。こちらも合わせて読んでいただくと、真民さんの意味される「めぐりあい」を感じ取っていただくのに役立つと思います。 めぐりあい 鎌倉杉本寺の十一面観音に奉る この若い観音は なにを思いつめて いられるのであろうか 衆生の救い難きをであろうか それとも己の力の 足らざるをであろうか きりりとむすんだ口もと 半眼のめじりの張り それは柔和なお顔の観音に 見慣れてきたわたしを しばしとまどいさせるものがあった 思えば青年時代の世尊は こんなお顔であったかも知れぬ ああそれにしても生き難い世に 生きてゆこうとするわたしに 生きる力と励ましとを 与えてくださる この観音との めぐりあいのふしぎさよ 詩集「朴」 ② p198 めぐりあい 足をとめて見入る 花とのめぐりあい 耳をかたむけて聞き入る 鳥とのめぐりあい めぐりあいのふしぎを ふかめてゆこう 詩集「詩国 第二集」 ③ p248 めぐりあい 1 めぐりあい それは ふしぎなもの ありがたいもの なみだのながれるほど てをあわせずにおられないほど わたしをはげまし わたしを生かしてゆく いのちであり ひかりであり つえであり つなである 2 めぐりあい それは この世だけのものではない あの世へ行っても結ばれてゆく 永遠(トワ)なるものである また人と人と間だけのものではない 道のべの一もとの草にも 空とぶ一羽の鳥にも 深いえにしの糸がつながりつながっている 広大にして無辺なものである そのことに気づいた時 わたしの心は柔らかになり わたしの言葉も変わってきた ああ輪廻(リンネ)の花よ わたしにもこの妙なる花を 握らせていただこう 詩集「念珠集」 ④ p86 めぐり会い このひとに会うために つまずき迷い苦しみ悩み 流転流浪の旅を 続けてきたといってよい その人の目は愛にあふれ 澄んで美しく光っていた わたしがめぐり会った時は すでに髪を落とした尼僧の姿であった この不思議な出会いから 暗かった人生が明るくなり 光が射しくるようになり 人を見世の中を見る目が一変した ああ得がたい仏心を頂き 一本の筋金がはいり 真実の世界が開けてきた 詩集「詩国 第二集」 ③ p401「めぐりあいのふしぎにてをあわせよう」という詩句は、これらの詩ともつながっていると思います。さて、雲の変化に戻ります=== 2024.1.19 === 南の空10時10分近くに撮りました。前日は終日小雨が降る天気でしたが、今朝は曇り空です。雲の背後に太陽を感じます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空全方向に銀鼠の雲が広がっています。雨となる雲ではなさそうです。 東方向の空13時20分近くに稜線上空を眺めると、雲の色合いが少し明るくなっていました。雲が覆っている状態には変化なし。 南の空一方、南の空は小型の白雲が青空に浮かぶ形に変化していました。曇りのち晴れです。南西方向の空 西方向の空 西の空には、あまり見かけなかったうろこ雲風の雲がみられました。 頭上の空 南の空 17時5分頃に撮りました。空は再び雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 西の遠くの空は夕焼けています。夕焼けた空の一部を切り出してみました。 頭上の空 東方向の空 稜線上空は、終日雲が覆っていたように思います。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について大蔵山杉本寺 公式サイト霊場巡り 総持寺~包丁の道~ :「春は花」(安田念珠店) 記事の中に、 秩父観音霊場 第三十四番札所 水潜寺 「念ずれば花ひらく」の奉納額 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.23
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