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=== 2023.9.14 === 南の空9時15分近くに撮りました。ソフトな感じの雲が浮かぶ晴れた空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空に横雲とソフトな雲がともに浮かび、青空が見えて、こちらも良い景色です。 東方向の空16時35分過ぎに眺めると、稜線上空には雲が広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上と南から西方向の空にも雲が広がり、晴れのちくもりという状況に。 南の空18時5分過ぎに撮りました。雲の形は変化していますが、くもりの状態はそのままです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上には白雲が浮かび、その上空にはくっきりと層が別れたように青みがかった銀鼠色の雲が一面に広がっています。晴れのちくもりの一日でした。=== 2023.9.15 === 南の空9時35分頃に撮りました。夏雲を未だ感じさせる雲が浮かんでいます。天気は晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空西方向から頭上にかけては、秋の雲なのかもしれません。 東方向の空稜線上空には、様々な雲の姿が並存して漂っています。 東方向の空16時20分近くに眺めますと、稜線上の雲は姿を変えて、モノトーンな雲の広がりへと変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては、白鼠・銀鼠・素鼠の色の雲が混在して空を覆っています。 頭上の空頭上には東方向の雲につながっていく感じの雲が広がっています。この日も晴れのちくもり。この後は撮りませんでした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第2巻に収録されている最初の詩集は「朝の眼の中に」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第二巻』大東出版社)最初の詩は「この二つのものの中に」です。三節からなる詩。第二節に雲が詠み込まれていますが、全体を読まないと意図が伝わらないと思いますので、引用します。 朝の眼(メ)の中に エベレストの 乳色(チチイロ)の川が 浮かび 夕(ユウベ)の眼の中に クリスマス島の 狂った雲が 浮かぶ ああ一致(ユニテ)こそ わが願いなれど この二つのものの中に 流されてゆく日々(ヒビ)太古からのエベレストの川の流れ。真民さんは釈尊が活動されていた頃の馴染まれた川をイメージされているのでしょうか。クリスマス島について調べてみますと、中央太平洋に所在する島です。現在は、キリバス共和国に属する島。1957年から58年にかけて英国がクリスマス島・モルデン島で9回の核実験を行ったと言います。(資料1,2)「狂った雲」とは、核実験により発生した人工的なキノコ雲をさすのでしょう。原爆投下のあの雲の映像のように・・・・。まさに「狂った雲」です。自然が生み出した恵みの川と人間が生み出した狂気の自然・人間破壊の産物。ユニテとは真逆の対極。重い、重い、重い・・・・詩です。この詩集の先に、「夏を更に」と題する詩が収録されています。4行詩ですが、上記のクリスマス島に呼応する詩です。詩の題に続く前書がそれを裏付けます。 1957年5月16日クリスマス島にて水爆実験 1957年5月28日ネバダ州にて原爆実験 雲は憤怒(フンヌ)に似 風は怒号(ドゴウ)に似 夏を更に 焼くこの詩集では、もう1箇所で雲と出会います。「一草庵追懐」と題する詩です。10節から構成される詩。山頭火を追懐する詩の一節で出会いました。種田山頭火(1882~1940)は漂泊の俳人として知られる人です。 6 わたしはこの冷たい水で 手を洗い眼を冷やした 椰(ナギ)の古木の上を 白い雲が流れていた一草庵は松山市御幸1丁目135-1に所在します。その建物の側に「山頭火翁終焉之地」と刻まれた石碑が建てられています。この碑のことは、最後の10節に詠み込まれています。 「山頭火翁終焉之地」の文字は すぐとわかる澄太先生の字だ 紫蘭(シラン)の花などがあたりに咲いていた3節と9節に「鉄鉢の中へも霰」の句碑が詠まれています。この句碑もまた、一草庵の側に建立されています。これは山頭火が昭和7年1月8日、福岡県遠賀郡芦屋町で托鉢に出た時の句だそうです。 (資料3)さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.9.16 === 南の空9時過ぎに撮りました。ソフトな雲が浮かぶ晴れた空です。良い感じ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線際に白雲が浮かんでいますが、夏雲の力強さは消え、ほんわりとした感じの雲です。その上は青空をはさみ、白雲が浮かんでいます。 東方向の空10時55分過ぎに稜線上空を眺めると、雲はほとんど去り、青空に孤雲浮かぶという趣きに近づいています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空他の方向はほぼ快晴状態。雲はほぼ見えません。 南の空18時頃に撮りました。空は白鼠色に近い感じに塗られたよう・・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空全体が一色で覆われているような感じ。これは雲ではなくて、太陽の光の変化により、青空が全体が褪色したモノトーンに見える感じに変化したということでしょうか。こういう夕空をみたことがほとんどなかったと思います。つづく参照資料1) イギリスの核実験 被害はまだ闇の中フイジー核実験被ばく兵士の健康調査を行って 斎藤友治(静岡・浜松佐藤町診療所):「全日本民医連」2) 核廃絶へ「共に行動を」 :「REUTERS」3) 種田山頭火(1882~1940) :「愛媛県生涯学習センター」補遺キノコ雲 :ウィキペディア被爆者との連帯【クリスマス島】 :「原水爆禁止日本協議会」種田山頭火 :ウィキペディア種田山頭火 作家別作品リスト:No.146 :「青空文庫」 旅日記 種田山頭火 :「青空文庫」 草木塔 種田山頭火 :「青空文庫」 行乞記(一) 種子田山頭火 :「青空文庫」 行乞記(二) 種子田山頭火 :「青空文庫」種子田山頭火の旅 トップページ 種子田山頭火の句碑 種子田山頭火の俳句100選 :「ジャパノート」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.25
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=== 2023.9.11 === 南の空7時55分近くに撮りました。空は晴れ、淡い雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向にかけては快晴状態です。 東方向の空一方、稜線上空は青空を感じさせながら横雲が層状に広がっています。ところが、11時過ぎには小雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ11時10分近くに撮りました。 南の空 17時10分近くに撮ってみました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空雨は止んでいましたが、どの方向もどんよりと曇り空が続いていました。=== 2023.9.12 === 南の空10時15分過ぎに撮りました。天気は回復し、雲が張り出していますが、晴れです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空だけが銀鼠色の雲に覆われています。南~西方向とは対照的な空。午後、天気は下り坂で一時雨が降りました。 東方向の空雨があがり、18時10分頃に眺めますと、銀鼠の雲の隙間に青空が見えます。 ほんの一部ですが、夕陽を受けてピンク色に染まっている雲があります。 南の空南西方向の空 夕焼け雲をアップに 西方向の空 夕焼け雲をアップに 頭上の空 久々に夕焼け雲を眺めました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された次の詩集「赤い種」からです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)詩集「赤い種」の最初には、真民さんのこの全詩集を購入した一因になる詩が冒頭に2つ載っています。雲がたりの観点では、余談から始めることになりますが、引用してご紹介したい所存です。 p249 ねがい ひとから 虐げられながら 独り死んでいったひと そのひとの耳に そっと読んであげる そういうわたしの詩でありたい 念ずれば花ひらく 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことば わたしもいつのころからが となえるようになった そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていったこの2つめの詩が印象的だったのがまずトリガーになりました。この詩はたぶん良く知られた真民さんの詩のひとつです。「念ずれば花ひらく」を詩碑として建立されているところが各地にあります。この詩集の「杉村春苔尼先生に捧げる詩」という題の詩の2箇所に雲が詠み込まれています。冒頭の6行目です。冒頭箇所を記します。 杉村春苔尼先生 こころ屈してどうにもならない時は 苔むす五輪の塔の立ちならぶ 寂かなこの菩提所に来て 鳥の声に耳を傾けたり 流れ行く雲に思いを放ったり 古い木々のささやきに心を遊ばせたりして いくときかを過ごします p266後半の2回目の先生への呼びかけのなかで、 山の中は冷えて さすがは冬のさなかだと思わせますが それでも時々雲が切れて 日の光があたりを急に明るくしますと すべてのものにはやすらぎのいぶきを 感ずる気がいたします と。 p267「帰郷詩」と題する詩の「1 動物園にて」には、 花も美しいし 雲も お月さまも お星さまも みんな美しいね と。 p276この「1 動物園にて」には「子供たちに初めて動物園を見せた。これが帰郷の大きな一つの目的であった」と付記されています。子供たちに動物たちについて教え語りかける詩です。その中の一節なのです。この一節の前に、真民さんは子供たちにこう語っています。「もう少し大きくなったら/ どうしてみんなこんなに美しいだろうかと/ そんなことを考えてみることだね/ 大事なことね」と・・・・。この詩集ではもう1箇所、「さすらえば」と題する6行詩に「雲」が詠み込まれています。 さすらえば 鳥なくもかなし 雲行くもかなし 慰め合い助け合い 一つの船に乗りてゆかん 風よこころして吹け 全詩集第1巻は詩集「静かな愛」が最後の収録詩集です。この詩集は、真民さんが半盲に近い身となったり、全身に激痛を覚え、昼夜間断なく苦しみ、襲いくる死の恐怖を体験された時期に詠まれた詩集です。そこに、「雲」と題する3行詩が一つありました。 p301 称名のこえ おのずからなる日の ゆく雲の美しさ ゆく雲を美しく感じる中に、称名のこころが重ねられているように感じます。余談ですが、この詩集のタイトルになっている詩が、詩集の後半にありました。 p319 静かな愛 もしもこれが 奇跡と言えるなら 奇跡と言おう 悶絶するような 苦しみの果てに わたしを甦らせた あの光を あの静かな 愛の光を次回から全詩集の第二巻に移ります。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.13 === 南の空 9時5分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 空は快晴状態で、気持ちが良い朝です。 東方向の空稜線際に小型の白雲が浮かぶ他は、上空に青空が広がっています。比較的稀な空模様。 東方向の空15時10分頃に眺めると、大きくなった白雲が浮かんでいて、空の青さがはっきりしていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 白雲が浮かぶ中に銀鼠色を帯びた大きめの雲が見えますが、晴れ模様は変わらずです。 頭上の空 南の空 18時15分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空やはり稜線上空の空だけが、他とは違う空模様を示しています。青みがかった銀鼠色の布を広げた感じの空です。でも、晴れた一日でした。つづく補遺坂村真民詩碑 一遍上人堂通信 :「一遍と今を歩く」「念ずれば花ひらく」の碑 :「江差しの石碑めぐり」坂村真民ゆかりの地 旅のあれこれ~文学 :「私の旅日記~お気に入り写真館~」吉田高校の真民詩碑の除幕式 :「坂村真民記念館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.22
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=== 2023.9.8 === 南の空7時40分近くに撮りました。ベランダの欄に雨の跡が残り、雨は止んでいました。南西方向の空 西方向の空 西の空に少し青空が見える雲の隙間が見えます。 頭上の空その他は、銀鼠色の雲に覆われています。 東方向の空 稜線上空も同様です。 東方向の空10時50分近くに眺めて見ました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空いずれの方向も空模様は似たような感じです。この日、台風13号が東日本に上陸という台風報道が朝から繰り返し行われていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空17時45分頃に撮りました。この日、ほんの一時的な雨はありましたが、天気はほぼくもり。関西では台風13号の影響はほとんどなしですみました。=== 2023.9.9 === 南の空11時50分近くに撮りました。小型の雲が浮かんでいます。天気は晴れ。かつての陰暦長月(九月)九日は重陽の節句の行事がおこなわれた日です。『源氏物語』の場面が思い起こされます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空には、大きな横雲が漂っていました。青空の広がりが見えて、気持ちがいい。 東方向の空17時35分頃に眺めると、雲の姿は穏やかさを感じるくらいの横雲に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、午前中よりももっと軽やかな感じの雲が浮かんでいます。余談です。後で調べてみたことですが、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)では、午前10時に「重陽神事」が行われ、引き続き「烏相撲」が奉納されるという行事が行われました。(資料1)また、京都・嵐山にある虚空藏法輪寺では13時から重陽の節会が行われました。(資料2)さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された次の詩集「アジアの路地」からです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)この詩集も「序詩」から始まりますが、「雲」が詠み込まれた最初の詩は、「印度映画『河』」です。この詩の冒頭の導入部に 朝の河 夜の河 大きな船 小さな舟 夢のような町 七いろの雲 きらめく尖塔 という情景の一環として詠まれています。 p218次は「幻影」という詩に出てきます。「どうしたというのだろう/ 遠い庫車(クチャ)の地で発見されたという/ 木造仏のやさしいお姿が浮かんできた」(21~23行)という詩句の少し後に つつましやかな 結跏のおすがたが 白い雲をとおして 光る星々に似ているからであったろうか 消えていった星が ぽっかりとかがやいたように 私に浮かんできたひとつの幻影 と詩が展開されていきます。 p2303番目に出てくるのは、「死の灰は遂に」という詩です。この詩には「水爆による最初の犠牲者久保山愛吉さんを弔う」という前書が付されています。真民さんは末尾に「-九月二十四日暁-」と作詞日を明記しています。「満天の星が光っている/ でも今暁のわたしは/ いつものわたしとちがっている」と己の心境を客観視する詩句から始まります。そして、少し先で、 いなびかりのようなものが間をおいて閃く いくらか雲が流れ出してきたらしい 星が急に光ったり薄らいだりする それと同時にわたしの心も明滅する と記します。その後に、 重態を伝えられた久保山さんが 昨夜午後六時五十六分に亡くなられたからだ 水爆最初の犠牲者久保山さん 死の灰は遂に一人の人間の尊い生命を 奪っていったのだ とつづきます。この後、真民さんの原爆・水爆に対する考えが詠み込まれていきます。「恐るべき放射能症」という語句。その後に「平和への願いを世界人類が結集する以外/ この病気の完全治療法はないのだ」と断定的に訴えます。さらに、「日本よ/ 日本人よ」と投げかけて、当時の時勢に対する警鐘が詠み込まれていきます。「広島の原爆/ 長崎の原爆/ 今またビキニの水爆による/ 死の灰/ 死の雨/ 死の魚」と問題事象を列挙して。 これでもまだ目はひらかないのか 耳はふさがっているのか 目しいにされ耳しいにされ あやつり人形のようにあやつられ どこに行こうとしているのか と。詩集「アジアの路地」には、3箇所に「雲」が詠み込まれています。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.10 === 南の空10時15分近くに撮りました。昨日に続き晴れた空を眺めることで一日がスタート。南の遠くの空はかなり白雲が広がっている感じですが、建物に遮られて全容は見えません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空気持ちの良い青空が広がり、白雲がちょっとしたアクセントになっています。 東方向の空稜線上の雲の姿も普段あまり見かけない形の白雲が青空の中に広がっています。 東方向の空15時5分過ぎに眺めると、雲の姿は様変わりしています。秋の雲になってきたのでしょうか。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、夏雲と秋雲の並存という印象を受けます。 南の空18時過ぎに撮りました。空は様変わり。一転し曇り空に・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空晴れのちくもりの一日となりました。つづく参照資料1) 恒例祭典 :「賀茂別雷神社」(上賀茂神社)2) 虚空蔵法輪寺 重陽の節会 :「ざ京都」(京都観光、案内のポータルサイト)補遺ビキニ環礁 :ウィキペディア核開発競争とビキニ水爆実験 ― 「第五福竜丸」と延べ992隻の被災船:「戦争と静岡」都立第五福竜丸展示館 ホームページ 第五福竜丸とは ビキニ環礁での水爆実験【ビキニ事件】 :「三浦市」核の傷痕、戻れぬビキニ 水爆実験から60年 YouTube賀茂別雷神社(上賀茂神社) 公式ホームページ虚空藏法輪寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表スポット探訪 京都・洛西 嵐山 法輪寺 -1 法輪寺への道すがらに 3回シリーズでご紹介
2023.09.20
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=== 2023.9.5 === 南の空7時40分近くに撮りました。雲が張り出していますが晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間際に素鼠色、その上に銀鼠色、その上には丼鼠色に近い暗い灰色の雲が広がっています。とはいえ、少し青空がのぞいています。東方向だけはやはり少し違う空模様。 東方向の空9時45分頃に眺めると、雲の姿は大きく変化。未だ夏雲の雰囲気は残っています。青空の占める割合が広がっていました。素鼠色の雲は白雲とのコントラストが明瞭で白雲が引き立つ感じがします。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空プカプカと小さな雲が散在して浮かぶくらいだと青空が引き立ちます。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空16時5分過ぎに撮りました。雲が少なくなり、青空が美しい。 東方向の空18時35分過ぎに眺めると、稜線上の雲の姿は大きな塊に変化し、さらにその上にも布状の雲の広がりが見える形に変化していました。雲の変化がめまぐるしい・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては雲が消えていました。晴れた一日。=== 2023.9.5 === 南の空この日は朝から曇り。午前中は定期健診の通院で朝から出かけて居ましたので、帰宅後、16時50分過ぎに初めて撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 くもり空が続いたままです。 東方向の空18時25分頃に眺めてみると、雲の姿に変化はあるものの一面雲で覆われています。 南の空南西方向の空 西方向の空 遠くの西空は夕焼け雲がきれいです。 遠くの空は低い位置なり、建物や電線が錯綜した彼方に眺められるだけ。 なんとか夕焼け空を切り出してみました。 頭上の空 南東方向の空の雲が少し夕焼けに映えていましたので、これも雲を切り出してみました。雨が降ることなく、曇り空で終えた一日です。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「観音草」の続きです。第一部にもう一つ、雲が詠み込まれた詩が出てきます。この後の第二部、第三部に雲は出て来ません。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) 白いものはみんな骨に見える 白いものはみんな骨に見える 舗道に散らばっている紙ぎれが 潮の引いている川原の石が 七輪をあおいでいる老婆の髪が 揺れているコスモスが 挿してある菊が 流れている雲が 食堂の匙が魚が 露店で売っているボタンが 広島では白いものがみな骨に見え わたしに訴える かつての 嘆きを 怒りを 涙を詩集「観音草」の「第一部 原爆詩」を読み進めて行くと、真民さんが「原爆地」を訪れられたのは、7年目だとわかります。いくつかの詩の中に次の詩句が読み込まれているからです。< >は詩の題です。<序詩 四>は、「ヘルデルリーンよ」という呼び掛けで始まります。この名をこの詩で知りました。この詩に 原爆投下敗戦後のこの7年目に と。<日まわり>という詩は、「爆心地本川小学校にて」と前書が付されていて、一行目に もう十月も半ばというのに 枯れそうもなく 咲き続けている 日まわりよ とあることから、10月半ばに爆心地に立たれたのです。この冒頭の詩句の先に、激しい詩句が刻まれています。 それにしても揃いも揃って あの壊れた骨と灰ばかりの ドームに向かって お前たちは突っ立っているではないか お前たちの周囲にうごめく人間の群れは もうあんなものには 見むきもしなくなってしまった今日 お前たちだけが 正しいものの存在を 黙って示してくれているのか 詩はこの後もつづきます。<平和記念塔にて>という詩は、その冒頭が 未完成のままに放置されている 平和記念館が 再び急角度で変わりつつある 日本の昨今を 何か象徴するかのように建っていた から始まり3ページに及びます。この詩の最終部分に、平和記念塔に刻まれた言葉「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」を詩中に長方形の枠囲みで挿入し、次の行から次の詩句が続きます。 と彫ってある文字に見入った そして七年後にやっと建てられた この嘆きの塔の前に立って 靜かに手を合わせた と。そして、次の詩句が続くのです。 でもその時 ああその時 叫びにも似た激しい声が 突然わたしの体をゆすぶった 安らかに眠っていることはできません 過ちが再び 繰り返されそうになってゆきますから それは一瞬にして消えた 幾万の人の うめきにも似た 重い声であった この詩は、もう一節10行の詩句がつづきます。真民さんを揺さぶった激しい声、「安らかに眠っていることはできません/ 過ちが再び/ 繰り返されそうになってゆきますから」という箇所は、現在時点からの未来を暗示しているようにも感じられます。「白いものはみんな骨に見える」という詩は、7年目という時点で詠まれた詩なのです。雲の変化に戻ります。=== 2023.9.6 === 南の空7時45分過ぎに撮りました。窓外を見て、うろこ雲が目にとまったので・・・・。たまに見ることができる雲の姿。勿論、朝から晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線際から薄めの層を重ねるように横雲が漂い、上空には青空も見えます。晴れた一日の始まり! 南の空ところが、普段のように、9時5分過ぎに眺めると、なんと曇り空に一変していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空見渡せる範囲はすべて曇り空です。白鼠から素鼠へのグラデーションの広がりです。 東方向の空15時5分頃にもう一度撮りました。雲の姿はとどまることなく変化していますが、曇り空であることは変わりなし。 南の空南西方向の空 西方向の空 表ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧 頭上の空晴れのちくもりの一日に。この後は、もう空を眺めるのを止めました。つづく補遺「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」? 観天望気にみる先人の知恵燃えるような朝焼けは天気下り坂のサイン昼頃には九州から雨降り出す燃えるような朝焼け原爆死没者慰霊碑フリードリヒ・ヘルダーリン :ウィキペディベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表ア資料館に関する年表 :「広島平和記念資料館」20 原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑) :「広島平和記念資料館」原爆死没者慰霊碑 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 表ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧
2023.09.19
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=== 2023.9.1 === 南の空17時15分頃に撮りました。この日は朝から晴れ。朝一の雲を撮ることなく、この日は奈良国立博物館に出かけていました。特別展「聖地 南山城」を鑑賞するためでした。これについては、昨日までに7回のシリーズでご紹介しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空だけは、稜線上空に白雲が発達していますが青空も見えます。9月入りですが、熱中症警告アラートはこの日もたしか出ていたと思います。=== 2023.9.2 === 南の空9時25分頃に撮りました。雲が張り出していて、天気はくもりと呼ぶ部類なのでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線際の雲とさらに上空側の雲、こんな雲の姿の対比はあまり見かけないと思います。 東方向の空13時50分頃に眺めると、よく見かける曇り空模様に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時35分頃に撮りました。午後は曇り空が続きました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空=== 2023.9.3 === 南の空10時25分頃に撮りました。この日は朝から晴れです。白雲に柔らかさを感じます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間際の横雲、青空の帯、上空に広がる横雲という層構造の空です。青空が見えるのがいい。 東方向の空17時5分近くに眺めました。雲が切れ青空一色です。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇り空から快晴へと天気が良くなる一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「観音草」からです。「雲」を詠み込んだ詩句を見出すことに移ります。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)この詩集は、「第一部 原爆詩」「第二部 哀別詩」「第三部 仏縁詩」という三部構成になっている詩集です。第一部 原爆詩」は3ページに渡る「序詩」から始まり、「原爆地広島にて」「原爆地に立ちて」「声」「亡霊」「日まわり」「老母よ」「平和記念塔にて」「一つの声」「誓い」「白いものはみんな骨に見える」「重い声」「おとなのすることは」「歯車は再び逆転し始めている」「シュプレヒコール『こえ』」の15編の詩から構成されています。広島の原爆地に立った真民さんが詩人の目でとらえたこの被災事実に対する観察と思い、死者への鎮魂、そして反原爆への意思を、これらの詩に詠み込まれています。「誓い」という詩は、4節から構成される詩。該当節を引用するだけではこの詩の意図は伝えづらいと思いますので、詩自体を引用します。 仏陀よ ヒロシマの地を 永遠に守ってくださるために はるばると 海山を越えてこられた 仏舎利よ 秋の晴れた日 白い雲が流れ 五色の旗がたなびき あなたを迎える日の 晴れやかな祝祭を 日本のすみずみにまで 満ちわたらせて下さい 凶暴な世に 残虐な時代に あなたの説かれた 争わず 殺さず ただひたすら大悲の衣で 包もうとされた 広大な教えを 世界のすみずみにまで よみがえらせてください 仏陀よ あなたを信ずる国民に あなたを奉ずる国家に 二度とこんな無謀を 繰り返さないよう しっかり誓わせて下さい原爆地に立ち、その状況を観察し、「この悲惨窮まる/原爆への憤りを」全身で感じ、地の声、天の声、人の声を感受した真民さん。序詩から始まる詩は、直接的な詩句が様々な視点から一つの詩に結実され、次々に詩が詠まれています。「みるべきものはみ/いうべきことはいい せかいのすみずみに/よびかけねばならない ぜんじんるいに/うったえねばならない」との思いで・・・・・。その先に、「一つの声」で「釈尊よ」で始まる詩が生まれ、その次に上記「誓い」の詩が載っているのです。 雲の変化に戻ります。=== 2023.9.4 === 南の空9時45分頃に撮りました。晴れた一日の始まりです。南西方向の空 西方向の空 うろこ雲が見られます。 頭上の空 東方向の空雲が覆っていますが、見慣れたベタな灰色雲と比べるとまだいいなという感じ。 東方向の空17時5分頃に眺めますと、ベタっとした雲の様子に変わって来ていました。あまり好きな雲の姿じゃない・・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空はもう載せるまでもありません。ほぼ同じ。晴れからくもりへと変化した一日でした。つづく補遺【歳時記】9月(長月)ってどんな月? :「おいしい暮らし研究所」九月(長月・ながつき) :「日本の行事・暦」イベント・歳時 9月 :「そうだ 京都、行こう」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.17
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なら仏像館の中央部は広いホール(展示室)です。今は、ここにでんと金峯山寺仁王門の金剛力士像が設置されています。 傍にこの説明板が設置されています。一部拡大します。修験道の総本山である金峯山寺では、2018年度より仁王門(国宝)の大規模修理が開始されました。それと併せて、2019年度から2年をかけて金剛力士像の保存修理が、この奈良国立博物館の中にある修理所で実施されました。修理完了を記念して、このなら仏像館での特別公開が行われることになりました。このなら仏像館に収容できる最大規模の仏像だそうです。この特別公開にあたり、まる2か月間、ここを臨時休館して設置作業が行われたとのこと。令和10年(2028)の仁王門修理完了の予定までは、この金剛力士像そのものをごくごく間近で拝見できます。またとない機会だと思います。(資料1)2021年2月に特別公開が始まりました。2021年6月に拝見して、拙ブログでご紹介。その後も幾度か奈良博に来る度に拝見しています。重複しますが、やはり今は、金剛力士像をスルーして終わる訳にはまいりません。 阿形像 吽行像阿形は像高 505.8cm 、吽形像は 506.2cm。東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ大きさ!像内の銘文により、南北朝時代・延元3~4年(1338~1339)、大仏師康成作とわかります。東大寺の運慶・快慶による金剛力士像は、建仁3年(1203)の造立です。135年余の時の隔たりがあります。大仏師康成は、慶派仏師の流れを汲む父康俊(コウシュン)から「南都大仏師」の称号を継承しました。南北朝時代の代表的な南都仏師だそうです。(資料2) 阿形像 金剛力士像は、免震装置付の展示台に安置されています。 吽形像 金剛力士像の反対側に展示されている仏像で撮影OKだった四天王像の一躯。 この如来立像も。左右にある展示室を巡ります。ここで撮影できたのが 残り半周の回廊に進みます。 これで館内を一巡してきました。何回見ても、金剛力士像は迫力があります。夾雑物なしにすぐ間近で、見上げることのできるのはすばらしい。 奈良公園の鹿を眺めて、帰路につきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 吉野の山の上からやってきた巨大な金剛力士像 :「buncul 文化庁広報誌 ぶんかる」2) 十一面観音立像 文化財 :「奈良市」補遺修験根本道場 国軸山 金峯山寺 ホームページ 国宝仁王門 大修理 ご支援のお願い金剛力士像 :ウィキペディア東大寺南大門 金剛力士像 :「NHK for School」「金剛力士像」の意味や役割とは?特徴や魅力、有名な寺院もチェック!【親子で日本文化を学ぶ】 :「HugKum はぐくむ 小学館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良国立博物館・なら仏像館 特別公開 金峰山寺 金剛力士立像
2023.09.16
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奈良公園入口の案内板に貼ってある「なら仏像館」のポスターです。奈良・金峯山寺の仁王門の修復工事をする期間、金剛力士像がここに展示されています。併せて、名品展「珠玉の仏たち」も開催されています。また常設展示として、中国古代青銅器<坂本コレクション>も展示されています。西新館から地下回廊を経由して、なら仏像館に行きました。ここの地下回廊は、観覧者でなくても自由に入ることができる無料ゾーンです。 今回はこんなリーフレットを入手しました。如来・菩薩・明王・天それぞれの仏像の特徴をたぶん小・中・高校生用にわかりやすく説明したものと思われます。勿論大人にも「仏像をもっと楽しむ鑑賞ガイド」の初歩編として役立ちます。奈良仏像館は入口を入ると、順路が設けてあります。観覧者用入口を入ると、右折して右側半分の回廊に沿って展示された仏像を鑑賞しながら半周して、中央部の広いホールに入ります。金剛力士像が置かれているのはこの大きな空間です。その左右に展示室があります。ここを鑑賞してから、回廊の残り半周を巡って、元の入口前に戻るという順路になります。飛鳥時代から鎌倉時代にいたる日本の仏像を中心に、国宝・重要文化財を含めて常時100体近くの仏像が展示されています。ほぼ常設展示の仏像とともに展示入れ替えが行われているようです。新館での特別展を鑑賞に訪れる度に、立ち寄っています。今回、なら仏像館を訪れて、うれしかったことがありました。 名品展の展示の中に、展示品の撮影OKという箇所が設定されていたのです。仏像好きには朗報です。このようにカメラのイラストとOK文字で標示されています。こういう試みは大賛成です。おかげでこのようにご紹介ができます。撮影できたものを列挙する形でご紹介します。 残欠の展示から 飛天像このあたりで、なら仏像館の鑑賞順路に沿って回廊の半分を巡ったところです。この後、中央のホールとその両側にある展示室、回廊の残り半分を巡ります。つづく補遺これだけ覚えればOK!仏像の種類と見分け方をイラスト解説(基礎知識) :「和楽」仏像の種類(如来・菩薩・明王・天)の見分け方を詳しく解説 :「骨董品買取の福助」仏像の種類 :「Flying Deity Tobifudo」仏像の種類 全作品リスト :「仏像ドットコム」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へ
2023.09.15
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=== 2023.8.29 === 南の空9時20分近くに撮りました。ひつじ雲のような雲が青空に浮かんでいます。いい天気!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の少し上は、まだまだ夏の雲という感じです。こういう姿の雲も素敵です。 東方向の空15時5分頃に眺めると、雲の姿は変化していますが、夏の雲というダイナミックさはそのまま続いています。東の空も、いい感じの一日になりました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空=== 2023.8.30 === 南の空9時35分頃に撮りました。昨日とは一変して、素鼠色に近い厚い布が広がっている感じの空模様です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 この空模様は経験的には雨の到来を感じさせます。 東方向の空稜線際には白鼠色の雲が浮かんでいます。その上空はこちらに近い雲の連なりなのでしょう。東方向の空には明るさがありました。 東方向の空17時過ぎに眺めると、朝とは異なり、銀鼠色の濃淡の布で覆われた感じに変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空この日は、雨は降ること無く、曇りに終始しました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「かなしきのうた」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)この詩集の最後の詩「三人の子に」と題する3ページにまたがる長詩です。ここに4つ目として雲が詠み込まれています。この詩は、真民さんが梨恵子・佐代子・真美子という三人の我が子に対して「この三篇を幼き者へ贈る」と副題を付して詠まれた詩です。「1 三人の子に」「2 枕もとで」「3 晴着」という三篇。その「3 晴着」に「雲」が詠み込まれています。 お前たちが 嫁ぎゆく晴れの日まで わたしは生きているだろうか 財産もない 故郷もない 家もない 不幸なお前たちに せめては父のこころばかりの 晴着をきせてやりたいのだが それまでわたしは 生きながらえているだろうか 梨恵子よ 佐代子よ 真美子よ 嫁ぎゆく日の夕べ もしも裳裾ひく くれないの雲が たなびいていたら 貧しかった父の せめてもの門出の 祝いものとして 晴れの衣を染めて 嫁いでいってくれないかこの詩で詠まれた情景は、かつての婚儀が背景にあるようです。江戸時代の婚儀は黄昏時以降の夜に行われていたそうです。「嫁ぐ日の夕べ」ということは、そのような慣習が続いている地方なのでしょう。「くれないの雲」ですから、真っ赤に染まった夕焼けの雲、その夕焼けの光が「晴れの衣」を染めるということでしょうね。観天望気では、「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」と称され、夕焼けは天気が晴れる前兆と考えられています。つまり、夕焼けを幸先の良いことの兆しとして重ねられているのではないでしょうか。「生きながらえて」いないという想定をした上で、夕焼けの色を、「貧しかった父の/ せめてもの門出の/ 祝いものとして」という詩句が表出されているのでしょう。真民さんが三人の幼い我が子に対して注がれていた深い思いがこの一点に込められている第3篇です。真民さんは1909年生まれで、2006年に97歳で逝去されました。我が子の嫁ぐ日をご自身の目でご覧になられたことでしょう。戦後の昭和は大きく変化していきました。真民さんはどのように我が子の嫁ぐ日をご覧になられたのでしょう。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.31 === 南の空9時15分頃に撮りました。昨日に続き、曇り空でのスタート。似たような感じです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空昨日の朝と比べると、稜線際は似た感じですが、更に上空のくもり具合はすこし穏やかな感じです。ただ明るさがあります。 東方向の空15時35分頃に眺めると、横雲が漂っていますが、青空が広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南西から西方向にかけては、うろこ雲様の雲が活発に広がり、青空が垣間見える状態になっていました。 南の空18時5分すぎにもう一度空を撮りました。再びくもり空に変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線に近いところで青空が見える状態で、銀鼠色の雲が広がる空模様でした。曇り一時晴れという天気の一日で、8月が幕を閉じました。暦が9月半ばになったところで、やっと9月にキャッチアップできました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について坂村真民先生その詩の魅力 横田南嶺猊下 対談 YouTube結婚式の歴史!結婚式の始まりや現在に至るまでの道のりを徹底解説! :「幻の酒」婚礼式 :「弓馬術礼法小笠原教場」「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」? 観天望気にみる先人の知恵 :「Weather Marketing」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.14
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心字池に架かる土橋(ドバシ)の傍から、池の北側と西新館を眺めた景色ここから始めます。 橋の東詰、中央部分にちょっと大きめの石が置かれています。立入を留める印です。こういうシグナルは絵になります。 池沿いの通路を歩み、枝越しに橋の先の中門を眺めた景色 池の対岸の八窓庵を眺めた景色 腰掛待合の背後側。手前はたぶん待合に付帯する「雪隠」でしょう。 心字池の南端付近から眺めた全景 池沿いの通路を巡って、八窓庵を間近で眺めます。 外露地と内露地を分ける竹垣と枝折戸があり、飛石が茶室まで続いています。先ほど、腰掛待合から反り橋を渡り中門を潜って茶室に至る径路を眺めてきましたので、この径路目線でアプローチしてみます。 中門 内露地からの眺めこの門を潜り、内露地に入ると、 蹲踞(ツクバイ)手水鉢があります。 茶室に向かう客人が目にする八窓庵の正面手前に大きな礎石が見えます。古都ならではの趣き・・・・。 左側に刀懸、その右側には上部に窓が2つ横に並び。右の窓の下に躙口が見えます。 この躙口の戸を開けて、潜って茶室に入るということになります。この八窓庵は、「もとは興福寺の大乗院門跡の中にあった茶室で、江戸時代中期頃に建てられました。四畳台目、古田織部好みの多窓式の茶室です」(リーフレットより)かつては「大和三茶室」の一つだったのですが、現存するのはこの茶室だけだそうです。明治25年(1892)にこちらに移設されました。 八窓庵の北側面に回り込んでみます。左端が東側面の躙口に近い方です。 細部を眺めて行きますと、こんな感じ・・・・。 茶室の窓の位置が大凡わかります。 八窓庵の南東角側から東側面を撮った景色です。 南側面 西側面。八窓庵の背面になります。左の景色で手前に見える建物はたぶん雪隠です。八窓庵の周囲を一通り見渡しました。茶室内を見られないのは残念です。(奈良国立博物館ホームページの「茶室 八窓庵」には茶室内部の写真が掲載されています。)八窓庵の北側、池の畔に戻ります。西新館のピロティとの間の池の方です。 池の傍に、「国東塔(クニサキトウ)」が1基保存されています。大分県国東半島にだけ見られる石塔です。凝灰岩製、南北朝時代(14世紀)の作。「特徴としては、頂上部に火焔宝珠をのせ、蓮華座・返花(カエリバナ)・格狭間(コウザマ)を持ち、塔身部がツボ型をしています。上部にお経(法華経)等を入れる孔(アナ)があいています}(リーフレットより) 国東塔の近くに置かれた石像。子供を抱くような像ですが不詳。 ピロティ前のほぼ方形の池と心字池は繋がっています。こちらにも竹垣と枝折戸が設けてあります。枝折戸から出て、池の連結部に架かる石橋を渡って、入口に戻ります。 庭園の通路脇に置かれているのがこの「宝篋印塔」です。案内板が設けてあったかどうかは不詳。気づきませんでした。 (リーフレットより)これで庭園散策を終わります。この後、「なら仏像館」に向かいました。つづく参照資料*「茶室 八窓庵 庭園のご案内」リーフレット 奈良国立博物館補遺奈良国立博物館 ホームページ 茶室 八窓庵 庭園・茶室のガイド 奈良博教育普及室 :「奈良国立博物館」八窓庵(奈良国立博物館の茶室) 茶室建築 Tearoom :「no+e」 ⇒ 間取り図掲載奈良 八窓庵(はっそうあん)茶室 :「和美荼美(わびちゃび)」 ⇒ 間取り図掲載八窓庵(はっそうあん)の八窓とは :「気軽に茶道をしてます。」茶室その3(古田織部の茶室) :「住まいとインテリプラン」古田織部の茶室 茶室建築 TeaRoom :「no+e」燕庵・へうげものの茶室【知トコ見トコ・茶室5選】古田織部・わびさびの実存 YouTube熊本城・本丸御殿の古田織部好みの茶室 :「九州旅倶楽部」国東塔 :ウィキペディア国東塔の魅力 ~最も国東らしい文化財~ 文化財室 :「豊後高田市」ピロティとは何のことですか? 耐震のQ観照 奈良市 興福寺境内・奈良公園・奈良国立博物館をちがう目線で&A:「一般社団法人 マンション再生協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良市 興福寺境内・奈良公園・奈良国立博物館をちがう目線で
2023.09.13
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茶室八窓庵 庭園のご案内特別展の会場を出た後、西新館の1階で少し休憩。庭園を眺めるとこの日は庭園が公開されていました。久しぶりに、しばし庭園を写真を撮りながら散策することにしました。今回、この三つ折のリーフレットが準備されていて、ありがたく入手。 開くと庭園がイラスト入りで順路説明されています。以前にも散策しています。順路通りに歩いてはいませんが、ここでは順路に沿って時計回りに編集してご紹介します。庭園は西新館の南側に広がっていますので、この図の上辺が北になります。 まず、ピロティに出て、東寄りに進み、そこから庭園を眺めると池の東側はこんな景色です。 藁葺き屋根の建物が木々の向こうに見えます。「八窓庵」と称される茶室です。 八窓庵の全景を比較的見やすい位置から撮ってみました。 ピロティから庭園へのアピローチを渡る時、西方向を眺めた景色です。右側が西新館です。西方向の空。ピロティ前はほぼ長方形の池になっています。左側が庭園。庭園の中央部に池があります。 左斜め前方、高生垣の前に「般若寺型石灯籠」が置かれています。花崗岩製。江戸時代(18~19世紀)の作。 北東側から 笠の上、頂部の宝珠の下には垂花弁が付けられていて、請花の部分が小さめになっています。笠の上に請花その上に宝珠が載るのが一般的な姿です。 唐獅子の浮彫 橘の浮彫と斜格子窓火袋は六角形です。その二面が斜格子窓が穿たれ、二面には唐獅子と橘が彫刻されています。 火口が相対する二面に大きく開口されています。 また、火袋下の中台の格狭間には、十二支の動物が浮彫してあります。 石灯籠の下部に眼を転じます。 基壇の上の基礎石には、雌雄の神鹿が彫刻されています。反花の上にはさらに蓮台が設けられています。普通の石灯籠では反花が竿に接合しています。私は数えていませんが、設置された案内銘板には、この一つの石灯籠に19頭の動物が表されていると記されています。見所の多い石灯籠です。 石灯籠の東方向の景色。この先は立入禁止でした。池の近くに戻ります。 池の近くには、少し離れて池沿いに南方向への石畳の通路(延べ段)が設けてあります。左側には柴垣でしょうか。丈の高い垣根です。 池越しに西方向を眺めますと、 八窓庵の茅葺屋根が見えます。 垣根の端から東を見ますと、現在は「寄付待合」として使われている建物があります。ここに移築される以前は、元が奈良帝室博物館の事務所の一部であり、その後正倉院宝庫掛の御物修理所としても使われていた建物だとか。 石畳の通路の先には、「腰掛待合」があります。 お茶会で、亭主の迎えを待つ間、腰を掛けて待つ施設です。 貴人席を設けて、L字形に造られています。この腰掛待合は、京都・藪内家家元の茶室「燕庵」の腰掛を写した建物だそうです。 屋根の雨樋の端には綱を伝い雨水が地上に流れるように設えてあります。 ちょっとした風情を生み出しています。 池の畔に近寄ってみます。こちらは池の南側の景色です。この後、この池の傍を時計回りで巡ります。 この池の対岸に、八窓庵(茶室)があります。 この池全体を空から見ますと、漢字の「心」を草書体で記した形をしていることから、 「心字池」と称されています。 心字池の水面に映じた八窓庵と空の雲茶室の東側、池畔に中門があり、その前に土橋(ドバシ)が架けてあります。腰掛待合で待った客人は、土橋を渡り、中門を潜って、八窓庵の茶室に歩むということになるのでしょう。 池に架けられた土橋の左端を一部入れて池の南側を撮った景色です。この橋には、通行禁止の表示板が置かれています。景色としては無粋になるので、撮るのをやめました。それでは、心字池の南辺を巡る形で茶室にむかいましょう。つづく参照資料*「茶室 八窓庵 庭園のご案内」リーフレット 奈良国立博物館補遺奈良 法性山 般若寺 ~コスモス寺~ 公式ホームページ 寺宝 般若寺型石灯籠も載っています。藪内家の茶 ホームページ 茶室・露地 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 奈良市 興福寺境内・奈良公園・奈良国立博物館をちがう目線で
2023.09.12
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=== 2023.8.25 === 南の空9時20分頃に撮りました。雲は多いですが青空が見え、晴れです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空も夏雲が勢いよく伸び上がっています。青空も見えます。この日、午後、理髪店に行き、さっぱりした頭になったせいか、帰宅後雲をとるのをすっかり忘れてしまいました。何をしていたのだろう・・・・。=== 2023.8.26 === 南の空9時45分近くに撮りました。昨日に引き続き晴れ。雲は少なめ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空それに対して、稜線上はもくもくと雲が立ち上がっている感じです。青空が見えると、雲の姿を楽しめます。 東方向の空16時35分近くに眺めると、稜線際の雲がすべて消滅し青空一色。上空にというか、山より手前になるのでしょうか、白雲が漂っています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけて、局部的に夏雲が広がっています。。 頭上の空まずは、快晴の一日だったと言えそうです。=== 2023.8.27 === 9時25分近くに撮りました。ここ連続、比較的雲の少ない晴れた状態で一日が始まります。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空それに対して、稜線上空は銀鼠色の雲を交えた雲が一面に空を覆っていました。この方向だけは、多くの場合ちょっと雲の姿が異なります。山の存在が大きな要因なのでしょうね。 東方向の空17時5分頃に眺めますと、稜線を押しつぶそうとするかのように、雲が巨大な塊となっていました。こういう姿の雲はいままで見かけた記憶がありません。雲の形成にはどのような要因が絡み合うのでしょう・・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上の空に少し青空が垣間見える他は、銀鼠色の雲が空を覆った状態に変化していました。晴れのちくもりの一日に。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「かなしきのうた」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)3つ目に雲が詠み込まれているのは「乱雲」と題する詩です。題そのものに「雲」が入っています。さらに、「-スピノーザの生涯」という副題が付いています。 幾日ぶりかの雨が降って 雷が鳴り響いて 草も木も生きかえった夕べ わたしはあなたの生涯を思った バターと乾葡萄付四シュテュベル八ペニヒの 押麦料理で一日をすませたりしている あなたのあけくれを思った あなたの哲学の純粋さが どこから生まれたか あなたの信仰の正しさが どこから来たか そんなことを考えた 最後までつつましい戒律を守り レンズ磨きという寂定三昧に入り 貧に堪え迫害に抗し孤独を生きた 四十四年の生涯を思って わたしはわたしの道に 無限の力を与えられるのを感じた 久しぶりの涼しい風が 窓から入ってくる部屋に独り坐しながら 二百十日の雨後の乱雲を眺めていた子供の頃に、「二百十日」という言葉を思えた。台風が来るころだと。改めて辞書を引くと、「立春から二百十日目の日。台風がよく来る日と言われた。九月一日ごろ」(『新明解国語辞典』三省堂)辞書には「にひゃくはつか 二百二十日」も載っている。同じく台風がよく来る日として。9月10日ごろということになる。現時点(9/8午後4時)で台風13号が東日本に接近しているのだから、この経験則は今も当たっています。勿論、近年はもっと早く8月頃から台風が襲来するようになっていますが・・・・。真民さんはこの二百十日の頃にスピノザの伝記を読まれていたのだろうか。「貧に堪え迫害に抗し孤独を生きた」哲学者スピノザの生きる姿勢を、詩に生きようとしている己と重ねながら、伝記を熟読されたのだろう。真民さんはスピノザの生き様の本質部分に「無限の力を与えられる」という感動を得られた。それがこの詩を生み出した。そう感じます。降り注ぐ雨、雷、そして乱雲は、目にし体験する自然現象であると共に、己の生きる姿勢を貫こうとすることに対する障害として存在する諸事象の象徴の意味をも重ねているように思いました。そして、スピノザという名前は記憶していても、それに留まって居るだけだという事実に気づかせられた・・・・・のです。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.28 === 南の空11時45分頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空頭上と南から西にかけてはくもり空ですが、逆に稜線間際には白雲が出ていて、青い色合いの空が見え、その上空一面を雲が覆っています。やはり、この方向だけはちょっと景色が異なります。 東方向の空15時35分頃に眺めると、稜線際と上空の雲は異なる姿で漂っていて、青空が広がりを増していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては、くもりの状態が晴れの方向に変化しようとしているようでした。 頭上の空頭上では青空がはっきりと広がっています。東方向から晴れる方向に変化してきている感じです。くもり後晴れという一日になりました。つづく補遺スピノザ :「コトバンク」名著 エチカ スピノザ おもわく。 :「NHK」スピノザの名言 :「地球の名言」スピノザ:モチベーションの上がる言葉42選 :「MOTIV」名言・格言『スピノザさんの気になる言葉・英語』 :「iso-labo.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.08
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入場券半券<第3章 阿弥陀仏の浄土>このセクションに、冒頭で再掲した入場券に使われている浄瑠璃寺の九体阿弥陀修理の完了記念としての「阿弥陀如来坐像」2軀が展示されています。 図録の表紙に使われた阿弥陀如来坐像その1を再掲しておきましょう。 冒頭の入場券から切り出した阿弥陀如来坐像その8です。前回触れていますが、このセクションの会場の中央に阿弥陀如来坐像本体2軀が並べて展示され、光背は少し離れた壁際に並べて展示されていました。そのため余計に光背の意匠の違いが認識できました。これでその対比が少しわかりやすいと思います。 PRチラシには、この形で浄瑠璃寺の薬師如来坐像(平安時代11世紀の作)と約140年ぶりに里帰りした十二神将がこの会場の展示で再会するという写真が載っています。会期末直前に鑑賞しましたので、この再会場面の展示は残念ながら拝見できませんでした。薬師如来坐像は前期展示だったのです。(勿論、よく見るとPRチラシにはちゃんとその旨明記されていました) 薬師如来と十二神将の再会!とあるように、十二神将は薬師如来の眷属である十二夜叉の総称です。別名、十二夜叉大将、十二神王とも称されるとか。十二夜叉は玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』に登場するそうです。「釈迦が薬師如来の本願と功徳について説法を行ったとき、感動した12の夜叉が各自7000の眷属を従えて、『今後、この経を流布する所、さらには薬師如来の名号を唱える者があるならば、これを守護して一切の苦難を除くとともに諸々の願を成就させよう』と、声をそろえて誓ったという」(資料1)が記されているそうです。ところが、この経典には十二神将像の姿について具体的に言及されていないそうです。そこで、経典や儀軌にとらわれずに、当初の造像は比較的自由に創作されたものとみなされています。わが国での十二神将の造像は奈良時代にまで遡ります。ご存知のように、奈良・新薬師寺の十二神将塑像が特に有名です。中国を経て日本に至るまでに、中国で十二神将と十二支が結合して行ったようです。つまり、十二神将像と十二支像が一体となっていきます。十二神将つまり夜叉の漢字名の表記は音写ですので、名前をカタカナで表記しますと、 クビラ、バサラ、メイキラ、アンチラ、マニラ、サンチラ インダラ、バイラ、マコラ、シンダラ、ショウトラ、ビカラ です。この夜叉それぞれに十二支(子~亥)の一つが対応されていきます。この展示では、十二神将名は、子神~亥神という十二支神名で展示されていました。新薬師寺の十二神将は、夜叉名と十二支神名とを併記した木札掲示がされていたと記憶します。また、新薬師寺の十二神将には十二支像が頭部に表されてはいません。しかし、浄瑠璃寺のこれら十二神将像には、十二支像が頭部に具象化されています。展示の十二神将立像は、像高が 69.2~77.3cmという大きさで木造、彩色・漆箔の像。子神~戌神が鎌倉時代(13世紀)、亥神が鎌倉時代。安貞2(1228)の作で、7?が東京の静嘉堂文庫美術館、5?が東京国立博物館で所蔵されています。十二神将像自体もまた、一堂に鑑賞できたのは実に稀な機会だったといえます。余談ですが、「わが国では十二支の標幟(ヒョウジ)をもつ十二神将像の経軌『浄瑠璃浄土標』が平安中期以前に成立、11世紀以降に作例がみられ、やがて十二支つきの像が主流となります」(資料2)このセクションに初めて「地蔵菩薩立像」(重文)が展示されていました。鎌倉時代・建長8(1256)、快成作。像高 80.5cm、木造で彩色・載金。奈良の春覚寺蔵です。この後、木造の地蔵菩薩は、第5章であと1軀を見ただけでした。 「普賢菩薩騎象像」(重文)平安時代(11世紀)の作。木造・彩色。像高39.5cm。本体は、頭体幹部、両肘を含む一材から彫りだされたものと言います。衣部に載金も用いられています。象は後補だとか。普賢菩薩は『法華経』を読誦する者を守護するとされるそうです。『法華経』は女人往生を説く経典でもあるので、普賢菩薩は特に女性信仰を集めたと言います。象を見たこともない当時の仏師立ちは、将来された普賢菩薩騎象像を手本にして、象を彫ったのでしょうね。この像は、木津川市の岩船寺像です。過去に岩船寺を探訪していますが、この像を拝見した記憶がありません。快成作の「愛染明王坐像」が併せて展示されていました。こちらの愛染明王坐像は真っ赤な形姿で比較的馴染みのある像容です。弓と矢を下方の左右の手に持って居るという形です。今回、愛染明王像は、宝瓶から伸び上がった赤蓮華の上に坐された姿という形を再認識しました。また、頭部は、五鈷鉤を付けた獅子冠であることも。いつも真っ赤な形姿の方に目を惹かれていて、宝瓶や獅子冠をほとんど意識していませんでした。鎌倉時代、建長8年(1256)の作で、木造、彩色・載金。奈良国立博物館蔵です。<第4章 解脱上人貞慶と弥勒・観音信仰>解脱上人貞慶(1155~1213)が海住山寺の中興の祖ということをこの特別展で知りました。このセクションは、江戸時代(17世紀)に造像された「解脱上人坐像」の展示から始まります。木造・彩色。像高74.8cm。木彫像は頬がこけ、目尻がさがった容貌を正面から眺めると、厳格さよりも少し軽妙さすら感じさせます。また、海住山寺蔵の掛幅「解脱上人像」も展示されていました。江戸時代、正徳元年(1711)作、絹本着色です。こちらも頬がこけ目尻が下がった容貌で描かれていますが、穏やかさを感じさせます。実際はどのような上人だったのでしょう・・・・。このセクションは、解脱上人の関連で、海住山寺からの出展品が中心でした。 海住山寺蔵の展示品で印象に残るのは、PRチラシの表紙に使われているこの「四天王像」(重文)です。鎌倉時代(13世紀)の作で、木造・彩色。彩色が鮮やかに維持されています。像高は35.8~38.3cmという小ぶりな像です。これらの像の形姿及び身色は、建久7年(1196)再興の東大寺大仏殿四天王像とおおむね一致するそうです。彩色が残る四天王像を見る機会はあまりありませんので、小像ですがインパクトがありました。顔の色の違いがおもしろい! 忿怒のレベルの違いを表しているのでしょうか。海住山寺の「扁額」と「海住山寺縁起」下巻が展示されていました。解脱上人は、笠置寺から良弁が草創した観音寺に移り、観音寺を中興して海住山寺に改名したそうです。このセクションに、笠置寺からの出展があり、その関連がわかりました。大和文華館蔵の「笠置曼荼羅」(重文)が展示されていました。この曼荼羅には十三重塔が描かれています。この塔は貞慶が建立して仏舎利を安置したそうです。<第5章 行基と戒律復興> 上記のもう一つの「地蔵菩薩坐像」とは、この右側の像です。平安時代(9~10世紀)の作。木造・古色で像高41.3cm の大きさです。木津川市の西教寺蔵。左側の像は「十一面観音坐像」(重文)。鎌倉時代(13世紀)の作で、木造・漆箔。PRチラシでは、地蔵菩薩坐像より小さく見えますが、実物の像高は74.0cmとこちらの方が大きいのです。観音菩薩は普段立像を見慣れていますので、坐像というのは珍しいと感じました。腰部がきゅっと絞り込まれて安定感があるとともに、その容貌から端正な印象を受けました。木津川市の現光寺蔵。図録によれば、「観音は『華厳経』入法界品において、同尊の住処である補陀洛山に坐ると説かれ、絵画にもその情景を描いたものがある」とのこと。「釈迦如来立像(清凉寺式)」を二軀見ました。仏像本体は清凉寺式という点で概観は同じですが、仔細に見ると、微妙に異なる部分があります。光背の形式はかなり違いがありました。宇治田原町の厳松院蔵(A)と木津川市の現光寺蔵(B)です。共に木造・古色で江戸時代の作ですが(A)は17世紀、像高51.6cm、(B)は17~18世紀、像高35.9cm、と少し制作時期と大きさに差異があります。見た目での大きな差異は、(A)が光背の頂部から釈迦如来上部に天蓋を掲げた形式を取っていることでした。一軀の仏像に天蓋を設けているものを拝見した記憶がありません。これも印象に残りました。 「文珠菩薩騎獅像」(重文)鎌倉時代(14世紀)の作で、木造、彩色・金泥塗・載金。木津川市の大智寺蔵。大智寺の前身が橋柱寺で、この寺は行基(668~749)が木津川に架けた泉大橋に関係します。泉大橋は正応元年(1288)の大雨と大風で落ちたそうです。その時に残った行基建立時の一本の柱を祀ったと言います。この橋柱を本尊の御衣木(ミソギ)にして橋柱寺が供養されたと言います。『橋柱寺縁起』が残されています。この像がその本尊にあたると推測されているそうです。なお、獅子座は後補とのこと。『橋柱寺縁起』もまた、木津川市の大智寺の所蔵です。 図録の裏表紙裏表紙から絵図を切り出しますと、 これは『橋柱寺縁起』三巻のうちの中巻第三段の場面だそうです。 「良弁、笠置寺で千手法を行い、泉河の流れを開く」(図録付記より)図録の本文には、上巻第二段、中巻第六段、下巻第六段が収録されているだけです。鑑賞の折にも見た記憶がありませんでしたので、付記を見つけるのにちょっと時間がかかりました。良弁は、奈良時代の僧。日本華厳宗の第二祖で、東大寺建立に尽力し初代別当となった人です。泉河とは木津川のことです。『橋柱寺縁起』の上巻と中巻には行基伝が描かれ、下巻で橋柱寺の由緒が語られるという内容になっているとか。<第6章 禅の教えと一休禅師>このセクションは、京田辺市の酬恩庵蔵の6件が展示されていました。一休寺という名の方がよく知られているかもしれません。 「一休宗純像 自賛」(重文)一休禅師の頂相としては良く知られている掛幅だと思います。室町時代(15世紀)の作。絹本着色。印象に残るのは、原在明筆「酬恩庵庭園真景図巻」です。江戸時代、文化2年(1805)の作。一休禅師廟南側の前庭と方丈を取り巻く庭園が写真のようにリアルに精緻に描き出されていました。<第7章 近世の南山城と奈良> この特別展でこの「袋中上人坐像」と身近な探訪とが結びつきました。京都の三条大橋の近くにある壇王法林寺を創建したのがこの袋中良定(1552~1639)だったのです。壇王法林寺はその傍をよく通り過ぎますし、お寺の境内を探訪したこともありますが、創健者を覚えていませんでした。再認識です。波乱万丈というかパイオニア精神の旺盛な近世浄土宗の傑僧だったようです。建立した寺院は20を超えるとか。晩年に奈良に移住、善光寺(のちの念仏寺)を開いて、浄瑠璃寺の一切経の修復に従事。73歳のとき現在の恭仁神社の傍らに三光庵を建てて13年間住まいし、京田辺市の西方寺に移り88歳で没したと言います。晩年に南山城との縁が深まった上人です。この最後のセクションは7件の展示でした。他に興味深かったのは次の3件です。「阿弥陀六地蔵十羅刹女像」という掛幅。鎌倉時代、徳治2年(1307)作。ある行者が夢中で感得した情景を絵に描いたものと言います。六地蔵が出てくるところが興味深い。羅刹とは「インドの神話・伝説に現れる鬼神の一種で、凶暴な祭祀破壊者・食人鬼とされることが多い」(『岩波仏教辞典第二版』)おもしろい組み合わせです。京都市の西寿寺蔵。「大仏殿虹梁木曳図」は、江戸時代(18世紀)の明誉古礀筆。巨大な虹梁がどのように運搬されていくかが描かれています。まさに人海戦術です。奈良・東大寺蔵。「木津船中奉納絵馬」は江戸時代、文政11年(1828)の絵馬そのものです。図はほぼわかりますが、復元図も掲示されていて、江戸時代も木津川が運搬径路の幹線になっていたことがよくわかります。木津川市の御霊神社蔵。私にとり印象的なものを抽出して、図録等を参照し思い出しながらまとめてみました。特別展の印象等のご紹介を終わります。つづく参照資料*「聖地 南山城 -奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-」 展示品リスト* 図録『聖地 南山城 -奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-』 奈良国立博物館 20231)『仏尊の事典』 エソテリカ事典シリーズ① 関根俊一編 学研 p1762)『比べてもっとよくわかる 仏像』 熊田由美子著 朝日新聞出版 p173補遺十二神将 :「新薬師寺」釈迦如来立像 ~清凉寺に伝わる生身のお釈迦さま:「京都トリビア X Trivia in Kyoto」木津川 :ウィキペディア第37番浄瑠璃寺 真言律宗 :「西国四十九薬師霊場」海住山寺 ホームページ酬恩庵 一休寺 ホームページ鹿鷺山 笠置寺 ホームページ橋柱山 大智寺 ホームページ行基 :ウィキペディア良弁 :「コトバンク」袋中 :ウィキペディア愛染明王坐像 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -3 酬恩庵(一休寺) 総門・浴室・一休禅師墓所・本堂・開山堂ほか探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -4 酬恩庵(一休寺) 虎丘庵・東司・庫裡・方丈と方丈庭園・鐘楼歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -3 岩船寺・白山神社歩く&探訪 [再録] 京都・木津川市 加茂町 -5 浄瑠璃寺
2023.09.07
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興福寺境内の通路から奈良公園に入ります。入口にこの案内掲示板があります。「浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成 特別展」として開催された「聖地 南山城」を鑑賞するのが今回の主目的です。 通路沿いに進めば、博物館の手前に、もう一つの案内板があります。左側は後にご紹介する「なら仏像館」の展示案内です。右は新館での特別展の案内。 奈良国立博物館の東側面から正面入口に向かいます。 エントランスの正面のガラス壁面に吊された特別展のバナーこの特別展は9月3日(火)で終了しました。9月1日、会期終了の直前に鑑賞してきました。覚書を兼ねたご紹介です。 事前に入手していた特別展PRチラシです。A4サイズの二つ折です。 チラシを広げた状態。後ほどこのチラシの図を引用します。 これは入場券半券。ここに、今回のメインと言える浄瑠璃寺の「阿弥陀如来坐像」が使われています。浄瑠璃寺の本堂に九体阿弥陀如来坐像が安置されています。かつて浄瑠璃寺を訪れ、九体阿弥陀如来坐像を拝観して以来です。修理完成後として、今回特別展の会場で拝見出来たのは九体中、その1・8の二軀でした。右がその1,左がその8です。上掲PRチラシの表紙に使われているのはその1、エントランスでは、入場券と同様に二軀が使われています。 鑑賞後に購入した図録の表紙には、「阿弥陀如来坐像その1」が使われています。この特別展のメインとなる二軀の阿弥陀如来坐像は、展示の全体構成でいえば、「第三章 阿弥陀仏の浄土」というセクションに展示されていました。すぐ目の前、間近に拝見できることがうれしい。さらに、坐像本体と光背が分離されて展示されていました。九体阿弥陀の修理の方針は現在の状態を維持するということがよくわかります。その1・8の光背をごく間近でみて、光背の意匠が異なることにも気づきました。浄瑠璃寺で拝見した時は、九体の阿弥陀如来坐像が安置されているその壮観さに圧倒されて、光背の細部を対比的に見ていなかったことに気づきました。これは今回の収穫の一つです。次回、浄瑠璃寺を訪れる時には、光背の違い並びに、阿弥陀仏の顔貌の微妙な違いに着目して拝見したいと思いました。 この特別展「聖地 南山城」でおもしろいアイデアと思ったのは、この「鑑賞ワークシート」が会場入口に準備されていたことです。 開くとA3サイズで、南山城の地図が中央に描かれた「南山城の宝物マップ~伝わった場所を解き明かそう!」というワークシートです。地図の周辺に仏像・図像・神像・鐘などのイラストが描かれています。周辺に描かれたイラストにはアルファベットが割り振られています。展示会場でこのイラストの宝物を見つけ、その所蔵先を確認して、地図の所蔵先の□にアルファベットを書き込むのです。その□の右下にはひらがなの一文字が記されています。次は、第2のミッションとして、書き込んだアルファベットに対応するひらがなを、アルファベット順にした一つのメッセージに当てはめていくという形です。完成させれば、あるメッセージを読むことができるというワークシートです。ターゲットは学齢期の人々でしょうが、大人も十分楽しめるワークシートです。 裏面は「南山城新聞」という形式になっています。「南山城」は京都府南部のなだらかな山間を木津川がながれる地域です。木津川沿いに仏教が伝来されましたので、伝来間もない頃からお寺が建てられた地域になります。今回は、この南山城から149件の展示が行われ、そのうち、仏像は46件展示されているとのこと。このワークシュート、ちょっと遊び心があっておもしろい企画です。この南山城新聞の記事を読んで知ったことが2つあります。1.奈良国立博物館公式キャラクターが「ざんまいず」と称されるあおじしであること。2.「木津」という地名は、木津川に木材が集まる港(津)があったことにちなむこと。特別展は新館の会場が7章に構成されて展示されていました。順に少し触れて参ります。<第1章 恭仁京の造営と古代寺院>奈良時代、聖武天皇が天平2(740)年に山背国の南端に恭仁京の造営を命じました。しかし、都として機能したのは天平16年まで。ごく短期間の遷都です。恭仁京の大極殿は、後に山城国分寺の金堂になったそうです。恭仁京跡碑のある辺りの現在の景色が、大きな写真パネルで掲示されていました。この最初のセクションでは、発掘調査での出土品-瓦類・塑像片・陶器片・経筒など-が数多く展示されていました。仏像では、海住山寺蔵の「十一面観音立像」(重文)が最初の展示です。 興味深かったのはPRチラシに載るこの二軀です。右側は「薬師如来坐像」(和束町の薬師寺蔵、重文)。左は「阿弥陀如来座像」(木津川市の蟹満寺蔵)。これらは平安時代9世紀頃の作です。 平安時代(10世紀)に造像された京都屈指の巨像である「十一面観音立像」も展示されています。木造・漆箔で、像高286.3cm。重文。宇治田原町の禅定寺蔵です。禅定寺蔵の「文珠菩薩騎獅像」も展示。木造漆箔、平安時代(10世紀)、重文です。絵巻では、「東大寺大仏縁起」下巻(重文)と「笠置寺縁起絵巻」上巻を見ました。ともに室町時代の作。笠置寺は笠置町に所在。<第2章 密教の広がりと山岳修験> 牛頭天王は神社の探訪で馴染みのある神名なのですが、私には造像として「牛頭天王立像」を見るのは初体験でした。京田辺市の朱智神社蔵。木造彩色。平安時代(10~11世紀)の作。木津川市の松尾神社蔵の「牛頭天王坐像」も展示されていました。木造彩色で平安時代(12世紀)の作です。こちらは坐像。ともに頭頂に牛頭を戴く姿ですが、前者は三面忿怒相に対して、後者は四面です。神道系では、高さ13~19cmという「大将軍神坐像」の小像が19?展示されていました。方位を司どる陰陽道の神だそうです。これも初めてか、記憶にはありません。木造彩色。平安時代(12世紀)。城陽市の巨椋神社蔵です。 「愛染明王座像」は、今までにいくつか拝見してきましたが、このように矢を天に向かって放つ姿を見るのは初めてです。この姿勢から天弓愛染と呼ばれるとか。木造彩色。平安時代(12世紀)の作。木津川市の神童寺蔵(重文)。密教と言えば、「両界曼荼羅」ですが、木津川市の海住山寺蔵の作を見ました。びっしりと描かれた諸仏像のお顔が可愛らしく描かれていたのが印象的です。江戸時代(18~19世紀)の絹本着色ですので色鮮やかです。細部を見る分には見やすかったです。あまり見かけないものとしては、「星曼荼羅」が展示されていました。鎌倉時代(13世紀)の作。星曼荼羅は「北斗法」の本尊として用いられたそうで、除災・延命を祈願する密教の修法として、平安時代中期以降に行われるようになったと言います。南山城村の真論院蔵。 「降三世明王立像」(右)と「金剛夜叉明王立像」(左)。ともに木造彩色で、像高155cm少し。平安時代(12世紀)の作。五大明王像中の二?。本作の像容は、概ね東寺講堂像に倣うと言います。興味深いのは、明王像の台座になっている部分の大きな違いです。京田辺市の寿宝寺蔵。図像としての不動明王像は今までにけっこう鑑賞してきていますが、「不動明王四十八童子像」という形式は初めて見ました。南北朝時代(14世紀)の作。木津川市の西明寺蔵。なぜ、四十八童子なのか。図録の説明によれば、不空訳『勝軍不動明王四十八使者秘密成就儀軌』に使者の数に由来すると考えられるとか。この儀軌では使者の像容はそれぞれ詳細に規定されていると言います。展示の掛幅は、各童子が白肉身で片手に蓮華を持つ形式のバリエーションになっている作品です。童子の顔を眺めていくと、少しずつ微妙に描きわけてあるのです。そこも印象に残ります。この辺りで一区切りにします。つづく参照資料*「聖地 南山城 -奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-」 展示品リスト* 図録『聖地 南山城 -奈良と京都を結ぶ祈りの至宝-』 奈良国立博物館 2023補遺浄瑠璃寺 :「木津川市」浄瑠璃寺 :「奈良寺社ガイド」南山城の古寺巡礼 :「観光疔」恭仁京跡 :「木津川市」五大明王牛頭天王 :ウィキペディア牛頭天王 :「コトバンク」五大明王 :ウィキペディア仏に関する基礎知識:五大明王(ごだいみょうおう) :「高野山霊宝館」密教の敵、許すまじ 「五大明王」空海が三次元化した密教の世界:「DiscoverJapan」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -1 往路途中の興福寺にて へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へ
2023.09.06
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=== 2023.8.22 === 南の空朝は晴れていましたが、14時頃に一時小雨が降りました。通り雨という感じ。写真を撮らずにいました。気づいて撮ったのが16時20分頃です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空空一面に銀鼠から素鼠色の雲が覆っていますが、一部青空がのぞいています。曇り空。 東方向の空稜線上空は青空が広がり、その上に銀鼠色の雲が浮かんでいます。 東方向の空18時25分近くに眺めると、稜線上空は雲と青空が逆転していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけても、雲の姿は様変わりです。青空がかなり見え、やわらかさを感じさせる雲が広がっています。 頭上の空ちょっと首をかしげて、右半分に着目すると、目を見開き口を大きく開けた人間の頭部をイメージさせるような雲が浮かんでいます。概ね、晴れのちくもりという一日。=== 2023.8.23 === 南の空12時40分近くに撮りました。雲が多いですが晴れです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 夏雲が広がっていると感じさせる雲です。 東方向の空稜線上空は雲が厚く覆い、この方向だけ見れば、天気予報はくもりという感じになります。 東方向の空17時50分頃に空を眺めると、稜線上空の上部には銀鼠色の雲が留まっていますが、稜線近くは白雲と青空が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 銀鼠色の雲が全体を覆っています。雲の層はさほど厚くはなさそう。 頭上の空 全体をみれば、晴れのちくもりという一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録された詩集「かなしきのうた」からの続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)2つ目に雲が詠み込まれているのは「エリ・エリ・レマ・サバタクニ」と題する詩です。この詩は、1ページ全体が一詩で、6節からなっています。第1節は 詩に生きよ 詩に生きよ これよりほかに我の生きゆく道なし という切実な決意が語られ、第4節に 子と仰ぐ 夕焼けの雲よ 涙ぐましきまでの愛惜よ と詠まれています。愛惜とは「失い(別れ)たくないという気持ちを強くもつこと」(新明解国語辞典第5版)という意味ですので、この一行は真民さんの心情の発露なのでしょう。何重にも重なる愛惜という気がします。生、子、そして詩、・・・・と。そのように受けとめました。第2節と第3節は、次の通りです。 生きることや難し 生きることや苦し 子を抱きて夕暮れの道を帰る ○ 四国に来て わが縋(スガ)るひと 釈尊のみ 釈尊ありて わが生や明日ありそして、第5節は次のように展開します。 死のうと思う日はないが 生きてゆく力がなくなることがある そんな時 大乗寺を訪ね わたしはひとり 仏陀の前に坐ってくる 力わき明日を思う心が 出てくるまで 坐ってくる最後の第6節が、次の4行で締めくくられます。 エリ・エリ・レマ・サバクタニ ああ あなたの声が 今日もきこえる「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」って何? 仏教の真言の一種?手許の数種の国語辞典には出ていません。この語句をネット検索してみますと、ギリシャ語だそうです。「『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』と訳される。十字架にかけられたイエス=キリストが叫んだとされる言葉。」(『デジタル大辞泉』小学館)とありました。(資料1) 無知な私!!さらに調べてみますと、新約聖書のマタイによる福音書27の46に、イエスがこの語句を大声で叫ばれたと記されています。旧約聖書の詩編22の冒頭にこの詩句が出てくることもわかりました。 (資料2) わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻(ウメ)きも言葉も聞いてくださらないのか。 真民さんは、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という言葉を己の心境を仮託するために使われたのでしょう。読者にインパクトを与える使い方ですね。この詩を独立し完結したものと理解すると、この言葉を発することとキリスト教世界とは直接的な関係はたぶんないでしょう。この言葉をいわば換骨奪胎して真民さんの心の世界で、神(仏)との対話に使ったものと私は解釈しました。「あなたの声」とは誰をさすのでしょうか。この詩の文脈から推測すると釈迦/仏陀ということになりそうです。そして、それは直接的には真民さんにとって「詩の神」の声なのでしょうか。少し脱線しますが、この詩の先に、「ねがい」と題する詩があります。その第2節には、次の詩句が刻まれています。 十字架にかかって 苦しみ亡くなられた基督 一枚のむしろの上で 息をひきとられた釈尊 この偉大な人達を思うて 励んでゆきたい 愚かなわが身を 磨いてゆきたい真民さんには、キリストも偉大な人として、己の心の内に釈尊とともに共存させていたように思います。己の道を突き進み開いて行かれた偉大な人という敬仰の対象だったのでしょう。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.24 === 南の空10時5分過ぎに撮りました。雨になりそうな気配の雲に覆われた曇り空。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 いずれの方向の空も似たような状態です。15時過ぎに雨が少し降り始めました。 南の空南西方向の空 15時5分頃に、窓際から二方向だけ撮りました。 南の空16時55分近くに空を見ますと、はや雨は通り過ぎ、曇り空が広がっています。普段通りに各方向の雲と空を撮れました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空は二層分化した空になっています。上層の間から青空が見られる状態です。曇り一時雨という一日でした。この後も天気は曇りが続きました。つづく参照資料1) エリエリレマサバクタニ :「goo辞書」2)『聖書 引照つき』 新共同訳 旧約聖書続編つき 日本聖書協会補遺「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:45~56) :「日本バプテスト連盟 富里キリスト教会」福音書を読むと、イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいますが、イエスが神の子なら、なぜこのようなみじめな叫びをあげたのでしょう。 :「学校法人上智学院 カトリック・イエズス会センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.05
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JR奈良線の奈良駅から三条通を東に歩み、猿沢池近く、興福寺南大門跡西側の階段を登ります。奈良国立博物館に行く時に私の好きな径路です。石段の途中の踊り場から、三重塔に向かう小径があります。 その出入口の近くにお地蔵さまが数多く祀られています。 真新しい感じの赤い涎掛けが目に止まり、久しぶりに三重塔前まで寄り道をしました。 この地蔵菩薩立像がここの中核になるようです。 左(西)側奧に、南円堂が見えます。 観世音菩薩石像もあり、お地蔵さまと同様に赤い涎掛けがかけてあります。 五輪塔でしょうか。その残闕もお地蔵さまと同じように扱われています。形はどうあれ、みなお地蔵さまなのでしょう。融通無碍です。地蔵菩薩群のその先に、 三重塔 再建時の復古建築で、平安和様建築です。かなり以前に公開された折に、1重の堂内を拝観しました。弁財天が祀られています。興福寺の中金堂など主な建物ができ、創建供養が行われたのが714(和銅7)年。その翌年に藤原不比等が死没。 716年 北円堂 726(神亀3)年 東金堂 730(天平2)年 五重塔 734(天平6)年 西金堂 813(弘仁4)年 南円堂という形で、およそ100年をかけて、興福寺の伽藍が完成したそうです。しかし、創建以来、7度の火災で焼失し、その都度再建、復興が行われました。最後の火災は、江戸時代、1717(享保2)年です。再建は文政期(1818~1829)に行われました。勿論、すべての伽藍がその都度再建された訳ではありません。1791(寛政3)年に刊行された『大和名所図会』に載る興福寺境内絵図には、中金堂は礎石だけ描かれ、講堂、西金堂もなく、三重塔が描かれているという姿です。 晴れた青空の下で眺めるのは良いものです。小ぶりですが優美な姿の塔です。 南円堂の南西側で、境内地の一段低い位置に建てられています。 石段に戻る際に見上げた南円堂。石段を上がりきると、左(西)側に、東面する南円堂の正面が見えます。 南円堂の近く、参拝路を挟み東側に、不動明王が安置されたお堂があります。通りがかったとき、丁度お勤めをされていました。 南円堂前で右折して、復興された中金堂の敷地の南側を通ります。 視野の切り取り方で、青空に浮かぶ雲の姿、その印象が変化します。中金堂の再建落慶が行われたのが、2018(平成30)年10月です。2014(平成26)年5月に再建上棟式が行われ、それから3年半の歳月をかけ、中金堂が復興しました。1717年に中金堂が焼失して以来、301年を経たことになります。 五重塔の手前まで行くと、通行止めのフェンスが設けてあります。 何時もの径路を歩めなくなりました。 仕方なく、五重塔前で右折して、三条通に戻ります。通り側から北を眺めた景色。五重塔前の参道は工事の一環なのか、道路にこんなシートが敷かれています。五重塔の背後、一筋東の通りを通って、何時もの径路に戻ることにしました。 奈良公園に入るまでに、「国宝 興福寺五重塔 保存修理工事」の通知立て看板が設置されていました。保存修理工事は令和13年3月に完了予定で進行中です。 通行止めの箇所がありますので、興福寺に行かれる方は、ご注意ください。9806興福寺を通り抜ける何時もの径路に戻り、「大湯屋」を右に眺めて、奈良公園へと向かいます。つづく参照資料*『奈良大和路 NEWブルーガイドブックス』 実業之日本社*『図典 「大和名所図会」を読む -奈良名所むかし案内』 本渡章著 創元社* 法相宗大本山 興福寺 ホームページ補遺大和名所図会 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画 興福寺は巻之2に掲載 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 興福寺の絵図 東側 (南円堂が描かれている) 興福寺の絵図 西側 (三重塔が描かれている) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -2 特別展「聖地 南山城」(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -3 特別展「聖地 南山城」(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -4 久しぶりの庭園散策(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -5 久しぶりの庭園散策(2) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -6 なら仏像館(1) へ観照&探訪 奈良市 奈良国立博物館に -7 なら仏像館(2) へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 奈良 興福寺境内を通り奈良国立博物館にスポット探訪 [再録] 奈良 興福寺国宝特別公開2013 南円堂・北円堂観照&探訪 奈良散策 -2 興福寺中金堂と諸堂の眺め探訪 奈良・興福寺 境内のお地蔵さまほかと境内点描観照 奈良の夕景 興福寺諸堂・猿沢池からの遠望・率川地蔵尊・こんなお話
2023.09.04
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=== 2023.8.19 === 南の空7時55分頃に撮りました。うろこ雲でしょうか。雲は広がっていますが晴れ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけて、さらに頭上の空にうろこ雲が広がっています。 東方向の空稜線上空の雲は、普段みるような様々な雲が層になって見えます。 東方向の空2時間後の9時45分頃に眺めると、稜線上空は雲の姿と色が様変わりです。稜線上は白鼠色がかった雲が立ち上がり、その上空には銀鼠色に近い雲が浮かんでいます。 南の空南西方向の空 西方向の空 上空の空うろこ雲の片鱗が西方向に見られるだけで、雲の姿は大きく変化しています。青空が半ばまで広がっています。 南の空17時過ぎに撮りました。やわらかいベールが広がっているような雲が見えます。半透明感がいい。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上には雲二片。後は青空景色です。 東方向の空18時25分頃に再度眺めると、青空を背景に素鼠色に近い雲が稜線から高く離れて漂っている景色に変わっていましt。 南の空南西方向の空 西方向の空 漂う雲には、またその形を変え、夕陽が映えて淡く色づいていました。 頭上の空=== 2023.8.20 === 南の空ふと気づき、11時10分近くに撮りました。朝から晴れ。雲がほぼなく、快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲がほぼなく、快晴です。 東方向の空他方向と比べると、稜線上空には夏雲が割と多く広がっています。 東方向の空17時15分頃に眺めると、稜線際に雲が見えるだけで、ほぼ快晴の空です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空大きな白雲の塊が見えますが、ぐるりと眺めてこちらも快晴と言えるでしょう。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録の詩集「続三昧」の次は、詩集「かなしきのうた」です。4つの詩に雲が詠み込まれています。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)この詩集では、詩の題に、リルケ、セザンヌ、ゴッホ、アンドレ・ジイドの名が出てくる詩があります。この詩集で最初に雲が詠み込まれ詩が「四十歳のセザンヌ」と題する詩なのです。 彼は肉体の放浪もやめた 精神の放浪にも訣別した 彼はただ描(カ)いた 日さえ照っていれば 燃えるように熱中した 彼はもう孤独ではなかった 光る樹木があり顫(フル)える草があり 美しい雲があり静かな川があり あらゆる呼吸が感じられた 描くことが生命であった 夜が明け日が暮れるまで描いた40歳のセザンヌ。セザンヌは1839年1月生まれ、1906年に没しました。1879年に40歳。1870年に普仏戦争があり、戦後にセザンヌはパリに戻り、オーヴェルに移ります。サロンへの出品は落選。1974年の第1回印象派展に出品します。1879年に制作拠点をパリから故郷エクスに戻します。(資料1,2)セザンヌは、後期印象派の中核4人中の一人です。ゴーギャン、スーラ、ゴッホ。セザンヌが最年長で、印象派の美学に最も深く関わったそうです。(資料3)40歳のセザンヌはどのような作品を描いていたのでしょうか。調べてみますと、 「開いた吹き出しのある静物」 1877-1879年 「三つの梨」 1878-1879年 「レスタックの眺望」 1878-1879年 「木の後のレスタックの海」 1878-1879年 「サンタンリ村から見たマルセイユ」 1870-1879年頃 「レエスタックからみたマルセイユ湾の眺め」 1878-1879年頃 「風景」 1879年頃 「自画像」3枚 1877-1880年頃、1878-1880年頃、1879-1880年 「レスタックとマルセイユ湾の眺め」 1978-1982年 「プロヴァンスの山」 1879年頃 「ポプラ」 1879-1880年 「ミルク缶とリンゴ」 1879-1880年 「リンゴとナプキン」 1879-1880年 「水浴」 1879-1880年 「水差し、ミルク缶、ボウルとオレンジの静物」 1879-1880年 「りんご、桃、梨、ぶどう」 1879-1880年頃 「リンゴとビスケット」 1879-1880年頃 「サント・ヴィクトワール山の広野」 1879-1880年頃 「レスタックの道路橋」 1879-1882年 「レスタック湾」 1879-1883年 「プロヴァンスの風景」 1879-1882年頃 「オーヴェル・シュル・オワーズの眺め」 1880年頃 「オリーヴ色の花瓶の花」 1880年頃 「花と果実」 1880年頃これらの作品群が40歳のセザンヌと重なりそうです。 セザンヌの代表作の一つとして取り上げられる風景画「松の木のあるサント・ヴィクトール山」(コートルード・ギャラリー蔵)は、1885-1887年に制作された作品です。(資料3)セザンヌは「印象主義の形態欠如を嫌い、自然を前にして美術館の古典的な作品のような構築された絵画を描くことを追求した。そのため、セザンヌは一つ一つの色面が光の感覚を伝えると同時に空間内における対象の位置、物質的存在感をも表す独自の制作法を作り出した」そうです。(資料4)真民さんの詩から脇道にそれましたが、この詩の理解を深める背景としてのお役には立つことでしょう。覚書を兼ねて・・・・。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.21 === 東方向の空 9時40分近くに撮りました。快晴!!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空の空だけが、他とは景色が異なります。稜線際に少し雲が見え、銀鼠色を薄くしたような空です。この後、京都・四条に。スマホのバッテリーがダウンしたために、予約を取りアップル京都店に出かけました。アップル京都店に入るのは初めての体験。アップルのロゴマークのシャツを着たスタッフに声をかけ、用件を伝えると、スマホ画面による予約確認がスムーズに行われ、2Fでの受付だとか。2Fでは、別のスタッフの応対。タブレット操作で手続きが進行。当方は質問に答えて行くだけ。交換作業時間が必要なので、受け取り来店時刻を告げられて、一旦店を退出。指定時刻に再度行くと、最初と同様の手順が必要でしたが、スムーズにスマホを受領できました。一件落着。ということで、帰宅後に空を撮ったのは16時15分過ぎです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲が少し浮かんではいますが、快晴と呼べる状態と言えるでしょう。 東方向の空18特5分過ぎに再び眺めて見ると、銀鼠色に近い雲が中空に漂っています。雲がかかってきたといえる姿です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空日本の伝統色の表現で言えば、大空の雲は、白鼠(銀色)、銀鼠色(錫色)、素鼠色が様々なグラデーションを生み出していると言えそうです。雲のグレーの一番濃い辺りが素鼠に照応する感じです。つづく参照資料1)『原色西洋美術事典』 監修:嘉門安雄・今日出海・富永惣一・林武・摩寿意善郎 編集:現代美術社 発行:教育出版株式会社2) ポール・セザンヌ :ウィキペディア3) ポールセザンヌの代表作・有名絵画(世界の名画・後期印象派) :「美術ファン@世界の名画」4)『カラー版 西洋美術史』 監修 高階秀爾 美術出版社 p151補遺オーヴェル=シュル=オワーズ :ウィキペディアエクス・アン・プロヴァンス :「Explore France」【視察レポート】南フランスの大人な街 エクス・アン・プロヴァンスの街歩き観光(フランス/2019年3月視察⑤) :「Teestyle」エスタック :ウィキペディアサント=ヴィクトワール山と大きな松の木 :「Salvastyle.com」隠れ名画 大きな松の木とサント・ヴィクトワール山(セザンヌ作):「世界美術館巡り旅」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.09.03
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京都市の地下鉄あるいは近鉄京都線の竹田駅で下車して、西口に出ます。 階段を下りると、歩道脇にこれらの案内板があります。 竹田駅の西南一帯は、院政の史跡「鳥羽離宮」が営まれた所です。 400m先 近衛天皇陵・安楽寿院 500m先 鳥羽天皇陵・北向不動院 800m先 白河天王陵 が所在します。 周辺案内の部分図。赤い長方形が現在位置。前の道路は南北方向になります。案内図に青色丸を付けた位置が今回の探訪目的、竹田の火の見櫓です。入手した情報では、現存する3箇所の火の見櫓の3つ目になります。現地を訪れて知ったのですが、火の見櫓の北隣りに「松尾神社」があり、南側は「中央緑地」と称する広場になっています。その南側に七瀬川(黄緑色の丸)が流れています。 歩道を南に進みます。 しばらく歩くと、西方向へ幅の広い道路が伸びています。「新城南宮道」です。竹田駅からは、「城南宮」(茶色の丸のところ)まで1.2km、さらにそこから500m先には、「鳥羽離宮跡公園・秋の山」があります。新城南宮道を右に見ながら、そのまま進むと、 道路は「東高瀬川」を横断します。 左側に竹田児童公園が見え、そのままさらに南進します。松尾神社の前を通り過ぎると、その南側が目的地です。 「竹田の火の見櫓」です。伏見区竹田狩賀町の中央緑地の一隅に所在します。 道路の西側には、「伏見消防団竹田分団 南部班器具庫」、 その南側に、「大慶山 西教寺」(浄土真宗本願寺派)が見えます。 歩道を進み、南側から撮った景色 真南から 火の見櫓の足元に、この案内碑が設置されています。この火の見櫓は、平成18年(2006)3月2日付で国登録有形文化財に指定されています。「竹田火の見やぐらは、京都市の南部に位置し、北は近鉄京都線、東は竹田街道、西は東高瀬川に囲まれた地域の中心部に、大正12(1923)年8月に設立した竹田村消防組織第二支部の装備品として建設され、以後、近隣町内の防火、防災活動に役割を果たしてきた。火の見やぐらは、江戸時代までは木造で作られていたが、近代に至り、製鉄技術の発展に伴って鉄骨造のものが建設されるようになった。しかし、都市環境の変化に伴い、現存するものは少ない。 竹田火の見やぐらは、鉄骨造としては初期の形態を残しており、また、構造部材も当時の国内の製鉄技術を知るうえで、貴重な文化財的建造物であることから、地域住民の保存要望を受けて、中央緑地内に移転、保存したものである。 構造形式 鉄骨造 台形平面 1.395m X 1.340m 高 さ 11.925m 構成部材 柱 山形鋼 (L-75x75x8mm) 横つなぎ材 山形鋼 (L-50x50x6mm) 斜め材 山形鋼 (L-40x40x5mm) 鋼材接合 普通ボルト及びリベット やぐら屋根 木造 塗装 コールタール塗り 平成17年7月 京都市 」(説明転記) 移設前の写真 南東側から 探訪の目的を達しましたので、北隣りの「松尾神社」を訪れてみました。 鳥居の背後に狛犬石像が見えます。 2つめの石鳥居 社殿は参道を左折して3つめの石鳥居の先にあります。 社殿前には、もう一対の狛犬石像が配置されています。 社殿 正面のガラス格子戸越しに拝見すると、室内に本殿が据えられて、その両側に随身椅像が安置されています。御祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)です。「当社の御鎮座の年代は詳らかではないが、当地を野田村と称せし頃野田村鎮守の神社であった。 伝えによると村の中心で一番高い所(現在地)に祀るようにとのご信託があって、当地に祀られて以来。近在近郷にいたるまで代々の崇敬の念篤く、広く信仰されることとなった。 ご神徳は火の神、水の神、安産の神として崇敬せられ、特に安産の神として、出産の御利益はあらたかで、女性の方々の信仰が篤く参詣の人が多い 松尾神社」(由緒転記) 社殿の唐破風屋根の正面に鬼板が置かれ、破風には、橘の紋章が装飾金具に使われています。 蟇股の意匠はシンプルです。 社殿にむかって、東側には境内社が二社並んでいます。左側は「久利加良辯財天」の扁額を掲げた弁財天社、右側は不詳。両者の中間前方に蝋燭立ての小祠が設けてあります。北東側には神馬像が置かれています。 社殿側から南を眺めた景色。左側の石碑には「忠魂」と刻されています。戦没者供養でしょう。手前の方形の窪みは、お火焚祭(11月18日)の行事が行われる空間のようです。 右側の小祠は地蔵堂でした。顔に化粧を施したお地蔵さまが安置されていました。 小さな池があります。 小規模な神社ですが、神社の参道は一筋東側の通りに出られるようになっています。東側の道路にも、入口に石鳥居があります。コンパクトな境内地ですが、整備された神社です。 火の見櫓は、この「中央緑地」の北東隅に位置します。南側も少し探訪してみました。 東西の道路を挟み、その南側に「七瀬川」(黄緑色の丸のところ)が流れています。川の傍に「七瀬川改修事業」の記念碑が建立されています。 もう一筋東の橋まで歩むと、こんな景色の川になっています。碑文を転記します。「七瀬川は、伏見区深草の大岩山に源を発して淀川一級河川東高瀬川に合流する河川で、東高瀬川合流点からから新谷の橋までの約3kmの区間が一級河川に指定されています。 その名の由来が、『七たびも流れを転じて瀬を作る川』とされるとおり、急激な屈曲を繰り返す七瀬川の線形は、下流の改進地区にたびたび大きな氾濫被害をもたらし、流域の住民を水との闘いの歴史を物語っています。 流域住民の強い要望に基づいて、国・府・市ではその抜本的な地水整備を図るため、平成4年に都市基盤河川改修事業として河道の改修に着手し、平成11年に東高瀬川合流点から国道24号線までの改修を完了しました。 七瀬川の改修には、全国的にも例の少ない上下二層式の河川形式を採用しており、下部のトンネル河川による治水能力の向上と上部河川による水辺空間の形式とを両立させています。 安全で水と緑の豊かな潤いのある生活空間の創造を目指した七瀬川改修事業は、改進地区における総合的なまちづくりと一体となって、地域の生活環境の飛躍的な向上を実現させました。 平成11年6月吉日 」七瀬川沿いの道を東方向に進めば、竹田街道に出ます。ここからだと近鉄京都線の伏見駅に近くなります。距離的な点で眺めると、中央緑地の位置は、近鉄京都線の竹田駅と伏見駅との中間辺りになるようです。これで、京都の火の見櫓とその周辺のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。補遺鳥羽離宮 :ウィキペディア鳥羽離宮 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」城南宮 ホームページ東高瀬川概要 :「京都市」七瀬川概要 :「京都市」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市東山区 祇園の火の見櫓と観亀稲荷神社 へ観照&探訪 京都市東山区・下京区 雲・法住寺・京博の特集展示・下京の火の見櫓 へ
2023.09.01
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=== 2023.8.16 === 南の空12時5分頃に撮りました。アレ!ゴミでもついていたのか・・・・。写真をよく見ると、 偶然にも、たぶん蝉が横切って行ったようです。部分拡大してみました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 普段あまり見かけない雲の姿です。 東方向の空稜線上空には、夏雲が重なるようにして浮かんでいます。明るめのグレーの雲がが良い感じ。 東方向の空16時10分頃に撮りました。雲の大半が去りゆき、青空が広がっています。 南の空南西方向の空 南から西方向も快晴状態に。西方向の空を撮り忘れました。 頭上の空も同様に雲はなし。 南の空 18時半頃にも撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上に雲が漂い、夕陽を受けて少しピンク色が映えていました。京都では、五山の送り火の行事が行われる日。夜、8時に如意ケ嶽の大文字の点火を最初に、順次点火されていきます。テレビのライブ中継を眺めていました。晴れた黒々とした空に文字が浮かび上りました。台風の通過後であり、夜空に映えて、美しい聖霊の送り火になっていました。関係者の方々はほっとされたことでしょう。=== 2023.8.17 === 南の空9時20分頃に撮りました。雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も雲に満ちた一日の始まりでした。 東方向の空16時25分頃に眺めると、雲の姿は変化すれど稜線上空は変わらず雲に覆われています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時15分頃に撮りました。少し青空が見えるように変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空一日という単位で考えると、くもりだった日ということですね。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録の「続三昧」という詩集には、雲を詠見込んだ詩がもう一つ載っています。「同行二人」と題する詩です。「どうぎょうににん」、そう、四国のお遍路さんの被る笠に記された言葉です。1ページを越える34行の詩です。 p106-107 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) 同行二人と書いた笠を頭に戴きながら 鈴鳴らしゆく遍路のみちも 淋しいにちがいないないが まだ何か仏と共に在るという安らかさが 今の私にはむしろ羨ましいくらいだと、己との対象を設定し、同行二人の人の心境・立場に触れた後、 詩と共に在るということが 何と苦しいことであるか と述べ、己の心境をさらに対比的に展開します。 ああ縋(スガ)って安心し立命し行く 遍路の人が羨 (ウラヤ) ましい 時雨だって 果てなき雲だって 一筋の煙だって 何もかも温かい弥陀の心のように 受け取ってゆく 一杖(ジョウ)一笠(リュウ) の人が羨ましいと、再び対比に入ります。この箇所に、雲が詠み込まれています。果てなき雲が弥陀の心につながると・・・・。それに対比して詩作に向かう己の苦しい心境が詠み込まれていきます。そして、詩の末尾は 詩と共に在る同行二人の 何と苦しいことかで終わります。お遍路さんは「私と弥陀」との同行二人、今の真民さんは「詩」との同行二人だと。「続三昧」の詩集を、真民さんは次の短詩で終えています。 むらさきの花 観世音菩薩さま あなたの持っていられる むらさきの花 その花の心を わたしは求めて旅しているのですさて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.18 === 南の空朝から曇りだったと思います。この日は、16時20分頃に一回だけ撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空グレーの雲は、その色調によりこちらの気分も変わりますね。色が濃くなっていくと、不安感を誘うような・・・・。つづく補遺坂村眞民記念館 公式サイト 坂村真民についてまずは、お遍路の基本を知っておこう :「いよ観ネット」四国四十八ヶ所霊場めぐり :「四国おへんろ.net」観音菩薩 :ウィキペディア京都五山の送り火の概要 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.29
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本町通の東、今熊野池田町に大谷高校/中学校があります。その北側はJRが谷底を走っているような地形であり、キャンパスの北西角近くに、鉄道線路を跨ぐ架橋があります。京都国立博物館に出かける時に私がよく利用する径路です。1月余前(7/22)に京博を訪れました。その往路、この橋の上から撮った雲の姿です。橋の上から、西方向を眺めた空の雲。右下に京都タワーがまるでアンテナのように写っています。 こちらは東方向の空を撮ったものです。東山の山並みが見えます。中央左の山が阿弥陀ヶ峰でしょう。橋を渡り、小路を北に抜けると、三十三間堂の塀があります。塀沿いに東に歩めば南大門。 南大門を通り抜けて、少し歩めば、法住寺の龍宮門が東側に見えます。その北に表門がありますが、こちらの門の方が好き。橋の左側に「法住寺殿蹟」、橋の前の歩道手前に「旧御陵正門」の石標が立っています。 石橋の右側奥に立つ石灯籠の竿には「法住寺法華堂陵前」と刻されています。その右奥に「あそびをせんとや うまれけん」と刻まれた碑が建てられています。 遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれむ、 遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそ動(ユル)がるれ 雑八十六首 359後白河法皇が愛した今様を編纂したとされる『梁塵秘抄』に採録されています。(資料1)碑文はこの今様のフレーズです。 この寺の背後に「後白河天皇法住寺陵」があります。「陵域の中央に天皇法体の像を安置した法華堂があり、床下地中に石槨(セキカク)が埋められているとつたえる」(資料2)。後白河天皇が上皇となり院政をおこなったときの仙洞御所がこの辺りで、法住寺殿と称されていたそうです。現在の法住寺から南西方向の道路を挟んで西側にある蓮華王院(三十三間堂)は、後白河上皇が御所内に建立させた仏堂。その造営にあたったのが平清盛です。現在の法住寺は、1621(元和7)年に後白河天皇の御陵(法華堂)を守護するために妙法院によって建立されたことに由来します。(資料2) 本堂本尊は不動明王で、身代わり不動とも称されています。 今回境内を訪れて、目に止まったのはココ! 本堂の前、北側にあります。護摩壇を築く空間だと思うのですが、結界の中にこんな造作がしてありました。私には意味不詳ですが、この形に惹かれます・・・・・。 境内から眺めたこちらが表門です。2つめに惹かれたのはその手前に見える コレです。遅ればせながら、覚書を兼ねてご紹介。 京都国立博物館館に立ち寄った第一目的は、特集展示「茶の湯の道具 茶碗」を見たいためでした。平成知新館の3階第1室に展示されています。(会期は9/10まで)一室だけの展示でしたが、入手した出品一覧によれば、前期展示は41口です。現在の後期は一部展示替えの予定です。茶道の作法は門外漢なのですが、茶の湯の茶碗を眺めるのは好きです。鑑賞して手許に残るのは会場で入手した出品リストだけ。図録は作成されていませんでした。今回の展示は、唐物茶碗、高麗茶碗、和物茶碗という大きな分類で、その種類や個性を概観できるという意図で展示企画されたようです。(資料3,4)上掲の案内パネルに使われているのは、上から順に「玳玻天目」(京都国立博物館館蔵)、「御本『日本』文字茶碗」(京都国立博物館蔵)、長次郎作「黒楽茶碗 銘ムキ栗」(重文、文化庁蔵)です。唐物茶碗と高麗茶碗では、天目、染付雲堂手、高麗、三島、刷毛目、堅手、井戸、伊羅保、織部、唐津などを冠する茶碗類が展示されています。独特の名称のものとしては、「蕎麦茶碗 銘 蛍」「斗々屋茶碗 銘 隼」「柿の蔕茶碗 銘 毘沙門堂」(これら三口、畠山記念館蔵)です。江戸時代に製作された和物茶碗には、技法や茶碗の図柄を組み込んだ名称が付けられています。例えば、野々村仁清作「銹絵水仙文茶碗」(京都・天寧寺蔵)、「色絵松竹梅注連縄宝尽文茶碗」(京都国立博物館蔵)というように。茶碗の種類による形状と情趣の差異、茶碗の風格と優美さの差異などを楽しめる展示でした。茶の湯の有り様についての意識の変化が、茶碗の世界の広がりにリンクしているのでしょう。ずらりと並べられた茶碗を鑑賞できるおもしろさです。 定点撮影しているものをやはり撮った後、七条通を西に進みます。 上流方向の景色 鴨川に架かる七条大橋目指すのは、堀川通の西、興正寺の近くです。興正寺は西本願寺の南隣りにあります。 安寧消防分団器具庫の表示が在るこの建物。ここが目的地。八百屋町に所在。 これが、京都市に現存する火の見櫓の一つとして紹介されていました。改めて出向いてみました。かなり以前にこの前を幾度か通り過ぎた記憶があります。その時には半鐘が吊してあったように記憶します。今は取り外されていました。やはり、半鐘がある方が様になりますね。京都市に現存する2つ目の火の見櫓を確認できました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『新訂梁塵秘抄』 佐佐木信綱校訂 岩波文庫2)『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p96-98,p107-1083)「京都国立博物館だより 2023年7・8・9月号」 京都国立博物館4)「特集展示 茶の湯の道具 茶碗 出品一覧・展示替予定表」補遺遊びをせんとや生まれけむ『梁塵秘抄』の本当の意味 :「短歌のこと」後白河天皇 :「ジャパンナレッジ」後白河法皇 :「鎌倉手帳(寺社散策)」京都市 :「火の見櫓図鑑」安寧(あんねい)消防分団 :「京都市消防局」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市東山区 祇園の火の見櫓と観亀稲荷神社 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 法住寺 -後白河上皇ゆかりの地- スポット探訪 京都・東山 法住寺のお地蔵さまと幸福観音スポット探訪 京都・東山 後白河天皇陵スポット探訪&観照 京都・三十三間堂 -1 本堂拝観、通し矢見物と回想スポット探訪 京都・三十三間堂 -2 東側境内(夜泣地蔵、法然塔、夜泣泉、池泉、鐘楼ほか)
2023.08.28
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=== 2023.8.13 === 南の空9時35分頃に撮りました。晴れた日の始まりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上に白雲が浮かび、青空が見えます。全空良好な天気です。 東方向の空16時35分頃に眺めると、ほんの少し雲が見えるだけで青空が広がっています。 南の空白雲の傍に、ちょっと変わった一群れの雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 こちらの方向も雲が少し漂うだけで、青空です。 南東方向の空だけに、白い大きな雲が浮かんでいました。=== 2023.8.14 === 南の空台風7号が徐々に近畿圏方向に接近しているという予報が出ていました。11時15分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 空には雲が覆っていますが、少し青空も見えます。。 東方向の空16時半頃に撮りました。稜線上は白っぽい雲で、その上に銀鼠色より少し濃い感じの雲が重なっています。上空にみえる方かこちらに近い雲なのでしょうか。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空くもり空が濃い色になってきていましたが、雨は降らずに推移。18時05分頃には雨が降っていました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向を撮るだけに。台風の影響でしょうか、この後も雨。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集に収録の「続三昧」という詩集には、雲を詠見込んだ詩がいくつか出て来ます。前回の「移り来し家の窓より」という詩の次は、「樹木と人間」という詩の中に雲が詠み込まれています。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)これは6節で1ページを占める詩です。 樹木には絶望はない 樹木には後退はない 樹木には停止はない 従って樹木には後悔はない という第1節から始まり、 まず私を喜ばせるのは木蓮 それも大木の白木蓮の見事さ 生きて春に会うことの嬉しさ それに続いて泉の辺(ホトリ)の桃が咲き やがて朴(ホオ)も白雲のような花をつけ 泰山木も女人のようにこの世を美しくする と第4節に雲が含まれます。 そして、樹木の言葉に耳傾け、人間の心を通わせようと詠みます。第6節の末尾は 「樹木に神を見出そう」というフレーズで締めくくります。 次は、「吉田海蔵寺を訪れて」と題する詩です。この詩には「小林朝治を偲ぶ」との添え書きがあります。これも4節で1ページを占める詩。第1節に雲が詠み込まれています。 詩を作る若き友五人 それにわたしとわたしの子供二人を連れて あなたが一生懸命一枚の油絵を描いたという 海蔵寺を訪れた 六月の夕べの曇りは重く 雨を含んだ雲が層々西へ流れていた この詩の記述から他にわかるのは、小林さんが、病院に勤めていた人であったことと、版画を彫っていたことの2点。作詞者は、小林さんの最後のさまをその夜初めて人伝に聞いたという事実。第4節には、次の箇所があります。一つは あなたの悲哀よりも あなたの純粋さに わたしは強く心ひらかれていた というフレーズと、 あなたの版画を見にゆこう あなたの悲しい鑿の跡よりも 版木に塗りつけた あなたのぎりぎりの美心に触れにゆこう という末尾。小林朝治さんって、どういう人だったのだろう・・・・。一歩踏み込んで知りたくなる。 この「続三昧」詩集には、「愛」と題する詩が6編収録されています。その一つに 愛は流れてゆく水のように 自然に結び合っていなければならない 岩があれば岩をめぐり 木があれば木をめぐり ささやきあい ほほえみあい 淵となり 瀬となり 雲を浮かべ 鳥を遊ばし なぐさめあい ゆるしあい 大海に注いでゆく川のように いつも無心でなくてはならない 一つに溶け合っていなければならない が収録されています。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.15 ===台風7号が近畿圏を縦断すると、刻々と朝から報道されていました。午前中、定期健診の予約日だったので、外来を受けつけているかの電話確認をした上で、出かけました。やはり、病院の外来受診は閑散状態。いつもより早く受診終了。通院の往復に雨が降らなかったのが幸いでした。 南の空南西方向の空 帰宅後、雨が降り始めました。11時過ぎに窓際から二方向だけ撮りました。 南の空南西方向の空 13時50分過ぎに撮りました。雨が引き続き降っていました。台風が和歌山、大阪、兵庫という南西寄りの方向に進路を取ったことにより、わが家のある地域は風もさほど強くなく、雨が降るくらいで台風が縦断してくれる結果となりました。しかし、この台風7号、各地に被害をもたらしていました。速やかな復旧を祈念します。つづく補遺坂村眞民記念館 公式サイト 坂村真民について小林朝治展 ~眼科医朝治が吉田で見た風景~ 吉田ふれあい国安の郷 :「宇和島」(美の履歴書:740)「めざし」小林朝治 あたたかな線、どこから:「朝日新聞DIGITAL」海蔵寺 :「八百万の神」宇和島市吉田海蔵寺 :「きんじろうの一歩」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.27
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7月に山鉾巡りに出かけた時、序でに探訪してきた場所のご紹介です。四条大橋から四条通を東(八坂神社の方向)に進みます。川端通から一筋東が縄手通(大和大路通)です。ここで左折して、次の一筋目を右折します。そこは「富永町」。冒頭の情緒ある町家風景が見えます。四条通から一筋北のこの東西の通りは、四条通が混雑していても、昼間は半ば眠っている街並みのようなものですので、人通りが少なくて歩きやすい。通り抜けるのによくこの経路を使います。この通りを東に進みます。北方向への2筋を眺めつつ、3筋目になる花見小路通を東に渡ります。つまり、富永町を通り抜けると、東隣は「祇園町北側」。 道沿いに進むと、北方向へ抜けて行ける最初の筋が見えます。この筋の入口の景色がこれ。東角のビルに「げんすけビル」と表示が出ています。この辺りは、夕刻以降に華やかになる場所ですので、昼間は静かな佇まいです。勿論、営業中のお店は点在します。この通りを北に上り、少し進むとT字路があります。東方向に進む道があり、地図で確認すると「新橋南通」です。新橋南通は東大路通に抜けます。 このT字路、つまり新橋南通の西端から北東側のビルの隣に「観亀稲荷神社」の朱塗りの鳥居が見えす。後で触れます。 新橋南通の西端突きあたりにこの建物が見えます。入口が2つ見ますが、右側が目指す場所への表門です。序でに、左側はスィーツのお店「仁々木 祇園本店」。 南東側から撮った景色開放された門を潜り、中に入ると通路の前方にこの「火の見櫓」が見えます。門前の道路からは、樹木と建物があり火の見櫓は見づらい位置になります。新橋南通を東から西に進んでくると、火の見櫓の上部が見えることと思います。火の見櫓について、たまたまネット検索していて、京都にも火の見櫓があるというブログ記事(火の見櫓図鑑:京都市)に出会いました。それがきっかけで訪れた次第です。祇園という地域は知っているようでいて知らない場所。祇園町北側は今まで八坂神社の方向への通り抜けに利用するくらいでした。祇園町北側の少し奥まった所に火の見櫓や神社があることを知りませんでした。 ここは火の見櫓の周囲に飲食店の建物が並び、その共有の広場、中庭空間になっています。 北の方向に抜けるごく幅の狭い通路がありますので、この広場には北と東からアクセスできることになります。未確認ですが、西に抜ける通路もあるようです。昼間でも結構風情を感じる空間。夜になれば、店々の灯火が入り、華やかな彩りの中でしっとりとした空間になることでしょう。 それでは火の見櫓にフォーカスしましょう。 地上には、屋根付きのこの空間。中央にテーブルが置かれていて、低い柵囲みです。補遺に取り上げたような使い方が行われているそうです。 「樂宴小路」という表示板が見えます。 半鐘が吊り下げてあります。中に分銅が見えますので、半鐘を叩くのではなくて、綱を引っ張って分銅を揺らせて鳴らすという形のようです。祇園町北側は、祇園東部と呼ばれる花街。調べて見ますと、明治維新までここには江州(現滋賀県)膳所の城主本多主膳正の京屋敷があったところです。膳所藩は享保7年(1722)年から洛中火消しを兼務することになり、町の防火用として屋敷内に火の見櫓を建てていたそうです。(資料1,2)明治3年(1870)の廃藩で京屋敷が取り払われた後、青楼が軒を連ねる花街となり、俗に「膳所裏」、祇園乙部、祇園東新地と呼び名が変遷して、今は祇園東部と呼ばれるようになりました。地名は祇園町北側です。(資料1)「ぎおん楽宴小路」は、平成6年(1994) にオープンしたゾーンだそうです。(資料2)この火の見櫓はかつての歴史を踏まえて、いわばシンボルとして建造されたのでしょう。火の見櫓の上部に登る梯子の類いは見当たりません。 「観亀大神」の扁額を朱塗りの鳥居に掲げた「観亀稲荷神社」です。 社殿手前に石の鳥居が立っています。 社殿の手前に狐の石像が配置されています。お稲荷さんの神の使いは狐ですので当然ですね。通常は狛犬一対ですが。狐の耳が特徴的。午前10時過ぎに訪れたせいか、社殿全面にシャッターが降ろされたままでした。情趣を削がれますが、防犯としては仕方がないのかも・・・・・。 石鳥居の左手前に手水鉢が設けてあります。この観亀稲荷神社は、江戸時代に膳所藩が京都の火消を担当した折に、火防(ヒブセ)の神として勧請されたそうです。(資料2,3) 境内からの眺め 南東側からの全景知らなかったスポットをまた一つ、探訪できました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東ー下』 竹村俊則著 駸々堂 p236-2372) ぎおん楽宴小路の火の見櫓@祇園北町・観亀稲荷神社そば。 :「朝は知恩院でラジオ体操!(の気分):by行者橋 渡3) 観亀稲荷神社 :「京都風光」補遺京都市 :「火の見櫓図鑑」いまは忘れられた “ゼゼウラ” は、町の歴史を伝えてくる:「京都発!ふらっとトラベル研究所」京都祇園楽宴小路 「敷居はひくく、こころは熱く」 YouTube「楽宴小路」。祇園北にある安らぎの空間。毎月開催される茶席。立派なお道具で味わう茶の世界 :「ネコのミモロのJAPAN TRAVEL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.08.26
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=== 2023.8.10 === 9時5分頃に撮りました。良い天気。ただし、熱中症警戒アラートが7月以来途絶えることなく連日続く状況です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空も朝からこの状態ですから、ほぼ快晴です。 東方向の空16時35分頃に眺めると、大きな横雲が子連れでゆったりと浮かんでいる感じに変化していますが、バリバリの青空です。 南の空 白雲が出っ張ってきています。南西方向の空 西方向の空 晴れた一日でした。=== 2023.8.11 === 南の空10時半頃に撮りました。この日も晴れ。前日よりも雲は活発。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲 東方向の空昨日の朝の雲の姿と比べると、稜線上空の雲はダイナミックな姿です。夏の雲という感じ。 東方向の空15時45分頃に眺めると、稜線上の雲の姿は様変わり。良い夏空景色です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空見える範囲の空で、全体の雲の姿のバランスが良い感じです。 南の空18時15分頃に、もう一度空を眺めると、雲が消えて快晴に。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空見事に見える範囲の空から雲が消え去っていました。こんな状態で空を見る事は滅多にありません。南から西方向が快晴でも東の稜線上は雲が浮游していることが普通ですので。さて、雲がたりにのつづきです。真民さんの全詩集に収録の「三昧」という詩集には、もう一つの詩に雲が詠まれています。「ペルソナ詩語抄」というタイトルのもとに、短詩がまとめて収録されています。その中に含まれます(p89)。「『ペルソナ』はわたしの出している個人詩誌である」(p86)と付記されています。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) ○しんじつ しんじつ恋しきものなれば 海の魚ともなりなまし しんじつ寂しきものなれば 夜の鳥ともなりなまし しんじつ苦しきものなれば 空の雲ともなりなまし せんなきものは現(ウツツ)なり 飛もかねつつ日を重ぬ 「しんじつ ・・・・・ なりなまし」というパターンを重ねていくところに引きこまれ、余韻が残ります。心の動きに向きあう真民さんの懊悩が響いてくるような・・・。ひらがなで記された「しんじつ」という表記がいいですね。漢字だと語句の選択に迫られます。例えば、手許の『新明解国語辞典』を引くと、「信実」と「真実」の二語が載っています。少なくとも、この二語の意味合いは分かちがたく「しんじつ」の中に含まれているように感じます。 「なりなまし」の「なまし」という表現がやるせなさを深めていくような・・・。 同辞書によれば、「な」は終助詞で「自分の主張・判断などを相手に納得させたり自分で確認したりなどする気持を表す」、「まし」は助動詞・特殊型で「[雅]事実でない(実現の不可能な)事を、実現したものと仮定することを表す」という説明が該当するのかなと思います。 「続三昧」という詩集が続きます。その冒頭に「移り来し家の窓より」という詩が収録されています。ここに「雲」が詠み込まれています。 p93 山の名も知らず 川の名も知らず 西も東もわからず ただ雲の去来を眺めて 移り来し家の窓より 永遠のエトランゼのごとき 砂漠なす心を ふとしも深く感じたり ああ見あぐれば 古き家に燕は巣をつくり 嬉々として春の子を生む準備をなせり そを見つつ わが心やや明るくなり ここに来つる わが生の不思議なる縁を 価値あらしめんと思えり 山も響け 川も鳴れ 雲も影を落とせ われはわが命のあらん限り 寄させのままに この世をば生きん あといくばくもなき世を己の詩の世界を追究し詩作に苦しむ真民さん。事情があり転居した古い家にて、巣づくりする燕を発見した時、「砂漠なす心」に大きな感動が湧き上がったのでしょう。その瞬間を詠んだ詩。エトランゼはフランス語。「外国からの旅行者。異邦人。よそ者」を意味します。己の詩をめざす真民さんは、世間的な目でみれば「よそ者」であり続けている状況だったという自己認識にあったのでしょうか。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.12 === 南の空11時5分頃に撮りました。この日も連続でほぼ快晴からのスタートです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上には夏雲がかかっていますが、青空が半ば以上見えています。 東方向の空17時35分頃に眺めると、稜線上空は青色一色。雲は消え去っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空夕刻には快晴の状態に。連続で快晴の空となりました。つづく補遺坂村眞民記念館 公式サイト 坂村真民について坂村真民 :「致知出版社」坂村真民のおすすめ詩文集 :「好きな本、おすすめ本、詩の紹介」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.25
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鯉山の駒形提灯黒主山からさらに室町通を下ります。六角通を渡れば、鯉山町です。 今年(2023)、この常胴幕「黒羅紗地紋入幕」が復元新調されたそうです。 「鯉山」は、龍門の滝を登りきった鯉は龍になるという「登龍門」伝説に由来します。昔は、「龍門の滝山」と呼ばれていたと言います。龍門とは、中国黄河の上流にあるという激流の難所のことです。鯉山の会所の飾り席もまた、細長い通路を東に入って行きます。ここはいつも通路を二分して、一方通行でUターンする形で飾り席にアプローチするやり方です。室町通に面した入口に「鯉山町席」という木札が掲げてあるのを目にしました。 会所の庭の手前に門扉があり、そこに幟が置かれています。開かれた門扉を入った左側(北側)に蔵があります。その奥(東)の北側が会所の飾り席です。 座敷の前に通路があり、その南側が細長い庭になっていて、鯉の文字を刻した瓦(鬼板)や石灯籠が置かれています。勿論、この時、左方向を見れば飾り席が拝見できます。 通路の突き当たりに小祠があり、右手前に手水鉢や石灯籠が置かれ、風情があります。飾り席を左に見つつ、ここでUターン。 座敷の東端、北東角には、山に載せられる朱塗の小祠と鳥居が安置されています。小祠には素戔嗚尊が祀られています。 東端の壁面前に、角飾金具と房飾りが展示してあります。 山の四隅を二段飾りにするので8つ並んでいます。 鳥居の左側には、左甚五郎作と伝わる大鯉が置かれています。巡行の折には、山の正面に立つ鳥居を大鯉が潜り社殿に向かう形に置かれます。この大鯉が立身出世を象徴しているとか。大鯉の上に「御山三番」と表示が出ています。今年の後祭巡行での順番が三番目という意味です。この巡行には、前祭と同様に、古来から「くじとらず」の山鉾がありますので、実際の巡行では先頭から第五番目で巡行することになります。飾り席の北側壁面には、見送が懸けてあります。後述するタペストリーの中央の図柄の左半分より少し幅広に切り分けられた部分図です。 見送の左側には、懸装品がズラリと一堂に展示されています。鯉山の懸装品は、西暦1600年頃、ブリュッセルで製作された1枚のタペストリーがベースとなっています。約200年前に購入されたもの。山組の大きさに合わせて、タペストリーが9枚に切り分けられました。生地が厚かったので、大工のノミで押し切ったと伝えられているそうです。このタペストリーの図柄は、ギリシャの詩人ホメロス作の長編叙事詩「イーリアス」に由来し、トロイ戦争の一場面「トロイ王プリアモスと王妃ヘキューバの祈り」を描いたものだとか。現在、オリジナルは京都国立博物館にて保管されていて、今では平成元年~同22年(1989~2010)に復元新調されたものが使用されています。懸装品の前方に、欄縁が並べて展示されています。 左胴懸。中央部の右上半分の図柄が2枚の波濤に飛龍文様と継ぎ合わせてあります。上部には水引が懸けてあります。これはタペストリーの上辺部分を切り分けたもの。 前懸。タペストリーの中央部の図柄の外周部の左右を切り分け、さらにそれらを上下に切り分けた上で、左右の上段を内側にして4枚を継ぎ合わせています。上部には、前額水引が懸けてあります。 右胴懸。中央部の右下半分の図柄が2枚の波濤に飛龍文様の幕と継ぎ合わせてあります。上部には水引が懸けてあります。これはタペストリーの下辺部分に相当します。 西側の襖の前には、見送が懸けてあります。今年は初めてスッキリと全体を見渡せる飾り席でした。会所を出た後、蛸薬師通で左折し東に進みます。 「橋弁慶山」は、烏丸通に出る少し手前までの橋弁慶町にあります。 この橋弁慶山は古来「くじとらず」の山で、後祭巡行の先頭を行く山です。第2番目と第6番目もまた「くじとらず」の山です。既に触れていますが、南観音山と北観音山がそれにあたります。今年から2番目と6番目を毎年交替しながら巡行することに決まったようです。 すぐ近くに会所があります。道路に面して1階・2階ともに戸が外されて飾り席になっています。2階の中央に、 弁慶と牛若丸の人形が安置してあります。この山の御神体です。 五条橋の上で、弁慶と刀を交え戦う牛若丸の場面が再現される山です。 2階の西側壁面には、水引と胴懸が懸けてあります。水引は「唐子嬉遊図の綴錦」。平成24年(2012)に復元新調。胴懸は一部しか見えませんが、円山応挙下絵の「加茂祭礼行列図綴錦」のようです。文化6年(1809)に制作された綴織胴懸を平成22年(2011)に復元新調。 1階を拝見すると、黒漆塗で金鍍金の擬宝珠や錺金具が装着され五条橋に見立てた橋が置かれています。これが山に搭載されます。牛若丸はこの擬宝珠の上にひらりと飛び乗り、足駄の前歯だけで立つ場面が再現されるのです。 西側の壁面には、懸装品が2枚懸けてあります。奥は旧前懸で、中国清頃の「雲龍波濤文様の綴錦」。手前は後懸で、江戸時代末期の「雲龍図刺繍」。 欄縁には錺金具が輝いています。波濤と飛鳥の文様です。烏丸通に出て、左折し一筋北に進みます。六角通との辻で西を見れば、 「浄妙山」の駒形提灯がすぐ近くです。骨屋町にあります。 山に懸けられた胴懸の一部。「エジプト風景図」。異国情緒に満ちています。 前懸「室内洋犬図」。これらは19世紀初頭のイギリス織の絨毯だそうです。 宵山までしか見られません。 浄妙山は、今年は第3番目の巡行です。巡行のくじ取りでは今年一番の巡行となります。 近くにあるビルの1階フロアーに飾り席が設けてあります。正面入口を入ったところから全景を眺める形です。 一番奥の屏風の前に見える一来法師(左)と浄妙坊(右)の人形が御神体です。背後の屏風が部分的にしか見えませんが、鈴木万年画「宇治川合戦図屏風」です。明治44年(1911)作。浄妙山は、『平家物語』の一節「橋合戦」の有名な場面に由来します。以仁王(1150~118)が平家追討に立ち上がったとき、源頼政(1104~1180)が加担します。そして頼政は宇治平等院に立て籠もり、平家軍と宇治橋をめぐる攻防戦を行います。源氏方に加わった三井寺の堂衆筒井浄妙明秀(浄妙坊)が名乗りを上げて宇治橋上で奮戦します。そこに一来法師が加勢します。一来法師は「悪しゅう候」と言うと浄妙坊の頭上を飛び越えて平家軍に躍りかかったというのです。その場面をダイナミックに具現化した山です。 右手前に見えるのは、前懸で、智積院所蔵の障壁画から長谷川久蔵筆の「桜図」です。後懸の長谷川等伯筆「楓図」とともに、平成18・19年(2006・2007)に新調されたもの。前懸の下には、他の山鉾と異なり、水引として宇治川を象徴する波濤文様の木製彫刻が使われていて、欄縁と一体化されています。前懸の奥に、黒漆塗で金鍍金擬宝珠や錺金具を装着した橋が置かれています。宇治橋に見立てた橋です。橋合戦に模して橋上に多くの矢が突き刺さっています。橋の背後の壁側に懸かる懸装品は見えませんが、橋の前に置かれた木札に「琴棋書画図 ビロード胴懸」と記されています。かつて使用されてきた胴懸で、当時珍しかったビロードで織られたものでした。そこで「びろーど山」とも呼ばれたと言います。橋の左奥側には、新調された胴懸が懸けてあります。長谷川等伯原画の柳橋水車図です。昭和58・59年(1983・1984)からこちらが使われています。この図は宇治橋を大胆な構図で描いたものです。まとめながらふと思ったのは、橋に擬宝珠が装着されるようになったのはいつ頃だろうかという疑問です。『平家物語』で語られた「宇治川合戦」での宇治橋や弁慶と牛若丸が戦ったという五条橋に擬宝珠が使われていただろうかという点です。江戸時代の町衆は、見立てとして橋を山に搭載し、祇園祭の山の豪華さ、華麗さを演出しようとしたのかもしれません。少し調べてみた範囲では、遺例として宇治上神社本殿内部(平安後期)や興福寺東金堂(室町)などに擬宝珠高欄が実在するそうです。(資料1)一方、狩野永徳<上杉本洛中洛外図屏風>のデジタル画像や図録をみる限りでは、四条橋、五条橋に擬宝珠を描いていません。橋の柱の上端には方形の厚板が取り付けてある感じの描き方です。この厚板は柱上端部の保護のためという印象を受けます。(資料2,3)一つ、課題が残りました。浄妙山から再び烏丸通に戻り、北に上がります。 一筋北が三条通で、通りを越えると一筋北の姉小路通寄りが場之町です。烏丸通のここに「鈴鹿山」があります。 この真松に巡行当日絵馬が付けられます。唯一鈴鹿山だけで行われているとか。また、山の前面に朱塗りの鳥居も立てられます。伊勢国鈴鹿山に祭られる神を題材にしています。 今年の巡行は第9番です。姉小路通と烏丸通の辻の南西角に会所があります。御神体は瀬織津姫命(鈴鹿権現)の等身大人形。黄金に輝く立烏帽子をかぶり神面を付け、大長刀と中啓を手に鈴鹿峠の悪鬼退治をした女性の神の姿で表されています。鈴鹿御前とも呼ばれます。最後にこの山を巡った時刻にはまだ会所の門が閉じられていて、案内に御朱印受付を数時間後の時刻で掲示してありました。今回は拝見を断念、会所の飾り席や蔵の御神体を拝見出来ずに終わりました。これで、後祭の山鉾巡りを終わります。翌日の後祭山鉾巡行は用事が重なり観覧できませんでした。残念。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*鯉山でいただいたリーフレット「海を渡り日本へやってきたタペストリー」*鯉山 :「祇園祭」*鯉山町衆 ホームページ タペストリー *橋弁慶山 :「祇園祭」*橋弁慶山 オフィシャルサイト*浄妙山 :「祇園祭」*鈴鹿山 :「祇園祭」1) 組高欄・跳ね高欄・擬宝珠高欄とは?|奈良巡りで学ぶ、和風モダン建築の高欄 :「大和モダン建築」2) 狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》 金雲に輝く名画の謎を読む──「黒田日出男」 影山幸一 アート・アーカイブ探求 :「artscape」3) 『国宝 上杉本 洛中洛外図屏風』 発行 米沢市上杉博物館 補遺浄妙山保存会 ブログ鈴鹿山 :「京都通百科事典」【鈴鹿権現】祓戸の瀬織津姫 ちまきのカタチ・考【祇園祭 鈴鹿山伝承より】 :「ものづくりとこだまの国」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 大船鉾 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 南観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 屏風祭・北観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 7回のシリーズでご紹介
2023.08.24
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鷹山から三条通を東に進み、室町通を左折して、北にある「役行者山」から山鉾巡りを続けます。室町通を北に入ると、そこは「役行者町」。一筋北の姉小路通寄りに「役行者山」があります。手前にテントが仮設されていて、 訪れた宵山のこの日、午後2時ごろから、「護摩焚供養」の行事が行われる予定でした。護摩壇が築かれていて、椅子には大きな獣皮が置かれています。敷物としてでしょう。この行事までには2時間余ありました。以前に拝見していますので、今回はスルー。山の傍まで行って、この行事のことを思い出しました。修験道の大本山聖護院から、山伏姿の僧が来臨され、読経、聖矢を放つ儀礼、護摩焚きが行われます。 北西側から北東側から 懸装品に透明の保護カバーが懸けてあるのがちょっと残念。今年の後祭山鉾巡行では11の山鉾中、第8番目になります。すぐ傍に会所があります。会所が新築されたことにより、蔵に通り抜ける通路沿いに懸装品などの常設展示場が設けられています。肉眼で拝見するのには便利なのですが、写真を撮るのには少し不便です。ハンディなデジカメのズーム機能で撮ったのは焦点ぼけでNGでした。一応撮れたのが次のものです。 見送の「金地唐美人図綴錦」。昭和57年(1982)から使用の復元新調品。オリジナルは中国明朝の官工場で織られた綴錦です。 水引は西山勘七作の唐子遊図。西山勘七は綴錦の名手とうたわれた人と言います。前懸は牡丹胡蝶図と雲龍文様との三枚継ぎ。平成9年(1997)に復元新調。 掛幅には、「南無神変大菩薩」と記されています。神変大菩薩は役小角、別名役行者のことです。神変大菩薩は、役小角の没後千年以上後の寛政二年(1799年)に当時の光格天皇から贈られた諡号だそうです。(資料1,2)掛幅の前に、金幣が置かれています。 応仁の乱前から現在までの「祇園会山鉾分布図」が展示されています。祇園祭の山鉾の変遷を知る上では、貴重な資料の一つになることでしょう。通路を通り抜けると庭に入り、蔵が2つあります。 手前の蔵には、御神体が安置されています。正面からの全景。 中央に、役行者が見えます。巻き上げた御簾の上部に「神変大菩薩」の掲示が見えます。向かって右は「葛城神」です。巡行の時に、役行者は正面の洞に、帽子・掛絡・経巻・錫杖を持って座した姿になります。その両側に葛城神と一言主神が立ち姿で安置されます。 向かって左が「一言主神」です。鬼形で赤熊をかぶり手に斧を持つ姿です。この山は、役行者が一言主神を使い、葛城と大峰の間に橋を架けたという故事に因んでいます。 扉の上、長押のところに、法輪が象られています。 今まであまり意識していなかったのですが、紅白の提灯が左右に吊り下げてあります。そこに描かれた図柄。これは何でしょうか。私にはわかりません。通路を東に進めば、突き当たりに 「役行者山」と記されたもう一つの蔵 蔵の扉の南側に置かれた「役行者神腰掛け石」。傍に駒札が立ててあります。 蔵の南西、庭の端に井戸が見えます。こちらも注連縄が掛けられています。室町通から会所の通路を入り、東方向に奥に進み、2つめの蔵前で突き当たると、北側から姉小路通に出る経路になっていて、一方通行のスムーズな流れができていました。姉小路通から室町通に戻り、南に下ります。向かうのは黒主山です。 三条通を越えて烏帽子屋町に入ると、まず目を引くのがコレ! 室町通の西側にこの巨大な鯉の群泳図の幟が今年も展示されています。 その先に「黒主山」の駒札と駒形提灯 山の舞台には、前部に桜の木が立ち、後部の洞の上に真松がたっています。この左側(東側)のビル前にテントが仮設され、ビルの入口を入ったフロアーが会所の飾り席です。 中央後部に、御神体の人形、大伴黒主の立像が安置されています。謡曲「志賀」を題材にしたのがこの黒主山です。 大伴黒主が志賀の山桜を仰ぎ眺めている姿です。黒主は平安時代の歌人で六歌仙の一人。 寛政2年(1789)5月辻又七郎狛元澄作の銘があるそうです。 白髪老人姿の黒主の背後には、 向かって左側に牡丹鳳凰文様の見送が懸けてあります。平成16年(2004)に復元新調されたもの。 その右隣りに、こちらは一層みづらいのですが、もう一つの見送で、宝散し額唐子嬉遊図です。こちらも復元新調品。 向かって右側の壁面には、上部に水引と二番水引が懸けてあります。水引は雲龍文様の繻珍。 下部の手前は前懸で、五爪龍文様錦です。これは萬暦帝即位の折の御服と伝えられる古錦を復元新調した作。 胴懸で、草花胡蝶文様の綴錦。昭和58年(1983)の復元新調。 畳の上には欄縁がまとめて展示されています。黒漆塗に四季草花文様の鍍金錺金具が施されています。元治元年(1864)作。 室町通の南側から撮った駒形提灯です。黒という文字の書体が特徴的です。この後、室町通の南にもう一つある「鯉山」に向かいます。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*役行者山 :「祇園祭」*祇園祭 役行者山保存会 ホームページ*黒主山 :「祇園祭」*黒主山保存会 ホームページ1) 神変大菩薩 :「コトバンク」2) 神変大菩薩 :「高野山真言宗 放生寺」補遺本山修験宗総本山聖護院門跡 ホームページ役小角 :ウィキペディア一言主神 :「コトバンク」葛城一言主神社 :「御所市」葛城之一言主之大神 神名データベース :「國學院大学」大伴黒主 :ウィキペディア揚蹟めぐり 志賀 :「謡蹟めぐり 謡曲初心者のためのガイド」宝生流謡曲 志賀 :「郡山の宝生流謡会のページ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 大船鉾 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 南観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 屏風祭・北観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 7回のシリーズでご紹介
2023.08.22
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八幡山の駒形提灯六角通を越えると、三条町です。ここに「八幡山」があります。 山には、宵山までしか見られないかつて使われていた見送が付けられています。これも展示の一環でしょう。すぐ傍に、八幡山会所があり、細長い通路を東に進むと、飾り席が設けてあります。 飾り席の西端から眺めた景色。飾り席の半ばまでが撮れています。右端に見えるのは、今は保存されている懸装品の一部です。 正面奧の壁面に、水引と前懸、その前に金幣が置かれています。上部の水引は、文化6年の旧水引を参考に昭和61年に新調された作。前懸は、中央部に慶寿裂(ケイジュギレ)が見えます。漢詩の文字を織り込んだ綴織。金幣の両側には、山の四隅に飾る房を掛ける角飾金具と房飾りが並んでいます。 金幣立てには、写実的な鳩が描かれていて、後にご紹介する鳩と照応している感じです。その手前には欄縁が見えます。 欄縁の装飾金具 手前には、座敷に敷かれた赤い毛氈の上に、「八幡山記録」、巻物形式の文書が展示されています。私の見ている範囲では、八幡山で拝見する位です。歴史の一端を感じます。 見送の房懸け金具です。並ぶ二枚で一組です。文様が異なります。天保8年作。 正面に房飾りが並んでいます。上段は山の四隅の房懸金具と房飾り。下段は見送の裾の房懸金具と房飾り。こちらは霊芝文様の金具です。数歩、奥に進みます。 右側は八幡山を担ぐ棒の先に装着される「笹文様轅(ナガエ)先金具」です。前後方向には4本の轅が並びます。その両端に装着されるのでしょう。左側のシンプルな金具は、側面方向に並べて取り付けられる担ぎ棒の先端に装着されるものと思います。山の側面にも4人ずつの担ぎ手が配置されます。左上の金具は調べてみますと、房懸金具のパーツのようです。 その先の展示はこんな感じです。 見送は日輪双鳳の帽額付童の柄の綴錦です。 左が左甚五郎作の木彫胡粉彩色の鳩。右が復元新調された鳩。こちらが巡行で使われます。 黒漆塗の欄縁に装着される雲鶴文欄縁金具です。奥に欄縁の角に装着される雲文金具。手前に飛翔する鶴の様々な姿が見えます。脱着可能な鶴型金具は7点あり、8羽の鶴の姿が鍛造鍍金で製作されているとのこと。天保9年(1838)伝河原林秀興作作。 童子姿の蝋燭立て。彩色された童子が蝋燭を捧げている姿なのですが、この童子は何を見つめているのでしょう。毎年のように拝見していつも思うことです。 東端の壁面は左右の胴懸が半ば重なり、懸けてあります。聖獣三態像の胴懸です。見えるのは、奥側が唐獅子で、手前の半ば隠れているのは獏の図柄です。後、麒麟の図柄があります。平成2年(1990)の復元新調。 右側が見えませんが、奥の壁面には藍地雲龍文様蝦夷錦の見送が懸けてあります。 八幡山には、巡行当日、舞台にこの総金箔の社殿が据えられます。天明年間(1781~1788)の製作と言います。そして、この地元・八幡宮に祭られる八幡宮から御神体を勧請して巡行します。その前に、「八幡宮」の扁額を掲げた臙脂色の鳥居が置かれます。この鳥居の笠に上掲の一対の鳩が向かい合う形で止まるように飾られます。夫婦円満のしるしとされるそうです。 会所の飾り席前から振り返り、北側をみますと庭に八幡宮が祭ってあります。京都市下京区にあった「若宮八幡宮」は東山区の東山五条に遷されたのですが、この若宮八幡宮の分祀だそうです。この社殿から勧請するということなのでしょう。 会所の通路を出て、山を北西側から撮った景色。宵山までの鳥居には「八幡山」の扁額が掲げてあります。この三条町では、別の町家の座敷を会場に、八幡山保存会の屏風祭が行われています。勿論、巡って拝見します。入口を入った手前の座敷には 「摺物貼交(スリモノハリマゼ)屏風」です。摺物と称される浮世絵を屏風に貼っています。摺物は非売品で、趣味人たちが出資して自分好みの版画を作らせ、贈り物として仲間内に配ったと言います。 これは左側の屏風の上から2つ目の摺物 太宰府の宮小路康文が明治30年5月に揮毫した書を屏風に仕立てています。菅神博覧古言云 藤原道真公は広い知識があり、古言にいう主聖臣賢天下盛 支配者が知識に優れ、家臣がかしこければ天下は富み栄える君明臣直国之福也 君主が賢明で、家臣が実直であれば国はこれ幸いである父慈子孝夫信妻貞 父が慈悲深く、子が孝を尽くし、夫が誠実で、妻が貞淑なら家之福也 家は幸いである 岡本豊彦筆「高士吟嘨弾琴図」高士とは、世俗を離れて隠棲している人物。中国の二人の高士が琴を弾き詩歌を吟じている場面です。岡本豊彦(1773~1845)は江戸時代後期の四条派の祖呉春に学んだ絵師。 奥の座敷には、 尾形光琳筆の「光琳百花図屏風」がが展示されていました。これらもまた、年に1回拝見できる八幡山保存会所蔵の品々です。新町通と三条通の辻で右折して、三条通を東に入れば、衣棚町です。 「鷹山」復興間なしの鷹山の晴れやかな姿が見えます。鷹山は昨年、令和4年(2022)に、196年ぶりに巡行復帰しました。今年が巡行復興2回目になります。 後懸 上掲の後懸と前懸は、アンティークのトルコ絨毯を西アジアから仕入れた舶来品。反対側に回ってみましょう。 鷹山の御神体は、鷹匠、犬飼、樽負です。飾り席を拝見するために並んでいる人の列が長かったので、今回は拝見をやめました。巡行復帰以前の時点で拝見しています。以前に節ブログ記事にてご紹介しています。 左右の胴懸は、イランの工房で製作されたペルシャ絨毯。2年以上かけて新調されたそうです。 一番水引は「金地麒麟図紋織」、二番水引は「紺地瑞鳥文様錦織」、三番水引は「白地桐紋唐草金襴紋織」です。2022年に新調されました。 一巡しました。鷹山は、三条通に山の舞台に上がる階段が設置されています。毎年使用できる組立式の階段のようです。 巡行の先頭を行く幟 駒形提灯 鷹山の正面側の景色 前後の赤提灯に墨書された字の書体が異なります。おもしろい。この後、室町通の山を巡ります。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*八幡山 :「祇園祭」*八幡山かわら版 ホームページ祇園祭の山鉾「鷹山」復活へ トルコじゅうたんも活躍*鷹山 :「祇園祭」*鷹山保存会 ホームページ*約200年ぶりに復活した「祇園祭・鷹山」。今後注目の見どころを紹介 みちくさガイド :「星野リゾート」補遺八幡山所蔵品 <祇園祭・研究資源データベース> :「Digital Humanities Center For Japanies Arts and Cultures」鷹山懸装品 <祇園祭・研究資源データベース> :「Digital Humanities Center For Japanies Arts and Cultures」祇園祭の山鉾「鷹山」復活へ トルコじゅうたんも活躍 YouTube祇園祭・鷹山が水引など3点新調(2022年4月5日 京都市中京区) :「京都新聞」196年ぶりに蘇る祇園祭「鷹山」。復興に尽観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ力する弁護士の、平和と疫病退散の祈り :「日本財団ジャーナル」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!83(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 大船鉾 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 南観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 屏風祭・北観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 7回のシリーズでご紹介
2023.08.21
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=== 2023.8.7 === 南の空15時25分頃に撮りました。午前中に撮るのを失念。南西方向の空 西方向の空 東方向の空いずれの方向も曇り空。 東方向の空18時20分過ぎに眺めるとくもり空のまま。すこし雲の姿に変化があります。 南の空南西方向の空 西方向の空 一日、くもりでした。=== 2023.8.8 ===9時25分頃には雨が止んでいました。早朝に雨が降ったのでしょうか。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空雲の姿を見ると、雨が降るときの空模様という感じの雲です。 東方向の空17時過ぎに眺めると、銀鼠色はそれほど変わりませんが、雲の姿は大きな塊りの雲になり、青空が少し見えます。 南の空雨がふることはなく、曇りから晴れに変化。白雲が浮かび青空が見えるように。南西方向の空 西方向の空 くもり後晴れという天気になった一日です。さて、雲がたりのつづきです。真民さんの全詩集は、「三昧」という詩集が続きます。この中に「八木重吉氏に」と題する詩が載っています。 (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) あなたが生きていたら 手を取りあって話したい気がする 林檎をむきあって食べたい気がする 一輪の花の心を二人で語りあいたい気がする 夕焼けの雲の下に黙って坐っていても 温かく心は通う気がする でもあなたはもうこの地上へはおりてこない 手を握りあうことも 林檎を食べあうことも 花を見雲のかがやきを語りあうことも できなくなってしまった ああせめてあなたのいる天国の夢でもみよう あなたと一緒に天国の園でも散歩しよう そう思ってあなたの詩集を 今日も枕べにおいて寝る 八木重吉氏って誰? 最初の疑問。詩を読むと「あなたの詩集」と記されています。詩人で、既に亡くなった人である。真民さんは八木重吉の詩集を介して、重吉さんと心の対話を繰り返していても、実際に会う機会がなかったのかなと感じました。少し調べてみました。八木重吉(1898-1927)は詩人であり英語教師。結核により29歳で没した。詩集『秋の瞳』(1925年)を刊行した。学生時代にキリスト教の洗礼を受けた人。(資料1,2)一方、真民さんは、1909年生まれで、熊本県立玉名中学校を経て1931年に神宮皇學館を卒業。1927年に没した八木重吉さんとは会う機会はなかったでしょうね。(資料3)八木重吉の詩集『秋の瞳』は「序」から始まり、短詩が続きます。その中に、空と雲の絡みで言えば、次のような短詩が含まれています。(資料4) 息を殺せ 息を ころせ いきを ころせ あかんぼが 空を みる ああ 空を みる おほぞらの こころ わたしよ わたしよ 白鳥となり らんらんと 透きとほつて おほぞらを かけり おほぞらの うるわしいこころに ながれよう しづかな 画家 だれでも みてゐるな、 わたしは ひとりぼつちで描くのだ、 これは ひろい空 しづかな空、 わたしのハイ・ロマンスを この空へ 描いてやらう 無造作な 雲 無造作な くも、 あのくものあたりへ 死にたい 大和行 大和の国の水は こころのようにながれ はるばると 紀伊とのさかひの山山のつらなり、 ああ 黄金のほそいいとにひかつて 秋のこころが ふりそそぎます さとうきびの一片をかじる きたない子が 築地からひよつくりとびだすのもうつくしい、 このちさく赤い花も うれしく しんみりと むねへしみてゆきます けふはからりと 天気もいいんだし わけもなく わたしは童話の世界をゆく、 日は うららうららと わづかに白い雲が わき みかん畑には 少年の日の夢が ねむる 皇陵や、また みささぎのうへの しづかな雲や 追憶は はてしなく うつくしくうまれ、 志幾の宮の 舞殿にゆかをならして そでをふる 白衣の 神女は くちびるが 紅いこの後、「彫られた 空」「夾竹桃」「雲」「在る日の こころ」「痴弱な手」「胡蝶」「おほぞらの 水」「空が 凝視てゐる」「むなしさの 空」「こころの 船出」「追憶」「鳩が飛ぶ」「怒れる 相」「白い 雲」「春も 晩く」「ひとつの ながれ」「空と光」という短詩にも、空、あほぞら、雲が詠み込まれています。この詩集に、「白き響」という短詩が含まれています。 さく、と 食へば さく、と くわるる この 林檎の 白き肉 なにゆえの このあわただしさぞ そそくさとくひければ わが 鼻先きに ぬれし汁 ああ、りんごの 白きにくにただよふ まさびしく 白きひびき真民さんが「林檎をむきあってた食べたい気がする」との一行を記すのは、この「白き響」を連想していたのかもしれないなと感じます。最初に、真民さんの詩集『六魚庵天国』を引用しました。参照の全詩集・第一巻の「あとがき」の冒頭には、「この天国ということばは、キリスト教でいうような天国ではなくて、今にも風に吹き飛ばされそうな小さい家に、妻と三人の子たちがいる。そこだけが天国、つまりわたしをやすらかにさせ、生きる力を与えてくれる、そういう処だという意味の天国なのである。その頃は、信仰的なものは殆どなかったので、地上の小さな天国、幸せの住み処という特別な思いをこめて名付けたのである」と記されています。しかし、この「八木重吉氏に」の詩では、キリスト教での天国を意味しているのでしょう。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.9 ===朝、雨が降っていました。晴れで陽が沈んだのですが、どこかの時点で雨に変化したのでしょう。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ撮りました。 観測経験では、こういうグレーの布を広げたような雲のときは雨の確率が高い気がします。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空15時45分頃に撮りました。その後に雨は止み、午後はくもり空が続きました。つづく参照資料1) 八木重吉 :ウィキペディア2) 八木重吉の年譜と文学活動 :「八木重吉記念館」3) 坂村真民先生プロフィール :「蓮華院誕生寺」4) 秋の瞳 八木重吉 :「青空文庫」補遺八木重吉記念館 ホームページ八木重吉 #詩 #朗読 YouTube 八木重吉の詩集【秋の瞳】より「白き響/ほそいがらす/白い枝/秋」八木重吉/秋の瞳より7詩#朗読#詩 YouTube【読み聞かせ】八木重吉 名詩10選、元放送局アナウンサーの大人の朗読 睡眠導入、作業時間にも。【心豊かな人生にもっと朗読を!】 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!83(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.19
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新町通を上ります。蛸薬師通との辻を越えると六角町。北観音山の手前に、山鉾巡りをするたびに通りから拝見する屏風飾りがあります。一つがこの町家です。通りに面して開放された窓越しに眺める座敷には、南北両側に屏風が立てられています。 山の精巧なミニチュアもすばらしい 西億の座敷にも屏風が飾ってあります。その西の中庭までが開放されて、屏風祭が行われています。手前の生花が適度な目隠しの役割も果たしています。京都特有の間口が狭めで奥行の深い町家の様子が見て取れます。 ユーモラスなお多福像! 北観音山のすぐ傍のもう一軒の町家の屏風祭。こちらは通りに面した戸が取り除かれて、一層開放的な状態で拝見できます。正面から西奥の座敷に置かれた屏風 道路に面した東側の広い座敷。高い屏風が立つ方向が北側です。 ここは、毎年この広い座敷空間に絨毯が敷き詰められ、西と北に屏風が飾られています。小袿(コウチギ)が展示されていますが、毎年異なるように思います。これも特徴。 西奧に中庭が遠望できます。ズームアップで。 新町通の南側から眺めた北観音山。山の後部側です。 六角町は江戸時代、三井家などの有力商人が屋敷を構えていたところです。 近くには案内碑や駒札が設けてあります。以前の拙ブログ記事でご紹介しています。 この山も、時計回りに南側から見上げて行きます。 一見、鉾に見えますが、屋根の上に真松が立つことで曳山であるとわかります。町文書に文和2年(1353)の創建と伝えられています。この北観音山は、南観音山と一対のような感じです。本尊は同様に楊柳観音です。巡行当日には、山舞台に楊柳観音像と脇侍の韋駄天立像が安置されます。こちらは、「上り観音山」とも呼ばれています。今年は第6番での巡行です。 今年は天水引に雲龍図が使われています。 鉾と同様に下水引、二番水引、三番水引が重ねてかけてあります。 下水引は中島来章の下絵による「関帝祭の図」と伝えられる人物風景です。二番水引は「赤地牡丹唐草文様綴織」、三番水引は「金地紅白牡丹文様唐織」こちらの二枚は平成18年(2006)より使われ、江戸時代の姿を復元新調したものです。上掲の前懸は19世紀のペルシャ絨毯。この西面の胴懸はインド絨毯「斜め格子草花文様」の復元品 北観音山は元は屋根がなかったのですが、江戸時代中頃に障子屋根と取り付け、天明の大火で焼失後、復興を果たし、寛永9年(1797)に屋根を建造、天保2年(1831)に現在のような大屋根の姿になったそうです。大屋根の内側には折上格天井が設えてあります。 埒(ラチ)から山の躯体部分の舞台裏が見えました。山の胴体を組み上げて荒縄で頑丈に縛り付けるのです。これも伝統技術そのものです。その荒縄のしばり方の美しさは裾膜などで見えなくなります。その一部を見る事ができました。山鉾建てを眺めに行くと、この荒縄で縛るプロセスをじっくりと観察できます。以前の拙ブログでご紹介しています。 山の北西角 山の正面側黒漆塗の欄縁は唐獅子牡丹等錺金具で華麗に装飾されています。 北東側から 天水引 四隅の房掛金具は祇園守(キオンマモリ)と称される意匠です。祇園守は京都八坂神社が配布するお守りのこと。また、八坂神社の本殿裏にはムクゲの一種、祇園守の花が咲くそうです。 見上げて写真を撮っているとき、山の正面側に金幣が取り付けられました。 南東側東側面の胴懸はトルキスタン絨毯です。山の周囲を一巡りして、後部に戻ってきました。 大屋根の後部の破風飾りを切り出してみました。 こちらは正面側の破風飾です。これらの木彫雲鶴は片岡友輔の作。 新町通の北側から眺めた駒形提灯 再び、北観音山の正面側を眺めつつ、新町通をさらに北に上ります。次は八幡山です。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*北観音山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)*北観音山 :「祇園祭」*祇園守紋 :「家紋のいろは」*八坂神社に咲く祇園守 :「京都旅屋」補遺北観音山 facebook【祇園祭2022】北観音山 屏風飾りとお囃子 Kyoto Gion festival KITAKANNONYAMA Byoubumatsuri祇園守紋 :「家紋の由来」祇園守 :「note okami」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!83(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 大船鉾 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 南観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 7回のシリーズでご紹介
2023.08.18
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四条通を横断し、新町通を北に入ると、前祭で巡行した放下鉾の会所が見えます。入口の右側柱には「放下鉾保存会」の表札が掲げてあり、入口の左側にはかなり読みづらくなってきている駒札が立っています。その後に住所表示板が見えます。小結棚町です。錦小路通を越えると、百足屋町で、南観音山のあるところ。一見、鉾の形をしていますが、屋根の上に真松が立てられた曳山です。7/24の山鉾巡行で今年は第2番目の山に。同じく「くじ取らず」の北観音山と第2番目、第6番目を隔年で交替にすることになったとか。(残念ながら今年は巡行の方は観覧に行けませんでした。)この山の本尊は楊柳観音像で脇侍に善財童子が安置されます。楊柳観音は人々を病気の苦しみから救済するという観音様。巡行当日は、山の後部に大きな柳の枝がその象徴として垂らされます。 南西側から見上げた姿。 水引は、加山又造原画による「飛天奏楽図」。平成12年(2000)作。 ズームアップ後懸は、イラン・ミリー工房製の「中東連花水辺に魚文様」の絨毯。平成22年(2010)に新調。 胴懸はペルシャ花文の緞通。 三番水引は宛色朱子地雲龍図の刺繍。平成5~7年(1993~1995)に復元新調。 天水引は下川文麟の下絵による「緋羅紗地四神文様刺繍」で、これは近年の復元新調。四方の神のうち、青竜は東の方位の神です。 天水引の朱雀は南の方位の神です。 屋根の破風飾は、塩川文麟の下絵を元に木彫装飾が製作され、弟子の幸野楳嶺が彩色したものだそうです。仙女と麒麟が見えます。明治221年(1888)作。 前懸は、金糸、銀糸を含め19色の絹糸で幾何学文様の図柄を再現新調したものです。山を回り込みます。 四角には、木彫漆箔四君子文薬玉角飾が取り付けられます。これは「蘭」をモチーフとした薬玉です。 こちらは「菊」をモチーフにした木彫薬玉角飾 破風飾には仙女と龍が彫刻されています。天水引は玄武で、北の方位の神です。 山の裾幕として緑色の網状の幕が使われています。今年初めて気づきました。 これで南側から南観音山を時計回りに一周したことになります。 山のすぐ近くで、南観音山の懸装品の保存品や団扇絵などが展示されています。 ガラス戸に反射して写真が撮れません。この1枚だけです。 新町通の北側から眺めた駒形提灯の全景。こちらが山の正面になります。蛸薬師通を越えて、次は北観音山です。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*南観音山 :「祇園祭」*祇園祭-南観音山の名宝- :「京都文化博物館」*南観音山 :「ざ京都 京都観光、案内のポータルサイト」*祇園祭 納入実績 :「KAWASHIMA SELKON」*京都・祇園祭後祭の山鉾の巡行順が変更へ 記者会見で発表(2023年6月22日、京都市東山区・八坂神社) :「京都新聞」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!83(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 大船鉾 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 屏風祭・北観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ 7回のシリーズでご紹
2023.08.17
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=== 2023.8.5 === 南の空9時55分頃に撮りました。良く晴れた青空にふわっと子雲が集まっています。 左上に親雲がいるような・・・・。南西方向の空 西方向の空 さらに子雲の後に、ちょっと年かさの子雲が続いて行く感じで。 頭上の空 東方向の空稜線上に青空が見え、その上に雲が広がって漂っています。稜線上よりかなり手前に浮かぶ雲のような印象を受けます。近接感ありです。 東方向の空17時5分頃に眺めると、稜線上は雲が消え、青一色です。 南の空南の遠くに雲が見え、近くは青一色。 ズームアップして雲の姿を切り出しました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 まさに快晴の空と言えますね。 南の空 18時半頃に撮りました。こちらの白雲は近い感じです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 少しズームアップして、雲を撮ってみました。 東方向の空 稜線上にわずかに雲が出ています。少し方角を変えて、ズームアップして撮ると、視野が狭くなり東の空全体は見えません。熱中症警報アラートが連日の最中だったと思います。晴れた日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの詩集『続六魚庵天国』には、「火見櫓」と題する長い詩があります。三部構成の詩文のパート2にあたるところに、「雲」が出て来ます。 火見櫓はどこにもある 今わたしが仰いでいるのは故里ならぬ 四国南の海辺の町に高く聳えるもの 火を告げる鐘 それを打つ槌(ツチ) 雲をいただく鉄の梯子(ハシゴ) いつもかんかんと鳴り響く用意をしている櫓(ヤグラ) 今その上を飛ぶのは 凧(タコ)ではない 一羽の鳶(トビ) 啼かない 一羽の鳶 今のわたしの 一羽の鳶 わたしが舞わせている 孤独な鳶 それはわたしの心に いつか巣くっていたものだった (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社)京都市の南部で生まれ育ったが、火見櫓の実物を見たことがなかった。絵や写真としては知っていたけれど。ごく最近、あるブログである地方の火見櫓の写真をよく拝見するようになった。そして、ちょと検索していて、京都市内にも火見櫓が実在することを知った。勿論、早速探訪してみた。それに付いてはまた別稿にて・・・。を改めたい。パート1は故里の火見櫓を回顧する。その上を飛ぶのは凧。今、著者は「一羽の鳶」を想念として眺めているようだ。舞い飛続ける一羽の孤独な鳶は、詩の世界を歩み続ける著者の孤独感を反映しているのだろうか。この詩集で見つけたのはこの箇所ひとつ。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.6 === 南の空9時20分に撮りました。空にはぐ~んと雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては、それほどには雲が凝集していません。 頭上の空 頭上も同様です。 東方向の空それに対して、稜線上は白鼠から銀鼠という色合いの雲に覆われています。 東方向の空15時5分頃に眺めると、稜線上空の雲の変化は様変わりです。白鼠色の雲が主流になり青空を筋状に見せながら層を成すように浮かんでいます。 南の空逆に、南の方には銀鼠色の雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけても同じです。天気は晴れからくもりに変化です。 頭上の空 南の空 17時25分頃に眺めると、雲の姿は変化しても、空を覆う点では同じ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空一方、逆に稜線の上空は、大きな塊になった雲が浮かんでいますが、青空は一層広がっていました。西・南がくもりなら東は晴れという空模様。天気の変化はおもしろい。つづく[覚書] このブログ記事を書いている頃に、台風7号(ラン)の中心は和歌山県に上陸した後、北西寄りに進み、15日13時45分の気象庁発表によると、13時の実況:兵庫県に上陸、中心気圧985hPa、最大風速 30m/s (55kt)、最大瞬間風速 40m/s (80kt)。こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.15
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7/23は祇園祭後祭の宵山です。午前を主体に、山鉾町を巡ってきました。後祭の山鉾は四条新町南入ル四条町に鉾建てされた「大船鉾」が最南端に位置します。ここを起点にして山鉾巡りをしました。その覚書を兼ねたご紹介です。大船鉾は後祭山鉾巡行では、殿として最後に巡行を締めくくる鉾になります。前祭の船鉾と同様に、鬮とらずの鉾です。前祭山鉾巡行の殿である「船鉾」に対して、こちらは神功皇后が凱旋した船に由来する船形の鉾です。平成26年(2014)7月、大船鉾は150年ぶりに再建、復興しました。これを契機に、後祭が49年ぶりに復活されるに到ったのです。昭和41年(1966)から平成25年(2013)の約半世紀は、7/17に後祭が合一されて山鉾巡行が行われてきました。それが本来の形の山鉾巡行の復活となりました。私の記憶での山鉾巡行は、この合一された山鉾巡行から始まっています。四条通を西に進み、新町通を南に入ると、大船鉾が見えます。 大船鉾の周辺は、混雑を避けるために一方通行の制限が設けてありました。北に向かって鉾建てされた大船鉾の右舷側(通りの東側)を北から南へ、左舷側(通りの西側)を南から北への一方通行です。今年は船首に、大金幣(文化10年/1813年作)が飾ってあります。大金幣の幣の部分が今年新調されました。巡行当日までは鉾に覆屋が設けられています。巡行では勿論覆屋は撤去されます。 右舷側全景 前懸 三飛翔龍に波濤の図です。 船体を覆う胴懸は二色の幕。渡来赤羅紗無地平織裁ち布縫い合わせと称されています。19世紀ヨーロッパ製。色は船鉾と同じですが、船鉾との違いは二色の配列が縦方向だという点です。 高欄の下の水引は刺繍製で「渡来赤羅紗地 飛龍に波濤の図」です。 大船鉾の後部。艫櫓と梶がやはりハイライトです。「祇園祭」の企画特集によれば、今年はこの艫屋根の漆箔と軒下刺繍幕が完成したそうです。一方、7/22にテレビ報道で、ベトナム国営放送から日越国交樹立50年を記念して、大船鉾に「繻子地雲龍文刺繍軒幕」の贈呈式があり、幕が披露されたというのを見ました。大船鉾は再建・復興後、さらに一歩一歩、その威風を整える途上にあります。この変化を眺めに行くのが楽しみとなる鉾です。 後懸今までは、「飛翔龍に波濤の図」が使われていましたが、これは初めてかと思います。少し調べて見ましたが、資料なく名称等不詳。 艫高欄懸は刺繍製「渡来赤羅紗地 飛翔鳳凰の図」です。17世紀日本製。三方、それぞれ鳳凰の飛翔の姿が異なります。艫高欄の下部には極彩色の肉厚木彫装飾が施されています。 梶(カジ) 刺繍製「渡来赤羅紗地 降り龍と波濤の図」 19世紀日本製。 五爪の金龍と波濤文様が織と刺繍で製作されています。 先に、反対側をご紹介。 新町通の南側から駒形提灯を眺めた景色です。 南西側から大船鉾を眺めた全景 左舷、船首部を見上げた景色 水引は右舷側と同じで、飛龍に波濤文の金糸刺繍です。 飛龍の姿は、船鉾の大舵を飾る螺鈿細工の飛龍と同類です。 二番水引は綴織裂で「祥雲文に散らし花文様の図」。19世紀の日本製。 大金幣の全体が一番わかりやすい角度かも知れません。 屋形の唐破風屋根の内側、つまり屋根の裏側です。 舳先の前水引は刺繍製「渡来赤羅紗地 飛龍に波濤の図」。平成28年(2016)復元新調。同種の飛龍があざやかに刺繍され、一方波濤文様は水引とは少し変化した文様です。 埒(ラチ)今年は、会所内の飾り席の正面に、御神体の人形を拝見しました。御神体の神功皇后像は鎧を脱ぎ狩衣をまとった姿の人形です。住吉明神・鹿島明神・安曇磯良の三神が共に鉾に安置されます。上掲の駒札によれば、屋形の前に住吉明神、艫部に鹿島明神、舳先に龍神の安曇磯良(アズミイソラ)に安置されるそうです。ぐるりと眺めながら一巡した後は、四条通を横断して新町通を上ります。新町通の北方向には、南から順に、南観音山、北観音山、八幡山と3つの山鉾が点在しています。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*大船鉾 :「祇園祭」*大船鉾 ホームページ*祇園祭の山鉾巡行 「大船鉾」に新装飾品 ベトナムから寄贈 :「NHK」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 南観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 屏風祭・北観音山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 役行者山・黒主山 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 鯉山・橋弁慶山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.14
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=== 2023.8.3 === 南の空9時20分頃に撮りました。快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空には横雲が浮かび、グレーの空です。 東方向の空15時45分頃に眺めると、雲の姿はかなり変化がみられます。青みがかった空に。 南の空 白雲が大きく広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向には雲は少しです。 頭上の空 南の空18時25分頃には、また雲の姿は大きく変化しています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけても雲がかなりかかってきました。 頭上の空いずこの方向も、雲の姿を主体に見るということでは青空とのバランスがいい感じ。 東方向の空 東方向の空19時10分頃にも撮ってみました。稜線上空に夕焼け雲が見えました。 南の空 夕焼け雲の部分をズームアップ!南西方向の空 西方向の空 西の空にも少しだけ夕焼け雲が見えます。晴れた一日でした。さて、雲がたりを続けます。真民さんの『六魚庵天国』には、「六魚庵の泉」と題する詩にも「雲」が出て来ます。 六魚庵には井戸があったが 浅くて水は飲めなかった すぐ近くに湧き出る泉があって からはじまります。著者は「コギトの泉」と呼び 水を汲みにゆくのが 私のきまった日課だった 時には茜の雲が映り その紅(アケ)ごと汲むことがあった そんな日はわたしの心も 晴れ晴れした と詩のなかばに「茜の雲」が詠み込まます。 29行の長い詩は、次の4行で終わります。 時の流れの返らぬことを 春行き夏去り秋となり 冬の早いことを いつもこんこんと教えてくれた 、「六魚庵主の願い」という詩にも詠み込まれています。こちらは全文引用です。 人生を愛するが故に 詩を愛する わたしの詩は そこから生まれなくてはならない ひとりのなげきが 万人のいのちとなり ひとりのよろこびが 万人のちからとなり 水のように清められ 雲のように高められ 虹のように色どられ 幼な子のように 詩神の前に跪きたい わたしの詩も そこまで行かなくてはならない (参照『坂村眞民全詩集 第一巻』大東出版社) 詩に対する著者の気高き信念を感じる・・・そんな詩です。雲の変化に戻ります。=== 2023.8.4 === 南の空9時20分頃に撮りました。雲が集合! 小型の雲が集まってきたという感じ。青空が程よく見えます。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけては、雲の雰囲気は張り出してきたという感じ。ぐんと詰まっています。 頭上の空 ちょっとズームアップして夾雑物を避けて、南東方向の空を切り出すと、全く姿が違った雲の姿です。やや護送船団風の雲の集まりです。 東方向の空稜線上空の雲の姿も全体図は珍しい形です。青空なので白雲が映えます。 東方向の空15時5分頃に眺めると、全く様変わりに。夏雲昇るという景色です。コントラストが良いですねえ・・・・。夏空の定番って感じ。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時35分頃に撮りました。青空には白雲が広く漂っていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上を含め、南から南西、西方向への雲の広がりとその姿もおもしろいですね。高積雲:ひつじ雲と称される部類の雲になるのでしょうか。ウ~~ン。 南東方向の空 東方向の空 稜線上空の雲もまた、様変わりです。ほんと、雲の変化は激しいですねえ。つづく補遺雲の種類は10種類!高さなどの特徴やめったに見られない珍しい雲もご紹介!:「じゃらんニュース」ひつじ雲 と うろこ雲 を見分ける :「hiroshima-times ひろしまnews」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.13
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=== 2023.8.1 === 南の空9時過ぎに撮りました。小粒な雲が浮かんでいるだけで青空が広がっています。快晴!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空に目を転じると、稜線上空には夏雲が伸び上がっています。 東方向の空13時25分頃に眺めると、稜線上の雲はさらに大きくなっています。白雲に微妙にグレーの色調が様々に微妙な変化を加えている感じです。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲が少し増えました。 南の空17時25分過ぎに眺めると、雲の密度は高まっています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 やはり夏雲らしいな・・・。 東方向の空稜線上空はすっかり雲に覆われています。雲の姿は大きく変化していました。 東方向の空1時間後、18時35分頃に再度眺めると、大きな変化はありませんが青空が少し見えます。 南の空はおおきな雲の塊に変化していました。雲は白鼠(銀色)がかっていました。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向の空は雲が少なく青空が広がっています。 頭上の空方向により、雲の広がり具合にかなり変化が見られます。晴れた一日であったことは良かったのですが、暑い日でもありました。8月も7月の暑さと変わりなくクーラーに頼る日々が続きます。さて、久しぶりに雲がたりを加えます。手許の書架に『坂村眞民全詩集』(大東出版社)全六巻があります。背表紙には「眞民」と記されていますが、奥書では「真民」と表記されています。以降、真民と表記します。第一巻の奥書をあらためて見ると、手許の本は平成2年(1990)10月の5版。初版印刷は昭和60年(1985)10月となっています。真民さんのある詩の一節に心惹かれて全集を買い揃えたのです。それ以来、時折部分読みはしてきましたが、通読してはいません。真民さんが、詩の中で雲を詠みこんでいるか。詠み込んでいるとしたらどのように取り上げているだろうか・・・・。そんな思いから、この機会に通読を兼ねて、該当箇所を少しずつ引用ご紹介していきたいと思います。そんなつもりで第一巻を繙いたら、「六魚庵天国」という詩集から始まります。その最初の詩が「六魚庵箴言」と題する詩。この詩の「その二」に「雲」が出て来ます。 貧しくとも 心はつねに 高貴であれ 一輪の花にも 季節の心を知り 一片の雲にも 無辺の詩を抱き 一碗の米にも 労苦の恩を思い 一塊の土にも 大地の愛を感じようこの詩は「その四」まであります。「貧しくとも 心はつねに 高貴であれ」 このフレーズ、いいですねぇ・・・・そうありたい!次の「六魚庵偈文」という短い詩にも、雲が詠み込まれていました。 死んでも 空の青さがあり 墓石なくとも 雲は 悠々の 影をおとしてゆく 日月星辰 また変わるなし 噫(ああ) 以て安心立命せん 以て瞑目し往生せん「雲は 悠々の 影をおとしてゆく」 毎日雲の姿を眺めていますと、雲は悠々ということを実感として感じます。来たりては悠々と過ぎ去っていく。ずっと留まり続けることはない、晴れた日の山並みを見ていると、雲が影をおとして移り行くという事象を山の緑の濃淡の移ろいで実感します。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.8.2 === 南の空13時25分頃に撮りました。大小様々に大きさと形が違う雲が青空を背景に浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿っておもしろい。全く同一の姿ってないですね。 東方向の空稜線上空がはっきりと二層に分かれています。夏雲群団と青空に。 東方向の空16時頃に眺めると稜線上空は様変わり。今度は大きくは二つの雲の塊が二層になっている感じです。青空はどこへやら。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時45分頃にも撮ってみました。この雲の状態もそうそう見かける姿ではありません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上は再び力を取り戻したかのように、雲が湧き起こっています。正に千変万化です。つづく補遺坂村眞民記念館 公式サイト 坂村真民について坂村真民 詩 :「臨済宗円覚寺派大本山 円覚寺」坂村真民の名言 :「地球の名言」念ずれば花開く…「祈りの詩人」坂村真民の世界 作品に込められた“優しさと愛情”【岡山・高梁市】 :「8OHK」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.12
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8/8に四条に出る用事があったので、細見美術館に行くことと併せて出かけました。美術館からの帰路、三条大橋にさしかかると、木製高欄の更新作業の関連で設置されていた囲いを撤去する作業がなされていて、最後の段階でした。そこで、木製高欄が更新された結果を撮る事ができました。冒頭の景色は三条大橋の北側(上流側)です。 東詰北側の高欄傍から、北側の高欄の更新後の景色を撮ってみました。最終作業段階だったので、未だ立入禁止。おかげでスッキリとした欄干の景色が撮れました。 東詰南側の高欄 南側の橋上の歩道はかなり前から通行できるようになっていました。 しかし、囲いの柵が設けてありましたので、このスッキリした姿は初見です。 南側歩道を進み、橋の途中、西側から欄干を撮った景色 西詰には小ぶりな弥次さん喜多さんのブロンズ像が立っています。その近くから橋の南側を眺めた景色。 鴨川の河川敷を三条から四条まで、久しぶりに歩いてみることにしました。ここを歩く人は少ないので、コロナ禍が下火とはいえ、疎な空間として歩くのに利ありです。人を気にせずにすみます。 この景色の左側に「みそそぎ川」が流れています。 こちらが「鴨川」。特に、三条大橋から南の四条大橋の間は、ずらりと人々が河川敷に座り込んで一時を楽しむという名物スポット。熱中症警戒アラートが毎日のように出ているこの時期、昼間にはさすがに人々の姿は閑散とした状況でした。 すぐ傍、みそそぎ川の西側に鴨川をどりで有名な「先斗町(ポントチョウ)歌舞練場」があります。 三条大橋と四条大橋の中程から、三条大橋を眺めた景色。左側、みそそぎ川のその上に、張り出して架設された「納涼床(川床)」が並んでいます。納涼床の夜のきらめきは、京都の夏の風物詩の一つです。ほどんどが、夏季にだけ架設されるものですが、年中設置されている川床もあります。右側の河川敷の芝生のところに、人の列ができます。座り込んだ人々の中間に次のカップルらが座るからでしょうか、橋の上から眺めるときれいにグループごとで等間隔に人の列ができています。 立ち位置からズームアップした三条大橋ここからは序でに、余談です。 南に向きを変えれば、四条大橋の景色です。みそそぎ川の上に設けられた「川床」の構造体が並んでいます。 四条大橋をズームアップ。右側の、四条大橋東詰の隣り、四条通の南側に見える瓦屋根は「南座」です。南座の前、四条通北側にはいまやレトロな風貌となった、大正15年(1926)竣工のビルディングがあります。老舗のレストラン菊水があるところ。 逆に、四条大橋西詰南側には、もう一つのレトロなビルがあります。日本で有名なウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計による建物の一つ。いわゆるヴィーリス建築です。こちらも大正15年(1926)に建てられました。スパニッシュ・バロック様式の建築物。こちらは東華菜館という北京料理の老舗です。(資料1,2) 河川敷から四条大橋西詰北側に出る通路の傍に「位置案内」の碑が設置されています。鴨川に架かる橋についての表示と現在地を示しています。 四条大橋から下鴨神社に到るまでの区間、鴨川に架かる橋です。 四条大橋・現在地と表示されています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ :ウィキペディア2) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ :「建築パース.com」補遺先斗町歌舞練場 公式サイト納涼床 :「京都観光Navi」夏の京都は「川床」で粋に。涼みながら美味しい食事や趣ある景色を堪能しよう :「びゆうトラベル」レストラン菊水 :「関根要太郎研究室@はこだて」東華菜館本店 :「京都観光Navi」こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都市 三条大橋 木製高欄(南側)の更新観照 京都市 三条大橋 木製高欄(北側)の更新 (続)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) 3回のシリーズでご紹介観照 先斗町歌舞練場・観劇と鴨川畔
2023.08.11
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=== 2023.7.29 === 南の空16時45分過ぎに撮りました。天気は晴れ。自宅に居たはずなのに、この時刻まで撮っていませんでした。朝に晴れた空を見上げて、うっかり忘れていたのか・・・。南西方向の空 西方向の空 空は快晴。こちらの方向には雲殆ど無し。 頭上の空見上げるとこんな雲が見えます。北に向かって見上げて撮っていますので、上辺が南、下辺が北、右が東、左が西という方位になります。 東方向の空稜線上空には白雲が浮かんでいます。やはり、雲のバリエーションが見える方がおもしろい。 東方向の空18時20分頃に眺めると、稜線上空の雲が増えています。 南の空南西方向の空 西方向の空 西の空にはあまり見かけない雲の姿が見えます。 頭上の空=== 2023.8.30 === 南の空この日も13時5分頃に初めて撮りました。握り拳のようなぎゅっと固まった雲がおもしろい。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲が多く張り出していますが、天気は晴れ。 東方向の空稜線上空は雲で覆われています。稜線のすぐ上には夏らしい雲が伸び上がっています。雰囲気は入道雲の小型版という感じ。入道雲は青空を背景ニョッキリなんだけど。 東方向の空雲の動きがかなり変化しています。18時5分頃に撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空どの方向にも雲が広がっていました。 南の空19時過ぎに、窓の外を眺め、これは・・・・と、撮ってみました。滅多に見られない夕焼け雲です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空東の稜線直上も夕焼け雲。肉眼で捉えた雲の色はもう少し濃くピンクがかっているように感じました。=== 2023.7.31 === 南の空9時半頃に撮りました。モコモコとした雲が空に満ちています。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向に目を転じると、また雲の姿は違います。様々な雲の表情が見えます。 頭上の空にもまた異なる表情を見せています。鱗状の雲が鮮明です。 東方向の空こちらもくもり空です。濃いグレーの雲すら浮かんでいます。日本の伝統色で言えば、銀鼠(キンネズミ)(錫色 スズイロ)と呼ばれる色合いでしょうか。 東方向の空13時55分頃に眺めると、稜線上には白雲、その上に青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空こういう雲の姿はどのようにして形成されるのでしょう。無限のバリエーション。 南の空18時20分過ぎに撮りました。空は白鼠(シロネズミ)(銀色)を基調にした濃淡の雲に覆われてしまいました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空晴のち曇りという天気の一日と言えるのでしょう。やっと、8月に追いつきました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.11
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河原町御池の北東側歩道から前祭の山鉾巡行を長刀鉾から船鉾まで観覧した後、新町通に向かってみました。新町通は御池通を西に巡行した山鉾が、山鉾町に戻るために南に下る際に利用する通りです。最後まで巡行を眺めてから新町通に来ましたので間に合うかどうかと思っていたのですが、2基だけ眺めることができました。 岩戸山が新町通を下ってきました。道路幅が相対的に狭いので、岩戸山のような曳山と鉾が通るには道幅にさしてゆとりがありません。道路の両側に立つ電信柱との間隔がごく狭くなっています。 大屋根の上に、数人の人がなぜ乗っているのか、その理由がこれでわかります。電線等に触れることがないように見つめ、対処する必要がありうるからでしょう、逆に、山鉾の写真を撮るには夾雑物が写ってしまい、ノイズとなり綺麗な映像とはなりません。 その代わりに、歩道の区別がない道路の端よりに立ち、正に山鉾をごく間近に眺められるという臨場感、迫力は得がたいものです。これが元々の巡行の姿に近いのかなと思います。新町通の町家の二階から眺める人々と囃子方の人が対話できる位の距離感です、 山鉾巡行を観覧していた時は、意識の外にあったのですが、岩戸山の後に従うこんな長持ち様の木箱を載せた台車が続いていたのです。 ごく近くで眺めると水引の肉厚の盛り上がりがよくわかります。 艫櫓に吊された水引は、側面に麒麟が刺繍されていたことを再認識しました。 後部には瑞鳥。 舵の右側面には昇る飛龍 新町通でのこの臨場感が良い!この新町通を南下する巡行に比重をおいて、移動しつつ巡行を眺めた年もありました。 御池通にふっと立ち寄ってみました。整然と観覧席が並んでいました。祇園祭 山鉾巡行過ぎ行きて 猛きざわめきいずこへか 御池通 人も車も見ぬこの刻 夢の後の静けさしばしという感興です。さて、これで前祭山鉾巡行のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.10
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第22番「岩戸山」が河原町御池の辻に近づいて来ます。この山は「国生み」と「天の岩戸」という2つの記紀神話を題材としています。御神体として伊弉諾尊(イザナギノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)、手力雄尊(タジカラオノミコト)を祭っています。一見すると鉾と同じように感じます。しかし、こちらは山。鉾には大屋根の上に鉾柱の真木が立ち先端に鉾頭があります。ここには真木ではなく真松が立てられています。鉾ではありませんので、稚児人形は載っていません。一方で、鉾と同様に、囃子方が乗り、祇園囃子を奏する曳山です。応仁の変の前から祇園祭の巡行に参加している記録があり、狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」には車輪を付けた曳山として描かれています。江戸時代に鉾の形を模した大屋根を付けるようになったそうです。 河原町通から御池通への方向転換。「辻回し」の第1回目。 大屋根の上には、あみ隠しの前に伊弉諾尊が鎮座しています。 大屋根は切妻造で。棟の先端は獅子口の形です。 天水引は「緋羅紗地鳳凰丸刺繍」。明治時代の作。 下水引は「金地鳳凰瑞華彩雲岩波文綴錦」で刺繍が施されています。平成15年(2003) 復元新調。オリジナルには文政4年(1821)の銘があるそうです。 二番水引は緋羅紗地宝相華文様刺繍、 三番水引は紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様綴織 この二番・三番水引は共に平成17年(2005)に復元新調。 胴懸は18世紀初頭の唐草文様インド絨毯。 2回、3回と角度をずらして、辻回しを終え、御池通に正面を向けます。 御池通での最後の巡行が始まります。 見送は日月龍額唐子嬉遊図の綴織(一部刺繍)。復元新調品。 前祭山鉾巡行の最後は、くじとらずで常に殿を行く第23番「船鉾」です。船鉾は、身重ながらも男装し海戦に勝利した神功皇后の神話を題材としています。神功皇后出征の時の船をイメージした形が鉾になったのでしょう。余談ですが、後祭の山鉾巡行に復活した大船鉾は、神功皇后帰国時の船に因んでいます。御神体の神功皇后人形は、住吉明神・鹿島明神と海神の安曇磯良の三神に護持される形で鉾に搭載されます。屋根の背後には、紅白の長旒(チョウリュウ)・吹流しが立てられています。 船首を飾る木彫総金箔置きの瑞鳥「鷁(ゲキ)」。宝暦10年(1760)、長谷川若狭作。 船の上の屋形は、正面から見ると唐破風屋根の背後に切妻造の屋根が連接し、さらに 入母屋造の屋根に連なっていくという構造です。 前懸は雲龍文様の「鶴と真向龍」の図。 船端上には紅色塗りの高欄が設けてあります。 水引は船鉾町出身で応挙門下の西村楠亭下絵による「金地雲龍文厚肉入刺繍」。 豪壮な龍の姿が肉厚にして刺繍され、ダイナミックさを引き立てています。 二番水引は岩と波濤文の図のようです。正式な名称は不詳。復元新調。 高欄からは八坂神社の神紋を刺繍した水引が吊されています。平成21年(2009)新調。 船鉾が辻で角度を90度変える「辻回し」の様を、この点描静止画からダイナミックな動画へとイメージを膨らませてみてください。 側面から眺めると、屋形は入母屋造の屋根が本体部分とわかります。 天水引は「草花文刺繍」。平成4年(1992)の新調。 船鉾後部の艫櫓にも水引が懸けてあります。瑞鳥を刺繍した図です。 船体は紅と千歳緑の二色の幕で被われています。 裾幕は波濤文様でダイナミックな感じです。 大舵は、狩野派鶴澤探泉下絵による漆塗青貝螺鈿の飛龍と波濤文の図。 寛政4年(1792)の作。私の好きな図柄です。 船体後尾の見送もまた真向龍の文様です。「龍と青波」 最後まで観覧した地点からでは、これが船鉾の全体像を一番見やすい写真かも・・・・。前祭の山鉾巡行観覧は、確保した場所に立ち続けておよそ3時間。定点で観覧したのは遠い昔以来のことでした。やはり見応えがあります。これで、山鉾巡行のご紹介を終わります。尚、番外編としてあと1回続けます。お付き合いください。参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*岩戸山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -岩戸山- :「京都市下京区」*船鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -船鉾- :「京都市下京区」*船鉾(京都 祇園祭) 公式アカウント Twitter ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.09
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第18番「伯牙山」です。河原町御池の辻で、担ぎ手が山を担ぎ上げ辻をぐるりと回ってお披露目しています。中国の琴の名手、伯牙の逸話を題材にしています。 伯牙は大切な理解者である友を失い、その悲しみから琴の弦を断ちきり琴を弾かなくなったそうです。伯牙が斧を握りしめ今正に琴の弦を断とうとする姿を表現しています。その姿から、別名「琴割山」とも呼ばれてきたと言います。また、「王の命令に従うのを良しとせず琴を叩き割った戴逵(タイキ)の話」(図録より)がもう一つの物語として伝わるそうです。前懸の前に、軸装様に仕立てられた慶寿裂「慶寿詩八仙人図」が懸けられているのもこの山の特徴です。昭和63年(1988)復元新調。 水引は「緋羅紗地唐人物図」で押絵が施されていて、胴懸の中程までに被さる幅広です。胴懸は花卉尾長鳥文様の綴錦。見送は「柳絲軒」在銘の「三仙二仙女刺繍」です。 第19番「蟷螂山」が続きます。中国の故事「蟷螂の斧」に由来し、それに日本の歴史上の人物、貴族の四条隆資(1292~1352) の逸話を重ねています。山車の上に、御所車が搭載され、唐破風屋根の上にカラクリ仕掛けで動くカマキリが乗っています。御所車は四条隆資が使った車を表しています。カマキリの首、手鎌が動き、羽を広げるというカラクリが披露され、御所車は車輪が回転します。昭和56年(1981)、117年ぶりに再興された山です。 前懸は「瑞祥鶴浴の図」友禅。 右胴懸は「瑞苑浮遊図」友禅。 見送は「瑞苑飛翔図」友禅。 これら前懸、胴懸と見送は友禅作家羽田登喜男の作です。 第20番「占出山」が続きます。占出山は、神功皇后が肥前国松浦で釣りをして戦勝を占ったという故事を題材としています。『日本書紀』巻第九「神功皇后」に次のように記されています。引用します。(資料1)”夏四月三日、北方の肥前国松浦県にいき、玉島里の小川のほとりで食事をされた。皇后は針を曲げて釣針をつくり、飯粒を餌にして、「私は西の方の財の国を求めています。もし事を成すことができるなら、河の魚よ釣針を食え」といわれた。竿をあげると鮎がかかった。皇后は「珍しい魚だ」といわれた。”別名「鮎釣山」とも呼ばれています。 御神体は身重の神功皇后です。占いのための釣りをする場面を表しています。 懸装品は日本三景を描いた綴錦の図が用いられ、前懸は安芸の宮島、嚴島神社の図。 水引は三十六歌仙図の刺繍。現在のこれら懸装品は順次復元新調された作品です。 右の胴懸は天の橋立図。 御池通を進み始めた占出山の見送が見えます。花鳥龍文様の綴錦で、復元新調品。 第21番「放下鉾」が辻に近づいてきます。街角で芸をしながら仏法を説く「放下僧」を真木の中程の天王座に祭ることに鉾名が由来します。鉾頭は太陽・月・星の三つの光を象った三光形です。形が州浜に似ていることから「すはま鉾」とも呼ばれます。 3人の人形方によって稚児人形が操られて稚児舞を披露します。 稚児人形の名前は「三光丸」。稚児人形の中では、唯一の操りができる人形です。 今年、稚児人形の白着物・襦袢・袴が新調されました。 辻回しの準備が進みます。 辻回しが始まりました。 天水引は雲形文の間に円形状に火焔龍が刺繍されているようです、 下水引は前後左右の四面ともに与謝蕪村(1716~83)下絵の琴棋書画図ですが、 復元新調され巡行では初お披露目。四面の復元は8年の歳月をかけて完成。(資料2,3) 二番水引は「緋羅紗地に牡丹と兎」図の金糸刺繍 三番水引は駒井源琦の下絵による青海波におしどり図綴織の復元新調品。 左右の胴懸は花文様のインドやペルシャの絨毯。 御池通を西に進みます。 見送は皆川泰蔵作「バクダット」。麻地に藍のロウ染めで染め上げられ、純金箔やプラ チナ箔も用いられているそうです。昭和57年(1982) 作。異国情緒が溢れています。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*伯牙山 :「祇園祭」*伯牙山 :「京都市下京区」*蟷螂山 :「祇園祭」*蟷螂山 公式サイト*占出山 :「祇園祭」*放下鉾 :「祇園祭」*放下鉾 ホームページ*中京の山鉾 -山鉾の魅力細見- :「京都市下京区」1)『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 講談社学術文庫 p1882) 放下鉾の下水引が復元新調 金の輝き 2023.6.23 :「朝日新聞DIGITAL」3) 祇園祭の放下鉾、「下水引」を復元新調 与謝蕪村の下絵、鮮やかに :「産経新聞」補遺神体の衣装を披露 祇園祭の伯牙山 2019.6.13 :「産経新聞」放下鉾公式カウント Twitter祇園祭2023年に披露 蘇る「下水引」に龍村美術織物が込めた想い 2023.7.13 :「TATSUMURA」【2023祇園祭】放下鉾・下水引を復元新調 Kyoto Gion Festival Restoration of Hoshitaboko's Shimizuhiki 京都祇園節 星田樹清水引修復 京都新聞 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.08
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=== 2023.7.24 === 南の空9時20分頃に撮りました。晴れていますが南は雲に覆われていました。南西方向の空 西方向の空 西方向では青空が広がっています。 頭上の空も雲がいっぱい。 東方向の空それに対して、東の稜線上空は全面的にグレーの濃淡の雲で満ちています。 東方向の空16時20分頃に眺めると、稜線上空は快晴に変化。 南の空南西方向の空 西方向の空 この後は撮っていませんが、晴れの一日。=== 2023.7.26 === 南の空10時5分頃に撮りました。昨日に引き続き、晴れた日です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上間近に白雲が漂い、その上空には青空が雲の間に見えます。 東方向の空16時5分頃に眺めると、稜線上はグレーの雲に覆われる状態に変化。 南の空南西方向の空 西方向の空 この日もこの後写真を撮らなかったのですが、くもり空が続きました。=== 2023.7.27 === 南の空8時20分頃に撮りました。快晴です。南西方向の空 西方向の空 東の空は、雲がかなり出ています。白雲であるのがいい。 東方向の空16時45分頃に眺めると、稜線上空の雲が切れて、青空が広がっていました。ところが、それから2時間後には、雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向の空だけ撮りました。=== 2023.7.28 === 朝から晴。写真を撮ったのは16時45分頃が最初。適度に白雲が漂っています。南西方向の空 西方向の空 南東方向の空 東方向の空稜線上空には、夏雲らしい雲が見られます。 東方向の空18時20分頃に眺めた空。夕陽に映えた雲も見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 快晴の空となる一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.07
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河原町御池の辻の中央で辻回しの下準備が先に進められる中、第13番「菊水鉾」が河原町通を北上してきます。 菊水鉾は、町内にあった名水「菊水の井」に由来する鉾名です。 鉾正面に、稚児人形を載せています。菊の露を飲み長寿を保ったといわれる菊慈童の能装束の舞姿です。謡曲「菊慈童」から題材を得た鉾。 辻回しが始まりました。 天水引は右側面に三輪晁勢筆「水辺の鳥図」、正面は、垂簾と瑞雲・日・花の図。 下水引は皆川月華作「竜田川吉野の図」 前懸は「飛鶴図」、右胴懸は「麒麟図」共に染織家の皆川月華の作品。 昭和29年(1954)作。残念ながら見られない左胴懸も皆川月華作「獅子図」です。 菊水鉾が御池通を進み始めました。 後懸は隠れて見えませんが、皆川月華作「昇鯉図」だそうです。 見送も同様に皆川月華作「孔雀図」で昭和30年(1955)作。菊水鉾は、昭和27年(1952)88年ぶりに山鉾巡行に復帰しました。昭和に復活した鉾です。今年再建70周年を迎えた記念に「前懸や後懸など鉾の4面に再建当時の幕をかけて巡行した」(資料1)と報道されていました。そういえば・・・・・という思い。 第14番は「保昌山」。16日に山鉾巡りをした時は飛び地なので失念していました。武将平井保昌(1958~1036) の人形を御神体にした山です。保昌は、後に妻となる和泉式部のために、御所の紫宸殿に忍び入り紅梅を手に入れようという危険を冒したという逸話で有名です。なぜ? 和泉式部が紫宸殿の梅を手折って来てくれたなら保昌の求愛を受け入れると言ったから。それで、保昌山は「花盗人山」とも呼ばれて親しまれてきたそうです。保昌が宮中に忍び込み梅の枝を得ようとする様子をここに表現しています。早くも辻を右折する態勢に入りました。 水引は、様々な鳥の姿を刺繍で描いた補子をつなぎ合わせた作品。 胴懸は、円山応挙の下絵による「緋羅紗地巨霊人虎図」刺繍。安永2年(1773)作。 刺繍師として松尾右近の名が伝えられているとか。 残念ながら見えませんが、前懸・左胴懸も円山応挙下絵による同様の刺繍作品。 現在、これらは復元新調品を使用。 見送は、福禄寿、弁財天に唐子を配した綴錦で寛政10年(1798)の作。 続くのは第15番「綾傘鉾」です。綾傘鉾では、鬼形が先導します。この棒振りの踊り手は、法被にカルサンを着て赤熊(シャグマ)を被っています。面をつけて法被に大口を着た太鼓方二人(太鼓を持つ者、バチを持つ者)と、浴衣姿の囃子方(鉦や笛)が加わります。 太鼓と囃子に合わせて、踊り手は棒を振り回し「棒振り囃子」を披露します。このパフォーマンスが見事です。この棒振り囃子は、壬生六斎念仏保存会の人々により演じられています。 2基の傘鉾が続きます。この傘鉾が山鉾の古い形態を残しています。大きな傘の形をした風流傘が特徴です。綾傘鉾は江戸時代後期の一時期曳鉾として巡行に加わっていたそうです。幕末の大火で消失後、変遷を経て昭和54年(1979)から現在の形で山鉾巡行に復活しています。 垂(サガ)りは「飛天図」です。 傘上に、御神体と金幣が飾ってあります。 こちらの垂(サガ)りは、人間国宝の染織家森口華弘が手がけた「四季の花図」。昭和54年(1979)作。 第16番「太子山」が続きます。御神体は白装束姿の16歳の聖徳太子像です。四天王寺建立に関わり杣入りされた逸話から、真木に杉を用いています。他の山では松を使っていますので、唯一杉を用いる山です。 胴懸は「生命の樹」やクジャクがモチーフで、想像上の花や鳥、ゾウなどが極彩色であ しらわれています。ベトナムで刺繍を施し日本で仕上げる形で平成3年(2018)に新調。 水引は組紐の七宝編みで、胴懸を透かして見せるというおもしろさ。 第17番は「月鉾」です。鉾の鉾頭に「新月」をいただき、天王座に月読尊を祀ることから鉾名がついています。山鉾の中で最も高く、最も重い鉾だそうです。 辻の中央に至れば、同様に辻回しの準備が始まり、鉾の向きを順次回して行きます。 稚児が明治45年から稚児人形に代わりました。3代目伊藤久重作の美少年人形『於菟麿』が載っています。 天水引は円山応震の下絵による「霊獣図刺繍」、 下水引は皆川月華による「花鳥図」です。 辻回しを無事終えると、御池通をゆったりと進んで行きます。 左右の胴懸にはインドやトルコの絨毯が用いられています。 見送は皆川月華作「湖畔黎明図」です。前祭の山鉾巡行は、第23番まで、さらに6基順次近づいてきています。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*菊水鉾 :「祇園祭」*保昌山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -保昌山- :「京都市下京区」*綾傘鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -綾傘鉾- :「京都市下京区」*太子山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -太子山- :「京都市下京区」*月鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -月鉾- :「京都市下京区」*月鉾 ホームページ1) 再建70周年の菊水鉾、当時の幕で堂々と 京都・祇園祭の山鉾巡行 :「産経新聞」2) 祇園祭で巡行の太子山、240年ぶりに胴掛新調 ベトナムの工房で「生命の樹」 2018.6.9 :「産経新聞」補遺綾傘鉾 :「KYOTOdesign」冷泉家の赤熊(しゃぐま) :「京観深々」三輪晁勢 :ウィキペディア皆川月華 :ウィキペディア森口華弘 :ウィキペディア壬生六斎念仏講中 ホームページ 綾傘鉾囃子方壬生六斎念仏保存団体連合会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 7回のシリーズでご紹介
2023.08.06
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河原町御池の辻に到着した第7番の「木賊山(とくさやま)」です。辻で、担ぎ手は早速、山を担ぎ上げてぐるりと回転するパフォーマンスを披露します。世阿弥の謡曲「木賊」に題材を得た山です。わが子と行き別れた悲しみに木賊を刈る翁が御神体です。 四条傘鉾の距離を保つために待機。 御池通を進み始めます。御池通は山を押して行きます。多分、どの山も御池通の観覧席の途中で、山を回すパフォーマンスを披露するのではないでしょうか。観覧客には山の御神体や懸装品の全体を眺めてもらえますから。あくまで想像の域ですが・・・・・。 水引は、道釈人物刺繍。蝦蟇仙人や寿老人、西王母などの姿が刺繍されています。 右胴懸は、中国故事人物図の刺繍。平成11・12年(1999・2000)に復元新調。 見送は、中国明代の牡丹双鳳文様綴錦で、復元新調したもの。 第9番は「鶏鉾」です。 稚児人形は文久3年(1863年)に製作されたものとか。 つまり、この時に生稚児から稚児人形に変わったと考えられています。 鶏鉾の名の由来は、『古事記』の天の岩戸の物語に登場する「常世の長鳴き鶏」に取材したという考えかたと、中国古代の堯の時代の「諫鼓」の故事によるという考え方とがあるようです。 辻回しの準備が進んでいます。 1回目の回しがいよいよ、始まります。 音頭に合わせて引き綱を力強く引く、引く、引く・・・・。車輪を押す、押す、押す。 下水引は「唐宮廷楼閣人物図刺繍」。江戸時代後期の四条派絵師松村呉春の下絵。 二番水引は「緋羅紗地大鶏頭(ダイケイトウ)木瓜巴紋刺繍」。 三番水引は「紺地雲文様窓絵四季花鳥図」。二番と三番は令和2年(2020)の新調。 右胴懸は清水寺の重要文化財の絵馬『朱印船』を織り表した綴錦。昭和55年(1980) の 新調。鶏鉾の守護神、住吉明神にちなむそうです。 正面の天水引は「金地日輪瑞雲麒麟図」の復元新調。オリジナルは文政8年(1825)製。 側面の天水引は八坂神社の御神紋。五瓜に唐花の木瓜(モッコウ)紋と三つ巴紋です。 最後の回しを準備中 御池通を進み始めました。 見送は『イーリアス』に登場するトロイアの戦争物語を題材にしたタペストリー。 オリジナルは、16世紀後半頃のベルギーのフランドル製。今は復元新調品を使用。 第10番の「油天神山」です。正面には「天神山」の扁額を掛けた朱塗りの鳥居を立て、金箔置きの社殿には、菅原道真の像(天神像、寛永7年/1630年製作)が安置されています。もと風早家に伝来し、後に町内の祠に祀られてきた神像を遷座させての巡行です。 前懸は雲龍文様の繻子地錦。平成6年(1994)に新調。 担ぎ上げて、山を回し始めました。全周のご披露です。 2回目を回してきたところ。パフォーマンスには観覧客からどよめきが湧き起こります。 水引はパリのクリュニイ博物館所有のタピスリーから着想を得た図案だそうです。 平成18年(2006)に新調。 左右の胴懸は前田青邨原画による紅白梅図で、平成12・13年(2000・2001)に新調。 見送は梅原龍三郎下絵による『朝陽図』で、平成2年(1991)の新調。 第11番「孟宗山」が辻にさしかかりました。中国史話「二十四孝」から取材した山です。病身の母のために雪中から掘り当てた筍を右手に持ち、左手には鍬を肩に担いで立つ孟宗の姿が御神体です。 右側面の胴懸は平山郁夫原画「砂漠らくだ行(夕)」によるもの。 左側面は「砂漠らくだ行(日)」と対に。平成20・21年(2008・2009)に新調。 孟宗山が御池通を進み始めました。 見送は竹内栖鳳の肉筆による「孟宗竹薮林図」の複製原画です。 第12番の「霰天神山」が続きます。こちらも天神さんです。序でに、くじ引きでの結果は、山は山だけで順番をカウントする様ですので、霰天神山の場合は、くじの順番は「山八番」となります。永正年間(1504~1520) 京都に大火が発生しました。その時、時ならぬ霰が降り、一寸二分(約3.6cm)の天神さまも降臨され、鎮火したという故事を題材にした山です。こちらは、「天神」の扁額が掛けられた朱塗りの鳥居と唐破風春日造の神殿が搭載されています。神殿には一寸二分の天神像が安置されているそうです。欄縁の間際に神殿を囲む形に廻廊が設けてあります。 前懸は16世紀にベルギーで製作された「イーリアス」物語を描いた毛綴です。 今は平成21年(2009)に復元新調したものが使われています。 左右の胴懸は上村松篁(昭和60年/1985年新調)、上村淳之(平成14年/2002年新調) 親子の原画による花鳥綴織。この右側は上村淳之の原画による「銀鶏図」。 後懸は「紅地雲龍宝尽図」で、平成21年(2009)に復元新調。霰天神山はさらりと辻を左折していったような気がします。(記録写真がない)つづく山鉾の魅力細見 -木賊山-参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*木賊山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -木賊山- :「京都市下京区」*鶏鉾 :「祇園祭」*鶏鉾 ホームページ*山鉾の魅力細見 -鶏鉾- :「京都市下京区」*油天神山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -油天神山- :「京都市下京区」*孟宗山 :「祇園祭」*霰天神山 :「祇園祭」*霰天神山 ホームページ補遺謡蹟めぐり 木賊 とくさ :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」『木賊』について 親子の愛情と反発 :「粟谷明生の能がたり」イーリアス :ウィキペディアトロイア戦争 :ウィキペディアトロイア戦争 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.05
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第4番は「芦刈山」です。 芦刈山は、謡曲「芦刈」を題材にした山で、芦を刈る翁の立像が御神体人形です。河原町御池の辻に入ると、 山を担ぎ上げて、担ぎ手がその場で山をグルグルとまわします。 見送は、山口華揚原画の「鶴図」綴織です。昭和60年(1985)作。 欄縁の上には25本の芦が立てられ、一面の葦原を表現。今年新調されたそうです。 ぐるっと回さされて、再び前懸が見えます。 前懸も山口華揚原画で緞通「凝視」。昭和61年(1986)作。 このライオンは何を凝視しているのでしょうか。 パフォーマンスを終えると、御池通を西に進みます。 左右の胴懸は尾形光琳原画の「燕子花図」です。平成5・6年(1983・1984)に復元新調。 第6番は「函谷鉾」です。中国の函谷関という関所での有名な故事を題材にした鉾。斉の孟嘗君が家来に鶏の鳴声を真似させて、開門時刻が来たと錯誤させることで、開門させ、難を逃れたという逸話です。 大屋根の上には真木が建てられています。赤い布で囲われた箇所は真木を支える部分で、あみ隠しと言います。その上部から命綱がのびていて、大屋根に乗る人をサポートします。榊(サカキ)の上下には、藁製の赫熊(シャグマ)と称される飾りが見えます。榊の下には角幟が装着され、榊から少し離れた上には天王座が設けてあります。天王座には雌雄の鶏をそえてあるとか。天王座から少し離れた上に人形(孟嘗君)が据えられています。その上に、吹散(フキチリ)が装着されています。一番上が鉾頭です。鉾のシンボルマークです。函谷鉾は月と山型です。月は三日月形。 長刀鉾以外は稚児人形が乗っています。函谷鉾の稚児人形は「喜多丸君」 修復を終え、今年が初披露だそうです。仏師七条左京作。モデルと等身大。 鉾が辻に到着。 辻回しの準備が始まり、整うと 第1回目の回しが音頭に合わせて実施され、御池通の方角にまず一定の角度、向きを変えます。 その作業がくり返されます。 鉾の右側面をクローズアップここでご紹介した写真から辻回しの裏方さんの作業を切り出してみます。 車輪の下と傍に、竹を敷き並べています。 前部の右車輪の軸部分に、曳き手が引く太い曳綱(ロープ)がかけられます。 曳綱が掛けられた状態がよくわかります。 鉾の下に、辻回しの部材(竹)等を片付ける人、水をかけた手提げ桶を片付けに入る人。 御池通を西に進行するための最終段階に入っています。 前懸は、染織作家皆川泰蔵作「モン・サン・ミシェル」を前懸に仕立て直したとか。 平成10年(1998)に皆川泰蔵氏より寄贈された作品だそうです。 下水引は、染織作家山鹿清華(1885~1981)の図案製織による手織錦『群鶏図』 昭和12年製作。 右胴懸は、インド緞通と中国緞通「虎に梅樹図」「玉取嗣子」の3枚継ぎです。 こちらは平成4年(1992)に復元新調されたもの。 見送は少し見づらいですが、皆川泰蔵作『エジプト天空図』。昭和55年(1980)新調 第6番は「郭巨山」。中国史話「二十四孝」の一つ、郭巨の逸話を題材にしています。 御神体は郭巨の人形と御童子が乗り、彫りだしたとされる金の釜が載せられます。山では、一般的に朱大傘が用いられていますが、この郭巨山では、日覆い障子の屋根が設けてあるのが特徴的です。 右胴懸は、上村松篁原画「春雪」。雪持竹と鴛鶯図。昭和62年(1987)作。 見送は「郭巨漢詩文刺繍」です。橋本循賦詠、千宗室揮毫。昭和54年(1979) 新調。 郭巨山は、あっという間に辻を回って、御池通に進んで行きました。 第7番は「四条傘鉾」です。淡萌黄色の衣裳を着て、飾り笠を被った地域の小学生たちが先導しています。踊り方として巡行に参加。踊りは滋賀県滝樹神社に伝わる「ケンケト踊」を参考にして復元されたそうですが、パフォーマンスを見る事はできませんでした。御池通を進行中には、その踊りを披露するのでしょう。 赤幣と若松を載せたこの傘そのものが御神体で、『洛中洛外図』や文献を参考に復興された傘鉾です。 傘の垂りは染色作家鈴鹿雄次郎作で、絹織物『麗光鳳舞之図』。魔除けといわれる七色の雲を背景に、鳥が飛ぶ姿を表しているそうです。全体の図柄を見られないのがちょっと残念。四条傘鉾も、あっさりと辻を通過して行きました。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*芦刈山 ホームページ*芦刈山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -芦刈山- :「京都市下京区」*函谷鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -函谷鉾- :「京都市下京区」*郭巨山 :「祇園祭」*郭巨山公式サイト*山鉾の魅力細見 -郭巨山- :「京都市下京区」*四条傘鉾 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -四条傘鉾- :「京都市下京区」補遺演目事典:芦刈 :「the能.com孟嘗君 :ウィキペディア【祇園祭】鉾の上にも注目しよう ~鉾頭/天王座/榊 :「Open Matome」二十四孝 :ウィキペディア二十四孝 :「コトバンク」二十四孝童子鑑 郭巨 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -1 長刀鉾・山伏山・白楽天山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.04
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=== 2023.7.20 === 南の空9時20分頃に眺めると、夏だなと感じる雲がどんと見え、青空が広がっています。南西方向の空 西方向の空 一方、東方向の空はくもり。稜線上にはグレーの雲が灰色の濃さの異なる雲の塊が重層的に空を覆っています。南~西方向が青空で、東の稜線上がくもりとは良く見るパターンですが、雲の姿がともに夏だというのがおもしろいところ。 東方向の空15時20分過ぎに眺めると、雲の姿が大きなひとかたまりの横雲に発展し、稜線の上空に滞留している感じです。所々の雲の切れ間から青空が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空18時半頃に撮った空です。雲の姿が一転して、かろやかな白雲が浮かぶ景色になっていました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上はなんと雲が全て飛び去り、快晴状態に一変していました。この姿が、朝から見られたら、気分が良かったのに・・・・という思いです。=== 223.7.21 === 南の空 9時20分頃に撮りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 一筋の白い雲。飛行機が通過した軌跡でしょうか。 東方向の空稜線の上空に少し白雲が浮かんでいますが、快晴の部類の青空です。 やはり こういう空を朝から眺めると気分が良い! 東方向の空14時25分頃に眺めると、稜線の上には、夏雲が出ていました。 こういう雲ならしばらく見ていてもいい・・・。 南の空南西方向の空 西方向の空 この後、記録写真を撮りませんでした。何をしていたのだろう・・・・。=== 2023.7.22 === 東方向の空 この日も晴れ。白雲少し浮かぶ、です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空南~西方向の空は快晴状態ですが、東の稜線上空には、まさに夏雲がぐんと伸び上がっていました。この日は、この後外出。某大学で無料の公開講座を聴講し、その続きに京都国立博物館の名品ギャラリーを鑑賞してきました。もう1ヵ所寄り道してから帰宅。 東方向の空18時35分頃に、稜線を眺めると、朝の景色とはうって変わり、グレーな雲が空を覆う状態でした。 南の空 グレーを帯びた雲が出て来ていますが、青空です。南西方向の空 西方向の空 西の空にも、グレーの雲が広がっていました。=== 2023.7.23 === 南の空9時10分頃に撮りました。朝から晴れ。白雲が多く浮かんでいます。天気予報は、一日晴れです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空よくあるパターンです。グレーの雲が稜線上空を覆っています。この後、午前の時間帯を中心にして、祇園祭後祭の山鉾巡りに出かけました。宵山の夜の混雑は敬遠して、青空の下での山鉾の姿や飾り席の様子を見たかったので。 東方向の空19時頃に撮りました。稜線上空は、朝と変わらずグレーの雲がその姿を変えつつも居座っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南~西方向の空もグレーの雲が広がってきていました。明日の天気がちょっと気になります。=== 2023.7.24 ===天気予報では、曇りや雨を予報していた時期もあったのですが、直近では、朝から晴れに好転していました。祇園祭後祭の山鉾巡行は17日同様に、天気に恵まれた巡行日になりそうです。それ以上に、この日も熱中症警戒アラートがでていたと記憶します。山鉾巡行を見物に出かけたかったのですが、午前中に別件があり、出かけることが出来ませんでした。ばたばたと朝から別件で外出。 南の空帰宅後、16時5分頃に撮った空模様です。これも夏雲の一種でしょうか。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線のすぐ上に白雲が漂っています。その上空は青空の広がり。 東方向の空18時35分頃に眺めると、稜線直上は白雲が立ち上がるように見えて、その向こうにグレーの雲が広がり、その上空に青空が見える姿に変化していました。 南の空は快晴状態です。南西方向の空 西方向の空 南~西方向の空は快晴です。今年の祇園祭は、前祭・後祭の宵山・山鉾巡行はともに天気に恵まれて無事終わったようです。祇園祭の行事はこの後も7月末日まで続iいたのですが。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.04
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京阪電車三条駅で下車して、川端沿いに北に向い、御池通を西に向かいます。御池大橋から鴨川の上流側、北方向の景色です。7月17日(月)、熱中症警戒アラートが発令されていました。 御池大橋上から、鴨川の下流側、三条大橋を眺めた景色。山鉾巡行を河原町御池近辺から見物しようと考え、この交差点付近が10時20分頃の予定なので、それに間に合う位で出かけてきました。当初は、適当に場所を移動しながら巡行を眺めようと思っていたのですが、現地に到着して写真の撮りやすそうな場所を探していて、たまたま比較的良い立地を見つけました。河原町御池の北東側です。その結果、巡行の最初から最後まで、同じ位置から今年の前祭山鉾巡行を観覧することができました。定点で最初から最後まで観覧したのは久しぶりでした。 「祇園會」の幟につづいて、「長刀鉾」の幟が先頭を進みます。 長刀鉾は古来より「くじとらず」とされ、前祭の先頭をきる鉾という決まり事になっています。四条麩屋町での注連縄切りは山鉾巡行の始まり報道のハイライトの一つです。その長刀鉾が四条通と御池通の辻に入ってきました。 長刀鉾には、現在唯一の生稚児が鉾の舞台正面に乗っています。従者の稚児二人と共に。 ここから、辻回しの準備が始まります。鉾の車は軸が固定されているために前に回転するだけです。そのため、四条通を北に進み、御池通を西に進むには、この河原町御池の中央寄りで、車輪の下に竹を敷き並べ、竹の表面に水をかけて滑りやすくして、鉾の曳き手が結集して力を合わせ、いわば強引に鉾の向きを変えさせるのです。ほぼ30度くらいずつ、通常3回で、鉾の方向を90度回転させます。これが「辻回し」です。この熟練技と全員一致の引きにより、鉾が向きを変えるきしみと揺らぎ、ぎゅーっと鉾が動く瞬間のパフォーマンスが見せ場の一つになっています。裏方さんの活躍です。鉾の上、舞台では囃子方が変わらずにお囃子を継続しています。 鉾の曳き手が御池通側に移動していることがお解りでしょう。 1回目の辻回しを終えると、すぐに2回目の準備が始まります。車輪と竹の位置関係を次のズラシがうまく浮くように調整配置が行われます。水の供給のため、手提げ桶が行き来します。 回転作業をくり返すたびに、観客からどよめきが起こります。この「辻回し」が終わると、 胴懸は、中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯の復元品が使われています。下水引は緋羅紗地五彩雲麒麟図刺繍で、1755年製作の作品の250年ぶりの復元新調。計画的に全面新調され平成20年度(2008-2009)に新調完了したと言います。(資料1)長刀鉾は正面を御池通に向け、御池通を巡行する大勢に入ります。御池通には観覧席が設けられています。50有余年、祇園祭の山鉾巡行を見続けています。しかし、観覧席から巡行を眺めたことはありませんねえ・・・。 見送は伊藤若冲原画の「旭日鳳凰図」綴織です。若冲生誕300年を迎えた年(2016年)が、長刀鉾保存会設立五十周年であり、それを記念にこの見送が新調されたそうです。(資料2,3) 2番は「山伏山」です。 山は裾幕で下部が隠れていますが、小さめの車輪が付いています。巡行中の直線道路では山を押していく形で巡行しますが、各辻にかかると、担ぎ手が山を持ち上げ、辻のところでくるりと360度山を担いで回って見せます。そのパフォーマンスで、観客は山の四周、全体を眺めることができます。こんな具合です。 見送は龍波濤文様の綴錦。1999(平成11)年に復元新調。 前の水引は桐竹霊獣図刺繍。 側面の水引は養蚕機織図綴錦で、2020(令和2)年に復元新調。 山が回わされはじめると、観客は鉾の辻回し同様に自然と声を発し、どよめきが起こります。この観客の呼応が大きいと、山の担ぎ手も一段力が入ることでしょう。 御池通への向きが整いました。 3番は「白楽天山」です。 河原町御池の辻の手前で待機中。辻に入ると、山を担ぎ上げ、山を回すパフォーマンスの実施です。 観客の興奮が跳ね返ります。 右の胴懸は、18世紀ベルギー製のタペストリー「女狩人」。 見送は山鹿清華作「北京万寿山図」の綴織。 左の胴懸は17世紀のフランドル地方製ゴブラン織「農民の食事」。 1978(昭和53)年にフランスから輸入されたものだとか。 前懸はトロイアの戦争物語毛綴織のを今年(2023)復元新調。 2160年ぶりに新調された。 前水引は西洋唐草文様毛綴織。これも同時の復元新調品。(資料4,5)つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*企画特集「祇園祭」 京都新聞*長刀鉾 :「祇園祭」*山伏山 :「祇園祭」*白楽天山 :「祇園祭」*山鉾の魅力細見 -長刀鉾- :「京都市下京区」*山鉾の魅力細見 -白楽天山- :「京都市下京区」1) 祇園祭・長刀鉾の幕を新調/下水引後面、250年ぶり :「四国新聞社」2) 長刀鉾の装飾品 :「公益財団法人 長刀保存会」3) 祇園祭・長刀鉾の見送を新調 伊藤若冲の「旭日鳳凰図」が原画 :「産経新聞」4) 祇園祭 山鉾「白楽天山」の飾り「前懸」160年ぶりに新調 :「NHK」5) 祇園祭 白楽天山 の 前懸・水引が完成しました 祭礼幕の復元新調 :「KAWASHIMA」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -2 芦刈山・函谷鉾・郭巨山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -3 木賊山・鶏鉾・油天神山・孟宗山・霰天神山 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -4 菊水鉾・保昌山・綾傘鉾・太子山・月鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -5 伯牙山・占出山・放下鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -6 岩戸山・船鉾 へ観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡行 -7 番外編:新町通にて帰路の山鉾を眺める へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ 7回のシリーズでご紹介
2023.08.03
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=== 2023.7.16 === 南の空9時10分頃に眺めると、雲が活発に広がっていますが、雲の間から青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 西の方向も同様です。 東方向の空稜線のすぐ上には青空が広がり、その上空には塊のような雲が集まっています。雲は広がっていますが、くもりというより晴れです。 東方向の空17時過ぎに眺めると、稜線上空は正に快晴に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向も同様に快晴です。終日晴れ日となりました。=== 2023.7.17 === 南の空9時20分頃に取りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 ほんの少し雲が見えます。 東方向の空稜線上空もまた、少し雲が浮かんでいますが、朝から青空が東の空で見える頻度が高くなるのは、やはり夏という気候の影響でしょうか。いつからかは記録していないのですが、熱中症警報が発せられる日が続くようになってきました。この日も警報が出ていました。が、この後、祇園祭前祭の山鉾巡行を見物に出かけました。 東方向の空帰宅後、16時45分頃に眺めると、稜線のすぐ上に雲が浮かんでいますが、その上は青空一色です。 南の空南西方向の空 西方向の空 この日も終日晴れ。=== 2023.7.18 === 南の空9時5分頃に空を見上げると、この日も快晴です。南西方向の空 西方向の空 雲がみられないのが残念なくらいです。 東方向の空ごく薄いベールのような雲が稜線上空にかかっているようですが、青空です。 東方向の空15時頃に撮りました。稜線上空をグレーの雲が厚い布という感じで広がっています。 南の空青空がうかがえますが、雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 南西方向から西方向にかけては、グレーがアクセントになったおもしろい形の雲が浮かんでいます。 頭上の空 南の空17時40分頃に撮りました。雲が少なくなっています。南西方向の空 西方向の空 快晴の空です。 東方向の空布のような雲が薄くなり、青空がうかがえるほどに変化しています。終日晴れでした。=== 2023.7.19 === 南の空15時20分頃に眺めると、グレーの雲が空を覆っています。朝からくもりの空という状態が続いています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体がグレー色。雨が降らないくもり空。 東方向の空17時35分頃に撮りました。グレーの雲に変化はみられますが天気は変わらず。 南の空南西方向の空 西方向の空 終日くもりでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.03
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=== 2023.7.12 === 南の空8時10分過ぎに撮りました。朝から晴れ。気持ちが良い。南西方向の空 西方向の空 頭上の空夏の雲の姿は様々な姿に変化し、おもしろいですね。綿菓子のようにやわらかい雲、白さを強調するような雲、厚くて力強そうな雲、全体でモクモクとダイナミックな雲、独立・孤高のような雲・・・・・など。今朝の雲は、綿菓子のような雰囲気を漂わせています。 東方向の空夏季になってから、晴れの日の稜線上空の雲の姿と全体の色調も変化が加わってきている気がします。明るさが強くなってきた感じです。こちらの雲は、南から西方向の雲とは違った感じです。 15時半頃に眺めると、空は一転して曇り空になっていました。稜線上にはグレーな横雲が稜線付近より上空で層をなしています。 南の空南西方向の空 西方向の空 急激にグレーな雲が広がってきた印象です。やはり、雨になりました。 南の空17時45分頃に撮りました。この頃には雨は止み、くもり空に戻っていました。南西方向の空 西方向の空 南東方向の空には、白い雲が湧き上がってきている感じに見えます。 東の空暦は7月から8月に変わりました。もう少しまず時を追いかけます。雲の姿の変化に集中します。=== 2023.7.13 ===いつ頃からかはわかりませんが、9時過ぎに外を眺めると小雨。ベランダの竿は濡れて雨滴が連なっていました。 南の空南西方向の空 窓際からだけ撮りました。よく見る雨の時の空の雲の状態です。 南の空12時5分頃に撮りました。雨は止み、くもり空です。グレーに濃淡が加わり、動きが加わった雲に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上空をモコモコと大きな塊のグレーの雲が覆っています。=== 2023.7.14 === 南の空11時20分過ぎに撮りました。空はくもり。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 東方向の空14時45分頃に眺めても、くもり空であることは同じ。雲の姿は変化が見られます。稜線上空は、のっぺりとグレーの布を広げた感じに。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の背後には太陽が変わらず照らしているようです。この後、写真は撮りませんでしたが、天気は夕刻頃からは晴れに向かいました。=== 2023.7.15 === 南の空9時35分に撮った空模様。南西方向の空 西方向の空 グレーっぽい大きな雲が集合してきた感じですが、各所に青空がうかがえます。 東方向の空稜線傍に白雲が浮かび、上空にはダークグレーの雲が覆っていますが、稜線上には明るさが見られます。 東方向の空14時半過ぎに、稜線方向を眺めると、くもり状態は変わりませんが、雲の姿はには大きな変化が見られます。雲が色と形を変えて、二層に棲み分けている感じに。それも下方が軽く、上方が重たい印象を与えます。明るさが見られます。 南の空南西方向の空 西方向の空 西から晴れてきている感じです。 頭上の空 南の空18時15分頃に眺めると、青空に浮かぶ雲という感じになり、晴れが広がっていました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上もはっきりと晴れの空です。この時は、色々な雲の姿のバリエーションが並存する空でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.08.01
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前回最後に、六角通を経由で烏丸通を下がったと書きました。なぜか?実に単純な理由なのです。祇園祭前祭の山鉾の所在地図を見ずに、長年の経験で巡るという悪い癖がしからしめたのです。山伏山の会所を出ると、室町通を北に上りました。室町通と蛸薬師通との辻で、北、東西を見ると、山鉾らしき姿は何も見えません。 (無くて当然なのです。前祭での山鉾の所在地は山伏山が北限になります。)ちょと蛸薬師通を西に入ってみました。通りの北側のとあるビルで目にとまったのがこれ! 休み山となっている「布袋山」が飾ってありました。かなり以前にこの展示に出会っていましたので、久しぶりにガラス越しに拝見しました。ここは姥柳町です。 (事後に調べますと「エスエムプラザ京都四条烏丸」と称するマンションの玄関左側) ガラスが鏡面反射して見づらいですが、17日の宵山には、厨子に安置されて布袋山の御神体・布袋尊と二童子が展示されていました。布袋尊は平成21年(2011)の鑑定調査で木製像と判明したそうです。山鉾所在地図を見ていませんので、気楽にもう一筋上がってみようと、室町通に戻りました。 室町通を上り始めて、通りの西側にある町家の窓越しに見た、屏風祭の飾りです。 ここは山鉾巡りの際、屏風祭をされている箇所の一つとして、通りから拝見している一軒です。今年も見ることができたなぁ・・・と。室町通と六角通との辻で、北、東西を眺めても、上記の理由で山鉾はあるはずがありません。そこで、六角通を東に歩み、烏丸通に出ることにしました。烏丸通の西側歩道から南を眺めると、山の姿が遠くに見えます。 近くまで行くと「孟宗山」です。錦小路通下ルの笋(たけのこ)町に所在します。 西側歩道から眺めた孟宗山の側面 会所の入口に掲示されている駒札です。会所の飾り席を拝見に中に入りました。 孟宗山の御神体が安置されています。御神体は孟宗と称する人物。御神体の手前に、見送を懸ける鳥居が立ててあります。 中国、呉の国の史話を題材にした山です。「病身の母のために、雪の中から掘り当てた筍(たけのこ)を喜々として持ち帰る孟宗の姿を表す」(企画特集より)そうです。これも、『二十四孝』の中の一編です。 黒漆塗の鳥居を飾る金具は牡丹菊文様です。桁の中央部には、八坂神社の神紋である五瓜に唐花紋である木瓜紋を中央に、左右に三つ巴紋が装着されています。 懸装品は、見送の一部だけを撮ることができました。竹内栖鳳肉筆の見送である白綴地墨画孟宗竹薮林図、昭和15年(1940)作の複製原画です。他に展示されていた懸装品は、諸物の展示の重なりで残念ながら撮れませんでした。 会所の庭の突き当たりに孟宗山の諸品を収納する蔵があります。ここも他の蔵と同様に「孟宗山」と表記されています。 蔵の手前右側の奥、庭の南端と思いますが、地蔵堂があり、「延命地蔵菩薩」と墨書された赤提灯が吊り下げてあります。 円光背を刻した石造地蔵菩薩像が安置されています。お地蔵さまを拝した後、会所を後にしました。ほんの少しの距離になる烏丸錦小路通西入ル占出山町の「占出山」を巡るのをうっかり忘れてしまいました。最後まで巡ってきたと思い込んだせいでしょうか・・・。もう一つの失敗は、「保昌山」を訪れなかったこと。保昌山は、高辻東洞院通下ル燈籠町に所在し、ここだけが少し飛び地になっているのです。来年以降への課題が残りました。7回シリーズになりましたが、これで今年の前祭山鉾巡りの覚書を兼ねたご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*山鉾町で入手した京都新聞社 企画特集「祇園祭」*孟宗山 :「祇園祭」*布袋山 :「京都 kyoto」*布袋山 :「京都通百科事典」補遺京都の伝統 祇園祭 孟宗山 保存会青年部 facebook占出山 :「祇園祭」保昌山 :「祇園祭」山鉾の魅力細見 -保昌山- :「京都市下京区」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 月鉾・綾傘鉾・鶏鉾・白楽天山・岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 紅梅殿・管大臣神社・木賊山・船鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 四条傘鉾・蟷螂山・郭巨山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 放下鉾・霰天神山・山伏山 へ過去に祇園祭についてご紹介したものを一覧にして併記します。こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -1 御旅所・冠者殿社・斎竹・大船鉾 5回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭前祭 Y2022 山鉾巡り -1 長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾・白楽天山 6回のシリーズでご紹介探訪&観照 京都・祇園祭前祭 Y2021 2年ぶりの山鉾 -1 御旅所と長刀鉾 9回のシリーズでご紹介観照 京都・祇園祭・後祭 御旅所(還幸祭の前に)観照 京都・祇園祭・後祭 山鉾巡行 -1 橋弁慶山・北観音山・鯉山・八幡山・黒主山 2回のシリーズでご紹介観照 京都・祇園祭・後祭 花傘巡行観照 祇園祭・後祭 Y2019 宵山巡り点描 -1 大船鉾・南観音山ほか 5回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 後祭 -1 四条御旅所の神輿、鉾建ての位置決め 7回のシリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾) 鉾建てと山鉾町巡りを7回シリーズでご紹介観照 祇園祭 Y2018 前祭 鉾建て 長刀鉾の鉾建てのプロセス探訪&観照 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 12回のシリーズでご紹介 (八坂神社御旅所、後祭宵々山、還幸祭:御旅所と八坂神社西楼門前)探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 22回のシリーズでご紹介 (5つの鉾建て、なわがらみ技法、神輿洗式、前祭宵々山、神幸祭神輿渡御)観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 山鉾巡行 -1 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 花傘巡行 -1 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -1 橋弁慶山 11回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 5回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山 2回のシリーズでご紹介観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -1 菊水鉾 8回のシリーズでご紹介以上
2023.07.31
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新町通を北に入ると、「放下鉾」が見えます。小結棚町に所在します。鉾に近づきます。 放下鉾の鉾頭は太陽・月・星を象った形です。三つの光を象ったことから三光形と称されています。駒形提灯に赤色で描かれた意匠の紋はこの三光形を表していると思います。またこの形状が州浜に似ていることから、別名州浜鉾と呼ばれてきたそうです。 下水引は、平成6年(1994)から使われていて、栂尾高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織です。三番水引は、駒井源琦の下絵による青海波におしどり図綴織の復原品です。 南東側から見上げた反対側です。ご覧のように、前懸や胴掛には花文様のインドやペルシャの絨毯が用いられています。 大屋根の下の妻飾りは、幸野楳嶺(1844~95)の下絵を元にして、三羽の丹頂鶴(後面二羽)が舞う姿を高浮彫したものです。 後部の妻飾り彫刻 放下鉾の後部の全景です。新町通を北に歩み、錦小路通で右折して、東に進めば 「霰天神山」です。「火除天神山」とも呼ばれます。天神山町に所在します。 胴懸には透明の保護シートが掛けてあります。残念。会所の入口から細長い通路を奥にすすむと、飾り席があります。 座敷の奥の壁面に沿って懸装品が懸けられ、その前に山を飾る品々が展示されています。拝観者の流れの関係と距離があるため、そして、一部撮影禁止箇所もありましたので、全景を撮るだけにしました。この座敷の右端には朱塗りの鳥居と社殿が置かれています。左端手前に、角金具と隅房飾りが展示されています。角金具は松菊楓文様です。房飾りに装飾金属板が添えてあることに気づきました。他の山鉾では見かけない特徴だと思います。角金具のために、その背後の胴懸は見えませんが、正面にみえる胴懸と併せて考えると、これらは、上村松篁(昭和60年新調)、上村淳之(平成14年新調)親子の原画による花鳥綴織です。右端に見えるのは前懸で、16世紀にベルギーで製作され「イーリアス」物語を描いた毛綴の復元新調品です。平成21年(2009)。懸装品の前に並んでいるのは、山の上に乗る天神さまの社殿を囲む形で、欄縁にそって巡らされる朱塗り極彩色の廻廊です。 通路の一番奥には、霰天神山の蔵があり、その前に巡行当日山の先頭になる幟が置かれていました。この辺りで切り上げて、次の山巡りに向かいました。会所を出て通りを東に歩めば、錦小路通と室町通との辻です。辻に立ち四方を眺めましょう。錦小路通の東方向には占出山、西方向には今巡って来た霰天神山です。室町通の南方向には菊水鉾、既に巡ってきました。北方向を見れば山が見えます。そこで、室町通をまず上がっていくことにしました。 懸装品を飾らずに、山建てを完了した状態の山が見えます。駒形提灯の赤提灯に「山伏山」と墨書されています。ここは山伏山町です。 山車がいわば裸のままにしてあるので、逆にその構造をみられる楽しみがあります。私が好きなのは、組立式の木組みの構造体を荒縄で括りあげて締め付け、巡行できるようにする舞台裏、括り付けられた縄の生み出す美しさです。 山のすぐ近くに、「山伏山町家」という扁額を掲げた会所があります。会所の2階の正面が解放され、左には「山伏山」と書した赤提灯、左には巡行の時、先頭を行く幟が見えます。 2階の中央に立つのは、御神体の山伏人形です。山伏が修行のために峰入りする姿を表しています。平安時代の修験者である浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)だとされています 会所の1階は通りから眺められる飾り席になっています。会所内に入っての拝見は有料でしたので、通りから眺めました。左側の壁面上部には、水引が懸けてあります。江戸時代後期の作で、養蚕機織図の綴れ織です。その下は胴懸で、花卉胡蝶文様の綴錦です。その前に欄縁が置かれています。 正面には、見送が見えます。全景は見えませんが、龍波濤文様の綴錦で、平成11年(1999)に復元されたそうです。 会所内の通路を挟んで右側壁面には、懸装品がずらりと展示されています。それぞれを斜めからになりますがズームアップで撮ってみました。 奥側の展示品。不詳。 中央の展示品これは多分、かつて使われてきた見送でしょう。今年の巡行での見送りは上掲の龍波濤文様の綴錦が懸けられていました。 手前の前懸前懸は雲龍文様の刺繍です。 座敷には欄縁とその上に、見送を懸ける鳥居が展示されています。 見送を懸ける黒漆塗の鳥居は要所要所に装飾金具が施され、面取りされた桁部分には装飾金具の間に飛鶴が装飾されています。 欄縁は黒漆塗でシンプルですが、その四隅は雲龍文様の装飾金具が取り付けられていて、欄縁の各側面には、 ここにも様々な姿態の飛鶴が。飛び交う様が躍動感に溢れる飾りとして用いられています。余談ですが、天台宗の僧であり山伏の修行をした浄蔵貴所は霊験譚で有名な人物です。(資料1,2,3)*平将門の乱の調伏。大威徳法を修した。*菅原道真公の祟りに悩む藤原時平への護持祈念*傾いていた八坂法観寺の塔を法力により元に戻した。*一条戻橋の逸話:父親の三善清行が亡くなった時、その葬列に堀川の一条橋で追いつき、呪力で父を蘇生させた。この辺で一区切りです。この後、室町通を上り、六角通を経由して、烏丸通を下がることにしました。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*山鉾町で入手した京都新聞社 企画特集「祇園祭」*放下鉾 :「祇園祭」*霰天神山 :「祇園祭」*山伏山 :「祇園祭」*祇園祭-山伏山の名宝- :「京都文化博物館」1)「一条戻橋」の名は、浄蔵が起こした奇跡が由来! :「トラベル.jp」2) 浄蔵 :「コトバンク」3) 浄蔵貴所塔 :「inanage.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 四条傘鉾・蟷螂山・郭巨山 へ載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 月鉾・綾傘鉾・鶏鉾・白楽天山・岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 月鉾・綾傘鉾・鶏鉾・白楽天山・岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 紅梅殿・管大臣神社・木賊山・船鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 四条傘鉾・蟷螂山・郭巨山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -7 布袋山(休み山)・屏風祭・孟宗山 へ
2023.07.30
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油小路通を上り、四条通を横断して北側歩道を東に進みます。これは「四条傘鉾」を西側から眺めた景色です。駒形提灯には「傘」の文字が墨書されています。一筋東の西洞院通までの間に傘鉾町があります。 山車を飾る懸装品には透明の保護カバーが被せてありました。残念。 遠目で撮れば、まあ全体の雰囲気は伝わることでしょう。赤幣と若松を載せた傘そのものが御神体です。明応9年(1500)のくじ取り次第の記録が残り、応仁の乱以前に既にあった鉾だそうです。しかし、元治元年(1864)の大火で衰退し、明治5年(1871)に一旦巡行から姿を消しますが、昭和60年(1985)に本体が復元され、昭和63年から巡行に復活するという歴史を経ています。 正面になる東側からの景色です。四条通を進み、西洞院通を横断してから左折し北に入ると蟷螂山町です。「蟷螂山(とうろうやま)」が見えます。蟷螂山の方から子供達が歌う声が聞こえてきました。 山の正面前で、町内の子供達が並んでわらべ歌を歌っていました。 とうろうやまのおみくじは これよりでます♪ つねはでませんこんばんかぎり♪ ごしんじんのおんかたさまは あけておかえりなされましょう♪ からからからくり からくりおみくじ かまきりおみくじどうどすえ♪ おみくじどうどすえ ちまきどうどすえ てぬぐいどうどすえ てぃーしゃつどうどすえ かざりせんすどうどすえ♪ わらべ歌の歌声を聞きながら、蟷螂山を見上げます。宵山までは覆屋が設けてありますので、少し見づらいですが、すぐ傍で見られるのがやはり山鉾巡りの楽しみです。 山車には、縮小サイズの御所車が搭載されていて、その屋根にカマキリ(蟷螂)が乗っています。 このカマキリはカラクリ人形です。カマキリの前脚と翅が動きます。巡行中には前脚と翅を動かせてみせるパフォーマンスが要所要所で演じられます。この蟷螂山は、中国の故事「蟷螂の斧」に由来します。「昔ある中国の王様が車に乗って移動している時、車の前に小さなかまきりがたちはだかり、王の部下がかまきりを踏みつぶそうとした時、王は小さな体で巨大な車に立ち向かおうとした勇気を讃えて、かまきりを除けて車を走らせるように命じたのです」(図録より)とか。そこで、小さな者が勇気を出して大敵に挑む様子を「蟷螂の斧」と言うようになったと言います。では、なぜ御所車? これは四条隆資(1292~1352)という貴族の車を表しているのです。南北朝時代に、隆資は天皇を守って足利義詮軍と戦い、最後は多くの敵に囲まれて戦死したと言います。この隆資の行動を「蟷螂の斧」と讃えたとか。そこで、蟷螂と隆資の御所車がこの山のモチーフとして融合したそうです。この蟷螂山も、応仁の乱以前からあった山です。渡来人で当町居住の陳外郎大年宗奇が四条隆資の死後25年目の永和二年(1376)、四条家の御所車にその蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれています。しかし、罹災復興をくり返し、四条傘鉾と同様の歴史を歩みます。現在の蟷螂山は、昭和56年(1981)の山鉾巡行で復活して以来の姿です。この山のすぐ傍で、ガラス戸越しに懸装品ほかが道路から見える形で展示されていました。戸の枠や硝子面の反射で写真は撮りづらいのですが、何とか撮った部分図等をご紹介します。 胴懸で瑞苑浮游之図。人間国宝羽田登喜男作友禅です。昭和59年(1984)。 水引と胴懸。懸装品一式は上記を含め、羽田登喜男作友禅。こちらの胴懸は瑞苑孔雀之図です。 旧鯱彫刻 角飾の金具 蟷螂の錺この辺りで蟷螂山を離れ、四条通に戻って、東に進みます。一筋東の新町通までの間両側は郭巨山町です。 四条通の南側に建てられた「郭巨山」。右が南東側、左が南西側から撮った全景です。東側が正面。 四条通の北側から山の側面を撮ってみました。山の周囲を囲む柵は「埒(らち)」と呼ばれます。そこを越えることが許されない区切りを意味します。もともと馬場の周囲の柵の意味だとか。埒外、埒内という言葉が併せて辞書に載っています。(新明解国語辞典)四条通と膏薬図子(こうやくのずし)と称される細い南北の通路との角地に郭巨山の会所があります。この会所は、2023年5月27日の京都新聞報道によると、町家風建物を生かし耐震・増築を施されたことから、「都市遺構を継承する先行事例をつくる」と評価され、「日本建築学会賞」に選ばれました。この会所に飾り席を設けて御神体や懸装品等が展示されています。 入口から眺めた全景です。右側壁面に懸けてあるのは、左前懸です。上村松篁原画「花と汀」で、燕子花と白鷺図。昭和53年(1978)作。 御神体はこの「郭巨殿」郭巨が黄金一釜を掘り当てた瞬間をとらえた姿を表します。郭巨が母親に孝行を尽くしたという故事を題材にし、中国史話「二十四孝」の一つです。 郭巨が発見した金釜ともう一つの御神体「御童子」。郭巨の幸を喜んでいる童子は右手に唐団扇、左手に紅白大輪の牡丹を持っています。 郭巨像の左斜め後ろの壁には前懸が懸けてあります。イラン六英雄図のペルシャ絨毯前懸と思われます。19世紀初頭にトルコ系イラン遊牧民カシュガルの製作によるもので、昭和56年(1981)に吉田光邦氏が寄贈されたとか。 見送「漢詩文」橋本循賦詠、千宗室揮毫で、昭和54年(1979)に新調された作。 右胴懸。上村松篁原画「春雪」で、雪持竹と鴛鶯図。昭和62年(1987)作。 胴懸の左手前に角房掛が展示されています。牡丹厚肉彫の金物で、明治22年(1889)作。隅房の紺色二段結び長房(4本)は、平成11年(1999)の新調。角房掛の左の壁には、ペルシャ絨毯の後懸が展示されています。 山を担ぐための轅棒(ながえぼう)の先端を飾る棒先金物。釜と鍬(くわ)の厚肉彫です。明治23年(1890)新調の作。この写真左下に「乳隠し(ちかくし)」という見慣れない言葉が見えます。当日いただいたA3サイズのリーフレットには、次の説明が記されています。「『乳隠し』は郭巨山独特のもの『乳』とは胴掛を吊す為の穴の小裂で、それが目障りなので乳を吊すための飾り板を山鉾創世期に用いていました.他の山鉾は欄縁だけで乳を隠すようになりましたが郭巨では重複して取り付けられています」と。 欄縁です。黒漆塗の上を透彫の装飾金具が取り付けてあります。部分図を撮ってみました。 前面の欄縁は桐、左面は桜、右面は菊が透彫で造形されています。明治23年(1890)作。 会所の南端に蔵が設けてあります。懸装品等一式がここに収納されるのでしょう。この会所では、四条通に面した会所の正面入口から入り、通路伝いに展示品を拝見しながら南に進み、蔵の手前で左折し、膏薬図子の通りに抜けるという一方通行で、スムーズな鑑賞の流れになっていました。この後、新町通を北に入り、放下鉾に向かいます。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*山鉾町で入手した京都新聞社 企画特集「祇園祭」*「郭巨山 会所飾り」 当日会所でいただいた資料*蟷螂山 :「祇園祭」*蟷螂山 ホームページ*郭巨山公式サイト ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 月鉾・綾傘鉾・鶏鉾・白楽天山・岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 紅梅殿・管大臣神社・木賊山・船鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 放下鉾・霰天神山・山伏山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -7 布袋山(休み山)・屏風祭・孟宗山 へ
2023.07.29
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=== 2023.7.7 === 南の空9時20分頃に撮りました。朝から曇り空でした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東の空はよく見かける布を広げたような感じの雲です.一方、南から西にかけての雲は太い筋模様を描いた感じのグレーの雲。あまり見かけない雲の姿です。この日、一日くもりだったせいでしょうか、この後は雲の記録を撮らずにいたようです。星の夜空を眺められない七夕の夜になったと思います。今回も雲の変化だけにしぼります。=== 2023.7.8 === 南の空昨日同様、9時20分頃に撮りました。やはり、朝からくもり空です。雲の姿は、昨日と明らかに違います。南西方向の空 西方向の空 この方がよく見かける曇り空の雲の姿に近い感じです。 東方向の空昨日の同じ時間帯のくもり空より、この空模様の方が、雲が浮かんでいるということを実感できます。 東方向の空16時半すぎに眺めました。曇りは変わらずですが、稜線上空の雲は、グレーの濃淡のべたっとした二層の雲の姿になっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲はグレーの濃淡が現れていて、雲の姿が見やすくなっていました。 南の空 18時20分頃に眺めた雲です。南西方向の空 西方向の空 この時もグレーの濃淡があり、雲の変化、ムラムラ感がわかりやすい状態です。 東方向の空逆に、東の稜線上は、べたーっとしたほぼグレー一色の雲に戻っていました。=== 2023.7.9 ===朝から雨。11時半頃に眺めても雨。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ撮りました。 南の空17時10分頃に撮りました。雨は止んでいましたが、くもり空はそのまま。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、雲が稜線を半ばは隠す位まで低くなっていました。ここまで雲が稜線に被さるのは初めて見たような気がします。=== 2023.7.10 ===この日も朝から雨です。 南の空南西方向の空 15時10分頃でも小雨状態。窓際から二方向を撮るだけに。 南の空ところが、19時10分頃には天気は大きく回復していました。青空が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空太陽の光を映したピンク色の雲と、ダークグレーの雲がともに稜線上に浮かんでいました。=== 2023.7.11 === 南の空 11時半頃に撮りました。朝から晴れ。雲!って感じの夏雲が悠然と浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 西方向には、小粒の白雲が散在しています。 東方向の空稜線上にでんとわた雲が浮かび青空が見えるのはいいですね。 東方向の空 16時10分頃に眺めると、稜線上は快晴。この景色も珍しいです。 南の空南西方向の空 西方向の空 大きくごつごつした夏雲とはうって代わって、柔らかそうな雲の姿です。 南の空 18時20分頃に撮りました。雲の姿がおもしろい。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上は、ほぼ快晴の空です。晴れた空と雲の変化を満喫できた一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.28
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=== 2023.7.3 === 南の空午後に退院。14時5分に久しぶりに自宅のベランダから空を撮りました。朝からくもり空でした。すこしうろこ状に感じるグレーの雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 東方向の空17時20分に眺めると、稜線上の雲の姿が大きく変化してきていました。 南の空雲の姿が同様に大きく変化。白雲が見え始めています。南西方向の空 西方向の空 青空も少し見えるように。 19時には、青空がさらによく見えるように雲の動きが変化しています。南西方向の空 西方向の空 西の空の雲は夕陽を受けてピンク色に染まって見えます。 東方向の空 稜線間際の雲も少しピンク色を映しています。=== 2023.7.4 === 南の空 9時50分に眺めると、空は快晴です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空には、青空が見え白雲が浮かんでいます。夏の空に変化してしています。 東方向の空16時35分頃に眺めると、薄い横雲が層をなす青空が見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては灰色の雲が広がっています。 南の空18時25分頃に眺めると、雲が巻いている感じに見えます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 グレーの雲が稜線上空を覆っていました。=== 2023.7.5 === 南の空10時5分に眺めると、グレーの濃淡模様の雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 朝からくもりです。 南の空南西方向の空 14時半すぎには雨が降っていて、窓際から二方向だけ撮りました。 南の空17時45分に眺めると、雨は止んでいますが、曇り空に変わりなし。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 表情がない雲の広がりはおもしろくありません。=== 2023.7.6 === 南の空 朝から晴れ。夏雲。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 稜線上空にはもくもくとしたグレーな雲が覆っています。 東方向の空17時50分に撮りました。雲の姿はだいぶ変化しましたが、稜線上空を覆う点は変わりなしです。 南の空 青空に動きのある白雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 晴れの一日でした。少し日を追いかけ、追いつくために、雲の変化に絞ります。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.26
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