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2015.2.20寺院の境内の多くには、鐘楼があり、梵鐘が吊り下げてあります。今回は、京の洛南、伏見・深草にある「瑞光寺」の梵鐘から始めます。 梵鐘のほぼ全体を撮りました。 龍がいます!梵鐘の縦帯と称する箇所に龍を見つけたのです。梵鐘の表面にこれほど大きな姿の龍像を象っているのに出会ったのはここだけです。ということで、最初にご紹介。梵鐘の各部名称については、ネット情報でわかりやすい情報を得ましたので補遺にご紹介しています。ご覧ください。参照資料の中にも説明を含む記事があります。「梵鐘」という言葉について調べてみますと、梵鐘の梵は古代インドのサンスリット語のBRAHMAを音訳した漢字だそうです。神聖・清浄の意味を持ち、清らかさを表す言葉だと言います。また、古代インドのサンスクリット語そのものは梵語と称されてきています。つまり、梵鐘は神聖・清浄な鐘という意味になるようです。(資料1,2,3) それと、梵鐘を吊り下げる部分が撮りやすかったことも理由の一つです。この部分、「龍頭(リュウズ)」と称されます。その名の通り、ここには龍頭が様々にデフォルメされたバリエーションを見ることができます。どの鐘にもある部分、懸吊装置です。ところがこれがなかなかうまく撮れません。梵鐘の表面を見回しても龍像を見つけることはなく、龍頭だけというのがほとんどです。見上げることになりますので、その龍頭がうまく撮れないというのが残念なところ。ここではたまたま龍頭が撮りやすかった事例を含めて、鐘楼・梵鐘で見つけた龍をご紹介していきます。龍頭だけのご紹介事例は、梵鐘の表面に龍像がいなかったとご理解ください。(私が見落としたというケースはあり得ます)洛南でもう一カ所気づきました。北西方向の上鳥羽へ飛びます。 2014.2.27「實相寺」(日蓮宗、鍋ヶ淵町)というお寺です。近鉄京都線上鳥羽駅から歩いて20分ほどのところにあるお寺。 龍頭はこんな感じ。 梵鐘の下辺、下帯と称されるところに、龍が陽刻されています。ここから、洛中に飛びましょう。めざすは「東本願寺」。 2017.3.1 訪れた時は、この梵鐘が境内の一隅に仮置きされている時でしたので、眼の高さくらいでこの龍頭を撮ることができました。傍に仮設の案内板があり、1602年に鋳造された鐘で、「東本願寺撞鐘(梵鐘)」と明示されていました。 2020.11.18再訪した時には、阿弥陀堂門に近いところに建つ買い物広場の建物の南側に展示保存されていました。東側から撮った全景です。 案内板も詳しい説明で掲示されています。次は、寺町通三条へ。 2014.2.17寺町通三条上ルに「天性寺」(浄土宗、天性寺前町)があります。 この梵鐘の池ノ間には天女が陽刻されています。一方、梵鐘の下辺を眺めますと、 下帯に龍がいます。寺町通をさらに北上し、「阿弥陀寺」に飛びます。 2014.2.17 龍の表情がちょっとユーモラスで親しみを感じます。 余談です。この梵鐘の縦帯の箇所に3つの小さな孔が見えます。過去に史跡探訪講座に参加して知った余所のお寺での私の経験からの推測です。ここに太平洋戦争末期の痕跡が残っていると考えられます。当時寺院の鐘すらが国策としての金属供出の対象物にされたそうです。回収後、鐘の金属成分分析などの必要性から、サンプル収集として鐘に小孔を穿ったとのこと。孔が穿たれたけれど、鋳つぶされずに終戦となり、戦後に返還された鐘を眼にしていました。そういう鐘が各地にあるようですたぶんこの梵鐘もその例ではないか・・・・と思います(未確認ですが)。さて、洛東へ。まずは、三条通を東に粟田口まで飛びます。 「佛光寺本廟」(真宗佛光寺派、鍛冶町)の山門が三条通南側に北面する形で見えます。 ここの龍頭はこんな感じです。 梵鐘を見ますと、円形の撞座の上の縦帯には、蓮華座の上に「南無阿弥陀仏」の名号が陽刻されています。この鐘を撮った時には、名号に眼が向かっていました。しかし、よく見ると、下帯の部分に 龍がいます。機会を見つけてこれらの龍にフォーカスを当てて撮ってみたいと思っています。余談ですが、龍頭の向きについてです。東本願寺の梵鐘が一つの対比事例になります。 2017.3.1こちらは仮置きされていた時の梵鐘の全景です。それに対して、 こちらは現在の掲示案内写真の部分拡大です。池ノ間に天女と鳥(鳳)が象られているのですが、両図を対比すると90度向きがずれています。案内板の写真の撞座と梵鐘を吊すために龍頭に穿たれた孔が同じ向きになっています。つまり、龍頭の長軸線が鐘を撞く方向と直交する形になっています。 それに対して、こちらは現在、東本願寺の鐘楼で使用されている梵鐘です。こちらをご覧いただくと、龍頭は撞座と同じ方向を向いています。それは、龍頭の孔に通された太い吊り金具がU字形に見えることからわかります。龍頭の長軸線と鐘を撞く方向が一致しています。梵鐘の龍頭の付き方には、この二種類があることに気づきます。この龍頭の付き方が、鐘が撞かれたときの鐘の響きとどのように相関するのか?ネット検索して調べてみた範囲では、情報に出会えず不詳です。しかし、次の点について解説している記事を入手しました。それを参考にしますと、和鐘の基本的な形状は奈良時代から江戸時代まで変化はありません。しかし鐘を撞く方向(2つの撞座を結ぶ線)と龍頭の長軸線の方向が、奈良から平安時代前期の鐘は、原則直交する形式だそうです。平安時代後期以降の鐘では、鐘を撞く方向と龍頭の長軸線の方向が原則同一方向に変化していると言います。(資料2)この2種類の形式の梵鐘について、文化遺産オンラインのサイトの「梵鐘」の項で、事例を手軽に見られて参考になります。アクセスしてみて、ぜひご覧ください。(資料4)次回は洛東の続きから始めます。つづく参照資料1) 梵鐘の歴史と音色について :「株式会社ナベヤ」2) 梵鐘 :ウィキペディア3) 梵鐘の概要 :「織田文化歴史館」4) 梵鐘 :「文化遺産オンライン」 補遺梵鐘の各部名称 :「山口ケーブルビジョン」元政庵 瑞光寺 :「日蓮宗 いのちに合掌」正覚山實相寺 ホームページ真宗大谷派 東本願寺 ホームページ浄土宗天性寺 :「寺町専門店会商店街振興組合」織田信長が眠る寺・阿弥陀寺 :「京都ツウ読本」佛光寺本廟 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.27
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2010.11.25本願寺絡みで洛中から洛南に飛びました。そこで、一旦どんと近江(滋賀)の野洲まで飛びましょう。冒頭の楼門は「兵主大社」の楼門です。 探訪の時は、紅葉を愛でつつ参道を歩み、 建物近くの石灯籠の基壇をふと眺めたときに、 そこに龍がいることに気づきました。残念ながらこの石灯籠と近くの建物の記録がありません。石灯籠の全景を撮っていませんでした。残念!今までに龍像の彫刻がある石灯籠に出会った記憶が他にはありません。私には貴重な一例です。さて、京の洛東に飛び帰ります。飛先は建仁寺の境内。このシリーズの初回から触れています。 2017.6.12境内にある塔頭の一つが「両足院」。両足院への石段を上り、山門を入ると「毘沙門堂」が見えます。 この毘沙門堂の傍に青銅製灯籠が奉納されています。 この灯籠の中台の格狭間に龍がいます。ここでもこれ1枚を撮っただけでした。再探訪が必要ですね。さて、洛中・下京に飛びます。東本願寺の北、烏丸通高辻の南東側にある「平等寺(因幡堂)」です。 2018.7.16ここも既に触れていますが、高辻通の一筋南が松原通です。烏丸通松原東入ルに、「因幡薬師堂」の石標が立つ平等寺への正面参道があります。この時、お盆の灯籠が参道の並べてありました。この辺りは「因幡堂町」です。 本堂前に青銅製灯籠が奉納されています。火袋が六角形の灯籠です。 中台の格狭間六面に龍像が取り付けられています。惜しいことに一面が欠損状態ですので、逆に中台の六角形の格狭間に鋳造された龍像が後で取り付けられたものだということが解ります。ほぼ丸彫りの龍像ですから、鋳造という観点からはなるほど・・・・・です。洛中をさらに、JR京都駅を越えて南に飛びます。めざすのは「東寺」です。洛中の南辺に近いところに平安京時代の「羅生門址」があり、 そこから少し東方向に「東寺」が位置します。 2023.5.25境内に「大日堂」があり、傍に一対の青銅製灯籠が立っています。お堂の向拝の柱には、「回向所」と墨書された提灯が吊り下げてあります。 1基がこれです。灯籠の竿に巻き付く形で龍像が造形・鋳造されています。 もう一頭の龍がこちらにも。この灯籠の龍の姿態は上掲とは異なります。 迫力溢れる龍たち!!! 多少昇竜と降龍の対の趣を感じます。この2基の灯籠にある一つの差異に気づきました。それは灯籠の笠の蕨手(ワラビテ)の場所に一方は風鈴が付いていますが、他方には付いていません。これがこういうデザインなのか、一方の風鈴が欠損となったのか・・・・。不詳です。これをまとめていて気づいた点です。当日は意識していませんでした。洛中から洛南に飛びます。再び伏見にある「御香宮神社」へ。 この建物の中央に本殿への参道が通っている「拝殿」(割拝殿)の近くに、一対の青銅製灯籠があります。 1基がこれ。 2013.5.5火袋が六分割の球形網籠状にデザインされていて、中台も円形状で照応し格狭間が六分割されています。 もう1基の灯籠 2012.3.18 格狭間の一面だけ撮りました。 灯籠の竿には、「御香宮」「永代常夜燈」という文字が陽刻されています。灯籠には、多くの場合、「永代常夜燈」「常夜燈」という文字が刻されています。字句通りに解釈するなら、たぶんかつては灯籠が奉納される時に、併せて日々灯火を点じるための燈明料も奉納されたのでしょうね。今は信仰のシンボルとしての灯籠の奉納なのでしょうか。 灯籠の笠をよく見ますと、蕨手(ワラビテ)の根元に龍頭が造形されています。その時気づいて撮った写真です。そこで、記録写真で再確認しますと、 両足院の灯籠は、蕨手自体が鯱様の意匠に造形されています。一方、 平等寺の灯籠と、 東寺の灯籠は、蕨手の根元に、形は異なりますが、龍頭の意匠で造形されています。こういうのは、灯籠を奉納する施主の意向が反映するのでしょうか。灯籠を鋳造する匠に任されることなのでしょうか。私の探訪範囲で出会った燈籠に棲む龍のご紹介をこれで一区切りとします。寺院の境内には鐘楼・梵鐘(鐘)をよく見かけます。次回はこちらに着目してみたいと思います。つづく補遺兵主大社 facebook 建仁寺塔頭 両足院 ホームページ因幡堂平等寺 ホームページ真言宗総本山 教王護国寺 東寺 ホームページ御香宮神社 ホームページ灯籠 :ウィキペディア[神社建築] 灯籠 :「玄松子の記憶」常夜灯 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.25
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阿弥陀堂 御影堂 2017.3.1東本願寺の境内には正面から見て、御影堂(北側)と阿弥陀堂(南側)が並んでいます。こちらの記録写真の方が古かったので、ここから始めます。各お堂の正面には一対の大きな青銅製灯籠が奉納されています。 阿弥陀堂に向かって右(北)側の灯籠です。火袋は八角形。それに合わせてその下部の中台の格狭間も八面です。ここに龍が陽刻されています。この格狭間を間近で眺めて、燈籠にも龍がいることに気づき、関心を持ち始めた初期の頃です。サンプリング的に、この灯籠だけ撮っていました 私の確認では4パターンの龍の姿が8面に表現されていると思います。(間違っているかも知れません・・・・・が)探してみてください。それでは、西本願寺の境内に向かいましょう。 御影堂 2018.2.27阿弥陀堂の全景を撮ったのがありません。西本願寺の場合は、正面に向かって御影堂が左(南)側、阿弥陀堂が右(北)側にあります。 御影堂に向かって、こちらも右(北)側の灯籠です。この中台のところに、こちらにも様々な動きの龍が陽刻されています。火袋が四角形ですので、中台の格狭間も四面。その内の2面を撮りました。 左(南)側の灯籠はこの時、4面全部を撮っています。 ここでは、龍頭部をアップしたものも撮っていました。その時の気分でしょうか。この4面の格狭間全体の造形を見ますと、龍は基本的に2パターンですが、細部の造形が微妙に異なり、4面とも違う気がします。ご覧いただきご判断下さい。こちらもサンプリングをしたにとどまります。次に訪れたときには、全部の灯籠を確認してみたいと思っています。ここから山科に飛びます。 2019.3.29山門前に「本派本願寺山科別院」と刻された寺号碑が立つ西本願寺の別院本堂です。正面に大きな青銅製灯籠が一対奉納されています。 向かって右側の灯籠に近づいてみると、本山の灯籠と異なり、こちらは火袋が八角形です。当然中台も格狭間は八面。そこに龍が陽刻されています。 左側の灯籠です。 中台部分を切り出してみました。小さくて見づらいと思いますが、上掲の灯籠と一対ですので、こちらの龍の姿も2つのパターンが繰り替えされているようです。 この後、北に位置する東本願寺の「山科別院(長福寺)」も訪れました。 本堂の前には大きな石灯籠が一対奉納されています。こちらには龍はいませんでした。次回は他に京都と滋賀で出会った灯籠の龍をご紹介します。つづく補遺真宗大谷派 東本願寺 ホームページ真宗大谷派東本願寺【公式】 YouTubeお西さん(西本願寺) 公式サイト 浄土真宗本願寺派 公式サト灯籠 :ウィキペディア[神社建築] 灯籠 :「玄松子の記憶」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.24
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=== 2023.12.23 === 南の空朝撮れなくて、12時15分過ぎになってしまいました。天気は晴れ!!太陽の位置が・・・・。写真としては没の部類ですね。まあ、記録ということでご寛恕ください。早くも1ヵ月前のことになっています。まさに光陰矢の如しです。龍を追いかけていると、雲の変化を追えません。南西方向の空 西方向の空 西の方向はスカッとした青空。 頭上の空 東方向の空稜線上空も、青空が広がっています。良き日です。 東方向の空16時40分近くに眺めると、日の入り時刻との関係でしょうか、空の青さが薄くなっています。 南の空 雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 偶然、飛ぶ鳥の姿を点のように留めることになりました。写真を撮ってから、わずか5分ほど後に、ふと空を見ますと空の雲には変化が見えます。 南西の遠方の雲が夕映えていました。少し前には見られなかったのですが。 西方向の雲は筋雲のように・・・・。雲の変化っておもしろい。=== 2023.12.24 === 南の空9時5分頃に撮りました。白雲が浮かんでいますが、前日同様、気持ちの良い青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空東の稜線上空は雲で覆われていますが、まあ普段よく見かける景色です。この日は、このあと、既に昨年末にご紹介した「石清水八幡宮」の探訪に出かけました。 東方向の空探訪から帰宅後、16時50分過ぎに撮った稜線上空の景色。 南の空南西方向の空 南西の遠くの空は夕焼けていました。デジカメの最大限のズームアップで。 電線や遠くの家の屋根など夾雑物を入れずに遠方の雲と空を撮るのは一苦労・・・。 西方向の空 頭上の空日の入りと相関する空の色合いなのでしょう。観察経験からの理解です。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。(参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)「証の体験」と題する詩の冒頭に雲が詠み込まれています。 白い雲が 天使を乗せ 諸仏諸菩薩を乗せ 去来する 快晴のありがたさ p160「地球荘厳」と題する詩。一行の理解のためには全文の引用が必要かと・・・・・。 大地は涙で濡れ 鳴く鳥もなく 十八日月も明星も みなことごとく姿をかくし 雲も歩みをとめ 動いているのは川の水のみ 地球に額をつけ 世尊最後のお言葉を パーリ語で唱えまつる ああ宇宙が泣いた 偉大な人の涅槃(ネハン)よ 地球荘厳の日よ p177「告知」と題する詩。これも全文引用します。 地球に額をつけ 祈っていると 稲光りがして 雷が鳴り出した ああわたしの祈りを 天が聞き 地が聞き それをまだ眠っている人たちに 知らせたのだ 雨雲飛び 風唸り 夜明けゆく 彼岸の砂地 p190「雲照り川光る」と題する詩。「第八十番碑に」と前書きが付いています。この詩の半ばに雲が出てきます。 魂を入れて下さる 一峰禅師の声よ チベットのラサまで届けと わたしも唱和する すると石面の雲や川が 生き生きと動き出し 光り出すのだ p207この第80番目の「念ずれば花ひらく」碑にはチベットの祈りも刻まれたものだそうです。「雲」と題する三行の詩が載っています。 かなしき性質(サガ)のゆえに きょうも雲と共に 流れてゆく p215最後の巻の半ばまで、雲の詩句を見つけながら、読み進めてきました。あと200ページ。真民さんの生き方を込めた「ただひたすらに」と題する詩を最後に加えます。 ただひたすらに ただひたすらに ひとつの道を 歩いて行く とどまるな ふりかえるな p196雲の変化に戻ります。=== 2023.12.25 === 南の空9時50分過ぎに撮りました。この日も快晴の空模様。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空に雲が広く漂っていますが、通常からみればいい状況の空模様です。 東方向の空15時20分過ぎに、稜線上空を眺めると雲はほんの僅かで、青空が広がっていました。 南の空 南には、雲って感じの雲の姿が見えます。南西方向の空 西方向の空 南から西にかけては、かなり雲が広がっています。 頭上の空 頭上はそれほどでもありません。 南の空16時55分近くに眺めると、遠方の雲に夕映えが見られます。 ワンポイントでズームアップするとこんな感じ・・・・。南西方向の空 お向かいさんの屋根が入らないようにギリギリのズームアップで。 西方向の空 頭上の空近くの南から西、頭上にかけては、雲が大きく広がっていました。 東方向の空東の方も、遠方の空は少し夕映えしているようでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 7回のシリーズでご紹介。
2024.01.23
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元旦に、このシリーズの初回でご紹介したのがこの「東福寺・経堂」の屋根瓦です。降棟の先端は通常鬼瓦あるいは鬼板が使われています。この部分に、龍を見つけたのです。「鬼不在」の鬼瓦バージョンとして、言わばこの龍瓦が作られたのでしょう。龍は龍神にリンクし、雨を呼び、火除けを連想させますので、意図的に龍が用いられているのかも知れません。鬼瓦の写真を撮るのが好きですので、この龍瓦を見つけたときは一種感動しました。そして、その観点を加えると、やはり屋根に棲む龍が各地にいるのです。まずは、京都・下京の「興正寺」 (真宗興正寺派)に飛びましょう。 2018.2.27 境内の北辺にある「経蔵」の正面、唐破風の屋根のところに、 二頭の龍が象られています。二頭であることも珍しいと思います。下京から鴨川を越えて洛東に飛びます。 2019.1.2既におなじみの「禅居庵」です。臨済宗建仁寺の塔頭です。建仁寺の境内の南西角です。 ここの本堂の屋根に龍がいます。やはりここでは、ちょっと寄り道して、 2019.1.2大和大路通を挟んで西側にある「ゑびす神社」を訪れましょう。 参拝した折に、垣間見て見つけたのです。 社殿の傍に、龍を造形した桟瓦が奉納されていたのです。奉納のための飾り瓦なのかも知れませんが、これまた珍しい龍瓦です。今でもたぶん置かれているでしょうね。東山の少し北に向かいます。飛先は仁王門通東大路の交差点。洛東東山仁王門です。 2021.3.24この北西角に「信行寺」(浄土宗、知恩院の末寺)があります。「開運出世 毘沙門天」碑が門前に立っています。本堂の伊藤若冲筆「花卉図 天井画」が有名です。普段は非公開。特別公開が以前にあったのですが、行きそびれて未見です。序でながら、辻惟雄編『若冲の「花」』(朝日新聞出版、2016年9月第1刷)に収録されています。画像で楽しむことはできます。 本堂の屋根に 龍がいます。ここから北東方向の黒谷に向かいます。めざすは「金戒光明寺」(浄土宗大本山)です。 境内の阿弥陀堂の背後(北東)に「新清和殿」があります。玄関口の切妻屋根の上に、 龍を見つけました。 黒谷から北西方向の北野に飛びます。めざすのは北野天満宮の傍に位置する 「東向観音寺」(真言宗泉涌寺派、観音寺門前町)です。 「行者堂」の屋根の降棟の先端部です。 画像処理により龍を少し見える形に明るくしました。ここから、南西方向の花園に飛びます。JR嵯峨野線の花園駅が一つの目印になります。花園駅前をさらに西へ。双ヶ丘の南東側にあるのが、 「法金剛院」(律宗)です。 2018.3.17道路に面した山門(右)を入ると、中門(左)があります。山門の左には寺号碑、門の右柱には「関西 花の寺第十三番」の木札。 中門の東側にこの宝形造の屋根に切妻屋根の付いた土蔵造の建物があります。境内の案内図には名称が記されていませんでした。 この切妻屋根に龍がいます。花園から亀岡市へ飛びます。 市内に「宗福寺」(浄土宗、矢田町)があります。 降棟の先端に龍がいます。京都の探訪で私が見つけたのはこれだけです。ここから一っ飛びで奈良・華厳宗総本山の東大寺へ。 2016.11.2境内には「戒壇堂」があります。 軒瓦と軒丸瓦の瓦当面には「享保壬子造戒壇堂」の文字が陽刻されています。 ここではとぐろを巻く龍を見ることができます。東大寺から南西方向に飛びます。めざすのは「唐招提寺」です。 2017.12.4唐招提寺にも戒壇があります。ここは築地塀で囲まれていますが、戒壇自体は露天状態です。 右側面の築地塀にある唐門の屋根に龍がいます。 さらに、塔頭「法花院」の門の屋根にも、 ここでは留蓋と称される瓦に龍がいます。さて、最後に滋賀県に飛びましょう。まずは湖南の坂本へ。京阪電車「穴太」駅が近くです。 「盛安寺」(天台真盛宗)の本堂から客殿の屋根を眺めた景色だったと思います。 その建物の降棟にいる龍に気づきました。そして最後は、湖北・米原市に飛びます。 「福田寺」(浄土真宗本願寺派、長沢)です。 この本堂の降棟の先端に龍がいます。今までの探訪機会において龍瓦に気づいたものをまとめてご紹介しました。門に棲む龍 ⇒手水鉢に棲む龍 ⇒建物とその付属物に棲む龍 ⇒屋根に棲む龍と巡ってきました。次は寺社等の境内・庭に再度目を向けて見ます。ここには、灯籠、鐘楼、その他、龍の居場所があります。灯籠から始めます。つづく補遺真宗興正寺派 本山興正寺 ホームページ臨済宗建仁寺塔頭 禅居庵 ホームページ京都ゑびす神社 ホームページ浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺 ホームページ北野東向観音寺 公式ホームページ律宗 五位山 法金剛院 ホームページ戒壇院戒壇堂 :「東大寺」唐招提寺 ホームペーj福田寺(米原市) :ウィキペディア盛安寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」福田寺庭園 :「おにわさん」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.22
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2015.3.28比叡山の山上から始めます。山頂に建ち並ぶ「延暦寺」の伽藍の一つ「大講堂」です。ここは大津市になります。 大講堂正面・向拝の頭貫上の蟇股に彩色された龍がいます。坂本に降りますと、 2015.3.28「律院」(天台宗)というお寺があります。 本堂・向拝の頭貫上に向かい合う形で龍がいます。坂本から「三井寺(園城寺)」に飛びます。 2013.12.7境内には「閼伽井(アカイヤ)屋」の木札を掛けた建物があります。閼伽井とは神仏に供える水をを汲む井戸のことです。この建屋の中に井戸があります。 ここにも蟇股に龍が透かし彫りにされています。堅田に飛びますと、 2013.3.23「光徳寺」(真宗大谷派、堅田)があります。蓮如上人像の前にある銅像は、「堅田源兵衛父子殉教之像」です。この源兵衛父子の殉教の史実で知られたお寺です。 向拝の蟇股に龍がいます。堅田から琵琶湖を飛び越えて、湖東の篠原へ。 「法善寺」(浄土宗、野洲市小堤)です。国道8号線の「小堤」が一番近い交差点。 頭貫上の蟇股に龍がいます。さらに東へ。日野町に飛びます。 2014.4.26めざすは「正法寺」(臨済宗妙心寺派)です。 このお寺の大日堂に龍がいます。余談ですが、このお寺のある山の「正法寺山散策案内図」が設置されています。 近くには「日野ダリア園」があります。ここから北隣りの東近江市に向かいます。めざすのは「善教寺」(臨済宗妙心寺派、種町)です。 山号「初種山」の扁額を掲げた釈迦堂があります。 堂内の欄間にダイナミックな金龍が向き合っています。ここから、蓑作山の山上に飛びましょう。この山は東近江市と近江八幡市の境に位置します。 2016.10.22東近江市側に、「瓦屋寺」(臨済宗妙心寺派)があります。 この本堂の蟇股に龍が。 さらに、寺の本坊の唐破風屋根の玄関口の所にも龍がいます。次は、近江八幡市の湖岸近くの長命寺山に飛びます。 2013.10.5山上に「長命寺」があります。右の建物は、境内にある「護法権現社」の拝殿です。 山側の一段高い位置に本殿があります。頭貫の上に龍がいます。ここから、湖北の長浜市に飛びます。 JR北陸本線「長浜駅」に近いところに、「豊国神社」があります。 本殿の右側に「稲荷社」があり、その唐破風屋根の下に龍がいます。虹梁の上に、白狐がいますので、この色合いと白狐で稲荷社とわかりますね。次は、同じ長浜市内で北東方向の「大通寺」(真宗大谷派、元浜町)へ向かいます。 ここは、「大通寺広間附玄関」です。入母屋造りの屋根に軒唐破風をつけています。傍に立つ駒札によれば、「玄関は宝暦10年(1760)に当寺住職横超院の内室であった彦根藩主井伊直惟(ナオノブ)の息女数姫(カズヒメ)によって建てられたことが棟札により明らか」だそうです。 ここから湖西の近江高島にある乙女ヶ池近くに飛びます。 打下(ウチオロシ)地区に「日吉神社」があります。 2013.7.20 この拝殿に この龍の額が奉納されています。南に少し飛びます。 2013.7.20「白鬚神社」(高島市鵜川)です。 本殿 本殿の蟇股に龍がいます。私が滋賀県で探訪した範囲の寺社の建物に棲む龍たちを終わります。+αとして、それ以外の府県での探訪からの事例を加えます。 一つは大阪市にある「大阪天満宮」です。 本殿 その本殿・向拝の頭貫上に龍がいます。もう一つは富山市の岩瀬で出会った龍です。 「慶集寺」(浄土真宗本願寺派、岩瀬町)です。 建物では、向拝や拝所の頭貫あるいは虹梁の上、さらに欄間が龍たちの居場所になっている場合が多いと言えます。次は建物の屋根に目を転じます。そのあと、既に手水舎を採りあげていますので、灯籠に着目します。いずこの寺社でも灯籠はつきものですので。つづく補遺天台宗総本山 比叡山延暦寺 ホームページ「律院」と「阿闍梨餅」 :「天台宗」長命寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」長命寺護法権現社 豊国神社 長浜恵比須宮 ホームページ長浜別院 大通寺 (公式) :「真宗大谷派 長浜教区」白鬚神社 ホームページ大阪天満宮 ホームページ琳空山慶集寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.21
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2015.2.19京都市内の山科から市外に飛びましょう。まずは宇治へ。冒頭の本殿は、「縣(アガタ)神社」の本殿です。宇治橋西詰に立つと、大きな石鳥居が見えます。ここから参道になります。突き当たりの手前、左側が境内地です。平等院の西に位置します。 唐破風屋根の拝所で、前方を見上げると、頭貫の上にダウナミックな龍の透かし彫りを眺めることができます。 白い宝珠を掴む爪に目が惹き寄せられますが、残念なことに龍頭が今では欠損になっています。ここから男山の山上に飛びましょう。 2023.12.24そこには、「石清水八幡宮」(八幡市)があります。本殿を囲む廻廊と楼門の前面に唐破風屋根の拝所があります。 虹梁の上、束の両側には極彩色の透かし彫りが施されています。 左側に龍がいます。右には龍と向き合う形で虎がいますが省略。 もう一カ所、頭貫の両端の木鼻には、一般的には象か獅子の彫像が多いのですが、 ここでは龍が彫刻されています。ここで今、ふと思ったこと。はて、龍はどのように数えるのだろう?ネット検索で調べてみますと、一匹、一頭、両方OKだそうです。「ただし、想像上の動物として民話などに登場する場合は『匹』で数えます。『頭』で数えると、竜の現実的な存在感が増します」(資料1)この拝所前では一挙に3頭の龍を眺められることになります。男山から南東方向、京田辺市北部に飛びます。京田辺市の北部の「松井」と称される地域を探訪した時に出会った龍たちです。 2018.5.10八幡京田辺ICに近く、京田辺市の最北部に位置すると言えるのが、この「松井天神社」(松井向山)です。 本殿・向拝の頭貫の正面に金龍がいます。 少しクローズアップして・・・・。 金龍が中心に見える形で本殿が様々な意匠で煌びやかに彩色されています。松井天神社の南東方向で隣りの松井里ケ市にあるのが、 2018.5.10「来迎寺」(浄土宗)です。 このお寺で出会ったのが、本堂の脇陣の厨子の一つに安置された龍像です。 どういう目的で造形された物なのでしょう。佛具の一つとしての竜神でしょうか。ある史跡探訪講座の一環で拝見でき、教えていただく時間のゆとりが無かったので不詳です。ここからさらに南東の大住地域に向かいます。 2018.5.10「両讃寺」(浄土宗、大住八河原)です。 本堂の欄間に向かい合う二頭の龍が透かし彫りにされ、彩色されています。ここから奈良に飛びます。まずは、東大寺の境内、大仏殿の西側へ。 「東大寺指図堂」です。右側の柱に木札が掛けてあります。 このお堂の向拝に龍がいます。ここは平安時代に創建された中門堂跡地だそうです。1567年の三好・松永の乱で、大仏殿とともに焼失。江戸時代初期に、大仏殿三度目の復興気運が盛り上がったとき、「この中門堂跡地には大きな板絵に描かれた『指図』すなわち大仏殿の計画図面を展示するお堂が建てられた。指図堂という名称はこのことに由来するという」(資料2)とのこと。東大寺から南に飛びます。JR桜井線の帯解駅近くへ。 2016.5.28「帯解寺」です。手水舎の龍でご紹介していますが、本堂の向拝にも 頭貫の上に龍がいます。JR桜井線で言えば、帯解駅から一駅南、「櫟本(イチノモト)」駅に向かいます。帯解駅は奈良市の南西端に、一方、櫟本駅は天理市の北端に位置します。余談です。帯解駅は帯解寺に由来する駅名のようです。そして、寺名の由来は、「文徳天皇妃である染殿皇后が当寺に祈願し、無事安産されたことから、文徳天皇により、天安2年(858年)春、無事に帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と名付けられました」と言います。(資料3)ウィキペディアによれば、櫟本駅の「駅名は天狗が住む巨大な櫟(イチイ)の木があったという伝説に由来する」とか。(資料4) 櫟本には、「和爾下神社」があります。お堂の左側の板屏の瑞垣の向こうには境内社があります。 隙間から眺めますと、小社の頭貫の上に龍がいます。さて、ここから西方向、斑鳩の里に飛びます。「法隆寺」へ。 法隆寺の「金堂」に龍がいます。 1階の屋根と2階の屋根との間に支柱が設けてありますが、ここに龍がいます。 昇り龍 降り龍 支柱の龍は屋根の四隅に見る事ができます。 また、1階の屋根と裳階(モコシ)との間にもちょっと異様なこの彫像が屋根を支えています。これも龍の姿のように思うのですが・・・・どうでしょう。法隆寺から、南西寄りに南へ、県境を越えて和歌山県に入り、高野山へ飛びます。 「金剛峯寺」の主殿(本坊)この場所は、もとは豊臣秀吉が建て、後に青巌寺と称された寺があった場所です。秀吉は菩提寺として建てたと考えられているそうです。その青巌寺の柳の間で豊臣秀次が自刃して果てました。現在の建物は、青巌寺の場所に、江戸時代後期に、秀吉建立の青巌寺と形や大きさが同じ建物を建立したとされています。(資料5)上掲の右の写真は、大玄関(左:表玄関)と小玄関(右)の全景です。左の写真の檜皮葺(ヒワダブキ)の屋根には天水桶が置かれています。雨水を溜めておき防火に役立てるとのことです。(資料6,7) この主殿の大玄関の屋根の切妻部分に龍がいます。ここでひと区切りとします。次は、高野山から滋賀へ飛びます。つづく参照資料1) 竜 :「数え方単位辞典」2) 指図堂 :「東大寺」3) 帯解寺紹介 :「帯解寺」4) 櫟本駅 :ウィキペディア5) 高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」 :「ストーンサークル」6) 大玄関と小玄関 :「高野山」7) 天水桶 :「高野山」補遺京都宇治 縣神社 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ天神社 :「お茶の京都」<京都府南部(山城地域)の観光情報サイト>来迎寺 :「京田辺市観光協会」浄土宗 發迎山 両讃寺 ホームページ東大寺 ホームページ第11番東大寺指図堂 :「法然上人二十五霊場」帯解寺 ホームページ和爾下神社 :「天理観光ガイド・天理市観光協会」法隆寺 ホームページ高野山 高野山真言宗総本山金剛峯寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.20
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2013.5.5蟇股に透かし彫りがされ、極彩色に彩色された龍像から始めます。洛南に飛びました。 ここは伏見桃山に所在する「御香宮神社」です。本殿の修復が完成した2013年に特別公開があり、そのとき本殿の瑞籬の内に入り、仮設通路を巡りながら、本殿外観を間近に拝見することができました。 屋根を支える束に龍が描かれ、 もう一つの束 本殿の柱は角の面取りがなされていて、 本殿正面の両角の柱に、昇龍と降龍が描かれています。 内側の柱も同様に昇龍と降龍が対になっています。多くの龍がこの本殿にいます。中世には伏見荘の産土神として崇敬され、文禄年間(1592-1596)には、豊臣秀吉が社殿を大亀谷に移し、伏見城の鬼門除けの守護神にしました(古御香宮社が現存します)。德川家康が現在地に移し、新たに社殿を造営しました。「とくに伏見で生まれた紀伊・水戸・尾張三公の藩祖はいずれも当社をもって産土神とあがめ、多くの社殿や石鳥居・石灯籠などを寄進した」そうです。皮肉なことに、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦においては、この御香宮神社が薩摩藩の屯所となり、大手筋を隔て、南にあった伏見奉行所の幕府軍との戦いが行われたのです。(資料1) 2013.5.5南の中書島に飛ぶと、「長建寺」(真言宗醍醐派、東柳町)があります。境内から撮った山門です。 長建寺で見つけた龍。ここから三栖に向かいますと、 2014.4.17「光徳寺」(真宗大谷派、三栖町)があります。 本堂・向拝の蟇股に龍がいます。三栖から深草に飛びましょう。めざすは「伏見稲荷大社」です。 2020.1.11この拝殿の右(南)方向に、 2016.10.5 「能舞台」があります。 柱と頭貫との角のところに三角の木材を加え、装飾性を加えかつ補強を兼ねているのでしょう。龍が彫られています。 伏見稲荷大社の周辺に「釈迦堂」と称するお堂があります。 釈迦如来坐像の手前、両側に幢幡が吊りさげてあります。その上部に龍像が取り付けてあります。ここにも龍が。伏見稲荷から稲荷山を越えて、南東方向の醍醐に飛びます。醍醐のほぼ中央、奈良街道に面して「醍醐寺」があります。真言宗醍醐派の総本山。醍醐の山上と山下の双方に堂塔が立ち並んでいます。山上は上醍醐、山下は下醍醐と称され、醍醐寺は総称です。良く知られているのは、「三宝院」。豊臣秀吉が醍醐で花見をしたことが有名です。表書院の前にある庭は、秀吉が花見に際してみずから地泉回遊式庭園を設計施工したと言われているとか。庭に聚楽第から移された藤戸石が有名です。 山の上、上醍醐には「開山堂」があります。 ここの蟇股にも龍がいます。醍醐から山科本願寺址付近へ飛びましょう。山科にはかつて浄土真宗の蓮如上人が本願寺の再建をこの地で果たし、山科本願寺を拠点とされました。蓮如上人は、最後はこの山科本願寺にて1499年3月25日に85歳で示寂されました。ここに「蓮如上人墓」があります。天文元年(1532)に細川晴元とことを構えたことにより、山科本願寺は同年に焼失。長く廃墟となったそうです。「天正年間、顕如上人は豊臣秀吉から旧地を譲りうけ、蓮如上人の墓を管理するため、享保17年(1732)に」(資料1)山科別院を建立されたと言います。現在は、東西両本願寺の山科別院があります。 「本願寺山科別院」(西本願寺、東野狐薮町)が国道1号線に近く、南にあります。 本堂・向拝の蟇股に龍がいます。金網が張ってありますので見づらいですが。山階小学校の北側に、「蓮如上人墓」(西野大手先町)があります。西野大手先町は東野狐藪町の北西側の隣りです。そして、西野大手先町の北隣りが竹鼻サイカシ町。こちらの町内に 「東本願寺別院」(長福寺)があります。 こちらも、本堂・向拝に龍がいます。同様に金網が張られています。東野から南西方向に向かいます。 西野山に「岩屋寺」(曹洞宗、桜ノ馬場町)があります。この石段を登った上です。通称が「大石寺」。このお寺には、浅野内匠頭長矩の位牌と四十七士の像が安置されています。また境内下段の地が、大石良雄宅址と伝えられているのです。旧宅址をしめす顕彰碑が建てられています。 この石段の左側に、境内社として「大石稲荷大明神」と称する稲荷社が祀られています。 この稲荷社の頭貫の上に、龍がいます。ここから、北上して、天智天皇山科陵の北側を流れる琵琶湖第一疏水を越えた先の本圀寺に飛びます。「本圀寺」(日蓮宗、御陵大岩町)の境内には、 2018.10.26「清正宮」というお堂があります。「加藤清正公眞生墓廟」とも称されます。「加藤清正の女(瑤林院)が父母の菩提追福のために建立したもの」「清正は生前熱心な法華信者であり、当寺とも関係が深かったから、清正に関する遺物・伝説が多い」(資料1)そうです。 お堂の周囲の桁の上を装飾する干支の動物の一つとして龍が彫刻されています。本圀寺は、元は堀川六条にあり、洛中法華21ヶ本山の一つとして約420余年に及んだのですが、昭和44年(1969)に現在地に移転しています。(資料1)京都・洛南を終えて、次回は京都府下に飛びます。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 6 洛南』 竹村俊則著 駸々堂補遺御香宮神社 ホームページ辨財天長建寺 :「京都観光Navi」光徳寺 ホームページ醍醐寺 ホームページ浄土真宗本願寺派 本願寺山科別院 ホームページ真宗大谷派山科別院長福寺 :「京都観光Navi」 第24番 岩屋寺 :「近畿三十六不動尊霊場会」本圀寺 :「日蓮宗 いのちに合掌」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.19
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シリーズとしての回数が増えてきました。インデックスとして一覧表を作成し、11回目からはこの一覧表を更新し、過去記事へのリンキングをしていきたいと思います。観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -9 寺社の建物と付属物 京都・洛中(1) 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -10 寺社の建物と付属物 京都・洛中(2)/洛東 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -11 寺社の建物と付属物 京都・洛南観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -12 寺社の建物と付属物 京都・奈良・和歌山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -13 寺社の建物と付属物 滋賀+α観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -14 寺社の屋根に棲む龍 鬼瓦でなく龍瓦観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -15 灯籠に棲む龍(1) 東西両本願寺にて観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -16 灯籠に棲む龍(2) 遠近に飛び回る観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -17 鐘楼・梵鐘に棲む龍(1)京洛にて観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -18 鐘楼・梵鐘に棲む龍(2)京洛(続)&外へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -19 境内・庭等に棲む龍(1) 京洛と近江観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -20 境内・庭等に棲む龍(2) 京洛&外へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -21 門に棲む龍 続編観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -22 龍神・龍王とされる龍の社****************************観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -30 祇園祭と龍:長刀鉾・月鉾・綾傘鉾・白楽天山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -31 祇園祭と龍:岩戸山・船鉾観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -32 祇園祭と龍:木賊山・太子山・油天神山・芦刈山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -33 祇園祭と龍:伯牙山・蟷螂山・放下鉾観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -34 祇園祭と龍:山伏山・占出山・孟宗山・保昌山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -35 祇園祭と龍:大船鉾・南観音山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -36 祇園祭と龍:北観音山・八幡山・鷹山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -37 祇園祭と龍:役行者山・黒主山観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -38 祇園祭と龍:鯉山・橋弁慶山 このシリーズをこれで終わります。 お楽しみいただければうれしいです。
2024.01.19
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2018.7.16京都・洛中の南部である下京には、「平等寺(因幡堂)」があります。烏丸通高辻の南東角、因幡堂町に所在します。 向拝(庇)を支える手挟(テバサミ)に龍が彫刻されています。 2ヵ所撮ってみました。 向拝の正面に鰐口(金鼓)が吊してあります。その丁度上のところに、「薬師如来像懸仏」が掲げてあります。この懸仏の両側に龍が彫刻されています。 2019.6.4その「薬師如来像懸仏」が龍谷ミュージアムで開催された「因幡堂平等寺」展で公開される機会がありました。受付カウンターの近くで、この懸仏だけは撮影可能だったのです。中央の薬師如来像の両側に龍が彫刻されています。まさに「間近に見られる最後の機会」と案内板に記されていました。 平等寺から、高辻通室町西入ルまで行けば、「繁昌神社」(繁昌町)があります。 その社殿の蟇股の箇所に龍がいます。下京にある東西両本願寺と興正寺は探訪していますが、阿弥陀堂や御影堂には龍の彫刻はなかったと思います。他の箇所にはたくさん龍がいるのですが・・・・。ここから、鴨川を飛び越え洛東に向かいます。東山三条の交差点の南西側に、 2013.4.17「大将軍神社」(長光町)があります。 ここにも龍がいます。少し北の仁王門通に向かいますと、 2021.3.24 「頂妙寺」(日蓮宗一致派、大菊町)があります。 向拝の蟇股に龍がいます。 2021.11.21ここから、円山公園の北側に位置する知恩院に飛びましょう。 2017.6.12知恩院境内の北東で一番高い境内地に円光大師(法然上人)の「御廟」があります。 石段を上がると「拝殿」、その北に廟堂があります。廟堂の周囲に唐門のある玉垣がめぐらされています。「唐門」が拝殿越しに見えます。 その唐門の蟇股に巻き付く形に龍が透かし彫りにされています。円山公園の東奥、知恩院の南側に向かいますと、 2016.3.22 2016.3.22 「吉水弁財天堂」(円山町)があります。ここは、円山公園の東北隅に位置する「安養寺」(時宗正法寺派、円山町)の門前下段の地で、飛地境内になるそうです。吊された提灯には「弁財天女」、柱の提灯には「吉水弁財天女」と記されています。 正面の頭貫と虹梁の間に龍が彫刻されています。 龍のダイナミックな透かし彫りになっています。八坂神社の境内に飛びますと、 2003.3.21 境内社の一つに「大国社」があります。ここにも、頭貫の上に透かし彫りの龍がいます。八坂神社の境内から、JRと京阪電車双方の「東福寺」駅近くへ飛びます。駅から数分のところに、 2017.11.21「瀧尾神社」があります。このシリーズの初回で触れています。この社殿の唐破風屋根の拝所、 瑞籬の中門の虹梁の上に向かい合う龍の透かし彫りを見ることができます。 こんなところにも龍頭が彫刻されています。唐破風屋根の前面の柱と瑞籬の門の柱とをつなぐ貫の門柱側です。この辺りでひと区切りとします。つづく参照資料*『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂*『昭和京都名所圖會 1 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂*『昭和京都名所圖會 2 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂補遺因幡堂 平等寺 ホームページ繁昌神社 :ウィキペディア大将軍神社 :「京都観光Navi」頂妙寺 :「京都風光」知恩院 ホームページ吉水弁財天堂(円山弁財天堂) :「京都風光」 京都祇園 八坂神社 ホームページ瀧尾神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ 観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -9 寺社の建物と付属物 京都・洛中(1) へ
2024.01.18
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2014.5.3神社や寺院の建物およびそこにある付属物に数多くの龍が棲んでいます。冒頭の建物は、「北野天満宮」の拝殿です。北野天満宮境内の西側には、紙屋川が流れています。この左岸に沿って築かれた土堤が御土居跡として残っています。豊臣秀吉が京の都の周囲に築造したこの御土居の一部です。この御土居の内側が洛中と呼ばれます。東の鴨川に沿っても御土居が築かれていましたので、鴨川より東は洛東ということになります。そこで洛中の北、北野にある北野天満宮から始めます。 拝殿正面の柱には頭貫が通り、その上に蟇股が組み込まれています。この蟇股の一つに、龍が透かし彫りで極彩色に彩色されています。 吊り灯籠が下げてあります。 その吊り金具に巻き付く形で龍が造形されています。 もう一つの吊り灯籠にも。 北野天満宮から南に飛びますと、北野の南辺近くに、 通称「だるま寺」で知られる「法輪寺(法輪禅寺)」(臨済宗妙心寺派、行衛町)があります。 この衆聖堂の二階の中央に 釈迦涅槃像が安置されています。 正面の背後に祭壇があり、その両開きの扉の上の欄間に龍が透かし彫りで彩色されています。引き返し、北野の東、紫野に向かいます。 2018.9.13大徳寺の塔頭「龍源院」の特別公開が行われた時に拝観しました。臨済宗大徳寺派です。 寺名に龍が。軒丸瓦の瓦当面に「龍」の字が陽刻されています。 方丈の襖に「龍と波」が描かれています。江戸期の作。ここから東へ、寺町頭(寺町通の北端)に飛びましょう。寺町通は鴨川の流れに沿った通りです。寺町通と鴨川との間に、かつては御土居が築かれていました。 寺町通の北端に位置するのが「上善寺」(浄土宗)です。鞍馬口通寺町東入ル北側。京都六地蔵巡りの第一番で知られるお寺です。 本堂へ 本堂の向拝の蟇股に龍が彫刻されています。 2014.2.17寺町通を南に進むと、「阿弥陀寺」(浄土宗鎮西派、鶴山町)があります。「大正6年、勅使来訪織田信長公正一位階追陞、『織田信長公本廟』として公認された寺」です。(資料1) 本堂の北側にある建物、庫裡だったと思います。その玄関口に龍がいます。阿弥陀寺の南隣りが「十念寺」。その南隣りに 「仏陀寺」(西山浄土宗、鶴山町)があります。大蔵院と号する古刹で、朱雀・村上両天皇を開基とするそうです。ある史跡探訪講座で訪れました。 本堂を拝観したとき、荘厳する装飾の中に龍が彫刻されていることに気づきました。その時、撮ったのがこの1枚。 余談ですが、山門の手前、左側に南面する形でお堂があります。「王城地祭地蔵尊」記された扁額が掲げてあります。こういう形で地蔵堂があるのはちょっと珍しいかなと思います。寺町通をさらに南へ、丸太町通を横断すれば、中京界隈に至ります。 2020.8.26(*付記)まずは、「行願寺(革堂)」(天台宗延暦寺派、行願寺門前町)です。革堂という通称の方が、たぶんよく知られていると思います。 2014.2.17本堂の向拝の正面に、 * 龍がいます。金網で覆われているのが、残念ですが・・・・。寺町通から新京極通に飛びます。新京極通六角下ル東側にあるのが、 2018.3.26(*付記)「誠心院」(真言宗泉涌寺派)です。俗に「和泉式部寺」として知られています。寺名が和泉式部の法名に由来し、また境内には和泉式部塔と称される巨大な宝篋印塔があります。 2018.4.9ここの本堂は、向拝の庇部分が唐破風の屋根になっています。 * * その虹梁の上に龍がいます。 * *ここで一区切りとして、次回は洛中内の下京に向かいます。つづく参照資料*『昭和京都名所圖會 5 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 1) 信長忌 [寺町・阿弥陀寺] :「京都観光Navi」補遺北野天満宮 ホームページだるま寺[法輪寺 :「ふらふら京都散歩」「京の冬の旅」非公開文化財特別公開 大徳寺 龍源院 :「京都観光Navi」上善寺 :「京都観光Navi」阿弥陀寺 :ウィキペディア仏陀寺 :「京都風光」和泉式部 誠心院 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -8 手水舎に棲む龍 (4) 滋賀へ
2024.01.17
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=== 2023.12.20 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。曇り空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空布を広げたような雲が南から西方向ならびに頭上の空に広がっています。 東方向の空東の稜線上空だけ、白雲がわき上がり、雲の姿がわかりやすい。昨年末よりしばらく遠ざかっていました雲の変化と雲がたりをもうしばらく続けたいと思います。 東方向の空14時25分頃に撮りました。稜線上空の雲は横雲が浮かぶ形に変化し、青空が見えています。 南の空南西方向の空 南方向の空は雲の形がはっきりした広がりに変わり、青空が見え始めています。 西方向の空 頭上の空西から頭上にかけては、青空が大きく広がってきていました。 南の空17時15分過ぎに撮りました。日の入り後の残照が留める明るさでの空模様です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 ほんの数分後には、上弦の月がズームアップで撮れる暗さになりました。=== 2023.12.21 === 南の空9時35分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向にも雲が見られず、快晴で一日の始まりです。 東方向の空14時近くに稜線を眺めると大きな白雲が浮かんでいますが、空の青さが増しています。 南の空南西方向の空 南の方向には雲が少し浮かぶ程度です。太陽の位置の関係で見ずらい景色になっています。 西方向の空 頭上の空西から頭上にかけては、雲がかなり広がっています。天気は良好です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時35分過ぎに撮りました。日の入り前の時間帯なのでしょう。雲は見られず、空には暗色に覆われる前の夕暮れ時の淡い色合いが広がっています。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。(参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)前回(2023.12.29)は、「うたに合わせて」と題する詩の引用で区切りとなりました。この後、50ページほどの詩に「雲」は詠み込まれずに、進みます。そして、「砂が光る」と題する詩の中央部分に、久々に「雲」が出てきます。 夜明けてゆく重信川の川原で 祈っていると 雲間から突然月が光り出し わたしに力を与えて下さる 地球に額をつけて 地球よ平安なれ平安なれと 五十ぺん近く唱える p86「雲」と題する6行の詩が、その次に出てきます。 キラキラと光り輝く新造薬師寺の 水煙の上を白雲が悠々と流れてゆく 昔も流れ今も流れ これからも流れてゆくだろう 変わらぬものは 雲のみか p93「霊石誕生」と題する詩に出てきます。この詩は「念ずれば花ひらく」の第47番目の碑について詠まれた詩の冒頭部です。 朝浄めの雨が降り 式が始まる頃は快く晴れ 五色台一帯の山林の紅葉が光り 白雲低く去来し 式を一層荘厳にした p94「円環」と題する7行詩に出て来ます。 もうすぐ立春だから 月に円環ができているのであろうか 雲一つない空に美しく輝く 二十日の月を仰ぎながら 光を吸飲し祈る 早く目覚めた鳥が 川上へ向かって鳴いてゆく p103その次は、「孤独」と題する詩です。9行の詩。 孤独なユトリロ 孤独なセザンヌ 孤独なゴッホ 孤独なリルケ わたしもその一人 それでいいんだ 流雲 流水 共に流れてゆこう p116「白い十字架」と題する3章の詩では、1章の冒頭に詠み込まれます。 前日来の天雲は去り 夜明けの空は冷え澄んでいた p119「第五十五番目の碑に」と題する詩も、冒頭行に詠み込まれます。 一片の雲もないさわやかな五月の風 p124真民さんは原爆に対する詩を幾つも作っています。雲は出てきませんが、この詩集に収録されている「地球に額をつけて」と題する詩をご紹介して区切りとします。 巡りくる八月六日 広島原爆の日 地球に額をつけて祈る こぶしを握り うでを振り 抗議するのは もうやめよう 心を一つにして 核のない地球実現のため 地球に額をつけて祈ろう そのための鐘であり 歌であり集会であれ p136雲の変化に戻ります。=== 2023.12.22 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。雲がほとんど見られず、快晴といえるでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空普段、雲が多く出ている稜線上空も青空が広がっている感じです。 東方向の空15時5分過ぎに稜線を眺めると、空の青さが一段と加わり、雲は見えません。 南の空南の空には、少し雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気は上々です。 南の空16時35分過ぎに撮りました。空にはわずかな雲。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空頭上も、稜線上空も雲がはなく、晴れた一日となりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.01.16
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2013.12.7滋賀県大津市にある「園城寺(三井寺)」から始めます。天台寺門宗の総本山です。いまでは、三井寺の名称の方が一般的に知られていますね。この大門(仁王門)を入り真っ直ぐに金堂に向かう途中、一段高い境内地への石段の手前左側に、 この手水舎があります。 ここの龍は、なぜかこんな形で檻の中に・・・ あるときこうせざるをえない理由が生まれたのでしょうね。山門や本堂の向拝に棲む龍を金網でカバーする形にしている現状と同様に・・・・。しかし、やっぱり、檻や金網は無い方がいいなあ・・・・。ここから坂本に向かいます。 2013.11.18ここは「西教寺」。天台真盛宗総本山です。信長の延暦寺焼き討ちの後、明智光秀が復興に尽力したことと明智光秀一族の墓があることでも知られているお寺です。 本堂前にある手水舎。龍が立ち上がる姿で造形されています。 2013.11.18西教寺から南東に100mほどのところに、「興玉(オキタマ)神社」があります。 坂本といえば「日吉大社」が最も知られている神社でしょう。西教寺の探訪の続きに、夕方でしたが境内を巡りました。夕暮れであまり写真がうまく撮れません。 2013.11.18 ここの手水舎にも龍がいます。ここまで来れば、やはり比叡の山にある延暦寺へ飛びましょう。延暦寺といえば根本中堂。その近くに、 2015.3.28 この手水舎がありました。坂本から膳所へ。 2017.1.28膳所の旧東海道筋に「若宮八幡神社」があります。 2017.1.28京阪電車の膳所本町駅からほど近いところに「膳所神社」があります。ここは膳所城本丸跡地の近くです。 ここの手水舎にも 坂本から南に飛んで立木山へ。 2015.1.17ここには、「立木観音」が祀られています。厄除け観音として知られています。立木観音で覚えているだけなのですが、調べてみますと、正式には「立木山安養寺」というお寺です。 龍は手水鉢の口縁に沿ってうねるようにその胴体を這わせています。手水鉢の正面には、「浄漱」と刻されています。「漱」は「①すすぐ。口をすすぐ。うがいをする。②あらう。すすぎきよめる」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。余談ですが、この漱の文字で連想するのが夏目漱石。本名夏目金之助が本を書くときに使ったペンネームです。この漱石は「漱石枕流」という語句に由来します。夏目金之助はこの言葉が気に入りペンネームに使ったと言われています。漱石には「負け惜しみ」という意味が込められているそうです。(資料1)「漱石枕流(ソウセキチンリュウ)」は「≪「枕石漱流」というべきところを誤ったうえ、石にくちすすぎ、流れにまくらをするのだと強弁し、こじつけていったことから≫ 負け惜しみの強い、また、こじつけでうまく逃げることのたとえ」(同上書)と説明されています。さて、大津市の東側に隣接する草津市の志那町に飛びましょう。 2017.5.13琵琶湖岸に近い所にあるのが「志那神社」です。志那神社から南東方向に進むと、同じ志那町内に 「三大神社」があります。藤の花で知られています。 2017.5.13 こちらは浄水の注ぎ口としての龍が手水鉢の右側面に位置しています。手水鉢の正面には「濯水(タクスイ)」と刻されています。洗濯の濯です。「濯」は「①あらう。ア)すすぐ。あらいきよめる。イ)きよめる。潔白にする。②おおきい。おおいに」(『角川新字源』角川書店)と説明してあります。志那町の東方向に穴村町があります。 2017.5.13ここに、「安羅神社」があります。この神社、由緒によると、祭神に関して日韓古代史に関係するとの考証がなされている神社のようです。 ここから、近江八幡市に飛びます。とはいってもまずは、野洲市との市境に近い所に位置する神社です。 JR琵琶湖線の篠原駅に近いところにある「上野神社」です。 2019.6.6 手水鉢の正面には「水盥」と刻されています。「すいかん」と読むのでしょうね。「盥」は「皿(タライ)の上で、両手に水をかけているさまにより、をあらう意を表す」そうで、「①あらう。手をあらう。②そそぐ」(『角川新字源』角川書店)という意味を表すそうです。「たらい(盥)」は、「手あらい」の意味が転じて、「湯水を入れ、洗濯などに用いる、丸く平たい容器」(『日本語大辞典』)をさすようになったとか。上野神社から南に飛びますと、鏡の里があります。国道8号線の傍に、 2019.6.6「鏡神社」があります。源義経関連で知られているところです。 ここは手水鉢の左側面に龍がいます。近江八幡市の北、琵琶湖岸近くまで飛びます。琵琶湖に面しているのが長命寺山。この山上にあるのが「長命寺」です。 2013.10.5長命寺から琵琶湖をほぼ縦断する方向で高島市に飛びます。湖西の湖岸・白ひげ浜から湖岸沿いに南西方向に南下したところに位置する、 2013.7.20「白髯(シラヒゲ)神社」です。近江最古の大社と言います。 ここには、立ち上がる姿の龍がいます。これで、手水舎に棲む龍の通覧を終わります。あくまで私の十有余年の探訪範囲でのまとめですが・・・。次はやはり寺社の建物に棲む龍を採りあげて行きたいと思います。境内にある建物の一つでもある鐘楼は別にまとめるつもりですので対象外とします。つづく参照資料1) 漱石枕流 :「近代科学資料館」(東京理科大学)補遺三井寺公式総合案内 ホームページ天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ西教寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」興玉神社 :「大津のかんきょう宝箱」山王総本宮 日吉大社 ホームページ若宮八幡神社 :「滋賀・びわ湖 観光情報」膳所神社 :「滋賀・びわ湖 観光情報」厄除け立木観音 立木山安養寺 ホームページ志那神社 :「滋賀県神社庁」2023年 三大神社 藤の開花情報 :「草津市観光協会」39.安羅伽耶の里(草津市安羅神社) :「近江史を歩く」上野神社 :「滋賀県神社庁」鏡神社 :「滋賀県神社庁」長命寺 :「近江八幡観光物産協会」白鬚神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -7 手水舎に棲む龍 (3) 京都・続と奈良 へ
2024.01.15
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2016.3.20 2016.5.14京都市内の最後に、伏見区に飛びます。深草にある「藤森神社」です。この石鳥居は旧伏見街道に西面しています。旧伏見街道は、現在、北の東山区では本町通、伏見区に入って、直違橋通と称されています。現在の地図の町名に関連しているのでしょう。本町は1丁目~22丁目、直違橋は1丁目から11丁目と連なり、それぞれが通りを挟んだ両側町です。 2016.514 かなりの歳月を経た、長老級の龍ですね。 2016.3.20藤森神社からでは、深草の北北東方向になりますが、「瑞光寺」(日蓮宗、深草坊町)があります。「元政庵」という名称で知られているお寺です。 この境内に祀られた境内社の傍に、この手水鉢が置かれています。 大方の手水舎の龍がブロンズと思われる金属製であるのに対して、石造龍像なのが印象的です。さらに北の稲荷山に飛びますと、 2016.10.15伏見稲荷大社には、背後の稲荷山を巡り山頂までの参道が周回しています。その参道の途中で、一カ所だけ龍のいる手水舎に出会っています。 ここの龍頭も石造稲荷山には他にもあるかもしれませんが・・・・。京都市から京都府下に飛びましょう。まず、我が地元の宇治市に飛びますと、 2015.2.19 平等院の西側に「県(アガタ)神社」があります。 そこの手水鉢の正面には、「縣井」と太字が刻されていて、龍がいます。 宇治市の西方向に八幡市があります。男山に飛ぶと、昨年末に直近の探訪としてご紹介した「石清水八幡宮」の所在地。こちらから拙探訪記をご覧ください。8回のシリーズでご紹介しています。 2023.12.24男山の中腹、中参道沿いに「石清水社」があります。この石鳥居を通り抜けると、正面に「石清水井」があり、井戸には覆屋が設けてあります。ここは、神様に香水を供えるための井戸なのか、手水の役割も担っているのか、私には不詳です。ひとまずここでご紹介しておきます。 覆屋の虹梁の正面に極彩色で龍が描かれています。覆屋全体に彩色描画が施してあります。男山から南東方向に向かえば、京田辺市があります。 2020.2.27田辺棚倉に所在する「棚倉孫(タナクラヒコ)神社」です。 京田辺市の南は精華町です。 2014.6.12「武内神社」があります。 この二社にも龍がいます。それでは、南方向の奈良県に飛んでみましょう。 2020.1.2奈良市内に「福智院」(真言律宗、福智院町)があります。 この石造地蔵菩薩立像の前に手水鉢があり、 そこにこの龍が!!JR桜井線は「奈良」駅を起点にし、「京終(キョウバテ)」、「帯解(オビトケ)」と停車駅が続きます。ともに面白い駅名です。この帯解駅の近くに、 2016.5.28「帯解寺」があります。帯解子安地蔵尊で知られたお寺で、「子安山」が山号です。 ここの手水舎に龍がいます。それでは南西方向に飛びましょう。JRで言えば大和路線の法隆寺駅へ。 2020.1.25 めざすは「法隆寺」です。 仁王門に向かう手前の手水舎に龍がいます。 もう一カ所、池の傍にある手水舎にも。 ここはちょっと異色です。大きな水瓶の注ぎ口が手水鉢に浄水を注ぐ龍頭になっています。この形式は今までに私が初めてみたものです。法隆寺から南にある河合町に向かいましょう。 2018.4.12ここには「広瀬大社」があります。 参道途中の手水鉢に龍 二ノ鳥居さらに進むと、本殿の境内地に 正面に「広瀬社」と太い文字が刻された手水舎があります。 河合町から、東方向の天理市に飛びます。 2016.5.28「和爾坐赤坂比古(ワニニイマスアカサカヒコ)神社」が坂道を上がった小高い場所にあります。JR櫟本駅から直線で約1.4㎞の距離に位置し、この辺りの集落の最も高いところにある神社です。 ここにも龍がいます。ここでもう一区切りとします。天理から次は滋賀県に飛びます。つづく補遺藤森神社 ホームページ本町通(京都市) :ウィキペディア京都深草 瑞光寺 ホームページ京都宇治 県神社 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ棚倉孫神社 :「京都府神社庁」福智院 :「奈良県立図書情報館」京終 :「コトバンク」奈良 安産 帯解寺 ホームページ法隆寺 ホームページ廣瀬大社 ホームページ和爾坐赤坂比古神社 :「いにしえの里、天理へ」(天理市観光協会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -6 手水舎に棲む龍 (2) 京都市内を巡る へ
2024.01.14
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2016.2.27京都市内の寺社の手水舎を巡ることを続けます。探訪の折に見つけた龍たちです。過去の暦年の探訪記録写真から、龍たちを見つけ出すのに結構時間を要しました。十分な整理ができていませんので、アトランダムな飛び回りになります。 右京区の梅津には「梅宮大社」があります。梅で有名な神社。小ぶりな龍がいます。ここから北西に飛べば嵐山です。渡月橋を西に渡って、少し川上方向に歩めば、 「櫟谷宗像神社」があります。 ここにも、小柄な龍がいます。ここから、東の上京区に飛びましょう。紙屋川を越えると、北野天満宮です。 北野天満宮の南に「東向観音寺」があります。 ここの手水舎は井戸に覆屋が設けてあります。手水鉢には浄水の注ぎ口として石樋が設けてあるだけですが、 宝形造の屋根の露盤の上に、龍がいます。といっても、残念ながらかなり欠損部分がみられますが、間違いなく龍の胴体と思われます。今出川通に沿い、東の堀川通を飛び越えてさらに進めば、 2014.2.9 「白峯神宮」があります。「蹴鞠」の神事で良く知られています。今ではサッカーの守り神になっているようです。 その境内に「潜龍社」という境内社があります。 瑞籬の傍に、小さな手水とマスコット的なキャラクターの龍がいます。小さな子供たちが喜びそう。さらに東へ。左京区に向かいますと、 2020.11.6「聖護院門跡」前の春日上通を挟んで南東側に「須賀神社」があります。 小さめの水鉢に、正面から見ると見る角度によってちょっとユーモラスな印象を与える龍がいます。 側面からの眺め須賀神社は、聖護院一帯の産土(ウブスナ)神だそうです。東山区に下り、六道辻に行くと、 子育地蔵で知られた「西福寺」があります。門前から正面に 石造不動明王像が見え、 その前に龍がいます。この水鉢、不動明王に水を手向けるものなのか、手水鉢の役割をになう浄水なのか・・・・・私は判断しかねています。西福寺から北西方向になりますが、南北の通りである大和大路通に面して通りの西側に 「ゑびす(恵美須)神社」があります。正月は「十日えびす」で大賑わいとなる神社です。もうはや13日。 ここには相対的に大きな龍がいます。龍の全身像が見やすく造形されています。大和大路通の少し南で、東側には 2019.1.2建仁寺の塔頭の一つ「禅居庵」があります。 ここは亥(イノシシ)が浄水の注ぎ口なんですが、ここでは手水舎の覆屋にご着目!! 普通なら蟇股のある位置に龍が彫刻されています。亥を載せたところで、少し余談です。手水舎の浄水の注ぎ口には様々な動物がいます。私の探訪経験範囲でご紹介しましょう。亥(イノシシ) :禅居庵、護王神社(御所の近くで烏丸通に東面)兎(ウサギ) :岡崎神社(京都市左京区)、宇治上神社(宇治市)、 園城寺(三井寺:滋賀県大津市)丑(ウシ) :菅原院天満宮(御所の近くで烏丸通に東面)亀(カメ) :壬生寺(京都市中京区)、松尾大社(京都市西京区) 兵主大社(滋賀県野洲市)蛙(カエル) :玉津岡神社(綴喜郡井手町)本題に戻ります。かつて洛中と呼ばれた地域の一部になる中京区に飛びましょう。 2017.3.29六角通新京極に西面する「誓願寺」(浄土宗西山深草派総本山)があります。 山門を入ると、左側に手水舎があり、龍がいます。ここから、下京区に向かいます。初回に触れた下京の諸寺以外に、神社にも龍がいます。 2021.9.28まずは「市比賣神社」です。 市比賣神社から南西方向、間之町通に東面して、 2021.9.28上珠数屋通上ルに、「文子(アヤコ)天満宮」があります。 ここから一旦さらに西に向かいます。再び堀川通を越えて進むと、壬生通があります。 2017.3.10壬生通沿いに少し北に上がると四条通より手前に「壬生寺」(浄土宗)があります。 同じ下京区内ですが、ここから南西方向に八条通西大路まで飛びます。東西の八条通と南北の西大路通が交差するところ。この北東側に 2016.10.27「若一神社」があります。この辺りは、平安時代の平清盛の西八条殿があった跡だそうです。 ここにも龍が。さて、東方向に飛び、東山の山並みを飛び越えると、山科区です。 2019.5.3 天智天皇山科陵から少し東方向に「護国寺」(日蓮宗、山科区御陵)があります。 ここの手水鉢にも小ぶりな龍がいます。この辺りで、一区切りといたします。南側の伏見区から続けます。つづく補遺梅宮大社 ホームページ摂社:櫟谷宗像神社 :「松尾大社」白峯神宮 ホームページ聖護院門跡 ホームページ須賀神社(交通神社) :「京都観光Navi」京都ゑびす神社 ホームページ禅居庵 ホームページ兵主大社 facebook浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺 ホームページ市比賣神社 ホームページ文子天満宮 ホームページ壬生寺 ホームページ若一神社 :「京都神社庁」護国寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -5 手水舎に棲む龍 (1) 西本願寺を起点に
2024.01.13
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巨大な五輪塔の傍の道を進みます。 「大聖不動明王」と記された扁額を懸けた丹塗りの鳥居があります。ここが「杉山谷不動尊」の入口です。 石段道を上ります。 二ノ鳥居参道に、奉納された幟が林立しています。 参道の右側に、手水舎が見えてきました。その手前に数多くの石碑が建立されています。石碑群に近づき眺めると、左から源美大師、地蔵尊像、豊吉大明神、荒木大神、判読不可の石碑、稲玉大神、白米大神と判読できそうです。私は伏見の稲荷山山上にある御塚を連想しました。 「源美大師」碑の右隣りに安置された地蔵菩薩像 手水舎の左側には、小不動尊が祀ってあります。 参道の前方を眺めた景色後で調べてみると、この杉谷不動尊は「神應寺」の奥の院にあたるそうです。(資料1) 「厄除延命地蔵尊」の扁額を掲げた地蔵堂が参道の右側にあります。 少し開いていた格子戸前から眺めた地蔵菩薩立像です。 地蔵堂の近くに石造「不動明王立像」が祀ってあります。 その先に、朱塗りの手すりが見える分岐点があります。手すりの設置された道沿いに行けば神應寺に行けることがわかり、山を降りなくてもすむと、一安心。 この分岐点に地蔵菩薩像が祀ってあり、「南無地蔵菩薩」と墨書した提灯が吊されています。ここにはお地蔵さまが数多く集合されています。 隣には、小さな一石五輪塔が祀ってあります。 その先には、「神應寺稲荷 豊川拕柷尼真天」の幟が立つ稲荷社があります。 小社の前に、一対の狐像が置かれています。 もう一つこの覆屋があります。 近づいて拝見すると、石造「観音菩薩坐像」が安置されています。 「杉山谷不動堂」 ここは「奥の院」と呼ばれているそうです。拝所のところで堂内を拝見しましたが、撮影禁止でしたので、残念ながらこれ一枚です。本尊は不動明王(秘仏)です。脇侍として、善悪を掌る矜羯羅(コンガラ)、制多迦(セイタカ)の2童子が控えています。厄除け不動として、人々に信仰されているそうです。(資料1) 本堂に向かって左側の斜め奥に「観音堂」があります。十一面観世音菩薩が祀られています。お堂の回りに「南無十一面観世音菩薩」と記した幟が奉納されています。私は参道を上がってくる際に見落としたようなのですが、途中に、「ひきめの滝」と称される滝行場に至る分岐の道があるそうです。 参道を引き返し、朱塗りの手すりが設置された分岐点から神應寺への山道を辿ります。途中で谷間を跨ぐケーブルカーの軌道橋が見えます。 道はそのまま境内につながり、最初に「鐘楼」が目に止まりました。 境内の中央に、本堂に向かう参道があり、左右に建物が建ち並んでいます。 左側の建物の手前の角にも、豊川拕柷尼真天を祀る小社があります。 参道の右側には池があり、その傍の松の木が横に枝を伸ばしています。 参道の先には「本堂」が見えます。参道の手前に立入禁止を示す竹が参道を横切って置かれていました。こちらも残念ながら本堂には近寄れませんでした。本尊は薬師三尊仏。平安時代前期作と伝わる行教律師像、衣冠束帯姿の豊臣秀吉像も安置されているとか。(後掲の案内板説明より) 本堂の正面には、「大雄殿」と記された扁額が懸けてあります。デジカメのズームアップ機能で撮ってみました。 同様に、本堂右手の玄関口をズームアップで。本堂前の庭の様子が少しわかります。写真を撮っていた位置に近いところで、後で紀伊付いたのが、竹の柵で囲われたこの石です。「淀君茶室の庭石」という案内標識が立っていました。帰路は神應寺の表参道を降ります。 参道を降る途中にこの駒札が設置してあります。本来なら参道を上ってくる途中で見る駒札になります。 参道を降り終えたところで、表参道を振り返って撮った景色 神應寺の山門右の門柱には「絲杉山神應寺」の木札が懸けてあり、左の門柱には「道不可求可致」の偈が掲げてあります。「道は求むべからず、致すべし」と読み下すのでしょうか。 鬼瓦 留蓋 山門にむかって立ちますと、左側に神應寺の「由緒」が掲示されています。上掲の駒札と併せて、要点を箇条書きにまとめてみます。*八幡神を男山に勧請した行教律師が貞観2年(860)に応神天皇の位牌所として開創*法相・天台・真言の宗旨を経て、室町時代に曹洞宗に改宗*豊臣秀吉との関係が深かった。正室北政所が中興12世住職弓箴善彊に帰依*德川家康をはじめ歴代将軍から寺領が安堵されてきた*元禄3年(1700)多くの雲水が毎年修行する常法幢地の寺格を得、洛南有数の禅苑に*明治の神仏分離令の難を逃れ、行教像は明治6年に墓所のある本寺に移された*貴重な資料や文化財を多数伝承保存している 「曹洞宗 神應寺」の寺号石標が立っています。参拝としては逆コースを歩いてきたことになります。後は京阪電車の石清水八幡駅に引き返すことになります。 駅前の広場には、このモニュメントが設置されています。八幡の竹とエジソンの発明・白熱電球を象徴しているモニュメントです。全長6.35mの円形の塔です。夜になると明かりが灯るとのこと。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 杉山谷不動尊 :「八幡市観光協会」2) あれはなんだ!?京都・八幡市で目を引く3つの巨大モニュメント :「KYOTO SIDE」補遺杉山谷不動尊 :「枚方市」神應寺 :「八幡 STORY&FUIDE」神應寺(じんのうじ) :「八幡市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか へ
2024.01.09
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門に棲む龍の続きとして、「西本願寺」の手水舎から始めます。(2020.6.25 *印) 手水舎に棲む龍は、浄水の注ぎ口の役割を果たしています。よくご存知のことでしょう。龍は全身像として造形されています。 * 2011.11.27 * * *この手水舎の覆屋を眺めますと、 * * 四方の蟇股には、太閤桐の紋章が陽刻されています。 こちらは「東本願寺」の手水舎の龍です。(2017.3.1) 立ち上がる感じのダイナミックな龍です。 既にご紹介しています滋賀県長浜市にある「大通寺」は、その山門が本山東本願寺の山門を継承して建てられたと言われています。そのため、本山の山門が焼失した時には、その再建にあたり役立ったということが、当寺の案内板に記されていました。 大通寺の手水舎の龍も、姿は全く異なりますが全身像で造形されています。(2015.6.28) こちらは「興正寺」の手水舎です。西本願寺の南隣りにあります。(2018.2.27) 小ぶりですが、同様に全身像の龍です。この4例を眺めても龍の姿は多様であり、おもしろいかぎり・・・・。 覆屋の蟇股を眺めますと、上掲の西本願寺の例とは異なり、ここに龍がいます。 四方の龍は、透かし彫りの造形で、それぞれスタイルが異なります。 最初に載せた面の裏側を、覆屋の内側から眺めると、このように龍本体と背景が丸彫りにされているこがわかります。どのように龍像の全体を表現するかが、匠の技の見せ所になっているのでしょう。観察するとおもしろい!! この3つの背面を上掲の龍とマッチングして、龍像をイメージしてみるのは如何でしょうか。さて、京都・洛北の鞍馬寺に飛びましょう。(2016.6.18) 本殿金堂の東側に、「閼伽井護法善法神社」があります。 この神社の正面右側に龍がいます。 こちらも龍が全身像で造形されています。この龍は宝珠を握っています。鞍馬寺でもう一カ所、 「転法輪堂」の傍の手水鉢で龍を見つけました。ここで一区切りとして、続きは次回に。つづく補遺お西さん(西本願寺) ホームページ東本願寺 ホームページ長浜別院 大通寺(公式) :「真宗大谷派長浜教区」真宗興正派本山興正寺 ホームページ鞍馬寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -4 門に棲む龍 (2) & 龍について へ
2024.01.08
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石清水八幡宮を昨年12月24日に探訪したご紹介は年末年始にかけてご紹介しました。裏参道を降りてきた後、ニノ鳥居(上掲の左)を通り抜け、表参道を再度上りました。上掲右の石段から下に降りてみる気になったのです。この石段道所から、お寺らしき大きな屋根が目に止まっていたからです。この石段道を降りれば、石清水八幡宮の周辺を探訪する起点にもなると思ったこともその一因です。 上掲の石段道を降りると、石垣の傍に「下馬」と刻された石碑と角柱の石標が立っています。石標の方は残念ながら刻字が判読できません。石清水八幡宮への石段道ですから、ここで馬から降りて、この後境内は徒歩にて進めということでしょう。 右の方に目を転じると、地蔵堂と神社が並んでいます。 地蔵堂の格子戸越しに拝見すると、ここのお地蔵さまもお顔に化粧が施されていました。京都市・宇治市と同様に、地蔵盆にい地蔵さまを浄めてから化粧するという風習があるということでしょう。隣の小さな神社は工事中のようでした。 石清水八幡宮への石段道とこの神社との位置関係が景色としておわかりいただけるでしょう。 ここは「相槌神社」。案内板が設置されています。 建物の右側には、「山ノ井戸」と刻した石標が立ち、この井戸があります。この井戸がこの神社の由来になるそうです。「山ノ井戸」は八幡五水の一つのようです。平安時代に活躍した有名な刀鍛冶、大原五郎太夫安綱が、山ノ井の水を使って刀を鍛造したとき、神がきて「相槌」をなしたために、ここに神社を建てて祀ったそうです。安綱が神と交互に作刀のために交互に槌を打ち合わせた「相槌」という名が付けられたとか。山ノ井は江戸時代に井筒などが整備されたそうです。江戸時代中期、1710年頃までは石清水八幡宮の管轄下にありましたが、その後は近隣住民が独自に修繕などを行い、神社との関わりが強くなったようです。(案内板より) 相槌神社前の道を東方向に進むと、 「松花堂 泰勝寺」の表札を掲げたお寺の山門が見えました。表参道から眼下に見えていたのはこのお寺です。 山門の左手前に「松花堂旧跡」と刻した石標が立っています。 山門の左の壁に案内板が掲示してあります。「天正18年松花堂昭乗は9才の時男山に入山滝本本坊の実乗に師事し阿闍梨となつた。特に書画茶道作庭に長じ、自らの草庵を松花堂と称した。小堀遠州、沢庵、石川丈山、林羅山等と親交があり、寛永の文化人として屈指の人物である。 当寺は昭乗の墓所を中心に建立俗に松花堂と呼ばれ境内の宝物館には昭乗、遠州、沢庵、光悦等の墨蹟を始め多くの寺宝が展示されている。又人々のえとの守り本尊八躰が泰安され難を転じ福を招くお守りが授与される。本堂前庭は各種南天を配し、三途の川を渡つて彼岸へ船出する石庭があり、茶席閑雲軒は日本百席の一つである。」(案内板転記) 山門の柵前から延べ段の先に唐門が見える境内を眺めるに留めました。参拝には寺務所にて予約が必要と上掲案内文の末尾に記されています。機会を見つけて、再訪したいと思いました。相槌神社前まで戻り、北方向に進みます。右(東)側には川が流れています。 この反り橋が見えてきます。 「安居(アンゴ)橋」という名の橋。 橋の北側にこの駒札が立っています。橋名の由来は諸説あるそうですが、駒札には2つ紹介されています。*鎌倉時代より八幡の町ぐるみで行われていた安居神事から名付けられたという説*かつてすぐ川下に「五位橋」があり、相対する仮の橋が造られ「相五位橋(アイコイバシ)」と呼ばれ、これが変化して「安居橋」となったとする説江戸時代初めの古絵図には、平橋が架けられている形で描かれていいるそうです。元禄7年(1694)には、「安居橋の月」が八幡八景の一つに選ばれました。慶応4年(1868)1月、橋は鳥羽伏見の橋で焼失。約150m川下にあった「高橋」という反り橋(太鼓橋)を偲ばせる形で、安居橋が再興されて現在に至るとか。 駒札の隣りにこの石碑「やわた放生の景」が建立されています。現在、ここが石清水八幡宮の「石清水祭(放生会)」の神事の舞台になっているそうです。 石清水きよき流れの 絶(タエ)せねは やとる月さへ くまなかりけり (石清水清き流れの絶えせねば宿る月さえ隈なかりけり)の歌碑もあります。調べてみますと、この能蓮法師の歌は、『千載和歌集』の「巻二十 神祇」1280 に採録されています。文治元年(1185)9月の石清水八幡宮での歌合せでの詠歌だそうです。(資料1) 川下を眺める 振り返った景色安居橋の所から、石清水八幡宮探訪の最初に訪れた頓宮殿の境内地を通り抜け、当初の起点まで戻りました。そして一ノ鳥居前から、境内地沿いに左(西)方向への道を歩いてみました。少し道沿いに進みますと、 竹垣と「神護寺」と刻した寺号標が見えます。 左方向に道を歩めば、左側に頓宮殿の西門と連子窓のある屏が見えました。 右側に見えたのが、この巨大な「五輪塔」です。そう、最初に頓宮殿の門越しにその一部を垣間見ていた五輪塔です。基壇が設けられています。 石段を上がると、 五輪塔より少し離れた右側手前に「航海記念大石塔」と刻した石標が立っています。 五輪塔の左側手前に駒札が設置されています。鎌倉時代(12世紀末~1333年)頃に建立された五輪塔。高さ6m、最下段の横幅は2.4m。中世以前の五輪塔では日本最大で、国指定重要文化財です。(駒札より)五輪塔は5つの石から構成され、下から「地、水、火、風、空」という物質の構成要素を象徴しています。小規模な五輪塔は全国的に分布しています。仏教思想に基づいて平安時代に創始されたと言われています。「多くが武士層によって造立された。元来は堂の落成、仏像開眼時の供養を目的のひとつとしたが、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石としてつくられるようになった」(資料2)そうです。 正 面 右側面 裏 面 左側面 周囲を巡ってみました。どの面にも刻銘等が一切ありません。目的、製作者、年代など不明です。謎多き巨大五輪塔です。「言い伝えによると、平安時代末頃、日宋貿易の摂津尼ケ崎の商人が中国から帰国する途中、海上で嵐に巻き込まれ、あわや転覆かの時、石清水八幡宮に一心に祈ったところ、無事本土にたどり着くことができ、感謝してこの石塔を建立したといいます。この話から、『航海記念塔』とも呼ばれています」(駒札説明文、最後の段落を転記)この説明で、上掲石標の立つ意味が理解できました。石柵に囲まれた基壇から降りて右の側面をみますと、 「不動堂道」と刻した道標が目に止まりました。そこで、この不動堂と上掲に載せた神応寺を訪れてみることにしました。つづく参照資料1) 石清水清き流れの絶えせねば宿る月さへ隈なかりけり :「古代文化研究所:第2室」2)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社補遺泰勝寺 :「八幡市観光協会」泰勝寺庭園 :「おにわさん」歌人等によって詠まれた八幡の歌 八幡を詠んだ歌 :「八幡散策」八幡八景 :「やはた走井餅老舗のブログ」勅祭石清水八幡祭 :「石清水八幡宮」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 8回のシリーズでご紹介
2024.01.07
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2020.6.25 2013.4.27西本願寺の阿弥陀堂門。左が堀川通に面した正面。右が境内から撮った景色です。切妻造で前後に唐破風の付いた四脚門です。この門には前回とは異なる箇所に沢山の龍がいます。 2018.2.27 2020.6.25これは四脚門の正面・右(北)側の控柱です。この角柱の下部、礎石のすぐ上には柱の保護を兼ねた荘厳装飾金具が取り付けてあります。ここに龍がいた! 撮れなかった或いは撮らなかった面がありますので、大凡の全体像をイメージしていただければと思います。機会があれば現地でごらんください。 正面・左(南)の控柱 2020.6.25 正面・右(北)側の本柱 2018.2.27 正面・左(南)側の本柱 2018.2.27 境内側・左(北)側の本柱 2020.6.25 境内側・右(南)側の本柱 2020.6.25 境内側・左(北)側の控柱 2020.6.25 龍の様々のダイナミックな姿が各面に造形されています。さて、龍がなぜこのような姿で表現されるのかについてです。南方熊楠が「竜とは何ぞ」の一文の中で、支那つまり中国の龍について要を得た説明だとして『本草綱目』から引用している説明文があります。孫引きになりますがご紹介します。(資料1)<竜形九似あり、頭蛇に似る、角鹿に似る、眼鬼に似る、耳牛に似る、項(ウナジ)蛇に似る、腹蜃に似る(蜃は蛇に似て大きく、角ありて竜状のごとく紅鬣(コウリョウ)腰以下鱗ことごとく逆生す)、鱗鯉に似る、爪鷹に似る、掌虎に似るなり、背八十一鱗あり、九々の陽数を具え、その声銅盤を戞(ウ)つがごとし、口旁に鬚髯あり、頷(アゴ)下に明珠あり、喉下に逆鱗あり、頭上に博山あり、尺水と名づく、尺水なければ天に昇る能わず、気を呵して雲を成す、既に能く水と変ず、また能く火と変じ、その竜火湿を得ればすなはち焔(モ)ゆ、水を得ればすなわち燔(ヤ)く、人火を以てこれを逐えばすなわち息(ヤ)む、竜は卵生にして思抱す>こんなにも詳細に想像上の動物・龍を具象化しているのには驚きます。どうしてあのような龍の姿をイメージできるのか、それには根拠があったのですね。そして、そのバリエーションが、画家や彫刻家の想像力・創作力により、様々に表現され、各所に龍が棲息していることになります。現在の市販されている辞書が龍をどのように説明しているか。手許にある辞書での説明を列挙してみましょう。コンパクトな辞書か厚みのある大きな辞書かによって、辞書編纂方針と記述のボリュームに対する制約がありますので、様々な説明のバリエーションがあることに気づきます。1.想像上の動物。水中にすみ、形は大きなトカゲに似て胴体が長く二つの角とひげと四本の足がある。自由に飛行して雲を起こし、雨を降らすという。たつ。りょう。(資料2)2.想像上の動物。体は大蛇に似ていて、頭には二本の角があり、口辺に長いひげをもつ。水中または地中にすみ、時に空中を飛行し、雲や雨を起こし、稲妻を放つという。(資料3)3.想像上の動物の一つ。竜(タツ)。水中あるいは地中にすみ、空中を飛行し、雲や雨を起こすという。仏教では仏法の守護神とされ、中国では天子になっぞらえる。「りょう」とも。(資料4)4.たつ。想像上の動物。巨大な爬虫類の形をしていて、鳳(ホウ)・麟(リン)・亀(キ)とともに四霊の一つ。雲をおこし雨をよぶ。「天竜・登竜門・独眼竜・飛竜」「竜虎・竜神」(資料5)5.想像上の動物。体は巨大な蛇に似て鱗(ウロコ)におおわれ、頭には二本の角と耳がある。顔は長く口辺にひげをもつ。平常は海・湖・沼・池などの水中にすみ、時に空にのぼると風雲を起こすとされる。中国ではめでたい動物として天子になぞらえ、インドでは仏法を守護するものと考えられた。たつ。(資料6)6.海中または池沼中にすみ、神秘力を有するという想像上の動物。姿は巨大な爬虫類で、胴は蛇に似て剛鱗をもち、四足。角は鹿に、眼は鬼に、耳は牛に似、地上では深淵・海中に潜み、時には自由に空中を飛翔して雲を起し雨をよぶという。インドでは仏法を守護した説話が多く、普通、毒蛇・コブラの形で表現され、竜王はその威力を神格化したもの。我国では竜神といわれる。中国では鱗虫の長とし、麟・鳳・亀と合わせて四瑞とし、天子になぞらえる。また形体により、鱗のあるのを蛟竜(コウリュウ)、翼のあるのを応竜、角のあるのを虬竜(キリュウ)、角のないのを螭(チリリュウ)、天に昇らないのを蟠竜(バンリュウ)などとよんだ。りょう。たつ。(資料7) 辞書の記述の対比からまた情報がひろがります。辞書を読む面白さがあります。龍の足の爪の本数については、いずれも言及されていません。祇園祭で懸装品を見ていてあるとき疑問に感じました。爪の本数の意味合いについては、補遺をご覧ください。門に棲む龍についてはこれくらいにして、手水舎に棲む龍に移ります。つづく参照資料1)『十二支考 (上)』 南方熊楠著 岩波文庫 p144-1452)『新明解国語辞典 第五版』 三省堂3)『現代国語例解辞典 第二版』 小学館4)『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 学研5)『日本語大辞典』(初版) 講談社6)『大辞林』 三省堂7)『広辞苑』(初版) 岩波書店補遺爪の数 :「卜深庵」(武者小路千家)意外と知らない龍(竜)の爪の意味、ほんとうは何本? :「Mitsutomi」竜の指の数の意味を知りたい。日本と中国で違うのか? :「レファレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -3 門に棲む龍 (1) へ
2024.01.06
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建仁寺に棲む龍から初めて、手水舎と三門に眼を向けました。お寺は門を通り抜けて境内に入りますから、三門、山門、表門、総門などと呼ばれる門を先にとりあげて龍に出会いましょう。寺社の門を観察しますと龍がいます。探訪経験からは大きなお寺の三門や山門を居所としている場合が多いと思います。冒頭の山門の龍を見つけた時は、一瞬感動しました。 四脚門の左右の本柱の上部に正面を向いた龍が門から今出現したかのように・・・・迫力抜群です。(2018.2.27) この龍は、真宗興正派本山「興正寺」の門にいます。 京都市下京区にあり堀川通に面しています。 この龍も四本爪です。興正寺の北側には、北隣りの浄土真宗本願寺派本山である「西本願寺」との間に北小路通が東西方向に通っています。この通りを西に歩むと、 この通りに面して南面する「唐門」(国宝)が西本願寺の門の位置づけで保存されています。 近年、修復されて往時の輝きを再現した唐門になり、まさに「日暮門(ヒグラシモン)」に復活しています。この門に龍がいます。(2022.6.2) 龍が透かし彫りされている箇所を切り出してみました。 この二枚は唐門が修復される以前に訪れた時に撮ったものです(2013.4.27)。同様に、 2018.1.28極彩色の経年変化による褪色状態がおわかりいただけるでしょう。 東本願寺御影堂門 境内からの眺め 2020.11.18(*付記)烏丸通に面する真宗大谷派の本山である「東本願寺」の御影堂門に龍がいます。 * 2017.3.1 * *頭貫の上全体にいる巨龍です。金網が張ってあるのが残念ですが・・・。 京都・東山の渋谷街道を歩いた時、「小松谷正林寺」を訪れました。(2020.9.22) この山門には、本柱の頭貫の上に宝珠を握った龍がいます。 丸彫りですので、境内側から観察すると、龍の胴体が彫られています。 京都・嵐山に「天龍寺」があります。境内の「勅使門」には、 2015.9.10門に連なる築地塀の側面保護の部分(上部)にこの龍がいます。反対側は虎です。 「下御霊神社」は寺町通に面した鳥居の先に、この門があります(京都市中京区)。 ここも頭貫の上に龍がいます。(2020.8.26) 滋賀県長浜市に「大通寺」があります。山門を境内から撮った景色です。上層部、下層部の二重門で左右に山廊と築地塀が付いています。東本願寺の山門を模して造られたと言います。(案内文より) この山門にも龍が集まっています。 (2015.6.28)この辺りで、門に棲む龍たちの一区切りとします。次回はちょと違う視点を含めて門に棲む龍ほかをご紹介します。つづく補遺真宗興正派本山興正寺 ホームページお西さん(西本願寺) ホームページ東本願寺 ホームページ正林寺 :「法然上人二十五霊場」天龍寺 公式ホームページ下御霊神社 ホームページ長浜別院 大通寺(公式) :「真宗大谷派長浜教区」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -2 建仁寺から時空を広げて へ
2024.01.05
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中参道を降り、松花堂跡までの探訪のあと、この分岐点まで引き返して裏参道を降ります。平坦な参道の先で石段道になります。その手前に石灯籠があります。 屋形石灯籠の変形バージョンでしょうか。笠は屋形形、火袋は方形、そして中台までは屋形石灯籠と同じですが、普通は竿が円柱のところが、変わった形になっています。それに併せて基礎も円形から方形になっています。竿の形ですが、四面を撮ってみました。 竿は台形で外枠が蟇股の感じに見え、中央部が彫り込まれて、両開きの門扉が線刻されています。桟唐戸の形式です。そして、四面とも桟唐戸の意匠が異なります。参道側を正面とすると、右面に「明和九」という年号が読み取れます。その後は写真からは判読がしづらいです。明和(メイワ、1764~1772)の期間を考えると、明和9年は明和の最後の年になります。宿坊大西坊という刻字があります。左面には奉納者の住所と名前が刻されています。宿坊を仲介にして石清水八幡宮に奉納されたということでしょうか。長い歳月の経過が、竿が二枚の石材を組んだものであることを示しています。 ここにも、裏参道のどの地点かを示す表示シートが掲示してあります。 裏参道の傍に、石垣が築かれています。この上が坊跡なのでしょう。石垣の角は算木積みで、石垣は野面積みの形です。 石垣の下も、開平された空間が奥に広がっていて、「太子坂・萩坊跡」案内板が設置してあります。「二ノ鳥居の北に至る『裏参道』は、江戸時代まで『太子坂』といい、古くは約700年前、鎌倉時代の上皇が参詣の帰りにこの道を通った記録があります。 坂の途中を造成して造られた坊のひとつ、『萩坊』は、安土桃山時代の高名な画家・狩野山楽が、豊臣秀吉に追われ隠れ住んだことでも知られ、客殿は山楽が絵描いた金張付極彩色の図で飾られていました。山楽の子・狩野山雪の襖絵は八幡宮の北側にある神応寺に所蔵されています。 坂を下ると、聖徳太子3歳の像を祀った『太子堂』があり、室町時代には他に丈六(一丈六尺)という像高3m程の巨大な阿弥陀仏を安置した行願院もありました。 明治時代初めの神仏分離令ですべて破却されましたが、難を逃れた太子堂は、現在も滋賀県大津市の国分聖徳太子会で大切に守られています」(案内文転記)案内板に掲載の地図を切り出してみました。太子堂が存在した当時の状況が記されています。 石段道の反対側を眺めた景色 裏参道を見上げた景色 「京都府歴史的自然環境保全地域」の標識 裏参道はこんな少し急勾配の石段道を降ることになります。 参道脇にみた石枠の囲みです。「竹雨水」と右側に刻されています。 裏参道を見上げると・・・。 見下ろすと・・・・・。 参道を見上げて。右は参道脇の石積み。 振り返って・・・。 参道脇には、距離を示す石標が立っています。「一町」と刻されています。 いよいよ表参道が見え始めてきました。 振り返って。 「裏参道①」の表示シートが石柱に掲示されています。 裏参道の降り最後のコーナーになります。 石段道の曲がり角には、男山京都府歴史的自然環境保全地域がどの範囲かがイラスト表示されています。保全地域の中に、さらに特別地区・野生動植物保護地区が指定されているようです。二段構えの保全・保護です。最後の石段道を降ると、 表参道の二ノ鳥居の少し手前に設置されたこの案内絵図の近くに出てきます。 赤丸を追記したところが案内絵図の設置された現在位置です。中参道を上り直し、大凡青丸を追記したこの位置から裏参道を降ってきました。これで、石清水八幡宮の探訪を終わります。ご覧いただきありがとうございます。なお、この石清水八幡宮の周辺もこの時少し探訪しています。稿を改めてご紹介します。補遺石清水八幡宮 ホームページ狩野山楽 :ウィキペディア第38話 狩野山楽(1559-1635年) :「関西・大阪21世紀協会」【例大祭のお知らせ】国分聖徳太子堂 :「BIWAKO OTSU TRAVEL GUIDE」財団法人国分聖徳太子会所有の木造聖徳太子立像の概要を知りたい。 :「レルァレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ
2024.01.04
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建仁寺の法堂の天井に龍がいます。 2018.11.10この時撮った中では、この位置から撮ったのが龍図の一番全体を示しています。建仁寺開創800年を記念して制作されたもので、小泉淳作筆「双龍図」です。建仁寺では創建以来初めての天井画となるそうです。(案内掲示より)「龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。また『水を司る神』ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から護るという意味がこめられるいる」(案内掲示一部転記)と言います。お寺の天井は龍の居所の一つの源といえます。 宝珠を握る四本の爪の龍が描かれています。 上掲の天井画ほぼ全体図に幢幡(トウバン)が吊り下げられています。法堂の荘厳装飾の一部となっていますが、良く観察しますと、ここにも龍が棲んでいます。 2014.5.15ある史跡探訪講座に参加して、相国寺(京都市上京区)とその周辺を探訪した時に、一般公開の案内板が境内にありました。ここの法堂の天井画は、狩野永徳の息子である狩野光信筆「幡龍図」です。通称「鳴龍」と称されています。 2015.5.10 東福寺の本堂(仏殿兼法堂)には「大涅槃図」が掲げられる涅槃会の折に拝見に行ったことがあります。この時は大涅槃図に意識が集中していました。別の機会に東福寺の探訪をした時、本堂前から堂内を眺めて天井画に気づきました。部分図しか撮れませんでしたが、堂本印象筆「蒼龍図」です。 2013.6.30史跡探訪の講座で、滋賀県日野町に所在の「仏智山信楽院」(浄土宗)を訪れました。このお寺は蒲生氏郷の菩提寺です。 本堂の天井に荒れ狂う巨大な龍がいます。「雲龍」図です。 雲龍が本堂の天井の中核となっていて、少し脇道にそれますが・・・・、 左右の間に飛天が描かれ、 外陣の天井には、韋駄天、八大龍王が描かれています。すべて日野出身の画家高田敬輔(タカダケイホ)筆による天井画。圧巻です。 2003.1.25大阪の四天王寺の中心伽藍の一隅に「龍(リュウ)の井戸」があります。その井戸の覆屋の天井に龍がいます。探訪の折に撮ったのはこの部分図だけです。ほぼ類似の写真がありますが省きます。これも天井画に範疇に入るでしょう。「四天王寺では、中心伽藍金堂の地下深くに流れる荒陵池の麗水に住む青龍が寺域を守護していると信仰されています」(案内文一部転記) 井戸の傍に、この金属製の龍像が鎮座しています。 ここから、また別の領域に棲む龍たちが連想として現れます。寺社の手水舎を居所とする龍たちです。次回はそちらに時空を跨いでいきましょう。私の好きな龍図として、初回に建仁寺の海北友松筆「雲龍図」(襖絵)をご紹介しました。襖絵は<障壁画>という領域の一つとなっています。障壁画は障屏画と壁画を併せた名称です。障屏画は、びょうぶ・ついたて・ふすま・戸などに描いた絵ということになります。(『新明解国語辞典 第5版』 三省堂)そこで、障壁画という分類でみると、屏風も龍の居所になっています。 2018.7.22 この屏風絵は、2018年の祇園祭後祭の宵山の折、八幡山の近くの民家に飾り付けられたものを撮りました。拙ブログの祇園祭紹介の中でご紹介していたと記憶します。宵山では併せて「屏風祭」が行われています。通りに面した窓を開放し、座敷に屏風等を飾って祭に協力されるのです。それは自家の伝統継承等を示す機会にもなるのでしょう。いずれにしても継承されてきた作品群を鑑賞できる機会です。屏風に描かれた龍図が美術館や博物館で展示されても、写真が撮れませんので残念です。建仁寺から時空を広げる上で、もう一カ所、龍の居所をご紹介します。 2018.11.10それは、この三門に棲む龍です。 三門あるいは山門には様々な彫刻が施されていて、門に荘厳性を加えるとともに、邪気邪霊の排除という霊性防御の境界という側面もあるのかもしれません。 この三門で気づいたのは、この箇所に龍の透かし彫り彫刻が施されいることです。山門によっては様々な龍像が見られます。この領域を居所とする龍もご紹介したいと思います。ここまででいくつかの龍の棲息地が見いだされてきます。思いつきでの順番で挙げてみます。 1. 障壁画 襖絵、屏風(衝立と戸は記憶/記録にありません) 2. 天井画 一般の撮影が認められているか、禁止かはお寺の方針次第 3. 屋根瓦 4. お寺の山門、三門 5. 寺社の手水舎 誰でもが見慣れている龍の居場所:清水の注ぎ口 6. 石や金属を素材にして制作された龍の彫刻像等。灯籠の彫刻も含めます。 7. 寺社の建物(お堂、蔵など) 8. 絵画 様々な絵師/画家が描いていても、展覧会などではほとんど撮影禁止 9. 「龍/竜」という文字の形で石碑などに刻まれたもの今、連想できるのはこれくらいです。それでは時空を跨いで右往左往いたしましょう。つづく補遺建仁寺 ホームページ臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図 :「臨黄ネット」(臨済禅 黄檗禅 公式ネット)小泉淳作 公式ホームページ小泉淳作 :「NHKアーカイイブズ」狩野光信 :「コトバンク」狩野光信 :ウィキペディア堂本印象 :ウィキペディア京都府立堂本印象美術館 ホームページ信樂院 :「日野観光協会」高田敬輔 :ウィキペディア四天王寺 中心伽藍にある「瀧の井」 :「4travel.jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ -1 まず好みの龍のいるところから へ
2024.01.03
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南総門を出て、東寄りに歩き石段を降りると、左端に案内標識が見えます。 この標識の箇所で左に回り込むと「裏参道」に入ります。緩やかな石段道を下ります。 「男山京都府歴史的自然環境保全地域 観察ポイント3」として「シジュウガラ」の案内板が参道の脇に設置されています。 参道の左(西)側に、「宝塔院(琴塔)跡」案内板が設置されています。本堂に東側に、平安時代中期の万寿年中(1024~1028)には建てられていて明治まであった天台密教系の仏塔があり、方形の二重の塔で天台宗の「大塔」の様式だったと言います。軒の四隅に琴がかけられていたので琴塔と呼ばれたそうです。明治の神仏分離令で撤去されたのち、基壇の中央に参道が通されたそうです。つまり、この写真はその基壇の位置から撮ったことになります。(案内板より) 左側には東総門に至る急な石段道が見えます。この石段道は立入禁止です。この石段の少し先、左側に手水所が設けてあります。今は石造水鉢を見るだけです。 その先が分岐点です。右方向矢印付き「展望台、ケーブルのりば」の案内板が見えます。ケーブルカーで来た人は、裏参道の最後の径路を上って本社に向かうことになるわけです。右側の裏参道に進みます。 道沿いに進むと、左側に広い空き地があり、「護国寺跡」案内板が設置されています。既にご紹介していますが、神託を得て八幡神をこの男山に遷座させた奈良大安寺の行教和尚が、それ以前からこの地にあった石清水寺を「護国寺」と改称させて、石清水八幡宮の神宮寺としました。本殿と一体となり、全山を取り仕切る役割を担わせたのです。発掘調査により、江戸時代の文化13年(1816)に建てられた本堂の礎石跡がみつかっているそうです。この寺も明治の初めに破却されました。(案内板より) 男山に一年中住む野鳥をイラスト入りで紹介した案内板が設置してあります。キシ(雄)を中央に、左上から時計回りに、ヒヨドリ、エナガ、ハシブトガラス、シジュウガラ、ムクドリ、キジバト、スズメが実物大で描かれています。道沿いに下って行くと、この分岐点に至ります。 左は裏参道。右が岩清水社、松花堂跡を経由して表参道に出る参道に別れます。まずは岩清水社・松花堂跡を探訪することにしました。 右側の参道を下り始めると、「中参道」の表示シートが取り付けてあります。裏参道と表参道を連結する参道が中参道と称されています。幾度かご紹介してきた「石清水八幡宮イラストマップ」には、中参道という表記はありません。 中参道を下って行きますと、「岩清水社」(摂社)が右(山)側に見えます。石段の右側の石灯籠の傍に社名を記した駒札が立っています。 石鳥居の先にあるのが、「石清水井」です。方形の井戸に、四隅が石柱、切妻屋根本瓦葺きの覆屋が設けてあります。 頭貫、虹梁など覆屋は極彩色です。 虹梁の上に、屋根を支える蟇股。植物文様が描かれています。虹梁の正面には、金龍像と雲が極彩色で描かれています。 頭貫や桁の描画彩色も見応えがあります。 円柱頭部の木組みとその描画彩色もご覧ください。 「石清水社」の御祭神は天之御中主神です。 石清水社の前方、谷側には「瀧本坊跡」と刻された石標が立ち、その右傍に「東谷 瀧本坊跡」案内板が設置されています。石標の先に踏み込むと、坊跡は参道に沿う形で奥へと広がっています。「江戸時代初期に『寛永の三筆』の一人と称された松花堂昭乗(ショウカドウショウジョウ)が住職をつとめた坊です。現代では『松花堂弁当』の由来として有名ですが、書画だけでなく茶の大成者でもありました。江戸城など幕府の数々の建築を手掛け、将軍の茶道師範でもあった小堀遠州は昭乗の親友で、この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒(カンウンケン)」があり、詳しい絵図面も残されています。」(案内文一部転記)2010年の発掘調査では、南に客殿の礎石、北には漆喰作りの瓢箪型の池、東の崖の斜面に30m以上に渡る礎石の列が見つかったそうです。茶室の北に懸け造りの書院があったことがわかったそうです。「茶室『閑雲軒』は7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に迫り出した『空中茶室』ともいうべき構造であったことが判明しました」(案内文一部転記)石鳥居前の石段道を下ります。 石段下から石清水社を見上げた景色 斜面沿いの石段道を下ります。 参道が左に屈折する突き当たりに至ります。角地にある石段を上がると、 「史跡 松花堂およびその跡」と刻された石標と「東谷 泉坊跡」案内板が設置されています。 参道付近には、この案内板設置されています。「男山 京都府歴史的自然環境保全地域」(京都府)を示すものです。松花堂昭乗のことと建物について触れています。 泉坊跡の案内板のところから、南方向にはかなり広く開平されているようで道が続き、石垣もあります。たぶん数多くの坊跡が南方向に存在するのでしょう。 中参道沿いの一段高い所に石敷の小径があり、 その先へ歩むと「史跡 松花堂およびその跡」案内板が設置されています。 石敷道から南方向にこの跡地が広がっています。この跡地の平坦面は三段になっているそうです。そのうち南の二段が泉坊跡であることが調査により判明しています。(案内板より) 方形に鉄柵で囲まれた場所は「庭(露地)の遺構」。中露地主要部だそうです。この鉄柵の傍にも案内碑が設置されています。 銘板が見づらくなっていますが、上部に載るのがこの図です。「八幡泉坊松花堂真図(東博蔵)」写真トレース図(斜線は発掘検出部) 上掲「東谷 泉坊跡」案内板から切り出しました。この図の中央部分の一番上から、草庵(緑色方形の箇所)、露地の遺構(四角の枠の箇所)、泉坊の書院(黄色い長方形の箇所)です。右端の黄色方形の箇所は泉坊の本堂と表記されています。松花堂昭乗は「瀧本坊」の住職でしたが、引退後、泉坊に草庵を建て「松花堂」(茶室)と名付けました。草庵松花堂と書院は、今はここから約2km南にある「松花堂庭園」(八幡市女郎花)に移築されています。移築先のこの2ヵ所とここが「松花堂およびその跡地」として国の指定を受けています。昭和57・58年(1982-1983)に整備のための発掘調査が行われたそうです。なお、発掘された庭(露地)の遺構は、昭乗没後、江戸時代後期に作り直されているそうですが、「絵図にぴたりと一致するもので、現地に露出展示されています」(案内文より)イラストマップを見ますと、この松花堂跡から石段道を降れば、影清塚・大扉稲荷社前に出て表参道に入ります。私は松花堂跡前から中参道を上り直し、上掲の分岐点で右折して裏参道を降りました。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ天之御中主神 :ウィキペディア万物の根源を示すといわれる三柱 :「Discover Japan」 「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」松花堂庭園・美術館 ホームページ 松花堂昭乗物語 松花堂弁当発祥の地-松花堂昭乗と松花堂弁当-松花堂昭乗とは 茶文化 :「八幡市」草庵松花堂 :「八幡市」和歌散書花鳥図屏風 松花堂昭乗筆 :「文化遺産オンライン」松花堂昭乗筆書状 :「Keio Object Hub」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2024.01.02
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今年もよろしくお願いします。お楽しみいただければ幸いです。今年は「辰年」。辰(たつ)は十二支の第五番目です。動物では竜とされています。そこで「たつ」と聞き、思い浮かべるのは「りゅう」(竜/龍)です。竜より龍の文字が私的な好みです・・・。ふと、なぜ「たつ」が「りゅう」なのか?手許の辞書を引きますと、「たつ」に「竜」をあてて「りゅう(竜)の和語的表現」と説明し、「辰」の字をあてて「十二支の第五。竜を表す」と説明しています。(『新明解国語辞典 第5版』三省堂) ナルホド、です。「たつ(竜)」の項目では、どの辞書でも、竜/龍が想像上の動物と説明しています。その説明の詳しさは辞書により様々。その点は、また後日触れましょう。この想像上の動物(龍)がどこにいるのか。その気になってみつめるといろんな所にいます。掲載写真には、探訪日時を付記しました。 2018.11.10まず、私好みの龍の筆頭はこの襖絵です。場所は建仁寺の方丈。京都市東山区に所在。 桃山時代に海北友松が描いた「雲龍図」です。ほかの場所にも龍がいますが、それはまた後日にご紹介します。 2017.11.21 これは瀧尾神社の拝殿天井にいる全長8mにも及ぶ木彫りの龍です。初めて見たときはその迫力に圧倒されました。 8540京の彫刻師九山新太郎作です。瀧尾神社の最寄り駅はJRあるいは京阪電車の「東福寺」駅です。 2015.5.10さて、東福寺からまずこの経堂にいる龍をご紹介します。 屋根の降棟の先端の鬼瓦を寺社探訪の折に撮るのが好きです。この経堂を見た時に、鬼ではなくて、龍が彫像されていることに驚嘆しました。この龍を見たのが瓦に棲息する龍を見た最初です。 鬼瓦にあらす龍瓦というのは、私の探訪経験では数カ所くらいです。これもまた龍の棲息地です。そして、龍にも異形の龍の領域があります。 2018.7.14祇園祭(前祭)の船鉾の舵の部分。ここに螺鈿細工で創作された「飛龍」が棲息しています。不可思議で魅力的な龍です。 舵のこの側面にも龍がいます!! 2023.7.16この舵が装着されている船鉾の懸装品である後懸にも龍がいます。 2018.7.14正面から捕らえた龍像です。船鉾には、他にも数多くの龍がいます。後日ご紹介。実は、祇園祭は龍がたくさんいる棲息地です。様々なところに龍が姿を見せています。これもまた、祇園祭のちょっとマニアックな楽しみかたになりますね。それでは、私の見聞範囲での龍の棲息地を時空を跨いで縦横に往来しましょう。ドラゴン・ワールドを少しずつ広げて行きたいと思います。お楽しみいただければうれしいです。つづく付記 記録として このブログ記事をまとめている時、石川県能登地方を震源とする地震が発生。 2024.1.1 16時10分頃 M7.6 石川県 震度7~4 宇治市は震度3
2024.01.01
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本社の周囲を半時計回りに巡るとき、左側に本社の外観を眺め、右側には「信長塀」を背景に、まず奉納された石灯籠が林立しています。一つ一つ石灯籠のスタイルが違います。これがおもしろいところ。この信長塀は天正8年に織田信長が寄進したと伝わる塀です。瓦と土を幾重にも重ねて作られていて、銃撃や耐火性、耐久力に優れていると言います。(資料1) 本社には東門がありました。信長塀には「東総門」(重文)が設けてあります。この門の外は裏参道に降りていく石段道です。現在の東総門は江戸前期に建造されたものです。 東総門の北側に「摂社と末社」の案内板が立っています。摂社は「本社の祭神と縁の深い神を祭った神社」で、末社は「本社に付属した神社。支社」です。(資料2)説明内容はご紹介の中に織り込んでいくとして、 摂社と末社の配置図を切り出しました。全体の配置状況がわかりやすくなることでしょう。 最初に目に止まるのがこの「水若宮社」(摂社、重文)です。本社北側の参道の突き当たり、東端に位置します。御祭神は宇治稚郎子命。我が地元宇治に縁の深い神です。江戸時代前期、寛永頃に再興された社だそうです。 格子戸の内部にはさらに扉があるようです。その前に金色に輝く一対の狛犬像が向かい合う形で配されています。 向拝の蟇股 頭貫には線刻が入り、木鼻は象を連想させるシンプルなデザイン。角柱の上部の木組みには、幾何学模様が極彩色で描かれています。 本殿の蟇股には、桃の実(たぶん・・・)が彫刻され、あざやかに彩色されています。 水若宮社の北隣りは「氣比社」(末社)です。この名称から、福井県敦賀の氣比神社から勧請されたものと推測します。 本社東側の参道の北端にこの「若宮殿社」(摂社、重文)。御祭神は応神天皇の皇女。女性の守護神として信仰されているそうです。 この社も朱塗りで極彩色に彩られています。 西隣りが「若宮社」(摂社、重文)で、御祭神は仁徳天皇。男性の守護神だとか。この若宮社は、日吉(ヒエ)造という珍しい形式の建物だと言います。日吉造は比叡山麓の日吉大社本殿だけにみられるの形式だそうです。母屋(モヤ)は切妻造、平入りが原型で、正面3間、側面2間の母屋が内陣となり、前方と左右にそれぞれ1間の外陣が設けられます。左右の側面は庇がつけられます。そのため外観は正面(桁行)が5間、側面(梁間)3間となり、前面の向拝が付けられます。そして、高欄付きの回縁がめぐらせてあります。(資料3)この若宮社と若宮殿社は、本殿創建から70年程後で、平安時代前期には創建されていたそうです。現在の建物は寛永年間(1624~1644)頃の建造だそうです。「御本殿での祈祷ののち、『浄め衣』に願いを書き、男性は若宮社、女性は若宮殿社に奉納します」と案内文に記されています。 若宮社の向拝の木組と蟇股、木鼻の景色 南西側から 「北総門」(重文)とその手前に勧請された「貴船社/龍田社」(末社)。江戸時代末期の建造とか。京都の貴船神社と奈良の龍田大社からの祭神の勧請によるものでしょう。 北総門の屋根の鬼瓦 北総門の西側には「一童社」(末社)とその西隣りに「住吉社」(重文)があります。住吉社は江戸時代前期、寛永頃の建築で、再興された社。一童社は江戸末期に建てられたそうです。住吉社の社の細部を眺めてみます。 一間社流造の社です、向拝の蟇股 木鼻は左右で異なる草花が彫り込まれています。 本殿正面の蟇股。蓮華座の上に宝珠が彫刻されています。 向拝の軒を支える手挟(テハサミ) 側面の蟇股 住吉社の西側、本社境内の北西隅に「校倉(アゼクラ:宝蔵)」があります。京都府指定文化財。この校倉は江戸時代中期からあり、類例の少ない校倉建築だそうです。(案内文より)西側の参道に回り込みますと、 西総門の近くにこの社があります。ここには、「広田社/生田社/長田社」(末社)の三社が一棟に勧請されています。三社漣棟です。広田社は、兵庫県西宮にある廣田神社、生田社は大阪の生田神社、長田社は神戸の長田神社からの勧請だと推測します。 「西総門」(重文)を通り過ぎ、少し先で振り返って撮った景色です。信長塀の姿がわかいやすいところです。 信長塀の傍に立つ案内板は、塀の外側に聳えている御神木「楠」の案内です。「楠木正成公が建武元年(1334))に必勝を祈願し奉納した楠と伝えられています。 樹齢は約700年、京都の天然記念物の指定されています。」(案内文転記)これで本社の周辺をほぼ一巡りしてきたことになります。この後は、裏参道と中参道の探訪をしました。つづく2023年も今日が大晦日。拙ブログをご覧いただきありがとうございます。2024年へと年を跨がりますが、このシリーズをあと少し続けます。お付き合いください。参照資料1) リーフレット「国宝 石清水八幡宮」2)『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)3)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p116補遺石清水八幡宮 ホームページ宇治神社 ホームページ宇治上神社 :ウィキペディア氣比神社 ホームページ貴船神社 ホームページ風神 龍田大社 ホームページ廣田神社 ホームページ生田神社 ホームページ長田神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.31
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南総門を通り抜けると正面には、本殿を初めとする「御社殿」の全景が見えます。その本殿前に、新聞報道でみた「ジャンボ御神矢(ゴシンヤ)」が設置されています。報道された翌日24日に眺めた本殿前の全景です。 このジャンボ御神矢は、境内の竹で作られ、長さ8mです。2024年2月3日の節分まで、本殿前に飾られます。(資料1)初詣に向けた通路が仮説されていました。 この御神矢ですが、「鎌倉時代の元寇の際、亀山上皇が八幡大神に必勝祈願したところ、石清水の社から白羽の鏑矢(カブラヤ)が飛んでいき、その音を台風と勘違いした蒙古軍が退散したという故事にちなんでいる」(資料1)そうです。壮大なイメージ力!! 「石清水八幡宮イラストマップ」(資料2)から切り出した「御社殿」の部分図をまず引用します。南総門は修造中のため残念ながらその姿は全く見えません。本殿・弊殿(ヘイデン)・舞殿(ブデン)・楼門・回廊・竹内社を含む十棟が「御社殿」と総称されています。これらは国宝に指定されています。(資料2)正面に唐破風屋根の前部を持つ楼門があり、その左右に瑞籬と回廊が巡らされています。楼門の先には弊殿と舞殿が続き、その奥に本殿が位置します。この本殿は、「八幡造(ハチマンヅクリ)」という形式。2棟の入母屋造、平入りの建物が前後に接続した形になっています。前殿と後殿との中間には一間の相(アイ)の間が付いているそうです。その2棟の軒と軒の接するところには、「黄金の雨樋」が渡されていて、それは、天正8年織田信長の寄進によるものと言います(通常非公開だとか)。(資料2,3,4)イラストの建物の配置が大凡ご理解いただけることでしょう。御祭神は三柱です。 中御前 応神天皇(誉田別尊 ホムタワケノミコト) 東御前 神功皇后(息長帯比賣命 オキナガタラヒメノミコト) 西御前 比咩大神 (ヒメオオカミ) [多記理毘賣命(タギリヒメノミコト)・市寸島姫命(イチキシマヒメノミコト) 多岐津毘賣命(タギツヒメノミコト)] 楼門の西側の回廊と瑞籬。回廊に沿って、吊灯籠が列をなしています。 唐破風屋根のこの楼門の前が参拝所になっています。 屋根裏と虹梁との間の欄間には、龍虎が透かし彫りにされていて華やかに彩色されています。虹梁の上の屋根を支える束はシンプルな形です。 頭貫の上で虹梁を支える蟇股の形はシンプルですが、向かい合う鳩が浮き彫りにされています。鳩は”はちまんさん”のお使い。神鳩だそうです。第1回にご紹介しました一ノ鳥居に掲げられた「八幡宮」の扁額を思い出してみてください。「八」の文字は、この神鳩がさらにシンプルな形にデザイン化され「八」の文字として使われています。 頭貫の両端の木鼻には、胴体部分も含めた龍が彫刻されています。木鼻には獅子あるいは象を彫刻してあるのが一般的な例だと思います。 木組の姿が美しい。 楼門大屋根の大棟の先端には獅子口が置かれ、二本の綾筋の下に菊の紋が陽刻されています。 参拝後、右側に下りますと、回廊と瑞籬の石垣の前に、「国宝 石清水八幡宮 御本社」というタイトルの案内板が設置されています。上記したことと重複する部分がありますので、重複を避けて案内の要点を列挙します。*石清水八幡宮の本社は、国内で現存する最大かつ最古の八幡造の神社建築*石垣の上全体を『本社』と言う。十棟の建造物と棟札三枚が国宝に指定されている。*1634年、德川三代将軍である德川家光公により修造された。*正面の楼門からつながる丹塗の廻廊は神社建築として類例の少ない大規模なもの。*建物の主要部は朱漆塗。舞殿は石敷。*欄間や蟇股など随所に150点余りもの極彩色の彫刻が施されている。石清水八幡宮の由緒によりますと、平安時代の初め、清和天皇の貞観元年(859)、南都奈良の大安寺の僧・行教和尚(ギョウキョウワジョウ)が豊前国(現・大分県)の宇佐八幡宮にこもり日夜祈祷を続けていたとき、「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という神託を得たそうです。清和天皇の命により、木工寮権允(モッコウリョウゴンノスケ)橘良基が、宇佐八幡宮に準じて八幡造の社殿を6棟を造営し、翌貞観2年(860)4月3日に八幡大神が遷座されたと言います。(資料2,5,6)遷座前、男山には石清水寺があったそうです。貞観5年に行教がこの寺を護国寺と改め、石清水八幡宮の神宮寺にしました。その実権は行教の出身氏族紀氏が握ることになったそうです。石清水八幡宮は創建当初から、八幡宮と護国寺が一体のものとして、神仏習合の形で明治に至ることになりました。(資料5,6)この男山に創建された石清水八幡宮は、都の裏鬼門(西南の方向)を守護する鎮護国家の神に位置づけられます。さらに武運長久の神として清和源氏をはじめ全国の武士が尊崇を寄せていくことになります。清和天皇の孫・経基が臣籍降下し源氏姓を名乗り、その系譜となある頼信が八幡宮を源氏の氏神とします。源義家が社殿前で元服して八幡太郎と呼ばれるようになります。武士の間に八幡信仰が広がる嚆矢といえるのでしょう。(資料2,5,6) 屋根の大棟の鬼瓦 石垣の近くから眺めた吊灯籠この後、本社の周辺を一巡して外観を拝見しました。本社の背後(北側)には、摂社や末社が祀られています。まずは、この本社の外観を眺めていきましょう。反時計回りに巡りました。 右は、正面(南側面)の廻廊・瑞籬の南東角部分。左は、東側面に1ヵ所設けられた石造の樋。石垣から少し突き出た形です。意図は不詳。 降棟の先端に置かれた鬼瓦 本社の周辺には、参道では見かけなかった石灯籠です。火袋と笠等が六面(六角形)、笠に蕨手が付き、竿が円柱等の特徴を示す春日燈籠の形式の石灯籠が奉納されています。 東側面には、本社の内部への出入口が設置してあります。「東門」が使用されています。 左は東側面の北半分の景色。右は北東角辺りを北から眺めた景色。ここで細部を一つ見落としていました。「鬼門封じ」です。 (資料2)東北角の石垣の形状です。リーフレットから引用します。現地でご覧ください。次回訪れる機会があれば、確認してこようと思っています。 本社の北側面。瑞籬と廻廊がよく見えます。通路を挟んで右(北)側には、摂社・末社が並んでいます。次回にご紹介します。 西側面に回り込んで廻廊沿いに半ばまで歩み、振り返って北方向を撮った景色です。 西門 蟇股。ここは正面とは異なり、透かし彫りの彫刻が施され極彩色に塗ってあります。 こちらの木鼻は象の頭部と脚部が彫刻されています。白象に彩色されています。 西門の北側置かれた石灯籠の向こう側に、東側面と同様に石造の樋が設けてあります。今、ふと思ったのは、八幡造の建物の屋根に設けられた「黄金の雨樋」に集まってきた雨水が左右に分流して導かれ、最終的にこの石造樋が排水口になるのかな・・・・という推測です。推測如何? 南側から西門の側面を眺めた景色これで本社の外観をほぼ一巡してきたことになります。つづく参照資料1) 朝日新聞 2023.12.23(土) 京都版「8メートル御神矢お目見え」2) リーフレット「国宝 石清水八幡宮」3) 石清水八幡宮について :「石清水八幡宮」4)『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 p1155)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p32-356)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p32-337) 清和源氏 :ウィキペディア補遺石清水八幡宮 ホームページ行教 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.30
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=== 2023.12.17 === 南の空10時15分過ぎに撮りました。雲が少し浮かんでいる程度で、いい天気です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南、西、頭上の空はほぼ快晴にちか 東方向の空稜線上空には雲が大きく張り出していますが、青空が見えていてこちらもいい天気! 東方向の空14時40分近くに稜線を眺めますと、稜線間近に見えていた青空は雲に覆われて、全体に雲が広がっていました。それでも青空が垣間見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南、西、そして頭上にも、活発そうな雲が広がっています。 南の空17時10分頃に撮りました。活発そうな雲は過ぎ去り、ほんわりとした雲が浮かんでいるくらいになっていました。日の入りの後の空模様です。南西方向の空 月が光って見えます。 ハンディーなデジカメのズームアップ機能で撮れた三日月。 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間際の雲にはかすかに夕映えが見られました。=== 2023.12.18 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。白雲が南の空の半ばを覆っていますが、天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上を見れば、雲がなく青空が広がっています。 東方向の空 稜線近くは雲で覆われていますが少し離れると青空です。いい出だしでの一日の始まりです。 東方向の空15時30分過ぎに撮りました。稜線上空は、午前中から一転して、全面雲に覆われています。よく見かける雲の状態です。 南の空 南の空も雲に覆われた状態に変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 西から頭上にかけても同様に雲が覆っています。天気は晴れから曇りに変化。 南の空16時30分過ぎに撮りました。雲に変化は見られますが曇り空が続いています。南西方向の空 西方向の空 西の空もまた雲に覆われた状態ですが、その中に飛行機雲様の筋雲が見えています。 頭上の空 筋雲は頭上の空をを横切っています。 東方向の空 東の空もまた、雲の状態に大きな変化は見られません。晴れのち曇りの一日でした。さて、雲がたりを続けます。全詩集の最終巻、第六巻に移ります。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)この一巻すべてが詩集「しんみん川」で、目次を数えますと997篇の詩が収録されています。最初の「一番いい人」と題する詩の半ばにまず雲が現れます。 ただお茶を飲みながら 鳥の声を聞いたり 行く雲を仰いだり 花の話などして帰ってゆく人が 一番いい p3次は「すばるが見える」と題する詩。9行の詩です。引用します。 きょうは長崎原爆記念日 午前三時八分 暁天祈願に外に出る 一片の雲もなく 満天の星 その中にすばるが見える ああ天はすっかり秋である この霊気よ霊光よ 平和であれと祈る p4「茜」と題する詩の後半に詠み込まれます。 茜色の抹茶茶碗をいただき 銘を茜とした 朝々仰ぐ 茜雲 朝々拝む 茜観音 朝々一服の 茜茶碗 p11「白花夾竹桃」と題する詩の冒頭に出てきます。 一雨サァッと驟雨のきそうな 雲のゆききである p13「秋」と題する5行の短詩に詠み込まれています。 空の色も秋 雲の形も秋 日の光も秋 心も体も 澄んでゆこう p14「雲」と題する詩。6行詩です。 敬老の日 じっと家に居る 芭蕉より二十三年長く生きた そんなことを思うて 動こうとしない 雲をながめている p20「茜」と題する詩。5行詩。茜は真民さんの最初の早世した娘さんの名前でもあります。 茜雲 茜草 茜は わたしたちの 愛の色 p32「うたに合わせて」と題する長詩の第7節に詠みこまれています。 雲のうたに合わせて うたってゆこう 去りまた来る 悠悠として無心のうたを p34雲の変化に戻ります。=== 2023.12.19 === 南の空朝から曇り空です。午前中出かけていましたので、帰宅後12時5分頃に撮りました。素鼠色の雲に覆われた空です。太陽の光がその存在を示してくれています。南西方向の空 西方向の空 西方向の雲の色は、少し明るい白鼠色という感じです。 頭上の空 東方向の空 稜線上空の平板な感じの雲もまた、白鼠色一色。 東方向の空 15時25分頃に撮りました。大きな変化はありません。 南の空 素鼠色の雲は去り、稜線上空の雲と同色で同様の雲が覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時20分近くに撮りました。ふと時計を見るとこんな時間。はや日没から少し時間が経過しています。内蔵ストロボを使わずオートで撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線が何とか識別できるくらいです。一応記録として載せておきます。雲の形は見られませんでした。曇り空の続く一日でした。雨が降らなかったこ茜雲とが幸いでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について茜雲の画像・素材 :「PIXTA」茜雲 :「imagemart」茜草(センソウ) :「株式会社 ウチダ和漢薬」アカネ :「熊本大学薬学部薬用植物園 植物データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.29
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三ノ鳥居からの表参道の続き、前回最後に言葉だけで触れた社務所の一画から始めます。参道を北方向に進みますと、まずこの「御羽車舎」が見えます。(イラストマップより) このマップ部分図で言いますと、景色の右端の半ばくらいの参道沿いの位置です。 御羽車舎の北側に位置する門です。 門の左側の入母屋造りの屋根の建物の正面に「社務所」と記した木札が掛けてあります。 屋根の棟の端に獅子口が見えます。経の巻と軒丸瓦の瓦当(ガトウ)、さらに二本の綾筋の下の紋、すべて三頭巴紋が陽刻されています。 社務所前の石灯籠 参道の反対側の石灯籠 目に止まった石灯籠の中では、この石灯籠だけ、火袋が六角形です。それに対応して笠の形も六角形です。おもしろいのは、円柱形の竿の長さが極端に短い作りになっていることです。 社務所前を過ぎると、少し先に石段があり一段高い境内地にまずこの朱塗りの「手水舎」が目に入ります。 手水舎で手を浄めた時、気づいたのは普通手水に使われる柄杓(ヒシャク)がなくて細い径の竹筒の先から注がれる水で手を浄める形になっていました。これもコロナ禍の影響でしょうか。 手水舎のある境内地の東辺には、巨大なクスノキがあります。その傍に、「京都の自然二百選」の案内標識が立っていて、「選定植物 クスノキ林」と明記されています。 手水舎で手と口を浄め、「南総門」を通り、本殿のある境内地に入るのですが、現在この門はスッポリとシートで覆われていて、大修造中です。通路部分だけが確保されている状態です。 南総門の手前で、手水舎の北側には、イラアストマップに「供御所」と表記された建物があります。正面の門の柱には、「末社 竈神殿」と記された木札が掛けてあります。御祭神は、迦具土神(カグツチノカミ)、彌都波能賣神(ミズハノメノカミ)、奥津日子神(オクツヒコノカミ)、奥津比賣神(オクツヒメノカミ)。台所守護の神様です。 「御竈殿」の駒札が几帳の前に立てられています。まさに台所の守護神。 通路を抜けて、本殿側の境内から眺めるとこんな景色が現状、見られます。 そこで、一旦手水舎側に戻ると、東側には仮説のこんなスロープが設けてありました。最初は解らなかったのですが、後で気がつきました。たぶん、年末年始の参拝のピーク時には、本殿への参拝順路を一方通行にするための方策なのだろうと思います。(例年そうなのかどうかは未確認です。) 南総門を通り抜けて、右斜め前(北東方向)を見た景色です。 こちら側は、「祈祷受付所」の建物です。南の方には「絵馬・祓串」の表示が掲げられています。 反対に、境内地の西側には「厄除開運 八幡御神矢」の受付所があります。厄除まいりの方法の案内説明が大きく表示されています。 受付所の南側には、お札お守り・八幡御神矢の「納め所」が設けてあります。こんなところで、いよいよ本殿のある御社殿周辺を拝見することに。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.28
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真っ直ぐな参道には、「三ノ鳥居」があります。この参道のおもしろいところは、様々なスタイルの石灯籠が参道両側に奉納されていることです。 例えば、最初に撮ったこれらの石灯籠。基本型は同じですが、それぞれ少しずつ違います。宝珠と請花の形の差異。笠の蕨手(ワラビテ)の有無。蕨手のない笠の四隅の反り具合の差異。竿の部分の反り具合の差異。基壇の差異などです。着目してみるとおもしろい。 三ノ鳥居を過ぎると、表参道上のこの石が目にとまります。「一ツ石」と記した駒札が立っています。「かつては馳馬(ハセウマ)や競馬(キソイウマ)の出発点であり、『勝負石』とも呼ばれる勝運の石。お百度参りの地点ともされる」(リーフレットより)という石です。 参道の左側には、こんな石庭があり、傍に「鳩峯寮の庭」と題する駒札が設置されています。「この石庭は昭和を代表する作庭家である重森三玲翁により、昭和36年9月16日に当地方を襲った第二室戸台風で倒壊した三之鳥居(正保2(1645)年建立)の石材を用いて、昭和41年5月11日に作庭されました。 参道の石畳を含めた東西にわたり一貫する直線と斜線の繊細な組み合わせと、力強い石組との対比によって構成された珍しい石庭で、生涯にわたって月参りを続けられた翁の深い敬神崇祖の心が大変見事に表現されています。 石清水八幡宮 」(駒札転記)参道の斜め右側には、 「御鳳輦舎」があります。この傍にも石灯籠が数多く奉納されています。鳳輦とは、「屋形の上に金色の鳳凰を飾った輿(コシ)。昔、天皇の乗り物に使った」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味です。輿を収めておく建物ということでしょうね。ここで、表参道から逸れて、参道の左(西)側エリアを先に探訪してみました。 これはリーフレットのイラストマップから切り出したご紹介エリアの部分図です。このマップを見ますと、余談ですが、このエリアの西端には3カ所の駐車場が明記されていますので、ここまでは車で来ることもできるようです。 御鳳輦舎の近くで、表参道から左折すると、この広い道に入ります。 まず目に止まったのが、この「御神木 大楠公手植えの楠」です。「江戸時代前期に著された『洛陽名所集』によれば、この楠は御本殿西側の築地(信長塀)外にある楠と同じく、<建武中興>の功臣。楠木正成(大楠公)が建武元年(1334)に戦勝軍利を祈り八幡山に植えた楠の一本と見られ、京都府の天然記念物に指定されている。 独特の芳香を発し樟脳の原料ともなるクスノキは、古来その防虫効果や薬効から、仏像・社寺建築・漆器等の用材として使われてきた。この大楠には正成公の尊皇敬神の真心が今も息づいていると言えよう」(駒札転記)このエリアの南辺には、この「清峯殿(セイホウデン)」(青少年文化体育研修センター)があります。背後に「藍峯館(アイホウカン)」(宿泊棟)があるようです。 清峯殿から北方向にニョキリと立つのがこの塔。「湧峯塔」と名付けられています。北側から撮った景色です。給水塔だとか。このエリアの中央部分にありますので、ランドマークにはなります。 この湧峯塔の傍に、「西谷・小塔跡」の史跡案内板が設置されています。「当初より、神仏習合の宮寺であった石清水八幡宮の御本社西側、『西谷』には、早くも平安時代中期から仏堂建立が始まった地区です。今から900年程前の平安時代後期、白河法皇が大塔の建立を発願したことをきっかけに、谷を埋めた大規模な整地が行われ、大塔に続き小塔、鎌倉時代には八角堂など、数々の仏塔や仏堂が建立されました。 小塔は鳥羽天皇の皇后である待賢門院(藤原璋子)の発願により、長承元年(1132)にこの付近に建てられ、文禄5年(慶長元年・1596)の「慶長の大地震」で倒壊したまま再建されませんでした。大塔より小型の『多宝塔』と呼ばれる形式の塔でした」(案内文転記) 湧峯塔の西側には、「エジソン記念碑」が建立されています。 記念碑の石の表面に前面の景色が映じています。ズームアップでエジソン像を撮りました。後で見ると、写真を撮る私の姿が部分的に映じていました。この記念碑の一画の前面右側に「エジソン記念碑」の案内駒札が設置してあります。これまた、駒札の表面に透明シートが貼ってあるため姿が映じてしまいました。掲載没!「この記念碑は、アメリカの偉大な発明家であるトーマス・アルバ・エジソン(1847~1931年)が発明した白熱電球誕生のゆかりの地に、エジソンとその業績を記念するため建てられました。 1878年、エジソンは白熱電球の実用化に取り組んでいましたが、点灯時間はまだ短く、長時間輝き続けるフィラメントを探すことが必要でした。エジソンは金属から綿糸、さらにはあごひげまで、何千もの素材を試し、竹が最適であることを発見しました。これを受けて助手たちは、京都を含め世界中を調査して竹の標本を集め、そのなかから1000時間以上燃焼する耐久性に優れたフィラメントが生まれ、白熱電球の実用化に至りました。そのときエジソンがフィラメントとして使用したのは、石清水八幡宮近くの真竹だったといわれています。八幡の竹は江戸時代には刀剣の留め具である『目釘竹』の名品として德川将軍家に献上されており、強くて質が高いことで有名でした。 最初のエジソン記念碑は、1934年に石清水八幡宮境内に建立されましたが、1958年に現在の場所に移転され、1984年にはデザインを一新し再建されました」(駒札案内文転記) エジソン記念碑の南側には、「鳩峯庵」の扁額を掲げた茶室があります。 茶室から東方向に少し離れたところに、「都山流 流祖中尾都山 頌徳碑」が建立されています。「中尾都山は1876(明治9)年、枚方に生まれ、幼少のころから当宮を守護神として篤く崇敬しました。 この碑は一代で尺八界最大の流派を築き上げた中尾都山の業績を讃え、七回忌にあたる1962(昭和37)年に建立されました。 碑文 『萬象尽蔵一管中』 <人生の喜怒哀楽や森羅万象全てを余すところなく、一管の尺八で表現する> 公益財団法人 都山流尺八楽会 」(駒札案内文転記) エジソン記念碑の近くで、この歌碑が目に止まりました。 湧峯塔の北側でまず目にしたのが、この「ボーイスカウト像」と北東方向にある「石翠亭」(食事休憩所)です。このブロンズ像の北側は広場になっています。広場を挟んでその北方向に、 「三女神社」(末社)があります。御祭神は宗像三女神です。運輸・流通・安全の神様。柱に木札が掛けてあります。 蟇股には波浪が彫刻されています。祭神からの連想でしょうか。 三女神社の北方向の景色 「西谷 八角堂跡」の史跡案内板が目に止まりました。位置は定かではありませんが。「鎌倉時代の初め、順徳天皇の御願により建てられた隅切り八角形の仏堂の跡で、堂内には像高約3mの金色に輝く阿弥陀如来坐像が納められました。その後、慶長12年(1607)には、豊臣秀頼により再建されました」(史跡案内文一部転記)明治の神仏分離令により、この八角堂は当時の正法寺の住職・志水円阿が所有地に移築されたことにより、廃仏毀釈を免れた唯一の仏堂として現存します。 三女神社とその北方向の通路を挟んで東側にこの建物が見えました。 近づいて格子戸から内部を見ると、井戸です。 後でイラストマップを確認沁ますと「供御井」と称するそうです。 三女神社の南の広場の一隅に「西谷 大塔跡」の史跡案内板が設置されています。「大塔は、天永2年(1111)に完成した巨大な仏塔です。平安時代後期、初めて院政を開き権勢を振るった白河法皇の御願により建てられました。 慶長10年(1605)には豊臣秀吉の子・秀頼が再建します。その絵図面によると、現存する和歌山県岩出市 根来寺の大塔とほぼ同規模の、日本最大級の真言形式の大塔でした。側柱一辺14.9m、高さ27.1mもありましたが、今から約150年前の明治の初め、神仏分離令のため取り除かれました」(史跡案内文の前半転記) 大塔の設計図に発掘調査区を合成した図です。赤丸を追記したところが上掲の「三女神社」の位置です。さて、表参道に戻ります。 参道の両側には、奉納された様々なスタイルの石灯籠が櫛比のごとく立ち並んでいます。 三ノ鳥居の方向を眺めた景色 立ち並ぶ石灯籠の一例です。気づいたのは、奈良の春日大社に見られる六角形の火袋と笠の春日灯籠形式の石灯籠を見かけないことです。ほとんど火袋・笠は四角です。 表参道を進むと、右(東)側に社務所があり、その先の左に手水舎が見えます。その少し手前に、この石段道が上掲のエリアへのもう一つの出入口として設けてあります。本殿に近いこちらには、参道脇に「エジソン記念碑」への案内標識が出ています。こちらの石段道に一番近いのが、上記の大塔跡と三女神社です。つづく参照資料*リーフレット「国宝 石清水八幡宮」*史跡に設置の駒札等の案内文補遺石清水八幡宮 ホームページエジソン記念碑 八幡ストーリー :「八幡市」エジソン :「ジャパンナレッジ」トーマス・エジソン :ウィキペディア公益財団法人 都山流尺八楽会 ホームページ都山流 :「コトバンク」2022_11「本曲 朝風」流祖 中尾 都山 作曲_都山流関東支部 第88回 尺八演奏会 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.28
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二ノ鳥居を通り抜け、表参道を進みます。参道の両脇に狛犬像、 石灯籠や「神馬」と刻された碑が奉納されています。 緩やかな参道を歩みます。 平石を渡した橋が架かり、高欄の親柱には「神幸橋」と刻されています。参道左脇の手すりには、「表参道①」と表記したシートが取り付けてあります。正月の参拝に関わって、事故等の生じた際にそのエリアを特定しやすくするための手段として設置されているのかも知れません。 橋上で山側を見ると、 幅の狭い谷川が見えます。雨量が少し多ければ、小さな滝になりそうな景色です。 橋の少し先には、表参道の左側にこの地点まで上ってくる曲折した石段道があります。表参道に入れる枝道です。右の景色の緩やかな表参道を上ります。 比較的緩やかな石段道が曲折する「七曲がり」と称される参道を上がります。 参道の分岐点が見えて来ます。 この分岐箇所に、「旧跡 かげきよ」と読める石標が立っています。 前回ご紹介したリーフレットのイラストマップによりますと、「影清塚」と明記されていて、「参拝前に己の影を映し心身を祓い清める場所」(転記)だそうです。 この分岐点に右の参道への道標も立っています。右側の参道は少し急な石段道になっていきます。この道は後ほどわかったのですが、「中参道」の出入口になります。この道標には、中参道を上って行けば、「石清水社」に至ることを示しています。その先は、勿論山頂の本殿(御社殿)に通じています。 表参道の右側に影清塚がありますが、反対側(左側)には、末社として「大扉稲荷神社」が祀ってあります。御祭神は御食津神。覆屋の柱に木札が掛けてあります。 私には判読できない部分があるのですが、参道脇には目標と距離を示す道標が建てられています。ここからの表参道はしばらく真っ直ぐで緩やかな参道が続きます。そして、参道の山側には、各所でお城の石垣と同様の石垣が各所に出現します。 最初の石垣 「東谷 橘本坊跡」の史跡案内板が設置されています。橋本坊は室町幕府を開いた足利氏の祈願所だったそうです。足利氏は源義家の孫・義康を祖とする武家の名門です。源義家は、平安時代後期に、石清水八幡宮社頭で元服し「八幡太郎」称された武士。三代将軍足利義満の母・良子は石清水八幡宮寺の長官を務めた「善法寺家」の出身という縁があるそうです。この男山の麓、南へ約300mに「善法律寺」があるとか。 しばらくはこのような参道が続きます。 その先が少し角度のある石段道になります。石段道の右側にはまず 「中坊と椿坊の坊跡」の石垣があります。石清水八幡宮もまた、江戸時代末までは、神仏習合の宮寺でした。この男山の山内に数々の坊が林立し、「男山四十八坊」と呼ばれていたそうです。坊は鎌倉時代以降に数が増えたそうです。この周辺は「中谷」と言われていて、中坊は古くからあったと言います。 史跡案内板に載る絵図を切り出してみました。慶応2年(1866)に描かれた状況。「城州八幡山案内絵図」(木版墨刷)に着色した図だそうです。現在では通れなくなった通路が縦横にあったことがわかります。この絵図を見ていますと、高野山の宿坊のイメージを想起しました。「現在の社務所のあたりにあった『椿坊』には、平安時代末期の女流歌人で有名な小侍従が住んでいたといわれています。小侍従の父は石清水八幡宮第25代別当の光清(コウセイ)、姉妹は鳥羽天皇に嫁ぎ、八幡市の地名・美濃山(ミノヤマ)の由来として語られる美濃局(ミノノツボネ)。『待つ宵に更けゆく鐘の声聞けばあかぬ別れの鳥はものかは』の和歌は小侍従の代表作です」(一部転記) その先には、「南谷 豊蔵坊跡」が続きます。 豊蔵坊は德川家康が祈願所とし、将軍家の坊として栄えたと言います。石高随一の坊。豊蔵坊は、江戸幕府が直接修理や築造をおこなったので、詳しい絵図が残るそうです。文久3年(1863)に孝明天皇が攘夷祈願を行った場所でもあるとか。八幡市にある正法寺の開祖・清水家の娘が家康の側室となったお亀の方で、その子が初代尾張藩主となります。お亀の方(相応院)の菩提寺となる正法寺を厚く庇護したといいます。 こんな感じの参道が続きます。 パノラマ合成しましたので景色が歪んでいますが、全景がおわかりいただけるでしょう。 右の石垣の手前下に「愛染堂と南谷の坊跡」の史跡案内板が設置されています。この周辺は「南谷」と言われていたそうです。かつては坊や仏堂が建ち並んでいたと言います。この石垣の場所に愛染堂(盛林院)があったそうです。石清水八幡宮長官であった壇棟清により寛元1年(1246)に建立されたとのこと。愛染堂にあったと伝えられる愛染明王像は、愛知県蒲郡市の水向寺に安置されているそうです。 石段を登り切った上に見えたこのお堂には、「神馬舎」と記された木札が掲げてあります。 切妻屋根の棟には獅子口が置かれ、軒丸瓦の瓦当には三頭巴紋が陽刻されています。 拝の箇所にはシンプルな梅鉢懸魚が使われています、 神馬舍前で右折しますと、参道の少し先左側にこの表参道に上ってくる別の道が見えました。色々な地点からこの山頂に至る径路があることがわかります。異なる石灯籠のパーツを組み合わせたユーモラスな石灯籠の傍に、道標が立っています。私には正確な判読ができません。「右 なら かうや みち」と読めそうなのですが・・・。ならは奈良、かうやは高野・・・。正しいかどうかは不詳。 「走上りバス停 約20分」という簡易な道標も設置されています。 降りなら20分ほどで、主要道路まで出ることができるようです。この簡易な標識の付けられた柱には「男山散策路せせらぎルート」と表示されています。さて後は真っ直ぐの参道を進むだけ。標識によれば、約5分歩けば石清水八幡宮の社殿に至ります。つづく補遺石清水八幡宮 ホームページ男山ハイキングコース②せせらぎルート・表参道 :「八幡まるごとナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る へ
2023.12.26
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昨日(12/24)、石清水八幡宮を訪れてきました。そのきっかけは2つありました。一つは、23日の朝から、宇治市民大学の公開講座の一つを単発で受講に出かけた時、受付の傍に積まれていた複数の希望者配布資料の一つに、冒頭のリーフレットがありました。「国宝 石清水八幡宮」 参考にいただきました。帰宅後に新聞の朝刊を見ますと、京都版のページに、「8メートル御神矢お目見え 石清水八幡宮」の記事が報じられていたのです。「八幡市の石清水八幡宮で22日、『ジャンボ御神矢(ミシンヤ)』が設置された。境内の竹で作った長さ8メートル。来年2月3日の節分まで本殿前に飾られる」(朝日新聞朝刊)昨日は天気がよかったので、この2つが動因となりました。今なら混雑もしないだろうし、運動不足解消の一環として、男山の山頂にある社殿と境内を一巡するウォーキングをしてみようと。石清水八幡宮を訪れるのはたぶん何十年ぶりか・・・・・です。京阪電車の「石清水八幡宮」駅の改札口をでて、前の道路を右に行けば、参道ケーブルがあります。道を横断し、左方向に歩道を道沿いに進めば、石清水八幡宮の一ノ鳥居方向になります。 道路を横断して、最初に目にとまったのが、「エジソン」の胸像です。エジソンが八幡男山の竹を利用して、電灯を発明したのが1880年でした。八幡の名が世界に知られることになりました。 そのすぐ近くに「引窓南邸跡」の碑が立っています。この碑のことは今回初めて気づきました。 案内文によると、「引窓」が人形浄瑠璃の演目の場面で取り上げられて知られるようになったとか。この碑、もとは約50mほど西側の位置に昭和2年頃に設置されたと言います。 道沿いに進み、右折すると、「石清水八幡宮」の社号碑が見えてきます。左側に、周辺観光案内図と案内板も設置されています。 一ノ鳥居 石造鳥居に「八幡宮」と記された額が掲げてあります。「八」という文字の形にご注目! 鳥居の傍に、石清水八幡宮の「御祭神と歴史」の案内板が掲示されています。冒頭のリーフレットとこの案内文等は、後ほど要所要所で参照し、ご紹介に利用します。 一ノ鳥居傍の石灯籠。 左右に対で配置されています。 元文2年(1737)11月と彫り込まれた石灯籠の傍に、大きな「案内絵図」が設置されています。 境内要所にこの大きさの案内絵図が現在位置を付記して設置されていました。 石清水八幡宮放生池一ノ鳥居を通り過ぎると、右側に「放生池」が見えます。池面を眺めますと薄氷が張っているように見えました。 池の畔にこの案内板が設置されています。 参道の正面には、門が見えます。参道の手前には緩やかな弧を描く石橋が参道に架かっています。これは、たぶん一つの結界を意味するのでしょうね。 石段の手前、参道の左側に、この朱塗りの覆屋が見えます。建物の左側に「筒井」と刻した石標が立っています。 近づいて格子戸越しに内部を見ると、大きな井戸です。 覆屋の内部をを見上げると、蟇股様の木組みに三頭巴文様の彫りがあり、屋根を支えると球形状の束などの木組が見えます。 冒頭のリーフレットに掲載の「石清水八幡イラストマップ」から「頓宮」の部分図を切り出しました。「頓宮」とは、天皇の行幸の際に設営される仮宮で、行宮(アングウ)・行在所(アンザイショ)とほぼ同じ意味合いの言葉だそうです。(資料1)ここでは、山上の八幡大神が一時遷座される仮宮を意味するのでしょう。 緩やかな石段を上がったところにある最初の門です。四脚門の形式です。連子窓を供えた塀で囲われています。建物の配置から考えますと、いわば裏門に相当するようです。 桟唐戸の扉と蟇股には、菊花文が陽刻されています。 頓宮の内側から門と塀を眺めた景色 「頓宮殿」 正面から眺めますと、右(東)側が「頓宮殿」で、左(西)側が「頓宮斎館」です。 頓宮殿の傍に、この案内板が設置されています。かつては、現在の頓宮斎館の位置に、「極楽寺」があり、頓宮殿と並んでいたそうです。極楽寺は、石清水八幡宮初代別当・安宗(アンシュウ)が元慶(ガンキョウ)7年(883)に建立した男山の麓の中心施設だったと言います。この頓宮では、毎年9月15日に「石清水祭」という勅祭が行われます。その起源は「九州・宇佐神宮から八幡・男山への八幡大神の遷座より、4年後の貞観(ジョウカン)5年(863)、宇佐神宮に倣って始められた仏教的な儀礼『放生会』に遡ります」とのこと。儀式は午前2時、「神幸の儀」(御神霊の遷座)から始まって行きます。京都の葵祭、奈良の春日祭と並ぶ三大勅祭の一つだそうです。(案内文、資料2) 頓宮斎館側(西側)にも門があります。 東に離れて眺めると、門の外側に巨大な石造五輪塔が垣間見えます。 西の門の近くの頓宮敷地内から眺めた回廊 頓宮敷地の南側にこの朱塗りの門があります。頓宮の正門(表門)です。こちらも四脚門の形式です。一ノ鳥居から参道は頓宮を通り抜ける形で南方向に延びています。 参道を少し歩むと、右側に「高良神社」の額を掲げた石鳥居が東面して立っています。 この神社の参道傍に、手水所が設けてあります。 この境内地に「京都の自然二百選」に専定された植物「タブノキ」の巨木があります。しめ縄が巡らしてありますので、御神木のひとつのようです。 巨木の幹にできた洞の中に、榊が供えてありました。 境内地に拝殿と本殿が建てられています。摂社の一つで柱に木札が掛けてあります。御祭神は高良玉垂命です。 この案内板が設置されています。高良神社は、貞観2年(860)創建と伝わり、この周辺の古い地名「カワ(ハ)ラ」に由来するとも言われているとか。この神社には、江戸時代中期に郷民が高良大明神を氏神として始めた「太鼓まつり」が再興されて、夏の風物詩として受け継がれているそうです。「放生会」の儀式が頓宮で行われる際に、八幡大神が山上から頓宮殿に一時的に遷座されることから、この辺りは「宿院」と呼ばれてきたそうです。 高良神社から参道に戻り、数十m進むと、この道路標識があり、その近くに大きな「案内絵図」が設置されています。右折して右の参道を行くならば、「裏参道」です。急な石階段の道の連続で、山頂の本殿に至ります。真っ直ぐに進むと「表参道」です。まずは、オーソドックスに表参道を歩くことにしました。 石造の二ノ鳥居表参道には、少し先に「二ノ鳥居」が見えます。 リーフレットより、交通の案内図を切り出しました。序でに、兼好法師著『徒然草』第52段に触れておきましょう。短い段です。「仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心うく覚えて、或る時思ひ立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。極楽寺、高良などを拜みて、かばかりと心得て帰りけり。さてかたへの人にあひて、『年頃思ひつることはたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず』とぞいひける。 すこしのことにも、先達(センダチ)はあらまほしきことなり。」(資料3)大昔、古文の時間にこの段を採りあげられ、原文を暗記するという授業を受けた記憶があります。その目的は、どんなことでも、その道の先輩、良く知っている人がいるので、まず教えてもらうことが大事だよという点にあったのでしょう。なつかしい段です。石清水八幡宮に参ったことがない仁和寺の僧が年取ってから思いたち、一人徒歩で出かけたのです。しかし、上掲の頓宮と高良神社辺りを参拝して、ここが石清水八幡宮と思い込んだのが失敗のもと。参拝者は皆山に登って行く。その姿をみて不思議に思うだけ。神参りが目的だから山登りするまでもないとその僧は一人合点して、仁和寺に帰りました。自分の体験を身近な僧に語って、笑われたというオチです。思い込みってありがちなんですよね・・・。時折失敗を繰り返しています。嫌になる(笑)兼好法師(1283?~1352年以降)の時代に、極楽寺と高良神社があったことがこの一文からわかります。極楽寺が廃されたのは、1868年明治の神仏分離令が発端になった。廃仏毀釈運動が起こった結果なのでしょう。つづく参照資料1) 頓宮 :「コトバンク」2) 勅祭石清水祭 :「石清水八幡宮」3)『改訂 徒然草 -付 現代語訳』 今泉忠義註 角川文庫 p45-46補遺石清水八幡宮 ホームページ八幡総本宮 宇佐神宮 ホームページ明治元年(1868)3月 神仏分離令が出される :「公文書に見る日本のあゆみ」神仏分離 :「コトバンク」徒然草 第五十二段 :「徒然草(吉田兼好・吾妻利秋訳)双蝶々曲輪日記 :ウィキペディア双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)引窓 :「初めての歌舞伎を楽しもう」munakatayoko's blog拝見した演目は『双蝶々曲輪日記 引窓』 :「歌舞伎美人」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -2 表参道(七曲がり・大扉稲荷神社・坊跡ほか)へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -3 三ノ鳥居、表参道の左(西)側エリア へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -4 御羽車舎・社務所・手水舎・竈神殿ほか へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -5 ジャンボ御神矢、本社(御社殿)の外観 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -6 本社周辺の摂社・末社と信長塀 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -7 岩清水社・石清水井、松花堂跡、坊跡等 へ探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -8 裏参道を降る
2023.12.25
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=== 2023.12.13 === 南の空10時10分頃に撮りました。青空を背景に白雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 西方向は青空一色に近い状態です。 頭上の空 東方向の空 稜線上空も青空を背景に白雲が浮かんでいます。良い天気!! 東方向の空14時25分過ぎに、稜線を眺めると、雲が去り青空一色でスッキリしています。 南の空 南の空には雲がわずかに浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 太陽の位置の関係で、青空がうまく撮れません。 頭上の空 南の空16時30分過ぎに撮りました。日の入り近くです。晴天の折に見る空の色。南西方向の空 西方向の空 東方向の空晴れたよい一日でした。=== 2023.12.14 === 南の空の空この日は、午前中出かけていましたので、日の入り近い16時50分頃に撮っただけです。朝から良い天気でした。雲が出ています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上空も雲で覆われています。=== 202312.15 === 南の空ベランダの手すりには雨が降った跡がわずかに見え、雨は止んでいました。空は布を広げたよな雲で覆われています。この状態はどの方向も同じでした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 東方向の空15時20分頃には、雲の姿が大きく変わっていました。斜めに太い筋雲が広がっています。そして、青空が見えています。こういう雲の姿もめずらしいと思います。 南の空南の空も雲の姿は大きく変化し、偶然、小鳥が空を横切り飛び去りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空16時35分過ぎに撮りました。一様に雲が広がっている感じですが、遠くの方で途切れが見え、その先は青空が見えていました。 南の雲は南東方向にこのように広がっているのです。 雲の南端の感じがお解りいただけることでしょう。南西方向の空 遠くの雲をズームアップして部分撮り。夕映えが見られます。 西方向の空 普段見かけない雲の姿。ズームアップして、部分撮りしました。 東方向の空さて、雲がたりを続けます。全詩集の第五巻。収録されている真民さんの7つめの詩集は「愛をこめて」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第五巻』大東出版社)ここに収録された詩は「禅の友」「曹洞宗宗報」に所載されたものと記されています。「遊戯三昧」と題する詩の最初の部分に、雲が詠み込まれています。 何しろ 雲も波も 無心なのだから いつ見てもいいし いつ聞いても楽しい p239この詩集に雲が出てくるのはこの詩一つです。「いのちの張り」という短い詩をご紹介いたします。 大切なのは いのちの張り 恐ろしいのは この喪失 懸命に 一途に 鳴く 虫たちの 声声 p232虫たちの鳴く声から、大いなる感動を受けとる真民さんの思い、己への叱咤激励が伝わってくる気がします。真民さんの8つめの詩集は「これからだ」です。ここに所載の詩は、朝日新聞こころのページに掲載されたものと記されています。「あかね」と題する詩に雲が詠み込まれています。茜の一つの意味は既にご紹介しています。この詩も全文を引用します。 あかね草 あかね雲 早世童女茜 あかねとの深い縁よ 毎暁川土手に立ち あかねの空を仰ぎ 明星を拝していると わが子茜が雲に乗ってきて お父さんお早うございますと言う すると遠い日の悲しみは消えて なつかしい思い出だけが甦(ヨミガエ)ってくる 特に夏の夜明けの あかねの空は美しく わたしに生きる力と 温かい愛とを与えてくれる p243「寂」と題する詩の半ばに出てきます。 雲ひとつない空に 星星がリンリンと冴え光り 夜明けの霊気が身にしみる p245「比翼」と題する詩の半ばに詠み込まれています。題は、比翼連理という熟語に出てくる比翼です。この詩の半ばに もともと二人とも運命に神から見放され 流転流浪雲のように水のように 定めのない歳月を送ってきた p252「紐」と題する詩。不動明王に言及して行く詩に出てきます。 わたしは酉年うまれのせいもあり いかなる紐にも結ばれず 鳥のように生きてきた 雲のようにとも言ってよかろう 去来する白雲は 結び留めることはできない p257「遊」と題する詩にも。 無礙無心の 雲や水に心ひかれ 詩歌に執して 流転し漂流し 終末を迎えようとしている p260この詩集では、5つの詩に、雲が詠み込まれています。第五巻の最後は、「法蔵菩薩に捧げる詩 -世界平和への祈り」という詩です。3章の「序詩」の後に、15章の長詩からなる詩です。この詩に雲は詠み込まれていません。これで、第五巻を終え、いよいよ最後の第六巻に移ります。雲の変化に戻ります。=== 2023.12.16 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 西の方向に目を転じていくと、青空が少し見えます。 頭上の空 東方向の空稜線近くの彼方には白雲が漂っていますが東の空には青空が広がっていました。普段とは対照的な空模様です。 東方向の空14時40分過ぎに眺めますと、稜線上空は銀鼠の雲に覆われる形に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、並びに頭上の空は、午前の姿と比べると動きを増しそうな雲の広がりに変化していました。写真を撮っていた後、小雨が降り始めました。この後は空を観察に終りました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.23
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=== 2023.12.10 === 南の空 9時55分近くに撮りました。雲がなく快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上空は少しもやっとしている感じですが雲は見えません。この日、京都・四条に出かける用事がありましたので、この後でかけました。序でに、知恩院の探訪等をしてきたこと、雲がたりでご紹介している坂村真民さんの詩碑「念ずれば花ひらく」は既に拙ブログ記事として載せています。それで、この日の午後の雲の変化は記録写真がありません。=== 2023.12.11 === 南の空9時45分過ぎに撮りました。遠くの空に浮かぶ雲がみえますが、前日に続き快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 西方向も頭上も、青空が広がっています。 東方向の空稜線上空には横雲が見えますが、穏やかな感じ。空の色合いも普段どおりというところ。 東方向の空15時5分過ぎに稜線の上空を眺めますと、午前中とさほど変化のない空模様です。 南の空しかし、南の空から西、頭上にかけては、全体が雲に覆われた状態に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空16時40分近くに空を眺めますと、1時間半ほど前の雲の広がりは過ぎ去っていました。 日暮れ時の空模様になっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 全体に薄雲が覆っているようにも見えますが判然としません。 東方向の空横雲は過ぎ去っていました。稜線上空もまた、銀鼠の色一色です。この後、6時近くから雨が降り始めました。さて、雲がたりを続けます。全詩集の第五巻。収録されている真民さんの6つめの詩集は「み仏は風の如く花の如く」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第五巻』大東出版社)この詩集は、これまでの詩集と大きな違いが一つあります。詩集のタイトルに「み仏」が入っています。一つの詩に対して、一葉の仏像の写真がページの上部に掲載され、下部に詩が載っています。今回は、真民さんの詩の中に、雲を見つける形での雲がたりをご紹介していますので、ここでは、この詩集に掲載されている<み仏>の名称と所蔵先を一覧にしておきたいと思います。拙ブログをご覧いただいた方の身近なところにあるお寺のみ仏かもしれません。 聖観世音菩薩坐像 (県重文 福島・成法寺蔵) 聖観世音菩薩立像 (県重文 栃木・大雄寺蔵) 十一面観音菩薩像 (国重文 福島・弘安寺蔵)(国重文 兵庫・歓喜寺蔵) 十一面観音菩薩立像 (国重文 京都・禅定寺蔵) 十一面観世音菩薩坐像(国重文 兵庫・達身寺蔵) 千手観世音菩薩立像 (国重文 愛知・法住寺蔵) 千手観世音菩薩像 (県重文 栃木・永林寺蔵) 馬頭観世音菩薩立像 (県重文 愛知・補陀寺蔵) 吉祥天立像 (国重文 兵庫・多聞寺蔵) 吉祥天像 (国重文 兵庫・達身寺蔵) 聖徳太子孝養像 (国重文 埼玉・天洲寺蔵) 南無仏太子像 (国重文 兵庫・善福寺蔵) 虚空蔵菩薩坐像 (国重文 愛知・亀翁寺蔵) 兜跋毘沙門天像 (国重文 兵庫・達身寺蔵) 阿弥陀三尊脇侍 観世音菩薩像 (国重文 山梨・願成寺蔵) 釈迦如来坐像 (国重文 滋賀・興聖寺蔵)(県重文 栃木・大雄寺蔵) 同上 (国重文 福島・陽泉寺蔵) 薬師如来坐像 (国重文 京都・福徳寺蔵)(国重文 兵庫・西光寺蔵) 同上 (国重文 愛知・法華寺蔵)(国重文 福島・浄泉寺蔵) 薬師如来立像 (県重文 愛知・補陀寺蔵) 地蔵菩薩坐像 (国重文 京都・能化院蔵) 地蔵菩薩半跏倚像 (国重文 京都・禅定寺蔵) 地蔵菩薩立像 (国重文 兵庫・多聞寺蔵) 子安如意輪観世音菩薩坐 (国重文 兵庫・青竜寺蔵) 増長天立像 (国重文 滋賀・冷泉寺蔵) 持国天立像 (国重文 滋賀・冷泉寺蔵) 多聞天像 (国重文 兵庫・西光寺蔵) 不動明王立像 (国重文 福島・弘安寺蔵)詩集に掲載の名称と順番を原則にしつつ、同一名称の仏像の所蔵先は集約して表記。また、四天王像は掲載順で集約しました。この詩集を読み通しました。雲という文字はこの詩集では詠み込まれていません。代わりに、この詩集の「序詩」と最初の「新しい年の誓いを」と題する詩、詩集最後の「美しい美しいお地蔵さまに」と題する詩を引用します。 序詩 み仏は 風の如く 花の如く 随時随処に そのみ声を み姿を現し給う p186 新しい年の誓いを 一途に生きる花の心を 一心にひらく花の命を いつもわが心とせよとの 尊いみ教えのおん姿よ 新しい年の 新しい心に 新しい水を注ぎ 花ひらく日を 待ち望んでゆこう 二度とない人生に せめてかすかなりとも 自分の花を咲かせて おん目にとめていただこう 先ずこのことを 年の始めに誓おう (聖観世音菩薩坐像を掲載) p187 美しい美しいお地蔵さま 花を摘んでは お地蔵さまに 水を汲んでは お地蔵さまに 遊びつかれて お地蔵さまの み手に抱かれ ねむっている 忘れぬわが子を思うたび お地蔵さまの 限りない御恩が こみあげてきて この美しい美しい お地蔵さまに 手を合わす (地蔵菩薩立像を掲載) p218雲の変化に戻ります。=== 2023.12.12 === 南の空9時20分頃、ベランダの手すりや竿には雨滴が残り、雨が降ったことがわかりました。雨上がりで、のっぺりとした雲が南から西、頭上にかけて広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線間際には、雲が湧き立っていいる感じを受けます。 さらにその上は別の層のように雲が広がっています。 東方向の空14時近くに撮りました。ベランダに出ると、どの時点かで一時雨が降っていた跡が見られました.稜線上空の雲が大きな塊に変化して動きが見られます。 南の空 南から西、頭上にかけても、雲の動きは活発化しているようです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時10分過ぎに撮りました。日の入り後です。ストロボを使わずオート機能で撮っています。どの方向を見ても雲は変化し続けています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空こういう雲の色は、やはり好きになれませんね。くもり一時雨という日になりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について「文化遺産オンライン」のウエブサイトから 木造 聖観世音菩薩坐像 厨子入木造聖観音菩薩立像 木造十一面観音菩薩像 厨子入南矢臼別馬頭観世音菩薩坐像 吉祥天立像 木造聖徳太子立像 木造虚空蔵菩薩坐像 毘沙門天立像 阿弥陀如来および両脇侍立像(善光寺式) 釈迦如来坐像 木造薬師如来坐像 石造地蔵菩薩坐像 木造四天王立像 不動明王立像千手観音菩薩立像 :「法相宗大本山 興福寺」兜跋毘沙門天立像 :「奈良国立博物館」如意輪観音坐像 :「奈良国立博物館」木造地蔵菩薩半跏像 :「福山市」秘仏・吉祥天女立像(秋季)(浄瑠璃寺) :「祈りの回廊」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ 4回のシリーズでご紹介。探訪 京都 知恩院から帰路の途中で:辰已大明神、新橋通、陶匠青木聾米宅跡ほか
2023.12.22
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=== 2023.12.7 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。ベランダの手すりを見ると、雨が降った跡が見られました。雨は既に止んでいました。雲がわずかに浮かんでいるだけです。雨上がりの空に太陽光が反射する関係でしょうか、空は明るい灰色の色調です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 西から頭上にかけては、青空が見えています。 東方向の空 稜線上空もまた、少し靄がかかった感じで、白鼠一色の空です。 薄雲が一面に覆う姿なのかどうか・・・・判然としません。 東方向の空16時10分過ぎに眺めてみますと、青空に浮かぶ雲に夕映えが見られました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西にかけての空には活発な雲の動きが見えます。 雨上がりの晴れた一日でした。===2023.12.8 === 南の空9時25分頃に撮りました。雲がなく快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空だけは、前日の朝と似たような空模様です。薄雲ではなさそうです。この空の色はやはり太陽光線の反射の関係でしょうか・・・・。 東方向の空15時20分頃に眺めると、稜線上空は青空一色です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空いずれの方向も快晴状態が続き、良き日かなです。 南の空 17時近くに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 快晴の一日が迎えた日の入り頃の空の色合いです。さて、雲がたりを続けます。全詩集の第五巻。収録されている真民さんの5つめの詩集は「すべては光る」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第五巻』大東出版社)最初に雲が詠み込まれているのは「風が」と題する詩です。詩を引用します。 眠っていても魂だけは リンリンとしていたい 目のくさった人間には なりたくない そう書き寄こした 若い陶工を思い 未明の大地に立ち 祈願する 一片の雲もない空に 冬の星々が冴え じっと立ち続けるわたしに 夜の扉を開く風が この言葉の重みを 告げていった p159状況をイメージすると、真民さんの思いが伝播してくるのではないでしょうか。「宇宙が泣いた日」と題する詩は、 わたしは世尊が亡くなられた涅槃会(ネハンエ)の日を 宇宙が泣いた日として尊んできたという詩句から始まります。その末尾に雲が出てきます。 ああ 風も雲も動きをとめ 日も月も光を失い 歎き悲しんだ日よ p175「朴の木の下で」と題する詩は、「人々は急ぐ」という一行から始まります。1ページ半の長い詩です。車などで猛スピードで行く人々と歩く自分を対比しつつ、語りかける詩の途中に、出て来ます。 川の流れや 雲のゆききや 虫の音や 鳥の声などを聞いたり 見たりして行くので 考えてみると どれだけ得をしているかわからない p181そして、この詩は、最後が次の一節で閉じられます。雲は出てきませんが・・・。 若木のように 先を急ぐ若人よ 大自然の中にも朴のように 悠々とした木のあることを知って じっくりと自己を培(ツウチカ)い育て 大成してゆくこともいいことではないか p182この詩集で雲が詠み込まれているのは、これら3つの詩です。真民さんの思いを端的に表現している詩を引用して、区切りとします。 真言流布 「念ずれば花ひらく」の真言を 一人でも多くの人に伝えよう わたしが書いた数々の詩は 風のように消えていっても この真言だけは残したい そのためのわたしの生だ 一日でも一時間でも長く生きて 流布させてゆこう 母の願いの熱い言葉を 愛のかたまりの八字十音を p173雲の変化に戻ります。=== 2023.12.9 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。ひつじ雲と思える雲が広がっています。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 白雲の向こうに青空が広がっているのはやはりいい! 東方向の空稜線上空には、白鼠色と銀鼠色が表裏をなすような感じの雲が覆っています。 東方向の空14時45分過ぎに稜線上空を眺めると、平板な雲が一面を覆う状態に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南、西、頭上、それぞれの方向も銀鼠の雲に覆われた状態に様変わりです。 南の空16時20分頃に撮りました。雲の姿は変化していますが、空一面を覆う状態は変わらずに続いています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空他の方向も同様です。晴れのち曇りの一日となりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について涅槃会 :「浄土宗」ホオノキ :ウィキペディアホオノキ/ほおのき/朴の木 :「庭木図鑑 植木ペディア」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.21
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=== 2023.12.4 === 南の空9時45分過ぎに撮りました。太陽の光を受け見づらい空になっていますが、快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 西の空も頭上も青空が広がっています。 東方向の空稜線上空に白雲が浮かんでいますが、ここも珍しく青空が広がっています。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空16時30分近くに撮りました。申し分のない晴天でした。日の入り近い時刻になり、青空の色は花浅葱(ハナアサギ)に近い色合いの濃淡と感じます。=== 2023.12.5 === 南の空9時20分過ぎに撮りました。曇り空です。南には斑模様の感じの雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空の空だけは他の方向の空よりも明るいくもり空です。横雲が見えます。 東方向の空15時近くに眺めますと、その方向も一様の色合いの空になっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空色合いだけでなく、雲がべたっと広げた厚い布を思わせるような感じです。 南の空16時35分過ぎに眺めると、布の様な感じから動きをみせる雲に変化しています。そして、撮っている時に雨が降り始めました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空見える方向はそれぞれ撮れる程度のパラパラとした降り始めでした。さて、雲がたりを続けます。全詩集の第五巻。収録されている真民さんの3つめの詩集は「海から海に立つ虹」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第五巻』大東出版社)この詩集に「二度とない人生だから」と題する詩が収録されていることにまず触れておきます。「探訪 京都 知恩院から帰路の途中で:辰已大明神、新橋通、陶匠青木聾米宅跡ほか」で、最後に引用しています。(クリックして詩をお読みください)詩27篇を収録するこの詩集に、雲は詠まれていませんでした。4つめの詩集は「幼き者へ」です。この詩集は、真民さんが3人の娘さんたちのことを詠んだ詩集です。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいこと、子から励まされ、また学ぶ真民さんの思い、・・・・。「麻疹」と題する詩に初めて、雲が詠み込まれています。詩の4行めに「佐代子の病気は麻疹(ハシカ)だった」と記される詩です。 雲にかくれていた月が雲間から出て 地上のわたしを照らしてくださる 七輪の火をおこす手をやめて 月を拝する 十八夜の月である p123「七輪」という言葉を読み、七輪を体験的にイメージできるのはどのあたりの世代までだろうか、とふと思いました。この詩の末尾5行を引用しておきます。 月に真向かって いつもの三帰依文を唱え 世界の平和と人類の幸福とを祈り わけても今朝は佐代子の苦しみの 安らぎゆくのを請いたてまつった p123「新月」と題する詩に雲が出てきます。その前に「古蘭(コーラン)を読むようになってから/ ことに新月に心ひかれていたわたしは」という行があります。 初々しい今宵の月をしみじみと拝した 空も秋の夕焼けの健康な色で その雲の間から明星も今日は 何か特に光り給うように思われた p131詩集「幼き者へ」には、66篇の詩が収録されています。上掲の2つの詩だけに雲が詠み込まれています。この詩集の最後の詩の題が「幼き者へ」です。真民さんを彷彿とさせる詩の一つです。雲は出て来ませんが、引用しご紹介します。 わたしのような者を 父として生まれ 父と呼んでくれた 三人の子よ 体の弱いわたしだから いつまでも一緒に 生きてゆくことはできないだろう 苦しい時や 悲しい事があったら わたしの名を呼んでくれ どんなに遠い処にいても飛んできて 力になってやろう 三人仲良く大きくなってくれ お母さんを大事にしていくんだよ p150雲の変化に戻ります。 === 202312.6 === 南の空9時30分近くに撮りました。空には雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空活発な感じの雲が広がっていますが、その間から青空がうかがえます。 東方向の空 稜線は時雨れている感じすらする曇り空です。 東方向の空14時25分近くに眺めてみると、くもり具合は大差ありませんが、雲の色合いに明るさが加わっています。 南の空雲の姿は穏やかになり、雲の向こうの太陽の輝きが感じられるようになっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 曇りの状態が続いています。 南の空16時40分近くに撮りました。日の入り時刻近くです。空に青空が見えるように変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空曇り、夕刻より晴れに変化した一日でした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について仏旗・法輪・三帰依文 :「全日本仏教会」三帰依文 :「圓勝寺」三帰依文(さんきえもん)とは… :「東京国際仏教塾」三帰依 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.19
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=== 2023.11.30 === 南の空9時20分頃に撮りました。遠くの空には白雲が見えますが、近くはほぼ快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空は、二色に別れています。稜線近くはごく明るいグレーの平板な雲が覆っていて、その上は空の色合いなのか雲なのか判然としません。午前中にあまり見かけない稜線上空の空模様です。 東方向の空15時5分頃に眺めますと、稜線上空は気持ちが良い青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西にかけて、また頭上には、青空の中にいろんな姿の雲が浮かんでいます。 南の空午後に入ってからも空は晴れていましたが、17時近くに眺めると、雲が空を覆っていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空各方向に全面的に雲が広がっています。=== 2023.12.1 === 南の空9時50分近くに撮りました。南の空は二層の色合いで雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 西方向はうろこ雲様の雲が広がっていますが、晴れを基調とした感じです。 頭上の空 頭上もまた、青空に雲が広がっています。 東方向の空稜線上空を白鼠色を基調にした雲が層をなして覆っています。東の空の雲はまあ日常的ですが、雲の姿が日々異なるのはやはりおもしろいです。 東方向の空16時50分頃に眺めると、稜線上空に浮かぶ小ぶりな雲に夕映えが見られました。 ほぼ真東の夕焼け雲をズームアップで撮ってみました。 南の空南西方向の空 南西には夕焼けの雲が遠くの方にあるはずなのに意外と近く感じられます。 夕焼け雲をさらにズームアップしてみました。 しばらく後には、素鼠色の雲になってしまいました。しばしの夕映えでした。 西方向の空 夕焼け雲が西方向にも少し広がっています。=== 2023.12.2 === 南の空午前中は早朝から出かけましたので雲を撮りませんでした。久々のウォーキング同好会の恒例闇鍋会を兼ねたウォーキングに参加。JR南草津駅集合で、ロクハ公園までのウォーキング。天気は晴れです。帰宅後、16時20分過ぎに撮りました。南の空は雲がなく快晴。 ただ、写真のアングルから外れる写真のさらに下方、つまり南の遠方の空をズームアップしますと、こんな横雲が浮かんでいます。道路を挟み南の民家の屋根上ギリギリあたりのアングルでのズームアップです。南西方向の空 西方向の空 西の空にわずかに雲が浮かんでいます。 東方向の空稜線間際の向こう側には白雲が見えますが、その上空は青空です。久々のウォーキング参加、晴れの天気で良かったと思う一日でした。さて、雲がたりを続けます。全詩集の第五巻。収録されている真民さんの2つめの詩集は「もっこすの唄」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第五巻』大東出版社)この詩集に「もっこすの唄」と題する詩が半ばに載っています。詩の半ばで、「母こそもっこすの/ 代表者だと/ いばって言うことができる」と詠み、最後に「そうやすやすと/ よわねは吐かぬ/ 肥後の根性者の/ こころ意気見せろ」と己を叱咤激励する詩です。「もっこすは肥後(熊本)の方言。一こくもの、一てつもの、反抗もの、がんこものなどの意をふくんでいる」と最後に付記されています。(p54)この詩集の最初は「ねがい」と題する詩。この詩の最後の第4節に雲が詠み込まれています。 ゆうやけの雲に呼びかける ゆめを ぼくの詩のなかに と。 p41「冬来る」と題する詩の第2節に出て来ます。3節で構成される詩の第2節です。引用します。 昼が夕暮れとなり ふちを赤く染めた雲が つぎからつぎへと 東をさして動いてゆく p51真民さんが「久しぶりに八木重吉詩集をひらいた」(第1節)と記す詩で、末尾を「この人の愛の美しさにひたった」(第3節)の一行で終える詩です。その次の「冬の子」と題する詩にも、 冬の雲 という一行が織り込まれています。 p51「出会い」と題する詩。静かな山ふところで出会った蝶を読んだ詩です。この詩の末尾に出てきます。 わたしに会うため 変身した人の 白い面影がうかんできた 空にはひとかけらの雲もなく 蝶とわたしとの二つの影だけが 重なり合うばかりであった p71「豪潮墨蹟」と題する詩。末尾の注記に「豪潮は肥後の律僧」とあります。豪潮の墨蹟について詠んだ詩です。その一行目が 一片白雲心 六九歳豪潮69歳の時の墨蹟という意味でしょう。そして、この詩の最後に出てきます。 青山雲不住 去来自無心 豪潮の墨蹟はまったくほれぼれする 律師よわたしを八〇まで生かしてください p72「遠い雲」と題する詩。標題に雲が入っています。詩を引用します。 あなたと歩いていると もろもろのものが 相寄ってくる 山も鳥も 遠い雲までも 近づいてくる 天地一ぱいの 広々とした 豊かな心になってくる p74一行目の「あなた」とは、真民さんにとってこの詩では誰のことなのだろう。想像を広げてみたくなりますね。「やがて夏となれば」と題する詩。5節からなる詩の第4節に出てきます。 やがて夏となれば 空の雲さえ ビキニで死んだ魚の形をして 人間の悪を呪ってくるのだ p79各節の第一行が「やがて夏となれば」とリフレインされる詩です。そうです。原爆・水爆反対を詩に詠み、訴えつづけた平和を愛する真民さんの詩の一つです。詩集「もっこすの唄」に詠み込まれた雲はこれだけです。この詩集を締めくくる詩は「わたしは墓のなかにはいない」と題する詩。雲はでてきませんが、この詩の第1節と最後の第5節をご紹介したいと思います。 わたしは墓のなかにはいない わたしはいつもわたしの詩集のなかにいる だからわたしに会いたいなら わたしの詩集をひらいておくれ最後の節は わたしはいたるところに いろいろな姿をして とびまわっているのだ 墓のなかなどに じっとしてはいないことを どうか知っておくれ p83真民さん、たぶん日本全国各地に建立された「念ずれば花ひらく」の詩碑があるところにも。さらに、様々な詩に記された未訪の各地にも。「とびまわっているのだ」と。雲の変化に戻ります。=== 2023.12.3 === 南の空8時45分頃に撮りました。雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南西から西方向、並びに頭上も雲が覆っています。 東方向の空稜線上空も雲が広がっていますが、空には明るさが見られ、雨方向には向かわない感じでした。この後、年に2回の町内の溝掃除の日なので、天気が崩れず持ちそうなのが何よりでした。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空13時5分過ぎに撮りました。いずれの方向も雲が空を覆っています。撮っている時に、僅かに小雨がパラつきましたがすぐに止みました。ほんの通り雨。この後、空模様は晴れる方向に。 南の空16時45分頃に撮りました。夕焼け雲が広がっていました。近くの空の夕焼けはめずらしいという印象です。 下方の遠くの空の雲をズームアップで南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上空に散在する雲にも微かな夕映えが見られます。晴れのち曇りという一日になりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について豪潮 :ウィキペディア企画展 「豪潮展」 :「玉名市」八万四千塔最初の塔 :「大興善寺」豪潮寛海筆仮名法語 :「Keio Object Hub」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.18
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知恩院の探訪から外れますので、一応別稿の形で知恩院新門から京阪三条駅までの帰路を点描でご紹介します。知恩院新門前の東大路通の交差点を横断して、西の通りを進みます。ここは「新橋通」の東端です。新橋通は東大路通と西の大和大路通との間を結ぶ全長約500mの東西の通りです。新橋通を西進して、花見小路通を横切り、その先の白川に架かる「新橋」を渡ります。新橋通という名称はこの橋名に由来するそうです。(資料1)その先に冒頭の岐路に位置する「辰已大明神」が見えます。 辰已神社(辰已大明神)は、芸妓舞妓さんたちの信仰を集めている神社です。辰已大明神の名の由来は、京都御所の南東(辰已)にあることだとか。御所の南東の方角を守る神社だったそうです。(資料2,3)ご祭神は狸(タヌキ)だそうです。「これは、かつてこの界隈に住んでいた狸がイタズラをして人々を困らせたため、狸を祀る祠を立てたところ治まった、という逸話によるそう」(資料2)だとか。また、辰已大明神は、辰已稲荷、祇園のお稻荷さんとも呼ばれているそうです。(資料1,2)左に行けば、白川沿いの「白川南通」で西の大和大路通まで全長約150mの短い通りです。現在は遊歩路になっていて、祇園エリアでの観光スポットの一つになっています。白川沿いに「吉井勇歌碑」が建立されていて、記念撮影スポットになっています。 かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕のしたを水のながるる 吉井勇『祇園小唄』かつては、お茶屋が立ち並んでいた敷地跡で、終戦直前の昭和20年(1945)3月に疎開により立ち退きが命じられた結果生まれた空間だそうです。そこが現在の白川南通となりました。(資料1,4)歌碑のある位置は、茶屋「大友」跡。大友の女将磯田多佳女(イソダタカジョ)は文芸芸妓として名高い人だったとか。1915(大正4)年の春に来京した夏目漱石が、持病の胃痛で2日間「大友」で寝込み、多佳女の手厚い看護をうけたというのもよく知られたエピソードです。(資料4)右側が新橋通です。観光客を避けて、新橋通を進みます。四条通より北側のこのエリアは祇園新地と通称されるところです。正しくは八坂新地というそうですが。(資料4) 辰已大明神のすぐ先に、地蔵堂が目に止まりました。 証券の格子戸を覗くと、内側に金網が張られていて、堂内が見えませんでした。残念。「地蔵尊」と記した扁額が、頭貫の上に掲げてあります。 新橋通を東から眺めた景色。 この時点では16時10分頃でしたので、灯火もつかず通りは閑散としています。 通り抜けるのには靜かで便利。 東西の通りの両側に、格子と簾の京風の質の高いお茶屋が整然と建ち並んでいます。京の花街の一つ。祇園元吉町でこのあたりの中核となっている町です。昼間に通り抜ける以外には、私には縁のないところですが・・・・。昭和48年(1973)にこの町内に3階建てのビルを建てる計画が持ち上がったとか。それに対して、女将さんたちが「祇園新橋を守る会」を発足させ、景観を守る住民運動を開始して反対。その結果、最終的には昭和50年(1975)に「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたという経緯がある街並みです。「家の増改築には、周囲の景観にあった二階建てで、日本瓦に格子の外観などが義務づけられた」(資料1)という次第。その外観の保存として、次のような説明があります。「1階は千本出格子・駒寄せと引き込み格子戸、本2階には座敷の外に縁側を設け、肘掛けつきのガラス窓とし、軒にはすだれをかける表の構え」「卯建(ウダツ)などを設けず、1階と2階の屋根の高さを揃えて、連続した、町並みをつくる」(資料3)こういう努力がこの景観の美を維持しているのでしょう。 西端の大和大路通に出るところに、道路標識が立っています。左折して大和大路通を南下して、白川南通のところで右折し、川端通に出ます。 川端通に出る手前で、白川との間の三角地がこの一画です。ここは弁財天町の南端。手前にある小社は「弁財天祠」です。 東側に「地蔵堂」が祀ってあります。 そして、一番手前の角にひっそりと見える石標は昭和40年(1965)に建てられ、「陶匠青木聾米(ロウベイ)宅跡」と刻されています。青木聾米とは、青木木米のことです。祇園のお茶屋「木屋」の一人息子で幼名は八十八(ヤソハチ)。放蕩三昧の後、「陶工奥田頴川のもとに通って、陶法を学び、粟田山の土を用いて窯をひらき、のちに幾多の名器をつくるに至った。また文人画に秀で、独自の境地をひらいた」(資料4)という人。お茶屋の屋号と幼名から「木米」と号したそうです。京阪電車の三条駅はほんのあと少し。帰路での探訪ご紹介を終わります。坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」碑を見た余韻として、次の詩を序でに引用させていただきます。この詩、詩の題もまた真民さんの詩ではよく知られていることと思います。 二度とない人生だから 坂村真民 二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけてゆこう 二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないように こころしてゆこう どんなにか よろこぶことだろう 二度とない人生だから 一ぺんでも多く 頼りをしよう 返事はかならず 書くようにしよう 二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう 二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいのふしぎを思い 足をとどめてえみつめてゆこう 二度とない人生だから のぼる日しずむ日 まるい月かけてゆく月 四季それぞれの 星々の光にふれて わがこころを あらいきよめてゆこう 二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し そういう詩を 一篇でも多く 作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために この大願を 書きつづけてゆこう (資料5)私にも、このブログをお読み頂いたあなたにとっても・・・・・・。「二度とない人生だから」ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『京都の大路小路』 [監修] 千宗室・森谷尅久 小学館 p272-2732) 辰已神社[辰已大明神] :「そうだ 京都、行こう」3)『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p131-1344)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p229-232,p239-2405)『坂村真民全詩集 第五巻』 大東出版社 p90-91補遺駒寄せ :「八清」格子戸 :「つるた株式会社」千本出格子の画像素材 :「PIXTA」青木木米 :「コトバンク」青木木米 :「JapanKnowledge」青木木米とは?陶磁器の作品や特徴・文人とは何かについても解説 :「和楽web」奥田頴川 :ウィキペディア奥田頴川宅蹟 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 -3 祇園・白川南通の桜、辰巳大明神、「かにかくに」歌碑、陶匠青木聾米宅蹟など観照 京都・東山 祇園白川の桜と火除地蔵探訪 京都・東山 白川沿いの散策
2023.12.17
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宝佛殿(番号7)と納骨堂(番号8)手前の池との間の小径を上って行くと、「大鐘楼」(番号13)に至ります。 知恩院境内の南東隅の小高い位置にあります。木々の間から、すぐ傍の納骨堂、その北にある経堂、御影堂などが見下ろせるくらいの高さです。 この鐘楼は延宝6年(1678)、知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営されました。(資料1) 西面あと半月、大晦日にはこの大鐘が「除夜の鐘」で撞かれます。大学生の時に、友人達と除夜の鐘を聞きにここまで来た思い出があります。この大鐘楼のすぐ近くで眺めていました。その時と今も、たぶん同じ撞き方が伝承されていると思います。親綱1人、子綱を16人の17人で大きな撞木を引き、大鐘を撞くのです。(資料1)撞く瞬間に親綱を引く僧は綱に全体重をかけて背後へと宙を飛ぶかの如くに体を反らせて行きます。一瞬、両足が地を離れていたのではないでしょうか。そんな印象が記憶に残っています。 大鐘楼の基礎の木組みと大鐘楼を支える円柱。円柱は鉄輪で締められています。 北面 東面 南面釣鐘は高さ3.3メートル、直径2.8メートル、重さ約70トン。寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人の鋳造だそうです。(資料1) 風鐸大鐘楼を眺めた後、御影堂前に引き返します。 池を東辺から眺めた景色。池中央の反り橋の向こうに経堂が見えています。境内を一巡してきて、探訪の2つめの目的は未だ未達成。詩碑に出会えるとすれば、残るは三門の石段道かその南にある石畳道の女坂かのいずれかの道筋です。 この女坂を降っていくことにしました。 ふと坂道の右(北)側を見ますと、大きな石碑が目に止まりました。 三門の石段道と女坂とが合流する境内地点に近い位置にある「朱印所」の建物が見えるくらいの場所。女坂を降り始めてすぐの位置になります。 これが目的としていた坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」碑です。この探訪の念願達成です。今までに知恩院を訪れる時は、この女坂経由で御影堂のある境内地に入りました。いつも通りなら、境内地の探訪をする前にこの詩碑に出会えていたのです。逆ルートで巡ったために、最後になってしまいました。お陰で、出会いの印象は一層深まりました。坂村真民さんの全詩集に次の詩が収録されています。 念ずれば花ひらく 坂村真民 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていった (資料2)ここに由来する「念ずれば花ひらく」の詩碑。今や日本全国と一部海外にも建立されていることは、拙ブログの「雲がたり」でご紹介しています。ここでは真民さんご自身の「念ずれば」の思いについてご紹介しておきたいと思います「念ずる」という言葉に関連して、真民さんは次の題の2つの詩を詠まれています。 念ずる心 善根熟するまで 念々怠らず精進して 自己を作っておこう そしたら 春風吹き来った時 花ひらくことができ 春雨降り来った時 芽をだすこともできよう (資料3) 念ずる 念ずるのだ 念ずれば 花ひらく 八字十音の真言(シンゴン)を 一切衆生(シュジョウ)の胸に 点火することを 念ずるのだ 念ずるのだ あの人この人の処へ タンポポのように飛んでいって 慰め励ましてゆくことのできる そういう人間になり そういう詩をつくることを 念ずるのだ 念ずるのだ 大きな病気にもかかわらず 人に迷惑をかけず 世尊のように 涅槃(ネハン)に入ってゆける 自分になりたいと 念ずるのだ 念ずるのだ この家で あと二十年 詩精進のできるよう 諸仏諸菩薩 大詩霊さま 大詩母さまに 念ずるのだ (資料4)己が念じたこに対して行動/行為を積み上げていく。その営為があってこそ、念ずれば花ひらく時がいつか訪れる、チャンスをつかむことにつながる・・・・・。「求めよ、さらば与えられん」にも通じる詩句だと思います。こちらが動的なニュアンスが強いことに対して、八字十音の真言はコツコツと積み上げる静的なアプローチの様にも感じます。思いのこもったいい言葉ですね。 女坂の入口には、「智慧の道」と刻した石標が立っています。法然上人の廟堂へ至る径路の入口がここに示されています。 「三門」(番号14)を女坂の側、南東側から見上げた姿です。 左側は三門を通り抜け、東方向に真っ直ぐ御影堂を目指す急角度の石段道。「上る」よりも「登る」という感覚のちょっとしんどい石段道。右側は、今降ってきた女坂を入口側から眺めた景色です。 この「三門」(番号14)は、二代将軍德川秀忠の命により、元和7年(1621)に建立されました。「構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんがわらぶき)で、高さ24メートル、横幅50メートル、屋根瓦約7万枚」(資料1)という門です。三門という表記は、三解脱門、悟りに至る三通りの解脱の境地を表していると言います。「空門」「無相門」「無願門」の三門だそうです。(資料1)桜が咲いた頃の三門の景色がいいですね。拙ブログでも別途ご紹介しています。 三門の南西方向、女坂から円山公園の方に歩み始めた位置に、今まで利用させていただいた「浄土宗総本山知恩院境内案内図」が設置されています。三門前から真っ直ぐに西方向に緩やかな下り坂になっている「知恩院道」を進みます。 東大路通より少し東に奥まっていますが、「知恩院新門」です。この門は、高麗(コウライ)門の形式です。城の門によく使われている形。ここから一筋北に、東大路通から距離が離れますが、白川の東側に「知恩院総門」があり、「華頂道」の坂を上っていくと、今回の探訪の起点とした「黒門」前に至ります。これで、久しぶりの知恩院探訪のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 知恩院の建造物 :「知恩院」2)『坂村真民全詩集 第一巻』 大東出版社 p2493)『坂村真民全詩集 第二巻』 大東出版社 p414)『坂村真民全詩集 第二巻』 大東出版社 p212補遺【LIVE】知恩院除夜の鐘2022 YouTube高麗門 :「コトバンク」薬医門と高麗門 :「信州まちあるき」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2023.12.16
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ここが「圓光大師諸国二十五霊場」の最後の霊場となります。この石標の立つ境内地から一段高く見上げる位置に「御廟(法然廟)」(番号11)が設けられています。左(北)側が「御廟」で右側が「拝殿」です。 門を入ると、すぐ右側に石段があります。上ると、踊場で左折してさらに石段を登ります。 石段の登り口に竿の正面に「大師御廟前」と刻した石灯籠が据えてあります。 拝殿 ここからは先は立入禁止となっています。 御廟の唐門 拝殿の向こうの廟堂入口をズームアップで。廟堂を囲む石柵の正面に唐門があり、その扉には三葉葵の紋が彫り込まれています。「現在の御廟は、慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築されたものです。」(資料1)廟堂内には、五輪石塔が安置されていると言います。(資料2) 拝殿前から京都市内の西方向を眺めた景色 ズームアップで 石段を降りて、右折し境内地を北に歩むと、正面に「勢至堂」(番号10)があります。駒札に「勢至堂」と記されています。南面する建物の正面には、「本地堂」と記された扁額が掲げてあります。「現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、七間四面単層入母屋造本瓦葺、桁行21メートル、梁行20メートルの現存する知恩院最古の建造物」で、堂内の正面には、後奈良天皇の宸翰による「知恩教院」の額が掲げられていて、この言葉が知恩院の名称の起源になっています。そして、この地が法然上人が念仏の教えを広められた大谷の禅房の故地でもあります。(資料1)霊元天皇皇女吉子内親王の宸殿を賜ったと言われる建物で、外縁には擬宝珠勾欄が付いています。(資料2)もともとはこのお堂に法然上人の尊像(御影)が本尊として祀られていたそうですが、御影堂の建立により移された後、このお堂の内陣の奥に本尊として勢至菩薩像が祀られています。そこから、「勢至堂」と称されるようになったとか。勢至菩薩は法然上人の本地身とされています。(資料1,2) 廟堂のある位置の崖下に、「紫雲水」と刻された石標が立っています。 そこに小さな池があります。法然上人が入滅される時、聖衆が来迎し紫雲が水面に現れ、芳香が漂ったという伝承が残っているそうです。(資料1,2) その少し北側、同じく崖下に、石柵で囲まれた石の傍に「影向石」と刻した石標が立っています。法然上人が入滅される時、この石の上に加茂明神が降臨されたという伝承があるそうです。(資料2)ここから北側の境内地は墓地になっています。 墓地への出入口に近いところに、石仏を集合させて祀ってあります。 この墓地の中央部に「千姫の墓」が安置されています。 石柵などはありませんが、基壇の上に設けられた大きな墓です。この墓の石塔の形式も私にはあまり見かけないものです。無逢塔に準じた形式でしょうか。塔身の正面には三葉葵の家紋が陽刻されています。千姫の墓は、小石川伝通院に納骨されているそうで、この石塔には分骨が納められているとか。千姫の戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。(資料3) 千姫の墓の北に「濡髪大明神」の社(番号12)があります。この墓地域の北端です。石鳥居には「濡髪祠」と記した扁額が掲げてあります。 もともとは、火災除けの神、伽藍護持の鎮守として荼吉尼天(ダキニテン)が祀られていたと言います。寺伝によれば、御影堂が建立される時に住処を追われた白狐が、知恩院第三十二世雄譽霊巌(レイガン)上人にお願いして用意してもらったのがこの濡髪祠だとか。知恩院の守護神として祀られたと言います。白狐は童子に化けていたときその髪が濡れていたことで、「濡髪」の名の由来になったとか。(資料1,2)「『濡髪』が艶やかな女性の姿をイメージさせることから、祇園町のきれいどころの信仰を集め、今日では縁結びの神様『濡髪さん』として親しまれています。」(資料1) 傍にこの小祠が祀られていますが、不詳。 濡髪祠の傍からの京都市内(西方向)の景色 写真に撮ると樹木が目立ちますが、京都市内が展望できます。 見下ろすと、直下にも墓地が広がっています。 濡髪祠の少し南から東方向、華頂山を眺めた景色 すぐ傍の東方向には、整然と無逢塔が並んでいます。知恩院歴代の上人・僧侶達が祀られている墓所域なのでしょう。 鐘楼の向こうから射す日の光を眺めつつ、智慧の道を引き返しました。 知恩院境内案内図つづく参照資料1) 知恩院の建造物 :「知恩院」2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2423) 千姫 :ウィキペディア補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ德川家と伝通院 千姫の墓所 :「伝通院」常総市: 弘経寺 :「茨城県:歴史・観光・見所」千姫 :「コトバンク」白狐,濡髪童子 怪異・妖怪伝承データベース :「国際日本文化研究センター」シロギツネ,ヌレガミドウジ 同上データベース :「国際日本文化研究センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へ
2023.12.15
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=== 2023.11.27 === 南の空11時近くに撮りました。南の方向には何と通称されるのか解りませんが小さな白雲が凝集したような姿で広がっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空西方向と頭上は雲が少なく青空が広がっています。 東方向の空稜線の上空は、いつものように雲が覆った状態です。 東方向の空15時過ぎに眺めると、朝とあまり変わらず雲に覆われています。朝は起伏が少し見られた雲が平板な感じに変化しています。 南の空 銀鼠色の雲が空全体を覆う形に変わっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 空は全面的にくもりです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空17時5分過ぎに空を眺めると、はや日没を過ぎていました。オートモードでなんとか写真が撮れたというところです。晴れから曇りに転じた一日。=== 2023.11.28 === 南の空9時10分近くに撮りました。ベランダの手すりと竿には夜来に雨が降った名残が見られました。雨は止んでいました。空は曇り空です。ベタッとした感じの銀鼠の雲が空を覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線周辺では雨が降っていたのかもしれません。稜線が朧な感じです。全体としては曇り空で灰色のグラデーションが見られるだけです。 東方向の空15時45分頃に眺めると、曇り空はそのままで、稜線ははっきりと見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空西方向から頭上にかけては動きのある雲に変化していました。 南の空前日と同様、17時5分過ぎに撮りました。曇り空のまま。南西方向の空 南西の遠くの空には夕映え雲が見られました。 西方向の空 頭上の空 東方向の空引き続き、一日曇りの天気でした。さて、雲がたりを続けます。今回から全詩集の第五巻です。この巻には8つの詩集と「法蔵菩薩に捧げる詩 -世界平和への祈り-」が収録されています。真民さんの最初の詩集は「川に向かって」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第五巻』大東出版社)冒頭の詩は「鳥さえも虫さえも」と題されていて、「1 もず」「2 こおろぎ」の二章構成です。ここに詠み込まれた雲を感じるには、やはり少なくとも「1 もず」の全詩句が必要だと感じますので引用です。 まだ暗いのにもずがしきりに鳴く 早く外に出て五○メガトン水爆実験中止の 祈願をしろ おれも昨夜はずぶずぶに濡れてむしょうに 腹が立ってしょうがないんだと いわんばかりに 黒い雲がひっきりなしに流れてゆく もう中世の詩人のような 単純な心にはなれない我等だ 昨夕ラジオは急激に増加した放射能のことや 天水の危険なことを報じていた またひとしきりもずが叫ぶ 人間の悪を呪うかのように p3この黒い雲は隠喩でもあるのでしょう。そう感じます。「飛鳥飛花」と題する詩の半ばに、雲が出て来ます。 不要なものは すべて捨て去って 雲のように 水のように なにごともにも執着せず 自然に身を任せてゆこう p9雲と水は無執着のシンボル。自然そのもの。そこには我欲はない、あるがままということでしょうか。「雨戸をあける」と題する詩の最後の第7節の半ばに雲が出てきます。 今朝はあおじのようなこえで鳴く鳥に 誘われて戸をあけた そらには一きれの雲もなく 夜明けの光が 庭の二本の松にさしていた p29物理的自然現象としての雲。「紫の息」と題する4行詩に雲が詠み込まれています。 月に面(オモテ)を合わして息をしていると その息が紫色になった まるい雲がしばらく月にたわむれて消えた ああ春がきたのだ p31この詩集の最後は「乳雲」と題する詩。「眼球登録をした夜」という詞書があります。真民さんは眼球提供の登録をされたのでしょう。6節からなる詩。まず、第2節と第3節に。 そう月に面して 祈っている空には 美しい雲が流れていた それは五人の子供たちに たっぷり飲ませてくれた 母の大きな乳房を思いださせる 乳雲(チチグモ)であった p37そして、最後の第6節に 雲よ その時もどうか今と同じく 西の空から流れてきておくれ そうして母のように やさしく月を包んでおくれ その人を包んでおくれ p37第7節には、真民さんの眼球の移植が成功した状況を想像した詩句が綴られています。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.29 === 南の空10時過ぎに撮りました。うろこ雲様の雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空西から頭上にかけては青空が見えます。 東方向の空稜線上空はまあ普段と同様。全体としては雲が出ていますが、天気は晴れで一日が始まったようです。 東方向の空15時5分過ぎに稜線を眺めてみました。色合いの異なる横雲が層を成しています。 南の空南の空全体としては、あまり見かけない雲の姿が広がっています。 遠くの空の雲を部分的にズームアップするとこんな雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空天気は晴れから曇りに変化してきています。 南の空16時40分過ぎに撮りました。日の入り頃。空は青空が見られる位に好転しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空晴れ時々曇りという一日だった感じです。雨が降らないのが何よりです。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について世界の核実験・核兵器 写真特集 :「JIJI.COM」水爆実験による海洋汚染を米国に認めさせた地球学者 :「中部原子力懇談会」 猿橋勝子 1920年~2007年広島・長崎の1500倍…ロシアが史上最大の核爆発の映像を公開 :「Business Insider」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.14
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経堂 池の北側、御影堂の東側には「経堂」(番号9)。その北に宝篋印塔形式の「写経塔」があります。経堂は方三間単層・裳階(モコシ)付で、屋根は宝形造り本瓦葺き。元和5年(1619)建造。(資料1) 御影堂の東側の石畳道をそのまま北に歩めば、「唐門」があり、方丈の玄関前に位置します。「方丈」の入母屋造り桧皮葺の屋根が見えています。手前で右(東)に右折する道を進むと、 石段道に至る手前に、石灯籠が立ち、竿の正面に「大師御廟前」と刻されています。 石灯籠を東側から撮った景色前方に見えるのは御影堂の東側面。御影堂の右側には、集会堂と結ぶ回廊が見えます。 火袋の浮き彫りを撮って見ました。2面には鹿が彫刻されいます。他2面の文様は雲形の文様。 石段道の右側に「智慧の道」と刻された石標が見えます。 法然上人の御廟に至る道故のネーミングでしょうか。 石段道の左側に「法然上人像」が建立されています。台座の正面にはシンプルに「法然上人」とだけ刻されています。 この「智慧の道」の最初の石段道を上がった踊場の空間には、通路の左右、石柵の近くに大きな石造茶壺が奉納されていて、その先の通路の右(南)側には、 この碑が建立されています。私には判読できません。少し傾斜のきつい次の真っ直ぐな石段道を登り切ると、三方向に別れます。 正面の門から先は墓地になっていて、ここは関係者以外は立入禁止です。 門前の右側には名号を刻した墓石と阿弥陀如来石像が安置されています。背後に卒塔婆が立てかけてありますので、個人の墓所域かと推測します。 右側には、この山門があります。門の右側に、「浄土宗捨世派本山一心院」と記された大きな木札が掲げてあります。ここも門前に通行禁止の掲示がでています。知恩院は浄土宗総本山ですが、鎮西流(鎮西派)の領袖です。その境内地に隣接し「捨世派(シャセイハ)」という別派があることになります。これは江戸時代に德川家がこの地で鎮西派の活動を庇護し寺域の拡張と伽藍の整備に協力した結果、たぶんこういう現状の形になったのでしょう。捨世派は、「天文年間(1532~1555)の称念を祖とし、寺院の俗化や僧侶の形骸化に慨嘆し、法然の念仏思想に立ち返ろうと静閑な地に道場を設け、厳粛な清規のもとで専修念仏一行に励み、その興隆につとめた僧侶達のこと」をさすそうです。法然が叡山で黒谷に遁世したように、「念仏専修の為に隠遁生活を選んだ僧達」です。首唱者の称念が、念仏道場として、この法然御廟の畔に一心院を開いたことで本山となったようです。(資料2)経緯がわかると、私には興味深いところです。左(北)側にも築地塀と門があります。こちらの門を入ると、上記「法然御廟」のある境内地です。 門を入ると左(西)側に「鐘楼」があります。北東側から撮った鐘楼です。 右(東)側にはすぐに石段があります。これは石段入口の北側の景色です。 右側の石標には「圓光大師諸国二十五霊場」と刻されています。圓光大師は法然上人のことです。また、左側の石碑には、「南無阿弥陀佛」の名号が刻まれています。 句碑がありますが。これもまた私には判読できません・・・・残念。知恩院の境内地の一番奥まったところに、勢至堂と法然上人の御廟があります。この境内地辺りが、大谷禅房の故地と称されるところです。つづく参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2422) 捨世派 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」 補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ鎮西流 :「web版 新纂 浄土宗大辞典」 中世の浄土宗 西山派と鎮西派 :「備陽史探訪の会」法然上人二十五霊場 ホームページ法然上人二十五霊場 :ウィキペデキア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -1 黒門から入り御影堂へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へ
2023.12.13
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黒門10日(日)の午後、四条に出る用事がありましたので、併せて久々に知恩院を訪れてきました。目的は二つです。一つは御影堂の内部を参拝すること。もう一つは知恩院の坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」という詩碑が建立されていることを知り、どこにあるかを訪ねてみたくなったことです。一旦、三条に出てから四条に戻ることにしましたので、ウォーキングを兼ねて、三条から粟田口経由で神宮道の坂道を上りながら知恩院に行きました。そこで、冒頭の「黒門」から知恩院境内を歩み、御影堂に行くことにしました。以前に知恩院境内のご紹介をしていますので、散策径路の景観ご紹介を中心にまとめてみたいと思います。 この知恩院境内案内図は、三門(番号14)に近いところに掲示されているものです。案内図を切り出して、建物に番号を振ってみました。黒門は図の左下側、番号1の箇所です。 黒門を入ると、緩やかな石段の坂道です。正面に高い石垣が見えます。山の斜面が開削されて境内地が広げられているので、高低差ができるのが自然ですが、この黒門からのアプローチは、いつも興味深いところです。 左折して石段道を上ります。お城の中へ入っていく雰囲気を感じる坂道。 ふりむいて 次に右折して、正面に見えるのがこの景色 振り返ると、京都の街中が見下ろせます。 もう一度、右折して石段道を上ることになります。 時代劇の登城シーンに使えそうでしょう・・・・。 紅葉が綺麗でした。紅葉の先に見える鬼瓦 「北門」の木札が掛けてあります。(番号2)門越しに左(東)側に見えているのは「大庫裡」です。南に延びる石畳道を歩みます。番号3を振った「集会堂」辺りが、現在修復工事区域になっていました。もう一つの中門を通り抜けます。 歌碑のような・・・・。大石に刻まれた文字が判読できません、残念!さらに進むと、阿弥陀堂と御影堂を結ぶ回廊の下を通り抜けることになります。 石灯籠の西に「阿弥陀堂」(番号4)が見えます。 ここにも歌碑が建立されています。私には残念ながら判読できません。 手水舎の背後(西)に見えるのは阿弥陀堂とその南隣りの「多宝塔」(霊塔、番号5)です。 手水舎の屋根と空。 この碑はいい天気でした。 手水舎の西側から眺めた御影堂。御影堂は南面しています。 「御影堂」(ミエイドウ、番号6)の平成大修理が終り、落慶法要の時期にコロナ禍が問題となり始めました。そのため、落慶の儀式が終わった後も長らく堂内に入ることができませんでした。向拝の右(東)側には、スロープの通路が設置されています。バリアフリーへの配慮のようです。 ほんとうに、久しぶりに御影堂の堂内に入り参拝してきました。我が家の宗旨は浄土宗なので、大本山ということになります。子供の頃には、母親に伴われてお彼岸のお参りに来たものです。この御影堂内に入るのは数十年ぶりかも・・・・。堂内は撮影禁止。 御堂の大屋根からの雨受け槽の正面には「知恩院」と刻され、その傍に設置されたブロンズの蓮形水槽には「華頂山」と山号が陽刻されています。御影堂の拝見・参拝という一つの目的を終えた後、もう一つの目的をめざします。自由に散策できる境内エリアを一巡しつつ詩碑探しをしました。 御影堂前の境内地を挟み、南東方向には北面する「宝仏殿」(番号7)があります。 ここの雨受け槽の正面には、三葉葵の紋が刻されています。德川の家紋です。寺域の拡張、諸堂の整備など、德川家の庇護が大きいようです。逆に、京の都に事ある時には、江戸幕府はここを警備の本陣にする意図があったのでしょう。城構えの様相が頷けます。 納骨堂御影堂前の境内地を東に歩むと池があり、その先の小高い位置に「納骨堂」(番号8)があります。 石段の右(南)側傍に、この石仏像が安置されています。お地蔵さまではないのですが、涎掛けが掛けてあります。 蓮華座に半跏形式の観音菩薩像。その台座の下の六角柱は新しく設けられたもののようです。正面に「南無阿彌陀佛」と刻され、その右側の面には、「観音妙智力 能救世間苦」、左側の側面には、「生老病死苦 以漸悉令滅」と刻されています。調べて見ますと、「観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)」の経文の一節です。以下、参照情報から、該当の経文箇所、訓読文と現代語訳を引用します。(資料1)<衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力 能救世間苦> 衆生困厄を被りて、無量の苦身を逼らんに、 観音の妙智の力は、能く世間の苦を救いたまう。 生きていくには多くの困難がともなう。苦悩がある。 思いどおりにならないことばかりである。 それでも勇気をもって菩薩として生きることさえ忘れなければ、 その生き方は人々を苦悩から救い、自分をも救ってくれるだろう。<種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅> 種種の諸の悪趣、地獄、鬼、畜生と、生老病死の苦も、以って漸く悉く滅す。 欲や執着といった煩悩によって、人はストレスをかかえ苦悩する。 老いや病や死といった苦悩も、老いたくない、健康でいたい、死にたくない という思いによって苦悩となる。 望んだようになってほしいという願い、その願いの根本にあるのは 欲や執着であり、菩薩はその真理を説くことによって人々から苦を取り除く。 その傍に、一石五輪塔、板碑、小石仏が祀ってあります。 地蔵菩薩像でしょうか。 納骨堂の北隣りには、この多層石塔(十重石塔)が建立されています。上京区の千本えんま堂(引接寺)の境内西北隅に建立されている「紫式部供養塔」と言われている多層石塔(十重石塔)と同じ形式です。複製された多層石塔のようです。 基壇の周囲に龕を彫り込み石仏が浮き彫りにしてあり、一層目の軸部には、各面に金剛界五仏の内の大日如来を除く四仏が浮き彫りにしてあります。 二層目の軸部には、それぞれの種子(梵字)が刻み込まれています。境内地に降り、北方向を巡ります。つづく参照資料1) 観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈)の意味と現代語訳 :「禅の視点 -life-」補遺浄土宗総本山 知恩院 ホームページ 歴史と見どころ五仏 :「コトバンク」仏ならではの智慧を表す「五智如来」 :「Discover Japan」 空海が三次元化した密教の世界 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都 久々に知恩院へ -2 経堂、唐門、法然上人像、智慧の道ほか&一心院 へ探訪 京都 久々に知恩院へ -3 御廟・勢至堂・紫雲水・千姫の墓・濡髪大明神ほか へ探訪 京都 久々に知恩院へ -4 大鐘楼、坂村真民さんの詩碑、三門、新門 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 2回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -1 名号松・納骨堂、層塔との出会い 4回のシリーズでご紹介観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜スポット探訪 京都・上京 千本えんま堂(引接寺) 閻魔法王・紫式部供養塔・地蔵供養池ほか
2023.12.12
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=== 2023.11.24 === 南の空9時55分過ぎに撮りました。明るさを見せながら、銀鼠から素鼠色の雲が空を覆っていました。曇り空。南西方向の空 西方向の空 しかし、西方向には半ば青空が見えます。 頭上の空天気は雲が多いけれど、晴れというところです。 東方向の空 稜線の上空も銀鼠の雲で覆われています。 東方向の空16時45分過ぎに稜線を眺めると、上空の雲の形は、朝の姿とは異なり、横雲が層をなす感じに変わっています。雲に覆われている状態は同じ。 南の空 南の空の雲は朝の雲より、よく見かける雲の姿でした。南西方向の空 西方向の空 西の空は雲が広がっていますが、青空が少し見えます。 相対的に近い空の雲の夕映えをズームアップで。 遠くの西の空の夕焼けの一部を最大限のズームアップで。 頭上の空曇り、晴れ間も見える一日というところでしょうか。=== 2023.11.25 === 南の空9時40分過ぎに撮りました。ベランダの手すりに、雨が降った跡が残っていました。前日同様、空に明るさが見え同様の色合いの雲で覆われています。南西方向の空 西方向の空 前日と比べると、西の空も布を広げた様な銀鼠の雲が全体を覆っていました。 頭上の空 東方向の空ところが、珍しくも稜線の上空は少し鈍った色合いの晴れた空です。稜線の彼方、遠いところの空には白雲が浮かんでいます。 東方向の空14時25分頃に東を眺めると、稜線にすぐ上にはダイナミックな白雲が漂い、その上に青空が見える状態に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、さらに頭上にも、朝とは違い躍動感のある雲に変化し、青空が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空17時10分過ぎに撮りました。稜線の上に、少し夕映えした雲が浮かんでいる以外は、雲らしきものがみえず、日の入り近くの空の色合いが広がっている感じです。さて、雲がたりを続けます。真民さんの詩集「念珠集」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第四巻』大東出版社)少し飛び、「言葉」と題する4行詩に、雲が詠み込まれています。 虚空雲海 虚空遊歩(コクウウブ) こういう言葉は いいなあ p299「半月」と題する詩の半ばに、詠み込まれています。 空に 二十日(ハツカ)の 半月が 一片の雲のように 残っている p308半月が雲に喩えられるということは、雲がない快晴のもとでのことか、月とは離れた位置に雲がやはり天空にあったのだろうか・・・・。今までなかった喩えと思う。「雲」と題する6行詩。 小さい国に生まれ 小さい心の者たちが ひしめきあって生きている 哀れでもあり悲しくもあり 一人雲に見入る 旅ゆく雲に p341ここに詠まれた雲は「無心」の象徴でしょうか・・・・。「白木蓮」と題する詩の最初に雲が詠まれています。「取手市弘経寺にて」と詞書のある詩です。 古木の白木蓮に寄り添い 一片の雲もなく晴れた 冬空を仰ぐ p373その次の詩「白」の冒頭にも。 白雲のように 悠々たれ p373「人間の中で」と題する詩に雲があります。真民さんの住むタンポポ堂の所在地に絡んで詠まれた詩の後半に出て来ます。 白雲は悠々 日月は光り 星は輝き 鳥啼き 虫歌う 市井に在っても実に楽しい わたしは人間が好きであり 人間の中で終わりたいのだ p382「第三十一番目の碑に」と題する詩の冒頭に出て来ます。詞書は「高砂市十輪寺にて」。 まったく「念ずれば花ひらく」の通り 一片の雲もない快晴 海からの風はすでに 花ひらく春の香り p388「梨の花」と題する詩の後半に雲が詠み込まれています。 花は上るにつれて まさに満開である 一片の雲もない 青い空に 白い花 p398「石彫童女観音」と題する詩の後半に詠み込まれています。 茜の雲よ 暑い時は傘となり 寒い時は衣となり この童女観音を お守りしておくれ 念ずれば花ひらく その花を持ち給う 石彫童女観音の愛らしさよ p409この詩には馬越作品と詩句に記されていて、詩「石彫茜」(p431)の末尾に、馬越正八氏と名前が注記されています。第4巻の最後まで詠みました。詩「録画」が雲を詠み込んだ最後の詩になります。そこで全文引用します。 天気が良いようだから決行します 電話がかかてきたのが三時 四時半から重信河畔で録画 一番肝心な場面は初光を拝む処だったので 気が気でならずああ信仰が足らなくて とうとう駄目かと思ったが 念じ念じていると不思議や雲が切れ 赫赫(カツカク)と出現して下さり感動し感謝した 念ずれば花ひらくの真言が本当に身にしみた p411最後に、「愛]と題する6行詩をご紹介してこの第4巻を閉じたいと思います。 形ある すべてのものは いつかは消えてゆく 消えないものは 愛だけ p434雲の変化に戻ります。=== 2023.11.26 === 南の空10時近くに撮りました。うろこ雲的な雲が覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南西から西、さらに頭上の空も、同様な雲が空を覆い、青空が合間に見えます。 東方向の空稜線上空もまた、雲が覆っていますが、雲の形は他とは全く違います。輪郭が白っぽくて内側が銀鼠の雲の塊が幾重にも重なっている感じの空模様です。 東方向の空14時5分過ぎに空を眺めますと、稜線上空は快晴!! 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空その他の方向も、快晴そのものの空に変わっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時55分過ぎに撮りました。快晴で日の入りの時刻になる頃の空は、いつもこんな色合いです。いい天気の一日でした。続く補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について石ころ工房 傳心庵 ホームページ 故・馬越正八氏と作品について、載っています。#馬越正八 Instagram Posts重信川 :「国土交通省」重信川 :ウィキペデキア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.11
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=== 2023.11.21 === 南の空9時25分過ぎに撮りました。太陽光が反射してうまく撮れませんでしたが、雲が無く快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空にも、珍しく雲が見られません。上天気です!!ふと、思いました。なぜ、空は青いのか?「大気中には酸素や窒素などの分子も含め小さな微粒子が浮遊しています。太陽から届く光は、その微粒子によって散乱されます。赤い光は波長が長いので散乱されにくいのですが、波長の短い青い光は、波長の長い光より強く散乱されます。その結果、空が青く見えるようになります」(資料1) そういうことなのですね。 東方向の空15時30分過ぎに眺めますと、稜線上空は空の青さが鮮やかになっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空申し分のない快晴が続いていました。 南の空 デジカメでほぼ最大にズームアップして撮った月南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空17時過ぎに撮った各方向のこの空の色合いは、これまでの観察経験から考えると、日の入り時の快晴の空の色調のようです。終日快晴。=== 2023.11.22 === 南の空9時5分過ぎに撮りました。前日に続き、快晴状態からの一日の始まり。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線には少し靄が懸かった状態です。雲らしきものは見えません。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空16時5分過ぎに撮りました。前日と同様に快晴状態が保たれていました。 南の空 デジカメでほぼ最大にズームアップして撮った月南西方向の空 西方向の空 東方向の空前日に引き続く快晴の一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの詩集「念珠集」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第四巻』大東出版社)「雲散」と題する詩は、タイトルと最終行に雲が出てきます。7行詩です。 苦しい時は 法顕(ホッケン)や 玄奘(ゲンショウ)の 求道(クドウ)の旅を 偲ぼう 大抵のことは 雲散する筈だ p207「元旦の月光」と題する7行詩の末尾に出て来ます。 一片の雲もない浄天よ 一九八0年の夜明けよ p211「初詣で」と題する詩。真民さんが奥さんと金比羅大権現に参拝された時の詩の最後に出てきます。 雲が茜色に染まってきた 茜がお父さんお母さん おめでとうございますと 呼んでいるような 美しい雲であった p212その次の「元旦のタンポポたち」と題する詩の末尾にも。 石鎚の山際の雲が 茜に染まり 日の出もま近である p213「一筆」と題する詩。真民さんの空想がリアル感をみせる詩でしょうか。引用します。 ある日天狗の子が 大きな朴の葉を持ってきて 何か書いてくれという そこで一筆書いてやる 紫雲たなびき 花降りきたる なんまいだ なんまいだ p221「抱石庵久松真先生」と題する詩に出てきます。久松真一先生を追悼する詩です。その末尾に 先生は無相の人となられた 墓もいらないという このすばらしい大死よ 虚空の飛雲を 先生と観じ 合掌する p224「母は遠くに居給わず」と題する詩は、「母は遠くに居給わず」と詩句から始まります。正力賞受賞のために東京に向かわれる時のことを詠まれた詩の最後に。 母の写真ふところに在れば 心配することなし 白雲悠悠 去りまた来る p228「虹の滝」と題する詩の半ばに雲が詠み込まれています。 紀州熊野の空は 雲一つない快晴で 滝が 虹となって 光り輝き まさに竜神の舞い そのものであった p243「水たまり」と題する詩を引用して、区切りとします。 水たまりには 朝の雲が 映っていた あじさいの 花のような雲が いくつも 水たまりに 咲き出していた ああ まさに天と地との 合作図絵である p277庭園の池面に映っていた木々や雲、空を見つめることはあっても、「水たまり」に映じた雲をしばし止まって、見つめるということなどなかったな・・・。水たまりを邪魔なものとしかとらえていなかったな・・・・・。そういう己の今を、姿を、気づかせてくれる詩と観じました。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.23 === 南の空10時55分過ぎに撮りました。ここしばらく見なかった雲の姿が広がっています。空の状態は曇り空ですが、天気の基調としては晴れ方向の感じ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上空の雲の広がりも最近見ていない姿のように思います。 東方向の空16時35分過ぎに眺めた稜線上空の空模様です。 真東の空は比較的雲の夕映え状態が見やすかったのです。 その方向は建物が邪魔しますので、ズームアップで部分的に撮りました。 南の空南西方向の空 遠くの空の一部に日の入りの夕映えが。ズームアップした雲と空の部分的景色 西方向の空 南から西の方向の空は、うろこ雲が見られました。 頭上の空 頭上は、羊雲に近い感じがする雲の姿です。曇りのち晴れという一日でした。つづく参照資料1) 空はどうして青いの?科学の視点から解説します! :「AIKEN 株式会社愛研」補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について【サイエンスラボ】空はなぜ青い?夕陽はなぜ赤い?(Canon Official) YouTube石鎚山 :「石鎚山系公式WEBサイト」抱石庵(久松真一記念館) :「文化遺産オンライン」久松真一記念館 ホームページ 久松真一について住宅医の改修事例 ~明治43年建設の抱石庵を改修して「 久松真一 記念館 」に ~2006年の改修の仕事 :「住宅医協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.09
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南門藤田美術館の北西側に旧藤田邸の庭園が広がっています。藤田美術館前その続きにある大阪城北詰駅の出入口を通りすぎると、この門(南門)が見えます。かつての藤田邸の表門(四脚門)です。右側の控柱に「藤田邸跡公園」の木札が掲げてあります。今は公園の南門になっています。調べてみますと、この本邸と庭園が所在した藤田邸跡公園は、2004年に大阪市の都市公園「桜之宮公園」の一部として開園されて現在に至るそうです。(資料1,2)今回もこの南門を起点に整理してご紹介致します。現公園の全体像と旧藤田邸庭園を少しはイメージしていただきやすいように。南門の近くに、開園時間が午前10時から午後4時まで、臨時休園ありと明記した駒札が建てられています。午後四時に門が閉められます。(茶室の写真を撮っているとき、美術館のスタッフの方に閉門のことをご案内いただきました。) 南門を入ると、北西方向に延びる通路が少し先で二手に分岐します。 南門を公園内から眺めた景色。四脚門であることがよくわかります。 右側に点在する庭石を眺めつつ、分岐点で左側の通路を進むと、 中門が遺構として残されています。先ほどの分岐点での右側の通路は、この公園の南半分位に広がる広場を楕円形に周回できる通路になっていて、通路の北西辺で、庭園に向かう幾つかの通路に分岐していきます。右側の通路を、反時計回りに藤田美術館の方に進みます。 途中で振り返った景色。この景色の右側が楕円形の大きな広場です。 通路の進行方向の景色。通路の右側に前回ご紹介した茶室「光雪庵」が見えます。木々の向こうに見えるのっぽのビルは地図で確かめますとOAPタワー(OAPプラザ)です。この地には、かつては「大長寺」という寺院があったとか。明治17年(1885)に発生した淀川の大洪水で大長寺は荒廃。その地を藤田傳三郎が買い取り、同時に大長寺には新たな土地を寄進したと言います。そして、明治26~29年(1893~1896)にかけて最初の邸を造営したそうです。(資料1)多宝塔から石灯籠の配置されたエリアは前回ご紹介しました。その石灯籠の北西側が藤田家旧庭園としての広がりを見せています。回遊式庭園です。現在はその庭園そのものを散策できませんが、この庭園部分に木組みの回廊(遊歩道)が設けられています。 この遊歩道は南東から北西方向に曲折しながら、庭園の今は涸れた池と回遊路の上を横切っていて、庭園を見下ろす形で眺めることができます。 庭園の風景 一段高くなった遊歩道 遊歩道を歩みます。 現在のこの旧庭園部分はかなり荒廃している感じです。この遊歩道が跨がっている池部分は枯れていますが、昔日の雰囲気を留めています。かつては、滝石組みから水が流れおち谷川に見立てた流路を流れて、池に水が流れ込んでいたのでしょう。この旧庭園は、明治9年(1876)藤田組を組織し、多くの事業に関わり関西を代表する実業家となった藤田傳三郎が、この網島の地に本邸を建てるのと同時期に築庭が開始されたと推定されています。明治43年の新本邸建設時にさらに整備されて庭園が完成したそうです。大阪で代々造園業営む庭師で、作庭者は6代目梅園梅叟(バイエンバイソウ)と言います。(資料1,2,3)「庭園は藤田本邸の東部やや北寄りにある。この場所は淀川左岸の平坦な地形であったことから、作庭にあたっては起伏に富んだ地形を人工的につくり出し、この高低差をうまく生かしたものとなっている。戦後長く手入れされない状態であり、周辺部はかなり変形しているところもあるが、築山や石組みなど主要な部分は良好な状態で残っている。」(資料3) 遊歩道の傍の枯れた池の所で撮った景色だったと思います。遊歩道から、庭の散策路に移って池の傍を歩みます。 現在の公園の中心になっている池に架かる石造の反り橋が近くに見えます。 石橋の上から池の南方向の景色です。この石橋から南半分の池の半ばまでが、「大阪市『名勝』指定区域」となっていて、その指定区域の中央に遊歩道が設けてあるのです。 池の北辺 石橋を渡って、振り返った景色 紅葉がいい! 池の西側を南に進んで、途中で北方向を眺めた景色 公園化にあたって整備された結果かもしれませんが、池の南辺への手前に池が西側に少し張り出していて、石橋が架けてあります。 こちらの石橋から眺めた池の南端側の景色池を離れて、公園内のメインの通路を進みます。広場を囲む通路から時計回りの方向に南から北に向かう通路です。 このメインの通路の西側には、公園の境界が南北方向に設けてあります。後日、地図を確認して知ったのですが、境界の外側は「桜之宮公園」の最南端です。そして、公園の向こうに「大川」が流れています。 池の北側を西から眺めた景色 パノラマ合成しました。 円錐形の屋根の小ぶりな休憩所が設けてあります。 道沿いに進むと、北端に北門がありました。桜之宮公園側からこの藤田邸跡公園に出入りできるようになっています。 北門からは、歩んできたメインの通路より一つ東側の少し幅の狭い通路を歩むことにしました。こんな道標が立っています。 石橋の傍まで戻ってきました。石橋の西詰から池の南方向を眺めた景色です。 池の南端の一隅 池に沿って南に歩み、振り返って撮った景色。 来願に見えるのはこの公園の東屋でメインの休憩所です。 南の石橋から北を眺めますと、池の西岸傍にも、円錐形の屋根の小さな休憩所があります。閉門時間近くになりましたので、この辺り探訪・散策の区切りをつけました。 帰路に見かけた井戸ここに本邸があった頃には、どういう位置にあった井戸なのでしょう・・・・。公園化の整備で変化したエリアもあることでしょうが、広々としてゆったりと庭園を楽しめる公園です。異なる季節に、藤田美術館の再訪とともに訪れてみたいと思います。桜之宮公園と大川の周辺も歩いてみたいな・・・そんな気分です。ご覧いただだきありがとうございます。参照資料1) 旧藤田邸庭園(藤田邸跡公園) :「おにわさん」2) 藤田庭園跡公園 :ウィキペディア3) 旧藤田邸庭園 :「大阪市」補遺藤田傳三郎について :「藤田美術館」藤田傳三郎と藤田神社藤田伝三郎 :ウィキペデキア藤田傳三郎と藤田神社 :「藤田神社」OAP 大阪アメニティパーク ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 大阪市 藤田美術館と庭 -1 展示:妖と護 へ探訪&観照 大阪市 藤田美術館と庭 -2 美術館の庭 へ
2023.12.07
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=== 2023.11.18 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空9時30分頃に撮りました。いずれの方向も白鼠から銀鼠に跨がる色合いを呈する雲に覆われています。曇り空から始まる一日。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空ところが、15時過ぎに空を眺めると、なんと、どの方向も青空! 快晴に変化していました。 南の空17時過ぎに撮りました。再び空は朝と同様の色合いの雲に覆われています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲の形は異なります。 東方向の空稜線の上空は、横雲が層をなす形になっていました。曇り、晴れ、後に再びくもりという一日。=== 2023.11.19 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空8時40分近くに撮りました。南から西、並びに頭上の空は、快晴状態で青空が広がっています。 東方向の空稜線の上には白い雲が浮かび、その他は雲という感じを受けません。太陽の光の受け方で空全体が白鼠色に見えるのでしょうか。平板な一色の空という印象です。 東方向の空15時25分過ぎに眺めると、稜線上空には青空を背景に、白雲が浮かんでいます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空他の方向の空もまた、わずかに白雲が漂っている他は青空が広がっています。いい天気! 南の空 16時50分頃に撮りました。日暮れ時に目にずる空の色です。 太陽の光が没することで色を失いつつあるということでしょうか。 空には月。ズームアップして撮りました。南西方向の空 南西寄りの遠くの空に浮かぶ雲に夕映えが見られました。 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間近には、雲が漂っています。体感的には未だ晩秋の晴れた一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの詩集「念珠集」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第四巻』大東出版社)北海道を訪れた真民さんは、湖名を題にして4つの詩を載せています。その最初の詩の題が「屈斜路湖」です。短い詩。引用します。 一点の雲もなく 光り静まる 屈斜路湖(クッシャロコ) 北海道に来て 最初に接した 私の憧れの湖よ p152「阿寒湖」と題する8行の詩にも雲が詠み込まれています。 急に雲が出 雨となり 荒い波が声をあげる p152あと二つの詩は「摩周湖」と「支笏湖」です。 「あかねの雲」と題する詩。タイトルに雲が出てくる8行の詩です。茜さんは真民さんご夫妻にとり、早世童女です。いくつもの詩が詠まれています。 真美子・妻・わたし三人で 初詣でをする あかねの雲から茜が お父さん・お母さん・真美子ちゃん おめでとうと言う いつも遠くから無事を祈ってくれる茜よ ありがとう・ありがとうとわたしは答える 元旦夜明けのタンポポの道 p161「午後」と題する詩の末尾に雲が出てきます。 ひとり 雲のゆききを 見ている午後 p166「朝のひととき」と題する詩。この詩は、陶芸家山本教行さんから初窯の茶碗を頂き、その茶碗で茶を飲むことを詠んだ詩です。次の一節に出てきます。 わたしは銘を「曙」としたが 紫雲棚引く 大ぶりな茶碗が実によい p168「暁天祈願」と題する詩の第2節に出て来ます。真民さんの日常の一コマ。第2節引用。 一片の雲もない空に 光り輝く満天の星々 こんな日はわたしの祈りも 一直線に天までとどくようだ ああ今日も生かされて生きるという 喜びで合掌する p169その次の詩の題が「雲」です。独り死んでいった人の野辺の送りを詠んだ詩。第1節の冒頭に、「それは心を持っているような/ 雲であった」と冒頭に雲が詠まれ、4行の第3節にさらに詠み込まれます。 光る雲よ この人を迎えに来たのか 衆生無辺誓願度に生きた人のあかしを わたしはその雲に見る思いがした p169「第14番目の碑に」と題する詩の半ばに出てきます。 お経が終わろうとするころ パラパラと浄めの雨が降り 石を浄め 人の心を浄め 雲は去っていった それがわたしを感動させた p196この碑は、「念ずれば花ひらく」という、真民さんがお母さんから引き継がれた真言を刻んだ碑を意味します。今では全国各地にこの碑が建立されています。余談ですが、ネット検索してみて得た一つの情報です。真民さんの詩の愛読者により、海外を含めて全国に建立された真民詩碑は、平成16年(2004)2月1日現在で688基に達しているそうです。(資料1)雲の変化に戻ります。=== 2023.11.20 === 南の空9時20分頃に撮りました。雲がかなり出ていますが、青空が広がるいい天気です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空南、西、頭上のどの方向も久々にダイナミックさを感じさせる雲の姿が見え、それに呼応するかのように、稜線上空全体も大きなどっしりした雲で覆われています。少し青空が垣間見えるくらいです。 東方向の空17時5分過ぎに撮りました。稜線上空は横雲が層をなしています。 南の空銀鼠よりも濃いめの雲が張り出しています。 雲に隠れていた月が、しばらくして、しばしの間姿を現しました。 ハンディなデジカメで、ほぼ最大のズームアップにして撮った写真です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空晴れのち夕刻よりくもりという一日でした。つづく参照資料1) 真民誌碑 :「日本ワイドクロス株式会社」補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について屈斜路湖 :ウィキペディア阿寒湖 :ウィキペディア摩周湖 :ウィキペディア支笏湖 :ウィキペデキア山本教行 プロフィール :「HMV & BOOKS」山本教行『暮らしを手づくりする 鳥取・岩井窯のうつわと日々』 :「en-shouten」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.06
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ギャラリーから館外に出ますと、美術館のエントランスに戻る通路があります。また、それに沿って庭の石畳の通路も設けてあります。白亜の壁面には、庭の笹竹が太陽の光を受けてその影を映じています。あたかも水墨画を眺める風情です。石畳に降りて、美術館の庭を巡ってみました。巡った結果をイメージしていただき易いように編集してご紹介します。ネットのマピオンの地図を拡大で見て気づいたことから始めます。藤田美術館が二方向の道路に面しているのは、前回触れました。美術館の建物は道路に沿っていますので、北西から南東方向に建物が位置し、正面は南東面になります。地図をよく見ますと、東西線がこの藤田美術館の直下を同じ方向で通過しているのです。大阪城北詰駅が直近距離ということがなるほどと思った次第です。 ギャラリーから出て、石畳の通路でまず見えるのがこの道標です。背後は茶室の建物。道標は上部に方向を指さす手の浮き彫りがあり、左側面には「京はし」と判読できそう。その他は詳しくは見ていません。この笹竹が壁面に映じていたのです。 石畳の通路を美術館の正面方向に進み、振り返った景色です。美術館の通路沿いの西側には、笹竹、紅葉、常緑樹など様々な樹木が植えられ、その中に茶室の建物が隠れて見える風情です。 茶室のある一画を南から眺めた景色 飛び石伝いに茶室に向かいます。 置き石 茶室の手前に腰掛け待合が設けてあります。 樹木の先に、「光雪庵」と記された扁額が見えます。この茶室の銘でしょう。 待合から茶室に向かう途中に置かれた石灯籠茶室に近づける範囲で眺めてみました。 美術館の通路に沿った石畳から笹竹越しに眺めた茶室の東面 少し、南東に歩み南東隅から眺めた景色待合はこの左(南)に位置し、この左の飛び石の先が待合につながっています。 建物の西面を南から眺めた景色 茶室の建物から少し離れ、南西側からとった全景この茶室「光雪庵」は、伝統数寄屋建築で新しく建てられたものだそうです。「かつて存在した『会庵』の平面を基に再構築し、藤田家席名と部材を旧美術館の茶室から引き継いでいます」(資料1)とのこと。上掲の道標まで一旦戻ります。 この建物の北面です。玄関がこちらにあります。 道標の傍から、北を眺めますとこの堂宇が見えます。 多宝塔です。 傍の庭に目を転じますと、礎石が置かれています。 その先には、歌碑が見えます。私には判読できません。 多宝塔の全景 多宝塔を近くから眺めます。 これは、高野山光臺院(コウダイイン)にあった多宝塔が当時の藤田邸庭園の築山に移築されたものだそうです。多宝塔の下層は三間四方、総高は10.2mだとか。(資料2) お堂の足元の一隅に、地蔵尊石像と頭部の欠けた半跏石像が置かれています。 多宝塔の近くで目に止まったのがこの5つの石仏です。 同じ形式で彫刻された石仏像の角柱です。正面下部に刻された種字(梵字)はそれぞれ異なりますので、この5仏で一つのセットなのかも知れません。それなら、真っ先に連想するのは金剛界五仏ですが・・・・。詳細不詳。 この後、美術館の北側をまず探訪してみました。 この辺りは石塔や石灯籠を点在させて作庭されています。 風化も進み、彫られている文字が読めません。 美術館の周辺の庭を一通り眺めました。実はこの西側に、広大な庭園が広がっています。その庭園とは一応庭が通路で画されていますが、半ばオープンな庭のつながりとなっています。その広大な庭園の領域は、最後に気づいたのですが、現在「藤田邸跡公園」となっています。次回は、この藤田邸の庭園跡をご紹介します。つづく参照資料1) 2022年4月リニューアルオープン!藤田美術館建替計画21年11月の様子 :「大阪の近未来(大阪 関西の再開発巡り」2) 藤田美術館多宝塔(旧光臺院多宝塔) :「大阪市」補遺藤田美術館 ホームページ千宗屋さん(武者小路千家第15代家元後嗣) :「藤田美術館」藤田美術館 :「TAISEI DESING」旧藤田邸庭園 :「大阪市」藤田邸公園 :「JRお出かけネット」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 大阪市 藤田美術館と庭 -1 展示:妖と護 へ探訪&観照 大阪市 藤田美術館と庭 -3 藤田邸跡公園 へ
2023.12.05
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リニューアルされた藤田美術館を初めて訪れてきました。大阪中之島美術館の長沢芦雪展を鑑賞した続きに、京阪電車中之島線の渡辺駅から乗車し、京橋駅で下車。徒歩10分ほどで藤田美術館に到着しました。交差点の角地に美術館が位置します。冒頭の景色は、交差点の対角側から撮った美術館の外観です。所在地は、大阪市都島区網島町10番32号です。一番の最寄駅はJR東西線大阪城北詰駅で、3番出口より徒歩1分です。二方向の道路側から外観をまず眺めてみます。 美術館の正面が面している道路から見た外観 この景色の右端に近いところに正面の入口があります。 美術館の側面を眺めるとこんな外観です。 逆方向から眺めた景色です。リニューアルされた藤田美術館は、2022年3月にオープンしました。新し美術館の建設期間中に、所蔵品が特別展として他の美術館・博物館で展示される機会がありました。その折りに、当館所蔵品を鑑賞しています。私は2019年4月に、奈良国立博物館で「国宝の殿堂 藤田美術館展」を鑑賞しました。この時の図録の副題は「曜変天目茶碗と仏教美術のきらめき」です。図録によりますと、国宝9件、重要文化財53件を含む約2000件の日本・東洋美術のコレクションを蔵する美術館です。「美術愛好家だった傳三郎は、明治維新を機に、旧家や神社仏閣などに伝わった多くの文化財が粗雑に扱われたり、海外へ流出している現状を憂い、その散逸を防ぐために収集に乗り出したといいます」(図録中のごあいさつより)とのこと。この時、後掲の「大江山酒呑童子絵巻」三巻と「四天王立像」が出展されています。また、2021年12月から翌年1月に、再び奈良国立博物館で「名画の殿堂 藤田美術館展」が開催されました。副題は「傳三郎のまなざし」です。絵画作品を中心にして、美術館のリニューアルオープンを間近に控えての展覧会でした。手許にあるこの展覧会の図録を参照しますと、後掲の「小野小町坐像(卒塔婆小町)」が初公開されたのです。リニューアルしたこの美術館自体を訪れて、現地で初鑑賞をしたかったので、この機会に立ち寄ってみた次第です。さて、建物の二方向がガラス・ウォールで構成されたモダンな美術館を入ってみて、少し戸惑いました。以下、館内マップを参照して、館内初体験をまとめます。入口を入った空間が土間(Hall)で、各所にテーブルと椅子が配置されています。右側に「あみじま茶屋」があります。オープンな形の喫茶コーナーです。茶屋で飲み物を買い、この土間のテーブルのところで、喫茶を楽しめるということでしょう。左端には座敷の形で広間(Hall)が設けてあります。道路からこの空間の様子が見える、実に開放的なスペースです。しかし、見渡してみても、チケット販売をする受付カウンターがないのです。この土間の空間の正面中央に、重厚な金庫の扉かとおもわせる展示室への入口があります。扉は左右に開いていますが、入口は自動扉で閉まっています。藤田家邸宅の蔵が1954年に美術館として開館されました。その旧美術館(蔵)の扉がこの新しい美術館に活用されたそうです。モダンな明るい空間をこの重厚な扉が引き締めている感じを受けます。ということで、入館するなり、どこでチケットを購入するのかと、ちょっと戸惑った次第です。藤田美術館は、展示室への入口付近でスタッフの人が、入館料の取扱いを対面形式で対応するシステムが採用されているのです。チケットという形はありません。入館料は、基本はスマホをベースとしてキャッシュレス決済を推奨されているとのことです。私は当日ICOCAカードで決済しました。後で、ホームページを見ると、「各種クレジットカード、Quick pay、交通系IC(PiTaPaを除く)」と説明があります。この点、ご注意ください。説明を伺って、その必然性がわかりました。展示室内には、展示作品の名称等の掲示がありますが、通常行われている作品の説明文掲示は原則的に行われていないのです。その主旨は、展示作品については説明なしに、作品そのものをご自分の感性で鑑賞してみてくださいというによるそうです。その替わりに、藤田美術館の企画展示については、スマホに藤田美術館の展示品解説のアプリをその場でインストールしますとのこと。その場で説明を受けながら、アプリをインストールしました。提示されたQRコードにスマホのカメラを向けて、インストールするというやり方です。手続きはいたって簡単でした。あとは、その操作をどれだけスムーズにできるか。これは本人次第となります。慣れない私は戸惑いました。自宅では繰り返し見られたので、その点は便利です。このアプリ使用により、作品解説を展示室内でイヤホーンで聞くことができるというシステムなのです。このアプリを利用するためには、イヤホーンを携帯していくことが必須です。私は持ち歩いていないので、この時、セクションの解説文を読むことはできましたが、解説を聞くことはできませんでした。大きなメリットがあります。展示室ではスマホでの作品撮影はOKという展でした。(通常のデジカメ等での撮影は禁止)展示室は、全体の照度を落として少し薄暗い感じで、作品に照明が当てられています。訪れた時は、最初のセクションはテーマが「Exhibition 1 妖」(2024.1.31まで)です。妖しげな美が取り上げられています。奇しくも最初の展示品が、長沢芦雪の「幽霊・髑髏仔犬・白蔵主三幅対」の掛幅でした。上掲の「傳三郎のまなざし」の展覧会には出展されていますので、この掛幅に再会できた次第。今回はスマホの撮影容量の問題もありますので、少しだけスマホで展示作品を撮りました。 「大江山酒呑童子絵巻 下巻」 菱川師宣筆 江戸時代 1692(元禄5)年源頼光と部下の四天王(綱、公時、貞光、季武)、藤原保晶の6人の武士たちが、大江山の酒呑童子を退治するという物語の絵巻です。酒呑童子が毒酒を飲まされて眠らされ、首を切り取られるという場面から始まります。捕らわれていた姫君たちを救出し、酒呑童子の首を都に持ち帰るという場面が描かれています。 小野小町坐像 桃山~江戸時代 16~17世紀倒れた卒塔婆に小野小町のなれの果て、乞食老婆の姿で坐している彫像です。この像は、謡曲「卒塔婆小町」に取材したものだそうです。次のセクションは、「Exhibition 2 護」(12.28まで)です。人々が神仏に加護を求め、祈りをささげるという行為。平安を願う心に関係した作品が展示されています。 「十二天図屏風」 当初は12幅の掛軸だったものを屏風仕立てにしたもの。戦国時代に肥前国(現:佐賀県)の領主だった小田政光が息子・諸満丸のために寄進した十二天図だそうです。私は初めて見る作品です。 東方:持国天 西方:広目天 南方:増長天 北方:多聞天(毘沙門天)鎌倉時代 13世紀の作 寄木造で玉眼入りの像四天王は、須弥山(シュミセン)の四方位を護る護法善神で、仏法と国家を護る神々として信仰されました。この四天王立像は、2019年の藤田美術館展に出展されていました。「金銅五鈷鈴」「金銅密教法具」が展示されていました。これも再拝見でした。この後のセクションは、ある時の茶会席で使用された茶道具一式という形で展示されていました。その一部を撮ったのが次の道具類です。 香合 蜜柑形 景徳鎮窯 紅葉呉器茶碗 銘 唐錦 朝鮮時代 16世紀 本手御所丸茶碗 銘 藤田 朝鮮時代 17世紀 手桶形水差 本阿弥光悦作 江戸時代 17世紀 茶杓 銘 神無月 掛幅 「清水裂」 中国・明時代 16~17世紀これらの茶道具類は、今回初めて拝見した品々でした。 この右上のドアも金庫の扉様の形式です。美術館内の展示室の出口という感じです。 勿論、こちらの部屋もギャラリーです。 この窓の扉もまた、蔵の扉に使われていた感じの意匠です。ここが最後の部屋です。館内から出て、庭を巡ります。つづく補遺藤田美術館 ホームページ酒呑童子 :ウィキペディア酒呑童子 :「ジャパンナレッジ」日本の鬼の交流博物館 :「福知山市」十二天像 :「e國寶」四天王 :「コトバンク」藤田美術館がリニューアルオープン :「アイエム internet museum」大規模リニューアル・オープンの魅力探訪 藤田美術館 :「太陽web」演目事典 卒塔婆小町 :「the 能 .com」素性 :「千人万首」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 探訪&観照 大阪市 藤田美術館と庭 -2 美術館の庭 へ探訪&観照 大阪市 藤田美術館と庭 -3 藤田邸跡公園 へ
2023.12.04
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=== 2023.11.15 === 南の空9時25分頃に撮りました。南の空は雲に覆われています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向は、雲が浮かんでいますが青空が見えています。 頭上の空 東方向の空稜線の上空はよく見かける布を広げたような平板な感じの雲で覆われた状態です。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空15時30分近くに眺めると、どの方向にも雲が出ていますが、青空が見え、天気は晴れ。ひつじ雲とは呼べそうにありませんが、小さな塊の雲が寄り集まってきている感じの雲の状態です。 南の空17時5分過ぎに撮りました。近隣の家の窓から明かりが見えています。日が落ちるのが早くなってきました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空天気は晴れ。雲が多く見られた一日でした。=== 2023.11.16 === 南の空9時40分近くに撮りました。太陽の位置の関係でスッキリとした空が撮れません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南、西、頭上の三方向はわずかな雲がみえますが、ほぼ快晴の良い天気。 東方向の空稜線上空が一番雲が広がっている状態です。一枚の布の様な感じより、雲の形が見える方がやはり良いですね。 東方向の空16時5分近くに空を眺めると、稜線近くを白鼠色の横雲が覆っていますが、その上には青空が見えています。 南の空南西方向の空 西方向の空 それに対して、南から西にかけての空は、雲に覆われる状態になっていました。 頭上の空晴れのち曇りという一日です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの詩集「念珠集」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第四巻』大東出版社)「原始」と題する詩に雲が詠み込まれています。まずは最初の部分に ここから見える石鎚山系と その上を流れる白雲と それだけはどうやら わたしの好む 原始の姿をしている p55後半に、「囀り出した雲雀の声も/ 少しも変わっていない」と鳥名に出てきます。「鐘の音」と題する三節の詩の第二節に出て来ます。第二節を引用します。 仏と共に 天地を走る 梵鐘鳴りひびいて 詩人真民 天地を走る そんなことを思うて もう一度撞く 今度は天地人合一して 無 我もなし 仏もなし ただ白雲一片 空にあるばかり p61「玉島にて」と題する詩。7節からなる詩の第3節に出て来ます。玉島にある良寛堂を真民さんが訪れたときの詩です。 白雲閣という 坐禅堂があった 空を仰ぐと 白雲が悠々と 流れていた p93 「八つの碑に」と題する詩の後半に雲が出て来ます。この碑とは「念ずれば花ひらく」。 飛びゆく雲よ 伝えてくれ わたしの喜びを 感謝の思いを p118「暁天祈願」と題する詩の末尾に出て来ます。「念ずれば花開く」を刻んだ碑がまた一つ増えたことを詠んだ詩の末尾です。詩集の文脈からすると、この碑は長島の愛生園に建立された碑と思います。 その石に会うため 今日行って参りますと 西天に光る 大きな星に祈る 一片の雲もなく 満天の星 p135「暗雲」と題する三行詩に詠み込まれています。 苦しい息をしていられる 先生に別れて帰ってゆく 夜の暗雲よ p141「荒れ」と題する三行詩 荒れ模様の海よ 空よ雲よ風よ 先生の呼吸も荒れている p141これらの詩は、真民さんが尊敬する杉村春苔尼先生のご臨終に近い時点で詠まれた詩。この次の「満月の光」と題する詩にも雲が詠み込まれています。全文引用。 大いなる人は まさに終わらんとなさるか 病院を出て仰ぐ 梅雨空の 雲の乱れのなかに 姿を見せてくれた 満月の光 p141一詩を挟み、その次に「風が」と題する詩があり、この詩の冒頭に出て来ます。全文引用。 昨夜の暗雲がすっかりとれ からりとした天地となった 昨日とまったく違う 安らかなお顔 安らかな呼吸 ああさわやかな風が サタンを退散させたのだ 病魔を追っ払ったのだ p142この後の詩で、真民さんの先生は旅立たれたことがわかります。杉村春苔尼先生に対する真民さんの切々たる心情が吐露されています。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.17 === 南の空10時25分近くに撮りました。ベランダの竿に雨滴が連なり、手すりも濡れていますが雨上がり。いつ頃雨が降り、雨が止んだのかは不詳。一面に銀鼠の雲が覆う空を眺めました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も、雲、雲、雲・・・・。さて天気はどう変化するのか。 東方向の空14時35分過ぎに空を眺めると、青空がいずれの方向でも広がっています。良い天気に転換しました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空16時50分近くに撮りました。 南の遠くの空の雲に夕映えが見えます。一部をズームアップしてみました。南西方向の空 西方向の空 西の遠くの空の雲の一部をズームアップ。電線の彼方に見える夕映えの雲。 頭上の空 頭上は青空です。 東方向の空つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について良寛さん修行の寺 円通寺 ホームページ長島愛生園 :「Leprosy.jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.12.01
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特別展会場を出た後、4階のオープンな空間を探訪することから始めました。この建物、2階から4階まで建物の中央部が吹抜空間になっています。 (大阪中之島美術館のホームページから施設案内のページでフロアーマップをダウンロードできます。) 展示室のあるのは4階と5階です。エレベーターもありますが、メインの通路は2階から4階まで一気に上がるエスカレーター。北から南に向かって昇っていく配置です。 4階のフロアーに至るエスカレーターの向こうにみえるのは5階へのエスカレーター フロアーを移動する途中で、この吹抜空間を見下ろした景色 上掲の景色で5階へのエスカレーターの向こうには5階に上がる階段通路が設けてあります。その階段近くに展示されているのがコレ!この作品自体への興味が中心になり、名称・製作者等の掲示の有無を意識していませんでした。 5階への階段の途中からの眺めはこんな感じ。 フロアーに戻り、回り込んで近くから撮りました。 後日、調べてみますと、やはり野外展示作品と同じヤノベケンジさんの作品でした。作品名は未だ不詳。高さ7mほどの巨大ロボット。腹話術人形「トラちゃん」が胸部の窓様の内側に入っているという作品です。今度はこのトラちゃんをズームアップで撮りたいな・・・・。(補遺をご参照ください) 階段脇から5階へのエスカレーター方向を眺めた景色前回ご紹介した記念撮影スポットが手前に写っています。 4階への上りのエスカレーターと2階のチケットカウンター付近を見下ろした景色 2階と1階を結ぶ階段通路を見下ろした眺め4期から降りのエスカレーターで2階に降りて、2階エリアを少し巡ってみました。 フロアーマップを見ますと、館内の東から西方向を眺めた位置になります。左(南)側に、1階・2階間のエレベーターがあり、前には1・2階間の幅広の階段があります。右(北)方向は、芝生広場への出入口になります。私が最初に正面の入口と説明していた箇所です。フロアーを南に歩みますと、南東角近くに「多目的スペース」があります。 訪ねた時には、画廊として利用されていて、「Osaka Directory 4 Supported by RICHARD MILLE 小谷くるみ」展が開催されていました。入場無料で鑑賞できる空間でした。 パネルの前のテーブルに置かれていた展覧会案内葉書を一葉いただきました。この企画の主催は大阪中之島美術館と関西・大阪21世紀協会で2023.12.17まで。案内葉書の案内文の一部をご紹介します。「小谷はこれまで、存在の痕跡や気配をテーマに様々なアプローチによる絵画作品を発表してきました。結露した窓を指で触れたイメージを描いた『21g』シリーズや、支持体に染み込ませた錆を時間経過や変化の象徴として捉えた『時間・痕跡<錆>』シリーズなどで注目されています」(案内文転記)小谷くるみさんが取り組んできたシリーズの新作を中心に展示されているそうです。ギャラリーの展示作品には、画面全体に描き込まれた結露の現象を示す抽象化された情景が不思議な感覚を呼び起こす作品も展示されていました。初めて出会った画家の作品でした。 館内の南辺の中央辺りから、東方向に多目的スペースを眺めた景色 建物の南面は国立国際美術館と大阪市立科学館に隣接していることは初回にふれました。館内から眺めると、こんな景色が広がっています。 ガラスウォール越しに 北東隅にて探訪課題を残しました。次の機会には視点を変えて再度館内探訪をしてみたいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。補遺大阪中之島美術館 ホームページ 施設案内小谷くるみ :「美術手帖」小谷くるみ :「DMOARTS」小谷くるみ 「作家本人による作品紹介」 YouTube【西武渋谷店】小谷くるみ 個展 Silver YouTube「大阪中之島美術館」を徹底ガイド! :「るるぶ&more」 館内展示から2023年秋の企画展、アクセス、カフェ、グッズまで! Case Story 大阪中之島美術館 :「yamagiwa」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-1 外観と芝生広場 へ観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-2 長沢芦雪展 へ
2023.11.30
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