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2014年11月22日(土)に、滋賀県教育委員会の企画による探訪[近江 水の宝]の一環である「犬上川の源流をゆく-大瀧神社-歩いてまいろう『多賀三社まいり』」というテーマの探訪に参加しました。蒼空の秋空の下、近江・多賀での紅葉狩りとなった探訪記録です。まとめていたものを再録し、ご紹介します。先に再録しました異なる時季に参加した「俊乗坊重源の足跡を訪ねて」の探訪と併せてご覧いただけるとうれしいです。 (再録理由は付記にて)近江鉄道・多賀大社前駅10時10分に集合でした。今回の探訪は、 駅前~多賀SA(敏満寺跡)~胡宮神社~大瀧神社~多賀大社(現地解散) というルートで、標高333mの青龍山の麓を反時計回りにぐるりとウォーキングしたことになります。多賀観光協会・多賀町企画課の人々がご案内・サポートをしてくださいました。感謝! 多賀大社駅前と駅前にあるモニュメントです。多賀観光協会作成のリーフレットには、「叶♡多賀門」とネーミングされています。「願い事を絵馬に乗せて しあわせのスタートはここから!」というフレーズが・・・・。(資料1)まずは、11月下旬の今が見頃!の紅葉景色をご覧ください。 敏満寺遺跡多賀SAの場所は、かつては敏満寺があり、そこに宗教都市が形成されていたところです。戦国期には城塞化したところです。発掘調査されて、今は公園として整備されています。サービスエリアのすぐ傍です。 胡宮神社(このみやじんじゃ) 敏満寺があった場所に今は胡宮神社があります。 大門池 東端から西を眺めて 犬上川 金屋橋から上流方向の景色 犬上川の源流をゆく 大瀧神社の周辺にて 大瀧神社にて多賀大社 太閤橋の傍から秋葉神社を眺め 寿命石近くの紅葉とそこから眺めた社殿 菊華で「祝七五三」 社殿に向かって左側にて 絵馬殿の近くにて 大釜・神輿庫・鐘楼のあるエリア探訪ルート全体の紅葉狩速報はまずこの辺で・・・・・・。 駅前の案内板から切り出した関連エリア地図ご覧いただきありがとうございます。それでは、「多賀三社まいり」に歩いてまいろうではありませんか。つづく参照資料1)「パワスポ女子集合! いざ多賀大社へ」(多賀観光協会作成) ”開運! 近江の地獄めぐり”というおもしろいタイトルの見開きページ 参道あそびで厄落とし ここに記載のフレーズです。 2)「滋賀県多賀町ロードマップとあるいてまいろう多賀三社まいりコース」 (多賀観光協会作成) ウォーキングでの詳しい地図が載っています。道案内の道標が整備されています。 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺多賀大社 ホームページ胡宮神社 :「滋賀県観光情報」多賀観光協会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらも併せてご覧いただけるとうれしいいです。探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -1 敏満寺城跡、敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -2 胡宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -3 多賀大社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -4 多賀大社の後、村山たか、真如寺、延命地蔵尊 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -2 敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -3 胡宮神社・敏満寺仁王門址 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -4 大門池・楢崎古墳・大瀧神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -5 多賀大社・木中地蔵(瑞光寺)・青龍山山麓 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -6 多賀大社(2) へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -7 絵馬通り へ
2017.11.01
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多賀大社を後にする前に、もう一つ。お多賀さんでは、絵馬の代わりに杓子に願い事を記して奉納されています。杓子がいっぱい!!大社門前にあるお店には巨大な杓子に屋号が記されています。当日の資料に、次の話が載っていました。ご紹介します。「元正天皇の養老年中(717~724)、帝の病気平癒を祈念して神官らが強飯を炊き、『しで』の木で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快し霊験あらたかな無病長寿の縁起物となった」(資料1)と言われています。当時はパラパラの硬いご飯だったそうで、「杓子もお玉の部分が大きく窪み、柄も湾曲していた」ということのようです。安芸の宮島も杓子が有名ですが、多賀の方が古いのだとか。多賀杓子 → お玉杓子 → おたまじゃくし(蛙の子) 多賀杓子が語源!の説も。序でに、お店の写真に「糸切餅」とあります。「長く延ばした餅の表面に赤青3本の線で蒙古の旗印を模し、弓の弦に見立てた糸でこれを切ります。元寇の戦勝に謝し奉納したことに由来するということです。」(資料1) こんな飾りのあるお店も並んでいます。 多賀大社を後にしようとしたとき、ちょうど大社に行列がさしかかりました。ゆっくりと見物している時間がありませんでした。大社の前は通称絵馬通り。ほんのちょっと離れた斜め向かいに、村山たか女の生家があります。出自ははっきりしませんが、多賀大社社僧の娘と言われ、ここ「不二家」で幼少の頃、養女として暮らしていた家だそうです。村山たか女は船橋聖一著『花の生涯』のヒロイン。幕末、彦根藩主井伊直弼とその腹心・長野主膳に使えた女性。京都三条大橋のたもとで三日三晩の生き晒しの刑を受け、京都円光寺で剃髪し尼となった人。明治9年(1876)死去。烈女ですね。結構詳しい説明が駒札や説明板に記されています。 その先には、通りの反対側(大社側)に朱色の壁の立派なお店があります。元禄2年(1689)創業の料理旅館で木造三階建の建物です。駒札によると、「鍵屋」(江戸時代)→「かぎや」(明治、大正)→「かぎ楼」(昭和~)と改称されてきたそうです。朱塗りの壁から京都祇園・花見小路口の「一力亭茶屋」の朱色の壁を連想してしまいました。 京道を示す道標 山門の屋根に三葉葵の紋が見えます。地蔵堂が右隣にある朱色の山門のお寺が「真如寺」(浄土宗)です。天正年間の創建。行基が手彫りして多賀大社に納めたといわれる木造阿弥陀如来坐像がこのお寺のご本尊です。元は多賀大社の本地仏だったので、門前にそれを示す石標が建てられています。明治の神仏分離の影響がここにも見られるのです。阿弥陀三尊懸仏や地獄絵図などもこのお寺に伝わっているとか。ここもまた時間がなくて、境内をちらりと覗くだけになりました。 最後が延命地蔵尊です。ここは先ほどご紹介した糸切り餅の創始者・北国屋市兵衛が木之本地蔵の分身を祀るお堂を建てたのが起源だとされているとか。お堂に向かって右手には、来迎三尊仏石像が安置されています。左側に半跏地蔵菩薩坐像の石像が置かれています。お堂の格子扉から堂内を拝見し、ズームアップで仏像を撮らせていただきました。 本尊は地蔵菩薩、右側に祀られているのが千手千目自在菩薩(右の画像)だそうです。時間がなくて何とか撮れた一枚です。前の坐像が石標下部に記載の「三途河姥」なのでしょう。何をもっているのかとよく見ると、裸体の人間の両脚です。その前は?・・・わかりません。またの機会にゆっくりと確認したいものです。そして、多賀大社前駅に戻ってきました。「叶♡多賀門」と称される石造りのモニュメントです。近江鉄道多賀大社前駅頭にあります。「願い事を書いた絵馬札を持ち、石の門をくぐり抜けて鳥が彫られている願いの石に絵馬を貼ります。これであなたの尚一層の幸せの『はじまり』が始まります。」(資料2)(詳しくは多賀観光協会にお問い合わせください。 0749-48-1553)帰るほんの少し前に写真だけ撮って、帰宅後に入手した資料を読み直しこの説明を知りました!時すでに遅し。この記事をお読みいただいた方は、この門からご出発ください。 全行程としては、図の一番下の黒丸を起点に反時計回りに史跡を巡ってきたことになります。 多賀大社は赤文字で記されています。赤丸の場所になります。これで今回の探訪のご紹介は終わりです。ご一読ありがとうございます。参照資料1)「俊乗坊重源の足跡を訪ねて 多賀大社と敏満寺」 2013.6.2 当日配布資料 主催:滋賀県教育委員会2) 絵地図 「自然の神秘『多賀新世の旅路』」 滋賀県多賀観光協会 裏面「故郷 多賀 自然と歴史の散歩道」より【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺多賀観光協会 ホームページ御多賀杓子 :「weblio辞書」糸切餅 :「ニコニコ大百科」村山たか :ウィキペディア第六景 高源寺の村山たか女肖像画 :「井伊直弼と開国150年祭」多賀:桜町延命地蔵尊 :「(新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々」 堂内の全体写真を掲載されています。(ご開扉される時があるようですね。)三途川 :ウィキペディア日本の伝説 柳田國男 :「青空文庫」 「咳(せき)のおば様」という一文の中に三途の川の奪衣婆のことが挿話として語られています。京都 花見小路口 一力亭茶屋 :「Pan ramio」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -1 敏満寺城跡、敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -2 胡宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -3 多賀大社 へ
2017.10.31
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多賀大社の前の通りには「笑門」額の懸かった門が設えてあります。 そして多賀大社の鳥居の傍らに、大社境内全体の案内図がかかげられています。 大鳥居をくぐって石畳みの参道を進むと、前方には大きな「そり橋」(町指定文化財)があり、その両側に平らな橋も架かっています。この太鼓橋は、太閤秀吉が多賀大社に寄せた信仰から、「太閤橋」とも呼ばれるようです。例祭には神輿が渡る神橋ですが、人が渡るのも禁じられてはいない感じです。橋が大きいので、渡りやすいように適当な間隔で丸太が橋を横切って備えられていて、まあ何とか渡れるようになっています。 橋を渡ると境内への御神門に向かって、左手に天満神社があり、 右手には2つの社があります。神門側が秋葉神社、塀寄りが愛宕神社です。こちらはともにご神徳が火除け・防火なのです。門をくぐると、多賀町のキャラクター「たがゆいちゃん」が出迎えてくれました。正面に向かって左手に手水舎、右手に「神馬舎」が見えます。神馬舎の近くに、「さざれ石」のモニュメントが建てられています。さざれ石の学名は石灰質角礫岩だそうで、岐阜県春日村の産と説明碑に記されています。「長い年月の間に溶解した石灰石が多くの小石を集結して次第に大きく生長したもの」と言います。岐阜県揖斐川町の小林宗一翁が初めて発見したとのこと。 右手斜めのずっと奥には「能舞殿」があります。 寿命石と祈願の白石俊乗坊重源は東大寺の大勧進を命じられたとき、大勧進で東大寺再建を完遂するために寿命守護を祈るために、この多賀大社に参籠したのです。満願の暁に『莚』の字の虫喰いのある柏葉を授かったのだとか。それで20年の延命を感得し、大業をなし遂げたという故事が伝わっているようです。白石はそれにあやかり祈願のために奉じる人々が多いのです。たくさんの白石が囲みの中に置かれていました。何日参籠すれば、満願となるのでしょうか。寿命石の右手方向に「年神神社」と「竃神社」があります。 多賀大社を訪れた6月2日はちょうど、お田植祭の行事が行われていました。本殿の背後、少し離れた位置にある「神田」で乙女達により田植えが行われていました。5,6人の乙女達が唱うのに合わせて、リズミカルに田植えが進められていました。 再び境内に戻り参道を歩きはじめると、本殿の背後に「金咲稲荷神社」が祀られています。稲荷大社の奥之院参道のミニ版のように、わずかの距離ですが朱塗りの鳥居が詰めて建てられいます。稲荷山で見慣れていますので、これを見るとお稲荷さんを身近に感じます。本殿の透塀のすぐ外側に境内社が二棟建てられています。熊野新宮、天神神社、熊野神社の一棟と三宮神社、聖神社(祭神:少彦名命)の一棟です。 神楽殿が両翼を広げたように回廊が設けられていて、神楽殿、幣殿、本殿と一列になっている形式なので、本殿は見えません。多賀大社の祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神の男女2柱です。『古事記』には、「かれ、その伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり」と記されています。この箇所を三浦佑之氏は「そのイザナキも今は身を隠してしまわれての、淡海の多賀に坐すのじゃ」と口語訳しています。(参照1)『古事記』は和胴5年(712)に編纂されていますので、当時からこの多賀大社の存在が畿内一円に知られていたということなのでしょう。当日入手の資料によれば、「元々は多賀一帯の犬上郡を支配していた豪族犬上君(犬上氏)の祖神を祀っていたと思われます。犬上氏は第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を排出している名族です。」(資料2)平安時代に編纂された『延喜式神名帳』に「多何神社二座」と記されているようです。この時代には2柱が祀られていたということがわかります(資料2)。神社も変遷、進展していくのですね。「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」と、室町時代中期に神仏習合が盛んになり不動院が神宮寺として建立されると、神宮寺配下の坊人が全国にお札を配り、謡い歩いて宣伝し、この言葉を流行らせたのです。(資料2)多賀大社の2柱は、伊勢神宮の祭神である天照大神の両親になるわけです。だからお伊勢はお多賀の子にあたるわけですね。なかなか宣伝上手です。多賀大社信仰は中世以降、全国に広がって行き、庶民だけでなく武士階層にも広く浸透していったようです。多賀大社文書として、京極道誉や佐々木六角氏による社領寄進や安堵の文書、武田信玄の厄除け祈願文、織田信長の社領安堵状、豊臣秀吉による母大政所の病気平癒祈願文などが伝わっているそうです。(資料2,3) 神楽殿ではご祈祷を受けている一群の人々が祈願されています。 回廊に懸けられた灯籠、銅製灯籠、拝殿の蟇股などに菊花紋が配されています。 神楽殿、回廊部の傍にいくつかの銅製灯籠が建てられていますが、寄進者、寄進年代の違いでしょうか灯籠を飾るデザインがそれぞれ違っていておもしろいものです。灯籠の笠の蕨手部分に龍頭がデザインされているのを、この多賀大社で初めて目にしました。境内の一角に2つの大釜が据えられています。これらは徳川幕府が本殿以下の大造営と大修復工事を行ったときの遷宮記念に行われた「御湯神事」の際の調度と言い伝えられているものだそうです。この大釜の近くに、 神輿と凰輦の納められた神輿庫、鐘楼があります。境内すべてをくまなく探訪できたわけではありませんが、手軽に拝見できる主要な場所は大凡拝見できました。お多賀さんへは月参りというわけにはなかなかいきませんが、またあらためての機会に拝見できなかったところを探訪したいなと思っています。つづく参照資料1)『古事記(上)全訳注』 次田真幸著 講談社学術文庫 p75 『口語訳古事記』 三浦佑之著 文藝春秋 p36 2)「俊乗坊重源の足跡を訪ねて 多賀大社と敏満寺」 2013.6.2 当日配布資料 主催:滋賀県教育委員会3)「多賀大社の概略」(御神門近くに建てられている駒札)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺たがゆいちゃん 公式ブログ多賀大社 ホームページ多賀大社 :ウィキペディアJapanese rice planting festival 多賀大社 お田植祭 :YouTubeTaga Matsuri Festival 多賀まつり :YouTube多賀大社古例大祭 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -1 敏満寺城跡、敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -2 胡宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -4 多賀大社の後、村山たか、真如寺、延命地蔵尊 へ
2017.10.31
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「胡宮神社境内図」をまずご紹介します。全体はこんな感じです。多賀サービスエリアの南端、高速道路に架かる陸橋の近くから、胡宮(このみや)神社の旧参道が残っていて、神社境内に入ることができます。今回の探訪では境内の中心部分を巡ることができましたが、神社境内全体を詳細に探訪するまでには至りませんでした。充分に探訪するためには再訪する必要がありそうです。それでも、大凡の神社の雰囲気を味わうことができました。敏満寺遺跡に直接関連するものは前回ご紹介しました。中世に敏満寺の鎮守社だったというこの神社と塔頭福寿院だけが敏満寺の滅亡後も残ったのです。そして、敏満寺の寺宝の多くが胡宮神社に移されたのだとか。「元徳3年(1329)成立と考えられる敏満寺の堂塔鎮守目録(胡宮神社文書)に『木宮両社、拝殿九間』と記されている」そうです。(参照1)参道から境内に入って行くと、こんな碑が建てられています。「胡宮八景之詩」という漢詩は明治期に詠まれた詩だと説明板に記されています。 神馬像が木々の間に建っています。季節に応じて、周りの木々が雰囲気を変えていくことでしょう。表参道を上から見下ろしました。紅葉した季節は見事でしょうね。「血染めのもみじ」と称されているとか。祭礼の時にはこの石段を神輿が渡るのです。(参照2、以下各箇所で参照) 参道(石段)を上がった右手に御輿蔵があります。 その近くにある灯籠。火袋のところに菊花紋が見えます。 境内から見下ろす先に、建物と胡宮神社庭園のほんの一部が見えました。福寿院庭園だった観賞式林泉園が昭和9年(1934)に国の名勝庭園に指定されたのです。 庭園を見下ろす傍に建立された「法華塔」の石塔 観音堂 本堂は三間四面で、屋根は二段の瓦葺入母屋造です。前面の格子窓から内部を拝見できました。なんと、このご本尊は床下から突出している自然石にそのまま聖観音立像が彫られたものなのです。地上の高さ1.86mだそうです。自然石に線刻された聖観音石像としては最も古く、鎌倉時代初期の作といいます。この聖観音像は聖徳太子が諸国巡回のとき、ここで奇石をご覧になり、石造の聖観音を自作されたという伝承があるようです。聖徳太子信仰に絡んだ伝承なのでしょうか。寛政9年(1797)ごろに現在位置に御堂が移されたと説明板に記されています。 観音堂の近くに、「大日堂」があります。桃山時代の多賀曼荼羅に三間四面の建物として描かれているようです。本尊は大日如来で現在は鞘仏だけが厨子の中に安置されていて、胎内仏(高さ13cm)は町の博物館で保管されているそうです。参照資料によると、堂内には俊乗坊重源・元三大師・虚空蔵菩薩・薬師如来・不動明王像などが安置されています。画像に見える正面の鰐口には、元禄12年(1699)の銘、石灯籠には宝永2年(1704)の銘があるとか。敏満寺が火災に遭ったとき、宝寿院に納められていたのがこの大日堂に移されたそうです。 大日堂から拝殿前に行く途中に、「磐座(いわくら)産道」の石標があります。胡宮神社の奥に聳える青龍山(標高333m)の山上に大きな岩・磐座があり、青龍山が神体山なのです。この磐座を深く信仰し、龍宮を祭り、長寿、豊作、雨乞の祈願をしたと言います。いただいた資料の写真を見ると、大きな岩の傍に小祠が造られています。磐座は胡宮の奥宮になります。この磐座を麓から遙拝するための社殿が胡宮です。 本殿と拝殿拝殿よりも一段高く石組みのある所に透塀(玉垣)もあり、本殿は見えません。信長による兵火で焼け、豊臣秀吉が再建した後、再び焼失。現在の建物は寛永15年(1638)の多賀大社造営の時に再建されたものだそうです。境内案内石碑には徳川家光の造営と記されています。三間社流造りで滋賀県文化財に指定されています。「胡宮とは、古いお寺、非常に気高く尊いお寺という意味」(参照2)だそうです。ご祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)、伊邪那美命(イザナミノミコト)、事勝国勝長狭命(コトカツクニカツナガサノミコト)の三神です。事勝国勝長狭命はイザナギとイザナミの子です。この神は五穀豊穣を司る神だとか。胡宮神社は敏満寺の遺跡でもあり、「典型的な神宮寺の形を残している」ことがお解りいただけるでしょう。 本殿に向かって右側には唐門が建っています。 唐門欄間の細工の鶴がしっかりと羽ばたき、木鼻の獅子の彫り物は玉眼です。二方向の木鼻の獅子像は門に威厳を付けている感じです。拝殿に向かって左方向に、「寿命石・枕石」があります。境内には、こんな形の石灯籠も建てられています。こんな竿部分の形状の灯籠はあまり見かけません。中台蓮弁と基壇の反花への絞り込みと竿の太さ、竿の長さは短く節(珠紋帯)なしという特徴があります。おもしろい形状です。本殿西側には境内社となった「熊野神社」があります。この神社、以前は仁王門の手前にあったのですが、高速道路が通ることになりここに移築されたとのことです。境内社として本殿の横に別に小社が2つあります。境外社には主なものでも6社あるそうです。 裏参道から斎殿への石段道多賀SAで昼食休憩の折に、敏満寺遺跡の奥を探訪していて、国道307号線からの裏参道入口を眺めることができました。SA側から空き地を歩いて行くと、鉄門扉と鉄柵があり国道には出られませんでした。鉄柵の所から撮った写真です。最後に入手資料に掲載の興味深い文書を引用します。(参照2) 胡宮神社の宝物の一つである「仏舎利相承図」です。文暦5年(1235)の古い文書です。今は多賀町指定文化財になっているようです。これは白河上皇の所持していた舎利が、敏満寺に寄進されるという仏舎利相承の流れを記したものです。白河院から平清盛を経て、文永元年(1266)3月に敏満寺に施入されたことがこの文書に記録されているのです。さらに興味深いことは、舎利は白河院から寵愛する祇園女御へ譲られた後に、平清盛を経るわけですが、この文書には祇園女御に妹がいたこと。その女御(妹)が白河院に召され、懐妊の後、平忠盛に与えられ、生まれた子は忠盛の子として清盛と名付けられたということが、ここに記されているのです。「被召干院懐妊之後、刑部卿忠盛賜之、為忠盛之子息、云清盛、仍不号宮矣」と。(参照1)つまり、平清盛を白河院の落胤とする説の根拠になる記述がこの文書にあるということになります。重要な史料が胡宮神社に伝わっているというのは注目すべきことではないでしょうか。一度この「仏舎利相承図」の原図を拝見したいものです。そんな機会が巡ってくるでしょうか・・・・・。この後、山越え(といっても、峠越えという感じ)で多賀大社に向かいました。つづく参照資料1)「俊乗坊重源の足跡を訪ねて 多賀大社と敏満寺」 2013.6.2 当日配布資料 主催:滋賀県教育委員会2)「胡宮神社とその周辺 多賀を世界に発信」監修・石田法雄 発行・多賀教育委員会 英文対訳になっている資料です。平成20年2月発行。胡宮神社にて入手。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺胡宮神社 :「滋賀県神社庁」観光地情報 :「多賀観光協会」 石造聖観音立像の部分拡大図が掲載されています。胡宮神社文書398点(町指定有形文化財 書跡) :「多賀町立文化財センター」敏満寺小字図 :「日本の塔婆3」寄進状 :「日本の塔婆3」仏舎利相承図テキスト :「日本の塔婆3」金銅一尺三寸五輪塔 :「日本の塔婆3」冷水寺の胎内仏 :「新撰 淡海木間攫」(サンライズ出版) 胎内仏資料館木造観音菩薩・勢至菩薩立像(鞘仏・胎内仏):「江南市」観音の【胎内仏】 : YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -1 敏満寺城跡、敏満寺遺跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -3 多賀大社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -4 多賀大社の後、村山たか、真如寺、延命地蔵尊 へ
2017.10.31
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2013年6月2日に、滋賀県教育委員会主催の探訪「大地の遺産」の一企画「俊乗坊重源の足跡を訪ねて」に参加しました。その内容をまとめていたものを再録しご紹介します。この探訪で私が一番関心を持っていたのが、山城跡探訪の一環としての敏満寺城跡でした。さて、なぜ多賀大社の鳥居の写真から始まるのか? 実は、集合場所が近江鉄道・多賀大社前駅だったのです。そして、探訪コースは、次の通りでした。 多賀大社前駅~敏満寺城跡~敏満寺跡~胡宮神社~多賀大社~真如寺~延命地蔵尊~駅探訪多賀ルートとして見ますと、 多賀大社前駅傍の案内板の現在地(赤地白抜文字)から反時計回りでウォーキングしたことになります。この部分地図では現在地が北で、南北軸が横方向になっています。今探訪では、結果的に「多賀三社まいり」のうちの二社を訪れたことにもなります。重源は諸国を勧進し東大寺を再建した人物です。手許の辞典から「重源」についての説明を引用してみます。「[号は俊乗坊]浄土宗。紀季重の子。醍醐寺で密教を学んだが源空に師事して念仏門に入った。入宗して翌年帰朝した。東大寺が炎上して源頼朝の寄進で再建に際して、師の推挙で勧進職に補せられ、10余年間諸国を勧進して完成した。建築には宋風の新しい天竺様(大仏様)を輸入した。1206(建永元)寂(86歳)。東大寺俊乗堂に肖像。」(参照1)この重源が敏満寺、多賀大社を訪れています。胡宮神社はもともと敏満寺の鎮守社だったのです。多賀大社前駅から南西方向に歩き、名神高速道路の高架下をくぐって右折すると、 石碑には「多賀大社御旅所 うちこ免の馬場」と記されているようです。「下乗」と同趣旨でこの先は乗馬や駕籠は禁止という意味なのでしょうか・・・・。特に説明掲示などは見あたりませんでした。 多賀大社の御旅所があります。 石碑の前あたりから西へと伸びる道が「多賀道」です。このあたり、飯盛木の里、多賀町の尼子です。道標の左手方向の道(名神高速道路に沿った道)を進みます。多賀道は中山道高宮宿から多賀大社へ伸びる道で、高宮道とも呼ばれるそうです。この多賀道は、伊勢神宮と多賀大社を結ぶ「親子参り」の参詣道として利用されていたと言います。(参照2) 途中に炭焼き窯が残されていて風情を感じます。その先に右の道標が出ています。敏満寺は現在の名神高速道路多賀サービスエリア(以下、多賀SAと略)周辺に存在していたとされる謎の寺院です。敏満寺遺跡はかなり広大な寺域だったようです。逆に言えば、多賀サービスエリアに駐車して、手軽に敏満寺城跡、敏満寺、胡宮神社、多賀大社を訪れることができるということになります。 ここが敏満寺城跡です。 現在跡地が整備され公園化していますが、堀切や櫓台、土塁が残っていて、城跡だった雰囲気は感じることができます。ここは高速道路の直ぐ西側になり、多賀SAから西方向に見える場所です。この公園化された城跡と多賀SAとの間には高速道路を跨ぐ陸橋が架けられています。昭和61年調査の写真を資料から引用します。なお、通称は「シンガイジョウ」だそうで、敏満寺城はSA建設に伴う発掘調査後からの呼称だとか。城名は「新開城」と表記があるそうです。城の南に土塁があり、その土塁は現在よりもっと高かったようです。城は小字「背戸山」の南半分に位置します。(資料3)敏満寺が後記のとおり、浅井氏と対立したという経緯を考えると、敏満寺が築いた砦だったのでしょね。寺の自衛手段だったのでしょうか・・・・。延暦寺が僧兵を抱えていたことを考えると、大伽藍を擁した敏満寺が僧兵を抱えていても不思議ではないように思えます。寺の廃絶とともに、当時の記録類も消滅してしまっていれば、謎が残るばかりです。この色分けされた地図で見ると、茶色の領域がこの敏満寺城跡の位置です。左の緑の区域(宿坊堂舎跡)の一部と靑色の区域(主要伽藍推定範囲/胡宮神社境内)を今回探訪しました。つまり、敏満寺跡の主要部は今や高速道路のSAの下に埋もれてしまったのです。 多賀SAの南端から、胡宮神社旧参道で高速道路に取り込まれなかった部分が神社まで続いています。敏満寺遺跡の案内板と胡宮神社への道標が建てられていますのでこれらの位置関係がおわかりいただけるでしょう。案内板の図を部分拡大してみます。こんな全体外観になります。写真にある高速道路手前の池が大門池です。 現在は胡宮神社境内となっているところに、謎の敏満寺関連遺跡が残っています。敏満寺遺跡としてここで、ご紹介します。 境内の一角、大門池が見える場所にこの説明碑が建っています。天平勝宝3年(751)奈良正倉院蔵の「近江の国水沼荘絵図」が記されています。この年、聖武天皇が東大寺を創建し、千灯法会の料田として、荘園を施入されたのだとか。これはその水沼荘30町歩の荘園図です。当時水沼池と呼ばれていた池が大門池にあたると考えられています。この水沼荘の範囲は、犬上郡条里の十条一里・十条二里・十一条一里にまたがっていたそうです。中世に水沼村が敏満寺村と呼ばれるようになったと考えられています。また、境内には敏満寺関連として、次のものがあります。 「蓮弁の灯籠台石」(左)と「下乗石」(右)です。 それぞれにこんな説明板が付されています。敏満寺堂塔の礎石はすべて彦根城へ運び去られこの台石だけが残されたとか。灯籠の台石が有力説ですが、「門扉」の台石とか、「経蔵」の四転軸石という学説もあるようです。灯籠の蓮弁台座とすると相当大きな灯籠が据えられていたことになります。敏満寺には大伽藍があったことを想起させる台石です。「下乗」の文字は、平安時代のあの有名な小野道風の筆跡と伝えられているようです。「下乗石は格式のある寺社の境内に、馬や駕籠で乗り入れを禁ずる標式であり、敏満寺仁王門の前に建ててあった。明和2年(1765)二つに折損したので、代わりを鳥居の前に立て、この腓は福寿院の前に捨てられていた」(説明板)のだとか。これらの遺物を「敏満寺の残照」として、境内の一角に現在は整備顕彰されているのです。 重源が東大寺の造営大勧進を始めたとき、敏満寺はいち早くその要請に応じ、重源を満悦させたとか。その謝意として、重源は建久9年(1198)、敏満寺に仏舎利入り銅製五輪塔と奉送状を施入しました。現物(重要文化財)は現在京都国立博物館に保管されていて、ここに原寸二倍大の石造で建てられているのです。敏満寺は、「平安末から記録に現れ、鎌倉末には巨大な本堂や30棟を超える諸堂が建ち並ぶ大寺院だったようです。」しかし、戦国時代に入り、永禄5年(1560)浅井長政の攻撃で堂塔焼失、さらに元亀3年(1572)織田信長の攻撃を受け、寺領を失うことになります。(参照2)戦国時代には、浅井氏や織田氏と対立する関係になっていたということでしょう。その原因は不明のままだそうです。『信長公記』は、元亀3年7月27日より、信長が虎御前山に要害を造る事を命じたと記しています。湖北一帯を武力制圧下においていく最中になります。この段階で、敏満寺は胡宮神社と寺坊の福寿院を残し廃絶したと言われています。 敏満寺遺跡の説明板の奥側(東方向)には、敏満寺の土塁跡が残されています。名神高速道路の建設に伴って敏満寺遺跡の発掘調査が多賀SAの周辺で数度行われてきました。「こうした調査成果からうかがえる敏満寺の姿は、南半に寺院部分と墓所があり、北半に坊跡あるいは町屋跡を含む広大な寺域であったと想定できます。また、単に僧侶が宗教活動を行うだけの施設ではなく、僧侶の生活を支える人たちや、そうした多くの人々の生活を賄う多量の物資が行き交う、都市的な場所としてとらえることもできるのではないでしょうか」(参照2)これが前掲の色分け部分地図となるようです。「宗教都市」の景観を示す地域になっていたのでしょう。敏満寺の鎮守社だったという胡宮神社境内を探訪することで、逆に敏満寺寺域の大きさを感じ取った次第です。つづく参照資料1)『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p3712)「俊乗坊重源の足跡を訪ねて 多賀大社と敏満寺」 2013.6.2 当日配布資料 主催:滋賀県教育委員会3)胡宮神社、社務所内での展示パネル説明資料を撮った写真から【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺秘仏 俊乗坊重源上人坐像 :「東大寺」俊乗上人坐像 :「奈良の文化と芸術」 同坐像 :「奈良古寺巡礼」(和田義男氏)重源 :ウィキペディア勧進 :ウィキペディア中世寺院敏満寺の謎~シンポジウム概要~ 文責:箕浦氏 :「近江の城郭」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -2 胡宮神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -3 多賀大社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -4 多賀大社の後、村山たか、真如寺、延命地蔵尊 へ
2017.10.30
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弘善館・菊水飴本舗の次の探訪地は「ウッディパル余呉」でした。ここは「森とのふれあい」をテーマにして、さまざまな屋外レクレーション施設があるところです。木工体験のできる工房、テニスコート、パターゴルフ、アスレチックなどなど。今回ここに立ち寄ったのは、「近江水の宝」という視点から、地味だけれど着実な活動を進めている事例の紹介でした。つまり、関係者以外は絶対に見逃してしまいそうな、小さな設備があるのです。 これです。「ピコ水力発電」という実用実験(?)施設。わずかですが500Wと言う起電力の設備。小さな小屋の中に、上流からパイプで導水された水力発電装置がちょこっと入っているのです。小屋が大きめなのは冬期の積雪などを考えた結果だとか。その心配がなければ、もっと小さな建屋でもOKなのです。これで何ができる? 実はすぐ近くにある「ツブリナハウス」というこれまた小規模野菜栽培工場(ちょっと大げさ・・・)に必要な電力が賄えているのだとか。エコな試みです。すぐ隣に小さな小さな赤子山スキー場があります。幼児や小さな子供たちのスキー場としては十分ですね。前方の小高くなった斜面のところから、須恵器が出土しているそうです。漢字を見て「あかごやま」と読んだのですが、地元では「あこやま」と呼ぶそうです。下丹生地区を高時川に沿って少し北上すると、「茶わん祭の館」があります。駐車スペースはけっこう大きいです。 館内には「茶わん祭」の山車のシンボル展示がフロアー中央にあり、上部に実物を組み入れた曳山レプリカだそうです。山車の最上部分の飾りは絶妙のバランスで保たれた形です。曲芸まがいの飾りです。これが山車の見送り幕。一例ですが1671年に購入された綴錦見送り幕が現存するとか。これは余呉町・丹生神社の大祭で、4年に一度行われているそうです。上丹生は良質の陶土の産地で、「名工末遠春長は、優れた陶土と技を自分に授けてくださった神に感謝し、毎年欠かさずに新しい陶器を神社に奉納したといいます。これが『茶わん祭』の由縁です」(資料1)探訪した翌年、つまり2014年5月4日に「丹生茶わん祭り」が無事終了しています。奇しくも来年2018年5月4日に、このお祭りの実施が予定されていることになりますね。 3基の曳山が丹生神社の摂社・八幡神社に渡御するそうですが、この部分拡大写真に見られるように、囲いの手すり部分などが、陶器をつなぎ合わせた飾りとなっています。「数千を超える陶器をつなぎ合わせた山車飾りが取り付けられ、その高さは約10mにもおよびます」(資料1)実物山車の前方に、「曳山行列ミニ・ジオラマ」のショーケースがあります。縮尺20分の1で作製されていて、行列全体の構成、人の配置や役割などが図入りで説明されています。写真は、行列の最後尾を撮ってみたものです。三方の壁面沿いに祭り関連の諸道具や衣装が展示されています。そして、このお祭りについてのわかりやすい説明パネルが掲示されています。 この花笠を使い花奴が花笠踊りを披露して、お祭りの花形になります。 現存する太鼓や鼓は天保年間に購入されたものだとか。中世の拍物(はやしもの)が持っている特色をすべて揃えているそうです。館の前の通りを北に眺めると、前方に七々頭岳がそびえています。高時川の上流域は丹生川と呼ばれているそうです。この丹生川沿いの道路を遡上していくと、妙理の里があります。高時川の支流妙理川沿いに建てられた野外活動施設。その少し北、余呉町菅並に曹洞宗の塩谷山洞寿院があります。ここが最後の探訪地です。 洞寿(/壽)院への道の入口「曹洞宗洞壽院」の標識の側面には参禅研修道場と表記されています。かつては近江における曹洞宗の一中心地になりました。 山門を入ると、一対の苔むした石塔や、右手に六地蔵尊石仏などがあります。 これが本殿。1406(応永13)年、如仲禅師(道元禅師より八代目の法孫)の開山。祝山(ほりやま:現西浅井町)に洞春庵を創建されていたのが、この地に移ってきたそうです。湖北の寺では最北端に位置します。白山妙理の山麓の地であり、白山妙理権現より塩泉を施され塩谷山と号し、遷洞長壽(幽仙に移って長生きする)というフレーズから洞壽という名が由来するとか。本尊に釈迦三尊像が祀られ、大日如来像、開山の如仲禅師像、十六羅漢像なども祀られています。(資料2)この大日如来像は管山寺からの由来だそうです。残念ですが本堂内は撮影禁止でした。開創以来3度の大火に遭い、現在の本堂は安政年間に再建されたものだそうです。柱に施された彫刻や欄間の透かし彫りなども見応えがあります。1788(天明8)年、当寺の住職が京都霊鑑寺の戒師を努めて以来、菊の紋章を本堂につけることが許されたとか。德川秀忠から朱印地三十石の領地を受け、葵の紋章を寺紋とすることが許されたといいます。本堂の棟瓦のところに、それら紋章が輝いていました。また、座禅堂の屋根には曹洞宗の宗紋が輝いています。昔は「越前永平寺・能登総持寺へのとおり道・禅道場」として栄えたようです。まだ真新しくみえる座禅堂は本堂に向かって左手にあります。入口から撮らせていただけたのがこの写真。一般の人の参禅体験ができるそうです。(資料2)こんな草深い地に、こんな大きな禅寺が・・・・という感じを受けます。永平寺へのとおり道ということで、なんとなくわかるという思いです。永平寺に参禅修行するまえの一行程として、この地で禅修行に励むという位置づけだった側面があるのかもしれません。これで今回の探訪地のご紹介は終わりです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「茶わん祭の館」(余呉町交流促進センター)リーフレット 入館時に入手2) 探訪当日配布のレジュメ資料【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺ウディパル余呉 公式サイト 丹生茶わん祭り 滋賀県長浜市余呉町上丹生-丹生神社丹生神社 :滋賀県観光情報日本古典奇術「釣り物秘伝」について 河合勝・斎藤修啓共著論文 P103-105に、「山飾りについて」という見出しで、論じられています。Niu Chawan Matsuri Festival 丹生 茶わん祭り :YouTube丹生茶わん祭り :YouTube 丹生茶わん祭り 神子の舞 :YouTube丹生茶わん祭り 扇の舞 :YouTube丹生茶わん祭り 鈴の舞 :YouTube 釈迦三尊 :ウィキペディア 曹洞宗 公式サイト 洞寿院所蔵の禅師頂相図 妙理の里条例 :「長浜市」妙理の里 :「polish+」『妙理の里』風景(その1) :YouTube滋賀県余呉町「妙理(みょうり)の里」の取り組み :「林野庁」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -1 余呉湖の天女羽衣伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -2 余呉湖・桐畑太夫の羽衣伝説&菊石姫伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -3 蛇の枕石、あじさい園、路通の句碑、七本槍の地 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -4 飯浦送水/余呉湖放水・隧道、烏帽子岩・お膳岩、乎弥神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -5 意波閇神社、里坊弘善館、菊水飴本舗 へ
2017.10.30
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余呉湖放水隧道(放流出口)から少しの距離を進むと、神社が見えます。その傍でバスから降りました。坂口地区の一角です。 地域図と坂口から各地点への距離を表示した案内板があります。 意波閇(オハヘ)神社です。現在の365号道路から北国街道が一部分岐する地点に位置します。 道路傍からは拝殿と瑞垣・中門が遠望できます。御祭神は大鷦鷯尊(=仁徳天皇のこと)です。昔はこのあたりを平野の森、おはへの森、オバセの森とも言い、平野大明神とも呼ばれていたと言います。 ネット検索して、ちょっと興味深いのは、同名の神社が 長浜市高月町西阿閉にもあるのです。ところが、こちらの御祭神は宇迦魂神だそうです。神社名は同じ漢字なのですが、こちらは「オワイ」と読ませるのだとか。この神社の正面を右手に回り込んで行くと、なんと賎ヶ岳サービスエリアの裏手だったのです。一旦ここで昼食休憩となりました。この位置の地図(Mapion)はこちらからご覧ください。乎弥神社同様、マピオンの地図に神社の表記はありません。地図では賎ヶ岳SAの文字の北西方向の道路上に365と路線番号が記されているその右横の場所がこの神社境内です。北陸道の賎ヶ岳SAとこんな具合で結びつくとは思ってもいませんでした。昼食後、神社の前まで戻り、神社の左側、365号道路と北国街道が分岐するところから、北国街道を北に進みます。 後でご紹介する「菊水飴本舗」の前を通り過ぎると、先般拙ブログで再録によりご紹介した近江天満宮への参道が見えます。この参道が管山寺に行く参道でもあるのです。大箕山の山頂にある天満宮・管山寺の本殿には、この坂口の里から徒歩で約50分です。この坂口へ下ってきた私のブログ記事(再録)はこちらからご覧下さい。 この参道を5,6分上ると、左手に「里坊弘善館」があります。 山上の近江天満宮、管山寺が現在はかなり荒廃してきているため、菅原道真ゆかりの品や管山寺宝物資料がこの里に下ろされて、ここ弘善館で近江八幡宮管山寺保存会によって、保存管理されているのです。(資料1)リベンジ・ウォーキングで管山寺からこの里に下りてきた時、この弘善館が閉まっていた理由が今回わかりました。ここは普段閉まっていて、希望者の事前連絡での希望があれば、開館して保存品を拝見できるという形がとられているのです。当保存会への問い合わせ・申し込みは、TEL.(0749)86-2451 です。今回はブロガーによる情報発信ということもあり、館内の写真撮影の許可がいただけました。 正面を入った感じはこんな具合です。民家の一階を土間にして壁際沿いにコの字型に宝物資料が展示されています。その中からいくつかご紹介させていただきます。ぜひ一度、現地で現物を拝見してみてください。管山寺はもともとは、龍頭山大箕寺と称されたお寺で、764年(天平宝宇8年)孝謙天皇の命により建立されたそうです。照檀による開基。当初は法相宗の寺だったそうですが、現在は真言宗豊山派のお寺です。本尊は不動明王。 そこで、この空海像が寺宝としてあるのでしょう。桐畑太夫羽衣伝説となっている、太夫と天女の間に生まれた陰陽丸が、「すくすく生長される中、極めて非凡天才のため,850年(嘉祥3年)6才の時、管山寺の信寂坊の阿闍梨尊元和尚の弟子となって入門し、道真を賜った」(資料1)といいます。道真はこの寺で学んだのです。天才童子がこの寺に居るということを知った菅原是善(文章博士でもあった公卿)が道真を養子に迎え入れることになります。この寺で学んでいた道真11歳当時の像が保存されています。この11歳の時に、道真は京都に上ったようです。そして、菅原道真としての人生が始まるのです。やはり一見の価値ありではないでしょうか。やはり聡明な顔貌に彫像されているように思います。いつ頃制作された立像でしょうか・・・・。記載はありませんでした。 本地仏の十一面観音立像も展示されています。この立像は平安時代の作とのことです。全景写真でご覧いただけるように、様々な仏像、資料が展示されています。「889年(寛平元年)菅原道真公は、宇多天皇の勅命を受け、国家隆盛の祈願のため幼少時勉学された懐かしい大箕寺に参詣された。その折、寺の中興(再建)を思い立たれ、天皇の勅許を得、7年の歳月をかけて、3院49坊からなる充実した寺院に再興された。そして、寺号を管公の名をとられ『大箕山管山寺』と改められた」(資料1)とされています。「興福寺官務牒疏」によれば、大箕山寺とも称したようです。(資料2)菅原道真が太宰府に左遷され、九州の地で亡くなった後、御霊信仰として、北野天満宮の創建へと進展しました。そして、道真は天神信仰という形で広く信仰の対象になっていきます。道真が中興した管山寺に天満宮が創建されるのは必然の動きだったのでしょう。天暦9年(955)白山妙理権現と天満天神を勧請したとされています。(資料2)そして、この坂口の里は、北国街道沿いの門前町として発展していた時代があるようです。そして、石室開口部の見える小さめの古墳1基の存在を確認した後、通り過ごしてきたお店に立ち寄りました。 「菊水飴本舗」です。なかなか風情のあるお店の構えです。ここのお店自体は小さなスペースでした。 棒に水飴を巻き付けて・・・、実に懐かしい! 子供の頃に、棒に水飴を巻き付けておやつに食べたことを思い出しました。この菊水飴を試食させていただくことができました。ほのかな甘さの水飴です。やさしい、品のある甘さと言えます。穀物でんぷんを麦芽糖化した水飴とのこと。無添加食品の飴です。病中病後の補助栄養食品やのど飴としても適しているようです。(資料3) ここのお店は350年余の伝統の味を継承されてきているとのこと。こののれんがその伝統を物語るようです。お店でご主人から名前の由来をお尋ねしました。ホームページにも詳しく記されています。「京都の醍醐寺三宝院門跡第八十三代高賢座主が、この飴の風味をお褒めになり、菊の御紋の暖簾(のれん)と共に、『菊水飴』と称えよ、とおっしゃった」ところに由来するそうです。入って左手には、昭和36年頃の店前の写真と、この写しが掲げてありました。「明治22年絵図に描かれているも旧藩時代の姿と思われる」と説明が付記されています。この絵図の面影が今も色濃く残されているように思います。門前町にある近江名産のお土産として、かなり繁盛したのでしょうね。現在、このお店の品は賎ヶ岳サービスエリアや道の駅など各所で販売されているそうです。ネット検索してみると、醍醐寺三宝院売店や 四国霊場13番札所大日寺でも「菊水のつぶあめ」を販売されているそうです。この手作りの飴の風味を一度、お試しください。つづく参照資料1) 弘善館拝見で入手したリーフレット 近江天満宮管山寺保存会2) 探訪当日配布のレジュメ資料3) 菊水飴本舗 ホームページ 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺意波閇神社(オハヘ) :「滋賀県神社庁」意波閇神社 (オワイ) ~(きたのみやさん) :「滋賀県神社庁」菅原是善 :ウィキペディア菅原道真 :ウィキペディア 道真の出生については、様々な説があるようですね。興味深いです。滋賀県 余呉町商工会 「余呉湖と天女の羽衣伝説の街」 ホームページはごろも市 facebook買う~お土産 :「余呉観光情報」 このページに、菊水飴本舗の紹介が載っています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -1 余呉湖の天女羽衣伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -2 余呉湖・桐畑太夫の羽衣伝説&菊石姫伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -3 蛇の枕石、あじさい園、路通の句碑、七本槍の地 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -4 飯浦送水/余呉湖放水・隧道、烏帽子岩・お膳岩、乎弥神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -6 ウッディパル余呉、茶わん祭の館、洞寿院 へ
2017.10.29
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余呉湖のほぼ南端にある「国民宿舎余呉湖荘」の前からは、滋賀県のバスを使っての探訪地めぐりになりました。 まずは、ダム湖として機能する余呉湖に水が送り込まれてくる送水出口です。出口前方の湖中が柵で囲まれていますが、この画像のさらに右側が湖岸道路側です。賎ヶ岳の西山腹を貫通させた「飯浦送水隧道」の出口側です。琵琶湖の北端、塩津街道沿いの飯浦(はんのうら)に設けられた「飯浦揚水機場」で水を汲み上げ、送水隧道を通じて余呉湖に水を送水してきているのです。余呉湖の水面は海抜高度132.8mだそうで、琵琶湖の水面位置(84.371m)より48m強高いのです。そうすると、前回補遺に引用した記述と併せて推測すると、飯浦側では一旦80m位の高さまで揚水してから余呉湖の水面まで送水している計算になります。隧道に30m位の高さでの勾配をつけているということでしょうか・・・。 こちらは余呉湖のちょうど東側あたりに造られた「余呉湖放水隧道」の放流する水を呑み込む口、余呉湖の視点からは水を送水する出口です。大岩山にトンネルが掘られているのです。この隧道の出口側を、後ほど訪れることになります。情報発信ブロガー向け探訪の後、2013年に参加者募集企画「探訪 [近江水の宝] 鏡湖の天女羽衣伝説をゆく」が実施されました。このときのチラシに掲載された地図が一番イメージしやすいと思いますのでご紹介しましょう。この再録により現地を訪れてみようと思っていただけたとき、参考になると思います。番号4が前者、番号5が後者になります。ここからさらに少し北に進むと、 「岩崎山・大岩山戦跡めぐり 遊歩道入口」の大きな標識が建てられています。山道の入口には、尾根伝いに賎ヶ岳までの距離の表示板と「岩崎山砦跡」の案内板もあります。 湖岸側を見ると、「岩崎山の大岩」の説明板が建てられています。ここの道路拡張のために大岩が取り除かれ、当時を偲ぶなごりが残されているのです。この一番手前の岩が、「烏帽子岩・お膳岩」と伝承されています。菅原道真が烏帽子を掛けたとされる岩と、供え物を載せたとされる岩です。余呉湖と道真のつながりは深そう・・・・。江土地区に入ったところに、かなり広い駐車スペースのある場所の端に、大きな案内板が建てられています。 地図を部分拡大してみました。現在地と表示のところです。 ここには、「はごろも市」の幟を掲げた「特産品販売所」の建物と、少し離れた位置に、「余呉湖観光館」があります。 湖岸方向そして道路の西側には、湖から北方向に延びていき余呉川と合流する導水路が開削されていて、ここにゲートが作られています。北に延びる方向の景色です。 そして、この導水路に道路の反対側から幅の狭い江土川が合流してきます。導水路との合流箇所に、「江土開門ゲート施設」と表示された設備が橋の際に設けられています。このあたりも、ダム化した余呉湖の現在の姿の一端です。JR余呉駅に近い下余呉地区にある「乎弥(おみ)神社」を訪ねました。私にとってはリベンジ・ウォーキングの時に知った神社ですので、再訪になります。 その時のブログ記事(再録)はこちらからご覧ください(当神社をご紹介しています)。 8月31日のこの日は夕方から伊勢の御遷宮祝いとして踊りが催されるとかで多くの人が準備の仕上げをされていました。 これに火がつけられるそうです。この左手には踊りのための櫓が組まれています。盆踊りの中央につくられる様な櫓です。さて、石段を上がり、拝殿で準備作業中だった人に尋ねたところ、拝殿の社殿寄り両翼に作られた建物は、2012年にできたそうです。上掲ブログ記事に書いたのですが、この両翼の建物があるので、社殿側に行けないなと前回あきらめたのです。尋ねてみると、建物の横から回り込めるとか。建物と一段高い場所になる社殿のための石垣との間に、人が通れるだけの幅が開けられていました。 本殿前の唐門の上には、大きな覆い屋根が設けられていました。唐門を保護するために後の時代に付加された屋根なのでしょうか。ちょっとめずらしいなと思います。 ここの狛犬石像の土台がちょっと変わっています。この形式はあまりみかけません。 木鼻の獅子の頭部が正面向きに。 唐門の木鼻、虹梁上部と莵毛通の彫刻などは、なかなか見応えがあります。本殿が見えないのが、ちょっと残念です。今回の探訪に参加していただいた資料から、この乎弥神社関連で新たにわかった点を記録にとどめておきたいと思います。(資料1)*「近世初め海宮社が勧請され、海宮神と尊称された。」 → 近世初めというのが、承応年間(17世紀)という記述に相当するのでしょう。 そして御祭神の一柱である「海津見命」なのでしょう。 だけど、この海宮社はどこから勧請したのでしょう? 波紋が広がります。*「干魃時には下流の・・・四ヵ村民が社産したのち、湖口(引尻川)を浚渫し引水」 → 干魃か、雨乞いか・・・農民の水に対する危機意識が、梅宮社つまり海津見命の勧請と結びつくようです。事前の危機対策としての勧請か、事後の御礼的な形での勧請か、どこにも記載がありませんが、やはり、キーワードは「水」なのですね。 そして、「よごのうみ」という「うみ」が龍神や川の神でなくて、海の神に結びつくということなのでしょうか?*「乃弥(のみ)神社はもと現社地より南方の奥の堂という平地に鎮座していたという」 → この記載を読み、乎弥神社と乃弥神社の二社を作ったという由緒の記載や、下余呉村が南・北二組に分かれそれぞれの神社を奉斎してきたという説明が納得できました。 乎弥神社から、余呉川沿いの道路を少し南下し、あの湖岸で見た「放流呑口」に対して、「余呉湖放水隧道」の余呉川への「放流出口」を見ました。そして、このすぐ近くで余呉川から分岐する導水路が開発されているのです。そのためのゲートがあります。この補給導水路は途中隧道となり、高時川頭首工の近くで高時川に繋がっているのです。この利水・灌漑計画が、湖北での昔語りとなった「戦国の奇習・餅ノ井落とし」と大きく関係してくるのですね。(資料2,3)つまり、ここが「余呉川頭首工」なのですね。自然湖・余呉湖のダム化が、余呉の地元における洪水対策だけでなく、湖北の農地の灌漑という重要な機能を担っているということが、この現在の水に関わる諸設備を見ることで、地理的、三次元的に繋がってきました。つづく参照資料1) 探訪当日配布のレジュメ資料2) 戦国時代から続いた奇習 :「地域の礎」3)「農業水利に現状(補足調査)-きめの細かい水管理と水の流れの調査-」 資料-6 第3回姉川・高時川河川環境WG 平成16年10月6日 pdfファイル 本文1ページの「湖北地区水利用概要図」が参考になります。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺琵琶湖の水を余呉湖に! :「水土の礎」琵琶湖 :ウィキペディア余呉湖 :ウィキペディア新湖北農業水利事業 :「KOHOKU」 余呉川頭首工について触れています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -1 余呉湖の天女羽衣伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -2 余呉湖・桐畑太夫の羽衣伝説&菊石姫伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -3 蛇の枕石、あじさい園、路通の句碑、七本槍の地 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -5 意波閇神社、里坊弘善館、菊水飴本舗 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -6 ウッディパル余呉、茶わん祭の館、洞寿院 へ
2017.10.29
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蛇の目玉石の祀られている場所からさらに南下していくと、「新羅崎の森壕」という標識があります。昔はこのあたりに新羅明神という小祠が祀られていたといいます。今は石柱があるだけになっているそうですが、そちらに行く坂道は通行止め状態でした。「新羅(白木)明神はおそらく朝鮮半島から渡来したひとびとが祀っていたのであろう」と司馬遼太郎氏はエッセイに記しています(資料1)。この標識近くの湖中に、蛇となった菊石姫が枕にして休んだといわれる「蛇の枕石」なるものが沈んでいるとか。この水面に出ている木の根っ子のあるところから少し先のところのようなのです。残念ながら見えませんでした。水位が下がると、つまり干ばつ状態になれば、見られるようです。もちろん、素潜りしたら近づけるのでしょうね。ただし、そんな気になれるかどうか・・・・ですけど。 少し入り江状のところに点々と連なったブイが見えます。湖中に網が吊されて入り江側への遮断をしている感じです。ここで養殖をしているのですよ、という参加者のお一人から説明がありました。 そこは「あじさい園」が広がる湖岸のところです。その先が「野外活動センター」になっています。このあたりは湖岸の散策路が整備されています。 大菅地先と言われるの湖畔に2本の石柱が屹立しています。何だろうと思ったら、傍に説明碑があります。「斎部路通の句碑」でした。逆光状態でしたので、残念ながら句碑の文字が撮れませんでした。芭蕉の門人・路通が余呉湖を詠んだ句碑が建てられているのです。 鳥共も寝入ってゐるか余吾の海この句、「猿蓑」に所載されているそうです。「去来抄」で芭蕉と向井去来が「この句、細みあり」と評したと言います。右の石柱碑には句が刻まれ、左の石柱碑には路通の句に対する芭蕉の評についての説明文が記されているとのこと。この句の鳥は水鳥のことで、水鳥は冬の季語です。歳時記を読むと、水鳥は秋に渡来し冬を越し、春に帰って行く鳥を含め、水に浮かぶ鳥の総称したものです。歳時記にはこんな一文が記されています。「水尾を引いたり、波紋をつくったりして静に遊んでいるのは風情がある。」(資料2,a)、「水鳥は冬の間に雄が美しい生殖羽になるものが多く、荒涼とした水辺に彩りを添える。」(資料2、b)、「古くは『水鳥の』が枕詞とされたように、『水鳥』を比喩的に、水の上に浮き漂う不安などを『寄物陳思』的に詠むことが多かったが、『新古今』前後になると、荒涼とした冬に彩りを添える景物として詠まれるようになった。」(資料2,c)路通が眺めた水鳥はどんな種類の鳥だったのでしょう・・・・。雪の降り積もった余呉湖畔に佇んでみると、この句の真意が味わえるかもしれません。与謝蕪村は 水鳥を吹きあつめたり山おろし という句を詠み、高浜虚子は 水鳥の夜半の羽音やあまたたび 水鳥の夜半の羽音も静まりぬ と対照的な句を詠んでいます。少し脱線しました。路通句碑の少し離れた右側に「賎岳暮雪」と刻まれた石碑が建てられています。近江八景の「比良暮雪」を連想してしまいました。 さらに右手の方向に歩むと、湖岸に「七本槍の地」の標識が建てられています。「賎ヶ岳の七本槍」という言葉が有名ですが、本当は「九本槍」だったとか(資料3)。そして、実際に槍を揮って戦をしたのが、余呉湖畔のこのあたりなのだそうです。普段は静かで、鏡湖と称される余呉湖が、修羅場となり血塗られたときもあったのですね。湖も赤く染まったのでしょうか。今回、気がつかなかったのですが、路通句碑の近くに「槍洗いの池」というのもあり、標識が建てられているようです。 少し先の山側に「俳句の道」の標識が見えます。あじさい園の案内板に描かれていた山懐を散策する道の入口です。この道には句碑が建てられているとか。いつか、句碑巡りもしてみたいと思っています。誰のどんな句碑が建てられているのでしょうか。余呉湖や賎ヶ岳などに関連する句想のものなのでしょうか・・・・。今回は横目に見ての素通りでした。そして、これが「余呉湖今昔」の現在に関わる設備のご紹介です。建物には、「余呉湖水質改善対策間欠式空気揚水筒管理室」という銘板が鉄製観音扉の横にはめ込まれています。 この建物を軸としたシステムの概念説明図がこれらの画像です。簡単に言えば、余呉湖の深いところにブクブクと空気を送り込み、水の中に溶け込んでいる酸素の減少を防ぎ、アオコなどの発生防止を狙っているそうです。もろもと閉鎖系の自然湖だった余呉湖では、時として洪水が発生したそうです。また余呉湖周辺地域の利水の問題もあって、余呉湖という自然湖のダム化が図られたのだとか。現在の余呉湖は「ダム」でもあるのだそうです。このことを今回の探訪企画に参加してはじめて知りました。琵琶湖の水が汲み上げられて余呉湖に放出されることで余呉湖がダム湖となり、一方、この余呉湖の貯水が灌漑用水として放出されているのです。また、昔は余呉湖の近くを無関係に流れていた余呉川の水が余呉湖にも引き込まれ、再び放出されるという開発もなされているのです。これが、「近江 水の宝」の現代の一側面でもあるようです。つまり「余呉湖の今」という一側面は治水灌漑に繋がるダム湖・余呉の観点でした。おかげで、今回設備外観のいくつかをスポット的に見て回ることもできました。レジャー、観光に加えて、さらに余呉湖現代知識版ご紹介という次第です。その最初がここでした。 湖の中ほどに見えるフラットな島状の箇所が、「深層曝気装置 機構概念図」のイラスト図に描かれた水面上の出ている部分なのです。 上揭建物のある位置から少し先に、賎ヶ岳への登山口の標識が見えます。「飯ノ浦切り通し」という場所を経由して賎ヶ岳山頂に至る山道です。大昔にウォーキングの例会でこの道を下ってきたことを思い出しました。ここから国民宿舎余呉荘が目の前に見えます。ビジターセンターからは3km弱の距離でしょうか。西半周を歩いてきて、このあたりが南端地域です。湖岸に立ち、北方向を眺めると、遙か先にあの柳の木が望めます。つづく参照資料1) 『街道をゆく』4 司馬遼太郎著・朝日文芸文庫 「余呉から木ノ本へ」p2772) a.『ホトトギス 改訂版 新歳時記』 稲垣汀女編 三省堂 p761 b.『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所 p1196 c.『基本季語500選』 山本健吉著 講談社学術文庫 p7603) 『戦国合戦事典 応仁の乱から大坂夏の陣まで』 小和田哲男著 PHP文庫 p331【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺地名のルーツ~白木神社~渡来地名 :「自然体で、興味を持ったことを・・・」蛇の枕石 湖が干ばつになるとみられるというその写真をネットで見つけました。 菊石姫の伝説話と写真が掲載されていて詳細な説明です。アジサイ :ウィキペディア八十村 路通 :ウィキペディア忌(斎)部路通 :「コトバンク」向井去来 :ウィキペディア去来抄 :ウィキペディア去来抄. 上,中,下 / 去来 [著] ; 呑溟(どんめい) 校 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 画像をクリック、下巻(番号3)の画像をクリックで、下巻見開きページ一覧へ。 18コマ目のクリックで路通の句に対する先師(芭蕉)と去来の評を読めます。 猿蓑 :ウィキペディア猿蓑 乾坤 :「J-TEXTS 日本文学電子図書館」 猿蓑集 巻之一 「冬」の季の中、「貧交」という項に路通の句が載っています。 猿蓑 猿蓑集 巻之一 山梨県立大学 伊藤 洋氏 制作 こちらでは、句の説明ページにリンクしています。賤ヶ岳七本槍 → 賤ヶ岳の戦い :ウィキペディア余呉湖 :ウィキペディア自然湖のダム化 → 化女沼ダム :ウィキペディア琵琶湖八景・近江八景 :「滋賀県」余呉湖観光情報 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -1 余呉湖の天女羽衣伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -2 余呉湖・桐畑太夫の羽衣伝説&菊石姫伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -4 飯浦送水/余呉湖放水・隧道、烏帽子岩・お膳岩、乎弥神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -5 意波閇神社、里坊弘善館、菊水飴本舗 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -6 ウッディパル余呉、茶わん祭の館、洞寿院 へ
2017.10.28
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天女像を見た後、湖岸に近づいて行きます。 違った角度から、天女衣掛けの柳が眺められます。西側半周の湖岸沿いを歩くとき、この柳の木を振り返りながら、その景色を眺めて行きました。ほどなく、「余呉湖のビジターセンター」です。ここには大きな観光案内図が芝生の広場に建てられていて、 広場には句碑、歌碑が建てられています。 ビジターセンターの建物の傍に、「中部北陸自然歩道」の表示板があります。近寄って見ると、「余呉湖と天女のみちコース」という地図と説明が出ています。これを参考にしていただくと、便利だと思います。このビジターセンターから柳の木まで300mばかりだということがわかります。JR余呉駅からこのセンターまで1kmくらいの距離なのです。ビジターセンター近くには釣り桟橋があり、釣り人にはワカザギ釣りのポイントとして知られているようです。釣りをしない私は知りませんでしたが・・・。このワカサギは余呉湖にとっては外来種だったのですね。今回、案内説明で初めて知りました。 このビジターセンターから湖の西側を北から南に回り込んでいくことになります。湖岸沿いに歩道ができています。昭和35年(1960)に湖岸を一周する道路ができるまでは、浦々を結ぶ交通手段は舟だったと言います。道路ができて、交通手段としての舟はすべてなくなったのだとか。(資料1,3) 柳の木が遠くに見えます。余呉湖の西側は、川並地区です。この画像の山裾の樹林のあたり、川並村桐畑太夫の屋敷があったという伝承が残る場所だそうです。この桐畑太夫がもう一つの羽衣伝説に登場する人物なのです。この伝説は、慶長年間の末期(1612)に記録があるようです。天女が桐畑太夫の妻になるまでの経緯は、風土記逸文と似たようなもの。だけど、その後が大きく変化します。天女は陰陽丸と名づけられた男子と、その翌年、菊石と名づけられた女子を生みます。そこから話が展開して行くのです。天女は再び羽衣を手にすると天に昇り去って行きます。太夫は嘆き悲しむのですが、東方の霊石あたりに瓢を植えて作り、できた瓢に乗って法華経を唱えると天に昇ると教えられて、桐畑太夫は昇天するのです。その結果、兄妹は孤児になってしまいます。この陰陽丸の泣き声が、管山寺の尊元和尚の耳目に止まることとなり、後に陰陽丸は菅原是善の養子となり、後の菅原道真として生長していくというのです。つまり、羽衣伝説が道真誕生伝説に繋がっているという伝承です。これは『日本地誌体系』に載っているようです。(資料1,2)さらに、『雑話集』には、七夕伝説と結びつく余呉の羽衣伝説があるそうです。(資料2)。司馬遼太郎氏はきりはた(切畠)太夫の話が『雑話集』を典拠にするとしています(資料1,3)。このあたり、いつかどこかで原典に触れてみたいものです。 さらに湖岸沿いの道を先に進むと、ちょうど余呉湖の西半周の中間点くらいになります。方位では西にあたります。ここで、少し大きめの石を安置し、その背後・湖側に御幣をたて、玉垣を回らした場所に出会います。昔、一度見た時は単に通過点でした。 「菊石姫と蛇の目玉石」という説明碑が傍に建てられています。この菊石姫とは陰陽丸の妹のことでしょう。「菊石は十三才にて海に入り主となり、三年過ぎ大竜の形にて浮かぶ。片(形)見に両眼を抜き、小鍋に一生下され、石に跡あり。」と伝説中にわずかですが記載されています。小鍋というのは、孤児になった兄妹を養った女性です(資料1)。一方、説明碑には、ある年に干ばつに苦しむ村人を救うために、余呉湖に身を投じ、雨を降らせたということが記されています。蛇に化身した姫は、疫病の薬にと目玉を抜きとり、湖中から投げ与えたそうです。そのとき石の上に目玉が落ちたのですが、それがここに祀られている石だとか。 落ちたときの跡が半円球状に窪んでいるのです。結構大きな跡ですよ。 この蛇の目玉石から湖面の先を眺めると、あの柳の木が遠望できるのです。デジカメのズームアップで、それが確認できました。余呉湖にまつわる羽衣伝説が、様々にアレンジされて、伝承されてきているのです。長らく、私はそのうちの一番古い羽衣伝説だけに親しんできていたということになります。伝説には、様々な人々の思いや祈り、願望が加わり、変遷してきたのでしょう。様々な地点から眺めることのできる「天女衣掛の柳」が、伝承の厚み、広がり、変形を育んでいったのではないでしょうか。伝説・伝承の変遷を知ることで、昔日の余呉湖に一層のロマンが広がりました。つづく参照資料1) 当日配布の説明レジュメ資料2) 羽衣伝説と道真伝説 :「余呉観光情報」 3) 『街道をゆく』4 司馬遼太郎著・朝日文芸文庫 「余呉から木ノ本へ」p278【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺ワカサギ :ウィキペディアワカサギ :「市場魚介類図鑑」菊石姫伝説 菊石姫の物語 :「余呉観光情報」余呉町伝説『菊石姫』 :「こんにちは。滋賀の伝説」菊石姫の伝説 :「国民宿舎 余呉湖荘」「雑話集」を所蔵しているか。:「レファレンス協同データベース」「余呉湖畔の蛇の目玉石」の・・・伝説(民話)の内容について、もう少し詳しく知りたい。 :「レファランス協同データベース」大日本地誌大系 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -1 余呉湖の天女羽衣伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -3 蛇の枕石、あじさい園、路通の句碑、七本槍の地 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -4 飯浦送水/余呉湖放水・隧道、烏帽子岩・お膳岩、乎弥神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -5 意波閇神社、里坊弘善館、菊水飴本舗 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -6 ウッディパル余呉、茶わん祭の館、洞寿院 へ
2017.10.27
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JR余呉駅で電車を降りプラットホームから南を望むと、稲穂の先に山に囲まれた水面が見えます。JRの米原駅から、長浜を通過して、賤ヶ岳の山が見えるようになるところに小さな余呉駅があります。これが小さな湖、余呉湖の眺めです。地図で滋賀県の中央にどかんと位置を占める琵琶湖、近畿の水瓶のその北にちょこんとある湖なのです。司馬遼太郎氏は『街道をゆく4』の最後の一文で、余呉湖は「よごこ」ではなく、あくまで「よごのうみ」とよばれるべきものと記しています(資料1)。この余呉湖は、上代には「伊香の小江(このえ)」と呼ばれていたこともあったとか。これは、琵琶湖が「大江(おえ)」と呼ばれたことに対応するようです。(資料1では「小江」に「このえ」とルビを振っています。他資料では「おえ/をえ」とも) 先日の再録ブログ記事にも余呉駅の画像を載せています。この駅前に集合してこの探訪が始まりました。2013年8月31日(土)の探訪記です。日本列島に接近した台風が熱帯性低気圧に変わり、曇空の不穏な天候状態での出発でした。このとき滋賀県教育委員会事務局の企画「ブロガーによる歴史探訪情報発信」のコースに参加しました。ほんの一瞬の小雨以外は雨に降られずに、ウォーキングと水色のバスの併用による効率的な探訪ができ、行程を巡ることができました。この時のまとめをここに再録してご紹介したいと思います。(再録理由は付記にて) 駅前に、大きな観光案内の説明板が並んでいます。そこから切り出した部分図です。ここに、今回の企画「余呉湖周辺から高時川の上流域を訪ねて-長浜市-」(これが正式名称なのです!)の訪問場所が含まれています。「現在地」が余呉駅です。駅からまずはウォーキングで出発。余呉湖のほぼ西側半周を湖岸沿いに歩き、余呉湖の南端に近い「国民宿舎余呉湖荘」(番号5)まで、余呉湖に関わる史跡や現況を探訪しました。そこから、バスを利用しながら各所の訪問です。地図に付された番号で言えば、6番、3番、7番、8番というルートを辿り、地図の上辺にある9番「妙理の里」に近い「洞寿院」という曹洞宗のお寺の訪問までとなります。古の史跡・伝承地、寺社、「近江水の宝」に関連する現在の設備など、まさに今昔とりまぜた余呉湖とその周辺地域の探訪でした。まずは余呉湖のロマン、天女羽衣伝説のご紹介からはじめましょう。私がこの伝承を知ったのは社会人となった頃です。琵琶湖の北に余呉湖という小さな湖があり、そこに羽衣伝説があるという・・・・へえっ!と思い、早速図書館で本を調べてみました。そのとき余呉湖と賤ヶ岳を初めてスポット的に訪ねたのです。なつかしい思い出です。そして、再びその伝承に関連する場所などを網羅して巡ることが、今回何十年ぶりにできたという次第。(もちろん、その後余呉湖近辺には何度か来てはいるのですが・・・・それは別目的。)私には、これだけでもうれしい限りでした。駅から歩いて700mほどの距離、今は湖岸から少し離れていますが、道路沿いに見えるこの木が「天女衣掛けの柳」です。このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。柳? 普段よく目にし、イメージを浮かべる柳とは違います。そこで調べてみると、「この柳は楊柳科のマルバヤナギ(アカメヤナギ)という植物で、中国原産の柳だという。」ものだそうです(資料2)。もう一つ、お気づきでしょうか? 美保の松原の羽衣伝説などで。天女が羽衣をかける木は「松」というのがそのイメージですね。ここ余呉は柳の木なんです。柳はここだけのようです。 木の傍に、その伝承・言われの説明板が建てられています。これをお読みいただくと伝承の概略がご理解いただけるでしょう。 柳の木のすぐ傍に読みづらくなっていますが、歌を印刻したような石碑があり、また「北野神社」という文字のみえる石標が建てられています。この石標は、余呉湖の周辺地域の一角にある菅山寺、また伊香で生まれたという菅原道真との関連史跡のようです。昔々、8人の天女が白鳥となってこの伊香の小江(余呉湖)畔に舞い降り、羽衣をこの柳の木にかけて、水浴を楽しんでいました。それを伊香刀美が知り、犬を使ってその羽衣の1枚を手に入れます。そのため天に戻れなくなった一人の天女は、しかたなく彼の妻となり、二男二女を成します。しかし、羽衣の所在を見つけた時、天に戻ってしまうという伝説です。この伊香刀美が、この伊香地方を開発した伊香連(いかごのむらじ)の祖先なのだという伝承につながっていきます。羽衣伝説には、別の伝えもあるようで、この説明板に触れられています。「桐畑太夫の羽衣伝説」。こちらの説を、この企画に参加して初めて知りました。ロマンが増えるという収穫です。前者の羽衣伝説は、『近江国風土記』の逸文として伝わるもの。大昔、ある人からこの伝説の話とこの出典のことを聞き、たしか岩波書店の古典文学大系の風土記の中で、探し当てたのじゃなかったか・・・・と記憶します。この探訪企画で当日いただいた資料によると、『帝王編年記』という本の養老7年(723)の条に、前者の羽衣伝説が記載されているそうです。ウィキペディアの「近江風土記」を読むと、この『帝王編年記』記載の内容が、訳文で「余呉湖の羽衣伝説」として記載されています(資料3)。(入手資料は同書原文の読み下し文の引用です。)再録ですので、その後某大学の図書館に行った機会に、再確認したことをここに追記します。『風土記』(日本古典文学大系2 秋本吉郎校注 岩波書店刊)に「風土記 逸文」として「近江國」の項目中(p457-459)にやはり掲載されていました。伴信友が「諸国風土記逸文稿」(「古本風土記逸文」とも題している)として採択した資料と記されています。筆者の考証判断によると、古代の官撰風土記としては疑わしいものだとか。読み下し文の続きに漢文の原文が掲載されていて、末尾に「帝皇編年記」と記されています。(今回入手の『帝王編年記』と同じ出典と思われます。)同書p458の頭注に次のような注記が付されています。「養老七年癸亥の条に記しているのは所拠の文献に養老七年の記事としてあったものか、所拠の文献名を記していないので、風土記の記事に近似するが風土記と決し難い」。横道に入りました。本筋に戻ります。天女衣掛の柳を通り過ごし、次の場所に行く途中で、振り返ってみたところ。 余呉湖畔を西まわり、つまり反時計回りに歩いて行きました。道路沿いに数分歩いて行くと、進行方向右手の少し奥まった場所、自動車ならその存在すら見過ごしてしまいそうな位置に「天女像」が建てられているのです。もう少し、道路沿いだと注目されやすいと思うのですが、天女は少し控えめです。道路からは銅像の側面が眺められます。銅像の基壇、側面には俳句が刻まれています。 賤ヶ岳 寄りに鴨をり 余呉の湖 幸叢 少し廻りこむと、基壇正面には「余呉湖」と記されています。銅像を見つめることと、並行して国会図書館のサイトを調べていて、この羽衣伝説が聴方資料としてまとめられ、「伊香の小江(近江国風土記) -羽衣-」として記載されているのを見つけました。全文引用します(資料4)。 この天女、何を思っているのでしょう・・・・。 現地をぜひ訪れて、この柳の木や天女像を眺めながら、この伝承に思いを馳せてみてください。つづく参照資料1)『街道をゆく』4 司馬遼太郎著・朝日文芸文庫 「余呉から木ノ本へ」p2762) 近江国風土記 :ウィキペディア 3) 余呉湖・長浜市 :「滋賀文化のススメ」4)『標準日本名話集 : 新聴方資料.物語の巻』三浦圭三編著・白鳥社 昭和11年出版 :「国立国会図書館 近代デジタルライブラリー」 コマ番号(102~109/104)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺余呉湖 :ウィキペディア天の羽衣(伊香小江) :「伊勢物語と仁勢物語」(yoshyさん)羽衣伝説 :ウィキペディア帝王編年記 :「コトバンク」帝王編年記 国文学研研究資料館『帝王編年記』について知りたい。 :「レファレンス協同データベース」久米幸叢句碑(唐橋町) :「大津のかんきょう宝箱」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -2 余呉湖・桐畑太夫の羽衣伝説&菊石姫伝説 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -3 蛇の枕石、あじさい園、路通の句碑、七本槍の地 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -4 飯浦送水/余呉湖放水・隧道、烏帽子岩・お膳岩、乎弥神社 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -5 意波閇神社、里坊弘善館、菊水飴本舗 へ探訪 [再録] 滋賀・湖北 余呉湖今昔と周辺地域 -6 ウッディパル余呉、茶わん祭の館、洞寿院 へ
2017.10.27
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前回ご紹介した「地蔵院」から200mほど南に行くと、「葉室山淨住寺」です。ここも道路から東に奥まったところに白い築地塀が見えます。淨住寺は資料によると、3つの時期を経ています。第1は「常住寺」と称された時期です。天台宗の慈覚円仁を開山とし810年に開創された嵯峨天皇の勅願寺だったと伝えられているのす。「寺伝では常住寺旧跡・嵯峨天皇仏舎利安置所」となっているそうです。(資料1)第2は、公家・葉室定嗣が西大寺の興正菩薩叡尊を請じて開山とし、「淨住寺」を中興した時期です。弘長元年(1261)に葉室中納言定嗣は出家して常然入道と称した後、弘長年間(1261-64)に山荘を改めて寺とし、葉室家の菩提寺としたそうです。「浄住寺伽藍図」が残されていて、律宗の有力な寺院となっていたのです。この伽藍図は元弘3年(1333)作と伝わるようですが、江戸時代に写されたものと思えるとのこと。しかし、南北朝時代の始まりとなる元弘の変により、1333年の戦いで淨住寺は兵火により焼亡し、衰微します。そして、1567年に炎上したとか。(駒札、資料1,2)第3は、貞亨4年(1687)に葉室頼孝が黄檗宗の僧鐵牛道機を再興開山に請じて、寺の再興をはかったのです。元禄2年(1689)に頼孝の子、孝重の援助で伽藍の整備が成ったという説もありるそうです。当時は、「寿塔、開山堂、祠堂、佛殿、天王殿、大門、東方丈、西方丈、寶蔵、斎堂、鐘楼、鼓堂、庫裡等」が整備され、黄檗宗の有力寺院となっていたそうです。鐵牛道機は黄檗宗の開祖・隠元隆琦禅師(諡号は数多いので省略)の弟子で、諡号を大慈普応国師と称します。(資料1,2)現在は、堂宇が一部残るだけです。 道路から参道を進むと奧まったところに、石柱二本だけが立つ山門があります。門を入ると、参道の先に石段が続きます。その正面に本堂が見えます。現在はこの参道の左(南)側に、石段を上らずにアプローチできる道も見受けられています。 途中、参道の右、広い境内の一隅に石碑が目にとまりました。2010年、三百九回忌の折りに建立された開山鐵牛道機遺偈の碑です。 「明明歴々 歴々明明 此是何物 廻説死生」脇道ですが、我が地元・宇治にある黄檗宗萬福寺境内所在の塔頭・長松院にも、鐵牛道機の遺偈碑が建立されていることを調べていて知りました。(資料4) 現在の本堂です。黄檗様の丸窓が建物正面の両側に見えます。本堂の屋根には鯱が置かれています。さらに近づくと、鐵牛禅師筆の扁額「祝国」が掲げられています。この建物はもと開山堂だったもので、現在は本堂兼禅堂として使われています。現本堂の後に、開山堂(もとの祠堂の一部)、寿塔・宝蔵が続きます。寿塔・開山堂・祠堂・本堂兼禅堂の建物は京都市の指定有形文化財となっています。ここまでの写真でおわかりのように、正面の門、それに続く参道、本堂、開山堂、寿塔が直線的配置となっています。これは中国の黄檗宗寺院の典型的様相を表しているといいます。(資料1,3)本堂・開山堂はその墨書から、松尾社の宮大工・河原家の河原清貞が建てた建物なのだとか。本堂の棹縁天井には、黄檗様と和様が混在するという特徴を持っているのです。(資料2)本堂の前を、右折して北方向に進み、まずは本堂の北側にある「方丈」を拝見しました。この方丈は、もとは「東方丈」と称されていたもので、少し長さ方向を縮小し、現在の方丈として残っているそうです。仙台藩伊達家の伊達綱村が鐵牛禅師に帰依していたため、淨住寺に寄進した建物(綱村の遺館)なのです。仙台から江戸を経てこの地に移したと伝わるようです。内部は十二畳と十五畳、上段の間があります。床・違棚がつけられていて、「武者隠し」もあります。江戸時代の武家屋敷の遺構でもあります。 方丈庭園 方丈の傍に置かれた手水鉢(水盤) 方丈の廻縁ちょっと珍しのは宝篋印塔の笠部分の用材を転用した手水鉢が置かれていることです。上部が苔蒸しているのがまた、風趣を加えています。 方丈側から本堂への廊下廊下には萬福寺でみた魚鼓(ぎょく:魚板)ではなく、鋳造製の雲版(うんばん)が吊されています。これも禅宗の法具で、輪部が雲形に形どるところからこの名がついたもの。寝起き、食事や坐禅の合図などの告知をするときにならすものです。(資料5)本堂内部の須弥壇には本尊釈迦如来坐像が、脇壇には阿弥陀如来立像(鎌倉)、葉室頼孝像などが、それぞれ安置されています。また内部両側には板敷の床が設けられており修行の場を兼ねていることがわかります。後の開山堂には鐵牛禅師像が安置されています。寿塔には、鐵牛禅師の遺骸が葬られています。 本堂の外に出て、本堂側壁をめぐり石段を上がると、大きな亀趺(きふ)が建立されています。ここに上がったのは、寿塔を外側から拝見するためです。 寿塔は方二間、宝形造の小規模なものです。元禄10年に造営されたものだといいます。(説明板より)寿塔にも丸窓が設えてあります。境内の一隅には、石仏が数多く安置されています。「葉室氏は藤原北家冬嗣の孫高藤の後裔で、12世紀に光頼が当地を山荘としたことから葉室を名乗った。後に九条家の家礼となる」(資料2)そうです。浄住寺は西京区山田開キ町にあり、その東隣が山田葉室町です。葉室は今はこの地名にその名を残すだけとなっていますが、むかしは桂川から西方一帯を葉室と称したようです。江戸時代後期に、歌人千種有功(ちぐさありこと)が次の歌を詠んでいるとか。(資料3) 梅津より舟さしよせて呉竹の葉室の里の夏を訪はばや 千々迺家集・夏浄住寺の門前の台地上(山田葉室町)には、かつては穀塚(こくづか)古墳があったところだそうです。「全長40.5mの前方後円墳で幅約4.5mの周濠をもつ。主体部は竪穴式石室(5.4×2.7m)が後円部の上部にあり、その下部には粘土槨(長さ約3.6m)が確認された」という規模の古墳です。(資料2)一方、門前の道を南に行くと、山田上の町です。このあたりから山田古墳群があったところです。上ノ山古墳、清水塚古墳、天鼓の森古墳などが散在していたそうです。 道沿いに「葉室家墓地」の一画があります。ただし、近世の人々の墓ばかりで、葉室光頼・光俊・定嗣らの墓はここには見あたらないといいます。次の歌が詠まれています。(資料3) 世を逃れて葉室といふ山里に籠りいて侍りけるに、花を見てよみ侍りける いさや猶花にも染めじわが心さても憂き世に帰りもぞする 前大納言光頼 新勅撰集・巻16・雑歌一 世をそむきて西山なる所に住み侍りける頃、春の歌の中に われ住まで花の都の春霞やどせば早くへだたりにけり 光俊朝臣 玉葉集・巻14・雑歌一 この山の麓にぞみる呉竹の葉室の里の世々の面影 光俊朝臣 宝治百首 この背後のところが、現在「上ノ山古墳」として保存されています。 径10mの円墳で、古墳時代後期の造立と推定されえいる古墳遺跡です。天鼓の森古墳は、『都名所図会』に「天鼓の森(下山田の東にして小社あり。由来未考)として名前を残すところです。現在、桂中学校となっているあたりです。こちらは全長80mほどの前方後円墳があった跡だそうです。今回の史跡探訪は、桂中学校を遠方に眺めかつての古墳地を知識にとどめて、「山田岐れ」を通り、阪急電車嵐山線の「上桂駅」にて解散となりました。地蔵院~浄住寺~山田葉室町・山田上ノ町~上桂駅 この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。これで今回のご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「葉室山淨住寺」 当日お寺にていただいた案内説明文 2) 「京都の古寺社を巡る29 ~松尾大社~」龍谷大学REC講座 当日配布資料 (作成 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)3) 『昭和京都圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p367-3704) 長松院 [萬福寺](宇治市) :「京都風光」5) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p378【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鉄牛道機 :「コトバンク」黄檗鉄牛 :「コトバンク」名家 葉室家 :「公卿類別譜~公家の歴史~」浄住寺 :ウィキペディア京都洛西山田浄住寺境内絵図の現地比定について 松尾剛次・阿子島功共著 論文狩野安信筆「鐵牛道機像」(仙台市・大年寺蔵) -像主についての疑問、安信と黄檗宗のかかわり 門脇むつみ氏 論文黄檗宗僧侶名鑑 黄檗宗資料集 :「黄檗宗・慧日山永明寺HP」穀塚古墳 :「遺跡ウォーカーβ」天鼓の森 :「京都市立桂中学校」天鼓の森 :「遺跡ウォーカーβ」京都紹介・・・西京区山田地区にある古墳 :「好奇心京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -1 松尾大社(1):楼門、本殿、神輿庫、南末社ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -2 松尾大社(2):亀の井・曲水の庭・上古の庭・神像館ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -3 月読神社・最福寺(延朗堂)・地蔵院ほか へ
2017.10.25
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松尾大社の南の鳥居を抜けて、「月読神社」に。前回「松尾七社」で触れましたが、月読社は松尾社の摂社という位置づけでした。松尾大社の南400mほどのところに位置します。冒頭の写真は、「月読神社」の正面です。今回の探訪では、神社前での説明にとどまり、残念ながら境内には入っていません。 ちょっと石段を駆け上がり、門前から本殿方向の写真だけズームアップで撮ってみました。『延喜式』神名帳に「葛野坐月読神社」と記されているとのこと(資料1)。社名の通り、祭神は「月読尊(つきよみのみこと)」です。『日本書紀』顕宗(けんぞう)天皇の3年春2月1日の条に、以下の記載があります。「阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、命をうけ任那に使いした。このとき月の神が、人に憑いて、『わが祖高皇産霊(たかむすひのみこと)は、天地をお造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ。求めのままに献上すれば、慶福が得られるだろう』といわれた。事代は京に帰って、詳しく申しあげた。山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。壱岐の県主(あがたぬし)の先祖の、押見宿禰(おしみのすくね)がそこにお祠りして仕えた」(資料2)と。また、『続日本記』文武天皇の大宝元年(701)4月3日条には、「次のように勅(みことのり)した。山背(山城)国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志(はつかし)神などの神稲(神田から取れる稲)については、今後中臣氏に給付せよ。」と(資料3)。由緒は古い神社なのです。「『文徳実録』には、斉衡3年(856)に社が川辺にあったため、松尾の南山に移したとする」記載があるそうです。そして、江戸時代はじめに松尾社の摂社に組み込まれたという変遷を経ているといいます。(資料1,4)鳥居に向かって、右側(北)には、石碑「押見宿祢霊社遺跡」が建立されています。その碑文の冒頭にも日本書紀による月読社創祀に触れていますが、上記の9世紀にこの地に神社が移った時に、押見氏が松室氏を称するようになったことを記しています。この辺りが松室という地名であることが、このことと呼応するのでしょう。道沿いに南下すると、この石標「谷ヶ堂 最福寺 開山延朗上人旧蹟地」が立っています。 その少し先にあるのが、宝篋印塔、小五輪塔や慰霊碑などが建てられた一画です。そこに「平治元弘応仁元亀の乱 戦火ゆかりの地」と刻された碑もあります。この辺りは応仁の乱の戦場となり、元亀・天正の兵乱において最福寺は焼失したのです。最福寺は、天台宗寺門派の寺院であり、園城寺の僧延朗が建立したお寺で、谷の堂とも称されていたのです。松尾社との関わりが深く、神宮寺としての役割を果たしていたそうです。また「延朗(1130-1208)は『元亨釋書』感進に伝記が残り、念仏の奨励や治病・雨乞いなど奇瑞伝承を載せる。源義家の四世孫とされる」(資料1)人物だとか。かつては、このあたりに最福寺の七堂伽藍が建立されていたのです。孫引きですが、『太平記』には、最福寺について「奇樹怪石の池上に、都卒の内院を移して四十九院の楼閣を並べ、十二の欄干珠玉天に捧げ、五重塔婆金銀月を引き、恰(あたか)も極楽丈殿七宝荘厳の優姿」と描写されているといいます。(資料5) 現在の建物は近年再建されたもののようで小規模な御堂(延朗堂)だけです。お堂には、延朗上人の伝記絵が掲示されています。寄木造で玉眼の嵌入された延朗上人坐像を拝見しました。お堂の北側には、観音菩薩立像が建立され、可愛らしい六地蔵菩薩立像も傍に建立されています。調べてみますと、延朗上人800回大遠忌を記念してこの「さしのべ観音」が建立されたのです。(資料5)このあたりは、多種多様な紫陽花が咲き誇るようです。その時季(6月中旬頃から7月上旬頃)には、この延朗堂境内で「紫陽花まつり」が行われているそうです。また、毎年2月11日には、この観音像のところで「焔の夕べ」が催されるといいます。いただいたチラシの写真を拝見するとちょっと幻想的な感じです。当日午後1時には、併せてこの観音像の前で「お焚き上げ法要」も行われています。(資料6)次の目的地は地蔵院(竹の寺)でした。その道程にて「鈴虫の寺 華厳寺」の門前を通りすぎます。門前の石段には観光客が並んでいるのが見えました。 その傍に、「松室やすらぎの庭」というスペースがあります。横道に逸れますが、松尾学区自治連合会が生物多様性の保全及び伝統行事の支援のためにここを管理されているそうです。そして、フタバアオイの保護・育成に取り組み、将来的には松尾大社の還幸祭に提供することを目指しているといいます。この取り組みが「京の生き物・文化協働再生プロジェクト」に2015年8月12日付で認定されているのです。(資料7) さらに南に進むとT字路に出ます。北西角には、「かぐや姫竹御殿」という名称を掲げた建物があります。南側に「竹の寺 地蔵院庭園」への案内標示が出ています。南側が小高くなっていて、階段を上って行くことになります。このT字路を西に少し行くと、西芳寺(苔寺)です。「かぐや姫竹御殿」を初めて知ったので、また少し寄り道になりますが・・・・この建物の門を入ると、庭の奧に高さ約10mの「御殿」が竹づくしで建てられているそうです。竹職人だった故・長野清助氏が昭和初期から27年かけて独力で作ったといいます。竹取物語を独自に研究し、焼失前の金閣寺をモデルにしたといいます。今は子孫の方が維持管理の一方で、予約制での公開をされているようです。(資料8,9)月読神社から地蔵院に到る地図(Mapion)はこちらをご覧ください。階段を上がり、200m程歩きます。 道路から右折し、参道を少し奧の方に歩いたところに地蔵院の総門が位置しています。道路に面したところには、駒札他が立てられています。参道入口の北側に、「衣笠山地蔵院 竹の寺 全景」の案内図があります。 上掲駒札の隣に、この説明板も立っています。地蔵院は臨済宗の寺で山号が「衣笠山」。通称が「竹の寺」、「谷の地蔵」とも呼ばれているようです。もとは歌人の衣笠内大臣藤原家良(いえよし)の山荘があったところに、室町管領細川頼之(よりゆき)が貞治6年(1367)に寺を寄進し建立したのです。細川頼之は深く帰依する碧潭周皎(へきたんしゅうこう)を招請します。西芳寺住持だった碧潭周皎は恩師夢窓国師を開山に仰ぎ、自らは第二世となられたそうです。碧潭周皎は1374年に84歳で寂滅し、宗鏡禅師の諡号を賜ります。一大禅刹として拡大した当寺もまた、応仁の乱により諸堂悉く焼失し灰燼に帰したとか。江戸時代の貞享3年(1686)、第14世古霊和尚の時に、細川家の援助を受けて寺観が整えられたといいます。(駒札、説明板、資料10) 総門 築地塀のところにも駒札が嵌め込まれています。 総門を入ると参道の両側が孟宗竹の竹林となり、まさに竹の寺という趣です。真竹も植えられているようです。途中、右側のすこし奧に、右の画像の顕彰碑が建立されています。明治24年2月に、細川潤次郎の撰により、細川頼之の事蹟を詳しく記した碑だそうです。 参道を真っ直ぐに進むと、正面に本堂(地蔵堂)が見えます。 正面に地蔵院の扁額が掛けられています。現在の本堂は昭和10年(1935)に再建されました。本堂の位置は昔のままだそうです。 本堂中央に伝教大師作と伝わる延命安産の地蔵菩薩が本尊として安置されています。右脇に開山夢窓国師、宗鏡禅師、左脇に開基細川頼之公の各木像を安置しているそうです。本堂の南側に自然石を以て墓標とした墓所があります。 建仁寺垣に近い側に、一段高くなった区画に開山宗鏡禅師の墓標があります。その前には、踏み石として平らな石が置かれています。このあたりもかつては古墳群の一部だったところであり、この石も古墳に使われていた用材石と考えられるものだそうです。 宗鏡禅師の墓標の右隣りに、開基細川頼之墓が同じく自然石の墓標で並んでいます。今ではその墓標を半ば抱きこむ形で老木が茂っています。この墓は細川石ともよばれるようです。細川頼之は1329年三河国に生まれ、貞治6年(1367)将軍足利義満の補佐として管領職となり、後に南北両朝の和合に尽力したそうです。1392年64歳で亡くなったといいます。(資料10) 本堂の南側面 本堂の北隣には、鎮守堂があり、「開福稲荷大明神」が祀られています。稲荷社ですが、社は朱色には塗られていません。傍に立つ石灯籠。不思議なことに火袋の部分に立方体の石が置かれているだけのように見えます。火袋の窓部分が見えないのです。少し不思議な感じ・・・・です。 本堂の周辺には、所々に石仏群や石塔群がみられます。本堂から北方向のかなり離れた位置に方丈と庫裡の建物があります。本堂の前からそこに到る参道が延びています。 参道を辿ると、中門があり、築地塀で境内が仕切られています。庫裡の傍から方丈に入ります。中門から先の区域は撮影禁止でした。方丈の南側、つまり、本堂との間に方丈庭園が造られています。この方丈は貞亨3年(1686)の棟札が残されていますので、庭園も同時期に作庭されたものと推定されています。方丈には鎌倉時代の造立とされる銅造千手観音菩薩坐像が安置されています。体幹部は一鋳の仏像で、重文です。(資料1)この庭園が通称「十六羅漢の庭」と呼ばれているのです。築山や池などはなく、平庭式枯山水庭園で、庭の中に30個ほどの様々な形の石が配置されています。これらの石、一つ一つが十六羅漢の修行の姿を表しているとされています。この庭は宗鏡禅師作と伝えられているそうです。方丈から庭を眺めているときに、説明を伺ったのですが、この庭の羅漢は八幡の男山にある石清水八幡宮に願をかけているので、その方向(左手後)に少しずつ傾いているとのことです。仏教の修行に励む羅漢が神社に祈願するというのも神仏習合思想の浸透とした日本ならではの発想でしょうか。八幡神は八幡大菩薩と称されていた時代があったのですから。京都市都市緑化協会のホームページに、「地蔵院(竹の寺)庭園」の項に、庭の写真が1枚載っています。こちらからご覧ください。尚、地蔵院を訪れて初めて知ったのですが、一休禅師は後小松天皇の皇子として、1394年にこの地蔵院近くの民家で誕生されたといわれているそうです。地蔵院で幼少の頃修養し、ここで成長されたと伝えられているとか。そして6歳の時に安国寺に移り本格的な修行に入られたといいます。地蔵院を出て、南に位置する「浄住寺」に向かいます。四つ辻に道標があり、また東方向の道が桂坂への抜け道で、ハイキングコースの入口でもあるという表示も見られました。つづく参照資料1) 「京都の古寺社を巡る29 ~松尾大社~」龍谷大学REC講座 当日配布資料 (作成 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)2) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 猛訳 講談社学術文庫 p3323) 『全現代語訳 続日本紀 上』 宇治谷 猛訳 講談社学術文庫 p384) 『昭和京都圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p356-3575) 谷ヶ堂 最福寺延朗堂(谷ヶ堂最福寺(延朗堂)) :「京都観光Navi」http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=10003106) 「帰峰山西光寺歳時記」 最福寺でいただいた資料(チラシ) 浄土宗西山禅林寺派西光寺の住職が管理されていることによります。7) 京都市、「京の生きもの・文化協働再生プロジェクト」を認定 :「環境展望台」8) [かぐや姫竹御殿] 思いのたけ 光る職人魂 :「朝日新聞DIGITAL」9) かぐや姫御殿 :「大和占術」10) 「竹の寺 地蔵院」 拝観の際にいただいたリーフレット【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺月読神社 :ウィキペディア竹の寺地蔵院 公式ホームページ地蔵院庭園<西京区>(竹の寺庭園) :「京都観光Navi」かぐや姫竹御殿 :ウィキペディアかぐや姫竹御殿 :「京都竹カフェ」石清水八幡宮 ホームページ八幡大菩薩 :「weblio辞書」一休宗純 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -1 松尾大社(1):楼門、本殿、神輿庫、南末社ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -2 松尾大社(2):亀の井・曲水の庭・上古の庭・神像館ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -4 浄住寺・上ノ山古墳ほか へ
2017.10.24
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社務所の傍から、廊下の下をくぐって行くと、この霊泉「亀の井」が見えます。「神泉」と記された扁額が懸けられています。 松尾神の神使が亀であることから、「亀の井」とつけられたという説があります。古来酒造家がこの水を汲んで持ち帰り、酒の元水として造り水に混和して用いたそうです。この水を醸造のときに加えると、酒は腐敗しないと言われていたとか。また、延命長寿、よみがえりの水としても有名だそうです。(資料1,2)亀の井より少し高いところに、北末社があります。 「三宮社」(左)と「四大神社」(右) 北末社の傍から、御手洗川沿いに山の斜面を少し登っていたところに設けられた「滝御前社」です。境内マップによるとその先に「霊亀の滝」があります。今回は滝御前社にところまで訪れる時間がありませんでした。手許の本や入手資料にも説明がない部分をネットで調べてみて、一つの説明を得ました。引用してご紹介します。「四大神社」とは?(資料3,4)「四大神」とは、四季折々の神を意味し、一年間の平安が守護されるとか。祭神が春若年神(はるわかとしのかみ)、夏高津日神(なつたかつひのかみ)、秋比賣神(あきひめのかみ)、冬年神(ふゆとしのかみ)といいます。三宮社の祭神は玉依姫命、大山祇神、酒解神だそうです。また滝御前社の祭神は水の神である罔象女神(みずはのめのかみ)だとか(資料4)。異なる季節の写真が載せられていて有益です。亀の井を拝見した場所は、「松尾大社全景」に追記の番号8の近くから山側に入っていった先です。番号9.10あたりが、「拝観順路」の曲水の庭、上古の庭、神像館のある区画になります。「松風苑」と称されています。前回ご紹介した境内マップは、こちらからご覧ください。松尾大社の庭園は、昭和50年に重森三玲(しげもりみれい)の設計により作庭されたものです。この松風苑にある庭園が、昭和を代表する作庭家・重森三玲の絶作ともなったそうです。 まずは、山側に位置する「葵殿」への廊下の下にある庭への入口を通り、「曲水の庭」に入ります。ここは奈良・平安時代に造られた曲水式庭園に現代的解釈を加えて構成された曲水の庭です。(資料5)余談ですが、京都では、伏見の城南宮にある曲水式庭園が平安時代の伝統的な様式に近い庭でしょう。城南宮では毎年「曲水の宴」の行事が行われます。その様子はこちらをご覧ください。 (城南宮のホームページ:曲水の宴)城南宮の庭の景色と対比的にみると、現代的解釈の姿が感じとりやすくなるかもしれません。 洲浜を伴った曲水の流れ沿いに石組みが配され、流れには石橋が架けられています。 曲水の背後の築山には石組みがサツキの大刈り込みの中に配されつつ、全体としては連続性を生み出しています。流れの中にも石が点在しますので、そこに谷川の景を重ねてみることもできそうです。 洲浜の周囲の庭部分はすべて石敷きです。洲浜の石は緑泥片岩が使用されているそうですが、その石の色調が様々です。サツキの色は四季折々に変化し移ろいます。晴れた日の洲浜と雨に打たれた洲浜はまたその石の色合いがかなり変化することでしょう。不動と見える岩や石も、実は大気と湿度の変化に呼応し変化するのです。曲水の流れがとどまらないように・・・・・。高木類と見える土と苔などが一切無いクールさを感じさせる現代感覚の空間です。 「神像館」への通路をはさみ、北側には「上古の庭」が作庭されています。神社の原初形態の一つが山頂や山腹にある磐座です。この磐座を表現した空間の庭がこの「上古の庭」なのだといいます。「上古の庭は、松尾大社背後の山中にある磐座に因んで、山下に新たに造られた。据えられた石は石組ではなく、神々の意思によって据えられたものであると三玲自身の説明があるとおり、磐座とは庭園ではなく、神々を巨石によって象徴したものである。ミヤコザサが植えられたのも、人の入れない高山の趣きを表している。」(資料5)と説明されています。今回の探訪では、これらの庭を鑑賞することは副次的なもので、「神像館」に保存され、展示されている松尾大社所蔵の神像を拝見することが講座の一つの目的でした。館内は撮影できません。摂社・末社に旧蔵されていた神像も含めて大小様々な神像を併せ21体が展示されています。仏教における仏像の影響を受けて造像された神像について、その歴史的な変遷を知る上でも貴重な展示だと思います。私個人は、重森三玲の作庭した庭があるということを知り、両面から探訪を楽しみにしていました。 これは当日館内で購入した図録の表紙です。引用しご紹介しておきましょう。左は表紙の表に載る「男神像(老年相)」です。別に壮年相の男神像もあります。右は裏表紙には、図録中で「女神像(2)」として掲載されているものです。こちらは、月読(つくよみ)社旧安置の女神像です。図録によると、松尾大社に『松尾七社略記』が所蔵されています。松尾社・月読社・櫟谷(いちいだに)社を松尾三社と呼び、そこに宗像(むなかた)社・三宮社・衣手(ころもで)社・四太神(しだいしん)社を加えて「松尾七社」と称するそうです。これら七社の神像がここに保存・展示されているのです。摂社の一つ、月読社は次回少しご紹介します。後の摂社である櫟谷社と宗像社は嵐山仲尾下町に並んで建つ神社だそうです。松尾大社の境内には、その後に勧請された金比羅社、祖霊社を含めたそれ以外の末社が北末社、南末社として祀られていることになります。(資料6) この庭は、「即興の庭」と称されています。「曲水の庭」の築山の背後の山側で、葵殿と神像館の建物の間にあります。「当初の設計計画には全くなかった空間」だっとそうで、まさに「即興的に造り上げた庭園」なのだとか。枯山水形式の庭です。構成要素は、緑泥片岩、白川砂、錆砂利です。両建物と渡り廊下の三方向からの眺めを考慮したといいます。「磐座の自由奔放さと曲水の庭の形式的な石組みとの中間構成といえる意匠」による作庭だと説明されています。(資料5)古代からの歴史を秘めた広い境内の一画に、昭和の時代に作庭された庭園が、異なる次元の概念と意匠の造形として、ここに集まっているのも興味深いところです。「蓬莱の庭」を見逃しています。異なる季節に再訪してみたいと思います。「蓬莱の庭は、三玲が池の形を指示し、その後、長男の完途がその遺志を継いで完成させた」という最初で最後の親子合作による地泉庭園だそうです。(資料5)松風苑には、即興の庭を別にして、「上古の庭」(磐座風)、「曲水の庭」(平安風)、「蓬莱の庭」(鎌倉風)という三つの庭があるわけですが、「三庭に用いた二百余個の石はすべて徳島県吉野川の青石(緑泥片岩)」(資料1)だそうです。社務所・参集殿のある北側から眺めた社殿。赤い幟の傍に「幸運の双鯉」の小社が見えます。 拝殿やはり、参拝客なしでの建物を撮るのは諦めて、一枚記録に残しました。参拝客の映像もこの程度なら掲載しても支障はないでしょう。 北方向の一ノ井川の景色左に見える石標の近くに、手前の水盤がさり気なく置かれています。 楼門を出て、月読神社の方向に向かいます。境内の南側に位置する石造鳥居です。この鳥居の傍に、「松尾大社 新饌田」があります。つづく参照資料1) 「洛西総氏神 醸造祖神 松尾さん」 拝観の折りにいただいたリーフレット2) 『昭和京都圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂3) 松尾大社(京都市・西京区・嵐山宮町) :「エナガ先生の講義メモ」4) 松尾大社 :「uziの神社参拝記」5) 「松尾大社庭園のこと」 重森千青 拝観の折りにいただいた案内文6) 『松尾大社の神影』 松尾大社発行 p68-72【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺松尾大社 ホームページ松尾大社 :ウィキペディア重森三玲 :ウィキペディア重森三玲邸書院・庭園 :「重森三玲庭園美術館」重森三玲の庭園 造形の美の世界 :「ほあぐらの美の世界紀行」京の読みもの作庭家 重森千靑(ちさを)さん :「そうだ 京都、行こう。」 三宮神社(松尾大社末社) - 秦河勝ゆかりの川勝寺近く、松尾祭の御旅所の一つ、松尾三宮社 :「神社と古事記」松尾大社 松尾祭 神幸祭の船渡御 :YouTube京都・松尾大社「神幸祭(おいで)」三ノ宮社神輿 拝殿まわし 2013年4月21日 :Youtube松尾祭・神幸祭 :「京都観光研究所」松尾大社還幸祭(松尾大社) :「きょうの沙都」松尾大社六社青年連合会 地域団体 facebook ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -1 松尾大社(1):楼門、本殿、神輿庫、南末社ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -3 月読神社・最福寺(延朗堂)・地蔵院ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -4 浄住寺・上ノ山古墳ほか へ
2017.10.24
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2016年2月下旬に「京都の古社寺を巡る29 ~松尾大社~」という講座に参加して、松尾大社とその周辺を参拝・探訪しました。その復習整理を兼ねてまとめたものを、ここに再録してご紹介します。(再録理由は付記にて)京都の四条通を東に歩めば、八坂神社が突き当たりとなります。その境内を通り抜けていくと、円山公園内です。一方、四条通を西に進めば梅宮大社のある梅津を横切り、桂川に到ります。松尾橋を渡った先、西の突き当たりが松尾山の麓に位置する「松尾大社」です。冒頭の朱色の大鳥居(後掲図の番号1)は、松尾大社の交差点傍に立っています。四条通から松尾橋をわたり、松尾大社の参道へと続く道と南北方向の物集女街道が交差するところです。「松尾大神」の額が額束に懸かっています。松尾橋の西詰に、阪急嵐山線の松尾駅があります。ここが当日の集合地点で、ここから探訪がスタートしました。 松尾駅~松尾大社~月読神社~最福寺~地蔵寺~浄住寺~上ノ山古墳~上桂駅という行程です。松尾大社から山裾沿いの道を南に下りつつ、寺々を訪ね、山田岐れに出る道を歩みました。松尾は、桂川の西岸に位置し、嵐山から続く松尾山を背後にした地域で、かつては山城国葛野郡と称されたところです。「この松尾山には後期古墳群が展開し、東に40基、西南側(西芳寺川古墳群)に18基以上が分布する」(資料1)そうです。古墳時代には渡来系氏族の秦氏が開発してきた地域で、葛野はその本拠地の一つだったのです。おもしろいことに、現在の行政地域区分では松尾大社は嵐山の地域の南端に位置します。松尾大社の神体である磐座が松尾山の上にあるのですが、松尾山の尾根線の東側が嵐山、西側が松尾と地域区分されています。月読神社・最福寺は松室にあり、寺蔵寺・浄住寺は山田に所在します。地域区分上の松尾は訪れなかったことになります。 さて、鳥居をくぐって進むと、まずこの2つのタイプの石灯籠が目にとまりました。最初に見たのが、右の画像の竿が細長い角注の石燈籠です。これは入口付近でみただけです。左側のタイプの石灯籠は楼門脇や境内各所でみかけます。 2つめの赤鳥居(後掲図の番号2)鳥居には「脇勧請(わきかんじょう)」が見えます。榊(さかき)の小枝を束ねたものが垂れ下がっているのです。「この形は、鳥居の原始形式を示すもので、榊の束は十二(閏年は十三)あり、月々の農作物の出来ぐあいを占った太古の風俗を、そのままにつたえていると言われております。」(駒札より転記)赤鳥居の近くに、「松尾大社全景」の案内板があります。木の影が映り、見にくいですが松尾大社の全景イメージはご理解いただけるでしょう。松尾大社の探訪順路の大凡の位置に番号を追記してみました。尚、松尾大社の境内マップは、ホームページに掲載のこちらのページをご覧いただくとわかりやすいでしょう。近くには、「神幸祭神輿 川渡しの御船 駕輿丁船」の説明が掲示されています。 赤鳥居の先にある楼門(番号3)三間一戸の形式で、社記には寛文年間(1661-72)建立とあるそうです。駒札にも記載されていますが、”『本朝月令』(10C.)所引「秦氏本系帳」には、戊辰年(668?)に宗像三神の一神である市杵島姫命が天下り、大宝元年(701)に秦忌寸都里(はたのいみきとり)らが松尾に勧請し、娘を斎女としたとする。また、『延喜式』神名帳の葛野郡の項には「松尾神社二座」とある」(資料1)とのこと。つまり、もとの鎮座地は、背後の松尾分土山(わけつちやま)大杉谷(日崎ノ峰)にある巨大な岩石・磐座のところだったそうで、山が神体だったのです。この地を開発した秦氏が山麓に社殿を建立し氏神として祀ったのが松尾大社の起こりなのです。(資料2)また、松尾大社は平安京遷都後は王城鎮護の神として賀茂社と併称されたといわれています。「賀茂の厳神」「松尾の猛霊」と称されたのだとか。(資料1,2)「社殿の背後の松尾山を含む約十二万坪が境内です。松尾山は別雷山(わけいかづちのやま)とも称し、七谷にわかれています」(資料3)楼門の屋根の裏板を支える棰(タルキ)は上下二段の二軒になっていて、二手先の木組みのようです。一層目は平三ツ斗、二層目は連三ツ斗が木組みに使われています。 楼門を下から見上げると、格子天井になっています。 楼門には、衣冠束帯に剣と弓矢を身につけた武官姿の随身(ずいじん)像が左右に置かれています。境内を護る守護神です。これらの像は「俗に矢大神・左大神と称する」(『大辞林』)のだとか。またこの形式が神式の門で、随身門と呼ばれるそうです。楼門の両側の築地塀には壁面に5本の白い定規筋がひかれ、松尾大社の格式を示しています。丸軒瓦や鬼板には菊花紋が使われています。楼門から先に見えるのが拝殿です。人の往き来が多くて写真を撮りませんでした。入母屋造、四方吹放しです。階段の欄干にある擬宝珠銘には慶安元年(1648)と刻されているそうです。(資料1)楼門から南東方向に、「お酒の資料館」があります。今回は中を拝見している時間がありませんでした。調べてみると、1994年頃に酒造道具などを集めて開設され、無料休憩所を兼ねた資料館です。酒造の行程解説や様々な酒器なども展示されているそうです。松尾大社は中世以降、酒の神としても信仰されてきました。「聖武天皇の時代にさかのぼるという。松尾の神が社殿裏に湧き出た泉の水で酒を造るようお告げを下したことから、酒造りにかかわる人たちがこぞってその水を持ち帰り、信仰を集めるようになった」(資料4)と伝わるのです。楼門から北東方向には、客殿や「蓬莱の庭」があるのですが、こちらも今回は訪れていません。 楼門を入ると、石橋が一ノ井川に架かっています。 手水舎(番号4) 水盤への水の注ぎ口が一般的に多い龍の口ではなくて亀の口になっています。 拝殿への手前に「神使の亀」が安置されています。拝殿の横から北方向を見ると、社務所や参集殿が見えます。 本殿の手前は唐破風の参拝所の付いた中門です。門の両側が回廊となり、本殿を囲んでいます。(番号5)江戸初期の建築と伝わるようです。(資料3) 本殿の前面が一部しか見えません。祭神は、大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。『古事記』の神代篇にはこんな記載があります。「つぎの御子はオホヤマクヒ、またの名はヤマスエノオホヌシ。この神は、近淡海の国の日枝(ひえ)の山に坐して、また葛野の松尾に坐して、鳴り鏑をお持ちになる神じゃ」と。脚注によれば、「松尾の神は、鳴り鏑になって川を流れ下り、オトメと交じわったという神婚神話が伝えられていた。この系統の神話は、三輪山(丹塗矢)型神婚神話と呼ばれ」るものと言います。(資料5)古代において、比叡山と松尾山は共通の神が支配していたということなのでしょう。市杵島姫命は、福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神で、海上守護の神です。この神を祀るというのは、桂川が遠く海と繋がって行く交通の主要路になっていたということを意味するのでしょうね。 参拝所のところの木鼻はわりとシンプルな造形です。頭貫の上部の蟇股にも菊花紋が配されています。 唐破風の上の獅子口ですが、経の巻には菊花紋、正面には三葉葵紋が見えます。江戸幕府が寄進・建築に関わっていたということなのでしょう。別の屋根の獅子口です。こちらは正面が同様に三葉葵紋なのですが、経の巻には菊花紋に代わり左三つ巴紋が彫り込まれています。一方、丸軒瓦の中央は陰陽勾玉巴紋のようです。(資料6) 境内の南側には、「神輿庫」があります。(番号6)松尾大社が酒の神様として信仰を集めているだけあって、この建物の北面は菰包みの酒樽が奉納されびっしりと積み上げられています。 社殿の南側には、南末社が並んでいます。(番号7)一番手前が「祖霊社」で松尾ゆかりの功績者を祭る社です。 朱色の社が「金刀比羅社」 祭神は大物主神 大国主神の和魂(にぎみたま)その右が「一挙社」 祭神は一挙神(素戔嗚尊の別名か?) 困難を一挙に解決する神北端の社で「衣手社(ころもでしゃ)」 祭神は羽山戸神 農耕及び諸産業の守護神 (駒札より) 南末社のさらに南端に「伊勢神宮遙拝所」の結界その近くには様々な神名を刻した石が並んでいます。私が判別できる神名に、古永弁財天、地主神、お松明神があります。 南末社の方から、回廊の屋根越しに本殿の屋根部分だけが眺められます。現在の本殿は、室町初期の応永4年(1397)の建造で、天文11年(1542)に大修理が施されたものだとか。桁行(=正面)三間、梁間(=側面)四間であり、屋根が前面と後面の両方にのび、両流造という特殊な形式です。「松尾造」と称されているとか。尚、安芸厳島神社、筑紫宗像神社の本殿が同様の形式だそうです。(資料1,3) 境内には、老松の幹部分に覆屋が設けられ、「相生の松」の木札が立っています。「むすび守」という駒札もあります。社殿の南側回廊の傍に、右の写真の説明板が立てられています。本殿裏の社叢にはカギカズラが野生していて、京都市の天然記念物に指定されているのです。ここのカギカズラ野生地が分布の北限になるとか。調べてみると、このカギカズラは漢方の生薬としても意味があるようです。鎮痛・鎮痙の作用や、末梢血管を拡張して血圧を降下させる作用などだとか。古代からこういう側面が着目されていたのかもしれません。(資料7) 回廊より少し前面、中門の左右にこれらの石像が置かれています。南側に「幸運の撫で亀」、北側に「幸運の双鯉」です。「撫でて御祈念ください」という説明が傍に記されています。亀は寿命長久・家庭円満、双鯉は恋愛成就・夫婦円満・立身出世という幸運に繋がるそうです。鯉といえば、登竜門をすぐに連想します。鯉の瀧のぼりです。則ち立身出世に結びつく。ここは双鯉の姿。鯉は「恋」に通じ、「二人の恋」に・・・・というところでしょうか。 北側の回廊端の傍に、門扉に大きな菊花紋を彫り込んだ門があります。 近くには、「祓戸大神」の小社が注連縄の結界の中におさまっています。この門の右側に素通しの屋根付き廊下が見えますが、この下に通路があり庭園への入口になっています。ここから、番号8,9,10のあたりの拝見・探訪になります。つづく参照資料1) 「京都の古寺社を巡る29 ~松尾大社~」龍谷大学REC講座 当日配布資料 (作成 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)2) 『昭和京都圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂3) 「洛西総氏神 醸造祖神 松尾さん」 拝観の折りにいただいたリーフレット4) お酒の資料館 造る・飲む文化を紹介 1998.12.26「京都・より道スポット」:「京都新聞」5) 『口語訳 古事記 [完全版]』 三浦佑之 訳・註釈 文藝春秋 p796) 巴紋の種類 :「江柱町獅子方若連中」7) カギカズラ 植物のご紹介 :「武田薬品工業株式会社」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺松尾大社 ホームページ松尾大社 :「京都府観光ガイド」松尾祭 神輿渡御祭 :「KYOTO Design」松尾大社の「お酒の資料館」 :「京都そぞろ歩き」随身 :「コトバンク」CLOSE UP 八坂神社 西楼門 :「ローム彩時記」土佐神社・安楽寺 :「土佐の歴史散歩」カギカズラ :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -2 松尾大社(2):亀の井・曲水の庭・上古の庭・神像館ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -3 月読神社・最福寺(延朗堂)・地蔵院ほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -4 浄住寺・上ノ山古墳ほか へ
2017.10.23
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今回の史跡探探訪講座の集合場所は天龍寺・中門で、最終探訪地が鹿王院でした。そこで、集合前 (Before) と集合後 (After) についてまとめてご紹介してこのシリーズを終えたいと思います。== Before ==冒頭の画像は、JR嵯峨嵐山駅の改札と駅建物です。線路を跨ぐ形で駅舎が建てられています。エスカレーターで下ってきて、まず目にとなったのが、二宮金次郎像です。まだ建てられて新しいもののようですが、なぜここに? この地とのつながりが分かりません。学校の校庭などで見かけることはありますが・・・・。次に気になったのがその背後の建物と車輪。 壁面が茶色い建物は「トロッコ嵯峨駅」で「ジオラマ京都JAPAN」がここにあるようです。建物の階段横が「さざれ石の庭」なのでしょうか。壁面に銘板が出ています。この建物の隣に「19th CENTURY HALL SL&PIANO MUSEUM」と表示されています。「19世紀ホール 蒸気機関車とピアノの博物館」ということから、この建物の前に、蒸気機関車と機関車の車輪で作られたモニュメントが置かれているようです。 ここに鎮座しているSLはかの有名なD5151です。駅前にある駅周辺の観光案内板兼PR板のようです。この嵯峨嵐山駅を利用したことがなかったので、道順を確かめ、観光客の動きを参考にして、天龍寺に向かいました。 商店街を通り道路を右折します。次の四つ辻の右方向(北)に向かう道のレンガ塀前にこの道標が建てられています。道標の正面には、「嵯峨御所大本山大覚寺 北八丁」、最後の「丁」の文字が現在の道路面では埋もれています。手前の側面には「日本最初の庭園」と刻されその下に、「大沢池」と「名古曽の滝址」とあり、北八丁と末尾に刻されています。このあと道沿いに行くと、南無地蔵大菩薩と天道大日如来と記された提灯のかかる小祠があり、その傍が「龍門橋」です。龍門橋は既にご紹介していますので、ビフォーはこれで繋がっていきます。== After ==最終探訪地の「鹿王院」前で現地解散となりました。そこで久しぶりに、「渡月橋」を往復してみることにしました。アフターのオプション散歩を兼ねて、ちょっと探訪です。 渡月橋は天龍寺から法輪寺に通じる大堰川に架かる橋です。この橋は承和年間(834-48)に僧道昌によって架橋されたのがはじめだといわれているようですが、定かではないとか。下嵯峨地域は古くは葛野郡橋本郷と称されていたことから、平安初期頃に架橋されていたことは推定できるようです。はじめは法輪寺橋と称されていたとか。かつては、現在地よりも100mばかり上流に橋が架かっていたと言い、角倉了以が大堰川を開削して水利を計ったとき、現在の場所に架け替えたと伝えるそうです。(資料1)「渡月橋」に行くと、何と虹が遠望できました。「大堰川」は渡月橋を境に「桂川」と呼ばれるようになります。 渡月橋の北詰、東側にある案内図虹を眺めながら、渡月橋を往復しました。 結構橋の上から虹を写真に撮っている人を見かけました。 橋を渡って、南詰めから上流側の大堰川を眺めます。古くは葛野川といい、東の鴨川に対して西川とも呼ばれていたそうですが、秦氏がこの地に来たり、堰を設けてこの地域の水利の便宜を良くして大堰川という名称が付けられたと言われています。この川の源は京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境となる佐々里峠に発します。その川に、大悲山を源とする川を始め様々な支流が合流して行きます。右京区京北地区の流域では「上桂川」、南丹市園部地区で「桂川」、南丹市八木地区から亀岡市においては「大堰川」、亀岡市保津町から嵐山までを「保津川」と言い、嵐山に至って「大堰川」と呼ばれます。そして渡月橋から「桂川」と呼ばれます。(資料2)インターネットで国土地位理院の地図を見ると、佐々里峠からの本流には「桂川」の表記で統一されています。桂川、鴨川、木津川の三川が合流し、「淀川」となります。王朝時代には、斎王となる内親王は、この川の畔でみそぎをされたといいます。嵯峨野にある野宮神社はその名残とされています。(資料1,3,4)「また夏季にはこの川でとれる鮎を天皇の食膳に奉ったので、禁河ともなった」(資料1)そうです。歴代の天皇がこの嵐山に御幸し、大堰川を船遊地にしたのです。宇多法皇、醍醐天皇、円融法皇、白河天皇の御幸が特に有名だそうです。それら御幸に関連する和歌が残されています。御幸の供奉の折に、詠まれた歌が歌集に収載されているのです(資料2)。たとえば、 大井河川辺の松にこと問はむかかる御幸やありし昔も 紀貫之 拾遺集 波の上を漕ぎつつ行けば山近み嵐に散れる木の葉とや見む 紀貫之 新拾遺集 もみぢ葉の落ちて流るる大井川瀬々の柵懸けも止めなむ 坂上是則 続後撰集 朝まだき嵐の山の寒ければ散るもみぢ葉を著る人ぞなき 藤原公任 大井河古き流れを尋ねきて嵐の山の紅葉をぞ見る 白河天皇 後拾遺集大堰川で舟遊し和歌を詠むという形の御幸は平安時代末期の世情不安により終わります。往時の船遊びを復元したのが、車折(くるまざき)神社の特別祭事として毎年5月第3日曜日に行われる「三船祭」です。 渡月橋を北詰に戻ってきて上流側を見た川沿いの景色対岸は嵐山から鳥ケ岳に連なっていきます。嵐山の中腹に、千光寺(大悲閣)があります。黄檗宗に属するお寺で、角倉了以が保津川の開削工事を行った時に工事に協力した人々の菩提を弔う為に創建したお寺です。(資料2) 渡月橋の北詰には、東側のすぐ近くに、「琴きき橋跡」と刻された石標が立っています。その側面には、歌が刻まれています。右の画像の歌です。 一筋に雲ゐを恋ふる琴の音にひかれて来にけん望月の袖この「琴きき橋」には、高倉天皇が琴の名手で京都一の美貌の人と言われた小督局(こごうのつぼね)を寵愛したことから始まる悲恋の物語が秘められているのです。『平家物語』の巻六、「三 小督の事」がこの経緯を記しています。その冒頭に、「そも、この女房と申すは、桜町の中納言成範(しげのり:藤原成範)の卿の娘、禁中一の美人、ならびなき琴の上手にてぞましましける」と記されています。(資料6)小督局の悲恋物語から、室町時代に金春禅竹(こんぱるぜんちく)が謡曲『小督』を創作してくことにつながっていきます。(資料7)「保津川下り」のホームページの「琴きき橋に伝わる物語」というページに、詳しい解説が載っています。こちらからご一読ください。また、この石標の傍に、この距離標識が設置されています。この嵐山渡月橋は、上記の三川合流地点から遡ること18.0kmという位置になるのです。渡月橋北詰から道路を挟んで北東側の商店などの間にある小道の先に、小規模な神社が見えます。駅に向かう方向なので、そこに立ち寄ってみました。 「大井神社」です。駒札が立っています。 「大堰神社」または「大橋神社」とも呼ばれるようです。駒札に記載のように、かつては「大堰神」が祀られていたのでしょう。現在は「宇賀霊神(うがのみたまかみ)」が祭神として祀られています。手許の本では「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」という表記で説明されています。松尾大社の境外末社となっているそうです。松尾大社は秦忌寸都里(はたのいみきとり)が社殿を造営したのが神社の起こりです。(資料1)つまり秦氏が勢力を持っていた地域ですので、この神社の起こりも秦氏と関わりがあることはうなづけます。 覆屋の設けられた社殿の傍に、小祠が祀られています。この後、再び天龍寺の総門前から龍門橋を通過し、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ご紹介が5回のシリーズとなってしまいました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p264-268,p2812) 桂川(淀川水系) :ウィキペディア3) 斎王 :ウィキペディア 斎王一覧 :「齋宮歴史博物館」4) 野宮神社 :ウィキペディア 野宮神社 ホームページ5) 京都嵐山 三船祭 :「車折神社」6) 『平家物語 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p281-2887) 小督 :「コトバンク」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺トロッコ列車について :「嵯峨野観光鉄道」19世紀ホール :「嵯峨野観光鉄道」大覚寺 ホームページ秦河勝の葛野大堰を推理復元する/愛媛県古照遺跡の堰から :「民族学伝承ひろいあげ辞典」葛野大堰と秦氏 トレジャー・ナビ :「農林水産省 近畿農政局 整備部」渡月橋 :ウィキペディア小督 :ウィキペディア金春禅竹 :「能楽用語事典」小督 演目の紹介 :「名古屋春栄会」謡蹟めぐり 小督 こごう :「謡蹟めぐり 謡曲初心者のためのガイド」大悲閣千光寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -2 天龍寺拝見(庫裡・大方丈・曹源池庭園・多宝殿ほか)へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -3 八幡宮・飛雲観音・弘源寺・七福神めぐりほか へ探訪 [再録] 天龍寺とその界隈 -4 龍門橋(歌詰橋)・長慶天皇陵・晴明神社飛地・角倉稲荷神社・鹿王院 へ
2017.10.20
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天龍寺の総門を出てから、最後の探訪地までいくつかの史跡を見ながら、方向としては東に進みます。かつての天龍寺の寺地の東の境がどこだったのか? それが冒頭の画像です。これでは何のことか分かりません。Mapionの地図を引用し該当地域を切り出して、説明の都合上少し付記したのがここでご紹介する部分図です。大凡のご理解が得られれば、詳細はオリジナルの地図(Mapion)をこちらからご覧ください。前回最後にご紹介した「弘源寺」「三秀院」を部分図の左端に茶色の線で囲んでいます。赤丸を付したのは天龍寺の「総門」のあるところ。ここを起点にしてご紹介します。総門前の道路は渡月橋に至る嵯峨の現在のメインストリートになっています。室町時代の嵯峨の復元図において、この道が大堰川畔から天龍寺の前を通り、釈迦堂に真っ直ぐに至る中心の道路だったのです。天龍寺の前に道路を隔てて「金剛院」がありますが、室町時代からそのままの位置関係です。総門(赤丸)から金剛院の南の道路を東に進みます。マゼンダ色の丸の方向へ向かう道は、JR山陰線の嵯峨嵐山駅への道ですが、室町時代の「造道」で、東から天龍寺に向かう正面の道だったのです。(資料1)この道を少し進んだところで、金剛院のある道路の北側には、現在宮内庁が管理している「光厳天皇髪塔」(こうごんてんのうはつとう)があります。南北朝時代の始まりとなった北朝初代天皇です。足利尊氏が後醍醐天皇を廃位として、光厳天皇を皇位につけたのです。後醍醐天皇が吉野で皇位を主張し、対立の始まりとなります。そして、マゼンタ色の丸になります。ここが冒頭の瀬戸川に架かる「龍門橋」のあるところです。橋の傍に、この駒札が立っています。この川のところが天龍寺寺地の東の境だったのです。かつては芹川と呼ばれ、天龍寺の門前となっていたことから「龍門橋」と称されるようになったと言います。室町時代には、芹川(瀬戸川)に沿って北方向に「薄馬場」があったようです。天龍寺と関わる龍門橋は、天龍寺の寺地の広大さをイメージするのに有益な地点ですが、一方、この駒札にある「歌詰橋」という西行のエピソードが興味深いものです。脇道にそれますが、ならばこの歌は誰が詠んだのでしょうか?ネット検索してみて、一つだけ関心を惹かれる説明を見つけました。それは、柳田国男が『女性と民間伝承』で「江口と室積(むろつみ)と」という一文を書いている中に出て来ます。柳田国雄は、江戸時代の『山州名跡志』の記述をここで紹介して、さらに説明を加えているのです。『山州名跡志』を確かめてみてそれがわかりました。そこには、かつて西行が童子と逢うて詠歌問答をしたという伝承と、もう一説として、この橋の袂で酒を売っていた家の女主と西行の歌のやりとりだと紹介しています。それで歌女橋なのだと。『山州名跡志』は「歌(ウタ)女(ヅメノ)橋」とカタカナを振っています。西行が つぼのうちににほひ来にけり梅の花先ずさけ一つ春のしるしにと詠んだに対して、 つぼの内にほひし花はうつろひてかすみぞ残る春のしるしにと返歌したとも言うのです。駒札に記されたエピソードは、思いちがい、記憶の誤りが、おもしろおかしい伝承となったのではないかという説明です。『山州名跡志』は伝承が思い違いだと指摘していると柳田国雄は記しています。(資料2)この龍門橋から川沿いの道を南に行くと、「長慶天皇陵」があります。本来は一筋東の道に御陵への参道がありますが、川沿いの道からも参道に入ることができます。正式には「長慶天皇嵯峨東陵」です。 こちらが長慶天皇の御陵 その隣に、長慶天皇の皇子、承朝王墓があります。長慶天皇は「南朝後村上天皇の子で応永元年(1394)42歳で没。子の海門承朝が没した慶寿院の跡地を昭和19年に治定」(資料1)したという御陵です。長慶天皇は正平23年(1368)に南朝方三代目の天皇として即位、在位15年で、元中元年(1384)に皇弟後亀山天皇に譲り、薙髪して覚理長慶院と号されたとか。後亀山天皇は北朝に対し和平的な動きをされたのに対し、長慶天皇はそうではなかったようで、崩御地についても諸説があり不詳だとか。その即位が認められ、第98代として皇統に加えられたのが大正15年(1926)といいます。皇嫡子海門象朝が入寺されたのが慶寿院でその旧地がここだったのです。後亀山天皇が南朝最後の天皇です。南北朝が合一されたときに、後亀山天皇だけが帰洛されたといいます。(資料3)再び川沿いの道に戻り、御陵沿いに回り込んで行きます。その辺りは、江戸初期の豪商角倉了以の邸宅の北側にあたるところです。 そこに「角倉稲荷神社」(青色の丸)があります。その手前に、何と「陰陽博士・安倍晴明の墓域」が改修されて建立されています。「晴明神社飛地」です。安倍晴明は85歳でこの地で没したのだとか。新たに建立された石塔の塔身正面には、五芒星が彫刻されています。晴明神社でみる紋章です。こちらが「角倉稲荷神社」 質素で小規模な神社です。地図をご覧いただくと、「嵯峨天龍寺角倉町」という地名がここに残っています。地図に歩いた道を黒線で示しています。ここから最後の探訪地である「鹿王院」に向かいます。 三代将軍足利義満筆「覚雄山」の扁額が掛けられた山門もとは、「義満が、康暦2年(1380)24才の時、寿命を延ばす事を祈って建てた禅寺」で、義満の師、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を開山として建立されたお寺です。覚雄山大福田宝幢(ほうどう)禅寺と名づけられました。当時は京都十刹中第五位の名刹といわれたようです。(資料4)春屋一派の拠点寺院となったのです。1387年、春屋の塔所として鹿王院が建立されます。開山堂に野鹿が群れをなし現れたことから「鹿王院」の寺号になったともいわれているようです。(資料4)この寺は応仁の乱で開山堂のみを残して焼失します。その結果、本寺の宝幢寺は衰微し、再建はされませんでした。寬文年間(1661-73)に、酒井忠知の子虎岑(こしん)和尚により、再興され、「鹿王院」と称したそうです。(資料1,3,4)切妻造、本瓦葺。四脚門ですが、本柱と控柱の間の貫を支える形式が至って実用本位でシンプルです。山門を入ると真っ直ぐに石畳が続いています。紅葉するときれいでしょう。山門から中門までは、天台烏薬などの銘木が植えられているようです。参道の両側は青苔が続きます。 中門までの境内に、鎮守社が2つ祀られています。 中門までかなり距離があります。 中門の少し手前に、欄干のない石橋が架けられています。今は少し深めの空堀が見えます。 庫裡の手前の庭の景色と振り返って見た中門 客殿は、広縁の続きに落縁が付いています。落縁の端から本殿の方向を撮ったもの。 客殿正面に足利義満筆の「鹿王院」の扁額が掛けられています。 鹿王院の客殿の前が本庭です。平庭式の杉苔に覆われた枯山水庭園。 舎利殿を中心に、その傍に三尊仏の石組があります。三尊仏の石組に併せて多くの石が庭に配されています。舎利殿の背後には嵐山が借景となっています。現在の舎利殿は宝暦13年(1763)に再建されたものです。この時に庭園も造営されたと指定されているようです。舎利殿は方三間、宝形造り、桟瓦葺。裳階があるため重層のように見えますが、単層の建物です。(資料1,3)客殿の廊下を通り、瓦敷の歩廊は舎利殿まで繋がっています。その歩廊の中間に本堂が位置します。歩廊は鍵形に折れ曲がりながら続きます。建物内は撮影できませんでしたので、途中で眺めた庭の景色のご紹介です。 曲折した歩廊から客殿の側面を見て 歩廊の一隅から眺めた舎利殿 歩廊の右側に続く庭の景色歩廊を進み、振りかえて眺めた景色。客殿の広縁に入った辺り庭の端が真っ直ぐ先に見えます。 舎利殿に近い歩廊の端から眺めた歩廊と客殿舎利殿には「鎌倉将軍源実朝が、宋の国から招来した、仏牙舎利が、多宝塔に安置せられてまつられている」(資料5)のです。舎利殿内部は内陣と外陣に区分され、内陣には須弥壇上に厨子が置かれていて、四隅に四天王像が配されています。釈迦涅槃図ほか仏画の軸絵が架けられていました。舎利殿を拝見した後で本堂(開山堂)を拝見しました。本尊は釈迦如来像で、十大弟子像が祀られています。これらは運慶の作だそうです。その後壇に、開山の普明国師(春屋妙葩)と開基の足利義満の像が祀られています。「国師像の真下に宝篋塔がある」(資料5)、つまりこの堂下に国師の墓があるのです。(資料3,5) 鹿王院でいただいた説明文の表紙です。下部の絵は、調べてみると、江戸時代・天明7年(1787)秋に、『都名所図会』の後編として出版された『拾遺都名所図会』に収載されているものでした。そこには、絵の左上に「鹿王院・舎利殿に宋国より渡りし仏舎利を安置す。毎年10月15日舎利会あり。由縁前編に見へたり」という文が記されています。リーフレットには、この「舎利会」が現在も行われていると記されています。(資料6)このリーフレットの末尾に「なお仏教研修の為、女性の禅道場が開設せられている」という一行が記されています。この鹿王院の探訪で、今回の史跡探訪講座は終了です。尚、この講座に参加したビフォー、アフターを次回落ち穂拾いとしてご紹介したいと思います。つづく参照資料1)「京都の古社寺を巡る28 ~天龍寺~」 当日配付のレジュメ資料 龍谷大学REC講座 2015.9.10 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成2) 江口と室積 『女性と民間伝承』 柳田国男3) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p281-2824) 鹿王院(右京区) :「京都風光」5) 「仏牙寺 鹿王院」 当日拝観の折にいただいたリーフレット6) 鹿王院 『拾遺都名所図会』 :「国際日本文化研究センター」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺安倍晴明 :ウィキペディア晴明神社 ホームページ安倍晴明神社 :「Spiritual Value from Japan」角倉了以 :ウィキペディア角倉了以 :「コトバンク」春屋妙葩 :ウィキペディア鹿王院 :ウィキペディア天台烏薬 :「季節の花300」不老不死の霊薬 「館長の黙して語らず」:「もうひとつの学芸員室」鹿王院庭園 :「京都市都市緑化協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -2 天龍寺拝見(庫裡・大方丈・曹源池庭園・多宝殿ほか)へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -3 八幡宮・飛雲観音・弘源寺・七福神めぐりほか へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -5 JR嵯峨嵐山駅・渡月橋・大井神社ほか へ
2017.10.20
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曹源池を回遊し、天龍寺自体の境内から出て、改めて庫裡の屋根を見上げました。 軒丸瓦には「天龍寺」の銘が陽刻され、鬼瓦の鬼が厳めしく睨みつけています。売店付近での小休止の間に、近いところを少し探訪してみました。庫裡の北東方向に門があるので近づいて見ると、そこは立ち入り禁止の意味を示す太竹の棒が横に渡されています。「天龍寺僧堂南門」の木札が掛けてあります。この奧に修行僧のための僧堂があるのでしょう。石敷きの参道の正面奧をデジカメでズームアップしてみますと、 良くは分かりませんが墓碑のようなものが見えます。その手前にも立ち入り禁止の太竹の棒が通路を遮っています。参道の途中、丁度庫裡の北側にあたる位置に、御陵があるようです。同様にズームアップしてみると、 後嵯峨天皇嵯峨南陵と亀山天皇亀山陵なのです。後で調べてみて、天龍寺境内の西北隅に二陵が東西に並んでいて陵内にはそれぞれ法華堂が建っているということを知りました。後嵯峨天皇は藤原為家らに命じて『続古今集』を撰集させた天皇です。亀山天皇は後嵯峨天皇の第三皇子。両天皇の火葬塚が天龍寺の後方にある亀山公園域内にあるそうです。(資料1)また、両御陵も元治の兵火で全焼したそうですが、「東西本願寺がいち早く再建し、方形造の廟堂は周囲の陵地とともに宮内庁管轄になっている」(資料2)のです。僧堂南門の東側には、「夢窓桜」と角柱に刻まれた桜の木が植樹されています。 さらに東側に、朱の鳥居が見えます。近づいてみると「八幡大菩薩」の扁額が掛けられています。「八幡宮」です。 瑞垣で囲まれた中に、切妻造、平入りの建物が前後に接続する形をとる八幡造の本殿があります。「護国霊験」の扁額が門に掛けられています。康永3年(1344)、夢窓国師が初夢に八幡大菩薩を見たことにより、八幡大菩薩を祀る祠を寺の南側に建てたそうです。そこを、夢窓国師は「天龍寺十境」の一つとし「霊庇廟」と称し選定しています。かつての霊庇廟が八幡宮としてこちらに移されたのだとか。(資料3,4)朱の鳥居をくぐっていくときに気がついたのが、この像です。八幡宮の本殿を訪れた後、こちらを探訪してみました。 昭和55年(1980)9月20日に建立開眼された「飛雲観音」です。駒札と並んでその左に説明板が建てられています。詳しく書かれていて小さな写真では読めませんので要旨をお伝えします。全文は天龍寺を訪れられた折に、現地でご一読ください。 1941年に始まった太平洋戦争は、本格的な航空戦が加わったことで戦争の様相を変えました。飛行機搭乗員には高度な技術と強靱な精神力及び専門教育が課せられます。数多くの優秀な青少年が祖国のためにと航空戦で散華して行ったのです。空の戦いで散った人々の祖国への思いは、砲火を交えた異国の搭乗員も同じでしょう。「同じ空で戦い散った翼の友として、彼我の別なく追悼することに異論の有ろう筈もなかった。」そして、「さらに航空受難者も、合わせて回向する旨を広く世に問うた」という経緯があって、「紙一重の差で戦後を生かされた空の仲間達」の発願によりこの「飛雲観音」が建立されたとのことです。彼我の別なく追悼するという思いが、観音が左手に載せるこの十字架を刻み込んだ宝珠にシンボライズされていると理解しました。説明板を読まなければ、なぜ? のまま。庫裡を後にして、塔頭の弘源寺に向かいます。中門に向かう参道北側にも塔頭が並んでいます。ここに位置する塔頭・松巌寺、慈済院、弘源寺は元治の兵火を逃れたことで、室町様式あるいは江戸時代のものが残されているそうです。(資料2) 松厳寺この寺には、天龍寺七福神めぐりの一つ、「福禄寿」が祀られているそうです。 慈済院勅使門のところの築地塀と同じ様式の築地塀が見られます。 慈済院のつづきに「水摺福寿大弁財天」の石標が立ち、白壁の塀で竜宮門形式、「来福門」の扁額がかかった門があります。ここは慈済院が所管されていることが駒札からわかります。天龍寺七福神めぐりの一つです。 その東隣が塔頭「弘源寺」です。「弘源寺は永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之公が天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫(きょくしゅう)禅師を開山に迎え創建した。持之公の院号をとって弘源寺の寺号とした」(資料5)といいます。元は、小倉山の麓、現在「落柿舎」がある地に位置し、広大な寺領を有していたそうです。明治15年(1882)に末庵である維北軒と合寺して、現在に至るようです。今回は境内の毘沙門堂を拝見するのが目的でした。本堂は客殿形式で寛永年代の造営であり、本尊は観世音菩薩といいます。門を入ると、斜め左に毘沙門堂があります。その傍に、「文珠菩薩像」が祀られています。毘沙門堂正面に掛かる「多聞天」の扁額は弘法大師の直筆と伝わるものだとか。史跡探訪講座だということから、お堂を開けていただけ、堂内に入って間近で毘沙門天立像を拝見することができました。堂内は撮影禁止でしたので、拝観の折にいただいたリーフレットに掲載のものを引用します。弘源寺の位置もご理解いただけるでしょう。勿論、ここの毘沙門天立像(重文)も七福神めぐりの一つです。引用写真でお解りの通り、普通に見かける毘沙門天と異なります。「上体を大きく捻り右を向く特異な姿。平安前期造立で、比叡山無動寺から般舟院、嘉祥寺を経て伝来した」(資料6)といいます。体幹部が一木造の像です。案内書には、開山の玉岫禅師がこの毘沙門天立像をお迎えされたと記し、「印度の仏師毘首羯磨の作と言われ、中国を経て日本につたわり」と伝わる仏像です。(資料5)毘沙門堂の天井には、日本画家初代藤原孚石筆の四季草花四十八面の絵画が描かれています。後で調べていて知ったこと: 松尾芭蕉の門人で十哲の一人、向井去来が暮らしていたのが落柿舎(らくししゃ)です。その裏に墓地があり、そこに向井去来の墓があるのです。落柿舎を訪れた折、「去来」と自然石に刻まれた墓も拝見しています。しかし、そこがこの弘源寺の墓地だったとは意識していませんでした。(資料7)弘源寺の東隣で、中門と総門の間の参道北側にあるのが「三秀院」です。この塔頭も七福神めぐりの一つです。この石標に刻されている「東向福聚大黒天」が祀られているところです。それでは残る三神にも触れておきましょう。それは今回ご紹介の第1回に境内案内図や写真を一部載せた塔頭に関係していました。妙智院に宝徳稲荷、寿寧院に赤不動明王、永明院に恵比寿の三神がそれぞれ祀られているのだそうです。天龍寺の寺地で塔頭を巡ると七福神めぐりができるというのは、ある意味時間的にはすごく効率的なお参りができるのです。これは今回知った副産物です。それでは、天龍寺の周辺界隈の史跡探訪に参りましょう。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p2882) 天龍寺 ホームページ3) 天龍寺 その3 :「徘徊の記憶」4) 桂川嵐山地区の歴史的変遷について 平成24年12月 近畿地方整備局淀川河川事務所5)「大本山天龍寺塔頭 弘源寺」リーフレット 拝観時にいただいたもの6)「京都の古社寺を巡る28 ~天龍寺~」 当日配付のレジュメ資料 龍谷大学REC講座 2015.9.10 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成7) 弘源寺 ホームページ【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺後嵯峨天皇 :ウィキペディア南北朝対立の火種をまいた後嵯峨天皇 :「今日は何の日? 徒然日記」亀山天皇 :ウィキペディア天龍寺七福神めぐり :「京都観光・旅行」天龍寺 節分会と七福神巡り :「京都旅屋」日本最古 都七福神まいり ホームページ落柿舎 ホームページ福徳長寿 厄除けの「嵯峨面」 :「天台宗」-京都・嵯峨野 藤原 孚石(ふじわら ふせき)さん- ネットに情報を掲載された皆様に感謝!引き継ぐ 生命を吹き込まれた民芸品「嵯峨面」 :「東山見聞録」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -2 天龍寺拝見(庫裡・大方丈・曹源池庭園・多宝殿ほか)へ探訪 [再録] 天龍寺とその界隈 -4 龍門橋(歌詰橋)・長慶天皇陵・晴明神社飛地・角倉稲荷神社・鹿王院 へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -5 JR嵯峨嵐山駅・渡月橋・大井神社ほか へ
2017.10.19
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天龍寺の探訪では、最初に庫裡玄関を入り、大方丈の内部を拝観して、その後境内を歩きました。庫裡の玄関正面でまず目に飛び込んでくるのが、冒頭の大衝立です。「達磨図」が迎えてくれました。前管長・平田精耕老師の筆によるものといいます。まさに達磨さんは禅のシンボル、天龍寺の顔がまずここにあります。 庫裡の玄関を入る前に右方向を見ると、「浴室」の扁額が掛かった建物が見えます。玄関正面で「達磨図」に対座した後、目にとまったのが右の「雲板(うんばん)」です。輪部が雲形であることからこの名称が付いたそうです。禅宗の法具の一つです。寝起き、食事、坐禅などの開始の合図などの告知のために打ち鳴らすものです。私の地元にある黄檗山萬福寺では、魚の形をした「魚鼓(ぎよく/魚板ぎょばん)」が使われています。木槌で打ち鳴らして告知に用いるという機能は同じ。なぜ魚か?「魚は日夜眼をひらいているので、寝をわすれて努力するいましめとした」のだと説明されます。(資料1)余談ですが、魚鼓が「木魚(もくぎょ)」の原型だとか。そして、木魚が本格的に使われるのは隠元禅師が黄檗宗を伝えた江戸時代の始めごろからだとか。(資料2)木魚は、「長い魚身がわん曲して頭と尾が接し、竜に変身した形という」(資料1)「大方丈」は東面していて、正面に「方丈」と揮毫された扁額がかけられています。史跡探訪講座ということから、堂内に入ることができました。堂内から本尊の釈迦如来坐像(重文)を拝見しました。平安後期の造立と推定され、前後割矧造(わりはぎづくり)の仏像です。天龍寺の造営よりも古い仏像で、尚かつ8回の大火災にも罹災せずに今に伝わり、天龍寺に祀られる仏像では最古のものだそうです。本尊に向かって右側の少し離れた薄闇の中に「聖観音菩薩立像」を朧に拝見しました。11世紀造立の一木造で、本来は月光菩薩と推定されてもいるようです。(資料3)堂内は撮影禁止でした。大方丈のこの画像を観察していただけると、何となくわかると思いますが、大方丈は正面と背面に幅広い広縁があり、さらにその外に一段低い落縁がめぐらされています。明治32年(1899)の再建です。入母屋造、桟瓦葺で、内部は六間取りの方丈形式です。表3室、裏3室。中央の「室中」は本尊を祀る48畳敷で、左右の部屋は24畳敷になっています。欄間の下に襖を立てれば個別に使用もできるという建物です。東西を仕切る襖には、画家若狭物外(/物外道人)の筆になる雲龍の図が描かれています。昭和32年の制作。この襖絵を描き上げて4ヵ月後に若狭物外は70歳で没したそうです。(資料4,5)大方丈から庭を眺めましたが、このあと庭を巡りましたので、そこに織り込んでご紹介します。 前回ご紹介した鬼瓦がオブジェ風に置かれた傍の入り口から大方丈の正面の庭に入ります。ここは白砂が敷かれただけの庭で、築地塀沿いに樹木が並んでいます。白砂には筋目がまっすぐに入っていて、樹木の足元にあたかも波が打ち寄せていくように、白砂が樹木の間に入っています。実にすっきりとした空間です。大方丈の南側を回りこみます。東の庭とは対照的に苔庭に岩が点在し、木々が植えられ、緑豊かな庭になっています。 大方丈の西面に向かうと、そこには「曹源池」を中央にした池泉回遊式庭園の空間がゆったりと広がっています。南の大堰川を隔てた嵐山や庭園の西に位置する亀山を背景に取り入れた借景庭園なのです。曹源池を撮った画像の上から3枚目に写る建物は大方丈の北西に位置する「書院」です。天延3年(975)に前中書王兼明(さきのちゅうしょおうかねあきら)親王がこの地に山荘をこしらえたとき、山荘のある地の山が亀に似ていることから亀山となづけたとされています。そして池を造営されたのです。これが天龍寺の庭の原型のようです。その後、後嵯峨天皇がこの地に巨大な仙洞亀山殿を造営するために改造を施します。その旧苑地がこの庭園になって行きます。現在の庭は、約700年前の天龍寺の開山である夢窓国師の作庭といわれています。「曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から『曹源一滴』と記した石碑が現れたところから名付けられた」(資料5)と伝わっています。 大方丈から眺めた曹源池中央の正面、対岸の一番奥に三級巌(さんきゅうがん)という滝の石組みが設けられ、これは「龍門の滝」を模しているといいます(資料6)。シンプルに、「2枚の巨岩を立てて龍門の滝とする」(資料5)という説明もあります。そして滝の流れの途中、流れの横に「鯉魚石」が配された形式になっているそうです。鯉が黄河の龍門を登ると龍になるという伝説、つまり登龍門の故事をなぞらえたのが「龍門の滝」です。鯉魚石が流れの横に置かれているのは、「龍と化す途中の姿を現す珍しい姿」(資料5)を意味しているとか。また、滝の石組みの前には、三つの石でつくられた「三橋(さんきょう)」といわれる石橋(しゃっきょう)があります。梅原猛氏はこの三橋を次のように説明されています。「これは中国・廬山の東林寺に隠棲し虎渓を渡って外に出ないと誓った慧遠(えおん)法師が、訪れてきた友人の詩人で儒教者の陶淵明と道教者の陸修静を送ってきたときに、話に夢中になり思わずも虎渓の橋を渡ってしまったことを呵々大笑した故事を表すという。そして三橋は仏教、儒教、道教の三教の合一をも意味するという」(資料6)と。禅思想の影響が作庭に現れているのです。梅原氏は、夢窓自身が「甚だ芸術的な才能を持ち、芸術を通じて禅を表現する道を大きく開いた」(資料6)とし、夢窓の禅が純粋禅とは異なり、禅の中に庭、茶、書画、能など諸芸を吸収し、日本の禅を開花させていった源にいる禅者に位置づけています。尚、庭園研究者で作庭家でもある重森三玲(しげもりみれい)氏が、この天龍寺の庭はほとんど兼明親王によって作られた庭園のままであり、禅思想の導入がみられるのは、京都に滞在したこともある中国僧蘭渓道隆だろうという説を述べておられるようです。梅原氏はこれを紹介し、反論しているわけですが・・・・。現在の曹源池庭園の全体の姿は、江戸時代の寛政11年(1799)に刊行された『都林泉名勝図会』に描き出された姿をほぼそのままとどめているのです。 この図はその対比をしやすくするために、国際日本文化研究センターのデータベースに開示されている同書から引用しました。(資料7)違う場所から撮った後掲の景色と併せてその対比を楽しんでみてください。探訪当日この図を印刷して持参し、大方丈の広縁から短時間でしたが対比して眺めることを楽しみました。曹源池の南東端から、拝観コースをたどり、「望京の丘」に登ります。 南庭の一隅にある「小葉提灯苔(こばのちょうちんごけ)」 曹源池の南側に位置する「龍門亭」の玄関前を通り過ぎます。ここの蟇股にも、天龍寺の寺紋が彫刻されています。現在の建物は、夢窓国師が選んだ「天龍寺十境」の一つ龍門亭を再現したものです。平成12年開山夢窓国師650年遠諱記念事業の一環で再建されたようです。精進料理「篩月」として利用されているのです。(資料5)「天龍寺十境」は貞和2年(1346)に夢窓国師が天龍寺境内の十ヵ所を名勝に定めて詩を作ったことによるのです。その十境からかつての天龍寺の寺地の広がりが想像できます。 山道を登って行くと竹垣が寺地境界に使われています。背後に見えるのが亀山でしょうか。 「望京の丘」から、大方丈の屋根の遙か遠くに、京都タワーが見えるのです。庫裡の屋根の向こうには、洛北の市街地と京都北部の山々が遠望できます。北の方向を眺めて・・・紅葉するとどんな感じになるのでしょう・・・「望京の丘」から「百花苑」の方向に坂道を下ります。「百花苑」は多宝殿から北門への苑路として、自然の傾斜に沿って造られた庭園です。北門が開設された昭和58年(1983)に整備されたそうです。 こんなお堂が建てられています。観音立像が安置されていて、お堂の前にはなぜか蛙の像が並んでいます。小さな池の中で観音を護るかのように前方を見つめています。 多宝殿昭和9年(1934)に当時の管長精拙和尚がこの建物の建設を推進されたようです。駒札の説明によれば、吉野朝時代の紫宸殿造の建築様式によるものです。後醍醐天皇聖廟として中央に後醍醐天皇の木像が安置されており、両側に歴朝天皇の尊牌が奉安されていると記されています。(今回は、建物内を拝見する時間はありませんでした。)拝堂(礼堂)と祠堂で構成されています。この多宝殿には、書院の方から長い廊下を通って巡ってくることができるようになっています。 こんな感じの廊下が続いています。小川の流れる庭が廊下の反対側に見えます。なぜか、大堰川の道標が庭に建てられています。 「書院」の西側、散策路から眺めた曹源池。左側に見えるのは「大方丈」です。南の方向を眺めたところです。背景には嵐山が借景となっています。 大方丈の前から南西方向寄りを眺めた景色現在の天龍寺では、やはりこの庭園が一番見応えのあるところです。春夏秋冬、四季折々の曹源池の姿を眺めてみたいものです。つづく参照資料1) 『図版 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p3782) 木魚 :ウィキペディア3)「京都の古社寺を巡る28 ~天龍寺~」 当日配付のレジュメ資料 龍谷大学REC講座 2015.9.10 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成4)『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p282-2885) 天龍寺 ホームページ6) 『京都発見 八 禅と室町文化』 梅原猛著 新潮社 p21-257) 天龍寺 方丈林泉 『都林泉名勝図会』より :「国際日本文化研究センター」 其一 其二【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺夢窓疎石 :ウィキペディア禅語 曹源一滴水(碧巌録) :「臨黄ネット」一滴の水脈 - 儀山善来 6.中国から伝わる純粋の禅 水上勉氏 :「若州一滴文庫」桂川嵐山地区の歴史的変遷について 平成24年12月 近畿地方整備局淀川河川事務所 4ページに「嵐山地区の歴史的経緯」、7ページに「天龍寺十境による視点」を説明天龍寺十境 :「和の学校」蘭渓道隆 :ウィキペディア蘭渓道隆 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -3 八幡宮・飛雲観音・弘源寺・七福神めぐりほか へ探訪 [再録] 天龍寺とその界隈 -4 龍門橋(歌詰橋)・長慶天皇陵・晴明神社飛地・角倉稲荷神社・鹿王院 へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -5 JR嵯峨嵐山駅・渡月橋・大井神社ほか へ
2017.10.19
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これは天龍寺の「総門」です。2015年9月、「京都の古社寺を巡る」という史跡探訪講座(資料1)を受講しました。天龍寺を中心にこの近くの古社寺・史跡を巡りましたので、その復習を兼ねてまとめたものを、ここに再録しご紹介したいと思います。(再録理由は付記にて)この総門の左方向、つまり渡月橋の方向に少し歩くと、境内の駐車場への入り口を兼ねた道路に、この巨大な石標が建てられています。 当日の集合場所は、総門を入った石畳の参道の先に見える「中門」付近です。天龍寺は臨済宗天龍寺派の大本山で、京都五山の第一と位置づけられたお寺です。正式には「霊亀山天龍資聖禅寺」と称するそうです。後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏(あしかがたかうじ)・直義(ただよし)が発願し、夢窓疎石を開山に迎えて暦応2年(1339)に建立された寺院です。当初は暦応資聖禅寺と称されたのですが、足利直義が金龍の夢を見たとかで、天龍資聖禅寺と改称されたといいます。もともとこのあたりには、9世記に嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が檀林寺を建立し、また醍醐天皇の子兼明親王の別荘地があったところです。その旧跡地に、13世紀には後嵯峨上皇が仙洞御所(亀山殿)を造営し、次に亀山上皇が仮御所とした地です。それが後醍醐天皇に伝領されたのです。後醍醐天皇はその亀山殿の一画に夢窓疎石を開山として「臨川寺」を建立しています。後醍醐天皇は、鎌倉幕府の滅亡の後に、天皇政治の理想的時代といわれた醍醐・村上天皇の治世を範として「建武の新政」という公家政権を復活させた人です。足利尊氏が東下と征夷大将軍への任命を求めたことに対し、後醍醐天皇は要請を却下します。尊氏は朝廷に対立する立場をとります。摂津の湊川で楠木正成を戦死させ、京都を制圧すると、尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明(こうみょう)天皇を擁立する挙にでます。建武3年(1336)末、京都を脱出した後醍醐天皇は吉野にこもり、正統の天皇位を主張します。いわゆる南北朝時代の始まりです。約60年もの間、南北朝の抗争が続くことになります。延元4年 / 暦応2年(1339年)に後醍醐天皇は吉野金輪寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言し崩御します。(資料2,3)つまり、後醍醐天皇が伝領した亀山殿の地に、後醍醐天皇の菩提を弔うために寺を建てるというのは、いわば怨霊封じの御霊信仰につながるのではないでしょうか。駐車場への道路、つまり巨大な石標の立つ方から回り込んでみました。 道路の南側には、渡月橋に向かう道路側から西に、塔頭寺院がずらりと並んでいます。最初に目にする「妙智院」です。 勅使門 西側からの眺め四脚門で、桃山時代の内裏の門の一つを寛永18年(1641)に移築したものです。まずはこの勅使門の細部を眺めてみました。 本柱と控柱の間の貫の上部に見える蟇股風の飾りは彫りが深く、龍と虎のレリーフとなっています。 門扉の上の頭貫には、蟇股の代わりに組物が使われ、その上部の貫の上には、笈形の大瓶束は壺形ではなくストレートの円柱です。 控柱の上の頭貫に蟇股が使わています。その彫刻は上掲の龍虎の彫りと対比するとかなり素朴な彫刻に留められています。このコントラストがおもしろい。 門に近づいてみて、興味を惹かれたのは両側の築地塀です。平瓦の破片が整然と積層されています。そして散発的に軒丸瓦や軒瓦の断片などがおもしろいアクセントとして使われています。 少し離れて眺めた勅使門 屋根の獅子口には菊花、菊の紋が使われています。 側面は三つ花懸魚で装飾され、足元は植物を細やかで優美な透かし彫りにして飾っています。懸魚の奧に見える大瓶束の両側の装飾彫刻は、門扉の上部で見たものとはまた異なる意匠で透かし彫りされていますし、その下の船肘木にも彫刻が施され、手が入っています。こちらは「中門」です。先に見えるのが「総門」の境内側。 中門も四脚門ですが、勅使門と比較するとそのシンプルさが対照的です。こちらの門は本柱(親柱)が直接に棟木を受けています。ここに禅宗様の特徴がみられるといいます。(資料1) 勅使門から西を眺めると、石橋が架かり、その先に法堂が見えます。 石橋の架かる池は蓮で覆われています。池の先、南の方に見えるのは塔頭、寿寧院のようです。池に架かる橋を渡った辺り、今は樹木が繁っているだけですが、山門跡です。「選佛場」の扁額が掛けられた現在の「法堂」までの間、今は駐車場として利用されていますが、ここに仏殿があったのです。「仏殿跡」は広い空間となってしまいました。「正面七間(37m)、奥行七間(周囲一間は裳階)で、当時最大規模の堂であった。江戸時代には覚皇寶殿の額をあげていた」(資料1)という仏殿です。この仏殿、明治維新の折に薩摩軍の大砲で破壊されたのです。というのは、「元治元年(1864)の禁門の変で長州軍主力が屯所として使用したため、薩摩軍により塔頭をふくめ壊滅的な状況」(資料1)にされてしまったことによります。禁門の変の影響がが御所周辺だけでなく、この嵐山にも及んでいたことを初めて知った次第です。また、今観光としてこの天龍寺の境内を訪れると、かなり広大な寺地だと感じます。現在の境内地は3万ヘクタール(3万坪)だとか。しかし、明治政府による上地令で境内地の9割ほどが没収されたというのです。その結果が現在の規模なのです(資料1,4)。かつての天龍寺の境内の規模を想像すると、ほんとうに驚きです。『都名所図会』の天明6年(1786)再板本、巻四には天龍寺の境内図が載っています。現在との対比という意味で図を引用させていただきます。(資料5)天龍寺は過去8回大きな火災に遭遇し、その都度伽藍が再興されてきたそうです。この図(1786年時点)でみると三門は再建されていません。仏殿には廻廊があったことがわかります。また、右側のお堂には「選佛場」という記載があります。ところが、この後文化12年(1815)にも大きな火災に見舞われています。8回目が禁門の変の時になります。この時も壊滅的な状況に陥ったということになります。足利尊氏・直羲が天龍寺を建立したのですが、荘園の寄進だけでは造営費用が賄いきれないということで、鎌倉時代の元寇以来途絶えていた元との貿易を再開して、その利益を造営費用に充てるといことが行われました。これが「天龍寺船」の始まりです。康永元年(1342)から数回、天龍寺船が派遣されたそうです。(資料2,4,6)現在のこの「法堂(はっとう)」は、禁門の変の折、焼失を免れた雲居庵の禅堂を移築したものだそうです。この建物自体は江戸後期の建立になるものです。上掲の図に描かれた「選佛場」の建物は、文化12年(1815)の火災では難を逃れていたということなのでしょう。東を正面とし、寄棟造・浅瓦葺、天井には現在、平成9年(1997)に法堂移築100年・夢窓国師650年遠諱記念事業として、加山又造画伯を雲龍図を描かれています。「正面須弥壇には釈迦三尊像を安置し、後の壇には光厳上皇の位牌と歴代住持の位牌および開山夢窓疎石と開基足利尊氏の木像が祀られ仏殿としても使用されている」(資料4)のです。天龍寺のこちらのページをご覧ください。雲龍図が見られます。 法堂の右側の参道を進むと、この世界遺産「古都京都の文化財」の銘板碑があります。 その先、前面に石組みが見え、斜め左側には「大方丈」、右側正面には大きな庫裡の建物があります。大方丈の建物を囲む塀の前には鬼瓦が置かれています。鬼瓦にも阿形・吽形があり、またそれぞれの相貌が微妙に違い、なかなか見応えがあります。庫裡の正面壁面は左右対称の美しい形です。左右の海老虹梁が直線が交差する中で変化を生み出していておもしろい造形になっています。 蟇股には、天龍寺の寺紋が彫刻されているようです。臨黄ネットを参照すると、この図柄がページの背景で使用されています(資料7)。改めて見ると、天龍寺のホームページの下端にもこの図柄が載せてあります。臨黄ネットで気づいたのは、南禅寺の寺紋が天龍寺と同じ図柄でそれが対照的なことです。さてそこで、この図柄は何を表すのだろう? という疑問が浮かびました。調べてみると、学べるものです。龍紋に中の代表的なもので、「雨龍」の図柄だそうです。ここでは雨龍が2つ組み合わされているのです。これは、「雨乞い象徴紋 成長の瑞龍『雨龍』」だとか。「森本勇矢の家紋研究」のホームページで得た知識です。こちらのページをご参照ください。第八話「成長の象徴である瑞龍の正体。その可能性」で、天龍寺と南禅寺の寺紋に言及されています。多くを学ばせていただけました。(資料8)次回は、天龍寺の庭園ほかをご紹介します。つづく参照資料1) 「京都の古社寺を巡る28 ~天龍寺~」 当日配付のレジュメ資料 龍谷大学REC講座 2015.9.10 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成2) 『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p167-1733) 後醍醐天皇 :ウィキペディア4) 天龍寺 ホームページ5) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍総合データベース」6) 天龍寺船 :ウィキペディア7) 霊亀山天龍寺 :「臨黄ネット」(臨済禅黄檗禅公式サイト)8) 雨龍 森本勇矢の家紋研究 :「森本景一の家紋研究」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺後醍醐天皇 :ウィキペディア後醍醐天皇 :「知識の泉」足利尊氏 :ウィキペディア足利尊氏 ホームページ後嵯峨天皇 :ウィキペディア後嵯峨天皇 歴代天皇事典 :「weblio辞書」臨川寺 :「京都風光」森本景一の家紋研究 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -2 天龍寺拝見(庫裡・大方丈・曹源池庭園・多宝殿ほか)へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -3 八幡宮・飛雲観音・弘源寺・七福神めぐりほか へ探訪 [再録] 天龍寺とその界隈 -4 龍門橋(歌詰橋)・長慶天皇陵・晴明神社飛地・角倉稲荷神社・鹿王院 へ探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -5 JR嵯峨嵐山駅・渡月橋・大井神社ほか へ
2017.10.18
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来迎院を出て、呂川沿いに坂道を下り、魚山橋を渡ると駐車場の一隅に、扁平な自然石に如来坐像を線刻したものと思われる石仏と五輪塔があります。「来迎院町五輪塔」です。五輪塔は、「地・水・火・風・空の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安時代に創始されたもの」(資料1)で、一番下の方形の石が地輪、円形の石(塔身)が水輪、三角形の石(笠石)が火輪、半月形の石(受花)が風輪、団形の石(宝珠)が空輪を意味し、五輪となります。ここの五輪塔は地輪の高さが一般的な五輪塔よりも低いという特徴があります。各輪に梵字がきっちり陰刻されています。ここの五輪塔は弘安9年(1286)の銘があるそうです。(資料2,3) 隣の石仏の線刻はかなり摩滅してきていて見づらいのですが、よく見ると何となく坐像の姿がおぼろげに見える気がしてきます。左下の方には、文字も刻まれています。私には判別できませんが。 そして、「念仏寺」の門前を通ります。天台宗のお寺。右の写真は門前から見えた境内。沢山のお地蔵様が奉納されています。 また、こんなお堂が道沿いにあります。たぶん地蔵石仏なのでしょう。その先に、「出世稲荷神社」の石標と参道が見えました。今回は通過しただけです。かなり昔、大原を訪れたことがあるのですが、この神社の存在を知りませんでした。後日に調べてみて、なるほどとわかりました。2012(平成24)年6月に京都市上京区からこの地に移転してきた神社で、豊臣秀吉ゆかりの神社でした。「天正十五年(1587)年に関白太政大臣、豊臣秀吉公が聚楽第を造営するに際し邸内に日頃より信仰していた稲荷神社を勧請しました。翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸し、稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉に因んで『出世稲荷』の号を授けたという。聚楽第取り壊しの後も元の場所に鎮座していたが、寛文3年(1663年)に二条城西方の千本通沿い(千本旧二条付近、京都市上京区千本通竹屋町下ル)に遷座した。」という神社の再移転でした。(資料4) さらに、道沿いに愛宕神社絡みの石灯籠。灯籠の角柱の竿の部分に「愛宕大神」と刻されています。火袋のところに御札が括られています。こういうのはめずらしい気がします。 その隣りに、名号石塔婆が建てられています。中央蓮華座の上に、南無阿弥陀仏の文字が刻されています。一書によると、天文22年(1553)の銘が刻まれているようです。(資料3) 勝林院への案内となる道標も建てられています。坂道を上ってくると、「円光大師二十五霊場 証拠阿弥陀如来」という文字が目に飛び込んで来て、さらに近づくと、側面に「第二十一番札所 勝林院」という文字が見えるのです。ああ、勝林院までもうすぐなのだ・・・・そんな気持ちにさせることでしょう。こちらの石灯籠の竿の部分には「魚山」の文字が見えます。 坂道をさらに下ると「魚山」の道標が立っています。 今回の最後の探訪地は大原大長瀬町の民家の背後にあるこの「大長瀬町宝篋印塔」です。南北に2基並び、西面しています。いずれも花崗岩製で、右の方は1.57mで、相輪は後補されています。塔身正面に弥陀の種子キリークがあらわされています。一方、左の塔は塔身に胎蔵界四仏の種子を刻んでいるそうです。ここの宝篋印塔の笠の隅飾りは二弧となっています。(資料2,3) 右の塔の基礎の正面格狭間の両脇には、右側に「元享元年三月十五日」、左に「一結衆建立」の銘が刻されています。元享元年は1321年で、鎌倉時代の作です。(資料2,3) 宝篋印塔の傍には、沢山の石仏が集められています。比較的大きな自然石に地蔵尊がレリーフされた石仏も建てられています。 バス停の近く、新若狭街道の東側(大原大長瀬町)に「梅宮(うめのみや)神社」があります。「江文神社の境外摂社で、木花咲耶姫を祀る。古くは姫宮と称し、江文神社の妻女を祀るといわれた。今は大長瀬町の産土神として崇められている」(資料3)とか。終点の大原の一つ手前、「梅の宮前」バス停で下車したとします。この梅宮神社からここに掲載の画像を逆に辿っていただくと、呂川の魚山橋、つまり三千院の傍までの道のりとなります。これで、この探訪のご紹介は終了です。 ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p3342) 龍谷大学REC講座 レジュメ 「京都の古寺を巡る27~大原の天台寺院~」(龍谷大学非常勤講師・松波宏隆氏作成)3) 『昭和京都名所圖會 洛北』 竹村俊則著 駸々堂 p119-1204) 由緒 :「京都大原 出世稲荷神社」(ホームページ)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大原の里 pdfファイル :「京都市埋蔵文化財研究所」 地図と写真付きの史跡説明及び発掘調査の説明も載っています。五輪塔 :ウィキペディア五輪塔の梵字と四門について :「常瀧寺」塔婆と五輪塔 :「常瀧寺」宝篋印塔 :ウィキペディア宝篋印塔 (鎌倉前期) :「文化遺産オンライン」寂照寺宝篋印塔 (鎌倉後期) :「文化遺産オンライン」大原念仏寺のお地蔵様 :「地球の歩き方」大原に移転した出世稲荷神社 2012年8月10日 :「京都いいとこブログ」出世稲荷神社(左京区大原) :「京都風光」愛宕神社 :ウィキペディア京都 愛宕神社 ホームページ江文神社・江文寺(京都市左京区) :「京都風光」江文神社 :「玄松子の記憶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -1 大原女の小径・大原陵・勝林院 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -2 三千院・法華堂・律川・熊谷腰掛石 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -3 来迎院 へ
2017.10.17
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三千院の山門石段を下り、石垣に沿って南に進むと、角のところに冒頭画像の石標が立っています。来迎院は左折して、呂川沿いの坂道を東に上っていくことになります。道路の南側、川の傍に、来迎院の案内図があります。つまり、南から来ると、呂川に架かる「魚山橋」を渡り、真っ直ぐ北に向かえば勝林院、すぐ近く右手に三千院、右折して坂道を上ると来迎院という位置関係です。魚山橋近辺を案内図から部分図に切り出してみました。 坂道を上がり始めると、呂川沿いに「良忍上人絵伝」の掲示があります。平安時代後期に末法思想が流行し始めます。その中で阿弥陀仏信仰が流布し、極楽浄土への往生という浄土教信仰が様々な形で形成されていきます。その中で、良忍上人(聖応大師)は融通念仏宗の教えを説き、後に宗祖となる人です。伝教大師最澄が比叡山延暦寺を創建したのは788年で、奈良時代末期です。794年平安京遷都により、平安時代が始まる訳ですが、藤原時代とも称される10~12世紀には、比叡山の俗化が進んで行きます。その中で、比叡山を離れた念仏聖が、声明の根本道場としての地である大原を修行する隠棲の里としたのです。比叡山東塔の堂僧だった良忍(1072~1132)が天仁2年(1109)に魚山の号とともに来迎院を再興したそうです。(資料1,2) そして、先ほど「有清園庭園」側からみた朱雀門を外からながめることに。その続きの白壁とのコントラストが素敵です。三千院に関連して、手許の『都名所図会』もちょっと繙いてみました。(資料3,4)ネットから得た該当画像を引用します。 江戸時代・安永9年(1780)の上梓です。この時点では、絵の中には大原として、「勝林院・来迎院・融通寺・音無滝・呂律川」が明記されています。本文の項目見出しには、魚山来迎院、魚山勝林院とあり、三千院については「梶井宮円融院梨本房」という見出しで記載されています。その主たる説明は「呂の川の北にあり。天台の座主にして諸門を推(すす)んでこれを祖とす。」とあり、円融院の変遷を括弧書きで説明しています。そして、極楽院、売炭翁の墓、護法石を取り上げ、説明を付記し、極楽院に陵阿上人の植え置いた桜を見て、頓阿の詠んだ歌を掲げています。頓阿は室町時代の歌僧です。 見るたびに袖こそぬるれ桜花涙のたねを植ゑや置きけんこれは瑠璃光庭の一隅にある「涙の桜」と称される桜の木のようです。一説に西行法師の手植えともいわれるもの。(資料4) 私は今もあるのかどうかは、現地で未確認です。白壁築地塀の東隣りに「勝手神社」の鳥居と参道が見えます。ここは未訪です。「天治2年(1125)、良忍が魚山の守護神として大和吉野の勝手神社を勧請したことに始まるという。祭神勝手明神の本地は毘沙門天」(資料1)だそうです。 来迎院の西隣りにある寺「魚山浄蓮華院」上記『都名所図会』では、当時ここに「融通寺」があったのです。脚注には「融通念仏寺 今は浄蓮華院に引き継ぐ」と付記されています。そして、融通寺の本尊が湛慶作阿弥陀仏坐像で、開基良忍上人の像ありと説明しています。 来迎院本坊の参道口が、浄蓮華院の隣りに見えました。 来迎院の境内配置図を部分拡大します。「来迎院」は小野山麓下に位置します。 坂道を上がって行った先の山門。石段手前にある石標に「音無しの滝 右三百米」と付記されています。 駒札 本堂 受付を経て、境内をすすむと、一段高いところに本堂が見えてきます。この本堂も三千院本堂と同じ形式です。「三間四面の入母屋造りで、正面三間とも蔀(しとみ)とし、側面に引開け戸と壁を付ける。内部は中央の内陣とまわりの広く取られた外陣からなり、・・・天文二年(1533)再建と伝わる」建物です。(資料1)本堂内を拝見しましたが、本堂内では撮影禁止でした。本堂を出たあと、境内を探訪しました。その時、境内から本尊を遠望し見仏できる場所があり、試しに撮ってみたものを部分拡大してみました。雰囲気だけお感じいただき、後は来迎院本堂でじっくりと三如来を拝観してみてください。薬師如来(中央)・釈迦如来(左)・弥陀如来(右)の三躰とも重文です。いずれも藤原時代の木像漆箔寄木造の像だそうです。「弥陀・釈迦像は鳥羽上皇による安置とされる」(資料1)もの。脇侍は不動明王(左)と毘沙門天(右)で、これらも藤原時代(後期)の作だそうです。(資料2)また、外陣の左脇壇には、いずれも鎌倉時代作と推定される、慈覚大師坐像・元三大師画像・聖応大師坐像が祀られています。上記『図会』には、本尊と開基に触れた後、「この地は叡嶺西塔の北谷にして、昔は坊舎一百余ありしなり」と記しています。逆読みすると、江戸時代には既にかなりの坊舎が減じていたのでしょうね。というのは、一書にこう記されていることからも推察できます。「応永33年(1426)火災によって堂宇を焼失したが、間もなく永享年間(1429~41)再建され、さらに天文年間(1533~55)に改修したのが現在の建物である。」(資料5)案内図に名前の記されている浄蓮華院・蓮成院・遮那院はこの来迎院の境内子院だそうです。この三院が輪番で来迎院の管理をされていると言います。 梵鐘は永享7年(1435)の銘をもつもの。「室町時代の特徴を顕著に備える」(資料1)ものといいます。この梵鐘の龍頭をご覧ください。勝林院の梵鐘との違いに気づかれるでしょう。撞座と直交せず、同じ方向に向いています。乳ノ間の上下幅が少し広くなり、撞座のところの中帯の幅が広くなり、上の池ノ間はかなり広い代わりに、下の草ノ間は極端に上下幅が狭くなっています。見比べてみていただくとおもしろいです。しかし、これら2種の梵鐘で共通するのは、はるか後世の梵鐘との比較では池ノ間や草ノ間にレリーフの装飾がないことです。本堂の東に一段山の斜面を上に上がる石段があり、石段正面に「鎮守堂」が見えます。 鎮守堂の北隣にある「地蔵堂」には、このように様々な地蔵石仏が並べて安置されています。石仏の浮彫も微妙に異なっています。中には宝篋印塔をレリーフしたような石板碑も見えます。前列の西端に不動明王石仏と思われるものも見つけました。 鎮守堂の近くに置かれた五輪塔。「軒反りが緩く、軒厚も薄い点が古様を示し、鎌倉時代の造立と推定される」(資料1)ようです。 そして、境内の北を流れる律川に架かる橋を渡り、「融通念仏宗開祖 聖応大師御廟」を拝見に向かいます。今はコンクリート製の橋になっていますが、橋詰に御廟の石標があり、またたぶん橋名を刻したと思われる石標もあります。判別できません。橋を渡った少し上にこの石碑があります。上部に円形の穴が開けられ、「聖応大師八百歳諱(き)」と刻されています。大師没後800年の遠忌記念なのでしょう。 石造門扉のある御廟が坂道と石段の先にあります。 石造垣根の中に、「三層石塔」(重文)が建立されています。「軒反りが穏やかで、鎌倉後期の造立と推定される。相輪も当初のもの」(資料1)。高さは2.82m、花崗岩製。(資料4)本堂の北に在る建物が「収蔵庫」(手前)と「如来蔵」です。良忍上人の自筆写本や平安時代の貴重な典籍・文書類が残されているとか。『日本霊異記 中・下巻』(国宝)と、平安時代初期仏教界の貴重な資料「伝教大師度縁案並僧綱牒一巻」(国宝)を所蔵されているそうです。(資料2)最後に、良忍上人について学んだことに少しふれておきたいと思います。(資料2,5)*延久4年(1072)尾張国知多郡富田村の生まれ。天承2年(1132)2月1日、60歳で来迎院にて入寂。聖応大師と追諡される。延久5年生まれという説もあるようです。*13歳で叡山に登り、檀那院の良賀上人の室に入り研学した念仏僧。23歳のときに大原山に隠遁し、三十余年この地に住した人。*円仁が唐に留学し将来した声明を、良忍が統一し魚山流声明を集大成したそうです。そして、この魚山流が天台声明の主流になるのです。*「一人の念仏を万人に融通して往生に導くといういわゆる融通念仏の教義を唱え」、そして、諸国をめぐって各地に念仏弘通の道場を開いたと言います。 また、このようにも記されています。 「融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互いに融通しあって往生の機縁となることで、この教えをもって良忍上人は弟子達によって布教にあたらせ、都や畿内にその教えは流布され、やがて河内平野の大念仏寺を総本山として融通念仏宗を開宗するようになる」(資料2)と。三千院と勝林院は学生時代から知っていましたが、この来迎院は知りませんでした。 つづく参照資料1) 龍谷大学REC講座 レジュメ 「京都の古寺を巡る27~大原の天台寺院~」(龍谷大学非常勤講師・松波宏隆氏作成)2) 「-京都・大原- 来迎院」 当日拝観の折にいただいたリーフレット3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p354,p356 4) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :古典籍データベース(早稲田大学図書館) 巻3の77コマ目5) 『昭和京都名所圖會 洛北』 竹村俊則著 駸々堂 p126-128【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺来迎院 :「京都観光Navi」京都大原の里来迎院散策 :「Japan Travel Photo Album」 堂内の写真が掲載されているサイトを見つけました。 《来迎院の薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来像写真》 《不動明王立像と多聞天立像写真》良忍 :ウィキペディア融通念仏とは :「大念佛寺」 宗祖良忍上人のプロフィール 良忍上人像コラム 良忍上人について :「和泉流狂言師 小笠原 匡」融通念仏宗 :「世界の宗教ガイド」良忍の融通念仏とその思想背景 佐藤哲英・横田兼章 共著 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -1 大原女の小径・大原陵・勝林院 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -2 三千院・法華堂・律川・熊谷腰掛石 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -4 来迎院町五輪塔・大長瀬町宝篋印塔ほか へ
2017.10.17
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勝林院を出て来た道を南に戻るとき、左手の石垣のところに石段が見えます。そこを上がると前回屋根の見えた建物です。「法華堂」でした。門扉が閉ざされていますので遠望のみ。「方三間、単層、四柱造り、屋根はこけら葺き。正面に向拝を付している」建物です。駒札にある通り、後鳥羽・順徳両天皇のための大原陵が作られたときにその陵内に移築建立されたそうですが、勝林院が火災に遭った享保21年(1736)に類焼して焼失。現在の建物は安永7年(1778)に再建されたもの。明治年間に御陵が宮内庁の管理となってから、陵外西北部の現在地に移されたのです。(資料1) 勝林院に移されたということのようです。ここにも、明治初期の神仏分離令の波及がみられるということなのでしょう。本尊として普賢菩薩像が安置されているとか。 勝林院境内の句碑にも刻まれていた律呂川という名称に含まれる、「律川」にかかる「茅(萱)穂橋(かやほのはし)」を渡ります。 その西南隅に小さな石標に大きく「熊谷」という文字が刻されています。そしてその下にも小さな字で二行刻まれています。その一行が「腰掛石」(左の画像)。熊谷蓮生坊が勝林院での師法然と諸宗の高僧たちとが「大原問答」をしている間、ここで石に腰掛け法問の勝劣を聴聞したといいます。熊谷蓮生坊とは、武蔵国の住人・熊谷次郎直実のことです。法然の許で修行して、蓮生坊と称された人。『平家物語』巻九の「敦盛最後の事」という場面に登場する武士。一の谷の合戦で敗れ、助け船に乗らんとする平家の公達に、直実が「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせて候へ。まさなうも敵に後を見せ給ふものかな。返させ給へ返させ給へ」と扇をあげて招くと、敦盛が引き返してきて、組み討ちとなり、直実がその顔を見て16,7であることにおどろきます。直実は名乗り、公達の名を尋ねて助けようとするのですが、「ただただ何様にも、とうとう首を取れ」と言い、直実に首を取られるという場面です。「後に聞けば、修理大夫経盛の乙子大夫敦盛とて、生年十七にぞなられける。それよりしてこそ、熊谷が発心の心は、出で来にけれ」ということとなる次第。これは平家物語の語りです。遠因はそこにもあるのでしょうが、実際に熊谷が出家したのは「十年後の建久3年、領地の争いによるのが事実とされている」という脚注もあります。(資料2)石標の右斜め奥にある説明板が、もう一行に相当します。「鉈(なた)捨藪跡」です。その場所は三千院の門前あたり、この石標から50mほど先あたりだったとか。「大原問答」で法然が敗れた場合には、その法敵を討ち果たそうとひそかに袖に鉈を隠し持っていたところを法然にさとされて藪の中にその鉈を投げ捨てたという伝承です。(資料1,説明板)これについても、「史実としては時代がずれています」(資料3)と明記されています。調べて見ると、前回触れたとおり、「大原問答」は文治2年(1186)年秋のことです。一方、熊谷直実は、「家督を嫡子・直家に譲った後、建久4年(1193)頃、法然の弟子となり出家した。法名は法力坊蓮生(ほうりきぼうれんせい)である」(資料4)のだとか。また、「1192年(建久3)久下直光との所領争いに敗れ、自ら髪を断ち、上洛して安居院の澄憲のすすめにより法然に師事した。法然の易行専修念仏の教えを聞いて直実深く感ずるところありて常に法然の側近に随従し、ひたすら念仏の行に励んだ。」(資料5)という説明もあります。出家としての師弟関係でみると、確かに時代が少しずれます。伝承というのは興味深いものです。いつの時代もその当時の人が見たいもの、そうあって欲しいものを付加して織り込んでいくということでしょうか。例えば、現代の都市伝説話もその類いかもしれません。 「御殿門」(山門)律川に架かる朱塗りの橋を渡った先に、「三千院」の山門(御殿門)が石段の上に見えます。三千院は石垣積みの一段高いところにあります。 御殿門への石段の右側に句碑があり、その傍に駒札が立っています。駒札にはごく簡単な説明が記されています。一方、句碑に刻された句は、 魚山の名 ここに千年 冬木立 徳女 (小塙徳女とだけわかりました)まるで城郭のような構えです。現在、三千院のある場所は、「中世に梶井門跡の大原支配の役所である政所が置かれた地」(資料6)だそうです。御殿門の蟇股は至って単純素朴で厚板の頑丈そうな作りです。まさに蟇股の原型そのままの感じ。質実剛健な感じでスッキリしています。「三千院」は天台宗延暦寺の別院で天台門跡の一つです。学生時代から「三千院」という名を知り、それ以上のことは何も考えなかったのですが、この名前は明治4年(1871)に改められた結果なのだそうです。この寺の歴史を振り返ると、かなりの変遷があります。私には、坂本の探訪と今回の探訪が結びついてきた次第。以下、いくつかの説明資料からの理解です。(資料1,6)*伝教大師最澄が比叡山に根本中堂を創立したとき、東塔南谷の梨の大木の下に一宇を構えたのが起こりと伝えるそうです。*平安初期、堂塔の整備により東塔南谷に梨本円融房が設けられたのです。円融房は一念三千院とも呼ばれたのだとか。 最澄自作の薬師如来を本尊としたそうです。ここが梨本門流の寺房となります。*また比叡山麓・東坂本の梶井の里に里坊が設けられます。 ここで、応徳3年(1086)に白河天皇中宮賢子の菩提供養が行われたとき、丈六の九体阿弥陀像が安置されたことから、円徳院と改められたそうです。梶井円徳院は平安後期に設けられたのです。梨本門流から梶井門流が創始されます。*この梶井に、堀河天皇の第二皇子・最雲法親王が入室し、大治5年(1130)に第14世法主となられたのだとか。それ以降、代々法親王が入室されてここが門跡寺院となり、「梶井宮」と呼ばれるようになります。このときに、梶井門跡が大原魚山の大原寺(だいげんじ)-来迎院・勝林院など-を管轄することとなり、大原に政所(まんどころ)が設置されます。 梶井宮跡は拙ブログ記事をこちらに再録しています。ご覧いただけるとうれしいです。 今や小さな石標がかつての存在を教えるだけなのですが・・・・。(探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡)*鎌倉時代の貞永元年(1232)に梶井の堂宇が火災に遭い焼失。「梶井宮」は京都市中に本拠を移すも転々としたのだとか。*建長2年(1250)船岡山(京都市北区)の東麓に移転します。ところが、そこに営まれた梶井の御所も、200有余年後、応仁の乱(1467-1477)が原因で焼失してしまいます。 その結果、それ以後、政所のあった大原に移り、ここを拠地とすることになります。*徳川将軍綱吉は、現在の京都市上京区梶井町の地に里坊を造進し寄進したそうで、そこが梶井御殿となり、大原は修行の地となったようです。結果的に天台門跡として梶井・妙法院・青蓮院の三門跡ができます。江戸時代には、天台座主はこの三門跡から任じることが原則となったそうです。(資料6)*明治維新に昌仁法親王(50世)が還俗し梨本宮家を興されたことで、梶井御殿の仏具類を大原に移管、大原の政所が梶井門跡の本殿となるに至るのです(資料1)。このとき「梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅額により、三千院と公称されるようになりました。」(資料7) 受付の傍の壁に、境内の案内図が貼られています。(これは拝観時に入手のリーフレットに掲載されています)。受付の建物の前から、客殿さらには円融房、円融蔵、西方門に至る道の景色です。 「聚碧園」の景色 (客殿の廊下から) 建物内の拝見時、庭はよかったのですが内部は撮影禁止でした。廊下を進んで行くと、上掲3画像の下から上へと庭を眺めていくことになります。ここは江戸時代に客殿の庭としてつくられた池泉観賞式の庭で、約250坪だとか。金森宗和の修築と伝わります。次に巡る宸殿の近くに立つ駒札には、こう記されています。「聚碧園は、小さな滝流れ、二段の池・築山と、緑先手水鉢からの流れに伴う平庭からなり、築山ごしに有清園の杉の木立や往生極楽院阿弥陀堂を望むことができる。」現在の客殿は大正初年に修補されたものです。平安時代には龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所だったところに位置します。天正年間(1573-92)に当時の門跡が禁裏修理の余材を得て建立されたと伝えられ、後龍禅院とも称するようです。(資料1,7)客殿からさらにいくつかの建物の内部を拝見し、宸殿に至ります。宸殿の本尊は、伝教大師作と伝えられる秘仏、薬師瑠璃光如来。勿論見仏できません。 宸殿の外観。外観は御所の紫宸殿を模した寝殿造りです。極楽往生院を中心とした周庭が「有清園庭園」と称されています。面積は約500坪(1650㎡)。 この前庭は宸殿の前から極楽往生院に至る部分です。「瑠璃光庭」と呼ばれます。スギゴケの大海原といわれるようです。 中央の参道から宸殿を振り返った西側部分の庭の景色です。 「細波の滝」の滝石組や中島のある池の部分。「有清園」の一部。往生極楽院の北東方向に池が広がっています。宸殿からは南東方向になります。 極楽往生院(重文)御堂の中を拝見した際、参拝者の人々で御堂は満ちており、ご住職が建物の説明や本尊の説明など法話を交えて軽妙な話術で説明されていました。楽しく拝聴した次第。外廻りは元和2年(1616)の修理などで改変されているようです。このときに正面に一間の向拝がつけられたのだとか。内部は創建当初(平安末)の様相が残されています。阿弥陀堂として中央に内陣、四方を外陣とした「一間四面堂」の典型例だそうです。丈六本尊を納める工夫として天井が船底型に折り上げた形になっています。特異な形式です。単層、入母屋造り、こけら葺き、妻入の仏堂です。(資料1,6)その天井には極楽浄土に舞う天女や諸菩薩、楽器や雲などが描かれているのですが、黒ずんでしまっていて一部分を除き判然としません。現在、この船底型天井画は復元模写されていて、重要文化財収蔵施設「円融蔵(えんにゅうぞう)」で展示を見ることができます。こちらをご覧ください。(三千院のホームページ:円融蔵展示室)本尊は阿弥陀三尊像(国宝)です。中尊の丈六阿弥陀坐像は来迎印を結んでいます。脇侍の勢至・観音両菩薩像は膝をつき前屈みとなった「大和坐り」で、来迎を示す姿勢です。ヒノキの寄せ木造りの像。「勢至菩薩の像内銘に久安4年(1148)とある。中尊の台座・光背、脇侍の頭光も当初のもの」(資料6)だそうです。勢至菩薩が合掌しているのに対し、観世音菩薩は「往生者を蓮台に乗せる姿」(資料3)を表すとされています。こちらをご覧ください。(三千院のホームページ:彫刻案内) 極楽はここにこそあらめみほとけのやまとすわりのもろひざの上 土岐善麿この極楽往生院は、もとは極楽院と号し、三千院の境外仏堂だったものが明治になって本堂となったそうです。平安後期、恵心僧都の妹・安養尼の庵室(持仏堂)に始まるとされています。今の建物は、平安末期、高松中納言藤原実衡(さねひら)の後家・真如房尼が夫の菩提を弔うために久安4年(1148)に建立した常行三昧堂と判明しています。それが室町末期に梶井門跡の一院となったといいます。江戸時代の修理でもこんなシンプルな蟇股なんです。全体調和ということでしょうか。有清園庭園の一隅にも歌碑が置かれています。私には判読できません。少し調べてみましたが、手がかりなし。課題が残りました。 極楽往生院から朱雀門方向(南)へ向かう庭内 朱雀門の手前で右折して境内を出る順路になる「西方門」探訪順路としては左折します。 「わらべ地蔵」 上掲の池とは少し離れた位置にある池 参道右手にある「草木供養塔」草木供養塔の右手前の説明碑の傍には、「中国天台山菊」という立て札が立っています。 「写経塔」側面に「一念三千」と刻された宝篋印塔(写経塔)の傍の石段を上ります。石段を上った高台の左側奥(北)、紫陽花苑内に「金色不動堂」があります。「智証大師作と伝えられる秘仏金色不動明王を本尊とし、平成元年に建立された、ご祈願の根本道場です。」(資料3)さらに東の石段を上ると、その上に観音堂や慈眼の庭があるのですが、時間的に回れませんでした。 北の方向に向かうと、境内を流れる律川を渡った先に、案内図に「売炭翁石仏」と記される大きな石仏があります。三千院境内の東北隅になります。 俗に「大原の石仏」と言われ、高さ2.2mの大きな自然石に定印の阿弥陀如来坐像を厚肉彫りしてある石仏です。光背は無地の二重円光式です。(資料1)「売炭翁旧跡」がこの辺りという伝えがあるそうです。上記の石仏名はここに由来するのでしょう。この辺りの山中で炭を焼く炭竈があったのかもしれません。「売炭翁とは炭の生産販売を業とする人々を擬人化したもので、『白氏文集』巻四に、炭を売る翁は常にうすい衣をまといながら、売った炭は他人の保温料となるも、自身の寒さを防ぐには足らないという意を寓した詩ががあり、これに因んで売炭翁と称した。」のだそうです。(資料1) 極楽往生院遠望 この後、「西方門」を通り抜けます。この「円融房」という建物から通りをはさみ西側に「円融蔵」(平成18年秋開館)が建てられています。ここで天井画の復元模写をはじめ、寺宝などの展示品を拝見しました。南隣は納経所で、お土産などもこの建物の一角で売られています。そして後は、最初にご紹介した道を逆方向から山門(御殿門)に向かいます。春は桜から始まり、石楠花・躑躅・皐、紫陽花、山吹、紅葉、山茶花、椿、そして冬景色と四季折々の移ろいが三千院で味わえることでしょう。見過ごした箇所もあり、また季節を変えて再訪したいと思っています。そして、来迎院へ。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛北』 竹村俊則著 駸々堂2) 『平家物語 下巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア p103-1053) 「魚山大原寺 勝林院略記」 拝観の折にいただいたリーフレット4) 熊谷直実 :ウィキペディア5) 熊谷直実 :「浄土宗」6) 龍谷大学REC講座 レジュメ 「京都の古寺を巡る27~大原の天台寺院~」(龍谷大学非常勤講師・松波宏隆氏作成)7) 「京都大原 三千院」 拝観の折にいただいたリーフレット【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺熊谷直実について :「熊谷商工会議所」熊谷次郎直実 :「熊谷デジタルミュージアム」門跡 :ウィキペディア妙法院 :「京都観光Navi」妙法院(京都市東山区) :「京都風光」天台宗 青蓮院門跡 ホームページ売炭翁 白楽天 :「漢文委員会」瑠璃光と無量寿 :「真理探究と歴史探訪」三千院のお地蔵さんたち :「KYOTOdesign」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -1 大原女の小径・大原陵・勝林院 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -3 来迎院 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -4 来迎院町五輪塔・大長瀬町宝篋印塔ほか へ
2017.10.16
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2014年10月11日にREC講座「京都の古寺を巡る -大原の天台寺院-」を受講しました。この探訪記を当時まとめて拙ブログに載せました。ここに再録してご紹介いたします。(再録理由は付記にて)冒頭の写真は、京都バス「大原」バス停に集合の後、三千院への方向に大原の小径を歩み始めて最初に見る看板です。歩きつつ目にするのは 石灯籠の上部と木の根元のお地蔵様そして「女ひとり」の歌碑「京都大原三千院 恋いにつかれた 女がひとり ・・・・」というあの一世を風靡した永六輔作詞の歌謡曲です。最近のカラオケでも定番になっているのでしょうか。とんとご無沙汰なので、どうなのか知りませんが・・・・・・・。 小径から眺める近くの山 小径の左右には、さらにお地蔵様や柴を頭上に載せた大原女をレリーフにした石碑などを見かけます。 建物の焼板壁に掲げられた付近の案内図。四角の赤い記号が現在位置です。まずは「勝林院」の拝見・探訪から始まりました。 こんな雰囲気の小径を進みます。 「実光院」の白壁を左に見ながら、「律川」傍の緩やかな坂道をさらに上り、左折します。「実光院」の表門がすぐに見えます。「勝林院」は大原寺(たいげんじ)と号し、天台宗延暦寺の別院であり、「明治維新までは塔頭子院として宝泉・実光・普賢・理覚の四院を有し、これを総称して勝林院と号したが、明治維新は本堂だけの尊称となり、塔頭もいまは宝泉・実光の二院のみで勝林院を交互に管理している」(資料1)そうです。つまり、勝林院の塔頭です。あとでふれますが石標の「魚山」の意味が頷けます。小径を隔てて東側に、大原陵(後鳥羽天皇・順徳天皇)があります。門扉に向かい左に「順徳天皇大原陵」、右に「後鳥羽天皇大原陵」の石標が建てられています。後鳥羽天皇は承久の乱に敗れて隠岐の島に配流、順徳天皇は佐渡ヶ島に配流されています。ともに配流地にて崩御。遺骸は配所にて火葬に付し、遺詔によってこの地に埋葬されたそうです。『増鏡』によると、後鳥羽天皇の皇子であり、順徳天皇と同腹だった尊快法親王が、その頃、梶井宮第二十代門主として在職されていたためだとか。「梶井門跡・梨本坊」というのは、現「三千院」の旧名称です。(資料1) 大原陵の参道入口寄りから眺めた大原の山並み 一段低い位置に見える御堂。後ほどまたご紹介します。そして、小径に戻り北に歩むと突き当たりが「勝林院」の境内です。 入口近くに、勝林院の境内案内図と史跡説明の駒札があります。比叡山北西麓のこの大原には、比叡山の影響下にある天台寺院が営まれ、それらの寺は「魚山」と汎称されています。この「魚山」は、「中国長安の北西にある天台山の支山大原(たいげん)魚山が声明(しょうみょう)の中心であることに拠るとされ」ていて、「声明」とは、「梵唄。真言などに節をつけて唱える仏教儀式音楽」として導入されたものです。承和2年(835)に円仁(慈覚大師)が唐より「声明」を将来して、取り入れたのが始まりだとか。(資料2)この大原の寺々は平安後期になると「声明の道場」として認識されていたようです。「また、一方では良忍により融通念仏の道場ともなり、大原別所が開かれた」のです。(資料2)この「勝林院」を慈覚大師から9代目の弟子寂源(一条左大臣雅信の息・俗名時信)が長和2年(1013)に大原魚山流声明の根本道場として建立したと言います。(資料3) 拝観受付所を過ぎると、素朴な手水用の水槽が置かれています。 入口に近いところに、鐘楼があります。鐘楼の建物は蟇股や木鼻は至ってシンプルなもの。時代の古さを示しているようです。 梵鐘(重文)は平安時代前期の作と推定されているようです。丸い乳の並ぶ乳の間がやや縦長の鐘にもかかわらず上端部に寄り少し詰まっているような印象を受けます。その矩形の下の池ノ間部分が、その下の草の間部分よりもかなり広いスペースを取った区割りになっています。梵鐘を吊す竜頭(左の画像)が撞座(右の画像)と直交する形で製作されています。これは平安前期までの梵鐘の特徴だそうです。(資料2)こういう形式からも梵鐘の製作年代を判断する情報が得られるのですね。石畳の参道の両側は苔庭となっていていい雰囲気です。正面に本堂が見えます。本堂は桁行7間・梁行6間の入母屋造り柿(こけら)葺です。元の建物は享保21年(1736)に火災により焼失。安永7年(1778)に再建されたもの。江戸時代の中期、田沼意次が老中となり権勢を発揮していた頃、またロシア船が蝦夷地来航し松前藩に通商を求めた頃にあたります。 本堂の正面欄間は繊細な透かし彫りが華やかさを加えています。これが彩色されていたとすれば煌びやかな雰囲気を漂わせていたことでしょう。欄間のそれぞれの意匠が異なります。 ズームアップして、部分撮りしてみました。上掲画像と対応させてみてください。本堂の向拝の外から拝見した本尊・阿弥陀如来坐像。堂内に入り、見仏するのとはまた少し雰囲気が違います。1736年の火災によって「証拠の阿弥陀」と呼ばれた旧本尊も失ったそうです。(資料1)この本尊は長保(999~1004)・寛弘(1004~10012)年間の仏師、康尚の作を、元文2年(1737)大仏師香雲が補修したものと言います。(資料3)なぜ「証拠の阿弥陀」と呼ばれたのか。というのは、文治2年(1186)秋に、天台宗の顕真法印が法然上人(源空)をこの勝林院に招き、ここで明遍・智海・貞慶など諸宗の高徳と浄土の定義について問答したのです。世に「大原問答」と称されるもの。「このとき源空は、浄土の宗義、念仏の功徳、弥陀の本願の旨を説き、問者の本成坊がついに信伏し、集会のもの300人も歓喜の涙を流し、3日3夜の不断念仏を行ったと伝わる」(資料4)そうです。「念仏により極楽往生ができるかどうかの問答のとき、大光明を放たれて念仏衆生摂取不捨の証拠を現され」て、阿弥陀如来が証拠に立たれたと伝えています。(資料3)その由縁により、この本堂が「証拠堂」とも呼ばれるのです。そのときのことがこのように記されています。「『・・・・大原にして、聖道・浄土の論談ありしに、法門は牛角(ごかく)の論なりしかども、機根くらべには源空かちたりき。聖道門はふかしといへども、時すぎぬればいまの機にかなはず、浄土門はあさきに似たれども、当根にかなひやすしといひしとき末法万年にして余教悉く滅し、弥陀の一教のみ利物(りもつ)偏増の道理におれて、人みな信伏(しんぷく)しき』とぞ、おほせられける。」(資料5)当日拝観の折にいただいたリーフレットにも「大原問答」の説明が別の形で詳しく記されています。拝観された折には、ご一読いただくとよいでしょう。リーフレットには、「天台宗 大原魚山流 聲明道場」「法然上人・大原問答・旧跡」「円光大師二十五霊場第二十一番札所」と併記されています。本堂内に入り、拝見すると脇侍には不動明王と毘沙門天が祀られています。本尊の御手からは「五色の綱」が下がっています。それは参拝者と阿弥陀様との結縁のためだそうです。その後、境内を探訪しました。 本堂がこんな方向に見える位置に、日吉山王社があります。 その南の方に観音堂があり、その傍に「石造宝篋印塔」(重文)が建てられています。右の画像は西面する正面からみて右側面(北側)です。実物を拝見しても私には判読しがたかったのですが、基礎の一面に正和5年(1316)の銘があるものです。「塔身四方に胎蔵界四仏の梵字を彫る。隅飾りを別石とし、三弧となる点が特徴的である」(資料2)。鎌倉時代の名品です。南にはずらりと板碑が並んでいます。板碑から一段下がった前方(西)に、かつては「西林院堂」があったのです。 その場所に、この説明板が置かれています。境内の一隅。石積みの一角に湧水があるようです。石像の近くの石の上に柄杓が置かれています。入口に近いところで見た句碑を最後にご紹介します。2句が一石に刻されています。 夕ほたる 末は一つの 律呂川 (丸山)海道 大阿弥陀 いだく魚山に 初音澄む (丸山)佳子調べて見ると、海道は京都在住で「京鹿子」という俳句結社を主宰していた俳人でした。海道・佳子は俳人同士のご夫妻。佳子さんも京鹿子の指導者として活躍されていたそうです(資料6)拝観したとき、私は気づかなかったのですが、入口の近く、左の方に、歌人平井乙磨の自然石での歌碑が建立されているそうです。いただいたリーフレットを後日読み、知った次第。 苔の上(へ)をまろぶがごとく流れゆく呂律の里の弥陀の聲明(しょうみょう)という歌だとか。参拝されたら上記の句碑と併せて、是非拝見してみてください。私には再訪の機会への課題です。 つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛北』 竹村俊則著 駸々堂 p130-1322) 龍谷大学REC講座 レジュメ 「京都の古寺を巡る27~大原の天台寺院~」(龍谷大学非常勤講師・松波宏隆氏作成)3) 「魚山大原寺 勝林院略記」 拝観の折にいただいたリーフレット4) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p69-705) 『法然上人絵伝(上)』 大橋俊雄校注 岩波文庫 巻六 p60-61 牛角:双方に優劣がない。 当根:現代の人の教えを聞き修行する能力 利物:人びとを救う力6) 丸山海道 :「コトバンク」 丸山佳子さん死去 俳人、現代俳句協会名誉会員 :「京都新聞」 ← 2017.10.16時点でアクセス不可。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺後鳥羽天皇 :ウィキペディア第82代「後鳥羽天皇」略歴 :「鳥羽踊り保存会」順徳天皇 :ウィキペディア声明 :ウィキペディア天台声明・大懺悔.wmv :YouTube比叡山延暦寺式衆-天台声明「四智梵語」 :YouTube大原問答 :「コトバンク」大原問答-法然さんの勝利宣言(京都大原・勝林院その2) :「釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ」明遍 :ウィキペディア貞慶 :ウィキペディア融通念仏とは :「大念佛寺」 宗祖良忍上人のプロフィール大原別所勝林院 :「コトバンク」地名由来分析 別所 :「民俗学伝承ひろいあげ辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -2 三千院・法華堂・律川・熊谷腰掛石 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -3 来迎院 へ探訪 [再録] 京都・大原の天台寺院を巡る -4 来迎院町五輪塔・大長瀬町宝篋印塔ほか へ
2017.10.16
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周山街道のすぐ傍に、八幡宮社の最初の鳥居があります。ところがその後、本殿にたどり着くまでが結構長いアプローチになります。この鳥居をくぐると、参道が坂道になっているのです。坂道を上り切るとその先はグラウンドのような広場です。後で調べて見ると、京北第三小学校の校庭でした。その校庭の反対側に巨木が屹立しています。近づいてみると、ご神木という石標が建てられていました。樹齢450年と言われている大杉です。そして、校庭の先に参道が真っ直ぐに伸びているのです。やっと神社が見えてきます。 石段の先に拝殿、その先に本殿が見えました。 駒札なぜか「二條侯爵家」と表記した提灯が掲げられています。八幡宮社は、奈良後期、孝謙天皇の勅願で宇佐八幡神を勧請し、現在地に貞観元年(751)に創祀したと伝わっているようです。御祭神は、応神天皇・神功皇后・湍津姫命(たぎつひめのみこと)が祀られています。 本殿は三間社流造。建物の正面、向拝部や側面、さらに裏面と、蟇股の装飾がなされていて、蟇股にはさまざまの草花が透かし彫りされています。優美な感じを受けます。 「海老虹梁、木鼻、実肘木にも桃山後期建築の特色をみせる」建物だといいます。この辺りは十分に理解できているとは思いませんが、やはりいろいろな建物を見る機会を増やしていき、少しでも識別できる知識が蓄積できるといいなと思います。 本殿に向かって右側に境内社があります。この境内社は「待童社本殿」と称されています。今は別に覆屋が設けられていますが、三間社流見世棚造という様式だそうです。土台の上に社殿が組まれて、社殿の前には階段が付いていません。棚状に床板が張られた形です。これが店舗の見世棚に似ていることから、見世棚造と称されているそうです。(資料1)この本殿には右から松尾神社(大山咋命)、若宮八幡宮(応神天皇)、日吉神社(国狭立命・くにさたちのみこと)が並んでいます。この後、最後の探訪先にバスで移動します。「福徳寺」です。所在地はこちらから地図(Mapion)をご覧ください。福徳寺の境内に入る手前に数多くお地蔵様が並んでいます。 最初に、「袋負い地蔵の伝説」という説明板の掲げられたお地蔵さま。そして六地蔵が並んでいます。 石垣の組まれた一段高い場所に「福徳寺」が見えました。 石垣の前に立つ「福徳寺のサクラ」の説明板 「かすみ桜」として親しまれているそうです。 拝観でいただいたリーフレットの表紙この寺は和銅4年(711)に行基が現在地から北数百メートルの大谷山の口に法相宗の寺院として開創し、聖武天皇の勅願により薬師七重塔が建立され、「弓削寺」と称したと言います。その後、弓削道鏡の再興と伝えられているそうです。しかし、焼失、再建、破却による廃絶などの変遷を経ます。破却というのは、天正7年(1579年)明智光秀が周山城を築いた時、寺を壊して城の用材としたからだそうです。天和元年(1681)に京北町塩田にある曹洞宗永林寺の和尚がここに禅庵を建てたことからそれ以降、曹洞宗として堂宇整備が行われてきたようです。明治15年(1882)に福徳寺という寺名が再興されたとのこと。(資料2,3)今回の探訪はこの境内にある収蔵庫の仏像の拝見です。収蔵庫内は撮影禁止でした。入手したリーフレットの写真を一部引用し、ご紹介します。 メインは重文の薬師如来坐像です。「一木造だが割矧されている。翻波式衣紋が浅くあるが、顔相やなで肩など定朝様が強い。平安前期の技法を残した後期造立と考えられる」という仏像です。(資料3)そして、坐高が55cmと54cmという如来形坐像2躯、如来形立像、地蔵菩薩立像も安置されています。さらに、重文の二天像(増長天、持国天)です。これも一木割矧造で12世紀的特徴を持つ像です。(資料3)興味深いのは「九重のお守りの版木」です。刷り物の版木ですので現物は黒っぽくてわかりにくいものですが、今回は刷り物の写真をレジュメ資料の一部として掲載されていましたので、理解が深まった次第です。リーフレットにはこう記載されています。「九重の守というのは種子曼荼羅・仏菩薩等の画像梵文真言を多く集め木版刷りにしたもので掌に握りこめるくらいの小さな巻物で、これを持ち信仰する人は悪事災難をまぬがれると信じられている。」これだけの種類のものを凝縮してあれば、信仰心あつき人々は霊験あらたかと感じられたことでしょう。境内には、こんなめずらしい形の灯籠が置かれていました。この形は初めて見ます。 そして、もう一つ。弓削道鏡禅師の供養塔です。新しく建てられた供養塔石碑のすぐ後に見えるのが、五輪塔のような石塔です。こちらが昔からある供養塔なのでしょう。リーフレットにもこの2つが掲載されています。この福徳寺を最後の探訪地として、史跡巡りが終了しました。後はバスに揺られて、一路JR京都駅八条口側に帰着することに・・・・・。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 柳崎氷川神社 :「浮間わいわいねっと」 このページに見世棚構造概念図の説明があり、参考になります。 2)「玉泉山福徳寺(旧名弓削寺)」 拝観時にいただいた上掲リーフレット3)「京都の古寺社を巡る 24 ~周山街道の古寺~」 REC講座 レジュメ (作成 松波宏隆・龍谷大学非常勤講師)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺福徳寺 :「京都府観光ガイド」京都の桜 福徳寺 :「日本の風景 ゆきおのホームページ」仏像 :ウィキペディア 素材と技法の項に、一木造、割矧(わりはぎ)造の項目説明があります。 木彫像のお話(一木造):「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」 道鏡 :ウィキペディア 弓削氏 :「日本の苗字七千傑」 弓削道鏡 :「八尾市立図書館」日本の三大悪人・弓削の道鏡の汚名を晴らすサイト :「Web石井行政司書事務所」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・周山街道の古寺を巡る -1 小野郷・安楽寺、長福寺、大森惣墓 へ探訪 [再録] 京都・周山街道の古寺を巡る -2 小野郷・桜本寺、岩戸落葉神社、弓削郷・中道寺 へ
2017.10.15
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改めて周山街道に向かい、「岩戸落葉神社」の近くでバスを降り、ここから桜本寺に向かいます。この辺りは地図に小野郷という地名が記載されています。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。北区のまさに北端に位置し、笠トンネルを抜けると京北町になります。旧京北町は現在、京都市右京区の一部になっています。岩戸落葉神社は今回、桜本寺への通過点でした。事後学習として少しネット検索してみると、なんと源氏物語ゆかりという側面がありました。この神社、本殿が岩戸社と落葉社の二社からなるという神社です。岩戸社は小野上村、落葉社は小野下村のそれぞれ氏神だとか。「927(延長5)年にまとめられた延喜式神名帳に記載されている堕川神社と伝わり、第61代朱雀天皇の第二皇女『落葉の宮』を祭神とする」そうです。(資料1)落葉の宮は朱雀院の第二皇女。母は一条御息所です。『源氏物語』では柏木と結婚。しかし、柏木は落葉の宮の妹、女三の宮に思いを寄せていて密通することになります。この落葉の宮は病にかかった母一条御息所に付き添って小野の山荘に隠棲します。柏木は落葉の宮のことを夕霧に託してなくなります。夕霧は小野の山荘に見舞いに訪れ、言い寄られた落葉の宮は夕霧と一夜を過ごすことになります。御息所の死後に、落葉の宮は夕霧と結婚するのです。源氏の死後、落葉の宮は六条院の夏の町に迎えられることになります。この落葉の宮が母とともに神社の近くに隠棲していたというストーリーです。(資料2) 桜本寺に向かう途中で、道端でおもしろい彫刻を見つけました。近く彫刻家がお住まいなのかもしれません。神社から10分くらいだったでしょうか。民家のすぐ傍にお堂が建てられています。この「桜本寺」も地元の人々が維持管理され、普段は閉ざされているお寺のようです。冷泉天皇陵の所在地「桜本寺乾原」の桜本寺と伝わるお寺です。 拝見したのは十一面観音立像として伝わり、「顔相は定朝様に属する。身躯部はやや豊かな肉付きとする。その優美さから都の仏師による平安後期の造立と推定される」仏像です。(資料3) 桜本寺のすぐ近く南方に段状になった土地があり、一部畑になっていて、そのつづきに小型の五輪塔が中央に置かれた土壇が見えます。江戸時代にはここが冷泉天皇の陵墓とされていたといいます。 この後、京北町にバスで移動。道の駅「ウッディー京北」のところで昼食休憩してから、「周山廃寺」を探訪しました。地図(Mapio)はこちらをご覧ください。 周山街道に面した道の駅の裏手(西側)を「弓削川」が流れています。 この弓削川が道の駅から5分くらい南の地点で、北東から流れてくる桂川の上流と合流するのです。合流地点近くからみた桂川(上)と弓削川(下)です。 この弓削川と桂川の合流地点の傍を周山街道が通っているわけです。周山街道の東側に丘陵が広がっています。丘陵の先端の上までまず登りました。林の間の広がりの土地に古墳が発掘されていると言います。その南斜面下に、周山中学校があり、校庭のつづきの場所にかつては東西に伽藍が展開されていたのです。 ここら辺りが、「周山廃寺跡」です。東堂址と推定されている場所レジュメに添付されている「周山廃寺跡遺構配置図」を参照しますと、北堂址、西堂址、塔址、南門址の位置も確認されており、かなりの規模の伽藍が東西に展開していたようです。奈良時代前期に創建され、平安時代まで存続していたお寺です。今は礎石が残るだけです。ここから弓削郷に再びバスで移動。京北町役場や道の駅がある周山の北、周山街道沿いの地名を見ると、五本松、塩田・井崎、そして下弓削、下中、上中、上弓削となります。丹波国桑田郡弓削郷。この地には、奈良時代末期に政権の座を占めた弓削氏出身のあの弓削道鏡にまつわる伝承が残っている土地です。その後、長講堂領の弓削荘(平安末期)→神護寺領(後醍醐天皇の時代)→天龍寺領(光厳天皇の時代)→土豪宇津氏(戦国期)→明智光秀の支配という変遷を経た地域です。まずは「中道寺」を訪れました。場所はこちら地図(Mapion)をご覧ください。 寺に向かう途中で弓削川を渡ります。 中道寺は真言宗御室派。山号は南光山。天平勝宝3年(751)に孝謙天皇の勅願により創建されたと伝わっているそうで、もとは弓削八幡神社の神宮寺だったとか。八幡宮社は弓削川と周山街道をはさみ、その西側に位置します。霊元天皇の寛文12年(1672)に嵯峨大覚寺の直末となり、寺号を中道寺と改称したそうです。その後、昭和14年に住職遷化の後、廃寺同様の時期を経て、昭和36年(1961)に真言宗御室派に転派したという変遷があるようです。(資料4)お寺の本堂で由緒などの説明を受けた後、南側にある収蔵庫を拝見しました。収蔵庫中央に、一木造の増長天立像が安置されています。平安中期造立という推定。 よく見ると、わずかですが彩色の跡が残っています。その後に、八幡宮社から明治の神仏分離令により移された本地仏群が安置されています。この収蔵庫には、左から十一面観音菩薩坐像、阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像の順に安置されています。「体躯の張りや顔相の厳しさから鎌倉時代造立と推定されるが、一木で衣紋を簡素にするなど神像彫刻との関連がうかがえる」仏像です。(資料3)これら本地仏は、宝暦12年(1762)の文書から、中殿に阿弥陀如来坐像、左殿に薬師如来坐像、右殿に十一面観音菩薩坐像が安置されていたことがわかっているそうです。中道寺の御詠歌をご紹介しておきます。 ありがたや 障りを除く中道寺 福寿のちかい 南無増長天序でに、ちょっと気になってきたのが「周山」の謂われがどこにあるのか、という点です。地図を見ても、周山という山があるわけでもなさそうなので・・・・これも、少しネット検索してみました。京都市右京区北周山町に「周山城址」があるのです。ここは天正7年(1579)に明智光秀により築城されたそうで、もとは縄野と呼ばれていた土地だとか。「光秀は自らを周の武王になぞらえて周山と改めたといわれている」という説明に出会いました(資料5)。これが周山という名称の謂われかもしれませんね。中道寺の後、周山街道を横断し、八幡宮社の探訪になります。つづく参照資料1) 源氏物語ゆかりの 岩戸落葉神社のイチョウ :「京都市都市緑化協会」 岩戸落葉神社(京都市北区) :「京都風光」2)『源氏物語必携事典』秋山・室伏=編 角川書店 p1873)「京都の古寺社を巡る 24 ~周山街道の古寺~」REC講座 レジュメ (作成 松波宏隆・龍谷大学非常勤講師)4)「真言宗御室派南光山中道寺」 拝観の際いただいた案内資料5) 周山城址 :「京都府観光ガイド 京都府観光連盟公式サイト」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺中道寺(京都市右京区京北) :「京都風光」京都市右京区: 中道寺 :「京都府:歴史・観光・見所」京北町 :ウィキペディア 周山町 :ウィキペディア 本地垂迹 :ウィキペディア 本地仏 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・周山街道の古寺を巡る -1 小野郷・安楽寺、長福寺、大森惣墓 へ探訪 [再録] 京都・周山街道の古寺を巡る -3 弓削郷・八幡宮社、福徳寺 へ
2017.10.14
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2013年10月中旬に、REC講座の「京都の古寺を巡る 24 ~周山街道の古寺~」という現地史跡探訪の講座を受講しました。京都洛北のさらに奥を巡るためチャーターバスによる移動です。地名で言いますと、京都市北区の北の端から京北町にかけての地域をバスで巡ったことになります。いつでも手軽に行って拝観できるという寺ではないところが組み込まれているため、こういうチャンスは私にはうれしい限りでした。受講当日のレジュメ他を参考に、事後学習の整理を兼ねて探訪記にまとめご紹介したものをここに再録しご紹介します。(再録理由は付記にて)国道]162号線の一部が周山街道という名称で親しまれていて、京都府の北の幹線道路になっています。調べて見ると、京都市右京区の西大路五条交差点を起点にして敦賀市の坂の下IC交点までが162号線と呼ばれています。その中で、京都市右京区の福王子から小浜市街までの区間が「周山街道」と呼ばれるそうです。周山街道という名称は知っていても、それ以上のことは今まで考えてはいませんでした。京北周山地区に通じるところから周山街道という名が付けられたようです。(資料1)今回の古寺探訪は、かつては小野郷、弓削郷と呼ばれた地域です。まずは小野郷から巡っていきました。清滝川の谷間を北上して行くと中川を経て小野に至ります。清滝川の上流と雲ヶ畑川の流域に開かれた山村群のあるところが小野郷と呼ばれている地域です。「平安時代には主殿寮領。また一部は寛治年中(1087-94)に仙洞(上皇)御所へ節器を調進する供仕所となった。産業は林業が主体となり、木地師の始祖とされる惟喬親王の終焉の地と伝わる」ところです(資料2)。まず最初に訪れたのが、小野郷の東北、大森町です。ここに所在する「安楽寺」を拝見しました。安楽寺の所在地はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。現在はこの本堂が一つ建っているだけです。真言宗の安楽寺。金輪山小野院。村の人々が維持管理されていて、普段は閉められているお寺です。事前に連絡をとり予約をすると、拝見できるそうです。 お堂に上がると、向かって左に小社があり、中央に仏像が安置され、右側に僧形坐像が安置されています。薬師如来坐像はほぼ完全に一木造の仏像であり珍しいといいます。「塊量性の強い造形で、平安初期的な様式」で、「衣紋の峰が塑像風の柔らかいふくらみを持つのが特徴的」(資料1)なのです。そう説明を受けて、傍近くで拝見するとなるほどとよく理解できます。 如来坐像の斜め前に僧形坐像が置かれています。大きな目と口、額や頬に深い皺が刻まれていてちょっと特異な顔相です。ちょと頑固そうな感じがしておもしろい。背後には天部形立像が置かれています。四天王のうちのいずれか一体のようです。 右側の僧形の坐像がだれなのか?真言宗ですので空海像なのでしょうか。説明が付されていませんでしたので詳細は分かりません。堂内には神輿も置かれいました。堂内の小社の前面、蟇股の部分に菊の紋章が刻されています。 本堂前には3つの石柱が建てられています。この安楽寺は惟喬親王の創建と伝わるお寺なのです。中央の石柱には、在原業平の詠んだ歌と評されている和歌が刻されています。 忘れては夢かとそ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは調べて見ると、古今和歌集970番として所収されていて、この歌には長い詞書が付いています。「惟喬のみこのもとにまかりかよひけるを、かしらおろして、小野といふ所に侍りけるに、正月(むつき)にとぶらはむとてまかりたりけるに、比叡の山のふもとなりければ、雪いとふかかりけり。しひてかの室にまかりいたりてをがみけるに、つれづれとして、いとものがなしくて、帰りまうできて、よみておくりける」(資料3)ネットでこの和歌を調べると、丁寧な解説が載っています。ご関心があれば、こちらをご覧ください。(ミロール倶楽部さんの「古今和歌集の部屋」です) 屋根は新しく葺かれたものですが、鬼瓦に相当するところの意匠に興味を引かれました。 安楽寺から少し東北に歩むと、臨済宗の「長福禅寺」があります。寺標のある場所から右斜め上方の斜面にわずかですが宝篋印塔の上部が垣間見えます。この宝篋印塔は室町時代の建立と推定されていて、惟喬親王墓という伝承があるようです。(資料2) 道路を再び安楽寺の方向に戻り、その先に進むと山の斜面に墓が林立している場所が見えます。安楽寺の北方丘陵の先端にあたります。墓への坂道入口に建屋があり、その一面に六地蔵が祀られています。 墓の並ぶ頂上に、五輪塔が建立されています。ここが「大森惣墓」だったとのこと。惣墓というのは、庶民の個々人の墓が普及する以前の共同墓地となったところです。かつてはこの五輪塔が総供養塔として造立されたのでしょう。「応安五年壬子(1372)八月廿五日造立之」銘があるようです。私は判別できませんでしたが・・・・。 近くに石仏もいくつか置かれています。この後はバスで移動し、桜本寺に行きます。つづく参照資料1) 国道162号 :ウィキペディア 周山街道 :「京都観光Navi」 2)「京都の古寺社を巡る 24 ~周山街道の古寺~」 REC講座 レジュメ (作成 松波宏隆・龍谷大学非常勤講師)3)『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺惟喬親王 :ウィキペディア 惟喬親王 :「北河内古代人物誌」木地師 :ウィキペディア 東近江発の超大型情報 「惟喬親王伝説」を追う :「滋賀報知新聞」滋賀県東近江市「惟喬親王と木地師の里」:「古墳のある町並から」 木地師のふるさと :「近江の散策」木津惣墓五輪塔 :「石仏と石塔」 木津惣墓五輪塔 p28参照 「JR奈良線 六地蔵~木津沿線観光ガイド」:「京都府」千早惣墓の五輪塔 :「千早赤坂村」 中世群集墓遺跡からみた惣墓の成立 吉井敏幸氏 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・周山街道の古寺を巡る -2 小野郷・桜本寺、岩戸落葉神社、弓削郷・中道寺 へ探訪 [再録] 京都・周山街道の古寺を巡る -3 弓削郷・八幡宮社、福徳寺 へ
2017.10.14
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田屋城跡のある城山(稲山いねやま)の登山口には、丁寧な説明板が立っています。 説明板のある所から森西の集落側を眺めた景色 2つの説明板。田屋城跡の説明部分は後ほど当日の資料と併用して適宜ご紹介します。 登山口に立つ道標登山口から頂上までは徒歩40分程度。標高310m、丘陵の尾根の先端に田屋城が築かれていたのです。 その先に、「稲山隧道」との分岐標識が立っています。 山道をゆっくりと登って行きます。坂道にはけっこう急なところもあります。 田屋城の南東の曲輪側面に設けられた「大手口」付近の山道です。田屋城の大手口には「重枡形虎口(かさねますがたこぐち)」が設けられています。 説明板に掲示の「田屋城趾縄張図」を拡大し引用します。2014年に高島市教育委員会では、表紙に前回ご紹介した「田屋城跡を歩く」というリーフレットを発行されていて、この縄張図と要所の写真を掲載されています。このガイドマップは有益です。(資料1) 南面の竪堀に対応する突出部の続きに、「三の曲輪(伝口の丸)」があります。三の曲輪には中央を二分する土塁が設けられています。この曲輪内に休憩所が設けられています。 三の曲輪の端に「田屋城趾」碑と説明碑があり、平成3年(1991)に設置されています。まずは、ここで一休み。突出部のあたりに立ち、山上からの景色を満喫しましょう。 田屋城跡からの展望北東方向を眺めると、遠くの山並みとの間に、メタセコイア並木が遠望できます。 田屋城跡からズームアップして眺めたメタセコイア並木 田屋城跡からの展望2東方向には湖北の風景が広がります。 海津大崎桜並木や竹生島をズームアップしてみました。手前の湖岸が知内浜です。 「二の曲輪」の端、土塁上から大手口の眺め 「北の曲輪」の土塁上に回り込んで見おろした景色この田屋城は、当時は戦略的にも要衝の地だったのでしょう。北陸道と知内川に沿って若狭に至る街道を見おろす位置です。前面に海津大崎・竹生島が見え、対岸の山本山城や小谷城も遠望できるのです。南に目を転じれば、今津や饗庭野まで眺望範囲に入ってきます。今では、天気の良い日に40分ほど登れば、湖北の眺望を堪能できる絶景展望スポットと言えます。眺望の良さは、これら拙い写真からでも多少は伝わることでしょう。是非一度山城跡を見るのはついでとしても、運動を兼ねて登ってみてください。 北の曲輪(伝北の丸)当日の資料に引用されている箇所の参照になりますが、室町幕府の政所(まんどころ)執事代の書いた『蜷川親元日記』の康正6年(1456)9月10日の条に「江州海津衆」として、饗庭・新保・田屋という名前が記録されているそうです。室町時代には、この地域で田屋氏が地侍として勢力を持っていたことがわかります。江北の浅井亮政(すけまさ)は浅井長政の祖父にあたる人。小谷城初代城主となる浅井亮政は田屋氏の子を養子にし、新三郎明政と名乗らせて、正室蔵屋(くらや)との間にできた娘・鶴千代(海津殿)の婿に迎えます。亮政の嫡子・新四郎政弘は嗣子がないまま早世していたので、明政が淺井家の家督を継ぐことになっていたとか。田屋氏は淺井氏と縁戚関係を結ぶわけです。室町時代末期、佐々木定頼の命を受けた高島七頭(しちとう)と呼ばれる在地領主たちが海津を攻めたときには、淺井亮政に味方した田屋氏が山城に退いて戦ったと言います。このときのことが、京都相国寺鹿苑院主(しょうこくじろくおんいんしゅ)の記した『鹿苑日録』天文7年(1538)9月16日の条に記されているのです。「六角方、高島越中守、饗庭太郎左衛門、海津を放火。田屋氏は山城に引退。饗庭氏海津西浜に居陣。」と。これが田屋城についての初出だとされています。ところが、淺井亮政が天正11年(1542)正月に死去すると、亮政の側室尼子氏の産んだ久政との家督争いが生じます。その結果、明政は田屋氏に復し、田屋城の城主となったといいます。一説に、亮政が庶長子の久政を後継者とし、明政の姓を田屋に戻したともいいます。田屋明政は小谷城の戦いで討ち死するという生涯を辿ります。(資料1,2) 休憩後はいよいよ田屋城跡の探訪です。三の曲輪から北東方向に向かう山道の傍に、この道標があります。道標に従って少し登って行くと、かなりの広さの曲輪があります。 その奧の端に「奧ノ丸趾」の石標が立っています。ここが「二の曲輪(伝奧の丸)」です。周囲が土塁で囲まれています。 土塁上から二の曲輪を見おろした景色 二の曲輪の土塁の外、東側の山道を登ります。主郭の入口には内枡形虎口が設けられています。 「主郭(伝本丸)」を南側・虎口を入ったあたりから眺めた景色 北側の土塁の上から眺めた主郭 主郭を囲む土塁の外、東側に続く山道をさらに登って行くと途中に竪堀(たてほり)があり、土橋を渡って進みます。竪堀は「山の斜面上に縦方向に掘られた空堀」であり、「斜面を登って侵攻してくる敵の、横方向の移動を妨げる役割を持っていました。」(説明板より)主郭の北西には補助的な役割を持つと考えられる「捨て曲輪」があります。捨て曲輪の北側には、土橋をもった堀切が見られます。堀切は尾根筋を断ち切り、尾根伝いの移動を防ぐ備えなのです。主郭の北西辺の土塁の外側は、「捨て曲輪」との間に、深い竪堀が設けられています。北東側には連続竪堀が設けられ、南東側は大きな竪堀となっています。捨て曲輪側の竪堀の斜面を降り、竪堀の底で南西側を眺めた景色。画像の左が主郭側の竪堀の斜面です。この斜面が主郭の土塁として立ち上がっていきます。この斜面を登ってみて、主郭の北側の土塁上に立ってみました。縄張図を見ながら城跡を歩き回ると、田屋城の場合、その城跡が明確でありなかなかいい保存状態です。写真に撮ると山城としての状況がなかなかうまくは撮れません。「田屋城には、淺井・浅倉氏の城に共通する築城技術が用いられ、堅固なつくりとなっています。これは、淺井・浅倉氏が、織田信長の北陸方面への進出を食い止める戦略的な拠点とするために、城に大規模な改造を加えたとされています。」これは元亀年間(1570-1573)の状況です。(資料1)上記した田屋城の経緯の前後について、田屋城の略歴を補足引用しておきます。(資料1)観応3年(1352)頃 足利尊氏の侍童、饗庭命鶴丸が築城したと伝えられる(*)応永年間(1394-1428) 清原蓮廉(はすかね)が城主と伝えられる永正年間(1504-1521) 田屋淡路守が城主と伝えられる(『長法寺伝』)天文7年、元亀年間 上記天正年間(1573-1592) 田屋山城守吉頼朝臣が城主、織田信澄により廃城の伝承(*)天正10年(1582) 賎ケ岳合戦に備え秀吉の命で丹羽長秀が城の改修を行ったとされる天正18年(1590)以降 一説では、豊臣政権が実施した兵農分離政策の結果、 地侍の長としての「田屋氏」は消滅したと伝えられる (*)は『海津之城私考』という書によるとの意味です。後は下山。登山口のところで全員集合ののち一旦解散です。後はそれぞれのペースで一路JRマキノ駅帰着を目指しました。最後に、登山口のところと、少し登ったところの道標で見かけた「稲山隧道」について、関心を抱き調べてみました。これは、現在も現役として利用されているという水源確保のための隧道でした。山田川の水を森西集落に引き、水源を確保する。その目的で機械力のない明治時代に集落が一致協力して隧道を掘削するという難工事を行ったというのです。「長年にわたり協議した結果、水口善蔵氏の所有する山林を掘り貫き、新たな水源を求め」、「山田川の取水口から隧道入口まで約100m、隧道延長約200mの総延長300mの工事」を明治28年に着手し、明治33年に完成させたそうです。(資料3) ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「高島歴史探訪ガイドマップ 田屋城跡を歩く」 2014.高島市教育委員会2) 「第1回 戦国時代の湖西~田屋城」 連続講座「近江の城郭」 レジュメ 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課、高島市教育委員会 作成、当日配付資料3) 稲山隧道(いなやまずいどう):「滋賀県」 ⇒ 2017.10.13時点でアクセス不可【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺田屋城跡 淺井氏 :「戦国大名探究」解説 トンネルの話 岩本太郎氏 7ページに稲山隧道について言及されています。蜷川親元 :「コトバンク」蜷川親元日記 :「コトバンク」越中家(高島)と能登家(平井)の系譜―高島七頭(1) :「佐々木哲学校」高島氏 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 JRマキノ駅から田屋城跡へ -1 マキノ・マキノ資料館・長法寺(田屋館跡)・森西地区 へ
2017.10.12
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2015年10月15日(日)に、連続講座「近江の城郭」の第1回「戦国時代の湖西~田屋城」に参加しました。この行程記録をまとめたものをここに再録してご紹介します。当日は、午前中マキノ公民館にて、「戦国時代の湖西」(仲川靖講師・県文化財保護課主幹)についての講義を拝聴し、公民館で昼食休憩後、現地見学という日程です。冒頭の写真は、JRマキノ駅の建物を出て、右方向バス停車場に近い側にあるモニュメントです。台座の部分に「”四季遊園”マキノ」という標題の説明銘板が嵌め込まれています。マキノはカタカナ表記。「日本初、全国に2つしかないカタカナのまち」として、「マキノ町」と名づけられました。その町名の由来が記されています。1955年に4つの村が合併し町制施行をする際に、当時関西屈指のカタカナ名スキー場として「マキノスキー場」が有名だったことから、これにちなんで公募決定したのだとか。新町発足当時、全国唯一のカタカナの町名だったと言います。北海道の狩太村が町名改正の運動をして、2度目の運動の結果、1964年に全国で2番目のカタカナのまち「ニセコ町」が誕生します。(資料1)1978年にマキノ町はニセコ町と姉妹都市提携を結んだと銘板には記されています。マキノ町は、今津・安曇川・高島・新旭の4町と朽木村とともに、2005年に高島市として再編されてています。(資料2)ちょっと脱線ですが、現在「市政下」の町域名としてのカタカナ名称は結構あります。マキノ町はその一つになった訳です。こんなのがあるようです。青葉区ニッカ、アルカディア、インターパーク、スバル町、プラザ、ハイランド、グリーンハイツ、トヨタ町、ダイハツ町、セメント町、エミネント葉山町などです。これらの町域名がどこに所在するか、わかります? 答えは参照資料をご覧ください。(資料3)尚、現時点で存在するカタカナ市名は山梨県の南アルプス市だけのようです。(資料4)この地図は当日入手した「高島歴史探訪ガイドマップ 田屋城跡を歩く」(2014.高島市教育委員会発行)というリーフレット表紙から引用しました。まず最初に目指すのは、マキノ公民館です。この地図には「マキノ土に学ぶ里研修センター」と記されているところです。JRマキノ駅前の通りから国道161号線を西方向に少し歩くと、知内川が見えます。道路を横断し、川沿いに少し北方向に歩き、上流側の橋からマキノ公民館に向かいました。 北西方向に遠望する「メタセコイア並木」の南端側です。この並木道は「ピックランド」というバス停傍から「南牧野」のバス停を通過し、北牧野集落の手前まで続くようです。午前中の講義を聴講した公民館です。講義受講後、会場あるいは周辺で昼食休憩タイムとなりました。マキノ公民館の斜め前方に、高島市立の「郷土文化保存伝習施設マキノ資料館」があります。入場無料です。午後の集合時刻までの休憩タイムを利用して、資料館を見学しました。 館内には、民俗資料として、道具・民具類が多数展示され、パネルで詳しい説明が掲示されています。昔のくらしを髣髴とさせる道具類、なつかしいものが沢山! マキノ町の歴史ついて、縄文時代から始まるパネル掲示が写真やイラスト入りでわかりやすく説明されています。一隅にはこんなものも展示されています。「八八式偵察機」のプロペラです。 施設の背後・西側の道から田園の中の道路を西方向に。 振り返ると、図書館・公民館などの文化・運動施設エリアなのです。 まず、マキノの沢の集落に入ります。長法寺の境内を眺めたところ。本堂の近くに、駒札が立っています。このあたりが「海津衆田屋氏の居館跡」なのだとか。つまり、田屋氏が戦時には本拠地としたのが、この後に向かう、西方向にある城山(稲山いなやま)の山上に築いた田屋城(跡)なのです。本堂の左側から本堂背後に回り込みます。午後の現地見学では、県文化財保護課の松下浩講師の説明を拝聴しました。説明を聞きながら写真を撮ったのがこれです。寺の北東角に土塁の痕跡と思われる土盛が残っているのです。こういうのは画像ではなかなか解りづらいと思いますが、やはり現地で説明を受けると、なるほど・・・・という感じです。南北にあったと伝えられる土手石垣の痕跡だといいます。(駒札)「寺伝によると、マキノ町沢の北東にあった道場を移転し、承応元年(1652)に田屋氏の館跡に長法寺」を建てたとされ」(資料5)ているそうです。現在の長法寺に塀はなくオープンな形のままです。 本堂には山号「天文山」の扁額が掛けられています。真宗大谷派のお寺。本尊は阿弥陀如来。天文4年(1535)宮島四郎兵衛が十代證如上人より得度をうけ、釈道念となり一宇の道場を開いたのが長法寺の始まりだそうです。お寺は江戸時代、寬文3年(1663)に五世が再建されたといいます。ところが、1928年5月の大火で全焼。平成5年(1993)に再建されたのです。(本堂再建竣工記念碑、資料6) 向拝の蟇股と木鼻はシンプルな造形です。 境内にある鐘楼の斗供や大瓶束の部分の彫刻は堂々としたものです。こちらは幸いにも大火の難を逃れたのでしょうか。そんな印象を受けます。 浄土宗の「光明寺」前の道を通り、森西地区に向かいます。 「沢西口」バス停を過ぎると、 その先が「森西 薬師堂」の扁額を掛けたお堂があり、その近くに「森西」バス停が見えました。調べてみたところ、現在のお堂は2005年12月に竣工したそうです。この薬師堂は高島西国第8番札所だそうです。もとは大處(おおところ)神社の奧の院として慶長年間(1596-1614)以前に建立され、戦国時代の田屋城の守り本尊だったといいます。廃城の際に地元の庄屋に託されこちらに移設されたのです。築100年余り経ち老朽化著しいことと市道拡張ということもあり、さらに移動しての新築工事の結果が現在に至るようです。ここにも田屋城と関わりのあるものが地元の人々により継承・維持されているのです。 「大處神社」を川の向こうに眺めつつ、浄土宗の「極楽寺」の前を通り過ぎます。ここまでのお寺の門前を通り過ぎてきたことで、ふと感じるのはどの寺にも築地塀や囲いの塀が設けられていずに開放的なことです。これはマキノの風土なのでしょうか。「大處神社」も通過点でしたが、その由緒は天智9年の創祀で、式内社。祭神は大地主神、則ち大国主命の荒魂を祀るといいます。「この地は往古の高島郡十郷の一で、大処郷と伝えられ、その総社である。」(資料8)とか。森西バス停と極楽寺の少し東方で、マキノ町の森西地区と沢地区が南方方向で接しているのですが、事後に入手資料を読んでいて沢地区側に2007・2008年度の発掘調査で「極楽寺遺跡」が確認されているそうです。倉庫とみられる総柱の建物遺構が検出されたようです。(資料9)城山への道を進みます。 「田屋城趾」の方向を示す道標が立っています。つづく参照資料1) ニセコ町100年史・記念誌 :「北海道ニセコ町」2) 変遷(沿革) :「高島市」3) カタカナ町村名 :「通信用語の基礎知識」4) カタカナ市名 :「通信用語の基礎知識」5) 「第1回 戦国時代の湖西~田屋城」 連続講座「近江の城郭」 レジュメ 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課、高島市教育委員会 作成、当日配付資料6) 長法寺 ← 近江第25西組 :「真宗大谷派 京都教区」7) 「薬師堂」完成、御開帳と本尊披露 高島市、元日から3日間 :「琵琶湖生活」8) 大處神社(オオトコロ) :「滋賀県神社庁」9)「高島遺跡散策マップ -マキノ地域編-」(2014 高島市教育委員会)リーフレット【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺マキノ高原 ホームページ キャンプ場、スキー場などのページあり。マキノ高原 :「高島市観光情報」マキノ資料館 :「高島市」八八式偵察機 :ウィキペディア海津衆 田屋氏と江北淺井氏 高島市歴史散歩No.71 広報たかしま No.126 この記事を読むと田屋氏と淺井氏が縁戚関係で強く結ばれていたことがわかります。田屋明政 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.10.11
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赤色の丸を付けた登山口から、マゼンダ色の丸の方向に歩いて行く風景です。路傍には地蔵石仏が置かれています。この部分拡大図は当日の配布資料に掲載の探訪予定行程図から切り出したもの。地図上の番号10は、「七廻り」と称される山道の箇所です。(資料1)この細い道を歩いていると、JR湖西線の線路を列車が通り過ぎていきます。 マゼンダ色の丸の地点から紫色の丸の地点に歩き始めて、しばらくして、歩いてきた道を眺めた景色がこれです。山裾を廻る細い道は、「旧西近江路」なのです。 手前の段々畑の石積みの先、道の傍に白い点として写っているのが、この地蔵石仏です。一旦、少し戻ります。旧西近江路から琵琶湖を眺めた風景がこれ。手前に乙女ケ池があり、その中央に太鼓橋が架かっています。 マゼンダ色の丸の所には、「旧西近江路」の標識と万葉歌碑、そしてここからの景色を絵図にした案内碑が設けられています。万葉仮名による歌碑とその万葉歌の説明碑が建てられています。ここにあるのは、「万葉集」巻7の1172番目の歌です。 何処にか舟乗しけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る船JR湖西線の線路の手前、紫色の丸の地点が、今回の探訪の解散地点となりました。JR近江高島駅は、ここから線路沿いに歩くのが最も便利ですので。一方、さして急ぎでない参加者は、オプションとして乙女ケ池・大溝城跡を案内いただきながら、駅に向かうこととになりました。何度か訪れている場所ですが、季節も時も異なるので、オプションに参加し、久しぶりに静かな景色を楽しみました。 湖西線のガードをくぐったところ、青色の丸の地点から南方向の景色です。道が二つに分岐しています。湖西線に近い、一段高い道幅の広い道路は、かつての「江若(こうじゃく)鉄道」の線路跡なのです。江若鉄道は、滋賀県大津市の浜大津から、湖西岸に沿って近江今津までの区間で経営された鉄道路線でした。初めは、近江と若狭を結ぶ目的で設立された鉄道会社なので、「江若」という名称が冠されたそうです。1920(大正10)年に三井寺下~叡山の区間6kmで路線が開業され、1969(昭和44)に全線廃止となった路線です。(資料2) 今回の参加者には、実際にこの江若鉄道を利用していたという方も参加されていました。 乙女ケ池 中央太鼓橋に至る少し手前からの南方向の眺め 中央太鼓橋は改修工事の最終段階のようでした。乙女ケ池については、先般こちらに再録したご紹介記事があります。改修工事以前に訪れた時に写真を撮ったものを載せています。写真を撮った位置や角度は異なりますが、今回の画像と併せてこちらからご覧いただけるとうれしいです。 ( 探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -2 大溝城と乙女ケ池 へ ) 今回改めてこの池を眺め、可愛らしい名称はいつ頃から使われ始めたのか? ということが気になりました。改めて案内を読み直すと、なんとちゃんと記載があります。「昔は洞海(どうかい)と呼んでいたが、昭和初期、淡水真珠の養殖場として利用された頃から『乙女ケ池』と呼ぶようになった」のだとか。 乙女ケ池から眺めたこの山並みの中に、謎多い長法寺遺跡が眠っているのです。 池の畔で猫が出迎えていてくれました。 万葉歌碑「万葉集」の巻11に収録されている一首です。「物に寄せて思(おもひ)を陳(の)ぶ」という項に収録されています。(資料3) 大船の香取の海に錨(いかり)おろしいかなる人か物おもはざらむ 2436折口信夫は、この歌を 大舟の香取の海に碇下し、如何なる人か物思はざらむ と記して、次のように口訳しています。「恋ひをして、物思ひをするのを、人は笑ふが、香取の海に碇をおろすのではないが、一体如何なる人が、物を思はないで居るんだろうか。恋してゐて。」(旧漢字を現代の漢字に代えています)(資料4)「香取」というのは、「近江国高島郡に香取ノ浦あり」とだけ、折口は記しています。(資料5)香取の浦の位置を特定した資料は調べてみた範囲では見つけられませんでした。少し脇道にそれます。巻11全体を改めて眺めて、初めて気づいたことです。ここの項目が次の様に並んでいて、歌がそれぞれに収録されているのです。「旋頭歌」「正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶ」「物に寄せて思を陳ぶ(*)」「問答(もにたふ)」「正に心緒を述ぶ」「物に寄せて思を陳ぶ」「問答」「譬喩(ひゆ)」万葉集を編纂するときに、出典毎に、意識的に同じ見出しで別項としているということなのでしょうか? このような編さんの意図はなぜという課題が残りました。意識的にアスタリスクを追記した見だしのところに、2436の歌が収録されています。この歌の載る項には、私の地元である宇治に関連する「木幡路」「木幡の山」「宇治の渡」「是川(うじがわ)」「三室の山」を詠み込んだ歌も載っています。近江に関わる歌は次の歌がこの項に収録されています。 淡海の海おきつ白波知らねども妹がかりといはば七日越え来む 2435 淡海の海おきつ島山奥まけてわが思ふ妹が言の繁けく 2439 近江の海おきこぐ船に錨おろし蔵(をさ)めて君が言待つ吾ぞ 2440 淡海の海沈(しづ)く白玉しらずして恋せしよりは今こそ益れ 2445 乙女ケ池は、立ち位置によりその景色を様々に味わうことができます。天候に恵まれると、季節季節の趣を楽しめる内湖です。下の画像の「北側水上桟橋」を経て、大溝城跡に進みます。最初に見えるのが南面の石垣です。 西面 南面 石垣の南西角付近から、石垣を撮りました。 西面の石垣北端に説明板があり、その右側に石段があります。大溝城は、明智光秀が縄張りをしたと伝わります。安土城築城と同時期の築城です。そして初代の城主が、織田信長の甥である織田信澄です。信澄は光秀の娘婿であったため、本能寺の変後に、織田信孝らにより謀反の疑いをかけられ自害した人物です。大溝城は秀吉の命を受け、京極高次が継承します。その後も城主が交代しますが、江戸時代初期・元和元年(1615)、一国一城令により大溝城は破却され、廃城となります。元和5年に分部光信が大溝藩主として移封されて着任します。彼は、この大溝城の三の丸付近に陣屋(屋敷)を構えて、藩主を務めたのです。織田信長の時代、信長の戦略には琵琶湖の水運を活用し、安土城を基軸として長浜城・大溝城・坂本城という4つの水城を連携させる構想があったようです。淺井三姉妹の一人、お初が京極高次と新婚生活の時期をこの大溝城で過ごしたことが駒札に記されています。 天守台の北側 天守台の南側石段を登り「天守台跡」から四方を眺めると、この大溝城の位置づけがわかることと思います。南には内湖があり、東は琵琶湖です。城下は北と西に広がっています。かつては、陸路と湖上交通の要衝の地であったことがよくわかります。 北面の石垣を西側から撮った画像と、天守台東から石垣の北東隅を撮った画像です。 天守台北側の堀跡外を回り込みます。 北東から天守台跡の石垣を眺めると・・・・ この画像は、天守台跡から東側に下りて、石垣の東面を撮ったもの 「大溝城三の丸跡」の石標が建てられた傍を通って、冒頭地図のオレンジ色の丸の交差点に出ます。北方向の角には広場とモニュメントがあります。 そして、道路の南側には「分部(わけべ)神社」があります。祭神は分部光信。大溝藩主の第一代です。この神社自体は、明治11年に公許され、明治13年に落成したそうです。この神社のあるあたりも、三の丸跡地だったようです。元和5年(1619)8月に分部光信が伊勢国上野城(2万石)より、この高島の地に、大溝藩主として移封されます。近江の高島・野洲二郡のうちに2万石を所領としたのです。それ以来、分部家がこの大溝藩の藩主として断絶や移封もなく、幕末まで継続します。(資料6,7)藩祖としての光嘉、そして第2代の嘉治から第12代光謙もまつられているようです。光嘉使用の槍穂先と光信着用の具足が神宝として保存されているといいます。(資料8)ということで、JR近江高島駅に戻ってきました。 レンガ積みの城では小人の兵士たちがラッパを高らかに吹き鳴らしています。そして、ガリバーが何艘もの船を、よいしょと束ねて引っ張っているのです。このシリーズの冒頭に載せたガリバー像に戻って重ねてイメージしてみてください。消滅した「eo blog」に元の探訪記事を載せたときに課題として残ったことについて、後に調べて追記(2015.5.8)した事項があります。次の点です。一つは、「勝野」について。現在使われているこの地名は、勝野浜、勝野津、勝野鬼江などと記された古代地名に由来するということです。「勝野鬼江の位置は鴨川の南、現在の勝野周辺に比定される」とのことで、乙女ケ池が勝野鬼江の名残だそうです。そして、「香取の海」「香取の浦」という語句が、どのあたりをさすのか? この記事を書いていたときには、調べた範囲では分かりませんでした。しかし、「勝野の海は歌枕としては香取浦ともよばれ」という説明をみつけ、これもすとんと腑に落ちました。(『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』平凡社 p1107)もう一つは、分部神社の祭神について。最終的に当神社では藩祖光嘉公、大溝藩初代光信公以下、光謙公までの13柱を祭神として祀られているということが確認できました。(最終的に、びわ湖高島観光協会に問い合わせて、再確認の労をとっていただけました。感謝です。)ご一読ありがとうございました。参照資料1) 探訪[大地の遺産]「湖西明神崎に石造りの寺院跡を訪ねて-長法寺遺跡-」 当日配布の資料 滋賀県教育委員会 高島町観光ボランティア協会 協力:高島市教育員会2) 江若鉄道 :ウィキペディア3) 『新訂 新訓 万葉集 下巻』 佐々木信綱編 岩波文庫 p134) 『折口信夫全集 第五巻 口譯萬葉集(下)』 中公文庫 p165) 『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辭典』 中公文庫 p1136) 分部神社 :「滋賀県神社庁」7) 大溝藩分部家について 8) 大溝藩 分部家 デジタルブック「高島今昔旅 20015年4月」:「びわ湖高島観光協会」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺万葉歌碑 :「高島市観光情報」万葉歌碑 万葉人の息吹が残る町 :「滋賀県」江若鉄道写真集 :「鉄道趣味 高急グループのページ」江若鉄道 :「思い出の車窓から」分部氏 :「武家大名録」分部氏 :「戦国大名探究」滋賀県高島市 大溝藩分部家墓所 :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」上野城と分部氏の活躍、そして転封 :「歴史の情報蔵」万葉歌碑 デジタルブック「高島今昔旅 20015年4月」:「びわ湖高島観光協会」城跡 デジタルブック「高島今昔旅 20015年4月」:「びわ湖高島観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -1 日吉神社・打下城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -2 馬の足跡・下の鼻打・鉄塔下 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -3 長法寺遺跡・長法寺城跡・蓮池・登り口 へ
2017.10.10
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鉄塔下から山道をしばらく下ると、木に「長法寺跡」の標識が付けられていて、木の傍に、「長法寺跡入口」という標識も置かれています。当日配布された資料に掲載の「長法寺跡全体図」を借用します。(資料1)赤色の丸を付けた地点が、上掲の入口標識のあるあたりです。 地図に点線で示された山道を下っていきます。 平に開削された寺域や、石組みの区画、数段に積まれた石積みが見え始めます。この辺りが、地図に「坊跡Ⅴ」と表記されたところです。石組みの区画は「水枡」だそうです。広い区画に入って行くと、ポツンと格狭間(ごうざま)をもつ石塔の基壇があり、その上に「僧坊跡」と表示板が置かれています。 進んだところに、「長法寺跡」の説明板が設置されています。(地図にマゼンダ色の丸を付けた場所)平安時代に、伝教大師最澄が比叡山延暦寺を開き、江戸時代には「比叡山三千坊」と称されるほどに栄えたのですが、信長の比叡山焼き討ちとその後の近江における戦でかなりの壊滅を受けたようです。この長法寺は、享保19年(1734)に編さんされた『近江輿地志略』には、「高島七ケ寺の第一」と記されているのです。膳所藩士だった寒川辰清(さむかわとききよ)はこう記しています。「・・・・比山を長寶寺山と云、往古長寶寺と云寺ありて、高島七ケ寺の第一として、山門三千坊の一院と云、何れの日か寺廃して城址となり今は城も亦旧墟となる。又此邊に高島七ケ寺の其の一つ世喜寺と云寺院もありしとなん。今は其跡だにも知る人なし」と。(資料2)長法寺の創建や廃絶の正確な時期は不明のようですが、既にご紹介した山麓の日吉神社の社伝では、日吉神社が嘉祥2年(849)に山王権現を勧請し、長法寺の鎮護神とされたとされています。また、説明板にも「比叡山護国縁起」に、嘉祥2年と記されているそうです。つまり、9世紀の半ばには創建されていたようです。一方、弘安3年(1280)の裏書がある『近江国比良庄絵図』に長法寺と記された堂が描かれているとのことです。また、『高島郡誌』には、文明3年(1471)11月の売券に「長法寺大品坊」という記載があるそうです。長法寺の記録としてはこれが現在最後のものだとか。そして、伝承では元亀3年(1572)の信長軍による焼き討ちで長法寺は灰燼に帰して、廃絶したと伝えられているのです。ただし、本堂跡の礎石には、焼き討ちがあったなら残るはずの熱をうけた痕跡は調査結果からは認められないそうです。(資料1)長法寺は謎多き寺ということになります。この画像の辺りが、「本堂跡」と推定されているところです。苔蒸した礎石が一列に並んで残っています。長法寺の本尊は、平安時代後期に造像された木造薬師如来坐像で、この像が高島市音羽にある長谷寺に伝来したそうです。そして、今は琵琶湖文化博物館に収蔵されているのです。こちらからご覧ください。(資料3) 本堂跡の東側、山側に「庭園跡」があります。 ところどころに、僧坊跡の標識が置かれたり、木に掛けられたりしています。 ほぼ南北方向に直線的な幅広の通路が4本作られ、石垣が築かれています。説明を受けた後、本堂跡の位置から、地図に道Ⅱと表記された中央のメインストリートを主に使って、しばらく自由に散策しました。この石垣はその辺りで撮ったものです。 自由散策の時間が限られていたので、どこの坊群のどの位置で撮った写真か、定かでないものがありますが、広大な寺域であり、丘陵地の斜面を広々とした平坦地を段々状に開削して、坊舎が建てられていた状況を想像すると、なぜこんなところにこれほどの巨大な寺が造営されたのか、不思議でなりません。これらの石垣・石塁は室町時代後期頃に造られたようです。それでも、信長が安土城の石垣を築く以前に築かれていた寺院石垣として、先行しているのです。安土城に先行して石垣が多用された観音寺城の石垣と、石積みの技術面では共通点があるといいます。(資料1) 坊群Ⅰのあたり 谷底の平坦地に造られた坊跡のところのようです。今では湿地のような状態になっています。この坊群Ⅰの南方向に、小丘が眺められます。(青色の丸のところ)ちょっと遅れて、説明の後半を聞きました。 この小丘あたりが、長法寺の南端になるそうです。この小丘の上が「伝鐘楼跡」と言われるところ。ただし、礎石や建物跡は見つかっていないとか。「境内の南側入口に位置しており、ふもとからの参詣道が横を通ることや、周辺の区画かが造成された際、ここだけが削り残して高まりとしていることから、寺院にとって重要な意味を持つ場所であったと考えられます。」(資料1)坊跡の平坦地には石が点在しています。 坊群Ⅰ・Ⅱの近くの道沿いで見た石垣や巨石 坊群Ⅲ辺りで眺めた石垣や平坦地 説明板の近くで集合して、西尾根地区から東尾根地区の方に向かいます。遺跡を散策し、高島郡の山中にこれだけの大きな寺域を持ち、伽藍が林立していたことを考えると、比叡山延暦寺の勢力がどれほど巨大に広がっていたのかが想像できます。 途中、小川があります。 小川の傍に、手水鉢にでも使われていたのでしょうか、上面が円形に穿たれ、その面が斜めに傾いたまるい石があって、おもしろい景色でした。 道を下ると、標識が建てられています。道を進むと、「長法寺城跡」です。「堀切」のところを通過していくことになります。もともと、この「長法寺城」は「寺院の区画を郭に改変して城郭としたもの」のようです。(資料1)今回は横目に見ながら、素通りしていきます。(黄緑色の丸のところ、前回の地図なら番号5あたり)事後学習として、この長法寺城についてもネット検索で調べてみましたが、具体的な情報の少ない山城です。ただ、上記の『近江輿地志略』には、長寶寺に触れている直前で触れています。「古城址」という見だし項目で、「大溝分部氏邸の四五町上の山の頂にあり、本城一二の郭は址今に存す。此城は高島玄蕃允居城の址なりと云、」と記しているのです。(資料2)探訪してきたように、長法寺遺跡は、標高約320~370mの南北に伸びる尾根から谷にかけて、段状に多数の平坦地が開削されています。東西約250m、南北約250mという範囲の寺域を持っていたのです。「墓塚跡」という標識を目にしましたが、ここもパス。少し下ると、長法寺跡まで0.5kmという標識や「是より打下山」という標識を目にしました。 蓮池 蓮池(オレンジ色の丸からさらに下ったところ)の傍で、こんな水溜まりができています。猪や鹿などのしわざでしょうか。 七町坂・七廻りと呼ばれる山道を下って行きます。 林間から湖が見え始めます。七廻りの曲折途中の木の根元に「権田」という表示板を目にしました。山道を下ったところ、こちらにも金網の柵(獣害柵)が設置されています。そこに登山口としての入口の扉があります。通行後はしっかり閉めておくことが必要です。こちらの登り口からだと、長法寺跡まで約90分の所要時間です。 少し下ると、この標識が設置されています。この登山口に至る山裾の幅の狭い道は「旧西近江路」です。つづく参照資料1) 探訪[大地の遺産]「湖西明神崎に石造りの寺院跡を訪ねて-長法寺遺跡-」 当日配布の資料 滋賀県教育委員会 高島町観光ボランティア協会 協力:高島市教育員会2) 近江国輿地志略. 下(巻49至100):「近代デジタルライブラリー」 巻之九十二 高島郡 159/241コマ目に記載があります。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9527673) 木造薬師如来坐像 高島市 長谷寺所蔵 :「琵琶湖文化博物館」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺『近江輿地志略』 樋爪 修氏 滋賀文化財教室シリーズ[231] 滋賀県文化財保護協会『長法寺跡 -高島市鵜川-』埋蔵文化財活用ブックレット3 (近江の山寺3) 滋賀県教育委員会・高島市教育委員会 編集 文化財保護課 製作・刊行 (今回の配付資料はこの冊子をソースにしたコピーが中心でした。)新近江名所圖会 第164回 山の中につくられた謎多き寺院 -長法寺跡-:「滋賀県文化財保護協会」高島市の長法寺城遺跡が掲載されている資料を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」近江にあった打下(うちおろし)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -1 日吉神社・打下城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -2 馬の足跡・下の鼻打・鉄塔下 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -4 解散地点・オプション(乙女ケ池・大溝城跡・分部神社)へ
2017.10.09
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打下城跡(中主郭部)から青丸の分岐点に戻り、長法寺遺跡への山道を進みます。 山道沿いにはごつごつした岩があり、 標識が各所にあります。先に少し視界が良くなり始めて、「馬の足」という標識が見え始めます。(番号2のところ)「馬の足跡」と呼ばれる巨石です。 巨石の前にある木の根元に近いところ、その背後の岩の箇所に、馬の脚形に似た模様が見え、まさに馬の蹄の形を思わせる自然の形状ができているのです。案内表示だけでもすぐには気づけない感じでした。よくもまあ、この「馬の足」を巨石の一隅に見つけたものです。 山道を進むと、 「下の鼻打」の表示があります。おもしろい地名! ここが峠「下の鼻打」です。この標識のところから少し登ると、琵琶湖の眺望がすばらしいのです。 登ったところはそこそこの平地になっています。頭上を送電線が通っていますが、一気に眺望が開け始めます。 平地に立ち、左方向には遠くに連なる山並み。まだ雪を冠した山並みが見えました。天気が良いともっとすばらしい山の眺望を楽しめるはずです。送電線より、右方向には湖西の琵琶湖が一望できます。 平地の先端部に近づくと、眼下に近江高島の地域、大溝城跡や乙女ケ池、そして湖西の湖岸が見えます。こちらの地図(Mapion)で、位置関係を対比してみてください。未だ残雪が見られる山道を先に少し進むと、 鉄塔下(番号3のところ)に出ます。ここがもう一つの分岐点になっています。私たちが登ってきたJR近江高島駅からの道、この分岐点で「見張山」「ろくわ石」に向かう道と、私たちが向かう「長法寺遺跡」への道です。資料によれば、寺跡から先ほどの「下の鼻打」峠までは約20分の上り坂と記されていますので、ここから寺跡に向かうのは楽勝です。この鉄塔下の広い平地で昼食休憩となりました。昼食後、「見張山」への道を少し進んで見ました。 ごつごつし、少し荒れた緩い上りの山道の先に大きな岩があり、その先も見通しが良くないことと、出発時刻もあり引き返しました。標識も見かけなかったので、「ろくわ石」までにも到っていません。 下り始めると「六さん石切場」へ標識が立っています。 長法寺遺跡が位置するという長寶(宝)寺山と鵜川山のつながりは知りませんが、「鵜川山」への標識があります。 この辺りから、再び琵琶湖と山並みが見え始めます。 そして、湖西の南方が見えるようになります。最後に、少し脇道に・・・・。国土地理院の地図をこちらからご覧ください。打下山は標高374m。明神崎の白鬚神社の背後、長寶(宝)寺山と呼ばれる丘陵上のところに、かつては長法寺の伽藍があったのです。冒頭の部分図と重ねて見ていただくと、わかりやすいでしょう。(番号4のところ)鵜川の地域には、「鵜川四十八躰仏」や「白鬚神社」「鵜川の棚田」などがあります。次の拙ブログでご紹介しています。こちらも、ご覧いただけるとうれしいです。 探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -4 鵜川四十八体石仏群 探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -5 白鬚神社・鵜川ファームマート 探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -6 鵜川の棚田・岩除地蔵 いよいよ、長法寺遺跡への入口にかかります。つづく参照資料1) 探訪[大地の遺産]「湖西明神崎に石造りの寺院跡を訪ねて-長法寺遺跡-」 当日配布の資料 滋賀県教育委員会 高島町観光ボランティア協会 協力:高島市教育員会【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺18切符の旅、高島の見張山 :「六甲&色々山歩き」 私がちょっと、関心を持った対象について、写真を掲載されているブログ記事に出会いました。 高島砂防ダムの絵、見張山の頂上からの眺め、ろくわ石って? についてです。 ご紹介しておきます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -1 日吉神社・打下城跡 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -3 長法寺遺跡・長法寺城跡・蓮池・登り口 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -4 解散地点・オプション(乙女ケ池・大溝城跡・分部神社)へ
2017.10.09
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滋賀県教育委員会文化財保護課による「探訪・大地の遺産」の一環として企画された「湖西明神崎に石造りの寺院跡を訪ねて-長法寺遺跡-」に参加しました。集合は駅前にガリバーの大きな像が立っているJR近江高島駅です。2015年3月の探訪記をここに再録し、ご紹介したいと思います。(再録理由は付記にて)長法寺は、滋賀県高島市鵜川(うかわ)にあります。明神崎にある白鬚神社の背後・西側の山、標高約370mの長寶(宝)寺山と呼ばれる丘陵上に位置し、琵琶湖との標高差は約285mです。(資料1)今回は、駅~打下城跡~巨石「馬の足跡」~長法寺跡~長法寺城跡~駅、という順路での探訪でした。まずは、打下城跡をめざすところから、ご紹介を始めます。 JR近江高島駅の西側、城山台の地区を西進し山裾に向かいます。目指すのは目の前の山です。山裾に「日吉神社」(赤丸のところ)があります。 日吉神社長法寺の鎮守神として、日吉大社の「山王権現」が勧請されたと伝わる神社だとか。祭神は大山咋神。長法寺廃絶後は、石垣村の産土神として祀られているそうです。(説明板)「永世2年高島玄藩允が長宝寺山に城郭を築きし時、又産土神として崇敬し、社殿を修補す。15年高島氏亡びし後は哀願して僅に村民10余戸祭祀したりしが、分部侯大溝に封ぜられて後、社殿を補修し春秋の祭典等、藩に復せり、宝永6年社殿火災に罹り、同7年再建す。」とあります。(資料2) 余談ですが、かつて高島郡にあった石垣村は、明治7年(1874)に、大溝村・打下村と統合され勝野村になり、明治22年(1889)には、永田村・音羽村と統合されて大溝村になったのです。明治35年(1902)には、町制施行で大溝町(1町16村)となります。昭和18年(1943)に、大溝町は高島村・水尾村と合併して高島町になるのです。そして、平成17年(2005)に「マキノ町・今津町・朽木村・安曇川町・高島町・新旭町が合併して高島市が発足し」、高島郡が消滅します。(資料3)インターネットでMapionの地図で見ると、「勝野」という地名の記載まで辿れるだけです。地図はこちらをご覧ください。今回は、登山口への通過点になりました。日吉神社の大きな鳥居のすぐ南隣りに神社があり、その前を南に少し進むと、「登山口」の標識が見えます。 今回感じたのは、長法寺遺跡までの標識がしっかりと設置されていて、わかりやすかったことです。 山麓は鹿や猪が里に出るのを防止するためか、金網柵が設置されている傍の山道を登って行きます。(途中から設置された出入口を抜けて、山をさらに登る事になります。)山道の脇の地面の各所に標識が置かれています。 山王谷砂防ダムダムの壁面に絵が描かれています。どのあたりからだとよく見えるのでしょうか。 さらに山道を登ると、山肌の岩や石垣に積まれていた岩が崩れて散在した感じのところもあります。 山王砂防ダムから400m程登ると、打下城跡の標識があり、ここから城跡まで600mだという表示も出ています。 地図に青丸を付けた分岐点にあるいくつかの標識分岐点を左(東)に向かうと城跡(番号1)であり、右(南西)に進むと、巨石「馬の足跡」(番号2)を経由して、峠「下の鼻打」(番号3)になります。まずは、打下城跡に向かいます。 土塁 中主郭部今回はこの説明板のある中主郭とその周囲をしばらく見分してから、目的地に移動する事になりました。 説明板のすぐ近くには、用途が定かでない組石の一部が残っています。説明板に記載されていますが、打下城跡は大溝古城とも呼ばれているところのようです。「佐々木越中氏の清水山城の出城(でじろ)と伝えられるほか、琵琶湖の制海権を握っていた林員清(はやしかずきよ)の城とも伝えられています」(資料1)また、『信長公記』を読みますと、巻5、元亀3年の「奇妙様御具足初に虎後前山御要害の事」の下り、7月24日の条に、「海上は打下(ウチオロシ)の林与次左衛門、明智十兵衛、堅田の猪飼野甚介、・・・に仰せ付けられ、囲舟を拵へ、・・・」と、「打下の林与次左衛門」という地名と人名が出てきます。そして、巻6、元亀4年の「大船にて高島へ御働き、木戸・田中両城攻めらるる事」の7月26日の条には、高島の淺井下野守・淺井備前守の支配する領地(知行所)に信長が馬で攻め寄せた折り、「林林与次左衛門所に至って御居陣なさる」と記されています。信長が高島を攻めたときに、この打下城を陣屋として使ったことがあるのがわかります。(資料4)林与次左衛門とは林員清のことだそうです。 虎口 北ブロックへの経路 虎口の外から郭を見て 土塁そして、長法寺跡の方向に進みます。つづく参照資料1) 探訪[大地の遺産]「湖西明神崎に石造りの寺院跡を訪ねて-長法寺遺跡-」 当日配布の資料 滋賀県教育委員会 高島町観光ボランティア協会 協力:高島市教育員会2) 日吉神社 :「滋賀県神社庁」3) 高島郡(滋賀県) :ウィキペディア4) 『信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p129,p146【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大溝祭 :「高島市観光情報」(びわ湖高島観光協会)大溝祭 :「滋賀・びわ湖」(びわこビジターズビューロー)00053 大溝祭 :「日本の山車」大溝祭の見所と体感シーン :「滋賀県選択無形民俗文化財 大溝祭」打下の林員清と 浅井・朝倉討伐 :「びわ湖源流.com」林員清 :「戦国武将列伝」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -2 馬の足跡・下の鼻打・鉄塔下 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -3 長法寺遺跡・長法寺城跡・蓮池・登り口 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 高島・長法寺遺跡 -4 解散地点・オプション(乙女ケ池・大溝城跡・分部神社)へ
2017.10.08
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海津の石積みを違った位置から改めて眺めますと、まさに水際近くに石積みされている景色なのだというのがよくわかります。 ここで、海津の石積み風景から、海津の集落内を歩くことになりました。この三叉路と道標から、地図(Mapion)をご覧いただくと、位置関係がおわかりいただけるでしょう。県道557号線が海津大崎方面から清水の桜の道標の方向に通っています。JRマキノ駅に向かう湖岸沿いの道路がかつての街道であったのでしょう。 この三叉路の周辺でかつての町並の姿を想像させてくれる町屋が残され維持されています。 角(四角)の中に「二」の字の暖簾を掛けたお店は、近づいて行くとガラス戸に醤油店という文字が書かれているのが見えました。後日、ネット検索して発見! 「中村醤油店」さんです。「角二醤油」という手造り醤油蔵元でした。400年以上の伝統を持つお醤油屋さんだった! このお店でないと購入できないお醤油のようです。(資料1) 赤く塗られた小屋の正面には丸に消の字。「東町自警団」という表示が出ています。集落には防災の自警団組織が運営されているのですね。都市域では見かけない言葉です。背後にあるのが、称名寺(浄土宗)です。少し県道を北に歩くと、左側に「湧水(イケ)」と呼ばれるものがあります。(冒頭の地図の番号10のところ) 海津は湧水が豊なため、「イケ」と呼ばれる水場が設けられ、利用されていたそうです。「例えば、野菜を洗う場合は『イケ』で洗い、洗濯物は琵琶湖で行うなど使い分けを行うことで、お互いの暮らしに配慮し、地域とのつながりが育まれてきました。」(資料1)これも現在に残された水辺景観の一環です。「イケ」を共同管理する人々が地蔵盆を一緒にするなど「イケ」を単位とするコミュニティが形成されているそうです。(資料2)「イケ」の傍の建屋には、地蔵尊の小祠も祀られています。 次の探訪地である地図番号11に行く途中でも地蔵尊の小祠をいくつか見かけました。「イケ」の小祠と同じような感じのものもあれば、 陶製の小祠に祀られている地蔵尊もあります。陶製の小祠というのは私には初めて見るタイプです。右の画像は小祠の側面を撮ったもの。 集落を通る、湖岸からかなり離れてた道路に立って、湖岸に通じる「ツジ」を眺めた景色です。ここから眺めると「ツジ」の機能、利便性がよくわかります。 大日尊の御堂上記でご紹介した地図(Mapion)から、説明の都合上部分地図を切り出して引用し、ご紹介しますと、地図番号11はマキノ東小学校で、その手前にこの大日尊の場所も記載されています。御堂の屋根の鬼板の部分に「大日如来」と陽刻されています。御堂の本尊がこれで一目瞭然というところ。御堂を覗きに立ち寄る時間がありませんでした。前回、中ノ川河口の石積みをご紹介しました。 その中ノ川は「マキノ東小学校」(旧海津小学校)の敷地の東側から学校の正門側に回り込むようにして湖岸に向かっているのです。 敷地の北側は、西にある「西内沼」と中ノ川をつなぐ堀割が作られていますので、小学校が三方を堀割に囲まれた形になっています。ちょうど校舎の前のあたりが、舟入のような感じです。ここの桟橋にカヌーが沢山積み上げてありました。マキノ東小学校では地の利を活かし、カヌーでの琵琶湖体験学習をされているそうです。「自然環境を生かした特色ある環境教育」の実践です。また、「かつては小学校前の堀割はもっと広く、中ノ川の両岸に丸子船がつながれていてもその間を船が通れるくらいの幅があったようです。」(資料2,3) 小学校の構内をちょっと拝見すると、道路の傍にあの有名な石像があります。「勤倹力行」という言葉が台座の正面に刻されています。二宮尊徳翁の少年期の姿と言われるあの像です。この像が残されている学校も現在では少ないのでは・・・・・。数本の木の許には、右の画像のように屋根の鬼板瓦が置かれています。木造校舎だった時の記念でしょうか。 掘削された堀割で中ノ川と結ばれた「西内沼」東西に細長く延びる沼です。(冒頭地図の番号12のところ)かつては、中ノ川を経由して北側の山麓で生産された石灰の積み出し路として重要な沼だったそうです。経緯は定かではありませが、この沼も埋め立てで今ではかなり小さくなっている印象を受けました。雑草の生い茂る土地になっている面積がかなり広がっています。西内沼や周辺湿地・水路には、希少種植生物が見られ、また産卵期にはこの沼に各種魚類が遡上してくるそうです。この後、湖岸沿いの街道をJRマキノ駅に戻る事になります。途中、道端の標識を見て、ズームアップして撮ったのが「海津天神社」の鳥居です。手許の本を見ると、マキノ駅から国道161号線を北東に1kmほど行ったところに位置します。社伝では、1191年(建久2)の創建で、今津町弘川の行過天満宮から勧請されたものだとか。祭神は勿論、菅原道真です。現在の境内地は、かつては「小野神社」の境内地だったそうです。天神社の勧請により、天神社が主となり、小野神社は天神社の境内末社になったのです。小野神社は西浜の産土神として祀られているといいます。(資料4)そして、西浜・海津の石積みを最初に見た、「海津・西浜石積み最終地点」に戻ってきました。西浜を見て、海津を見てきたことにより、石積みの違い、湖水と石積みまでの浜辺の幅の違いもよく解って、おもしろく感じた次第です。石積みもニーズに合わせて築造されているということですね。 JRマキノ駅まで真っ直ぐにのびる「アクアパレス通り」の中央のブリーンベルトを帰路は歩いてみました。 駅に近づくと目に止まったのがこのモニュメントそして歩道脇にはなぜかフクロウさんがピンクの野球帽を被っていました。フクロウの止まり木部分には、 「重要文化的景観 海津 西浜 知内 水辺景観へは 徒歩15分」これで、探訪ご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) マキノ海津・醤油屋さん :「滋賀咲く blog」 海津のしょうゆ :「takuriysの旅ログ」 中村醤油店 ご近所さん :「古道具 海津」 2)「重要文化的景観 高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく」 当日配布のレジュメ資料 主催:滋賀県教育委員会3) ”マキノ東小の環境教育 「カヌー学習」とグローブ観測」” 中川泰夫 マキノ東小学校校長 ⇒ 2017.10.7時点でアクセス不可 =2017.10.7時点で追記= カヤック開き :「髙島市立マキノ東小学校」 マキノ東小学校自然教室 高島市 記者資料提供 2017.5.9付4) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p209【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺海津村 :ウィキペディア清水の桜 :「高島市観光情報」大日如来 :ウィキペディア中ノ川 :「geoview.info」阿志都弥神社 行過天満宮 ホームページ阿志都弥神社・行過天満宮(福禄寿) :「高島市観光情報」報徳二宮神社 ホームページ二宮尊徳資料館 :「真岡市」報徳博物館 ホームページ ~二宮尊徳の人づくり国づくり世界~高島市海津・西浜・知内の水辺景観 :「滋賀文化のススメ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -1 高木浜・湖のテラス へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -2 高木浜・知内浜・唐﨑神社・知内川ヤナ漁 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -3 西浜と海津の石積み・海津漁港・魚治・旧海津港跡 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -4 宝幢院・中ノ川河口・吉田酒造・海津の石積み へ
2017.10.07
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脇道に入りますが、「宝幢院」のご紹介から始めます。 後で地図を見ると、前回ご紹介した鮒寿しの「魚治」とは西近江路をはさみ、山側の対照的な位置にあったのです。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。この地図の地域がこれからご紹介するところでもあります。「魚治」のお店より西方向にある南北の通りを急いで山側に向かうと、途中で西近江路の向こうにお寺が遠望できます。とりあえず、休憩タイムの許す範囲でお寺を目指します。西近江路を横断し、ズームアップで撮ったのが上掲の山門(仁王門)です。周辺が水田地帯という中に、仁王門がぽつんとあるだけで完全なオープンスペースになっています。 仁王門の前に立つと、一直線上の遠方に表門が見えます。仁王門に仁王さんが不在だとやはりちょっと寂しい・・・・。向かって左側にお寺の案内板が吊り下げられています。正式には、「真言宗智山派宝幢院薬師寺」と称します。智山派ですので、京都・東山七条にある「智積院」が本山ということになりますね。私がこの寺の存在を知ったのは、水上勉の書いた小説『湖笛』を読み、若狭(小浜)の領主だった武田元明がこの寺で秀吉の命を受けた丹羽長秀により誅殺されるストーリーを読んだことによります。この作品を読むまでは、武田元明という武将すら知りませんでした。この小説にも登場しますが、京極高次の妹であり、武田元明の室であった竜子は、その後、豊臣秀吉の側室・京極局(松の丸)となる運命を担い、京極高次を陰でサポートする役割を担っていく形で描かれていたように記憶します。 仁王門から表門までの参道が松並木になっていて、左右はオープンな空間ですからいい雰囲気です。表門を入り、境内を眺めただけで、残念ながら集合時間へのタイムリミットになりそうでした。 宝幢院の本尊は薬師如来坐像。 武田元明が切腹させられた天正10年に、丹羽長秀は寺領30石を安堵しています。その後、寺領が減・増しますが、慶安元年(1648)に、三代将軍德川家光により25石の朱印状を与えられたといいます。宝幢院文書によると、慶長6年(1601)8月までは仏地院、翌1602年8月以降は宝幢院として記録があるそうです。1602年の検地以降に現在の寺号を公式に用いるようになったようです。(資料1) 表門を入った傍に、武田元明の墓についての説明板があります。墓地の区画は表から見えるのですが、そこまで近づいて探して墓を参拝する時間の余裕がありません。宝幢院の雰囲気だけを感じて引き返すことになりました。残念!子供を一人抱き、足元で衲衣の裾にすがりつく二人の幼児と一緒の立ち姿のお地蔵様とその背後に整然と数多くの小さな(たぶん)地蔵石仏が並べて祀られているのが目にとまりました。年代的にはまだ新しい感じですが印象的でした。水子供養という局面に関係する地蔵信仰なのでしょうか? それでは、探訪の本筋に戻ります。集合後に「魚治」からほど近い場所に前回ご紹介の「旧海津港後」の説明板を見て、「中ノ川河口」(末尾掲載地図の番号7のところ)を見ました。 河口の両側がご覧のとおり、頑丈な石積みとなっています。この中ノ川より西岸(右岸)が現在は海津3区、東岸(左岸)が海津2区と称されています。 海津3区の水辺の石積み景色中ノ川に架かる橋の手前、山側に「吉田酒造」があります。看板にある「竹生嶋」という地酒の醸造元です。琵琶湖で丸子船が活躍した時代には何十隻もの丸子船を使っていたそうですが、「1877年から続く老舗造り酒屋」(資料2)さんです。 橋の上から見た中ノ川河口この川は、海津集落の北側にあった清水湖(奥田湖)・西内沼と琵琶湖をつなぎ、船が運行できる河川として桃山時代に開削されたと伝わります。河口の西岸(右岸)の石積みのところにある大きなケヤキは、「吉田屋のケヤキ」と称され、船で海津港に向かう際の目印になったと言います。大きなケヤキが敷地所有者の名前で呼ばれていたようです。他に「金六ケヤキ」「亀帳ケヤキ」などがあるとか。(資料3) 中ノ川の東岸(左岸)から海津2区の石積みを眺めながら、水辺を東に歩きました。 海津大崎の方向の眺め。春は桜が満開となって景色が映えるところです。 海津浜の東の景色 西側の水辺の景色 この石積みが末尾の地図にある番号9あたりです。ご覧の通り、「海津の石積み」は精緻に成形された石材が隙間なく積み上げられています。西浜の石積みは加工度の低い割石が多く使われていることと対照的でもあります。石積みの高さも西浜より高くなる傾向がみられます。「これらの特徴は、海津のほうが琵琶湖水面と近いことによるものと考えられます。」(資料3) 琵琶湖の水辺として、西浜から海津に至る石積みの景観は、季節と天候に応じて、様々な表情を見せることでしょう。想像力が喚起されます。この後、水辺を離れ、集落の中を歩いて、 また違った景観と出会いました。つづく参照資料1) 『滋賀県の歴史散歩 下』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p2112) 吉田酒造について :「じゃらんnet」 3) 「重要文化的景観 高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく」 当日配布のレジュメ資料 主催:滋賀県教育委員会【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺重要文化的景観「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」:「高島市」ホームページ【高島市歴史散歩】古文書の語る海津の石垣 :「びわ湖源流.com」宝幢院 :「滋賀県観光情報」高島市の宝幢院(ほうどういん)の概要を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」宝幢院 :「武田家の史跡探訪」武田元明 :ウィキペディア丹羽長秀 :ウィキペディア京極竜子 :ウィキペディア京極高次 :ウィキペディア地酒「竹生嶋」醸造元 吉田酒造有限会社 :「高島市観光情報」吉田酒造 :「MAPPLE 観光ガイド」滋賀の酒蔵 :「地酒の祭典」海津大崎 :ウィキペディア海津大崎の桜 :「高島市観光情報」 お花見FAQ重要文化的景観について :「文化庁」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -1 高木浜・湖のテラス へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -2 高木浜・知内浜・唐﨑神社・知内川ヤナ漁 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -3 西浜と海津の石積み・海津漁港・魚治・旧海津港跡 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -5 湧水(イケ)・マキノ東小学校・西内沼 へ
2017.10.07
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「湖のテラス」からまずは西浜の浜辺を進みます。ここは「湖の辺の道」のルートです。花々や猫が迎えてくれました。 この西浜の浜辺は、タチスズシロソウ生育地が散在し、琵琶湖岸では有数の規模を誇る群生地だといいます。手許の小図鑑には載っていないので、調べてみますと、アブラナ科の植物で、4~5月に白い花が咲くそうです(資料1)。なんと絶滅危惧植物になりつつあると言います。浜辺をさらに進んで行くと、幅の狭い河口に到達。 ここに、「近江湖の辺の道」の道標が建てられています。ここを左折して道路の方に進むと、 「海津・西浜石積み最終地点」でした。今回はこの最終地点を起点にして、湖岸沿いの街道を北東方向に石積み景観を眺めながら進んで行きます。 西浜村で石積みが建造されたのは江戸時代中期(1688~1704)のことで、『西浜区有文書』中の「江州高嶋郡西浜村普請所明細帳」(延享2年5月)に、「元禄15年(1702)にたびたび大波があったことから、甲府領代官の西与一左衛門に普請を誓願し、翌年に普請費用の下付が認められた」ことが記されているそうです。このとき完成した石積みは、全長500m、高さ2.7m、根台2.7m、上面の幅約2.7mの規模だったのです。西浜村は後に甲府領から郡山藩領に変わったそうですが、この石積みは、領主が費用負担する「御普請場」として修復が続けられたといいます。(資料2)(地図の番号3のところ) 辻子(ヅシ)湖岸に沿って集落が形成され、マチ通りとして道路が背骨のように通っています。それが西近江路であり北国海道です。それに対し、琵琶湖に向かって、2~3棟おきに街道と浜を、あるいは街道と裏道を結ぶのが「辻子」といわれる通路です。それは港町として荷物の積み下ろしのための重要な通路だったのです。今では水辺に手軽にアプローチできる通路、薄暗いツジの先に琵琶湖の変化を眺められる空間の役割りの方が大きいという感じです。街道沿いに、上記の「西与一左衛門の碑」説明板が建てられています。街道を歩いてみて気づいたのは浄土真宗のお寺が多いことです。最初に目にしたのが「蓮光寺」(真宗大谷派)です。 その先に、湖岸に向かう幅の広い道路へ 進行方向右側の石積みがまさに頑丈そうな石垣です。左方向に道がカーブしていますが、ここが「海津漁港」です。(地図の番号4のところ)琵琶湖総合開発の一環として整備工事がなされ、昭和59年(1984)に完成。事前の発掘調査が行われた折に、12~13世紀の遺物が多く出ているそうです。遺構は発見できなかったとか。出土した土器は「畿内と北陸を結ぶ重要な地点として機能していた当地の特性を示すものとして評価されます」(資料2)。「西浜遺跡」でもあります。漁港入口に昭和13年(1938)建造の「海津漁港共同組合旧倉庫」(2階建土蔵)が存在し、水辺景観の構成要素になっています。 西栄寺(真宗大谷派)。鐘楼の透かし彫りは見応えがあります。石積みが続きます。その先に誓行寺があり、ここも真宗大谷派です。 その先に、「近江湖の辺の道」道標と「海津浜の石積」説明板があります。この地点から海津大崎には2.5km、JRマキノ駅には1.5kmです。「中部北陸自然歩道」の表示も出ていることに気づきました。道標横の石積みの説明板はこの画像の説明よりもっと簡略に記したもの。西浜から海津浜へと入ってきたあたりということになるのでしょう。 すぐ前に漁港の見える石積み地点 福善寺(真宗大谷派)というお寺もあります。 湖側には「海津迎賓館」の表札の掛けられた建物が・・・・。 門前のこれも狛犬? いかめしい面構えです。門番代わりの獅子像一対というところです。ネット検索してみると、今は民間企業が所有する建物でした。この表札は単なる私的名称ということ・・・・なのでしょうね。この建物自体について、その会社のページには「旧井花御殿」と付記されています。そこで調べてみると、もとの所有は井花伊兵衛という人物に関係するようです。彼は幕末~明治時代の実業家(1822~1907)。1854年に生地近くのこの海津村で肥料用石灰の製造を始めたのだとか。海津東浜が江戸時代に琵琶湖を湖上交通路とし、北陸と近畿を結ぶ重要な港として栄えたことには先に触れています。明治3年(1870)、井花伊兵衛は磯野源兵衛と共同で「湖上丸」という蒸気船を建造し、翌4年(1871)に大津~海津間の航路を開いたそうです。この建物から少し先のところに「旧海津港跡」の説明板がありました。これで結びつきます。入手情報から少し推測を加えますと、明治維新となり、未だ廃藩置県(1871)が確立していない段階で、郡山藩の許可を受け、船舶用の蒸気機関を購入し、琵琶湖畔の何処かで蒸気船を建造したということでしょう。(資料3)尚、大津-海津間には、明治2年(1869)3月に、大津付近を統治していた大聖寺藩が計画実行した琵琶湖上はじめての汽船(蒸気船)「一番丸」が就航しているようです。当時の県令・松田道之が蒸気船の建造を奨励したことが、郡山藩による大津-海津航路、つまり井花らの事業に繋がるようです。このような明治の草創期の動きが、「太湖汽船」の成立と終焉、さらに「琵琶湖汽船」成立への母体としてつながっていくようです。(資料4)テーマを外れるためでしょうが、配付資料に言及のない「海津迎賓館」という名称から、興味を抱き、脇道に大きくそれてしまいました。本筋に戻りましょう。 この建物の左側にもツジが設けられています。この近くに二百余年の味の歴史があるという鮒寿しの老舗「魚治」があります。遠藤周作が友人たちとこの店に立ちより、すっかりこの店が気に入ったそうです。「部屋からすぐ見える澄んだ湖、湖の風景、何もかもが私の好みにあって」と狐狸庵先生は記しています(資料5)。そしてここのご主人に頼まれるままに「湖里庵」という名前をこの料亭につけたのだと。このお店の前で目にとまったのがこの石標の文字「粟柄越」中央分水嶺である高島トレイルの一部になりますが、赤坂山から寒風の往還に通過する地点が「粟柄越」のようです。(資料6)またまた脇道に・・・。この「魚治」さんのところで、少し休憩タイムがとられました。今回は立ち寄れないけれどこの近くには「宝憧院」があると言う探訪ガイドさんの話。水上勉の小説『湖笛』に出てくるお寺です。一度訪ねてみたかったお寺。ちょっと境内を眺めるだけでも・・・と、この時間を使って、急いで観にいきました。次回はその寄り道からご紹介です。つづく参照資料1) タチスズシロソウ :「山散歩 花散歩 徒然想」2)「重要文化的景観 高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく」 当日配布のレジュメ資料 主催:滋賀県教育委員会3) 伊花伊兵衛 :「コトバンク」4) 太湖汽船 :ウィキペディア5) 海津の湖里庵 :「魚治」ホームページ6) 高島トレイル縦走 黒河峠~粟柄越 :「高島旅行記」 マキノ高原~粟柄越~赤坂山~粟柄越~寒風~マキノ高原 :「諏訪工房」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺琵琶湖東岸における絶滅危惧植物タチスズシロソウ大群落の出現とその保全 山口正樹・杉阪次郎・工藤 洋 共著 論文 琵琶湖の海浜植物の起源と進化 :「瀬戸口浩晶研究室」タチスズシロソウ :「野生植物写真館」魚治 ホームページ京象牙 白宝 ホームページ琵琶湖汽船 公式ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -1 高木浜・湖のテラス へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -2 高木浜・知内浜・唐﨑神社・知内川ヤナ漁 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -4 宝幢院・中ノ川河口・吉田酒造・海津の石積み へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -5 湧水(イケ)・マキノ東小学校・西内沼 へ
2017.10.06
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「湖のテラス」から水辺沿いに高木浜を南西方向に歩いていき、振りかえると海津大崎が右方向に遠望できます。 マキノサニービーチ高木浜を進みます。サニービーチの施設を右に見ながら進んでいると、 竹生島の方角から遊覧船が近づいてきて桟橋に着く様子を眺めながら歩くことができました。(地図の番号13)マキノサニービーチには水泳キャンプ場もあります。 知内浜水泳場の方に近づいて行くと、水辺からはモニュメントのように見えるものが目につきます。 階段を上がって見ると、それは白鷺橋です。(地図番号14の辺り) 白鷺橋上からの湖岸・河口の眺めと知内川上流側の眺め上流側には、大川橋・湖周道路・湖西線・西近江路と順番に架橋されています。大川橋の上手が「知内川のヤナ」を見られる場所です。白鷺橋を渡ると、「近江湖の辺の道」という表示が目にとまりました。志賀町近江舞子から近江八幡国民休暇村までを結ぶ周遊自然歩道と説明されています。この知内川の河口に「マキノサニービーチ知内浜オートキャンプ場」があります。まずは「唐﨑神社」を探訪します。 手前に「川据宮(かわすそみや)」という石標があります。これは唐﨑神社の別名なのです。この石標があるということは、地元ではこちらの名称の方が親しみがあるのでしょうか? 毎年7月28・29日には、「川裾まつり」が行われるそうです。「不浄よけ・夫婦和合・安産・厄難祓いの御利益で名高い知内の『川裾さん』」。そして、このお祭りのごちそう「ハスのなれずし」が有名だといいます。(資料1)この「境内歴史案内」とネット検索で得た知識を合わせて考えると、知内川の旧名が大川です。その大川末流つまり川裾(河口)に鎮座する神なので、川裾大明神と尊称し、その大明神を祀るお宮という意味で「川裾宮」と呼称していた時期があったためと推測できます。(資料2) 参道を進んで行くと、石橋・石造鳥居・拝殿が一直線に眺められます。鳥居は正徳元年に木造から石材に換えて建立されたもの。 拝殿は文政10年(1829)に再建されたもの。拝殿の天井に太鼓が吊してあります。こういう形式を私は初めて見ました。ここの天井は、格子天井ですが大きな格子の中に小さな格子が入れ子になっていて、この意匠様式も私はあまり見かけないものでした。 祭神は、 瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)、速開都比咩神(はやあきつひめのかみ)、速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)の三柱。(資料2)この三柱は祓戸三神であり、祓戸大神とも言われます。祓戸というのは祓いを行う場所のことで、そこに祀られる神、つまり罪・穢を祓い去る神という意味になります。「祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる」(資料3)そうです。この三柱はそれぞれ異なる役割をになっているようです。(資料3)*瀬織津比売: もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す*速開都比売: 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む*速佐須良比売: 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う滋賀県神社庁のホームページで神社名を検索してみると、彦根市に同じ漢字の神社がありますが、こちらは唐崎を「トウザキ」と称するようで、祭神が全く異なります。一方、大津市唐崎の唐崎神社は良く知られている神社ですが、こちらの神社の祭神もまた異なります。この神社は、滋賀県神社庁には登録されていないようです。つまり、それぞれが独立した神社で、同じ系統の神社ではなさそうです。さらに調べてみると、高島市新旭町にも唐崎神社があり、ここの境内社・西宮神社の祭神に瀬織津姫神が祀られているようです。こちらの唐崎神社は「川裾さん」とも呼ばれているようです。(資料4) 本殿に向かって、右側には境内社1社とその隣りに「えびす神奉安所」があります。この恵比須神は両手で大鯛を抱えておられる立ち姿です。大漁をもたらす福神として祈願されたのが始まりなのでしょうね。西近江七福神の一つだそうです。知内川に仕掛けられた伝統的な漁法「ヤナ漁」がこれです。この知内地区で行われているヤナ漁は「ノボリヤナ漁」で「カットリヤナ」とも呼ばれるているようです。 簀で水流を遮り、魚群を誘導するための水流を造り出す部分とカットリ池と呼ばれる魚を獲る部分で構成されている漁法だとか。この画像にみられるように、カットリ池がコンクリート製となって、ヤナの位置が固定されてしまったようです。これは昭和32年の河川改修の際に行われたことだとか。春から夏にかけてはアユを獲る春ヤナ漁、秋にはマスを獲る秋ヤナ漁が行われてきたのです。(資料1)この後は、再び「湖のテラス」まで戻り、西浜地区の方をめざします。大川橋を渡る時に、白鷺橋を眺めてこんなおもしろいレリーフを道中で見かけました。何かの伝承をレリーフにしたようです。今のところ情報がありません。ご存知の方がいらっしゃればご教示ください。今回は特に説明もなく通過していきました。知内地区に位置するホテルです。地図に「奥琵琶湖マキノグランドパークホテル」と記載されています。道路脇の垣根には6月下旬ですので、紫陽花が咲き誇っていました。 道路沿いに行くと、「マキノサニービーチ 高木浜」のこの看板が最初に目に入ることでしょう。道路を歩いていて、マキノサニービーチの生け垣の先に、竹生島を遠望できました。ここから、西浜・海津の水辺探訪に移っていきます。つづく参照資料1)「重要文化的景観 高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく」 当日配布のレジュメ資料 主催:滋賀県教育委員会2) 唐崎神社 :「滋賀県神社庁」3) 祓戸大神 :ウィキペディア4) 滋賀県の瀬織津姫 :「mixiコミュニティ」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺西近江路 :ウィキペディア祓戸大神 :「古社への誘い 雑記帳」瀬織津姫 :ウィキペディア西近江七福神 :「高島市観光情報」 体験版のページはこちら(7箇所の写真やモデルコースを掲載)近江の七福神 :「近畿の七福神めぐり」唐崎神社 ホームページ 大津市唐崎にある神社。こちらの祭神は「女別当命(わけすきひめのみこと) 」マキノサニービーチ 高木浜オートキャンプ場 ホームページマキノビーチ知内浜オートキャンプ場 ホームページ知内川の小鮎ヤナ漁(滋賀県高島市マキノ町) :YouTube梁漁 :ウィキペディア安曇川やな漁・高島市安曇川町~その1 :「滋賀文化のススメ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -1 高木浜・湖のテラス へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -3 西浜と海津の石積み・海津漁港・魚治・旧海津港跡 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -4 宝幢院・中ノ川河口・吉田酒造・海津の石積み へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -5 湧水(イケ)・マキノ東小学校・西内沼 へ
2017.10.05
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2014年6月28日(土)に参加した探訪記録の再録です。(再録理由は付記にて)この日JR湖西線でマキノ駅前集合の探訪[近江水の宝]に参加しました。探訪テーマは「重要文化的景観 高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく」です。冒頭にマキノの駅と駅前にあった案内図を載せています。高島市マキノ町で今回探訪する海津・西浜・知内地区は、湖岸に沿って西近江路が通っています。かつては、古代の北陸道、近世の北国海道が通り、琵琶湖の湖上水運と陸路をむすぶ交通の要衝だったところです。 その地図から部分図を切り出し、またこの探訪でいただいたレジュメにある地図を並べておきます。合わせてみていただくと、わかりやすいかもしれません。 集合時刻前に、駅前で見かけたモニュメント近づいてみると、町名の由来が説明してあります。「マキノ」という名称は、昭和30年(1955)に4村合併の折に、町名を公募し決定したのだとか。日本にはカタカナの町は北海道のニセコ町との2つだけだそうです。駅前には湖岸の水辺まで真っ直ぐに伸びる道路「アクアパレス通り」が通っています。中央に緑地帯をもつ幅30mの道路です。写真はその片側になります。(資料1)この通りは欅並木です。湖岸に近づくと見えてくるのがこの琵琶湖に至る門のような建物です。番号1の「湖のテラス」です。 マキノ駅の方に振りかえると、この石碑があり、「高木浜の由緒」が説明されています。 *この地は古代の本郡の条里制遺構の最北端に位置し、水田地帯として農耕が営まれた。 *「花と緑のまちづくり」をテーマとした事業推進の結果、「高木浜」が誕生した。 *琵琶湖八景の2つ、竹生島、海津大崎を眺めることができる絶景地であること。 *まちづくりのシンボル施設として「湖のテラス」が建設された。ということのようです。「湖のテラス」の前面、中央の空間の両脇には左右に6本ずつの円柱が立ち並び、それぞれに彫刻像が置かれています。モダンな作品群です。こんな感じの作品が並んでいます。 この作品群を見て、十二星座、十二宮という言葉を連想してしまいました。中央の空間を通り抜け、水辺に下る建物の張り出し通路 この「湖のテラス」では階段を上り、展望スペースから琵琶湖の景観を楽しむことができます。 海津地区を遠望。海津大崎に至る方向 海津大崎付近と竹生島の眺めマキノと海津大崎・竹生島の位置関係をこちらの地図(Mapion)でご確認ください。大崎キャンプ場という表記の地点が海津大崎あたりになります。 正面の沖合いの眺め 西浜地区南東部から知内地区にわたる方向を遠望現在は地名として西浜、海津と呼ばれています。古くは西浜を含めて海津と称されていたと言います。室町時代には「海津西浜」「海津東浜」の名がみられるそうです。(資料2) マキノ駅の方向の眺めここから「湖のテラス」を起点にして、この水辺を歩き知内地区に向かいました。つづく参照資料1)「重要文化的景観 高島市海津・西浜・知内の水辺景観をゆく」 当日配布のレジュメ資料 主催:滋賀県教育委員会 2) 『滋賀県の歴史散歩 下 彦根・湖東・湖北・湖西』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p201【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺マキノ カタカナのまち ホームページ タウンマップはこちらから 12星座早見表 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -2 高木浜・知内浜・唐﨑神社・知内川ヤナ漁 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -3 西浜と海津の石積み・海津漁港・魚治・旧海津港跡 へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -4 宝幢院・中ノ川河口・吉田酒造・海津の石積み へ探訪 [再録] 滋賀・高島市マキノの水辺を歩く -5 湧水(イケ)・マキノ東小学校・西内沼 へ
2017.10.05
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白鬚神社を後にして向かったのは、「鵜川の棚田」です。小休憩した鵜川ファームマートのところから山側へ緩やかな坂道を上っていきます。JR湖西線の高架下をくぐり、道なりに進んでいくと、棚田に至ります。湖西線の高架をくぐって少し歩いたところからゆるやかですが、広々と広がった傾斜地一面に、段々畑が広がっていきます。広域基幹林道 鵜川・村井線入口という標識看板の建てられた道に合流しました。ここから少し山手の方に上っていきました。鵜川の棚田全景を山側から湖岸方向に眺めるためです。 南側の景色 北側の景色 林道鵜川村井線の道路を下って、湖岸道路に戻りました。千枚田の風景写真を見たり、小規模の段々畑を実際に目にする機会はいままでにありました。しかし、これほどの広がりの棚田を見たのは初めてです。段々畑の規模の大きいのが棚田くらいのイメージでしか今までは受け止めていませんでした。それでも間違いではないのでしょうが、今回事後整理をしていて、農林水産省が棚田を定義しているということを知りました。棚田とは「急傾斜地の山間地の階段状棚田」を指し、「傾斜度が20分の1(水平距離を20m進んで1m高くなる傾斜)以上の水田」をいうそうです。少し古い調査結果ですが、1993年実施の現地調査によると、農水省の定義による「棚田」は22万1067ヘクタールだったとか。滋賀県農政水産部によれば、県下の棚田は約2,200ヘクタールだそうです。全国の棚田の1%が滋賀県にあるということです。農水省の定義により認定された棚田は、助成金が交付されるといいます。JR湖西線で大津の方から来ると、北小松駅を列車が出て、高島トンネルに入るまでのわずかの区間ですが、山側の車窓からこの鵜川の棚田風景を眺めることができます。高島市では、畑地区の棚田が「日本の棚田百選」に、「畑の棚田」として選定されています。私は今回初めて知ったことなのですが。ネット検索して、異なる時季にこの棚田を写真に撮られているのを見つけました。そのいくつかご紹介しましょう。ブログなどに掲載のものです。良い景色と感じたものを抽出しました。勿論、もっとたくさんご紹介したいのがあるのですが、ほんの数例です。 mobypictureから 冬の棚田風景 タンゴエクスプローラーさん 水田、田植え前の風景 kyutaさん 稲の実った棚田風景 序でながら、ネット・リサーチしていて、こんな情報も得ました。(資料2)棚田を守ろうという活動です。滋賀県では、「しが棚田ボランティア制度(H16~)」という制度を実施していて「おうみ棚田ネット」というページがあります。こちらからご覧ください。現時点の「棚田保全活動のご案内」という活動カレンダーのページもあります。こちらをご覧ください。棚田の景観保全と、棚田そのものの維持管理にはいろいろ苦労がありそうです。ボランティア制度もその対策の一環のようです。もう一つ、序でにメモです。風工房さんが「風景への旅 美しき棚田 日本の棚田百選」というページを開設されています。これも偶然見つけました。(資料3) ついつい脇道に迷い込みます。 最後の探訪地に辿りつきました。「岩除地蔵」です。JR北小松駅まで徒歩であと15分という距離に位置します。 なぜ、岩除地蔵というのか?北小松の北のはずれ、国道沿いに鎧岩(よろいいわ)と呼ばれる険しい崖があるのです。実はこの崖、落石が多くて通行人には大変危険な場所だったとか。そこで安全祈願としてお地蔵様が崖下に祀られて、「岩除地蔵」と名付けられたと言います。(資料4) 地蔵堂そのものが石造なのです。さすがです。 堂内に、「岩除地蔵尊 御言葉」という文が掲示されていました。キーフレーズは、「心一筋に正義の志(こころ)あらば天に通じ成功すべし」。その後にいろいろ功徳が列挙されています。何事もやはり、己の心がスタート地点なんですね。 北小松駅に行く途中、石仏や五輪塔の部材らしきものなどが集まっている場所が目にとまりました。岩除地蔵からは旧江若鉄道跡の道に入り、この辺りを鉄道が通っていたのかと思いつつ北小松駅に向かいました。これで今回の探訪は終わりです。 ご一読ありがとうございます。参照資料1) 新近江名所圖会 第76回棚田のある風景-鵜川の棚田 :「滋賀県文化財保護協会」 棚田 :ウィキペディア 2) おうみ棚田ネット :「滋賀県」 3)「写真紀行 風に吹かれて」ホームページ (風工房) 秀逸なサイトですよ! 4) 岩除地蔵尊 :「びわ湖大津トラベルガイド」 岩除地蔵尊(北小松)とやまももの木 :「大津のかんきょう宝箱」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺[高島市歴史散歩] シシ垣(がき) :「びわ湖源流.com」鵜川の地形と水田 浜の田と山手の田 -傾斜変換線の上と下で- 鵜川の棚田 :YouTube棚田地域の総合保全対策 pdfファイル :「滋賀県」棚田(景観)の保護 吉川日出男氏 札幌学院大学学術機関リポジトリ棚田オーナー制度による集落の活性化 岩除地蔵 :YouTube 滋賀県 高島風景詩 高島市制作 :YouTube 江若鉄道 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -1 近江高島駅から出発 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -2 大溝城と乙女ケ池 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -3 くさ地蔵・打下磨崖仏・打下古墳・琵琶湖眺望 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -4 鵜川四十八体石仏群 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -5 白鬚神社・鵜川ファームマート へ
2017.10.02
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鵜川四十八体仏群から「白鬚神社」に到着です。湖の中に建てられた二代目の鳥居を撮ってみました。偶然ちょっとおもしろい写真になりました。なんだか寸足らずの鳥居のように、えっ!と一瞬錯覚しました。鳥居の柱が湖面に映じている感じで受け止めたのです。逆光状態、湖面の水平線と柱の位置との関係などが影響し、撮った位置がもたらした一瞬の錯覚ですね。よく見れば、柱が湖面に映じる揺らぐ影を識別できるのですが。 すこしアングルを変えた画像でそれが分かりました。この辺りは、明神山が湖岸に迫り、そこに国道が通っているために、一層狭くなっています。鳥居をくぐると、もう目の前が拝殿です。この神社、「当初は比良神社であったが、鎌倉時代には白鬚神社と呼ばれていたことが確認できる」そうです(資料1)。近江最古の社であり、延命長寿・長生きの神様として知られています。祭神は猿田彦大神(さるたひこのみこと)。社殿を南側から眺めたのがこの画像です。本殿(左)と拝殿(右)の屋根が折り重なる特殊な建て方になっています。建物に近づくと、宮大工さんの工夫と苦労が偲ばれます。本殿の向拝に拝殿が接しているのは、明治期になって拝殿が建て替えられてからの改変だとか。本殿は慶長8年(1603)、豊臣秀頼の命で播磨書写山の大工により再建されたものです。 本殿の建物は全体的に細身の材木が使われている印象で、荘重感ではなくかろやかさを感じます。屋根の懸魚と獅子口に太閤桐の紋が刻されています。全般に比較的簡素な感じです。境内から山側を眺めると、急で長い石段があり、段状に境内社が数多く湖に向い東面して建てられています。一番手前が若宮神社で、この神社は本殿と同時期の建立と推定されています。石段を上がり、山腹の一番奥にあるのがこの社。「岩戸社」。ここが、白鬚神社古墳群にある1号墳の場所なのです。その古墳石室の開口部にこの社が建てられています。社の格子扉から中を覗くと石室内が見えます。既に再録している取材記の方に、画像を載せています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (探訪 [再録] 滋賀 英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡周辺 -5 高島歴史民俗資料館、白鬚神社、鵜川四十八体石仏 へ)この石室は「玄室が胴張りで天井石は1枚、羨道が長いという特徴」(資料1)を持っているのです。 この社の右隣に、磐座(いわくら)がありますが、その背後に1号墳の石室羨道の上を覆う建物と古墳の円いふくらみをご覧いただけるでしょう。この岩戸社の右側一帯が白鬚神社古墳群です。紫式部歌碑を取材記では個別の写真を並べてご紹介しています。全体を撮るとこんな感じで歌碑等が並んでいます。 みおの海に網引く民のてまもなく 立ちゐにつけて都恋しも社務所の前に、与謝野鉄幹・晶子の合作になる短歌碑があることは、取材記でも全景の一部として載せました。逆に、個別画像としてこちらに載せておきましょう。 しらひげの神のみまへにわくいづみ これをむすべばひとの清まる大正初年に鉄幹と晶子の二人が白鬚神社に参拝したのは、本当に初年なのでしょうか?というのは、明治44年(1911)11月に鉄幹は渡欧。明治44年/大正元年(1912)の5月に、鉄幹の後を追って晶子がパリに出発し、彼女は10月に帰国。鉄幹は大正2年(1913)1月に帰国したようなのです。(資料2) ひょっとすると、大正2年に白鬚神社を訪れたのかもしれません。ちょっと気になるところです。(趣味的な脇道に迷い込んだ次第)また、神社境内の南の入口近くには、芭蕉の句碑が建てられています。 この円筒形の句碑です。 四方より花吹き入れて鳰(にお)の湖この句は安政4年(1857)に森甚右衛門が建立したものだとか。尚、私は確認していませんが、句碑の裏面には5人の名が彫られているようです。芭蕉は大津や堅田には足跡を残していますが、高島の地を訪れて俳句を詠んだという記録はないそうです。芭蕉の弟子である近江一派が、芭蕉を偲び句碑を各地に建立しているようです。(資料3)この句、調べてみますと、元禄3年の作句です。「四方より花吹き入て鳰の海」として「卯辰集」に載っているそうです。(資料4)神社境内には、他にもいくつか詩歌の碑があります。歌碑・句碑の内容確認のためにネットリサーチしてみました。(資料5) 比良八荒沖へ押し出す雲厚し 羽田岳水 吹き晴れて藍ふかまれる湖の光となりてかへりくる舟 中野照子 この句碑はどうも最近建てられた新しいもののようです。松本鷹根の作句。ネット検索した範囲ではこの句を確認できませんでした。俳誌「京鹿子」の中で豊田都峰氏が「松本鷹根句碑建立 句碑建つや弥生湖国のまんなかに」と詠じているのを見つけました。たぶんこの句碑の建立を祝した句なのでしょう。(資料6)白州正子著『近江山河抄』には、「比良の暮雪」というエッセイが載っています。その中で、著者は『近江輿地志略』を引用して、次の文を記しています。(資料7)”白鬚明神が天の八衢(やちまた)で、天鈿女命と会った時、「吾は猿田彦大神也」と名のり、垂仁天皇の時代にも、伊勢の五十鈴川で、倭姫命の前に現われ、二百八万余歳の老翁であると語り、別名を「太田の神」というと告げた。その後諸国を巡って、琵琶湖に来て釣りをしているが、湖水が三度桑原と化すのを見たといい、老翁の姿に化身してあらわれるので、白鬚明神と呼ばれた、とある。”そして、この話の筋が通らない訳ではないとして、猨女公が猨田毘古といわば夫婦の間柄であり、「湖西を本拠とした猨女の一族が、白鬚神社まで進出し、祭事にたずさわるうちに、主神が猿田彦にすりかわったに違いない」と推論していておもしろい。社務所に近いところに、こんな駒札が建てられています。脇道話ですが、「明神崎」をキーワードにネット検索していて、こんなレポートに出会いました。ご紹介しておきましょう。 明神崎(白鬚神社前石段)から見る琵琶湖大橋レポート 琵琶湖地域環境教育研究会 松井一幸氏 もう一つ、こんなおもしろい資料にも。 ちょっと息抜き 高島の方言(滋賀県高島市南部地域) 中村利和氏さて、白鬚神社を後に、次の探訪地に向かう途中で、再び、「近江湖の辺の道」の標識説明板を見つけました。 琵琶湖を眺めながら歩いていくと、 湖岸側に白鬚神社の御旅所がありました。そして、その反対側が、「うかわファームマート」です。地元産の特産品を販売されています。ここで少し小休止。そして最後の行程になる探訪地に向かうことになりました。つづく参照資料1)「近江の歴史散歩29~高島を歩く~」龍谷大学REC講座レジュメ 2012.4.192) 与謝野晶子について 略年譜 :「与謝野晶子文芸館」 ⇒ 2015年2月閉館3)【高島市歴史散歩】 高島市・芭蕉の句碑めぐり :「びわ湖源流.com」 レファレンス事例詳細 :「レファレンス協同データーベース」 4)『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 p216 尚、「洒落堂記(文略)」との前書きが付いて、 「四方より花吹入れてにほの波」として「白馬」にも所載とのこと。 卯辰集 楚常編 北枝補 半二 元禄4年奥 白馬 酒堂等編 半二 元禄15年自序5) 境内の歌碑・句碑・狛犬:「白鬚神社」のホームページ 6) 俳誌「京鹿子」2013年6月 所載 7)『近江山河抄』 白州正子著 講談社文芸文庫 p105-106【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺与謝野晶子 :ウィキペディア 与謝野晶子文芸館、28日閉館 堺市の新施設へ引き継ぎ 2015.2.22:「産経ニュース」堺市立文化館 与謝野晶子文芸館与謝野 鉄幹 :ウィキペディア 琵琶湖を詠んだ和歌と俳句 安田直次氏 このページは「琵琶湖ハンドブック」(滋賀県琵琶湖環境部環境政策課) に掲載されています。(ネット検索で発見)例大祭 黒川能 白髭 (上座) :「イグゼ My Dear Life」 「列島いにしえ探訪」- 白髭 - :「読売新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -1 近江高島駅から出発 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -2 大溝城と乙女ケ池 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -3 くさ地蔵・打下磨崖仏・打下古墳・琵琶湖眺望 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -4 鵜川四十八体石仏群 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -6 鵜川の棚田・岩除地蔵 へ
2017.10.02
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いよいよ鵜川四十八体石仏群です。北から近づいて行くと、ここがまず目に入るところです。墓石の左側の場所は古墳です。古墳の横穴式石室の部分が露出した状態になっているのです。この周辺は古墳群のあるところです。今回の探訪地の一つである「鵜川四十体石仏群」については、この次の探訪地・白鬚神社も併せて、過去に訪れています。実は、滋賀県教育委員会の文化財保護課が企画された歴史探訪の情報発信者募集に応募して、メンバーとなり、探訪取材記を載せています。その再録も既に行いました。「探訪 [再録] 滋賀 英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡周辺 -5」として「高島歴史民俗資料館、白鬚神社、鵜川四十八体石仏」をご紹介しました。こちらからアクセスしてご覧いただけるとうれしいです。 そこで、今回はその記事の説明と重複を避ける形にしたいと思います。白州正子氏が著書『かくれ里』に「石をたずねて」という一文を載せています。その中に、この石仏群に少し触れています。近江の石を訪ねる際に、念頭にあったことが窺えます。立ち寄られたかどうかは、定かではありませんが。こんな一行です。「近江には、優れた石仏が多く、狛坂廃寺の石仏(奈良時代)をはじめ、花園山中の不動明王(鎌倉)、比叡山西塔の弥勒菩薩(鎌倉)、鵜川の四十八体仏(室町)など、それぞれの時代にわたって、美しい作を見ることが出来る。」(資料1) 鵜川四十八体石仏の現在の全景を撮るとこんな感じです。今は、ここに33体が現存します。(13体は大津市坂本に江戸時代に移され、2体は盗難に遭い、行方不明。心ない輩がいたのです。)石仏群の背後の山が明神山、そして、東前方に拡がる琵琶湖の湖岸あたりが明神崎になります。 私の記憶に間違いがなければ、今回ご案内いただいたときの説明では、東面して8列で露坐されている阿弥陀如来坐像がかつてはこの山の山腹に点在して安置されていたのではないかというお話でした。そうだとすると、亡母の菩提を弔うため、これを造立した佐々木義賢は、対岸の湖東にある観音寺城から、この明神山全体を眺めたことでしょう。その山腹に拡がり居ます阿弥陀如来を観想することで、まさに西方浄土の存在を確信できたかもしれません。そして、亡き母が今はそのお浄土に往生しているのだと。西方浄土という観念世界を、琵琶湖をはさんだ彼岸にある明神山に具現化したのではないでしょうか。そんな想像をしたくなります。像高はおよそ1.6m前後で浅い彫りの丸彫り像ですが、そのお顔を眺めると、やはり一体一体その顔貌が異なります。今回の訪問では、時間が許す限り個々の石仏を対象に写真を撮ろうと試みました。じっくりと石仏と対話しながら、写真に記録できるゆとりもなく、適当撮りになっています。それでも、じっと写真を眺めていると、長年の風雪を経た石仏の顔貌が少しクリアに感じられ、お顔が見え始めます。違いが見えてきます。おもしろいものです。 どうでしょうか?今回気づいたのは、お賽銭箱の置かれた石に蓮弁のような彫りが見えることです。これも、もとは坐像の台座だったのかもしれません。摂取庵という寺庵がかつてここにあり、その寺庵の本尊と伝わる木造阿弥陀如来坐像が、前回ご紹介した最勝寺に安置されているようです。(資料2)亡母の遺骸を安曇川の玉泉寺に葬ったという伝承も残されているようです。(資料2、3、4)石仏を後にして、南へ坂道を下ります。 南から鵜川四十八体石仏群を訪れるときの入口です。ここから500mほど国道沿いに南に歩くと、白鬚神社です。つづく参照資料1)『かくれ里』 白州正子著 講談社文芸文庫 p952) 鵜川四十八体石仏 :「びわ湖源流.com」3)「近江の歴史散策29 ~高島を歩く~」 龍谷大学REC講座 レジュメ 2012.4.194)「鵜川四十八躰仏 学習シート No.072 」 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鵜川四十八体石仏群 :「高島市観光情報」 このページにアクセスマップが併載されています。 鵜川四十八体石仏群 :「高島市」 天台真盛宗玉泉寺 ホームページ 定印→ 阿弥陀如来の印相→ 印相 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -1 近江高島駅から出発 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -2 大溝城と乙女ケ池 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -3 くさ地蔵・打下磨崖仏・打下古墳・琵琶湖眺望 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -5 白鬚神社・鵜川ファームマート へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -6 鵜川の棚田・岩除地蔵 へ
2017.10.01
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「近江湖の辺(うみのべ)の道」の説明板の傍を山裾へ少し坂道を上っていくと、ここでも万葉歌碑に出会います。 何処にか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟 1172この歌の所収されている直前とその少し前にもこの地と関連する、あるいはするかもしれない歌が載っています。(資料1) 大御舟泊(は)ててさもらふ高島の三尾(みお)の勝野(かちの)の渚思ほゆ 1171折口信夫は、三尾を御尾と表記して、近江高島郡としています。『上宮記』にはこの地域が彌呼(みお)の国と呼ばれ、高島はその一部だったと記しています。説明碑にあるように、御尾ノ埼は今の明神崎の事と説明しています。「みをの地形は川の峡谷を出た地点を斥す様であるから、御尾の地も、三尾川を中心にして拡がったもの」だとします。勝野は「高島郡の南方の沼沢地の墾かれなかった地と思はれる。後期王朝に勝野津と言ふのは、湖水に面した船泊まりで、明神崎の北陰であらう」と言います。(資料2)歌意は「波が高いので、天子の御船が、泊って船を出す時分を考えている所の、あの高島郡の三尾の、勝野の波うちぎわが思われる。私も行ってみたい。」(資料3) 近江の海湖(みなと)は八十をいづくにか君が舟泊(は)て草結びけむ 1169こちらは三尾崎、香取の浦であるとは言えませんが、歌の所載順などを見ると、近い関係にあるのかもしれません。折口信夫は「湖(みなと)」を「水門(みなと)」と表記しています。「知った人の曾遊を思う。今近江の湖水に来て見ると、港が何十ともしれぬ程あるので、あの人が船を止めて、草を結んで枕として寝たと云う処は、何処だかわからない」(資料2)高島は古代から湖上交通の拠点の一つでもあったということなのでしょう。上掲の歌碑が建てられた地点の前の山路が、実は都と北陸地方を結ぶ北陸道(古西近江路)だったのです。今回は古道の一部を歩くことができました。山路を南の方に進みます。 家並みの手前に見えるのが乙女ケ池です。そして、琵琶湖の広がりが遠望できます。 これは小さいですが、「打下の磨崖仏」です。少し離れたところに、「くさ地蔵」が路辺にいらっしゃいます。旅人の安全を守るかのように。 「最勝寺」に立ち寄りました。境内には蓮如上人行脚像が建てられています。左の画像の左側の石灯籠の先に少し写っていますが、ここには「蓮如上人御旧蹟」の石標が建てられています。近江の各地の寺々で石標や像をよく見かけます。その連鎖から蓮如上人の布教の足跡がイメージされてきます。この地の地下人だった山田正明が蓮如上人との出会い、それが契機でお寺への発展してきたようです。現在もその子孫の方がご住職をされていると聞いたように思います。本堂の屋根の棟には、「琶湖山」という山号が金色に輝いていました。現在は真宗大谷派のお寺です。ここから「打下(うちおろし)古墳」に向かいます。所在地は高島市勝野です。この古墳は、打下集落の南に位置する日吉神社背後の山腹で発見されました。打下上水道配水施設工事中、2001年11月7日の早朝、山腹の工事現場から石棺が現れたのです。そして発掘調査してみると、石棺内より良好な状態の人骨が発見されました。下山の時に撮ったのですが、上水道設備がある傍ですので、坂道には門扉があります。(開閉さえきちんとすれば古墳を見学にいくことは自由にできるようです。)坂道を上って行くと通路の右手に上水道関連施設、左側に古墳が見えます。今は古墳の上にも上がれるように整備されています。古墳からさらに通路を上がり、上水道設備の傍から眺めた打下古墳全景。南から北を眺めていることになります。数人の人が立っているところが古墳です。古墳の上には、古墳の概略説明をした石板碑が置かれています。別の機会に高島歴史民俗資料館を訪れた時、いただいた資料で写真の説明以外のことを少し補足しましょう。古墳の築造年代は、説明にあるとおり古墳時代中期と考えられ、主体部の箱形石棺は棺内が朱塗りで、副葬品として鉄刀一振、鉄剣一口、鹿角装具が発見されています。石棺外には約10本程度の鉄鏃が一束あったとか。古墳の特徴として「日本海沿岸の丹後地方に多く見受けられる埋葬方法から、地域間交流がうかがえることです」。(資料4)また、「被葬者の活躍していた5世紀代は、大和政権が日本列島各地域の首長を傘下に入れ、統一国家に向け始動していた頃で、この被葬者も大和政権のもとで、大和(奈良県)と北陸諸国を結ぶルート上の勝野の地を治めていた村長クラスと考えられています」。(資料4)高島歴史民俗資料館で見た「打下古墳被葬者復顔」像の人物が埋葬されていた古墳現地を一度訪れてみたかったのです。天気が好くてハッピーでした。 この写真が、資料館に展示されているもの。一度、同資料館を訪ねてみてください。 打下古墳の上からは、乙女ケ池が眼下に眺望できます。古墳の位置から、通路をさらに少し上がると上水道施設の端のところに少し上れるスペースがあります。別に、ちょっとした平坦な小さい広場も。ここから東方向に琵琶湖の北部全体が遠望できます。まさに絶景です。この日は天気が良くて、琵琶湖の眺望をしばし満喫できました。嗚呼、淡海や、淡海や!・・・・というところ。古墳から坂道を下って、麓の日吉神社で小休止。 神社の本殿 この社殿前の狛犬が少し特徴的でした。まずその容貌の表現が独特の感じです。一般的に見かける顔立ちとは若干異なります。また、狛犬の台座側面の浮彫も左右異なるデザインです。 もう一つ、本殿建物の木鼻や蟇股、柱などの側面が白く塗装されているのに気づきました。安曇川町田中に所在の田中神社を訪れた時、初めてこの白く塗るという様式を知りました。継体天皇関連での探訪の途中でした。 社殿の前に建つ舞殿には、木彫龍の額が掛けられていました。この神社は廃絶となってしまった長宝寺の鎮守社として山王権現を祀ったことに始まるそうです。お寺は消滅しましたが、神社は土豪高島氏の崇敬を得て存続したのです。元亀3年の織田信長と浅井氏の戦いにおける一連の兵火で焼失。その後、織田信澄が社殿造営、豊臣秀頼の命を受けて片桐且元が白鬚神社造営の時にこの神社を修補したのだとか。江戸時代には、大溝藩主分部氏の保護を得ることで、社頭が整備されたそうです。余談ですが、『信長公記』を調べていると、元亀3年7月24日の条に、信長の命で海上からの敵地攻略に「打下の林与次左衛門」が明智十兵衛、堅田の面々とともに出陣していることが載っています。「打下」と言うのはやはりこの辺りのことでしょうね。信長の敵・味方がやはり入り乱れていたということなのでしょうか。(資料5)この後、「鵜川四十八体石仏群」に向かいます。道路から少し奥まったところに、ここにも蓮如上人の足跡を示す石標が目にとまりました。この石標が北側から石仏群に行く入口の目印です。湖岸沿いの道路から分かれて山復に至る道が右手にあります。 そして、分岐した道の入口右手側に、万葉歌碑が建てられています。 思ひつつ来れど来かねて水尾が崎真長の浦をまだかへり見つ 1733説明碑に記されていますが、この歌は作者がわかっています。萬葉集の歌の前書きに「基師の歌二首」と記されていますので。岩波の佐佐木信綱編では「基師」としていますが、折口信夫は説明碑と同じで「碁師の歌二首」としています。また、説明碑には「思ひ」にルビが振られていません。佐佐木は「しのひ」とルビを振り、つまり「しのび」と読ませています。一方、折口は底本が違うのか、万葉仮名の解釈の違いなのか、定かではありませんが、「偲び」と表記しています。歌の表記が他にも若干違いがあります。こんなちがいです。(資料1,2,3) 偲びつつ来れど、来かてに、水尾个崎。眞長(ノ)浦を、また顧みつ「恋い人の事を思いながら、やってくると、いくら行っても行きにくくて、あの人のいる、水尾个崎の辺、眞長の浦をふり帰って見たことだ。」(現代仮名づかいに修正、資料2)水尾は三尾と同じ扱い。昔の人は漢字そのものより「ミオ」という音に漢字を当てはめるという感覚だったのでしょうね。音と漢字が固定するのは第二次大戦後の義務教育からだけなんでしょうか・・・・。昔の人はおおらかだったのですね。あれ、違うのでは・・・・と、混乱するのは、現代人で、専門研究者あるいは準じた人々ではない一般人というところでしょうか。基師(碁師)のもう一つの歌は、 大葉山かすみたなびきさ夜ふけてわが船はてむ泊(とまり)知らずも 1732万葉集の編者の方針なのでしょうか。「基師の歌二首」の次に、「小辨の歌一首」と前書きの付いた歌が載っています。 高島の阿渡の湖(みなと)をこぎ過ぎて盬津(しほつ)管浦(すがうら)今かこぐらむ 1734折口は万葉集辞典で、阿渡について、次の説明を記しています。「近江国高島郡の地名。湖岸に在る。此地方を遠江(トホツアフミ)と言ふたらしい。阿渡川・阿渡の水門などある。今、舟木の地であらうと言ふ」と。つまり、安曇川の河口のことで、現在の地名では、安曇川町北船木、南船木というあたりをさしているのでしょうね。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 どうも脇道に迷い込みがちです。つづく参照資料1)『新訂新訓 万葉集 上巻』 佐々木信綱編 岩波文庫 p2912)『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫 p3403)『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辞典』 中公文庫4)「打下古墳」リーフレット 高島歴史民俗資料館にて入手5) 日吉神社 :「滋賀県神社庁」 『新訂 信長公記』 大田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p129【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺最勝寺(高島) :ウィキペディア其の五十四 打下古墳の被葬者 :「新撰 淡海木間攫」 日吉神社(高島市勝野) :ウィキペディア 日吉神社(勝野) :「高島市観光情報」 大溝祭について :「湖西唯一の曳山 大溝祭」大溝祭 :「滋賀県観光情報」小辨 → 小弁 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -1 近江高島駅から出発 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -2 大溝城と乙女ケ池 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -4 鵜川四十八体石仏群 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -5 白鬚神社・鵜川ファームマート へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -6 鵜川の棚田・岩除地蔵 へ
2017.10.01
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前回ご紹介した「ガリバーメルヘン広場」に案内掲示されている「大溝城本丸模型」をまず部分拡大してみます。この模型実物は高島歴史民俗資料館の所蔵で同館2階に展示されています。そしてその模型の傍の壁に、 ここに引用する古地図が展示されています。模型とこの地図が照応しているのだろうと思います。(大溝城の破却を経ていますので、私の解釈に間違いがあるかもしれません。)こちらは駅前広場の大溝城説明板に掲載のレイアウト図部分を拡大したものです。本丸の周囲の堀に架かる橋の位置を目印にして、模型の向きを頭の中で動かしていただくと、全体のつながりがわかるのではないかと思っています。古地図で本丸部分の下の青色の大きな内湖部分が、今の乙女ヶ池に相当します。地理的には内湖についてかなりの変化があるようです。大溝城は、琵琶湖と内湖をうまく利用した水城です。この城は「鴻溝(こうこう)城」とも呼ばれていました。戦国時代に織田信長が、安土城を基点にみて、湖北に長浜城、湖西(安土城の対岸)にこの大溝城、湖南に坂本城という水城を戦略的拠点を構想したのです。伝承では明智光秀が大溝城の縄張りをし、信長は天正6年2月に織田信澄を大溝城城主にしています。信澄は信長の弟・信行の長男です。『信長公記』巻11(天正6年戌寅)には、「戌寅二月三日、磯野丹波守、上意を違背し、御折檻なされ、逐電仕り、則ち高島一向に津田七兵衛信澄、仰せつけられ候なり」と記載されています。つまり、磯野員昌の知行地(近江高島郡)が信澄の手に渡ったのです。(資料1)長浜城は秀吉が築き、坂本城は光秀が築いています。これで、信長は琵琶湖の水運の活用を掌中に収めたことになるわけです。この大溝城はJR近江高島駅の東方向で、高島市民病院の東側、介護老人保護施設陽光の里の建物の南西隣になります。駅から駅から東南方向150mあたり、徒歩で10分もかからない距離です。勝野という地区に所在します。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。駅から歩いて行くと、途中で新しく建てられた大溝城三の丸跡という石標を通り過ぎます。陽光の里の建物の傍に立っと、草の茂った空地の向こうに、本丸の石垣が見えます。本丸模型で言えば、石垣の見えている二側面のちょうど裏の対角側を左手方向から眺めたことになるでしょう。 空地を回り込むと、本丸への石段です。階段傍に、「大溝城とお初」についての駒札が建てられています。京極高次とお初が新婚時代をこの城で過ごしたことがテレビのドラマ番組で取り上げられて、名を知られるようになったお城です。 この2枚の画像は、近江髙島駅前の案内板の説明のご紹介です。石段に向かって右側に、 大溝城跡の石標と説明板があります。駅前の広場に設置の説明を併せてここに載せておきます。 石段を上がった本丸跡の景色 その地点から本丸の南方向を見たところ 本丸の南端側から眺めた本丸跡。 湖岸側(東側)の石垣のライン 本丸跡の南端側から乙女ヶ池を眺めたところ樹木が茂って、結構大きな内湖の雰囲気がわかりづらい形のになっています。 本丸跡を後にして、乙女ケ池に向かいます。 鍵形に曲がった橋を渡って行きます。内湖の縦長の広がりが見えてきます。 そして幾重にも繋がれた木造の反り橋が雰囲気を盛り上げてくれます。天気が良いと、ほんとにいい眺めです。 橋の傍に、「乙女ケ池」の木標が建てられていて、この池(内湖)の説明板もあります。古くは、764年の「恵美押勝の乱」の戦場にもなった場所なのです。水城として、この内湖が戦略上も有利に取りこまれたのです。 次の探訪地に向かう途中に「近江湖の辺(うみのべ)の道」があります。周遊自然歩道が設定されています。今回の探訪では、この道を利用せず、さらに山側に少し坂道を行きました。乙女ケ池の反り橋に向かう途中に建てられている万葉集の歌碑を最後にご紹介しておきましょう。 この歌は、万葉集の巻11に2436番目に、詠み人知らずの歌として収録されています。(資料2)この歌を、折口信夫は次のように解釈しています。現代仮名遣いにしてご紹介します。(資料3) 恋をして、物思いをするのを、人は笑うが、香取の海に碇をおろすのではないが、 一体如何なる人が、物を思わないで居るんだろうか。恋していて。ところで、ふと前後の歌を見るといくつか近江の地を詠んだのが出ています。脇道ですがご紹介しておきましょう。(資料2) 淡海の海おきつ白波知らねども妹がりといはば七日超え来む 2435 淡海の海おきつ島山奥まけてわが思ふ妹が言の繁く 2439 近江の海おきこぐ船に錨おろし蔵(おさ)めて君が言待つ吾ぞ 2440 淡海の海沈く白玉知らずして恋せしよりは今こそ益れ 2445最後に大溝城の変遷について、上掲の駒札周辺の情報をまとめておきます。(資料4)*城主の変遷 織田信澄→丹羽長秀→加藤光泰→生駒正親→京極高次→織田三四郎→秀吉直轄領へと代わって行きました。 江戸時代、元和5年(1619)に分部光信が城主となり、分部氏の藩主時代が幕末まで続きます。*江戸時代、元和の一国一城令により、大溝城は三の丸を残して破却されます*分部氏は陣屋を設けて、統治しました。つづくご一読ありがとうございます。参照資料1)『新訂 信長公記』 大田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p2262)『新訂新訓 万葉集 下巻』 佐々木信綱編 岩波文庫 p133)『折口信夫全集 第五巻 口譯萬葉集(下)』 中公文庫 p164) 大溝築城 :「大溝城の物語」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大溝城と城主織田信澄 :「びわ湖源流.com」大溝城三の丸跡碑 (戦国を歩く/大溝城コース):「SHIGA Photo Library」 織田信澄 :「コトバンク」津田信澄 :ウィキペディア 京極高次 :ウィキペディア 常高院 :ウィキペディア 大溝陣屋 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -1 近江高島駅から出発 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -3 くさ地蔵・打下磨崖仏・打下古墳・琵琶湖眺望 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -4 鵜川四十八体石仏群 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -5 白鬚神社・鵜川ファームマート へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -6 鵜川の棚田・岩除地蔵 へ
2017.09.30
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夏の探訪記録の再録です。(事情は付記に・・・・)2013年7月20日(土)に、「近江水の宝」というテーマの一つとして実施された「探訪 湖西明神崎をゆく~白鬚神社~」に、一般参加しました。 この探訪は、JR湖西線近江高島駅を出発して、湖岸に近い史跡を巡りながら、明神崎周辺、白鬚神社をメインに10kmくらいの距離を歩くというものです。お天気が良いと、なかなかすばらしいウォーキング探訪になりますよ。まずは、行程をご紹介しておきましょう。 JR高島駅屋→大溝城→乙女ヶ池→くさ地蔵・打下磨崖仏→最勝寺 →打下古墳・琵琶湖眺望→鵜川四十八体石仏群→白鬚神社→うちわファームマート →鵜川の棚田→岩除地蔵→JR北小松駅主催は滋賀県と高島市の両教育委員会で、高島町観光ボランティア協会のご協力でした。当日の探訪参加者募集のチラシの地図をまず載せておきます。山裾に道路がへばりついているという感じの地域であり、湖西を歩く昔の道は現在の湖岸道路辺りではなく、もっと山側の山麓を通っていたようです。今回の探訪歩きで、その古道の一部も歩くことができました。まずは、集合時刻前に近江高島駅前の探訪から。冒頭の逆光になっている写真、人物像はだれか? ピンときましたでしょうか?そう、子供のときに、きっと一度は聞いたことのある名前、ガリバーです。JR高島駅前に「ガリバーメルヘン広場」があります。そこに大きなガリバー像が建てられています。今探訪とは直接関係がないので、最初から寄り道話になります。現在は高島市になっていますが、高島町時代の昭和62年に、「未来を担う青少年に夢と冒険心」をもってもらおうよということで、あのジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」をヒントにして「ガリバー青少年旅行村」が開村されたのです。そして、この近江高島駅がその村への玄関口になるということで、この広場にでかいモニュメントとしてガリバーさんが立っているというわけです。近江高島駅の高架線路と駅ホームを背景にガリバー像の全体を撮るとこんな感じ。絵本でガリバーを見ている子供たちなら、この像を見てやはりびっくりするでしょうね。 近づくと、もう腰から下を写すのがせい一杯。ガリバー像の前方には、「小人国」のこんな砦が造られています。 夢と冒険の国へようこそ! という雰囲気です。「ガリバー青少年旅行村」は駅前から車で 約25分の距離に位置します。ガリバー青少年旅行村のホームページはこちらから。 ここには5つの国があるのです。 大人の国、小人の国、博識の国、強者の国、遊戯の国。詳しくはホームページで。「村」ですから、勿論宿泊施設があります。バーベキュー用やテントなどのレンタル用品も準備されているようです。「ガリバー旅行記」が風刺小説だということはどこかで見聞して知ってはいましたが、これって正式な本の題名ではないのですね。知らなかった!記録と知識整理のために、ちょっとネット検索して非常に遅まきながら知りました。ここまで、お読みいただいたあなたは、ご存じでした?ウィキペディアに「ガリバー旅行記」の項目があります。こちらからご覧ください。正式な題名は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』 という長~~~いものです。これまた、ガリバー旅行記をきちんと読まなかったので、初めて知ったことなんですが、旅行記の第三編は「ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記」と、これまた長いタイトルです。びっくりしたのは、ガリバーさんは、「1709年5月21日、ラグナグを出航して日本の東端の港ザモスキ[2]に着き、日本の皇帝[3]に江戸で拝謁を許された」というストーリー展開になっているそうです。被曝体験から「原爆被災時のノート」、「夏の花」を書いた原民喜が「ガリバー旅行記」を翻訳しているのです。それがネットの青空文庫に掲載されているのを見つけました。ちょっと覗いて見たら、ガリバーが日本に来た話も訳されて載っています。抄訳のようですが、小説の概要はつかめそうです。ちょっと覗いて見るならHTML版をこちらから。 また、zipファイルでのダウンロードもできるという親切さ。こちらからどうぞ。話がどんどんそれそうなので、この辺で。この小人の国の砦の壁のところに、本筋である探訪先「大溝城」の案内板が取り付けてあります。まずは、イントロとして、これを載せておきます。次回はいよいよ大溝城。城跡は今回で数回目の探訪になるのですが、訪れる時季が違うとこれまたいいものです。つづくご一読ありがとうございます。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺ジョナサン・スウィフト :ウィキペディア Jonathan Swift :From Wikipedia, the free encyclopedia Gulliver's Travels ::From Wikipedia, the free encyclopedia The Project Gutenberg eBook, Gulliver's Travels, by Jonathan Swift ダウンロードはこちらから(いくつもの選択肢があります) 原 民喜 :ウィキペディア 原爆被災時のノート 原 民喜 :「青空文庫」 夏の花 図書カードNo.4680 :「青空文庫」 国会図書館の「近代デジタルライブラリー」には、「ガリバー旅行記」が何種類も公開されています。たとえば、世界少年少女名著大系の一冊として大正13年に金の星社から出版された本はこちらから閲覧できます。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -2 大溝城と乙女ケ池 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -3 くさ地蔵・打下磨崖仏・打下古墳・琵琶湖眺望 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -4 鵜川四十八体石仏群 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -5 白鬚神社・鵜川ファームマート へ探訪 [再録] 滋賀・湖西明神崎周辺を歩く -6 鵜川の棚田・岩除地蔵 へ
2017.09.30
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中丸跡のすぐ南、本丸の北側には「大堀切」跡があります。この大規模な堀跡は本丸跡とその上、つまり中丸・京極丸・小丸などの曲輪との間を截然と区切るためのものです。本丸跡の縄張りに入ります。本丸跡は、江戸時代中期の小谷城跡古絵図には「天守共 鐘丸共」と記されているそうで、鐘丸がその機能を表していると考えられているようです。南北約40m、東西約25mの広さで上下2段になっています。今回は、本丸跡を回り込み、少し変則的に、そこから一段下がったところの曲輪に下りました。 そこに「浅井長政公自刃之地」の石標が建てられています。その場所は「赤尾屋敷跡」でした。石標と駒札の間隔の広がりから、かなりの広さがあります。赤尾氏は浅井氏の重臣です。 赤尾屋敷跡の石標が建てられているところが、屋敷敷地の入口あたりなのかもしれません。その先に、赤尾屋敷跡と本丸跡への分岐点があります。下から登ってくれば、まずこの分岐点が目につくことになります。 さらに少し下ると、「首据石」があります。天文2年1月に、合戦の際に内通者の首を刎ねてこの石上に曝したという伝承があるとか。ここから見る景色はなかなか良かったです。 首据石のちかくが「桜馬場跡」の曲輪です。ここから参加者が下って行く時、私は少し寄り道して、すぐ北側をちょっと登ってみました。そこは大広間跡への境になる場所です。「浅井氏及家臣供養塔」が建立されていました。その背後に「小谷城址碑」が建てられています。大広間跡は別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ約85m、幅約35mという広さです。ここは石垣が築かれている曲輪でもあります。大広間跡の北側は石垣が築かれ、その上に本丸が続くのです。桜馬場のところに設置された曲輪復元図を見ると、右の最上段の曲輪が桜馬場です。 曲輪復元図の中段の曲輪がこの「御馬屋跡」です。ここは三方を高い土塁で囲っていたようです。本丸跡の前面であり、本丸を守るための曲輪だったのです。御馬屋跡の清水谷斜面側には、本丸跡の後方(北側)まで、帯曲輪となっています。その幅は場所によって異なるようです。 御馬屋跡の曲輪の北東側、桜馬場跡のすぐ下に「馬洗池」があります。南北9m、東西6.6mの石積みの池が作られているのです。上掲の曲輪復元図の左側最下段が「御茶屋跡」です。その名に反し、ここは主郭の最先端であり軍事施設だった場所のようです。御茶屋として同じ曲輪復元図がここにも設置されています。 御茶屋跡から下るとき、距離が分かる標識が山道端に立てられています。 「番所跡」は間道が集まるところで、遠方からは見えにくい場所に作られていたのです。登城者の検問所だった場所です。 少し下がったところ、番所跡の一隅にこの「小谷城跡絵図」の大説明板が建てられています。現在はこの近くまで車で上ってくることができるのです。この番所跡から山裾の小谷城戦国歴史資料館までは追手道を通って900mほどの距離です。番所跡の傍から、東方向に「金吾丸跡」への登り口があり、駒札が目につきます。今回は登っていません。今回の探訪では地元のボランティア・ガイドさんの案内で、番所跡から右手方向に、山道を清水谷道の方に降りて行きました。清水谷道への手前に「虎ヶ谷道」の標識が出ています。現在は、この道を小谷城へ上って行くのは通行止となっています。標識にその表示が出ています。清水谷の元の道を小谷城戦国歴史資料館前に戻り、解散となりました。== 補足 ==今回の経験を加えることで、小谷城と大嶽城を様々なルートから登る体験ができたことになります。1.追手道を登り、番所跡、本丸跡、京極丸跡、山王丸跡、六坊跡経由大嶽城へのルート2.知善院跡の裏手西側にある清水神社から、山道に入り、山崎丸跡、福寿丸跡を経由して、大嶽城に至り、六坊跡から本丸へ下って行くルート3.須賀谷温泉、片桐且元公頌徳碑の傍を経由し、小谷城回峰行のルートと言われる道から小谷城の大石垣の傍に至り本丸跡に向かうルート4.上山田から入り、山田神明宮趾からやけをを経由して大嶽城に至ルート いわゆる、信長が夜襲をかけて大嶽城に至った険しい山道です。5.上山田から入り、「越前山續忍道」から月所丸跡、六坊跡経由で大嶽城に至るルート6.清水谷道、水の手道を経由して京極丸に至り、本丸跡等経由で虎ヶ谷道入口へのルート つまり、これが今回、ご紹介した行程です。小谷城はまだまだ探訪不足の箇所があります。興味が尽きない歴史的な山城です。ご一読ありがとうございます。参照資料「史跡小谷城跡案内図」(小谷城戦国歴史資料館発行) A3片面が小谷城跡案内の地図で、裏面に各曲輪などの説明が簡略に記されています。 なかなか便利な資料です。現地で入手されるといいですよ。 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺小谷城戦国歴史資料館 ホームページ 小谷城戦国歴史資料館 :「滋賀県観光情報」 No.034 史跡 小谷城跡 滋賀県文化財学習シート 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 平成16年3月発行 浅井長政、最後の手紙 :「今日は何の日?徒然日記」 管理人の羽柴茶々さんが、この見出しでのブログ記事を書かれていて、そこに「長政最後の感状」を引用し紹介されています。 この感状は今回の探訪企画での講演レジュメの中で、資料としてご教示いただいたものです。近代を代表するジャーナリストである徳富蘇峰のコレクションとして所蔵されていたものだとか。読み下し文にすると、こんな文面のようです。(レジュメより) 「今度当城不慮に就き、此の丸一つ相残り候處、始末自余混えず籠城候ニ而、忠節を抽(ぬき)ぜられ候儀、比類なき御覚悟謝し難く候、殊に皆々抜け出で候處、無二の様子、申す次第を得ず候、中々書中に申し及ばず候、恐々謹言」 この感状の日付の持つ意味は重要です。長政の自刃の日が通説『信長公記』とは異なるのですから。感状日付は8月29日なのです。長政の垣見氏への感状 :「江たち淺井三姉妹とお市」 垣見助左衛門宛の浅井長政感状の写真が引用されています。「長政自決の12日前の日付」だそうです。 浅井氏一族の系譜 扶桑家系研究所リポート5:「異聞歴史館 皇族・武家の家系」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 近江・湖北 小谷城 清水谷道、水の手道から京極丸へ -1 へ
2017.09.26
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2013年8月3日に小谷城戦国歴史資料館と地元ボランティアの皆さんの企画による「小谷城最後の数日を経験する」という探訪・講演会に参加しました。最初に、滋賀県商工観光労働部観光交流局しがの魅力企画室(併任教育委員会事務局文化財保護課)の北村氏から小谷城最後の数日の状況について、『信長公記』他文書資料を使った講演を拝聴してから小谷城探訪に向かいました。現地探訪について行程に沿って整理しブログにまとめていたものを、こちらに再録し、ご紹介したいと思います。冒頭の引用図とこの部分拡大図、これが当日の探訪行程です。講演会場から小谷城戦国歴史資料館前に移動した後、ここから清水谷に入ります。清水谷道から水の手道の少し険しい山道を京極丸まで登り、曲輪を順番に巡りながら下山するという探訪行程です。小谷城戦国歴史資料館のところの説明板にある「小谷城の曲輪復元図」と冒頭のルート図を重ねて、イメージを膨らませてみてください。 小谷城戦国歴史資料館ここから清水谷に入ります。ほぼ平坦な道を谷の奥に進んで行きます。その道の両側には、いくつかの屋敷跡の説明案内がわかりやすく設置されています。そして、徳勝寺跡の説明を受けて、さらに奥に入っていきます。この徳勝寺までの道は、3月に一度歩いています。それは「探訪 [探訪] 近江・湖北 徳勝寺のルーツを探る 小谷城下 -1」として再録しています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。(今回も重複での記載は避けました。) 清水谷屋敷跡の最奥には、浅井氏三代の居館「御屋敷跡」があります。さて、ここからが今回ぜひ参加したかったルートです。小谷城の登るルートとして、この清水谷最奥からの道は私にとって初めてのルートでした。 御屋敷跡の石標の少し先に、「清水谷道」の説明案内があります。この先から、山道が少しずつ険しくなっていきます。 堅堀が明瞭に残っています。 そして、「丸子岩」です。苔むした岩の左側は4~5m下、直下に細い谷川が見えます。 丸子岩の少し先に、「水の手道」の標識が出ています。この辺りから幅の狭い山道の傾斜はなれない人には険しいなと感じさせるようになります。 ちょっと登り切ると、少し平坦な広がりがあります。ここで小休止しました。この辺りにかつては井筒池と呼ばれた池があったとボランティアガイドさんから確か聞いた場所です。 この辺りから、実際の険しさが増しました。 傾斜のきつい山道を登り切ると「京極丸」です。京極丸より山頂側に「小丸」と呼ばれる曲輪が隣接しています。元亀4年(1573)は7月26日から天正元年に改元されています。そして8月27日の夜中に、木下秀吉が夜襲の本隊を率いて、京極丸に突入し、浅井久政の居所を襲うのです。本丸に居る長政と父・久政は分断されることになります。『信長公記』によれば、浅井福寿庵が切腹し、そして浅井久政は鶴松大夫の介錯により切腹して果てます。鶴松大夫は追腹を切るのです。ここのところを、『復刻 浅井三代記』を読みますと、久政の切腹を福寿庵が介錯し、介錯した刀で福寿庵は己の「心元」(心臓ということでしょう)を刺すのです。その福寿庵を、鶴松大夫が介錯し、同じ座敷では恐れありと、一段下の縁へ飛び降りて、鶴松大夫は切腹したと記されています。秀吉は久政の首を切り取り、虎御前山の信長の許に持参します。翌28日、信長は京極丸に登り、本丸・大広間に攻め入らせ、浅井長政を切腹させる仕儀となります。この時、長政は29歳でした。 小丸跡にも立ってみました。この跡は、曲輪を巡りながら下って行きます。下って行くと、途中に「刀洗池」の石標があり、その先に 中丸跡があります。つづく参照資料『新訂 信長公記』太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p152「小谷城最後の数日を追体験する」(北村講師) 当日のレジュメ『復刻浅井三代記』 p400(この復刻本はJR河毛駅で見つけて購入したのです。)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺小谷城の戦い :ウィキペディア 小谷城跡 :「滋賀県観光情報」 浅井久政 :ウィキペディア浅井惟安 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.09.26
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上山田村には、和泉神社と併置される形で、育王寺があったといわれています。ここが徳勝寺のルーツとしてかかわりがあったのではないかという伝承です。長浜でのシンポジウムでこの遺構調査時点の調査図を添付資料としていただきました(参照1)。この探訪でもこの資料を使って、説明を受けました。山の尾根筋の先端部に山城の郭跡があり、その東西に谷間が深く南北に伸びています。東の谷間に和泉神社があり、西側の谷間の調査から、かなり大規模な育王寺遺構の存在が明らかになりました。そこで、まずは和泉神社を訪れました。 鳥居の傍の説明板御由緒によると、静岡県三島市にある三嶋神社の神様(三島大明神)が、「池水に影向あり」という形でこの地に姿を現されたことに由来し、そこから和泉大明神をお祀りしたのだとか。雨乞いに関係するようです。 和泉神社の西隣にある山田神明宮 本殿 本殿の手前、一段下がったところに位置する池浅井氏が小谷城に勃興し、和泉神社は武家の信仰を集めるようになったそうです。天文21年(1552)には浅井久政が鰐口を奉納し、その後幾多の武将が鰐口や燈籠の奉納をしています。浅井氏と深く関係する神社なのです。鳥居の前の参道も南に一直線にかなりの長さで伸びています。鳥居の傍に「伝・浅井氏馬懸石」というのがあります。昔はその直線道路の南端あたりに置かれていたというご説明だったと記憶します。 和泉神社境内の西側の山裾にこれも「伝・浅井久政・長政の宝篋印塔」というのが、ひっそりと建っています。塔身部分の石がないのは、小谷城落城後のことを考え、事前に竹生島の沖合に沈めるように命じたためだとか・・・そんな伝承のある宝篋印塔なのです。ここを訪ねてから、迫りだした尾根筋の先端麓を回りこんで、育王寺遺構に向かいました。途中に、この小祠がぽつんとあります。発掘調査地図で見られるように、谷間の中心部を直線道路が通り、その左右に谷間の斜面を棚田状にして多数の坊院を建て並べた伽藍があったようなのです。この遺構形式から、天台宗系の寺院が存在しただろうと推定できるようです。そして、この地域では大規模な部類の遺構だとか。今回の探訪では、後世に作られた東端の道を伝って本堂跡らしき遺構まで登っていきました。このあたりがその場所か・・・・と。『近江與地志略』(享保19年・1734年刊)に平方村・長浜の「徳勝寺」についての項目があり、その中に「古昔医王寺と号し浅井郡山田村にあり」と記されています。一方、弘化4年(1847)の小谷城絵図には医王寺と並んで徳勝寺(下山田)の記載があるそうです。そこで、俄然おもしろくなります。医王寺と育王寺は同一の寺院だったのか、という疑問。徳勝寺が育王寺の中に隠居地を持っていたのではないかという可能性。つまり、育王寺の中に、徳勝寺と関わる要素があったのではないかという推定です。時期的には育王寺と並立する関係も考慮の余地があるそうです。(参照1)断片的情報と考古学的視点を併せていくと、徳勝寺のルーツ探しも謎が深まります。そこが歴史探究の醍醐味かもしれません。伝承、寺伝、古文書、古地図、考古学的調査による発掘遺物・・・・様々な情報から、導き出される現時点の仮説。完全な立証への限界・・・。興味深いものです。この後、浅井氏関連の史跡を巡りました。下山田の里の家まで車便乗で移動の後、ここから丁野を経由してJR河毛駅までの行程での史跡探訪です。 靜かな丁野の町を歩いて行くと、「浅井亮政 産湯の池」という標識が。遠目に眺めて、ここは今回素通りです。 丁野は小谷城主浅井家発祥の地なのです。「三條公御手植樹」という石標に並び「浅井亮政出生の地」という石標が建てられています。 この樹のある境内には、向かって右手(東側)に丁野の観音堂、左手(西側)には岡本神社が並んでいます。境内社として稲荷神社もあります。脇道にそれますが、この三條公とは嘉吉年間に勅勘をこうむって丁野村に配流された三条公綱卿のことだとか。この人物が、本社に祈願して、岡本神社の拝殿を建立されたとの伝承があるようです。岡本神社の御祭神は大山咋命、配祀神は応神天皇、天児屋根命です。延喜式神名帳の「近江国浅井郡十四座の一座」の論社であり、岡山に鎮座されていた、という由緒のある神社です。(参照2)明治5年に岡本神社と改称されるまでは、山王権現と称されていたといいます。この神社が浅井氏の祈願所にもなりました。 北にある観音堂を突き当たりとする南南東方向を道を進みます。少し南進すると、大きな武家屋敷の構えの建物がありました。 その先に、「若狭屋敷跡」があります。この場所も徳勝寺と関連があるようです。郷土史研究をされていて、ボランティアでご案内いただいた方のご説明から理解したことをご紹介しましょう。古記録によると、高時川の水争いで伊香郡井組と浅井郡餅の井組が争い死者もでた事件があります。江戸表への上訴で裁判沙汰になり、結果は餅の井組の勝利。そこで餅の井組が丁野若狭と郡上の又兵衛に謝礼をしたのだそうです。丁野村若狭ヘは謝礼として「丁野村之内 得勝寺之古蹟 惣地ニ相成候所 五反余遣シ申シ候 則今之敷地ナリ」(参照3)つまり、この古記録に「徳勝寺」という寺地の存在したことが窺えるのです。古地図などを参照し、当時の面積を推計すると、この「五反余」という広さは正確な記録だったことが確認できたとおっしゃってました。かつてこの丁野に「得勝寺」という寺地があったのです。この得勝寺の寺地は、徳勝寺とどのように関係していくのでしょう。 この後、丁野山城と中島城があった場所に向かいました。目的は、山城探訪ではなくて、弥勒寺跡を訪れるためでした。 弥勒寺は浅井亮政と関連のあった寺院のようです。丁野山城址と中島城跡に向かうちょうど狭間に寺院が位置していたのです。 小高い山を超えた道の傍に、この「丁野山古砦図」という説明板が建てられていました。山城探訪好きとしては、序でに登ってみたかったのですが・・・・予定コースではありませんでした。残念! さて、最後に、「谷田神社」を訪れました。河毛村地主神として祭られていた神社です。ここの境内からも、中島城跡への道があるようです。 谷田神社略記によると、御祭神は大山咋命と朱雀天皇です。明治2年に谷田神社と改称し山脇村のみの氏神となっているようです。寺社もまた、時代とともに変遷していくのですね。なかなか立派な村社です。 この後、北陸道高架下を通り抜けて、JR河毛駅に戻りました。補足として:事前に聴講した長浜でのシンポジウムで、藤岡講師は「謎を残す徳勝寺」という語句を講義のまとめにされました。また、謎ということに関連して、上記には触れなかったことが一つあります。それは、医王寺に関した謎なのです。主には太田講師が講義の中での一部であり、徳勝寺とは別に、ある時期まで医王寺が並立で存在していたという問題です。『改訂近江国坂田郡志』第5巻には、「医王寺阯」の項があり、それには、医王寺が「北郷里村大字堀部にあり」と記載されていて、「二百文 堀部医王寺」と記載した伊吹社奉加帳にも触れているというのです。その場所は現在の長浜市堀部町にあたります。また、天正4年10月15日付で、羽柴秀吉が医王寺に「井口内、参拾石令寄進候」と記した寄進状が残っているそうです。年表で流れを捕らえなおしますと、天正元年(1573)8月27日 小谷城陥落天正元年(1573)頃 羽柴秀吉の命で、寺地を長浜城内(古殿町)に移し、徳勝寺と改称天正4年10月15日 羽柴秀吉が医王寺に対し「井口」内30石を寄進天正5年(1574)5月 伊吹社奉加帳に「堀部医王寺」の記載がある。 天正10年(1582)7月15 日羽柴秀勝が祇園の内法花屋敷を徳昌寺(徳勝寺)に寄進徳勝寺と医王寺がある時期には併存していて、医王寺が廃絶になり徳勝寺が吸収したと考えられるという説明でした。(参照1)下山田まで遡って捕らえると、医王寺が一層謎めいてきます。同時時期に同名の寺が複数存在したのか。下山田の医王寺が堀部の医王寺に引き継がれたのか。どういう関係だったのだろうか・・・・・。解釈できる客観的資料が発見されていないか全く存在しないのでしょう。シンポジウムではこの点に触れられることがなかったと記憶します。徳勝寺のルーツ探訪は、謎を残すままになりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) シンポジウム「戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツを探る」 2013.3.24 グリーンホテルYES長浜みなと館 「遺跡からみた徳勝寺のルーツについて!」栗東市教育委員会 藤岡英礼氏 「古文書からみた徳勝寺のルーツについて」長浜市長浜城歴史博物館 太田浩司氏2) 岡本神社 :滋賀県神社庁ホームページ 3) 戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツを探る [探訪・小谷コース] 当日配布の資料【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鰐口 :ウィキペディア小谷城 :ウィキペディア丁野の観音堂 :「霊場巡りの旅ブログ」浅井氏 :「戦国大名研究」・見聞諸家紋 浅井氏の出自として、「三条公綱落胤説」が流布しているとか。興味深い説明が載せられています。正親町三条 :「公卿類別譜~公家の歴史~」丁野山城-小谷山を守る最前線の城- :「近江の山城巡り」中島城 :「近江の山城巡り」江姫の故郷・高時川に学ぶ先人達の水利用 ~水への感謝と自然への畏れ~ 登里 聡 氏 地域づくり・コミュニケーション部門:No.23 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 近江・湖北 徳勝寺のルーツを探る 小谷城下 -1 へ探訪 [再録] 近江・長浜 徳勝寺のルーツを探る -1 徳勝寺(現在のお寺)へ 現所在地を起点に、5回のシリーズで長浜市内の史跡をご紹介しました。
2017.09.25
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長浜における徳勝寺のルーツ探訪は既にこちらに再録しています。5回シリーズでのご紹介となりました。ところが、その徳勝寺のルーツは更に、かつての小谷城の城下に遡ることができるのです。2013年3月30日(土)に、冒頭に上げた地図に関係するのですが、「探訪・小谷コース」という企画に参加しました。お江のふるさと、小谷城下のまちめぐりにもつながる探訪でした。戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺の発祥地探訪をまとめてブログに載せていたものを、ここに再録してご紹介をします。 JR河毛駅前・浅井長政とお市の方銅像この探訪は、小谷城戦国歴史資料館・「徳勝寺のルーツを探る」実行委員会の企画でご案内いただきました。ボランティアの皆さんに大変お世話になりました。感謝!長浜でのシンポジウム聴講の際にいただいた資料とこの小谷コースでいただいた資料その他を参照しつつ、ご紹介します。徳勝寺のルーツとなる場所はいくつか想定されているのです。徳勝寺(長浜市平方町所在)の寺伝によると、同寺は元「医王寺」と言って、浅井郡下山田村にあったとされています。ところが様々な資料によると、他にもルーツとして関係しそうな場所があります。(参照1) A 上山田の育王寺、 B 下山田の医王寺、 C 丁野の得勝寺この3ヵ所においても、A→B、さらにはB→Cとお寺が移動した可能性を考察される研究者もおられるようです。永正15年(1518)に、浅井亮政が小谷城の清水谷に医王寺を移し、菩提寺とします。亮政没後に、亮政の諡号「徳勝寺救外宗護大居士」に従い、寺号を医王寺から徳勝寺に改めたのです。この徳勝寺が、冒頭の長浜・徳勝寺につながっていきます。浅井氏関連では「徳勝寺授戒帳」という文書が唯一残っていて、これには過去の授戒記録がいくつか併せてまとめられているのだそうです。その中に「於徳昌寺戒者」として戒名と名前等が列挙されている文書が含まれているとか(参照1,2)。また、織田信長の四男で、秀吉の養子となった羽柴秀勝の寄進状文書-天正10年(1582)7月15日文書と推定-には、「徳昌寺」と記されていること(参照1)などから、浅井氏や秀吉時代には「徳昌寺」と表記していたことがわかります。ここでは統一して「徳勝寺」と記載していきます。そこで、この探訪ではまず最初に、この清水谷の徳勝寺跡地を確認し、さらにルーツを辿ることになりました。ボランティアの皆さんの車に便乗させていただき、河毛駅前から清水谷の入口近くにある小谷城戦国歴史資料館へまず移動。ここから、大手道を清水谷の奥へと入って行きます。その途中には、 遠藤屋敷跡、木村屋敷跡の石標が建てられています。その先には、山城屋敷跡と虎ケ谷道及び曲輪跡などもあります。 その先に、徳勝寺跡がありました。清水谷のこの場所よりさらに奥に浅井家の館があったということです・徳勝寺は館のすぐ手前に位置したのです。現地には、「徳勝寺址」の石標と「徳勝寺跡」の説明板が設置されています。「天正元年(1573)小谷城落城後、文禄4年(1595)羽柴秀吉が長浜城内に移し、亮政の諡号徳勝寺殿にちなみ徳勝寺と改称」したと説明されています。(徳昌寺を徳勝寺に改称したということでしょう。)この後、下山田までは車での移動。里の家のところから探訪地に向かいます。 里の家から、田圃の先に日吉神社が見えています。 神社の本殿の近くに、医王寺跡の石標が建てられています。 境内には薬師堂があります。その後、神社の裏山を登りました。10~15分くらいだったでしょうか。途中に「浅井三代之塚」という標識が整備されています。 塚が建てられているのは、日吉神社境内から古墳・大嶽へ登って行く山道の途中であり、麓の見渡せる小高い見晴らしのきく位置でした。明治42年にこの追悼碑が建立されたと記されています。明治政府に没収となった山林が、その後不用となって放置されていたそうです。地元の7カ村が奮起してその山林を買い戻し、この石碑を建てることにしたという経緯が塚碑の裏面に記されています。当日、その記載文を転記した資料をいただきました。ここに医王寺があったということとの関連で、塚を建てる場所としてここが選ばれたのかもしれません。この部分拡大地図の番号2,3が上記の位置です。また、冒頭に載せた図をご覧いただくと、小谷山山頂・大嶽の南にある谷間、番号23が清水谷です。(参照3)この後、上山田にあるルーツ地探訪に向かいました。つづく参照資料1)シンポジウム「戦国大名浅井氏の菩提寺・徳勝寺のルーツを探る」 2013.3.24 於グリーンホテルYES長浜みなと館 「古文書からみた徳勝寺のルーツについて」長浜市長浜歴史博物館 太田浩司氏 及び当日別途配布資料2)「探訪・小谷コース」当日配布資料 (該当資料:『近江長浜町志』第2巻所載)3)「お江のふるさと小谷城下まちめぐり」 小谷城下まちめぐりウォーク実行委員会作成【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 近江・長浜 徳勝寺のルーツを探る -1 徳勝寺(現在のお寺)へ 現所在地を起点に、5回のシリーズで長浜市内の史跡をご紹介しました。
2017.09.25
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冒頭の画像は「はにわバルコニー」の南東下方向に作られた今城塚古墳の縮小モデルです。築造された当初の前方後円噴は二重周濠で内濠は水を湛え、外濠は空濠だったようです。墳丘側面は葺石で覆われ、テラスには円筒埴輪や形象埴輪が並んでいたのでしょう。また内堤に張出部が特設され、埴輪祭祀場として、埴輪が4区画に整然と並んでいたのです。北側から古墳を眺めた人々は、その埴輪群を眺めて継体天皇の埋葬儀式の有様を繰り返し思い起こしていたのかもしれません。バルコニーからは南西下にモザイクで「三島の古代地図」が描かれています。さて、内堤の関連からまずご紹介します。 前方後円噴の北東方向の内堤の一部に隧道が作られていて、内濠と外濠を往き来できるようにしてあります。そして、この場所で「内堤の土層断面」を観察できるのです。古墳築造時の地面の上に、黒灰色系盛土が行われ、さらにその上に黄灰色系盛土が行われていたのです。「内堤は、上面幅約18m、1周の長さ約950mあります。西側での高さは約5m、東側は約205mで、ほぼ地形の傾斜に沿ってつくられています。」(説明板より)この場所は江戸時代に内堤を崩し、水路を通していたところで、約2mの盛土が施されていたそうです。また、内濠側には石敷遺構が発掘されています。このパネルは石敷遺構についての説明です。上段の写真が発掘調査時点の場所の状況で、下の2枚は石敷遺構東半部(左)と西半部(右)の写真です。「東西9m、南北5mの範囲に円い小石を敷き詰めた石敷遺構です。淡路島の洲本市周辺の海岸から運び込まれた特別な石が使われています。今城塚がつくられた当時の地面の上に直接おかれていて、古墳づくりのはじめにおこなわれた土地を鎮めるまつりの跡と考えられます。」(説明文転記)実物をぜひ現地でご覧ください。こんなパネルの掲示もあります。「6世紀の大王墓」として説明されています。説明によると、二重濠をふくむ全長は354m。淀川流域では随一の壮大な規模なのです。発掘調査で出土した3種類の巨大な石棺には、海路を九州熊本から運ばれた馬門石(まかど石)が含まれいるそうです。金銀で装飾された副葬品も出土しています。 はにわバルコニーからは、「はにわのかけ橋」をわたり、ゆるやかなスロープ沿いに、「今城塚古代歴史館」に向かいました。スロープを下っていきますと、このスロープの入口側から、10年間の発掘調査概要をパネルで展示説明してあります。ここでは、入口側から時系列でご紹介しましょう。小さな字で見づらいでしょうが、イメージを持っていただければ、後は現地でゆっくりと説明文や報道記事をお読みください。1997-1999年度 本格的調査始まる 内濠が水濠、外濠は空濠と判明し、内濠の水際に護岸列石がめぐっていました。 濠底から当時の土木用具が出土しました。 2000年度 大地震の痕跡 文禄5年(1596)の伏見地震で墳丘の盛土が地滑りで内濠を埋めていたことが判明。 2001-2002年度 埴輪祭祀場の発見 北内堤中央部の張出で、200体以上の形象埴輪が発見されたのです。 古墳築造後に敷設された埴輪祭祀場です。 2003-2005年度 墳丘の構造が明らかに 後円部2段目の墳丘内で、川原石を積み上げた墳丘内石積が見つかりました。 石積の下端から1段目テラスに向かう排水溝ものびていたのです。 2006年度 石室基盤工の発見 後円部北側の崖下で、2段目上部から盛土とともに滑落した大規模な石組・ 石室基盤工がみつかりました。横穴石室が沈下しないための工夫です。 最後に今城塚古代歴史館の常設展示室を一部、ご案内します。(資料1)常設展示室は写真撮影OKでしたので、部分的に撮ってみました。展示室のイメージがおわかりいただける程度のご紹介です。古墳内の探索と併せると理解を深める上で相乗効果が出てくると思います。 展示室内に今城塚古墳1/100模型の展示今城塚の巨大古墳を築造する過程の一部を実大ジオラマにしてあります。 今城塚古墳の実像としてはやはりこのエリアでしょう。大王墓の葬送儀礼が理解できる空間です。複製により再現されている埴輪祭祀場のあの埴輪群の本物の代表的なものがここに展示されています。一方に、3基の復元石棺や副葬品が展示されています。石棺には奈良県や兵庫県から搬入された凝灰岩、熊本県から海路運ばれてきた馬門石が使われているのです。それを可能にした権力を持っていたということを裏付けています。石棺の傍の床下には、石室を支えた石組みである石室基盤工が再現されています。発掘された古墳から石室基盤工が発見されたのはこの今城塚古墳が最初だそうです。 円筒埴輪と朝顔形埴輪も列をなして展示されています。「今城塚古墳の円筒埴輪には、2本の帆柱(マスト)を立て、碇網と考えられる2本線を船体の右端からおろす船のヘラ記号を描くものが数多くみつかています。この停泊船を刻んだ埴輪は、樹立位置から分かるものはすべて後円部から出土しています。同様の船のヘラ記号を描く円筒埴輪は、新池遺跡からも出土しており、大王墓・今城塚古墳と埴輪生産地・新池遺跡の結びつきが示されています」(資料2) 葬送儀礼を再現する埴輪群 一隅には「継体大王の生涯」を説明するパネルが掲示されています。生誕、大王に擁立、王権を支えた勢力、磐井との戦い、三嶋之藍陵という見出しで説明されています。 古墳時代の古墳の変遷と対比を示す大型パネルも掲示されています。最後に「古墳時代の終焉」という展示コーナーがあります。「群集墳と終末古墳の登場から寺院の建立へ、律令国家の成立過程を探る」(資料1)という試みです。この常設展示室でちょっとおもしろくてかつ興味深いのは「5 学芸員の部屋」があることです。「古墳の科学探査や分析技術などを通じて、学芸員の仕事を紹介」(資料1)するセクションという位置づけです。講座の聴講との兼ね合いで、拝見できる時間に制約がありました。また別の機会に採訪し、ゆとりを持って拝見したいなと思っています。なかなか見どころに溢れた「いましろ大王の杜」でした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「いましろ大王の杜」リーフレット 当日入手した資料2) 『たかつきの発掘史をたどる』 今城塚古代歴史館 編集・発行 p31 高槻市埋蔵文化財調査センター開設40周年記念特別展 図録【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺今城塚古代歴史館 トップページ インターネット歴史館 :「高槻市」いましろ 大王の杜(今城塚古代歴史館、史跡今城塚古墳):「JRおでかけネット」中学校社会 歴史/古墳時代 :「WIKIBOOKS」古墳時代 :ウィキペディア継体天皇 :ウィキペディア継体天皇 :「コトバンク」【高島市歴史散歩】継体天皇 千五百年の謎「継体の生誕地・高島から探る」 :「びわ湖源流.com」継体大王と越の国・福井県 トップページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 大阪・高槻市 史跡今城塚古墳(いましろ大王の杜) -1 内濠をかこむ内堤を歩く へ探訪 [再録] 大阪・高槻市 史跡今城塚古墳(いましろ大王の杜) -2 墳丘部を歩く へ探訪 [再録] 大阪・高槻市 史跡今城塚古墳(いましろ大王の杜) -3 埴輪祭祀場細見 へ継体天皇関連でご紹介している次の再録記事もご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀 英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡周辺 -1 三重生神社、伝信長の隠れ岩 へ 5回のシリーズでご紹介。探訪 [再録] 滋賀 継体天皇の足跡を今度はウォーキングで 高島市安曇川町 へ
2017.09.25
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この画像は、史跡今城塚古墳探訪の第一段階として内堤沿いに一周した際にご紹介した景色です。「埴輪祭祀場」の東端側から撮りました。こちらは西端側からの眺めです。内堤の外側の円筒埴輪列からさらに外濠に向かって突き出された区画です。そこに様々な形象埴輪が整然と列を成して配置されています。その傍に、「10 埴輪まつりのステージ」という説明板が設置されています。今回はこの埴輪まつりのステージ細見というご紹介です。長さ65m、幅10mという大きな張出(はりだし)が古墳の完成後に内堤に付け足されたそうです。「大王の死にかかわっておこなわれた儀式の様子を再現するために特設された埴輪祭祀場(さいしば)」であり、やはりこの今城塚古墳の最大の特徴なのです。平成13年(2001)6月25日から実施された第5次今城塚古墳の発掘調査で発見されたようです。(資料1)冒頭の画像を見ていただくと、右上に茶色の建物が写っています。内堤上をこのステージに近づいてから撮った建物で、「はにわバルコニー」と称されています。バルコニーに立つ人の所からは「埴輪祭祀場」(埴輪まつりのステージ)全景を目の前に眺めることができるのです。バルコニーには、「15 大王の埴輪まつり」と題して、この埴輪祭祀場の全景写真付きの説明板が設置されています。この説明文を利用させていただきながら、細見していきたいと思います。この特設されステージ上は埴輪の塀で4つの区画に区切られ、そこに精巧な形象埴輪が200点以上も整然と配置されていたのです。発掘調査で出土した埴輪の代表的なものが今城塚古代歴史館に常設展示として陳列されています。発掘された埴輪から、復元埴輪が製作され、かつての壮大な姿をここに再現したのです。「家・大刀・盾・人物など約190点の形象埴輪を発掘調査で確認された位置に復元配置」(資料2)してあるとのことです。古代王権の儀礼の状況を具体的な埴輪の姿で目にできるという点が、まさに今城塚古墳のハイライトであり見どころといえます。バルコニーに立ち、祭祀場の一画をズームアップして見ると、こんな感じに見えます。全体の配列は塀や門の形象埴輪により大きく4つの区画に区分されています。バルコニーの説明板には、区画範囲が示され、それぞれの内容が簡潔に記されています。バルコニーから眺めて左端が東端、右端が西端です。東端から第1区画が始まります。冒頭の左の写真は、第1区画であり、右の写真は第4区画となります。それでは再び、内堤から埴輪まつりのステージを細見してまいりましょう。第1区画に近づいてみます。バルコニー側が北で、内堤は南側にあります。その内堤を東から西に進んで行きます。 ステージの南側に器台と蓋の列、片流れの家があります。その北側には鶏と大きな家が配置されています。家の西側は2区との間を区切る塀があります。1箇所空間があるのは門があったところだそうです。家形埴輪は円柱が使われた高床式で、祭殿風の家です。屋根には千木があり、突起状のもので飾られています。屋根の縁部分に魚の絵や斜めの二本線が陰刻されています。説明板には鳥の絵も刻されているという記述があります。この第1区画は「亡き大王が安置されている空間を暗示し」ているそうです。 第2区には、南側に大刀の列と甲冑の列が配されています。北側には、鶏がここでも祭殿風の建物の前にいます。建物の東側には2人の巫女が建物の方に供物を載せた皿を捧げて運ぶ姿で立っています。さらに小さな家も近くに配置されています。こちらの家形埴輪も円柱、高床式で祭殿風の家ですが、第1区とは少し差異点があります。屋根の縁の文様に魚が描かれず、斜めや縦の二重線だけが陰刻されています。逆に千木の表面に文様が描かれている一方で、屋根の棟部分に鰹木がのる形だけになります。 小さな家の屋根はかなり急な勾配です。こちらの屋根の棟にも鰹木がのっています。第3区との境は、第1区と同じ形状の塀が使われています。こちらには門があります。太刀の列は第3区にも続いています。 第3区に入ると、大刀の列の南側に水鳥の列が加わります。 第4区との境、西寄りには矢を入れて背負う靭(ゆき)や盾(たて)が配置されています。 大刀の列の北側、第2区寄りに正装あるいは武装した男子が立っています。 中央部には両手を天に向かって高く掲げた巫女を先頭に、供物や祭具を捧げ持つ巫女が列をなして続きます。先頭の巫女の衣裳は後に続く巫女よりも一際豪華なもののようです。祭りの儀式が始まる前の一コマの感じです。巫女列の北側には、大きな祭殿風の家の前に楽座の男子が配置されています。この第3区では大小の家形埴輪の数が倍増しています。この区画に日本で最大の祭殿風の家形埴輪があるそうです。 また家屋の形も、バラエティに富んでいます。当時の家屋形態が様々あった証なのでしょう。ここが一番賑やかな区画になっています。この祭祀場の中心的な空間となっているようです。この第3区には、この奇妙な埴輪が配置されています。動物の脚の部分だけを全体が繋がる形ですぱっと切断したかのような形状です。実に不可思議・・・・・! 第4区側から眺めた第3区との境の塀。この中央が門で、この門には扉も表現されていたそうです。第4区の南側には、冒頭2つめの画像にある通り、白鳥の列や牛・馬の列があります。 北側には武人や鷹飼人が並んでいます。門を守るためでしょうか、力士が2人ずつ南北に向かい合う形で配置されています。これでこの埴輪まつりのステージの全貌を大凡見つめてきました。このステージの一角にあるこの埴輪の馬には跨ることもOKという説明書が傍にありました。子供が跨って、親に写真を撮ってもらっていました。これらの埴輪はすべて北西約1.2kmの新池遺跡でつくられ、運ばれてきたものと考えられるそうです。(資料1)観察していておもしろいと思ったのは各埴輪のサイズについてです。一つの種類の埴輪と他の種類の埴輪の大きさの相対感覚がないということです。例えば、人間と大刀・靭・盾と鶏における相対的な大きさの比率という観点は無視されています。一方で、家というカテゴリーの中では、家の形態に応じて多少の大小関係の相対化がなされているのです。区画の区切りとなっている塀や門などは極端に小型化されて、境界のシンボルという位のサイズで作られています。このあたりの感覚がおもしろいと思いました。第1区の傍の円筒埴輪列を最後に置いて、この埴輪祭祀場のご紹介を終えます。つづく参照資料1) 第5次今城塚古墳の調査(現地説明会資料) :「現説公開サイト」2) 「いましろ大王の杜」リーフレット 当日入手した資料【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺国内最大の家形埴輪を発掘! 日本の歴史新聞 :「学研キッズネット kidsnet」高槻市はにわ(ハニワ)工場公園総合案内 ホームページ史跡新池埴輪製作遺跡 インターネット歴史館 :「高槻市」形象埴輪 :ウィキペディア形象埴輪 :「グレゴリウス講座」形象埴輪あれこれ 切手と消印でたどる日本の歴史埴輪の起源説話(No.134) :「藤井寺市」古墳時代後期における円筒埴輪について 河内一浩氏 pdfファイル 家形埴輪 :「大阪文化財研究所」家形埴輪 :「文化遺産オンライン」家形埴輪 :「京都府埋蔵文化財調査研究センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 大阪・高槻市 史跡今城塚古墳(いましろ大王の杜) -1 内濠をかこむ内堤を歩く へ探訪 [再録] 大阪・高槻市 史跡今城塚古墳(いましろ大王の杜) -2 墳丘部を歩く へ探訪 [再録] 大阪・高槻市 史跡今城塚古墳(いましろ大王の杜) -4 発掘調査史、今城塚古代歴史館 へ継体天皇関連でご紹介している次の再録記事もご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀 英雄伝説・継体天皇と織田信長の足跡周辺 -1 三重生神社、伝信長の隠れ岩 へ 5回のシリーズでご紹介。探訪 [再録] 滋賀 継体天皇の足跡を今度はウォーキングで 高島市安曇川町 へ
2017.09.24
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