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中山道街道文化交流館 [探訪時期:2014年5月]この建物は明治初期の町家(旧筆忠)です。現在は「守山宿」や中山道街道などについての情報発信センターです。 企画展示ということだったかもしれませんが、交流館の二階にはこの交流館の前に所在する天満宮所蔵の「天満宮三十六歌仙絵」がずらりと説明文付で展示されていました(2014年5月時点)。間近に見られるのはいいですねぇ・・・・。 展示説明によると、滋賀県内で三十六歌仙絵が完全に揃っている唯一の例だそうです。平成9年(1997)4月に守山市の文化財に指定されています。「縦49.3cm、横35.1cm、厚み1.8cmの板の上に和歌を墨書し、その下半に歌人を彩色しています。」36枚の内の1枚(中務)の裏面に、明治11年9月に記された墨書があり、この時に奉納された三十六歌仙絵です。三十六歌仙絵についても、説明文が掲示されています。ミニチュア人形による大名行列の姿が展示されていて、江戸時代の参勤交代のイメージを浮かべられます。その他様々な中山道関連情報や地産土産もここでご覧いただけます。月曜日が休館ですが、普段は10:00~17:00の開館、トイレもありますので、観光客には便利な交流館です。守山宿の町絵図説明はじめ、当時の文化の情報発信がなされています。今回はこの交流館周辺のご紹介です。 交流館の少し東が、守山宿の「本陣跡」推定地です。駒札と石標が建てられています。 交流館の前あたりに天保4年(1833)の宿場絵図に記載されているという井戸跡があります。そして、この「本陣跡」石標のすぐ近くに、井戸の上部石組を移転して保存されています。 中山道の南側に交流館、北側が「天満宮」の境内です。もとは天徳3年(959)に東門院守山寺の境内に鎮座していたそうですが、天文15年(1546)焼失したのだとか。「明治5年(1872)中村清右衞門(旧中村茶舗)らが菅原道真の子孫で京都高辻家屋敷内の社殿社宝を購入し近在の人達の努力によって明治11年(1878)9月15日、旧宿場の馬継所を中心(現在の地)に遷宮されました。」(資料1)天満宮の石造鳥居の西側、道路傍にこの駒札「稲妻型屋敷割りの道」が建てられています。 駒札の左に掲載の図を切り出したものです。守山宿は街道筋の町並の距離が長い街村(がいそん)で、この天満宮・交流館のあるあたりの道幅が最も幅広く高所になっている地域だそうです。そして、このあたりの道路に沿った民家は、平坦に列をなしているのでなく、一戸毎に段違いになり、その敷地の一端の段違いの長さがおよそ2~3尺(約60~90cm)と、稲妻型に建てられていたのです。私は見過ごしましたが、現在の道路の側溝にその名残があるようです。機会があれば、また確認してみたい次第です。 天満宮の北に、源内塚(薬師堂)が所在します。お堂の傍に文字が判然としなくなってきた石標が建てられています。平治の乱(1159年)で敗れた源義朝ら一行が敗走する途中、源頼朝が一騎はぐれて守山に入ったそうです。その頼朝の首を獲ろうと役人の源内兵衛真弘らが襲いかかったのです。しかし、源内は逆に頼朝の名刀「鬚切り」で両断されたといいます。村人は源内を哀れみ、ここに首塚をつくって供養したのです。そこにこのお堂が建てられたようです。 堂内から見た源内塚 画像の手前に写っている丸い石が駒札に記された「伺い石」です。この後、町家「うの家」に立ち寄りました。平成24年(2012)1月にオープンしたばかり。入手したリーフレットには、「江戸末期から明治初期に建てられた主屋、造り酒屋の趣を残す蔵などを改修し、展示室、ギャラリー、飲食店を整備しました」というスペースです。 見所は、主屋から小間の廊下でつながった文書蔵を利用した「森口華弘氏展示」です。文書蔵は証文等の文書を保管する蔵で、蔵としては格が高く、何重もの扉を持つ頑丈な構造です。蔵の雰囲気を残して、森口華弘の作品数点とグラフィックパネルが展示され、解説映像も見られます。生い立ちや功績などを知ることができます。中庭に面したガラス戸の間の柱には細長い板に「非理法権天」という語句を特殊な字体で刻した作品が掛けられています。この書体に関心を抱きました。これは南北朝時代の楠木正成が旗印にした言葉だとか。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たぬ」というフレーズと言います。人事は結局天命のままに動き、人は天に逆らうことはできない、という意味だそうです。 和室の襖と中庭もちょっと興味を惹かれるところがあります。「うの家」を出て、中山道を吉身西の交差点に至るまでに、 この道標が目に止まります。「高野郷新善光寺道」は栗東市の新善光寺へ、「すぐいしべ道」は東海道石部宿(湖南市)への案内です。新善光寺はここから25町と明記されています。中山道からの分岐先を示しています。このあたりが守山宿(本宿)の東端になるそうです。右の画像は道標の位置から南方向へ分岐する道です。この道を南下すると、JR守山駅の駅前の通りに至ります。それまでに金森川を渡りますが、そのあたりに「ほたる地蔵」があるようです。道標を見つつ、今探訪のメインであり、最後の探訪地となる慈眼寺に向かいます。 つづく参照資料1) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著2) 「故きを温ねて新しきを知る うの家」入手リーフレット3) 「守山市中心市街地 歴史散策マップ」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺高辻家 :「Kotobank.jp」三十六歌仙 :ウィキペディア三十六歌仙 藤原公任撰「三十六人撰」による :「千人万首-よよのうたびと-」大名行列 :ウィキペディア箱根の大名行列 そのルーツを尋ねて :「箱根全山」謡曲「望月」 :「能面と謡曲」演目事典 望月(もちづき) :「the 能 .com」髭切(ひげきり) :ウィキペディア源氏の宝刀 ~髭切と膝丸 :「月に叢雲花に風」by 土原ゆうき氏新善光寺 ホームページ新善光寺 :「滋賀県観光情報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.18
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JR守山駅から北西に延びる「語らいの学び舎通り」と旧中山道が交差する「守山銀座西」から中山道を北に約50m歩むと、この「東門院」(とうもんいん)が所在します。 [探訪時期:2014年5月] 山門の南東方向、中山道沿いに、「明治天皇聖蹟」碑と、その傍に明治天皇がこの東門院を2回、御小休所(おこやすみしょ)として利用したことを説明した碑が建てられています。 また、「中山道守山宿」についての駒札も建てられています。古来、東山道と称された道が江戸時代に中山道に改称され、寛永19年(1642)に守山宿は中山道の正式宿場としての制札を許可されたのです。中山道は江戸(東京都)・板橋を一番宿として六十七次目の最終宿場です。日本橋・守山間は127里16町で約508kmだそうです。近江の中山道としての距離は草津~柏原が15里半、約61kmといいます。(資料1)さらに、正徳4年(1714)に、守山本町だけでは規模が不十分ということで、今宿と吉身が加宿(かじゅく)となったそうです。(資料2)京都から中山道経由で江戸に向かう「東下り」(あずまくだり)の旅人にとり、京都三条からこの守山までは8里6町(約34.4km)で、「京だち守山泊まり」の距離だったようです。当時の旅人の一日の行程は8~10里(約40km)だったとか。 正式名称は「比叡山東門院守山寺」と言います。寺の縁起には、延暦年間(782~806)に比叡山延暦寺の東門として創建されたのが始まりと伝えられているそうです。延暦4年(785)最澄が比叡山の開創にあたり、四境に構えた四門の内の東門にあたるのです。東の鬼門を守るためだとか。(資料3)そして、「比叡山の東門として山を守る」ことから、「守山」と名づけられたと言われています。地名の由来がここにあるそうです。(資料4)しかし、資料としてわかるのは、室町時代以降で、観音信仰の霊場として発展したようです。山門には「近江西国三十三ケ所霊場 第二番」の木札が懸けられています。門前の石標には、「田村将軍護持本尊 観音大士霊場 比叡山東門院」と刻されています。延暦14年(795)、東国から凱旋した坂上田村麻呂が伽藍を建立して延鎮作の千手観音像を安置したといいます。(資料3)石標はこのことを意味しているのでしょう。 山門を入ると、すぐ左側に、子蛙を背中に乗せた大きな石造の蛙像がおかれています。これはちょっとめずらしい・・・・。 右手に手水舎、その手前に、右の写真の小ぶりな石仏像が安置されています。 石畳の参道を歩むと正面が本堂です。 本堂の向拝所の柱には、「近江湖南二十七名刹霊場 第二十三番」(びわ湖百八霊場会)の木札が懸けられています。昭和61年(1986)12月、本堂出火により重文の十一面観音立像、毘沙門天立像など多くの文化財が焼失しています。(資料1,2)山門を入って、右手方向には、2つのお堂があります。 石畳の参道が分岐し、奥の方にあるお堂が不動明王を祀るお堂です。 扉の格子の間から拝見した不動明王坐像。重要文化財に指定されている像がこれでしょうね、たぶん。 山門を入って左手方向に行くと、3つの石塔が並んでいます。中央にあるのが、様式から判断して鎌倉時代の造立と考えられている石造五重塔です。 石造五重塔の初重の塔身正面には船形の輪郭の中に阿弥陀仏坐像が彫り込まれていて、背面は釈迦とみられる仏坐像が彫刻されています。この初重、前後2枚の石で構成されています。こういう形式を私は初めて見ました。 五重塔の左の石造宝塔と右の石造宝篋印塔はともに重要美術品に指定されているそうです。いずれも鎌倉時代の作。東門院に関連した史実・伝説をいくつかご紹介します。(資料1,2,3)*最澄の従者7人が門前に住み、茶店を設けたところから「七軒在家」と呼ばれ、この7軒を中心に門前町ができていったのだそうです。*鎌倉時代、源頼朝が上洛の折に、東門院近辺の青柳の水を愛馬に飲ませたという伝説があるそうです。「青柳の清水」は御茶会の御用水に使われるほど、良質の水だったとか。*東門院は江戸時代、しばしば「観音堂」として記述されていて、「近江名所図会」巻4にも「守山観音堂」として載っています。*「比叡山東門院守山寺」の名称は、享保19年(1734)の『近江輿地志略』に記載されているのが初見だそうです。*東門院は江戸時代には朝鮮通信使の高官の宿泊所として利用されました。東門院を出てから、旧中山道沿いで見た板看板と格子造りに風情を感じます。東門院から少し北に歩むと、三叉路になっています。その東端に道標が建てられています。右方向が中山道で美濃路に向かい、左方向に進めば45丁で錦織寺に至り、琵琶湖の木浜(このはま)港へも通じるという道案内です。45丁は約4kmの距離。 この道標には大津西念寺の講中が延享元年(1744)霜月に建立したと明記されています。講中が真宗木辺派本山錦織寺と木ノ浜への道しるべとして建立したものであり、石柱道標としては江戸時代でもっとも古いものと言います。(資料1)旅人にとって、こういう道標は大変ありがたいものだったことでしょう。また、この場所は江戸時代、高札場が設けられていたところでもあるそうです。つづく参照資料1) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著2) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社3) 『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社 p4674) 『近江歴史回廊 近江中山道』 淡海文化を育てる会編 SunRise p60【 2014.9.30追記 】江戸時代に刊行された『木曽路名所図会』の第1巻に、東門院の絵が掲載されています。「守山観音堂東門院」と表示されています。早稲田大学図書館の古典籍データベースから引用させていただきました。第1巻の全ページはこちらをご覧ください。引用は33コマ目です。文章は37コマ目ですが、内容は『近江名所図会』と同文です。『木曽路名所図会』の全体はこちらからご覧ください。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺東山道/中仙道/中山道 → 中仙道の歴史 :「中仙道」東山道 :ウィキペディア中山道 :ウィキペディア*『近江名所図会』巻四の見開きで4ページ目に「守山観音堂」の項目があります。 滋賀県立図書館の「近江デジタル歴史街道」の検索ページにある「注目のキーワード」内の「名所図会」をクリックし検索していくと便利です。 近江西国三十三箇所 :ウィキペディア近江西国霊場33ケ所 一覧表近江湖南27名刹びわ湖108霊場 ホームページ坂上田村麻呂 :ウィキペディア高取町出身である最初の「征夷大将軍」坂上田村麻呂の活躍真宗 西念寺・大津市 ← 寺院紹介真宗木辺派 本山錦織寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.18
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[探訪時期:2014年5月]山本家(町家)を拝見した後、旧中山道を北に進みます。ほどなく、樹下神社境内への案内板が左側にあります。神社への参道入口の南側に建てられてます。その傍に石標が2基ありますが、後でご紹介します。 参道右側には樹下神社の石標が建てられていて、参道の両側にはまだ真新しい石灯籠が林立しています。地元の人々の神社への信仰が篤いのでしょう。石造鳥居をくぐった南側に大きな常夜灯が建てられています。 石積み檀を含めると高さ4mの大きな石造常夜灯です。笠の部分は唐破風造の屋根を象った屋形形式の石灯籠。四角柱の竿部分には、東面に「太神宮」、南面には「瑜伽大権現」、北面には「金比羅大権現」の太い文字が刻まれています。参道入口に立つまだ新しい常夜灯の説明文付き石標 竿の西面には「願主 天保二年辛卯九月 伊勢屋佐七」と刻まれています。天保2年は西暦1831年です。この常夜灯の傍に、説明碑が新しく建てられています。この常夜灯は平成11年(1999)に市文化財に指定されたそうです。(資料1)説明碑によりますと、この常夜灯はもともとは、樹下神社の北側に西流する吉川の左岸にあったのです。吉川を利用する船便や、吉川に架かる土橋を渡り中山道を往来する人々の安全を祈願して建立されたものです。河川の氾濫などで常夜灯が崩壊した後に、神社境内に移設されたのです。願主佐七は、ここ守山宿を拠点にしていた旅商人だったと推定され、今宿町超勝寺の檀家だったことが記録に残っているそうです。基壇には、南側面に守山宿内で常夜灯の建立に協力した人々の名前が刻されています。また佐七の商人仲間が分散していた地域の旧国名が西側面に刻されています。 武州(東京)、三州(愛知)、濃州(岐阜)など9つの地名が列挙され、「惣身内中」と刻されています。人名の方は堅田屋喜一郎をはじめ14人に及ぶようです。 一つ下の台石には、明治期に補修を施したことも記録してあります。 樹下神社の社殿 現在の祭神は稲田姫命。1987年の修理に際に木簡が発見されたそうで、そこには延久3年(1071)創建と記されていたとか。(資料1)本来は坂本にある日吉大社・山王七社の一つである「十禅師宮」と称されていたそうです。栗東市にある大宝神社(祭神:素戔嗚尊、稲田姫命)から分祀された小祠だとか。明治初期の廃仏毀釈の影響で、仏教色のある名称を「樹下」と改め、明治15年(1872)に現在地に整備されたのです。社殿に向かって右側斜め奥に祀られている境内社 社殿に向かって左側斜め前に「安産の石」があります。平石が安置され、その由来書の駒札がたてられています。その要点は、*菅原道真が左遷された時、その息女も連座で配流の途中、守山宿に至った。*通称どばし河の叢の平石あたりで息女は産気を催す。村人の看護の効なく入滅した。*息女は死に臨み女人の安産を平石に祈祷した。村人はその地に女天神塚を設けた。*現今宿町一番地守山小学校運動場に一隅に所在したものをこの境内に安置した。ということです。日本の信仰の中には、禍の事実を逆に福の源に転じるという発想が濃厚なようです。怨霊を祀ることから御霊信仰への展開に進展しているのと同じですね。112こんな掲示がしてあります。社殿に向かって左側斜め奥に小祠が並び、朱の鳥居も見えます。時間が無くて個々の小社を識別している時間がありませんでした。天満宮、天照皇太神宮、石清水八幡宮、権大夫大神、愛宕大神の五神が祀られているそうです。 拝殿 境内の一隅に、少し大きめの石仏の周りに整然と石仏が並べられています。中央の石仏も地蔵尊のようだと思いました。 別の一隅には、この「停車場道」道標が移設されて保存されています。傍の板壁に説明掲示が丁寧にされています。JR守山駅が明治45年(1912)に営業開始した時に、その完成記念として、中山道から駅への入口(現 今宿町交差点信号)の右側に建てられていたそうです。一つの神社を軸にいくつもの歴史の断章が織りなされています。中山道を軸にと言うべきかもしれません・・・・。 「土橋」(どばし)今はこれら画像に見るとおり、川幅4mほどのところに架かるコンクリート製の橋になっています。川は吉川という名称です。かつては境川であり、本宿守山と加宿今宿を結ぶ橋、そして昭和16年(1941)までは栗太郡と野洲郡の境界となる川でした。(資料1,2) 樹下神社の参道入口に建つ左の石標にある説明と、土橋の傍に建てられた駒札が、かつての吉川(境川)と土橋の姿を語っています。古代においてはこの吉川は、野洲川本流の旧河道であり、扇状地烏丸半島をつくったほどの大きな川だったそうです。『日本書紀』巻28・天武天皇には、元年(672)秋7月13日の条に、男依(おより:村国連男依)らは安河の辺の戦いで大勝した、という記述があります(資料3)。この戦いの推定地がこの土橋のあるあたりのようです。江戸時代は幕府公儀の御普請橋の一つで、瀨田唐橋の改修時の古材でこの橋が築かれていたそうです。当時は長さ20間(約36m)、幅2間(約3.6m)という大きな板橋であり、その上に土を盛っていたといいます。それが土橋という名の由来だとか。この橋の袂に、上掲の常夜灯が建てられていたのです。広重が「木曾街道六十九次」守山宿として描いたのはこの土橋からの眺めだと言われているようです。(資料2)当時、大川だった吉川に架かる土橋は、江戸幕府にとって、戦略的に重要な橋の一つだったのでしょう。公儀御普請橋とする理由があったのです。橋を渡り、今宿から本宿守山に入ります。最後に、広重の描いた守山宿の眺めをウィキペディアから引用させていただきます。(資料4)つづく参照資料1) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著 2) 『足のむくまま 近江再発見』 國松巖太郎・北脇八千代共著 新評論 p1453) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟著 講談社学術文庫 p2554) 守山宿 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺十禅師 :「Kotobank.com」山王権現 :ウィキペディア大宝神社 ホームページ大宝神社 :「滋賀県観光情報」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.17
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[探訪時期:2014年5月]勝部神社から楓三道を南下していく途中で、この標識を歩道脇で見かけました。守山市が勝部町地区の歩道の設置整備を行うにあたり、市民への市道の愛称募集を初めて行って、この「楓三道」という名称がついたそうです。(資料1) 南守山街道を西進し、閻魔堂町交差点で左折して中山道を少し南に向かうと、「住蓮坊母公の墓」の石標が建てられています。この石標の左の細い通路を少し奥に入ったところに墓地があります。 お墓の全景このお墓、現在は市村家の屋敷内の私有地に所在していて、市村家の人々が丁寧に供養されているそうです。今回の探訪会ということで、拝見させていただきました。 こちらのお墓が住蓮房母公の墓だそうです。前方の石塔の前に、右の画像の石標が建てられています。こちらは側面の銘文によると、大正2年10月に住蓮坊の700周忌の法要が行われ、母公の墓も修理されたようで、それを記念して大正6年春にこの供養塔が建立されたのです。住蓮は安楽とともに法然上人の弟子で、若くて美しく、彼らの浄土礼賛声明が評判となるほどの僧でした。この二人が、法然や親鸞が流罪となる「建永の法難」の直接原因となるのです。勿論、それは法難の一要因に過ぎないと思いますが・・・・。安楽と住蓮は鹿ヶ谷の草庵で「六時礼賛」念仏会を行っていました。後鳥羽上皇が熊野詣でに出かけ都を離れていた間に、上皇の女房二人がこの「六時礼賛」に参加します。この二人の願い出を聞き入れ、安楽が鈴虫姫を住蓮は松虫姫を剃髪、出家得度させたのです。尚、松虫姫、鈴虫姫という名は後代、室町時代に命名されたようです。熊野詣でから帰洛した後鳥羽上皇は、このことを知り、許しも無く二人の侍女がとった出家という行動に激怒したのです。その結果、建永2年(1207)、安楽は六条河原で、住蓮は近江国馬淵村で処刑されることに。さらにそれが法然の土佐国への配流、親鸞を越後国への配流という処断に連なって行ったのです。息子住蓮が捕らえられ、処刑されることを知った母親は、住蓮に一目会いたいと中山道を馬淵村(現近江八幡市馬淵)の方に急がれたのだとか。ところがこの守山まで来とき、既に処刑されていることを聞き、悲嘆して焔魔堂の池(尼ケ池)に入水自殺したといいます。その住蓮の母公を弔うお墓をこの地に作り、供養されてきたのです。「住蓮を打った刀は市村家が所蔵されていたが、延宝5年(1677)大宝神社に奉納された」(資料2)のだとか。脇道に逸れますが、それでは、住蓮・安楽と松虫・鈴虫の墓はどこに?京都市左京区鹿ヶ谷に住蓮山安楽寺というお寺があります。現安楽寺の所在地から少し離れますが、かつては法然上人の如法念仏の道場があり、そこに弟子の住蓮房・安楽房が住んでいたのです。そしてその道場で松虫・鈴虫が落飾します。上記の経緯です。この道場は、その後荒廃してしまいます。江戸中期の延宝9年(1681)に住蓮・安楽の菩提を弔うために、伽藍を建てられたのが安楽寺の起こりと伝えられています。江戸時代の『都名所図会』は、「年経て念仏弘法の旧跡なれば寺となし、住蓮・安楽の二師を開山とす」と記しています。(資料2)一方、法然上人が帰洛後、二人の弟子の菩提を弔うために再び草庵を建て「住蓮山安楽寺」と名づけたとも、室町時代末、天文年間(1532-1555)に再興されたともいわれています。(資料3)松虫姫と鈴虫姫は、上皇を激怒させたのですが、尼になった後は瀬戸内海の生口島の光明坊で念仏三昧の余生を送ったといいます。(資料3,4)後世になって作られた供養塔があるのです。 境内右手に、供養塔への石標があります。住蓮・安楽の辞世の歌でしょうか・・・・歌碑が境内にあります。 極楽に生まれむことのうれしさに 身をば佛にまかすなりけり 住蓮 今はただ云う言の葉もなかりけり 南無阿弥陀仏のみ名のほかには 安楽 松虫・鈴虫の供養塔。向かって右側が松虫姫、左側が鈴虫姫の石塔です。住蓮・安楽の供養塔。向かって右側が住蓮上人、左側が安楽上人の五輪塔です。(2012年6月に探訪)元の探訪に戻ります。「住蓮房母公の墓」の石標のところから数十メートル南に進むと、「十王寺(閻魔堂)」があります。焔魔堂町という地名の由来になったお寺(尼寺)です。正面の左の石柱には「五道山十王寺」、右の石柱は「閻魔法王小野篁御作」と読めます。 門前から眺めたお堂十王堂は背後の建物でしょうか。それは室町時代の建物だそうです。ボランティアガイドさんの説明を聞き漏らした・・・・のかも。小野篁の開基したお寺と伝わっていて、具生神(ぐしょうしん)像、十王像、閻魔大王像などが祀られているそうです。残念ながら拝観はできませんでした。五道山の五道とは、人間の善悪の結果、悪業の結果として輪廻する5つの世界(五悪趣、五道)を意味しているそうです。地獄、餓鬼、畜生、人間、天上の各世界です。六道輪廻という場合には、五道にさらに阿修羅が加わります。十王とは三途の川の向こうにおいて、冥途で亡者の罪を裁くと伝えられる10人の王です。その中で一番よく知られているのが閻魔王、閻魔大王です。(資料5)弘安2年(1279)に一遍上人がこの十王寺の前で念仏を称えて布教したことが、「一遍上人絵伝」に載っているとか。(資料6,7)十王堂内の「南无阿弥陀佛(なむあみだぶつ)」の額は一遍上人(いっぺんしょうにん)の真筆と伝わるようです。(資料8) 十王寺の前、旧中山道の反対側は、「諏訪神社」の境内です。 この境内の北西隅にこの石柱が建てられています。「これより南は淀領」と淀藩領の境界を明示する石柱です。江戸時代、近江国は数多くの藩領に分割されていたようです。藩の飛び地としての領地が錯綜していた地域があるようです。この石柱もボランティアガイドさんのお話では、数百メートル離れた場所に建てられていたものがここに移されたということのようです。まあ、この辺りに淀藩領の飛び地が継続して存在したのは事実なのでしょう。藩地変更があれば、当然こんな石柱は消滅させられているはずですから。 2014.9.28 追記 この境界を示す石柱を「傍示石」と称するようです。 「これはもともと焔魔堂村と今宿村の境界に建っていたもので、焔魔堂村が 山城淀領の領地であったことを示したもの」だったそうです。 (『近江歴史回廊 近江中山道』 淡海文化を育てる会編 SunRise)この後、折り返して旧中山道を北上します。 これが「今宿一里塚」。現守山市今宿町に所在します。 五間四方の塚です。滋賀県下に唯一現存する一里塚として貴重な史跡です。江戸日本橋を起点として、街道の一里毎に設けられていました。榎等が植えられていて、この一里塚が馬や籠などの駄賃の目安に利用されたそうです。この今宿一里塚は江戸から約128里、つまり128番目の塚です。「現在の榎は二代目の脇芽が成長したもの」(資料3)だそうです。この探訪会で後ほど訪れた「中山道街道文化交流館」で購入した小冊子の表紙にもこの様にこの一里塚が使われています。この小冊子、守山宿の歴史と史跡の概要を知るにはとても便利です。この探訪記を整理する上でも、大いに参照させていただいています。この一里塚の前には、かつては守山町役場が所在した場所だとか。一里塚からさらに北に歩いていくと、右手に本像寺があります。日蓮宗のお寺。今回は訪れてはいません。この本像寺の前にある立派な町家(山本家)を拝見する機会を得ました。 主屋は街道に面した切妻造二階建てで平入の建物です。 玄関を入った建物内部の中央部分は昔の姿のままで維持保存されています。豪壮な感じでちょっと圧倒されました。これが町屋?って感じでした。土間部分を通り抜けて、お庭も拝見。 池があり、石橋を渡って池の向こう側を回遊できるようになっています。 そして、庭の植栽の木々の間に、こんな藩領境界の石柱が建てられています。多分何処からかこちらに移設され、庭の景色に加えられたのでしょうね。「濱松領」「宮津領」という藩名が刻されています。藩替えなどで不用になった石柱でしょうか・・・・。江戸時代には守山宿で然るべき立場、役割を担われていたのでしょう。そんな印象を抱いた町家拝見でした。この後、しばらく旧中山道沿いの史跡を訪れます。つづく参照資料1) 17 楓三道 滋賀県・守山市 pdfファイル 2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p312 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p903) 安楽寺(左京区) :「京都風光」4) 光明坊[真言宗] :「尾道観光協会 おのなび旅行社」5) その10:十王寺 :「閻魔堂町自治会」6) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著 7) 焔魔堂城 :「近江巡城録」 8) 焔魔堂とは :「焔魔堂町自治会」ホームページ【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺建永の法難 ← 承元の法難 :ウィキペディア住蓮 :ウィキペディア安楽 ← 遵西(じゅんさい) :ウィキペディア六時礼賛 :ウィキペディア建永の法難は美声が原因・安楽寺 :「京都観光旅行のあれこれ」十王 :ウィキペディア閻魔 :ウィキペディア十王経物語絵図(冥途旅行絵物語)仏説地蔵菩薩発心因縁十王経一遍上人絵伝 :「国立国会図書館デジタルコレクション」安楽寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録」 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -1 最明寺、勝部神社 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.17
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この画像は、2014年5月下旬に参加した探訪会のタイトルです。滋賀県教育委員会文化財保護課による「近江水の宝」という企画の中の一つの探訪です。地元のボランティアガイドさんたちのご案内で、守山市の中心市街地にある数多くの史跡を巡りました。そのまとめをここに再録し、ご紹介します。「醴泉の里をゆく」というタイトルの「醴」という見慣れない漢字は、音読みだと「レイ」、訓読みだと「あまざけ」だそうです。この「醴泉」はなんと『日本書紀』巻三十、持統天皇の11月14日の条に次のように記載されているのです。(資料1) 「十四日、沙門法員・善往・真義らを遣わして、試みに近江国益須郡(やすのこおり:野洲郡)の醴泉(こさけのいずみ:醴酒のような美泉。甘美の味わいあり)の水をお飲ませになった」と。益須郡の都賀山で醴泉が発見されたとしています。この場所がどこなのか、とうことになります。「輿地志略」は醴泉を守山村大光寺の南に位置する甘香池に、都賀山を三宅村東の小山にあてているそうです。しかし、吉身町の南東に岡の地名があること、その周辺に古墳の多いことから都賀山を岡にあて「塚山」の意味ととり、醴泉を野洲川伏流水の噴出地に比定する説があるようです。(資料2)中山道67宿の67番目だった「守山宿」は、現在のJR守山駅の北西側(琵琶湖側)で、現在の守山町・吉身町・今宿町の地域に所在しました。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。そして、この守山宿の地域が現在の守山市中心市街地となります。 今回の探訪会で参考資料として入手したこの「歴史散策マップ」の地域でもあります。 最初に探訪した場所がわかりやすいように部分拡大して引用させていただきます。最初に訪ねたのは守山駅からほど近い「最明寺」です。「鎌倉山」という山号が冠されていますが、開基は鎌倉幕府執権の北条時頼と伝えられていて、時宗のお寺です。 本堂に入っていくとこんな感じです。 内陣正面の欄間の透かし彫りが煌びやかです。上部に天女図が描かれ、欄間には十六羅漢が彫り込まれているようです。 最明寺で注目すべきものがこの石造五重塔でした。現在は本堂南側にあります。傍にこの駒札が建てられています。寺伝には「最明寺入道時頼が建長2年(1250)に寺とともに建立した」と記されているそうです。重要文化財指定されています。 初重の軸部に四方仏が刻まれた鎌倉時代の作です。 境内の鐘楼の蟇股や木鼻の彫刻も見応えがあります。この最明寺から西に約100mほどいくと、勝部神社です。勝部神社の境内には この石鳥居を通り東側の側面から入りました。 勝部神社社殿 本殿は三間社流造の形式で、屋根は檜皮葺、前流れが長くなっています。祭神は、物部布津主神(もののべふつぬしのかみ)、宇麻志摩遅命(うましまじのみこと)、天火明命(あめほあかりのみこと)の三神です。 現存する社殿は応永6年(1399)に造営され、近江国守護佐々木高頼が明応6年(1497)に補修・再興したと伝わるものであり、その後幾度も補修・修理が繰り返され現在に至るようです。文禄3年(1594)には、豊臣秀次が社殿を修理しているようです。 神社由緒や本殿説明板に記載されていますが、「この地は、1941(昭和16)年までは栗太郡物部村に属し、勝部神社も物部神社と称された。創建は649(大化5)年、物部宿禰広国によると伝えられ、物部氏の祖神を祭祀した総社であったと考えられる。」のだとか。(資料3)また、慶長2年(1597)の奥書を持つ『勝部大明神紀』には、この地が栗太郡物部荘玉岡郷勝部里と記されているそうです。勝部は『和名抄』の「物部(毛乃倍)郷」に属した地で、物部氏の領したところであり、ここがその中心的存在だったようです。(資料4)さらに、祭神が武神、その本地が地蔵菩薩であり、勝軍地蔵として武将の信仰を強く集めたといいます。近江国守護佐々木氏は軍陣の幡竿に当神社の竹を用いたという伝承があるようです。近江一向一揆の折には、元亀3年(1572)、織田信長の家臣佐久間信盛が金森・三宅の本願寺勢力を攻めたときに、当神社が陣所となっており、織田信長は周辺130ヵ村余りに、社前で本願寺に味方せず、背かない旨を記した起請文を作成させ、当神社に奉納したそうです。(資料3,4)この画像にあるとおり、無形民俗文化財「勝部の火まつり」が有名なようです。「火まつりは、大蛇になぞらえた直径約3mの大松明を16本並べ、いっせいに点火するもので、土御門天皇が重病のとき、大蛇を退治して焼き払ったところ、病気が治ったと伝えられる」。(資料3) 社殿に向かって左側には、祓所、小祠が並び、そのさらに左側に、「勝部の火まつり」の大松明が展示されています。現在は松明組に属する人々が、正月3日から松明づくりの準備にかかり、8日に16基の松明ができあがるのだとか。手許の本には16基と記されていますが、境内の説明板には12基を境内に担ぎ入れると記されています。この差は数が減らされた・・・・ということでしょうか? (資料3,4) 本殿の前。境内の中央辺りから、境内に入ってきた最初の鳥居の方角を眺めた景色 右の忠魂碑の傍にあるのは顕彰殿で、郷土出身の戦没者慰霊のために戦前に建てられたものだとか。(資料5) 手水舎この大鳥居が勝部神社の表になります。境内敷地の南西角に位置します。この大鳥居の傍を南北方向に通る道が「楓三道」と称される道路です。歩道上にこんな表示が出ています。わかりやすくて便利です。この道沿いにしばらく南下し、南守山街道で右折して西に向かいます。つづく参照資料1) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟 著 講談社学術文庫 p3392) 『滋賀県の地名 日本歴史地名体系25』 平凡社3) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社4) 『日本の神々 神社と聖地 5 山城・近江』 谷川健一編 白水社 p413-4155) 勝部神社 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺時宗 :ウィキペディア北条時頼 :ウィキペディア最明寺 :ウィキペディア勝部の火祭 :「滋賀県観光情報」勝部神社の火祭り、住吉神社の火祭り、物部氏 :「~小麦粉から惑星まで~」 これら2つの記事では、やはり大松明12基と紹介されています。勝部の火祭り 2012-01-14 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -2 住連坊母公の墓、十王寺、諏訪神社、一里塚、山本家 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -3 常夜灯、樹下神社、土橋 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -4 東門院、中山道守山宿の道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -5 中山道文化交流館、本陣跡、天満宮、稲妻型屋敷割りの道、源内塚、町家”うの家”、石部道道標 へ探訪 [再録] 滋賀 守山市中心市街地史跡巡り -6 慈眼寺、美戸津川、油池跡 へ
2017.05.16
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[探訪時期:2012年11月]解散後に個人オプションとして、10分少々の距離にある「常念寺を」訪ねました。末尾の探訪行程図に赤丸を付けたあたりにお寺があります。お寺の山門が開いていたので、本堂までの境内を勝手に拝見した次第です。山門を見てびっくり。まるで平城城郭の外周を思わせるような石垣です。帰宅後に、ブックレットを開くと、ちゃんと「常念寺」の項が簡略ですが記載されていました。再録にあたり、少し調べてみた内容を加筆し、ご紹介します。「天台宗から浄土宗に転宗し、永正3年(1506)に永原城主永原重秀が堂舎の造営を援助して以降、永原氏の菩提寺となりました。」と記されています。(資料1)これを読んでなんとなく納得です。応永3年(1396)に常誉真厳上人が寺を再興し、浄土宗に改宗したそうです。戦国時代には、天正8年(1580)に安土城の城下に寺地を移し、信長の没後、天正13年(1582)に現在地で再建されたとか。江戸時代には幕府の庇護を受け、寺領5石が安堵されたと言います。(資料2,3)山門に向かって左手の石垣傍の一本の木が。見事な紅葉で出迎えてくれました。寺を取り囲む石垣は永原城の遺構だといいます。(資料4)山門をくぐり抜けた右手にも、 石灯籠の傍の紅葉が見事でした。境内では数少ない紅葉の樹木故に、緑葉樹とのコントラストが良かったのかもしれません。堂々とした本堂がありました。入母屋造で三間の向拝、本瓦葺きの建物です。見渡した範囲には説明板を見かけませんでしたので、御堂の前面部分を拝見したにとどまります。本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代の作で、1967年4月5日に国指定の重要文化財となっています。(資料5)ここには、永原氏の菩提寺として、歴代の墓などがあるようですが、それは後ほどブックレットから知ったこと。現在、当寺は永原氏関係の史料も所蔵されているようです。屋根は新しく葺き替えられたものですが、私は外観として、まずはこの屋根瓦に興味を持ちました。 最初、大棟の鬼瓦が目に入りました。そしてこの鬼瓦。それぞれ表情がいいですね。鬼瓦の上端に突き出ている鳥衾の紋章はお寺の紋なのでしょうか。16弁の菊の中心に5弁の一重桜がデザインされているようです。 特に興味を惹かれたのがこの鬼瓦です。3つの方向を睨むように、三面が一体になっている!こういう形式のものを見た記憶がありません。なかなかおもしろいです。 これも顔面の上半分だけで、ちょっとユーモラスです。この軒瓦の紋章は、ネット検索で見つけた大徳寺の丸軒瓦の紋章と同じです。補遺に載せた「国宝建造物にいる鬼瓦」で見られる「東寺五十塔の鬼瓦」の軒瓦とも同種です。3714本堂の斗栱(ときょう)部分を眺めいて、ちょっと興味深く思ったのは、梁と交差する木組みの上の部分に紋章が彫られていたことです。今までいろいろ木組みを見てきていますが、こういう箇所に紋章があることに気づいたことがありません。桐紋系統のデザインに思えます。こういうのは初めてです。なぜこんなところにあるのか、理由はわかりませんが・・・・他所で木組みを眺めるときに、同様のものがあるか、今後注意してみようと思いました。境内には「石造層塔」があります。鎌倉時代の作。正応元年の銘があるといいます。高さ約3m。1948年4月27日に国の指定を受けた重要美術品だそうです。(資料2,3,4)ネット検索でこの層塔について詳しく考察されている記事を見つけました。有益です。こちらからご覧ください。(滋賀県 野洲市永原 常念寺層塔ほか :「石造美術紀行」)また、永原氏の菩提寺という関係でしょう。寺宝となっている紙本着色の絵画3点、「永原筑前守重頼像、永原筑前守重頼側室像、永原越前守重虎像」が、1975年3月3日に野洲市の指定文化財になっています。(資料5)3721山門に戻って、ゆっくりと山門の木組みをみていてビックリしました。木鼻の上に巨大な蜂の巣が出来ていたことです。テレビ番組の映像でみたスズメバチの系統の巣のように感じました。素人目ですので、間違っているかもしれません。これまたおもしろいといえばおもしろかったもの。(2017年の現在では多分取り除かれていることでしょうね。たぶん)木鼻は象と獅子でしょうか。しっかり彫られています。ここから野洲駅まで歩いて戻ることに決めました。 歩き初めてしばらくしてから眺めた三上山最初、県道2号沿いに歩いていたのですが、川と交差する所から川の堤防上に散策道が作られているので、そちらを歩くことにしました。あまり意識せず、歩いていたのですが、見た景色がでてきました。中ノ池川と祇王井川の分岐点です。桜並木の堤防散策道から三上山が眺められました。その後はJRの線路が見えてきて、野洲駅に迷うことなく無事帰着。これで、今回の探訪、無事終了。天気に恵まれてよかった一日でした。これで、この探訪記録を終わります。参照資料1) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 滋賀県教育委員会2) 常念寺 :「湖国寺探訪」3) 野洲市:常念寺 :「滋賀県:歴史・観光・見所」4) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p159-1615) 野洲市の指定文化財 :「野洲市」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺 ネット検索で、有益な情報を発掘できました。以下、紋章と瓦関連でさらに見つけたものです。求めよ、さらば・・・です。こつこつと探してみました。家紋 :ウィキペディア家紋図鑑 :「家紋World」鬼瓦 「三州瓦豆事典」:「weblio辞書」鬼瓦のルーツ :「富岡鬼瓦工房」国宝建造物の鬼瓦 鬼瓦 第38号 :「日本鬼面瓦保存会」 アーカイブで、バックナンバーの閲覧できるページがあります。鬼瓦写真館 :「富岡鬼瓦工房」鬼瓦の種類 :「日本瓦屋根研究会『和の心』~京都瓦工事ロマン~」鬼瓦 社寺建築型 :「淡路瓦工業組合」 「いぶし瓦の種類」のページもあります。各種鬼瓦 :「株式会社マサヨシ」 日本家屋の屋根の形状に合わせた鬼瓦のシミュレーションができます。 「鬼瓦ってなんだろう?」というページもあります。菊間瓦の種類 :「菊間町窯業共同組合」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -1 円光寺・祇王井川・生和神社・亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -2 季吟の句碑・妓王屋敷跡碑・妓王寺 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -3 土安神社・永原御殿跡・菅原神社 へ
2017.05.16
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妓王寺を後にしてまず訪れたのが「土安神社」。小さな神社です。 [探訪時期:2012年11月]土安にふりがなが付いています。この名称を「てやす」と読める人はたぶん少ないでしょうね。駒札には祭神が「祇王井川開拓の神童子命」と記されています。 ,社の扉の彫刻がなかなか素晴らしいものでした。ブックレットは、一つの伝説に触れています。ご紹介しましょう。「伝説によると、祇王井川の流れを決められずにいたところ、一人の童子が現れました。そして『私が引く縄にしたがって川溝をつけよ』と言うとおりに縄印に従って川を掘ると、一昼夜のうちに祇王井川が出来上がったといいます。西祇王井川に合流する童子川の名前はこの伝説に由来し、土安神社には童子がまつられています。」(資料2)また、土安神社の傍にある野洲市観光物産協会の設置された説明板には、「工事の途中で蹉跌した時、夢に現れた一童子が工事の手法を授けたことによって完成したもので、上流を妓王井川下流を童子川と名づけ、この童子を土安神社に祀ったのでありました。」と記載されています。ブックレットの地図に、「西祇王井(童子川)」と記されている意味が理解できました。また、西妓王井川は中ノ池川でもあるのです。「妓王と清盛さんのおかげ祭」という野洲市観光物産協会のパンフレットに掲載の「平家妓王の里めぐりコース」の地図の中に、「中の池川(西妓王井川)という形で載っていました。上流側ということでしょう。もう一神、「開拓工事奉行の瀬尾兼康命」というのが記載されています。「瀬尾兼康」という人名でネット検索すると、ウィキペディアに「妹尾兼康」、また岡山県総合文化センターニュース掲載の「妹尾兼康」をみつけました。ひょっとすると、この人物が土安神社で神格化されたのかもしれません。記事に記載の事績からも関係が深そうです。これはあくまで、想像の域をでませんが・・・・ この後、「史跡永原御殿跡」に立ち寄りました。朝鮮人街道から西に約700m入ったところです。 2009年10月、『近江城郭探訪』(滋賀県教育委員会編)を片手に、一度来ていますが、そのときには説明板がありませんでした。少しずつ観光客には便利になってきているようです。現在は私有地だとかで、中には入れません。こんもりとした竹藪になった御殿跡を外観するだけでした。しかし、説明板に掲載の復元模型図で御殿イメージがふくらみました。『近江城郭探訪』によれば、永原御殿は、慶長6年(1601)-寛永11年(1634)の期間に三代の将軍が計10回(家康7、秀忠2、家光1)利用したそうです。家光が利用するのに備えて大規模な整備が行われてたようで、その広さは1万459坪に及んだとか。「御茶屋御殿指図」という記録が残っているようです。ブックレットでは、家光が寛永10年に上洛するにあたって、約6倍の規模に拡大整備したのだそうです。(資料1,3)前回載せた浄専寺の門以外に、草津市の芦浦観音寺の書院(重文)が御殿廃止後、ここから移されたものと伝わっています。朝鮮通信使が通行した道ということから、朝鮮人街道という名称がついています。しかし、この道は慶長5年(1600)に関ヶ原合戦で勝利の後、京都へ向かうのに使ったことから、上洛道として尊重されるようになったのです。そのために、この街道そばで、入京前夜の宿所として、永原に御茶屋屋敷設置したとのことです。堀、土居、石垣で囲まれた堂々たる城郭だったのですね。このことをブックレットで学びました。(資料1)御殿の石垣の一部が残っています。探訪の最後に、菅原神社を訪れました。源頼朝の勧請によるとの伝えがあるそうです。祭神は勿論、菅原道真です。江部庄3村の産土神ともされているとか。この檜皮葺き四脚門はこの地の永原城永原氏が建てたものと推定されています。 菅原道真を祀る天満宮に牛の像は付きものですが、ここにも勿論社殿前に。お参りする人が願をかけ、触るのでしょう。牛の鼻の上辺りがテカテカ光っています。 社殿応永26年(1419)、明応7年(1498)の社殿修築の棟札が残っていて、それには永原城主永原氏一族の名が記されているとか。社殿に向かって、右手側にこんな干支台が。信楽焼の十二支像。 おもしろい!北の山本眞二朗氏が年毎に奉納されたのだとか。そこで、神社が「積年の赤心を称え顕彰」するために設けたそうです。(説明板より)地元ガイドさんが、たまたま境内に出ておられた神主さんにリクエスト。お陰で神社の由来、火渡り神事などのことを神主さんから直接説明を拝聴しました。 この神社のご神木は桧です。ご神木が桧である神社はまことに珍しものだとか。火渡り神事は素足で山積みの護摩木を燃やした後のその燃えがらの上を歩き渡るのだとか。「神道での火渡りは全国唯一です。」 知る人ぞ知る・・・・だそうです。境内で写真付きで説明されたものが掲示されていました。 境内の歌碑これは、配流され幽閉の身だった菅原道真が詠んだ歌だそうです。 歌碑の傍に、歌意説明の石板が建てられています。ここの境内に、北村季吟の詠んだ歌が歌碑として建立されていました。この和歌は、季吟が江戸から帰省参詣の時に詠んだものとか。 神垣やここも北野の名にし負わば栄うる梅の影も変らじ境内の説明板の一つに、「神社には永原千句が残されています。宗祇も来訪しています」と記されています。ブックレットによると、この菅原神社では「永原千句」という連歌興行が戦国時代からさかんに行われていたのだとか。その興行主は永原氏だったのですが、永禄11年(1568)以降は、永原氏の家臣だった北村氏へと継承されたのです。つまり、北村季吟に繋がっていくことになります。神社には北村季吟の書簡も現存するとか。ここ菅原神社の瓦に描かれた梅鉢の紋はこれ。牛の像の腹にも紋が付けてありますが。そこで、ふと思って神社の紋をちょっと調べてみると、同じく天神樣を祀る神社がそれぞれ違った意匠の梅花紋を使用されていました。太宰府天満宮、湯島天神、北野天満宮、それぞれ少しずつ違うのですね。初めて知った次第です。おもしろい! 神社もそれぞれ由緒来歴あり、自己主張の一環でしょうか。(資料2)今回の探訪としては、家棟団地バス停まで歩き、そこが終着点で解散です。大半の参加者は、ここからバスで野洲駅に戻られました。たまたま、地元ガイドさんから、そのバス停から近い「常念寺」の名前が出ました。そこで、オプションとして個人的に訪ねてみることにしました。つづく参照資料1) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 滋賀県教育委員会2) 当日に資料として配付されたリーフレット3) 『近江城郭探訪 合戦の舞台を歩く』 近江歴史探訪マップ7 滋賀県教育委員会編 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺祇王・祇女から思わぬところの横道に入りますが・・・・・ 犬も歩けば棒にあたる、の伝で、波紋が広がってしまいました。こんなにあるよ!梅の紋章(家紋) 「なんでも梅学」:「梅の月向農園」 『歴史探訪に便利な日本史小典3』(日正社)を見ていて、武家の家紋で前田家が「梅鉢」 なので、なぜだろう? と思ったのですが、このサイトの説明でなるほど、でした。 だけど、梅一つでこんなに家紋のデザインがあるなんて、スゴイです。苗字が菅原で家紋が梅鉢だったら菅原道真の子孫の可能性はどれくらいありますか?... おもしろいQ&Aです。参考になりました。宗祇 :ウィキペディア連歌 :「日本文化いろは事典」永原千句 :「国際日本文化研究センター」野洲 菅原神社 :JAPAN-GEOGRAHIC.TV 火渡り神事を克明にレポートされています。撮影/文 中山辰夫氏 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -1 円光寺・祇王井川・生和神社・亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -2 季吟の句碑・妓王屋敷跡碑・妓王寺 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -4 常念寺 へ
2017.05.15
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祇王井川から別れ、県道2号に向かう途中、青空の下に近江の北から北西方向の山が見えます。 [探訪時期:2012年11月] 「江部」の標識 県道2号にて県道を横断すると、いよいよ目的地・祇王祇女の里に近づきます。 南東の方向でしょうか。遠くに三上山が見えます。現在、浄専寺の門になっているこの門は、永原御殿から移築されたものと伝えられています。永原御殿の跡は後程訪ねることになりますがブックレットによれば、「家光以降は使用されず、貞享2年(1685)の廃止に伴って、建物は入札によって売り払われてしまい」ます。(資料2)浄専寺のあるところは野洲市北です。近江国野洲郡北村と称された土地。江戸幕府の歌学方についた北村季吟の生地です。途中の建物の軒屋根の上に、小さな鍾馗さんの像が据えてあります。魔除けのお守りの意図でしょうね。京都の町屋の軒上にてよく見かけますので、目にとまりました。浄専寺から少し先の北自治会館の通りを挟んだ反対側にこの季吟の句碑が建立されています。その背後は墓地の一角になっていました。句碑には、 祇王井にとけてや民もやすごおりと刻まれています。句碑傍の説明板には、この句について、「妓王のおかげで掘られたさらさらと流れる祇王井川を枯水に悩んだ野洲の民が田用水として使い心を安らかに暮らすことができるであろう」という解釈が記されています。句碑の傍に、説明板があります。ブックレットとこの説明板の記載を参考にまとめてみます。北村季吟は寛永元年(1624)12月11日、この地(現地名は野洲市北)に誕生。漢方医だった北村宗龍の孫です。医学を修める一方、松永貞徳らに俳諧を学び、飛鳥井雅章らに和歌、歌学を学んだといいます。国文学者であり、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわしました。元禄2年(1689)に幕府歌学方につくことになり、幕府によばれ66歳にして江戸に下ります。我が子湖春とともに江戸に行ったとか。松尾芭蕉も季吟の弟子だったのです。季吟は82歳で生涯を閉じます。句碑から少し歩いたあたりに、このこんもりとした森があります。私有地で居住者もおられるようですが、土塁の跡も残っている土豪の邸地だったとか。ここを半周した先に、木立に囲まれた「伝妓王屋敷跡」が見えました。 この地には、「妓王屋敷跡碑」が建てられていました。近江国野洲郡江部庄です。この後、妓王寺を訪れました。この寺の所在地の現在の地名は野洲市中北です。 村人が祇王の威徳を偲んで建立したお寺と言われています。一時期は庵主が居られたようですが、今は住職のおられない寺で、地元の人々が守り続けておられるようです。 境内に妓王・妓女の塔と呼ばれる供養塔 堂内の本尊阿弥陀如来座像の両脇に厨子があり、その中に祇王と祇女、刀自と仏御前、が安置されています。左厨子の扉上部、左扉に祇女、右扉に祇王、また右厨子左扉に刀自、右扉に佛、と名前が記されています。「毎年8月25日には妓王の命日として、祇王井川に恩恵を受けている旧の10か村(現在の12の自治会で構成する大井十ケ村会)の自治会長や関係者が集まって、妓王らに感謝する法要がおこなわれます。」(資料1)堂内でのガイド・妓王さんの説明では、この日に祇王他の木像が拝見できるとのこと。祇王・祇女のことや妓王寺のことを、訪問者をリラックスさせながら、わかりやすく説明してもらえました。テレビドラマに取りあげられてから、観光訪問が増えたためか、妓王寺紹介のプレゼン動画も短いものですが準備されていました。横道にそれますが、このガイド・妓王さんの衣装は、当時の白拍子の姿をイメージしたものだという説明でした。『平家物語』を見ますと、「そもそも我が朝に白拍子の始まりける事は、昔鳥羽の院の御宇に、島の千歳・和歌の前、彼等二人が舞ひ出したりけるなり。昔は水干に立て烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ、男舞とぞ申しける。しかるを中頃より、鳥烏帽子・刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とはなづけけれ」という文章が「妓王の事」に出てきます。この本の校注には、白拍子について、「中世の歌舞の拍子の名。転じて、その歌舞を業とする遊女」という注が載っています。(資料3)堂内欄間のところに、木像の写真が飾ってあります。 左から、祇女、祇王、刀自、仏御前のそれぞれの木像です。木像の前に置かれた筒状の袋地の前に名前が記されているので識別ができました。木像写真の左手の欄間には、妓王屋敷跡碑の碑文文章が全文掲載されています。妓王寺の門の屋根を見上げると、鬼板に部分に「丸に橘」と思われる紋章が付いていました。武家なら井伊家の紋章なのですが・・・・、手許の入手資料類には何も情報がありません。当日、門の傍で、地元のご婦人方が地産品を紹介・販売されていました。これで、妓王寺を拝見したいという第一の目的は達成しました。『平家物語』には、妓王が清盛の寵愛を受け始めた歳を明記はしていません。しかし、「かくて三年と云ふに、又白拍子の上手一人出で来たり。加賀国の者なり。名をば仏とぞ申しける。年十六とぞ聞こえし。」と記しています。その仏が、清盛の別邸(西八条殿)に呼ばれもしないのに単独で推参したのですから、ある意味度胸のある女性だったのでしょうね。清盛が呼んでもいないのに勝手にくるとはと怒ったのに対し、妓王が「遊び者の推参は常の習ひでこそ候へ。・・・・」と取りなしてやるのです。しかし、それがいずれ仇になります。清盛の寵愛が妓王から仏御前に移っていくのですから。三年間住み馴れた所を去るに際し、妓王は障子に歌一首を書き付けたといいます。 もえいづるも枯るるも同じ野辺の草何れか秋にあはではつべきそして、「妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひき結び、念仏してぞ居たりける」と出家してしまいます。それは、清盛の許を去った翌年、清盛から「仏御前が余りにつれづれげに見ゆるに、今様をも歌ひ、舞なんどをも舞うて、仏慰めよ」という呼び出しを受ける立場になったからです。「身を投げん」とまで思った上で、母の言葉を聞き届けた上での選択でした。妓女19歳、母とぢ45歳で一緒に剃髪することになります。(資料3)この文脈から見ると、妓王は18~20歳の3年間、清盛の寵愛を受け、21歳で出家したのです。仏御前も17歳で後を追うようにして出家剃髪します。『平家物語』には、「今年はわづかに十七にこそなりし人の、それ程まで、穢土を厭ひ浄土を願はんと、・・・」と仏御前のことを記しています。一方、『平家物語』は妓王の没年には触れていません。いただいたリーフレットには、「建久元年(1190)妓王は38歳で往生を遂げました」と、記しています。(資料1,3)「妓王寺略縁起」にそういう記載があるのでしょうか。原典を確かめられる方法があればいいのですが・・・・京都・嵯峨野の妓王寺の墓地入口にある碑には 「妓王妓女仏刀自の旧跡明和八年辛卯正当六百年忌、 往生院現住、法専建之」 とあって、此の碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八年十五日寂」と刻まれ ているのは祗王のことと思われます。という記載が祇王寺のホームページにあります。推定文になっていますので、多分それ以外に確たる資料がないということが想像されます。(資料4)もしこの推定通りならば、祇王の没年がまた調査研究課題になりますね。歴史のおもしろいところでしょうか。祇王寺のHPの記載によると、「安永の祇王寺は明治初年になって、廃寺となり残った墓と木像は、旧地頭大覚寺によって保管された。」とあり、明治28年に当時の京都府知事の建物の寄付で現在の祇王寺が復興されたようです。それを考えると、江部庄の妓王寺が廃寺になることなく連綿と維持され続けてきたということは、地元の人々の思いがそれだけ深いということでしょうか。 (資料1)つづく参照資料1) 当日に資料として配付されたリーフレット2) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 滋賀県教育委員会3) 『平家物語』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア4) 祇王寺について :「祇王寺」(公式ホームページ)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺1)『平家物語』の「妓王の事」は次の末文で終わります。「されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、妓王・妓女・佛・とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。」(p38)2)北村季吟 :「コトバンク」 北村季吟 :本居宣長記念館 北村季吟の句 :「俳句案内」 新玉津嶋神社(京都市下京区) :「京都風光」 3)祇王井川探索マップ目次 :「写真ステージ 近江富士」 祇王井川について、必見のサイトの再掲です。 4)鍾馗 :ウィキペディア 鍾馗樣 :「我羅里ibudhi」 鍾馗の物語 :「SUZUKI collaboration」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -1 円光寺・祇王井川・生和神社・亀塚古墳 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -3 土安神社・永原御殿跡・菅原神社 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -4 常念寺 へ
2017.05.15
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2012年11月25日(日)に、滋賀県教育委員会が主催し、地元のボランティア・ガイドさんが協力される標題の探訪に参加しました。当日の探訪記録のレビューと整理を兼ねてまとめていたものを、ここに再録にてご紹介します。冒頭の画像は、その折、JR琵琶湖線・野洲駅北口に設置されていた看板です。今回は祇王祇女とその土地関連の史跡巡りという形でした。史跡巡りの流れから4回にまとめてみます。(1)祇王井川に沿って、(2)妓王寺と祇王祇女の里、(3)永原近辺の史跡、(3)番外編です。まずは、「妓王井川に沿って」歩いた周辺史跡を再録として、ご紹介します。参加した班は、この探訪参加者募集案内に掲載の地図(一部切り出し)では、野洲駅集合の後、番号の大きいものからほぼルートに沿って巡り、家棟団地バス停のところで解散となる予定でした。当日のガイドさんの説明と当日の配付資料その他を参照しながらまとめます。(資料1,2)北口から歩き始めます。県道2号に合流し、県道155号との交差点西側に円光寺があります。まずは、ここを訪れました。 天台真盛宗のお寺です。この本堂がすこし珍しい様式のものです。本堂は康元2年(1257)の建立で、もとは長福寺(天台山門派)の本堂だったのが円光寺に統合されたのです。正式には「歓喜山長福院円光寺」という名称で、本堂の全面には「歓喜山」の扁額が懸けてありました。昭和の解体修理の時、この画像のように切妻造に復元されたのです。興味深いのは前屋根が神社のように長く延びでた流造になっていることです。以前一度訪れたことがありますが、そのときゆっくり眺めていず、今回あらためて気づきました。内部を拝見できなかったのが残念。面白いのは鐘楼が小高いところにあること。なんと、これは古墳の上に建てられているのだとか。ちょっと驚きです。本堂より鐘楼が高い位置なんです。 山門と本堂の中間・南西側にある重文・石造九重塔康元の銘文があり鎌倉時代のものだとか。もとは十三重だったといいます。この後、国道155号を横切り、朝鮮人街道に沿ってしばらく歩きました。江戸時代、朝鮮通信使が江戸に行く途中で通過した道です。この街道沿いに祇王井川が流れています。ここで、お気づきでしょうか。「妓王寺」と書き、「祇王井川」と書いています。この日探訪する目的地の一つが、滋賀県にある「妓王寺」です。京都の嵯峨野にあり、昔から多くの観光客が訪れるのは「祇王寺」です。しかし、妓王と祇王、なぜ?と疑問を抱きません?2012年前半に、あるきっかけから気になり、一度ネット情報や大学図書館の文献などをリサーチして、どちらがどう使われているかを調べてみました。両方が併用されているのが実態でした。明確な決まりはなさそうです。つまり、かつては、音に漢字を当てはめるにあたり、違う漢字を当てることにこだわらなかったようです。一応、使われている通りに、そのまま使い分けてまとめていきます。(リサーチの結果は、<関心事項の検索調査について>を御覧下さい。)妓王の父(橘次郞時長)が保元の乱(1156年)で亡くなり、妓王16歳の頃に、母と妹・妓女と共に京の都に上洛し、妓王は白拍子になります。そして、平清盛の目にとまり、清盛に寵愛されるのです。手許の本には、「五 妓王の事」として、「京中に聞こえたる白拍子の上手、妓王・妓女とて、おととひあり。とぢと云ふ白拍子が娘なり。しかるに姉の祇王を、入道相国寵愛し給ひし上、妹の妓女をも、世の人もてなす事斜めならず」と記しています。(資料3)『平家物語』には記載がありませんが、妓王寺には「妓王寺略縁起」という文書が伝わっているようです。現物は見ていませんが、野洲の銅鐸博物館である期間出展されるというチラシを見たことがあります。見に行けなかったのですが。妓王が清盛から望みはないか、と尋ねられたとき、生まれ故郷・江部荘では人々が水不足で苦しんでいるので、水路を引いてほしいと希望を述べたそうです。すると、清盛がその願いを聞き入れて水路開削を命じ、出来た水路が今に伝わっているのだとか。難関工事の末、承安3年(1173)に完成。この水路の開削のお陰で、田畑が潤い、米どころとなったとのこと。村人は妓王に感謝し水路に妓王の名を付けたのです。それで現在、「祇王井川」と呼ばれています。野洲川の三上地先から琵琶湖野田浦までの約12kmと伝えられています。現在に川幅は、ところによって広狭が大きく変化します。川と呼ぶにふさわしい幅のところから、溝じゃないかと思うくらいに幅が狭くなっているところまで、様々です。当日のガイドさんの説明では、幅6mほどの水路だったとか。祇王井川は、清盛の妓王に対する寵愛が一時期はどこまですごかったかを証すものとして今に残っていると一面では言えるのかもしれません。祇王井川が中ノ池川と分岐し、その先で街道を外れていきます。 (生和の森修景整備のところ、振り返ってみて)しばらく川沿いに北東方向に進むと、東祇王井川、西祇王井川にさらに分岐します。これが分岐地点。この画像の左方向に進むと、こんな水門が作られています。西祇王井川に沿って歩きました。きれいな紅葉が見られました。 西祇王井川は、中ノ池川に合流してしまいます。これは合流後の中ノ池川を見たところ。この合流地点は、地図の番号8の下の分岐の位置です。このあたりは大岩山古墳群(17基)と総称されている地域に入っています。この川の分岐点の近くに、 亀塚古墳があります。説明板によると、この古墳は「大岩山丘陵の北西に広がる自然堤防上に築造され」たもので、古くから土取り場となっていたようで、古墳の形状がかなり崩されてしまったのだとか。「江戸時代には、項円部の墳丘が亀に似た形から、字名に亀塚の名称が生まれました。」この近くには、亀塚古墳の南西に古冨波古墳、県道2号を越えた西側の先に冨波古墳が点在しています。ブックレットによれば、「この当時、野洲には百済や上毛野(かみつけぬ)と深いつながりをもった人物がおり、継体政権の有力者であったことがうかがえます。その人物とは、古事記や日本書紀にみえる古代氏族・安直(やすのあたえ)の一族であったと考えられています。」(資料2) この後、先にその境内の東側を川沿いに歩いていた「生和神社」に立ち寄りました。野洲市高木に創建(1009年)された神社が、1262年にこの地に移転したのだとか。本殿、末社ともに重文で、本殿は南北朝期の建立です。同じ野洲市にある大笹原神社の本殿より、こちらの本殿の方がやや古式の様式だと判断されています。手水舎の水の注ぎ口は龍のところが多いですが、ここは亀の形でした。亀を使っているのはめずらしいと思います。近くに亀塚があるのと関係があるのでしょうか。なぜでしょう・・・・手水舎一つも、対比的に見ていくとおもしろいものですね。2010年の秋に訪れた兵主大社の手水舎も亀が使われていました。思いだして、記録写真で確認しました。先月(2017.4)ご紹介した壬生寺の手水舍も亀です。再び、朝鮮人街道を歩きます。ただ、この辺りを流れる東祇王井川は、街道から少し離れて平行して流れているのですが、西側を流れる川がある地点で街道の東側になります。川と街道が交差するのです。冨波地区を通る街道の途中で、こんな門構えの屋敷があります。良い眺めです。 その少し先に、「屋棟神社」の石標が見えました。このあたりは家棟川の旧流路だったところのようです。冒頭の地図のように、川筋は大きく変化しています。この神社の参道を少し入ったところが、祇王井川の一つの特異スポットです。 説明がないと行き止まりの溝/小川に見える場所です。しかし、よく見ると水は奥の行き止まりの箇所から手前に流れてくるのです。実は、祇王井川に埋樋(うずみひ)という工法を使った場所だったのです。家棟川旧水路の土地の中に伏せて埋めた樋を通じて、つまり、街道の東側を流れていた川の水が一旦地中の埋樋を流れて、再びここに川の姿を現しているのです。よく見ると、水が湧き出している感じのところが見えました。ガイドさんが、ここの場所を調査した当時の写真を見せながら、丁寧に説明をしてくだいました。今や貴重な写真です。川が「家棟」、神社が「屋棟」と称するのもおもしろいところです。 祇王幼稚園の近くにて街道の脇を祇王井川が流れる箇所は、こんなに川幅が狭くなっています。このあたり家並みに風情が感じられる場所です。このあと、「コミセンぎおう」で昼食休憩となりました。 ここで興味深かったのは、これです。妓王でも、祇王でもなく、「義王」という名前が使われている!丁度ここで、逆ルートのA班と一時合流しました。A班のガイドさんの説明も聞けましたが、なぜ「義王」かは不明だとか。ガイドさんが、私見として、「妓王」と「祇王」の使い分けをこうおっしゃっていました。昔の人は漢字で書くときいろいろな書き方を平気でしていたようです。いわば当て字。「ぎおう」も白拍子であった時代は「妓王」が「妓」の言葉の意味合いからも一致する。出家して後亡くなり祀られるようになってから「祇王」という言葉を当てるようになったのではないかと勝手に解釈していますと。それなりにおもしろい解釈だなと思った次第です。この画像の少し左側にあるもう一つの電信柱のところに、「800年以上流れ続ける 祇王井川」という立て看板が設置されていました。そして、左下に少し小さめの文字で、「(撮影スポット)」という親切な説明まで記入されています。そう言われると、このあたり、歩いて来た中では風情を残す家並みが川に沿って残っています。撮影位置やアングルを考えたりしてじっくり撮っている時間がなくて、これまた残念でした。この小さな橋のところで左折し、祇王井川とは別れて、いよいよ江部地区に向かいました。つづく参照資料1) 当日に資料として配付されたリーフレット2) 『平家物語・妓王妓女・源義経の里を訪ねて -野洲・竜王をめぐる-』 埋蔵文化財活用ブックレット14 3) 『平家物語』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。◎関心事項の検索調査について◎興味からリサーチしてみて、京都の祇王寺についても「ぎおう」の表記が本によって違うの確認しました。(少し、マニアックに・・・・:ハイライト文字列をクリックしてみてください)<< 妓王寺と表記する本、あるいは妓王・妓女の表記 >>『都名所図会 上』 竹村俊則校注 角川文庫 (安永9年、秋里籬島執筆) この本では、寺名を「妓王寺」とし「浄土宗にして往生院となづく」で載っています その中の説明では、「祇王(二十一歳)祇女(十九歳)刀自(妓王・妓女の母四十五歳)の塔も・・・・」となっているのです。 そして校注に「祇王寺、真言宗大覚寺派」と注記されています。『雍州府志』では、往生院の説明の中で、 「妓王妓女并佛尼等之所棲也」「妓王妓女寺」「三尼并刀自女塔」という記述が漢文体の文章中にあります。早稲田大学 古典籍データベース 都名所車 / 東籬亭主人 補撰 池田 東籬, 1788-1857 出版書写事項:文政13[1830] 花説堂, 三条通富小路東へ入(皇都) ここでは、「妓王寺という」と記し、説明のところでは、「祇王祇女」と記しています。 洛陽名所集. 巻之1-12 / [山本泰順] [撰] 出版書写事項:万治元[1658]序 [出版者不明], [出版地不明] 和装 印記:鑒水,湖泊堂 藤野古白旧蔵 第10冊 カット 21,22、23にて 往生院の項目で、妓王・妓女と表記京都の長講堂に保管されている後白河法皇直筆の過去現在牒には神武天皇から安徳天皇までの歴代天皇、平清盛入道源為朝、為義、義行(義経)、妓王、妓女、佛御前の名も記されています。 サイト 後白河法皇 長講堂 平清盛ゆかりの地 in京都 その8 長講堂 :「散策とグルメの記録」日本古典文学摘集 平家物語 目次 ここでは「妓王」の項目として<< 祇王寺と表記する本、あるいは 祇王・祇女の表記 >> 『京都府の歴史散歩(下)』山本四郎著 山川出版社 1982.8.10 1版8刷 『京都・観光文化検定試験公式テキストブック』 淡交社 『京都発見 一 地霊鎮魂』梅原猛著 新潮社「祇王寺」の公式ホームページがあります。もちろん「祇王寺」表記です。 ここの「祇王寺の歴史」のページ ここを読むと、祇王寺墓地入口にある碑には、「妓王妓女仏刀自・・・・」と表記されている そうです。 かつては、「妓王」という表記を使っていた時代があったということでしょうか。岩波書店 日本古典文学大系 底本 龍谷大学図書館所蔵本 祇王、祇女、とぢ岩波書店 新日本古典文学大系 底本 東京大学国語研究室蔵本(高野辰之氏旧蔵) 祇王、祇女、どぢ<< 義王、義女 >>平家物語 百二十句本(国会図書館本) ここで表記されているようです。平家物語 百二十句本(京都本) 同じくここで表記されているようです。序でに、こんな記事もネット検索で見つけました。:滋賀報知新聞「平家物語」のヒロイン 白拍子「祇王」は実在したか 平成23年1月2日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -2 季吟の句碑・妓王屋敷跡碑・妓王寺 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -3 土安神社・永原御殿跡・菅原神社 へ探訪 [再録] 滋賀・野洲 平家物語・祇王祇女の里を訪ねて -4 常念寺 へ
2017.05.14
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[探訪時期:2013年2月]現在の天理市北部、櫟本町から和爾町は古代豪族和爾氏の本拠地だったところなのです。櫟本高塚公園(櫟本高塚遺跡の所在地)からいよいよ和爾町に入ります。入口に地域案内板がありました。『日本書記』巻三神武天皇の項にある「長髄彦(ながすねひこ)と金鵄(きんし)」という見出しのところ、己未の春二月二十日の条に、「また和珥の坂下に、巨勢祝(こせのはふり)という者があり、・・・」という記載があります。「和珥の坂下」が出てきます(参照1)。また、『古事記』の人代篇其の一、ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)のところに、天皇が伯父オホビコに、邪心を起こしたオホビコの腹違いの兄タケハニヤスを討伐せよと指示する場面ででてきます。「~と言うて、丸迩(わに)の臣の祖であるヒコクニブクを副えて遣わしたのじゃ。オホビコはすぐに都をいで立っての、丸迩坂に神へのも捧げ物を据えて祈り、山代へと向かったのじゃ」(参照2)と。このワニ坂というのが、この場所だと考えられています。 町の坂道の傍に石標が建てられています。坂の上に「和爾坐赤坂比古神社」がありました。 「和珥下神社」という「下」という名称の付いた神社に対して、坂の上にこちらの神社があるのです。この神社について、当日のレジュメによると、『延喜式』に記載があり、天平2年(730)大和国正税帳には丸(わに)神と記載され、また、東大寺二月堂の神名帳にも和爾大明神と記載があるそうです。(資料3)もとは集落の東方の天神に所在したようで、共に願徳寺という古代寺院も存在したようです。 この神社もレジュメの説明では後期古墳の円墳の上に鎮座するとのことですが、形状という点ではよくわかりませんでした。祭神は「阿田賀田須命、市杵嶋比賣命」だとか。ネット検索で調べ、重ね合わせてみますと、『大和志料』に「祭神赤坂比古命、何神ナルヲ知ラズ、蓋シ和珥氏ノ祖神ナラン」という考証が載っているようです。和珥下神社とこの和爾赤坂比古神社は、やはり共に和爾氏の祖神祭祀と深く関係していたのでしょう。また、この神社は桃山~江戸期の「銅造薬師如来種子懸仏」を所蔵されているようです。御正体とも言われる懸仏で、表面に薬師如来を意味する梵字が記され、裏面に「天正14年(1586)、奉懸牛頭天王銘」と記されているものがあるようです(資料3、他から)。この神社前の道は突き当たりになっていて、変形T字路でした。 突き当たりにあるのが「善福寺」です。山門左手にも石標が建てられています。文明9年(1477)知恩院第14世助阿上人を開基とする浄土宗のお寺です。 山門を入ると、道の左右に夥しい数の石仏が並んでいました。本尊は阿弥陀如来座像(重文)で、めずらしく説法印を結ぶ仏像です。「円満相、流麗な衣紋は平安後期の特色。体躯の肉付きがよく、大和らしい像といえる」(資料3)仏像です。写真を撮り記録に残せなかったのが残念です。一木造の阿弥陀如来座像も別に安置されていました。 境内には六地蔵菩薩も並んでいます。和爾町の集落の近くで、今は田畑になっている地点で、発掘調査が行われた場所の一部について、調査資料の地図を参考にした説明を受けました。立ち止まって説明を受けた地点から、野田古墳の方向が眺められました。この後、最後の見学地への移動です。西へ向かう道路傍にある墓地の一角に大きな石仏を見ました。169号線を横断し、西行した先にある道標そして、集落の一角、櫟本公民館の傍に「長寺(おさでら)遺跡」の説明板が建てられていました。ここは櫟本町から楢町にかけて所在する遺跡で、弥生時代から平安時代にかけて続いた遺跡とのこと。 最後の探訪地が「髙良神社」です。櫟本町瓦釜地区に鎮座します。この石標から参道を少し入った左手の建物傍にも、長寺遺跡の説明板があります。このあたりが古代寺院の中心地だったと推定されているようです。長寺については、延久2年(1070)『興福寺雑役免帳』に記載があるとのこと。 髙良神社の社は小振りなものでした。長寺の鎮守社だったと考えられているようです。このあたりからは瓦が数多く出土し、白鳳期瓦も採集されているとのこと。長寺は日佐氏の氏寺(日佐寺)だった可能性も高いといいます。祭神は「武内宿禰(たけのうちのすくね)」という説明が見られる一方、高良玉垂神(こうらたまたれのかみ)であり、この神が武内宿禰のことでもあると記すサイトもあります。高良玉垂神がもともとの産土神だったのだろうと受けとめました。(神社で説明板を私は見かけませんでした。見落としていたのかも知れません。)この神社からJR櫟本駅までは、徒歩5分程度の近距離です。さて、蛇足的なことですが・・・・現在の宇治市の一地域(木幡の村)と和爾氏との繋がりに気づいたことに触れていました。ホムダワケ(応神天皇)がミヤヌシヤカハエヒメを見そめ、そしてウジノワキイラツコという御子が生まれたという話です。大君が歌ったという歌がこの話の中に記されています。おどけながら婚(まぐわ)いを言祝ぐ歌なのです。『古事記』人代其の五に載っています。三浦佑之氏の訳で関連箇所を引用します(参照4)。この長歌はこのカニは どこから来たカニ このかにや いづくのかにずっと無向の 敦賀のカニじゃ ももづたふ つぬがのかに から始まり、木幡の道端 出逢うたおとめご こはたのみちに あはししをとめうしろ姿は 小さな盾で うしろでは をだてろかも歯の並びざま シイの実ヒシの実 歯なみは しひししなすイチイの生えた泉のそばの 丸迩の坂なる赤土を いちひゐの わにさのにを 上面は はだが赤っぽいので はつには はだあからけみ底なる土は どす黒いので しはには にぐろきゆゑと続いていくのです。この中に「ワニの坂」が歌い込まれています。「ワニ坂」という土地。宇治のワニ氏とワニ坂というワニ氏の本拠地を結びつける形になるように重ねて行ったのかもしれないな・・・と勝手に想像しています。大君がワニ氏を認知しているということに繋がるのかもしれません。今回の探訪は、これで終了です。櫟本駅を起点にして反時計回りに各史跡を巡ってきたことになります。ご一読ありがとうございます。参照資料1)『全現代語訳 日本書記 上』(宇治谷 孟訳・講談社学術文庫) p106 2)『口語訳古事記 [完全版]』(三浦佑之訳・文藝春秋) p1623) REC「関西史跡見学教室(20) ~和爾~」 当日配布の講座資料レジュメ 2013.2.23 作成 松波宏隆・龍谷大学非常講師4)『口語訳古事記 [完全版]』(三浦佑之訳・文藝春秋) p235-236【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺和爾坐赤阪比古神社 :「神奈備へようこそ」和爾坐赤阪比古神社 :「延喜式神社の調査」和邇坐赤坂比古神社 :「古代史レポート」秋祭り 「こうら神社」男神と「八幡神社」女神の逢瀬 :「櫟本小学校」和邇吉師と高良神社(その2):「談話室」梵字 神秘の文字 :「秘密の扉」3686平成12年度 特別展「神秘の文字-仏教美術に現れた梵字-」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -1 古墳と和爾下神社、柿本寺跡 へ探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -2 赤土岩山古墳・櫟本高塚遺跡 へ探訪 山辺の道・北辺(櫟本~帯解)-3 ワニ坂・和爾坐赤坂古神社・願興寺跡 へ
2017.05.08
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[探訪時期:2013年2月]和爾下神社古墳を周回してから、「赤土山(あかつちやま)古墳」に行きました。この古墳は別名アカンドヤマ古墳、あるいはアカトヤマ古墳と呼ばれているそうです。地図(Mapion)を見ると古墳の明記はありません。大体の位置関係がおわかりいただけると思いますので、こちらからご覧ください。現地に行ってみてわかったのですが、シャープ総合開発センターの敷地の西側に接する形で古墳がありました。 前方部を西に向け、前方部先端は2段築成され葺石があったと記されています。前方後円墳で全長106.5mだったようです。前方後円墳と確定するまでに、二転三転の議論があったとか。その点に触れたサイト記事もあります。上の説明板の位置あたりの南北に掘割があり、この画像の右側つまり西に2号墳があったようです。今はありません。 探訪時のレジュメから「赤土山古墳の墳丘と埴輪」の図を引用させていただきます。2号墳の位置がおわかりいただけます。(資料1)この図の下辺付近の丸印をご覧ください。「2号墳」と名記されています。 墳頂部と段築面にそれぞれ埴輪列が並んで居たようです。その復元埴輪が説明板の傍に2つ展示されています。 これだけの大きさの円筒埴輪が、下部を土の中に埋められてずらっと列になって並んでいれば壮観ですね。 そして、後円部東側に造り出しが造られていて、その南側から家形埴輪などの形象埴輪が出土したのです。その状態が復元されていました。 わかりやすい説明板が設置されており、「家型埴輪祭祀遺構」として説明と図が表示されています。 この遺構から南方向には天理市内が眺められます。 後円部の頂上から見た祭祀遺構 古墳頂上を後円部から前方部に歩いて行き、東方向を見たところ背景の白い建物群がシャープさんです。この赤土山古墳を含め、この櫟本町の東大寺山古墳群は和爾氏の祖先にあたる人物の墓だと推定されているようです。一方で、物部氏の勢力との接するあたりでもあるようなので、まだまだ論議の余地を残すところもあるようです。大枠としてはやはり和爾氏の本拠地域なのだと理解しました。この赤土山古墳は国史跡として2010年に整備が終わり公開されるようになったとのこと。補遺に挙げたネット情報によれば、「後円部の南側は、造営後、まもなく地震で崩壊し墳丘が半分なくなっている事」が判明しているようです。また、「古墳本体は自然地形で残し発掘調査で成果があった部分のみ復元整備されている」とのこと。 この後、和爾下神社の東側を通り、天理教城法大教会の敷地正門傍で少し説明を聞きました。(この探訪では時間の関係で説明だけでの素通りとなりました。)この教会の建物の奥に見える山の頂き部分に、東大寺古墳が位置するのです。当教会の了解を得ると、敷地内を通らせていただき、古墳に登ることができます。 [2017.5.7時点での追記] 2016年7月にこの古墳跡を探訪しました。既に拙探訪記を載せています。こちらをご覧下さい。 (探訪 山辺の道・北辺(櫟本~帯解)-2 柿本人麻呂の歌塚・柿本寺跡・東大寺山古墳群) この東大寺山古墳から続く丘陵の北端の高所に櫟本高塚遺跡が存在し、その場所を探訪するのが次の目標でした。画像の左手の丘陵部の一段低い上部あたりです。 教会前から山裾をくるりと時計方向に回る形になります。小さな溜池の傍を通りました。右の画像が、「鬼子母神社」です。自然石が祀られているのだとか。現在はその場所が削平されグランドになっていました。この場所の中空に古墳時代の建物跡が発掘されたのだとか。そして、6世紀後半に比定される多くの高坏と土師器が出土したそうで、祭祀関連遺跡の可能性が高いとのことでした。このあたりには、弥生時代からの集落遺跡が発掘されているようです。 今回の探訪地域は、まさに古墳、遺跡の集約した間を縫うように巡りました。位置関係を大凡ご理解いただくために記載図を部分拡大して切り出した図を引用し追加します。(資料1)この部分拡大図では地図の左下隅から外れたさらにもう少し左の位置にJR櫟本駅があります。 つづく参照資料1) REC「関西史跡見学教室(20) ~和爾~」 当日配布の講座資料レジュメ 2013.2.23 作成 松波宏隆・龍谷大学非常講師【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺赤土山古墳(あかつちやま) 国史跡 :「大和の古墳探索」赤土山古墳(第6・7次調査)現地説明会資料 天理市教育委員会大和の遺跡 東大寺山丘陵 :「奈良県立橿原考古学研究所付属博物館」赤土山古墳 :「文化遺産オンライン」土師器 :ウィキペディア埴輪 :ウィキペディア前方後円墳の形の変遷 :「前方後円墳入門」 トップページはこちら ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -1 古墳と和爾下神社、柿本寺跡 へ探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -3 和爾坐赤坂比古神社・髙良神社ほか へ
2017.05.07
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JR桜井線・櫟本駅小野氏が和爾氏の流れであることについて、先日の再録・ご紹介の中で触れています。その展開として、滋賀から奈良に場所を移し、和爾氏の本拠地についての探訪録に話を進めておきたいと思います。2013年2月23日(土)に、RECの学外講座(資料1)を受講しました。古代豪族和爾(和邇・和珥・丸)氏の本拠地を探訪するという目的です。史跡のある地域は奈良県天理市の櫟本(いちのもと)町・和爾(わに)町です。関連する神社、古墳、寺などを見学しました。この探訪の復習と記録整理としてまとめていたものをここに再録して、ご紹介したいと思います。今回の受講で、また一つ、歴史の網の目がつながり、点から面への広がりを感じ始めています。「ワニ」という言葉から、多分地名等での連想が働き出した方もおられるでしょう。さて、当日13:00の集合場所はJR桜井線・櫟本駅前です。JR天理駅の一つ奈良寄りの駅と言えば、大凡イメージが湧くかもしれません。東方向で少し離れてはいますが、JRとほぼ平行に、南北方向に山辺の道が通っています。 駅に掲示の周辺MAP 櫟本駅は鄙びた無人駅です。青色の太線がJR桜井線で、右側の緑の太線が山辺の道です。この間に、古墳や神社、寺が散在しています。電車マークからちょうど左側辺り、山辺の道までの中間地域です。そして少し上側辺りの地域が今回の探訪地でした。 駅前の道を少し東方向に進みます。この道、天理方向を撮ったものです。「当時の距離で正確に四里(一理は約530m)の間隔を保って並行に南北走する大道として作られた」(参照2)三本の古代道路の一つ、「上ツ道」に相当するのだとか。『日本書紀』巻第28・天武天皇に、壬申の乱の経緯記述のところにでてきます。「将軍が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々とやってきた。そこで軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配置した」(参照3)。この訳に出てくる上道のことです。駅から少し歩けば、もうそこには古代史との繋がりが様々に現れてきます。 先に行くと墓石が円丘部分に沢山並んでいました。何と、前方後円墳・「墓山古墳」の後円部が見えていたのです。その名の通り墓地に使われているのだからおもしろい。当日のレジュメによると、全長60mほどの古墳で出土品からの推定で中期末造営だとか。 169号線との交差点を横断し右折して少し南下します。 その先が、和爾下神社への参道でした。 右手側に「人丸神像」という文字の読める石碑も建てられています。人丸つまり、柿本人麻呂です。参道を入りすぐ北側の少し奥に小祠がありますが、詳細不明。(講師の説明が先にあったかも知れません。最後尾で写真を撮りながら歩いていましたので・・・・。付近に説明板は確かなかったように思います。)参道沿いに進むと、この説明板があります。このあたり、東大寺山丘陵の一角だそうで、櫟庄は奈良・東大寺の東大寺領荘園だったところでした。何と、和爾下神社は、前方後円墳の後円部の上に建てられている神社なのです。「和爾下神社古墳」という名称はそこから付けられているようです。 すぐそばに、逆光での写真になりましたが、『日本書紀』巻16・武烈天皇の即位前紀の箇所に載る長歌の石碑と説明板があります。影媛(かげひめ)が鮪(しび)が殺されるのを見て歎いた歌として書記の採取されているのです。『日本書紀』(参照3) を読みますと、こういう人間関係で記述されています。太子(=後の武烈天皇) 仁賢天皇の子。影媛を娶ろうと思う。影媛 物部アラカイ大連の女(むすめ) 書記の訳では、以前に鮪に犯されていた。鮪 大臣平群真鳥臣の子 仁賢天皇崩御後、真鳥臣が国政をほしいままにし、王となろうと欲したとする。仲人が介在したことで、影媛は海柘榴市(つばいち)の辻で太子と会う形になる。そこに鮪が現れ、太子とやりとりをする。太子は鮪が影媛と既に通じていたことを知る。真鳥臣と鮪という無礼な父子に怒り、大伴金村連に軍を出させて、奈良山で鮪臣を殺す。というような展開の中での影媛の歎きの歌です。政治的背景と太子の横恋慕が複雑に絡まった経緯ということなのでしょうか。さて、この先の平地に、神社の小祠が見えました。その近くが、柿本寺跡広場です。 この地に柿本寺があったといいます。レジュメには、延久2年(1070)『興福寺雑役免帳』に寺の記載があり、東大寺末で東大寺領荘園の荘衙の役割を担っていたと記されています。ここから奈良時代の瓦が採集されています。そして、広場には大きな板状の竜山石がありました。傍には「石室の天井石」という説明がなされています。長持形石棺の側石か石室天井石だろうという推定でした。『大和名所図会』巻二には、この柿本寺が櫟本村にあり、人丸塚があることが記されています。また、掲載絵図の端に柿の本という名称が記載されています。 石段を上ると、和爾下神社の拝殿・本殿があります。 この社殿が後円墳の上にあるのです。 本殿に向かい左側に末社若宮神社があります。一間社春日造で、本殿と同時期の建立と推定されているようです。本殿は拝殿の両横から覗いても見づらくて一部しか見えません。三間社切妻造で重要文化財に指定されています。本殿右側には和爾下神社と刻した石灯籠が建っていますが、若宮神社側で、本殿よりずっと斜め手前に、「治道宮」と刻した石灯籠が建っています。実は境内に数多く建てられている石灯籠も「治道宮」と記されているのが多いのです。 そのことが「和爾下神社」の説明案内板にも記されていました。『延喜式』には、「和爾下神社二坐」と記載されているとのこと。しかし、鎌倉時代や江戸時代には、「治道天王」と呼ばれていたようです。ネット検索で調べていて「東大寺要録」に記録があるということを知りました。説明板の冒頭に記載のことがここに載っているようです。神護景雲3年(769)に東部から南へ流れていた水路を北へ移動し西流する河川に造り替えて、道路も改修したのだとか。12月10日に工事を始め翌4年4月1日に竣工したときに、森を「治道の杜」といい、神社を「治道宮」といったそうです。寿永2年(1183)に藤原清輔の弟顕昭(太秦寺住職)が記した『柿本朝臣人麿勘文』には、「治道社」という名前で記されているとか。「春道社」とも書くようです。江戸時代の『大和名所図会』に「和爾下神社二坐」としての記載があります。こちらは絵図が載っていません。当時は柿本寺の方が有名だったのでしょうか。説明文のなかに「治道天皇と称す」という言葉が記されています。「治道天王」ということでしょう。治道宮といわれていたことと符節を合わせているように思います。明治初年に考証の結果、「和爾下神社」と社名が定まったようです。そして、祭神が「スサノオノミコト、大己貴命(オオナムチノミコト、大国主命の別称)稲田媛命」に移ったのだとか。拝殿の前に牛の像が対で配置されています。スサノオノミコトの本地が牛頭天王(ごずてんのう)であり、大己貴命の荒魂が牛頭天王という説もあるようですので、牛神を祀る形になっているのでしょうか。それでは、旧祭神は? ということになります。明治初年に和爾下神社祠官辰巳筑前がその筋に出したという記録には、旧祭神として「本社、天足彦国押命・彦姥津命・彦国葦命・若宮難波根子武振熊命」とあるそうです。そこで、再び『日本書紀』に戻っていきますと、孝昭天皇の項に、皇后ヨソタラシヒメが天足彦国押命と日本足彦国押人尊を生み、日本足彦国押人尊が皇太子となり、天足彦国押命が和珥臣らの先祖であると記されています。(参照5)どこまでが史実かは別として、そういう伝承が形成されたということでしょう。つまり、この神社が和爾氏の祖先神を祀る神社だったということになります。当日の講師の説明とレジュメによれば、「和爾氏は歴代大王に9人の妃を入れた氏族で、春日氏・柿本氏・小野氏などと同族と考えられる」とのこと。ここからも、かなり強力な古代豪族だったことが窺えます。柿本人麻呂や小野妹子などが、この和爾氏と同族関係にあるのですね。三浦佑之氏は「和迩・和珥などとも表記されるワニという名は、ハニ(赤土)の転訛だと言われるが信じがたい。大胆な推測をすれば、ワニとは、海の神として信仰されるワニ(海獣のフカ・サメをいう語)から来ているのではないか。かれらは、もともと海洋民で、日本海側の若狭から琵琶湖を経て内陸の倭に住みつくことになったのではないだろうか」(参照6)と著書の脚注に記されています。北の春日(奈良市東部)に勢力を広げ、春日氏となるようです。また、滋賀県の地名・氏族に関係して、一書に、「滋賀郡の和邇部臣・小野臣・近江臣・甲賀郡の甲賀臣についても、前二者が中央の有力豪族ワニ氏、後二者が同じく蘇我氏の同族・配下として、大和政権の一翼を占めていたと考えられる」(参照7)という見解が記載されていました。JR湖西線で、京都から向かうと、堅田を過ぎて、「小野」駅、「和邇」駅と続いているのもなるほどなあ・・・と感じる次第です。このあたり、和爾の勢力圏でもあったということになりますね。ここで、「和爾」という言葉が地理的に大きな広がりを持ち、頭の中で面的に繋がってきた次第です。いくつかの情報から『日本書紀』を繙き、例えば次の記載を見つけることができました。*開化天皇の項 (参照6) 次の妃の和珥臣の先祖姥津命(ははつのみこと)の妹姥津媛は、彦坐王を生んだ。*応神天皇の項 (参照6) 次の妃の和珥臣の祖、日触使主(ひふれのおみ)の女宮主宅媛(みやぬしやひめ)は、菟道稚郎皇子(うじのわきいらつこのみこ)・矢田皇女・雌鳥皇女を生んだ。*雄略天皇の項 (参照6) 次に春日の和珥臣深目の女があり、童女君(おみなぎみ)という。春日大女皇女を生んだ。『古事記』(参照7)にも、形を変えてですが、記載があります。*人代篇其の一 開化天皇の箇所 また、丸迩の臣の祖のヒコクニオケツの妹オケツヒメを妻としての、生んだ御子はヒコイマス、一柱じゃ。*人代篇其の五 応神天皇(=ホムダワケの大君)の箇所 大君は、そのおとめに、「そなたは誰の娘ごであるか」と尋ねるとの、おとめは、「丸迩のヒフレノオホミの娘で、名はミヤヌシヤカハエヒメと申します」と答えたのじゃった。・・・・・ こう歌うた後に、大君とヤハカエヒメは結びおうての、生んだ御子はウヂノワキイラツコじゃ。 → 何と、わが地元の宇治市の地域も古代には、和爾との関わりがあったのです! 点的知識が、繋がってきました。*人代篇其の十 仁賢天皇(オケの大君)の箇所 ワニノヒツマの臣の娘ヌカノワクゴノイラツメを妻としての、生んだ御子はカスガノヤマダノイラツメじゃ。探訪途中で、講師から説明があったのですが、今回の和爾氏とは別系統のワニ氏がいるのです。今回のテーマからは余分ですが、一応復習として確かめてみました。「王仁」と書くワニ氏です。これは記紀両方に記述されています。『日本書紀』では、巻10応神天皇に出てきます。百済王が阿直岐(あちき)を遣わし、応神天皇の許に良馬2匹を奉ります。この馬が飼育されたところが厩坂(うまさか)です。この阿直岐がウヂノワキイラツコの学問の師になります。天皇が阿直岐に「お前よりすぐれた学者がいるか」と質問されたのに対し、「王仁」がいると答えたのです。そこで百済から王仁(ワニ)が渡来し、ウヂノワキイラツコの師となったのです。「王仁は書首(ふみのおびと)らの先祖である」(参照9)ことになります。三浦氏は著書の脚注に、「ワニキシ(ワニ)は、列島の人々に大陸の『知』をもたらした人物として有名。ワニキシを祖とする『文の首』は、河内の国の古市(現在の大阪府羽曳野市辺り)を本拠地とし、文筆のことを技とする渡来氏族である」(参照10)と記されています。神社を下り、前方墳の側にぐるりと回ってから次の探訪地に移動しました。これが前方墳の方に踏入り、後円墳の方向を見たところです。神社への坂道を造るために、一部削平されていたりして残念ですが、前方後円墳の雰囲気はわかりました。和珥氏の系譜の入口を少し覗いた程度ですが、それでも古代史の面白さを感じ始めています。まずは、この辺りで・・・・つづく参照資料1) REC「関西史跡見学教室(20)」 当日配布の講座資料レジュメ 2013.2.23 作成 松波宏隆・龍谷大学非常講師2)『地図から読む歴史』(足利健亮著・講談社学術文庫)p79、p80に図あり。3)『全現代語訳 日本書紀 下』(宇治谷孟訳・講談社学術文庫)p2584)『全現代語訳 日本書紀 上』(同上)p340-3415)上掲書(上) p1166)上掲書(上) p120、p210、p2857)『口語訳 古事記 完全版』(三浦佑之著・文藝春秋) p153、p234-236、p3488)『新・史跡でつづる古代の近江』(大橋信弥・小笠原好彦編著、ミネルヴァ書房)pⅷ9)上掲書(上) p217-21810)三浦・上掲書 p241【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺和珥氏 :ウィキペディア和邇氏族概観 :「氏族姓氏概覧試論」和邇氏考 :「おとくに」・古代豪族和邇氏と考古学 :「談話室」続、和邇氏と考古学 :「談話室」天足彦国押人命・和邇氏もうひとつの王家説:「民族学伝承ひろいあげ辞典」大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 [著] ; 竹原信繁 画:早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 巻二 添上郡 に記載あり牛頭天王 :ウィキペディア和爾下神社由緒 ← 和爾下神社(上治道天王) :「神奈備」 東大寺要録のことをこのサイトで教えていただきました。和爾下神社(下治道天王) :「神奈備」 二坐のうち、横田村(=現横田町)の方の神社和珥下神社二坐柿本寺、人丸塚柿本寺・在原寺 絵図和珥坐赤坂比古神社 和尓村にあり ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -2 赤土岩山古墳・櫟本高塚遺跡 へ探訪 [再録] 奈良 古代豪族・和爾氏の本拠地 -3 和爾坐赤坂比古神社・髙良神社ほか へ
2017.05.06
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[探訪時期:2014年12月] 小野神社の参道入口北角にある前回ご紹介の上品寺から道路沿いに少し北に行けば、和邇川があります。その川沿いに和邇公園が整備されています。 途中で、虹が架かっているのを目にしました。薄く虹の一部がご覧いただけるでしょう。 和邇川 和邇公園ここで昼食休憩となり、今回の小野神社周辺巡りはここで終了し、後は和邇駅までの道案内という説明を受けました。そこで主催者の了解を得、参加メンバーとは別れて、せっかくの機会なので、それほど遠くないということでしたので「天皇神社」に足を延ばすことにしました。延ばした甲斐がありました。 「天皇神社」 正面の石の鳥居鳥居の先に拝殿が見えます。本殿のところでいただいたリーフレットの境内見取図では、「水場」と記されています。 鳥居から見えていた「拝殿」拝殿の背後に本殿があり、境内社が、本殿に向かい左側に左方向に、樹下神社、松尾神社、三宮神社の三社。右側には右方向に若宮神社、大国神社の二社が一列に横並びとなっています。 「本殿」 小野篁神社・小野道風神社と同じ、切妻造檜皮葺です。 この形式の本殿は、滋賀県内ではここの本殿を加えて3棟だけだそうです。また、日本全国でみても希な建築形式だとか。それが3棟も1地域に集まっているのがおもしろい。重要文化財に指定されています。ここの本殿は桁行三間、梁間二間、一重、向拝一間の建物で、鎌倉時代・正中元年(1324)に建立されたそうです。小野神社職務歴代記に建立に関する記録があるそうです。小野神社の2棟とは違い、屋根の勾配が著しく緩い造りになっています。(資料1、説明板)祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。社伝によれば、村上天皇康保3年(966)の創始と伝えられているそうです。元は、「和邇牛頭天王社」と称された神社。京都八坂祇園の「牛頭天王」をこの地に遷したといいます。つまり、現在の八坂神社の流れですね。和邇中、今宿の産土神として崇敬されているのです。後でご紹介するように境内地社殿はこの地域のそれぞれの村の氏神として崇敬されており、さらにこの和邇荘全体の氏神として「和邇牛頭天王社」があるという構造にもなっていたようです。明治9年(1876)に「天皇神社」と改称されたのだとか。今までの各地探訪の折、幾箇所かで「天皇神社」を訪れています。一貫して「牛頭天王社」が「天皇神社」に改称されています。「牛頭天王は薬師如来の垂迹神で、素戔嗚尊と同体とされる」ことから、天皇神社と改称されるとき、「祭神も素戔嗚尊に改められたのであろう。本地仏を安置する薬師堂も境外に移され、現在は神社背後の乳守地蔵の脇にある」(資料2)とのことです。この薬師堂は今回訪ねていません。本殿・母屋の正面中央間と右側面が幣軸構板戸両開という形式の扉です。ここでもめずらしいと思ったのが正面の板戸の下部にある向かい合う人物像の装飾です。こういう意匠を初めて見ました。上掲の写真のように脇間は格子戸嵌殺の様式です。 頭貫の先端の木鼻は彫刻の装飾がありません。これもちょっとめずらしいと感じた次第。向拝の蟇股は残念ながら欠損しています。 本殿の背面、左側面の外観は白壁ですっきりしています。リーフレットによれば、境内社について、樹下神社、三宮神社、若宮神社の順に創立されたようです。以下ご紹介します。(資料1) 「樹下神社」 本殿に向かって左隣り後醍醐天皇正中2年(1325)「日吉十禅師社」の分御霊をこの地に奉遷。同年11月に遷宮。「和邇牛頭天王社」の摂社。中浜の産土神として崇敬されているそうです。祭神は鴨玉依媛命(かもたまよりひめのみこと)。現在の社殿は元禄3年(1690)に改造されたものとのこと。明治9年に「十禅師社」を「樹下神社」と改称されたのです。樹下神社で思い出したのが守山市街地、中山道沿いにある同名の神社です。後日再録してご紹介したいと思っています。こちらの神社の彫刻はなかなかのものです。玉眼を使っています。 蟇股の龍 向拝の木鼻の象 母屋側の木鼻は正面、側面ともに獅子が睨みをきかせています。 社殿の側面は板壁です。屋根の下に弓矢が奉納されています。神社本殿より規模は格段に小さいですが、装飾面ではかなり豪華な社殿です。 「三宮神社」 左端に位置します。後光厳天皇康安元年(1361)「日吉三宮」の分御霊をこの地に奉遷。同年11月に遷宮。同様に摂社であり、こちらは北浜の産土神として崇敬されているそうです。祭神は鴨玉依媛命荒御魂(かもたまよりひめのみことあらみたま)。現在の社殿は文明3年(1471)に改造されたとのこと。同様に、明治9年に「三宮神社」と改称されたのです。旧名は「日吉三宮社」だったようです。 木鼻はわりと良くみかけるタイプの意匠です。蟇股もシンプルなもの。 本殿の右隣りに位置する「若宮神社」後小松天皇明徳2年(1391)「日吉二宮」の分御霊をこの地に奉遷。同年9月に遷宮。同様に摂社であり、高城の産土神として崇敬されているそうです。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)現在の社殿は文化3年(1806)に改造されたとのこと。同様に、明治9年に「若宮神社」と改称されたのです。旧名は「日吉二宮社」だったようです。 三宮神社の右隣で、樹下神社との間にある「松尾神社」ここの木鼻は、三宮神社の木鼻よりも象の形象が立体化していて、本格的な象頭の彫刻への過渡期を思わせる造作の感じです。蟇股はシンプルなもの。また、蟇股など部分補修されているようです。祭神は大山咋神荒御魂(おおやまくいのかみあらみたま)神社名と祭神を考えると、京都の松尾大社の流れでしょうか。(資料3)一番右端の大国神社(祭神:大国主神)の写真を撮り忘れました。松尾神社と同規模の大きさのようですが、松尾神社とともに創立等は不詳です。境内地南隅にある宝塔 大津市「有形文化財」指定鎌倉時代の作品のようです。「法華経」を根本経典とする天台宗・比叡山延暦寺の強い影響が、この旧志賀町内の神社にあった影響だろうと考えられているようです。調べて見ると、この地域はかつて和邇荘であり延暦寺の寺領になっていたのです。日吉大社からの分御霊の奉遷が多いこともその影響かもしれません。日吉大社は天台宗延暦寺の護法神として位置付けられていましたから。(資料4)さらに興味深いのは、本殿としての「牛頭天王社」がそのまま存続し、末社として日吉山王社の神々が祀られたのは、古代からこの地に小野氏の勢力が存在したことのためか、「牛頭天王社」という京都祇園八坂との関係なのかもしれないというところです。それがこの神社の「和邇祭り」にしきたりとして残るそうです。「和邇祭り」は古来4月初申の日が祭日だったそうですが、現在は5月の第2日曜日に実施されているとか。そして、「祭礼時、天皇神社の神輿が『大宮』であるのにかかわらず、式典の中では、御供の献上、あるいは祝詞奏上の順は樹下神社の神輿が一番先となっている」のだそうです。(資料1)このあたりの事情を考えると、本殿の建物の形式に対し、樹下神社の社殿の豪華さがなるほどと頷けます。中世の勢力交代のしからしめる結果ということなのでしょう。上記の神社を崇敬した村々の名称は、現在もそのまま地名として残っています。こちらの地図(Mapion)をご覧いただくと、イメージが作りやすいと思います。JR和邇駅に向かう途中、榎町(えのきちょう)商店街の十字路角に、デンとこの大きな「榎」と刻された石碑があります。なんだろうと後で調べてわかりました。「かつては、ここにエノキが植えられており、一里塚とも天皇神社の神木ともされていた」ことを示す史跡なのだそうです。(資料2)この大きな石碑を見て、今回のオプションを加えた探訪が終了しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「天皇神社」 当日、本殿のところでいただいたリーフレット2) 『滋賀県の歴史散歩 下』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p233-2343) 松尾大社 歴史・由緒 :「松尾大社」HP4) 日吉大社について :「日吉大社」HP【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺和魂・荒魂 :ウィキペディア荒御魂と和御魂 :「伊勢参拝ナビ」牛頭天王 :ウィキペディア祇園信仰 :ウィキペディア八坂神社について :「八坂神社」HP八坂神社 :ウィキペディア「牛頭天王」に見え隠れする日本人のルーツ :「日本とユダヤのハーモニー」 ネット検索していて出会ったおもしろい解釈です。和邇祭 大津の歴史事典 :「大津市歴史博物館」和邇天皇神社の祭 :YouTube和邇祭り :「西近江しんぶん」和邇氏考 古代豪族 :「おとくに」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -1 小野妹子神社・唐臼山古墳・小野道風神社ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -2 石神古墳群・石上神社・小野神社・小野小町の塔・小野篁神社・上品寺 へ
2017.05.05
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まず、JR小野駅前にあった案内図の部分図を載せておきます。小野道風神社から小野神社に向かう行程がお解りいただけるでしょう。 [探訪時期:2014年12月] 小野道風神社から少し先にこの標識が立っています。 途中に、石神(いわがみ)古墳群の標識が出ています。 「石神古墳群」の2号墳 石神古墳群は4基の円墳からなり、いずれも横穴式石室で古墳時代後半に築造されたものだとか。ここは昭和49年に発掘調査が行われ、主に須恵器の杯身(つきみ)、杯蓋(つきぶた)、提瓶(ていへい)などが出土したようです。1号墳は7世紀前半ごろの築造、そして2,3,4号墳は6世紀前半にさかのぼる築造と推定されています。(説明板より) 1号墳寄りに「石上(いわがみ)神社」が祀られています。すぐ傍に1号墳の石材が見えます。鳥居の左斜め奥の盛り上がった箇所が上掲の2号墳です。近くには「岩上神社」と刻された石標が立っていました。すこし先に進むと、道沿いの少し高いところに、「永富稲荷神社」が祀られています。 案内標識の先には白い築地塀と大きな木参道脇のこの樹木は、胸高周囲4mを超える県内最大級のムクロジだそうです。 小野神社・小野篁神社の石の鳥居 手水舎 手水舎の蟇股と木鼻の意匠がちょっと特徴的です。ここまで透かし彫りにしてあるのは初めて見た気がします。 鳥居をくぐり広い境内に入ったところからの眺め。左側が小野神社参道だという順路標識が見えます。 境内を流れる小川にかかる小さな橋を渡ると、左方向にこの歌碑があります。百人一首の11番に入っている小野篁の有名な歌です。 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣船 参道の石段を歩むと、途中に石造宝塔が見えます。 「小野小町塔」と表示が出ています。もう一つ石の鳥居があり、その先に社殿が2つ見えます。この鳥居の正面に見えるのが「小野神社」で、その右斜め前方に見えるのが「小野篁神社」です。 小野神社 石灯籠の代わりに鏡餅を載せたものが奉納されています。これは初めて見る景色です。 小野神社本殿祭神は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと):孝昭天皇の第一皇子 米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと) :上記第一皇子から七代目『日本書紀』を読むと、孝昭天皇の「29年春1月3日、世襲足媛(よそたらしひめ)を立てて皇后とした。后は天足彦国押人命と、日本足彦国押天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと孝安天皇)とを生まれた。68年春1月14日、日本足彦国押尊を立てて皇太子とされた。年20。天足彦国押人命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」(資料1)と記されています。和珥氏から小野氏が分かれているようですので、小野一族の祖となるのでしょう。『古事記』を典拠とした内容も説明板に記されています。手許の本では、「兄のアメオシタラシヒコは、春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壱比韋(いちひい)の臣、大坂の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗の臣、知多の臣、牟耶(むざ)の臣、都怒(つぬ)の臣、伊勢の飯高(いいたか)の君、壱師(いちし)の君、近淡海(ちかつおうみ)の国造(くにのみやつこ)らの祖(おや)になったのじゃ」(資料2)と記されています。和珥臣が出てこずに、同族とされる「春日、大宅、栗田、小野、柿本、飯高」と枝氏の列挙として出てくるところが興味深いところです。(資料3)「祭神のうち米餅搗大使主命は、鏨着(たがねつき)大使主とも表記され、鍛冶の神とも考えられるが、『米餅搗』という用字から、いつの頃からか同神は餅や和菓子の神とされ、これにちなんだ祭が行われている」(資料4)のです。また、説明板に記された「小野道風が菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた」という説明板の記述は、私には興味深くおもしろい発見でした。そういえば、京都には「匠・司」を関する老舗の和菓子屋さんがいくつもあります。この祭が、毎年秋11月2日に行われる「しとぎ祭」だとか。お菓子の祖神の祭として、全国から菓子業者が集まるそうです。(資料4,5)社殿の前の鏡餅の形の奉納に、なるほど!です。小野神社は『続日本紀』の宝亀3年(772)4月の記述から、奈良時代に存在していたことは明かなようです(資料4)。社記によれば延喜式明神大社です。(説明板、資料6)本殿は、神明造で間口一間二尺、奥行一間一尺。「平安時代には小野氏の氏神として崇敬され、小野氏のほか、大春日・布瑠・粟田の3氏に対して、小野神社の春秋の祭のおりに、太政官符を待たずに平安京と近江国滋賀郡とを往還することが許可されている」(資料4)状態だったそうです。大春日・布瑠・粟田は同族諸氏として共通の奉斎神としたということなのでしょう。 斜前方の北隣に「小野篁神社」の本殿があります。 この篁神社本殿の方が、一見では小野神社そのものと錯覚しそうです。小野神社より後世に建てられたことから、こちらがある時期はメインに尊崇されたのかも知れませんね。祭神は小野篁。私が小野篁で、まず想起するのは京都・東山に所在の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)境内にある篁堂の「小野篁立像」です。(資料7)それと、拙ブログで既にご紹介しておりますが、小野篁の墓と称されるもの。「スポット探訪 [再録] 京都・洛中 小野篁・紫式部墓」です。こちらからご覧いただけるとうれしいです。道風神社の本殿と同様に、こちらも切妻造・平入り・檜皮葺の本殿です。桁行三間、梁間二間、向拝一間。その様式から暦応年間(1338~42)の建築と考えられています。「社殿は暦応三年に佐々木六角により建立されたと伝えられる。」(資料6)とか、「社伝によれば、暦応2年(1339)に佐々木氏頼が篁・道風の両社を建立したとされており」(資料8)とか、複数の伝えがあるようです。 この本殿にも、内部に狛犬像が置かれています。 木鼻はシンプルで、蟇股が素朴というか奇妙な形象です。閻魔大王と繋がる・・・・これがもともとの形なのでしょうか? そうならば、おもしろい発想、奇妙な力強さを秘めている気がします。道風神社の蟇股と見比べてみてください。小野神社境内にある境内社。八幡神社と松尾神社の木札が掛けられています。正面の鳥居をくぐってきて、順路標識がなく、前方にこの石段とその先の本殿を眺めれば、こちらを小野神社の本殿とつい思いますよね・・・・。境内を流れる小川に沿って石の鳥居から再び白壁の築地塀沿いの参道に出て、「御神田」と木札の立つ水田に気づきました。参道を真っ直ぐに出て来てやっとわかったのですが、白い築地塀に囲まれたのは「上品寺(じょうほんじ)」です。調べて見ると、天台真盛宗のお寺です。承和4年(849)小野篁開基と伝えるお寺だそうです。JR和邇駅下車徒歩10分と説明が付いていますので、小野神社は和邇駅から来れば15分以内ということになります。(資料8) 天台真盛宗は坂本にある西教寺が総本山です。これがJR和邇駅の方から真っ直ぐに来たときの「小野神社」の参道への入口です。この「小野周辺史跡案内図」をご覧いただくと、小野周辺に古墳がいかに多いかがおわかりいただけるでしょう。この後、和邇公園に向かいました。すぐ近くです。つづく参照資料1) 『全現代訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 講談社学術文庫 p1162) 『口語訳 古事記 [完全版]』 訳・注釈 三浦佑之 文藝春秋 p1493) 和珥氏 :ウィキペディア4) 『滋賀県の歴史散歩 下』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p2375) 当日配付のレジュメ 「和邇~小野地区」6) 小野神社 (オノ) :「滋賀県神社庁」7) 六道珍皇寺と小野篁の不思議な伝説 :「六道珍皇寺」8) 小野篁神社 大津の歴史事典 :「大津市歴史博物館」9) 上品寺 大津の歴史辞典 :「大津市歴史博物館」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺ムクロジ :「緑の絵画館 私の植物図鑑」無患子 (むくろじ) :「季節の花300」小野 篁 :ウィキペディア小野篁の地獄通い :「読む・聴く 昔話」地獄往来、小野篁 :「お話歳時記」大津の歴史事典 地区:和邇 :「大津市歴史博物館」しとぎ祭・大津市小野 滋賀伝統文化再発見 :「滋賀文化のススメ」しとぎ祭り :「大津市歴史博物館」菓子・餅の祖神 小野神社 :「近江歴史回廊倶楽部」天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -1 小野妹子神社・唐臼山古墳・小野道風神社ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -3 和邇公園・天皇神社・「榎」碑 へ
2017.05.05
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JR湖西線・小野駅と近辺の景色です。2014年12月23日(火・祝日)に「小野妹子ゆかりの地をめぐる健康ウォーキング」に参加しました。NPO法人「ライティング心と未来」が企画され、「古都おおつ観光ボランティアガイドの会」の方がご案内くださいました。小野地域は、行政的には大津市ですが、イメージのしやすさから滋賀・湖西と記すことにします。この時の探訪まとめたものを再録し、ご紹介します。一度訪れてみたいと思っていた所なので、私には絶好の機会となりました。ボランティアの皆さんに感謝!です。当日の探訪ルートは大凡、 JR小野駅→小野妹子公園→道風神社→石神古墳群→小野神社・小野篁神社→JR和邇駅という行程です。実質2時間半程度の探訪ウォーキングでした。 JR小野駅前に、今回の探訪ルートをほぼ明示した詳しい案内板が設置されています。それをご覧になると便利だと思います。その部分図を切り出してみます。今回の近辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。小野駅前の広場から駅前の道路を右折して北に向かいます。湖青1丁目のバス停の先の交差点で左折し、びわ湖ローズタウンの住宅地の中に残された丘陵に向かいます。水明1丁目です。丘陵地は「小野妹子公園」として整備されています。丘陵の西側に回り込んで行くと、「小野妹子神社」の石標と石の鳥居が見えます。ここから丘陵を上がって行きます。 ここは遣隋使として有名なあの小野妹子のゆかりの地です。 なぜここに小野妹子を祀る神社があるのか。実は、この場所が「唐臼山古墳」と称される地点で、「小野妹子墓」という伝承があるのです。 この地域は古くは和邇部氏が支配していたところです。京都洛北の愛宕郡小野郷(左京区上高野)に居た小野氏が後にこちらに進出してきて、8世紀の初めにはこの地域の主流になって行ったようです。(資料1)小野妹子の母は和邇部氏の出身であり、妹子は近江国滋賀郡小野で生まれたそうです。小野村を本拠とした小野氏の一族。『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、妹子が小野村に居住したことにより、小野を氏の名としたと記されているとか。(資料2) 小さな本殿の後にこの写真のように封土が流出し石室の一部が露出した状態になっています。「近年の研究では、墳丘は方墳で、主体部は南側に開口する横口式石槨と考えられている。床には玉石が敷かれていたらしく、南端にわずかに小石が露出し、この上面から7世紀前半頃の須恵器の坏身(つきみ)、坏蓋(つきふた)各1点が発見されており、築造年代が推定できる」(資料2)ようです。『日本書紀』を繙きますと、推古天皇の15年に「秋7月3日、大礼小野臣妹子を大唐(もろこし隋)に遣わされた。鞍作福利を通訳とした」「16年夏4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名づけて、蘇因高(そいんこう)とよんだ。大唐の使人裴世清(つかいはいせいせい)と下客(しもべ)12人が、妹子に従って筑紫についた。・・・・」と記されています。さらに、同年9月、「11日、客人裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子を大使(おおつかい)とし、吉士雄成(きしのおなり)を小使(そいつかい)とした。鞍作福利を通訳として、随行させた。」そして、17年「9月、小野妹子らが大唐(隋)から帰った。ただ通訳の福利だけは帰らなかった。」と記しています。小野妹子は第2次遣隋使として607年7月~608年4月に、608年9月~609年9月は送使として渡海したのです。(資料3)小野妹子の任務には「仏教を学ぶ」「書物を購入する」「礼制を導入する」という3つの目的があったようです。(資料1)小野妹子神社自体は、唐臼山古墳の存在が明らかになり小野妹子の墓という見解が生じた後、明治以降に創祀されたようです。1882年(明治15年)の『近江国滋賀郡小野村誌』には、唐臼山古墳の所伝は記載がないそうです。一方、1919(大正8)年には、「外交始祖大徳小野妹子」と刻まれた唐臼山古墳への道標が建立されてたと言います。(現在あるのは復元品)(資料2)なお、余談ですが、小野妹子墓と称されるのは、大阪府南河内郡太子町山田の所在の科長(しなが)神社の南側の小高い丘の上にもあるそうです。(資料4)唐臼山古墳のある残された丘陵の東端は琵琶湖の展望所になっています。 対岸に三上山が見え、彼岸と此岸を繋ぐ琵琶湖大橋・レインボーロードが眺められます。この後、北側・小学校のある方に下って行きます。 目指すのは「道風神社」です。道標が整備されていますので、わかりやすいです。この湖西にも古墳群が数多く在り、「曼陀羅山古墳群」への表示が出ています。進んで行く道の傍に、右画像の「小野古墳群」という石標を見かけました。 さらに、「小野道風神社」への道路標識 「小野道風神社」 祭神は小野道風(おののとうふう)。 この小野神社の飛地にある境内社という位置づけです。本殿は切妻造檜皮葺。一重で、桁行三間・梁間二間、向拝一間です。南北朝時代・暦応4年(1341)の建立だとか。 小野道風と聞くと、柳の枝に蛙が飛びつくイメージ、花札の絵柄にもなっている場面が想起されます。その姿を眺めて、小野道風が発奮し文筆の極致を極めるようになったというあの逸話です。道風は小野篁の孫であり、平安時代中期の書家。「日本三蹟」の一人として有名です。後の二人は、藤原佐理(すけまさ)と藤原行成(ゆきなり)です。小野道風は和様の書の創始者として有名。(資料1、説明板)余談ですが、それより先、9世紀の唐風文化の隆盛した時代に能書家で知られた人が、嵯峨天皇・空海・橘逸勢(はやなり)の3人で、「日本三筆」と称されています。(資料5)江戸時代には篁神社を大宮とするのに対して、こちらを二宮大権現などと称されたとか。また、道風神社は奈良~室町時代の大般若経を所蔵し、神社の南にある観音堂で転読されているようです。(資料2)本殿の左斜め前の樹木の傍にある境内社は「文殊神社」、本殿に向かって左側が「八坂神社」で、右側が「樹下神社」です。 本堂の格子扉の向こうに、狛犬が配置されています。 向拝の木鼻はシンプルですが、蟇股の透かし彫りの彫刻はなかなか堂々としています。向拝柱の上部の手挟みにもしっかり草花文様が彫刻されています。 そして、この後小野神社の方に向かいます。つづく参照資料1) 当日は配付のレジュメ 「和邇~小野地区」2) 『滋賀県の歴史散歩 下』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p238-2393) 『全現代訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟 講談社学術文庫4) 小野妹子墓 :「太子町」5) 『詳説 日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p95【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺小野氏 :ウィキペディア和珥氏 :ウィキペディア小野妹子 :ウィキペディア小野妹子と華道 :「小野妹子.org」いけばな発祥の地 六角堂と池坊 :「池坊」小野妹子の子孫たち その1 :「小野妹子の子孫たち」小野道風 :ウィキペディア小野道風 :「古典書法」玉泉帖(ぎょくせんじょう) :「宮内庁」玉泉帖:伝小野道風筆 :「近代デジタルライブラリー」春日井市道風記念館 :「春日井市」道風神社 :「京都観光Navi」道風神社(北区) :「京都風光」花札の謎シリーズ 11月札『柳に小野道風』 :「京都 大石天狗堂」琵琶湖大橋 :ウィキペディア琵琶湖大橋有料道路 :「滋賀県道路公社」小野妹子墓 :「聖徳太子ゆかりの古墳」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -2 石神古墳群・石上神社・小野神社・小野小町の塔・小野篁神社・上品寺 へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -3 和邇公園・天皇神社・「榎」碑 へ
2017.05.04
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[探訪時期:2014年9月]小野篁・紫式部墓の続きに、せっかくここまで来たのだからと、一度訪ねて見たいと思っていた建勲神社にその場の思いつきで足を向けてみることにしました。冒頭の画像は「玄武神社」です。建勲神社に向かうため建勲通りに行く途中でこの神社が目に止まったのです。神社に立ち寄りましたので、この神社のご紹介から始めます。紫野雲林院町にあります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。建勲神社との位置関係もおわかりいただけるでしょう。石鳥居の先に唐破風屋根の拝殿や本殿の社殿がすぐに見える小規模な神社です。旧村社。境内の整備は行き届いています。唐破風屋根の正面、中央の飾り金具には菊の紋章がレリーフされています。現在の社殿は1963年に再建されたものだそうです。 駒札並びに手許の本によれば、祭神は惟喬(これたか)親王です。文徳天皇の皇子。「社伝によれば、元慶2年(878)大宮郷の郷士星野市正茂光が親王愛蔵の御剱を御霊代(みたましろ)とし、併せて王城北方の鎮護として祀ったのが起こりとつたえる」(資料1)駒札には、星野茂光が惟喬親王の末裔であり、御剱は親王の外祖父にあたる紀名虎が所蔵していたものと記されています。文德天皇は第55代で、在位は850~858年です。惟喬親王は第一皇子でありながら、皇位継承の対象から外され、第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が皇太子になるのです。悲運の皇子という境遇になった人。惟喬親王(844~897)の母は紀名虎の娘・静子(せいし)。一方、惟仁親王の母は太政大臣藤原良房の息女・明子(あきらけいこ)であり、文德天皇の即位(850年3月21日)後、5日目に誕生した第4皇子です。文德天皇には惟喬親王を立太子とする意向が強かったようですが、外祖父となった良房の権勢に屈せざるを得なかったのです。(資料2,3)紀名虎は、娘・種子を仁明天皇に上記静子を文德天皇にいれ、それでスピード昇進した人です。とはいえ、刑部卿に補任されたという官位(正四位)ですので、残念ながら良房には対抗できる力はなかったでしょう。(資料4) それは当時の紀氏と藤原氏の勢力差を反映していると言えます。藤原北家の冬嗣が娘を天皇の紀とし、外戚政策を推し進めて行きます。冬嗣の子、良房がそれを継承するのは当然でしょう。まず良房は息女・順子が仁明天皇との間の子である道康親王を強引に皇太子にします(承和の変)。その道康親王が即位して文德天皇となるのです。その次のステップが上記の行動です。その結果、惟仁親王が即位し清和天皇となると、藤原良房は天皇の外祖父として、実質的に摂政の役割を果たすようになります。ここから平安時代は藤原氏による摂関政治の世になっていくのですから・・・・。(資料5)脇道に逸れますが、調べてみると、惟喬親王墓と称されるものは大原にあります。こちらをご覧ください。(「大原地域案内」京都大原学院のサイトから引用)また、惟喬親王は木地師と深い関係があり、「木地師の祖」として仰がれている人物です。「惟喬親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案発明したと伝えられている」そうです。滋賀県の東近江市には「木地師の里」と呼ばれるところがあります。以前調べていて知ったことを思い出しました。(資料6)元に戻りましょう。神社名の「玄武」について、駒札にも記載されています。「玄武」は風水思想、陰陽道に関係している四神相応の守護神の一つで、北方の守護神。玄武は亀に蛇がまつわる姿で描かれます。平安京においては、船岡山を北玄武に宛てるという説があるようです。小規模の境内なのですが、社殿の左側に境内社が二社祀られています。一つは赤い鳥居のある「玄武稲荷社」。鳥居の額には「玄武稲荷大神」、御神灯には「玄武稲荷大明神」ときされています。白い鳥居が建てられているのは「三輪明神社」です。こちらは大和国一之宮である大神神社(おおみわじんじゃ)からの勧請なのでしょう。三輪山が御神体そのものであり、祭神が大物主神である神社です。三輪明神は別称ということでしょう。かつては4月10日、現在は4月の第二日曜日に鎮花祭(「玄武やすらい花」)の行事があるそうです。この鎮花祭の歴史は古いようです。平安時代の965年に都に大水が発生し、疫病が発生したのだとか。翌966年にこの玄武神社で勅令により鎮花祭が行われたことがその始まりのようです。現在の祭は1882年に復活したとか。(資料1,7)なぜ「やすらい花」なのか? 「古く平安時代に起源をもつといわれ、桜の花の散る頃になると、悪い病気が流行し人々が苦むので、疫病を退散させるため『花しずめの祭』を行ってきた」(資料7)というところにその名の起源があるそうです。YouTubeにこの「玄武やすらい花」の動画が掲載されているのを見つけました。赤い衣装で統一されていて美々しい感じ。鉦と太鼓を叩きながらの踊りと行列が行われています。こちらをご覧ください。動画(hellohellostadioさん)のご紹介です。こんな祭があることを知りませんでした。犬も歩けば棒に当たる・・・・でしょうか。(私の干支は犬じゃないのですが。)いつかは鎮花祭の様子を実際に見に出かけたいものです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂2) 『大鏡 全現代語訳』 保坂弘司著 講談社学術文庫 p52-533) 惟喬親王 :ウィキペディア 4) 紀名虎 :「コトバンク」5) 『詳説日本史研究』 五味・高埜・鳥海 編 山川出版社 p986) 滋賀県東近江市「惟喬親王と木地師の里」:「古墳のある町並から」 「惟喬親王伝説」を追う 中島伸男氏 :「滋賀報知新聞」7) 玄武やすらい花(鎮花祭) :「玄武神社」(公式サイト)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺玄武神社 公式サイト惟喬親王 :「コトバンク」四神相応 :ウィキペディアキトラ古墳の玄武図 ← キトラ古墳 :「飛鳥歴史公園」風水 :ウィキペディア陰陽道 :ウィキペディア大神神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 京都・洛北 小野篁・紫式部墓 へ 観照 [再録] 京都・洛中 廬山寺 源氏の庭に桔梗咲く へ
2017.05.02
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既に「相国寺とその周辺を歩く」と題して、再録した探訪講座に参加した日(2014年9月)に、時間があったので少し足を延ばして、「小野篁・紫式部墓」に行きました。ここは一度訪れてみたいと思っていた史跡です。その探訪記録の整理を兼ねてまとめたものを、再録によりご紹介します。所在地は、船岡山の東方、堀川通北大路下がる西側です。地名で言えば、北区紫野西御所田町2番地。島津製作所紫野工場が目印になります。その北東の一隅に位置します。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。紫野西御所田町の西隣りが紫野雲林院町です。つまり、この辺り一帯が紫野雲林院(天台宗の官寺)の寺域だったのでしょう。元は淳和天皇の離宮・紫野雲林院として造成されたところだとか。(資料1)堀川通沿いの歩道に面して冒頭写真の墓所への入口があります。 南側に「小野篁卿墓」と刻された石柱、北側に「紫式部墓所」と刻された石碑が建てられています。 西の方に少し奥まっていて、石畳の通路を歩みます。2001突き当たりには、小さな石仏像(地蔵尊でしょうか・・・)と「紫式部墓」という石柱が木の傍に見えます。北を向くと、 西側に紫式部墓と比定されている墓所、東側に小野篁墓が並んで居ます。 それぞれの墓前にたって眺めると、墓所はこのような雰囲気です。手前に「紫式部墓」「小野相公墓」と刻された石柱が建てられ、その北に小ぶりな墳丘があります。見た感じでの墳丘は北側でつながった一つの墳丘のように見えます。 そして、墳丘の上には五輪塔がそれぞれ安置されています。それぞれの五輪塔を観察してみましたが、特に何も刻されていないようでした。この画像は、紫式部墓の西側から眺めたところです。私が書物やネットで拝見した写真のイメージからすると、近年周辺の整備がなされているように見受けました。紫式部墓の石柱の背面を見ると、この石柱は明治32年3月に建立されたものと判読しました(誤読であるかも知れません・・・)。紫式部墓を小野篁墓の前から眺めると、こんな感じです。小野篁は様々な逸話のある有名な人物です。小野篁といえば、東山にある六道珍皇寺をまず連想します。ここにある閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。この寺に在る井戸と嵯峨野の福生寺(廃寺)の井戸を使って現世と地獄の間を行き来したという話が伝承されています。官位相当表を参照すると、位階が従三位以上正一位の場合に公卿と称することができます。小野篁は官位は従三位・参議となった人なので、「小野篁卿墓」と記されているのでしょう。小野篁は、異名として「野相公、野宰相」などと称されたようです。「小野相公墓」と記されているのはこの異名を後の人が使ったということになりますね。(資料2,3)小倉百人一首の第11首はこの小野篁の歌、羇旅歌です。 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣り舟小野篁は遣唐使団の一員に選ばれたのですが、渡航直前にリーダーである藤原常嗣と対立し、乗船拒否。遣唐使となることを辞退してしまいます。そして遣唐使のことを「西道謡」(さいどうのうた)という詩を作り諷刺したのだそうです。それが嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐に流刑となります。かなりの反骨漢であり、一方文才に秀でて能力がある人物故に、流刑を許されて都に戻った後には、参議にまでなったのでしょう。流刑の途次に詠んだ歌が百人一首に採り上げられ、「参議篁」と載っているのですから、おもしろいものです。古今和歌集に六首入集されていますが、むしろ漢学者として著名な人物です。(資料4)小野篁は仁寿2年12月22日(853年2月3日)に没したそうですから、当然ながら小野篁の墓が既にあった隣りに紫式部の墓が作られたということになりますね。 小野篁墓の傍には、「参議小野公塋域(えいいき)碑」としるした顕彰石碑が建てられています。これは石碑文末に記されていますが、明治2年(1869)3月に加賀の横山正和という人が建立したものです。小野篁の後裔と称する元金沢藩家老だった方だとか。一方、紫式部墓の傍には、「紫式部顕彰碑」が平成元年(1989)春に建立されています。源氏物語の研究で著名な角田文衛博士の撰文による石碑です。角田博士はその著書でこの紫式部墓についても一文を書き、考証論究されています。(資料5)南北朝時代に四辻善成が著した源氏物語註釈本である『河海抄』(かかいしょう)巻一には、既に「式部ノ墓所、雲林院ノ南ニ在リ、小野篁ノ墓ノ西ナリ。宇治宝蔵日記ニモ、紫野ニ、雲林院有ルヨシ見エタリ」という一文(原文は漢文)が記されているそうです。江戸時代の地誌類、例えば『扶桑京華志』(巻ノ三、1665年刊)、『山州名跡志』(巻之七、1702年刊)、『山城名跡巡行志』(第三、1754年刊)その他にも、この地の墓に言及しているといいます。なお、やはり一方でこの紫式部墓について疑問を呈する人も居るようです。 紫式部についての概略説明文が掲示されています。この掲示の右側に掲載の写真は、雲林院、廬山寺、七尾社です。 通路の傍にある建物のところに、紫式部顕彰碑の文章内容も掲示されています。旧雲林院の遺蹟を継ぐ形で、大徳寺の一院として旧名を継いで建立された雲林院が、大徳寺の南門前、紫野雲林院町にあります。廬山寺は寺町通に面しており、紫式部の邸があった場所と角田博士が論証されています。七野社は櫟谷七野(いちいだにななの)神社で、大宮通芦山寺上ル西入ルに位置し、ここは紫野齋院址と推定されています。江戸時代の寛政7年(1795)、有志の人々が墓前に紫式部顕彰碑を建てようとしたそうです。しかし、何らかの理由でそれは果たせず、当時の大徳寺碧玉庵に建立されたのです。碧玉庵は明治維新に廃寺となり、大徳寺大慈院の本堂前庭に「紫式部碑」が移され、現在はここにあるとか。(資料6)私は未訪ですが、上京区にある引接寺、通称千本閻魔堂の境内に、紫式部供養塔(重文)と伝わる多層石塔があるようです。至徳3年(1386)僧円阿の勧進によって造立されたものといわれています。(『京都古銘聚記』)そのうち拝見に行こうと思っています。2012年12月に滋賀県の坂本を史跡探訪で歩いたとき、延暦寺慈眼堂傍の廟所の一隅に、紫式部の供養塔があることに気づきました。さらにその左側にはなんと、和泉式部、清少納言の供養塔が仲良く並んでいたのです。これは私には思わぬ発見でした。 その時に撮ったのがこの写真です。紫式部の没年は明かではありません。様々な説が乱立しています。たとえば長和3年(1041)春ごろか(有吉保、資料3)というもの。与謝野晶子は長和5年(1016)頃で39歳だったと推測しているそうです。また、近年の研究では、長元4年(1031)の正月中旬という説が有力だとか。そうなら享年54歳となるそうです。(資料7)最後に、『百人一首』に入集されている紫式部の歌でしめくくりましょう。 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かなご一読ありがとうございます。参照資料1) 雲林院 :ウィキペディア 雲林院(駒札) :「京都観光Navi」2) 小野篁 :ウィキペディア 3) 『クリアカラー 国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版4) 『百人一首』 全訳注 有吉 保 講談社学術文庫 5) 『紫式部の世界 角田文衛著作集7』 法蔵館6) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂7) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p247【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺紫式部 :ウィキペディア角田文衞 :ウィキペディア紫式部学会 ホームページ謡曲「雲林院」:「銕仙会~能と狂言~」櫟谷七野(いちいだにななの)神社 :「上京区」櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)廬山寺については、次の探訪まとめをご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -3 廬山寺(紫式部邸宅址)その1探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -4 廬山寺(御陵・墳墓)・御土居 その2同様に、坂本の慈眼堂周辺については、こちらを・・・・。探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑
2017.05.02
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2014年12月14日(日)に連続講座「近江の城郭 城と街道」の第2回「壺坂山城と白鳥越え」を受講しました。滋賀県教育委員会事務局文化財保護課の企画です。記録整理を兼ねてまとめたものを、ここに再録しご紹介します。冒頭写真の京阪電車石坂線・京阪穴太(あのう)駅に集合。ここが出発点でした。この道路標識にあるとおり、ここは近江神宮(南西方向)と日吉大社(北東方向)のほぼ中間地点です。東海道自然歩道のルートの一部にもなっています。京阪電車の線路に沿って県道47号線が通っています。この道路沿いに北東方向へ10分程度歩くと、平行だった県道と線路が離れて行く箇所となります。このあたりは坂本1丁目の南端部に近いところ。2807,1248そこから山側へ、この地図にある「穴太野添古墳群」までまずは坂道を登ります。そこまでの丘陵地斜面は墓地域になっていて、順照寺・長善寺・蓮瑞寺という各寺の墓地区画が連なっています。「長善寺本堂再建碑」が一画にありましたので、かつてはこの辺りに寺院があったのでしょう。この墓地への坂道近くに六地蔵石仏が並んでいます。この墓地域の先に、古墳群があります。 「穴太野添古墳群」の南端側から琵琶湖を眺めた景色この古墳群のそばに説明板が設置されています。当日の資料では、「四ツ谷川北岸の丘陵南斜面に築かれた古墳時代後期の群集墳です。分布調査で152基の古墳が確認されました。そのうち24基で発掘調査が実施され、6~7世紀頃に築かれたことが確認されています。これらは、ドーム状の天井を持ち、内部にはミニチュア型炊飯具型土器(竃・釜・甑・鍋)が副葬されるという特徴を持っています」(資料1)これはこの近辺の古墳の特徴であり、穴太に渡来人の集落があったことから、渡来人の墓だったのではと考えられているそうです。 発掘調査の跡が、一部公園化され整備されています。ここには野添第12号墳、第16号墳などの説明板が建てられていて、発掘調査結果の一部の状況がわかります。この古墳群の場所で、連続講座「近江の城郭」の第2回として「志賀の陣-おさらい-」の講義を文化材保護課・仲川靖講師から拝聴しました。日記に見る志賀の陣の記述や香取屋敷再考から、「壺坂山城」との関連が理解できました。「志賀の陣」は、信長の攻勢を受けた浅井・浅倉軍が比叡山延暦寺の支援を受け、山上に陣取り、信長軍が穴太・坂本周辺の山下に陣取る形で膠着状態となる戦です。『信長公記』の元亀元年9月24日の条に、「下坂本に陣取りこれある越北衆、廃軍の為体(テイタラク)にて、叡山へ逃げ上り、はちケ峯・あほ山・つぼ笠山に陣取り候」(資料2)と記されているのです。現地近くで史料の引用により解説を受けると、志賀の陣の有り様をイメージしやすくなります。おもしろいものです。この後めざす壺笠山城が、この記述にある「つぼ笠山」です。当日の資料の引用文から手許の本をあらためて参照してみました。「廃軍の為体にて」と太田牛一が記録しているのが、やはり信長視点、信長びいきでおもしろいところです。古墳群からは、四ツ谷川沿いに平子谷の山道を登って行きます。 山道を歩き始めて、板碑(左)や「山之大神」という額が掛けられた石鳥居(右)を見かけました。 途中、「四ッ谷川都市対策砂防工事 平成9年6月」という銘板のはめ込まれた砂防の傍を通り、平子谷林道の第二号橋で四ツ谷川を北側から南側に渡るのです。この林道を歩み、林道が上掲地図にある「白鳥越の間道」と重なる道を少し進んだところが、「壺笠山」への登り口になります。 案内人がいないとわかりづらい入口です。標識はありません。そばに右の画像のものを見かけただけ。 壺笠山の山頂がほぼ平にされていてそこにほぼ円形の山城がつくられていたようです。 当日の資料に掲載の福島克彦氏作図「壺笠山城跡概要図」を引用させていただきます。 壺笠山山上から、比叡山の方向に見えたお寺の屋根後で地図を見ると、たぶん大乗院なのだろうと推測します(間違っているかも・・・・)。この後、林道まで下ったところで現地解散となりました。基本は平子谷林道を復路とする下山でしたが、「白鳥越の間道」を使っての下山も選択肢としてありでした。参加者の大半は登ってきた林道を下り、十名近くは間道にチャレンジすることになりました。白鳥越の間道に向かうグループに加わりました。下山の途中、分岐する箇所があり、少し手間取りましたが、左側の道を行くのが正解でした。なお、この間道はもう使う人がほとんどないのでしょう。かなり樹木の倒壊箇所もあり、荒れていましたので、お薦め道とは言いづらくなっています。下山仲間に土地勘のある人がいて、まあ、なんとか下山することができました。下りてきたところが住宅区域の端でした。住宅区域からみれば、山側の端。「野鳥と森林浴の里」という表示板が立っています。 間道を下りると、穴太3丁目に至ることになります。京阪穴太駅まではあとわずかの距離です。これでご紹介を終わります。 ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「第2回 壺笠山城と白鳥越え」(連続講座「近江の城郭 城と街道」) 2014.12.14 当日配布の資料 作成:滋賀県教育委員会事務局文化財保護課2) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p115補遺新近江名所圖会 第146回 渡来人の奥津城その3-穴太野添古墳群 :「滋賀県文化財保護協会」大津市の穴太野添古墳群が掲載されている資料を知りたい。 :「レファレンス共同データベース」野添古墳群発掘調査報告・福王子古墳群発掘調査報告 :「全國遺跡報告総覧」志賀の陣 :ウィキペディア志賀の陣 :「年表でみる戦国時代」元亀争乱の道─ 白鳥越えの山城群を歩く :「戦国大名探究」白鳥越え(一乗寺から穴太) kenkouさん :「ヤマレコ」信長公記 巻三 元亀元年 :「信長公記 私訳信長公記」 「10.志賀の陣」の中程、25日のところに、「織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して」と訳されて いる箇所に出てくる「香取屋敷」が、「近江名所図屏風」に描かれているそうです。近江名所図 :「滋賀県立近代美術館」大乗院の夢告 :「真宗史学研究所」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.04.30
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[探訪時期:2013年3月]湖族之郷資料館の前に着いてから、探訪してきた場所の位置関係がわかって来ました。資料館の傍の辻に大きな道標が設置されています。本福寺はその辻から見えるところでした。資料館から目と鼻の先くらいの近さです。この湖族之郷資料館を基点にして周囲を巡る形で訪れるのが一番わかりやすそうです。湖族之郷資料館を基点に地図(Mapion)を見てみましょう。こちらを御覧ください。改めて本福寺の山門を入ったすぐ右手側に建てられていた句碑の写真を撮りに再訪しました。この探訪のまとめの際、第1回でご紹介しています。その後、第1回目の末尾に載せた写真にある「堅田源兵衛の首」なる言葉が心に留まっていたので光徳寺を訪れてみました。山門がまだ開いていました。境内に入ると、本堂の左手前に像が建っています。 堅田源兵衛父子殉教之像 その像の後に蓮如上人立像堅田源兵衛父子殉教之像の右側に湖族の郷文学碑が建てられています。 この碑文に、岡本一平氏の『琵琶湖めぐり』からの抜粋・引用により、この父子殉教のことが紹介されています。寛正6年正月9日(1465)に山門衆徒が京都大谷の本願寺を襲い火を放ちます。難を逃れた蓮如は三井寺に祖師御真影を預け、越前国(福井県)に避難されたのだとか。(参照1)三井寺もまた天台宗ですが、当時は延暦寺と対抗している寺門派です。今回までに知り得たことを年表風に整理しますと、次の経緯になるようです。1465年(寛正)正月8日 山門衆徒が蓮如に非難の決議文を送りつける。1465年(寛正)正月9日 祇園感神院境内に山門衆徒等が集結。争いとなる。 「かけつけた門徒らの協力もあって、本願寺側から 延暦寺側へ金銭を支払うことで一応おさまる。」(参照2) 「伝説では本尊をしっかりと抱いた蓮如が・・・脱出に成功したとされる」(同上) 2か月後、山門衆徒が再び襲い、本願寺を破却1466年(寛正) 蓮如は守山の金森、道西の道場に身を寄せる 山門衆徒と地侍達が道西の道場を襲撃する。 山門側と門徒連合(金森、堅田)の争い勃発。門徒側が撃退する。1467年(応仁元) 5月 応仁の乱が始まる。 この頃に、蓮如は祖像を奉じ堅田に移住。本福寺にて寺務をとる。(参照3)1468年(応仁2) 堅田大責 [山門守護権発動と一向宗徒と対立] (参照4)1469年(文明元) 蓮如は三井寺境内の一部にお堂を建て、祖師像安置。 現在、顕証寺と呼ばれている。 (参照2)1471年(文明3) 蓮如、越前吉崎に道場建立 (参照5)1478年(文明10) 蓮如、京都山科に本願寺再興 (同上) ウィキペディアには「文明15年8月22日(1483年9月23日)に完成・建立」と。ここで、堅田源兵衛の首が殉教として関わってくるのです。山科の本願寺に祖師像を迎えるために三井寺に祖師御真影の返却を乞うと、人間の生首二つの持参が条件という難題を持ち出されたという次第。当時光徳寺の門徒だった源右衛門・源兵衛という漁夫の父子が殉教という行為に出たのです。法死の源兵衛は時に24才だったそうです。 (参照1の「堅田源兵衛由来」に詳細が記されています)17時に近くなっていましたので無理かなと思った思ったのですが、本堂拝観が可能か尋ねると、心良く参拝させて頂けました。本堂とともに厨子に安置された源兵衛の首を参拝しました。参拝記念に絵葉書セットを購入し、「参拝のしおり」もいただきました。 合掌「三井寺ではこうした源兵衛の殉教心に感じ入り、直ちに御真影を取り出し、首もろともにさし返したので無事山科の御坊に安置することができた」というのです。「信心増上のたよりにせよという上人の御意志に随って残された源兵衛の形見がこれである」(参照1)写真の許可を戴けましたので、源兵衛の発心をご紹介できる次第です。父の源右衛門はこの後、諸国巡礼の旅に出、現在の広島県福山市で没した(90才)といいます。本願寺派真光寺に墓地があるそうです。光徳寺の沿革に触れておきましょう。延元元年(1336)本願寺第3世覚如の化導により天台の高僧天霊が浄土真宗に転宗し、覚忍と称し開創。慶長7年(1602)本願寺の東西分離の折に、真宗大谷派の末寺となったとのこと。山号は朝陽山。しおりには、淡海節による「堅田源兵衛讃歌」(作詞・原田定一)が載っています。第一番の歌詞を引用させていただきます(三番まであります)。 生まれながらに すなおな心 おやこそろうて 律気者 堅田源兵衛 ヨイショコ ショ 静かに ねむる 光徳寺 夕陽山本福寺が本願寺派、朝陽山光徳寺が大谷派。浄土真宗の両派のお寺が隣接しています。再録にあたり、岡本一平氏のエッセイ文のソースを読めるものかと調べてみると、国立国会図書館デジタルコレクションに『一平全集』が所蔵されています。読みづらいかも知れませんが、該当エッセイ文を引用します。(資料6)赤丸を付けた「十 源兵衛の髑髏」という挿絵入りのエッセイ文の箇所です。 源兵衛の首級については、不思議な謎が残されています。補遺も合わせてお読みいただけると関心が高まることと思います。この後、堅田藩陣屋跡の所に戻り、そこから湖岸沿いに堅田駅まで散策しました。 まずは夕刻せまる浮御堂を眺めながら・・・・ 湖岸に文学碑が建っています。銘板は城山三郎氏の文です。 対岸には、勿論三上山。 北の方向に進んでいくと、「堅田十六夜の弁」の碑がありました。 元禄4年(1691)8月16日、芭蕉は数名の門人と舟で堅田に赴き、門人の竹内茂兵衛成秀の家で俳席を催したのです。そして、俳文『堅田十六夜の弁』を記し、成秀に贈ったといいます。碑にはこの一文が記されています。 そろそろ家に帰ろうよとお孫さんに声をかけるおばあさん。もう少し遊んでいたいお孫さん。夕刻のひととき。お孫さんの無心な姿を撮らせていただきました。 この時出会った女の子は大きくなっているでしょうね。この碑文のあるところから少し先が現在の堅田の港です。 橋の名前は「みなとばし」これで、後は一路JR堅田駅へ。 今回の探訪が終わりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1)「参拝のしおり」 光徳寺2)『蓮如-聖俗具有の人間像-』 五木寛之著・岩波新書 p65-733)『本福寺略史』(リーフレット) 本福寺4) レジュメ 第5回「湖賊の自治都市堅田」 仲川靖氏5)『新選日本史図表』 監修坂本賞三・福田豊彦 第一学習社6) 一平全集 第9巻 岡本一平著 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 「琵琶湖めぐり」は 137/229コマ からです。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺顕証寺 → 滋賀県大津市 近松別院 :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」浄土真宗中興の祖・蓮如上人と、三井寺の出会い。[歴史散歩] :「三井寺」 このサイトの記事によると、源兵衛の首を奉るお寺として別の名称が出てきます。 源兵衛の首にも伝説があるようです。堅田源兵衛の首(等正寺) :「観光データベース」『堅田の源兵衛』 :「 平凡の友」 ここの説明文では、「源兵衛の首級」として3つのお寺の名前が記載されています。堅田の落雁 [びわ湖大津観光協会] :YouTubewirefox-momo-40 近江八景 :YouTube山科本願寺 :ウィキペディア浄土真宗本願寺派 本願寺山科別院 ホームページ東本願寺山科別院長福寺(東別院、東御坊) :「京都観光Navi」堅田十六夜の弁 :「芭蕉DB」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -1 堅田教会、本福寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -2 祥瑞寺・堅田藩陣屋跡・伊豆神社 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -3 舟入跡・神田神社・湖族之郷資料館 へ
2017.04.30
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[探訪時期:2013年3月]この地図は、文政8年本堅田村絵図から作成された近世後期の堅田復元図から部分切り出したものです。当日のレジュメから引用させていただきました(参照1)。JR堅田駅から、前回ご紹介した伊豆神社(堅田大宮)あたりまでが、中世堅田の中心部分になり、最初に発展した「宮ノ切(みやのきり)」と呼ばれる街割にあたります。そして満月寺(浮御堂)のあたりが「東ノ切」として発展し、この船入跡のある地域が「西ノ切」と呼ばれるようになります。これが堅田三方だとか。「今堅田」の地域が加わり、堅田四方と総称されるようです。 西ノ切の船入跡では、当時からの湖岸の石積みが眺められます。地図にある本福寺の南(まっすぐ下方)、湖岸の中村という文字が記されているあたりが探訪先です。今は、湖岸に沿って桜が植えられています。そこに、「おとせ桜」という石碑が建てられています。石碑に淡海節の歌詞が刻まれていました。もう少し遅ければ桜が咲き、景色が一層鮮やかになっていたことでしょう。今頃は桜が咲き誇っているかもしれません。 ここから、琵琶湖の対岸に三上山が眺められます。いい景色です。堅田は、「堅田の落雁」として近江八景の景勝地の一つになっています。 また、この浜には「おとせ石」が祀られています。傍に説明板があります。そしてこの浜は「おとせ浜」とも呼ばれるそうです。 もう一つの船入跡付近です。そばに「寿寧寺」があります。ここも臨済宗大徳寺派のお寺です。この後、神田神社を訪れました。 堅田西の切の氏神です。御祭神は鴨玉依姫命。天暦3年(949)、京都下鴨神社から分霊されたと伝えられています。「この地は11世紀後半より下鴨社の御厨として栄えた」ところです。(参照2)下鴨神社の御厨として、「毎日の御膳料として下鴨神社に鮮魚を献上するかわりに雑役の賦課が免除されていました」(参照4)。 つまり、この地の堅田衆にもメリットがあったのです。また、神社前にある「由緒」の説明板によると、「神饌供御は一時期途絶えていたが、近年に至り復活し、供御人行列という堅田の行事として、葵祭に鯉・鮒寿司等の献饌を行っている」とのこと。神田神社から最終地点「湖族之郷資料館」に向かいます。 「妙盛寺」の前を通りました。天台真盛宗のお寺です。後で調べて見たら、境内には「天正の六地蔵」が祀られていて、他にもお地蔵尊がいっぱい!というお寺のようです。(参照4) 本堅田の町を彷彿とさせる伝統的な大きな町屋の前を通りました。(本堅田1丁目)もう一つの建物も古風で趣があります。こちらは、入口の横に「鮒寿し 中島七郎兵衛」という表札が掲げてあります。当日はお休みでしたが、営業されているお店のようです。この二つの建物の入口近くに、「古都景観賞 大津市」の銘板が貼られていました。江戸時代には、こういう建物が数多くこの一帯に建っていたのでしょうねぇ・・・・。この建物の直ぐ近くに 「湖族之郷資料館」がありました。ここで今回の探訪は終了です。資料館前で解散となりました。 予定のルート図序でに・・・・「堅田の落雁」の浮世絵です。ご存知でしょうか。 広重 堅田の落雁図歌川広重による錦絵名所絵(浮世絵風景画)揃物『近江八景』の一枚です。ウィキペディアから引用させていただきました。葛飾北斎も「堅田の落雁」の絵を描いています。こちらをご覧ください。さて、解散後真っ直ぐ堅田駅にもどるのももったいないので、オプションとして、個人的に少し散策のチャレンジをしてみました。次回そのまとめをご紹介します。つづく参照資料1) レジュメ「第5回湖賊の自治都市堅田」仲川靖氏作成資料所収 『滋賀県中世城郭分布調査』9 旧滋賀郡の城 滋賀県教育委員会 1992年2) 神田神社 御由緒 :「滋賀県神社庁」3) 神田神社(本堅田1):「大津のかんきょう宝箱」 4) 天正の六地蔵 お地蔵さんがいっぱい、本堅田1丁目(滋賀県大津市) J.Kanematsu 氏【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺近江水の宝「浮御堂 -芭蕉・堅田の落雁- 大津市堅田」 :「滋賀県」寿寧寺 :「大津のかんきょう宝箱」妙盛寺 :「大津のかんきょう宝箱」【復興支援カレンダー】Beautiful scenery Katata,Japan/堅田の風景カレンダー2012 :YouTube旧教科書などに見える近江八景 pdfファイル 堅田落雁(魚栄堂版)のモノクロ図が載っています。落雁 :ウィキペディア(3)堅田の落雁 復活願う 冬水たんぼ 「湖のこえ」 :「京都新聞」近江八景 大江敬香 :「漢詩紹介」(関西吟詩文化協会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -1 堅田教会、本福寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -2 祥瑞寺・堅田藩陣屋跡・伊豆神社 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -4 光徳寺、浮御堂、堅田十六夜の弁 へ
2017.04.29
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[探訪時期:2013年3月]本福寺の次に「祥瑞寺」を訪れました。 ここは一休さん(宗純)が若い頃、華叟宗曇(かそうそうどん)和尚の許に入門したお寺でした。本堂と開山堂の拝観は予約がいるということで、探訪の対象外となり、境内だけ訪ねました。臨済宗大徳寺派の寺院。山号は太平山。本尊は鎌倉時代の釈迦如来像です。玉泉庵の第6世覃澡(たんそう)が聖瑞庵を創建したのが、このお寺の直接の起源になるようです。玉泉庵は、鎌倉幕府が滅びる直前頃、元弘2年(1332)の創建。当初天台寺院だったのが、後大徳寺に寄進され、聖瑞庵もまた応永17年(1410)に大徳寺の末寺になったそうです。応永年間(1394~1428)に大徳寺派の高僧、華叟宗曇が開基し、当初は祥瑞庵と呼ばれていたといいます。 開山堂に華叟と一休の木造が安置されているとのこと。(レジュメと祥瑞寺のページ)宗純は22歳から34歳までここで修行し、華叟和尚から「洞山三頓の棒」という公案を与えられ、悟りを開いたと伝えられています。そして一休の道号を授けられたのです。つまり、堅田は禅僧・一休誕生の地でした。私は、一休さんが堅田で修行していたということを、今回の講座に参加して初めて知りました。 この句碑が山門を入った左手側少し斜め前方奥に 秋の淡海かすみ誰にもたよりせず 森澄雄 境内の一隅に置かれた石に鬼瓦が立てかけてあるのがおもしろい。石畳みの参道を左折して鐘楼の傍近くまで行くと、通路の左手側にもう一つ句碑が建っています。こちらは芭蕉の句でした。 この元禄3年というのは、元禄2年8月に「おくのほそ道」の旅を終えた翌年です。大垣に到着した芭蕉は、江戸に戻らず、伊勢を経由して故郷伊賀上野に向かいます。そして京都の去来亭に立ち寄った後、膳所の義仲寺で越年します。再び伊賀上野に帰り、膳所に戻ってきた(3月)後は、石山の幻住庵に入るのです。ここで『幻住庵の記』を執筆し始めます。8月下旬には脱稿。この後で、芭蕉は堅田を訪れたのです。9月13日~25日の間に、前回ご紹介した本福寺の千那を訪れています。そして、この時に、この祥瑞寺も訪ねたということになります。この元禄3年、芭蕉は、堅田→義仲寺→京都→義仲寺→伊賀上野→京都→大津→義仲寺、と忙しく往還しています。 (参照1)この俳句は、『はせを盥』(朱拙・有隣編・半一・享保9年刊)に所収されています。(参照2) 屋根や塀に置かれた飾り瓦が目にとまりました。なかなか風情があります。境内と本堂前庭を仕切る中門と塀の近くで、仲川講師の説明を拝聴しました。冒頭に記した宗純の入門や公案にかかわるエピソードなどが話材に取りあげられたのです。 中門横の透塀・格子窓の間から眺めた庭多分、正面が開山堂で右手が本堂でしょうね。「洞山三頓の棒」の公案の説明を部分的にしか記憶していません。そこで、ネット検索してみました。求めよ、さらば与えられん・・・です。いい解説にめぐり会えました。高杉光一氏の執筆による「No.10 洞山三頓 <無門関.第十五則>」をお読みいただくと、よくお解りいただけると思います。こちらからご覧ください。洞山という修行僧が雲門禅師に参謁して対話したとき、突然に洞山が禅師から60回棒で打ちのめされた意味を問う課題だったようです。それが、宗純に与えられた公案でした。華叟和尚にこの公案を授けられた宗純は?補遺に掲げた、『洞山三頓の棒の公案で悟る』の項をお読みください。祥瑞寺を出て、「都久生須麻神社」の前を通りすぎ、堅田藩陣屋跡に行きました。その前にこの神社に少し触れておきましょう。所在地:本堅田1丁目18-18(南側です)伊豆神社の境内社(摂社・末社)の一つになりますが、境外に所在します。都久夫須麻神社(=竹生島神社)の系統だろうな・・・・と推測しています。 堅田藩陣屋跡の案内板 場所としては民家が建っていて駐車場の傍に説明板がありました。ここは陣屋の船入跡になります。説明図と文を切り出してみました。 この案内板の場所に陣屋の表御門があったのだとか。元禄11年(1698)に下野国(栃木県)から転封してきた掘田正高(高島郡に1万石)以来6代、約130年間にわたり、堅田藩主の陣屋がここにあったのです。文政9年(1826)掘田氏が下野国の方に陣屋替えとなることで、にこの陣屋は撤収されました。そして後、堅田は天領となります。三代目藩主堀田政永の墓が、先ほどの祥瑞寺にあるそうです。ちょっと、通りを南に歩いて行くと、湖岸方向(左手)に「満月寺」の山門が見えます。あの有名な浮御堂のあるお寺です。今回は探訪の対象外でした。 陣屋跡のすぐ近くにある「伊豆神社」 水路に囲まれた伊豆神社 ここは、「堅田大宮」とも称され、堅田の中心的な神社、堅田全域の総鎮守です。由緒によれば、寛平年中に諸国行脚した比叡山の法性坊尊意僧正が、この辺りの風景が三嶋と似ているところから、寛平4年(892)に三嶋明神をこの地に分祀したのが草創と伝えられています。伊豆国三嶋明神は海難と猟師の神様。また、天暦3年(949)に山城加茂大神を勧請します。京都賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神玉依姫命を分祀するのは、堅田が賀茂社の御厨(神領)であったことに由来するのでしょう。古来、伊豆神社と神田神社の両社殿があったようです。(レジュメ、説明板、滋賀県神社庁より)三島神社という社名の神社は全国に1万1000を数えるそうですが、現在はその頂点が三嶋大社です。三嶋大社は伊豆半島の守護神。この三嶋大社・三島神社の本源は、実は愛媛県越智郡大三島町の大山祇(おおやまずみ)神社なのだとか。この所在地の名から、三島明神・大三島神社などと呼ばれてきたといいます。そこで、祭神は大山祗命ということになります。大山祗命は、和多志大神ともいわれています。和多は綿津見(海神)のわたであり、海の意味、つまり海の神でもあるのです。(参照3)「永禄十二年に至って兵火に罹り、天正年間に伊豆神社のみ再建された」ということです。(滋賀県神社庁) ここの屋根の飾り瓦もおもしろい。境内社として、 年丸稲荷大明神という社があります。また、天満宮があります(左)。天満宮の鳥居と稲荷社の鳥居が仲良く並んでいます。最初の石鳥居は稲荷大神の額で、後の鳥居には年丸大明神の額が掛けられています。他に、樹下神社というのもあるようです。これは見落としました。この堅田大宮では、室町時代より殿原衆を中心とする宮座(3座)が運営されていました。その後「宮座は、本村・神主村・大村・新村の四座から構成される。しかし中世後期には、堅田宮の切・東の切の氏神としての性格も合わせ持つようになった」(レジュメ)とのこと。その後、永禄5年(1562)には、南座・北座の2座になるようです。「宮座とは、地域の鎮守もしくは氏神である神社の祭祀に携わる村落内の特権的な組織及びそれを構成する資格者の集団。専任の神職を持たず、宮座の構成員が年番で神主役を務める当家(とうや)制を取る。」(ウィキペディア)ものだそうです。堅田では、殿原衆が独占していた宮座に、「堅田大責」以降、全人衆が参加(新村)するようになったそうです(3座→4座)。惣中での自治運営において、殿原衆と全人衆の身分的格差が是正されるということは、全人衆がそれだけ経済的実力をつけてきていたということでしょう。それは、「堅田大責」の後の山門衆への3000貫文上納において、全人衆である本福寺法住他数名が相当の額を負担した事実が裏付けているように思います。(レジュメより) 堅田の自治のあり方が変化していく樣が宮座のあり方にうかがえて興味深いところです。話が横道にそれました。この後、西ノ切の船入跡に向かいました。 当初の探訪想定ルート図つづく参照資料1) 芭蕉総合年表 :「芭蕉DB」(製作著作・伊藤 洋氏) 2)『芭蕉俳句集』(中村俊定校注・岩波文庫) p225、p4693)『日本の神様読み解き事典』(川口謙二編著・柏書房) p474,p98【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺祥瑞寺 :「一休さんのくにプロジェクト」祥瑞寺・大津市堅田 森澄雄氏の句碑がここに建てられた理由が引用されています。参考になります。一休宗純 :ウィキペディア一休誕生 『洞山三頓の棒の公案で悟る』 :「一休さんのくにプロジェクト」伊豆神社 ;「滋賀県神社庁」都久夫須麻神社 :ウィキペディア宮座 :ウィキペディアエリアの歴史 琵琶湖湖西地区 :「大津西ロータリークラブ」一休禅師の墓 :「酬恩庵一休寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -1 堅田教会、本福寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -3 舟入跡・神田神社・湖族之郷資料館 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -4 光徳寺、浮御堂、堅田十六夜の弁 へ
2017.04.29
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2013年3月23日(土)に、滋賀県・教育委員会の文化財保護課主催、連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」の最終回を受講しました。「湖賊の自治都市 堅田」についての講義を拝聴後、現地を探訪しました。例によって、この講座と併せて見聞したことも織り込んで、堅田について学び直し整理してみたまとめです。ここに再録しご紹介したいと思います。お読みいただき、関心を抱いていただければ、一度現地を訪ねてみてください。当日は、JR湖西線堅田駅に13:00集合での半日講座でした。冒頭の画像は「堅田駅」です。駅前には「堅田駅周辺観光案内図」が設置されています。今回は、堅田市民センターにまず行き、そこの大ホールで講義を聴講した後、2班に分かれて、班単位で文化財保護課の専門職員さんのリードと説明で現地見学してまわりました。私の参加した班は次の順番で現地探訪しました。 本福寺~瑞祥寺~堅田陣屋跡~伊豆神社~船入跡~神田神社~湖族の鄕資料館 当日配布資料に掲載の探訪全体図を載せておきます。この行程に沿いながら、当日の補足説明箇所および個人的見聞も併せてご紹介します。JR堅田駅前の通りを右折する角近くに、この「志賀廼家淡海(しがのやたんかい)」の石碑が建っています。誰だろう? 後日調べて見ると、大正末年から昭和初年、曽我廼家五郎・十郎と人気を二分する喜劇役者でした。道理で、藤山寛美の名前がここにあるのです。駅前に戻って来たとき、台座正面の説明を写真にとりました。「淡海ぶし」という言葉、何となく記憶にありました。堅田市民センターでの講義は、「諸浦の親郷・堅田」というテーマで、講師は文化財保護課の仲川靖氏でした。数多くの史料、文書を踏まえたレジュメを準備されており、大変有益で参考になります。理解したことを要約してみます。*造船技術と製鉄技術を持った海人族が瀬戸内海から淀川を遡り、琵琶湖の湖西、真野鄕の小野・和爾・真野などに定住して行った。堅田がその諸浦の親鄕的な存在だった。*この辺りは、日吉大社の勢力圏外になっていたようだ。それはこの地域に伊豆・神田系神社が数多く創建され、存続していることからもわかる。そして、ある時期から京都の下鴨神社の御厨(=所領)となっていた。日吉大社の影響が及ばないことと照応する。*堅田は惣中として、中世において一種の自治都市として運営されていた。下鴨神社の権威を借りて、特権的な商事活動をしていた。つまり、湖上権を掌握し、「上乗」(運送)、「漁業権」、「造船」の特権を持っていた。 堅田は湖賊の庄といわれていたようだ。「琵琶湖辺の諸浦は縁のある堅田の人を自らの舟の『上乗(番屋)』と定め、舟の舳先に旗などを立てて海賊行為を懸けられないよう通行の安全を計った」(レジュメから)という。「上乗」をするために相応の金を支払った記録が残されている。*堅田惣中は、殿原衆と全人衆(まろうど)から構成されていた。 殿原衆:地侍層。網猟師集団から出た下賀茂社供御人。 殿原衆の中の有力者が「番頭」となる。 全人衆:被支配者層・新供御人。一般の自営農漁民や商工業者。 その他に、「門人(まうと)」(独立した経営を認められない存在の者)、「旅人(たびうと)」(一時的居住者)、「譜代家人・下郎」(殿原・全人に隷属する低階層民)が居た。*本願寺八世蓮如の時代、その布教活動が堅田の全人衆全体に広がり、堅田門徒が形成されていく。*足利将軍家邸宅「花の御所」の用材運搬船に対し、堅田が湖上海賊行為を働いたこと及び蓮如の堅田入り(天台宗の敵対宗派の蓮如を匿う)に対し、比叡山の僧徒が堅田を攻め、全焼させる「堅田大責」が起こる。[応仁2年(1468)年3月] 堅田衆は沖島に避難する。 そこで本福寺法住は金品での解決も必要とし、山門に三千貫文を納入して本件を落着させる。文明2年(1470)に沖島からの還住が許可された。法住は380貫文を負担した。*堅田は、大坂の堺のような完全な自治都市ではないが、中世において下鴨神社あるいは山門の影響を受けながらも自治運営を行った都市だった。講義の終了後、いよいよ堅田探訪に入りました。堅田市民センターの前の通り(堅田本通り)を湖岸の方向に歩きます。まず、市民センターのすぐ近くで、 日本キリスト教団堅田教会この建物、ヴォーリズ建築の一つなのです。登録有形文化財になっています。[旧 堅田基督教会館 1930(昭和5)年]文化遺産オンラインでは、「単廊式の会堂で,会堂部にはキングポストの簡潔な小屋組を顕わす。正面中央上部にチューダーアーチの4連窓を開け,右手にトンガリ屋根の角塔をあげて特徴的な外観を造りあげている。 」と簡潔に紹介しています。こちらからご覧ください。堅田の町には、こんな看板が店先にありました。(2013年時点です。今も残されているでしょうか?)なんだかタイムスリップした感じ・・・・のところもあって、楽しい。最初の探訪先が「本福寺」です。ルートの都合で、祥瑞寺側の裏手から境内に入りました。14世紀、善道開基と伝えられ、浄土真宗本願寺派のお寺です。蓮如の父存如の時代に真宗に帰依し、第三世法住の頃は「馬場の道場」といったようです。法住は坊主であるとともに堅田の紺屋だったとか。全人衆の真宗門徒の中核になっていたのでしょう。昭和29年12月に本堂を火災で焼失。平成7年秋に再建された現代的な本堂でした。その内部を拝見しました。蓮如殿の部分は三井本家の寄進を受けたとおっしゃっていました。本堂の写真を撮らせていただけましたのでご紹介しましょう。 その後、本堂2階に展示された寺宝を拝見できました。 十字名号(登山名号 見真大師御筆) 蓮如が下付した貴重な連座像 蓮如真筆の御文「長禄4(1460)年には蓮如より十字名号が、寛正2(1461)年には親鸞・蓮如の連座像を授与されており、堅田門徒がいかに重要視されていたかがわかる」(参照1)法住は長禄4年に、「単身登山し、根本中堂の中央に十字名号を掲げ浄土真宗こそ真実の宗教であると経論を引いて弁じ、断じて邪教ではなく正法である旨説いた」といいます。この本尊には蓮如が裏書をしているのだそうです。(参照2)寛正6年(1465)正月、山門衆徒が大谷の本願寺に乱入し破却します。蓮如が51歳のときです。1466年(文政元)、蓮如は金森の道西の道場にしばらく身を寄せますが、ここも襲撃される事件が起こります。一方、都では応仁元年(1467)に、応仁の乱が始まります。蓮如は祖像を奉じて堅田に移動します。そのとき、この本福寺で寺務をとられることになったそうです。「夕陽山」(山号)「本福寺」(寺号)は蓮如上人から賜ったのだとか。(参照2)その後、講義にあった「堅田の大責」が起こるのです。本堂裏手の庭の一角に、芭蕉の句碑が建てられています。 病雁の夜寒に落ちて旅寝かなこの句は、元禄3年(1690年)秋、堅田訪問中に病にかかり、その時に詠んだものです。「病雁(びょうがん)の夜さむに落(おち)て旅ね哉」として「猿蓑」に所収、「病雁(やむかり)のかた田におりて旅ね哉」として「枯尾花」に所収されています。(参照3)当寺の第11世明式は、俳号を千那といい、芭蕉の門人だったのです。芭蕉の句に 湖水の眺望 辛崎の松は花より朧にて があります。この句は「大津の本福寺別院(千那亭)での作」だったのです。(参照4)芭蕉は野ざらしの旅から江戸に戻り、約半月後の貞享2年5月12日付で、芭蕉は千那貴僧宛に書簡を送っています。(参照5)その中に、 一、愚句其元ニ而之句 辛崎の松ハ花より朧にてと 御覚可被下候。 山路来て何やらゆかしすミれ草 其外五三句も有之候ヘ共、重而書付可申候。と記されているのです。山門から入ってすぐ右手の境内一角にいくつかも句碑が建っています。その中に、千那(当寺十一世明式の俳号)の句碑もあります。千那の入門[貞享2年(1685)]後に、芭蕉は3回、堅田を訪れているようです。 千那の句碑 しぐれ来や 並びかねたる 魦船 魦という漢字は「いさざ」と読みます。本福寺の山門を最後に眺めました。左手に「本願寺旧址」の石碑が建てられているのは、上記の理由によります。本福寺のすぐ近くの屋敷 江戸時代にでもタイムスリップした感じ・・・・この建物の塀の傍に、こんな石碑と説明板がありました。 え! 其角! 思ってもいなかった名前に遭遇。説明板には以下のように記されています。「この地は、・・・宝井其角の父、竹内東順の出生地である。地元では『其角邸跡』と呼んでいる。・・・其角は・・・・とりわけ父の出生地である堅田には、心のふるさとを見出し、しばしば杖を引き、同地を本拠に本福寺の千那をはじめ、膳所の菅沼曲翠、彦根の森川許六等々と親交を重ねた。」父の東順は、医術を業とし、慶安4年(1651)に江戸に下り、膳所藩主本多公の江戸屋敷に仕えた人物。早くから風雅の心を有してた人で、其角もその影響を受けたのだとか。其角は蕉門(芭蕉)十哲の一人です。本福寺に隣接して、光徳寺があります。光徳寺の門前を通過して、祥瑞寺に向かいましたが、通りの角で見た光徳寺への案内表示です。「堅田源兵衛之首」と大きく書かれています。これは今回の探訪の最後に触れましょう。つづく参照資料1)『県史 滋賀県の歴史』(畑中誠治他共著・山川出版社) p1302)「夕陽山本福寺略史」 当日頂いたリーフレット3)『芭蕉俳句集』(岩波文庫) p224 「堅田集」(歌雄等編、寛成10年序。真蹟を模刻)も刊行されている。4)『野ざらし紀行』(中村俊定校注・岩波文庫) p225) 同上書 p46【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺志賀廼家淡海 大津の歴史データベース :「大津氏歴史博物館」志賀廼家淡海 :「コトバンク」淡海節 志賀廼家淡海 :YouTube日本基督教団堅田教会 :「ヴォーリスを訪ねて」 gipsymaniaさんのブログ記事を発見。この建物を詳しくご紹介されています。 ヴォーリズ建築ファンには必見でしょう。名号 :「オンライン版仏教辞典」三上千那 :ウィキペディアハゼ :ウィキペディアイサザ:ウィキペディア蕉門十哲 :ウィキペディア宝井其角 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -2 祥瑞寺・堅田藩陣屋跡・伊豆神社 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -3 舟入跡・神田神社・湖族之郷資料館 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 堅田 -4 光徳寺、浮御堂、堅田十六夜の弁 へ
2017.04.28
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[探訪時期:2015年3月]境内に入って拝見できない里坊もあります。門前に柵があり、くぐり戸も閉じられていますので、非公開なのでしょう。それでも連なる白い築地塀や穴太衆積み石垣の前に、日吉の馬場の舗装された道路とは別に、その脇に散策路があります。各門前から入口付近の景色は拝見できます。一つひとつの里坊は、それぞれ趣が異なり、表門付近を眺めて歩くだけでも楽しめるひとときです。この前回引用した部分地図を参照し拝見した順番にご紹介します。 「恵光院」 門の柵前まで近づき境内を拝見すると、門の正面に玄関先の衝立に相当するかのように、源氏塀が部分的に設えられてその前に石灯籠や石がいくつか配されています。門からのアプローチとして、正面にフォーカスさせるワンポイントになっています。前方の石灯籠や岩の配置に対して、形と大きさが様々な石を組み合わせた石畳の通路なので、全体の調和が生まれているように感じます。苔庭になっているので落ち着いた雰囲気です。石畳がY字形にぐんと分岐していくのもおもしろい。坂道を少し下ると、穴太衆積みの石垣に青竹の垣根が組み合わされています。「恵光院」の東隣りが前回ご紹介した「律院」です。日吉大社の方向に振り返ると、このような築地塀と石垣の生み出す坂道風景です。 両側の石垣傍に、石灯籠が置かれた空間がぽっかりとあり、御堂の斜め側面が見えます。石灯籠の棹には、「本地不動明王」と刻されています。御堂の柱には、「延命長寿 白鬚大明神大祭」と記された木札が掛けられています。ちょっと神社とは思えませんが、湖西の明神崎にある「白鬚神社」とつながるのでしょうか・・・・。気になって少し調べて見ますと、この御堂の中を撮られた写真を掲載のブログ記事を見つけました。こちらからご覧ください。 (ブログ「(新版)お魚と山と琵琶湖オオナマズの日々」)画像を拝見すると、堂内には「白鬚延寿尊」と記した提灯が前面に並べて掛けられ、不動明王らしき像が、脇侍とともに祀られています。阿弥陀立像らしき像も横に安置されています。一方、白髭明神の本地を不動明王と明示する情報を見つけました。「新編武蔵風土記稿」に記載という東京に所在の「王子白髭神社」の例です。また、同書に、上木下川村の薬師堂も載っているようで、「白髭社 太神宮山王を相殿とす、 当村及ひ下木下川村の鎮守なり、 白髭は前に云唱翁を祀り、白髪老翁の像及ひ慈覚大師の作なり、不動を本地仏とす」とあります。この御堂について、「江戸名所図会」には、「白鬚明神の祠 (堂前、左の方にあり。広智逢ひたまふところの唱翁をまつる。来由は本尊縁起の条に詳らかなり。 本地不動明王の像は慈覚大師の作。)」という記載があるようです。(資料2)つまり、上掲の石灯籠の棹に刻された「本地不動明王」と一致します。この御堂の場合、神仏習合で白鬚大明神に関係するとされた「仏(教)」の側面、本地の「不動明王」が切り離されて、白鬚大明神の「神」の側面を主体に捉えて信仰対象にしていると解釈できそうです。これもまた、神仏分離令の影響が及んだ事例ですね。石灯籠はそのまま残されたということでしょうか。そして、この御堂の北側、奧にある門のところが、「部分地図」にある「実蔵坊」のようです。門は閉じられていたように記憶します。 そして、「白鬚大明神」・「実蔵坊」の東隣りが「寿量院」です。 寿量院では、山門を入ったところは、平板で大きい加工石が衝立代わりに置かれ、それ自体は大きく伸びた樹木で隠れ気味になっています。見た目には、樹木の重なりで、その奧に目が及ぶのを遮断している風情です。 山門の内側は細い道幅の石畳が直角に折れ曲がって玄関口に通じています。ここも苔庭です。石畳が導く先の玄関も山門と同様に唐破風造になっています。その獅子口は当然ながら、山門と同じ様式です。 虹梁の上の蟇股は簡素な意匠ですが、白壁に塗り込まれるために、際立って見えます。寿量院の東隣は「薬樹院」ですが、散策路を歩ゆむと、穴太積みの石垣とその上の生垣が日吉馬場の参道と横小路が交差する角を回る形で続くだけです。薬樹院の庭園部分が石積みの内側に広がるようです。生源寺の山門に戻ってきました。鬼瓦を眺めて、今回の探訪も終了です。一つ補足しておきましょう。 散策路沿いに現代風灯籠としての街灯があります。全部を写真に撮ってはいません。2つだけです。それがこれです。ご注目いただきたいのは、角柱部分に道歌が刻まれているのです。読み間違いがあるかもしれませんが、こんな歌が刻まれています。 右 心はなにかの事を思ふとも人の恋しきをいはざるぞよき 左 きけばこそ望もたれはらもたつきかざるぞけに勝るなりけり人生訓的な歌です。坂本に行かれれば、一度こちらも意識的に眺めてみてください。他にもどんな道歌が刻まれているか、探してみてください。誰がいつごろ詠んだのでしょうか・・・・・。生源寺から見ると、通りを隔てて反対側に幅の広い「作り道」が南の方にのびて行きます。その角に、かつての坂本を説明する「いまむかし坂本造り道紀行」という説明板が建てられています。かつての坂本を想像するのに便利な説明板です。坂本の町の探索は、坂本観光案内所でマップなどを入手され、この案内板を一読することから始めると、面白さが増すことでしょう。探訪の復習を兼ねて、寄り道をしながらまとめていくと、長くなりました。これで終了です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「おおつ観光ようこそマップ ~比叡山坂本編~」2) 王子白髭神社、木下川薬師堂 :「本地垂迹資料便覧」3) 江戸名所図会 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 第19冊目の35コマに「木下川薬師堂」白鬚明神祠の記載序でに補足として: 前回、「早尾地蔵尊」をご紹介しました。 一方、坂本の町について。探訪記の再録で既にご紹介しています。それらの探訪の途中で、坂本の六地蔵に関係するところを2箇所拝見する機会を得ました。以下の記事です。探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴?そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へお地蔵様をきっかけに、坂本の町探訪記の一連のご紹介にも波紋を広げてお読みいただけるとハッピーです。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺延暦寺坂本里坊庭園 :「文化遺産オンライン」里坊の庭園 :「知っ得! 大津豆知識」大津市坂本(里坊群・門前町 滋賀) :「文化遺産オンライン」坂本 石積みに囲まれた里坊の町 :「Blue Signal 西日本の美しい風土」 3つのテーマで3ページあります。「神と仏の習合の地」(このアクセス先)には 【伝教大師最澄座像】大講堂に安置されている最澄像の写真が載っています白鬚神社 ホームページ道歌 :ウィキペデイア道歌 :「報徳二宮神社」道歌 :「不覊」 諸領域の道歌を掲載:小笠原流・謡曲・武道・剣道諸派・弓道・柔術・空手・茶道等道歌拾遺集 :「五十雀俗謡集」遣唐使「円仁」足跡 中国で発見 2010年7月10日12時6分 :「朝日新聞DIGITAL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ
2017.04.23
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[探訪時期:2015年3月]比叡山の東塔を後に、登ってきた本坂を今度は坂本の町に向かって下ります。下りは山道からどのような景色が遠望できるか、それが楽しみでもあります。冒頭の写真は、3月28日時点の写真ですので、湖西の山並みは未だ冠雪していました。 かなり下ってくると、琵琶湖が眺められ、対岸の市街地の先には三上山が見えます。 ここが本坂のほぼ起点です。出発点に戻ってきました。常夜燈の石灯籠の斜め前に立つ石標「坂本五丁目」の左側面には「本坂」と刻されています。 当日入手したマップから一部を切り出して借用した部分図です。(資料1)このマップを参考にし、今回の個人オプションとしての探訪ご紹介を最後に致します。日吉大社への参道「日吉馬場」の東西には、比叡山延暦寺の里坊が数多くあります。JR比叡山坂本駅に行くまでの道程で、この部分図の塔頭区域を拝見しながら下りました。比叡山に登るときは、穴太積みの石垣を見ながら単にその前を通過したにとどまったので、拝見できるところは可能な範囲で拝見していこうと思った次第です。境内を拝見できるところと、拝見できないところに分かれます。境内を拝見できないところは、山門が開いている場合は、門前からの景色だけを楽しませていただきました。そこで、まずは境内に入って拝見できるところのご紹介です。上掲の石段下の通りの反対側斜め前には、石仏が集められた一画があります。「おそろい湯のみおお地蔵さん!」マップにはそんな記載で載っています。(資料1)3479,3827石仏群の背後に見える六角形の御堂が、「坂本六地蔵」の一番目に挙げられている「早尾地蔵尊」です。早尾神社の石段下にあることから、早尾地蔵尊と呼ばれるそうです。この地蔵尊、石標に記されているように「かくれんぼ地蔵尊」という別名や「子育て地蔵」という別名もあるのです。この探訪オプションでは、この早尾地蔵尊堂を拝見しただけですが、「坂本六地蔵」の名称だけでもまずはリストアップしておきましょう。(資料2)1. 早尾地蔵尊 坂本4丁目2. 阿波羅屋地蔵尊 江若バス日吉台線団地口下車すぐ 平和堂坂本店駐車場脇3. 苗鹿地蔵尊 江若バス堅田駅行苗鹿下車、徒歩5分 法光寺の境内4. 比叡辻地蔵尊 江若バス堅田駅行比叡辻下車、徒歩5分5. 穴太地蔵尊 京阪電車石坂線穴太駅下車、徒歩3分 三叉路の辻6. 明良地蔵尊 京阪電車石坂線坂本駅下車、徒歩3分 坂本3丁目これら六地蔵は、最澄自作と伝わっているようです。「かくれんぼう地蔵尊」(早尾地蔵尊)の文字の上には、「傳教大師御自作」及び「慈摂大師本地」とあります。 早尾地蔵尊は、別名・六角地蔵堂です。六角形で正面は唐破風。 屋根上の鬼板正面には、御詠歌の扁額が掛けられています。 伝教の 彫みおかれし 石地蔵 姿をかへて 出(いで)し真盛 と読めそうです 尚、駒札は「伝教の彫みおかれし石地蔵 姿を変えて出ずる真盛」と記します。この御詠歌の前には、「慈摂大師廿五霊場第四番六角堂」と記されています。慈摂大師は、西教寺・天台真盛宗の開祖・真盛上人の諡号です。この御詠歌が「かくれんぼう地蔵尊」の別名に関係するのです。というのは、真盛上人が生まれた嘉吉3年(1443)にこの地蔵尊が姿を消し、真盛上人が入滅された明応4年(1495)に再び姿を現されたという伝承があるのです。この地蔵の生まれ変わりが真盛上人という次第。お地蔵様は真盛であった間、その背後に隠れていたという意味でしょう。そこから、慈摂大師本地という表現が出てくるのでしょう。 堂内を拝見すると、中央に地蔵尊が祀られ、両側壁面はびっしりとミニチュアの地蔵尊が奉納されています。壮観です。右手を上げて印を結び、左手には如意宝珠を持たれた立像です。花崗岩に浮き彫りされていて、像高は1.3mだそうです。最澄は童子のすこやかな成長に心を注ぎつつこの像を彫られたという伝承から「子育て地蔵」とも。「頭の病、安産、子育て」に霊験があると信仰されています。 早尾地蔵尊の前の通りを下ると、広場の奧に、「旧竹林院」があります。「竹林院」は延暦寺で高齢となった後、修行から退いた老僧が住んだ隠居住まいの里坊でした。明治初年に民間の手に渡り、個人の別邸となり里坊ではなくなりました。そのため「旧」という字を冠しているようです。広大な庭園があり、国指定名勝庭園となっているのです。午後5時までの拝観なので、あまりゆっくりと拝見する時間がありません。今回はパスしました。上掲マップの「恵林院」「実蔵院」「寿量院」は非公開のようです。後に回して、拝見できた「律院」のご紹介を先に致します。 「律院」山門山門の屋根には、両端に獅子像の飾り瓦が置かれ、その内側左右に口許が阿形・吽形の鬼瓦が置かれています。 山門をくぐり、左の石畳の参道を進みます。 山門もこの屋根も軒丸瓦の先端は菊紋の中央に輪宝が陽刻されています。獅子口の中央には松葉菱の中に橘のある紋様が見えます。獅子と鬼瓦の造形が山門とは少し異なっています。微妙な差異が結構おもしろいのです。 回り込み、直進すると、本堂が見えます。 ここの獅子の飾り瓦、獅子口も上掲の造形とはまた異なります。経の巻のところが花に置き換えられています。大概は経巻の側面のように丸い輪の形なのですが、これはちょっとめずらしい気がします。3863,3867正面、向拝の頭貫の木鼻の象は、牙が片方に2本出ています。延暦寺で見た先が分かれた形とはまた違います。ここの木鼻も象の頭の上に斗が載った形です。蟇股は龍の透かし彫り。龍の髭が別に取りつけられている感じです。台座に「大行満祖賢和尚像」という銘板が取り付けられた僧の銅像が建立され、その右手に祖賢和尚の経歴説明碑が設置されています。祖賢和尚は、昭和21年9月、第2次世界大戦直後に、比叡山での千日回峰行を満行された天台宗の僧侶です。「大行満」とは「行位」を意味するそうです。昭和26年(1951)に叡南覚誠師の養子となって、稲田祖賢から叡南祖賢に改称されたとのこと。稲田祖賢和尚は、横川・飯室谷の安楽律院の管領を勤められていたのですが、そこが昭和24年(1949年)に火災で焼失。比叡山横川の総里坊だった松禅院がかつては現在地にあったそうですが、大正以降に民間の所有になった後荒廃していたそうです。そこで、この地に昭和24年(1949)「律院」を創建されたのです。寺号「律院」は「安楽律院」に由来するようです。(資料3,4,5)「松禅院」といえば、西塔でみた草野天平という詩人と結びついてきます。律院のところが松禅院だったとは・・・。当日境内を訪れたときには全く無知でした。 そこから少し離れた右隣りに、「祖師堂」があります。そのさらに先にあるのが、不動明王を祀るお堂です。ここで行われる護摩焚きの法要が有名なようです。律院についてネット検索していて、この護摩焚き法要について記されている多くのブログ記事を読ませていただきました。熱心な信仰心篤い多くの人々が参集されているようです。現在の律院のご住職は叡南(内海)俊照阿闍梨。祖賢和尚の孫にあたる方で、戦後8人目の阿闍梨だとか。 このお堂の鬼瓦 再び、山門の正面の建物の屋根を側面から眺めて次回、最後に非公開と思われる里坊の表門の拝見で終わりにしたいと思います。つづく参照資料1) 「おおつ観光ようこそマップ ~比叡山坂本編~」 2) 坂本の六地蔵 大津の歴史データベース :「大津市歴史博物館」3) 叡南祖賢 :ウィキペディア4) 律院 滋賀の神社・仏閣 :「京都の神社・仏閣」5) 天台宗総本山 比叡山延暦寺一山 比叡山麓 律院 :「OVER-REV.JP」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺阿闍梨 :ウィキペディア千日回峰行 → 延暦寺 :ウィキペディア千日回峰行、赤山苦行のお寺 :「赤山禅院」君は比叡山延暦寺の荒行「千日回峰行」を知っているか? :「NAVERまとめ」律院情報 矢田勝美さん、yokokarenさん、COSMETICSさんの各ブログ記事です。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へ
2017.04.23
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[探訪時期:2015年3月]この画像は、本坂から上ってきて、「大書院」の門の前にある急勾配の石段を上った位置からの「文殊楼」の景色です。本坂からの山門という位置づけになるようです。 根本中堂の正面から文殊楼への石段を登って眺めた楼門 山門をくぐりその先の石段上から「大書院」を見おろした景色説明板が読みづらいので、要点を記しますと、*この文殊楼は根本中堂の正面の尾根上にほぼ東を向いて建っている。*桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、銅板葺の構造である。*楼上に文殊菩薩が安置されている。*根本中堂の再建に伴い、文殊楼も再建されたが、寬文8年(1668)に焼亡した。*小規模な建物で再建されたのが現在のもの。全体的に唐様で古い和様との折衷様式『都名所図会』は、安永9年(1780)の上梓ですので、現存の文殊楼の建物を当時も見ていて、一建物としてこの文殊楼に触れているのでしょう。「文珠楼(五台山をうつして、本尊には文珠菩薩を安置す)」と記しています。校注者は、「正しくは常座一行三昧院。もと修法道場の一つ」と脚注を付記しています。(資料1)このことから、上掲の説明板に「一見楼門のように見えます」という記述が納得できます。もともとは、慈覚大師円仁が中国五台山の文殊菩薩堂に倣って創建したのだそうです。(資料2) 根本中堂の側から眺めた文殊楼 唐破風の虹梁の上には、大瓶束の両側を透かし彫りで飾った笈形が使われ、虹梁と頭貫の間に蟇股が使われています。木鼻はシンプルなもの。柱の下部は鉄輪で補強されています。 文殊楼の側面この楼には建物の周囲の壁に、祈願の絵馬がびっしりと掛けられています。傍にある宝篋印塔は、隅飾突起が開かずに直立していますので、古い時代の様式のものです。説明板の傍に並べて、谷崎潤一郎の小説『二人の稚児』の一節を紹介した関連文学案内の説明板もあります。この小説は未読ですが、調べてみると、『刺青・秘密』(新潮文庫)という文庫本の中に収録されているようです。近くの一隅に、歌碑が建立されています。碑には慈鎮和尚と刻されています。つまり、天台座主となった慈円のことです。調べていると、慈鎮和尚というのは諡号でした。(資料3) 唐崎の松は扇の要にてこぎゆく舟はすみ絵なりけりこの歌の出典を調べてみましたが、今のところ分かりません。慈鎮和尚ではない歌人名を挙げて紹介されているネット記事も見かけます。文殊楼の別の一隅には、十三重石塔が建照られていて、そこから少し離れた所には、2001年12月に建立された「清海鎮大使 張保皐 碑」があります。皐という字は、漢音でコウと読み、「ちょうほこう」と読めます。ハングルでは「チャン ボゴ」という発音になるとか。この碑には、円仁が入唐求法のために渡海したとき、海上王であり、清海鎮を設置した張保皐が建立した赤山法華院に留錫したことの因縁で、円仁が五台山や長安の地への巡礼を果たすことができたということが記されています。遣唐使に同行し入唐した円仁は、当時の政治的混乱並びに仏教に非寛容だった状況のもとで、天台教学を学ぶという目的を果たせぬまま、遣唐使の帰国船で帰国させられることになったのです。海上難航、漂着などの経緯により、登州(現在の山東省)の地で、帰国船にいわば遺棄される形となり、赤山の山中にある赤山法華院に滞留することになったようです。円仁は「赤山の神々に五台山巡礼を願い、成就すれば日本に赤山禅院を建てることを誓ったとされます。」(資料4) このときに、円仁と張保皐との関係ができたということでしょう。そして、円仁が目的とした五台山巡礼の旅が始まったようです。慈覚大師円仁の遺言が、弟子達により20余年後に京都の修学院離宮近くに所在する「赤山禅院」の創建に結実したそうです。(資料4,5) これが建立された石碑「清海鎮大使 張保皐 碑」です。張保皐という人物を、初めて知ったのですが、「張 保皐(790年頃 - 846年?)は、統一新羅時期に新羅、唐、日本にまたがる海上勢力を築いた人物。張宝高とも記される。・・・張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)だった。清海鎮大使から感義軍使を経て、鎮海将軍。」だそうです。軍人として活躍するとともに、現在の全羅南道莞島に根拠地を置いて、唐・日本との交易活動を手がけ、勢力を広げて行き海上王と称されるだけの実力者となったそうです。円仁は、『入唐求法巡礼行記』に張宝高の名前で数箇所に記載しているそうですが、直接に会ったことについての記載はないようです。原資料は未確認ですので、受け売りですが・・・。張保皐の支援を受けたことが円仁の五台山巡礼を達成させたことは事実なのでしょう。(資料6,7) もう一つ、「漢俳碑 比叡山讃」という記念碑も建立されています。 比叡山開創1200年を記念し、中国仏教協会から贈られた漢文の俳句(漢俳)五首が刻された石碑です。漢字を5・7・5と綴って詠まれています。説明板にはこの詠まれた五首の句意も説明されています。 文殊楼から、五十二段の石段を下るとき、ふと空を見上げると、木々の間から上弦の月が眺められました。 探訪も終わりに近づきました。根本中堂の斜め前にあるこの手水舎付近で、一旦集合です。根本中堂の石段を下から見上げた景色。この石段を登りきったところにあるのが、最初に見た「根本中堂」の石標です。 石段のもう一方の端には、これらの案内板が建てられています。 オレンジ色の矢線で示した石段を上がり、再び「萬拝堂」の屋根の相輪の輝きを眺めながら、今探訪会の解散です。ケーブルカーを利用して下山する人、往路を逆に歩いて下る下山をする人、もう少しこの地に留まりたい人、それぞれの意思による選択。私は本坂を歩いて下るグループに加わりました。「平和の祈り記念碑」を横目に見ながら、下山に入りました。探訪会はこれで終了です。尚、下山して坂本の塔頭寺院をゆっくりと眺めるひとときの時間を個人的なオプションにしました。次回は最後に、そのご紹介をいたします。つづく参照資料1) 『都名所図会 上巻』(安永9年/1780年上梓) 竹村俊則校注 角川文庫 p3862) 「探訪 [大地の遺産] 日本仏教の母なる御山を訪ねて-延暦寺-」当日配布資料 滋賀県教育員会 協力:おやじのたまり場3) 慈円 :ウィキペディア4) 慈覚大師円仁の遺言 :「赤山禅院」5) 「円仁・入唐求法巡礼行記」を読む :「海上交易の世界と歴史」6) 張 保皐 :ウィキペディア7) 円仁(えんにん)の入唐求法(にっとうぐほう)の旅と彼を支えた新羅人・張保皐(チャン・ボゴ) : 「Don Pancho のホームページ」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺五台山 :ウィキペディア五台山 世界遺産 :「中国国家観光局」(大坂駐在事務所)谷崎潤一郎『二人の稚児』 :「古書肆雨柳堂」二人の稚児/谷崎潤一郎 :「金色のウィスキー、青いライオン」 この二つは、たまたま出会ったブログ記事。「あらすじ」について触れた一例です。入唐求法巡礼行記 :ウィキペディア外圧で再認識、円仁の大冒険 吉備大臣入唐絵巻 :「穴吹史士が書いた記事」円仁の『大唐求法巡礼行記』概要 :「Don Pancho のホームページ」三首懐紙 慈円筆 「五島美術館」指定名称:紙本墨書慈円僧正願文(伝春日表白) :「e國寶」俳句と漢俳 :「中山逍雀 漢詩詞講座」比叡山延暦寺・東塔(総合)[大津市] :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へ
2017.04.23
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[探訪時期:2015年3月]ほぼ延暦寺山内域に入ったスタート地点付近に戻って来ました。戒壇院から、東にある大講堂の敷地に直接下る脇道を注意しながら下り(空色の矢線)、ここを拝見したあと、「已講坂」の石段を下って(黄緑色の矢線)、「根本中堂」に向かうことになります。 「大講堂」『都名所図会』に、「大講堂」の名称が記されていて、「本尊は大日如来・梵天・帝釈(たいしゃく)・文殊を安置す。深草天皇の御願なり。大会執行(だいゑしゅぎやう)のとき勅使参向の堂なり」と説明されています。深草天皇は仁明天皇の異称ということなので、第54代天皇(833~850)の時代に建立がされていたことになります。(資料1)その御堂は信長の焼討ちで焼失し、その後に再建されていますが、それも昭和31年(1956)に焼失したのです。そこで、山麓の坂本にあった「讃仏堂」がここに移築されたそうです。この建物自体は、後で拝見することになる1640年に再建された根本中堂よりも先に建築されていた建物だったことが判明したのだとか。江戸時代・寛永11年(1634)に建築されたものだといいます。「平面規模は桁行七間、梁間六間、入母屋造り、銅板葺きで、長押を廻らせ蔀戸(しとみど)を用いた和様を強調しますが、二重虹梁大瓶束(にじゅうこうりょうたいへいづか)の妻飾りや桟唐戸など禅宗様も取り入れています。内部はすべて床張りで、前三間を外陣、奧を内陣とし」た建物です。(資料2)本尊は大日如来が祀られています。大日如来を中心に木彫像が数多く安置されています。仏壇のまわりは華やかな彫刻で飾られていて、江戸初期の遺構として貴重なもの。戒壇院と同様に、大講堂も国重要文化財です。かつては僧侶の学問修行の道場であり、この比叡山から独立して宗派を開いていった法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などもここで学んだ時期があるのです。大講堂内には、これら上人の肖像画が、釈迦を始めとして天台宗ゆかりの高僧の肖像画とともに掲げられています。これを眺めると、仏教の滔々とした広がりとともに、仏教はやはり一つの思想・信仰ということを感じてしまいます。富士山にいくつもの登山口があるようなものなのかもしれません。 大講堂正面に張られた幕の上に、蟇股が3つあります。写真に撮ったのは2つ。向かって左側には「虎」が彫られており、中央は「龍」です。右は撮り忘れました。「獅子」だったと思います。 木鼻には白く塗られた象が彫刻されていて、その長い牙は先が分かれています。牙の先が分かれているというのは、あまり見かけない気がします。頭部には斗が載っています。最近の探訪先で、私はこの斗を載せた形式の木鼻を時折見かけるようになりました。 入母屋造の妻入りには上下二段の二重虹梁と大瓶束が見えます。戒壇院と同様に、平行垂木の軒です。 三ツ花懸魚には、輪宝が嵌め込まれています。肘木の上の手挟みはには牡丹が浮き彫りされていて彩色が鮮やかです。 連子窓と桟唐戸 隅木の先端に飾り金具が被せられ、そこにも輪宝の文様が見られます。 大講堂の背後には3つの建物があります。2つが横に並び、その間の奧にさらにもう一つの建物があります。 右側にある「前唐院」です。 第三世天台座主慈覚大師円仁の住坊で、慈覚大師を本尊に祀っているそうです。円仁は第五世座主となる円珍より先に入唐したので、その住坊を前唐院と称したのです。『都名所図会』は端的に「慈覚大師の廟堂なり」と付記しています。それでは智証大師円珍の後唐院はどこに? 既にご紹介していますが、東塔地域と西塔地域の境目にあるあの山王院が後唐院でもあるようです。『都名所図会』は、山王院と記し、後唐院とも呼ばれたことには触れていません。左側にあるのが、「瑞雲院」という扁額が掛けられた「延暦寺法華三昧道場」です。 現在の建物は駒札によると、昭和48年(1973)に復興造営されたもののようです。平成24年(2012)に定まったという別称「孝道教団始祖伝法堂」の表札が柱に掛けられています。奧の建物は拝見する時間がありませんでした。未確認です。 「鐘楼」梵鐘の傍に、「開運の鐘」と記された駒札が立っています。 阿弥陀堂の鐘楼が切妻造であったのに対し、こちらは入母屋造の鐘楼です。梵鐘の大きさの違いもあるでしょうが、こちらの鐘楼の方が、構造的には頑丈に作られている印象を受けます。対比していただくと、おもしろいでしょう。大講堂の傍に、この大講堂の鐘が打ち鳴らされる場面を吉川英治が『新平家物語』に記しているのを紹介した説明板が立っています。鐘楼の傍に、根本中堂に向かう石段の坂があり、「已講坂と菩提樹」について説明された駒札があります。已講(いこう)という天台の職位の僧が法華大会(おおえ)においてただ一人使用する坂道ということから名づけられたといいます。天台宗の法脈を相承するのは「座主」ですが、その下に天台職位の法階が定められているようです。駒札から関心を抱き、少し調べてみると、上位にはこんな順位が決められています。(資料3,4) 探題 座主の補任。座主欠位の際、探題(たんだい)職内の順位の主席が座主を継承 已講 法華大会において広学竪義(こうがくりゅうぎ)の問者を勤める 擬講(ぎこう) 已講の代理。法華大会中日に広学竪義の問者を一昼夜だけ勤める 望擬講(ぼうぎこう)から選挙で選ばれる 望擬講 長講会五役から選ばれて戸津説法の説法師を勤める 山家会と天台会において問者と講師を勤める 長講会五役(講師、問者、散華師、唄師、執事)法華大会において、ここの石段の坂が重要な意味を持ち、また一つのシンボルでもあるのですね。法華大会は「天台宗随一の古儀に則った大法要」で、「広学竪義」は、「法華十講」の後に試験のめの論議が行われることを意味するようです。試験官は已講職の人、試験を受けて答える人が竪者(りつしゃ)、合否判定するのは探題の職位にある人だそうです。つまり、探題職とは、「天台宗の教学の最高権威者」なのです。(資料5)已講坂の石段を下り、さらに根本中堂のある平坦地への石段を下ります。「根本中堂」は外側からの撮影以外、内部は撮影禁止です。そのため残念ですが、この石段上からの全景を撮ることと、 文殊楼のある高みから下る石段、つまり根本中堂の正面に至る石段からの全景写真くらいしか撮れませんでした。根本中堂は東面している建物です。「根本中堂」の名のとおり、ここが比叡山延暦寺の中心です。坂本の生源寺が建つ地で生まれた最澄は、近江国分寺行表(こくぶんじぎょうひょう)の下で得度し、奈良東大寺戒壇院で受戒します。その最澄が隆盛する南都仏教の世界から離脱し、この比叡山に登って、延暦7年(788)にこの地に創建したのが「一乗止観院(いちじょうしかんいん)」だったそうです。南都奈良の仏教界からみれば、当時の最澄は反逆僧に見えたことでしょう。南都奈良に対して、比叡山は北嶺と言われて、平安京の発展と共に隆盛していきます。その隆盛する延暦寺を修行地として、そこに学んだ法然、親鸞、日蓮、道元、栄西などが今度はこの比叡山から離脱し、それぞれが新たな宗派の開祖となって行ったのです。歴史は繰り返す。既存の仏教思想・信仰の枠内にとどまれない思念を形成し、己の信仰を追い求める僧が離脱していきます。現体制側から見れば反逆僧ということになります。そういう意味では、最澄自身がそのモデルでもあったことになりますね。804年に入唐した最澄は、翌年帰国して天台宗を開き、一乗止観院を根本中堂と改めたのです。当初は「比叡山寺」と呼ばれていたそうです。最澄は延暦年間(782-806)に開基したのですが、その年号を寺名としたのは弘仁14年(823)に勅許されてからとなります。その翌827年に延暦寺戒壇院が建立されていますので、最澄入滅直前の時期に「延暦寺」と名づけられた訳です。戒壇院の建立を宿願とし、心血をそそいだ最澄は、「延暦寺」という寺名の方にはどれだけ関心を寄せていたのでしょう・・・・・。『都名所図会』は、項目見出しとして「比叡山延暦寺一乗止観院」と記しています。そして、戒壇院を一乗戒壇堂という名称で紹介しているのです。脇道に逸れました。現在の根本中堂は、桁行11件、梁間6間、入母屋造、銅板葺きの建物です。徳川家光の命で寛永11年(1634)に再建に着手し、寛永19年(1642)に竣工したもの。根本中堂は、仁和3年(877)に堂容を整えたそうですが、信長の焼討ちで焼失します。秀吉の援助で天正年間に再建されますが、大風で建物が倒壊したのです。その後に再建されたのが現在の仏堂です。(資料2,6,7)本尊は最澄が刻んだと伝わる薬師如来像です。この像は大きな厨子の中に秘仏として安置されています。御前立ちの像が安置されています。そして本尊の前に、「不滅の法灯」も安置されています。この「不滅の法灯」は有名なフレーズです。信長に焼討ち(1571年)されたのに、なぜ不滅? その時点で途絶えたのじゃないの?じつは、それ以前に山形県山形市の立石寺に分火してあったそうです。その法灯の火を再びこの根本中堂に分火し、不滅の状態を維持したという経緯があるのです。堂内で大勢の参拝者にこのことが説明されてもいました。「かわらけに入れた菜種油にヤマブキの芯をひたし、芯による毛細管現象を利用して、火をともしている。ゆえに芯が燃えることなく、火はともり続けている」のです。(資料7)全国で3番目に大きい木造建築。三方を廻廊が囲んでいます。お堂の内部は天台様式で、特異なムードを感じます。というのは、前面一間通りが外陣です。外陣に参拝者がすわり、内陣に安置された秘仏の納められた厨子を少し見おろす形になっているのです。奧の列柱を隔てて一間通りの内陣があります。その後方四間が内陣です。そして、外陣・中陣・内陣と低くなっていくという独特の様式です。一段低い中陣は天皇の御座所となっているそうです。そこが内陣中央の本尊木造薬師如来立像と同じ高さになっているとか。高みに安置された仏像を見上げる形でなく、仏像と同じ高さで対座して、仏に対面し仏法を思い信仰するという形式になっているようです。内陣は3m低く作られていて、格子戸があり、中陣よりさらに低い位置になります。内陣は、床を張らず石敷きの土間になっていて、本尊を中陣と同じ高さに保つ形で、大きな厨子が中央にあるという姿です。内陣中央の須弥壇上、中央に薬師如来、北側に毘沙門天、文殊菩薩、南側に伝教大師像をまつる厨子が安置されています。 (資料2,7)実際に拝観すると、やはり一種不可思議な感じを受けるのが第一印象です。平坦地に開削し広げたのでしょうが、その地形を逆に利用して、意図的にこの様式が創造されたということなのでしょうか。 根本中堂のある敷地の北東方向にこれらの像や石碑が建立されています。童形像の左にある石碑は、「山家学生式」の名称で有名な上表文の冒頭です。 「伝教大師童形像」と、基壇に「南無根本傳教大師」と刻された大師坐像です。 石碑の内容を読み下し文で記した駒札です。石碑はもとの漢文で刻されています。この駒札の前半は既にご紹介しています。「山家学生式」の石碑を左に回り込んだところに建立されているのが、「宮沢賢治歌碑」です。 根本中堂 ねがはくは 妙法如来正遍知 大師のみ旨成らしめたまえ宮沢賢治は生涯で2度関西旅行をしているそうです。1度目は修学旅行。2度目が父との比叡山参詣旅行だったとか。この歌は、宮沢賢治が詠んだ比叡12首の冒頭の歌なのです。「賢治の歌碑は、昭和32年(1957)9月21日、賢治25回忌に根本中堂(国宝)前に建立された。・・・・ 歌碑の建立発願者は『関西宮沢賢治の会』の初代会長で、千日回峰行を達成した大阿闍梨、葉上照澄上人(延暦寺長﨟 故人)である。」(資料8)この後、比叡山に登ってきて、大書院の前で一番最初に石段下から部分的に眺めた「文殊楼」を、探訪の一番最後に訪れるということになります。つづく参照資料1) 『都名所図会 上巻』(安永9年/1780年上梓) 竹村俊則校注 角川文庫 p3642) 「探訪 [大地の遺産] 日本仏教の母なる御山を訪ねて-延暦寺-」当日配布資料 滋賀県教育員会 協力:おやじのたまり場3) 天台座主とは :「天台宗」4) 天台座主 :ウィキペディア5) 比叡山延暦寺 法華大会・広学竪義 :「儀礼文化学会」6) 東塔 :「比叡山延暦寺」7)『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩委員会編 山川出版社 p27-308) 関西宮沢賢治の会 :「関西岩手県人会」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺宗祖伝教大師最澄 :「天台宗」最澄 :ウィキペディア最澄筆 尺牘(久隔帖) 1幅 収蔵品データベース:「奈良国立博物館」 慈覚大師 円仁の遺言 :「赤山禅院」円仁 :ウィキペディア円仁の『大唐求法巡礼行記』概要 :「Don Pancho のホームページ」法華長講会式 伝教大師全集 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 145/383コマ目から長講会 :「コトバンク」戸津説法(とづせっぽう)2013年08月22日 :「とりわたかんのんじ」東南寺 :「歴史街道 坂本」葉上照澄 :ウィキペディア孝道教団 :「コトバンク」孝道教団 :「仏教NGOネットワーク」国宝根本中堂大改修 天台宗祖師先徳鑽仰大法会 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へ
2017.04.22
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[探訪時期:2015年3月]西塔地域と東塔地域の境目にある山王院傍で、奧比叡ドライブウェイに架かる陸橋を渡り、東塔(とうどう)地域に戻ります。東塔地域のマップを一部追記し引用させていただきます。(資料1)山道もドライブウェイも、ちょうど弁慶水がある辺りでぐっと東居方向にカーブしていきます。 山道が東に向かい、舗装されたドライブウェイが木々の枝葉で隠れ始めるあたりで、遠くを眺めると、3月下旬にはまだ山並みの頂には冠雪が見られました。今頃は新緑でエネルギーに満ちた山並みが遠望できることでしょう。冒頭に引用した東塔地域のマップに探訪行路を書き加えて見ました。往路では、黄緑色のマークを付けた分岐のところを反時計回りに西塔へ向かいました復路では、阿弥陀堂の背後からその敷地に登って行く形になりました。赤色の矢線からマゼンダ色の矢線の道を歩んだのです。坂道を登り、朱色に塗られた伽藍が見え始めます。 東塔の背後、西側の連子窓が二段になった見上げる塀の傍を通って、東塔横を抜けて行きます。 「阿弥陀堂」の南側面です。 東に向かって建つ「阿弥陀堂」の正面西方浄土の仏国土に阿弥陀如来が坐すというのですから、阿弥陀如来が東に向かい、衆生を受け入れるという形になるのでしょう。 この阿弥陀堂は「昭和12年(1937)に建立された、檀信徒の先祖廻向の道場」です。ここを訪れた時間帯には、参拝客が大勢で賑やかでした。この御堂の右斜め前方に、「水琴窟」があります。(資料2)水琴窟のところで、地面に両手・膝をつけ、耳を砂利に付けると、密やかに水滴が落ちる音の響きがかすかに聞こえます。外国人観光客も何かな・・・と見つめて、試してみる人がいました。『都名所図会』(1780年刊)を開けますと、「東塔の東谷に11坊、西谷に11坊、南谷に12坊、北谷に12坊あり」と記しています。そして、御堂の名称を列挙していますが、東塔で明記されているのは、根本中堂、一乗戒壇堂、文殊楼、大講堂、前唐院、山王院、千手井(または弁慶水)、浄土院だけです。(資料3) 「法華総持院東塔」昭和55年に再興されたそうです。伝教大師最澄は日本全国に6か所宝塔を建て鎮護国家とする計画を抱いたそうです。その中核がこの延暦寺の東塔なのです。この東塔は、時間がなく阿弥陀堂の方から眺めるだけになりました。「本尊は大日如来をはじめとする五智如来が祀られており、塔の上層部には仏舎利と法華経が安置されています。」(資料2)「法華総持院」というのは、円仁が唐・長安の青龍寺の鎮国道場を範とし、天台密教の根本道場をこの地に貞観4年(862)に完成させたそうです。しかし、永享7年(1435)に炎上したままになっていたといいます。室町時代、応仁の乱(1467)以前に焼失していたので、信長の比叡山焼討ちより130年以上前です。「1977(昭和52)年、最澄の出家得度1200年記念事業として再建が計画され、まず東塔、続いて灌頂堂・寂光堂・回廊・楼門が完成し、既存の阿弥陀堂・鐘楼を含めて、法華総持院は再建された」(資料5)のです。10年後の1987(昭和62)年に伽藍が復興したのです。「鐘楼」 阿弥陀堂の南東方向、敷地の端近くに。画像の右側遠方に石造五重塔が見えます。西塔の方では、「五重照隅塔」が建立されていましたが、こちらの方は「諸善奉行塔」と刻された石標が建てられています。「諸善奉行」は「衆善奉行」とも漢訳されるようです。「七仏通誡偈」の中の句として良く知られている言葉です。(資料4) 諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫く(なく) 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い 自浄其意(じじょうごい) ― 自ら其の意(こころ)を浄くす 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) ― 是がもろもろの仏の教えなりとくに、「諸悪莫作 衆善奉行」は、詩人・白居易と禅僧・鳥窠和尚との間の問答で使われたエピソードが有名です。言葉の意味は3歳の子もわかるけれど、それを80歳になる老人でも実行できないじゃないか、という痛烈なやりとりで出て来ます。 鐘楼の笈形や蟇股は草木や鶴、鳩などが透かし彫りされて、彩色されています。未だ彩色が鮮やかです。阿弥陀堂の前の石段を西に下り、戒壇院に向かいます。マップで紫色の矢線のルートです。この石段はその段数が52段。52は修行により悟り成仏に向かう道程(段階)を表し、菩薩の修行・悟りの五十二位を意味すると言います。十信、十住、十行、十廻向、十地、等覚、妙覚という合計52の段階(位)があるという考え方です。十廻向までは凡夫の修行で、それ以上から聖者の修行の位に入るそうです。瓔珞経に基づく天台教説だとか。(資料6)一番下位の「十信」について、ウィキペディアに説明項目があります。こちらをご覧ください。また、リンクがはられている「菩薩」の項には、菩薩五十二位としても説明が加えられています。何気なく上り下りする石段にも、仏教の意味が込められているようです。ガイドさんが、52に意味があるとおっしゃっていましたので、再確認を兼ねて調べ直してみました。阿弥陀堂から戒壇院に移動する途中、参道脇に東塔建立経緯についての絵入り説明掲示板が建てられています。これによれば、法華総持院の伽藍配置は古絵図とは違う配置形式に改められているようです。現在は、東塔の北に阿弥陀堂と寂光堂、南に灌頂堂が配されて、それぞれが回廊でつながった形式になっています。「比叡山と平安建都」についても詳しい説明が出ています。比叡山が京都の鬼門にあたり、延暦寺が鬼門除けの役割を担っているという言い習わしについての説明です。要点は、藤原小黒麻呂が平安京建都の予定地を点検した後、京都の地が四神相応の土地ではあるが鬼門に高い山があると上奏したこと。それを聴いた桓武天皇が最澄に鬼門にある高い山に比叡山寺の造立の詔を下したこと。この2点です。延暦寺の存在は、ここから始まったというわけです。「戒壇院」 駒札には、僧侶が大乗戒(規律)を受けるお堂と説明されています。戒壇院という言葉でまず思い浮かべるのは、奈良・東大寺の戒壇院です。「戒檀」とは「戒律を受ける儀式が行われる特定の檀」のことです。日本では、鑑真が来朝したことにより、天平勝宝6年(754)に東大寺大仏殿前に戒壇が築かれて、聖武天皇以下400人に鑑真から戒が授けられたのが始まりのようです。のちに大仏殿の西に戒壇院が建立されたのです。東大寺1箇所では不便なので関東・下野の薬師寺と九州・筑紫の観世音寺にも戒壇がつくられ、「天下三戒壇」と称されたのです。それに対し、日本で天台宗を開宗した最澄が、法華経の精神に基づき大成し創唱したのが円戒(円頓戒)-天台宗で行う大乗戒-だそうです。この円戒を授けるための円頓戒壇を設けることが勅許されたのは弘仁13年(822)で、駒札に記される最澄没後7日目ということになります。(資料6)そして、天長5年(828)に戒壇院が創建されたとのことです。このときの御堂は、方五間、頂上に伏鉢、宝珠があったと伝えられているようです。信長の比叡山焼討ちで戒壇院も一旦焼失したことでしょう。現在の建物は延宝6年(1678)に再建されたものだそうです。この建物、二重のように見えますが、母屋は桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)で、裳階(もこし)と称される庇(ひさし)が廻らされているために、外観は方五間の御堂のように見えるのです。(資料7)扉が閉まっていますので、内部は諸資料から想像するしかありません。(資料7ほか)内部は土間になっていて、母屋部分つまり、方三間のところには、延石が階段状に廻り、中央奧に石造戒壇が設けられているそうです。そこに、釈迦三尊像が安置されているとのこと。釈迦牟尼仏像<戒和上>と、文殊菩薩像<羯磨師>・弥勒菩薩像<教授師>です。文殊・弥勒は僧形像といいます。 御堂の正面の屋根には唐破風が設けられています。 花頭窓、桟唐戸などの禅宗様に、平行垂木の軒の和様を折衷した様式となっています。 戒壇院の建物の背後に小さな御堂があります。不詳。戒壇院の傍にこの説明板があります。ついでに、延暦寺から分立した三井寺は、白河天皇の宣旨をえて、三摩耶(さんまや)戒壇がつくられているそうです。鑑真が住んだ唐招提寺にも戒壇がつくられています。(資料6,10) また、建物の南東方向、敷地の端寄りに、この石塔が建てられています。大乗妙典一字一石塔です。大乗妙典というのは、一般的には法華経、すなわち妙法蓮華経をさすそうです。(資料8) ここから、回峰行者が歩まれるという脇道を下って(空色の矢線のあたり)、大講堂の敷地に向かいます。つづく参照資料1) 「世界文化遺産 比叡山延暦寺 諸堂めぐり」 当日拝観の折にいただいたリーフレット2) 東塔(とうどう) :「比叡山延暦寺」3) 『都名所図会 上巻』(安永9年/1780年上梓) 竹村俊則校注 角川文庫 p3644) 七仏通誡偈 :ウィキペディア5) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩委員会編 山川出版社 p316) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p62,p77,p1747) 延暦寺戒壇院 近江建物探訪 :「滋賀・びわ湖 観光情報」8) 大乗妙典読誦供養塔 :「狭山市」9) 「大乗妙典解」 :「国文学研究資料館」10)円頓戒壇 :「コトバンク」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺九州に於ける六所宝塔の建立をめぐって 森 弘子氏 論文宝満山と宇佐神宮に「宝塔」を建立 天台ジャーナル :「天台宗」戒壇院 :「かげまるくん行状集記」太宰府戒壇院 写真集 :「ことまち写真館」戒壇 :「唐招提寺」一石一字経供養塔 :「奥州街道ぶらりぶらりん」大乗妙典一字一石塔(弐分方町) :「碑・石碑」一字一石塔 :「さがの歴史・文化お宝帳」(佐賀市地域文化財データベースサイト) 大乗妙典塔 -小社- :「玉城町」(三重県)長與 善郎 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へ
2017.04.22
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[探訪時期:2015年3月]浄土院から「にない堂」に向かいます。この標識が路傍に立っています。いよいよ「西塔地域」です。この西塔は東塔からは北に1kmほどのところになります。第2世天台座主となった寂光大師円澄(えんちょう771-836)によって開かれ整備されたそうです。西塔の本堂が釈迦堂(転法論堂)なのです。(資料1)「にない堂」の少し手前のところで2つのものが目にとまりました。 「詩碑 弁慶飛び六法」「弁慶飛び六法 勧進帳を観て」は草野天平の詩です。調べてみますと、草野天平は詩人・草野心平の弟です。 一つの傷も胸の騒ぎもなく / 真になし / さうして終った 独り凝っと動かず / 晴れ渡る安宅の空に / 知らず知らず涙が滲む 泌み徹る人生の味 / 成就の味1947年に詩集『ひとつの道』を刊行した後、「1950年6月、天平は滋賀県大津市坂本の比叡山に行き、8月には飯室谷の松禅院(しょうぜんいん)への入居を許されて、詩作に専念する生活を送ります」(資料2)1942年に妻を亡くしており、1950年10月にこの地で再婚したそうですが、1952年4月に死去。享年42歳。坂本の西教寺にお墓があるそうです。この歌碑は、1986年8月に、天平の詩作を支えた妻・梅乃さんが建立されたのだとか。(資料2) 「五重照隅塔」五重照隅塔という言葉に含まれる「照隅」は最澄が「山家学生式(さんげがくしょうしき)」に記した言葉をさすのでしょう。「国の宝とは何物(なにもの)ぞ、宝とは道心(どうしん)なり。道心ある人を名づけて国宝と為(な)す。故(ゆえ)に古人(こじん)言わく、径寸十枚(けいすんじゅうまい)、是(こ)れ国宝にあらず、一隅(いちぐう)を照(てら)す、此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと。古哲(こてつ)また云(い)わく、能(よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用(ゆう)なり、能く行い能く言うは国の宝なり。」の中に、「一隅を照す」という語句が出て来ます。一隅を照らす道心ある人こそ国の宝であり、径寸十枚つまり直径一寸(3cm)の宝石10個なぞは国の宝ではないと高らかに信念を語ったのでしょう。(資料3)最澄は、「真俗一貫の大乗菩薩戒こそが真に国を護り人々を幸せにすると考え、弘仁9年(818)から翌年にかけて[山家学生式]と呼ばれる一連の上表」を行ったのです。つまり、天皇にこの文書を奉ったということです。(資料4) さらに進むと、「親鸞上人旧跡」という石標や「常行堂・法華堂」の表示板の背後に、朱塗りの2つの御堂が見えます。西に常行堂、東に法華堂が並んでいます。 「常行堂」 常行堂は阿弥陀如来を本尊とし、常行三昧を修する堂です。外観は蔀(しとみ)戸と板唐戸を用い、文禄4年(1595)に建てられたものです。現在もこの中では厳しい修行が実践されているとかで、周囲での拝見も静粛にと注意が促されていました。正面に一間の向拝がつき、桁行五間、梁間五間、一重で、宝形造・栩葺(とちぶき)の建物です。「栩」は見慣れない漢字。漢和辞典を引くと、漢音が「ク」で、くぬぎの木のことです。ぶな科の落葉高木。 東の法華堂とは、側面後部がこの画像で見るとおり、桁行四間、梁間一間、唐破風造の渡り廊下でつながれています。この渡り廊下の下をくぐると、石段があり、釈迦堂のある敷地へ下っていくことになります。 こちらが「法華堂」法華堂は普賢菩薩を本尊とし、法華三昧を修する堂です。法華堂の建築形式は、常行堂と同じです。こちらも文禄4年(1595)に建てられたものです。法華堂の右側から背面にまわって見ました。 こんな眺めです。同じ形式の左右2つのお堂が渡り廊下でつながれているところから、弁慶がこの廊下を天秤棒にしてお堂を担いだという伝説があるのです。そこから2つのお堂を総称して「にない堂」と呼ばれています。『新拾遺和歌集』に撰収されている歌、心海上人がこの「にない堂」で修行する僧への期待を詠み込んだという歌についての案内板が建てられています。 本覚の山のたかねの鐘のおとに 長き眠りをおどろかすかな「天台宗の教えで、もっとも大切なのは、修行する前にすでに人間は仏性を備えているので、それを自覚して仏道を歩むことだ。そんな立派なみ仏の教えを説く比叡山だから、常行堂の鐘の音によって、多くの人々が長い眠りから目覚めたように、天台の教えを学び、明るい人生を送ることができるだろう。」と歌意の説明も記されています。この歌は日文研のデータベースには「新拾遺集」巻十七:釈教に1511番目の歌として収録されています。(資料5)一方、別のデータベースを見つけることができました。そこには、巻十七に心海上人という名称とともに、「山の常行堂の流通の鐘に鑄つけ侍りける歌」という詞書も載せています。(資料6)この歌が梵鐘の表面に鋳込まれていたということなのでしょう。蛇足ですが、心海上人の歌から4首後に、天台座主院源の「題志らず」として詠まれた歌も撰収されています。院源は寛仁4年(1020)に天台座主になった人。 西へ行く月に心の澄ぬればうき世の中は寢られざりけり 法華堂の南東あたりを散策すると、歌碑と小さな二つの石塔が目に入ります。歌碑に刻まれた歌は、 しづやかに輪廻生死の世なりけりはるくるそらのかすみしてけり 雄郎少し調べて見ますと、米田雄郎(よねだゆうろう)という歌人です。昭和33年(1958)に、好日社門下の人々により建立された歌碑です。「この歌碑の除幕式のとき、身体が弱っていた雄郎師は医者から出席を止められたが『死んだら本望』と言って山道を駕籠に乗って出席した」というエピソードがあるそうです。(資料7)米田雄郎(1891-1959)は奈良県生まれで滋賀県東近江市の極楽寺住職だった僧侶です。一方18歳より短歌を始められ、前田夕暮に師事した後、自由律及び定型律短歌を作り、「好日」社を創始された歌人でもあった人のようです。(資料8) 亡くなる前年にこの歌碑が建立されたことになります。 法華堂を小さな五輪塔のある所から眺めて 渡り廊下の下をくぐり、釈迦堂への石段を下り始めます。一段下に平坦地があります。参道の右側(東側)には「西塔政所」と「延暦寺学問所 上観道場」の表札が右と左にそれぞれ掛けられた門代わりの柱が立ち、奧に建物が見えます。通路中央に「延暦寺学問所 修行中につき拝観を謝絶いたします」と書かれた駒札が立っています。政所という語句が、歴史の厚みを感じさせます。 進行方向の左側(西側)には「恵亮堂」があります。大楽大師と称され、修力霊験に最も優れたという、恵亮和尚(800-859)を本尊として祀るお堂です。恵亮は京都の妙法院を創建した人だとか。 この敷地の南辺にある円戒国師寿塔や石仏円戒国師とは、天台宗真盛派の祖となった、真盛(1443-1495)のことです。慈摂大師という諡号もあります。真盛上人が生前に作ったお墓なので「寿塔」と称するそうです。ただし、現在のものは天保年間の再建といいます。「黒谷青龍寺に隠遁する直前に決死の覚悟の表明として」己の墓を建立したのだとか。(資料9)天台宗真盛派の大本山は、坂本の西教寺です。ここに宗祖大師堂があります。スポット探訪として、明智光秀絡みで西教寺を訪れた時に、この御堂のことを知りました。ブログ記事を再録し、ご紹介しております。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (「スポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -1 総門、宗祖大師殿」) また、別の一隅には中西悟堂の歌碑が置かれています。 樹之雫(きのしずく)しきりに落つる暁闇(ぎょうあん)の 比叡をこめて啼く(な)くほととぎす天台宗学林を卒業して僧籍から野鳥研究に転じ、「日本野鳥の会」を創設した人でした。昭和初期の詩人であり随筆家。自然保護運動に尽力されたそうです。日本の仏教のひとつの大きな源流である比叡山。そこから学べることがどんどん広がって行きます。新たな関心が広がります。建立されてまだ歳月が浅そうですが、こんな石仏如来坐像も見かけます。隣の石碑は古そう・・・。何なのかは未確認です。下りの石段の前方に見えるのが「釈迦堂」(転法輪堂)です。 石段を下りると敷地の東に手水舎があります。「釈迦堂」(転法輪堂)の正面。御堂は南面して建てられています。西塔の中心となる本堂(仏堂)です。本尊に釈迦如来を祀っていますので、「釈迦堂」と呼ばれています。正式には「転法輪堂」と称するようです。延暦寺の公式ホームページでも、正式名称の方を括弧書きにして、親しまれた名称を表に出しています。 信長による比叡山焼討ち後、豊臣秀吉の命により、大津の園城寺弥勒堂(金堂)をこちらに移築したものだとか。そのため、この建物そのものは、貞和3年(1347)頃に建築されたたてもので、この比叡山に現存する建物としては、これが最古のものだと言われています。桁行七間、梁間七間、入母屋造。奥行二間の外陣の床は板張り、内陣はすべて土間とするという形式で、天台本堂の基本的平面となっているようです。仏堂としては滋賀県下最大の建物でもあるそうです。(資料1)建物の正面、外縁から堂内を撮ったもの。 内部も朱塗りです。この「釈迦堂」の背後に、弥勒仏の石仏が安置されているそうなのですが、拝見する時間がありませんでした。前回触れた「相輪橖」がこの弥勒石仏の北方向にあったようです。ともに残念・・・・。 釈迦堂のある敷地の西端に、多宝塔が建てられてて、その傍に、「青龍寺」への道標が立っています。この釈迦堂の西側を通り抜けていくことになるようです。本堂の傍には、「九条武子の歌碑より」という説明板が立っています。歌碑自体を探索する時間のゆとりがありませんでした。ちょっと、心残りが・・・・ 山の院連子の端にせきれいの巣あり雛三つ母待ちて鳴くこの歌碑を掲載されているサイト記事を見つけました。こちらをご覧ください。 (「県内歌碑巡歴」滋賀県歌人協会)この後、下ってきた石段を再び登り直し、東塔地域に戻ります。戻りの行程でちゃんと確認できて写真に記録できたものを加えておきます。同じ平坦地に少し離れて建てられています。 一つは「真盛上人修学之地」という石碑、もう一つが「親鸞聖人ご修行の地」という石標です。西塔地域に入るときは気づかなかった案内板奥琵琶湖ドライブウェイの駐車場から西塔地域に向かうときには、この案内板が最初に目に止まる位置になるようです。いよいよ素通りしてきた東塔地域の探訪です。つづく参照資料1) 「探訪 [大地の遺産] 日本仏教の母なる御山を訪ねて-延暦寺-」当日配布資料 滋賀県教育員会 協力:おやじのたまり場2) 草野天平 :「いわき市立草野心平記念文学館」3) 山家学生式 :「天台宗」 天台法華宗年分学生式 一首 :「原田俊介のページ」4) 天台宗の歴史 :「天台宗」5) 新拾遺集 巻十七 釈教 :「国際日本文化研究センター」6) 新拾遺和歌集巻第十七 釋教歌 (日本語版のデータベース) :"UNIVERSITY VIRGINIA LIBRARY Japanese Tet Intiative 文学"7) 米田雄郎(第一)歌碑 :「先進好日の歌碑 index」8) 米田雄郎 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺天台総本山 比叡山延暦寺 ホームページ院源 :「コトバンク」恵亮 :「コトバンク」天台の法流を汲み、東国第一の台密道場へ :「深大寺」円戒国師慈摂大師伝 : 盛門開祖 :「近代デジタルライブラリー」西教寺 天台真盛宗大本山 ホームページ 西教寺について比叡山延暦寺西塔 椿堂 :「紅葉と桜、京都の寺院神社写真集」比叡山延暦寺西塔 弥勒石仏 :「紅葉と桜、京都の寺院神社写真集」瑠璃堂 西塔北谷 :「紅葉と桜、京都の寺院神社写真集」比叡山横川飯室谷・松禅院に藤波源信北嶺行満大阿闍梨を訪ねてひとつの道 草野天平 :「青空文庫」草野天平の世界 ブログトップページ中西悟堂 :ウィキペディア近代日本を支えた偉人たち [中西 悟堂] :「金沢ふるさと偉人館」九条武子 :ウィキペディア女たちの近代 - 九条武子と柳原白蓮 :「竹内みちまろのホームページ」柳原白蓮、九条武子、与謝野晶の詠んだ句 :「別府名所巡り」九条武子 長谷川時雨 :「青空文庫」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 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2017.04.21
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[探訪時期:2015年3月] 山王院は東塔地域と西塔地域の境目にあります。入手した「諸堂めぐり」の全体マップに山王院が記載されていますが、東塔地域と西塔地域の拡大マップには所属していません。浄土院も東塔地域と西塔地域の境目に位置するようです。「配置図などでは西塔エリアに含まれますが、延暦寺での所属は東塔地域となっています」(資料1)とのこと。微妙・・・。山王院から浄土院に向かう途中で、冒頭の石標「傳教大師御廟道」を見ました。部分拡大図の空色の丸から紫色の丸に向かいます。マップにみるとおり、この二院は両地域に霞みをかけたような表示の枠外にあります。まさに境目という感じです。東塔地域から行くと、「浄土院」へは石段道を下ることになります。石段の正面にあるのが浄土院です。築地塀の傍に、駒札があります。 この浄土院に、伝教大師最澄の御廟があるのです。弘仁13年(822)6月4日に56歳で入滅された最澄の遺骸を、慈覚大師円仁が仁寿4年(854)7月ここに移して安置したそうです。貞観8年(866)に最澄は、清和天皇より伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号を贈られたのです。これが日本で初めての大師号なのです。 正面の門は、平唐門です。平入りで、両側面に唐破風があります。破風板の飾り金具には五七桐が装飾されています。たぶん銅板製の鬼板は中央に太陽の象徴のような円板が浮き上がっています。 シンプルで厚みのある大きな板蟇股が使われ、唐門の扉には透かし彫りが施されています。この菱格子の中に葉を連想させる幾何学的文様がいいですね。 この正面の門から築地塀に沿って左に進むと、参拝者入口(通用門)とその左方向、築地塀の外に手水があります。門の入口に「浄土院御廟」という表札が掲げられていて、その下に、なぜ浄土院と称するのかが説明されています。「宗祖伝教大師の創建にして御自作の阿弥陀仏を安置す故に浄土院と称す」とあり、最後に、「万治4年徳川家光公之を改造せらる」と記されています。万治4年は1661年です。 門を入ると、前庭の白砂は掃き清められ、同心円と流紋が描かれています。参道部分は石畳です。 蓮弁から水が数条の細流となって滴り落ちる多角形の池が拝殿の手前にあります。この拝殿の背後に御廟があるのです。 拝殿を正面から見た景色。正面が唐破風です。 拝殿に近づいて行くと、外扉の上部は雲形紋がレリーフされて三色に塗り分けられ、中央には輪宝が彫られています。 「浄土院」の扁額は独特の書体のものが陽刻されています。部分的な彩色が穏やかさのなかに華やかさを感じさせます。拝殿の側面から前庭と出入口の門側の建物を眺めた景色拝殿を右に回り込むと、その背後に御廟があります。玉垣で囲われ、その前に、法華塔や宝篋印塔、石灯籠が並んでいます。 ここの白砂にも流紋が描かれ、残雪が見られました。 向唐門があり、その内側に彩色された廟所があります。 ここが比叡山の山内第一の浄域ということになります。 木鼻はごくシンプルな造形で、蟇股や大瓶束の装飾とともに彩色が施されています。柱や頭貫、虹梁の彩色は剥落して木肌に戻った印象を受けます。拝見できるのは、拝殿の外観と廟所の向唐門の前面部分までです。 廟所前かつ拝殿の背面にあたる庭部分を眺めた景色ここからの眺めで、正面に見える御堂が阿弥陀堂だとか。拝殿には格子が嵌め込まれ黒く塗られた半蔀(はじとみ)があり、閉じられています。拝殿前面の外扉と同じ様式の扉がこの背面側にもあります。この浄土院では、「侍真(じしん)制」という修行が今も行われているそうです。12年山からおりない籠山を行い、伝教大師最澄が生きているように仕える修行だとか。「ここは掃除地獄とよばれるように、1に掃除、2に音声(おんじょう読経どきょう)、3に学問という厳しい修行の場である」(資料3)といいます。ごみ一つみられず、白砂の流紋も端正なのは、掃除修行のあらわれなのでしょうか。余談ですが、この「侍真」ということから、高野山の奥の院で弘法大師空海が生きているものとして食事を供する行について紹介していたテレビ番組のことを連想しました。少しネット検索で調べてみて、参考になる記事を見つけました。日に二度、奧の院の拝殿に食事を供する維那職の僧侶による儀式が連綿として行われているのです。(資料4) 正面の門を庭側から眺めた景色門の前から眺めた東塔に至る石段です。上掲の石段を下る写真に対応します。 石段側から見た浄土院正面の築地塀は右側に塀はなく、石垣・生垣になっています。塀の側面は左の写真の状態で、ここから右の画像のように、拝殿と廟所の側面が眺められます。 浄土院の近くに建立された石灯籠八角柱の少し長めの棹の上に、中台が蓮弁だけで造形され、火袋の側面には僧形立像が浮き彫りにされています。修行期の最澄をイメージしたものでしょうか。それとも伝教大師最澄に帰依する修行僧そのものの姿の造形なのでしょうか。この形式の石灯籠を初めて気づきました。大昔に、この浄土院前を通り過ぎたことはあるのですが、そのときには意識していませんでした。 浄土院の塀の傍に、この道標が立っています。一番上に人さし指の図柄で方角を示し、「釈迦堂相輪橖(そうりんとう)黒谷横河道」と記されています。浄土院から西塔地域に向かいます。 つづく参照資料1) 「探訪 [大地の遺産] 日本仏教の母なる御山を訪ねて-延暦寺-」当日配布資料 滋賀県教育員会 協力:おやじのたまり場2) 最澄 :ウィキペディア3) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩委員会編 山川出版社 p324) 春の高野山探訪 佐藤弘弥氏【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺「侍真」について記された有益な記事: 浄土院 :「かげまるくん行状集記」 渡部光臣師が侍真僧に :「終末の散歩道」延暦寺 :ウィキペディア延暦寺相輪橖(ソウリントウ) 近江建物探訪 :「滋賀・びわ湖」 風鐸が目立つ延暦寺相輪塔 日本の塔 :「暗号『山上憶良』目次」高野山 奥の院の御廟に食事が届けられてるって本当?:「そうだ!世界遺産に行こう!」天台宗総本山 比叡山延暦寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へ
2017.04.21
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[探訪時期:2015年3月]前回最後にご紹介した「大黒堂」の西に、巨大な石標「根本中堂」が立っています。その西側から緩やかな石段が下っていきます。上から根本中堂が見えています。今回はまず西塔(さいとう)地域を探訪し、戻る行程で東塔(とうとう)地域を巡ることになりました。「諸堂めぐり」のリーフレットからイメージしやすいように、関連する箇所の巡拝マップを切り出して、一部加工して引用させていただきます。(資料1)東塔地域マップに追記した青色の丸辺りに冒頭の石標が立っています。 「萬拝堂」上掲の両地図に赤色の丸を付けたあたり、石標「根本中堂」からは敷地の南側になります。西塔地域への移動前の小休止の折りに、しばし拝見しました。お堂の正面左の壁に、説明板が取り付けてあります。信仰宗派を超越して、日本及び世界諸国で信仰の対象となる神々や諸仏などを合祀奉安して、「日夜平和と人類の平安を祈願」するという目的で建立されたお堂のようです。平成の新堂。回峰行者も毎日暁天にここで祈願されるとか。 多角形のお堂内部は、興味深い配置になっています。側面に十二支の干支をレリーフし、上面の縁に百八個の大きな珠が数珠の形に嵌め込まれた基壇が、堂内中央に設置されています。その中央に千手千眼観世音菩薩が安置され、その脇侍として、天台大師と伝教大師の木像が配されています。お堂の内壁には諸神仏像の絵が掛けられているのです。時間がなくて、諸神仏の名前を確認できませんでした。興味深いのは、観音菩薩の十一面の表現方法です。仏像本体の頭の上に頭部を段状に重ねていく形で十一面を形成していることです。千手の腕の表現方法も特異です。円形に光が放射している光背のイメージと具象的に重なる造形の感じ・・・です。百八という珠の数は、除夜の鐘で百八回打つ数字、百八煩悩をまず連想します。日本では、除夜の鐘は百八煩悩を洗い清め、新年を迎えるためと考えられているようです。この百八の煩悩の内容・分類にも諸説あるそうです。また、中国が起源のようですが、かつては、寺院で朝夕梵鐘(釣鐘)を108回鳴らしたそうです。「暁に鳴らすのは眠りを警しめ、暮れにうつのは目のくらんだ迷いをさますためといわれる」のだとか。(資料2)また、1年の12月・24気・72候を合わせて百八という考え方もあるようです。(資料2、日本語大辞典・講談社)柱には御札が張ってあります。下の図柄は厄除けとして有名な御札です。「角大師お札」と称され、「身体健康 厄難消除」のお札と言われています。他に、「降魔大師お札」「魔滅大師お札」という異なる図柄のものもあります。「元三大師が厄難の原因である魔を祓い除ける為に変化されたお姿」を刷ったお札だそうです。坂本を探訪すると、民家の入口などでこれらのお札が張られているのを目にします。比叡山横川に「元三大師堂」があります。元三大師は「西暦966(康保3)年、55歳で天台座主に就任」(第18代)された大師で、名は良源です。1月3日に入滅されたので「元三大師」と通称されています。諡は慈恵大師。元三大師堂のホームページをご覧ください。脇道に逸れました。本道に戻ります。 西塔に向かい始めたとき、「元三大師霊場 本覺院 是ヨリ十二丁」という石柱標識が目にとまりました。境内にはこのような「境内案内図」が要所要所に設置されていて、便利です。この案内図は「大講堂」の手前に設置されているものです。鐘楼を見上げながら坂道を登り、まずは「大講堂」も横目に見ながら一旦通過です。 道端には、祈念碑が建てられています。「世界平和の祈念碑」です。「筆塚」も建立されています。駒札によれば、全国学生比叡山競書大会の筆塚です。この大会のために用いられた古い筆の供養塚だそうです。 途中に、「玉泉院跡」という碑を見かけました。東塔地域の境内の参道の一部が、東海道自然歩道に一部組み込まれています。 東塔地域の阿弥陀堂への坂道と西塔への分岐地点に、「東海道自然歩道」と記した標識が立っています。 (地図の黄緑色の丸のところ)比叡山を歩く東海道自然歩道は、何カ所か、奧比叡ドライブウエイと並行している場所があります。 「弁慶水」と「地蔵石仏・無縁塔」「弁慶水」は「千手水」「千寿水」とも称されているようです。仏に供える「閼伽水」で、「奧比叡八景」の一つに数えられています。大きな杉の木の根元からの自然の湧水だそうです。比叡山の西塔に住んでいた武蔵坊弁慶が、千日間の「千手堂(山王院)」参籠の際に、ここの水を汲んだとか。『山門堂社由緒記』には、「武蔵坊弁慶、一千日夜に勇力を大士に祈り、この水を用って浴身す。(弁慶水)」という由来が記されいるそうです。千手水、千寿水の名称についての由来も記されているとか。(資料2)また、手許の本には、「千手堂(千手観音を安置す)・・・千手井(また弁慶水ともいふ。西塔武蔵坊千手堂に千日参籠す。この水を毎日閼伽とせしよりこの名あり。平相国清盛熱病の時、この水を石船に湛へて沐よくすといへり)・・・」と由来に触れています。(資料3)また、この弁慶水に関して、『伝説の比叡山』には、「最澄と徳一和尚」、「円珍阿闍梨と水天童子」という二つの伝説が紹介されているそうです。原本を確認していませんので、ちょっとソースだけメモしておきます。探して読んでみるのもおもしろいかもしれません。覆屋に納められた地蔵石仏の右には、角柱状の縦長の五輪塔が建立されていて、地輪の部分に「無縁塔」と刻されています。 自然歩道を進むと標識が見えます。山道をそのまま進めば、「ガーデンミュージアム比叡」の方向に向かいます。西塔に行くには、ドライブウエイの上に架かる橋を渡ります。橋の先の石段の上に見えるのが、「山王院」です。(地図に水色の丸をつけたところ) 駒札の説明に対し、手許の本は、「・・・千手堂(千手観音を安置す)山王院(智証大師の本坊にして、山王神常に影向(えいかう)の地なり)・・・」(資料3)と記しています。この地に少なくとも二堂が併存していたということか、執筆者・秋里籬島の間違いなのか・・・・。いずれにしても、第六祖智証大師円珍がここに住し、千手観音が祀られていたのは事実なのでしょう。「影向」は仏教語で、「仏や菩薩が衆生教化のため、仮の姿でこの世に現れること」(日本語大辞典・講談社)を意味します。とすると、山王神という仮の姿で常に現れていたと人々が信じる位に、厳かな場所と見なされてきたところなのでしょう。ネット検索で調べていて、こんな記述に出会いました。「承和十三年(846)、 三十三歳にして比叡山の大衆に推されて比叡山一山の真言学頭となりますが、 この頃より大師の夢に山王明神が現れ、唐に渡って法を求めるよう勧められることがあり、 ついに仁寿三年(853)、入唐求法の旅へと出発されます。 」(資料4)智証大師の夢に現れたと記される山王明神が秋里の記す「山王神」のことでしょう。 「山王院」の表札の下部には、「本尊千手観世音菩薩」「六祖智証大師円珍御住坊」と記されています。正面に見る蟇股はシンプルで、中央が刳りぬかれたタイプの造形です。頭貫の先端の木鼻もシンプルですが、組物の斗を直接受ける構造になっています。山王院の敷地にいくつかの標識が立っています。手前から順に別に撮った記録写真と対比しますと、「圓教院旧地」「歴史的風土特別保存地区」「元三大師霊場 本覺院 是ヨリ六丁」「法然上人 廿番霊場 黒谷青龍寺 十三丁」というものです。江戸時代に「慈延」という天台僧が居て、円教院住職となったという事例から円教院の存在がかすかに窺えます。(資料5)「本覚院」は西塔地域にあり、現在は「学寮」という名称で、一般公募の修行僧の宿舎となっているようです。若山牧水が「比叡山」というタイトルでエッセイを書いています。青空文庫で公開されていて、比叡山の西塔付近で滞在した経緯を書いています。根本中堂、浄土院、釈迦堂という名称は出て来ますが、本覚院という名称は記されていません。「四方を深い木立に距てられた一軒だちの寺であつた。外見は如何にも壯大な堂宇だが、中に入つて見るとその荒れてゐるのが著しく眼に付く」と表現して居ます。他の情報と重ねると、この宿泊した寺が本覚院で、大正7年5月に滞在しているのです。 比叡山の古りぬる寺の木がくれの庭の筧を聞きつつ眠る 若山牧水 歌集「くろ土」 (資料6)青空文庫の「比叡山」はこちらからご覧ください。またまた脇道にそれてしまいました。宝篋印塔も建立されています。ここから紫色の丸のマークを付けた浄土院を経由し西塔地域に入って行きます。つづく参照資料1) 「世界文化遺産 比叡山延暦寺 諸堂めぐり」 当日拝観の折にいただいたリーフレット2) 奧比叡八景 :「奧比叡ドライブウェイ」3) 『都名所図会 上巻』(安永9年/1780年上梓) 竹村俊則校注 角川文庫 p3644) 智証大師円珍の生涯 :「三井寺」5) 慈延 :コトバンク6) 滋賀県大津市 比叡山延暦寺根本中堂 :「若山牧水」(若山牧水記念文学館) 牧水年譜 :「若山牧水」(若山牧水記念文学館) 歌碑写真 :「山歩き そして 万葉集より抜粋」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺元三慈恵大師の生涯 :「天台宗妙法寺~蕪村寺~」良源 :ウィキペディア円珍 :ウィキペディア延暦寺座主円珍伝 重要文化財 :「e國寶」比叡山延暦寺に学ぶ 地中に水音 仏が宿る水源林 木林(きりん)学のススメ :「京都新聞」比叡山黒谷青龍寺 特別霊場 :「法然上人二十五霊場」青龍寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へ
2017.04.20
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[探訪時期:2015年3月] 坂本駅前の広場に集合して、探訪行程全体について簡単な説明を聞いた後、いよいよ出発です。まずは、道路の反対側にある「生源寺」を訪れます。(地図の赤色の丸のところ、資料1)ここは比叡山延暦寺を開山した伝教大師最澄生誕地と言われるところです。生源寺については、後掲の再録・ご紹介「探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1」でご紹介していますので、ご覧いただけるとうれしいです。重複しない部分をご紹介します。ちょっとマニアックかも・・・・。最澄の生誕については複数の説があるようです。『叡山大師伝』は神護景雲元年(767)8月18日とされていると言います。そこで毎年この日に生源寺では、盛大な誕生会(たんじょうえ)が行われています。本尊が慈覚大師円仁作と伝える木造十一面観音菩薩立像です。ここは、「近江西国三十三所霊場」の第六番となっています。 山門は四脚門側面から眺める蟇股も中央を刳りぬいた簡単な造形のものです。冒頭の画像とこの画像に見えるように頭貫と梁の先端の木鼻はいたってシンプルです。門の様式としては「虹梁蟇股式」に分類できるタイプのようです。(資料2)おもしろいと思うのは、正面からみた門中央の梁が突き出て、その先が両側の梁と同じ形式の木鼻の造形が施されていることです。頭貫と上部の桁との間隔が狭く、この梁で支えることができるためか、山門前面の頭貫の中央に見られる蟇股がなく、扁平な装飾が付けられているだけのように見えます。(門外漢の印象であり、私の誤解かもしれません・・・) 山門を入ると左側に鐘楼があります。屋根の鬼瓦の鬼の頭上には何も載っていません。鐘楼の南、手前には境内社が祀られ、築地塀沿いには、数多くの「供養石仏」が安置されています。「元亀2年(1571)今から約420年前、織田信長の早勢はこの坂本の町も焼き払い、やがて比叡山を目指しました。この地も多くの犠牲者が出て、後世その霊をなぐさめるため、石仏が祀られました。比叡山への登り口にあたる生源寺境内に古くから坂本の人々に大切に拝まれ、祀られてきた石仏です。」(説明板) 生源寺の西隣りは大将軍神社でその西が横小路です。通りの西側「薬樹院」にある秀吉ゆかりの太閤桜が生垣越に咲いていました。そして椿の花も。日吉の馬場と横小路の交差するところに、一回り大きな石の鳥居と「日吉大社」の石標があります。日吉の馬場を横断して、南に向かえば「作り道」を進むことになります。私たち探訪参加者は、横小路から右折して日吉の馬場に添って穴太積みの石垣の前の歩道を西に上っていきます。「作り道」より一筋西にあり、平行して南に向かう道。御殿馬場に繋がる道です。この通りも穴太積みの石垣が続く道で、西側には円教院、瑞応院という塔頭寺院が連なっています。東側の石垣がみえる辺りが隻厳院です。 日吉の馬場の両側は延暦寺の塔頭寺院が続いています。塔頭寺院の門を眺めつつ進めば、朱色の鳥居が見えて来ます。山王さんの総本山、日吉大社の境内への入口です。鳥居の先、山の上には、前回ご紹介した奥宮の一つが見えています。鳥居の左に、「比叡山延暦寺」の石標が立っています。この石標の左の道を登っていきます。(マゼンダ色の丸のところ)その前に、「官幣大社日吉神社」と刻された石標の背後に見えるお堂が「早尾地蔵尊」です。坂本六地蔵の一つなのです。足許を見て気づいたのは、この溝蓋。鉄板の溝蓋に「日吉大社」の文字が盛り上がっています。早尾神社への参道を右に見ながら、、比叡山に登る表参道の入口はしばらく緩やかな奧の深い石段の道です。比叡山高校を左に眺めながら、石段から舗装された坂道を登っていきます。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 道端にこの大きな蛙の石像があるところ。この右手に真っ直ぐの石段が伸びています。石灯籠の背後、緑色の金網の向こう側が石段の坂道です。地図を見ると、南善坊、その上に、五大堂などがあるようです。 街が少し見え始めます。蝶も見かけました。 樹間から、市街地と琵琶湖が見えるようになります。それだけ高度を増したということでしょう。 (地図の青色の丸を付けたルートを登って行きます。) 宝篋印塔が建てられている傍を横に見ながら、さらに登ると、一列に欠損した石仏などが並んで居る少し広い場所で小休止。 その先を行くと、石垣が積まれ、その間に2ヵ所の石段があります。この石垣を回り込んで行くと、かなりの広さの平坦地ができています。今は、小さな御堂が1つ建っているだけです。ここには石仏像が一体祀られていますが、先ほどの石段からズームアップして撮った写真はうまく写っていませんでした。お堂の左にある看板は「慈覚大師御廟」の方向を矢印で示すものです。さらに山道を登って行くと、「法然上人得度御霊場」の石標が立ち、少し下がったところに建物があります。そこが「法然堂」のようです。比叡山東谷です。今回は石標のところを通過するだけになりました。法然上人が比叡山に上ったのは13歳の時で、当時は勢至丸と称されたそうです。源光上人の許で2年間学び、久安3年(1147)4月8日、15歳の時に、東塔の肥後阿闍梨皇円(ひごのあじゃりこうえん)に弟子入りすることになります。この年の11月に得度し(=髪を剃り)、戒壇院で戒を受け、僧となったのです。皇円阿闍梨が居たのが東塔の功徳院で、後に廃絶。その跡地に「法然上人得度旧跡」の石碑が建てられ、昭和7年にその敷地に草堂が建てられて、現在の「法然堂」になったそうです。(資料3) 谷の向こうの山を眺め、途中から急なコンクリート舗装の坂道を登ると鋪装道路に出ました。 その先に、「宿坊 延暦寺会館」があります。右の画像は「平和地蔵尊」の石像ですが比較的最近の建立像のようです。 坂道を少し登ると、「延暦大書院」という駒札の建てられた門があります。平和地蔵尊の背後の石垣の上です。門の左手に、「法然上人得度御霊場 一丁半」の石標が建てられています 大書院前方の急勾配の石段は「文殊楼」への階段です。文殊楼は後で巡ることになります。迂回する形で坂道を登ると、 文殊楼の側面に至る石段が右側に見えて来ます。その先に、「地蔵菩薩坐像石像」があります。坂本の表参道から登ってきた「東塔地域」の入口に到着です。(地図の黄緑色の丸のところ) 地蔵尊像の西側に、「大黒堂」があります。駒札は「出世大黒天堂」として説明されています。伝教大師が根本中堂を建てる折りに、大黒天を守護神として祀ったそうです。大黒天とは、サンスクリット語でマハーカーラ、漢字では摩訶迦羅と音写されます。「三宝を守護し、飲食を司る神で黒色忿怒相を示す。また、戦闘・福徳の神として形象も種々」という神です。最澄が日本では初めて三面大黒を祭ったそうです。「神王形で三面六臂の右手に剣と人髪、左手に剣端と羊皮、また両手で象皮をささげる」というもの。大黒天が七福神の一つになり、現在のイメージになるのは後の時代なのです。(資料4)「比叡山三面大黒天縁起」では、最澄上人が一人の仙人と問答した後、この仙人こそ三面大黒天と思い、自ら三面大黒天像を彫み安置したと伝わるのです。(資料5)延暦寺の探訪をここから行いました。つづく参照資料1) 「探訪 [大地の遺産] 日本仏教の母なる御山を訪ねて-延暦寺-」当日配布資料 滋賀県教育員会 協力:おやじのたまり場2) 鎌倉の古建築(寺院編) 四脚門 :「鎌倉の古建築」3) 法然の足跡 :「浄土宗」4) 『新・仏教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p3425) 比叡山三面大黒、縁起 :「比叡山延暦寺」HP【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺生源寺 :「滋賀・びわ湖」きっと、法然は嫌がっているぞ :「滋賀県観光おすすめスポット」大黒天 :ウィキペディア三面大黒天像のいろいろ 三面大黒天縁起 開運三面大黒天 :「開運山 縁起院 天祥」 三面大黒天の縁日 :「円徳院」 下谷 英信寺 三面大黒天 :「天空仙人わーるど」 木造三面大黒天坐像 :「福島市」 高槻三面大黒天神 :「心豊に 本行寺」 三面大黒天の置物を四天王寺で拝む :「大坂観光usjガイド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -1 日吉の馬場を歩く探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -1 総門、宗祖大師殿 へ これを含めて4回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ これを含めて8回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ これを含めて3回のシリーズでご紹介しています。
2017.04.20
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2015年3月下旬に、滋賀県教育委員会・文化財保護課の企画による 「探訪 [大地の遺産] 日本仏教の母なる御山を訪ねて-延暦寺-」に参加しました。「おやじのたまり場」のメンバーが当日のボランティア・ガイドを引き受けてくださいました。京阪電車・坂本駅前に集合し、坂本と延暦寺をつなぐ表参道にあたる「本坂」を登り、根本中堂から東塔の区域を巡り、再び本坂を下るという探訪会でした。京阪電車の坂本駅起点で、往復総歩行距離約25km、標高差は600mの上り下りというところです。この探訪の復習・整理を兼ねてご紹介していたものを坂本関連として、ここに再録し改めてご紹介します。 これはこの探訪行程の参照地図。当日の配布資料からの引用です。(資料1)この探訪の折に、現在の行政区分でみると、延暦寺が滋賀県に所在するということを改めて認識しました。京都に住んできた私は、子供の頃から京都側から比叡山に登り、延暦寺に行来ましたので、京都の延長線上でしか意識していなかったせいです。延暦寺のホームページを見ると、比叡山延暦寺の所在地は大津市坂本町本町4220なのです。参加するにあたり、JR湖西線比叡山坂本駅から集合場所の京阪電車坂本駅に向かいました。「日吉の馬場」の通りを上っていきます。既に再録してご紹介した記事と多少の重複がありますが、その点ご寛恕ください。この「日吉の馬場」それだけで坂本へのエピローグになります。まずはそこから始めましょう。JR比叡山坂本駅から京阪電車坂本駅までの「日吉の馬場」の通りは、こちらの地図(Mapion)をご覧ください。比叡山坂本駅を下車して、湖西線沿いの国道161号線(西大津バイパス)と日吉の馬場通の交差点(比叡山坂本駅北)北西角の景色が冒頭の写真です。3月下旬。ちょうど桜の花が咲いていました。冒頭に載せた画像ですが、「歴史街道」という表題で、坂本を説明した立派な案内板が設置されています。 日吉の馬場の緩やかな坂道を上り始めると、最初に北側に見えるのが、この門構えです。「養老寿庵」という扁額が門に掛けられています。ちょっと、不思議に感じるのは、右の画像の合掌造りが通りから門の屋根越しに見えることです。今までにも何度かみていますが、今回初めて調べてみました。この建物は「越中(富山県)五箇山利賀谷大勘場にあった<藤井忠治>の民家を移築復元した」そうです。ここには別棟があり、「別棟の不動堂は、同じく五箇山上梨谷柱にあったものを移築した入母屋妻入りの建物で不動明王を安置している」とか。この拝観には予約が必要だそうです。(資料2)門の左手に「不動」という文字が読める石標が建てられています。 門の中を少し拝見すると、元は石の鳥居の柱の下部に使われたものと思えるような石柱に「養老寿庵」の石銘板が嵌め込まれたものと、「比叡山頌」の石碑が面前に見えます。合掌造りの建物の入口には「全国新そば会」という表札が掲げられています。この建物、山本そば製粉さんの所有のようです。時には「そば打ち体験」が催されるそうです。(資料3) 少し先には、通りの南側に「石占井(いしらい)神社」があります。「石の占い井」という不可思議な名称は、この地で石に座した占いの女神が、大己貴大神(おおなむちのおおかみ)の足を井戸で洗い、現在の日吉大社西本宮の地に案内したという故事に由来するそうです。(説明碑より) 日吉大社の境外社です。 祭神は奥津嶋姫神記紀神話に出てくる宗像三女神の一柱(奧津島比売命おきつしまひめのみこと)のことでしょう。 その先には、朱色の鳥居が交差する道の南西角に見えます。「大神門(だいじんもん)神社」です。日吉大社の境外社。この鳥居は日吉の馬場通と交差する南北の通りに東面して建てられています。 日吉の馬場に面して、「左 衣川北国道」と刻された道標が建てられています。この日吉の馬場を湖岸に下って行けば、北国道(=北国海道)に至るのです。現在は西近江路と称されている道路がそれにあたります。西近江路を堅田に至る手前に天神川が琵琶湖に流れ込んでいます。衣川というのは、その川の南側の地域です。かつては現在の湖西線の西に衣川城があったそうです。(資料4) 本殿 祭神は天岩門別神(あめのいわとわけのかみ)説明碑には、「豊岩門命と櫛岩門命の二神を合わせ神」と付記されています。明治初期に「大鳥居社」を「大神門神社」に改名したとか。この神は、「ニニギノミコト(天照大神の孫)が三種の神器のそえた三柱の神の一神」であり、「日吉大社の門を守る神」なのです。(説明碑より) 一間社流造で小さな本殿です。木鼻はシンプルな造形ですが、深い彫り込みがちょっと厳めしさを感じさせます。小規模な境内で、小さな社殿の神社ですが、境内社があります。 この神社のすぐ傍に、日吉神社(現日吉大社)の石の鳥居があります。老大木はムクノキです。鳥居の先に見える黄緑の幟のところが、蓬餅(よもぎもち)で有名な「比叡・三九良」です。黄緑は蓬の色を表しているのでしょうか。白抜きの円に餡が入っているような図柄が3・9・6と並んでいます。三九良、の語呂合わせでしょうか。Thank you, Good !と解してもおもしろいかも・・・・。いつだったか、テレビ番組で採り上げられていたお店だったと記憶します。たまたま見たのです。 その少し先にあるのが、「公人屋敷(旧岡本邸)」です。江戸時代に「公人(くにん)」と呼ばれる人たちが延暦寺に居たのです。僧侶でありながら妻帯と名字帯刀を認められた人たち。その住居の一つがここです。旧状がよく維持された社寺関係の大型民家です。公人は延暦寺の寺領からの年貢や諸役を収納する寺務に携わっていた人々です。かつてはこの坂本に数多くの公人が居たそうです。(資料5,6)「探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ」で屋敷内の探訪内容をご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。このときのシリーズで、ここにご紹介する神社にも触れています。公人屋敷から山手側に、「日吉御田神社」があります。鳥居の手前右に井戸があり、この井戸が信仰の対象となってきたそうです。五穀豊穣を願う農耕祭祀として、田用水となる水への祈願がなされたのでしょう。この神社の旧称は「井神」だと、説明碑に記されています。 旧称が井神だとすると石灯籠には「御田大明神」と刻されていますので、名称変更後に奉納されたものということになりますね。 覆屋の中に納まる一間社流造の小さな本殿。 祭神は水葉女神(みずはのめのかみ)。『古事記』の神代篇には、イザナキとイザナミがまぐわって多くの神を生んだと記されています。その中に、「ゆまりから成り出した神の名は、ミツハノメ」(資料7)とあります。ゆまりとは尿、オシッコのことなのですが、この神が農耕・川の守護神なのです。「弥都波能売神(みずはのめのかみ)」という漢字が当てはめられていて、灌漑用水を掌る神とも説明されています。(資料8)ここの神社の祭神は漢字は異なりますが、この神と同一なのでしょう。 ここの頭貫は上掲の大神門神社のものと類似の造形ですが、木鼻がよりシンプルなデザインのように思います。対比してみてください。一方、こちらにはシンプルな蟇股が頭貫の中央上部に付けられています。大神門神社には蟇股がありませんでした。 覆屋・本殿の東隣りにあるのは神輿の保管庫でしょうか。表示はありません。屋根の下の束の両側面の飾り部分の意匠がめずらしい気がします。あまり見かけたことがない形のように思います。 探訪会の集合場所である京阪電車坂本駅の前の広場横に、日吉の馬場に面してあるのが、「日吉茶園」です。朱塗りの垣根には「裏千家」「表千家」の文字が左右の角柱にそれぞれ記されています。垣根の奉納に関与されているのでしょう。現在は約110平方メートルの茶園が残っていて、約20本の木が植わっているそうです。 駒札にはこう記されています。「比叡山の開祖伝教大師最澄が入唐求法の際に、天台山で茶の実を得て帰国のときに持ち帰り、比叡山麓坂本の地に蒔かれたのが、この日吉茶園で、最澄が日本に初めて茶を伝えたと言われており、日本の茶の発祥地はここ大津坂本である。 延暦二十四年(805)最澄とともに唐から帰国した僧永忠が、弘仁六年(815)梵釈寺で嵯峨天皇に初めて煎茶を献じた記録もある。 現在も、毎年四月の日吉大社祭礼の際、ここの茶を摘み神輿に献じており、また、六月に厳修される延暦寺浄土院での長講会にも当園の新茶を供える行事が行われている」と。垣根の右側内には大正10年3月に建立された石碑が立っています。通りを挟み、反対側(北)には「坂本観光案内所」があります。 前の広場の一隅にはこのレリーフが置かれています。 また、広場から、道路脇を流れ下る小川の先、山の上の方を遠望すると、八王子山の山頂に奥宮二社が見えます。懸崖造(けんがいづくり:山肌に張りつくような建物)の牛尾神社本殿と拝殿(右)、三宮神社本殿と拝殿です。ここに行くには急な坂を850mほど登る必要があるとのことです。(資料6) 集合時刻が近づくと、この坂本駅前に参加者が揃いました。いよいよ坂本からの比叡山、表参道からの山登り開始です。つづく参照資料1) 「探訪 [大地の遺産] 日本仏教の母なる御山を訪ねて-延暦寺-」当日配布資料 滋賀県教育員会 協力:おやじのたまり場2) 坂本観光協会加盟一覧&リンク3) 広報 おおつ 通巻1274号4) 近江・衣川城 :「城郭放浪記」 近江 衣川城 :「近江の城郭」5)「びわ湖大津 光ルくんマップ」 びわ湖大津観光協会6) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p267) 『口語訳 古事記 [完全版] 』 三浦佑之 訳・注釈 文藝春秋 p24 8) 『古事記(上) 全訳注』 次田真幸著 講談社学術文庫 p54【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺天台宗総本山 比叡山延暦寺 ホームページ養老寿庵門前橋 :「田舎暮らしdeほっ!」西近江路 :ウィキペディア西近江路を歩く 1 (大津市~海津町) :「れきし街道歩き旅」日吉社神道秘密記 :「国文学研究資料館」(電子資料館) 9/全25コマ目に、大神門社、井神の記載があります。茶摘祭を行いました 2013-05-03 :日吉大社公式ブログ「日々よし」日吉茶園 :「小林製茶有限会社」 日吉茶園の少し前の景色の写真を見つけました。以前はこんなふうだったのです。 こういう記録写真も残されていて、見られるのはいいですね。茶の伝来と日本の茶(茶の種類、茶の成分) :「膳所 冨永園茶舗」茶史 年譜版 :「茶房利休」大津市坂本・史跡探訪 :「青山ろまん派ダジャレワールド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -2 生源寺、本坂(坂本からの表参道)を登る へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -3 萬拝堂、東塔地域を通過し山王院まで へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -4 浄土院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -5 常行堂・法華堂・恵亮堂・西塔政所・釈迦堂ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -6 東塔地域:阿弥陀堂・東塔・戒壇院 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -7 東堂地域:大講堂・根本中堂・伝教大師童形像ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -8 東塔地域:文殊楼 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -9 本坂からの遠望・早尾地蔵尊・律院ほか へ探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本本坂から比叡山延暦寺へ -10 坂本の里坊門前の眺め・白鬚大明神ほか へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -1 総門、宗祖大師殿 へ これを含めて4回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ これを含めて8回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ これを含めて3回のシリーズでご紹介しています。
2017.04.20
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本坊 [探訪時期:2013年11月]本堂を拝観してから、本坊の方に回りました。こちらに拝観受付所があったのです。本坊の玄関脇に「明智光秀展」という立看板の表示も出ていました。客殿や庭も拝見したいので、拝観することにしました。 本坊は、案内図に赤丸を追記したところです。青色は後でご紹介する「鐘楼」のあるところです。明智光秀展は書院の建物の中の各室を展示室にして、「大本坊」の駒札にも記載されている「天正年中明智公所造之古木」と彫られた古材、明智左馬之助が琵琶湖を馬で渡った時の鞍そのほか様々な遺品や光秀関連の寺院、供養塔などのパネル写真などが展示されていました。写真撮影は禁止されていましたので、庭や室内風景などのご紹介ができなくて残念です。書院の南側、客殿との間の庭が拝観ルートで最初に見る庭で、「穴太衆庭園」だとか。穴太様式の庭園というのは初めて拝見する庭でした。客殿建物の西側、裏山の急傾斜を利用した客殿庭園は、小堀遠州作の観賞庭園です。庭の中央に瓢型の池泉があり、丸刈角刈に樹木を刈込み、石組や灯籠が配されています。山の斜面を巧みに利用し、落ち着いた雰囲気の庭です。書院の北側には近年に作庭された庭園が見られます。拝観の途中、書院一室の展示から西教寺がかつて京都にあった法勝(ほっしょう)寺を合併継承しているということを知りました。法勝寺は現在の岡崎公園・動物園のある地域、白河と称された場所です。藤原氏の別荘(白河別業)の地を藤原師実が白河天皇に献上し、白河天皇が法勝寺を創建するのです。その後、この辺り一帯に六勝寺と称されるように、次々と「勝」の一字を含む寺名のお寺が建立されていきます。法勝寺はその嚆矢であり最大の規模だったそうです。しかし、時移り、火災、兵乱などで、お寺は衰退していきます。法勝寺は、「1571年(元亀2年)に法勝寺領押領を禁じる綸旨が出されたのを最後に記録から姿を消す」状況になり、事実上の廃寺になっていったようです。「て天正18年(1590年)に勅命によって同じ円観門流に属していた近江国坂本西教寺に併合され」るという結果になったそうです。(資料1)つまり、「、後陽成天皇は綸旨を発し、応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた京都・岡崎の法勝寺をその末寺である西教寺に合併させることとした。法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、法勝寺伝来の仏像、仏具等も西教寺に移された。」という次第です。秘仏・薬師如来坐像は法勝寺からの継承された遺物だとか。(資料2) 書院から回廊づたいに改めて本堂拝観に行く途中で、見たのがこれです。「兼法勝西教寺」という石標と駒札です。拝観を終え本坊を出てから、回廊の一部が反り橋状に作られているところの下をくぐって、この場所の前に行きました。左奥の建物が客殿です。冒頭の画像の本坊正面の左側に石灯籠が見えます。石灯籠から左側に向かう廊下の状態をご覧ください。境内をも少しご紹介しましょう。水屋側から見ると、茶所、納骨堂、鐘楼と並ぶ建物の前を通って、本坊に向かうことになります。 鐘楼は残念ながら中を拝見できません。 おもしろいのは、下部の袴腰の上、高欄の下部分の蟇股のところに、様々な姿態の猿がぐるりと彫刻されていることです。書院での展示パネルにこの拡大写真が展示されていました。パネル写真を見たので撮ってみましたが、夕刻になってきており、あまり良く撮れませんでした。まさに護猿が境内のあちらこちらの建物にたくさん彫刻されています。 「茶所」は休憩所の建物ですが、中央に観世音菩薩立像が安置されています。 そして、この建物の前には龍の頭部が建てられています。「昇龍」を意味するそうです。境内には大きな宝篋印塔がいくつか建てられています。 聖衆来迎阿弥陀仏二十五菩薩像に向かって左端の手前にこの二基。右端の手前には菩提樹がありますが、客殿に向かう途中にももう一基。 その傍に建てられているのがこの像です。算盤を手にしたお地蔵さま。この西教寺には江戸時代の旗本で長崎奉行を勤めた長谷川藤広の墓所があるそうです。 (気づきませんでした。またの機会に探訪し拝見したいと思います。)この人は「大津そろばん」の元祖なのだとか。それで珠算連盟大津支部の方が、このそろばん地蔵を奉納されたそうです(資料3)。大津算盤自体は、長谷川藤広に随行して長崎に行った片岡庄兵衛が、その命を受けて、工夫研究して生み出したもののようです(資料4)。興味を持って調べてみると、いろいろとわかってきておもしろいものです。 平成に建立された十三重石塔も建てられています。 収蔵庫の手前に「波心庭」というのも平成の作庭です。研修道場の方に足を向けて見ました。 門をくぐって左手を見ると、3体のかわいい石像があります。「念仏小僧」です。なかなかおもしろい。その先には、小さな羅漢像の集団です。そして、さらに3体の石像です。「羅漢さんと説法石」という駒札が建てられています。 研修道場側から見た門このあと、再び総門への参道に戻って、西教寺を後にしました。 これで西教寺の再録によるご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 法勝寺 :ウィキペディア 2) 西教寺 :ウィキペディア 3) そろばんを持ったお地蔵さん 西教寺 :「紅若バスのブログ」 4) 大津算盤 大津の歴史事典 :「大津市歴史博物館」 大津算盤 :「走り井餅本家」 歴史散歩 そろばんの元祖 大津算盤 :「西近江しんぶん」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺法勝寺の模型 戒牒 :ウィキペディア 宝篋印塔 :ウィキペディア 長谷川藤広 :ウィキペディア 大津算盤 :ウィキペディア 羅漢 :「コトバンク」 五百羅漢について :「羅漢寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -1 総門、宗祖大師殿 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -2 明智光秀塔、聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像、芭蕉句碑ほか へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -3 真盛上人廟、客殿、本堂 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ これを含めて8回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ これを含めて3回のシリーズでご紹介しています。
2017.04.19
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[探訪時期:2013年11月]宗祖大師堂の築地塀北側の先に、西方向への石段があります。境内図の石段の箇所に赤丸を追記しました(資料1)。ここを上がると、「水屋」があり、その右手斜め前方に「本堂」が見えます。探訪の第一目的は、明智光秀塔ですので、本堂を右手に見ながら西の方に境内を横切っていきます。 紅葉がきれいです。水屋の近くから石段を振り返ってみた景色です。 前方に「聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像」が見え、 その両側に探訪対象の墓石があるのです。阿弥陀如来二十五菩薩来迎像に向かって右側にまず訪ねたかったお墓があります。 この画像の右端です。 「明智光秀塔」「明智日向守光秀とその一族の墓」と墓石の傍には記されています。 元亀2年(1571)9月12日に織田信長が比叡山を焼き討ちにします。そのとき西教寺も災禍を被ったそうです。『信長公記』は9月12日の条に、「数千の屍算を乱し、哀れなる仕合わせなり。年来の御胸朦を散ぜられ訖(おわ)んぬ。さて、志賀郡、明智十兵衛に下され、坂本に在地候ひしなり」と記しています。(資料2)焼き討ちの直後に、信長は坂本を光秀に任せたのです。そこで光秀は坂本城を水城として縄張り図を構想するのです。琵琶湖の東西南北の要衝地には水城が築かれることになります。それは信長の構想だったのでしょう。湖東の安土城に対し、湖北に長浜城、湖西に大溝城、そして南は坂本城です。光秀はこの西教寺の檀徒となり、この寺の復興に力を注いだのです。天正年間に大本坊を再建しています。書院を拝観した際に、明智光秀展として「天正年中明智公所造古木」というのが展示されていました。鐘楼堂内の鐘は非公開になっていて見られませんが、明智光秀の寄進した坂本城陣鐘だとか。(資料1) この明智光秀塔のすぐ近くに、新たに光秀の辞世句碑が建立されています。 単独では撮りませんでしたので部分拡大してみました。二十五菩薩群像の左端の傍、少し低めの位置に、光秀の妻であった熈子の墓があります。 近くに駒札が立てられています。 そして、少し離れた石垣の傍に、明智光秀の妻・熈子を詠んだ句碑が建立されています。光秀夫妻が流浪中に、妻の熈子が己の髪を切り、髪の毛を売ったお金で光秀の武士としての有り様を支えたことがあったという逸話があるそうです。この句碑の傍に、少し読みづらいですが、「明智が妻」という題で、芭蕉が記したという句文が引用されています。伊勢の門弟山田又玄の妻のために贈ったとのこと。手許の『芭蕉俳句集』を見ると、「月さびよ明智が妻の咄(はな)しせむ」という句の前書を次のように載せています。(資料3) 「伊勢の国又玄(いうげん)が宅へとどめられ侍る比(ころ)、その妻男の心にひとしく、もの毎(事)にまめやかに見えければ、旅の心をやすくし侍りぬ。彼日向守(かのひゅうがのかみ)の妻、髪を切て席(むしろ)をまうけられし心ばせ、今更申出で(いまさらまうしいで)」この句は「勧進牒」に載っている句ですが、「芭蕉庵小文庫」には、 月さびて明智が妻の咄せむという句として載っているようです。句碑近くに、「濃州妻木明智一族供養塔」が建立されています。 聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像をいくつかの組みに分けて撮ってみました。 墓地への入口近くに「戦国武将に仕えた人達の墓」という案内板があります。拝観後に墓地内での所在を探訪したのですが、駒札がありわかったものをご紹介しておきましょう。 前田菊子の墓(前田利家の六女) 橘長後の墓傍近くに行きながら、明確に識別できないのがあります。また機会があれば、再訪してみたいと思います。つづく参照資料1) 拝観時にいただいた「西教寺」のリーフレット2)『信長公記』 大田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社3)『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 p204-205【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺明智氏 :ウィキペディア 明智光秀と妻 :「楽苦我喜情報館」 妻木熈子 :ウィキペディア 「黒髪を売った話」の真偽 :「武士の館」妻木城 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -1 総門、宗祖大師殿 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -3 真盛上人廟、客殿、本堂 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -4 本坊、鐘楼、茶所、境内細見 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ これを含めて8回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ これを含めて3回のシリーズでご紹介しています。
2017.04.19
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これは西教寺の総門。西教寺は天台真盛宗の総本山です。天台真盛宗という宗派を、私は琵琶湖・湖西の史跡探訪に参加したときに初めて知りました。月曜日(2013.11.18)の午後、ふらと坂本の西教寺を訪ねてみました。その再録によるご紹介です。坂本近辺の史跡探訪は、既に再録させていただいた通り、幾度か機会がありました。しかし、西教寺は日吉大社から1km余北に離れているため機会がなかったのです。西教寺を訪ねてみたいということと、この境内に祀られている明智光秀塔を拝見したいということが目的です。この日、天気も良く、全くフリーな半日でしたので、思いつきで出かけた次第です。予想どおり、観光客は1グループの団体さんと数人規模の観光客数組を境内で見ただけでした。午後も3時近くなっていたのでそういうタイミングになるのでしょうか。お陰で静かな紅葉した境内を散策しながら写真を撮ることもできました。 左の石標にあるとおり、西教寺は明智光秀とその一族の菩提寺なのです。西教寺の総門は、門前傍に建てられている駒札によると、高さ6.4m、幅5.6m。「この総門は天正年間に坂本城主明智光秀が、坂本城門を移築したと伝えられている城門で、昭和59年に老朽化が進み修理が加えられたが、形はそのままの姿で復元をしたものである。」(駒札より)西教寺の境内は自由に拝見でき、本堂も自由に拝見できます。本坊や客殿内を拝見するには、本坊の拝観受付所で拝観料が必要です。明智光秀展をしているとの看板が出ていましたので、本堂を拝見した後でしたが、改めて、本坊、庭、客殿、本堂を巡回して拝観しました。明智光秀展は本坊に展示がありました。これが拝観の折にいただいたリーフレット(四つ折り)の表紙と裏。開くと、境内図と西教寺縁起が略記されています。境内図を部分拡大したものです。位置関係をご理解いただくために、西教寺のご紹介を兼ねて借用します。総門は東に向いています。 総門の北側には、沢庵禅師の漢詩碑があります。 南側には、「第39回全日本仏教徒滋賀大会」の記念碑が大会テーマを刻して建立されています。総門に向かって左側(南)に今年の絵馬の写真を載せ「西教寺と護猿(ござる)の由来」が記された看板が立て掛けてあります。 絵馬と由来記を拡大してみました。 駐車場に掲示の同じ由来記説明板にある絵この絵のような木像が本堂に安置されています。 総門を入ると、西方向に真っ直ぐで緩やかな坂道の参道です。紅葉がきれいです。参道の両脇には子院が並んでいます。参道は勅使門の前に至ります。 その左手前にこの寺標石柱が建立されています。左手の石段を上っていくと正面には、宗祖大師殿の建物、右折すると本堂に向かう石段です。勅使門に向かって右手方向に右折していく先には、山門が見えます。後ほど行ってみたのですが、その先が研修道場の建物でした。勅使門の南側、一段高くなった敷地の北側端にこの堂があります。東側を眺めると、琵琶湖が広がっています。湖東の対岸の先に、三上山が遠望できます。 門扉には寺紋が刻されています。宗祖大師殿は築地塀に囲まれて独立した一角です。北側に脇門とでも呼ぶのでしょうか、北門があります。この画像は大師殿の前庭側から北方向を眺めたものです。 前庭には、宝珠丸立像が建立されています。宝珠丸とは、宗祖真盛上人の幼名なのです。駒札には、真盛上人は紀貫之の末裔で1443年正月28日のお生まれで、母が地蔵菩薩から宝珠を授かったと夢みて上人をみごもったという伝えがあるそうです。前庭に橘の木が記念植樹されています。南端には、いくつもの回忌法要の記念石碑が建てられています。 大師殿建物の北側を西の端に行って見ると、本堂のある境内敷地の高さがよくわかり、その見事な石垣が見えます。大師堂の正面の門を前庭から眺めると、その先には琵琶湖と三上山が遠望出来ます。山門を額に見立てた風景画の趣です。 正面の門の傍の屋根に、護猿が坐っています。 正面の門を出て、しばし琵琶湖を眺めました。 駐車場のところにある説明板です。つづく【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺西教寺 ホームページ 真盛上人と「十念名号」 :「歴史の情報蔵」(三重県・県史編さん班) 真盛 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -2 明智光秀塔、聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像、芭蕉句碑ほか へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -3 真盛上人廟、客殿、本堂 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 坂本の秋・西教寺 -4 本坊、鐘楼、茶所、境内細見 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ これを含めて8回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ これを含めて3回のシリーズでご紹介しています。
2017.04.17
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[探訪時期:2014年2月]京都の多くの寺が兵火、火災・震災あるいは豊臣秀吉の都市改造計画により様々に寺地の移転を繰り返してきました。現在、京都の左京区浄土寺真如町、神楽岡の東南にある通称「真如堂」として有名なお寺もその一つだったというのを、私はこの探訪で知ったのです。前回ご紹介した「盛安寺」から少し南に、この宝光寺が所在します。 石標の冒頭に「元真如堂」と。 ここが一時期真如堂が移転してきていたところだったのです。真如堂の正式な寺名は「真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)」です。天台宗。「応仁2年(1468)8月3日、戦乱を避けて比叡山西塔黒谷青龍寺に本尊が移されたのですが、参詣に不便なことから、文明2年(1470)3月15日「穴太真如堂」を建立し、宝光寺と名付け、文明16年までこの地にあった」(資料1)のです。つまり、その後は「宝光寺」として現在の寺が存続してきたということになります。 山門から境内を拝見しました。右斜め前方が本堂です。 北方向をズームアップしてみますと、覆屋の中に六地蔵菩薩石像が安置され、その右隣に「南無阿弥陀仏」の名号碑が見えます。「利劔名號」と称されるものでしょう。独特の書体です。京都の百万遍知恩寺を訪れたときに境内で石碑を見ました。百万遍知恩寺には後醍醐天皇から下賜されたという「弘法大師御作の大利剣名号軸」を所蔵されていて、法会の際に掲げられるのです。こちらをご覧ください。(資料2) ここは、一時期ここに真如堂が移されていたという説明で通過しました。後で少し調べて見ました。当日入手の資料と手許の本その他を併せ読みすると以下のようになります。天長年間の頃 志賀郡苗鹿明神が慈覚大師に対面し明神の秘木(栢の木)を与える 住坊に移したこの木から毎夜光明が漏れるので、大師が打ち裂いた。 1片には座像仏、1片には立像仏があった。 この像が、後に日吉社念仏堂の本尊となる。 その後、霊地を窺い求めて、仏像は叡山常行堂に安置される。 (資料1)平安時代・永観2年(984) 一条天皇の母、東三条女院(藤原詮子)の御願いにより、比叡山の戒算上人が もと延暦寺常行堂安置の阿弥陀如来像を東三条女院の離宮(神楽岡の東)に移す。 正暦3年(992)離宮をあらためて一宇の堂を営む。その地を 「仏法有縁真正極楽の霊地に因んで真正極楽寺と名付けたといわれる」(資料3) 正暦5年(994)一条天皇が母后の離宮を寄付され勅願所となる。 応仁の兵乱で荒廃する。 この後、真如堂は上記の経緯を辿る。文明16年は西暦1484年、室町時代の中期です。現在の地に真如堂が再建されたのが元禄6年(1693)です。元禄文化、德川綱吉の時代です。その間の200年間は幾度か寺地を変えたということだけしかわかりません。新しい地に真如堂が建立された一方で、神楽岡の地には念仏堂が建てられ「元真如堂」と称されたそうです。天保14年(1843)に黙旨尼により「換骨堂」と改め、曹洞宗の寺として再興されたと伝えられているそうです。それが現在の「換骨堂(元真如堂)」ということになります。(資料2) 元真如堂は何ヵ所か存在することになります。脇道が長くなりました。ルートに戻りましょう。 途中に小祠や石薬師堂があります。お堂の傍には石仏群も。石薬師堂には鎌倉時代の薬師如来の石仏が安置されているそうです。(資料5)そして、「高穴穂神社」に至ります。参道先に石段と拝殿が見えます。 玉垣を回らした社殿 本殿の左右に小祠が祀られています。祭神は景行天皇です。配祀神が住吉神(上筒男神 中筒男神 下筒男神) 、事代主神です。(資料4)この神社、『輿地志略』には禅納大明神社と記載されていると言います。(資料6)神社の背後の地あたりに「高穴穂宮」があったとされているのです。この近くに「高穴穂宮跡碑」の石碑が1926(大正15)年10月に建立されているようです。「表の文字は元帥東郷平八郎で、裏の由来記は従四位勲四等高橋安雄の筆である」と言います。(資料6) (探訪スケジュールの時間の関係で確認できませんでした。)『日本書紀 上』の景行天皇の条に、「58年春2月11日、近江国においでになり、志賀の地にお住みになること3年であった。これを高穴穂宮という。60年冬11月7日、天皇は高穴穂宮でお亡くなりになった。年106歳であった」と記されています。一方、『古事記』の人代篇其の三には、「ワカタラシヒコの大君は、近淡海の志賀の高穴穂の宮に坐して、天の下を治めたもうた」と記されています。ワカタラシヒコとは第13代成務天皇のことです。景行天皇の子で、ヤマトタケルとは腹違いの兄弟となります。また、『国造本紀』にも「志賀高穴穂朝御世」と記されているそうです。このように文献史料には名称がでてきますが、これまでに宮にかかわる遺跡・遺物は発見されていないようです。つまり、伝承の域を脱していないようです。(資料5,6,7)探訪していませんが、近くには「穴太廃寺跡」もあり、謎とロマンが残る地域です。神社から少し先に、小祠が道路の左側に祀られています。どこにでもありそうな小祠。 その背後に、なんと、第12代将軍・足利義晴の供養塔が、それも小さな供養塔が設置されているのです。よほどの好事家でないかぎり、案内がなければ気づかないことでしょう。私は足利義晴がこの穴太で病死したということすら、この探訪会まで知りませんでした。病死の時期に諸説あるのかもしれません。入手資料には、「永正8年(1511)近江岡山城(水茎岡山城)に生まれ、第12代将軍となった足利義晴が天文19年(1550)5月4日朝8時頃穴太で病死した。死因は悪性の『水腫』享年40歳。近江で生まれ、近江で死んだ波瀾万丈の人生を送った将軍である」とあります。花崗岩製の圭頭型板碑に三尊種子と「頼珍逆修」と刻まれた逆修塔です。『近江国滋賀郡誌』には、これが義晴の墓と紹介されているといいます。「逆修」というのは生きている間に自分の死後に対してまたは自分より若くして亡くなった者(子や孫など)に対して冥福を祈る法要のことです。逆修善・逆修法会です。(資料1)ここが今回の探訪会の最終地です。明良地蔵のご紹介の際に触れていますが、坂本六地蔵の一つ、「穴太地蔵」です。穴太の三叉路辻に建つお堂です。 背後に見えるのは西大津バイパスです。 JR湖西線はもう少し湖岸よりになり、最寄り駅は「唐崎駅」です。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 「まわり地蔵」「延命地蔵」ともいわれています。JR唐崎駅や京阪電車穴太駅から近いので便利もいいところです。進学や就職の進路に悩む人の祈願が多いのでしょうか。三叉路という立地がなせる信仰心との結びつきでしょうか。進路を教える地蔵として多くの祈願者が訪れるとか。「村の入口にあたることから病気や災難が入ってこないように守っているともいわれてきた」(資料1)そうです。ここで現地解散。JR唐崎駅のプラットホームから、列車が来るまで、そよ風を感じながら三上山をしばらく眺めていました。ながながと探訪記をまたまた書き込んでしまいました。一度現地をお訪ねいただくための材料になれば幸いです。なにせやはり「百聞は一見に如かず」ですから・・・・・。ただ最近思うことは、「一見」のための情報が大事だなということです。「見れども見えず」にならないために。一方で「とらわれることなく見る」こと。この2つをどう両立させるか・・・・私には尽きない課題が横たわっています。ご一読ありがとうございます。参照資料1)「第4回元亀争乱を歩く~坂本・穴太」 (連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」 当日配布資料) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・大津市教育委員会2) 百万遍知恩寺 ホームページ 3) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p125-1314) 高穴穂神社 :「滋賀県神社庁」 5) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 山川出版社 p67-686)『滋賀県の地名 日本歴史地名大系25』 平凡社 p2137) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟著 講談社学術文庫 p175 『口語訳 古事記 [完全版]』 訳・注 三浦佑之著 文藝春秋 p215【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺利劔名號軸の石碑 百萬遍知恩寺 :「twipic」 高穴穂神社 :「大津市歴史博物館」穴太廃寺跡 学習シート No.16 滋賀県・文化財保護課逆修 :「weblio辞書」法要 :ウィキペディア 足利義晴 :「コトバンク」 足利義晴 :ウィキペディア 穴太地蔵 :「滋賀県観光情報」 滋賀県・大津市 坂本の六地蔵巡り :「お祓い堂」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴?そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -5 公人屋敷でみた雛人形展 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -6 日吉そば、榊宮神社、権現馬場、無動寺口、観音菩薩石像 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -7 穴太・盛安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.16
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[探訪時期:2014年2月]無動寺口から作道を南にどんどん下っていくと、京阪電車「穴太駅」から徒歩5分くらいに位置する「盛安寺」に至ります。街道沿いに野面積みのみごとな石垣が目に入りますので、すぐわかります。拝観した時にいただいたリーフレットでまず寺域の配置をご理解ください。写真の上が北ですので、街道は写真の「太鼓楼」の右(東)側に沿って北から南に下っています。 北から石垣沿いに行くと、上掲境内図の太鼓楼の北に見える石段の上が山門(表門)です。天台真盛宗の瑞應山法王院盛安寺です。文明年間(1469~87)に越前の朝倉貞景の家臣杉若盛安が、西教寺の僧真盛に帰依し、廃寺を再興して自分の名前を寺名にしたと伝えられています。境内の案内板には「文明18年に再建しました」という記載があります。この盛安寺は元亀2年に比叡山焼き討ちの兵火に遭い焼失、明智光秀が再興しますが、その後再び兵火で焼失。慶安5年(1652)に再建され、現在に至るのです。野面積みのみごとな石垣は、粟田万喜三氏による昭和の石積みが大半だといいます。時代の変遷を経た修復ということでしょうか。(資料1,2)表門を入り、右方向には庫裏が見えます。庫裏へ通じる庭景色探訪メンバーは左手に歩み、南面する本堂の正面側に回りこみます。 本堂前の境内から東を見た眺め。比叡山が見えます。板碑が何かは不詳ですが、その右の石碑には種子と「南無阿称陀佛」の名号が刻されています。 石灯籠の左側にあるのが「明智光秀公供養塔」 覆屋があり、三界諸霊と刻された台座の上に蓮華座に坐る石仏像が建立されています。帽子と衣は信心のなせることでしょう。三界とは「生死流転する迷いの世界を3段階に分けたもので、欲界・色界・無色界の3」を意味しています。勿論、欲・色・無色というのは仏教での概念です。(資料3)右の画像のこの浮彫の石仏もいいですね。近くには六躰地蔵尊も祀られています。 本堂(正面)本堂の東隣りに、伏見城の遺材で建てられたという客殿があります。本堂と客殿の間の手前に駒札がまとめて建てられています。本堂に関する駒札が、上掲の画像です。 本堂内陣 本尊は阿弥陀如来座像 本堂の外縁から客殿屋根の東に見た山容の景色外縁から渡り廊下を経て客殿へ 本堂と客殿の間の中庭。左が北方向、右が南方向です。 盛安寺客主殿 ここが上座の間なのでしょう。障壁画は長谷川派と推定される絵師により漢の文帝「露台惜費」の故事を描かれた作品だそうです。 二の間には花鳥図が同じく長谷川派によって描かれています。 この客殿は南面入母屋造・北面切妻造・桟瓦葺で7室に分かれた書院です。客殿にある仏間には、「片袖の阿弥陀」(袈裟を偏袒右肩に着ける姿)が祀られています。快慶の確立した作風=安阿弥様の系列にある像と考えられるとのこと。 駒札のある場所から見上げた屋根の鬼瓦 龍を象った鬼板が目に止まりました。 本堂の東側で見た宝篋印塔私には相輪の下の隅飾突起の形状・開き具合がちょっと珍しく感じられた石塔です。 境内には二階建ての太鼓楼があります。右の画像は門前近くで見上げた太鼓楼壁には、「明智公顕彰 佛の城太鼓楼 法王院盛安寺」と記された駒札が柱に懸けてあります。階上には天井から吊された和太鼓。「明智公陣太鼓」と太く墨書した標札と由緒書らしきものが額に納められて懸けられています。太鼓に張られた革はまだ新しいもののように感じるのですが・・・・修復されたものでしょうか? 拝観時に入手のリーフレットには、「天正年間ある夜、当時の『暁の鼓』(夜明けを知らせる太鼓)を打って敵の急襲を知らせた恩賞として、光秀公より庄田八石(太鼓田)を賜る」と説明が記されています。 最後に観音堂(大悲殿)を拝見しました。ここに、崇福寺の遺物と伝えられる十一面観音立像が安置されています。重文で平安時代の作。檜の一木作り、像髙179cm。十一面四臂というのは珍しい形式であり、錫杖を持つ大和長谷寺式の観音だそうです。この十一面観音は井上靖の小説『星と祭り』に登場するそうです。そのうちに読んでみたいと思います。どういう形で登場するのか・・・・。(資料1) 崇福寺は滋賀里から八幡神社傍を通り、百穴古墳を経由して、谷川沿いに登っていった山上から山腹にかけて伽藍が築かれていたお寺です。かつて一度訪れたことがあります。大津宮への遷都の翌年・天智7年(668)に信託をうけた天皇が建立したと伝わります。平安時代には東大寺・興福寺とともに十大寺に数えられていたお寺です。 盛安寺を後にして、数ヵ所の探訪を残すだけとなりました。 つづく参照資料1)「第4回元亀争乱を歩く~坂本・穴太」 (連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」 当日配布資料) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・大津市教育委員会2) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 山川出版社 p65,66,683) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p199【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺真盛 :ウィキペディア真盛上人と「十念名号」 歴史の情報蔵 :「三重県」天台真盛派 『福井県史』通史編盛安寺庭園 滋賀県文化財学習シート No.092 滋賀県・文化財保護課通肩と偏袒右肩 :「Flying Deity Tobifudo」 袈裟 :ウィキペディア 文史漫談:漢文帝露台惜費/漢の文帝は楼閣の建造費用を惜しんだ(日本語/中国語) :「看中国 VinaWatching」遊行する救済者長谷観音 錫杖を持つ本尊の謎に迫る :「観仏三昧」 長谷寺の十一面観音さま :「うましうるわし奈良」(JR東海)湖北の物語 ;「川柳&ウォーク」 井上靖の『星と祭り』に出てくるという十一面観音像の関係について、湖北の視点で感想が記されています。崇福寺跡 滋賀県文化財学習シート No.005 滋賀県・文化財保護課 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴?そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -5 公人屋敷でみた雛人形展 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -6 日吉そば、榊宮神社、権現馬場、無動寺口、観音菩薩石像 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.16
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[探訪時期:2014年2月]坂本市民センター近くの木の傍に、この説明柱があります。坂本は比叡山の坂の麓であることからつけられた地名といわれ、延暦寺や日吉大社と深いつながりを持ってきたと説明しています。これを読んで再認識したのですが、現在の地名では「さか」について坂本と下阪本という風に異なる文字を宛てているのです。 地図(Mapion)はこちらからご覧ください。探訪会当日の資料では、鎌倉・江戸時代の地図が掲載されていますが、「坂本・下坂本」の表記で同じ文字が使われています。(資料1)上代、このあたりは大友郷であり、土地の人々は現在の比叡山を「ひえ」と呼び、最澄の誕生よりずっと早くから「ひえ」をまつる祠や寺があり、『古事記』上に、近江の国日枝山に、大山咋神(おおやまくいのかみ)が鎮座していると司馬遼太郎氏(以下、敬称略)がそのエッセイに書いています。そして、天智天皇7年(668)に大和の三輪山の祭神大己貴神(おおなむちのかみ)が天皇の意志で勧請されて、ひえの神は二柱になったそうです。「最澄の少年時代にはすでにひえの神はまつられ、簡単な殿舎や神主もいたらしいことは、諸記によって十分想像できる」「もっとも最澄のうまれた坂本という土地の名は、叡山がさかえてからできた地名である。ときには阪本とも書かれる。」と。そして、「『ひえ』は平安朝に入って、『比叡』の文字があてられるようになり、その字音にひきずられて『ひえい』と呼ばれるようになった」と。(資料2)午後は「元亀争乱を歩く~坂本・穴太」の講義を聴講した後、いよいよ探訪後半に入ります。目にとまったのがこれです。一つは、天保年間の町並の図です。司馬遼太郎はこの図の「井神通り」が平安期の文章には「作道」と記されていたと書き、「ただし、この参道から枝わかれして理性院にいたる道のほうを、いまはツクリミチと呼んでいる」と付記しています。つまりこの図では縦の通りにあたります。権現馬場という表記の上方に理性院が明記されているのがおわかりでしょう。理性院も里坊の一つです。もうひとつが坂本についての説明板です。「比叡山延暦寺の門前町、お茶のふるさと坂本、山王祭」という3項目で説明されています。 北西角にあるのが、現在は坂本名物「日吉そば」のお店。天保時代の町並図によれば、「表具屋喜右衛門(宿屋)」だった場所です。司馬遼太郎は「そば」という文の中で、既にご紹介した「鶴㐂そば」と間違ってこの店に入り、「ここは鶴喜ですか、とわかりきったことをきいた」、「日吉そばに対して失礼なことをしてしまった」というエピソードを書き込んでいます。その一文で、「日吉そば」について次ぎの記載があるのです。「『作道』の枝わかれする角に、そばやがあった。二階建の古い家屋で、格子が拭き減りして角がまるくなっている。朝ののれんがかかり、諸事由緒めいてみえる。」「何度みても姿のいい店である。角であるだけに車までときに軒下に車輪をかけるのか、路上に大きな自然石が置かれていてそのふせぎにされている」と。脇道にそれてしまいました。午後の探訪は司馬遼太郎が記すツクリミチ(以下「作道」)を下っていくことになります。歩む方向の左手(東側)の斜め先に見えるのがこの町屋。白壁に組み込まれた小祠は既にご紹介しています。全景として載せたのは、上掲の説明板に同じ建物のあたりの写真を載せて、「伊勢総通り前」という説明語句が記されていたのです。前回にご紹介した「伊勢園」と関連するように思った次第です。作道から左側(東側)福成神社前の坂道。杉生神社、明良地蔵を経て上ってきた道です。 作道の途中、右側(西側)にある「榊宮社」(榊宮神社) 地図との対比で、金剛河原の道だと思います。こちらからだと琵琶湖と対岸かなり近くに見えます。 榊宮社の少し先に、石材店の敷地側面にはこんなレリーフが。 日吉大社に因むのでしょうか・・・猿猿猿・・・・遊び猿の群れ。 町屋の軒屋根に見つけた鍾馗様「毘沙門天王」の石標の右側の坂道を上っていくと「日吉東照宮」に至ります。「権現馬場」の通りです。石標の左にある地蔵堂の背後・西側が「理性院」になります。さらに下って行くと、右側には、こんな石積みがしばらく続いています。 石垣の一角に地蔵尊の小祠が埋め込まれるように・・・・。 左側には白壁の蔵も。坂本の町の景色が偲ばれます。 観音堂の右側の山手に向かう道が道標から判断して「無動寺道」で、比叡山不動谷にある無動寺に到る坂道の入口「無動寺口」です。行者道に繋がるのでしょう。 観音堂の左側に坂本一丁目を表示する石標その側面には「庄之辻」と記されています。少なくとも鎌倉時代以来「大和庄」と呼ばれた地域です。(資料1)連続講座の第4回目「元亀争乱を歩く」のテーマから言えば、この無動寺谷が一つの関連ポイントになります。「比叡山焼き討ちの際、明智光秀が無動寺谷から攻め上り、東塔を落とした」(資料1)のです。『信長公記』の巻三・元亀元庚午の「志賀御陣の事」の9月25日の中に、次の記載があるのです。「廿五日、叡山の麓を取りまかせ、・・・・穴太が在所、是れ又、御要害仰せつけられ、簗田左衛門太郎・・・明智十兵衛・・・中条将監、十六首(かしら)置かる。」(資料3,1)無動寺谷は、東谷・西谷・南谷・北谷と合わせた東塔五谷の一つです。坂本ケーブルの「ケーブル延暦寺駅」下車、南へおよそ1km下ったあたりに位置します。叡山の最も南にあるので「叡南」、「南山」と称されるそうです。貞観7年(865)、慈覚大師円仁の弟子で、天台修験の開祖である相応(そうおう、831-918)が明王堂(無動寺)を建立。自刻の不動明王を本尊として安置しています。この不動明王像は、相応が比良山の葛川参籠で生身の不動明王を感得したというゆかりの自作像です。ここが千日回峯行を行う修験の中心地となったのです。現在も継承される千日回峯行の形が成立したのは、1571年の焼き討ちの後、江戸時代初期のことと言われています。(資料1,4)逆に辻を湖岸方向に下って行く方は鎌倉・室町時代から「松ノ馬場」と呼ばれた道です。途中、京阪電車の「松ノ馬場」駅そばを通ります。「山王神幸道」とも言われています。 さらに下って行くと、南面する巨大な十一面観音菩薩石像が建てられています。ちょっとビックリしました。その傍の坂道を上ると「倭神社」があるようです。坂道傍に石標が建てられています。神社に立ち寄る時間がありませんでした。午後後半の探訪ルートはこちらの図をご覧ください。連続講座第4回ルート図です。図としては重複しますが、序でに、坂本観光案内所で入手したPR資料をご紹介しておきます。大津の観光には大変便利なパンフレットです(資料5)。お出かけになる際には、入手されることをお奨めします。その中に、坂本が含まれていて、今回のルート近辺の観光スポット、歴史舞台について図・写真や簡明な説明が載っています。 「北部エリア」の見開きページに掲載の「坂本」の地図ですが、一部カットしています。ここには「比叡山」の地図が併載されています。(資料6)少し時が経過しましたので、同種の情報満載の新企画のパンフレットになっているかもしれません。つづく参照資料1)「第4回元亀争乱を歩く~坂本・穴太」 (連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」 当日配布資料) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・大津市教育委員会2) 『叡山の諸道 街道をゆく 16 』 司馬遼太郎著 朝日文芸文庫 p18-273) 『新訂 信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社 p1154) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 山川出版社 p87-88 『滋賀県の地名 日本歴史地名大系25』 平凡社 p1915) パンフレット「歴史舞台 大津」 発行 びわ湖大津志賀観光振興協議会 TEL 077-528-27726) 「びわ湖大津 光ルくんマップ」 発行 (公社)びわ湖大津観光協会 TEL 077-528-2772【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺坂本~日吉そば :「『古都』大津 湖国から」 biwahamaさんの喫食感想レポート比叡山延暦寺・無動寺谷(大津市) :「京都風光」第26番 無動寺明王堂 :「近畿三十六不動尊霊場会」 比叡山、無動寺谷ハイキング :「低山歩きとスケッチ」(KENさん) 千日回峰行 [修行]総論 :「天台宗公式ホームページ」 びわ湖大津よりどり観光ガイド ホームページ (びわ湖大津観光協会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴?そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -5 公人屋敷でみた雛人形展 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -7 穴太・盛安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.16
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[探訪時期:2014年2月]この画像は「公人屋敷」の入館券です。平成15年(2003)秋~16年(2004)秋に保存改修工事が行われてた結果の景観です。主屋は桁行8間、梁間5.5間の切妻造・桟瓦葺、平入で、大小9つの部屋があります。(資料1)拝見した時は、この部屋に雛人形が各種飾られて展示されていました。かなり以前に、京都国立博物館で雛人形展を見たことがありますが、久しぶりに様々な雛人形をこの公人屋敷で拝見できました。季節外れになってしまいましたが、探訪の一環として記録するとともに、ご紹介したい次第です。また季節が巡ってくると、同種の展示企画があるかもしれません。まずは床の間に飾られた数種の雛人形。全景はこんな感じに。立ち雛の雛人形は比較的初期の形態のようです。以前に雛人形展を鑑賞した記憶を再確認するために、少し調べてみました。日本では「遠い昔から、春先に清流で身を清めて不祥を祓い、無病息災を祈ることが素朴な習俗として行われていた」ようです。折口信夫は3月初めの大潮の日は、昔は禊ぎの日だったと論じています。「穢れたものを川へ流すと、それが海へ流れ出て、恰度大潮である海の水が、その穢れを遠いところへ持て行ってくれるという考へから」だと言います。雛は雛形つまり模型であり、人間の形をしたもの(人間のひながた)をまつり、それに人の汚れを吸い取ってもらう。自分の穢れた魂を移す道具だったのです。その雛を川に流してお祓いして清める。そんな習慣があったのです。中国の「上巳(じょうし)」の節句の習慣-3月3日に水辺にて身を清め穢れを祓うーが日本に伝わってきました。「巳の日祓い」の習慣として、取り入れられることになったのだと言います。折口は千葉の木更津あたりでは「またござれ」と言って雛を川に流しに行くという事例を紹介しています。現在の和歌山県の淡島神社の雛流しはその一例です。また、『源氏物語』の須磨の巻には、「弥生の朔日に出で来たる巳の日、『今日なむ、かく思すことある人は、禊したまふべき』と、なまさかしき人の聞こゆれば、・・・・この国に通ひける陰陽師召して、祓せさせたまふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見たまふ・・・・」という場面も描きこまれています。雛に魂があるように考えはじめ、雛が立派な人形になっていくと捨てなくなります。子供の相手をするものになり、飾るものに変化していきます。平安時代の貴族社会に「雛遊び」があったことを『源氏物語』が数カ所で描写しています。たとえば、紅葉賀の巻には、「いつしか雛をしすゑてそそきゐたまへる、三尺の御厨子一具に品々しつらひすゑて、また、小さき屋ども作り集めて奉りたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり」。この貴族の家の雛を真似て、「宮廷の風俗や儀式に因んだ人形を飾るようになった」ということなのでしょう。雛人形のルーツはこんなところにありそうです。(資料2,3,4)余談ですが、「永和9年(西暦353)3月3日に王羲之が修禊の儀式をして主催した曲水の宴で、人々が詠じた漢詩に寄せた序文」が『蘭亭序』であり、書の手本になっているそうです。上巳の節句において、漢詩を詠じるという部分が、「曲水の宴」という形で歌を詠じる行事に進展してきたようです。(資料4) 羽子板の上に置かれた「百歳雛」この種の雛人形は初めて見ました。羽子板の端に載せているのがなんとも粋な感じ。その隣りに飾られた雛人形及び輿と牛車。牛車は唐車です。屋根が唐破風だと判断しました。唐車なら、上皇・皇后・東宮・親王、または摂関などが用いる大型の牛車です。(資料5)輿も牛車も蒔絵が施されていて豪華です。 一部屋の壁に、掛軸が掛けられていました。これは雛人形というわけではないでしょうが、雛人形の原型になる図柄という感じです。一部屋には雛飾りのセットが2つ並べて展示されています。ひな壇の飾り付けの構成は同じ形式になっていますが、人形の形態や調度品や輿・牛車にかなり違いがあって対比的に見ると面白いです。牛車は半蔀車(はじとみぐるま)のようです。屋形の横にある物見窓が、上に押し上げる半蔀戸の形のように見えます。そうだとすれば、上皇・親王・摂関、大臣のほか、高僧や女房が用いることもあった牛車です。 ひな壇形式のものが、別の部屋にも。対比的に眺めていくと様々な発見があって、おもしろい! この雛人形には説明が付されていました。「源氏棚」つまり、「源氏棚と呼ばれている御殿雛で、源氏物語の絵図を見る様に、御簾(みす)越しに人形が飾られています」。これと同種の雛人形を調べていてブログ記事で見つけました。序でに、ご紹介しておきましょう。「近江商人屋敷」の「外村家(外村繁邸)にて展示された雛飾りの記事です。「源氏枠飾り」として紹介されています。こちらをご覧ください。(「京 歩き」古都人さん) 少しシンプルな雛人形としては、こんなセットも。 こういう一式もミニチュア版で展示されていました。 このように部分撮りしたのを見ると、一瞬その大きさを錯覚しませんか? ミニチュアの調度類 御所人形の雛飾りセットも展示されています。 この御殿雛のセットもいいですね。脇道にそれますが、「御殿飾り雛」について、参考になる紹介記事を見つけました。日本玩具博物館・春の当別展(2008年)の解説記事です。こちらからご覧ください。説明が大変参考になります。 この博物館には500組を超える雛人形コレクションがあるそうです。さて、最後まで雛飾りをご覧いただいて、お気づきですか?男雛が向かって右に配置されていることです。この配置が「古式」の原則なのだそうです。現代式は向かって左に男雛を配置するやり方です。”社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」としており”という風に変遷してきたのです。(資料3)このことは、別の探訪の機会にあるお寺のご住職からも聴きました。昭和天皇の即位にあたり、西欧流に男が向かって左に並ぶスタイルを採用されたことから、雛飾りもそれに合わすように変わってきたということでした。一例ですが、「貞徳院矩姫(尾張14代慶勝夫人)所用」の「雛飾り」をこちらでご覧ください。(「文化遺産オンライン」より)一方、「全日本人形専門店チェーン」のウェブサイトの「雛人形」のページをこちらからご覧ください。その対比が一目瞭然です。もう一つ、違った視点で鑑賞出来るのが襖絵です。 各部屋の襖に描かれた水墨画の襖絵が屋敷の歴史とその姿を感じさせます。江戸後期に活躍し、晩年を坂本で過ごした横井金谷(きんこく:1761~1832)が描いた作品とのこと。近江・栗太郡下笠村(草津市)の生まれで、絵は独習し与謝蕪村に傾倒した人のようです(一方、張月樵に絵を学んだという説もあります)。「近江蕪村」とも称されたとか。一方で、「無極の道心者」とも言われたらしく、かなりユニークな人生を歩んだ人物。1781年には、京北野の金谷山極楽寺の住職になり、その山号を雅号としたとか。(資料1,6)この後、坂本市民センターで昼食休憩の後、文化財保護課の専門職員仲川氏から「元亀争乱を歩く」というテーマでの講義を聴いてから、争乱と関係した坂本・穴太の関係地を探訪します。午後の探訪は仲川講師のガイド・解説へとバトンタッチされました。講義は、『信長公記』『言継卿記』『兼見卿記』という史料文献にみられる「志賀の陣」関連の具体的記載を抽出して、総合的に眺めた解説でした。史料からみた「志賀の陣」の経緯分析と理解の促進というアプローチで、午後後半の現地探訪への導入でもありました。講義資料内容は必要に応じて探訪結果に組み入れることでのご紹介にとどめたいと思います。つづく参照資料1) 「公人屋敷(旧岡本邸)ご案内」 大津市観光振興課2) 雛人形(ひな人形・おひなさま)、ひな祭り(雛祭り)の歴史と由来:「小木人形」 「雛祭りのおこり」「雛祭りとお彼岸」 『折口信夫全集第17巻芸能史篇』 p476-479、p495-497 淡島神社の雛流し :「和歌山県ふるさとアーカイブ」 『源氏物語 2』 須磨 日本古典文学全集 小学館 p217 『源氏物語 1』 紅葉賀 日本古典文学全集 小学館 p320-3213) 雛祭り :ウィキペディア 4) 曲水の宴 :「樹南宮」 5) 『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』 監修・五島邦治 編集・風俗博物館6) 横井金谷 :「大津市歴史博物館」 横井金谷 :ウィキペディア 横井金谷 :「コトバンク」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺公人屋敷の雛人形 :「びわ湖花街道 公式Blog」日本人形協会 ホームページ 節句人形とは 御所人形について :「伊東健一御所人形の世界」(有職御人形司十二世伊東久重家) 日本玩具博物館 公式サイト 雛人形の歴史 :「雛人形の歴史とイベント情報」 和歌山・淡嶋神社の「ひな流し」 :Youtube 2013年 春 淡島神社 雛流し :Youtube 淡島信仰と流し雛 ~流し雛は雛人形の源流か~ 石沢誠司氏 上 ・ 下 横井金谷筆 山居図 新撰淡海木間攫 :「サンライズ出版」 赤壁秋夜景図 伝横井金谷筆 その2 :「夜噺骨董談義」 金谷上人御一代記 7巻 写 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 『金谷上人行状記 ある奇僧の半生』(横井金谷著、藤森成吉訳):「週刊東洋文庫1000」 極楽寺 :「京都 PHOTO CLIP」 言継卿記 :ウィキペディア 吉田兼見 :ウィキペディア 志賀の陣 :ウィキペディア 志賀の陣 :「年表でみる戦国時代」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴㐂そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -6 日吉そば、榊宮神社、権現馬場、無動寺口、観音菩薩石像 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -7 穴太・盛安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.15
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[探訪時期:2014年2月]午前中の探訪の最後は、日吉大社へのメイン・ストリート-江戸時代には井神町通と呼ばれたという-を東に下ったところにある「日吉御田神社」と「公人屋敷」です。JR比叡山坂本駅からこのメイン・ストリートを上って来れば、坂本観光案内所までに、京阪電車坂本駅からなら、この通りを少し下った位置になります。(冒頭の地図は資料1より引用) 日吉御田神社ここの境内地は杉生神社と同様に二段になっています。一段目、石造鳥居の斜め前に古井戸があります。この井戸が信仰の対象になっていたとされています。原始的な農耕祭祀が行われていたことに神社の起源があるようです。 覆屋のある本殿、ここも一間社流造です。祭神は水葉女神(みずはめのかみ)。別称が井神神社。井戸を神と崇めることそのものの名前ですね。井神町、御田町の氏神だそうです。 ご神木の根がここも地面から突出しています。日吉御田神社の西側の通りを北に入ったところが、江戸時代は蓮華堂町と言われた地域で、蓮華園です。前回の明良馬場の地名が残る明良園、鶴㐂そばの店がある場所の西側地域が伊勢園(旧名・伊勢園町)であり、最初にご紹介した「倉園・郡園」と合わせて「坂本五園」とかつては称されていたそうです。 公人(くにん)屋敷の外観この公人屋敷は、日吉御田神社から一筋東の通りの北東角になります。ここは、大津市から平成22年(2010)3月に景観重要建造物(第7号)の指定を受けています。 坂本は江戸時代、德川幕府が延暦寺に寺領として寄進した土地でした。延暦寺の僧侶でありながら妻帯と苗字帯刀を認められ、年貢・諸役の収納する寺務を務める「公人」と呼ばれる人々が居たのです。岡本家はその一つだったようです。平成13年(2001)に坂本地域の歴史的遺産の保存目的で建物と敷地が大津市に寄贈されたのを受けて、現在の形に保存改修されたのです。(説明板より)旧状をよくとどめる社寺関係大型民家です。 外壁の一部屋敷の門を入り、通りに面した筑地塀ともう一つの門を敷地内から眺めたところ。手前に井戸があります。 建物の白壁を眺めていて、窓の上に目が止まりました。この鉄環は何のためのもの? ちょっとした謎・・・・。主屋を素通りしてまず北側を拝見しました。 全景です。敷地の北西奥に米蔵、その東に馬屋の建物があります。 この馬屋は滋賀院門跡等に挨拶のために来訪した上級武家の馬を預かる施設として使われたそうです。米蔵は徴収した延暦寺のための年貢米を貯蔵する専用の蔵だとか。馬屋に現在は昔の荷車・農耕用道具類が展示されています。滋賀院門跡は総里坊で、元和元年(1615)に天海大僧正が後陽成天皇から京都の法勝寺の建物を賜り、こちらに移したそうです。明暦元年後水尾天皇から滋賀院の号を賜ったといいます。天台座主の御座所となり、江戸時代には法親王の住まいとなったところです。(資料2,3) 離れ跡には置かれた石で、イメージが膨らみます。 内庭には池が設けられていて、鎮守社があります。 内庭側に入る中門こういう景色には落ち着きを感じ、風情があります。主屋の一部。水屋が置かれ、「おくどさん」が設けられた土間から見上げたところ。 表の間です。公務の帳場でしょう。2月下旬に拝見した時、主屋の座敷には各種雛人形が展示公開されていました。襖には水墨画が描かれていました。これらは、次回ご紹介します。 ここでは、座敷の床の間に懸けられていた和歌の掛け軸と、一室の壁際に懸けられていた日吉茶園に関わる石碑の拓本を掛け軸に仕上げた作品をご紹介しておきましょう。「日吉茶園」は京阪電車坂本駅の東隣にあります。伝教大師最澄が入唐求法し、初めて中国から日本に持ち帰った茶を植えたと伝えられる記念の茶園です。「この茶園の中に高さ1.64mの日吉茶園の碑がある。撰文は滋賀県知事堀田義次郎で、1921(大正10)年に滋賀県茶業組合の有志が建立した」(資料2)ものです。さて、上掲和歌二首については、掛軸の下に説明文が貼られていました。ご紹介しておきましょう。詠者は員幹(かずもと)と記されています。 雪朝望 朝日かけ光をそう(沿)かたますだれかくれてぞみるみねの白雪 年内梅 こときよりさきたつ梅のかほりより年のこなたのはるを見せけり 表の庭最後に、公人屋敷でいただいた資料の説明をいくつかご紹介しておきます。(資料4)イメージが湧きやすくなることでしょう。*里坊は比叡山で修行を積んだ僧侶たちが天台座主の許しを得て住み込む隠居坊でした。江戸時代に里坊を支えたのは全国の大名からの寄進や延暦寺寺領からの年貢として納められた農作物だったのです。*德川家は延暦寺に対して、坂本1500石、下坂本3500石の寺領を安堵しました。その寺領運営組織の中で、公人は寺務を取り仕切った人々でした。*当時の延暦寺の僧侶の組織は、上方・中方・下僧という区分があったようです。「近世の公人の家柄は世襲、貴種でないため、中方(なかがた)止まりで、上方(かみがた)まで進むものはまれ」だったそうです。*享保6年(1721)の記録にこう記載されていると言います。 日吉山門社家 7人 日吉山門宮仕 19人 山門祭礼夜営警護役 1人 滋賀院坊人 6人 山上坂本堂社方役人 8人 山門領諸事仕置方役人 8人 公人 187人 衆徒召使 18人 門前役 20人つづく参照資料1)「第4回元亀争乱を歩く~坂本・穴太」 (連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」 当日配布資料) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・大津市教育委員会2) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県高等学校歴史散歩研究会 山川出版社 p75,p773) 滋賀院門跡 :「滋賀県観光情報」 4) 「公人屋敷(旧岡本邸)ご案内」 大津市観光振興課【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺 井神 :「本地垂迹資料便覧」 日吉大社 「日吉社神道秘密記」の中に「井神」の項があります。公人屋敷(旧岡本邸) :「大津市」 滋賀県大津市 公人屋敷 :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」 おくどさん → 竃(くど) :ウィキペディア 帳場 :「コトバンク」 帳場の画像検索 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴㐂そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -5 公人屋敷でみた雛人形展 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -6 日吉そば、榊宮神社、権現馬場、無動寺口、観音菩薩石像 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -7 穴太・盛安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.15
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[探訪時期:2014年2月]地図で確認すると、日吉馬場に通じるメインストリートと坂本小学校の中間に、この「杉生神社」があります。今は坂本3丁目ですが、杉生町の氏神です。 本殿はここも一間社流造。祭神は大物主神。向かって左側に、境内社が一社配されていて、全体に覆屋が建てられています。境内は広くはないのですが、社殿は紅殻色の荒垣に囲われてた一段高い石垣の上にあり、大物主神を祀るのにふさわしいのかもしれません。かなりの樹齢の木が1本境内にあります。 現在の坂本三丁目と旧名称「明良馬場」とを明示した石標の近くに、弁財天の扁額を懸けた「明良(あけら)神社」があります。ここは明良町の氏神で、「明良の弁天さん」として親しまれているようです。その隣地には伝教大師最澄の造立と伝えられる地蔵堂があります。「明良地蔵尊」が祀られているところです。 この坂本には最澄自作と伝わる六地蔵があり、円仁が6ヵ所に分けたと言われています。「明良地蔵」はこの「坂本六地蔵」に1つなのです。後の5ヵ所は、「早尾地蔵、阿波羅屋地蔵、苗鹿地蔵、比叡辻地蔵、穴太地蔵」です。(資料1)「明良地蔵」はこちらのサイトもご覧ください。(大津のかんきょう宝箱) 道路に面して、「三世諸仏塔」と刻された石塔と宝篋印塔が建てられています。この道沿いに進み、京阪電車の踏切を渡って、T字賂の角にあるのがこの神社。 福成神社。祭神は大国主神です。 本殿は覆屋の中にあります。一間社流造の本殿です。ここの本殿は規模は小さいですがなかなか立派な社殿です。当日の資料によれば、日吉社西本宮関係か・・・とされています。 側面からの眺め福成神社の西側が「坂本作り道」で、南方向へ下って行くと、今道(路)超に至り、北に向かうと、大将軍神社・生源寺の前に出ます。午前中は、一旦北に進みます。この通りでも、町屋の軒下にあの同じ形式の長い竹が吊ってあるのを見かけました。 この通りの町屋でも鍾馗さんを見かけます。 白壁の一部に小祠が組み込まれています。 坂本で有名なお蕎麦屋さんの一つ。「鶴㐂そば」「名代手打 本家 鶴㐂そば」はこちらをご覧ください。 二階の張り出しの欄の下の腰板には折り鶴を切り抜いた意匠がいいムードです。そして、生源寺山門に戻ってきました。坂本に点在する日吉大社周辺の神社を巡ってきたことになります。坂本の町並を少し歩けば、一つの町内が祀る氏神様に出会う町。坂本は比叡山・山門派の拠点である一方で、多くの神々が集う信仰の地でもあるのだということを感じた次第です。この後、昼食・休憩タイムの前に、生源寺前のメイン・ストリートを東に少し下ったところに位置する「公人(くにん)屋敷」を拝見しました。次回は、「公人屋敷」のご紹介です。つづく参照資料1) 「第4回元亀争乱を歩く~坂本・穴太」 (連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」 当日配布資料) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・大津市教育委員会【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大物主 :ウィキペディア 大国主 :ウィキペディア 出雲大社と大国主大神 :「神々の国 出雲」 「大津のかんきょう宝箱」のサイト・ページから 早尾地蔵(坂本5) 阿婆羅屋地蔵(坂本7) 苗鹿地蔵(苗鹿2) 比叡辻地蔵(下阪本6) 穴太地蔵(穴太2) 天照大神と大国主は、どの様な関係だったんですか? 天照が天?それに対して大国主... :「YAHOO! 知恵袋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -5 公人屋敷でみた雛人形展 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -6 日吉そば、榊宮神社、権現馬場、無動寺口、観音菩薩石像 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -7 穴太・盛安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.15
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この画像は八条通の坂道を下り、途中で振り返った眺めです。坂の先には比叡山に連なる山並みが見えます。 [探訪時期:2014年2月] 八条通にも、所々にかつての町並みを連想させる築地塀や建物を見受けられます。地元の人々が景観を維持する努力をされているのでしょう。 倉園神社 坂本五園の一つです。江戸時代の地図には八条町通の次ぎノ町・中ノ町と記載された地域あたりに位置します。「くらぬしさん」と呼ばれて親しまれているそうで、次元町・仲之町の氏神なのです。現在は坂本6丁目とこの一帯が名称変更されています。現在の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。覆屋の中に一間社流造の本殿があります。創始は不詳です。祭神は倉稲魂神(宇迦之御魂神、うがのみたまのかみ)であり、成務天皇の御倉の神と伝えるそうです。成務天皇というのは、『日本書紀』を参照すると、景行天皇の第四子であり、131~190年に在位した天皇(第13代)と記述されています。「元三大師の頃、現在地に勧請され、慶長18年(1613)に再興。寛永16年(1639)に遷宮、宝暦9年(1759)新社殿を再建」(資料1)という変遷を経ているようです。社殿の角に道標が建てられていました。「右 北国海道」「すぐ山王道」という文字が刻されています。坂本が都から北国海道に繋がる交通路の要所であったことがわかります。 郡園神社地図を見ていただくと解っていただけますが、倉園神社のすぐ近くです。「郡園」は「こうその」と読むのです。江戸時代の地図では郡園町という地名が記されているところです。 こちらも、覆屋の中に一間社流造の本殿です。祭神は鴨玉依姫神荒魂(かものたまよりひめのかみのあらたま)だそうです。「社伝によると、成務天皇のとき髙穴穂宮の御倉の神として崇拝される」(資料1)という神であるとか。「こうしろさん」と呼ばれているようです。鴨玉依姫という名称から、私は古代の京都洛北に勢力を有した賀茂氏が奉じた賀茂神社を連想しました。手許の本を調べてみると、下鴨神社(賀茂御祖神社)の東殿には玉依媛命が祀られています。(資料2)賀茂氏との関連があるのかもしれません。 両神社の位置は、この図の上部「八条通」の北側をご覧ください。小さな境内ですが、2ヵ所に関心をいだきました。 一つは社殿の前にある左の画像の建物。灯籠で言えば火袋にあたる物が3つ建屋の中に保管されている感じです。どこにも説明はありません。もう一つは、境内の一角に、お地蔵さんと思える石仏が集めて祀られていたことです。当日入手のレジュメによると、倉園神社と共同で5月2・3日に祭礼が行われるのだとか。 歩いていて、町屋の屋根に鍾馗さんを発見。 また、道端に「比叡山登り口」の道標 「小比叡山大乗寺」という石標の近くに、「福大夫神社」があります。ここは、郡園神社から少し東に位置します。ここも一間社流造の本殿です。祭神は若産霊神(わかうぶたまのかみ)。この地の産土神として信仰され、やはり五穀豊穣を願う対象となった神なのでしょう。下之町の氏神で「ふくだいしさん」と呼ばれているとか。調べていて、こんなことを知りました。古地図(明治9年3月作成の実測図)では、坂本字天神と表記された地域にこの福太夫神社が所在したようです。また、この福太夫神社には、天神社が合祀されているのです。(資料3)脇道にそれますが、もう一つ関心事として、「福太夫」という名称はどこに由来するのでしょう? 課題が残りました。関連があるかどうか不明ですが、こんな資料をネットで見つけました。油日神社には、福大夫面というのが奉納されていて、その背面に「奉寄進正一位油日大明神田作福太夫神之面・・・」という記述があることです。「田作福大夫神」を名称と解すれば、五穀豊穣に関連する神と考えられる神でしょうか・・・・(資料4)。「ずずい子」の方をどこかで見聞した記憶があります。再録にあたり、少し調べていて御由緒を知りました。引用し追補します。「日吉大社境外百八社の一社である。明細帳に「祭は六月八日にて神輿御幸若宮の神輿と八條下の馬場の御旅にて御会合の時御供を奉る。但し寛文十一年より六月初申日の祭りなり、今はその次第のみ」と記載されている。」(資料5) 福太夫の名称の由来自体はやはり不詳のまま・・・・境内の西端に地蔵石仏群、宝篋印塔、墓石及び小祠が並んでいます。これもちょっと興味深い組み合わせです。もともとあったのか、それぞれが移設されてきたものなのか・・・。この後、福太夫神社から南へと進み、JR比叡山坂本駅から日吉大社に向かうメインストリートの方に移動します。江戸時代には大乗寺町と称された地域を抜け、井神町通と呼ばれた道路、つまりメインストリートに至るのです。その東南角にあるのが、朱塗りの鳥居の建つ「大神門(だいじんもん)神社」です。メインストリート(旧名・井神町通)には、「日吉神社」の扁額が懸かる石造の一の鳥居が建てられています。江戸時代には「大鳥居社」と称していた神社ですが、明治期に社名が変更されそうです。ここも同様に一間社流造の本殿です。 メインストリートに面する方に、右の画像の説明板が建てられています。祭神は豊岩門戸命(とよいわとのみこと)と櫛岩門戸命(くしいわとのみこと)の二神。この二神は豊岩窓神、櫛岩窓神とも書かれるようで、説明板にある「天石門別神」のまたの名前だそうです。櫛は奇の意味で、豊と同様に美称のようです。そして、「石門別」というのは御門を守護する意味だと言われています。つまり、御門の守護神で古くは宮城の四門に祀られたそうです(資料2)。そこから転じて、日吉大社の門を守る神として祀られているということなのでしょう。一の鳥居の傍に祀られている意味が理解できます。この説明板の横に、北国道、つまり北国街道(海道)への道標が建てられています。メインストリート(旧名・井神町通)の坂道を琵琶湖畔まで下れば、北国街道に出るのです。 通りの先で眺めた民家。庭の石灯籠にご注目! 和泉神社。ここも一間社流造の本殿で、覆屋が設けてあります。祭神は国水分神(くにのみくまりのかみ)。和泉町の氏神です。このあたり現在は坂本3丁目です。「水分神」とは、「神道で、山から流れ出る水の分配を司る神。天之水分神、国之水分神の二神」(『日本語大辞典』講談社)だそうです。つまり、山にあっては正に分水嶺での水の分配に関係するのでしょう。それが平地に到ると農業に必要不可欠な水、その水の分配に関わる、時には祈雨にも関係していくということでしょうか。つまり五穀豊穣を願うことに結びついていく神として信仰されたような気がします。近くには地蔵尊を祀るのだろうと思われる小祠もあります。そして、住宅地の端の一隅、その先には畑が広がる場所に、かつて「梶井宮」がこの地にあったということを偲ばせる小ぶりな石標が建てられています。 「梶井水 梶井宮□」と刻されています。最後の一文字は判読できません。京都大原の三千院と聞けば多くの人がご存じです。歌詞にも詠み込まれている有名な観光スポットになっています。今回の探訪会に参加して初めて知り、事後復習で再認識したのですが、「三千院」、「三千院門跡」と称される前は、「梶井宮」「梶井門跡」「梶井御所」と称されていて、ここに移されていた時期があったそうです。もともとは、最澄の時代に比叡山に建立された円融房にその起源があるです。坂本に移った円融房には、「加持(密教の修法)に用いる井戸(加持井)があったことから、その寺を「梶井宮」と称するようになった」(資料6)と言われているのです。その場所がこの石標のある辺りなのだとか。「梶井宮」が京都に移った後も度重なる移転を経て、1871(明治4)年に京都大原の現在地にその本坊が移り「三千院」と称されるようになったと言います。「三千院」のルーツはこの坂本に大きく関係していたという次第です。「三千院の歴史」の中にも次のような記載があります。(資料7)*嘉祥3(860) 承雲、東坂本の梶井に円融房および里坊を営む(梶井の名称の起こり)*大治5(1130) 最雲法親王、梶井十四世となる。梶井宮の名称の起こり。*貞永1(1232) 坂本梶井御所、火災のため堂舎を失う。余談ですが、「梶井門跡」も代々継承されていきましたので、歴代の門跡が埋葬された墓地が「梶井宮墓地」としてあるということも調べていてわかりました。京都の大原勝林院町に2ヵ所に分かれてあるようです。こちらのサイトをご覧ください。(スジンさんの「城とか陵墓とか」) また、『太平記』巻第三十二には、「天台座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤親王を成奉る」「先皇・両院・梶井宮、南山の奥に御座あれば」「遥に程経て梶井宮許をぞ、兔角して盜出し進せける。」などと、梶井、梶井宮という名称が記載されています。(資料8) 思わぬところで、坂本と京都とがリンクする接点がありました。おもしろい!つづく参照資料1) 「第4回元亀争乱を歩く~坂本・穴太」 (連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」 当日配布資料) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・大津市教育委員会2) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p45,p164,p3103) 福太夫神社 :「大津かんきょう宝箱」 4) 油日神社・福大夫面附ずずい子 :「甲賀町の文化財」 5) 福太夫神社 (フクダユウ) :「滋賀県神社庁」6) 三千院 :ウィキペディア 7) 三千院の歴史 :「三千院」 8) 太平記/巻第三十二 :「WIKISOURCE」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺油日神社 ホームページ西近江路 :ウィキペディアワクムスビ :ウィキペディア 水分神 :ウィキペディア 京都大原 三千院 公式ウェブサイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -1 生源寺・大将軍神社・別当大師堂・市殿神社・八条通 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴?そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -5 公人屋敷でみた雛人形展 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -6 日吉そば、榊宮神社、権現馬場、無動寺口、観音菩薩石像 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -7 穴太・盛安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.13
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これは坂本観光案内所の傍にある案内図です。図の上辺・比叡山の方向が西です。これは参加した連続講座の配布資料から引用させていただきました。こちらの図は、通常の地図通りです。従って、この地図の観光案内所の前の東西の通りを西に行くと、冒頭の図にある日吉馬場の方になります。冒頭の図を頭の中で90度反時計回りに回転させていただくと一致します。以降のご紹介は資料から引用したこちらの地図を使って進めたいと思います。2014年2月22日(土)に、連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」・第4回の探訪講座がありました。テーマは「元亀争乱を歩く~坂本・穴太」です(資料1)。滋賀県教育委員会事務局文化財保護課の主幹で、大津市教育委員会文化財保護課が協力された探訪会でした。まずは午前中に坂本の町を探訪しました。吉水眞彦氏(大津市教育委員会文化財保護課)のご案内により、歴史の町坂本の中世~近世の要所を探訪できました。その時の解説・資料と事後学習で理解したことをまとめながら、探訪記録を整理しブログに載せていました。それをこちらに再録し、ご紹介したいと思います。坂本観光案内所前の広場に集合して、地図に記載のルートを時計回りの方向に巡ったことになります。最初はまず坂本観光案内所の西隣りになる「生源寺(しょうげんじ)」からです。天台宗を開宗した伝教大師最澄ゆかりのお寺、比叡山生源寺。最澄は奈良時代後期に近江国滋賀郡で生まれました。その生誕地がこの寺域あたりだったそうです。父は三津首百枝(みつのおびとももえ)で、渡来人の家系であるといわれています(資料2)。母は藤原藤子(妙徳)。生誕は766年/767年と二説あるようです。 山門を入った右手に、最澄が生まれたときに産湯として使われたという古井戸があります。 井戸の北側には、伝教大師最澄の童形像が建立されていて、その続きに石灯籠、宝篋印塔などが並んでいます。 その先に並ぶのが、最澄(幼名は広野)の生誕奇瑞譚の絵と「伝教大師ご一代年表」です。日本で天台宗を開宗した最澄の大凡の事績がわかります。この探訪のあとで、手許の本やネット検索で入手した資料なども重ね合わせてみて、いままで漠然としか捉えていなかったことを少し整理して理解することができました。 最澄は、780年に近江国分寺で出家得度。785年奈良・東大寺で受戒。788年に「薬師如来を本尊とする一乗止観院(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました」(資料3)。797年に天皇に近侍する内供奉の役に任じられています。785~797の期間の活動は史料的には不明。797年以降については法華十講の講義を初め華々しい活動が記録に残るのです。 804年7月、第16次遣唐使に同行して入唐し、天台山を中心に修行し伝授を得て1年後に帰国。805年に天台宗を開宗するのです。そして、「延暦25年(806)には他宗と並んで天台宗にも正式の出家者である年分度者が認められる」に至ります。(資料2)山門を入るとかなり広い境内で、その正面が本堂です。最澄は延暦年間(782-806)に両親への報恩のために生誕の地に「生源寺」を開基したそうです。上記文脈で考えると、生源寺が開基されたのは、最澄が一乗止観院を創建し、天台宗を開宗する前の間になりそうです。現在の本堂は、文禄4年(1595)に再建され、宝永7年(1710)に改築されたと言います。本尊は十一面観世音菩薩で、弟子の慈覚大師円仁(第3代天台座主)が作ったと伝わるものです。(資料4) 境内には、鐘楼、写経塔が建てられています。鐘楼の近くには鎮守社と信長による比叡山焼き討ちの犠牲者を祀る供養石仏群があります。石仏群の一端が鐘楼の左下奥に写っています。生源寺は西塔の総里坊格の寺として、近世には一山の寺務を総括する重要な里坊となるのです(資料4)。西塔というのは、本堂にあたる釈迦堂を中心とする区域です。延暦寺HPのこちらのページをご覧ください。 生源寺の西隣は「大将軍神社」です。伝教大師の産土神ともいわれ、坂本の総社です。石造明神鳥居から正面の北方向に一間社流造の本殿が配置されています。生源寺の鐘楼右奥に写っているのがこの本殿です。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と岩長姫命(いわながひめのみこと)。「だいじごさん」とも呼ばれ、現在は、作り道北町の氏神だそうです。 この巨木の根がすばらしい!探訪での一番の印象は、坂本の町には八百万の神々まではいかなくても、実に数多くの様々な神が集う土地だということです。坂本の日吉大社は全国的にも有名ですが、その坂本の町々に様々な氏神が祀られていて、地域全体の日吉大社と町内の氏神という二重構造の信仰になっている感じです。大将軍神社は日吉大社へのメインストリートに面しています。神社の角を右折し、薬樹院の生け垣を左に見ながら北に歩みます。大将軍神社の北隣が「別当大師堂」。薬樹院からみれば、道路を隔てた東側です。かつてはこの地に庚申塚があったことから、別名「庚申堂」とも称されるそうです。 別当大師とは、伝教大師の高弟の一人で、光定和尚のこと。一書によると、「最澄・義真に師事して奥義を究め、宮中に召されて修法した。叡山の戒壇院建立に尽力し、最澄の没後直ちに勅許され、大乗戒壇を擁立した。延暦寺別当に任ぜられ、858(天安2)年寂(80歳)」。別当というのは、「わが国の諸大寺に置かれた職名で、一山の寺務を統轄する長官。752(天平勝宝4)年5月、良辨を東大寺別当に補したのを最初とする」そうです。(資料5) 別当大師堂の北隣りにある「市殿神社」 祭神は「山祇姫命(やまつみひめのみこと)」。祭神「妙徳夫人」というのは、最澄の母と伝えられる人(藤原藤子)を言います。かつて付近に妙見社が存したことから、そう伝わっているようです。氏子によって「みょうけんさん」と呼ばれるのだとか。通りを歩いていて町屋の軒下、入口の傍で目に止まった標札です。その傍には、延暦寺のお札と走井堂のお札が貼られています。走井堂の図柄は、良く知られている元三大師の降魔札。角大師(つのだいし)の図柄です。角大師というのは、「元三大師が鬼の姿になって疫病神を追い払った時の姿と言われています。角が生え、目がグリグリッと丸く、口が耳まで裂け、あばら骨が浮いて見えます。この姿を描いたお札は、門口に貼る魔除のお札として知られ、鬼守りとも呼ばれます」とのこと。(資料6)漆塗師鋲金さんについては、こちらをご覧ください。ネット検索で見つけました。走井堂については、こちらをご覧ください。軒下には、端に縄がきっちりと巻き付けられた長い棒が結びつけてあります。これは何のため? 今のところ、私にとっては謎・・・・です。 坂本5丁目と6丁目の境となる交差路の南東角には、会所を兼ねた御堂が建てられています。その傍の道標には、このあたりがかつては「坂本本町」と呼ばれていたことが明記されています。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。当日の入手資料に掲載の「江戸時代の絵図に描かれた坂本」図と、道標側面に刻された名称を見ると、この交差路の西へ延びる道路が「梅辻」と称されていたことがわかります。 格子戸から堂内の眺め 交差路で振り返ってみた眺め南方向への道です。逆に北方向に道沿いに行くと西教寺に向かいます。西教寺はスポット探訪として別途紹介していますので、後日再録したいと思っています。 こちらは交差路から東の眺め 「八条通」です。この八条通は少なくとも、鎌倉時代の坂本からあった通りのようです。日吉馬場、日吉大社に至るメインストリートとほぼ並行して、琵琶湖側から山側への東西方向に作られた坂道です。この後この八条通を琵琶湖方向へ少し下りながら、探訪することになります。つづく参照資料1) 「第4回元亀争乱を歩く~坂本・穴太」 2014年2月 (連続講座「近江の城郭 歴史の舞台となった城2」 当日配布資料) 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課・大津市教育委員会2) 『日本仏教史』 末木文美土著 新潮文庫 p893) 延暦寺について 歴史 :「比叡山延暦寺」HP 4) 生源寺 :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」 5) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p158、p4626) 元三大師 :「Flying Deity Tobifudo」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺最澄 :ウィキペディア 宗祖伝教大師 最澄 :「天台宗」公式ホームページ 最澄と大乗戒壇 高橋俊隆氏 大将軍神社 :「滋賀県神社庁」 光定(僧) :ウィキペディア 講話「別当大師光定」 熊沢芳弘師(天台宗医座寺 住職)市殿神社(坂本6) :「大津のかんきょう宝箱」良源 :ウィキペディア 角大師と豆大師 長沢利明氏 :「西郊民俗談話会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -2 倉園神社・郡園神社・福大夫神社・大神門神社・和泉神社・梶井宮跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -3 杉生神社・明良神社・明良地蔵・鶴?そば へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -4 日吉御田神社・公人屋敷(旧岡本邸)へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -5 公人屋敷でみた雛人形展 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -6 日吉そば、榊宮神社、権現馬場、無動寺口、観音菩薩石像 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -7 穴太・盛安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 ふたたび坂本の町を歩く -8 元真如堂宝光寺・石薬師堂・高穴穂神社・高穴穂宮跡・穴太地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -3 坂本城本丸跡・明智塚・酒井神社・両社神社ほか へ
2017.04.12
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[探訪時期:2012年12月] (末尾の地図番号5の場所)坂本城趾碑から少し湖岸方向に進むと、「東南寺」(天台宗)に突き当たります。ここは延暦年間、比叡山の東南方向の戸津ヶ浜に、伝教大師・最澄が両親への報恩と供養のために建立した寺だそうです。東南の方向にあったので東南寺と言われました。最澄はここで、民衆に法華経説法を始めたそうで、「戸津説法」と呼ばれたそうです。現在も毎年8月に「戸津説法」が延暦寺の高僧により続けられているといいます。寺の前にある説明板には、「寛永15年、高島郡今津にあった一堂を当地に移したので一名を今津堂ともいう」とのこと。この東南寺もまた元亀年間(1570~73)の兵火で焼けてしまったのです。今津堂と呼ばれたものが現在の東南寺になります。(資料1) 本堂 本堂に向かって左手傍に、「光」の文字を刻した葉上照澄阿闍梨(戦後初の阿闍梨)の記念碑が建てられています。土台正面には、生前に葉上阿闍梨が詠まれた歌が刻まれています。ここが葉上照澄大僧正の最期の地になったとか。 ひたすらに 謙虚に行ず ただ行ず つゆいささかの はからいもなく 南山こじんまりした境内は湖岸側に、等身大くらいの地蔵菩薩立像が一段高く安置され、 その両側に、数多くの石仏で、二つの塔のように塚が形作られています。他寺では見かけたことがない形式でした。供養塔として壮観です。これが何の供養のためなのか、当日、ガイドさんの説明を聴きもらしたのかも知れません。そこでネットで情報収集し、これらが「坂本落城の際の戦死者の首塚である」と説明されているサイトに出会いました。なるほどと納得できます。 軒瓦に菊の文が使われているのが目にとまりました。東南寺の先で右折すると、湖岸道路・西近江路です。 (地図番号6の場所)道路を横切った前方の民間企業の門の脇に、「坂本城本丸跡」の碑が建てられています。敷地内で遺構の一部が発掘されたのです。「坂本城は元亀2年(1571年)織田信長による山門(延暦寺)焼き討ちの後、明智光秀により東南寺川河口に築かれた水城としてよく知られている。 天正14年(1586年)大津城築城までの間栄えた城であり、当地の発掘調査ではじめて坂本城本丸の石垣や石組井戸、礎石建物等が発見された。 大津市教育委員会」(碑文転記)この背後の湖岸を右方向に行ったところに、坂本城趾公園があります。(この探訪では行程に組まれていませんでした。)湖上には、観光船が眺められました。左折して西近江路沿いに少し歩くと、「明智塚」が道路に面し、少し奥まったところにあります。(地図番号7の場所)じつはここ、私有地内なのですが地主さんが自由に訪れることができる形にされています。そして維持管理されているようです。当日いただいた探訪資料によると、このあたりは古くは「城」という小字名だったところで、坂本城内推定地です。この塚についてもいろんな伝承があり、「たとえば、光秀が坂本城築城に際して、本家の美濃守護土岐氏から伝領した宝刀を城の主柱の下に埋めた跡である、とか、光秀秘蔵の愛刀『鄕義弘』の脇差を落城に際して娘婿の左馬介秀満が埋めたところである、とか、また、左馬介秀満の首を埋めたもの、とか、明智一族の墓所であるとか」の諸説です。この塚にさわるとたたりがあると言われ、そのために壊されることなく現在に至っているといいます。毎年坂本城落城の6月15日に、明智一族の悲運もあってその鎮魂のため、地主の方が法要を営まれているそうです(説明板にも記載あり)。最後の探訪地が、酒井神社と両社神社です。(地図番号8の場所)両神社は信長の比叡山焼き討ちのときに焼失。その後にこの地に再建された神社です。 酒井神社 鳥居と本殿御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)道路傍の神社説明板の由緒には、「社伝によればその創建は弘仁元年(810)下坂本の梵音堂にある磊から酒が涌きだしその酒の精は大山咋命であるとの神告をうけ人々は社を建てて磊をご神体としてお祀りするようになったと伝承されています」とのこと。天正16年(1588)に再建後、元和6年(1620)に広島藩主浅井長晟(ながあきら)が現在地に移し建立したそうです。なぜ、広島藩主が? 実は、再建段階の時代に、坂本城主が淺野長政であり、酒井神社・両社神社がこの地で長政の長男として生まれた淺野幸長の産土神となったためといわれているそうです。長晟は長政の次男です。日吉大社の御祭神は総称で「日吉大神」と呼ぶそうですが、山王七社中の東本宮の御祭神が大山咋神なのです。そして、牛尾宮が大山咋神荒魂。日吉大社は天台宗の護法神です。坂本の地と大山咋神はさまざまにつながっているようです。(資料1,2) 「明治29年琵琶湖洪水石標」この境内で、こんな石標を見つけました。琵琶湖の沿岸は瀬田川洗堰の完成(1905年)までは、ほとんど毎年洪水や冠水の被害があったようです。明治以降も4回あり、明治29年(1896)の洪水が大水害だったのです。「9月12日にはこの付近で水位は13尺近くあり、もと両社の辻南東隅にあったこの石標には、その最高水位線が明示されています。」(説明板より)それがこの境内に移設されていたのです。余談ですが、膳所の城下町跡をめぐったとき(2012.12.1)に、同種の石標を響忍寺境内でも見ています。この石標です。 ここでは省略しますが、瀬田川沿いにも洪水石標があります。こちらも瀬田川関連の探訪記の再録により、既にご紹介しています。2箇所あります。こちらから御覧いだだけるとうれしいです。 (探訪 [再録] 瀬田川流域とオランダ堰堤(上桐生) -5 建部大社境内、明治29年洪水標、瀬田唐橋 へ)琵琶湖に関わる歴史的記念物が点から面として、これまた結びついてきました。同種の石標が他にもまだ残されているかもしれません。探訪の折に発見したら、またご紹介したいと思います。本筋に戻ります。建物の屋根瓦で目にとまったのが、 この兎と丸に違鷹羽と思われる紋章です。武家の紋章として丸に違鷹羽は淺野家と、『歴史探訪に便利な日本史小典』(日正社)に載っています。兎はどういう関係だろうかという課題が残りました。そこで、再録にあたり、余談としてその後に知り得たことを追記したいと思います。一説にこんな理由があるようです。伝統的な瓦の製作をされている会社のブログ記事で入手しました。引用します。(資料3)「ウサギはつき(月)を呼ぶと言われたり、前にしか進まないとか、よく飛び跳ねることから昔から縁起のよい動物とされているようです。」もう一つ、興味深い記事を発見。すご腕の鬼師が残した飾り瓦に、「波兎(なみうさぎ)」と呼ばれるものが残されているのです。それもやはり「縁起」ものという視点で説明が出ています。もちろん、興味深いウサギの飾り瓦の画像が掲載されています。こちらからご覧ください。(資料4)本筋に再び戻ります。 通りを挟んで、酒井神社の前に、両社神社があります。境内の説明板によると、祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命の二神。元仁年間(1224~25)に高穴穂神社の祭神を酒井神社の旧境内に勧請したことが創立起源だとか。淺野長晟が酒井神社を移設建立するときに、独立させたもののようです。境内の本殿についての説明によると、本殿の構造は酒井神社本殿と同じです。彫刻など細部が少し異なるだけのようです。江戸初期の特徴を示していると記されています。この両神社の説明をボランティアガイドさんから伺った後、現地解散となりました。JR比叡山坂本駅まではここから比較的近い距離です。JRの駅に戻ることにしました。その途中で、偶然見つけたのがこの旧跡です。 酒井神社の元の地がわかり、移転された距離もこれで判明しました。思わぬオプション探訪で今回はしめくるることができました。 ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『滋賀県の歴史散歩 上 』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p13-152) 日吉大社について :「日吉大社」3) ウサギの飾り瓦の復元製作 :「淡路瓦 タツミのブログ」4) 鬼師が残した飾り瓦 :「職人の遺した仕事」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺 法華経のエネルギーを後世に 大津で天台宗・戸津説法 2016.6.22:「京都新聞」 東南寺「戸津説法」 :「京都生まれの気ままな遁世僧」戸津説法とは :「水間寺公式ホームページ」滋賀県大津市 東南寺 :JAPAN-GEOGRAPHIC.TV坂本城 :ウィキペディア坂本 坂本城趾公園ほか :「歴史舞台 大津」61.近江坂本城跡の発掘調査<速報> 滋賀文化財だよりN0.38 pdfファイル 酒井神社のホームページ 「おこぼ神事」「まいどこ神事」という説明板のおもしろい言葉に関心を持ち検索したら、 ホームページがあることを知りました。大山咋神 :「玄松子の記憶」大山咋神広島藩 :「江戸三百藩HTML便覧」日吉大社について :「日吉大社」のホームページ両社神社 :「滋賀・びわ湖 観光情報」酒井神社と両社神社 大津の歴史事典 :「weblio辞書」明智光秀 :ウィキペディアあの人の人生を知ろう~明智 光秀 :「文芸ジャンキー・パラダイス」 この記事の最後の方に、塚や供養塔の写真紹介があります。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて へ探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -2 慈眼堂から坂本城趾碑 へ
2017.04.11
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慈眼堂 [探訪時期:2012年12月]ここでのわずかな時間で、なんとか撮ることができた対象物をご紹介します。 慈眼大師塔のさらに右側の端近くに並ぶ3つの石塔なんと! 清少納言之塔、和泉式部之塔、紫式部之塔の説明札あの有名な3人の供養塔が仲良くならんでいるのです!そして、この石塔・墓群には歴代天台座主の墓や新田義貞の供養塔もあるとのことです。これらは未確認、拝見できませんでした。 その上の段には、十三体石仏群があります。 左端に案内板がありました。 これら十三体仏は、高島にある鵜川の四十八体石仏群の一部だったのです。2012年、RECコミュニティカレッジの一講座に参加し、、高島の史跡探訪としてこの鵜川の地を訪ねた時に撮ったのが、この写真です。(順次、再録の予定です)ここで史跡めぐりの内容が連環してくるとは想像もしていませんでした。これも史跡めぐりを重ねることの楽しみですね。 慈眼堂を訪れる本来の門はこちらなのです。この門は、日吉東照宮への参道(権現馬場)のこの道から入っていく形になっています。当日の説明では、この東照宮は甲良の大工さんが天海大僧正の指示で建立したそうです。なぜか? 日光東照宮を作るためのモデルとして建立したのです、という風に聞きました。日光東照宮のホームページを確認しますと、「現在の社殿群は、そのほとんどがご鎮座から20年後の寛永(かんえい)13年(1636)に建て替えられたものです」という冒頭説明の後に、「ご造営の総責任者には秋元但馬守泰朝(あきもとたじまのかみやすとも)、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗広(こうらぶんごむねひろ)があたり、わずか1年5ヶ月の工期で完成しました。」(資料1)と明記されています。大棟梁として甲良家が大活躍したのです。初代甲良宗広は現在の滋賀県甲良町法養寺の出身です。(資料2)この東照宮の中には入れませんが、その建物の全景をみることはできるとのこと。(今回の探訪コースには入っていませんでした。)余談ですが、東照宮という名を冠した場所は、京都の金地院の境内にもあるのを思い出しました。金地院は南禅寺の塔頭の一つで、天海僧正と競ったもう一人の黒衣の宰相・金地院崇伝に関わりの深いところです。足利義持が北山に創建した塔頭を、崇伝が現在地に移築したのです。小堀遠州が崇伝の要請を受け金地院の「鶴亀の庭」を作庭したと伝わり、この庭と遠州作の茶室八窓席とで有名な塔頭です。京都の東照宮は家康報恩のために勧請したものという位置づけです。京都では唯一の権現造りの遺構となっているそうです。そうすると、坂本の日吉東照宮⇒日光の東照宮⇒京都の東照宮、という建立経緯になるようです。寛永5年(1628)の造営だといいます。(資料3)権現馬場を反対側へ下って行きます。作り道に出る手前、左手の「理性院」の門から、 延命地蔵尊坐像が見えました。その脇にはかわいい地蔵様も添えられています。作り道を右折してしばらく行くと、石垣の中に埋め込まれた小祠がありました。これも地蔵堂なのでしょう。同じ側に、高い石垣が続いています。まさに、作り道のために山麓斜面を開削したことがわかります。作り道から湖岸の方向へ左折し幅広い道を下って行くと、京阪松ノ馬場駅の線路を横断する形になります。JR湖西線の高架が見える地点(下阪本4丁目)の交差点を横断し、少し先まで進むと、まぼろしの坂本城に近づきます。なぜか、「坂本」ではなく「阪本」になっています。 この通路が坂本城のあった城下町の堀沿いの道路だったようです。下ってきた幅広の道路とこの通路の交差する一角に「三十番神守護」という石標がありました。下阪本小学校がすぐ近くです。この通路を進み、一角に地蔵石仏群がある蓮聖寺(日蓮宗)の傍を通って小川沿いに行くと、真新しい石標がありました。一面には「三十番神守護」、他の一面には「南無妙法蓮華経」の文字が刻まれています(傍に南大道町自治会の防火器具箱が設置されています)。湖岸とほぼ平行する幅広い道路と小川の交差する傍に、 坂本城趾の石碑が建っています。この辺りがかつての二ノ丸跡だといいます。かつて短期間存在したまぼろしの坂本城城内なのです。( この地図の番号4の場所が石標の立つあたりです。坂本城は、元亀2年(1571)9月12日、信長による比叡山延暦寺焼き討ちの後に、織田信長に命じられた明智光秀が坂本城を湖岸に築きました。延暦寺の監視、志賀郡一帯の支配、そして湖上交通の要衝地の押さえということになるようです。手許の本によると「光秀は、これまでの宇佐山城があまりに険しい山城であったので、今後は琵琶湖の水運と志賀越の最短入洛路を押さえるのが肝要として、湖畔の坂本に新しい居城を造営した」(資料4)と記されています。それは水城城郭(城内に琵琶湖の湖水を引き入れた縄張りの城)でした。しかし、天正10年(1582)の本能寺の変の後に、秀吉軍の攻撃を受け、坂本城は落城します。わずか10年ばかりです。秀吉の命令で、丹羽長秀が再建し、杉原家次に引き継がれたようですが、天正14年(1586)に淺野長政により廃城となります。そして大津への移転が実行されます。通算してもわずかの期間しか存在しなかった城なのです。大阪城の築城、東海道や淀川の陸水運が主となったことにより、大津の戦略的な重要性が高まったことや、延暦寺の監視も不要になったためのようです。まぼろしの坂本城の痕跡を求める探訪が最後の行程になりました。 つづく参照資料1) 社殿の概要 :「日光東照宮」2) 甲良氏 :ウィキペディア3) 金地院 :「京都府観光ガイド」 金地院 :「京都観光Navi」4) 『考証 織田信長事典』 西ヶ谷恭弘著 東京堂出版 p157【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺東照宮 :ウィキペディア東照宮(日吉東照宮) :「滋賀県観光情報」日吉東照宮にも行って気づけば東照宮マニア :「現身日和」南禅寺 金地院 東照宮 :「京みずは」三十番神 :ウィキペディア三十番神とは :「玄松子の記憶」護法善神 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津 石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡 -1 門前町にて
2017.04.10
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石山・瀬田川・膳所・浜大津から三井寺へと再録でご紹介してきましたので、続きに、幾度か訪れた坂本関連の探訪を再録しご紹介をしていきたいと思います。再録にあたり再読して加筆修正等編集を加えています。2012年12月16日(日)に石積みの門前町坂本と坂本城の痕跡をめぐる探訪に参加しました。「坂本城を考える会」の主催で、ボランティアガイドさんに案内していただけるという企画でした当日、京阪電車坂本駅前での受付を終えた後、時間があるので道路の反対側にある坂本観光案内所を訪ねました。坂本や比叡山、またこの近辺の案内パンフレット類が沢山あります。次回以降の再訪のために、いくつかいただきました。冒頭の画像は、「比叡山麓 石積みのある門前町・・・坂本」という2つ折りにしてA4サイズのリーフレットに掲載の地図のご紹介です。これが門前町坂本の全体図です。この探訪では、まず門前町坂本のこのあたりから始まりました。京阪坂本駅前~生誕寺~穴太積み石垣~滋賀院門跡~慈眼堂~石塔・墓・石仏を巡ることになります。京阪坂本駅は日吉大社への参道から少し奥まっています。駅前が広場になっており、参道に面した一角に、 この長方形の形に「日吉茶園」が残されています。説明板の要点をまとめますと、最澄が入唐求法し天台山で学び、帰国の折り茶の実を持ち帰り、比叡山山麓坂本の地に蒔かれたのが日吉茶園だったそうです。最澄が日本に初めて茶を伝えたといわれており、この坂本が日本の茶の発祥地だと記されています。 (付記:日本での茶の発祥地は諸説あります)参道の反対側、斜め前のお寺「生源寺」をまず訪れました。ここは比叡山延暦寺を開いた伝教大師生誕の地です。神護慶雲元年(767)8月18日誕生とのこと。(奈良時代も3/4が過ぎた頃、道鏡皇位事件のあった年です)後に寺が建立され、生誕寺と名づけられたのです。「ここは延暦寺の西塔の総里坊格のお寺でもありました。」(資料1)山門をくぐって入った境内の右手端に「伝教大師御産湯井」の井戸があります。本堂(別当大師堂)の正面階段には唐破風の屋根庇が作られ、両側にも階段があるというめずらしい形式です。 唐破風の上の龍の瓦が目を引きました。4638生誕寺の左手に大将軍神社があり、その先に、日吉大社の大きな石の鳥居が見えます。この参道の両側に里坊が並んでいますが、ここには穴太衆積みの石垣が一直線に眺められます。 この画像は、鳥居からの参道(「日吉馬場」とも言われる)の右手側、つまり寿量院・実藏坊・律院にかけての石垣です。石垣に苔が生していい風情になっています。参道を横切り、円教院・瑞応院の同様の石垣を見ながら進むと、「大冨騎鈴社」という石額の架かる鳥居のあるこじんまりした神社が並んでいます。 この入口傍の角燈籠に、こんな歌が刻されているのを見つけました。 気は長く つとめはがたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれこれって、まさに長寿の極意に通じるのではないかな・・・・と、ふと思いました。右手に折れて進むと、 滋賀院門跡の立派な白壁が見えます。延暦寺の本坊です。この石垣ももちろん穴太衆積み。4693山門屋根の獅子口には、比叡の叡の文字が浮き出ていました。山門を入ったところに、虚子先生選という句碑が建っています。 春泥を踏みて滋賀院本坊へ 恵進境内に説明板が建てられています。もとは慈眼大師が元和元年(1615)後陽成天皇から京都の法勝寺(岡崎にあった六勝寺の一つ)の建物を賜り、ここに移築・建立したのです。そして、明暦元年(1655)に後水尾天皇から「滋賀院」の号を賜ったといいます。徳川時代末までは法親王が住持となった門跡寺院です。天台座主の学問所でもあったといます。ただ、御殿は明治11年(1878)11月に火災により灰燼に帰したため、山上より建物を移築し明治13年5月に復旧されたと記されています。滋賀院門跡の庭は、小堀遠州作と伝えられています。残念ながら今回の探訪では拝見予定はありません。再訪の楽しみにしましょう。 もう一つ、境内に句碑が建っています。 叡慮にて賑ふ民や庭かまど 芭蕉後で調べてみると、この句には詞書きが付されています。「 仁徳天皇 高き屋にのぼりてみればとの御製の有りがたさを今も猶」という文です。手許の本の脚注には、中七をこの句碑のように「民や」とするのは「句選」の掲載であり、「庭竃集」では「叡慮にて賑ふ民の庭竃」として収載されていて、こちらを載せています。(資料2)慈眼大師とは徳川家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕え、黒衣の宰相と言われた南光坊天海大僧正なのです。(もう一人の黒衣の宰相が、金地院崇伝です。天海のライバルでもありました。)滋賀院門跡の奥に慈眼堂があります。 つまり、天海大僧正を祀る廟所です。ここで並び立つ石塔・石仏・墓群を見て驚嘆しました。今回と次回に別けて、その一部をご紹介したいと思います。この一帯、山裾が三段に形作られていたと記憶します。 まずビックリしたのが墓所に向かい、中央正面の石段の上にこの大きな宝塔が目にとまります。「桓武天皇の供養塔」と説明札が出ていました。菊の紋章が浮彫にされています。中段を左手端近くから眺めた景色大石塔に向かって右側の並びに「慈眼大師塔」「天海大僧正之塔」という説明札が傍にありました。こちらの説明の方が一般にわかりやすいからでしょう。こちらは無縫塔の形式。これは卵塔ともいわれ、「鎌倉時代に禅僧によって輸入された墓塔」の形式で、「室町時代以後、長卵形の形式が宗派をこえて流行した」(資料3)そうです。本来なら、この廟所区域を丹念に見ていくと、歴史の様々な局面が見えてくるのではないでしょうか。己の知識不足が不甲斐ないところです。この時、ここでは時間があまりとれませんでした。ここでは当日いただいたこの探訪ルート図では番号①~③あたりのご紹介となります。ご一読ありがとうございます。お楽しみいただけたら、また、現地探訪のきっかけになれば、幸です。つづく参照資料1) 当日の配付資料 ボランティアガイドさんの手作り資料2) 『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 p1493)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p342【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺伝教大師 → 最澄 :ウィキペディア「一隅を照らす人になろう」:「天台宗 一隅を照らす運動」 最澄のことば神護慶雲 :ウィキペディア宇佐八幡宮神託事件 :ウィキペディア日吉大社 ホームページ穴太衆 :ウィキペディア穴太積みの石垣について :「近江の城郭」石垣の積み方 :ウィキペディア天海 :ウィキペディア慈眼大師天海大僧正の業績 :「とりあえず覚書」慈眼大師天海大僧正年表 :「松永英明の絵文録ことのは」五輪塔 :ウィキペディア無縫塔 :ウィキペディア茶の伝来と日本の茶(茶の種類、茶の成分) :「膳所 冨永園茶舗」日本でのお茶の歴史 :「お茶百科」(伊藤園)茶の年表 :「おいしいお茶を求めて」日本への伝来 お茶の博物館:「入間市博物館」滋賀県にある「坂本の芭蕉句碑」のある場所と刻まれている碑文を知りたい。また、そこを訪れたいので、最寄りの駅など交通手段を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」松雄芭蕉句碑(坂本4) :「大津のかんきょう宝箱」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.04.09
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[探訪時期:2013年12月]私は毘沙門堂のところから観音堂の方に向かったのですが、総門を入り、受付を経て参道を歩いてくると、この「西国十四番札所 三井寺観音堂」碑が目印になります。この左の石段を上がると観音堂です。このスポット探訪最後の再録・ご紹介になります。観音堂の境内へ上る石段の近くに、十八明神社の石段があります。今回は、写真だけ撮って通り過ぎました。この名称も後で調べてみてわかったのです。十八明神は山内の土地・伽藍を守護する神だとか。しかし、一般には「ねずみの宮さん」と呼ばれ、親しまれているそうです。「ねずみの宮と頼豪阿闍梨」というタイトルで、ホームページには伝説の説明が載っています。こちらからご一読ください。(資料1) 当初のまとめをブログに載せたときには、「十八明神とは? 十八の具体的意味は?」という点がわからないままでした。この関心事の糸口がその後に少し見つかりました。再録にあたり補足します。地元にある三室戸寺を探訪した折に、その境内に「十八神社」が祀られていたのです。そして、このことが再び、三井寺と結びつくことになります。三室戸寺は智証大師が創建されたと伝わり、その創建にあたり当山の鎮守神として、元々は三室村の産土神として祀られていた神社に、山王信仰にまつわる十五神を合祀し、十八神社とされたというのです。この神社に「十八大明神」の扁額が掛けられているのです。その後、三室戸寺の十八神社の祭神について、考え方の変遷があるのですが、この十八神社と十八明神社は共通するところがあるようです。(資料2,3)石段を上った高台が観音堂の境内になっています。ところが、そこからさらに境内の南にある石段を上った先にすばらしい展望所があるとのこと。あまり時間が残っていないぞ、と急かされてまずそちらに駆け足で上ってみました。ここが展望所の高台に踏み入った景色です。「明治天皇玉座之所」という石標が建てられています。高台の北辺にまず行ってみました。手前の大きな屋根の建物が観音堂です。展望所から眺めた観音堂の建つ境内地の全景です。観音堂を中心とした区域は、「南院」とも称されるようです。そして、唐院・金堂の区域が「中院」です。新羅善神堂や法明院の所在するあたりが「北院」です。北院は場所が離れています。今は単立寺院となった円満院門跡の境内よりも北側に所在します。こちらの地図をご覧いただくと、おわかりいただけるでしょう。1/3000に拡大していただくと、1/8000の地図で園城寺町という表記のあたりに法明院が所在することがおわかりいただけます。今回ウォーキングのルートから外れるため、こちらを訪れてはいません。北東方向を眺めると、湖西側の大津市内が見渡せます。その先が琵琶湖です。ズームアップしてみると、対岸の湖東、野洲の方向に三上山が眺望できます。展望所北辺の西端近くには、「大津そろばん」の記念碑が建てられています。大津はそろばんの発祥の地なのです。私はこのことを、西教寺をスポット探訪して、その境内に大津そろばん関係の碑に出会い、後日に調べてみて、そうだったのか!と認識した次第です。三井寺のホームページにある「歴史散歩」に掲載の「忽然と消えた大津そろばんの謎を探る。」という記事をご紹介しておきます。こちらからご一読ください。(資料1) 結論は電卓の発明と普及が主因なのでしょう。しかし、改めて「そろばん」の効用が時折論じられているこの頃ではないでしょうか。左脳の発達に指先を使ってそろばんを使って計算することが役に立つからと。暗算とそろばんの関連を番組で取り上げているのをかなり以前ですが見たことがあります。境内地に下りました。時間が無くて観音堂そのものを写真に撮るのを忘れました。三井寺のホームページに掲載の「観音堂」の写真と説明をこちらからご覧ください。この観音堂はいろんな巡礼の札所として紹介されています。(ネット検索でわかるところはリンクさせてみました。) 西国三十三所巡礼の旅 第14番札所 近江西国観音霊場第5番札所 数珠巡礼札所 びわ湖108霊場(湖西二十七名刹)札所 という具合です。この観音堂の本尊は如意輪観音菩薩像で33年ごとに開扉される秘仏です。厨子の前にはお前立ち像が併せて安置されています。秘仏は平安時代の作で重文です。秘仏の説明はこちらでご一読ください。 西国三十三所第十四番札所としての三井寺の御詠歌は いで入るや波間の月を三井寺の 鐘のひびきにあくる湖 この観音堂はもとは長等山中の「華の谷」と呼ばれる場所にあったそうです。観音信仰の場としては参拝が困難であることと、その境内が女人結界という制約もあったことから、1481年に園城寺の正法寺(観音堂)を現在地に移したと言います。それは文明年間、室町幕府・将軍足利義尚の時代です。1686年、德川綱吉の時代の初期に火災に遭い、1689年に再建されたことになります。こちらは「百体観音堂」です。この堂内正面中央に観音堂本尊と同じ如意輪観音像が奉安されているそうです。今回は堂内をゆっくり拝観する時間が取れませんでした。残念!この堂内には、如意輪観音の左右に西国札所の三十三観音像を二段にして祀り、右に坂東三十三箇所、左に秩父三十四箇所の本尊を安置しているそうです。それで合計百体の観音像が安置されているために百体堂と呼ばれるのだとか。江戸時代(宝暦3年・1753)の建物で、県指定文化財。正面3間、側面2間、宝形造です。その東側が「観月舞台」に繋がっていきます。観月舞台に向かって左側に駒札が建てられています。謡曲史跡保存会が建てられたもので、謡曲「三井寺」とこの舞台についての説明板です。こちらも県指定文化財ですが、百体観音堂よりも90年近く時代が新しいものです。嘉永3年(1850)の建立。12代将軍德川家慶の時代、「開国・尊皇攘夷運動・倒幕」が始まる前夜という時代ですね。 観月舞台から少し南側にある奉納石柱 観音堂の北隣に「鐘楼」があります。詳細は駒札をご一読ください。鐘楼に現在安置されている鐘は、当寺所蔵の『朝鮮鐘』を模刻したものだそうです。唯一写真だけが残っているこの『童子因縁之鐘』がかつては安置されていたのですが、第二次世界大戦で供出の憂き目に遭ったのです。この頃、徴発行為によって多くの文化財が失われたことでしょう。写真の右に記された由来の主眼は改心にあるようです。梵鐘鋳造の発願をし、富豪の家に勧進に行った僧が家主から寄進を拒否されます。その富豪は名うての吝嗇家であり、沢山いる我が子なら何人でも呉れてやる金は出せないと答えたのです。見事な梵鐘ができあがった時、鐘には3人の子供の姿が浮かび上がっていました。一方、梵鐘鋳造の日に、子供3人が行方不明になっていたことがわかったのです。以来、吝嗇家の富豪が慈悲深い人に変わって行ったという因縁話です。 いよいよ時間がなくなり、ウォーキングの例会参加者の最後尾を追っかける羽目になりました。冒頭に載せた写真の石段を逆に下ります。石段の東側に、「浄妙坊(筒井浄妙)坊跡」という駒札が建てられていて、傍に小祠があり、石塔が祀られています。五輪塔ではなさそうです。駒札を読んで、こんなところで祇園祭との関連が出てくるとは思ってもいませんでした。山鉾の「浄妙山」との関連がここにあったのです。祇園祭の浄妙山について簡潔な説明があります。「宇治川の合戦で、三井寺の僧兵筒井浄妙と一来法師の奮戦の一瞬を見事な人形組でとらえている」というもの。(資料4)拙ブログで祇園祭の「橋弁慶山と浄妙山」を「酷暑の記憶 祇園祭」の中の一つとしてご紹介していました。いずれ、再録してご紹介したいと思っています。石段を下りきり、左折して総門に向かう途中、左側に一段高くなった境内があります。それが「南無薬師如来」の幟が立てられている五別所の一つ「水観寺」です。ここも参道からズームで写真を撮るだけになりました。本尊は薬師如来であり、現在は西国薬師霊場第四十八番札所になっています。この水観寺もここに移築されたものです。建物は明暦元年(1655)の建立だそうです。(資料5)調べた範囲でまとめてみますと、水観寺は、*平安時代の長元元年(1040年)、長吏明尊大僧正によって創建された。*園城寺総門北に所在した。*慶長6年(1601)長吏准三宮道澄大僧正により復興された。*昭和63年、園城寺境内の現在地に一堂が移された。ということです。いくつかのブログからうかがえます。(資料6)拝観リーフレットには、拝観順路の一つとして「護法善神堂」があります。時間の関係でここは探訪できませんでした。新羅善神堂、法明院と併せて再訪の課題となりました。「護法善神堂」はこちらをご覧ください。(資料1) ここが「総門」です。総門から外に出て、北方向を眺めると、三井寺の外周の石垣と堀が築かれている姿が目にとまります。まさに簡易な城構えという趣です。 これで三井寺細見と題した再録とご紹介を一旦終わりと致します。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 三井寺 ホームページ 2) 新羅神社考-『新羅神社』への旅 :「三井寺」 3) 『宇治郡名勝誌』 :「近代デジタルライブラリー」 矢部文載編 明治31年11月 コマ番号 138/158 4)「平成23年度祇園祭山鉾参観案内書」 祭当日配布のリーフレット5) 拝観受付所にて入手したリーフレット6) 水観寺~園城寺別所 :「古都の礎」 三井寺(園城寺・子院水観寺) 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺明神 :ウィキペディア 近江西国霊場33ケ所 :「湖国寺探訪」数珠巡礼 公式サイト 数珠巡礼について びわ湖108霊場 公式サイト びわ湖108霊場とは 日本西国薬師四十九霊場:更新公式サイト西国四十九薬師霊場会 トップページ お薬師さんとは 新羅善神堂 :「三井寺」 新羅善神堂をきっかけにまた壬申の乱が蘇る <大津巡り12回> :「現身日和」 法明院(フェノロサの墓) :「滋賀県観光情報」 法明院 :「三井寺」 三井寺 大津観光インターネットチャンネル:Youtube 三井の晩鐘 大津観光インターネットチャンネル:Youtube 園城寺(三井寺)源氏ゆかりの寺 :「NHK映像マップ みちしる」演目事典:三井寺 :「the能.com」近江建物探訪 びわこビジターズビューロー 滋賀県・観光交通局 pdfファイル ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 [再録] 滋賀・大津 JR大津京駅から三井寺への道にて へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -1 大門、釈迦堂、弁財天社、教待堂、熊野権現社 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -2 三井の鐘、金堂、閼伽井屋、霊鐘堂 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -3 一切経蔵、唐院(灌頂堂、大師堂、三重塔、長日護摩堂)へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -4 村雲橋、微妙寺、天台大師像、石仏像、毘沙門堂 へスポット探訪 [再録] 宇治・三室戸寺細見 -5 十八神社、霊宝殿、三室戸寺庭園 へ
2017.04.06
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唐院探題灯篭が林立する参道を下り、右折して進むと「村雲橋」です。 [探訪時期:2013年12月]橋を渡った右手の石垣と築地塀のところが「勧学院」。この石垣は穴太(あのう)衆の積んだ穴太積みなのです。勧学院は一般公開されていません。「勧学院客殿」については三井寺ホームページのこちらをご覧ください。(資料1) 左の画像は村雲橋の近くから長等山の方向(西方向)を眺めたところ。右の画像は北方向、金堂に至る参道です。手前に見える石段の方を上がると唐院探題灯篭の並ぶ参道です。村雲橋の北西詰から南西方向の眺め 「村雲橋」の説明駒札がおもしろい。智証大師の霊験のあらたかさを賞賛したいための伝承話なのでしょう。論理的に読んでいくと超常能力がなければできないことの組み合わせなんですけれども。洋の東西を問わず、奇蹟の類いの話はこのようなものでしょうか。喩えととらえればいいというところかも・・・。「村雲」を辞書で引くと、「月に村雲花に嵐」という用例が出ています。「群がり集まった雲。一群れの雲」(『大辞林』三省堂)、「ひとかたまりになった状態の雲。にわかにむらがり立つ雲」(『日本語大辞典』講談社)、「群がり立つ雲。一むらの雲」(『広辞苑』岩波書店)などと説明されています。「天の叢雲の剣」という言葉がありますね。「草薙の剣」の前称だとか。あの「三種の神器」の一つと言われる剣です。「素戔嗚尊(スサノオノミコト)が、出雲国(島根県)簸川(ひのかわ)上流で八岐大蛇(やまたのおろち)を斬った時、その尾から出たと伝える剣。・・・・景行天皇の代、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、東征の折、これで草を薙ぎ払ってから称を改め、後、熱田神宮に祀ったという」(『広辞苑』)ものです。「村雲」にはこの剣の「叢雲」の連想があるかもしれませんね。「村雲」からの連想で、探訪したことのある近江八幡市内の「村雲御所」(別称)を想い浮かべます。八幡山の山頂にある「村雲御所瑞龍寺門跡」(正式)です。こちらの探訪記も、いずれ再録したいと思っています。脇道にそれた序でに、『源氏物語』野分の巻の終わりに近い、夕霧が明石の姫君を訪れてその姿を見るという場面で、夕霧が詠む歌に「むら雲」という言葉が使われています。(資料3) 風さわぎむら雲まがふ夕べにもわするる間なく忘られぬ君 『源氏物語』の作者は紫式部ですが、紫式部の没後にその父、藤原為時は70歳を過ぎてから三井寺で出家したといいます。三井寺は紫式部一家と縁の深いお寺のようです。今回事後学習していて知った次第です。三井寺のホームページのこちらの記事をご覧ください。「唐院灌頂堂につづく道」「三井寺三重塔」が違うアングルからの写真も載っています。(資料1) 村雲橋を渡って南進すると、「微妙寺」があります。このお寺は「園城寺別所」です。既にリストでご紹介した重文・十一面観音菩薩がご本尊として奉安されています。そのため、ここは「湖国十一面観音霊場第一番札所」となっています。俗に「笠ぬげの観音」と呼ばれているとか。そのいわれとこの仏像の写真は、こちらをご覧ください。この観音様は「土・日・祝日のみご開扉」されるので、ご注意を。 お寺でいただいた説明書によると、この仏像は「檀像風」と呼ばれるものだそうです。「インドや中国において仏像を彫刻する場合、香木つまり白檀や栴檀などを用いて彫刻するのが常でした。高級な材質ですので、おのずと小型の彫刻になる訳です。我国ではそういった高級な檀木の入手が困難であったため、樟や桧を代用することになります。」ということで、この像高約82cmの観音菩薩像もヒノキの一木造です。(資料4)園城寺には5つの別所があったといいます。別所というのは、平安期以降に広く衆生を救済するために園城寺境内の周辺に設けられた別院だそうです。この微妙寺のほかに水観寺(すいかんじ)・近松寺(こんしょうじ)・尾蔵寺(びぞうじ)・常在寺(じょうざいじ)がそれに当たります。微妙寺は、平安時代の正暦5年(994年)、園城寺の僧・慶祚大阿闍梨によって創建されたそうです。かつては現在の長等公園の一角にあり、勢時には本堂のほかに三重塔・法華堂をはじめ僧坊96坊を数えたと言います。本堂は安永5年(1776年)の建造物ですが、それがここに移築されたのです。上記十一面観音菩薩像は廃寺となった別所尾蔵寺の本尊という伝えもあるようです。(資料5)脇道にそれますが、この別所の一つ近松寺に関連したことです。なんと浄瑠璃、歌舞伎の戯作者として誰もが知っている近松門左衛門といささか関係しているのです。近松門左衛門、「本名は杉森信盛。越前福井出身、俸禄300石の武家の次男。先祖は浅井長政や秀吉に仕えていた。ペンネームは芸能の神を祀る近江・近松寺(ごんしょうじ)にかけ、その寺に入ることができない門前の小僧というシャレっ気から“近松門左衛門”としたと言われている」のだとか。「10代前半に父が何かの理由で失職し浪人になったことから、一家は京都へ出る。若き近松は都で公家に仕えたが、この公家は自分で浄瑠璃を書くほどの愛好者だった。」福井の吉江を離れた近松一家が京都に住み、近松は公家の家で奉公をしていた時期があったのですね。ある時期この近松寺に遊学し、仏典や漢籍を学んだという説もあるようです。そんな経緯があの近松を生んだということを今まで知りませんでした。(資料5,6)もう一つあります。思い出したことです。京都の東山・本願寺を比叡山衆徒に破壊された蓮如上人がこの別所近松寺の寺領を分与してもらい、坊舎を建ててひととき過ごした時期があるのです。それは堅田の探訪で光徳寺を訪れ、その探訪記のまとめをしていて学び、知りました。この折の探訪記もいずれ再録したい所存です。その時の坊舎の跡が現在の浄土真宗本願寺派・近松別院[顕正寺]なのです。三井寺のホームページにある「浄土真宗中興の祖・蓮如上人と、三井寺の出会い。」(歴史散歩)もご一読ください。こちらからご覧いただけます。参道を隔てて反対側だったと記憶しますが、この天台大師石像が建立されています。 微妙寺本堂の前の参道・坂道を南東方向に上っていく道の左右にいくつかの石仏像が建立されています。 地蔵尊像 観音菩薩像 この観音菩薩像は「衆宝観音」だそうです。「観音菩薩はもとインドのバラモン教で説かれていた神から転化した菩薩である。33に変化し衆生の苦難を救うとされ、一説に西方極楽浄土に住し、阿弥陀如来の脇侍となり、教えを守るという」とのこと。(資料7)「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」は一名「観音経」とも称されています。『寂聴観音経』で、瀬戸内氏はこの観音経をかみ砕いて説明されています。「観世音は大悲願によって、本来は如来であるけれど、衆生に近い菩薩に身を下し・・・・衆生済度のためには三十三身に化身されるのです。三十三は無数という意味です。」と説く一方で、「観世音の三十三身とは、三種の聖身、六種の天身、五種の人身、四種の衆身、四種の婦女身、童男童女身、八部身、執金剛身のことをさします」と述べ、それぞれについて具体的に○○身として整理されています(資料8)。しかし、ここには「衆宝観音」という具体的な名称はでてきません。勿論、観音経に記載があるわけでもありません。ネット検索で調べてみると、別の視点での「三十三観音」に出会いました。そこには「衆宝観音」その他馴染みのある観音名称も載っています。「元禄3年に土佐の画工、紀秀信によって開版された本」で、『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という書に出てくるようです。衆生済度のために相手に合わせて化身し、その姿は無数という見方に立てば名称の付け方は方便かもしれません。いずれにしても信仰のなせるわざなのでしょう。(資料9)「衆宝観音」については、こちらをご覧ください。 観音堂に向かう手前で、参道より少し上ったところに、建物が丹色に塗られ、彩色鮮やかな比較的小さなお堂が見えます。 そこへの登り口に建てられた歌碑 階段を上ってみると「毘沙門堂」でした。このお堂は、園城寺五別所の一つ尾蔵寺の境内にあった南勝坊にあったもののようです。解体修理、移築により、元の姿に復元されたということなのでしょう。駒札によれば近世初頭の建物のようです。極彩色の図柄をクローズアップしてみました。華やかですね。「毘沙門天」は独尊として祀られたときの名称ですが、天部の四天王像として祀られるときには「多聞天」として北方に配置される仏土守護の神将です。外敵から守るという意味で、「兜跋毘沙門天像」として有名な仏像が数々あります。千手観音の眷属で、行者を守護する善神として、毘沙門天は二十八部衆の一つでもあります。(資料7)ついつい寄り道をしてしまいます。この後、観音堂の境内の方に坂道を上って行きます。つづく参照資料1) 三井寺 ホームページ 勧学院客殿、古典を歩く より 2) 村雲御所跡 :「フィールド・ミュージアム京都」 3)『源氏物語』 p2834)「重文・十一面観音菩薩」 微妙寺にていただいた説明書5) 微妙寺~園城寺別所 :「古都の礎」 園城寺(三井寺)(大津市) :「京都風光」6) あの人の人生を知ろう ~ 近松 門左衛門 :「あの人を知ろう」 滋賀県大津市 近松寺 :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」 近松門左衛門 生涯を知る 生い立ち :「文化デジタルライブラリー」 7)『図説仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p298)『寂聴 観音経』 瀬戸内寂聴著 中公文庫 p159,p165,p1859) 三十三観音 :「仏様の世界」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺近江デジタル歴史街道 :「滋賀県立図書館」 「近江名所図会」とキーワード入力して検索すると、該当書の内容が閲覧できます。 プラグイン・ソフトの入手がまず必要です。今回ネット検索していて初めて知ったウェブサイトです。 閲覧できたらいいなと思っていた資料がいくつも見られてハッピーです。秀逸なサイトです。 「近江名所図会2」をご覧ください。 ページ7-9 三井寺の全景図 ページ12 村雲橋の図 ページ16 弁慶の引き摺り鐘の谷への投げ落とし図 ページ17 三井寺 女人詣 (弁慶の汁鍋) ページ18 微妙寺、近松寺の項目が載っています。 天台大師 → 智ギ :ウィキペディア 源氏物語 野分の巻 現代語訳 原文 渋谷栄一氏(高千穂大学教授)の作成によるものです。 第三章第一段をご覧ください。 近松別院 「顕証寺」:「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」 毘沙門天 :ウィキペディア 兜跋毘沙門天 :ウィキペディア 園城寺(三井寺)毘沙門堂の概要を知りたい。:「レファレンス協同データベース」 三井寺(園城寺)・毘沙門堂 :「滋賀県:歴史・観光・見どころ」 東寺 宝物館 兜跋毘沙門天 :「東寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 [再録] 滋賀・大津 JR大津京駅から三井寺への道にて へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -1 大門、釈迦堂、弁財天社、教待堂、熊野権現社 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -2 三井の鐘、金堂、閼伽井屋、霊鐘堂 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -3 一切経蔵、唐院(灌頂堂、大師堂、三重塔、長日護摩堂)へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -5 十八明神社、観音堂、百体観音堂、観月舞台ほか へ
2017.04.06
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[探訪時期:2013年12月]前回、探訪した日に偶然ですが映画のロケ現場に出くわしたことに触れています。霊鐘堂から一切経蔵に向かう途中に、三井の晩鐘と金堂に近い池庭あたりに下る石段があります。その撮影の現場への出番待ちの俳優さんが佇んでいるのに出会いました。写真を撮らせてもらった次第です。寺の境内での着物姿。こんな姿を眺めるとまさに江戸時代にでもタイムスリップした感じです。 闕所が解除された後、次々と境内に建物が再建される過程で、この一切経蔵が慶長7年(1602)に周防(山口県)の国清寺から移築されたのです。毛利輝元の寄進といいます。拝観の折りにいただいたリーフレットには、室町初期の建築と記されています。 「八角輪蔵」 八角形の回転する書架なのです。ここに版木の一切経や経巻が納められていたのでしょう。仏教のすべての経典を総称して一切経と言い、また大蔵経とも言われます。今はインターネットで大蔵経の経典を閲覧できる時代です。アクセス先を補遺にご紹介しておきましょう。 経蔵内の鏡天井や虹梁にはかつて彩色され何らかの図が描かれていたようです。現状からは想像ができません。極彩色の図柄だったのでしょうね。一切経蔵の近くにも、智証大師聖訓阿字秘釈の章句が掲示されています。 南東方向から眺めた一切経蔵一切経蔵の南には三重塔が見えます。 拝観のリーフレットによると、この三重塔は德川家康による寄進だそうです。また、駒札には比曽寺としていますが、こちらは比蘇寺と表記されています。また、室町初期の建築とも。短時日に堂塔伽藍を復興・再建するために、さまざまな寺から建物を調達・移築したということですね。時の権力者だからこそなしえたことなのでしょう。三重塔の南隣には、「唐院灌頂堂」、さらにその南側に「長日護摩堂」が並んでいます。前方からは見えませんが、灌頂堂の背後、つまり東側には「唐院大師堂」があるのです。今回大師堂は確認できませんでした。「灌頂堂」という表記の上に「唐院」と記されています。「灌頂堂」は「寺流の密教を伝承する道場」です。正面も側面も五間の大きさで、一重、入母屋造、檜皮葺の建物です。『大辞林』(三省堂)によると、灌頂というのはサンスクリット語の訳語のようです。古くインドで、国王の即位、または立太子の際、頭頂に水を注いだ儀式から転じた語句だとか。それが仏教に導入されて、「菩薩が最終の位にはいる時、仏が智慧の水を注ぐこと」を意味し、また「密教の儀式。伝法・授戒・結縁などのとき、香水を受者の頭に注ぐこと」を意味するようです。堂内をズームアップで撮ってみました。伝承儀式のためのセッティングがなされているような雰囲気です。堂内は前室と後室に分けられているそうです。これは、唐破風造向拝の飾金具をズームアップで撮った画像です。また、灌頂堂は建物の背後、つまり東側に位置する「唐院大師堂」の拝殿としての役割も備えているそうです。(資料1)「唐院大師堂」は慶長3年(1598)の再建です。ここが開祖・智証大師円珍和尚の廟所なのです。三井寺では最も神聖な場所です。ここに、前回リストに挙げた国宝・智証大師像二躯と重文・黄不動尊立像が祀られているそうです。どんなお堂かは、ホームページの写真をごらんください。こちらからどうぞ。 灌頂堂の前から北方向の眺め 灌頂堂の南隣に位置する「長日護摩堂」なぜか、この建物については、ホームページにもリーフレットにも解説が載っていません。駒札の説明が唯一のものです。ネット検索して、駒札記載以外の情報として、「本尊は不動明王を安置する。長日護摩供を修する道場になっている」そうです。(資料2)「唐院の名は智証大師が入唐求法の旅で持ち帰った経典類を納めたことに由来する」(資料1)ということですので、当初の唐院も現在の唐院と称される当寺の聖地に位置していたのでしょう。これが唐院の境内への四脚門です。「開祖智証大師御廟」という表札が掛けられています。参道、四脚門、唐院灌頂堂、唐門、唐院大師堂と真っ直ぐ、一直線上に配置されているようです。 門からこの御廟への参道を眺めたところ。参道の両側にあるのが「唐院探題灯篭」と称されているものです。これは歴代の探題により奉納された石造灯篭なのだとか。「探題」という言葉は、仏教においては「論題を定める役名。法華会・維摩会などの論議の時、論題を選定し、論議を進行せしめ、そののちその及第を判定する職官。この役は論場を統領する重職で勅によって任命された」という役職名のようです。(資料3)天台宗のホームページには、「天台座主とは」の項に、こんな説明文が記載されています。「現在、座主職の欠職は許されず、座主が万が一の場合は、探題(たんだい)職の順位で次席の者が直ちに上任する定めになっています。探題職は、定められた経歴法階によって、望擬講(ぼうぎこう)、擬講(ぎこう)、已講(いこう)、という法階を歴任して、探題に補任されます。その補任順位の首席が延暦寺住職として天台座主に上任します。」(資料4)ここでの「歴代の探題」というのがこの役職名なのでしょう。この言葉が、転用されて「六波羅探題」などと、幕府の政務について裁決を行う重要な職に使われるようにもなったのですね。(資料5)この後、村雲橋の方に向かいます。つづく参照資料1) 拝観受付所にて入手したリーフレット 三井寺 ホームページ 2) 園城寺(三井寺)(大津市) :「京都風光」3)『新・佛教辞典 増補』 中村元 監修 誠信書房 p3604) 天台座主とは :「天台宗」 5) 探題 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺SAT大正新脩大藏經テキストデータベース 智証大師年譜 :「天台寺門宗」 阿字観 :ウィキペディア 国清寺 → 洞春寺山門・観音堂 :「西の京 やまぐち」(山口市観光情報サイト)山口県にある「国清寺」「香積寺」のヨミを知りたい。:「レファレンス協同データベース」 ひそでら【比曽寺・比曾寺・比蘇寺】 :「コトバンク」 曹洞宗世尊寺 :「鉄馬で行く ツーリング記録」毛利輝元 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 [再録] 滋賀・大津 JR大津京駅から三井寺への道にて へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -1 大門、釈迦堂、弁財天社、教待堂、熊野権現社 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -2 三井の鐘、金堂、閼伽井屋、霊鐘堂 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -4 村雲橋、微妙寺、天台大師像、石仏像、毘沙門堂 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -5 十八明神社、観音堂、百体観音堂、観月舞台ほか へ
2017.04.05
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金堂 教待堂側からの眺めです。 [探訪時期:2013年12月] 大門(仁王門)への参道 鐘楼 「三井の晩鐘」の張り紙があります。「三井の晩鐘」は近江八景の一つです。 この鐘は「日本三名鐘」の一つに数えられています。あとの二つとは京都の神護寺鐘と宇治の平等院鐘だそうです。この名鐘にも特徴があり、三井寺の鐘は「音」、神護寺鐘は「銘」、平等院鐘は「姿(形)」が賞賛されているとか。そして、平成8年7月には、環境庁より「日本の音風景百選」に認定されています。この浮世絵は歌川広重が描いた「三井晩鐘」です(ウィキペディアから借用)。私は一部分しか知りませんが『鉄道唱歌』(大和田建樹作詞、多梅稚・上眞行作曲)に、この三井の鐘が歌い込まれているのですね。 堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘 夕くれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん (鐘全般について:資料1) 金堂の建物は南側が正面です。正面側に「金堂」の駒札が立っています。三井寺の歴史年表を参照すると、文禄4年(1595)11月に豊臣秀吉が「三井寺に闕所の命を下し、堂塔を破壊、寺領を没収する」ということを行っているのです。そしてその翌年でしょうか、「四月 三井寺金堂、延暦寺に移築されて西塔釈迦堂となる」のです。秀吉による朝鮮出兵、いわゆる「文禄の役」(1593年和議)、文禄3年(1594)伏見城完成のあった直後の時期です。秀吉は慶長3年(1598)に没します。なぜ、秀吉はこんな時期に三井寺を闕所にしたのでしょう。「闕所(けっしょ)」というのは境内堂舎さらには所有する所領を没収する処罰のことです。三井寺には最大のピンチの到来です。なぜ、そんな事態になったのか? 実のところはよくわからないそうです。一応記録に残る説明があります。三井寺掲載の「戦国武将と三井寺」シリーズ、「その(2)豊臣秀吉」のページに、「三井寺の最大ピンチ」として説明されています。こちらからご一読ください。 秀吉の正室だった北政所がその翌年(1599)、今度は三井寺の金堂を再建するということになるのです。三井寺の存在、寺領を回復させたのは誰だったのでしょう?「三井寺の最大ピンチ」の説明によると、北政所と聖護院門主・道澄が尽力し、秀吉の死の前日に闕所の処分解除にこぎつけたようです。つまり1598年8月ということになります。 金堂の前にある「堂前灯籠」駒札にはいわくありげな伝承が記されています。金堂内を拝見しましたが、堂内撮影禁止でした。拝見した仏像が数多く、ゆっくりメモをしている時間まではなく、記憶も定かでありません。金堂のご本尊は弥勒仏だそうですが、絶対秘仏であり誰も見た人がいないそうです。手許にある本にはこの弥勒仏そのものについての項目がありません。見た人が居なければ、国宝・重文などの評価もできませんし、掲載もできないからでしょうね。ちなみに、園城寺の項目で一覧になっているのは次の通りです。(資料3)国宝:智証大師坐像(御廟大師)、智証大師坐像(御骨大師)、新羅明神坐像重文:千手観音立像、護法善神立像、黄不動立像、吉祥天立像、十一面観音立像、 訶梨帝母椅像、愛染明王坐像、不動明王坐像、智証大師坐像、如意輪観音坐像脇道にそれますが・・・・・この日(2013.12.7・土)、金堂前の庭園部分で映画のロケが行われていました。 後日ウォーキング仲間のEメールによれば、2014年の4月に放映予定のNHK「銀二貫」の撮影風景でした。 金堂を南西側から見上げたところです。 金堂の西側には「閼伽井屋」があります。 駒札通称で「三井寺」と呼ばれる由縁がこの閼伽井の霊泉にあるのです。天智・天武・持統の三帝がここの水を産湯に用いたということが「三井」のゆわれだとか。「御井」が「三井」に転じたようです。また、この閼伽井の泉には九頭龍神の伝説があるそうです。三井寺のサイトに、「三井の霊泉と九頭龍神」という伝説解説があります。こちらからご覧ください。 閼伽井屋の建物には龍の彫刻が施されていて、こんな説明札が掛けられています。 格子の間から閼伽井を撮ってみました。 閼伽井屋の建物の北側は、小さいスペースですが、「閼伽井石庭」が作られています。金堂の左側面と閼伽井屋の間を通り、この石庭を回り込んで少し坂道を上ると、「弁慶鐘」を展示するお堂(霊鐘堂)があります。 入口から眺めた弁慶鐘と内部に入って改めて撮った写真。これが「弁慶の引き摺り鐘」です。 鐘の傍には、『近江名所図会』からの絵が展示されています。山門の衆徒が三井寺の鐘を奪って、無動寺谷になげ落としたということがあったのでしょう。山門・寺門の抗争の一コマだったのでしょうね。弁慶鐘の背後には、「弁慶の汁鍋」という巨大な鋳物鍋が置かれています。 同じく『近江名所図会』に紹介された絵が展示されています。武蔵坊弁慶が大鐘を奪い取った代わりに所持していた大鍋を残していったという伝承はおもしろいですね。まるで物々交換のようで・・・。誰かがおもしろおかしく話を作ったのでしょうか。 霊鐘堂を南側から眺めたところ。この蟇股の間から厚板の先端が何枚も階段状に重ねられた形で突き出しています。こんな奇妙なのは、ここで初めて見ました。時間が無くて、お堂に居た係の人に尋ねることができませんでした。 屋根の鬼瓦の表情もおもしろい!「弁慶の引き摺り鐘」の伝説解説は、こちらからお読みください。 こんなおみくじの掲示が・・・・おみくじもいろいろあるんですね。三井寺のホームページにある「境内案内」はこちらからご覧ください。 つづく参照資料1) 近江八景 :ウィキペディア 日本三名鐘 :「コトバンク」 日本の梵鐘「日本三名鐘」 :「(株)カリヨン・センター」 三井の晩鐘・大津市園城寺町 :「滋賀文化のススメ」 鉄道唱歌 :ウィキペディア 2) 三井寺 ホームページ 3)『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社 p200-201【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺日本の梵鐘「日本三名鐘」:「(株)カリヨン・センター」 大津市「三井寺(園城寺)」 宇治市「平等院」 残したい日本の音風景100選 環境省水・大気環境局 大気生活環境室 :「環境省」 トップページ武蔵坊弁慶 :ウィキペディア 武蔵坊弁慶生誕の地・たなべ :「田辺探訪」 比叡山延暦寺西塔釈迦堂 :「比叡山延暦寺(全19頁)」 左甚五郎 :ウィキペディア 「閼伽井屋の龍」の写真が出ています。 道澄 :ウィキペディア 聖護院道澄 :「weblio辞書」 道澄 :「コトバンク」 聖護院 :「コトバンク」聖護院門跡 本山修験宗総本山 ホームページ 智証大師円珍と関わりがあったのですね。 コトバンクの説明とここのページ「聖護院について」を読んで、なるほど!と。 聖護院 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 [再録] 滋賀・大津 JR大津京駅から三井寺への道にて へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -1 大門、釈迦堂、弁財天社、教待堂、熊野権現社 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -3 一切経蔵、唐院(灌頂堂、大師堂、三重塔、長日護摩堂)へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -4 村雲橋、微妙寺、天台大師像、石仏像、毘沙門堂 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -5 十八明神社、観音堂、百体観音堂、観月舞台ほか へ
2017.04.05
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