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新町通から左折して、綾小路通を西に入れば「伯牙山」が見えます。通りの両側が矢田町です。 山を眺めてから、伯牙山の御神体・懸装品等の展示を拝見します。同町にある200年余の歴史を持つ旧家、杉本家住宅の表の間が飾り席となっています。 斧を持つ伯牙御帳台の中に、御神体の人形が安置されています。 伯牙は中国の琴の名手良き理解者である友の種子期を失った悲しみから琴の弦を断ち切ろうとする姿を表しています。伯牙は中国春秋時代の晋の大夫です。(資料1) 胴に13の弦を張った「御琴」が展示されていました。 この弦を断ち切って、二度と琴を弾くことを止めたということでしょう。 御帳台の左側に並べられた懸装品など。左の壁には、水引と胴懸が展示され、その前には、伯牙山の四隅の上段に装着される角房掛金具『舞楽風胡蝶』(源氏胡蝶文様)が置かれています。この金具は房を内側に掛けるという得意な形式です。天保5年(1834)の作。御帳台側には、白幣が四本立ててあります。 正面奧に懸けられているのが、前懸の前面にかけられる軸装様に仕立てられた懸装品「慶寿詩八仙人図」。中央に仙人図、上下に詩文が織り出されています。中国明代製の金襴です。(資料2ほか) 御帳台の右側に展示された、見送の「五仙人図」刺繍です。三人の仙人と二人の仙女の姿が表されています。白鷺を抱く仙女、孔雀、虎、花などが刺繍されています。 山の周囲を飾る水引は「緋羅紗地唐人物図」で、押絵貼が施されたものです。胴懸の中程までの幅広の水引です。 後懸後懸は上に見送がかけられますので山鉾巡行では前懸同様に殆ど見えません。宵山までの懸装品の展示を拝見することのおもしろさはこんなところにもあります。綾小路通を更に西に進みます。西胴院通を横断すると、芦刈山町です。 「芦刈山」がすぐ目の先に・・・。 芦刈山の姿と胴懸などを見ながら、会所に向かいます。御神体や懸装品等の展示を拝見するためです。入口傍に置かれた芦の造花がまず目にとまります。 細長く奥行きのある空間に、通路を挟んで整然と展示されています。 建屋の中央、通路の左側に「芦刈山」の額を掛けて、御神体の人形が安置されています。この山は謡曲「芦刈」を題材にして創作されていますので、翁が御神体になっています。 御神体の人形は、芦を刈る翁の姿です。これは正面からの部分図。翁の姿を十分には撮れませんでした。右手に鎌を左手に刈り取った芦を握る立ち姿です。芦刈山のホームページの冒頭に全体像が開示されていますのでご覧ください。左手に握る芦は正絹の造花で昭和45年(1970)に新調されたものと言います。上掲右の写真は、厨子に納められた康運作本頭。天文6年(1537)作です。 金幣の後には欄縁と胴懸(南)で中国刺繍の雲龍図が見えます。 芦の造花を欄縁の上面に埋め込んで立てている部分があります。黒漆塗の欄縁は波に飛雁文様鍍金金具で装飾されています。川辺華挙下絵、錺師は藤原観教。明治36年(1903)年作だそうです。 左側は、胴懸(北)で尾形光琳原画の燕子花(かきつばた)図。平成5・6年(1993・1994)年に新調されたもの。右側は、見送で、山口華揚原画の鶴図。昭和60年(1985)作。 こちらは、胴懸(南)で、上掲の燕子花図につながります。 手前には角飾金具と飾房が展示されています。上部には雁文様鍍金金具に金糸房が掛けられ、下部には芦の丸文様鍍金金具に浅葱房が掛けてあります。 後に見えるのは、前懸で、欧風景図で毛綴。天保3年(1832)作。 もう一枚の見送で、文政3年(1820)作の唐子嬉遊図も展示されていました。 手前の衣桁に掛けられていて一部見えているのは、この御神体の小袖です。綾地締切蝶牡丹文片身替小袖の復元新調品。「可能な範囲で桃山時代の当初の姿を復元する方針」(ホームページより)で新調されたとか。オリジナルの小袖の「襟裏には天正17年の墨書銘が残っており、これは現存する祇園祭の山鉾町に現存する衣裳の中でも最古のもの」(図録より)だそうです。芦刈山から次は一筋西の油小路通を下って二つの山を巡ります。 綾小路通と油小路通の辻の南東側には、ごく小さな神社があります。油天神山と関わりが深い火尊天満宮です。 風早(かざはや)天満宮とも称されます。ここは風早町の北端です。、かつてはこのあたりに公家の風早家があり、風早家伝来の木彫彩色天神像がここに祀られるようになり、祇園祭にはその御神体を油天神山に遷すそうです。(資料4,5) 「油天神山」は、風早町にあるのですが、油小路通にあり、天神像を御神体に勧請することから、この名で呼ばれるようになったとか。天神様を勧請した日が丑の日であったことから、それに因んで、牛天神山とも呼ばれていたそうです。 右側に赤布を被せた山籠と真松が見え、見送が懸けてあります。 見送の部分図毛綴の宮廷宴遊図ですが、西洋の図柄の作品を江戸中期に日本で作ったそうです。 山の後部それでは、油天神山の飾り席展示を眺めに行きましょう。 中央の奥に、朱塗りの鳥居と小さな社殿が置かれています。これが当日上掲山籠の前に据えられ、社殿に木彫天神像が御神体として安置されて巡行します。右側の奥に見えるのが前懸で、雲龍文様の襦子地錦です。手前には胴懸が並べてあります。 前懸・胴懸の上部には、黒漆塗欄縁に錺金具が装着され、水引が懸けてあります。この水引は、平成18年(2006)に新調されたもので、フランスのクリュニー中世美術館所蔵のタペストリー「貴婦人と一角獣」から着想を得て図案化された翔鷹千花図だそうです。(資料6,7) 角飾金具と飾房がズラリと展示された後に、見送が掛けてあります。その図が全く見えないのが残念ですが、梅原龍三郎下絵の朝陽図で、平成2年(1990)に新調された作です。 手前には左右が対の胴懸が懸けてあります。前田青邨原画による紅白梅図です。油小路通を南下します。仏光寺通を横断すると、 「太子山」があります。ここは太子山町。油小路通の南側から撮った全景です。 見送が掛けてありますが、透明の保護カバーがかかっているのが残念。大凡の図柄はお解りいただけるでしょう。正面から眺めた雲龍図です。 太子山の会所の飾り席を訪れましょう。道路傍から拝見できます。 座敷の中央奧に、御神体の人形が安置されています。少年時代の太子像で、右手に斧を持たれた姿です。 聖徳太子と揮毫された軸が掛けられています。江戸時代中期の能書家、青蓮院宮尊祐親王の書だそうです。右側奧には 壁面に欄縁と前懸が掛けてあります。秦の始皇帝と阿房宮が描かれた緋羅紗地阿房宮刺繍です。前懸の手前には、少し見づらい写真になっていますが、角飾金具で翼を広げた飛龍彫金の鍍金で、明治39年(1906)作。 御神体に向かって左側には、胴懸が展示されています。新調された胴懸で、紺綴織スガ地花鳥樹・獣孔雀文様ベトナム刺繍です。生命の樹と孔雀をモチーフにしているそうです。鳥の他に蝶、獣としては鹿、象が刺繍されています。上部には、欄縁と七宝繋文様の水引が見えます。この辺りで、太子山の拝見を一区切りとしました。この後は、油小路通を四条通まで北上して、四条傘鉾を目指します。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*山鉾町で入手した京都新聞社 企画特集「祇園祭」*伯牙山 :「祇園祭」*蘆刈山 ホームページ 芦刈山保存会*山鉾の魅力細見 -油天神山- :「京都市下京区」*山鉾の魅力細見 -太子山- :「京都市下京区」*当日入手したリーフレト「祇園祭ウォーク2023 太子山特集」FM79.7ラジオカフェ 1) 伯牙 :ウィキペディア2) 伯牙絶弦 :「Peaple's China 人民中国」3) 山鉾の魅力細見 -伯牙山- :「京都市下京区」4) 火尊天満宮(京都市下京区) :「京都風光」5) 火尊天満宮 :「廻游日記~京の神祠~」6) 油天神山 :「祇園祭2023」7) 油天神山 :「京都の観光写真集」補遺杉本家住宅 主屋 :「文化遺産オンライン」重要文化財 杉本家住宅 ホームページ「杉本家住宅」をたずねて :「龍谷 2008 No.66」重要文化財小袖の復元新調について 山川 暁 :「蘆刈山」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 月鉾・綾傘鉾・鶏鉾・白楽天山・岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 紅梅殿・管大臣神社・木賊山・船鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 四条傘鉾・蟷螂山・郭巨山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 放下鉾・霰天神山・山伏山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -7 布袋山(休み山)・屏風祭・孟宗山 へ
2023.07.25
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仏光寺通を西に進むと、新町通の北に船鉾を遠望しながらまずは通りを横切って先に進みます。仏光寺通の西方向に木賊山があるからです。北方向の筋の突き当たりに石鳥居が見えます。久しぶりに立ち寄ってみました。 石鳥居には、「紅梅殿」の扁額が掛けてあります。北管大臣神社です。ここは管大臣町です。 紅梅殿神社とも称され、菅原道真の父是善(これよし)を祀るそうです。この辺りは道真の邸宅趾の一部といわれています。道真が太宰府に左遷されるに際して、 東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそと詠んだのは紅梅殿であったと伝えられているそうです。(資料1) 仏光寺通の南側には、管大臣神社があります。勿論、ここも管大臣町です。石灯籠の南側に、「天満宮降誕之地」と刻された石標が建てられています。道真が降誕した邸宅(白梅殿)と菅家学問所の旧地と言います。神社に立ち寄りました。参道を南に歩みますと、左(東)側に社殿があります。 本殿の手前、左右(南北)に境内社が並んでいます。 南側には、天神様のシンボル、石造臥牛像が祀ってあります。 本殿の正面、唐破風屋根の下の虹梁には、「天満宮」の扁額が掛けてあります。 金網戸越しに本殿内を覗くと、正面奧の内部に殿社が設けてあります。殿社の階段の両側に椅坐する随神が置かれています。祭神として、菅原道真・尼神・大己貴命が祀られています。この神社は、道真没後、間もない頃に創祀された神社だそうです。もとの社殿は天明・元治に類焼し、現在の建物は、下鴨神社の旧殿を移築したものだそうです。(資料1) 手水舎の傍にも、石造臥牛像が置かれています。左側の参道を進んで、西洞院通に出ます。 参道傍に地蔵堂が見えます。 西洞院通の歩道から東に本殿を眺めた景色です。西洞院通を北に上り、仏光寺通に戻り、西に歩みます。 「木賊(とくさ)山」 山の正面と南側面。宵山までの懸装品で飾られています。 仏光寺通の西側からの眺め 巡行当日に山に安置される御神体の人形や懸装品は、木賊山の会所に展示されています。 会所の正面奧に、御神体の人形が安置されています。別れた子を思いながら木賊を刈る老翁の姿です。 西側壁面には、手前に前懸の金地綴錦唐人市場交易図、奥側に胴懸の仙人観楓図、上部には水引が掛けてあります。こちらは蝦蟇鉄拐琴高図です。蝦蟇仙人や寿老人などが刺繍されています。東側の壁面には、手前に見送が展示されています。牡丹鳳凰文図です。奥側には、胴懸で飲中八仙図の綴錦です。上部には水引が掛けられ、こちらは西王母黄初平図が刺繍されています。木賊山を見た後、一旦仏光寺通を新町通まで戻り、北に位置する船鉾を見ることにしました。 「船鉾」を新町通の北側から眺めた景色です。先頭の赤提灯に墨書された船の文字にご注目!「舩」という文字が使われています。船鉾の全体像をイメージしやすいように、撮った写真を編集してご紹介します。 (実際は、新町通を上りましたので、船尾側から眺めて行きました) 船鉾の舳先側 舳先の飾り 鷁(げき)という瑞鳥。長谷川若狭宝暦10年の名作だそうです。(資料2) 前懸は龍を正面から描いた雲龍文です。船体は赤と濃緑の二色の幕で覆われています。 豪壮な金地雲龍文厚肉入刺繍の水引が掛けられています。天保7年作。同町出身で応挙門下の西村楠亭下絵だそうです。(資料2)二番水引は波濤文図です。 船上の屋形は唐破風入母屋造で、正面の唐破風屋根の箇所には極彩色の雲竜文の装飾彫刻が施されています。正面の天水引には鳳凰図が刺繍されています。側面は草花文刺繍です(平成4年新調)。(資料2) 舳先から左側を後部に廻り込みます。船端には朱漆塗の高欄が巡らされています。船の後部、艫の下に見送と舵が見えます。 船尾に懸かけられた見送は「艫隠」と称するそうです。こちらも正面から描いた雲龍図です。舵には黒漆塗螺鈿で波濤上に下降する飛龍文様が描かれています。 艫下には、緋羅紗地鳳凰麒麟雲文様刺繍の水引が懸けてあります。 船鉾の右側に廻り込みますと、舵の飛龍文様は波濤上を上昇する姿に転じています。 艫側から船鉾の右側面を眺めた全景。船鉾と会所を仮設の階段で繋いであります。船鉾を眺めた後、新町通を上り、仏光寺通の一筋北である綾小路通に入ります。綾小路通を西に進むと、「伯牙山」と「芦刈山」があります。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*山鉾町で入手した京都新聞社 企画特集「祇園祭」*祇園祭船鉾保存会 ホームページ*船鉾 :「祇園祭」1)『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p3472) 山鉾の魅力細見 -船鉾- :「京都市下京区」探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 月鉾・綾傘鉾・鶏鉾・白楽天山・岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 四条傘鉾・蟷螂山・郭巨山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 放下鉾・霰天神山・山伏山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -7 布袋山(休み山)・屏風祭・孟宗山 へ
2023.07.24
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四条通の北側歩道から「月鉾」を眺めつつ、南側へ横断します。月鉾の鉾頭は、元亀4年(1573)の年号名があり、大錺屋勘右衞門作の銅製金鍍金月形です。尚、町内には三日月形の鉾頭は数点伝来するそうです。 南側歩道を西に進みます。 鉾正面胴懸には透明の保護カバーが掛けてありました。写真を撮るのはスルー。 鉾の正面側の大屋根の破風軒裏には、円山応挙による金地著彩の草花図が描かれています。 大屋根の妻飾りには、金波に躍動する白兔の彫刻が見えます。錺金具の亀が波間にぴったりと照応しています。 鉾の後部後部の妻飾にも金波に白兔の彫刻が見え、大屋根には少し見づらいですが、漆黒の八咫烏(やたがらす)が搭載されています。 四条通の西側から眺めた景色月鉾の後部に来ましたので、混雑する歩道を東に戻るのを避け、新町通を下り綾小路通を東に戻ることにしました。 綾小路通には、新町通と室町通の間、善長寺町に「綾傘鉾」があります。まずは、通りの北側に所在する大原神社の入口前に吊り下げられた提灯に目が留まりました。ちょっと境内に入りました。 社殿の前は、御供えの品々が満載で、本殿が見えません。 左側の建物、社務所だと思いますが、ここには綾傘鉾関連の展示品が並べてあります。右側には、ミニチュアの鉾が飾られています。綾傘鉾と「鉾」の一字がありますので、かつては曳鉾であった時期があり、このミニチュアがその姿を表しているのでしょうか。もう一点、「午頭天王」の名称が目にとまりました。祇園祭の歴史を感じます。八坂神社は明治以降の神仏分離により改称された神社名。江戸時代以前は、祇園感神院、祇園寺、祇園天神社等と称されていました。まさに祇園です。祇園感神院の主祭神が午頭天王です。明治以降、八坂神社の主祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。素戔嗚尊と牛頭天王は同一神とみなされているようですが・・・・。 綾傘鉾は、昭和54年(1979)から現在の姿で山鉾巡行に加わっていて、二基の傘鉾という形態になっています。これはその内の一基。垂りに飛天が描かれています。 綾傘鉾の山車(だし)です。 山車の錺金具を間近に見られるのがいい! 綾傘鉾から綾小路通を東に進み、室町通に左折すると、すぐ北に、 「鶏鉾」が見えます。鶏鉾町で、すぐ傍が池坊短大の校舎です。 室町通の北側から眺めた景色 真木の上部榊(さかき)の上に赫熊(しゃぐま)の飾りが見えます。この形が鉾により異なります。前回の長刀鉾と対比してみてください。その上に、天王座、更に少し離れた上に住吉明神の像が安置されています。住吉明神は航海の神ですので、天王座は船形なのでしょう。鶏鉾の鉾頭は、「竹で作られた三角形の中に鍍金が施された銅の円盤を挟む。角には濃紺色の芋束で三方を結わえ、これを真木に嵌め込んで留める」(図録より)という形態のものです。 鶏鉾も胴懸には透明の保護カバーが掛けてありました。写真は全景に留めました。 この駒札には、鶏鉾の名称由来について、中国の史話による説を紹介していますが、「『古事記』の天の岩戸の物語に登場する<常世の長鳴鶏>に取材したもの」(図録より)という説もあるそうです。 大屋根の妻飾りには、鶏の彫刻像が見えます。天水引は、金地日輪瑞雲麒麟図が刺繍で描かれた水引幕です。復元新調されたものが掛けてあります。鶏鉾を見た後、室町通を下ります。綾小路通を渡れば、一筋南の仏光寺通まで、室町通の両側が白楽天町です。 「白楽天山」が見えます。道路上に山が建てられていますが、巡行当日に山を飾る懸装品や御神体は会所に展示されています。 会所の正面奧に、御神体人形の白楽天像(左)と、白楽天の問いに対して樹上から答える道林禅師像(右)が並べて安置されています。 向かって左側の壁面には、懸装品が展示されています。水引の背後に見えるのは前懸です。16世紀にヨーロッパで製作されたタベストリーの一部を中央にして、左右に波濤飛龍文刺繍裂を継ぎ合わせたものです。 その右側には、見送りとして飾られる山鹿清華作「北京万寿山図」の綴織が展示されていました。 室町通の南側から眺めた景色白楽天山から、仏光寺通を西に向かうことにしました。 室町通と仏光寺通の辻の南東角に神社が見えます。「日吉神社」です。神社の冠木門の北側(左)にある小祠はたぶん地蔵堂でしょう。 冠木門を入ると、境内地に石鳥居があり、「日吉神社」の扁額が掛けてあります。 本殿の北側には、「三ツ森稲荷」の扁額を掛けた朱塗りの鳥居が建つ稲荷社があります。祇園祭のざわつきとは隔絶したように、人気のない静かな神域でした。仏光寺通を一筋、新町通まで西進すれば、新町通下ルに見えるのが、 「岩戸山」です。 岩戸山の外観は鉾に似ていますが、鉾ではなくて山です。その違いは、鉾には真木が屋根上に建てられていますが、岩戸山の場合には、真木ではなくて、屋根の上には真松が立てられています。 外観は鉾とほぼ同じです。屋根裏は、今尾景年(1845~1924)が73歳の時に、金地著彩草花図を描いたそうです。屋根の前後軒裏には、今尾の弟子、中島華鳳により金地著彩鶺鴒図(昭和6年)が描かれています。岩戸山の正面を飾る前懸は、玉取獅子図に八角飾り連文額文様の絨毯。17世紀後半頃に中国の近辺で製織されたものだそうです。 天水引 岩戸山の左側面下水引は、金地鳳凰瑞華彩雲岩に波文様紋織(平成15年復元新調)。元の作品は文政4年(1821)の銘を持つそうです。二番水引は文化14(1817)の銘が入った緋羅紗地宝相華文様の刺繍。三番水引は紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様の綴織です。胴懸は、18世紀に織られた唐草文様インド絨毯が使われています。ここは、会所からの仮設廊下伝いではなく、山の後部に仮設された階段で山の内部に入るという形です。ちょっとめずらしい方式。 岩戸山の正面と右側面を北東側から眺めた景色岩戸山を眺めた後は、仏光寺通に戻り、一旦、西方向に進むことにしました。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*山鉾町で入手した京都新聞社 企画特集「祇園祭」*鶏鉾 ホームページ*岩戸山 :「祇園祭」探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -1 長刀鉾・函谷鉾・菊水鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 紅梅殿・管大臣神社・木賊山・船鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 四条傘鉾・蟷螂山・郭巨山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 放下鉾・霰天神山・山伏山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -7 布袋山(休み山)・屏風祭・孟宗山 へ
2023.07.20
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7月16日(日)の朝、初蝉の声を聞きました。しばし蝉の声が聞こえていました。祇園祭・前祭の山鉾巡りに出かけたのは、その後でした。それ以降、まだ短い時間ですが、蝉時雨が聞こえるようになりました。 今朝(7/20)、小さな庭の南西隅の木から蝉の声が聞こえます。 少し枝を払っていた間を眺めると、幹に一匹の蝉を見つけました。2日前にも同じ木のあたりから蝉の声は聞こえたのですが、その時は蝉を見つけることができませんでした。 わが庭で見る初蝉です。今朝は、初めて蝉が羽を震わせてなく声を見聞しました。 今年の初記録です。自宅の周辺からは、今蝉の声はぴたりと止んでしまっています。
2023.07.20
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街角で得た団扇16日宵山の午前から午後の前半に山鉾町巡りをしてきました。その覚書を兼ねたご紹介です。 四条通を西に歩めば烏丸通の少し手前、北側に「長刀鉾」が見えてきます。 鉾頭には大長刀が取り付けてあります。大長刀は御所と八坂神社を避けて南を向いています。真木には榊が見え、赫熊(しゃぐま)の飾りが並び、上部に紅色の幕の付いた天王台が見えます。 鉾正面、北東角下水引が重ねられています。紺羅紗地唐草四神八果図刺繍と蜀江雲龍文様繻珍の水引。 角金具と房 鉾の左側面(北側) 胴懸には大陸伝来の幕二枚が横並びにかけられています。 鉾の屋根後側の破風蟇股には、三条小鍛治宗近が長刀を鍛えている姿の木彫像が飾られています。 大屋根軒下裏絵 四条通を南に渡り、南西側から撮った景色です。 鉾正面の大屋根の金鯱 鉾の右側面(南側) 鉾正面前には、御神酒が木製祝い樽で供えてあります。左側には雨冠の下に鶴と書かれた一文字、右側には亀の一文字が記されています。 欄縁から鉾を囲む埒(らち)の上端までをズームアップ四条通を北側に渡り、烏丸通を横断すれば、 「函谷鉾」がすぐ傍に。 鉾正面、北東側から鉾の胴部には透明の保護カバーが掛けてありますので、細部写真は撮りませんでした。 四条通の西側からの眺め鉾頭は山形と三日月を組み合わせた意匠です。中国に在った関所・函谷関の山中の闇を表象しているそうです。烏丸通から一筋西、室町通に入ります。 すぐ数十mさきに、「菊水鉾」が見えます。 室町通の北側から鉾の後部を眺めた景色 真木の榊の所には、「菊水」の扁額が掲げてあります。この名は、町内に昔からあった井戸「菊水の井」に因んで名付けられたそうです。鉾頭には、十六弁の菊花があしらわれています(1952年、小林尚珉作)。 飛鶴図 麒麟図 昇鯉の図 獅子図 鉾の胴部をぐるりと北側から一周して眺めるとこんな感じです。飛鶴図、麒麟図と獅子図は1954年、皆川月華作です。また、昇鯉の図は1958年、皆川月華作ですが、傷みが目立ったため平成17年度に助成金を得て修理されたそうです。 鉾の天井絵 菊水鉾の屋根は唐破風屋根です。破風の合掌部に極彩色の瑞鳥像が装飾されています。 唐破風屋根の軒下裏面 屋根の後部の装飾彫刻 車輪の軸の先端部には、菊の紋が取り付けてあります。この後、四条通を南に横断し、南側に見える月鉾に向かいます。つづく参照資料*図録『京都 祇園祭 町衆の情熱・山鉾の風流』 京都文化博物館 2020*山鉾町で入手した京都新聞社 企画特集「祇園祭」*祇園祭後懸 「昇鯉の図」 (菊水鉾保存会 京都市中京区):「京都府」探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -2 月鉾・綾傘鉾・鶏鉾・白楽天山・岩戸山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -3 紅梅殿・管大臣神社・木賊山・船鉾 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 伯牙山・芦刈山・油天神山・太子山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -5 四条傘鉾・蟷螂山・郭巨山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -6 放下鉾・霰天神山・山伏山 へ探訪&観照 祇園祭前祭 Y2023 山鉾巡り+α -7 布袋山(休み山)・屏風祭・孟宗山 へ
2023.07.19
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=== 2023.6.28 === 南方向 南西方向13時10分頃に窓越しに撮った写真をトリミングしました。空の景色を主眼に・・・。番外になりますが、標題では時系列としてシリーズにカウントしています。6月28日午後~7月3日午前の期間、自宅には不在で、地元の某総合病院に入院していました。予定を立てての入院でした。希望通り個室が確保できましたので、病室の窓から雲の変化をスマホのカメラ機能で撮ってみました。地元の空という意味では、自宅よりかなり南の空ということになりますが、広大な空からみれば、自宅のベランダからとはまあ五十歩百歩というところでしょうか。 南方向 スマホを横にして撮るとこんな感じに。6月29日・30日は写真を撮れませんでした。(手術日当日と翌日のため)=== 2023.7.1 === 南方向 南西方向 9時10分頃に撮ってみました。この日は一日くもりだったと記憶します。=== 2023.7.2 === 南方向 南西方向 6時20分頃に撮ってみました。くもり空です。 南東方向 南西方向 3時間後の9時20分すぎには青空に変化していました。上掲の雲のつながり具合を少しズームアップして撮ってみました。 南東方向 南西方向 12時25分に撮った雲の姿です。白雲が広がり浮かぶ青空がいい。 南方向 17時30分頃に撮った雲の姿です。 南方向 南西方向 18時50分過ぎに撮った入院中の最後の空模様です。7月3日、午前中に診察を受けて、午後退院。この日は朝からくもりです。空の景色を撮らずに終わりました。午後帰宅してからは、ベランダからの雲の姿の撮影を再開。結果的に、6/29、6/30と雲の姿を記録しない日が発生してしまいました。番外編ですが、覚書と雲の変化の記録を兼ねて・・・・。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.18
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=== 2023.6.24 === 南の空9時35分頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 方向により雲の姿にけっこう変化がみられます。 東方向の空17時5分頃に空を眺めてみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 くもり空の一日となりました。=== 2023.6.25 === 南の空10時5分頃に撮りましたが、昨日につづき、くもりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空昨日の朝と比べると、どの方向の空も一律で平板。グレーの布を広げた様です。 東方向の空16時半頃に眺めると、少し雲らしい姿が東の上空に漂っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 天気が雨に変化しなかったことを良しとしましょう。=== 2023.6.26 === 南の空9時半頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 東の空 12時半頃から、天気予報どおり雨になりました。この後天気は雨。この後、窓際から写真を撮るのはやめました。さて、雲がたりに移ります。『源氏物語』から「雲」を詠み込んだ歌の抽出の連鎖として、手許に『紫式部集 付 大弐三位集・藤原惟規集』(南波浩校注、岩波文庫)がありますので、紫式部集からの抽出をしてみました。「校定紫式部集(定家本系)」には、128首が収載されています。その中から11首を抽出しました。この文庫本には、補遺として11首が続きに収載されていて、そこには1首ありました。この範囲で抽出できたのは合計12首になります。 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月影 1 [付記] 新古今集(雑上、1497)、小倉百人一首に所収されている歌。 めぐりあひて:月は空を運行するので「めぐり」は「月影」の縁語。 とも:連語。・・・・ということも。 わく:判断する。理解する。 雲隠れ:雲に隠れること。 夜半:夜。夜中。 月影:月の姿 月影は幼ななじみの友の隠喩。幼ななじみとの出会いと別れ。 西へゆく 月のたよりに 玉章(たまづさ)の 書き絶えめやは 雲の通ひ路 7 [付記] 月のたより:月という使者・好便。 玉章:消息。手紙。 む:[仮定]・・・・としたら、その・・・・。 やは:・・・・ないか。 ・・・てくれたらいいのに 北へ行く 雁のつばさに ことづてよ 雲の上がき 書き絶えずして 15 [付記] 新古今集に所収(離別、859)。 北へ行く:雁は春になると、北方の地へと帰る。紫式部はやがて 北の越前へ行く予定であるであることを掛ける。 つばさにことづてよ:蘇武の雁信の故事を踏まえている。 雲の上がき:(雲の上を羽で掻き運ぶ)雲。「雁」の縁語。「書き」 と「掻き」を掛ける。 して:・・・・の状態で。・・・・で。 いづかたの 雲路と聞かば 尋ねまし 列離れけん 雁がゆくゑを 39 [付記] 千載集(哀傷、563)に所収。 尋ねまし:「まし」は反事実仮想。たずねたいのだが、(実際 はどこにいるとも聞くことができないので)それができずに悲 しい。 けん:「けむ」・・・たとかいう。 雲の上も 物思ふ春は 墨染に 霞む空さへ あはれなるかな 40 [付記] 玉葉集(雑四、2290)に所収。 長保3年(1001)4月、夫宣孝に死別。紫式部は服喪中。同年閏12月 円融帝の后で一条帝の母、詮子が逝去。その翌春に詠まれた歌。 雲の上も:宮中でさえ。 物思ふ:物思いにふける。思い悩む。 むまれ木の 下にやつるる 梅の花 香をだに散らせ 雲の上まで 103 [付記] むまれ木:むもれ木=埋もれ木。世間から顧みられない。とるに たりない。 やつる:見ばえがしなくなる。式部のたとえの謙辞。 香をだに散らせ:せめて香だけでも散らせ。(里居ながらも常に 中宮様をお忘れしておりません、との思いを重ねている) 雲の上まで:宮中まで。(中宮様も忘れないでほしいの含意) うち偲び 嘆き明かせば 東雲(しののめ)の ほがらかにだに 夢を見ぬかな 109 [付記] 藤原宣孝から式部への歌。 うち偲ぶ:離れている人のこと などを思い慕う。思い起こす。 東雲:明け方。あけぼの。夜 明けのほのかに明るくなるなるころ。ぼうっとしていての意。 ほがらかにだに夢を見ぬかな:(本来なら、夜明け前に夢を見る ところだが)はっきりとは夢を見ることができなかったことよ。 (逢えないので、せめて夢にでも見たかったのにという含意) しののめの 空霧(き)りわたり いつしかと 秋の気色に 世はなりにけり 110 [付記] 紫式部の答歌か。「返し」とある。 霧りわたり:一面に霧が 立ちこめていて(あなたの通い路を覆い隠し) いつしか:いつのまにか。はやくも。 秋の気色:秋気色(裏 に、飽き模様の意を掛ける) 天の河 逢瀬はよその 雲居にて 絶えぬ契りし 世々にあせずは 112 [付記] 逢瀬はよその雲居にて:星の逢瀬は、私たちに関係のない遠い 空のかなたのことで。 絶えぬ契りし世々にあせずは:私たち 夫婦の愛情が、いつまでも絶えることがなければいいのですが、 それが不安です。 あす:(勢いが)衰える。 くまもなく ながむるそらも かきくらし いかに偲ぶる 時雨なるらむ 116 [付記] 新勅撰集(冬、380)に所収。 くまもなく:(=雲間もなく) 雲の絶え間もなく。 かきくらす:心を暗くする。悲しみにくれる。 いかに偲ぶる:何を。どのように慕って降る(私があなたを慕っ て心をかきくらして泣く) 時雨:袖をぬらして乾く間のない涙 にたとえられる。 ことはりの 時雨の空は 雲間あれど ながむる袖ぞ かはく世もなき 117 [付記] 新勅撰集(冬、381)に所収。 ことわりの時雨:初冬という季節柄降るのが当然の時雨。 ながむる:物思いに沈む。あなたを想って物思いにふけっている。 世もなき:おりもないことだ。 雲の上を 雲の外にて 思ひやる 月は変わらず 天の下にて 補遺10 [付記] 一条帝崩御後に詠まれた歌。栄花物語(ひかげのかづら)に所収 雲の上:宮中。 雲の外にて:宮中を出た他所で。 思ひやる:はるかに思う。 月は変わらす:日の光(一条帝)は なくなられたが、月(中宮)は昔のままに変わらず。 天の下にて:(宮中を退去なさっても)御代を照らしておいでた。 長い詞書が付いた歌がけっこうありましたが、省略しました。代わりに特徴的な歌には、歌意の理解への補いとして[付記]に少し補足を加えています。ふたたび、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.27 === 南の空10時頃に撮りました。朝は曇っていましたが晴れる方向に向かいそうです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東の稜線上空はくもり空です。雲が浮かんでいます。 東方向の空16時25分頃に眺めますと、稜線上空も少し青さが感じられます。 南の空は晴れて、白雲が広がり、大きく青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時15分頃に眺めると雲の姿はかなり変化しています。南西方向の空 西方向の空 Zoom up! 東方向の空 稜線上空も青空が広がっていました。=== 2023.6.28 === 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空10時5分頃に撮りました。天気予報は朝から曇りでした。予報通りです。この日の午後から自宅を離れましたので、しばらくベランダからの雲の変化を記録できなくなりました。つづく参照資料*『紫式部集 付 大弐三位集・藤原惟規集』 南波浩 校注 岩波文庫*『新古今和歌集』上・下 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.15
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=== 2023.6.21 === 南の空9時頃に撮りました。朝からくもりです。南西方向の空 西方向の空 グレーののっぺりした布のようではなく、陰影の起伏のある雲であるのがちょっといい感じです。 東方向の空 東の稜線上空は、南~西方向の空とは違った雲の景色です。この日、午前中は特別展「大名茶人 織田有楽斎」を見るために、京都・三条に出かけました。先月、ブログ記事でご紹介しています。帰宅までは雨が降らずに済みました。16時には、小雨が降り、 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ、雲の変化を撮るにとどまりました。 南の空その後、小雨は止み、18時15分頃には、ふたたび天気はくもりに戻りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 おもしろい雲の姿が見られました。 東方向の空では、雲が稜線上で層状に重なっている印象を受けました。=== 2023.622 ===昨夜来の雨でしょうか。朝から雨催いです。 南の空南西方向の空 10時頃に、窓際から二方向だけ撮りました。どんよりとした感じ。 南の空 16時半頃に空を眺めると、雨空はくもり空に好転。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の合間から、ほんの少しですが青空が垣間見える位に変化していました。 東方向の空では、濃灰色の雲が大きく張り出しています。明るさが見えますので、雨雲ではなくて、くもり空なのでしょう。 18時すぎに、もう一度空を眺めました。東方向の空では雲が大きく変化しています。一層ダークな雲が上空を占めていますが、少し青空がうかがえます。 南の空青空が広がり、濃淡に富む雲のせいか青空の青さを濃く感じます。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲この夕刻は、天気の変化の狭間に入った状況だったのでしょうか。さて、雲がたりに移ります。『源氏物語』からの「雲」を詠み込んだ歌の抽出の最終回です。前回は「薄雲」まででした。この後、連続する「朝顔」(全13首)、「少女」(全16首)、「玉鬘」(全14首)、「初音}(全6首)、「胡蝶」(全14首)、「蛍」(全8首)、「常夏」(全4首)、「篝火」(全2首)の8帖には、「雲」を含む歌は詠まれていません。「野分」に「雲」が詠み込まれた歌が出て来ます。野分(全4首) 風さわぎむら雲まがふ夕べにもわするる間なく忘られぬ君 夕霧、贈 389 [付記] まがふ:入り乱れる。見失う。 わするる間なく:片時とても。 君:ここの文脈では明石の姫君。藤裏葉(全20首) むらさきの雲にまがへる菊の花にごりなき世の星かとぞ見る 頭中将A、答 456 [付記] むらさきの雲:吉祥のあるときにたなびく紫色の雲。聖帝の君臨 する時にたなびく瑞雲。白菊が移ろう色でもあるとか。 まがふ:入りまじる。 菊の花:皇統の緯徳の象徴鈴虫(全6首) 雲の上をかけはなれたる住みかにももの忘れせぬ秋の夜の月 冷泉院、贈 524 [付記] 雲の上をかけはなれた住みか:仙洞御所(院)のこと。 もの忘れせぬ:忘れずに(光を照らす)⇒訪れない源氏への不満 月かげはおなじ雲ゐに見えながらわが宿からの秋ぞかはれる 源氏、答 525 [付記] 月影:冷泉院の意。 上三句は院の栄えは変わらない、の意。 わが宿からの秋:自分(源氏)の身の上の意。御法(全12首) のぼりにし雲ゐながらもかへり見よわれあきはてぬ常ならぬ世に 源氏、答 563 [付記] のぼりにし雲ゐ:紫の上が煙になって立ち昇った空。 ながらも:・・・けれども。 かへり見よ:私を振り返って見て。 あきはてぬ:「秋が果てる」と無常の世に「飽き果てる」を掛け。 常ならぬ世:無常の世 ⇒源氏は人生の昏(く)れ方に居る。幻(全26首) たなばたの逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれのにはに露ぞおきそふ 源氏、独 579 [付記] 雲のよそに:雲の上の別世界のことと。 わかれのには:二星の 別れる明け方の庭。 露:二星の別れの涙と源氏の悲しみの涙。 かきつめて見るもかひなしもしほ草おなじ雲ゐの煙とをなれ 源氏、独 586 [付記] かきつめて:かきあつめて。 かひなし:「効(かひ)なし」 と「貝なし」を掛ける。 もしほ草:藻塩草。塩をとる海藻。 紫の上の手紙をさす。 同じ雲ゐの煙:亡き紫の上の煙と手紙 を燃やして昇る煙が同じ空の煙に。橋姫(全13首) 世をいとふ心は山にかよへども八重たつ雲を君やへだつる 冷泉院、贈 623 [付記] 世をいとふ:この世を避ける。 かよふ:通じる。 八重たつ雲:越えがたい隔たりの意。 雲のゐる峰のかけ路を秋露のいとど隔つるころにもあるかな 大君、答 627 [付記] かけ路:険しい山道。 峰のかけ路は八の宮の仏道修行の場。椎本(全21首) 秋霧のはれぬ雲ゐにいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらむ 薫、独 644 [付記] いとどし:ただでさえ・・・なのに、いっそう・・・である。 かり:「雁」と「仮」を掛ける。 総角(全31首) ながむるは同じ雲ゐをいかなればおぼつかなきをそふる時雨ぞ 匂宮、贈 674 [付記] ながむ:眺める。 いかなれば:どういうわけで。どうして。 おぼつかなし:会いたく思っている。待ち遠しい。 そふ:増す。宿木(全24首) 君がため折れるかざしはむらさきの雲におとらぬ花のけしきか 夕霧、唱 720 [付記] 君がため:主上のために。 かざし:花やその枝、のちには 造花を、頭髪や冠などに挿すこと。また、その挿したもの(花)。 紫の雲:めでたいしるしの瑞雲。浮舟(全22首) ながめやるそなたの雲も見えぬまで空さへくるるころのわびしき 匂宮、贈 745 [付記] そなた:宇治の方向。 見えぬまで:涙にくもって見えなくなる だけでなく。 空さへくるる:無心の空までがかき曇る。 ころの:このごろの。 かきくらし晴れせぬ峰の雨雲に浮きて世をふる身をもなさばや 浮舟、答 748 [付記] かきくらす:あたり一面を暗くする。 浮く:落ち着かない。 世を経:年月を経過する。 ⇒この身を雨雲に変えてしまいたい。 なげきわび身をば捨つとも亡き影にうき名流さむことをこそ思へ 浮舟、独 752 [付記] なげき:悲嘆。悲しみ。 わぶ:悲観する。つらく思う。 身をば捨つとも:身を川に投じたとしても。 亡き影に:死後に。 うき名:「憂き名」(いやな、つらい評判)に「浮き」(落ちつ かない)を掛ける。「野分」以降では、「行幸」(全9首)、「藤袴」(全8首)、「真木柱」(全21首)、「梅枝」(全11首)、「若菜上」(全24首)、「若菜下」(全18首)、「柏木」(全11首)、「横笛」(全8首)、「匂宮」(全1首)、「紅梅」(全4首)、「竹河」(全24首)、「早蕨」(全15首)、「東屋」(全11首)、「蜻蛉」(全11首)、「手習」(全28首)、「夢浮橋」(全1首) の16帖に、「雲」を含む歌は詠み込まれていませんでした。つまり、『源氏物語』には、795首の歌が詠まれていますが、「雲」「くも」を詠み込まれた歌は合計で37首あることが分かりました。頻出度でランキングしてみますと、次の分布になります。 7首 須磨 3首 葵、明石、浮舟 2首 桐壺、賢木、鈴虫、幻、橋姫 1首 夕顔、紅葉賀、絵合、松風、薄雲、野分、藤裏葉、御法、椎本、総角、宿木これで、『源氏物語』からの抽出とご紹介は終わります。それでは、再び雲の変化に戻ります。=== 2023.6.23 ===昨夜来、雨が降ったようで、起床時、窓から眺めたベランダの物干棹には雨滴が連なっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空9時半頃に、雨は止んでいましたので空模様は撮れましたが、再び降りそうな感じの雲の状態です。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 17時50分頃に、この日の最後写真を撮りました。 記憶では、その後雨は降らずに、どんよりとしたくもり空のままで暮れた一日でした。つづく参照資料*『常用 源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院*『源氏物語必携事典』 編:秋山虔・室伏信助 角川書店*『源氏物語』1~6 日本古典文学全集 小学館*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研*『明解古語辞典 新版』 金田一京助・金田一春彦 監修 三省堂こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.09
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=== 2023.6.18 === 南の空12時5分頃に撮りました。くもり空から朝がスタートしました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向を見ても、濃いめのグレーの布を天空に広げたような雲の姿です。 16時50分頃に東方向の空を眺めると、グレーの色は薄くなり、上空には少し青さも。 南の空青空に転じ、綿菓子を連想させるような柔らかい白雲が見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時55分頃には、晴れ具合が一層好転。雲の姿も横雲が浮かぶ感じに・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空他の方向には、いろいろな雲の姿が入り交じっています。こんなのがいい! 東方向の空こちらは普段よく見る状態に変化しています。=== 2023.6.19 === 南の空9時80分頃に撮りました。晴れの日としてスタート。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲!って感じの雲が浮かんでいます。 東方向の空こちらも、稜線上の雲の姿がわかりやすい状態です。のっぺりしているよりも良い! 東方向の空18時15分頃に撮りました。晴れ具合は一層よくなり、稜線上空はほぼ快晴です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴れ具合が良くなっていく一日でした。さて、雲がたりに移ります。『源氏物語』作中和歌からの抽出、その2です。前回は「賢木」まででした。その次の「花散里」(全4首)には無し。「須磨」からです。須磨(全48首) 亡き人の別れやいとど隔たらむけぶりとなりし雲ゐならでは 大宮、答 171 [付記] 亡き人:葵の上。 いとど:ますます。いっそう。 なきかげやいかが見るらむよそへつつながむる月も雲がくれぬる 源氏、独 182 [付記] なきかげ:故人の霊。源氏の父・桐壺帝の霊。 よそへつつ:父院にかこつけるようにしながら。 雲隠れぬる:雲に隠れてしまった ふる里を峰の霞はへだつれどながむる空はおなじ雲ゐか 源氏、独 188 [付記] ふる里:故郷。ここでは京の都の意。 心から常世をすててなく雁をくものよそにもおもひけるかな 惟光、唱 202 [付記] 心から:自分の心から起こって。 常世:故郷の常世(仙郷) 雲のよそにも:雲のかなたのよそごと(他人事)と。 ⇒ 惟光が己を雁に重ねている。渡り鳥の「雁」は、この世 ならぬ常世から、飛来するものと思われていた。 いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこともはずかし 源氏、独 209 [付記] いづかた:どちら。 われも:菅原道真と同様に私も。 月の見るらむこと:西へ向かう月が見ていることだろうが。 雲ちかくとびかふ鶴もそらに見よわれは春日のくもりなき身ぞ 源氏、贈 214 [付記] われは春日(はるひ)の:私はこの春の日のように たづがなき雲ゐにひとりねをぞ泣くつばさ並べし友を恋ひつつ 頭中将A、答 215 [付記] たづがなき:「たづきなし」(頼りとするものがない。頼り所が ない)と「鶴(たづ)が鳴き」をかける。 雲ゐにひとり:宮中 でひとり。 ねをぞ泣く:声をたてて泣いています。明石(全30首) をちこちも知らぬ雲ゐにながめわびかすめし宿の梢をぞとふ 源氏、贈 224 [付記] をちこち:あちらこちら。 わび:わびしく思うこと。気落ち。 かすむ:ほのめかす。雲ゐとの縁で「霞み」を連想させて。 ⇒ 源氏が明石入道の娘に文を遣わす場面で詠む歌 ながむらむ同じ雲ゐをながむるは思ひもおなじ思ひなるらむ 明石入道、(答) 225 秋の夜のつきげの駒よわが恋ふる雲ゐをかけれ時のまも見む 源氏、独 228 [付記] 秋の夜の:「つきげ(月毛)の駒」の「月」を導く序詞 駒:馬の歌語。 時のまも:ほんの束の間でも 見む:恋しい人の姿を見ようものを 絵合(全9首) 雲のうへに思ひのぼれる心には千ひろの底もはるかにぞ見る 大弐典侍、唱 279 [付記] 雲のうへ:宮中。 思ひのぼる:高い志を抱くこと。 千ひろ:千尋(せんひろ)深さが甚だしいことにいう。 松風(全16首) うき雲にしばしまがひし月かげのすみはつるよぞのどけかるべき 頭中将B、唱 [付記] うき雲:「浮雲」と「憂き雲」をかける。 まがふ:見失う。 297 月影:源氏の意。 すみはつ:「澄み果つ」と「住み果つ」をかける。 よ:「夜」と「世」をかける。 のどけかるべき:どこまでも平安でありましょう。薄雲(全10首) 入日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖にいろやまがへる 源氏、独 305 [付記] この歌が巻名となる。雲にも心があるかの如く擬人化した歌 ものおもふ:思い悩む。悲嘆にくれる。 袖:ここでは喪服の袖 まがふ:よく似ていて、間違う。区別がつかない。「薄雲」までの間の3帖、「澪標」(全17首)、「蓬生」(全6首)、「関屋」(全3首) には、雲を詠み込んだ歌はありませんでした。この辺でまた一区切りとします。では、再び雲の変化に戻ります。=== 2023.6.20 === 南の空9時半頃に撮りました。天気はくもりに変転。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲 東方向の空どの方向にも、グレーの雲が大きく張り出しています。 東方向の空15時半頃に眺めると晴れ間が少し広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の形もかなり異なっています。 南の空この日、最後は17時35分頃に空を眺めて見ました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲の姿が、大きく変化していく日は、ちょっと楽しめますね。つづく参照資料*『常用 源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院*『源氏物語必携事典』 編:秋山虔・室伏信助 角川書店*『源氏物語』1~6 日本古典文学全集 小学館*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研*『明解古語辞典 新版』 金田一京助・金田一春彦 監修 三省堂こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.07
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=== 2023.6.16 === 南の空9時25分頃に撮りました。連続していたくもりの天気がやっと晴れに転換しました。南西方向の空 西方向の空 空には白雲が漂っています。こういう雲がみられると気分が和らぎます。 東方向の空は、晴れた朝によく見かける感じの空と雲の状態です。 東方向の空14時半頃に眺めると、稜線上には大きく白雲が浮かび、青空がクリアに見えます。 南の空には、グレーがかった雲がぐんと張り出してきていますが、雲の合間に青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 南の空18時20分頃に撮りました。雲は灰色がかった状態で動きがありますが、晴れた天気の一日となりました。南西方向の空 西方向の空 南東方向の空 南東方向はより広く青空が見えます。 東方向の空で一番青空が広がっていました。さて、雲がたりに移ります。今回から『源氏物語』の中で詠まれている和歌に目を転じていきます。作中和歌は全部で795首という多さです。源氏五十四帖のどこに「雲」あるいは「くも」を詠み込んだ歌があるでしょうか。何回かに分けて抽出していきたいと思います。『源氏物語』は「桐壺」から始まります。各帖に何首の歌が詠み込まれているかを明記しました。『源氏物語』登場人物の誰が詠者であるか、並びに和歌のコミュニケーション機能の区別を参照資料に基づき略号で明記しました。その区分は:贈答歌⇒贈・答、唱和歌⇒唱、独泳歌⇒独。源氏物語は官位官職名で登場人物が出てきます。同一名称の詠者が登場してきますので、A,B、・・・を併記して区別しています。物語では時間軸と文脈とからその区別ができますので、当時の読者にとっては支障がなかったのでしょう。全795首に通し番号を付しています。雲がどのように、どういう形で詠み込まれているかを楽しみましょう。桐壺(全9首) いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おきそふる雲の上人 桐壺更衣母、贈 4 [付記] いとどし:ただでさえ・・・なのに、いっそう・・・である。 浅茅生:ちがやが生えている場所。ここでは荒れ果てた庭の意。 露:「浅茅生」の縁で「涙」を「露」と表現。 雲の上人:宮中に仕える貴人。大宮人。狭義には、殿上人。 ここでは、勅使の命婦をさす。 雲のうへもなみだにくるる秋の月いかですむらむ浅茅生のやど 桐壺院、独 7 [付記] 雲の上:(高くて遠い)空。ここでは宮中の意味。「月」の縁語 涙にくるる:涙で目が曇る。涙で目がかすむ。 いかで:どのようにして。 すむ:「澄む」と「住む」との掛詞 浅茅生の宿:荒れた宿。ここでは母君の邸。夕顔(全19首) 見し人の煙を雲とながむれば夕べの空もむつまじきかな 源氏、独 36 [付記] 見し人:以前つきあった人。契りをむすんだ人 煙:火葬の煙。 ここでは夕顔を火葬した煙。その煙を雲に見立てる。 むつまし:慕わしい。懐かしい。 紅葉賀(全17首) 尽きもせぬ心のやみにくるるかな雲ゐに人を見るにつけても 源氏、独 100 [付記] 尽きもせぬ:尽きることのない。 くる:心が暗く沈む。 心の闇:若宮を思う親心の闇と藤壺を恋慕する心の闇の重なり。 雲ゐ:宮中の意。ここでは雲の上の人として遠のいた藤壺をさす葵(全24首) のぼりぬる煙はそれと分かねどもなべて雲ゐのあはれなるかな 源氏、独 118 [付記] ぬる:完了の助動詞「ぬ」の連体形。 なべて:(あたり)一面に。 煙:火葬の煙。ここでは葵の上の亡骸を焼き立ち昇った煙。 雲ゐ:雲の空とほぼ同意。 あはれなり:しみじみと心打たれる。 雨となりしぐるる空の浮雲をいづれの方とわきてながめむ 頭中将A、贈 122 [付記] しぐるる:しぐれる。 いづれの方と:どれをそれ(=火葬により 煙となって昇っていった亡き人の姿)と。 わきて:判断して。見分けて。 ながめむ:眺めようか。 見し人の雨となりにし雲ゐさへいとど時雨にかきくらすころ 源氏、答 123 [付記] 見し人:ここでは葵の上。 いとど:ますます。いっそう。 かきくらす:あたり一面を暗くする。悲しみにくれる。の掛詞 ころ:今日この頃よ。 賢木(全33首) ここのへに霧やへだつる雲の上の月をはるかに思ひやるかな 藤壺、贈 154 [付記] ここのへに:幾重にも重なっていること。宮中との掛詞 月:空の月に、帝を暗喩させる。 はるかに思ひやる:はるかに 想像する。裏に、帝にお目にかかれない意を含ませている。 月のすむ雲ゐをかけてしたふともこのよのやみになほやまどはむ 源氏、贈 160 [付記] かけて:心にかけて。 したふとも:お跡をお慕い申して出家する といたしましても。 この世の闇に:子ゆえの心の闇に なほやまどはむ:やはりまどうことでしょう。「賢木」まで調べてきますと、「帚木」(全14首)、「空蝉」(全2首)、「若紫」(全25首)、「末摘花」(全14首)、「花宴」(全8首)には、雲を詠み込んだ歌は登場していないことがわかりました。詠み込まれ方としては、「雲ゐ」「雲の上」「雲の上人」という形です。これらは、すべて「宮中」を重ねて詠み込まれているようです。唯一「浮雲」が別格のようです。しかし、火葬でたち昇って行った煙が雲になり、浮雲の一部になるという発想が述べられていますので、これもまた、宮中での人間関係での懐かしさが雲に込められているということになりますね。それでは、再び雲の変化に戻ります。=== 2023.6.17 === 南の空昨日に続き、天気はまさに朝から快晴です。10時50分頃に撮りました。雲無し!南西方向の空 西方向の空 東方向の空朝でも時間帯が遅かったからでしょうか、東方向の空にも青空の色がはっきり目に入ってきます。稜線の上に少し白雲が浮かんでいます。 18時25分頃に東方向の空を眺めてみました。白雲は飛び去り、稜線上空は快晴そのものに変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿は見られませんでしたが、快晴が続き良き一日でした。つづく参照資料*『常用 源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院*『源氏物語必携事典』 編:秋山虔・室伏信助 角川書店*『源氏物語』1~6 日本古典文学全集 小学館*『学研全訳 古語辞典 改訂第二版』 監修:金田一晴彦 編集代表:小久保崇明 学研*『明解古語辞典 新版』 金田一京助・金田一春彦 監修 三省堂こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.07.04
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これは入場券です。6月25日で会期が終了しました。終了間近の21日に出かけました。 三条通を西に進むと、高倉通との交差点の北西角に特別展の案内が掲示されています。右折すると、西側に京都文化博物館が見えます。 正面玄関の手前にも特別展のポスターが。 この特別展のPRチラシ。チラシに掲載の作品は後で引用します。このチラシの背景に使われているのは、正伝永源院の「蓮鷺図襖」です。江戸時代の狩野山楽筆で、16面所蔵されていて会期中は前期・後期で入れ替えが行われた展示です。この襖絵は、「正伝永源院の寺宝」の一つとして展示されていました。今回の展示品の中ではやはり見応えのある襖絵でした。織田有楽斎を、大名茶人、茶室「如庵」を作った人、一時期は大坂城の淀君や秀頼の傍に居たという程度の認識でした。ほとんど何も知らないレベルです。この特別展を鑑賞して、初めて織田有楽斎という人物を少し具体的に知り、イメージが膨らんだ次第です。織田有楽斎という人物から始めます。有楽斎は茶人としての名前。本名は織田長益。織田信秀の11男として天文16年(1547)に生まれました。織田信長の弟の一人です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三天下人に仕え、有為転変の激しい時流を乗り切りました。大名としてサバイバルした後、晩年に京都・建仁寺の塔頭・正伝院を元和4年(1618) に再興しました。隠棲し茶人として名を残し、75歳で生涯を閉じます。天文16年(1547)~元和7年(1621)という時代を生きました。(資料1)狩野山楽は京狩野の祖で、安土桃山から江戸初期に活躍した画家です。1559年生まれで、1635年に没しています。有楽斎とほぼ同時代を生きたことになります。この特別展は5章構成になっていました。 第1章 織田長益の活躍と逸話-”逃げた男”と呼んだのは誰か 第2章 有楽斎の交友関係 第3章 数寄者としての有楽斎 第4章 正伝永源院の寺宝 第5章 織田有楽斎と正伝永源院-いま、そしてこれから-第1章の会場では、最初に「織田氏系譜」が展示されていました。その次に『信長公記』巻15です。前期は巻14が展示されていたようです。その隣りには「本能寺跡出土瓦」(京都市蔵)が一部展示されています。焼けて赤茶けた瓦片。本能寺が炎上したことが良く分かる瓦片です。「能」の文字を浮彫にした瓦片も出ています。手許の『信長公記』を調べてみますと、巻15は天正10年(1582)の記録です。冒頭は「御出仕の事」を記述しています。正月朔日、夥しい群衆が集まったことで、「高山へ積み上げたる築垣を踏みくづし、石と人と一ツになりて、くづれ落ちて、死人あり」という崩壊事故が起こったという書きだしから始まります。その続きに、信長が自ら大名・小名を問わず、御礼銭(祝い銭)をとって、惣見寺毘沙門堂舞台をはじめ、城内を見物させたということが記されています。その中に、「・・・三位中将信忠卿、北畠中将信雄卿、織田源五、織田上野守信兼、此の外、御一門歴々なり。其の次、他国衆。・・・」という記述があります。ここに記された織田源五が織田長益、つまり有楽斎のことです。また、3月の「信州高遠の城、中将信忠卿攻めらるゝ事」の条では、その末尾に、「御敵城、ふかしの城、馬場美濃守相拘へ、居城なりがたく存知、降参申し、織田源五へ相渡し、退散候なり」(p360)と、長益の戦場での活躍を記録しています。巻14は天正9年の記録。2月28日に行われた「御馬揃への事」の記録の「御馬場入りの次第」の中に、「同源五」と名前が明記されています。 (資料2)一方、巻15の末尾には、「信長公本能寺にて御腹めされ候事」に引き続き、「中将信忠卿二条にて歴々御生害の事」の記録があります。明智光秀による本能寺の変の勃発です。織田信忠はこの時、二条新御所で自害します。長益はこの時、信忠に仕えていたので傍近くに居たはずです。『信長公記』はこの時の「御討死の衆」の氏名を列し挙記録しています。長益の名は載っていません。彼はこの場から生きのびたのです。 (資料2)その結果、後に「逃げの源吾」という悪評が生まれました。16世紀末に成立した『義残後覚』第5巻(加賀中央図書館蔵)には、既にこの悪評の記述があるそうです。この書物も展示されていました。図録には、悪評の発生・存在を事実としても、これだけで「逃げた男」と断じることは歴史学的態度ではないと問題提起しています。「戦の中、いかに子孫を残し一族を継続させるかと考えることはこの時代、極めて一般的な思考であったと考えられる」(p23)からと。信忠の配下の前田玄以もまたこの時生き延びています。この点は納得できますね。長益はその後、武士の交わりにおいて、良質な人間関係を築き広げている事実がそれを裏付けているとも言えます。この最初のセクションには、後期として、織田信忠・豊臣秀吉の掛物二幅(正伝永源院蔵)が展示されていました。 目を引いたのはこれです。「短刀 無銘 貞宗(名物 寺沢貞宗)」(国宝、文化庁蔵)です。豊臣秀吉の家臣であった寺沢広高(肥前唐津藩初代藩主)が旧蔵していたことにちなみこの名がつくそうです。(資料1)<第2章 有楽斎の交友関係>まさに有楽斎の人間関係を示す事実が掛物のオンパレードで見えてきます。有楽斎宛の書状が掛物に仕立ててあるのです。茶室で掛けられるのに使用されたのでしょうか。後期展示で拝見した書状発信者名を列挙しましょう。桑山左近、松平陸奥守、福島正則、千道安、曲直瀬玄朔、谷衛友、武野宗瓦、徳川家康。名前の半数を私は知りません。一方、有楽斎が発信した書状もまた掛物になっています。藤堂和泉守。土井大炊助。伊勢谷道七。梅岑軒。東心老。松庵老。中納言。古田織部。すぐわかるのは古田織部くらいです。掛物は不案内でよくわかりません。哀しいかな書状文面がまず判読不能です。これらの掛物が茶室で使われたのなら、当時の人々はこれをどのように鑑賞、あるいは受けとめたのでしょうか。一方、今これらが茶室に掛けられたら、茶人はどのように楽しむのでしょうか・・・私には想像がつきません。結果的に、ここは一通り眺めて次のセクションへ、という次第。ただ1点、このセクションの最初に展示されていた木彫像「織田有楽斎坐像」(正伝源院蔵蔵、通期展示)には、心惹かれました。生前の姿を写したと伝えられ、法体で、右手に中啓を持って坐す像です。会場で眺めたときには、柔和な顔をした物静かな印象を受けました。図録の写真からは、大きく開いた目から、強い眼差しを感じる雰囲気があります。眺める角度によっても印象が変化するのでしょう。後期展示で拝見出来なかったのが、狩野山楽筆で上部に賛が記された掛物です。出品リストでは、第4章での展示だったようです。PRチラシにはこちらが載せてあります。 木彫像とは少し異なりますが、部分図を引用します。織田有楽斎のイメージづくりに役立つのではないでしょうか。<第3章 数寄者としての有楽斎> 最初に展示されているのは、右側の、有楽斎が作った茶室「如庵」の扁額です。この扁額は、楷書体で書かれ、草冠の「菴」という字が使われています。この扁額は正伝永源院蔵のもの。現在茶室「如庵」は、愛知県犬山市の有楽苑内に移されています。そこには現在、大悔和尚の揮毫した行書の扁額が掛けてあるそうです。 富岡鐵斎筆「如庵図」の掛物が併せて展示されていました。この図では、楷書体で「庵」の字を用いた扁額として描かれています。つまり、如庵には複数の扁額が伝来していることになるようです。「有楽亭茶湯日記」(慶応義塾図書館蔵)と題する有楽斎の茶会記の書写本が展示してありました。有楽斎自身が記した茶会記そのものは現存しないようです。茶人と研究者にとっては残念でしょうね。このセクションには、有楽斎が愛用した数々の茶道具が展示されています。「緑釉四足壺」(慈照院蔵、重要文化財)は平安時代、9世紀の作品です。その形状に特徴があります。壺は広口で、胴が張っていて、横方向に太めの半円形の帯が3本、胴を巡っています。そして縦方向には4本の脚部としての盛り上がりがあり、先端部が足になっているのです。緑釉は緑褐色を呈しています。どっしり安定している印象を受けました。こんな形の壺はたぶん初めて見る気がします。茶杓が展示されています。武野紹鴎作が1本。有楽斎作が2本、これには初霜、落葉という銘が付いています。織田道八作が2本です。順に眺めて行くとそれぞれに茶杓の幅も反り具合も微妙な差異があります。違いがあることはわかりますが、その良さがどこにあるかは私にはわかりません。茶杓を実際に使いこなしていないと感じられない領域なのかな・・・・、さらには、実際にこれらの茶杓を使ってみて初めて良さがわかるのかな・・・そんな気がしました。上掲の扁額の左に写っているのは玉垣という銘が付いた「唐物文琳茶入」(遠山記念館蔵)です。この玉垣文琳は、「大名物」「駿府御分物」「柳営御物」という3つの肩書を持つ茶入だそうです。この茶入、他の茶入8つと併せて、大坂夏の陣の時、大坂城内の蔵の倒壊で破損し、茶入の陶片が発掘され、「漆屋の藤重藤元・藤巌親子によって漆で修復された」という経緯があるそうです。(資料1)「唐物肩衝茶入 銘 残月」(文化庁蔵)と「唐物茄子茶入 銘 宗伍茄子」(五島美術館蔵)はその形と色合いがいいなぁ・・・と感じました 「青磁輪花茶碗 銘 鎹(カスガイ)」(マスプロ美術館蔵)はおもしろい銘だなとまず思って、よく見ると、茶碗の外面に鎹が打たれています。茶碗のひび割れた箇所を修復しているのです。茶碗の内側を覗くと、ひび割れた箇所が線として見えるだけです。茶碗の色合いと輪花の形が、ひびが入っても捨てがたい茶碗ということで修復したのでしょうね。それが一層風趣を加えたと感じたのかもしれません。どこかで、古田織部は意識的に茶碗を割って、それを修復して、初めてその茶碗を茶会で使うという試みすらしたということを読んだ記憶があります。その事を思い出しました。 この「大井戸茶碗 有楽井戸」(東京国立博物館蔵、重要美術品)は、PRチラシと入場券に使われています。16世紀、朝鮮王朝時代のもの。朝鮮半島で作られた高麗茶碗の一種で、輸入品です。井戸茶碗には「渋い色調でところどころ釉薬(うわぐすり)のちぢれをみせ、竹の筒状の高台(こうだい)がある」(『日本語大辞典』講談社)という特徴があります。白釉のムラが茶碗の景色になっているそうです。この茶碗の遍歴がおもしろい。織田有楽斎⇒紀伊国屋文左衛門⇒・・・⇒仙波太郎左衛門(江戸)⇒伊集院兼常(薩州)⇒藤田家(大坂)⇒松永安左エ門(耳庵)⇒東京国立博物館(寄贈による) この茶碗一口そのものにも濃密なドラマが展開していたのかもしれません。<第4章 正伝永源院の寺宝>織田有楽斎が復興したのは「正伝院」でした。明治時代の拝仏棄釈の影響がここにも及んでいます。当時、「永源庵」は無住であったため即刻廃寺を命じられ、その敷地、堂宇へ正伝院が移されたのです。ところが、無住であったとはいえ、永源庵は細川家の始祖・頼有以後八代の菩提寺だったことから、細川伯爵家が関係してきたのです。永源庵という寺名を「正伝永源院」として復興させることを条件に「保存資金」を提供するということになったとか。その結果、永源庵の敷地に移った正伝院は「正伝永源院」という寺名に改称されました。会場にもその説明が掲示されていました。(資料1)つまり、このセクションでは、正伝院時代の有楽斎所有だったものから枠が広がり、正伝永源院の総体としての寺宝を展示するという形に、次元が移っていました。見所の一つは上記の「蓮鷺図襖」です。加えて、現在は犬山市にある有楽苑内の茶室「如庵」の付属書院を飾る旧正伝院書院障壁画のうちの「山水図」(名古屋鉄道株式会社蔵)が展示されていました。長谷川等伯と狩野山雪のそれぞれが描いた水墨の襖絵です。長谷川等伯の襖絵を見られたのはラッキーでした。伝徽宗筆「架鷹図」(正伝永源院蔵)の掛物も見応えがあります。鷹が様々な姿態で描かれています。8幅が会期中入れ替えで展示されていたようです。図録には勿論8幅すべて収録されています。印象に残るのは、室町時代の「蛸足香炉」(正伝永源院蔵)です。焼香の際に用いる道具ですが、香炉の台が12本の脚を持ち、6本は地につく脚ですが、6本は途中でくにゃりと曲がった状態で、手招きしている感じ、まさに蛸の足を即座に連想させ、おもしろい作品でした。蒔絵で装飾された香炉、湯桶、箱、刀掛などの優雅な作品の展示もありました。<第5章 織田有楽斎と正伝永源院-いま、そしてこれから- >最後のセクションのタイトルに「いま、そしてこれから」というフレーズが付いています。なぜ? と思いました。織田有楽斎は有楽流茶道を創始した人。この有楽流茶道が現在も正伝永源院に継承されているそうです。2022年に有楽流茶道を継ぐ人々により、400年大遠忌が行われたと言います。ナルホドです。 通期で展示されたこの「狸形壺」(正伝永源院蔵)が形としておもしろいものでした。明代、15~17世紀の作品と推定されています。高さが6cmにも満たない小さな蓋付きの器です。青銅製ですが表面に漆が塗られていて、落ち着いた風合いになっていて、狸の顔がカワイイ。墨を擦るための硯滴に使われたと推定されているとか。(資料1)ここには、「有楽斎手造茶碗」が一口展示されていました。赤茶碗です。 これは当日購入した図録の表紙です。ここに使われている「黒楽『正傳院』字茶碗」(正伝永源院蔵)がこの最後のセクションに展示されていました。伝仁阿弥道八作。江戸時代、19世紀。また、仁阿弥道八作「御本立鶴写茶碗」(正伝永源院蔵)が展示されています。胴部に轆轤引きの筋目が見え、立鶴文様が象嵌印花されていて、胴部の一箇所を意図的に押さえて凹ませてあります。少し歪なところがおもしろい茶碗です。「銹絵暦文茶碗」が三口展示されていて、この文様が印象に残りました。暦をデザインに用いた茶碗です。楽了入、楽旦入、仁阿弥道八それぞれの作品です。三者三様でおもしろさがあります。図録を読んでいて知ったのですが、茶室「如庵」には、暦を壁に貼りつけた「暦貼り」があるとか。有楽斎の美意識の一端がそこに表現されているのでしょう。この最後のセクションにも、「織田有楽斎像」の掛物(大阪青山歴史博物館蔵)が展示されていました。大角南耕画、梧庵紹材賛。江戸時代、19世紀。上記の有楽斎像とはまた少し雰囲気が異なる感じです。柔和さを感じる側面は同じです。 図録の裏表紙。織田家の家紋が中央にデザインされ、二羽の鳥が飛んでいます。よく見ると、この鳥は「蓮鷺襖」に描かれた燕が使われているようです。正伝永源院を一度訪れてみたくなりました。2021年秋に約100年ぶりに石造五重層塔の「武野紹鴎供養塔」が戻ってきて、本堂に安置されている有楽斎像の目線の先の庭に設置されたと言います。関西財閥の藤田家の奉納によるものとのこと。この供養塔自体にも変遷の歴史が刻まれているようです。当初は武野紹鴎25回忌の天正7年(1579) に堺の塩穴常楽寺内に建立された層塔。有楽斎が正伝院を再興した折に、当時の所有者、堺の難波屋に交渉して、石塔を移設したそうです。(資料1)本堂に安置されてる有楽斎像とともに、その石塔を眺めてみたいなと思いました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*出品リスト「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」1) 当日購入した図録『大名茶人 織田有楽斎』 発行 読売新聞社 編集:京都府京都文化博物館 サントリー美術館 読売新聞社2)『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 補遺正伝永源院 ホームページ日本庭園 有楽苑 ホームページ有楽苑(国宝茶室 如庵) :「Aichi Now」茶室「如庵」 :「三井広報委員会」織田長益 :ウィキペディア織田有楽斎の墓 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.06.28
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2023.3.1時点3/1に、三条大橋の南側の木製高欄の更新についてご紹介しました。これがその時撮った1枚です。南側の更新が終わっていましたが、この時北側は未着工でした。3/16に三条に出たのを最後にしばらく出かけていませんでした。先日(6/21)久しぶりに、京都文化博物館で開催の特別展「大名茶人 織田有楽斎」を鑑賞する目的で三条に出ました。(この特別展は昨日6/25で終了しました。)3ヵ月ぶりに三条大橋を渡ると、北側の木製高欄の取り替えが完了していました。 三条大橋の東詰、北側歩道から撮りました。 橋上の歩道を少し西に歩み、東側から撮った景色です。 未だ南側と同様、高欄手前に木柵が設置されています。 鴨川の上流(北)側の景色。北に見えるのは御池大橋。取り替えられた高欄には、これまでの擬宝珠をそのまま取り付けて復元されています。 三条大橋の北側歩道の西よりから撮った景色です。 新調された木製高欄に歳月を経た擬宝珠が設置されているのですが、違和感を感じません。今まで長年この擬宝珠を見慣れてきているせいでしょうか。逆に落ち着きを感じます。 三条大橋西詰(北側)天正17年に建造された三条大橋の石柱が西詰に保存されています。時代が次々に変わり、橋は幾度も付け替えられています。しかし、この三条大橋は京の都の交通の要衝地であり続けています。補遺「三条大橋の補修・修景」トップページ :「京都市情報館」 三条大橋の歴史(室町時代~安土桃山時代) 「橋博士」を目指す方へ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都市 三条大橋 木製高欄(南側)の更新観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (3) 描かれた姿・撮られた姿
2023.06.26
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=== 2023.6.11 ===朝から小雨が降っていました。午前中、コロナの予防接種を予約していたので病院に出かけていました。午後には雨が止み、くもり空に。それで、 南の空雲の姿は記録を兼ねて、18時過ぎだけ撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 こんな濃灰色の雲の姿が見られました。=== 2023.6.12 ===朝からくもり空です。 南の空14時35分頃に、記録としてくもり空の様子を撮ってみました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空毎日空の雲を眺めていると、こういう布を広げたような雲の姿はあまり撮る気がしません。やはり、雲は変化がみられる方がいい。この日、ひととき小雨が降った時がありました。=== 2023.6.13 === 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空8時45分頃に撮りました。この日も朝からくもりです。雲の姿に少し変化が見えます。 東方向の空13時35分頃に撮った空は、朝の空とは少し雲の変化が出ています。 南の空南西方向の空 西方向の空 濃い灰色の雲の形が様々です。薄い灰色の雲よりも高度が低いのでしょうね。 南の空 18時20分頃にも撮ってみました。南西方向の空 西方向の空 ズームアップして雲の姿を部分撮り 東方向の空夜に雨が降り出しました。=== 2023.6.14 === 南の空朝からくもりです。10時20分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空毎日つづくくもりの空といえども、浮かぶ雲の姿は日々変化がみられます。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 17時05分頃に撮りました。朝の雲とはまた違った姿です。 日々どころか、やはり刻々と変化しているのでしょう。 灰色のグラデーションがいいですね。 この濃淡の変化はどのようにしてできるのでしょう・・・・不思議です。さて、雲がたりに移ります。源実朝の『金槐和歌集』の最後の巻之下からの抽出です。 (『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系 岩波書店 参照)この巻之下は「雑部」という名称でまとめられ、156首が収録されています。その中で「雲」を詠み込んだ歌を調べてみました。次の4首です。 ちかうつかふ女房遠き国にまからむとて いとま申侍(まうしはべり)しかば 山遠(とほ)み雲ゐに雁の越えていなば我のみひとり音(ね)にや鳴かなむ 604 [付記] 山遠み:山は遠くして。 雲ゐに:遙かな雲の中を。 雁:女房を雁に喩えた。 鳴かなむ:雁に喩え、鳴きたいものだ。 まな板といふ物の上に雁をあらぬさまにして置きたるを見て あはれなり雲井のよそに行雁もかゝる姿に成ぬと思へば 704 [付記] あらぬさま:原形をとどめない状態。 雲井のよそに行雁:大空をはるかに飛び行く雁。 黒 うば玉のやみのくらきにあま雲の八重(やへ)雲がくれ雁ぞ鳴くなり 705 [付記] うば玉の:「やみ」の枕詞。うば玉の⇒「ぬばたまの」の変化形 八重の雲がくれ:大空のうち重なる雲の雲がくれに。 鶴 沢辺より雲ゐにかよふ蘆鶴もうきことあれや音 (ね) のみ鳴(なく)らむ 706 [付記] うきことあれや:心にそまぬことがあるからか。 ねのみなく:「ねをなく」と同じ。声を出してなく。 『金槐和歌集』には、719首が収録されていて、その中で「雲」の字を詠み込んだ歌は、合計 34首ありました。(見過ごしがあるかも知れません・・・)これで一区切りがつきました。ふと、『源氏物語』を思い浮かべました。ここには、795首の歌が登場しています。『金槐和歌集』より1割ほど多い歌の数です。少し興味が湧きましたので、次は『源氏物語』に詠まれた歌を調べてみます。それでは、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.15 === 南の空この日も朝からくもりです。9時頃に空を見上げました。午後開講のある講座を聴講するために出かける予定があり、雨が降らないか、ちょっと気になりました。南西方向の空 西方向の空 こんな感じの空の時は雨が降ることが多いのです。結果的には降られずに済みました。 東方向の空 東方向の空帰宅後、16時半頃に撮った空の状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 この日は、終日、天気予報通りにくもりでした。振り返ってみますと、6月の第2週からはほとんどくもりの日が続き、小雨あるいは雨が振る時間帯のある日もあったという状況でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.24
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=== 2023.6.7 === 南の空9時15分頃に撮りました。空は晴れていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の雲かなり雲が張り出していますが、青空が見えるといいですね。 東方向の空は、稜線の上空をずっと雲が覆い、青空は見えません。 13時15分頃に、東方向の空を眺めると、黒みを帯びた雲は去り、稜線上に漂う白雲の上空は薄墨色で覆われています。 南の空もまた、雲に覆われた状態に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 18時半頃に空を眺めると、南の空には青空が戻ってきました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空しかし、それ以外の方向では青空が見えない状態です。全体的には、晴れのちくもりという一日でした。=== 2023.6.8 === 南の空朝に眺めるとくもり空。13時頃に眺めても好転の見込みはなさそう。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 15時50分頃には、小雨が降っていました。少し前から降り始めていたようです。 南の空南西方向の空 窓際から、二方向だけ撮りました。グレー一色です。=== 2023.6.9 ===朝から小雨。 南の空南西方向の空 9時20分頃には小雨状態なので二方向だけ撮りました。しかし、10分後には小雨が止みました。そこで、再度撮ってみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空10分ほどのことで、雲の姿には変化がみられました。その後、時折南の空を眺めましたが、くもり状態に大きな変化はなし。写真を撮る気は起こりませんでした。さて、それでは雲がたりを続けましょう。『金槐和歌集』の続き、巻之中です。この巻は「恋の部」と題され、252首が収録されています。その内で11首に「雲」の字が詠み込まれていました。 (『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系 岩波書店 参照) 逢(あふ)事を雲井のよそに行雁の遠ざかればや声も聞こえぬ 418 [付記] 恋人を雁に見立てて詠んだ歌 夕月夜(ゆうふづくよ)おぼつかなきを雲間よりほのかに見えしそれかあらぬか 427 [付記] おぼつかなきを:薄暗くてはっきりしないが。 恋人を夕月に喩えた 月影のそれとあらぬかかげろふのほのかに見えて雲隠れにき 428 [付記] かげろうふの:「ほのか」の枕詞。 天の原風に浮きたる浮雲の行へさだめぬ恋もするかな 432 [付記] 天の原:大空。 久堅の天(あま)とぶ雲の風をいたみ我はしか思ふ妹にしあらねば 433 [付記] 久堅の:「天」の枕詞。 風をいたみ:風が激しいので 我はしか思ふ:乱れる雲のようにわが心も恋に乱れて物思う。 我恋はあまの原とぶあしたづの雲ゐにのみや啼きわたりなむ 435 [付記] あしたづ:鶴。⇒葦の生えている水辺によくいるところから。 雲のゐる吉野のたけにふる雪のつもりつもりて春に会(あひ)にけり 479 [付記] 上三句は「つもり」の有心の序。 つもりて:雪と恋心を掛けた 春に会にけり:恋の成功した喜びを表現 思ひきやありしむかしの月影を今は雲ゐのよそに見むとは 497 [付記] 思ひきや:思いもかけなかった。 雲ゐのよそ:雲のかなた。 ありしむかしの月影:かつて一緒に暮らした恋人を月になぞらえた 寄月恋(つきによするこひ) 数ならぬ身はうき雲のよそながら哀れとぞ思ふ秋の夜の月 523 [付記] 数ならぬ身:物の数でない賤しい私。 うき:「浮き」と「憂き」 秋の夜の月:恋人を月に喩えた。 寄雲恋(くもによするこひ) しら雲のきえは消(きえ)なで何しかも立田の山の名のみたつらむ 525 [付記] きえは消なで:消えはてはしないで。死にはてもしないでを含意。 何しか:どうして・・・か。 名のみたつ:名前(裏に噂)だけが立つ 雲がくれ鳴(なき)て行(ゆく)なる初雁のはつかに見ても人は恋しき 540 [付記] 上三句:「はつか」の序。 はつかに:わずかに。西行法師は、『山家集』下の最後に「百首」と題し、その中に「恋十首」を載せています。月を詠み込んだ歌は一首ありますが、雲を詠み込んだ歌はありません。恋と雲は結び付きにくいのかもしれません。再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.10 === 9時45分頃に撮った南の空です。この日の天気予報はくもりでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空いずれの方向も灰色の雲で覆われています。11時過ぎに所用で外出しました。念のために折りたたみの傘をバッグに入れて。結果的には往復、くもりのままで傘を使わずに済みました。 南の空帰宅後、16時頃に撮った空です。朝よりも、雲!という感じがします。同じグレーの雲でも、変化と動きを感じさせる雲の方がいいですね。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲の姿を撮り始めて、偶然にも初めて飛ぶ鳥の姿を撮ることができました。天気予報どおり、終日くもりでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.22
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六條院春の御殿の縮尺模型の西側には、通路を挟んで実物大で板敷の廂空間が設けてあります。西辺と南辺の一部には御簾が掛けられ、北辺は襖障子で仕切られています。冒頭の景色はほぼ全景です。この空間には、毎回その時のテーマに合わせた実物サイズの装束が説明パネルを備えて展示されます。 これは、「古神宝に知る十二単の姿 鶴岡八幡宮御神宝の再現」として復元考証された装束です。 左:白小葵地鳳凰文二重織袿(こあおいじほうおうもんふたえおりうちぎ) 一領 A右:黄地窠霰二重織小袿(かにあらあれふたえおりこうちぎ) 一領 D 左:淡香地幸菱文綾織単(うすこうじさいわいひしもんあやおりひとえ) 一領 C 右:紫地向鶴三盛丸文唐織袿(むかいつるさんもりまるもんからおりうちぎ) 二領 Bこの2枚の写真は、説明パネルとして設置されていました。鎌倉の鶴岡八幡宮には御神宝として袿等5領が所蔵され国宝となっているそうです。次の説明の都合上、末尾にA~Dの記号を付しました。 復元考証され再現された装束です。Aを上に、Bの同品2領を所蔵の通り重袿(かさねうちぎ)とし、Cは当時の色彩を紅と推定し単として用い、その寸法は伝承の通りとしたそうです。Dの小袿を加えて、12の御衣と単衣で合計13枚となっています。「袖付けは振りがなく身につけられているのでその様式に従い、袖口には重なりがありますが裄(ゆき)の差による中陪(なかべ)は見えません。鶴岡八幡宮の単仕立3枚1組のものを4組重ねれば12枚の単を重ねたことになり、単仕立3枚1組のものを3組と2枚合わせのものを1組と単を重ねれば12枚の重単となります」(説明パネルより)「十二単とは本来は晴れの装いである唐衣裳姿を意味したものではなく、近世になって十二単が唐衣裳姿を示すようになったとも考えられます」という説明が加えてあります。手許の一書に、「平安朝の作品には『十二単』そのものの語が見えず、『平家物語』『源平盛衰記』のあたりに初出する。さらにまた、例えば『源平盛衰記』巻四十三に、入水を図った建礼門院の『藤重の十二単の御衣』を召された姿とある条など」(資料1)という説明を見つけました。 説明パネルに掲載の画像これは鎌倉時代初期の幕府における将軍夫人や執権夫人の通常の正装を想定したものだそうです。次の説明も装束についての知識として役にたちます。(説明パネルより)1.鎌倉時代には、平安時代中期に完成した公家女房の唐衣裳の晴れの装いは特別な儀式だけのものとなった。2.天皇の前に伺候する以外は、唐衣を略した。表着や裳さえ省くこととなった。3.鎌倉時代後期には、「小袿、袴に衣、単を重ねた袿姿が『はだか衣』として用いられ、更に次には衣を除く単、袴のままの姿であったり、更に控えの時などは袴を脱して小袖のままのこと」もあった。 公家女房晴れの装い~平安時代中期に日本独自の十二単(ひとえ)の完成~ (説明パネルより切り出し)十二単は「女房装束」「唐衣裳」の俗称です。10世紀半頃にこの姿が完成したそうです。奈良時代には髪を結い上げていました。それが平安時代には垂髪(たれがみ)になり、眉は作り眉となります。原文は未確認ですが、『栄花物語』巻24「わかばえ」には、万寿2年(1025)正月23日に、三条天皇中宮の藤原研子(道長の娘)が主催した大饗宴の場面が描かれているそうです。中宮研子は女房たちに、重袿(かさねうちき)を15~20枚まで着させたとか。道長はその華美な演出に怒りを発しました。というのは、この時代に藤原道長は重袿は6枚程度がよいとして、装束の倹約令を出していたからだそうです。(説明パネルより)「十二単の『五衣(いつつぎぬ)』は、のちに重袿を5枚と定めたことによる呼称」(説明パネルより)だと言います。袿は、「もともと単と表着との間に着けた内着の衣、つまり下着の総称」です。『栄花物語』の「暮まつほし」には、「この御時には制ありて、衣の数は五つ」と制限したことが記されているそうです。(資料1)手許の古語辞典を引くと、「五つ衣」の項では、「女房装束の一つ。唐衣と単との間に袿を五枚重ねたもの。のちには一枚の衣で袖口と裾だけを五枚重ねに見えるように仕立てた」(『学研全訳古語辞典 改訂第二版』)と説明しています。 実物サイズの装束が展示されています。 説明パネルを見落としていたようです。記録写真がありません。手許の一書を参照しますと「紅紅葉(くれないもみじ)」と称するかさねの色目のようです。(資料2) 草木染めで染めたものと化学染料で染めたものが、かさねの色目見本として展示されています。もう一点、左側の背後に展示してあったようですが、撮り忘れました。 「継紙(つぎかみ)」の作品例が展示されています。「継紙とは、異なる質や色の紙を継いだ料紙のことです」(説明パネルより)継紙は「冊子作り」の場面展示に出て来ました。継紙の技法はいくつもあるようです。たとえば、 切り継ぎ: 主に直線的に切った紙を継ぐ 破り継ぎ: 破いた紙を継ぐ 重ね継ぎ: 薄様の紙を重ねる 他に金銀の箔や砂子を散らす。金泥で蝶や鳥、折枝などを描く。などの趣向を加えるこの継紙が成立したのは平安時代と考えられているそうです。(説明パネルより)これで、展示を一巡したことになります。これで今回(2月~5月展示)鑑賞のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照史料1)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館2)『新版 かさねの色目 平安の配彩美』 長崎盛輝 青幻舎 p56補遺院政時代の公家女房晴れの装い :「日本服飾史」(風俗博物館)十二単の基礎知識 :「民族衣裳文化普及協会」継紙 :「コトバンク」王朝継ぎ紙とは :「王朝継ぎ紙の世界」書簡に用いられた用紙(色変わりの用紙を継いだ巻紙)は、書誌学上、どう表記されるのか知りたい。 :「レファレンス協同データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ
2023.06.18
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=== 2023.6.4 === 南の空朝から快晴です。10時45分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東の空も、この時刻にはこんな感じで稜線上空に青空が見えています。 東方向の空15時25分頃には、雲が張り出していました。厚い層状に稜線上空を覆っています。 南の空厚い白雲がぐんと張り出し、その上に青空と雲が重なって見えます。南西方向の空 西方向の空 南西から西方向にかけては、雲の形が異なります。こちらは鱗雲様です。 頭上の雲 南の空18時10分頃にも空を眺めてみました。再び、雲の姿は変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空これだけ変化するのもちょっと珍しい・・・・。雲の姿を楽しめた一日。=== 2023.6.5 === 南の空9時頃に撮りました。打って変わって朝からくもり空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どちらを向いても、濃いグレーで似たような厚くて平板な感じの雲が覆いつくしています。こんな空の様相が続きました。この日はくもり。 南の空17時20分頃に空を眺めると、雲の姿が様変わりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空さて、雲がたりに移ります。源実朝が遺した『金槐和歌集』を取り上げます。参照本には、西行法師の『山家集』とセットになっていますので、こちらも、これを機会に通読しながら「雲」の字を詠み込んだ歌を抽出してみました。参照したのは、『山家集 金槐和歌集』(日本古典文学大系29 岩波書店)です。『金槐和歌集』は、巻之上、巻之中、巻之下の三巻本になっています。この岩波本は「貞享4年北村四郎兵衛板行の整板本」を底本としています。巻之上は、四季編成で、407首が収録されています。そこから抽出した歌は次の通りです。上・春部 春のはじめの歌 九重(ここのへ)の雲井に春ぞ立ぬらし大内山に霞たなびく 2 [付記] 九重の雲井:雲が幾重にも重なる空のかなたの意と宮中の意。 大内山:もとは山城の地名。皇居の辺りの意として。 名所桜 音にきくよしのの桜咲きにけり山のうもとにかゝるしら雲 51 [付記] 音にきく:うわさに聞いている。評判のよい。 しら雲:桜の花の咲く様子を雲に見立てる。 遠山桜 かつらぎや高間の桜ながむれば夕ゐる雲に春雨ぞふる 52 [付記] 高間:葛城山中の一峰。桜の名所。 春山月 風さはぐ遠(おち)の外山(とやま)に雲晴てさくらにくもる春のよの月 97 [付記] 遠の外山:遠くのと山。と山は里に近い麓の山。奥山に対する語。 さくらにくもる:桜の落花のために曇るように感じる上・夏部 五月雨の雲のかゝれるまきもくの檜原がみねに鳴くほととぎす 154 [付記] まきもくの:巻向山の。 葛城や赤間の山のほとゝぎす雲ゐのよそに鳴きわたるなり 155 五月雨 五月雨は心あらなむ雲間より出(いで)くる月をまてばくるしき 164 [付記] 心あらなむ:月を見せるようにする、優しい心があってほしい くるし:心配だ。気がかりだ。上・秋部 秋のはじめ月あかかりし夜 天の原雲なき宵に久かたの天の月さへ渡るかさゝぎの橋 200 [付記] かさゝぎの橋:七夕の夜、かささぎが天の川に渡すという橋 月前雁 九重の雲ゐをわけて久方の月のみやこに雁ぞなくなる 226 [付記] 久方の:「月」の枕詞。 月のみやこに:月のあたりにの意。 鳴きわたる雁の羽風に雲消(きえ)て夜ふかき空にすめる月影 227 秋風に山とびこゆる初雁の翅(つばさ)にわくる峯のしら雲 232 雲のゐる梢はるかに霧こめてたかしの山に鹿ぞ鳴くなる 237 [付記] たかしの山:高師山。三河の国と遠江の国との国境にある山。上・冬部 夜更(ふけ)て月をみてよめる さ夜更て雲まの月の影みれば袖にしられぬ霜ぞ置(おき)ける 342 [付記] 袖にしられぬ霜:月光が白く袖にさす様のたとえか。 山邊霰 雲ふかき山のあらしさえさえて生駒の嶽に霰(あられ)ふるらし 347 [付記] さえさえて:寒い上にも寒くて。 山たかみ明(あけ)はなれ行(ゆく)横雲の絶え間に見ゆる嶺のしら雪 365 [付記] 山たかみ:山が高いので。 見わたせば雲井はるかに雪しろし富士の高根のあけぼのの空 366 久堅のあま雲あへりかづら木や高間の山はみ雪ふるらし 368 [付記] 久堅の:「あま」の枕詞。 あま雲あへり:天雲が集合している。 まきの戸を朝明の雲の衣手に雪をふきまく山おろしの風 371 [付記] まきの戸:真木で造った板戸。 衣手に:雲の衣とわが「衣手」 かづらきや雲を木高(こだか)み雪しろし哀(あわれ)と思ふ年の暮かな 402 [付記] 雲:ある本は「山」と記すとか。 木高み:木が高く繁るさま。抽出してみたところ、巻之上には、「雲」の字を詠み込んだ歌は、19首ありました。実朝は、あまり技巧には走らないで、対象を素直に捉えて率直に歌に詠み込むという姿勢で取り組んだ歌人だなという印象を懐きました。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.6 === 南の空8時50分頃に撮りました。この日も朝からくもり空です。南西方向の空 西方向の空 東方向の空今までの観察では、朝からくもりで雨の方向に進みそうな日は、こんな空模様の状況が多い気がします。天空に厚手の少し濃い布が一面に広げられたというような感じ、勿論その布はあちこちに皺が寄っている感じの変化が見られる・・・・とまあ、そんな印象です。この日は、午後4時頃から小雨が降り始めました。手帳にちょっとメモ書きしていました。 南の空南西方向の空 記録を兼ね、16時50分頃に、窓際から二方向だけ雲の姿をとりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.17
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源氏明石の姫君の入内を前に、その婚礼支度の一つとして、姫君の習字の手本になるような冊子(草子)、つまり後世に名を残した昔の一流の名筆家の冊子集めを源氏は思い立ちます。それに併せて、当代の名筆家にも冊子づくりを依頼します。さらに、源氏自身も一揃い書き、冊子を作ることを思いついたのです。(資料1)『源氏物語』の「梅枝」には、「みづから一具(ひとよろひ)は書くべし。気色ばみいますがりとも、え書きならべしいやと、我ぼめをしたまふ」(このわたしも一揃いは書きましょう。お二人が気張ってお書きになっても、わたしにだって同じくらいのものが書けないことはなかろうと自賛なさる)と記されています。お二人というのは兵部卿宮と左衛門督です。(資料2)六條院春の御殿の寝殿・北廂には、明石の姫君の婚礼仕度の一環として冊子づくりをする場面が具現化されています。 源氏は立烏帽子を被っています。 兵部卿宮 兵部卿宮の従者が続きます。源氏の依頼を受けていた風流人として名高い兵部卿宮が源氏に直接冊子を持参しました。源氏は、当代の名筆と言われる人々として、朝顔前斎院、朧月夜内侍、兵部卿宮、左衛門督に冊子作りを依頼していたのです。 源氏は男性の一番くつろいだ服装である袿(うちき)姿で、冊子作りに熱中しています。袿姿は限られた者のみが目にするくつろぎの姿なのです。設置された説明パネルには「あざれたる袿姿」というタイトルが使われていました。「あざる(戯る)」は、「儀式ばらない装いをする。くつろぐ」(『学研全訳古語辞典 改訂第二版』)という意味です。 冊子の情趣を解せる女房が源氏の近くに伺候し、墨を磨る役目を担っているようです。几帳と屏風が北廂の空間を間仕切る道具として適宜使われています。 源氏の右側には、几帳を間仕切りとして、明石の姫君の婚礼支度の一部となる装束が置かれているようです。 「例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。・・・・・御前に人繁からず。女房二三人ばかり、墨などすらせたまひて、・・・」(例によって、大臣は寝殿に人を避けていらっしゃって、お一人でお書きになる。・・・・・御前にさほど大勢はおおきにならない。女房二、三人くらいに墨などをおすらせになって・・・)と原文が記す場面です。(資料2) 冊子作りのために、分担作業に勤しむ女房たちがいます。 継紙の紙を切る女房 切った紙を継ぎ合わせる女房 書写をする女房 糊付けする女房書写された紙を一枚ずつ二つ折りにして、折り目の方を糊付けして貼り合わし、綴じていくという「粘葉装(でっちょうそう)」という方法が使われています。また、「冊子は料紙の折り山で糊付けされるために、頁を繰ってゆくときに、完全に開けるところと糊代のために奥までひらかない頁ができる。このため、開くと蝶が羽を広げた姿に見える頁があることにより、胡蝶装とも呼ばれる」(資料1)そうです。 この女房は冊子作りを統括する役割を担う女房でしょうか。出来上がった冊子をチェックしている風に見えます。(説明パネルには記載がありません。)紫式部は、冊子作りの体験を『紫式部日記』に記しています。中宮彰子が敦成親王を出産し、五十日の祝い行事も終えて、いよいよ宮中に還る日が近づいてきた頃、内裏の一条天皇への土産として、御冊子を作ると指示したのです。11月上旬に御冊子作りが行われます。「御前には、御冊子作り営ませ給ふとて、明けたてば、先づ向ひさぶらひて、色々の紙選り整へて、物語の本ども添へつつ、所々にふみ書き配る。かつは、綴じ集めしたたむるを役にて、明し暮らす」と。(中宮様は御本作りをなさるという。そこで私は、夜が明けると真っ先に中宮様の御前に上がり、差し向かいでお仕えして作業にあたる。色とりどりの料紙を選び整え、物語の原稿を添えては、清書の依頼状と共にあちこちに配るのだ。そのいっぽうでは、清書の終わった分を綴じ集めて整える。これを仕事にして、夜を明かし日を暮らす) (資料3)この物語とは、日記の記述から、紫式部が書いた『源氏物語』と推測されます。書写されて出来上がった冊子が、ついに一条天皇のもとまで届くことになります。寝殿の北側から西側面に回り込みます。 寝殿の西の廂を撮った写真です。西側面に展示の一部である女房の姿が見えます。その手前に、1点、かさねの色目として、「黄菊(きぎく)かさね」の装束が展示されています。着用時期は旧暦10月~11月。重陽の節句で菊は長寿を願い、厄除けの花として愛でられます。その後、盛りが過ぎて色が赤紫に変色するのがまた「移ろひ盛り」として再び愛でられたそうです。四季の花の霊験を願った色目かさねだそうです。(説明パネルより)これが次の展示場面への導入にもなっています。寝殿を北側から西側面に回り込みますと、そこは「重陽節会」に関連する一場面です。菊の花が盛りである旧暦9月9日に行われた節会です。「平安時代初期に節会として恒例化し、嵯峨天皇(在位:809~823)の時代に神泉苑で行われていた重陽節会は、次の淳和天皇(在位:823~833)の時代より紫宸殿で行われるようになった。 重陽節会では、天皇が紫宸殿に出御し、前庭に文人たちが参集して漢詩を作った。序者が詩序を作ったり、お題に応じて文人たちが漢詩を作ったり、それを講師(文章博士等が勤める)が読み上げるというのは曲水の宴と同様である。その後、人々に菊酒が下賜され、庭の舞台では国栖奏や内教坊の妓女による舞妓奏が披露された」(資料1)菊酒は不老長寿の効果があると信じられていました。 先に、紫宸殿の前庭の一隅に展示された菊。小菊の原種である野路菊(のじぎく)の展示を載せておきます。菊の花の上には、綿が広げてかぶせてありますので、菊の花そのものを見られません。平安時代の女性にとっては、この「菊の着せ綿」が重要な意味を持っていました。陰暦9月8日の夜に、菊の花に綿をかぶせて、菊の露・香りをしみ込ませます。その綿を9月9日「重陽の節句」に集めるそうです。この綿で体をぬぐうと、老衰をふせぐと信じられていたのです。(資料1)菊の着せ綿は、平安時代、宇多天皇(在位:887~897)の時代から始まり、近世まで宮中で行われていたそうです。(資料1、説明パネルより) 九日に「菊の着せ綿」を届けにきた女房(兵部のおもと)『紫式部日記』に記された「中宮の母倫子の気遣い」というエピソードを具現化したのがここの展示です。紫式部が仕える中宮彰子の母で、道長の北の方である倫子が、「この綿で、うんとすっきり老化をお拭き取りなさいませ」という言伝とともに、紫式部に「菊の着せ綿」を届けさせたのです。(資料1,3) 立っている女房は、几帳に「茱萸(ぐみ)袋」をかけようとしています。茱萸袋は、ミカン科の植物・呉茱萸(ごしゅゆ)の果実を赤い袋に入れたものです。その強い香りが邪気を払うと信じられていて、重陽の節句に、それまで掛けられていた「薬玉」を「茱萸袋」にかけ替えるのです。(資料1)なぜ、呉茱萸の実をいれた袋を「ぐみぶくろ」と呼ぶのか。これは、日本の本草学者が呉茱萸とグミの実に似た山茱萸(さんしゅゆ)という植物を混同し、「茱萸」を「ぐみ」と読んで、読み仮名をつけたという間違いに由来するそうです。(資料1) 菊の着せ綿を手に持つ紫式部メッセージを聞いた紫式部は 菊の露若ゆばかりに袖振れて花のあるじに千代は譲らむ (せっかくの菊の露、私はほんの少し若返る程度に触れておいて、 後は花の持ち主、奥様にみなお譲りしますわ、どうぞ千年も若返ってくださいませ)御礼を兼ねて歌を詠みました。日記にこの歌が記されています。しかし、歌を詠んだ時には、既に倫子が中宮彰子の所から自室に帰ってしまっていると聞いたことで、この歌を贈るのは止めたのだそうです。日記にはそう記しています。手許の『紫式部日記』、訳注者の山本淳子さんは、「私的に倫子に詠んだ和歌ではなく、彰子や女房の前で披露されることを期待したものだったので、自室の倫子に贈っても意味がなかったということか」(資料3)と脚注にコメントされています。紫式部の思いを考える上で、興味深いな・・・・と思う次第です。また、菊の着せ綿は、『源氏物語』の「幻」に登場します。菊の着せ綿を源氏が見て、亡き紫の上を忍ぶ傷心の姿が描写されています。(資料4) 菊酒を味わう女房たち 寝殿西側面の南側は、簀子に几帳を立てて間仕切りとして、 「打ち出での衣」が一場面として展示されています。このシリーズの第1回に少し略称の「打出」という用語で触れています。ここで再びしっかりと眺めることができました。独立の展示空間になっていることで、一層分かりやすさがあります。「出だし衣(いだしきぬ)」とも称されます。「室内の御簾や牛車のすだれの下から、衣の袖口(そでぐち)および、裳(も)、童袴(わらわばかま)の裾などを外に出すこと。また、その出した着物」(『明解古語辞典 新版』三省堂)と説明されています。 この外からの眺めが「打出」「打ち出での衣」「出だし衣」です。 この打出が、第1回の「この世をバ・・・・」、つまり道長の娘三人の立后成就による饗宴の場面にリンクすることになります。つづく参照資料1) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)2)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p417-4183)『紫式部日記 現代語訳付』 紫式部 山本淳子訳註 角川ソフィア文庫 p75-764)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館補遺蛍兵部卿宮 :ウィキペディア重陽 :ウィキペディア重陽の節会【虚空蔵法輪寺】 :「京都観光Navi」重陽の節供と茱萸袋 :「小笠原 敬承斎 公式ブログ」生薬解説:呉茱萸 :「ハル薬局」京の歳時記をむすぶ水引の会「重陽節会」糸菊・重陽節句飾 :「和工房包結ブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.16
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夜来の雨があがり、くもり空のもとで、今年も南面するリビングルームのガラス戸外で、緑のカーテンが半ばを覆い始めています。ふと見ると、オーシャンブルーの花一輪が咲いていました。今年の初咲きです。 初咲きはうれしいものです。 視点を変えて撮ってみました。 朝顔のカーテンの傍には、ピンク色のユリが花の盛りを過ぎてきて、その隣で、白いユリが咲き誇っています。 咲く花もまた三者三様。少しずつ違いが表れていておもしろい。玄関前の郵便ポストの支柱の傍に ツユクサ ドクダミ 東側の境界、腰高ブロック塀の傍に西側の境界、腰高ブロック塀の傍に 背丈より高い位置に三輪のバラ、よく見ると四輪のバラが身を寄せるように咲いていて、 その北側には、アジサイの花がたくさん咲いてきました。 ちょっと群生する気分のアジサイの北辺に一つだけ このガクアジザイの花が咲いています。 庭にひととき咲く花の記録に・・・・・ご覧いただきありがとうございます。この前に、庭の花を撮ったのは5月25日でした。こちらです 観照 庭の花
2023.06.14
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平安の遊びの一つに「偏(へん)つぎ」というのがあります。主として女性や幼い子供の遊びです。 漢字の旁(つくり)と偏がバラバラになっている札を使って、漢字の知識を競い合う遊びです。縮小模型で再現されたこの東の対のこの局のところで、幾度かこの「偏つぎ」遊びの場面が違った姿形で具現化展示されています。この遊びの実態については様々な説があるようです。いずれも遊びとしてできそうです。*漢字の旁に偏を付けて文字を完成させる。*ある旁に偏を付けて訓みを答えさせる。*偏や旁の一方を隠して漢字を当てさせる。*詩文中のある漢字を偏だけにしておいて解釈させる。*ある偏の付く漢字を文中より早く拾いださせる。*ある偏の付く漢字をいくつ知っているかを書き継がせる。 (資料1)上掲場面のように畳の上に旁と偏の札を散在させると、最初に掲げたやり方が一番手軽な遊び方になりますね。『源氏物語』の「葵」で、源氏が紫の上と新枕をかわす場面の少し前に、源氏が「つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに」という様子が記されています。「偏つぎ」の遊びがここに出て来ます。その後に「心ばへらうらうしく愛嬌づき、はかなき戯れごとの中にもうつくしき筋をし出でたまへば」(姫君は、ご気性が利発であふれるような魅力をたたえ、たわいのない遊戯をしていてもみごとな筋をおみせになるので)と続きます。この時源氏は紫の上の賢明を感じ取るのです。(資料2) 冒頭の写真の右、東の対を北側に回り込んで西の廂を眺めると、北端に幼女が立って控えています。 その前には、「平安時代のお菓子」が準備して置かれています。角高坏(たかつき)が二つ並んでいます。左側には、「甘葛(あまずら)」(高級甘味料)、右側には「索餅(さくへい)」が載っています。「甘葛」は、金物の碗に、氷室で保存されてた貴重な氷に甘味料の甘葛をかけて食するというお菓子。「甘葛はツタの樹液を採集して、煮詰めて作られた甘味料のこと」。「索餅」は、「小麦粉と米粉を練って紐状に細長くし、縄のようにねじり合わせてた唐菓子の一つ。和名『麦縄』。癪病を起こす悪霊鎮めの備え物とされました」(説明パネルより)右の角高坏の隣りに準備されているのは、「椿餅(つばいもちい)」です。「甘葛で甘味をつけた餡(あん)のない餅菓子。椿の葉で挟んだもので、多く蹴鞠の折に食べるのが例とされました。文献上も古い純国産の和菓子。」(説明パネルより)この「つばいもちい」が後の時代に「つばきもち(椿餅)」に変化したのでしょうか。手許の辞書には「つばきもち」を「道明寺粉を蒸し、砂糖を混ぜて小豆をあんに包み、上下をツバキの葉ではさんだもち菓子」(『日本語大辞典』講談社)と説明しています。『大辞林』も同様の説明です。右下の折敷(おしき)には、梨と柑子(柑子蜜柑)が盛られています。梨は、飛鳥時代に持統天皇が植栽を勧める詔を出しているそうです。また、柑子蜜柑は日本で古くから栽培されていたそうです。(説明パネルより)『源氏物語』の「若菜上」には、猫が御簾を引き開け、柏木が女三の宮を偶然に見る機会となる有名な場面が出て来ます。その後に、六條院で蹴鞠の遊びをしていた上達部など殿上人が源氏に言われて、春の御殿・東の対の南面の簀子に集ります。「簀子に円座(わらふだ)召して、わざとなく、椿餅、梨、柑子やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもにとりまぜつつあるを、若き人々そぼれとり食ふ」(資料4)と描写されています。「そぼれ」はふざけるの意なので、はしゃぎながらという様子です。勿論、それに「さるべき干物(からもの)ばかりして、御土器(かはらけ)まゐる」と続きます。適当な干物ぐらいを肴にして、酒宴が始まるということに・・・。「偏つぎ」遊びの西隣りの局には、 女房たちの日常生活の一場面が具現化されています。「王朝女性の身嗜み・黒髪」です。局とは、渡殿にある、上﨟(じょうろう)の女房に与えられた部屋です。上﨟は上位の女官(御殿女中)をさした言葉です。道長の土御門第に女官として仕えていた紫式部は、上﨟の一人として、この東の対と寝殿を結ぶ渡殿の一番西寄りの局を自室として与えられていました。 平安女性の容姿の美しさを評価する一番の尺度は、頭髪、つまり黒髪だったそうです。豊かで艶やかで長い黒髪がもてはやされたのだとか。長く美しい黒髪が美の基準でした。つまり、日常生活の中での髪の手入れは身嗜みとして必須要件だったのでしょう。当時、洗髪と髪の毛を乾かす作業は一日がかりのことだったそうです。この洗髪のときに既にご紹介した「泔(ゆする)」がシャンプーに相当する役割を果たしたのです。長髪を乾かすのは大変です。「姫君は起きたままではなく寝たかっこうで、侍女たちが姫君の髪を大騒ぎで乾かしました。火桶(火鉢のようなもの)でかかしたり、はたまたお香を焚いたりして、一日があかりの大仕事」(資料5)となりました。洗髪には、さまざまな制限があったようです。一日がかりなら当然そうなりますね。日頃は何をするのか。髪にこまめに櫛を入れてほこりなどを取り除き、髪の乱れを整えるということでしょう。「髪を梳く」という手入れです。この時にも「泔(ゆする)」をつけて梳いたそうです。例えば、『源氏物語絵巻』の「東屋一」には、中の君の髪を女房が梳いている場面が描かれています。洗髪後の気持については、清少納言が『枕草子』の「心ときめきするもの」(第26段)の中程で次の文を記しています。「頭洗ひ、化粧じて、香ばしうしみたる衣など着たる。ことに見る人なき所にても、心のうちは、なほいとをかし」と。(資料6)長く美しい髪を美の基準にしていたことに関連し、『源氏物語』の「末摘花」から一例をあげましょう。光源氏が零落した邸に住む末摘花を訪れ、翌朝、末摘花の見にくい姿を見て驚くと言う場面は有名です。その姿を光源氏は内心でこきおろしています。居丈が高く、背が曲がっている、鼻は高くて長くて、普賢菩薩の乗り物かと思われる。さらに鼻の先が少し垂れて赤い・・・・さらに衣裳にも言及しひどい評価です。だが、その一方で、「頭つき、髪のかかりはしも、うつくしげにめでたしと思ひきこゆる人々にもをさをさ劣るまじう、袿の裾にたまりて引かれたるほど、一尺ばかり余りたらむと見ゆ」(頭の形と髪のかかり具合だけは見るからに美しく、これはと申し分けがなくお思い申しあげる方々に比べてもほとんど負けを取ることもなさそうで、袿の裾にふさふさとたまって、その先に引きずっている部分は、一尺ばかりも余っているかに見える)と光源氏が末摘花の髪の美しさに感嘆しているのです。(資料7)さて、上掲の局の写真と次の写真を併せてご覧下さい。 局には白壁の部分、格子と御簾、襖障子が写真に写っています。また、寝殿の東西両側面と局から渡殿に通じる妻戸がありました。局は独立した部屋になっていたのです。部屋の中には、几帳があります。衣架が置かれて、装束が掛けてあります。他に日常の生活道具も置かれていたことでしょうね。 もう一点、この箇所に気づかれたでしょうか。これは第2回にご紹介した「宰相らが局を訪れる」場面にリンクする部分です。髪の手入れをする女房たちの居る部屋の西側の部屋。その部屋の二枚格子の東端で一人の女房が宰相らに応対している姿です。第2回をご覧ください。 局のある渡殿の外、北側の東端に童子が一人立っていますが、不詳です。童子の装束の具現化でしょうか。 童子の装束は、水干です。牛若丸が来ている装束です。狩衣の系統を引く装束で、「平安末期から、無位の官人や武士の装束、子供の晴着に用いた」(資料1)そうです。「糊を用いず、水張りして乾かした布などで作られたのでその名があった」そうです。頸かみに組紐が見えますが、この組紐で結びあわされているそうです。括袴(くくりはかま)をはいています。裾を括った袴です。胸の部分の飾りは装飾に用いる糸で菊綴と称するそうです。袖口にある装飾は、毛抜型の袖括に緒と称するそうです。(資料8)次回は、寝殿の北側(北廂・孫廂)に移ります。参照資料1)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館2)『源氏物語 2』 新編日本古典文学全集 小学館 p703)当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)4)『源氏物語 2』 新編日本古典文学全集 小学館 p142-1435)『王朝生活の基礎知識-古典のなかの女性たち』 川村裕子 角川選書 p54-566)『新版 枕草子 付現代語訳』 石川穣二訳注 角川文庫 p467)『源氏物語 1』 新編日本古典文学全集 小学館 p2938) 童子水干姿 :「日本服飾史」(風俗博物館)補遺源氏物語絵巻 東屋一 :「徳川美術館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。風俗博物館 企画展示鑑賞記事一覧観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介
2023.06.13
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六条院春の御殿の東の対(対の屋)を南面から東に回り込みますと、背後(北側)が西側の廂部分の再現だけに省略されています。東の対は、寝殿が横長であることに対して、南北方向に対して長い建物です。中央の母屋部分(北側に塗籠、南側に昼御座)、その周囲に廂と呼ぶ室内空間が広がり、南と東にはさらに孫廂を張り出し室内空間を広げています。つまり、大幅に建屋を簡略に縮小再現しています。(資料1)この東の対の廂の空間は、「四季のかさねの色目に見る平安王朝の美意識」というテーマでの具現化展示です。装束のかさねの色目を展示することは、いわばこの風俗博物館の定番展示品目です。色々な観点からテーマ展示がくり返されてきていますが、今回は「四季のかさねの色目」ということで、オールシーズンの代表的なかさね色目がをコンパクトに展示されたことになります。「日本独自の和様の文化が育まれた平安時代には、日本特有の細やかに移ろいゆく四季の彩りをいかに機微に捉えて装束の色目として表現するかという文化」が登場しました。装束の色には、「染織・織色・かさね色目」の三種類があるそうです。(資料2) 染色:白絹織物を染料で染める色彩表現 織色:染めて置いた色の異なる「経(たていと)」と「緯(よこいと)」で一枚の 布を織りあげる色のこと かさねの色目 ⇒ 「布」のかさねと「衣」のかさね 「布」のかさね:一枚の装束で、異なる色の表地と裏地のかさなり具合を楽しむ 「衣」のかさね:幾枚も重ね着をした装束の襟元や袖口の色のグラデーションや コントラストの妙を楽しむそれでは、四季のかさね色目を見ていきましょう。 梅かさね早春に咲き競う紅梅の色の様々を楽しむ。着用時期:旧暦11月~2月 紅梅を活けた花瓶のミニチュアが置かれています。 桜かさね「布」によるかさねの組み合わせの代表的な装束。表地は白、裏地は赤花。この裏地については、濃色(こきいろ)、葡萄色(えびいろ)、二藍(ふたあい)など諸説があると言います。「表地の白色に裏地の紅がほのかに透けた様が、夕暮れに仄白く浮かんで見える桜の美しさを象徴的に表しています」(説明パネルより) 若菖蒲かさね菖蒲の「根」と「葉」の色の対比を表現したかさね色目。着用時期:旧暦4月~5月 「菖蒲はその音が『尚武』『勝負』に通じることや、菖蒲の葉の形が剣を連想させることから、後世には端午の節句は勇ましい男の子の成長を祝う行事となり、現在へと受け継がれています」(説明パネルより) 白撫子かさね 撫子(なでしこ)は夏から秋にかけて咲きます。そこから古名で「常夏」とも呼ばれました。着用時期:旧暦4月~6月 「大和撫子」という言葉があります。手許の辞書ではナデシコの異称です。「唐撫子」とい言葉もあります。こちらはセィチクの異称だそうです。(『新明解国語辞典』三省堂)セキチクも撫子科の花です。 女郎花かさね 女郎花は秋の七草の一つです。このかさねの色目は、表が黄色で裏が青の袿(うちぎ)を5領重ねたもの。緑味を帯びた黄色を表しています。着用時期:旧暦7月~8月頃。 雪の下かざね 「降り積もった雪の下にも、春を待つ紅梅と新芽を思わせる、生命力あふれるかさねの色目です」(説明パネルより)春を待ち望む気持ちをかさねの色目で表現したのでしょう。着用時期:旧暦11月中旬より春頃まで。 松かさね 常緑の松は長生きの木と考えられ、常磐木(ときわぎ)でめでたさに通じるとされました。四季通用で祝いに着る色として使われました。「千歳に変わらぬ常緑葉の萌黄色の美しさと、雌花の蘇芳色に子孫繁栄を表したかさねの色目です」(説明パネルより) 五葉松は正月の子の日の小松引きという行事で使われました。小松から根を引き抜いて健康と長寿を祝う子の日の遊びです。「ねのび」(「根延び」を掛ける)とも言うそうです。(説明パネルより)脇道に逸れますが、手許の書から、年中行事としての「若菜・子の日の遊び」の項を引用して、ご紹介しましょう。「正月初子の日に、内蔵寮や内膳司から若菜を供じることが『北山抄』に記されている。また実際に野に出て若菜を摘み、小松を引いて楽しむようになった。『河海抄』には嵯峨天皇弘仁四年(813)に正月子の日に内宴が行われたことが注記されている。この日に岳に登れば、陰陽の精気を得て煩悩を除くことができると伝えている。若菜の羹(あつもの)は春の精気に満ちており、小松引きは長寿を願う信仰を有している。『初音』の巻においては、六條院の明石の姫君の住まいで小松の引き若菜が献上されている。『若菜上』巻においては、玉鬘が光源氏に若菜を贈り、四十賀と正月の子の日を合わせて、いっそうのめでたさを創りあげている」(資料3)展示フロアーの北西隅には、「竹取物語」の具現化展示が常設されています。以前にも触れていますが、ここでもご紹介しておきましょう。かぐや姫が昇天する場面です。 まず、午前零時ごろに、竹取の邸の周辺が真昼以上の明るさになります。そこにいる人間の毛穴までみえるくらいの明るさと記しています。そこへ「大空より、人、雲に乗りて下り来て、地より五尺ばかり上がりたるほどに立ち連ねたり」という状況が現出します。「内外なる人の心ども、物に襲はるるやうにて、相戦はむ心もなかりけり」人々は天人と戦う意欲を喪失してしまいます。 「立てる人どもは、装束の清らなること、物にも似ず、飛ぶ車一つ具したり。羅蓋さしたり」という情景です。飛ぶ車を一台伴って来ていて、その車には羅蓋、つまり、薄絹を張った傘がさしかけてあったのです。竹取のじいさん(造麻呂)は王様と思われる天人と舌戦を交わします。だが、その意地も虚しいものになります。「立てこめたる所の戸、すなはち、ただ開きに開きぬ。格子どもも、人はなくして開きぬ」物置部屋に閉じ込められていたかぐや姫は、たちまち開いた戸からするりと出てきます。かぐや姫は、じいさん夫婦への手紙をしたためます。その後帝への手紙を書き、薬の壺を添えて、頭中将に帝への献上として、天人を仲介に渡します。中将がそれらを受け取った直後に、天人の一人が「ふと天の羽衣うち着せ奉れば、翁をいとほし、かなしとおぼしつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりければ、車に乗りて百人ばかり天人具して昇りぬ」かぐや姫は、天の羽衣を着せ替えられた瞬間に、人間らしい思いを消失してしまい、昇天するということになります。(資料4) 王らしき天人の冠が煌びやかです。『竹取物語』の本文には、この天人の王の冠についての描写はなさそうです。中国の皇帝らが着用した冕冠(べんかん)という冠が、日本では古代から天皇の冠として用いられて来たそうです。孝明天皇の冕冠と称されるものを範として創られているように思います。(資料5) 竹取の邸で、じいさん夫妻が歎く姿や、かぐや姫の昇天を見送る侍女たちの姿が具現化されています。序でながら、『竹取物語』は、かぐや姫の昇天で終りではありません。その後にじいさん夫妻の歎きを記し、頭中将に託された手紙と不死の薬壺を受け取った帝の嘆きと決断を述べています。帝は大臣上達部たちに一番天に近い高さの山はどこかと尋ねます。ある人が、駿河の国にある山ですとこたえました。帝はかぐや姫の形見をその山の山頂で焼却するように指示したのです。この物語は、「その由承りて、兵どもあまた具して山へ登りけるよりなむ、その山を『ふじの山』とは名付けける。その煙、いまだ雲の中へ立ち昇るとぞ言い伝えたる」で締めくくられています。最後は、「富士山」の名前の由来譚というオチになっています。沢山の兵士が登ったので、「士に富む」という意味での「富士」と由来を説く読み方と、不死の薬の壺の「不死」がいつしか「富士」に転じたという由来を解く読み方もあるとか。いつしか、「不死」由来説が一般的になったそうです。なお、『竹取物語』の成立よりも古い『万葉集』には、たえず天に立ち昇る噴煙の姿を眺めて「不尽」と詠んだということが語源とする解釈もあるようです。おもしろい。(資料4) 最後に、この『竹取物語』の具現化展示のところには、奈良時代以降の装束の変遷について、簡略に説明したこんなパネルが掲示してあります。興味深い図解資料です。つづく参照資料1)『源氏物語と京都 六條院へ出かけよう』 監修・五島邦治 編集・風俗博物館2) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)3)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館4)『竹取物語(全)』 ビギナーズクラシックス 角川書店編 角川ソフィア文庫5) 冕冠 :ウィキペディア補遺カワラナデシコ(河原撫子):白花3号ポット :「engei net 園芸ネット本店」カワラナデシコ :「花と緑の図鑑-Garden vision」石竹(せきちく) 唐撫子 :「季節の花300」日本服飾史 ホームページ (風俗博物館)装束の知識と着方 :「綺陽装束研究所」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。風俗博物館 企画展示鑑賞記事一覧観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介
2023.06.12
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まず、2つの場面の方をご紹介します。その一つがこの具現化展示の場面です。これは、最初にご紹介した「寬仁2年旧暦10月16日の威子立后」に伴う饗宴場面の展示に関連しています。『御堂関白記』には、16日の立后の日から6日後、10月22日に後一条天皇が土御門第に行幸します。道長はその報せを受けて、行幸を迎え入れた様子を詳細に記録しています。その一部として、天皇が寝殿に入った後に馬場殿に移られたときの状況を具体的に記述しています。「私(道長)は天皇の御後ろ御屏風の南妻に伺候した。次に左右大将(藤原教通・藤原実資)を召して、御馬を馳せるよう命じた」(資料1)と。つまり、「馳馬(はせうま)」が行われたのです。左右に分かれて1頭ずつ、交互に馬を走らせて天皇にお目に掛けるのです。「左方の御馬が、北に上がった。・・・・・次にまた、右方の御馬が上がった。・・・」と具体的に記録し、左近府生雀部是国が落馬した事実も道長は記録しています。、 これは馳馬のための馬が出番待ちで控えている場面です。(説明パネルより)もう一つの場面。それは冒頭の景色の一部になっています。寝殿と東対を結ぶのが「渡殿」です。手前の反り橋状の通路が「透渡殿」で、その北側には「東北渡殿」があります。こちらの通路の北側が女房たちの生活する「局(つぼね)」になっています。 この東北渡殿のところに、白い装束の二人の公卿の背中が見えます。 この場面[寛弘5年(1008)年10月17日夕刻]は、宰相たちが局を訪れようとしている状況の具現化展示です。土御門第に一条天皇が行幸された翌日の夜の事、中宮大夫藤原斎信(ただのぶ)と中宮権亮(ごんのすけ)藤原実成(さねなり)が連れだって、宮の内侍と紫式部が居る局にやってきたのです。(資料2)その場面を、紫式部は『紫式部日記』に「二十九 十月十七日夕刻~中宮の大夫ら、局を訪う」の条に記しています。(資料3)「女房に会ひてとりわきたる慶びも啓させむとにやあらむ(女房に会って、昨日行幸の賞で位が特進したお礼の挨拶を言上し中宮様に伝えてもらおうというのだろう)」と紫式部はその意図を推察して記しています。二枚格子の蔀戸(しとみど)は下ろしてあったのですが、まだ掛金はしていなかったので、宰相実成が中の間の上側の格子を押し上げて、「おはすや(いらっしゃいますか)」と声をかけてきたという場面。それで上側の格子が少し、開いています。6072 局の奥の方に、女房の顔が少し見えます。 局が見える側に回り込んで眺めるとこんな場面になります。御簾の近くに、もう一人の女房がいて宰相等に応対しているようです。そちらが宮の内侍なのでしょうか。手前で御簾より奥に居るのが紫式部かも・・・・。中宮大夫が声をかけるのまで無視できないので、紫式部は「はかなきいらへなどす(ちょっとだけ返事なぞする)」と応答したのです。その続きに、紫式部は宰相等の咎め言葉も記述しています。夜が更けるとともに宰相たちは、二枚格子の下側も取り外すように言ってきたけれど、紫式部は「『何か、あざればまし』と思へば放たず(「何、私は戯れはしますまい」と思って外さなかった)」と日記に記しています。(資料3)「国宝 紫式部日記絵巻」(五島美術館所蔵)の五島本第一段の絵の部分図が切り出され、2000円札の裏面に使われています。それがこの場面だそうです。格子の傍で宰相等に応対するのが紫式部と想定されているようです。入手した小冊子は、別の見解を記していて興味深いところです。「二千円札で有名な場面である『紫式部日記絵巻』であるが、ここで格子の後にいる紫式部とされる人物は、実は宮の内侍であり、局の奥に控えている女房こそが紫式部ではないかと考えられる」(資料2)上掲の場面はこの見解で展示されていると言えます。『紫式部日記』のこの条を読むだけでは、局に宮の内侍と紫式部の二人が居たとしても、格子の傍にいたのが紫式部かどうか、私には判断しかねます。この条の冒頭に記された「女房に会ひて」という言葉が誰を指すのかとも絡んでくることなのかもしれません。序でに室内の点描です。 壁際に高さの異なる几帳が置かれ、紫式部の傍には、囲碁の道具が置かれています。囲碁の遊び(勝負)が途中で止まっているというところでしょうか。手前には、竹製の伏籠(ふせご)が置かれ、衣が掛けてあります。伏籠は衣服に香を移すための道具です。伏籠の内側には、香を焚くための道具である火取が置かれます。さて、今回ご紹介するハイライトは、『源氏物語』に記された明石の姫君の「裳着」の儀式の具現化展示です。東の対(対屋)に展示されていました。六条院の秋の御殿(おとど)に見立てています。 源氏39歳の旧暦2月11日、源氏の唯一の愛娘・明石の君の「裳着」の儀式が行われました。裳着とは、「女子の成人式で、初めて裳を着ける儀式。12~14歳ころに行われた。裳の紐を結ぶ役を『腰結(こしゆい)』といい、尊属や人望のある者が行った」(資料4)のです。明石の姫君は11歳でこの裳着の儀式を行います。この裳着の情景は、『源氏物語』の「梅枝」に描き出されます。明石の姫君は「西の殿(おとど)に戌の刻(=午後8時)に渡りたまふ」。六条院の「秋の町」つまり、秋好中宮の里邸に渡ります。寝殿の西に放出(はなちいで)が設けられます。廂と孫廂を開け放して儀式の場が設えられたのです。「子の刻(=午前0時)に御裳奉る。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたし」通例どおりに大殿油が薄暗くかすかに灯される中で、裳着が行われました。(資料5) 紫の上 源氏 裳着の様子を、源氏と紫の上が見つめます。 明石の姫君は白一色の装束です。 秋好中宮が「腰結」の役を務めるのです。勿論先例のない盛儀となります。明石の姫君の着裳の儀式において中宮が裳の腰紐を結ぶ役を務めます。この腰紐を「裳の小腰」と称するそうです。純白の装束を身にまとい穢れのない明石の姫君は、この着裳の儀によって、少女から大人の女性へと生まれ変わるのです。実母の明石の御方は受領の娘でした。源氏は明石の姫君を紫の上の養女にします。世間的には明石の姫君の母親です。秋好中宮が腰結となったことで、明石の姫君は権威をいただくことになります。余談ですが、調べてみますと、『御堂関白記』の長和元年(1012)10月20日の条には、この日は道長の三女、藤原威子の着裳が行われたことが記されている。その記述中に、道長は「私は裳の腰紐を結んだ」と記しています。(資料6) こちらに控えている女房たちを別の角度から撮ってみました。 右の女房は「髪上げの内侍」です。裳着でもう一つ重要な役割がありました。髪を結い上げる「結髻(けっけい)」・「理髪」の役です。『源氏物語』の「梅枝」には、明石の姫君の裳着の場面に、「御髪上(みぐしあげ)の内侍なども、やがてこなたに参れけり」という一文が記されています。(資料5)当時の裳着の儀式は、「裳着を行ってすぐに婚礼を行う例も多く、裳着は配偶者が決まった時や、見込みのある時に行われることが多い」(資料2)そうです。さて、この裳着の儀式の場面の室内環境の側面を観察しておきましょう。(資料4)この風俗博物館のすばらしいところは、装束もそうですが、室内調度品なども精巧なミニチュアとして具現化されていることです。毎回、鑑賞していてもどこか見落としているところがあるように思います。 裳着を見つめる源氏の少し前方には、「吊香炉」が吊してあります。「この吊香炉は二重のジャイロスコープによって炉の水平を保つよう工夫された香炉で、後世の龕灯(がんとう)に見られるような造りであり、小さなものは袖の中に香を炊きこめるものとして使われており、『源氏物語』「真木柱」の巻では玉鬘のもとに通う為に支度を調える髭黒が直衣の袖に香を炊き染めている場面がある」(資料2)『源氏物語』の「真木柱」には、「小さき火取とり寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり」(資料5)と描写されています。 二階棚の上部、右には「火取」(香を焚くための道具)、右には「泔坏(ゆするつき)」が置いてあります。泔というのは米のとぎ汁や強飯を蒸した後の湯だそうです。これは養毛に効果があると信じられていて、髪を洗ったり梳いたりする時に用いられたとか。その泔を入れる器です。また、下部の右にあるのは、多分「唾壺(だこ)」(唾を吐き入れるための器)でしょう。右は「香壺箱(こうごのはこ)」(香壺を入れておくための箱)と思われます。香壺は薫物を入れておくための壺です。二階棚の左側は、「唐櫛笥(からくしげ)」(櫛などの化粧道具を入れるための箱)です。大小二つ重ねて、鷺足付きの台の上に置かれています。 厚みのある「畳」の上には、「茵(しとね)」が置かれ、左側に「脇息(きょうそく)」が置かれています。背後には「几帳」が立っています。空間の仕切りとなっています。 髪上げの内侍の右奥には、屏風の前に「椅子(いし)」が置かれています。立礼(りゅうれい)の際などに、天皇や公卿が用いたそうです。屏風の図は、正倉院の「国家珍宝帳」に記載の「臈纈屏風」を模したものと推測します。正倉院展の鑑賞に出かけた折に、一部を見た記憶があります。ネット検索してみて、多少情報をえました。補遺をご覧下さい。 柱の傍に置かれているのは、照明具の「灯台」です。 灯台の下部の近くには、髪上げの内侍の前に理髪の道具類が置かれています。灯台の手前に、最も一般的に使われていた「角盥(つのたらい)」が置かれています。直径40~50cm、高さ30cmほどで、左右に20cmほどの取っ手がついています。この取っ手は持ち運びのためと、使用する際に袖をかけるために使われたそうです。その右側にあるのは、二階棚のところで説明した泔坏(ゆするつき)です。その右側に、陰になって取れなかったのですが、同様に上掲の唐櫛笥が置かれています。 別の一隅には、重要な役目を務めた髪上げの内侍への禄(贈物)が準備されています。この辺りで区切りと致します。つづく参照資料1)『藤原道長「御堂関白記」 下』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫 p3382) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)3)『紫式部日記 現代語訳付』 紫式部 山本淳子訳注 角川ソフィア文庫 p65-664)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館5)『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p412-413, p3646)『御堂関白記 中』 藤原道長 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫 p236補遺お札の基本情報~現在発行されているお札~ :「国立印刷局」国宝紫式部日記絵巻 :「五島美術館」緻密なデザインの美…天平文化の粋を伝える正倉院展 :「讀賣新聞オンライン」「よみがえる天平の美~第69回 正倉院展~」吉岡幸雄「羊木臈纈屏風」復元に挑む :「紫のゆかり 吉岡幸雄の色彩界」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.11
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=== 2023.6.1 === 南の空10時10分頃に撮りました。早朝は少し晴れ間が見えていました。しかし、写真を撮った時にはムクムクとしたグレーの雲が一面に空を覆い、くもり空に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空同じような雲の姿に見えます。 東方向の空13時半頃に眺めてみると、くもり空は変わらりません。雲の姿は変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空17時半頃にもう一度空を眺めてみました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空結局、くもり空の一日となりました。=== 2023.6.2 === 南の空南西方向の空 台風が日本に接近しているという影響を受けて、朝から雨でした。 窓際から二方向だけ撮ってみました。 南の空南西方向の空 17時20分頃に再度眺めてみましたが、状況に大きな変化なく、雨が降っています。終日、雨でした。さて、雲がたりに移ります。『山家集』から雲の字を詠み込んだ歌の抽出、ご紹介をしてきました。ここでは『山家集 金槐和歌集』(日本古典文学大系29 岩波書店)を参照してきました。この本は陽明文庫本の『山家集』が底本とされています。そして26ページに及ぶ底本以外の書に載る歌を「附録」として載せてあります。『山家集』を終わるにあたって、この「附録」についても同様にチェックしてみました。抽出したものを以下にまとめます。「板本六家集中の山家和歌集にありて底本になき歌」 22首が収録されていますが、雲の字を詠み込んだ歌はありません。「松屋本山家集にのみ所載歌」 68首収録中、次の2首 みねの花ちるをさながらやどに見て白雲見よと人にいはばや 月歌あまたよみけるに 雲さえてさとごとにしく秋の夜の氷は月のひかりなりけり「聞書集」 265首収録中、次の12首 方便品 諸仏世尊唯以一大事因縁故出現於世 あまのはらくもふきはらふかぜなくばいでてややまむ山のはの月 漸待花 くもにまがふ花のさかりをおもはせてかつがつかすむよしのの山 [付記] まがふ:よく似ていて間違う。区別がつかない。 かつがつ:早くも 浮海船尋花 こぎいでてたかしの山をみわたせばまだひとむらもさかぬしらくも [付記] たかしの山:三河国渥美郡高蘆(たかし)郷(愛知県豊橋市)の山。 広くは遠江国(静岡県)浜名湖西岸にかけて広がる台地を含めていう。 花尋至古寺 これやきくくものはやしの寺ならむ花をたづぬる心やすめむ [付記] くものはやしの寺:京都・紫野の雲林院 月前郭公 さみだれのくもかさなれるそらはれて山ほととぎす月になくなり よしの山くもと見えつる花なればちるもゆきにはまがふなりけり よしのやまくももかゝらぬたかねかなさこそは花のねにかへりなめ [付記] さこそ:さぞかし。花のね:花の峯。 勝義心 イカデワレ谷ノイハネノツユケキニクモフム山ノミネニノボラム [付記] イカデ:なんとしても。 ツユケキ:露にぬれてしめっぽい。 八葉白蓮一肘間の心ヲ クモオホフ二上山ノ月カゲハコゝロニスムヤミルニハアルラム [付記] 二上山:今の奈良県と大阪府の境にある山。大津皇子の埋葬された地。 聖衆来迎楽 ヒトスヂニコゝロノイロヲソムルカナタナビキワタルムラサキノクモ おもひいでに花のなみにもながればやみねのしらくもたきくだすめり [付記] おもひいでに:思い出すと。 めり:・・・のように見える。 はなちりてくもはれぬればよしの山こずゑのそらはみどりにぞなる「聞書残集」 32首収録中、次の1首 (長文の前文を略す)有明と申す題をよみける こよひこそ心の雲よしられぬれ入らで明(け)ぬる月をながめて [付記] ぬれ:完了の助動詞「ぬ」の巳然形。これで、西行法師の『山家集』での雲がたりを終わります。参照本には、源実朝の『金槐和歌集』が収録されています。次はこちらの雲がたりに移ります。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.6.3 === 朝は少しくもっていましたが、12時頃に撮った南の空は青空に。小さな雲がおもしろい重なりを見せています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上に白雲が浮かんでいます。東の空に青空がみえるのは、気持ち良い! 東方向の空16時30頃に撮りました。青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空くもり後晴れの一日でした。つづく補遺高師山・高志山・高石山 :「コトバンク」雲林院 :ウィキペディア山家集 :「ジャパンナレッジ」山家集 :「コトバンク」山家心中集 :「文化遺産オンライン」山家集. 巻之上,中,下 / [西行] [撰] :「古典籍総合データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.10
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寝殿の階には、二人の武官が居ます。巻纓(まきえい)の冠をつけ、闕腋袍(けつてきほう)を着ています。「袖から下の両脇を縫わず、後の身を長く仕立てた武官用の袍」(資料1)です。そして、裾(きょ)を背後に垂らしています。 胡簶(やなぐい)に矢を入れて、背に負っています。 階より東側の庭には、楽人たちが居並んでいます。 この楽人たちに着目してみましょう。 A B 楽人の冠がまず目に止まります。手許の書(資料1)には、「源氏物語画帖」の「青海波を舞う光源氏」の絵が掲載されています。その絵の右下に楽人たちが描かれていて、この冠と同様のものを被っています。Aの冠を被る楽人は横笛を吹き、Bの冠を被る楽人は笙(しょう)を持っています。 前列の手前から二人目で笙をもつ楽人以外は横笛を手に持っています。 切り出した部分図ですが、両端の楽人は篳篥(ひちりき)を手にしているようです。この具現化展示では、楽人たちは、笙、横笛、篳篥のいずれかの楽器で演奏した設定です。上記の光源氏の青海波の舞では、首に下げる琵琶を扱う楽人が加わっていますが。 最後列に座る左端の人は、木の棒のような物を持っています。拍子を打つ楽器でしょうか。調べてみた範囲では名称は不詳です。手許の書では、青海波の場合、垣代(かきしろ)と呼ぶ楽人の中に、「反鼻(へんぴ)」(木製の巴形の拍子を打つもの。「反尾」とも)を持ち、楽人と交互に演奏するという説明があります。(資料1)多分この反鼻と同様の役割を担う楽器なのでしょう。 左の二人は、袋に収めた物を両手で捧げていますが、これも不詳です。手許の書では、「反鼻」(反尾)を担当するのは、「大臣クラスの随身や滝口の武士などがあたるが、殿上人が加わることもある」(資料1)と説明があります。 この3人の束帯姿を見ると、この説明に照応するようです。後姿から、冠は垂纓(すいえい)と称する形です。石帯と石帯の上手がよくわかります。この革帯は玉石で装飾されています。「三位以上の公卿が玉の帯、四位・五位の正装には瑪瑙(めのう)の帯を着用した」(資料1)そうです。当日いただいた小冊子によると、「階の東脇で楽人の音楽が始まり、殿上人の公卿たちも思い思いの楽器を取り、一緒になって合奏が始まり、歌が歌われる。その席を盃が巡る」という饗宴の場ができて行ったそうです。藤原実資の『小右記』がこの場面をどこまで具体的に記録しているのか、機会があれば読んでみたいと思います。 もう一点、下襲(したがさね)の裾をうまく見せているところがいいですね。意匠にも可能な範囲で美しく見せる工夫をしたのでしょう。つづく参照資料1)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館2) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示) p2補遺笙の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」横笛の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」篳篥の奏法と役割 :「文化デジタルライブラリー」日本 笙のトップ :「アジアの楽器図鑑」日本 龍笛のトップ :「アジアの楽器図鑑」日本 篳篥のトップ :「アジアの楽器図鑑」行幸の演出 :「風俗博物館」源氏物語の音楽 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?─ :「日本伝統音楽研究センター」(京都市立芸術大学)4.『源氏物語』の楽器演奏 :「春さんのHomePage」藤原実資 :ウィキペディア小右記 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -1 「この世をば・・・」へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。[風俗博物館 企画展示鑑賞 記事一覧]観照 京都・下京 風俗博物館 2022年4月からの展示:五節句のルーツをたどる -1 6回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 5回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介
2023.06.08
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堀川通を挟み、西側に西本願寺、東側には先日ご紹介した龍谷ミュージアムと今ご紹介する風俗博物館があります。5/24に特別展「親鸞と聖徳太子」と併せて、冒頭の建物(井筒佐女牛ビル)の5階にある風俗博物館での展示を鑑賞してきました。このところ風俗博物館には毎年出かけています。こちらも5/31までの展示として終了しています。2つめのミュージアムとして、こちらの展示内容をご紹介します。 (付記:風俗博物館は、2023.6.1~7.31までは休館とのことです。ホームページより)正面玄関を入り、右の写真のインテリアを眺めて、内ドアを通り抜けると、右側にエレベーターがあります。5階へ直行。 5階フロアーに出ると、目の前にこの景色が広がっています。 手前の小川には朱塗りの反り橋が架かり、その先に寝殿造りの建物が見えます。「源氏物語」の六条院「四季の町」、「春の御殿」の中の「寝殿」と「東の対(対の屋)の一部を1/4の縮尺で制作された模型です。この縮尺模型の六条院を、企画展で様々な場所に見立て、あるシーンを具現化展示しています。それでは、平安時代へとタイムワープ致しましょう。 楽人を乗せる龍頭の船の一種が目の前に展示されています。 これは池面に浮かぶ舞楽の舞台になるのかも知れません。 寬仁2年(1018)旧暦10月16日、藤原道長の三女威子が後一条天皇の中宮(皇后)になりました。宮中で天皇の命が臣下に伝えられる「立后の儀式」が行われ、公卿が使者として、道長のいる土御門第に報告に赴きました。(資料1)『御堂関白記』に道長は、「内(後一条天皇)から、(藤原)定頼朝臣が御使として参った。宣命を下すということを伝えるものであった」と書き遺しています。(資料2、以下略) この場面は、土御門第の寝殿に見立てられています。使者の公卿を迎えて、道長が饗宴を催します。 寝殿の母屋に掛けられた御簾の内側には、後一条天皇の中宮となった藤原威子が居ます。『御堂関白記』に道長は「すぐに中宮は御椅子に着された」と記しています。 南廂の西側には、藤原道長が坐しています。『御堂関白記』には、楽人に演奏させ、「数献の宴飲の後、禄を下賜した。・・・ここに至って、私は和歌を詠んだ。人々は、この和歌を詠唱した。本宮の儀が終わって、人々は分散して帰って行った」と簡略に記しています。この時、道長が詠んだのが、あの有名な この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば という歌です。道長の長女・彰子は一条天皇(第66代)の中宮(皇后)となり、敦成、淳良という天皇の後継者を生みました。この時点で、彰子は太皇太后宮(たいこうたいごうぐう)と称される立場になっています。長男の敦成が後一条天皇(第68代)です。(資料2)二女の研子は三条天皇(第67代)の中宮(皇后)になっていました。三女威子が後一条天皇の中宮(皇后)になったことにより、藤原道長は一家で三皇后を立てるという未曾有の状況を現出させたのです。この威子の立后については、道長がそのシナリオを初めから整えていたそうです。威子は寬仁2年(1018)3月7日に入内し、翌月の4月28日に女御宣旨を受け、そして10月16日に立后するというスピードでした。(資料1)天皇の在位で表すと、一条天皇(986~1011)、三条天皇(1011~1016)、後一条天皇(1016~1036)という在位期間になります。道長は政治に関与する盤石の体制を確立したと言えます。まさに有頂天の心境だったことでしょう。(資料3)序でに補足しますと、末女の嬉子は、彰子の生んだ二男・敦良、後の第69代後朱雀天皇(1036~1045)の中宮(皇后)となります。道長は、上記の通り「余、和歌を詠む」と記しただけです。では、なぜその歌が「この世をば・・・・」とわかるのか。この饗宴に大納言兼右大将の藤原実資(さねすけ)が同席していたのです。藤原実資は『小右記』という日記に詳細にその状況と道長が詠んだ歌を書き遺したそうです。(資料1)道長は己が歌を詠むときに、実資を呼んで、必ず返歌をして欲しいと言ったとか。実資は応諾したのですが、道長が上記の歌を詠んだ後、あまりにも歌が優美なので返歌はできませんと述べて、代わりに皆で道長の詠んだ歌を唱和しましょうと提言したのだそうです。それを道長は、「人々は、この和歌を詠唱した」とのみ記しました。道長は、満面の笑みを浮かべつつこの短い文を書き遺したのでしょうね。一方で、饗宴の場で、実資を含めてこの歌を唱和した人々の多くは、内心辟易と思いつつも処世術として楽しげに唱和したのでは・・・・。内心「やってられんわ・・・」というところでしょうか。因みに、道長の没年は1027年です。 道長の背後に居並ぶ人々と母屋の一隅に積まれた贈物の品々。この品々は宴の後で道長が人々に与えるためのものでしょう。 南廂の東側で道長の正面に対座するのは、左大臣藤原顕光。 左大臣の後には、右大臣藤原公季(きんすえ)が坐し、 少し首をひねった姿は摂政藤原賴道、道長の長男です。 その背後に公卿たちが居並びます。道長は、「諸卿は、寝殿の東対の座に着した」と『御堂関白記』に記していますので、大勢の公卿が土御門第に参入してきていたのでしょう。 東廂に控えるのは、紫式部です。 紫式部の斜め左前には、「打出」が飾ってあります。「打出の衣(うちいでのきぬ)」とは、「晴れの儀式の際、御簾や几帳の下から、また牛車の簾の下などから、女房装束の衣の裾や袖口を外にはみ出させておくこと。また、その裾や袖口」(『学研全訳古語辞典』改訂第二版)です。 左は、中宮への御膳を運ぶ女房が簀子に立っている姿です。 『御堂関白記』には、次の記述があります。「五、六巡の宴飲の後、采女(うねめ)が、中宮の御膳を東北渡殿の簀子、および寝殿の東と南の簀子を経て供した。御大盤であった<台を加えた。>」と。 居並ぶ公卿の装束に目をむけましょう。 男性の衣服は「束帯」と称されます。「束帯は、皮の帯で腰を束ねた装束の意味で、朝服として用いられた。『昼の装束』ともいわれ」たそうです。また、皮の帯は「石帯(せきたい)」と称し、上に弧を描いている箇所は「石帯の上手(うわて)」と称するとか。(資料4)束帯の表衣は「袍(ほう)」と称します。この袍は、『衣服令』に規定され、位階により色や文様や地質に区別が設けられています。色の区別をご紹介しますと、「深紫(こきむらさき、一位)、浅紫(あさむらさき、二位・三位)、深緋(こきあけ、四位)、浅緋(うすきひ、あさあけ、うすあけ、五位)、深緑(ふかみどり、六位)」です。(資料4)次回へのつなぎを兼ねて、寝殿の庭を眺めておきます。 庭には、楽人たちが居並んでいます。『御堂関白記』に、「階下に楽人を召して、数曲を演奏させた」と記しています。『御堂関白記』の寬仁2年10月16日の条を読んで、おもしろいと思ったのは、この条の後半に、贈物を下賜した内容を詳細に記録していることでした。つづく参照資料1) 当日いただいた小冊子:展示の解説ガイド(令和5年2月~ 展示)2)『藤原道長「御堂関白記」 下』 全現代語訳 倉本一宏 講談社学術文庫3)『歴史探訪に便利な日本史小典 3』 日正社 4)『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館補遺藤原威子 :ウィキペディア公卿冬束帯 :「日本服飾史」(風俗博物館)束帯の種類(束帯) :「綺陽装束研究所」平安時代の服装 文化史 :「フォールド・ミュージアム京都」(京都市)伝統色のいろは ホームページ深紫とは :「着物用語大全」浅紫とは :「着物用語大全」深緋とは :「着物用語大全」浅緋とは :「着物用語大全」深緑とは :「着物用語大全」この世をば(藤原道長) :「和歌の世界」【この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば】徹底解説!!意味や表現技法・句切れなど :「短歌の教科書」この世をば…藤原道長の「望月の歌」新解釈から見える政権の試練とは 丸山淳一 :「讀賣新聞オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -2 庭の楽人たち へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -3 裳着及び他2場面 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -4 かさね色目・竹取物語 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -5 平安の遊びと日常 へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -6 婚礼仕度/冊子作り へ観照 京都 西本願寺前 風俗博物館 2023年2月~5月の展示 -7 実物の装束 へ
2023.06.07
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=== 2023.5.30 === 南の空南西方向の空 8時50分頃に外を眺めると小雨でしたので、窓際から撮りました。 12時50分頃に空を見ると、南の空は様変わり。青空が見え白雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿に様々な形を見ることができました。雲を楽しめる青空です。 東方向の空稜線のすぐ上の雲の発達している姿と、さらにその上空の雲の姿は大きく異なっています。雲の種類は10種類に分類され、雲の姿は高度によっても異なるのですね。改めてその一端を意識できました。 東方向の空16時35分頃に眺めますと、空はまたもや一転し、くもり空に! 南の空南西方向の空 西方向の空 空の様相が大きく変化する一日でした。さて、雲がたりの続きです。西行法師の『山家集』、三分冊の「下・雑」に入ります。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)「中・雑」に引き続き「下」は全体が「雑」に分類されています。参照している底本では、第1042首から始まり、最後が第1552首まで、511首です。この中に、雲の字を含む歌を調べてみますと、次の14首が収録されています。 宮の法印、高野に籠もらせ給ひて・・・(以下省略) 憧がれしこゝろを道の導(しるべ)にて雲に伴なふ身とぞ成ぬる 1084 修行して伊勢に罷りけるに、月の頃都思出られて 都にも旅なる月の影をこそ同じ雲ゐの空に見るらめ 1094 [付記] 旅なる月の影:空を旅する月。 雲ゐの空:雲のいる空 月澄めば谷にぞ雲はしづむめる峯吹(ふき)はらふ風にしかれて 1106 [付記] しづむめる:沈んでいるようだ 風にしかれて:風により押し敷かれて かみな月谷にぞ雲は時雨(しぐ)るめる月澄む峯は秋にかはらで 1112 [付記] かみな月:神無月(陰暦十月) める:・・・のように思われる 秋にかはらで:秋と変わらずさわやかである 群れ立ちて雲井の鶴(たづ)の聲すなり君が千歳や空に見ゆらん 1173 熊野へまゐりけるに、七越の月を見て詠みける 立のぼる月のあたありに雲消えて光重ぬるなゝこしの峯 1403 いかでわれ心の雲に塵据ゑで見る甲斐ありて月を眺めん 1405 [付記] 塵据ゑで:塵(煩悩)を置かないで 雲晴れて身に愁なき人の身ぞさやかに月の影は見るべき 1407 [付記] 雲晴れて:心の雲が晴れて。 人の身ぞ:人のみぞ(身はミス) 眺め来て月如何ばかり忍ばれんこの世し雲の外(ほか)になりなば 1414 [付記] 忍ばれん:なつかしく思われることだろう。 し:強意の助詞 雲の外になりなば:現世から遠く離れてしまったら。 吉野山高嶺の桜咲き初(そ)めばかゝらんものか花の薄雲 1454 [付記] かゝらんものか:花の雲が吉野の高嶺にかかるであろう。 五月雨の晴れ間尋ねてほとゝぎす雲ゐに傳ふ聲聞(きこ)ゆなり 1468 [付記] 雲ゐに伝ふ:空に伝播する。 晴れやらで二村山にたつ雲は比良の吹雪の名残なりけり 1490 [付記] 二村山:所在不詳。 比良:近江国の比良 雲につきてうかれのみゆく心をば山にかけてを止めんとぞ思ふ 1507 [付記] 山にかけてを:山に引きかけて。 を:感動を強める間投助詞 めづらしな赤倉山の雲ゐより慕ひ出たる明星(あかぼし)の影 1523 [付記] 朝倉:神楽歌の「朝倉」 慕ひ出たる:神楽に引かれて出てくる 明星:神楽歌の「明星」にちなむが、明星の実景を詠んでいる。これで、底本となる『山家集』を通覧したことになります。上に42首、中に22首、下に14首、合計78首となります。そのうち一首だけが「くもゐ」と平仮名書きでの「くも」です。『山家集』全1552首の中で、78首が「雲/くも」という字を読み込んでいたことになります。全体の5%ほどの歌に「雲/くも」が読み込まれていたことになります。なお、この参照本には、『山家集』に関連して「附録」が数十ページ付いています。この部分は、別稿で取り上げたいと思います。それでは、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.31 === 9時30分頃に撮った南の空は、くもり空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空ベランダから眺められる三方向の空は、全面的にグレーの雲に覆われての一日の始まりです。 12時20分頃に眺めた東方向の空。午前とそれほど大きな変化はなしです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空ところがその後、空模様は徐々に好転していきました。午後に市役所近くの会場まで、講演の聴講に出かけましたので、天気が晴れて行くのはラッキーでした。 南の空帰宅後、16時30分頃に撮りました。すっかり快晴状態に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空には少し白雲が浮かんでいました。 南の空5月の末日は、晴れた空で終りました。このとき一つの懸念は、台風2号が南の海上を北上し沖縄に接近している情報でした。つづく補遺雲の種類は10種類 :「じゃらんニュース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.05
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=== 2023.5.27 === 南の空朝から曇り空です。10時過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上には大きな雲が漂っています。南から西方向の雲の姿とは対照的です。その後、通り雨でしょうか、一時、小雨がぱらつきましたが大したことなく止みました。 東方向の空15時半頃に空を眺めると、青空に変わっていました。くもり後晴れです。稜線上空に青空が広がり、雲も白雲が浮かぶ景色に変わっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向にかけては、ふんわりと小さな雲が数多く浮かんでいます。 17時35分頃に撮った南の空の空。雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空には、再びグレーの雲が広がる状態に変化していました。=== 2023.5.28 ===朝から晴れていました。 12時過ぎに撮った南の空です。雲が活発な感じ・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空の雲の重なりは、これまでにあまり見かけない形で広がっています。少しずつ、夏空の様相に移りつつあるのでししょうか。それまでに梅雨の時季が来るのですが。 16時10分頃に東方向の空を眺めると、雲の姿は様変わりです。 南の空南西方向の空 西方向の空 このような雲の姿は何と称するのでしょう・・・・。 頭上の空晴れのちくもりの一日でした。さて、雲がたりです。引き続き、西行法師の『山家集』です。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)「中・雑」の後半に移ります。前回、第860首を区切りとしていましたので、補足です。 さしいらでくもぢを過ぎし月影はまたぬ心ぞ空にみえける 855第855首に「くもぢ」と平仮名表記で「くも」が詠み込まれている歌があることに気づいたのです。ここは「雲路」に相当する表記だと思いますので、取り上げて置きます。「中・雑」の後半の歌を読んでいくと、次の14首を抽出できました。 寄藤花述懐 西を待つ心に藤をかけてこそそのむらさきの雲をおもはめ 869 [付記] 西を待つ:西方浄土に往生するのを待つ 藤を:藤の花を むらさきの雲:聖衆来迎の紫色の雲 観持品 あま雲の晴るゝみ空の月影に怨みなぐさむ姨捨(おばすて)の山 886 [付記] 勧持品:法華経第十三品 姨捨の山:信濃国更科郡にある山 怨み:釈尊の姨母が授記されなかったことを憂えた怨み 雲晴るゝわしのみ山の月影を心澄みてや君ながむらん 890 [付記] わしのみ山:霊鷲山。仏が説法された場 一心欲見仏の文を人々詠みけるに 鷲の山誰かは月を見ざるべき心にかゝる雲し晴れなば 891 [付記] 一心欲見仏の文:法華経寿量品「一心欲見仏 不惜自身命」 天 雲の上の楽みとても甲斐ぞなきさてしもやがて住みし果てねば 902 [付記] 天:天上道。 さてしもやがて:そのようにしてそおまま。 雲にたゞ今宵の月をまかせてん厭ふとてしも晴れぬ物ゆゑ 952 [付記] まかせてん:まかせてしまおう 厭ふとて:雲のかかるのを厭っても。 しも:むしろかえって 月を見るほかもさこそは厭ふらめ雲たゞ此處(ここ)の空にたゞよへ 953 [付記] さこそ:さぞかし。 ただ此處の空にたゞよへ:ここの空だけに 雲がたゞようなら、雲を厭うのは私だけですむ。 晴れ間なく雲こそ空に満ちにけれ月見ることは思ひ絶えなん 954 [付記] 思ひ絶えなん:あきらめよう。 晴れがたき山路の雲に埋もれて苔のたもとは霧朽ちにけり 960 [付記] 苔のたもと:僧衣。 霧朽ちにけり:霧のために朽ちてしまった 雲取(くもとり)や志古(しこ)の山路はさておきて小口が原の淋しからぬか 977 [付記] 雲取:紀伊国那智の北方にある山。 志古:大雲取と小雲取の 間に小口川が流れていて、その辺りを志古という。 淋しからぬか:淋しいことだ。 空わたる雲なりけりな吉野山花もてわたる風と見たれば 987 雲もかゝれ花とをはるは見て過ぎんいづれの山もあだに思はで 989 [付記] あだに:おろそかに。 思はで:思わずに。 雲を花とみる。 雲かゝる山見ばわれもおもひいでに花ゆゑ馴れし睦び忘(わすれ)ず 990 [付記」 睦び:親睦。親しみ。 山もなき海のおもてにたなびきて波の花にもまがふ白雲 995西行さんは、「雲」を詠み込んだ歌をたくさん作っていらっしゃったようです。雲を月光を遮る自然の雲として詠む歌がかなりあります。私は自然の景を詠んでいる歌として受けとめました。禅語にある「雲=煩悩」という暗喩の読み込みまでは感じませんでした。一方で、来迎の紫雲、雲を桜の花や白波の花などと雲を比喩的に詠み込んだ歌も詠じられています。次回は「下・雑」に収録された歌から抽出していきます。雲の姿に戻ります。=== 2023.5.29 === 南の空めずらしく早く、7時50分頃に撮りました。くもり空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空各方向の雲を撮っていると、小雨が降り出しました。 南の空南西方向の空 16時15分過ぎに窓際から二方向だけ撮りました。激しくはありませんでしたが、終日、雨で終りました。天気予報通りだったと思います。つづく補遺阿弥陀聖衆来迎図 :「文化遺産オンライン」[動画あり]国宝「阿弥陀聖衆来迎図」修理前に公開準備作業に密着 :「JAPAN ART & CULTURE」妙法蓮華経勧持品第十三 :「近松門左衛門と広済寺」妙法蓮華経如来寿量品第十六 :「近松門左衛門と広済寺」霊鷲山 :ウィキペディア姨捨山(おばすてやま)(長野地域(ちいき)) :「長野県」冠着山 :ウィキペディア月の都 千曲 -姨捨の棚田がつくる摩訶不思議な月景色「田毎の月」- :「日本遺産 ポータルサイト」小雲取山(和歌山県) 449m :「10th YAMAP」吉野山 :「吉野山観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.02
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=== 2023.5.24 === 南の空9時過ぎに撮りました。天気は晴れ、青空の色が濃いめで雲多し。大きな雲浮かぶです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の空も、朝から青空が見えています。稜線に青空が見えるのはめずらしい。 東方向の空午後は西本願寺前のミュージアムに出かけました。一つは既にご紹介しています。帰宅後、17時15過ぎに眺めると、稜線の上空にはほとんど雲が無く、気持ちのよい青空が見えました。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 外出日和りの一日でした。平日ですが、JR京都駅では外国人観光客の姿がかなり見られました。少しずつ観光客が増えてきているようです。=== 2023.5.25 === 南の空9時頃に撮りました。昨日とは様変わりして、曇った空模様です。雲にグレーの濃淡が見られます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の層は薄い感じを受けます。 東方向の空もまた、グレー一色です。灰色の布が皺を見せつつ広がっている感じです。こんな状態が昼をまたいで続きました。そして、17時20分頃には雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 窓際から二方向だけ記録写真を撮りました。さて、雲がたりをいたしましょう。西行法師の詠んだ「雲」字を含む和歌抽出のつづきです。 (出典:『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 岩波書店)『山家集』の上・冬には、「雲」を含む歌は1首だけです。 月前炭竈 かぎりあらん雲こそあらめ炭竈の煙に月のすゝけぬる哉 547中は「恋」の部から始まります。「恋」歌の5首に雲の字が詠み込まれています。 後朝郭公 さらぬだに帰りやられぬ東雲に添へてかたらふ郭公(ほととぎす)哉 586 [付記] さらぬだに:ほととぎすの鳴かぬ朝でさえ 添えて:風情をそえて 月 知らざりき雲ゐの余所に見し月のかげを袂に宿すべしとは 617 [付記] 雲ゐの余所:空のかなた 袂に宿す:恋の涙に濡れた袂に月を宿す 秋の夜の月や涙をかこつらん雲なきかげをもてもて窶(やつす)すとて 622 [付記] かこつ:うらみに思う もて窶す:みすぼらしくする 天の原冱(さ)ゆる空は晴れながら涙ぞ月の雲になりける 623 [付記] 冱ゆる:冷たく凍る 月の雲になりける:月にかかる雲となったことである 雨雲のわりなき隙を洩る月のかげばかりだにあひ見てしがな 650 [付記] わりなき:ひどくこめている だに:せめて・・・だけでも がな:哉「恋」に続くのは、「雑」の部です。下はそのまま「雑」の部が続きます。なお、参照本には、「中・雑」の始まりの所に、「本是以下カ下帖」という付記があります。それはさておき、「中・雑」の始まり・第712首から第860種までの前半には、2首を見出しました。 <詞書が長文のため省略> 天降る名を吹上の神ならば雲はれ退(の)きてひかりあらわせ 748 [付記] 吹上:和歌山市。紀ノ川口の左岸から雑賀にかけての砂浜の古名。 五十日の果てつ方に、二條院の御墓に御仏供養しける 人に具してまゐりたりけるに、月明くてあはれなりけ れば こよひ君死出の山路の月を見て雲の上をやおもひいづらん 792 [付記] 五十日の果てつ方に:五十日の忌明けに 御仏供養:仏のために供養すること 雲の上:雲の上と宮中の意次回は、「中・雑」の後半に移ります。ここには結構「雲」字が詠み込まれています。雲の姿に戻ります。=== 2023.5.26 === 南の空9時35分頃に撮りました。昨日夕刻から雨に転じましたが、今朝はくもり空での始まりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空空全体をグレーの濃淡で雲が覆っています。天気予報通りに、くもりの状態が続き、16時15分頃には小雨が降り始めました。 南の空南西方向の空 窓際から、二方向だけ記録写真を撮りました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.06.01
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龍谷ミュージアム(堀河通東側)建物の正面を北側から撮っています。手前の黒く見えるところに、地下1階への階段があります。龍谷ミュージアムは地下1階に入口があります。地下1階の出入口前は、石敷の中庭空間になっています。以前にもご紹介していますが、あらためてこの中庭の景を撮ってみました。 階段を下ると、大きな石の上で、2匹のカエルがウエルカム!!してくれます。右折すると、中庭の西辺にミュージアムの出入口があります。正面の階段を降りた側(北西側)から、南側にミュージアムの建物壁面を眺めた景色です。 中庭の南東側に2つの切り出された平たい大石が置かれています。 中庭の南西隅から眺めると、こんな感じです。 背後は東側の建物側面 こちらは、北側の建物側面石敷の中庭には、大きな木が植えてあります。 この中庭の楽しいのは、コレ! 誰のアイデア?誰の遊び心なのでしょう・・・・・か。この中庭へのアプローチは自由にできます。建物の外になりますので。堀川通の西側に西本願寺があります。西本願寺の前に龍谷ミュージアム。ちょっと、中庭のカエルさんたちを見に行くのもおもしろいかも・・・・です。ご覧いただきありがとうございます。観照 京都 西本願寺前 龍谷ミュージアム -1 春季特別展「真宗と聖徳太子」 へ
2023.05.30
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先週の24日(水)の午後、2つのミュージアムに出かけました。一つは龍谷ミュージアム。冒頭の左の写真は、堀川通・東側歩道の北から龍谷ミュージアムの正面を部分撮りした景色です。 昨日(28日)までの会期で、春季特別展「真宗と聖徳太子」が開催されていました。会期末直前に鑑賞してきたことになります。 こちらはこの春季特別展のPRチラシ。この特別展は「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年記念」として企画されたそうです。この時期、並行して京都国立博物館では、特別展「親鸞-生涯と名宝」(5/21まで)が開催されていました。特別展「親鸞-生涯と名宝」は既にご紹介しています。龍谷ミュージアムのこの春季特別展は、真宗と、つまり親鸞聖人と聖徳太子との関わりに焦点を当てた特別展です。親鸞の聖徳太子への思いは深く、「和国の教主」と崇めてこられたと言います。それが連綿として、浄土真宗の中で継承され造形化され、木彫像や絵伝・絵像として伝えられてきました。その集積がこの特別展として結実したようです。PRチラシの右側の絵像は、岐阜・浄厳寺蔵の「聖徳太子童形像・六随臣像」(部分図)で、室町時代の掛幅です。これは前期展示でしたので拝見できませんでした。同種の掛幅として、福井・秘鍵寺蔵の「聖徳太子童形像・六随臣像」(室町・天文元年/1532年)を拝見しました。 PRチラシ裏面ミュージアムを出る前にこの春季特別展の図録を求めたら既に完売ということで、残念ながら入手できませんでした。この特別展は3階・2階の両会場を使い、3章構成で展示されていました。<第1章 親鸞聖人と聖徳太子> これはチラシの表紙に載る「本願寺聖人親鸞伝絵 巻上」(大阪・天満定専坊蔵)の部分図です。後期の展示品。親鸞が六角堂に参籠していた時、夢想に現れた六角堂の救世観音の姿を描いたもののようです。「六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖像の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端座して、善信に告命してにたまわく」(御伝鈔)という場面です。親鸞の伝記絵のうち、絵巻形式の作品が「伝絵(でんね)」と称されます。一方で、「親鸞聖人絵伝」も展示されていました。「絵伝」は掛幅形式で伝記絵を描いたものです。石川・本誓寺蔵(室町時代)の2幅形式と大阪・正覚寺蔵(桃山・天正16年/1588年)の4幅形式の絵伝が展示されていました。 聖徳太子の德を親鸞が奉賛した断簡も、これと第三十首の2点が展示されていました。印象に残ったのは、「聖徳太子童形像・法然親鸞連坐像」(愛知・皆幅寺蔵、室町時代)です。聖徳太子と法然・親鸞を描いている一幅です。また、「聖徳太子勝鬘経講讃像・震旦和朝高僧先徳連坐像」(1点)、「阿弥陀如来・震旦和朝高僧先徳連坐像」(1点)「和朝太子先徳連坐像」(3点)という風に、浄土宗系統の高僧と聖徳太子を一緒に描いた掛幅が展示されていました。聖徳太子がどのように位置づけられているかがうかがえます。 「光明本尊」(兵庫・高福寺蔵、室町時代)の大きな掛幅です。阿弥陀仏像と尽十方無礙光如来像の間、蓮華座の上に「南無不可思議光如来」の九字名号が記されています。インド、中国、日本の高僧が名号の左右に描かれ、名号の文字「可思義」の右側に聖徳太子立像が描かれています。聖徳太子が崇敬の対象として自然に組み込まれているのです。<第2章 真宗が生み出した聖徳太子像>このセクションでは、木造彫刻像あるいは絵像の形で、様々な年齢に造形された聖徳太子像を数多く拝見しました。 一例がこの「木造 南無仏太子像」(福井・称名寺蔵、南北朝~室町時代)です。同じ作品名で他に2点。 「木造 聖徳太子童形立像」(東京・西光寺、南北朝・暦応4年/1341年)。髪をみずらに結い、右手に笏、左手に柄香炉を持つ立像です。同じ作品名で、彫刻像が他に1点、絵像が3点、また「木造 聖徳太子孝養立像」が2点展示されていました。このセクションで印象深かったのは、実如の裏書があるという「聖徳太子・法然上人像」が対になった掛幅です。奈良・願行寺蔵(室町・永正10年/1513年)と兵庫・本徳寺蔵(室町・文亀3年/1503年)の作品。この対の掛幅について、会場の説明文にも記されていましたが、以前に入手した図録に願行寺蔵の作品について説明が載っています。それをご紹介します。「太子と法然の対幅で、法然は念珠を持って礼盤上に坐す通形のすがた、太子は室町後期以降に本願寺から下付される通規の孝養太子立像とする。・・・・そもそも太子と法然を対幅にする遺例は少ないが、これに当初は浄土六高僧像が備わって3幅対であったと考え、本願寺が下付する太子および七高僧像成立の前段階とみなす意見がある」(資料1)<第3章 聖徳太子絵伝とその周辺>1幅から8幅まで、様々な幅数で描かれた「聖徳太子絵伝」がズラリと展示されているのは、一種壮観ですらあります。 「聖徳太子絵伝」第4幅の部分図です。愛知・勝鬘皇寺蔵(南北朝時代、14世紀)の作品で、併せて第1~3幅も展示されていました。こちらは室町時代、15世紀の作という組み合わせだとか。描かれた時期がなぜ逆転しているのかについて詳細は不詳。聖徳太子の伝記絵としてどの場面を表すかは基本的な押さえどころになるでしょう。この伝記絵の構成要素を十分に理解していれば、鑑賞の仕方が深まることと思います。聖徳太子の一生において、ハイライトになる場面全てという意味では十分な知識を持ち合わせていません。伝記絵のハイライト場面の一部を記憶している程度です。それ故、絵伝の一部の場面を理解しつつ鑑賞できる程度でした。その点がやはり残念でした。このセクションで印象に残ったのは、聖徳太子絵伝の他に、「法然上人絵伝」の第4・6幀(愛知・光明寺蔵、南北朝時代14世紀)、「金銅 阿弥陀如来立像・観音菩薩立像(善光寺式)」(龍谷ミュージアム蔵、鎌倉時代13~14世紀)、「善光寺如来絵伝」が2点展示されていたことです。聖徳太子と善光寺の関係を、後で少し調べてみました。「善光寺縁起」にその経緯の逸話が記されています。百済の聖明王が天皇に仏像を献じました。天皇はその仏像を蘇我稲目に預けました。稲目は自宅を「向源寺」という寺にして、仏像に奉仕をしました。だが、ちょうどその頃に熱病が流行。外来の蕃神のせいとして、物部尾輿は向源寺を焼き払います。物部尾輿は蕃神とみなした仏像を最後は難波の堀江に投げ捨てました。その後、物部守屋と聖徳太子・蘇我馬子との争いで、守屋は敗れ、一転して仏教の奨励に転換します。聖徳太子は難波の堀江に捨てられた仏像を宮中にお迎えしようとしたそうですが、尊像は機が熟すまで待つとおっしゃられたとか。その尊像を信濃国の本田善光が、尊像の導きで信濃国に背負って帰ることになります。善光が自宅に尊像を安置し、善光寺と称して開山したそうです。(資料2)また、聖徳太子が「善光寺如来に宛てて、自分が観音菩薩の化身として人々を救うのを助けてほしいと依頼する内容」の手紙があり、一方、「これに対する善光寺如来の返書と伝わる文書が、法隆寺に現存する」(資料3)そうです。親鸞が聖徳太子に抱いた崇敬の念が、真宗の中に連綿と継承されている様子を感じた次第です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「春季特別展 真宗と聖徳太子 出品リスト」 会場にて入手*春季特別展 PRチラシ1) 『釈尊と親鸞 親鸞編 第四期出品 解説』 龍谷ミュージアム p8 2011年10月2) 善光寺の逸話 善光寺縁起 :「善光寺」3) 善光寺と常徳太子の関わり :「ウィークリー長野」補遺聖徳太子絵伝 :「e國寶」聖徳太子絵伝 :「文化遺産オンライン」絹本著色聖徳太子絵伝(法隆寺献納):「文化遺産オンライン」聖徳太子絵伝 :「文化遺産オンライン」【絵で見る聖徳太子の一生】#1 六幅の太子絵伝 YouTube5Gで文化財 国宝『聖徳太子絵伝』 5つのエピソードを深堀り解説 YouTube5Gで文化財 国宝『聖徳太子絵伝』とは? YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都国立博物館 -1 「親鸞 -生涯と名宝」展 へ
2023.05.29
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=== 2023.5.21 === 南の空9時35分頃に撮りました。日曜日、朝から晴れています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向の空はほぼ快晴ですが、 東方向の稜線上空には雲がたなびいています。 13時35分頃に眺めると東方向の空は青空が少し広がっていますが、雲がそのまま張り出しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲が少し広がってきています。 16時40分頃に南の空を眺めると、雲は浮かんでいますが、青空の色がよりはっきりと見えます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲は変化しています。 東方向の空は雲がかなり去り行き、青空が広がっていました。=== 2023.5.22 === 南の空8時35分頃に空を眺めると、朝から少しくもりぎみです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空青空が見えてはいますが・・・・、スッキリという感じではありません。 東方向の稜線上は、ご覧の通り。 東方向の空16時35分頃に撮りました。空模様はあまり変化が見られない状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 濃い灰色の雲が張り出してきています。この後、夕刻から雨になりました。さて、前回のつづきとしての雲がたりをいたします。西行法師の『山家集』(日本古典文学大系29、岩波書店)を参照して続けます。全三冊のうちの「上 夏」からです。「夏」の部には、2首だけ詠まれています。 雨中郭公 五月雨(さみだれ)の晴間も見えぬ雲路より山ほとゝぎす鳴きてすぐなり 198 [付記] 雲路より:空に すぐ:通り過ぎる 雲雀(ひばり)あがる大野の茅原(ちはら)夏くれば涼む木陰をたづねてぞ行 238 [付記] 茅原:ちがやの生えた原ご覧の通り、「雲路」「雲雀」という語彙に「雲」が入っている形です。「上 秋」には、次のとおり、けっこう「雲」を詠み込んだ歌が収録されていました。 天の原月たけのぼる雲路をばわきても風の吹きはらはなん 307 [付記] たけ⇒たく(闌く):十分にになる。盛りとなる。 わきても:中でも殊に。とりわけ。 吹きはらはなん:吹き払ってほしい いかばかり嬉しからまし秋の夜の月すむ空に雲なかりせば 310 明くるまで宵より空に雲なくてまたこそかゝる月見ざりつれ 315 [付記] またこそかゝる月見ざりつれ:このように終夜雲もなくて 皎々たる月はいまだかつてみたことがないよ。 海邊月 清見潟(きよみがた)月澄む空のうき雲は富士の高嶺の煙成(なり)けり 319 [付記] 清見潟:静岡県興津の海。 池に澄む月にかゝれる浮雲は払ひ残せる水錆(みさび)なりけり 322 [付記] 水錆:水面に浮かぶサビのようなもの。 月前遠望 隈(くま)もなき月の光にさそはれて幾雲居までゆく心そも 327 [付記] 隈:くもり。かげり。 幾雲意まで:はるかな空の彼方まで。 秋はたゞ今宵ひと夜の名なりけりおなじ雲ゐに月は澄めども 334 くもれる十五夜を 月見れば影なく雲につゝまれて今宵ならずば闇に見えまし 336 [付記] 今宵ならずば:満月の今宵でなかったら。 闇にみえまし:すっかりまっくらに見えることだろう。 待ち出でて隈なきよひの月みれば雲ぞ心にまづかゝりける 338 [付記] 雲ぞ心にまづかゝりける:やがて雲が出て来はしないかと、 先に立って気になるのであった。 秋風や天つ雲ゐをはらふらん更けゆくまゝに月のさやけき 339 [付記] まゝに:につれて。と共に。 さやけし:明るくてすがすがしい。 なかなかに時々雲のかゝるこそ月をもてなすかざり成けり 361 [付記] なかなかに:かえって 月をもてなす飾り:月に趣を添える飾り 雲はるゝ嵐のおとは松にあれや月もみどりの色に映えつゝ 362 隈もなき月のおもてにとぶ雁の影を雲かとまがへつる哉 366 雲も見ゆ風も更(ふ)くれば荒らくなるのどかなりつる月の光を 368 [付記] 更くれば:夜が更けてくると うき雲の月の面(おもて)にかゝれども疾(はや)く過ぐるは嬉しかりけり 371 [付記」 うき雲:「浮雲」に「憂き雲」がかけられている。 過ぎやらで月近くゆくうき雲のたゞよふ見るは侘(わび)しかりけり 372 [付記] 過ぎやらで:通り過ぎてしまわずに。 厭(いと)へどもさすがに雲のうち散りて月のあたりを離れざりけり 373 [付記] 厭ふ:いやだと思う。 さすがに:にもかかわらずやはり。 雲はらふ嵐に月のみがゝれて光えて澄む秋の空かな 374 [付記] 光えて澄む:月の光がますますかがやきを加えて明るく澄み切る。 九月十三夜 雲きえし秋のなかばの空よりも月は今宵ぞ名におへりける 380 [付記] 雲きえし:一片の雲も名残りなく消え去ってよく晴れた。 秋の半ばの空:仲秋、八月十五夜の空。 今宵:九月十三夜。 名におへりける:有名になっている。 月照瀧 雲きゆる那智の高嶺に月たけて光をぬける瀧のしら絲 382 [付記] 那智:和歌山県那智山 月たけて:月が天心に高くのぼって。 光をぬける瀧のしら糸:月光を宿した水玉を白糸に貫く様に、 滝水が筋をなして流れ落ちている。 久待月 出でながら雲に隠るゝ月かげを重ねて待つや二村の山 383 [付記] 「二村山は三河なり。尾張丹後にもあり。山の名賞玩なり」 (山河集抄) 雲間待月 秋の夜のいざよふ山の端(は)のみかは雲の絶間(たえま)も待たれやはせぬ 384 [付記] いさよふ:(後世は「いざよふ」)進もうとしても進めず、 止まろうとしても止まれずに、ためらう。 やはせぬ:・・・シナイノカネ。・・・スレバヨイノニ。・・・シロヨ。 朝聞雁 よこ雲の風にわかるゝしのゝめに山とび越ゆる初雁のこえ 420 [付記] よこ雲の風にわかるゝ:横に長くたなびいてる雲が風に吹かれ 山の端から離れる。 しののめ:明け方。夜明けのほのかに明るくなるころ。 雁聲遠近 しら雲を翅にかけてゆく雁の門田の面(おも)の友慕ふなり 422 [付記] しら雲を翅にかけてゆく雁:白雲に羽を交えるほど空高く飛ぶ雁。 門田の面の友:門前の田のほとりにいる雁この「秋の部」には、24首が収録されています。雲路、雲、うき雲(浮雲)、雲居(雲ゐ)、よこ雲、しら雲と、語彙の使い方もバリエーションがみられます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.23 === 南の空昨夕からの雨は深夜にも降ったようです。ベランダの物干し竿には雨滴が連なっています。8時45分頃に外を眺めると、雨は止んでいました。濡れたサンダルを拭って、三方向の空を撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空灰色雲が張り出しているものの、ちょっと青空を垣間見せる切れ目があります。 東方向の空 東方向の空15時10分頃に撮った空。灰色の雲は流れ去り、稜線上空には青空の下に白雲が浮かんでいます。 南の空東方向の空よりも濃い青空が見え、ちぎれ雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 17時15分頃に撮った南の空です。青空のトーンがまた変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の変化がおもしろい。まさに、雲変化の一日でした。 日が長くなってきました。夕刻迫る頃に、東の稜線上空は快晴状態です。稜線上空でそう頻繁には見られない空景色です。やはり蒼空は気持ちがいいですね。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.28
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=== 2023.5.17 === 南の空朝から晴れの日。所用で出かけていましたので、この青空を撮ったのは16時15分頃。快晴といえる青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空終日、良い天気に恵まれました。=== 2023.5.18 ===この日は朝から曇り空。 南の空15時半頃に記録として曇天の様子を撮りました。南西方向の空 西方向の空 灰色の雲の層の彼方に、太陽の存在を示す光点が見えます。 東方向の空どの方向も空はグレー一色です。 東方向の空2時間後、17時40分頃にもう一度空を見上げてみました。 南の空南西方向の空 西方向の空 終日、くもりの一日。気分はやはり少しグレーに・・・・。さて、気分転換を兼ねて、雲がたりに切り替えましょう。和歌の世界に戻ります。手許に、岩波書店の日本古典文学大系の一冊『山家集 金槐和歌集』があります。奥書を読むと1980年7月25日第21刷発行です。西行法師の歌に関心を抱いていたので、1980年代のどこかで、購入したのだと思います。時折一部参照することはありましたが、『山家集』を通読することなく、書架で休眠していました。西行法師は『山家集』で、「雲」を含む歌を詠んでいるだろうか? その観点を梃子にして、今回収録された歌を通読しながら、「雲」を含む歌を抽出してみることにしました。西行は「雲」をどのように歌の中で詠んでいるのか。自然現象としての雲の姿に見入っているのか。雲は譬喩や象徴に使われているのか。雲をどのような情景の中で詠んでいるのか。そんなところに関心が向きます。通読していくと、西行さん、けっこう「雲」を歌に詠んでいます。手許の岩波本『山家集』は、「近世初期に近衛家で書写せられた本の系統」「陽明文庫本」を底本にし、風巻景次郎校注によります。上・中・下三冊、歌数1552首が収録されています。ここからの抽出です。『山家集』上の「春」には、次の歌が載っています。 かすみに月の曇れるをみて 雲なくて朧(おぼろ)なりとも見ゆるかな霞かゝれる春のよの月 51 空にいでて何処ともなく尋ぬれば雲とは花の見ゆる成(なり)けり 60 [付記] 空にいでて:あてどなく外に出て 雲とは花の見ゆる成けり:遠目には雲かとばかりに 咲いた花が見えるのだ 花の歌あまたよみけるに 吉野山くもをはかりに尋ねいりて心にかけし花をみるかな 62 [付記] くもをはかりに:雲をめあてに 心にかけし:心に見たいと思っていた おしなべて花の盛(さかり)に成にけり山のはごとにかゝる白雲 64 [付記] 山のはごとにかゝる白雲:山の端ごとに、花が白雲となって かかっている まがふ色に花さきぬれば吉野山春ははれせぬ峯の白雲 65 [付記] まがふ色に:峰の白雲と見誤られる色に 春ははれせぬ:春は晴れることのない おもひやる高嶺の雲の花ならばちらぬ七日(なぬか)ははれじとぞ思ふ 81 [付記] おもひやる:遠くそれと思いやる ⇒雲を花と思いやる ちらぬ七日は:花の命の保つとされている七日間は 花の下にて月をみてよみける 雲にまがふ花の下にて眺むればおぼろに月は見ゆる成ける 90 吉野山谷へたなびく白雲はみねの桜の散るにやあるらん 110 立(たち)まがふ峯の雲をばはらふとも花を散らさぬ嵐なりせば 114 [付記] 立まがふ:立ちこめて花と見まがう 吉野山花ふき具して峯こゆる嵐は雲とよそに見ゆらん 115 [付記] 花ふき具して:落花を吹き連れて 吉野山桜にまがふ白雲の散りなんのちは晴れずもあらなん 132 花と見ばさすが情(なさけ)をかけましを雲とて風のはらふなるべし 133 [付記] 雲とて風のはらふなるべし:雲だからと、容赦なく吹き払うのだろう 遠山残花 吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲きおくれたる桜なるべし 142 花歌十五首よみけるに よしの山人に心をつけがほに花よりさきにかゝる白雲 143 [付記] 心をつけがほに:物を思わせるような様子で おぼつかな谷は桜のいかならんみねにはいまだかけぬ白雲 146 [付記] おぼつかな:気にかかることだなあ「春」には15首、雲を詠み込んだ歌があります。ほとんどが吉野山の桜を詠じる関わりで白雲を詠み込んでいます。桜と白雲を自然の景として対比的に詠む歌、桜の咲く様子を雲に喩えている歌、が混じっています。西行さんはやはり桜が好きだったのでしょうね。 余談。西行法師の歌では、「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」がとくに有名ですね。本書の頭注によりますと、「きさらぎの望月」は2月15日で、釈尊入滅の日を指します。この歌は、『山家集』に第77首として載っています。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.19 ===朝から雨。 南の空南西方向の空 12時過ぎに窓際から撮りました。 激しい雨ではなかったと記憶しますが、雨の降る一日でした。=== 2023.5.20 === 10時過ぎに撮った南の空です。晴れました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空には灰色雲が覆い、青空はほんの一部で見える位です。 東方向の空17時すぎに眺めても、稜線の上空は灰色雲が覆っています。 一方、南の空は快晴といえる青空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴れの週末になりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.26
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玄関先の通路脇に置かれた鉢に アマリリスが咲いています。 斜め前の鉢植えで ハツユキカズラの葉が様々な色に変化を見せていています。 庭の通路を挟んで家屋側にはラベンダーが群がっていて ラベンダーの西側では、時計草が咲き出しています。家の壁沿いに少し西側に行けば、リビングルームの外側に、 ユリが咲いています。昨日(5/24)撮った1枚 今日、先ほど見れば、花びらを大きく広げていました。 アマリリスの位置から、玄関前の通路を道路(南)へ歩めば、シランがまだがんばって花を咲かせています。『山渓ポケット図鑑1 春の花』によれば、花期は4~5月。初めて知ったのですが、「地中にある球形の偽球茎は白及根(はくきゅうこん)と呼ばれ、薬用に使われる。また粘性があるので七宝細工の接着剤にも利用される」(p278)そうです。 通路の東側の小さな花壇の隅に咲くドクダミソウ。花期は6~7月。 「裏のナンテンの傍にもっと咲いてるよ」と聞き、先ほど行ってみて ナルホド! 表の花壇より、裏の北東隅の小さな花壇に沢山咲いていました。ドクダミソウって、ちょっと怖そうな名前です。が、手許の『山渓ポケット図鑑2 夏の花』を見ると、「民間薬としてよく知られ、虫さされ、切り傷、胃腸病など10種の薬効があるということから十薬とも呼ばれる」(p196)そうです。このことも知りませんでした。「白い花びらのように見えるのは4個の総苞片で、その上に花弁も萼もなく小さな花が黄色い穂になってつく」(p196)久しぶりに、ポケット図鑑を繙いてみました。ラベンダーの西隣りの壁際と玄関先に置かれたサボテン サボテンの花が咲いています。 敷地の南西側、隣家との境界にある西側の小さな花壇では、アジサイ(紫陽花)が咲き始めています。 アジサイ、ガクアジサイの花期は6~7月。 これからしばらく花が咲くのを楽しめそうです。我が地元で言えば、京阪宇治線「三室戸駅」下車で、東方向に向かうとある「三室戸寺」のアジサイが有名です。ご覧いただきありがとうございます。補遺アマリリス :「みんなの趣味の園芸」ハツユキカズラ :「みんなの趣味の園芸」トケイソウの仲間 :「みんなの趣味の園芸」ラベンダーの育て方|枯らさないためのお手入れ方法や増やし方は? :「Plantia」シラン :「熊本大学薬学部薬草園 植物データベース」ドクダミ :「熊本大学薬学部薬草園 植物データベース」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治・三室戸寺細見 -1 参道を歩む 6回のシリーズでご紹介
2023.05.25
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=== 2023.5.14 === 南の空南西方向の空 日曜日、10時45分頃に眺めると空はグレーの濃淡に覆われています。 朝から雨が降っており、窓際から二方向だけ撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空14時45分頃には、一旦雨が止んでいました。ベランダ置きの雨に濡れたサンダルの雫を拭き取って、外に出て三方向を撮ってみました。雲の形は止まること無く来たり、去り、変化しています。 南の空南西方向の空 16時55分頃に、外を眺めると再び雨が降っていました。窓際から眺めた空模様。=== 2023.5.15 === 南の空9時半頃に撮りました。灰色雲と白雲が入り交じり、空を覆っています。雲中に孔を穿ったような切れ目から青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空こちらも、雲の僅かの切れ目からかすかに青空が見えています。ほんのひととき、小雨もよいになりましたが、いわば通り雨。遠くでは、青空が広がっている地域もありました。 東方向の空17時10分頃に撮った空。青空が広がっていて、雲の姿は様変わりです。稜線よりかなり上空にちぎれ雲が漂っていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲はその姿をダイナミックに変えていました。さて、前回の雲がたりのつづきに移ります。枡野俊明著『毎日に感謝したくなる 禅ごよみ365日』(誠文堂新光社)に載る「雲」を含む禅語のご紹介です。()内は本書を読んでの私的解釈。「」は本文からの引用。ページの後は暦日表示。白雲飛悠々 白雲悠々(ゆうゆう)飛ぶ p243/8.13 (空に浮かぶ白雲は悠々と風に任せて自在に飛び去っていく) 無心の白雲のようにとらわれることなく自然体でふるまうことを著者は助言します。 「自分をこんな風に見せたい」と考えれば、「自然体でなくなるのです」 「自然体にまさる自由なし、です」「自然であれば、自由でいられる」と。流水寒山路 流水寒山の路(みち)深雲古寺鐘 深雲(しんうん)古寺の鐘 p252/8.22 (谷川に沿って、寒山寺に至る道を歩いていると 雲の彼方から古刹の鐘の音が聞こえてくる) 禅寺のある場所の自然の情景を表現した句です。その自然の中に心身を預けなさい と、著者は助言しています。「自然のなかで仏様に触れる」ためにと。 それは涅槃経に記す[一切衆生悉有仏性]の句と呼応するということでしょうか。白雲無尽時 白雲尽きる時無し p259/8.29 (空には白雲が次々に湧き出してきて、尽きる時がない) 「人の考え方も、発想も、そのようなものでありたい」 人生経験を積むほどに、「心の門戸を広く開けておくこと」を著者は助言します。 「心を開くと、考え方、発想が、やわらかく、しなやかになります」と。雲出本無心 雲出ずる本より無心(むしん) p257/9.11 (湧き出でた雲はただ悠然としている。何の抵抗もなく風任せに自由に漂う) とらわれずに、「流れにまかせることです。すると、気持ちが軽くなり、自由に なります」と、著者は助言します。とらわれの心、こだわりの心を捨てよと。臥月眠雲悠然 月に臥(ふ)し雲に眠って悠然(ゆうぜん)たり p280/9.19 (月を枕に臥し、雲を布団にして眠れば、ゆったりと落ち着いた世界が広がる) 悠々自適の生活は「自分が夢中になれることを見つけ、こころからそれを楽しむ」 ところから広がると著者は説いています。「楽しむ心」がキーワードなのです。山雲海月 山雲(さんうん)海月(かいげつ) p281/9.20 (山ニは雲がかかり、海には月が浮かぶ。それはあるがままの姿のあらわれ) 五感を全開して自然、景色を感じなさいと著者は勧めています。 五感を全開して体感することが絶対的真理に気づくことになるのだと。横身臥白雲 身を横たえて白雲に臥(ふ)す p299/10.8 (身を横たえて、白雲に包まれて臥す) これは「自由無礙の境地」を表現しているそうです。その対極は<こだわり>です。 その根源はいまではスマホと著者は言い、「時にはスマホを手放し情報を遮断する」 ことを薦めています。臥月詠花眠雲 月に臥して花を詠じ雲に眠る p301/10.10 (月光を浴びて横たわり、花を愛でて歌を読み、雲をまとって眠る) 花鳥風月、自然への回帰を体験することを著者は薦めています。心を解き放ち、 命をリフレッシュしてごらんなさいと。終日看山又看雲 終日山を看(み)又(また)雲を看る p360/12.8 (終日、ただ山を見て、または雲を見て、過ごす) 「何もしなくても、心が満たされている。自然と一体になった自分が感じられる、 ということ」そんな心もちで、山や雲を見ている心境を意味しています。 そんな満ち足りた境地のひとときをもちましょうという著者のお薦め。雲花驚歳晩 雲花歳の晩(おそ)きに驚く p371/12.19 (ちぎれ雲<雲花>を見て、年の瀬が押し迫っていることに驚ろく) 気持ちが急くのは、考える脳、判断する脳が活性化している時だそうです。 そんな時は、脳のスィッチを「感じる脳」を働かせる方に切り替えると良いとか。 ボーっと景色を眺めたり、心地よい音楽を聴くなどの時間をもちなさいと。 それが「気持ちを落ち着かせ、心を穏やかにする」と著者は薦めています。雲掃長空巣月鶴 雲長空(ちょうくう)を掃(はら)って月に巣くう鶴寒清入骨不成眠 寒清(かんせい)骨に入って睡り成らず p381/12.29 (厳寒の空には雲一つ無く、月が輝き、巣の鶴は 寒さが骨髄に染み入り、眠ることができない ) この凜として寒さに耐える鶴の姿は、高潔さを象徴しているそうです。 「人生には、絶えるしかない状況もあるのです。そこで・・・・絶えきってみせる」 「絶えきる姿が、高潔さをまとう」と著者は語っています。 そして、「和らがない寒さも、明けない夜もないのです」と。 この本には、「行雲流水」(p100)、「雲無心出岫」(p189)、「白雲抱幽石」(p205)、「白雲自去来」(p217)、「万里無片雲」(p275)も採録されていますが、以前の雲がたりでご紹介していますので省略します。「禅語」に絡む雲がたりは、この辺りで一旦、一区切りと致します。再び、雲の変化に戻ります。=== 2023.5.16 === 10時35分頃に撮った南の空です。空は快晴!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東の稜線上の空は、いつものように靄っています。 東方向の空14時40分頃には、稜線上空もまた雲のない青空一色に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲の姿は見られませんでしたが、快晴の良き一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.21
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=== 2023.5.11 === 9時15分すぎに撮った南の空。快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向の空は快晴で青空が見えても、東方向の空はいつものように、雲は見えませんが全体に薄いベールがかかった感じです。 午前中の東方向の空も、14時45分頃に眺めると、青空に変わっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 三方向の空一面、快晴!! 南の空を17時15分頃に撮りました。快晴に恵まれた一日でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空=== 2023.5.12 === 10時25分頃に撮った南の空。快晴の日が続きます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空昨日との違いは、筋雲のような雲が少し浮かんでいるのが見られることです。 東方向の空 14時頃に撮った東の空は青空に変化し、稜線より上空にわずかに雲が見えます。 南の空にも、小さめの白雲がふんわりと浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空16時10分頃に眺めると、雲がベールのようにかかる姿に変わってきています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 17時30分頃に東の空を眺めると、稜線近くにも雲がかかってきています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空夕刻から、徐々に雲が広がってきているようです。天気予報は崩れる方向へ。さて、雲がたりのつづきを少し。再び禅語に戻って見たいと思います。2020年のあるとき、新聞一面下部の出版広告で、『禅ごよみ365日』というタイトルの本が目に止まりました。内容も見ずにネット経由で発注して購入。著者は桝野俊明さん。奥書のプロフィールには曹洞宗特雄山建功寺住職で、多摩美術大学の教授でもあり、庭園デザイナーとあります。誠文堂新光社刊。「毎日感謝したくなる」というフレーズを冠した10.5cm×16cmという小型本です。禅語をこよみ形式で、というところに惹かれて購入。「どのように禅語を活かして暮らしていくか、その手がかりをまとめました」という意図の本でした。著者は禅語の解釈そのものよりも、禅語を手がかりにした暮らし方をわかりやすく提案するという主旨なのです。禅語そのものの出典には一切触れていません。私的にはこの点少し不満足な部分です。それはさておき、本書にも「雲」を含んだ禅語が結構含まれています。そこで、本書の本文を読み、禅語について理解した範囲で私流に語釈を付記し、またこの禅語から著者が助言・提案されたエッセンスを引用して、ご紹介します。()内は私流の解釈。「」は同著本文からの引用です。禅語の載るページと本書の暦としての日付を付記します。私の誤解を含むかも知れませんので、ご寛恕ください。禅語を抽出列挙に、一部引用文を併記します。慶雲生五彩 慶雲五彩を生ず p34/1.17 (天空にはめでたい雲が無限の色[五彩]をに染め上げられて浮かんでいる) めでたさを素直に寿ぎましょうということかと理解しました。破雲寒月明 雲破れて寒月明らかなり p39/1.22 (冬の夜、覆っていた雲がと切れて、月がはっきりと見えた) 雲=迷い、月=悟りという暗喩がうかがえます。人は迷いながら生きる。 「どんな迷いにも、必ず吹っ切るきっかけが訪れる」と著者は説きます。瑞雲繞寿山 瑞雲(ずいうん)寿山を繞(めぐ)る p137/4.29 (めでたい雲が寿山を取り巻いている。めでたさ溢れる光景だなあ・・・) ここでの雲は、寿山に照応して長寿のめでたさを象徴していると言います。 暦の4月にこの句を取り上げ、めでたい光景に出会う旅にでかけなさいと。 絶景探しの旅を薦めています。心機一転は行動から・・・ということか。雲收山岳青 雲収(おさ)まりて山岳青し p187/6.18 (山ニかかっていた雲が消え去り、青々としたもとの山岳の姿が現れている) 著者は「煩悩がなくなると、自分のなかの仏性が明らかになる」と記します。 著者のお薦めは「何かを欲しいと思ってもひと呼吸置きましょう」です。雲去青山露 雲去りて青山露(あらわ)る p195/6.26 (空を覆っていた雲が消え去ると、そこには青々とした山があらわれた) 上の句と同主旨。著者は「迷いがなくなって、本来の自分が見えるようになる」と。 著者曰く「迷ったときは『縁』を大事にしなさいと、禅は教えます」孤雲本無心 孤雲本(もと)無心 p108 (ひとかたまりの雲は、自在にその姿を変え、どちらの方向へも流れていく。 もともと雲は自由自在なのだ) 孤雲のように「順境にあって驕らず、逆境にいて腐らず」の自在な心を持ちなさい と著者は薦めています。「自在な心はどんな境遇にも対応できる」と。白雲自在 白雲(はくうん)自在(じざい) p214/7.15 (白雲は自由自在に風とともに流れていく) こだわりに捕らわれないようにしましょう。こだわる心から離れるには、 「相手に言葉の真意」を正攻法で尋ねるのが最良の方法と著者は言います。夏雲多奇峰 夏雲(かうん)奇峰(きほう)多し p220 (夏の雲つまり入道雲を眺めると、その姿は雄大な奇峰が連なっている様である) 自然の壮大なスケールから、著者は「自分の小ささを知ることも大切です」と説く。青山白雲 青山(せいざん)白雲(はくうん) p232/8.2 (青山に白雲がかかる) 青山と白雲は、互いに共存する存在、支え合い補完する形で存在しています。 「誰かがいて、自分がいる」「人と人とのつながりも、そのようなものでありたい」 と著者は語っています。庵中閑打坐 庵中(あんちゅう)閑(しず)かに打坐(たざ)すれば白雲起峰頂 白雲峰頂(ほうちょう)に起こる p234/8.4 (庵中で閑かに坐禅をして、穏やかな心で、白雲が峰の頂きに起こるのをみている) 禅僧の理想は、豊かな自然とともに暮らす隠遁生活をすることと言います。次回は抽出禅語の後半のご紹介です。再び、雲の姿の変化に戻ります。=== 2023.5.13 ===朝はくもり空でした。午前中、所用で出かけていました。帰宅するまで曇りの状態が保たれましたが、午後3時頃には雨が降り初めました。 南の空 南西方向の空 記録を兼ねて、16時45分すぎに窓際から撮った二方向の空の雲の姿です。 13日は土曜日。この週末は天気が崩れることに・・・・・。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.18
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=== 2023.5.9 === 南の空9時20分頃に撮りました。薄い雲が見えるくらいで、晴れ上がった空。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空普段の眺めからは少し明るめの空模様が遠望できました。まずは晴れ日の始まり。 東方向の空14時25分頃に眺めると、稜線上空の雲が去り、青空そのものです。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空東・西・南の三方向と頭上の空は、快晴状態です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空終日、ほぼ快晴が続いたといえ、青空が広がる一日でした。久しぶりに、雲がたりを始めます。「快晴」を手許の辞書で引きますと、「よく晴れた天気。雲量0~1」と説明しています。さらに「雲量」を引くと、「雲に覆われた部分の空全体に対する見かけ上の割合。空全体が雲の場合を10として、0から10まで11級に分ける」(『日本語大辞典』講談社)というです。「快晴」は観察した時点での判断ですので、一日全体の状態を言うには観察評価方法を決めないと言えません。まあ、一応この二語の説明を踏まえて、観察範囲の大凡の感じとして「ほぼ快晴が続いた」と印象を上記しました。(事実、お解りのとおり北方向は観察ゼロです。)さらに、少し前のブログ記事にコメントをいただいた Jobim さんへのご返事の中で、自問したことを少し調べてみました。その時に「青空の色調を表現した語」という言い方で自問をしたのです。ところが「青空」の色調ということは、青空自体の色のヴァリエーションを表現することになります。青い色の状態を識別し、そのカラーの色名表記がわかれば、その色名を形容に使う形で、実際の青空の状況を表現できることに気づきました。そこで、「青空」自体を違う語彙でどのように表現するかを調べることにしました。結果的に語彙表現の中に色調感が取り込まれているということにもなりました。「青空」と同義の語彙を、手許の辞書から調べた範囲でご紹介します。(参照洩れがあるかも知れません。その点はご寛恕ください。)青空 あおぞら 青く晴れた空 a よく晴れた空 b 雲のない青い空。良く晴れ渡った青い空。碧空。 c 碧空を見出しに併記。青く見える空。蒼天。青天井。 d青玄 せいげん おおぞら。蒼玄。 e おおぞら。 f青天 せいてん あおぞら。蒼天。 e おおぞら。 ⇒同義語:翠空。蒼穹。碧天。 f青穹 せいきゅう 青空。蒼穹。 e青冥 せいめい あおぞら。青天。 e青霄 せいしょう あおぞら。碧空。蒼空。 e蒼穹 そうきゅう 「青空」の漢語的表現 [穹は弓形になっている意] a 青空。大空。 b 青空。大空。蒼天。 c あおあおとしている弓なりの空。あおぞら。おおぞら。蒼天。蒼空d ⇒蒼 そう あお。あおい。あおくさ色。 b あお。青い。草の青い色。深青色、こい青色 e、f [補足] 蒼蒼 そうそう 空の色のあおあおとしたさま。晴れた天の色。 蒼天 そうてん 1.青空。大空。 2.春の空。 c 1.あおぞら。おおぞら。 2.春の空 d 1.青空、天。 2.春の天。春の空 e、f蒼空 そうくう あおぞら。おおぞら。 c あおぞら。おおぞら。蒼天。 d あおぞら。 e、f蒼天・蒼空の同義語 e、f ⇒蒼極 この言葉は項目としては付記ですが、dに次の成句が項目の一つ 蒼天曷有極(そうてんなんぞきわまりあらん) 天はひろびろと果てしなく、尽きることがない。 蒼玄(そうげん)青ぞら。天。 蒼昊(そうこう)あおぞら。 ⇒同義語:碧漢 蒼旻(そうびん)おおぞら。 区別すれば蒼旻は秋の空。 蒼顥(そうこう)大空。天空。⇒同義語:蒼天碧天 へきてん 碧空のそら。あおぞら。 d 青空。青天。 e碧空 へきくう 「青空」の意の漢語的表現 a 青空。blue sky b 青空。晴れ上がった美しい空。 c おおぞら。青空。碧天。 d あおぞら。 e、f手許での参照書籍は次の辞書です。ほとんどが年代物になってしまっていますが・・・。 a:新明解国語辞典 第五版(第27刷) 三省堂 b:日本語大辞典 初版 講談社 c:大辞林 初版 三省堂 d:広辞苑 初版 岩波書店 e:角川漢和中辞典 初版 角川書店 f:角川新字源 初版(341版) 角川書店私が「青空」以外に身近な語彙として知っていたのは「蒼空」「蒼穹」だけです。漢字ワールドは奥が深い。どれくらいの人々が、いつ頃まで、これらの語彙を自由に駆使したのでしょうか。その人が実感する「青空」を表現するために・・・・・。さて、雲の姿に戻ります。=== 2023.5.10 === 8時45分頃に撮った南の空です。晴れた日がつづきます。良いですねえ・・・。南西方向の空 西方向の空 3,4本に見えるこの筋状の飛行機雲は何でしょう。飛行機の通過した跡? 頭上の雲 東方向の空稜線の一部にズームアップしすぎましたが・・・・南の空の晴れ具合のときでも、東の稜線上空は午前は曇った感じの状態ということが普段ということはおわかりいただけるでしょう。 13時20分ごろに眺めた東方向の空は、稜線の上に棚引く雲はやわらかな感じの層を成し、青空が背景に広がっています。 南の空 筋状の雲がのびやかに広がっている感じです。南西方向の空 西方向の空 西の空には、ゆらゆらした感じの雲が見えます。午前に見た飛行機雲の変化した姿でしょうか。雲が去り、新たに現れた揺らいだ筋雲なのでしょうか。雲の変化はおもしろい。 頭上の空 南の空15時半頃の南の空です。雲の姿はかなり変化しています。雲去り、雲来る・・・・。南西方向の空 西方向の空 西の空には、巻き上がったような雲の姿が見えます。記録写真のこの雲をじっとみていると、人の顔が浮かんでいるようにイメージできておもしろい。あなたは、そんな風にみえます? 頭上の雲頭上に、東西方向に巻いた形に伸びる雲が見えました。こんな雲を頭上で見るのは、記録写真を撮り始めて初めてです。 東の空つづく補遺青・ブルー系の色一覧 :「色彩図鑑」原色大辞典 ホームページ 和色大辞典 web216 第27回 色の客観的な表現と伝達(その1) :「シーシーエス株式会社」色の表現方法 :「HOKKEI」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.14
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=== 2023.5.5 === 9時半頃に撮った南の空です。全体に灰色の雲で覆われています。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方位を眺めても曇り空。しかし、この曇り空が徐々に晴れて行きます。 東方向の空17時40分頃に空を眺めると雲はさまざまな姿を見せており、青空が広がっています。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の雲 くもり、のち晴れ。雲多く、その姿がさまざまなので楽しめる空でした。=== 2023.5.6 === 9時40分頃に撮った南の空です。天気予報はくもりから雨に崩れるという予報でした。この記録写真をじっと見ていると、人の目をイメージさせる箇所があります。人の顔にも広がりそう・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空には、少し青空が見えます。 15時過ぎに東方向の空をみますと、青空は見えなくなり、雲は灰色のグラデーションで稜線から上空へと広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 天気は夜までくもりの状態が保たれ、午後7時頃から雨が降る様に変化しました。=== 2023.5.7 ===ゴールデン・ウィークの最終日は朝から雨の降る一日でした。 南の空南西方向の空 14時40分頃に、記録として窓際から二方向を撮りました。=== 2023.5.8 === 8(月)は晴れに一転しました。ダイナミックに様々な雲が群がる感じの空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 東方向の空東の稜線の上にはかなり厚い雲が重なり、青空も見えます。 13時半頃に東方向の空を眺めると、稜線上の雲は大きく変化し、青空のみえる部分が広がり、明るさと穏やかさが加わった感じに変化していました。空は雲の劇場です。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向の空では、雲が大きく減少し見えるのは軽やかな小雲だけです。 頭上の空 南の空18時15分頃に撮った写真です。青空と白雲を楽しめた後はふたたび雲が広がり、くもり空に。南西方向の空 西方向の空 東方向の空も再び様変わりですが、未だ青空が何となく感じ取れる状態でした。次回から、雲語りも織り込みながら雲眺めをやりたいと思います。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.13
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=== 2023.5.1 === 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空10時20分頃に撮りました。三方向とも雲のない青空です。気持ちの良い晴れ日。 13時50分頃に東方向の空を見上げました。雲は稜線の向こうに少し見えるくらいです。 南の空南西方向の空 西方向の空 南から西方向の空にかけては快晴です。 15時50分頃に眺めると南の空には雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も雲に覆われた状態に大きく変化しています。晴のちくもり。=== 2023.5.2 === 南の空9時30分頃に撮りました。昨日に続き、晴れ上がった空から始まる一日。晴はやはり気持ちが良い!南西方向の空 西方向の空 南西方向から西方向にかけては雲が浮かんでいます。 東方向の空 稜線から離れた上空に雲が漂っています。 東方向の空 17時頃に撮りました。晴れた空。少し雲がみえる程度です。 南の空南西方向の空 南から南西方向にはふわっとした雲がひろがっています。 西方向の空 頭上の空飛行雲の様な一筋の雲が見えます。頭上でこんな雲を見かけたことはなかったような・・・・。=== 2023.5.3 === 9時40分前に撮った南の空。少し雲が見える程度で、連続の晴れが続きます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は少し靄がかかった感じです。 16時過ぎに撮った東方向の空です。 南東方向の空 南の空 雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 頭上にもふわっとした雲がただよっています。5月は3日連続で晴れ日です。=== 2023.5.4 === 10時半頃に撮った南の空。この日は雲が昨日より多く広がっていますが、晴れた空から一日の始まりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は、稜線の上空に雲が広がっています。 15時半過ぎに眺めた東方向の空は雲がなくなり、薄く靄がかかった感じですが青空がひろがっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空一方、南から西方向の空は頭上も含め、雲で覆われる形に大きく変化してきました。 17時半過ぎの南の空。2時間前の雲の動きは消滅し、白雲が漂う形に変化しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向と頭上の空はかなり雲の姿に変化が現れています。 東方向の空こちらにも変化が見えます。稜線の上には雲が張り出しています。いずれにせよ、この日も晴れた日が連続することで終わりました。ゴールデン・ウィークの前半は晴れた日が続くことで、各地が賑わったことでしょう。暦の5月には追いつきましたが、雲の姿を記録することをまず最初に。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.12
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=== 2023.4.25 === 南の空南西方向の空 9時20分頃に撮りました。小雨ですが、雨のため窓際から二方向だけに。 南の空南西方向の空 15時20頃に、外を眺めてみました。雨はやみ、くもりに。=== 2023.4.26 === 南の空南西方向の空 12時頃に撮りましたが、雨のため窓際から二方向の空模様を記録に。 南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空17時20分頃に空を眺めると、雨は止みくもりに変化。雲は逆に一層降りそうな様子なのですが・・・。=== 2023.4.27 === 11時50分頃に撮った南の空です。連続の雨のちくもりの天気から一転して明るい青空が戻ってきました。南西方向の空 西方向の空 「ちぎれ雲」と称される類いの雲の姿のようです。 東方向の空稜線上には横雲が棚引いていて、その上空にはぽっかりと楕円形の白雲が浮かんでいます。天気が良いので、散歩を兼ねて理髪店に出かけました。=== 2023.4.28 === 9時頃に撮った南の空です。飛行雲の様な雲が見えます。晴れた日が続きます。南西方向の空 西方向の空 この様な雲は何と呼ぶのでしょう・・・・。 東方向の空 14時45分頃に眺めた東方向の空です。雲の合間から青空がうかがえます。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空 17時45分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空=== 2023.4.29 === 8時半頃に撮った南の空です。雲に覆われ、天気はくもり。南西方向の空 西方向の空 東方向の空には、上空に黒い雲も見えます。 東方向の空 15時20分頃に眺めた空。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空南西方向の空 17時40分頃には雨が降り始めていました。窓際から二方向だけ撮りました。くもり、夕刻より雨の一日でした。=== 2023.4.30 === 南の空南西方向の空 9時20分頃。外は雨。窓際から二方向を撮りました。 15時20分頃に眺めた南の空。濃い灰色雲が空を覆っていますが、雨は止みくもりに。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 18時頃に、東方向の空を見上げると雲の彼方に青空が見え始めていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 雨のちくもり、そして午後6時には晴れの方向へ。天気が大きく変化する一日でした。ゴールデン・ウィークは予報通り、晴れた日からスタートする兆がみられました。これで暦の月には追いつきました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.08
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=== 2023.4.21 === 9時10分頃に撮った南の空です。曇り空。南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけて、箒目をつけたようなみかけない雲の姿です。 頭上の空 東方向の空 17時20分頃に眺めた東方向の空。午前よりも少し暗さが薄らいでいました。 南の空 軽やかな感じの雲が浮かび、青空が見えるように。南西方向の空 西方向の空 頭上の空=== 2023.4.22 === 南の空 9時半頃に撮りました。朝から快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつもの如くです。 13時50分頃に東方向の空を眺めると、雲のない青空が広がっています。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空晴れた良き一日でした。=== 223.4.23 === 9時半頃に撮った南の空。昨日に続き快晴で一日が始まりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空は靄がかかったような感じで、青空が冴えません。 15時20分頃に眺めると、東方向の空も青空がはっきりと見えます。微かに雲が稜線の上空に見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 17時45分頃に撮った南の空。空は見かけない雲の姿で覆われていました。ネットで画像を検索すると、「うろこ雲」と称される雲のようです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空夕方はうろこ雲が全体に広がる空模様でした。写真を撮り始めてたぶん初めてかと。=== 2023.4.24 === 南の空8時50分頃に撮りました。天気は曇りに変化。灰色の雲が空を覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 14時50分頃に眺めた東方向の空。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 天気予報どおり、曇りの一日でした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.06
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=== 2023.4.17 === 8時半頃に撮った南の空です。晴れた日が続きます。活発な雲!南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつもと違います。稜線上には活発な雲がかかり、霞んでいますが青空がよく見えます。 13時半頃に眺めた東方向の空は、白雲が姿を変えさらに広がっています。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空さまざまな姿の雲が適度に浮かんでいる青空がやはりいいですね。 17時頃に眺めた南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上、晴れた空にこんな景色で雲が浮かぶ姿をあまり見かけたことがない・・・。=== 2023.4.18 === 南の空 9時過ぎに撮りました。ほとんど雲がない快晴。晴れた日が続きます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空は普段のよくある状況。山域の早朝の気温と湿度が関係するのでしょうか。 13時頃に眺めた東方向の空です。朝と同様の空の状態でした。 南の空 午前中とは大きく天気が変化してきました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空空は全面、薄墨色から濃い灰色の雲で覆われています。 南の空南西方向の空 17時20分頃に外を眺めると、雨が降っていました。 窓際から二方向の空模様を撮るだけに。=== 2023.4.19 === 南の空昨日の午後からの続きで、朝から曇り空です。15時15分頃に記録として撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 終日、くもり。=== 2023.4.20 === 南の空朝から晴ていたと思います。この日は14時20分頃に初めて撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 17時半頃に撮った東方向の空。 南の空には雲が見られず快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空スッキリとした青空という感じでは無かったのですが、晴れた一日でした。もう少し、雲の姿だけで時を追いかけます。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.04
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=== 2023.4.12 === 8時頃に南の空を撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空雲が全面的に広がっていますが青空が見えていました。 南の空南西方向の空 ところが、11時半頃には既に雨が降っていました。窓際から撮った空です。 南の空南西方向の空 13時50分頃に外を見ると雨が続いていて、再び窓際から二方向を撮るだけに・・・。 南の空16時30分頃にもう一度外を見ると、雨は既に止んでいました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空各方向の空を撮りました。くもりに変化したものの空の様子に大きな変化は見られませんでした。はや5月となり、ゴールデンウィークの後半に入っています。時に追いつくために、雲の変化をまとめることにまた数回専念します。=== 2023.413 === 10時20分頃に南の空を撮りました。昨日とはうって変わり快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空快晴でも、東の空はやはり午前は靄がかかった感じです。 14時45分頃に空を眺めると、東方向の空も青空が感じられるようになっています。雲がなく上天気です。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴に恵まれた一日となりました。=== 2023.4.14 ===9時15分頃に南の空を撮りました。昨日に続き天気は良さそうな感じ。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空日中は晴れていましたが、天気予報では深夜から雨予報。予報通り雨になりました。=== 2023.4.15 === 10時頃に撮った南の空、雨です。南西方向の空 窓際から撮るだけに。 南の空南西方向の空 15時に再度外を眺めましたが、雨が降っています。 強くはないけれど雨の降る一日・・・・・。=== 2023.4.16 === 8時半頃に撮った南の空。雨が降れば、晴れが戻って来る。気分はやはり軽やかに。青空に白雲です。雲の姿が楽しめます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空青空が見えますが、稜線の上には黒ずんだ雲が居座っている感じです。前日からの残り雲でしょうか。 12時頃に東方向の空を眺めると、稜線上には、雲が層状に見えます。黒い雲は消え、一部に灰色の雲へと変化し、雰囲気は明るくなっています 一方、南の空には灰色雲が空を覆う形に変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 晴から曇りへと転換です。 16時20分頃に、南の空を見ると、灰色雲は消え去り、再び青空に白雲へと変化。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南東方向の空 東方向の空 雲の変化が楽しめる一日でした。時に追いつきましょう。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.05.03
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=== 2023.4.9 === 朝から快晴。14時45分頃に撮った南の空です。午前中は府議会議員選挙の投票や図書館に行くなどで記録写真を撮りませんでした。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方向も雲の姿はなし。 東方向の空17時前に撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 一日快晴! 良き日かな・・・です。=== 2023.4.10 === 南の空所用で出かける前、7時15分頃に撮りました。昨日に続き快晴。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつものように、少しもやっとした感じ・・・・。 帰宅後、13時過ぎに撮った東方向の空です。稜線上にぽっかりと白い雲。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空 18時頃に空を眺めると、雲がかなり見られました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上の雲は、夕陽を受けて少し色づいていました。さて、雲がたりに移ります。雲に関わる語彙の続きです。もう一冊手許で参照している『大辞林』(初版、三省堂)についても、『広辞苑』初版との語彙対比を試みました。『大辞林』は先般使った『日本語大辞典』よりも1年前、1988年11月に刊行されています。そのため、これら2冊は『広辞苑』初版との対比としては、ほぼ同じ期間の差があると言えます。このタイムラグが編纂の上で、時代の変化に合わせた語彙の選択の違いとして出ているかもしれません。前回と同様のパターンで対比してみました。[A.雲(くも)と読む語彙]A-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲、雲脚、雲井・雲居、雲井の桜、雲井の庭、雲井の峰、雲井龍雄、雲霞、雲形、 雲形定規、雲形肘木、雲霧、雲煙、雲路、雲障子、雲透、雲助、雲立涌、雲斗、 雲鳥、雲の梯、雲の上、雲の上人、雲の通路、雲の波、雲の波路、雲の林、雲の峰、 雲の余所、雲箔、雲肘木、雲額、雲間、雲水、雲行、雲腸、A-2:『大辞林』が採録した新たな語彙 雲居の桜、雲居隠れ、雲居路、雲居の空、雲居の余所、雲居隠る、雲隠れ、雲切草、 雲切仁左衛門、雲切れ、雲助唄、雲助根性、雲取山、雲の果たて、雲間褄黄蝶、A-3:『広辞苑』に載り、『大辞林』には含まれない語彙 雲合、雲居地、雲井調子、雲井如す、雲井の雁、雲井曲、雲井の余所、雲井弄斎、 雲隠る、雲入、雲隠、雲風、雲紙、雲切、雲霧五人男、雲介、雲簾、雲の脚、雲の主 雲の庵、雲の上臥、雲の裏、雲の帯、雲の返、雲の垣、雲の声、雲の梢、雲の経、 雲の旅、雲の便、雲の使、雲の扃(とざし)、雲の帳、雲の濡衣、雲の袴、雲の旗手、 雲の原、雲の舟、雲の籬、雲の黛、雲の迷、雲の湊、雲の都、雲の八重葺、雲の夢、 雲焼、雲夜、雲分眉、雲離、雲見草[B.雲(うん)と読む語彙]B-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲雨、雲影、雲翳、雲烟、雲霞、雲海、雲外、雲客、雲鶴、雲漢、雲気、雲脚、 雲脚台、雲級、雲鏡、雲形、雲霓、雲向、雲高、雲崗・雲岡、雲合霧集、雲谷等顔、 雲谷派、雲居寺、雲根、雲彩、雲散、雲散霧消、雲棧、雲山、雲州、雲集、雲照、 雲霄、雲上、雲上人、雲上明覧、雲壌、雲蒸竜変、雲水、雲仙、雲仙岳、雲仙躑躅、 雲孫、雲台、雲底、雲梯、雲泥、雲泥万里、雲伝神道、雲堂、雲屯、雲南、雲衲、 雲版、雲表、雲萍雑志、雲鬢、雲平、雲平細工、雲平糖、雲母、雲甍、雲夢沢、 雲門、雲紋竹、雲屋台、雲鑼、雲竜、雲竜水、雲量、雲林院、雲廊、B-2:『大辞林』が採録した新たな語彙 雲煙過眼、雲煙飛動、雲角、雲関、雲鬟、雲気文、雲錦模様、雲形定規、雲華焼 雲斎織、雲車、雲州算盤、雲集消息、雲心月性、雲仙天草国立公園、雲伯方言 雲豹、雲門宗、雲嶺、雲路B-3:『広辞苑』に載り、『大辞林』には含まれない語彙 雲烟過眼、雲烟飛動、雲烟縹緲、雲間、雲居、雲際、雲斎、雲散鳥没、雲脂、 雲蛇、、雲岫、雲生、雲消霧散、雲箋、雲仙国立公園、雲中、雲中白鶴、雲揚艦[C.語彙に「雲」を含む語彙]C-1:『広辞苑』と重なる語彙 天雲、天雲の、雨雲、暗雲、 絹雲母、金雲母、黒雲、行雲、行雲流水、香雲、耕雲、黄雲、五雲、五雲の車、 彩雲、紫雲、似雲、慈雲、秋雲、愁雲、春雲、祥雲、浄雲節、白雲、水雲、 瑞雲、青雲、青雲の志、青雲の士、青雲の交、星雲、星雲群、星雲説、星雲線、 星雲団、積雲、宋雲、層雲、叢雲、 大雲院、朶雲、棚雲、淡雲、断雲、東雲、凍雲、夏雲、 薄雲、白雲母、飛雲、飛雲閣、雲雀、雲雀山、浮雲、北条早雲、 八雲、八雲琴、八雲立つ、八雲の道、八雲御抄、 雷雲、乱雲、凌雲、凌雲閣、凌雲集、凌雲台、 鰯雲、入道雲、飛行機雲、綿雲、鱗雲、雪雲、夕雲、暮雲、鉄床雲、笠雲、風雲、 レンズ雲、波状雲、(最初の4語は前回、後の9語はこの両辞典対比で気づいて追加)C-2:『大辞林』が採録した新たな語彙 茜雲、疑雲、層雲峡、早雲寺、白雲岩、白雲石、白雲木、大雲寺、雲雀毛、雲雀笛、 雲雀骨、八雲さす、陵雲の志、茸雲、漏斗雲、頭巾雲、乳房雲、真珠雲、鯖雲、 羊雲、C-3:『広辞苑』に載り、『大辞林』には含まれない語彙 岩雲、絹雲母片岩、行雲体、湿雲、翠雲、赤雲、測雲器、微雲、碧雲、横雲、D.雲級としての名称 巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲手許にある大型の辞典間の対比はこれで終わります。各辞典はその後改版が重ねられていますが、私には未だこれらを使いこなせていません。やはり、まずハンディな手許にある小型の辞書を使い、その後で大型の辞書を引くことになります。インターネットの辞書類も併用できますので、現状はこれらで間に合っています。因みに、『広辞苑』は現在、第7版(2018年刊行)、『大辞林』は第4版(2019年刊行)、『日本語大辞典』は第2版(1995年刊行)になっています。それでは、この位にして、雲の変化に戻りましょう。=== 2023.4.11 === 9時20分頃に撮った南の空です。 この日も引き続き快晴で始まりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 東方向の空13時30分頃に撮りました。少し青空の雰囲気が出ている感じに・・・・。 南の空 かなり活発に雲が広がっていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 雲の形はあまりみかけない感じのものです。 16時30分頃に南の空を眺めると、再び青空が見えていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空には稜線上に雲が棚引き、その上空は青空が広がっています。しばらく快晴が続きましたが、天気予報は12日から崩れると報じていました。つづく補遺不気味だけど神秘的!珍しい雲18種類と基本の雲10種類を写真付きで紹介 :「かめらポケット」雲にはどんな種類がある?基本的な雲から珍しい雲まで紹介 :「FUJIFILM SQUERE」[写真付き]雲の種類10選 珍しい雲や特徴もご紹介 :「Mola」たった10種類だけの無限 雲の名前を覚えよう :「自然人.netコミュニティ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.29
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南門から入り、噴水のある広場側と平成知新館を撮った景色です。 明治古都館側に目を転じた景色 平成知新館への通路を歩むと、右側(西側)には噴水のある広場への階段があり、広場の先には、京都国立博物館の表門(西門)が遠くに見えます。 平成知新館の入口の少し手前から、南西方向よりに眺めた景色です。 平成知新館1階の南側通路のガラス壁面越しに南側を東から西へと眺めるとこんな風に庭が広がっています。 平成知新館を出ると、「親鸞-生涯と名宝」展の大型パネルの裏面は秋冬季の展覧会の案内が掲示されているのが目にとまります。 ツツジの開化を眺めつつ、噴水のある広場に向かいます。 噴水の向こう側(南西方向)にもツツジが咲いています。噴水の手前で東側に回り込みます。私が恒例にしている定点撮影です。 そう。ロダン作「考える人」のブロンズ像の撮影。 「考える人」像の側から東方向の眺め 明治古都館を背景にこれから一層咲き誇るツツジの垣根の景色です。 ツツジに囲まれた「考える人」は、何を思索しているのでしょう。 噴水のある広場の南辺を西方向に歩み、平成知新館南面の西側を眺めた景色 博物館の表門(西門)を内側から眺めた景色 表門側から眺めた明治古都館明治古都館、表門と七条通に面する塀。このレンガ造りの洋風建築物は、「宮廷建築家」と呼ばれた片山東熊(かたやまとうくま)により設計されました。片山東熊は宮内省内匠寮の技師だった人です。1897(明治30)年5月1日に「帝国京都博物館」として開館されています。噴水のある広場の南側には、西の庭があります。 噴水に近い広場の先、西の庭の北辺に置かれた石灯籠 石灯籠の向こう側(南側)にもツツジが咲き始めています。 西の庭の中央部あたりに置かれた石造不動明王立像と背後に咲くツツジ 庭の散策通路の反対側、北東方向には石造地蔵菩薩坐像が鎮座します。 紅白のツツジが咲き始めたところのようです。ゴールデン・ウィークあたりには満開でしょうね。 西の庭の中央の散策路を西側から歩んでくると、東側からこの散策路に入る側、つまり今回は庭からの出口付近に、この大きなブロンズの灯籠が置かれています。ここにもツツジが咲いています。 明治古都館の南側を巡り、久しぶりに東の庭への石段を上りました。 石人 石幡この東の庭には石造遺物を点在させる形で保存されています。 「李朝墳墓表飾石造遺物」という標題の案内板が北寄りに設置されています。(以前に説明内容のご紹介をしていますので詳細は省略します。石造遺物と花との景色をお楽しみください。)京博への寄贈品の保存です。 「李朝太祖健元陵 石造遺物配置図 -楊州郡九里面仁倉里(東九陵)-」が併載されています。 墳墓は階段状に築造されていることが断面図として明示されています。 石人(文官像) 石人(文官像) 石羊 石人(童子像)東の庭も、もう少しの時を経て満開となることでしょう。平日を選んで出かけました。海外からの来訪者も見かけ、それなりの鑑賞者数を各展示室で見かけました。しかし、庭で休憩したり散策している人はほんのわずかでした。静かな散策のひとときを楽しめました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料京都国立博物館 ホームページ 屋外展示 観照 京都国立博物館 -1 「親鸞 -生涯と名宝」展 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 京都国立博物館 -3 西の庭 野外展示細見探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)観照 諸物細見 -22 京都国立博物館 東の庭 李朝朝鮮時代の石造物 -1 石人いろいろ観照 諸物細見 -22 京都国立博物館 東の庭 李朝朝鮮時代の石造物 -2 様々な石造物
2023.04.24
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20日(金)、京都国立博物館で開催の親鸞生誕850年特別展「親鸞 -生涯と名宝」を鑑賞して来ました。冒頭の大型パネルは南門側、七条通の歩道沿いに掲示のものです。 入場券 入口を入ると、明治古都館を背景に、ツツジの花が目にとまります。 平成知新館への通路の両側に咲くツツジを眺めながら北に歩みます。 平成知新館手前の特別展の大型パネル 平成知新館に入館すると、突き当たりの壁面に、恒例の記念撮影用巨大パネルが設置してあります。特別展会場はまず3階まで上がります。その階の展示室を順次巡りながら階を降りて行くという鑑賞順路になります。 今なら各所で入手できるのがこの特別展のPRチラシ こちらは館内で入手した「京都国立博物館だより 2023年4・5・6月号」です。これらも参照資料にして、部分的に引用します。 こちらは特別展の鑑賞後に購入した図録です。今回の図録の表紙はごくシンプルな装幀。裏表紙はさらに単純化されています。特別展のタイトルに照応し「親鸞」に焦点を絞り込んだデザインという感じです。この表紙の親鸞像が拝見できたかというと残念ながらダメでした。 チラシの裏面からの引用右側の掛幅に描かれた親鸞像が上掲画像に使われています。「親鸞聖人像(安城御影副本)」(京都・西本願寺蔵)の御影です。会場で入手した「出品一覧・展示替予定表」で事後確認すると、特別展の始まった最初の3/25~4/2の期間に限定展示されたようです。御影もまた期間区分ごとに展示替えが行われています。特定の御影を拝見したいならば展示期間にご注意ください。左側は親鸞筆の六字名号です(西本願寺蔵)。こちらは5/2~5/14に展示が予定されています。つまり、私は両方拝見できずでした。1階の最後の展示室にが「第七章 親鸞の伝えるもの-名号-」です。ここが特別展の締め括りとなります。ここには御影と名号の2点だけが粛然と展示されています。展示室では「親鸞聖人影像(熊皮御影)」(奈良国立博物館蔵)を拝見しました。これは安城御影系統の親鸞像ですが、親鸞の坐す敷皮が熊の毛皮のように描かれているところからこの名が付けられたそうです。『存覚袖日記』に、親鸞の坐す敷皮は「狸皮」と存覚が記録していると言います。この熊皮御影もまた、展示期間は4/18~4/30の予定です。「名号本尊(黄地十字名号)」(三重・専修寺蔵)が向かって左側に掛けてありました。十字名号の下に蓮台を描き、天地に賛銘を附して本尊としたものです。親鸞が賛銘を記したものだそうです。今回の展示は次のセクション区分で構成されています。 第一章 親鸞を導くものー七人の高僧- 第二章 親鸞の生涯 第三章 親鸞と門弟 第四章 親鸞と聖徳太子 第五章 親鸞のことば 第六章 浄土真宗の名宝-障壁画・古筆- 第七章 親鸞の伝えるもの-名号- 鑑賞の印象も交えてセクション毎に以下ご紹介します。<第一章 親鸞を導くものー七人の高僧->展示室で最初に目にするのが「光明本尊」(福井・毫攝寺蔵)と快慶作「阿弥陀如来立像」(奈良・光林寺蔵)です。光明本尊には、名号を中心にインド・中国・日本の浄土教祖師がずらりと描き込まれています。(4/25からの後期に光明本尊は展示替えの予定)。阿弥陀如来立像は像高81.1cmの仏像で、「安阿弥様」第三期の特徴が見られるそうです。今回の特別展では彫刻像が数少なく、その中での1点になります。これは通期展示。 併せてこの「刺繍阿弥陀如来像」(福井・誠照寺蔵)を見ました。前期展示(~4/23)のみ。間近で眺めると細かな刺繍が見て取れます。祈りながら刺繍されたのでしょうね。第一章では親鸞を導いた七高僧に絡む経典ほかの文書と図が中心になっています。インド(龍樹・天親)、中国(曇鸞・道綽・善導)、日本(源信・源空)の七人の高僧に関わりがある展示品です。金戒光明寺蔵と西本願寺蔵の「浄土三部経」が通期展示され、親鸞筆の物が数多く展示さています。「観無量寿経註」(国宝、西本願寺蔵)と「観無量寿経疏(外題)」(三重・専修寺蔵)、「四十八願文断簡」3点(大阪・慈雲寺、愛知・立圓寺、石川・本誓寺)などが展示されていました。親鸞の真筆をまとめて見られる機会はまたとないことと思います。<第二章 親鸞の生涯>「親鸞聖人坐像」が展示されています。4/18から展示替えとなり、新潟・西照寺蔵の坐像を拝見しました。ここでは親鸞聖人の生涯における重要な場面を描いた作品が数多く展示されています。親鸞の曾孫・覚如が制作した絵巻物『親鸞伝絵』を源として、伝絵、絵伝が連綿として描かれてきた結果です。同じ場面を取り上げていても描き方が少しずつ違うところがあって、見比べると興味深い。絵巻物の形で描かれたものが伝絵、大きな掛幅の形で描かれたものが絵伝と称されているようです。 これはPRチラシの裏面に載る一場面です。通期展示の「善信聖人親鸞伝絵(高田本)」巻第一・巻第五(三重・専修寺蔵)のうち、巻第五の最後に描かれている場面です。序でに、上掲「京都博物館だより」の上部に描かれている絵についてです。 「本願寺聖人伝絵(康永本)」の一場面で、法然から『選択集』の御影の図面を許される場面の部分図(左半分)です。この伝絵は5/2~5/21の期間に展示予定ですので拝見していません。他の伝絵で同じ場面を描く絵を見ました。右側の「親鸞聖人坐像」(三重・専修寺)もまた、4/16までの展示でした。「日野氏系図」(三重・専修寺蔵)、「藤原有範像」(東本願寺蔵)、「慈鎮和尚像」(青蓮院蔵)、「法然上人絵伝」(三重・専修寺蔵)、「親鸞聖人影像(有髪御影)」(茨城・専照寺蔵)、「善鸞像」(福井・證誠寺)、「恵信尼像」(龍谷大学図書館蔵)、「覚信尼像」(新潟・福因寺蔵)なども展示されています。この特別展で親鸞の有髪姿を初めて見ました。専修寺第三世顕智が書写した親鸞の「善鸞義絶状」も展示されています(通期展示)。また、明恵筆「摧邪輪」(京都・仁和寺蔵)が見られるとは思いませんでした(~4/30)。<第三章 親鸞と門弟>ここから1階の展示室になります。普段なら大きな仏像が展示されている広い「彫刻」(1F-1)展示室に、「親鸞聖人坐像」(千葉・常敬寺蔵)を筆頭に、門弟の坐像が横一列に展示されています。 門弟の一人がこの「顕智坐像」(栃木・専修寺像)です。(上掲京都国立博物館だよりから)「性信坐像」(群馬・室福寺蔵)、「善然坐像」(三重・太子寺蔵)、「了海坐像」(東京・善福寺蔵)、「了源坐像」(京都・仏光寺、~4/30)、「慶円坐像」(愛知・本證寺蔵)。これらは一躯を除き、通期展示です。ずらりと坐像が並ぶと壮観です。他に、一流相承系図と門弟等交名が展示してあります。前期・後期の展示替えが予定されています。<第四章 親鸞と聖徳太子>親鸞の聖徳太子信仰について、その一端がうかがえる展示です。 (上掲、京都博物館だよりから引用)「聖徳太子立像(孝養像)」(茨城・善重寺蔵)が展示室を入ると目の前に展示されています(通期展示)。同じく「聖徳太子立像(南無仏太子)」(愛知・満性寺蔵)が展示されています。太子2歳の時の姿を表した像です。孝養像がもう1躯展示されていましたが、こちらは4/30まで。ここにも「光明本尊」(福島・光照寺蔵)の掛幅が展示されています。その図には「皇太子聖徳」の像が描かれています。特に関心を惹いた展示品が幾つかあります。親鸞筆「皇太子聖徳奉讃断簡(第二首)」(愛知・蓮開寺)「宗祖御筆蹟集(浄土和讃)」(京都・太谷大学図書館蔵):これは原本の上に薄い紙を重ね文字の形を忠実に敷き写ししたものだそうです。 上宮太子方便ニ 和国ノ有情ヲアワレミテ 如来ノ悲願弘ク宣せり 慶喜奉讃せしむへし (事後に図録で判読しました。)「上宮太子御記」(西本願寺蔵):親鸞が編纂したとされる聖徳太子の伝記です。<第五章 親鸞のことば>まさに親鸞筆の文書類(聖教)が展示室に凝集されています。 やはり展示のハイライトは、国宝指定の親鸞筆「教行信証(板東本)」(東本願寺蔵)を間近に拝見できることです。(通期、展示替えあり)併せて、真仏筆「教行信証(高田本)」、「教行信証(西本願寺本)」の実物も見られるのは、生誕850年という機会だからのことでしょう。主要な文書類の実物をこの一室で大凡拝見できる貴重な機会になります。国宝指定としては、親鸞筆「西方指南鈔」(三重・専修寺蔵)、親鸞・真仏筆「三帖和讃(国宝本)」(三重・専修寺蔵)が出展されています。(通期)煩雑さを避ける為、当日拝見した親鸞筆文書類の名称だけご紹介します。浄土三経往生文類(略本)、尊号真像銘文(広本)、見聞集、唯信鈔(西本願寺本)、唯信鈔文意、一念多念文意、烏龍山師幷屠児宝蔵伝、曇摩伽菩薩云々、須弥四城経云々、親鸞聖人消息です。他には、顕智筆「愚禿鈔 巻上」(三重・専修寺蔵)と「浄土文類聚鈔」(滋賀・光延寺)、真仏筆「如来二種廻向文」(三重・専修寺)、顕智筆「獲得名号自然法爾御書」(三重・専修寺蔵)です。文書類の展示を見て毎回痛感するのは読解力のなさ。掲示の説明を読み、読めそうな箇所をちょっと見て、雰囲気を感じる程度で次々と拝見して行くレベルにとどまります。大体、文書類の展示箇所は鑑賞者の流れも速いですね。序でに、残念ながら拝見できなかった「歎異抄」について付記しておきましょう。蓮如筆「歎異抄 巻上」は、展示替えにより5/2~5/21に展示予定になっています。「親鸞聖人消息」3点の展示が終わるのと併せての展示替えのようです。<第六章 浄土真宗の名宝-障壁画・古筆->展示点数は少ないのですが、お寺という建物の規模に相応した障壁画のためでしょうか、その大きさがいわば通常の展示品サイズを越えているものがあり圧巻です。それは、巨大な戸四面に描かれた、望月玉泉筆「安養六種図」(東本願寺蔵)です。『仏説阿弥陀経』において西方浄土に棲むとされる六種の鳥を描いたもの。遣戸一面の大きさが縦268cm×横184cmという巨大サイズ。陳列箇所内に斜めの状態で展示されています。 これは、1階の南面通路に設置された記念撮影用のセットです。この背景に使われているのは、この第六章で展示の大きな衝立の絵です。望月玉泉筆「桜花図」(東本願寺蔵)。衝立は縦191cm×横296cmという大きさ。この絵は上掲のPRチラシ、PRパネル、入場券に親鸞像の背景として使われています。 これは衝立の桜花図の裏面に描かれているそうです。PRチラシに載っていて、図録には参考図版として載せてあります。「松・藤花図」です。展示室では衝立の背面を見られませんでした。徳力善宗筆「桜牡丹図」(京都・本願寺西山別院蔵)という襖絵も展示されています。四面に描かれています。こちらは、縦213cm×横102cmの大きさで、通常の展示状態です。加えて、国宝指定の2点があります。「三十六人歌集」(西本願寺蔵)の中から「猿丸集・兼輔集・順集」の展示。後期に展示替えが予定されています。もう一つは「類聚古集」(京都・龍谷大学蔵)です。最後に、最初に触れた第七章の展示室へと向いました。これで特別展の印象を含めたまとめ、かつ私の覚書記録といたします。それでは、京都博物館の庭を少し歩きましょう。つづく補遺京都国立博物館 ホームページ史上最大の親鸞展 2023年春に京都で(記者発表会) YouTube教行信証 :「コトバンク」教行信証 :「WEB版 新纂 浄土宗大辞典」【特別講義〔第1回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『教行信証』とは YouTube【特別講義〔第2回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『坂東本・教行信証』について YouTube【特別講義〔第3回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『正信偈』に宗祖の聞思の姿を窺う(1) YouTube【特別講義〔第4回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/『正信偈』に宗祖の聞思の姿を窺う(2) YouTube【特別講義〔第5回〕】宗祖親鸞聖人と『坂東本 教行信証』/宗祖親鸞聖人のよびかけ YouTube親鸞聖人御消息 :「WikiArc:浄土真宗聖典」親鸞聖人御消息 現代語訳 :「山寺」(浄土真宗本願寺派 長久寺)歎異抄 :「WEB版 新纂 浄土宗大辞典」歎異抄 :「WikiArc:浄土真宗聖典」念仏に生きた苦悩の僧 親鸞 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.04.23
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=== 2023.4.4 === 9時半過ぎに撮った南の空です。快晴でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はいつもより明るい感じでした。 14時45分頃に眺めると、東方向の空は晴れ上がり白雲が漂っています。 南の空 南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけては午後も変わらず雲はなし。=== 2023.4.5 === 南の空朝から曇っていました。16時過ぎに記録として撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空昼間はくもりでしたが、夜に小雨が降りました。=== 2023.4.6 === 9時過ぎに撮った南の空です。この日もくもりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 東方向の空13時45分過ぎにも撮ってみました。くもり空が続きます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 終日、くもりでした。さて、雲がたりとして、辞典の語彙についてのつづきです。1989年11月に、講談社が創業80周年記念としてカラー版の『日本語大辞典』を刊行しました。当初、特別定価として少し割り引き価格で売り出しました。そのときに購入した第一刷があります。『広辞苑』初版第一刷が1955年5月ですので、大型の国語辞典として、34年の歳月の隔たりがあります。そこで、この二種の辞典の語彙採録の対比をしてみました。辞典編纂にはそれぞれの編纂方針があるでしょうから、あくまで対比だけです。[A.雲(くも)と読む語彙]A-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲、雲合、雲脚、雲井・雲居、雲井調子、雲井の桜、雲井龍雄、雲隠、雲隠る、 雲霞、雲形、雲形定規、雲霧、雲煙、雲路、雲助・雲介、雲斗、雲の脚、雲の上、 雲の梯、雲の峰、雲肘木、雲額、雲間、雲見草、A-2:『日本語大辞典』が採録した新たな語彙 雲足、雲切草、雲助根性、雲鳥の、雲取模様、雲放電、雲間草、雲間褄黄蝶、 雲間紅日陰蝶、雲行き、A-3:『広辞苑』に載り、『日本語大辞典』には含まれない語彙 雲居地、雲井如す、雲井の雁、雲井曲、雲井の庭、雲井の峰、雲井の余所、雲井弄斎、 雲入、雲風、雲形肘木、雲紙、雲霧五人男、雲切、雲障子、雲透、雲簾、雲立涌、 雲鳥、雲の主、雲の庵、雲の上人、雲の上臥、雲の裏、雲の帯、雲の返、雲の垣、 雲の通路、雲の声、雲の梢、雲の経、雲の旅、雲の便、雲の使、雲の扃(とざし)、雲の帳、 雲の波、雲の波路、雲の濡衣、雲の袴、雲の旗手、雲の林、雲の原、雲の舟、雲の籬、 雲の黛、雲の迷、雲の湊、雲の都、雲の八重葺、雲の夢、雲の余所、雲箔、雲離、 雲夜、雲分眉、雲腸、雲水、雲焼、雲行[B.雲(うん)と読む語彙]B-1:『広辞苑』と重なる語彙 雲烟、雲霞、雲海、雲客、雲気、雲級、雲鏡、雲形、雲向、雲高、雲谷等顔、 雲谷派、雲際、雲斎、雲散、雲散霧消、雲州、雲上、雲上人、雲消霧散、雲水、雲仙 雲仙躑躅、雲台、雲底、雲泥、雲南、雲版、雲表、雲母、雲門、雲量、B-2:『日本語大辞典』が採録した新たな語彙 雲、雲煙、雲煙過眼、雲煙飛動、雲煙縹緲、雲貴高原、雲笈七籖、雲崗石窟、 雲斎織(り)、雲集、雲壌、雲仙天草公園、雲仙温泉、雲仙岳、 雲速、雲頂、雲霧、雲霧林、雲母片岩、雲紋雀蛾、雲粒、雲竜型、B-3:『広辞苑』に載り、『日本語大辞典』には含まれない語彙 雲雨、雲影、雲翳、雲烟過眼、雲烟飛動、雲烟縹緲、雲外、雲鶴、雲間、雲漢、 雲脚、雲脚台、雲霓、雲居、雲崗・雲岡、雲合霧集、雲居寺、雲根、雲彩、 雲散鳥没、雲棧、雲山、雲脂、雲蛇、雲岫、雲集、雲生、雲照、雲霄、雲上明覧、雲壌、 雲蒸竜変、雲心月性、雲箋、雲孫、雲中、雲中白鶴、雲梯、雲伝神道、雲泥万里、 雲堂、雲屯、雲衲、雲萍雑志、雲鬢、雲平、雲平細工、雲平糖、雲甍、雲夢沢、 雲紋竹、雲屋台、雲揚艦、雲鑼、雲竜、雲竜水、雲林院、雲廊、[C.語彙に「雲」を含む語彙]C-1:『広辞苑』と重なる語彙 天雲の、雨雲、暗雲、岩雲、浮雲、絹雲母、行雲流水、彩雲、紫雲、慈雲、祥雲、 白雲、水雲、翠雲、瑞雲、青雲、星雲、星雲群、星雲説、星雲線、星雲団、積雲、 宋雲、層雲、棚雲、断雲、東雲、薄雲、微雲、飛雲閣、雲雀、碧雲、北条早雲、 八雲、八雲琴、八雲立つ、八雲御抄、横雲、雷雲、乱雲、凌雲、凌雲集 鰯雲、入道雲、飛行機雲、綿雲 (この4語は両辞典対比で気づいて追加)C-2:『日本語大辞典』が採録した新たな語彙 黒雲母、紫雲寺、白雲の、層雲峽、早雲寺殿二十一箇条、大雲寺、白雲石、白雲木、 雲雀東風、八雲さす、陵雲、筋雲、斑雲、C-3:『広辞苑』に載り、『日本語大辞典』には含まれない語彙 天雲、絹雲母片岩、金雲母、黒雲、行雲、行雲体、黄雲、香雲、耕雲、大雲院、 五雲、五雲の車、似雲、秋雲、愁雲、湿雲、春雲、浄雲節、青雲の志、青雲の士、 青雲の交、赤雲、叢雲、測雲器、朶雲、淡雲、凍雲、夏雲、白雲母、飛雲、雲雀山、 八雲の道、凌雲閣、凌雲台、[D.『広辞苑』雲級で言及の名称、『日本語大辞典』雲形で言及の名称] 巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲、 やはり、編纂方針と時の隔たりが反映している感じですね。私の手許ではできませんが、『広辞苑』の初版と後続の版を対比してみるのもおもしろいかも・・・そんな気がします。さて、雲の変化に戻ります。=== 2023.4.7 === 南の空朝から雨でした。9時半頃に、記録として撮りました。窓際から。南西方向の空 終日、雨。=== 2023.4.8 === 10時頃に撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空空は全面的にちょっとダイナミックな灰色雲が浮かんでいます。 東方向の空15時20分頃に眺めた空は、大きく変化。午後から晴れてきたのです。 南東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 18時過ぎに撮った南の空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空午後の天気は上々。朝の雲の姿からは午後の変化を予想できませんでした。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.18
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=== 2023.4.1 === 南の空9時40分過ぎに撮りました。本日快晴なり、でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空南から西方向にかけては快晴でも、午前中の稜線上の空はこんな感じが日常です。 16時過ぎに撮った東方向の空。快晴の午後は稜線上空に青空が見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 雲の姿はあまり見られませんでしたが、快晴はやはり好い。=== 2023.4.2 === 9時30頃に撮った南の空です。晴れた空に雲が広がっています。南西方向の空 西方向の空 淡々とした雲が一面に広がっている感じです。 東方向の空は見慣れた空模様。 東方向の空13時半頃に撮りました。青空を見せながら、雲の姿が大きく変化しています。雲!って感じ。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空東の空とは、雲の姿がかなり違います。おもしろい。 17時半過ぎに眺めた南の空です。雲の動きがかなり変化。南西方向の空 西方向の空 東方向の空の雲は逆に穏やかな雲に変化していました。雲が出て来たとは言え、晴のちくもりとまでは言いたくない感じの一日でした。さて、なんとか暦の4月に追いつきました。禅語に現れる雲はまだまだありますが、気分転換に別の雲がたりを試みたいと思います。どこかのテレビ番組で、ある文字を含む熟語を上げるというクイズをよくやります。それを思い出しました。『広辞苑』(岩波書店)に「雲」を含む語彙として何が載っているか? どれくらい載っているか? 手許にあるのは、1966(昭和41)年3月の第1版第19刷の初版です。最新版とはかなり異なっているかもしれません。まあ、そんなことは気にせずに、抽出してみました。A.雲(くも)と読む語彙 雲、雲合、雲脚、雲井・雲居、雲居地、雲井調子、雲井如す、雲井の雁、雲井曲 雲井の桜、雲井の庭、雲井の峰、雲井の余所、雲井弄斎、雲井龍雄、雲入、雲隠 雲隠る、雲霞、雲風、雲形、雲形定規、雲形肘木、雲紙、雲霧、雲霧五人男、雲切 雲煙、雲路、雲障子、雲透、雲助・雲介、雲簾、雲立涌、雲斗、雲鳥、雲の脚 雲の主、雲の庵、雲の上、雲の上人、雲の上臥、雲の裏、雲の帯、雲の返、雲の垣 雲の梯、雲の通路、雲の声、雲の梢、雲の経、雲の旅、雲の便、雲の使、雲の扃 雲の帳、雲の波、雲の波路、雲の濡衣、雲の袴、雲の旗手、雲の林、雲の原、 雲の舟、雲の籬、雲の黛、雲の迷、雲の湊、雲の峰、雲の都、雲の八重葺、雲の夢 雲の余所、雲箔、雲離、雲肘木、雲額、雲間、雲見草、雲水、雲焼、雲行、雲夜 雲分眉、雲腸、B.雲(うん)と読む語彙 雲雨、雲影、雲翳、雲烟、雲烟過眼、雲烟飛動、雲烟縹緲、雲霞、雲海、雲外、 雲客、雲鶴、雲間、雲漢、雲気、雲脚、雲脚台、雲級、雲鏡、雲形、雲霓、雲居 雲崗・雲岡、雲向、雲高、雲合霧集、雲谷等顔、雲谷派、雲居寺、雲根、雲彩 雲際、雲斎、雲散、雲散鳥没、雲散霧消、雲棧、雲山、雲脂、雲蛇、雲州、雲岫 雲集、雲生、雲照、雲霄、雲上、雲上人、雲上明覧、雲壌、雲消霧散、雲蒸竜変、 雲心月性、雲水、雲箋、雲仙、雲仙躑躅、雲孫、雲台、雲中、雲中白鶴、雲底、 雲梯、雲泥、雲泥万里、雲伝神道、雲堂、雲屯、雲南、雲衲、雲版、雲表、雲萍雑志 雲鬢、雲平、雲平細工、雲平糖、雲母、雲甍、雲夢沢、雲門、雲紋竹、雲屋台、 雲揚艦、雲鑼、雲竜、雲竜水、雲量、雲林院、雲廊、 C.語彙に「雲」を含む語彙 天雲、天雲の、雨雲、暗雲、岩雲、 絹雲母、絹雲母片岩、金雲母、黒雲、行雲、行雲体、行雲流水、香雲、耕雲、 黄雲、五雲、五雲の車、 彩雲、紫雲、似雲、慈雲、秋雲、愁雲、湿雲、春雲、祥雲、浄雲節、白雲、水雲、 翠雲、瑞雲、青雲、青雲の志、青雲の士、青雲の交、星雲、星雲群、星雲説、 星雲線、星雲団、赤雲、積雲、宋雲、層雲、叢雲、測雲器、 大雲院、朶雲、棚雲、淡雲、断雲、東雲、凍雲、 夏雲 薄雲、白雲母、飛雲、微雲、飛雲閣、雲雀、雲雀山、浮雲、碧雲、北条早雲、 八雲、八雲琴、八雲立つ、八雲の道、八雲御抄、横雲、 雷雲、乱雲、凌雲、凌雲閣、凌雲集、凌雲台、D.雲級としての名称 巻雲、巻積雲、巻層雲、高積雲、高層雲、層積雲、層雲、乱層雲、積雲、積乱雲私的には驚きです。こんなにもあるなんて!だけど、これ完璧な抽出じゃありません。AとBは辞典のチェックは比較的簡単です。たぶんもれなく抽出したつもりです。Dは、「雲級」の説明の中に記載され、いくつかをサンプリングすると、一項目としても載っていて説明があります。問題はC。1頁ずつチェックするなんて、できません。『広辞苑』初版のデータベースがあるわけでもありませんので、自分の知る語彙あるいは想定でアタリをつけて辞典を引いてみた範囲で抽出したものです。「雲」一文字からの語彙の広がり。如何に普段使うボキャブラリーが貧弱なものかを痛感しました。嗚呼・・・・・。ここでは「雲となり雨となる」「雲に棹さす」「雲は竜に従い虎は風に従う」という類いの雲を含んだ成句は抽出の対象にはしていません。「雲」の項に、初版ではこれらを含め計10の成句が載っています。「冬空」は載っていますが「冬雲」「冬の雲」は載っていません。「西雲」「西の雲」も載っていません。おもしろい。さて、こんなところで、雲の変化に戻ります。=== 2023.4.3 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空9時過ぎに撮りました。南の空から西方向にかけて、また頭上への雲の連なり方がおもしろい感じ。 東方向の空 14時15分頃に眺めた東方向の空。稜線に少し白雲がかかる程度で晴れ上がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 晴れた一日はやはりいいですね。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.17
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我が家の玄関までの短いアプローチの傍に、ささやかな花壇と鉢植えが並んでいます。花を育てるのは家人の趣味。わたしは専ら愛でる/撮るだけ・・・・。時至ればツツジが咲き始めた・・・・季節は巡る、という思いから、今朝庭に咲く花々を撮ってみました。 家の前の道路に面して咲くツツジ 玄関までの中間に咲くツツジ ツツジの北側に立つ我が家の郵便ポストの傍に咲くツルニチニチソウの花 道路に面して、玄関への通路の左側に置いたプランターに咲くアジュガ アジュガの北隣りに、ブルーベリーの花 通路寄りに一鉢のミヤコワスレの花が咲き ハナアロエと記した札を立てた鉢に、小さな薄紫の花が咲いています。 その傍には鉢植えのポピーの花 よく見ると小さな庭の南西隅にも咲いていました。 南西隅の金木犀の木の傍に、ある銀行の支店で頂いて植えたというゼニの花も。 南東隅のもう一つの金木犀の傍には、月桂樹(ローリエ)の花 通路の右側の小さな花壇には、ボケの低木があり、ボケの花が咲いています。 通路の反対側には、鉢植えの不詳の小さな花・・・・。カタバミかも? 玄関の右脇に置かれた鉢には、シランの花 玄関の左脇に置かれた鉢には、ナルコユリの花 玄関前通路の左側には、ラベンダーの花 その近くに名前は不詳。野生のランの一種らしい花も。 リビングルームの外側に置かれたプランターにネギ坊主がでんと・・・・。今年は桜が早めに咲き、花の季節が巡ってきました。唐代の詩人、劉廷芝(651?~680?、別の名は劉希夷)は「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わりて)と題する七言古詩を詠じています。 洛陽城東桃李花 洛陽城東 桃李の花 飛来飛去落誰家 飛び来り飛び去って誰が家にか落つる 洛陽女児好顔色 洛陽の女児 顔色好し 行逢落花長歎息 行くゆく落花に逢うて長嘆息す 今年花落顔色改 今年花落ちて顔色改まり 明年花開復誰在 明年花開くも復(ま)た誰か在る 已見松柏摧爲薪 已に見る 松柏の摧(くだ)けて薪(たきぎ)と為るを 更聞桑田變成海 更に聞く 桑田の変じて海と成るを 古人無復洛城東 古人(こじん)復た洛城の東に無く 今人還對落花風 今人(きんじん)還(ま)た対す落花の風 年年歳歳花相似 年年歳歳花相(あい)似たり 歳歳年年人不同 歳歳年年人同じからず 寄言全盛好顔子 言を寄す全盛の紅顔の子 應憐半死白頭翁 応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁(はくとうおう) その第4節には、禅語にも通り入れられている有名な一節が含まれています。「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」です。花の季節が巡ってくると、この一節を思い出します。書架に眠っている『唐詩選(上)』(前野直彬注解、岩波文庫)を久々に取り出してみました。(p100-101) 花を撮るのも久しぶりです。 ご覧いただきありがとうございます。補遺アジュガ :「みんなの趣味の園芸」ミヤコワスレ :「みんなの趣味の園芸」シラン :「みんなの趣味の園芸」ツルニチニチソウ:「みんなの趣味の園芸」【月桂樹(ローリエ)の育て方】オリンピックとの関係や花言葉は?:「For your LIFE」ポピーってどんな花? :「GARDEN STORY」アマドコロ(ナルコユリ) :「花と緑の図鑑-Garden vision」ブルーベリー :「花と緑の図鑑-Garden vision」カタバミ :「植物ずかん」ネギ坊主 :ウィキペディア禅語 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(唐詩選) :「臨黄ネット」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.04.14
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=== 2023.3.29 === 9時20分頃に撮った南の空です。朝から快晴。雲はありません。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 いつものように東方向の空、稜線上は靄がかかったような感じです。 13時半頃に眺めた東方向の空には青さが現れています。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空17時40分過ぎに空を見上げると、雲が湧き起こっていました。南西方向の空 西方向の空 南から西方向にかけて、今まであまりみかけなかった雲の姿です。 東方向の空にも白雲が漂っています。=== 2023.3.30 === 9時15分すぎに撮った南の空です。昨日に続き、快晴です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空はほぼいつも通りの空模様です。 16時50分頃に撮った東方向の空です。 南の空南西方向の空 西方向の空 晴れのち曇りへと変化する一日でした。=== 2023.3.31 === 9時半過ぎに撮った南の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空午前中前半はこのような曇り空で、雲に覆われていました。しかし、時間の経過とともに、空は晴れ上がっていきます。 15時15分過ぎに撮った東方向の空。空は快晴状態に変化。稜線の上に白雲が少し漂う程度です。 南の空南西方向の空 西方向の空 3月の最終日は晴れた空を眺める一日で終わりました。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.04.13
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=== 2023.3.23 === 9時過ぎに撮った南の空です。朝から曇り空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空いずれの方角もグレーの雲に覆われています。 南の空南西方向の空 14時20分頃には既に雨が降っていました。午後から雨に変わりました。雲の色はグレーの色が薄らぎ、のっぺりとして布に覆われている感じに変化。窓際から二方向だけ撮りました。=== 2023.3.24 === 南の空この日も朝から曇り空。7時50分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空東方向がグレーの雲がやや厚そうに見えます。 16時45分頃に撮った東方向の空。少し青空が垣間見える箇所もあります。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇り空の一日でした。=== 2023.3.25 ===この日は、早朝からウォーキング同好会の例会に参加するために出かけていました。「歩く 滋賀県草津市 JR南草津駅~ロクハ公園」の記事としてまとめてご紹介しています。当日の現地は曇りでした。宇治の方も、出かけた時、並びに帰宅後も空は曇り空でした。=== 2023.3.26 === 南の空南西方向の空 朝から雨。記録として、13時25分に窓際から撮った空模様です。 空だけ眺めれば曇り空にしか見えませんが・・・。=== 2023.3.27 === 南の空午前中は曇っていましたが、13時頃にはこんな空模様に変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上には、白雲が厚い層を成して漂っています。その上空には青空が見えます。 18時過ぎに東方向の空を眺めると、グレーの1枚のシーツのような雲の姿に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 曇りのち晴といった一日でした。=== 2023.3.28 === 南の空9時半頃に撮りました。朝から快晴!! 雲の姿なし。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空やはり稜線の上空だけは薄雲が浮かんでいました。 14時20分過ぎに、東方向の空を眺めた時には、このような雲無き青空に様変わりです。 南東方向の空に、小ぶりな白雲がポカリと浮かんでいます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空18時20分頃にも空模様を撮ってみました。日が長くなってきたことを感じます。南西方向の空 西方向の空 東方向の空晴れ渡った空を見上げると、やはり気分が良いですね。つづくこちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表歩く 滋賀県草津市 JR南草津駅~ロクハ公園
2023.04.12
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萬福寺総門この西面する総門前の道路を挟んで反対側には樹木の繁る広場空間があります。ここについて改めてご紹介します。4月9日に、萬福寺の三門と放生池の辺りを訪れた目的の一つは、桜の様子を4月1日の時と比較してみたかったことでした。この目的から言えば、総門前の緑の空間の南側での桜のコントラストもわかりやすい対比になります。 4月1日時点の白雲庵前の桜の花の満開状態は、 花がかなり散り、葉桜になっていました。 4/1に撮影もう一つの目的は、桜の枝の背後に建立されている石碑を再見してみたくなったからです。 4/1に撮影 この石碑です。なぜか。ごく最近、梓澤要著『あかあかや明恵』(新潮社、2023年1月刊)という伝記風小説を読みました。その中に、明恵が栄西禅師に会った時に茶の種を贈られます。その種を明恵の従者が栂尾で播き、茶を栽培する苦労話がエピソードとして描かれています。それを読んでいたときにこの石碑のことを思い出しました。 石碑の左斜め前に、「駒蹄影園趾」と刻された石標が建てられています。右側前方には、史跡観光の一環として案内板が設置されています。「駒蹄影園碑」と題して、「Koma-no-ashikage-en Monument」と併記されていて、「こまのあしかげえん」と称しています。「鎌倉時代の初めごろ、宇治の里人たちが茶の種の蒔き方がわからず困っているとことへ、通りかかった栂尾高山寺の明恵上人が馬を畑に乗り入れ、その蹄(ひづめ)の跡に種を蒔くように教えたと伝えられています」(説明転記)栄西禅師から茶の種を得た明恵上人は栂尾で茶を栽培させます。その栂尾は、鎌倉・室町時代を通じて茶山と称されていたそうで、宇治茶発祥の地とされています。(資料1,2)かつてはこの五ヶ庄あたりには茶園が広がっていたことでしょう。 こんな絵図が案内板の側面に取り付けてあります。 石碑には、現代文として記すと、 栂山(とがやま)の尾上(おのえ)の茶の木分け植えて 迹(あと)ぞ生(お)ふべし駒の足影 明恵と明恵上人の歌が刻されています。例えば石碑には「栂山の尾上」は「都賀山乃尾上」、「足影」は「蹄影」と表記されています。「この碑は、明恵上人への感謝とその功績を顕彰するため、大正15年(1926)に宇治郡茶業組合により建立されたものです」(説明転記)もう一つ、この広場空間に存在し、萬福寺と直接関係する史跡があります。 上掲の白雲庵の築地塀近く、つまり広場空間の南辺に井戸があります。 こちらの井戸は広場空間の北辺にあります。 北辺にこの「龍目井」の案内板が設置してあります。黄檗山萬福寺を訪れる観光客でこの龍目井を見落とされる人がいるのではないでしょうか。二つの井戸はかなり離れた距離にさりげなく存在するだけ。立札があるものの人目につきにくい寂びたものになっています。案内板自体も目立たない位置にあるように思いますので・・・・。これで萬福寺とその周辺での観桜ご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 宇治茶の歴史 :「宇治市」2) 宇治茶の歴史と文化 :「京都府茶業会議所」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗普茶 白雲庵 ホームページ宇治茶の定義 :「京都府茶業会議所」栂尾山高山寺 ホームページ 日本最古の茶園お茶の伝来と拡がり :「綾鷹」宇治茶摘図 :「立命館大学」国貞二代「東海道名所之内 (御上洛東海道) 宇治」 :「原書房」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -1 墓地と駐車場の桜 へ観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -2 黄檗公園と萬福寺の桜 へ
2023.04.11
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