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総門を入ると、右側に「放生池」があります。参道を進み、右折すると「三門」前に至ります。その三門の前に放生池があります。総門を入り、すぐ右に進めば、放生池の西辺です。池をはさみ、東に三門が見えます。北西隅に見えるのが、下段の石碑です。「水廊 山□放光」(第2字私には判読できません) 日曜日(4/14)に東宇治図書館に行った続きに、萬福寺の放生池に立ち寄りました。池の西辺、築地塀沿いに咲く桜は既に葉桜になりつつあります。なごりの桜をしばし眺めてきました。来訪者はちらほらで、静かでした。 池の西辺から三門を眺めても、桜の木々が少しなごりを留めるくらいです。 池の西辺と築地塀との間に設けられた小川の流れ 池の南辺に回り込み、北を眺めた景色。左端に総門が見えます。白壁の建物は「看門寮」という木札が掛けられた建物です。その名称から想像すると、門衛所という意味合いでしょうか。この建物の背後の左端手前に見えるのが、上掲の石碑です。咲く桜はわずかに・・・。黄檗霊園のある丘陵地が背景となっています。ツツジの咲く時期が良い所です。 池の東辺から西方向の眺め 池の東辺を南側から眺めて。桜、さくら、なごり惜し。 三門は三間三戸、重層の楼門造りです(重文)。 大棟の中央に火焔付宝珠 降棟の鬼瓦 稚児棟の鬼瓦 二層目の正面に隠元禅師の書による「黄檗山」の扁額が掲げられ、一層目の中央の扉の上部に隠元書「萬福寺」の扁額が掲げてあります。 三門前から総門へ戻る参道の曲がり角あたり。こちらが本来の参道です。ご注目いただきたいのは、平石を敷き詰めた参道ではありません。正方形の平石が菱形に敷かれてていて、両側を角柱状の石が一列に敷き詰められています。「石條」(せきじょう)と称するそうです。この形式は、龍の背の鱗をモチーフにしたデザイン。萬福寺の伽藍全体が龍をモチーフにした形でもあるそうです。石條(参道)は龍の体の一部。総門の外側、道路を挟んだ西側には、「龍目井」が二つあります。龍の左右の目に喩えられた井戸です。 総門を入った後の参道に戻って目に止まったのが、この「石條」の左(北)側に咲き誇る1本の木です。 八重桜が満開に近く、咲き誇っていました。この放生池の周辺では紅一点という感じになりつつあるところです。時をずらして花開くのはいいですね。華やかさがよみがえります。 なごりの桜から満開の頃を想像するだけで終わらずに、咲き誇る八重桜を楽しめたのがラッキーでした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*境内散策 :「萬福寺」補遺黄檗宗大本山萬福寺 ホームページヤエザクラ :ウィキペディア八重桜の種類図鑑 :「Green Snap STORE」 牡丹桜との違いや品種ごとの違いや香り、開花時期は?(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -1 墓地と駐車場の桜 3回のシリーズでご紹介 2023年4月スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介 2022年1月探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 7回のシリーズでご紹介 2022年4月探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -1 霊園のツツジ、北向地蔵尊、宝蔵国師開山塔と諸石塔 2回のシリーズでご紹介 2021年5月
2024.04.17
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昨年初めて大阪中之島美術館を訪れた時は、京阪電車中之島線の「渡辺橋」駅で下車して美術館に向かう際、この位置と視点から美術館の建物を眺めるということがありませんでした。 建物の手前まで真っ直ぐに行き、この階段傍の美術館名表示を見て、階段を上がって建物の広場の傍に置かれた ヤノベケンジ作「シップス・キャット(ミューズ)を眺め、芝生の広場の野外展示を眺めて、美術館の入口に向かいました。そのため、この広場に続く館内のフロアーを1階と錯覚してしまったのです。実は2階です。今回は広場に野外展示はなく、芝生が広がるだけでした。 展覧会場へはエスカレーターで一気にあがります。ただし、2階から4階へはこの真っ直ぐなエレベーターで4階まで吹抜の空間を上昇します。4階で5階へのエレベータに乗り換えです。この吹抜空間がビルとしては実に開放感があって良い。ゆったりと、ゆとりの空間という感じです。 5階の展示室を巡って、出口から出ますと、4階への緩やかな階段があります。この階段から見えるのがこれです。 4階と5階の一部が吹抜の空間になっていて、この巨大な像が4階のフロアーに置かれています。ヤノベケンジ作「ジャイアント・トらやん」全長約7mあるそうです。北加賀屋にあるMASKから2022年冬、開館前にこちらに引っ越した作品です。(資料1)4階から2階へは降りのエスカレータで一気に下へ。 2階の一隅に、モネ展の大きな案内パネルが設置されていました。 2023.11.24エスカレータの設置された吹抜の空間は、1階への幅の広い階段が設置されたエリアに連なり、そこはさらに1階までの吹抜の空間になっています。 2階の東側の通路を南に進みます。建物の南東角、ガラス壁面越しに眺めた景色。ここ、かなり広いスペースになっています。「多目的スペース」として位置づけられています。 振り返ってみた2階フロアーの景色。正面に見える立方体の反対側(北面)にエレベーターが設置されています。 南側のガラスウォールに近づいて、国立国際美術館と大阪市立科学館を眺めた景色余談ですが、2023年11月に初めて訪れた時には、 仮設の個展ギャラリーとして利用されていました。 2023.11.24吹抜空間に戻り、1階への階段を下ります。 1階の中央部の西側に「ホール」が設けてあります。壁面にHALLの表示。まずは南に進みましょう。 バリー・フラナガン作「ボウラー」(1990年)というブロンズ像が置かれています。 通路の先は、1階の南の出入口です。左(東)側は、ショップエリアです。後でご紹介。 それでは、逆に北方向に進みましょう。 1階の北側の出入口 北の出入口から外に出ますと、すぐ右(東)側には、堂島川に架かる田簔橋に向かう道路への通路になっています。 左(西)側は駐車場です。この駐車場の上が、芝生の広場になっているのです。美術館の正面側からみれば、外観の一見は階段で丘に上がれば芝生の広場があるという景観に見えます。 建物の東側に出てみました。 美術館の東側の道路傍から眺めると建物の1階東面はこんな景色です。北と南のショップエリアの間に、東側の出入口があります。 南のショップエリアは、「HAY OSAKA」というデンマーク系インテリアプロダクトブランドのお店。 1階の東側、歩道に面して手前(北側)のショップエリアは、カフェレストラン「ミュゼカラト」があります。2階のエリアに連接する歩道橋からテラス席を撮ってみました。併せて、美術館の東側面の景観がおわかりいただけるでしょう。 歩道橋を渡辺橋駅の方向(東)に渡って、道路の東側から撮った景色 1本の桜の木が満開でした。「モネ -連作の情景」を鑑賞し美術館内を巡ってみた後、展覧会のハシゴをしました。国立国際美術館で開催の特別展「古代メキシコ」に立ち寄りました。次回はこちらをご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*施設案内 :「大阪中之島美術館」1. 【開館まで残り15日!】 :「大阪中之島美術館」補遺大阪中之島美術館 ホームページYANOBE KENJI ホームページMASK [MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA] ホームページ (おおさか創造千鳥財団)バリー・フラナガン :ウィキペディアThe Estate of BARRY FLANAGAN ホームページ(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪中之島美術館 -1 「モネ -連作の情景」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-1 外観と芝生広場 3回のシリーズでご紹介
2024.04.16
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先週の金曜日(4/12)に大阪中之島美術館に出かけてきました。「モネ -連作の情景」を鑑賞するために。 展覧会は5階の展示室。2階から一直線のエスカレーターで一気に上ります。 これはモネの展覧会のPRチラシ。2つ折のA4サイズ。掲載の絵を後で引用します。 前売り券を事前に購入していました。上掲チラシの表紙と同じ絵が使われています。この絵は、「3章 テーマへの集中」と題するセクションに展示されている「ラ・マンヌポルト(エトルタ)」(1883年、メトロポリタン美術館蔵)と題する絵です。チラシの絵は原画と比べると右側が少しカットされています。入場券ではさらに右側がカットされた絵になっています。波が激しく湧き立ち、トンネル状の岩に砕け散り、岩の内側に光が当たっている様子のポイントを感じるのに支障はありません。この絵では、岩の上部がカットされた構図です。一方、この絵の右隣りには、同じ場所がトンネル状の岩の上部を描きこみ、横方向を更にカットした縦長の構図で描かれた「エトルタのラ・マンヌポルト」(1886年、メトロポリタン美術館蔵)が展示されていました。一方、「ラ・マンヌポルト(エトルタ)」の左側には、「アヴァルの門」(1886年、島根県立美術館蔵)と題する同じエトルタの近くで描かれた絵が展示されています。これもひとつの連作なのかもしれません。展示は5章構成になっています。 一部の絵について撮影OKでした。 1章 印象派以前のモネ 2章 印象派の画家、モネ 3章 テーマへの集中 4章 連作の画家、モネ 5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭<1章 印象派以前のモネ>画塾で学んだモネは他の画家と同様に、サロン(官展)に入選して成功することを目標としていました。1865年に2点の海景画が入選しデビューを果たしたと言います。このセクションには、印象派としての絵を本格的に描き出す以前の初期作品が展示されています。 PRチラシから引用「昼食」(1868-69年、シュテーデル美術館蔵)と題するこの絵はサロンに落選した作品だそうです。伝統的な手法による絵だなと思います。1章に展示されている作品の中では一番サイズが大きい絵(231.5×151.5cm)です。展示されていた風景画には明るさを感じました。<2章 印象派の画家、モネ> 1870年代~80年代にモネはパリ北西のアルジャントゥイユで暮らしはじめ、セーヌ川流域を拠点に、各地を訪れて絵を描いたそうです。 PRチラシから引用この「モネのアトリエ舟」(1874年、クレラー=ミュラー美術館蔵)と、その隣りに「アトリエ舟」(1876年、ヌシャルテル美術歴史博物館蔵)が並べて展示されています。前者はアルジャントゥイユで描かれた作品です。このセクションでは、「ヴェトゥイユ」(1880年頃、グラスゴー・ライフ・ミュージアム蔵)、「ヴェトゥイユの春」(1880年、ボイマンス・ファン・ペーニンゲン美術館蔵)、「ヴェルノンの眺め」(1886年、クライスラー美術館蔵)が印象に残りました。<3章 テーマへの集中>最初にノルマンディー地方のエトルタで描いた作品に触れました。このセクションには、同じノルマンディー地方のブールヴィルで描いた作品が5点、その中にブールヴィルの断崖と海を描いた作品が4点展示されています。モネは「人影のない海岸など原初的な自然の風景を好んで描いた」(図録説明より)そうです。同じ風景の遠景あるいは近景を描き、太陽の光が生み出す断崖の変化、空の色や雲の変化、海の波の変化と印象をモネの目に映った情景として様々に描いています。中でも「プールヴィルの崖、朝」(1897年、福田美術館蔵)はまさに印象的風景という作品です。 PRチラシから引用これはイタリアのリゾート地、避寒地のボルディゲラで描かれた「ヴェンティミーリアの眺め」(1884年、グラスゴー・ライフ・ミュージアム蔵)です。この地で描かれた作品ではこの1点だけが展示されています。モネはパリとは違う地中海の明るい色彩や輝く太陽の光の違いなどを描くのに苦労したとか。モネはそのことをジヴェルニーで待つアリスに書き送っているそうです。(図録の解説より)<4章 連作の画家、モネ>1883年春、モネは42歳の時にセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住みます。そこはヴェトゥイユの下流に位置します。このジヴェルニーがモネの終の棲家となります。積みわらはジヴェルニーの秋の風物詩。この積みわらの景色がモネにとって体系的に「連作」の手法を実現する契機となったと言います。(図録の解説より) 「ジヴェルニーの積みわら」(1884年、ポーラ美術館蔵) 「積みわら、雪の効果」(1891年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵)この2点はチラシからの引用です。積みわらの作品は4点展示されています。1884年の作品が当初のもので。積みわらの光景をそのまま描いていますが、陽光を受けて変化する積みわらの光と影の描写が連作として変化していき、抽象化された積みわらに行き着きます。4点の展示ですが、作品の変貌が味わえます。 これは当日購入した図録の裏表紙です。「チャリング・クロス橋、テムズ川」(1903年、リヨン美術館蔵)の部分図が使われています。この隣には連作として「テムズ川のチャリング・クロス橋」(1903年、吉野石膏コレクション蔵)が展示されています。尚、図録の解説によれば、チャリング・クロス橋の連作は34点が知られているそうです。このセクションには、 撮影OKの箇所があります。ウォータールー橋を描いた連作の展示箇所です。 「ウォータールー橋、曇り」(1900年、ヒューレイン・ギャラリー蔵) 「ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ」(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー) 「ウォータールー橋、ロンドン、日没」(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)この連作も積みわらと同様に、ウォータールー橋の風景という要素はどんどん捨象されていき、日没の橋そのものの光と印象に絞りこまれていきます。<5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭> このセクションの最後の展示室は出口の手前で、多角形の広場風になっていて、特定の作品を除き撮影OKです。展示室両側を部分的に撮ってみました。 「芍薬」(1887年、ジュネーヴ美術歴史博物館蔵) 「睡蓮」(1897-98年頃、ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵) この作品の部分図が、購入した図録の表紙に使われています。CLAUDE MONETの文字が表紙に均等に配され、右下に展覧会のタイトルが小さな押さえとなっていますPRチラシの表紙の一面にもこの部分図が使われています。 「睡蓮」(1907年、石橋財団アーティゾン美術館蔵) 「睡蓮」(1914-17年、群馬県立近代美術館蔵) 「睡蓮、柳の反影」(1916-19年、北九州市立美術館蔵) 「睡蓮の池」(1918年頃、ハッソ・プラットナー・コレクション蔵) 「藤の習作」(1919-20年、ドゥルー美術歴史博物館蔵)モネは、ジヴェルニーの自宅敷地に、「花の庭」と「水の庭」を整備し、「水の庭」で睡蓮を栽培し、1890年代後半からは300点もの<睡蓮>に取り組んだそうです。「池には日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植えた」(図録の解説より)のです。上掲の作品はこの庭の草花の絵ですね。ジヴェルニーの庭、訪れてみたいなあ・・・・・・。1840年パリ生まれのクロード・モネは、1926年、ジヴェルニーで86歳の生涯を閉じました。「今日、モネは印象主義の創始者として、また抽象美術の祖としても国際的に功績が認められている」(図録の解説より)展覧会場を出た後、この美術館そのものに目を向けてみることに・・・・。初めてこの美術館を訪れた時に、錯覚していたことや見落としていたことがあったからです。展覧会の続きに、この美術館の再探訪をしてみました。つづく補遺クロード・モネ :ウィキペディアClaude Monet From Wikipedia, the free encyclopediaクロード・モネとは? :「This is Media」 代表作「睡蓮」などの有名絵画と生涯を分かりやすく解説!クロード・モネ :「美術手帖」Claude Monet (1840ー1926) :「THE MET」(The Metropolitan Museum of Art)印象・日の出 :ウィキペディアコレクション クロード・モネ :「ポーラ美術館」睡蓮 クロード・モネ :「国立西洋美術館」GIVERNY:ジヴェルニー、モネの庭園 :「O'bon Paris」ジヴェルニー :「BonNoyage.jp」ジヴェルニー :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪中之島美術館 -2 館内を巡る & 外観 へ
2024.04.15
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今朝、玄関へのアプローチの傍のプランターにポピーが咲いていることに気づきました。9282 この品種、ガーデニング用のシャーレーポピーだそうです。花言葉は「いたわり」「思いやり」「恋の予感」「陽気で優しい」などとか。(資料1) 2024.4.12アザレアは満開になりました。 道路側、南から今朝、小枝を3本切り取り、仏壇への供花にしました。咲き誇っていたアーマンディはもうほとんで枯れてしまいました。小さな庭にも、日々変化が生まれています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.ポピーってどんな花? 色・品種ごとに異なる花言葉や育て方をご紹介 :「GARDEN STORY」補遺ポピーの育て方 :「dinos」ポピーの仲間 :「JATAFF」(農林水産・食品産業技術振興協会)アザレア :「みんなの趣味の園芸」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.13
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伏見桃山陵の南の傾斜地に「乃木神社」があります。最寄りの駅は、JR奈良線「桃山」駅。近鉄京都線の「桃山御陵前」駅がJRの桃山駅から西方向500m位に位置します。一方、伏見桃山陵に一番近いのは京阪電車宇治線「桃山南口」駅だと思います。JR桃山駅からは東方向になります。 神社の門を入ると、参道の左側の桜が満開でした。最近になって、「桜狩」という言葉を知りました。紅葉狩という言葉は以前から知っていたのですが、桜は花見という言葉と直結していますので、それ以上に考えたことがなかったのです。辞書を引くと、「桜」の項に「桜狩」が併記され、「桜の花を観賞して山野を歩くこと」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明されています。伏見桃山陵はかつて豊臣秀吉が建てた伏見城のあった山の上にありますので、桜狩と言ってもおかしくはないでしょう。歳時記を調べてみますと、「花見」と同様に「桜狩」も季語として載っていました。 乃木神社は乃木希典を祀る神社。この胸像の台座正面には「学習院長時代の乃木将軍」と刻されています。「乃木希典大将夫妻を神として祀るということ」と題した案内板が門の近くに設置されていますので、正確にはご夫妻が祀られている神社です。1916(大正5)年9月の創建。伏見城(1595~1616)があった頃には、板倉周防守の屋敷跡だったところだそうです。(案内板より)今回は境内の桜を眺めることを主体にしてご紹介します。10日の午後に訪れたとき他の参拝者はなし。境内の静けさと桜を満喫できました。 参道を拝殿向かって歩むと、左側に「長府乃木邸」(旧邸)と傍の桜の木が見えます。室内にかつての様子を再現した家族の塑像が置かれていますが、塑像修復作業中の掲示が出ていました。 拝殿への途中の参道両側に巨大な石灯籠、拝殿手前に狛犬像が設置されています。 拝殿前左側に「乃木の名水 勝水」(御神水)が水を湛えています。龍頭の口が水を注いでいます。ここでも龍に出会いました。 境内の桜を眺めた後、伏見桃山陵に向かいます。神社前の道路を北方向に進めば、御陵内の脇道からメインの参道に入ることができます。 御陵の参道この参道の景色の少し手前、右側に、 駒札「伏見城に使用されていたと思われる石材 宮内庁」が設置され、石材が保存されています。 「明治天皇陵」の正面の景色 この陵内の右側に、1箇所だけ桜の木が見え、満開でした。 後は、御陵正面の少し急な石段参道の途中に桜の木をもう1箇所眺めることができました。 石段参道を下る途中で見上げた桜。乃木神社前の道から御陵内に入らずに、手前で交差する御陵の南側沿いの道路に右折して歩めば、この急な石段参道の入口に行くことができます。石段道を下り、この道路に出て、左折し道沿いに坂道を下ればJR奈良線が見えます。高架下を通り過ぎ、左折して線路沿いの道を進み、山科川に向かいます。 JR奈良線の軌道側壁のコンクリート壁面に、今では埋め込まれているかのように石灯籠が残されています。その傍に「伏見城御舟入址」と題した駒札が設置されています。伏見城を築く為に、宇治川を北に迂回させる大土木工事を行い、宇治川と山科川の合流点に御舟入(河港)が設けられました。この辺りが、その御舟入の北崖になるようです。(駒札より)近くに見える住所表示は伏見区桃山町新町です。この辺りから南に舟入があったのでしょう。今は南方向全域が住宅地になっています。 山科川(上流側)の景色 桜並木の背後は、小栗栖中学校と小栗栖市営住宅がある辺りだと思います。京阪電車とJR両線の「六地蔵」駅の北方向、山科川右岸(西側)沿いに「MOMOテラス」というショッピングセンターがあり、この傍から右岸堤防の上流方向に桜並木があります。そこから、上流側を眺めた景色です。 右岸の下流側の桜を眺めます。対岸に見えるのは「六地蔵総合病院」です。 ショッピングセンターを訪れる人々に慣れているのか、すぐ傍にいても鳩は飛び去ろうとはしません。 右岸の堤防道沿いに下流に向かえば、京阪電車宇治線の六地蔵駅が最寄駅になります。JR奈良線の六地蔵駅は、山科川の橋を渡った先になります。 堤防にはこの黄色い花が咲き始めました。ネットで画像検索してみますと、セイヨウカラシナのようです。(間違っているかもしれません・・・)これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。補遺伏見桃山 乃木神社 ホームページ明治天皇伏見桃山陵 :「宮内庁」伏見城 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」伏見桃山陵 :ウィキペディア伏見城 :ウィキペディア伏見桃山時代とは :「伏見観光協会」今はなき伏見城の跡を行く :「京都歴史ウォーク」(京都史跡ガイドボランティア協会)山科川 :「AGUA」セイヨウカラシナとは?特徴・見分け方や食用としての食べ方をご紹介! :「BOTANICA」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -2 桃山御陵(明治天皇陵・昭憲皇太后陵)
2024.04.13
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雨上がりの今朝(4/9)撮ったアザレアです。五分咲きを越えたくらいでしょうか。道路から玄関口へのアピローチの角、キンモクセイの木の根元。細長い小さな花壇の南端で、これまでボケの花が咲き誇っていた所です。まだ少し咲くボケの花の上を覆うようにして、アザレアの花が開いています。 集まって花開いている箇所 4/4には、蕾を付けたアザレアが目に止まるくらいの状態でした。 アザレアの下に、ボケが咲いています。 4/6には、花が開き始めました。 4/7に撮りました。 4/8に撮りました。 アザレアの花言葉は、いろいろと数多くあるようですね。(資料1)「あなたに愛されて幸せ」「青春の喜び」「恋の喜び」「満ち足りた心」「節度の愛」「節制」「充足」「禁酒」 2024.4.7玄関の傍の鉢植えにはレインリリーが咲いています。 2024.4.8 レインリリーの花言葉は、「汚れなき愛」「潔白な愛」「期待」だとか。(資料2) 2024.4.8ボケの花がちょっと隠れるように咲いています。健在です。 2024.4.8玄関脇の雨樋に巻きついて伸びているジャスミン。ここ数日で一気に蕾を一杯つけるようになってきました。花の季節が巡ってきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. アザレアの花言葉 名前の由来 :「花言葉 誕生花」2. レインリリー :「花を楽しむブログ」補遺アザレア :「みんなの趣味の園芸」アザレア :ウィキペディア夏に元気なレインリリーを次々咲かせたい :「みんなの趣味の園芸」ゼフィランサス・ハブランサス(レインリリー)の育て方・栽培方法 :「園芸通信」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.09
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仁王門通沿いの琵琶湖疏水の桜琵琶湖疏水の流れが東から来たり、北に向かって屈折する角から、東方向を撮った景色です。「杉浦能公演 春 百満」を京都観世会館で鑑賞するために、午後出かけてきました。会館に入る前のひととき、桜撮りをしました。琵琶湖疏水(以下、疏水)沿いに眺めた満開の桜をお楽しみください。 少し移動して鉄柵のすぐ傍から疏水を東方向に眺めて。正面に東山の山並みが見えます。朱色の橋は神宮道の「慶流橋」です。 仁王門通側に回り込み、北方向に流れる疏水を桜の花越しに眺めます。「二条橋」が見えています。 岡崎公園の南東角が対岸に。木々のむこうは「みやこめっせ」です。 仁王門通沿いの散策路から眺めた「みやこめっせ」の建物散策路を東に進みます。 「みやこめっせ」の東隣りは「京都国立近代美術館」です。 近代美術館の正面側近くの対岸から眺めた「平安神宮の大鳥居」大鳥居は神宮道にあります。 慶流橋の南詰から眺めた近代美術館傍の桜の並木。遊覧船が運航しています。 西から別の遊覧船がこちらに向かってきます。慶流橋の西側歩道からの眺め。 慶流橋の西側歩道から東側歩道へ横断します。疏水の北側には「京都市京セラ美術館」。疏水の東方向に見える橋は「広道橋」です。 疏水を遡上する遊覧船 大鳥居。14時14分に撮りました。この時点で青空、晴れ! 慶流橋を渡って、近代美術館側(神宮道の西側)に。今、京都国立近代美術館では、特別展「没後100年富岡鉄斎」が開催中です。慶流橋傍にこの案内板が出ています。 対岸の仁王門通の南側にある「有鄰館」が桜の木の向こうに見えます。有鄰館の東隣りが「京都観世会館」です。 仁王門通に戻り、京都観世会館に入る前に「白川」の桜を見にちょっと立ち寄りました。白川は京都市動物園の南で疏水に一旦合流した後、慶流橋の少し西で再び白川に戻ります。 仁王門通の近くの白川では、ここの桜が見事です。 ふと川に目を向けると、思わぬ光景が目に止まりました。 居心地が良さそうですね。さあ、そろそろ行かないと・・・。 白川の右岸(西側)から眺めた大鳥居と桜です。京都・岡崎からの花だよりです。ご覧いただきありがとうございます。補遺みやこめっせ ホームページ京都国立近代美術館 ホームページ藤井斉成会 有鄰館 :「京都ミュージアム探訪」京都観世会館 オフィシャルWebサイト白川(淀川水系) :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.07
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3/27に車折神社を探訪したときに境内のこの桜が満開でした。桜の木の傍に駒札が建てられていて、「渓仙桜」と記されています。献木された人(冨田渓仙・宮下武一郎・長岡喜十郎)の名前に由来する名称のようです。冨田渓仙は日本画家。富岡鉄斎の日本美術院の同人で、鉄斎に私淑したそうです。鉄斎については既に触れていますが、明治21~26年に車折神社の宮司を勤めています。近代日本画の巨匠の一人です。(資料1) この渓仙桜は、社務所の南、大鳥居の西の位置に咲き誇っていました。今も咲き続けているでしょうか・・・・。 渓仙桜の南側にこの建物があります。 建物の正面に行ってみて、何が展示されているかわかりました。左側に「三船祭」の案内説明が掲示されています。Ah!ソウカ・・・です。嵐山・大堰川での「三船祭」を若い頃に一度だけ見物したことがあります。フィルム・カメラで撮った頃だったのか、デジカメの記録写真ファイルには見つけることができませんでした。当時はこの三船祭をどこが主催しているのか全く意識していなかったことを再認識しました。「昭和御大典を記念して、昭和3年より始められた。 毎年5月第3日曜日に、嵐山の大堰川において、御座船・龍頭船・鷁首船が 平安時代の船遊びを再現する」(説明文転記)昭和御大典とは昭和天皇の即位の大礼のことです。この時の中心儀式である即位礼は昭和3年(1928)11月10日、京都御所で行われました。(資料2) 龍頭 龍頭船の船首に設置されます。 鷁首 鷁首船の船首に設置されます。余談です。 これは、2023.5.24に「風俗博物館」(京都市下京区)の企画展を鑑賞した時に、具現化されていた龍頭船・鷁首船を撮りました。これは船が舞台の形式になっています。 2023.7.17の祇園祭・前祭の山鉾巡行の時に撮った船鉾。鷁が船首を飾っています。三船祭は一に船遊祭とも称されます。宇多上皇が大堰川に舟を浮かべ、詩歌管弦の遊びをされたという故事に因んで創始されたとか。「当日は午後二時から、嵐山渡月橋上の大堰川に御座船以下約30隻が参列し、詩歌・管弦・舞楽の奉納と流扇の神事が約2時間にわたって行われる」(資料3)祭りです。渓仙桜から社務所前を通り過ぎ、境内北側の裏参道に沿った境内社を巡ります。 裏参道の右側に2つの境内社に分岐する参道があります。 「神明神社」参道に近くて側面が見えるのがこの神明神社。祭神は天照大御神。切妻造・平入りで、神明造の形式の小社です。参道の奥に正面が見える境内社は、 「天満天神社(ソラミツアマツカミノヤシロ)」祭神は天満大神。雷除け、農業、園芸の守護神だそうです。 拝所 少し先、参道右側の拝所の傍に「滄海(ソウカイ)神社(弁天神社)」の駒札が立っています。 拝所から先に参道が延び、築地塀で仕切られた先に朱塗りの鳥居と小社が見えます。本殿は春日造の形式です。祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。文明5年(473)、室町時代の創祠だそうです。「車折神社近隣の寺院(天龍寺の末寺で、室町時代創建)の鎮守神が、廃寺の際、当社に移管された神社である。本来の祭神である、弁才天はインド神話の神で、仏教に取り入れられ『諸天』の一神とされ、智恵・長寿・財宝の神として信仰された。 日本に伝わると七福神の一神とされ、専ら福徳財宝の神として信仰されてきた。 明治時代の宗教政策に副い、日本神話の一神、市杵島姫が祭神とされ、今日に至っている。 因みに、『滄海』とは大海原の意で、渡来した『水の女神・弁才天』を象徴したものである」(案内文転記)駒札によると、社殿は改築され平成19年(2007)12月24日に竣工。大阪市の青井勇氏寄進と記されています。おもしろいのは、右となりに大きな案内板があり、そこには「弁天神社(滄海神社)」と題し、「弁天様(市杵島姫命)を祀る神社。・・・・・」と説明されていることです。弁才天(弁財天)の方が一般的によく知られているからでしょうか。 北門に一番近い所に「地主(ジヌシ)神社」があります。祭神は第52代嵯峨天皇。かつてこの付近に柳鶯寺があり、嵯峨天皇は行幸の折にこの寺で休まれたとか。その縁でこの寺に天皇が祀られたのですが、寺が廃寺となったときに車折神社境内に移されて、地主神社として祀られたと言います。なお、現在の神社は1961年に復興されたとか。(資料4,5)ここの石鳥居は明神鳥居の形式です。拝殿・本殿を拝見し、境内の境内社を一巡しつつ、案内の説明文を読み歩いて、「祈願」のテーマパークという印象を抱きました。「学業成就・試験合格」「約束を違えないこと」「人脈拡大」「金運・財運」「金脈拡大」「芸能・芸術の才」「昇運、運気」「良縁」「才色兼備」「金満美麗」等と、人々が祈願したいテーマに応じてくださる神々が、この神社に一堂に会されている。そんな雰囲気・・・・・です。 北門になる石鳥居から出て、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ここに立つ社号標の文字は富岡鉄斎の筆によるものと言います。(資料1)これで車折神社のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 境内案内 :「車折神社」2. 昭和天皇の即位御大典 :「名古屋市博物館」3.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂4. 車折神社(京都市右京区) :「京都風光」5. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」補遺車折神社 ホームページ昭和3(1928)年の御大典の際、京都観光が流行ったと思われるが、その頃の状況や、観光ガイドを見たい。 :「レファレンス協同データベース」冨田溪仙 :ウィキペディア三船祭 船頭だより :「京都・亀岡 保津川下り」[三船祭]水上雅楽に胡蝶の舞、平安貴族の優雅な御船遊び :「まいまい京都」5月の嵯峨嵐山の風物詩~嵯峨祭・三船祭~ :「HOTEL BINARIO」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へ
2024.04.06
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前回ご紹介したこの石鳥居、大鳥居と称するそうです。ここを起点にして、まずはこの大鳥居より南側の境内地を巡ってみます。 大鳥居の南東方向にある「芸能神社」という社号標がまず目を引きます。こんな神社名は初めてです。 石鳥居の南側に駒札が立っています。 この芸能神社は「天宇受売命(アメノウズメノミコト)を芸能・芸術の祖神として祀る」つまり、祭神はアメノウズメです。アメノウズメは『古事記』神代篇基の二に出て来ます。アマテラスがスサノヲの行為に怒って、天の岩屋の戸を開き中に入るとしっかり戸を閉ざして籠もってしまいます。途端に外は闇の世界に!神々は困惑し、相談します。オモヒカネという賢い神がある策略を立てました。「常世の長鳴き鳥を集めて鳴かせたのじゃ。夜は明けたというわけじゃのう」その上で、諸準備をし、装身具と衣装をまとったアメノウズメに神懸かりを演じさせるのです。「天の岩屋の戸の前に桶を伏せて置いての、その上に立っての、足踏みして音を響かせながら神懸かりしての、二つの乳房を掻き出しての、解いた裳の緒を、秀処(ホト)のあたりまで押し垂らしたのじゃ」「すると、ほのかな庭火に浮かぶウズメの踊りを見ておった八百万の神がみは喜んでの、闇におおわれた高天の原もどよめくばかりの大声に包まれて、神がみは皆、ウズメの踊りに酔いしれてしもうたのじゃった」外のさわぎを聞きつけたアマテラスはあやしいことじゃと思い。戸を細めに開けて、内から声をかけ、少し戸のうちから歩み出てしまいます。「戸のわきに隠れておったアメノタヂカラヲが、そのアマテラスの御手をさっと握って外に引き出したかと思う間もなく、フトダマが、アマテラスの後ろに尻くめ縄(注:しめ縄のこと)を張り渡しての、『ここから内にはお帰りになれませんぞ』と申し上げたのじゃった」 (資料1)ということで、外界には再び明るい光が戻ってくるということになったとか。ここから、アメノウズメが芸能・芸術の祖神になるということでしょう。 朱の玉垣には、様々な名前が記されています、玉垣はプロフェッショナル・アマチュアを問わず、芸能・芸術・技芸の全ジャンルにわたる人々が奉納可能だそうです。 南隣りの石鳥居をくぐると、芸能神社の周囲を巡る玉垣とその続きが見えます。興味のある方は、様々な芸能人、芸術家、家元などの名前を見つけることができることでしょう。ドンドン増えたら・・・・掲載期間は申し込みより2年間と決めてあるとか。ナルホド!(資料2) 拝所からの眺め 拝殿の奥に本殿が見えます。 拝殿の正面には、おもしろい表情の面が奉納されています。この境内の周囲を巡ることができるようなので巡ってみました。 本殿の南側 本殿の北側 左右の脇障子本殿そのものは比較的シンプルな建物です。 芸能神社の南側に石鳥居があります。ここは駐車場と表参道を結ぶ出入口です。 石鳥居の南側に、木製鳥居に「大黒天」の扁額を掲げた「大国主神社」があります。祭神は大国主神。 大国主神社の南側は、稲荷鳥居に「稲荷社」の扁額を掲げた「辰巳稲荷神社」です。祭神は宇迦之御魂神。 表参道の自動車出入口に近いところに「愛宕社」の扁額を掲げた「愛宕神社」があります。ここでは案内板の掲示を見かけませんでした。後で、当社のホームページを参照しますと、この境内社のさらに南に社号柱(社号標)があるのですが、そこまでは表参道を下りませんでした。ここでUターンして、表参道の西側を巡ります。 まず、鳥居に「昇龍」の扁額を掲げた「水神社(龍神様)」があります。 祭神は罔象女神(ミズハノメノカミ)と案内板に記されています。「昔、大堰川がこの近くまで流れていた頃、氾濫を鎮める為に水神様(龍神様)に祈願していたことに由来する神社です」(案内板より) 社の屋根の上に龍が!!! 今年は辰年。ここで龍と出会うことができました。 芸能神社から参道をはさみ西側辺りに、「清少納言社」があります。車折神社の祭神は清原頼業。清少納言は清原氏の同族になります。清少納言の父親が清原元輔ということは前回触れています。一条天皇の中宮定子に仕えた才女で、『枕草子』の著者として有名なのはご存知の通りです。この小社、清少納言にあやかろうという主旨のようです。 大鳥居から南西方向、清少納言社の多分北西側だったと思います。鹿島鳥居形式の木製鳥居に「葵忠社(キチュウシャ)」の扁額が掲げた「葵忠社」があります。福田理兵衛を祀るそうです。福田理兵衛は嵯峨の材木問屋の長男として生まれ、下嵯峨の庄屋、総年寄、村吏として勤め、明治維新の時に、勤王家として活動した人だそうです。家産を傾けてまで長州藩の勤王倒幕運動を支援したと言います。(資料3,4)当神社のホームページの境内案内図には記載されていません。社号標等、見落としがありますが、境内南側のご紹介はこれで終わります。つづく参照資料1.『口語訳 古事記 完全版』 訳・註釈 三浦佑之 文藝春秋 p43-462. 境内案内 :「車折神社」3. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」4. 福田理兵衛 :ウィキペディア補遺車折神社 ホームページアメノウズメ :ウィキペディア大国主神 :「コトバンク」大黒天 :「コトバンク」ミツハモメ<罔象女神> :「名古屋神社ガイド」車折神社(京都市右京区) :「京都風光」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.05
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嵐山公園亀山地区を探訪した後、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ふと「車折神社」は未訪だったことを思い出し、立ち寄ってみることにしました。嵯峨嵐山駅南口を起点にしますと、南への道路を200mほど下れば、JR線とほぼ平行に走る京福電鉄嵐山本線の嵐電嵯峨駅があります。この駅から東方向へ2駅目が「車折神社」です。駅のすぐ南側に車折神社があります。天龍寺の近くにある嵐電の「嵐山」駅からだと嵐電嵯峨、鹿王院、車折神社と3つ目の駅になります。嵯峨嵐山駅南口からだと、南への道路を下り最初の辻を東方向(左折)に進めば、徒歩900m程の距離です。運動不足の解消を兼ねウォーキングで探訪してきました。 嵐電・車折神社駅のすぐ前にこの石鳥居が見えます。地図で確認しますと、神社は線路の南側道路とさらに南の三条通(府道112号)との間に境内地が位置します。三条通には京阪バス「車折神社前」のバス停があります。石鳥居には「開運招福」の扁額が掲げてあります。この石鳥居、探訪してわかったのですが、この神社の拝殿・本殿などの社殿からみると、北側の背後に位置していて、北門にあたります。本殿は南面しています。まとめとしては、まずは神社の中核である社殿とその周辺からご紹介します。 参道の先にある仕切り塀 参道の右側に、「清めの社」と刻した石標の立てられた小社があります。この鳥居の右側に、「お勧めの参拝手順」として写真入りのパネルが掲示してあります。 少し先に「手水舎」があります。願い事・悩み事のある人は、「手水舎」で、手と口を清め(すすぎ)その後で、「清めの社」を参拝して、悪い運気・因縁を浄化し、心身を清めるという手順だそうです。 手水舎の近くに、東面する石鳥居があり社殿のある境内地への出入口になっています。 神社のご案内石鳥居の傍にこの案内板が設置されています。 手水舎前の参道をはさみ、東側には「社務所」上掲の案内説明文と手許の資料により、当社についてです。「車折」は「くるまざき」と読みます。それはなぜか?上掲案内には「後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌(ミギリ)、この社前において牛車の轅(ナガエ)が折れたので、『車折大明神』の御神号を賜り、『正一位』を贈られます。これ以降、当社を『車折神社』と称することになりました」と記されています。江戸時代に出版された観光ガイドブックともいうべき『都名所図会』には、「車折社 は下嵯峨材木町にあり」と記し、「むかしこの所を車に乗りて行くものあり、忽ち牛倒れ車を折(サ)きしとぞ」と簡略に説明しています。(資料1)現在の所在地表記は、京都市右京区嵯峨朝日町です。 手水舎の南側に石柵で囲われた岩石があります。「車前石」です。上記由緒にある通り、この社の手前にあるこの石の前を通りかかったときに、牛車を引く牛が倒れて、車の轅が折れたという伝承です。石鳥居をくぐり抜け、本殿のある境内に入ります。 拝殿に向かって東側、石鳥居から眺めた回廊部分です。 拝殿手前の拝所 拝殿 奥に本殿が見えます。祭神は、平安時代後期の儒学者明経(ミョウギョウ)博士、清原賴業(キヨハラヨリナリ)です。天武天皇の皇子舎人親王の子孫であり、清原夏野の後裔。平安時代末期1189(文治5)年4月14日に逝去。大外記の職を24年間もつとめ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかったそうです。現在の社地は、もとは清原家の領地であり、ここを頼業の墳墓地とし廟が設けられたそうです。清原一族には、三十六歌仙の一人である清原元輔がいます。元輔の娘が清少納言です。後嵯峨天皇(1242-1246)は後嵯峨上皇(1246-1572)となり院政を行った鎌倉時代の天皇。想像するに、当時は小さな祠が祀ってあることすら知られていない状況だったということなのでしょう。墳墓地が車折神社になったということのようです。(由緒、資料2) 拝殿前の格子天井には、花卉図が描かれています。拝殿の両側に出入口があり、本殿とその背後を巡ることができました。 拝殿の右側の出入口から反時計回りに巡ってみました。左手前が拝殿。 本殿手前の通路脇に狛犬像が置かれています。北門の傍の狛犬と同種の石彫像です。 本殿の東側 本殿の北東角から振り返った景色 本殿の背後には「八百万神社」が祀ってあります。八百万神社という社名は始めて見た気がします。あらあゆる神々を祀るとは気宇壮大です。案内板に興味深い文がありました。「八百万の神々の広大な繋がり(ネットワーク)にあやかり、『人脈拡大』の御利益を授かりましょう」。 本殿の西側にも対となる狛犬像が置かれています。 境内西側には、回廊が伸びています。 吊灯籠 「祈念神石」本殿・拝殿の手前、拝所として祈願する場所の南側に「神石」が盛られています。傍に祈念の仕方の説明板が設置されています。江戸時代には、『都名所図会』にて、次のような一文で、流布されていたようです、「今は遠近の商家売買の価(アタイ)の約を違変なきやうこの社に祈り、小石をとりかへり、家にをさめ、満願のとき件(クダン)の石に倍してこの所に返す」 (資料1)祈念が成就したら、石の倍返し! 倍返しの発想は江戸時代に既にあったんですね。おもしろい。江戸時代も、祈念神石の扱いは社務所を介して行っていたのでしょうか。その点をこの図会は明記していません。余談です。『都名所図会』には、案内文の冒頭に、「五道冥官降臨の地なりとぞ」という一文が記されています。案内文の末尾には、「五道冥官焔魔王宮の庁」という語句も出てきます。清原頼業が死後に冥官になったとされる伝承があったようです。この一文から小野篁を連想してしまいました。五道というのは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)から修羅を除いた五道です。(資料1)手許の本に「一説に当社は五道冥官社と称し、閻魔王宮の官人が来臨するところ故、商売の取引きに違約なきことを祈誓したのによるとも伝える」と記しています。(資料2)調べてみますと、『山州名跡志』が五道冥官社の名称で当神社を載せています。(資料3,4)富岡鉄斎は、若い頃、車折神社の社司をつとめたことがあり、頼業の業績を顕彰するための「車折神社碑」を明治42年(1909)に建立したとか。(私の思いつきでの探訪では現地未確認)鉄斎は碑文に、「頼業が死後冥官といわれることを不審とし、また後嵯峨天皇御召の車の轅が毀損したのは、祭神の怒りによる旨を記している」と言います。(資料2)再訪する機会があれば碑文を確認してみたいものです。 拝殿前から正面参道方向(南)を眺めた景色神社の裏手から入ってきましたので、社殿の正面側を探訪してみました。参道を南に進み回り込むと、 社殿正面にはこの石鳥居が立ち、社殿側に高さの低い朱塗りの垣と門扉が設けてあります。石鳥居の下には、立入禁止を示す棒が参道を横切る形で設置されています。特定の行事のとき以外の普段は閉じられているようです。 ズームアップしたこの景色の右側に見える石鳥居が普段の出入口。上掲した石鳥居です。 こちら側の狛犬は、北門の石鳥居傍の狛犬とはスタイルが異なり、かなり昔に奉納された狛犬像のようです。 正面の参道を南下すると、この木造鳥居が正面にあります。台輪はありませんが、稚児柱を設けた両部鳥居の形式のようです。このまま南に進むと、三条通に出ます。次回は境内地の社務所より南にある境内社を巡りましょう。つづく参照資料1.『都名所図会 上』 竹村俊則校注 角川文庫 p4342.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p227-2313. 車折神社 日本歴史地名大系 :「コトバンク」4.『山州名跡志 自小倉山 至大江城 九』 pdfファイル20コマ目補遺車折神社 ホームページ清原頼業 :ウィキペディア富岡鉄斎 :ウィキペディア五道 :「コトバンク」五道の冥官 :「コトバンク」山州名跡志. 巻之1-22 / 白慧 撰 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.04
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嵯峨天龍寺にある福田美術館での展覧会を鑑賞した後、ここまで来ているので、嵐山公園の亀山地区を散策し探訪してみることにしました。(2024.3.27 探訪)大堰川沿いの道路を上流方向に進みます。 嵐山吉兆の門の傍の桜が満開でした。この近くから、川岸沿いの道路側に移り上流方向に進みます。結構な数の観光客がこの辺りの川沿いにもいました。 この道路は「東海道自然歩道」の一部に組み込まれているようです。またその手前には、右の石標が立っています。法輪寺は渡月橋を南に渡った先にあるお寺です。京都では「十三詣り」で良く知られたお寺です。拙ブログでも既にご紹介しています。渡月橋は承和年間(834-848)に法輪寺の僧道昌により架橋されたのが始まりと伝承されています。往時は現在の渡月橋よりも100mほど上流側に位置していて、初めは法輪寺橋と称されていたそうです。夢窓国師が天龍寺付近の名勝地を「亀山十境」と題して漢詩を詠んだ中に渡月橋の名が出てくるのが初見と言われています。(資料1) 少し先で、「戸無瀬(トナセ)の滝」と刻した石標が目に止まりました。その裏面には、左側の案内説明板が取り付けてあります。 対岸の景色。右寄りの白い筋のみえるところが戸無瀬の滝。落差約85mの三段で落水する滝です。景勝地嵐山を象徴する名勝になっていました。歌川広重筆「六十余州名所図会 山城 あらし山」にも、嵐山の中腹にこの「戸無瀬の滝」が描かれています。また、鎌倉時代中期に藤原定家の息子の為家が歌を詠んでいます。 雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の滝の音まさるなり 藤原為家 室町時代の初期に、夢窓国師は上記「亀山十境」の詩において、この滝を「三級厳」と位置づけたそうです。現在、滝が見えにくいのは、明治に禁伐となり樹木が覆うようになったことによるとか。令和5年3月に最下部の伐採が行われたそうです。ごく最近ですね。(案内板より) 川沿いの道路をさらに進むと、観光客が減ってきます。先に見えたのがこの石標。公園の入口。 近くに「嵐山公園亀山地区案内図」が設置されていてます。(現在地は右下の赤三角印) この道標も設置されています。こちらの公園を経由して行ける観光スポットです。渡月橋を対岸に渡ると、中ノ島があります(嵯峨中ノ島町)。そこが嵐山公園で、こちらは公園の一部という位置づけのようです。余談ですが、手許の2003年5月発行本のマップには、亀山地区を亀山公園、中ノ島の方を嵐山東公園と明記しています。 公園に入って行きますと、この石標が目に止まりました。上面に「古今集と百人一首」と題する案内文が掲示されています。小倉百人一首と古今集の簡略な説明とその関係が記されています。百人一首には古今集から24首が撰ばれているとあり、その歌碑がこの公園に建立されているようです。歌碑の配置図が併載されています。 山道を登って行くと広々とした斜面に出ます。こんな東屋(休憩所)が中央に見えます。ここまで来ると、観光客はほとんどいません。わずかな人々とすれ違うだけです。東屋の周辺で、幾つかの歌碑が散在して建立されているのを見つけました。歌碑の近くには、歌碑案内の石標も設置されています。ここでは省略。 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 小倉百人一首第7番 安部仲麻呂 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるに 雲のいづこに 月やどるらむ 小倉百人一首第36番 清原深養父 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり 小倉百人一首第32番 春道列樹 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 小倉百人一首第33番 紀友則 「小倉百人一首文芸苑 屋外展示施設 案内図」という地図も設置されています。休憩所辺りを散策し、少し離れたところからこの広々とした公園を眺めてみました。パノラマ合成した景色です。もう少しして、桜が咲き誇ると景色が華やかになることでしょう。 この中腹の広々とした斜面の先に分岐点があり、さらに山道が続きます。「頂上展望まで160m」の道標をガイドに、左の山道を登ります。 頂上展望台広場 この展望台からは、対岸の嵐山、保津峡と保津川の全景が見渡せます。 眼下の保津川をズームアップ! 対岸の川沿いに建つ建物は、ネットの地図で確認しますと、「星のや京都」ほかの建物です。所在地は嵐山元録山町。 山の中腹にぽつんと見える建物は「大悲閣」です。その背後に「大悲閣千光寺」の建物群があります。こちらは、嵐山中尾下町です。この大悲閣も拙ブログで既にご紹介しています。展望台沿いの道をさらに進んでみますと、 「嵐山公園はここまでです」という掲示が設置されています。 その先は「小倉山」です。「小倉山山頂」への表示と「小倉山再生プロジェクト 景勝・小倉山を守る会」の」看板が設置されています。これを見て、「小倉池」周辺を探訪して小倉山を登ったときの記憶とリンクしました。こちらも拙ブログに記していたと思います。小倉山の東南部を占める丘陵がこの亀山地区なのです。これで探訪地がリンクしましたので、公園を引き返し、まずは休憩所まで下ることに。この公園の下側エリアを通り抜けたことがあります。その時見過ごしてしまった箇所があったのです。今回はその箇所を確実に訪れたかったのです。 立像の傍に「大正元年十月十」までは判読できる日付の刻された顕彰碑が建立されています。 訪れたかったのはここ! 「角倉了以翁銅像」上掲の石碑により1988年に再建されたことがわかります。なぜ、再建なのか。当初の銅像は戦時中に金属供出により撤去されたのです。 「角倉了以翁の業績」と題する顕彰碑が、角倉了以翁像碑保存会により、昭和63年(1988)5月28日に建立されています。 顕彰碑に記されていますが、角倉了以は、京都に直接関連する事業として 慶長11年(1606) 保津川大堰川の開削を完成 慶長16年(1611) 高瀬川の開削を完成という偉業を為し遂げました。大悲閣千光寺は、保津川を開削し船や筏が通ることの出来る舟運のための工事に協力した人々の菩提を弔うために角倉了以が創建したお寺です。観音の慈悲をたたえて大悲閣と号したと言います。(資料1)角倉了以像から比較的近い場所に、 この詩碑が建立されていることをこの探訪で初めて知りました。 「周恩来総理詩碑」です。1978年10月日中平和友好条約締結を記念し、1979年4月吉日に建立されています。嵐山公園亀山地区は、歴史と文化の一端を学べる公園にもなっていることを再認識しました。 大堰川沿いの道まで戻ってきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂補遺嵐山と夢窓国師・夢窓疎石 :「京都 Kyoto」ブラタモリ・京都・嵐山(~嵐山はナゼ美しい!?~天龍寺十境) :「京都ヴォヤージュ(Kyotovoyage)京都・亀岡 保津川下り ホームページ 歴史角倉了以 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5高瀬川 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi22.html大悲閣千光寺 公式HPhttps://daihikaku.jp/周恩来 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛西 嵐山 法輪寺 -1 法輪寺への道すがらに 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛西 大悲閣 -1 大悲閣道(渡月小橋~大悲閣入口) 2回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) 5回のシリーズでご紹介探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 12回のシリーズでご紹介 No.9で野宮神社、No.10で御髪神社・小倉山/小倉池、No.11で小倉百人一首文芸苑観照 京都・洛中 ふたたび高瀬川沿いに~四条から一之船入まで~
2024.04.02
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2階へ。 GALLERY 2 の出口に近い壁面にこの「栖鳳と弟子たちの相関図」の大きなパネルが掲示してあります。わかりやすいので冒頭にご紹介します。相関図の氏名を、図に対応する形で列挙します。併せてご覧ください。 [栖鳳と弟子たちの相関図] 竹杖会 国画創作協会 戦後も続く 栖鳳イズム 西山翠嶂 西村五雲 土田麦僊 小林竹喬 池田遙邨幸野 竹内楳嶺 栖鳳 上村松園 伊藤小坡 村上華岳 榊原紫峰 徳岡神泉 橋本関雪 広田百豊 入江波光 (野長瀬晩花) 福田平八郎 GALLERY 2 の入口に「第2章 次世代の挑戦と研鑽 -栖鳳の教えを胸に-」が掲示されています。栖鳳の画塾が「竹杖会(チクジョウカイ)」。栖鳳の門下生たちが後年に京都画壇の主要メンバーという状況になっていったそうです。「典雅な西山翠嶂(スイショウ)、優美な上村松園、生物の西村五雲(ゴウン)、韻致(インチ)の橋本関雪(カンセツ)、柔美な伊藤小坡(ショウハ)など」とそれぞれの特色が評されたとか。栖鳳の弟子たちで「国画創作協会」に集った画家たちは、文展に対抗して自分たちの発表の場を持とうとしたと言います。興味深い点は、師の竹内栖鳳は文展の審査員でもあったのです。しかし、栖鳳は彼らを破門することなく、「顧問として関わり、若い弟子たちの果敢な進撃を後方から支援し」「彼らの強い個性を認め、育んだ」と言います。この展示室には、これら弟子たちの作品が、1点あるいは数点ずつ展示されています。1点ずつご紹介します。 「悉達発心図」1900年悉達とはゴータマ・シッタ-ルダ、つまりお釈迦さまのことです。出家の発心を抱き、馬に乗り城を抜け出ようとしているのに、白馬はそれを制止しようとでもしているのでしょうか。1900年の後素青年会展に出品され、優等一等となった作品。西山翠嶂の若き日の力作。翠嶂は栖鳳から継承した写実的描法を得意としたそうです。 「砂丘」1935年 西村五雲作漁師が居ない時に、一羽の鳶(トビ)が魚籠(ビク)に止まっています。魚籠の中の獲物を狙っているのでしょうか。それとも単に一休みなのか。悠然とした感じです。一瞬の一コマ。 「花見図」上村松園作。満期の八重桜の広がりを想像にませるかのようにほんの少し左上に描き、匂やかな娘の頭上には後ろから日傘が差し掛けられています。明るく強い春の陽射し。娘は少しうつむいて、落下した桜の花をふと見つめているのでしょうか。満開の八重桜と華やぎのある娘の姿。この一瞬の華やかさの共存。 「桜狩の図」 伊藤小坡作冒頭の相関図によれば、伊藤小坡にとって、上村松園は憧れの先輩だったそうです。桜狩ですから、これも花見に出かけた一場面。二人の女性のひそひそ話の構図。この構図、松園がしばしば描いた構図でもあるようです。 「梅花佳人図」 橋本関雪作 梅の木の傍に座る美人。この見慣れない服装は、チャイナドレスの原型だそうです。 「春の海辺/秋の郊外」広田百豊(ヒャクホウ)作。日本画に西洋の遠近法を取り込んで己の感性を花開かせた画家だそうです。 百豊は小学校の校長まで経験してから、30代で栖鳳門下に学んだと言います。遅咲きの画家です。 「夏園群芳図」1913年 村上華岳作 画面上部に山百合、下部に薊(アザミ)や千日紅と思われる夏の花々が真っ盛りに咲き誇っています。百合の花弁や葉には、滲(ニジ)みによって表現する「たらし込み」の手法が使われているとか。 「ヴェトイユ風景」1922年 土田麦僊作ヴェトイユでモネが数多くの風景画を描きました。パリから北西に50kmほどの景勝地です。麦僊は1922年4月~8月にこの地に滞在して風景画を制作。印象派以降の西洋画の流れを、日本画の世界に取り込んで、岩絵具で描いたそうです。この展示室では異彩の絵でした。 {臨海の村」1919年入江波光(ハコウ)作。三重県志摩市大王町にある波切という景勝地を描いたそうです。”波光は人物や家屋など「全てのものが渾然とした場面」を描き出そうとしたため、場面の色調が統一され、遠近感を感じさせない作品となっています。”とのこと。おもしろい試みです。 「川口近く」大正時代 小野竹喬(チッキョウ)作切り立つ崖越しにみえる川口の景色。遠近感が良く出ていて、色彩がきれい。この後、同じ2階にある 、PANORAMA GALLERY 3 に進みます。この展示室は、これまでの2つの展示室とは異なり、ガラスケースはなく、壁面に額を掛けただけの展示です。 こんな感じで額装の絵が並んでいます。額にガラスが嵌め込んでありますので、撮った写真のいくつかは室内の窓などが映じてしまったのがあります。反射の影響が少ない絵をご紹介します。 「湯滝見ゆ」昭和40年(1965) 小野竹喬作標高1600mにある奥日光の有名な湯滝を描いた風景画です。湯滝をこの角度で描くには、さらに高い位置まで登ることになったでしょう。竹喬は当時77歳です。健脚だったのでしょうね。 「苅田余情」昭和時代 池田遙邨作稲の刈り入れ後、稲が稲架(はざ)に掛けて天日干ししている秋の情景が描かれています。天日干しの景色を写真や映像で見たことはありますが、実際の景色をみたことがありません。 「鯉」 1956年 徳岡神泉作「神泉といえば鯉」と称されたとか。師の栖鳳の作風とは全く異なり、「対象をひたすらに見つめ、幽玄とすら呼ばれる作風を戦後に展開」した画家だそうです。栖鳳の包摂力と指導力はそれほど大きかったということでしょう。 この展示室に、竹内栖鳳作の「虞美人草」が展示されていました。明治44年(1911)作。この作品に添えられてガイドのタイトルは「虻が際立たせる静寂」です。案内文を全文引用します。「栖鳳が描いているのは、令和の時代には初夏の路傍に群れ咲いているナガミヒナゲシ。ただし、外来種であるこの花が日本に入ってきたのは栖鳳没後の1961年のこと。彼が地中海産のこの花を目にしたのは、1900年に訪れた欧州だったと考えられます。日本画ではかつて画題になったことがない花であっても積極的に取り込み、洗練された作品に仕上げてしまう革新性も、清風の進撃を支えた底力でした」これでこの展覧会のご紹介を終わります。展覧会は4月7日(日)まで、最後の一週間になりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*作品に添えられたガイドの文*「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」展示作品リスト補遺福田美術館 ホームページ西山翠嶂 :ウィキペディア西村五雲 :ウィキペディア上村松園 :ウィキペディア伊藤小坡美術館 ホームページ 伊藤小坡について白沙山荘橋本関雪記念館 ホームページ文展を離れて日本自由画壇の結成に参加し、女性像を中心に自由な表現を試みた広田百豊 :「UAG美術家研究所」国画会絵画部の歴史について :「国展」土田麦僊 平牀 :「京都市京セラ美術館」笠岡市立竹喬美術館 ホームページ 小林竹喬について村上華岳 :ウィキペディア榊原紫峰 :「足立美術館」入江波光 :「国立美術館」コレクション展 2022-冬春 特集「若き日の野長瀬晩花」 :「美術手帖」日本画家・池田 遙邨(いけだ ようそん) :「大阪市北区」徳岡神泉 :ウィキペディア没後50年 福田平八郎 :「大阪中之島美術館」チャイナドレス博物館 旗袍的新故事 ホームページ波切の町並み :「日本遺産 ポータルサイト」ヒナゲシ(虞美人草)湯滝 :「日光市公式観光WEB」天日干し米(天然乾燥米)が美味しい理由 :「budounoki ぶどうの木」ヒナゲシ(虞美人草) :「北海道」ナガミヒナゲシ :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -1 福田美術館への往路にて へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -2 福田美術館の建物 へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -3 福田美術館「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」(1) へ
2024.04.01
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この展覧会のチケット GALLERY 1 の入口正面の案内掲示 最初の展示室は、「第一章 竹内栖鳳の快進撃-その源泉としての円山四条派-」です。ここには竹内栖鳳(タケウチセイホウ、1864-1942)の作品の数々が展示されています。それと併せて、近世の京都画壇の絵画、写生と情緒を兼ね備えた表現に挑戦者した円山応挙を筆頭とする円山四条派の絵画が展示されています。右方向に薄暗い空間で数歩踏み出すと、自動ドアが開きます。照度を少し暗くして西方向に広がる長方形の展示室。蔵をイメージした空間設計だそうです。 展示室の正面のガラスケースの右端側から撮りました。少し鏡面反射が見られます。 この企画展(後期)の最初の展示作品がこれ。竹内栖鳳筆「経信賞月」(1892年)です。この作品には「月が見たくて」と題したガイド・案内文が添えてあります。平安時代後期の歌人藤原経信は、太宰府に赴任する道中で十五夜を迎えたおり、宿の欅が月を眺める邪魔になるので、従者に欅を切り払わせ、月を賞翫し一晩中琵琶を弾き続けたという逸話があるそうです。欅が切り倒される直前の情景が描かれた作品です。 その右側に置かれていたのがこれです。竹内栖鳳は17歳で幸野楳嶺に入門し円山四条派を学びました。それが画家としの出発点。その後、西洋画を含む多くの流派の画技も修得。写生に基づく自然への視点の鋭さが指摘されています。京都市絵画専門学校や画塾「竹杖会」で多くの弟子を育てたそうです。展覧会のPRチラシには、「進撃」とは「競いながら前進を続ける」の意と説明を加えてあります。竹内栖鳳は、日本画の近代化を牽引し、弟子たちとともに快進撃を生み出すリーダーとなりました。第1回文化勲章受章者です。 入口側のガラスケース内まず、竹内栖鳳が最初に学んだ円山四条派の祖である円山応挙筆「雪中南天鴨図」(1793年)が展示されていました。水鳥の一瞬の動きを的確に描写する。円山応挙は、狩野派が手本を写して作品を描くのではなく、写生に打ち込む仲から独自の作風を築いていった画家。栖鳳はそれを引き継ぎ、独自の表現を追い求めたと言います。こちら側には、円山四条派の画家たちの作品が展示されています。まずは竹内栖鳳の作品をいくつかご紹介することから始めましょう。 「秋渓漁夫図」(1887年) 栖鳳23歳、「若き栖鳳の秀作」というガイドが添えてあります。中国には、漁師こそが自然に最も近しい理想的な職業という思想があると言います。小舟に乗った人が描かれた山水図が多いのもなるほどと思います。釣果を得て船上に憩う漁師たちと、船尾に立ち指さして秋景の美に心を惹かれる漁師の姿の一場面が捉えられています。 「柳鷺」(大正・昭和時代) 「水風白鷺」(1925年頃)左は「柳をしっかりと掴み鋭い視線を左に向ける鷺」、右は「風になびく柳や白鷺の胴体を線ではなく面で表し、濃淡のグラデ-ションを用いることで奥行や立体感が際立つ工夫」がなされた作品という説明が添えてあります。描き方のコントラストがおもしろい。 「雨景・雪景図屏風」(1904年)六曲一双 右隻・雨景、左隻・雪景右隻の部分図 左隻の部分図金地の屏風に墨絵というのが、金色をぐっと落ち着かせる感じです。私的には、雪景の方に惹かれます。 「春の山」大正・昭和時代「春の訪れを匂わせる色遣い」と題したガイドが添えてあります。色彩を画面全体に配する手法で描いた作品だとか。険しい山と山間の集落。画家の立ち位置と全体構図がおもしろいなと感じました、 栖鳳直筆の絵はがきが四通展示されていました。その内の一通です。世界にただ一つの受信者並びに時期を特定した絵はがき。この直筆の豪華絵葉書を受けとった人は感激でしょうね。 展示室の出口に近い壁面に、この「雪月花」(1932年)が展示されています。雪(川合玉堂)、月(横山大観)、花(竹内栖鳳)と東西の日本画における三巨匠による共作という珍しい試みの作品。関東大震災(1923年)の後に、一時交信が途絶えていた竹内栖鳳と横山大観が淡交会を結成し、そこに川合玉堂が加わった時期にこの共作が生み出されたそうです。(資料1) そして、この「金獅図」(1906年)がやはりハイライトになる秀逸な作品です。展示品の中で、存在感がある作品です。 この金獅図に添えられたガイド「獅子の描き方を変えることができた人間」を引用しましょう。「咆吼(ホウコウ)しながら勢いよく身を乗り出すライオン。右脚の鋭い爪や左脚の筋肉の描写などは百獣の王に相応しい姿で的確に捉えられています。栖鳳はヨーロッパから帰国した後、1901年に<獅子>を描き世間の話題を集めました。栖鳳の息子である竹内逸によれば、獅子図は栖鳳のファンの求めに応じて幾幅も制作されたといいます。本作もこうした委嘱によって描かれた可能性が高いといえるでしょう」(転記)余談です。ライオンはいつ頃我が国で飼育されるようになったのだろうかという疑問。少し調べてみた範囲では、上野動物園が日本最初の動物園で、1882年(明治15)に開園されました。1902年(明治35)に「ドイツのハーゲンベック動物園より、ライオン、ホッキョクグマ、ダチョウなど12種を購入し、ライオンはたいへんな人気を博した」とのことです。(資料2)これがライオンを日本国内で飼育する第1号事例かもしれません。このライオンは1906年に、「京都市紀年動物園へ代価1500円で引き渡す」(資料2)ということになったとか。竹内栖鳳は少なくとも1906年には、京都市においていつでもライオンを実際に見て写生できる環境には居たといえます。勿論、栖鳳は1900年8月から、パリ万博での銀牌受賞と視察をきっかけに7ヵ月かけてヨーロッパを旅行したそうですので、たぶんヨーロッパで実物のライオンを直に見ていることでしょう。(資料3)帰国後に、改めて上野動物園でライオンを間近に観察し写生したかもしれません。そんなことを想像するとおもしろい。この展示室には、円山四条派の絵師たちの作品も展示されています。 これは幸野楳嶺(コウノバイレイ、)筆「蓮華之図」(1894年頃)です。幸野楳嶺は栖鳳が17歳で入門し、師事した画家です。 「孔雀之図」 江戸時代 王義之 小野道風上掲「孔雀之図」とこの「小野道風・王義之図」はともに呉春の作(江戸時代)。呉春は円山応挙の高弟で、栖鳳が敬愛した画家で、栖鳳が画風を確立するうえで、源流の一人になったそうです。 岡本豊彦筆「前赤壁・後赤壁図」(1829年)。 松村景文筆「合歓(ネム)に双鷺図(ソウロズ)」(江戸時代)松村景文は呉春の異母弟。合歓と鷺は夫妻和合の象徴だそうです。 塩川文麟筆「月夜遊蛍図」(明治2年/1869年)文麟は岡本豊彦の弟子。文麟は金泥を使い、蛍の光を表現するということに挑んだと言います。これまで東洋の画家たちは光の表現をあまり用いては来なかったのですが、文麟はそこに前進の努力をしたそうです。その姿勢が孫弟子にあたる栖鳳の進撃の力の源でもあったと、ガイドに説明されています。展示作品リストを見ますと、後期には栖鳳の作品が20点展示されているようです。(絵はがきは1点に数えています)それでは、2階の GALLERY 2 に移りましょう。つづく参照資料*「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち 展示作品リスト」1. 雪月花-雪(川合玉堂) :「Google Arts & Culture」2. 上野動物園の歴史 :「上野動物園」3. 竹内栖鳳 :ウィキペディア補遺福田美術館 ホームページ円山応挙 :ウィキペディア四条派 :ウィキペディア呉春 :ウィキペディア幸野楳嶺 :ウィキペディア岡本豊彦 :ウィキペディア松村景文 :ウィキペディア塩川文麟 :ウィキペディア川合玉堂 :ウィキペディア横山大観記念館 ホームページ(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -1 福田美術館への往路にて へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -2 福田美術館の建物 へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -4 福田美術館「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」(2) へ
2024.03.31
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小さな庭で分散していたムスカリのプランターや鉢。それを玄関のアプローチの通路脇に家人が集めたとか。 道路から 通路半ばから 鉢やプランターが一箇所に集まると、ムスカリもちょっと賑やかになって見映えがします。 通路脇の小花壇に咲くクレチマス・アーマンディ。 玄関扉の前には、スズランスイセンが一鉢、咲いています。この花も、うつむいて咲いています。 花の重さで下向きなのでしょうか。 上に向かって咲くのが恥ずかしいのでしょうか・・・・。ちょっと、記録に留めるために撮りました。現時点(11:00)は、空はほぼ晴れています。スマホの天気予報では、現在19度。最高21度、最低11度。午後は曇りという予報です。補遺スノーフレーク(ヒガンバナ科) :ウィキペディアスノーフレーク(鈴蘭水仙)の育て方 :「GreenSnap」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.03.30
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大堰川沿いの道路とはT字路になり、北方向に向かう道路に少し入ると、道路の左(西)側に福田美術館があります。所在地は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町3-16。天龍寺と同じ町内です。ホームページを参照しますと、2019年9月、[開館記念]福美コレクション展が当館の出発点。今秋開館5周年を迎える新しい美術館です。 正面に開催中の美術展案内が掲示されています。 エントランスを入ると、 左の壁面に「進撃の巨匠」のポスターが掲示されていました。事前にチケットを入手していたので、正面の受付カウンターで提示して、早速館内探訪を兼ねながら展示室を巡覧しました。初入館です。良かったのは展示室では一部の作品を除き、撮影OKとなっていたこと。残念なことは、今回の美術展の図録が発行されていなかったことです。大半の作品について記録写真を撮ることができましたので、その点は備忘録にもなります。まずは、福田美術館の建物自体をご紹介しましょう。 正面のドアを入ると、すぐ左に緩やかな階段があります。 立ち位置を変えて見上げる感じで撮るとこんな景色です。細長い長方形の建物が中心になっていて、建物の南側に通路があります。階段を上がると、右(北)側に展示室への入口があります。 階段を上がって、振り返って美術館の入口側(東)を眺めた景色 通路を東に歩み、鉄柵の近くから眺めると建物の東側面はガラス壁面です。手前に斜めにシールドが設けてあります。多分内部空間の装飾的デザインなのでしょう。 吹抜空間の左側を見下ろすと、美術館入口を入った正面の受付カウンターが見えます。 ガラス壁面越しに、南側の外を眺めますと、庭が広がり、手前に礎石風の石が見えます。南西方向を眺めると、池が広がっています。 この池は方形で、大きな水盤に見立ててあるようです。嵐山の景色が「水鏡」として映じる形になっています。水盤の向こう側に見えるのは、美術館内に併設されたカフェ。このカフェには入りませんでしたが、このカフェの東側のガラス壁面の傍に座れば、大堰川と渡月橋、嵐山の景色が広がって見えることでしょう。美術館のこの通路は、日本家屋で言えば「縁側」を兼ねている感じです。 西方向に少し歩み、南東方向を眺めると、水盤(池)の先に大堰川の堰と川面が連続しているような錯覚にとらわれます。この水盤自体が、大堰川沿いの道路からみれば、高さとして、いわば1階の天井の上部あたりに設けられた方形の池なのです。こちらからは道路が段差の底面となり隠れてしまって見えません。外壁のガラスに眺望を邪魔するかのように何か模様が見えますね。これ、外壁のガラスに伝統的な「網代(アジロ)文様」がプリントされているのです。さらに、高さによって、文様の線の太さを変化させてあります。 全面的に普通の網代文様をプリントしたガラス壁面はこんな感じです。外の景色は雰囲気がわかる程度になります。さて、上掲の緩やかな階段を上がると、すぐ右側に展示室への入口があります。わずか数歩の距離ですがそこは薄暗くて、自動ドアとの間に設けられた一種のバッフア・ゾーンの空間です。展示室の空間は、全体の照度が低めになっています。室内の壁面に沿ったガラスケースに展示された作品に対して照明が調光されているようです。ガラス越しに鑑賞する作品は見やすい明るさになっています。私の経験では、京都・岡崎の近くにある細見美術館と大阪の藤田美術館が同様のコンセプトの展示です。展示室は自動ドアで、室内空間は照度が低めにされていて、展示作品は見やすい明るさになっている方式です。展示室は GALLAREY と表示されています。最初の階、ここが1階と称されています。GALLERY 1 の部屋は、全体が長方形の大きな空間です。ホームページの説明によれば、「蔵」をイメージした空間として設計されているそうです。東側から入り、西端側へ展示作品を鑑賞していく順路でした。GALLERY 1 を出て通路の西端に行くと、右側にミュージアムショップとエレベーターがあります。左側は上掲の景色に見えるカフェへの通路です。 ミュージアム・ショップの一隅から見える小さな庭。 手水鉢が置かれていて、建仁寺垣で仕切られています。ミュージアム・ショップの傍にあるエレベーターで2階に上がります。GALLERY 1 の上部にあたるところが、GALLERY 2 です。 2階通路の西端を眺めた景色突き当たりを左に進めば、PANORAMA GALLERY 3 です。ここは、カフェの上層に相当する空間です。 2階の通路を西側から撮った景色 大堰川沿いの道路から眺めた美術館の外観。左側の1階がカフェです。2階が PANORAMA GALLERY 3 になります。美術館自体の様子、雰囲気のご紹介を終わります。序でに、ホームページの説明によりますと、この福田美術館は、江戸時代から近代にかけての日本画家の作品約2,000点をコレクションされていて、京都画壇の作品のコレクションに特に力を入れているとか。”「たとえ美術に詳しくない方が見ても、感動を覚えるような」作品がコンセプト”だそうです。次回は、今回の企画展について、覚書を兼ねてご紹介します。つづく参照資料福田美術館 ホームページ コレクション補遺網代ってなに? ~読み方・意味・由来~ :「有限会社 網代商会」網代 Ajiro :「吉兵玉井銘木店」網代模様 :「TOM's Web Site」 (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -1 福田美術館への往路にて へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -3 福田美術館「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」(1) へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -4 福田美術館「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」(2) へ
2024.03.29
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昨日(3/27)、初めて福田美術館に行きました。利用したのはJR嵯峨野線、「嵯峨嵐山」駅です。冒頭の建物は嵯峨嵐山駅。駅前に居る多くの観光客を撮らずに駅舎を撮ろうとするとこうなりました。南口側です。京都駅から列車は大混雑。各国からの観光客と日本人観光客でもう一杯。久しぶりにすし詰め列車に乗車しました。梅小路京都西駅、二条駅で下車する人々がかなりいましたので、すぐに混雑具合は多少緩和しました。それでも、嵯峨嵐山で下車する人が多い! 主目的はこの美術展を鑑賞することと福田美術館自体の探訪。これが初めての機会なので美術館を見ること自体が一つの楽しみです。駅前の道を南に下り、右折して、まずは西方向に位置する天龍寺を目指します。 最初の十字路の右側、レンガ塀の側に道標が立っています。正面に大覚寺の文字が刻まれ、右側面には「日本最初の庭」という文字が判読できます。嵯峨大覚寺への道です。 その先に、地図で確認しますと、瀬戸川という幅の狭い川が南に流れていて、桂川に流入します。橋の手前に、小さな御堂があります。興味深いのは、正面に吊された提灯。右には「南無地蔵大菩薩」、左には「天道大日如来」と墨書されています。地蔵菩薩と大日如来の石仏が共に祀られているのです。併存というパターンを見かけた記憶がありません。 「竜門橋(歌詰橋)」と称するそうで、駒札が設置されています。 少し先には、道路を横断して嵐山高架橋が架かり、その傍に山門が見えます。門の左側には、「数珠掛け地蔵尊」の石標が立ち、門の右側前方にも「地蔵尊」と刻した石標があります。 門前から拝見すると、石造地蔵菩薩坐像が見えました。石標に刻された地蔵尊は多分本堂に祀ってあるのでしょう。 道沿いに進むと、もう一つ小堂が目に止まりました。こちらはお地蔵さまを祀った地蔵堂です。天龍寺前に出ると、もう道路は観光客でかなり混雑ぎみ!左折して、渡月橋まで向かいます。京都の繁華街での混雑度と大差ありません。 ここまで来ましたので、まずは久しぶりに渡月橋の北詰で、橋と川を眺めてみました。昨日の雨の影響でしょうか。川はかなりの水量です。 渡月橋の歩道は、嵐山の方(南)に渡る人々がほぼ途切れなく歩いています。西側の歩道も同様です。現在の渡月橋は、昭和9年(1934)5月に竣工した鉄桁鉄筋コンクリート製です。延長155m、幅員11m。嵐山の景観と調和するように欄干は木製です。(資料1)この木製欄干、2018年9月、台風21号の暴風により、約100mにわたり倒れてしまいました。急遽、復旧工事が行われ同年10月下旬には無事に元の景色を楽しめるようになったという経緯があります。(資料2,3) 渡月橋の北詰、東側にはこの石標が立っています。注意して見ている人はなさそうです。平安時代、琴の名手として知られた小督局(コゴウノツボネ、以下小督)は、高倉天皇(1161~1181)の寵愛を受けました。小督は藤原成範の娘。しかし、それは高倉天皇の中宮の父である平清盛(1118~1181)の逆鱗に触れます。小督は内裏から失踪し嵯峨野に隠れ住んだそうです。天皇は密かに源仲国に小督の捜索を命じました。仲国は小督の弾く琴の音を頼りに捜索します。そして、仲国は小督が弾く「想夫恋」をこの橋の近くで聞き、居所を尋ね当てたと言います。(資料4,5)さて、この渡月橋北詰で、右折して上流側の歩道を西に歩みます。 少し先に、見えるのはこの門です。「車折(クルマザキ)神社嵐山頓宮」と刻された石標が立っています。頓宮は別宮を意味します。石標の右側にその案内板が掲示してあります。門の手前にある橋には「琴きき橋」と刻されているようです。 門前から眺めた正面奥に小社が見えます。 一旦、川沿いの歩道に移り、川下を見ると渡月橋は人と車で溢れています。 上流側には堰(セキ)が見えます。嵐山の麓を流れるこの川は古くは「葛野川」と呼ばれていたそうです。秦氏がこの地を開拓し、川に堰を設けて水利の便を良くしたことから、「大堰川」の名が生じたと言われています。この川は、大悲山を水源とし、丹波国保津村(亀岡市)を経由して嵯峨に至る水系です。そこで、嵐山に至るまでを「保津川」と称し、嵐山に至って「大堰川」と呼ばれます。(資料1)インターネットでマピオンの地図を見ますと、渡月橋から下流側で「桂川」と表記されています。猶、行政上での表記は、「桂川」となっています。「淀川の支川である桂川はその源を丹波高原佐々里峠に発し、亀岡盆地、保津峡を抜け嵐山にて京都盆地へ流れ込み、京都府・大阪府境付近で宇治川、木津川と共に淀川へと合流する流域面積1,100km2、幹川流路延長114kmの一級河川です」(資料6)この堰のある辺り、川沿いの道路の北側には、北方向への道路があります。天龍寺門前の通りで渡月橋に通じる府道39号からは一筋西側になります。 この北への通りを入ると、左(西)側にこの一画があります。 ズームアップで五輪塔を撮ってみました。刻された文字があるようですが判別不可。 傍に「謡曲『小督(コゴウ)』の旧跡」という駒札が設置されています。この駒札の立つ旧跡の背景に見える建物が、めざす福田美術館でした。つづく参照資料1.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 2. 渡月橋の欄干、京都市が被害状況を調査…部材再利用で修復へ :「産経新聞」3. 京都・嵐山の渡月橋欄干が復旧 台風で倒壊、紅葉シーズン迎え:「千葉日報」4.琴きき橋跡 :「フィールド・ミュージアム京都」5.琴きき橋に伝わる物語 :「京都・亀岡 保津川下り」6. 桂川 :「国土交通省」補遺「渡月橋」欄干が復旧しました! :「HOTEL BINARIO」台風で欄干が壊れた「嵐山渡月橋」:「ヒストリカル・シエア!」桂川(淀川水系) :ウィキペディア演目事典:小督(こごう) :「the能.com」管絃 平調「想夫恋」 Kangen Hyodyo Sofuren YouTube(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -2 福田美術館の建物 へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -3 福田美術館「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」(1) へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -4 福田美術館「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」(2) へ
2024.03.28
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これは、2023年7月に祇園祭・後祭の山鉾巡りをした時、新町通の八幡山近くで、屏風祭として開示されている町家の座敷を通りから拝見して撮った写真です。2023年の祇園祭のブログ記事に載せています。屏風に描かれた龍という視点で捉えると、過去の見聞から寺社仏閣、美術館、博物館、個人宅という様々なところに、屏風絵が所蔵されていることに気づきます。そこで、屏風の龍について、龍探しをしてみると、屏風絵としての龍図をそれなりに見つけることができました。以下、調べた範囲で出会えた龍たちのご紹介です。なお、順番はほぼ見つけた順でランダムのままです。☆ 海北友松筆 「雲龍図屏風(右隻)」六曲一双 北野天満宮蔵 (資料1)☆ 俵屋宗達筆 「雲龍図屏風」 紙本墨画 フリーア美術館蔵 (資料2)☆ 長谷川等伯筆 「龍虎図屏風」六曲一双 ボストン美術館蔵 (資料3)☆ 円山応挙筆 「雲竜図屏風」 (資料4)☆ 曾我蕭白筆 「群仙図屏風」六曲一双 (資料5)☆ 武井周発筆 「雲龍図屏風」紙本墨画/六曲屏風一隻押絵貼 愛媛県美術館蔵 (資料6)☆ 岡田嘉則筆 龍屏風「雲龍図」 現代 (資料7)☆ 雲龍図-屏風絵 栖足寺 お寺の小さな美術館 ドラゴンアートミュージアム 現代 (資料8)現時点で私が見つけたのはこれくらいです。天井画や襖絵と同様に、屏風絵もまた、現代において脈々と龍図を描くという行為が継承されていることがわかります。また、「綴プロジェクト」という形で、高精細度複製画技術を使った文化財の継承と鑑賞の機会を広げる活動も行われています。私は京都国立博物館と建仁寺でその実例を拝見したことがあります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 雲龍図屏風(右隻) 海北友松 :「文化遺産オンライン」2. 俵屋宗達筆 「雲龍図屏風」 :「Canon 綴 TSUZURI」3. 龍虎図屏風 長谷川等伯 :「Canon 綴 TSUZURI」4. 雲竜図屏風:円山応挙 :「日本の美術」5. 紙本著色群仙図〈曽我蕭白筆/三十五歳の款記がある/六曲屏風〉:「文化遺産オンライン」6. 武井周発筆 「雲龍図屏風」 :「文化遺産オンライン」7. 【館内屏風展示のご紹介】龍屏風「雲龍図」 :「LIFUL 介護」8. 【雲龍図-屏風絵】 150㎝X150㎝ お寺の小さな美術館 ドラゴンアートミュージアム 栖足寺本堂内にオープン A small museum in a temple Japanese Dragon Art Museum facebook 補遺―重要文化財 雲龍図屏風 特別公開― 北野天満宮 facebook曾我蕭白《群仙図屏風》狂気なる自我──「狩野博幸」影山幸一 :「artscape」岡田嘉則 :「foriio」2024年屏風展示のご報告 :「オーシャンプロムナード湘南」かっぱの寺 栖足寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ観照 祇園祭後祭 Y2023 山鉾巡り+α -4 八幡山・屏風祭・鷹山
2024.03.25
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10日前、3/14に「三月半ば 庭に咲く小さな花たち」で、咲き始めた写真を載せました。数日前から、アーマンディが満開の状態になってきました。 朝から小雨が降っています。スマホの天気予報では、12時15分過ぎの時点で11度、霧雨。夕方まで雨が続く。最高13度、最低7度という予報です。 クレマチス・アーマンディは、中国が原産地。漢名では「小木通」だそうです。(資料1)クレチマス・アーマンディの花言葉は「高潔」(資料1)、「心の美しさ」(資料2)手許の本では、クレマチスについて「心の美」と述べています。(資料3) 葉に雨滴が留まっています。 つぼみの花がありますので、しばらく咲き続けてくれそうです。庭に咲く花々の開花記録として・・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. クレチマス・アーマンディ :「GKZ 植物事典」2. 写真素材: クレマチス アーマンディ :「PIXTA」3.『366日 誕生花の本』 瀧井康勝著 日本ヴォーグ社補遺クレチマス(春咲き) :「みんなの趣味の園芸」クレチマスの花言葉:花言葉や花名の由来、種類、歴史は? :「Hana Saku」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.03.24
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禅宗以外にも龍との縁が深いことは、「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」のシリーズで触れてきました。いわば、その続きにもなります。天井画と襖絵などの領域で龍が描かれているかというという点です。龍探しをしてみますと、やはり龍はいます!!まずは天井画からご紹介します。☆ 東叡山寛永寺(天台宗) 根本中堂の天井絵「叡嶽双龍図」 東京都台東区 (資料1) 創建400周年記念事業の一環 日本画家 手塚雄二筆☆ 圓長寺(浄土真宗本願寺派)本堂の天井画 日本画家 村田林藏筆「雲龍図」(資料2) 長野県須坂市☆ 御寺泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山) 京都市東山区 (資料3) 仏殿 天井画「雲龍図」 公開 舎利殿 天井画 狩野山雪筆「龍図」 「鳴龍」として知られる。 非公開☆ 五智山蓮華寺(真言宗御室派別格本山) 本堂の天井画 西村公朝筆「雲龍図」 昭和53年(1978)に天井画が仏師西村公朝により復元された 京都市左京区 (資料4)☆ 狸谷山不動院(真言宗修験道大本山)会館の天井画 三輪兆勢筆「白龍の図」(資料5) 昭和40年(1965)作 京都市左京区一乗寺 非公開 ☆ 浄福寺(浄土宗) 本堂の天井画 山田文厚筆「雲龍図」 非公開 (資料5)一方、襖絵の方も龍探しでいくつかの事例に出会うことができました。☆ 最上稲荷山妙教寺(日蓮宗)墨絵画家 OHGUSHI 筆 八大龍王尊「雲龍図」襖絵(資料6) 岡山県岡山市 ☆ 本能寺塔頭龍雲院(法華宗) 柏原晋平筆「雲龍図」襖絵 京都市中京区 (資料7)☆ 十念寺(西山浄土宗) 曽我簫白筆「雲龍図」襖絵4面 非公開 京都市上京区 (資料8,9)===「禅と龍」への追補 ===龍探しで新たに見つけた龍たちのご紹介です。☆ 圓徳院(臨済宗建仁寺派) 高台寺の塔頭 書院 赤松燎筆「白龍図」襖絵 (資料10) 本尊正面の室中襖絵 平成7年(1995)制作 京都市東山区☆ 天龍寺(臨済宗)方丈の襖絵 若狭物外筆「雲龍図」 昭和33年(1957)作(資料5,11) 京都市左京区嵯峨☆ 大徳寺(臨済宗) 臨黄ネットの「第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図」は、法堂の天井画を紹介して いますが、この他に非公開のものとして、次の2ヵ所があるそうです。(資料5) 山門の天井画 長谷川等伯筆「雲龍図」 非公開 仏殿の障壁画 海北友松筆「雲龍図」 非公開☆金地院(臨済宗) 南禅寺塔頭 東照宮拝殿の天井画 狩野探幽筆「雲龍図」 拝殿の外から覗いて拝観できるそうです。 (資料5,12)☆麟祥院(臨済宗) 妙心寺塔頭 方丈(本堂) 海北友雪筆「雲龍図」襖絵 非公開(資料13)この辺りで龍探しの一区切りとします。つづく参照資料1.【東叡山寛永寺 創建400周年記念事業】「根本中堂」天井絵 内覧会 YouTube2. 仏画・襖絵・天井画 :「村田林藏 日本画の世界」3. 文化財・施設一覧 :「御寺泉涌寺」4. 蓮華寺(れんげじ)(Rengeji) :「京都通百科事典」 5. 京都市内のおもな龍図 PDFファイル :「Kyoto City Official Travel Guide」6. 最上稲荷山妙教寺 八大龍王尊「雲龍図」ふすま絵 :「OHGUSHI」7. 本能寺・龍雲院 襖絵奉納 :「KASHIHARA SHINPEI official information」8. 十念寺(じゅうねんじ)(JyuunenJi) :「京都通百科事典」9. 曽我簫白筆「雲龍図」襖(十念寺蔵)について 安井雅恵 PDF 京都市文化財保護課研究紀要 創刊号 2018年3月 ネット検索にて入手10. 圓徳院の見どころ 室中襖絵「白龍」 :「圓徳院」11. 天龍寺 大方丈 :「天龍寺・御朱印」12. 南禅寺塔頭 金地院 :「京都つれづれなるままに」13. 海北友雪筆 麟祥院本堂障壁画 :「公益財団法人住友財団」補遺東叡山寛永寺 ホームページ最上稲荷山妙教寺 ホームページ 長さ9メートル超 巨大「雲龍図」 最上稲荷で特別公開へ 26日から【岡山・岡山市】 :「8OHK」襖絵「雲龍図」 OHGUSHI作 / "UNRYU-ZU" by OHGUSHI YouTube芸術・情熱・苦悩6年。国際賞二冠を達成した10mのふすま絵「雲龍図」の長きにわたる挑戦とその軌跡 :「PRTIMES STORY」本能寺 ホームページ御寺 泉涌寺 真言宗泉涌寺派総本山 ホームページ蓮華寺 真言宗御室派別格本山五智山 ホームページ圓徳院 ホームページ圓徳院 :ウィキペディア金地院 :「京都観光Navi」浄土宗浄福寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧条
2024.03.22
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【龍/Dragon】探しの旅もまた、結構シリーズとして回数が増えそうです。こちらも一覧表として積み上げていく形にしたいと思います。第5回までの記事一覧まずは掲載して、これを起点といたします。観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -1 北斎画の龍 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -2 北斎画の龍(2) 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -3 狩野派の龍 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -4 禅と龍 (1) 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -5 禅と龍 (2) 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -6 仏教諸宗派と龍 & 追補観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -7 屏風の龍 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -8 掛幅の龍図観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -9 刀剣と龍観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -10 印籠と根付に見る龍観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -11 衣服に現れる龍 (1)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -12 衣服に現れる龍 (2)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -13 衣服に現れる龍 (3観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -14 陶磁器に見る龍 (1) 瓶・壺観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -15 陶磁器に見る龍 (2) 鉢と皿観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -16 陶磁器に見る龍 (3)茶器ほか観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -17 堆朱に見る龍観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -18 合子に見る龍観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -19 調度(1)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -20 調度(2)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -21 銅鏡(1) 双龍鏡と龍虎鏡観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -22 銅鏡(2) 神人龍虎画像鏡ほか観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -23 掛幅の龍 その2観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -24 掛幅の龍 その3観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -25 浮世絵・屏風絵に見る龍観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -26 落穂拾い:絵画に見る龍観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -27 彫刻に見る龍 (1) 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -28 彫刻に見る龍 (2) 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -29 彫刻に見る龍 (3) 観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -30 中国の龍 (1)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -31 中国の龍 (2)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -32 中国の龍 (3)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ -33 中国の龍 (4)龍探しの旅がさらに一歩が進めば、この一覧表を追加更新していきます。龍探しの旅にお付き合いいただければうれしです。
2024.03.22
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冒頭の写真は、地元にある黄檗山萬福寺の塔頭「瑞光院」を訪れた時に拝見した、山門の右側にある御堂の天井に描かれた龍図です。 堂内には隠元禅師念持仏の準堤観世音菩薩像が安置されています。拙ブログでは、「黄檗山萬福寺とその周辺を巡る」の探訪記シリーズの中でご紹介しています。前回触れていますが、本山の萬福寺は伽藍の配置で龍が示されており龍図自体は見かけません。各宗派の本山の周辺には、塔頭寺院があります。それらの塔頭や宗派に所属する寺院の中には天井画に龍図が描かれているお寺があることでしょう。しかし、瑞光院と同様に、インターネットでホームページを開設し情報開示されていないお寺も多くあると思います。一方、お寺自身からのインターネット情報発信がない場合でも、探訪記などで龍図に触れた記事があります。インターネットで龍探しの旅では役立つ情報です。ネット検索していて、瑞光院とこの天井画他のブログ記事を見つけました。補遺をご覧ください。この龍探しの旅では、探訪記などで取り上げられている龍図情報も気がついたものはできるだけ参照資料に活用しご紹介させていただきます。禅宗系の寺院での龍探しをしてみました。法堂や本堂の天井の雲龍図、また障壁画の雲龍図などを探してみました。順不同です。クリックしていただくことで、参照資料にアクセスしていただけます。☆ 建仁寺塔頭霊源院(臨済宗) 天井画の龍図 京都市東山区 (資料1)☆ 西陣興聖寺(臨済宗) 本堂の雲龍図 京都市上京区 (資料2)☆ 本覚寺(曹洞宗) 天井絵・雲龍図 岐阜県羽島市 (資料3) 1850年大和絵の絵師・浮田一恵(宇喜多一恵)作☆ 長壽寺(臨済宗妙心寺派) 本堂天井画 安藤美香(実香)筆「雲龍図」 (資料4) 長崎県北松浦郡小値賀町☆ 西光寺(曹洞宗) 本堂の天井絵「雲龍図」 川崎市麻生区 (資料5) 12年に一度辰年に一般公開されるそうです。☆ 長泉寺(曹洞宗) 本堂 飛騨の匠・山口権之正筆「龍の大天井絵」 (資料6) 塩尻市奈良井☆ 龍頭山鳳仙寺(曹洞宗) 本堂脇間の天井画「雲龍」 宮城県亘理郡山元町 (資料7)☆ 沖縄市観音寺(曹洞宗) 龍の天井画 書家根本みき筆 (資料8)ここまでが探せた範囲の天井に描かれた龍のいるお寺です。禅寺には、もう一つ、龍のいる場所として障壁画があります。多くは襖絵としてダイナミックに描かれています。襖絵の龍探しを試みました。以下の龍たちに出会いました。☆ 天龍寺(臨済宗) 曽我簫白筆「雲龍図」襖絵 ボストン美術館所蔵の高精細度複製 京都市右京区嵯峨 綴プロジェエクトの制作・奉納 (資料9)☆ 龍安寺(臨済宗) 細川護熙筆「雲龍図」襖絵 京都市北区 (資料10)☆ 満昌寺(臨済宗建長寺派)雲竜図襖絵(非公開) 横須賀市 (資料11) ☆ 無量寺(臨済宗東福寺派) 長沢芦雪筆「龍図」襖6面 和歌山県・串本町 (資料12)☆ 大雲寺(曹洞宗) 武居梅坡作「水墨雲龍の図」 群馬県高崎市 (資料13) 襖絵を屏風絵に修復今までに襖絵の龍を見つけたのは以上です。龍探しの旅を続けていて、板戸に龍が描かれている一事例に出会いました。☆ 龍頭山 庄川寺(曹洞宗) 森山信谷画「龍虎水墨画板戸」 (資料14) 新潟県見附市庄川町この「禅と龍」を調べていて、他宗派のお寺にも天井画や襖絵などに描かれた龍にいくつか出会いました。つづく参照資料1. 臨済宗建仁寺塔頭霊源院 facebook 2. <PR>春の特別公開【西陣興聖寺】:「京都観光Navi」3. 本覚寺 (岐阜県羽島市) 天井絵・雲龍図 :「お寺の風景と陶芸」4. 長寿寺本堂の天井画について :「臨済宗妙心寺派 長壽寺」5. 西光寺 :「川崎・麻生観光協会」6. 長泉寺を知る :「長泉寺」7. 鳳仙寺について :「曹洞宗 龍頭山 鳳仙寺」8. 【水墨画|沖縄市観音寺に龍の天井画を奉納】 :「書家根本みき」9. 雲竜図 曽我簫白 文化財未来継承プロジェクト:「CANON 綴TSUZURI」10. 龍安寺 令和5年度 細川護熙筆「雲龍図」襖絵特別公開 :「京都観光Navi」11. 寺宝 雲竜図襖絵(非公開) :「建長寺派 満昌寺」12. 串本無量寺応挙芦雪館ご案内 ホームページ 13. 大雲寺の武居梅坡作 水墨雲龍の図 :「高崎市文化財情報」14. 龍頭山 庄川寺 :「曹洞禅ナビ」補遺直原玉青を堪能して…瑞光院 :「御朱印で居心地いい日にしよう」【京都府京都市】霊源院で墨龍図に感動しました【あじさい寺】 YouTube臨済宗 興聖寺 ホームページ ← 西陣 興聖寺天井画を描く7日間の制作ストーリー|総まとめ編|水墨画Art Vlog YouTubeみんなの寺 沖縄市観音寺 ホームページ沖縄観音寺 建長寺派 満昌寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 7回のシリーズでご紹介
2024.03.21
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これは超有名な興福寺の阿修羅(アシュラ)像。ウィキペディアの画像を引用。(資料1)阿修羅は八部衆に属します。元は古代インドの異教の神々の一つ。これらの神々が仏教に取り込まれ、仏法を守護する護法善神とされ、8つの部族に再編されて八部衆と総称されるようになりました。阿修羅はその八部衆の一部族です。この八部族は『法華経』の第3「比喩品」や『金光明最勝王経』などの経典に登場します。「天・龍・夜叉(ヤシャ)・乾闥婆(ケンダッパ)・阿修羅・迦楼羅(カルラ)・緊那羅(キンナラ)・摩睺羅伽(マゴラガ)」の八部族です。仏像としては天部に属します。わが国の仏教史においてこの八部衆への信仰は、奈良時代に限定されているそうです。(資料2)阿修羅を含む興福寺の八部衆が代表例になるのは、なるほどと思います、阿修羅像を最初に出せば、「八部衆」という護法善神のグループが印象に残るでしょう。この八部族の一つに、「龍」部族が組み込まれています。これが龍神です。梵名ナーガを漢訳したのが「龍」で、この龍が八部衆での総称となります。「その起源は、古代インドのナーガ族の蛇を神格化した信仰(大海に住む、雲をよび雨を降らす魔力を持つと信じられていた人面蛇尾の半神)にさかのぼり、ナーガ族が仏教徒になった折に仏教に取り入れられて、護法善神になったと考えられている」(資料2)とのことです。つまり、この時点からナーガは仏教との縁が深くなっていったのでしょう。仏教が東漸し、中国に入り経典が漢訳されるとともに、ナーガは龍として中国化されたのでしょう。さらに日本に仏教が伝播されて、現在の龍のイメージが確立・伝承されていると言えるようです。過去の探訪記録写真をベースに、「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」をまとめました。その折、浄土宗系の寺院では山門(三門)や建造物、灯籠などに龍像が使われている事例を取り上げています。 それが禅宗系の寺院になれば、さらに方丈の襖絵や法堂の天井画などに龍が現れます。このシリーズの最初を、 2018.11.10京都・建仁寺(臨済宗)の方丈の襖に描かれた海北友松筆「雲龍図」から始め、 2018.11.10建仁寺法堂の天井に描かれた小泉淳作筆「双龍図」をご紹介し、 東福寺(臨済宗)本堂の天井画、堂本印象筆「蒼龍図」にも触れました。 2012.3.16この「【龍/Dragon】探しの旅」で前回、狩野光信が慶長10年(1605)に相国寺法堂天井画「蟠龍図」を描いていることに触れました。相国寺も臨済宗の一本山です。わが地元の宇治市には黄檗宗の本山萬福寺があります。ここには龍図は描かれていませんが、山内の伽藍配置が龍を表しています。萬福寺については、拙ブログにて、「スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見」と題して、ご紹介しています。さて、京都には本山のある寺院が多いのですが、非公開もあれば撮影禁止のお寺も数多くあります。各地に出かけるということもそう簡単ではありません。そこからインターネットでの龍探しがリンクすることに・・・・。臨済宗と黄檗宗が合同で「臨黄ネット」という公式サイトを開設されています。このサイトに「展示室」というセクションがあります。ここに法堂(はっとう)の天井に描かれた龍について、「第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図」という紹介があります。(資料3)この第6回の記事で、 妙心寺 萬福寺 南禅寺 建長寺 東福寺 円覚寺 大徳寺 方広寺 永源寺 天龍寺 相国寺 建仁寺 向嶽寺 佛通寺 国泰寺の天井に描かれた龍と出会うことができます。簡潔な説明も付記されています。龍探しがまとめてできて、対比的に龍を鑑賞できる有益で便利なページです。このシリーズの冒頭に、八部衆の一つ、龍神に触れて、法堂の天井に描かれる理由が記されています。法堂は住職が仏法を大衆に説くための建物・場所です。天井の龍は、「それが法の雨(仏法の教え)を降らすという意味や、龍神が水を司る神であるため、火災から護るという意味がこめられます」(資料3)とのこと。「第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図」へのアクセスは龍探しの旅でのお薦めです。曹洞宗のお寺ではどうでしょうか。もう一つの禅宗として、やはり龍との縁はあるはずです。臨済宗の他のお寺も龍情報が開示されているでしょうか。【龍/Dragon】探しの旅を続けます。順不同になりますが、まずは龍に出会えた事例を三ヵ所ご紹介します。☆ 永興寺(曹洞宗) 本堂に「天井龍図」、庭には「龍の尻尾」をモチーフにした石造物があります。京都市山科区に所在。(資料4)☆ 高台寺(臨済宗) 開山堂天井の龍図。京都市東山区に所在。通常は非公開。(資料5)☆ 西光寺(曹洞宗) 天井絵「雲龍図」。川崎市麻生区に所在。(資料6)さて、どこまで辿れるか・・・・龍探しのネット旅を続けます。つづく参照資料1. 阿修羅 :ウィキペディア2.『仏尊の事典 壮大なる仏教宇宙の仏たち』 関根俊一 編 学研3. 第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図 :「臨黄ネット」4.山科 永興寺~本堂・龍の天井画&庭園・龍尾の石造~ :「とっておきの京都プロジェクト」5. 非公開文化財特別公開~高台寺・開山堂龍図~ YouTube6. 川崎市麻生区・西光寺 天井絵「雲龍図」を特別公開 :「タウンニュース」補遺臨黄ネット 臨済禅 黄檗禅 公式ネット海北友松 :ウィキペディア海北友松 :「美術手帖」小泉淳作 公式ホームページ京都最古の禅寺 建仁寺 ホームページ 小泉淳作筆「双龍図」、海北友松襖絵「雲龍図」 繋ぐ黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ臨済宗東福寺派大本山 東福寺 ホームページ堂本印象美術館 ホームページ 堂本印象について高台寺 ホームページ高台寺 :「京都観光Navi」曹洞宗雲長山西光寺 ホームページ 永興寺(京都市山科区) :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧探訪 京都・東山 建仁寺再見・細見 -1 三門・法堂を巡り本坊に 5回のシリーズでご紹介スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -1 塔頭の門前を眺めて 9回のシリーズでご紹介
2024.03.19
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この狩野派略系図は桃山時代を中心にしたもの.2015年の特別展開催PRチラシから切り出した略図の引用です。 こちらは手許にある図録の表紙。京都国立博物館で特別展覧会として、2007年に「狩野永徳」展が、2015年に「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」展が開催されました。冒頭の略図は、2015年の図録に挟んで残していた展覧会PRチラシに掲載されている略系図です。この2つの図録を糸口に、インターネットでの龍探しをしてみました。「狩野永徳」図録には、洲信印がある「雲龍図屏風」六曲一双が収録されています。洲信とは永徳洲信で、狩野永徳のこと。この雲龍図屏風は、今治河野美術館蔵です。ネット情報では、伝狩野永徳筆で開示されています。(資料1)同図録には、紙本淡彩の山楽筆蟠龍図縮図一幅も収録されています。2007年のこの特別展覧会で初展示された京狩野家に伝来するもの。東福寺の天井画を縮図で描いたもので筆者は不明とのこと。ネット検索しましたがこの縮図の画像は調べて見た範囲では開示されていません。「桃山時代の狩野派」図録には、狩野孝信(右近孝信)筆「羅漢図」(東福寺蔵)が二幅収録されていて、その一幅は、羅漢たちの頭上はるかの天空に龍が現れた図です。2023年に京都国立博物館で特別展「東福寺」が開催されました。この特別展の中で、吉山明兆筆「五百羅漢図」が展示されました。この明兆が描いた五百羅漢図の中の第46号と第47号の「羅漢図」二幅が孝信筆なのです。明兆筆の原図が損傷したので、狩野孝信がその二幅を描いたということなのでしょう。図録に明記はされていませんので、私的な想像です。「東福寺」展は前期に鑑賞しましたので、第46号の展示を見ましたが、第47号の龍が描かれた方は図録で眺めたに留まります。孝信筆「羅漢図」に現れるの龍像に、ネットのブログ記事で出会いました。(資料2)永徳以前に狩野派で龍を描いた人がいるのだろうか? 調べていて見つけました。狩野派の祖は正信(祐勢正信)。その子の一人、元信(永仙元信)が龍を描いています。京都・清水寺の傍にある「地主神社」の拝殿に狩野元信筆「丸龍」図が天井画として現存していることを今にして知った次第です。(資料3)この龍、にらみ龍として有名だとか。地主神社は縁結びで有名な神社。永徳の子である光信(右京光信)は、慶長10年(1605)に、相国寺法堂天井画「蟠龍図」を描いています。板絵著色。 禅宗と龍図は縁が深いので、そちらを探る時に触れたいと思います。(資料4) 狩野山楽は、狩野派の門弟ですが、京狩野の祖となった画家です。山楽は「龍虎図屏風」六曲一双(京都・妙心寺蔵)として、 龍図を描いています。(資料5)狩野派で、江戸幕府御用絵師となったのは孝信の長子、狩野探幽(探幽守信)です。探幽は、「波に龍図」(大場家蔵、資料6)、「龍図」(資料7)、「龍虎屏風地取」(資料8)を描いています。探幽の弟の尚信(主馬尚信)が、尾形光琳との合筆で「瀧龍図」を描いているのを知りました。狩野派の龍探しを試みて、見つけたのは、山楽の婿養子となった後継者、 狩野山雪筆「龍虎図屏風」の部分図です。(資料10)狩野派の龍を調べていて気づいたことは、正信を祖とする狩野派において、狩野家の系譜は、歴代原則的には「信」の一字を継承しているようだということでした。この辺りで、一区切りと致します。ご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1. <雲龍図屏風> 伝狩野永徳筆 今治市河野美術館蔵:「IM アイエム internet museum」2. 桃山時代の狩野派 :「THE SALON OF VERTIGO」3. 狩野元信筆「丸龍」 にらみ龍 :「京都 地主神社」 4. 狩野光信 :ウィキペディア5. 狩野山楽 :ウィキペディア6. 波に龍図 狩野探幽 :「世田谷デジタルミュージアム」7. 探幽/龍図 :「文化遺産オンライン」8. 探幽/龍虎屏風地取 :「文化遺産オンライン」9. 瀧龍図(狩野尚信・尾形光琳合筆) :「MIHO MUSEUM」10. 狩野山雪/龍虎図屏風 龍 :「壁紙ギャラリー KAGIROHI」補遺狩野派 :ウィキペディア狩野元信 :ウィキペディア狩野永徳 :ウィキペディア伝狩野永徳筆「雲龍図屏風」 国府叢書・文化財絵はがき :「今治市立図書館」1089ブログ 【禅展】研究員のおすすめ 「山楽の吼えるトラ」:「東京国立博物館」 狩野山楽筆「龍虎図屏風」(京都・妙心寺蔵)狩野山雪 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.18
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わが家の玄関への短いアプローチの角に置いたプランターにムスカリが咲いているのに気づきました。 このプランターの側の もう一つの鉢にもムスカリが咲いていました。 アプローチに沿った右側の細長い花壇には、クレマチス・アーマンディが花を開き始めました。私は写真を撮るだけで、花を育ててはいません。花は家人の趣味。花の名前は教えてもらう方です。後でネット検索してみる程度・・・・。咲いた花を見るのは楽しみですが。 その下で、スイセンが今、たくさん咲いています。2月27日にブログに載せた時よりも数が増えているという程度なのですけれど。 今日はそのスイセンの北側、ブロック塀の傍にこの花が咲いていることに気づきました。ツルニチニチソウだとか。 アプローチの左側、玄関寄りに移動させた鉢植えのジンチョウゲが満開になってきました。3月4日時点では咲き始めだったのですが。 ジンチョウゲの西側には、地植えのラベンダーが好き勝手に伸びています。 オーシャンブルーのグリーン・カーテンを取り除いたスペースに置かれたプランターのエンドウの白い花を見ていると、その陰にエンドウの果実ができています。大小2つです。 植木鉢から手前方向に横に伸び出したヒマラヤユキノシタ。真っ直ぐ上に伸びてくくればいいのに、なぜこんな伸び方になるのでしょう。不思議かつおもしろい。 西側の花壇のクリスマスローズの花の数がちょっと増えた感じ。やはり下を向いて咲いています。奈良・東大寺の「修二会」お水取りもいよいよ終盤です。明日、15日が最終日。いよいよ、春が近くなってきた・・・・・そんな気がします。若い頃から、幾度か二月堂前まで見物に行ったお水取りの行事。それは、私にとっては、春の始まりへの象徴です。スマホで確認すると、当地の現在の天気予報は、やや曇り、12度、最高気温は15度。新聞の天気予報は、終日晴れマークです。補遺ムスカリ :「みんなの趣味の園芸」クレマチス・アーマンディの育て方 :「ヤサイエンゲイ」スイセン :「みんなの趣味の園芸」ツルニチニチソウ :「みんなの趣味の園芸」ジンチョウゲ :「みんなの趣味の園芸」ラベンダー :「みんなの趣味の園芸」エンドウ :ウィキペディアヒマラヤユキノシタ :「みんなの趣味の園芸」クリスマスローズ :「みんなの趣味の園芸」お水取り :「奈良国立博物館」修二会 :「東大寺」令和6年度 修二会 拝観について :「東大寺」 ライブ配信 ニコニコ生放送 3月1~15日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 寒空に咲く庭の小さな花たち観照 寒空に咲く庭の小さな花たち(2)
2024.03.14
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(資料1)前回、北斎館企画展のPRチラシを最後に引用しました。そのチラシに使われていたのがこの龍図です。これは信州小布施の東町祭屋台天井絵の「龍図」。桐板着色肉筆画です。小布施の北斎館に展示されています。 (資料1)こちらも絹本着色の肉筆画で「富士越龍図」。嘉永2年(1849)1月に描かれた図で、落款は九十老人卍筆とあるものです。北斎はこの年に亡くなっています。 (資料2)北斎はこの同じ構図の「富士越龍図」を紙にも描き、こちらには佐久間象山の画賛が記されています。どちらが先に描かれたかは不詳で、意見が分かれているようです。(資料2)また、嘉永2年(1849)作「雲龍図」でギメ美術館所蔵の肉筆画があります。あべのハルカス美術館で2017年秋に開催された特別展「北斎-富士を超えて-」に出展されていたそうです。そして、この「雲龍図」は、嘉永2年(1849)に描かれた「雨中の虎図」(太田記念美術館蔵)と対になる画幅だと言います。2023年に東京で、「生きるが如く描く 北斎肉筆の宇宙」という展覧会が開催されました。NTT東日本の展覧会PRページで、北斎の次の「雲龍図」を知りました。(資料3) この絵は、弘化2年(1845)、86歳で描いた肉筆画だとか。(資料4)龍さがしの旅の初めに、北斎の描いた龍で出会ったのは現時点では北斎漫画とあわせてこれくらいです。つづく参照資料1) 葛飾北斎 :ウィキペディア2) 富士越龍図 :ウィキペディア3) 生きるが如く描く 北斎肉筆の宇宙 :「NTT東日本」4) 雲龍図 :「小樽芸術村 収蔵品データベース」補遺画狂人葛飾北斎の美術館 北斎館 ホームページ葛飾北斎の足跡を訪ねて小布施・北斎館へ!名作勢揃い【長野】 :「和楽」【4K】葛飾北斎の天井絵が躍動する祭屋台:長野・小布施「北斎館」| nippon.com YouTube小樽芸術村 ホームページ北斎の晩年に迫る!今秋、あべのハルカス美術館で「北斎-富士を超えて-」が開催:「アソビュー」 ギメ美術館所蔵の北斎肉筆画掲 葛飾北斎 雨中の虎 :「太田記念美術館」東洋の仏教美術が集まる最大の美術館 - Musee Guimet ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.12
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(資料1)年初から辰年に因んで、「時空を跨ぎ龍の棲息地へ」と題して、過去に探訪してきた寺社仏閣や祇園祭の探訪記録写真から、そこで出会った龍たちを抽出してご紹介しました。ご紹介の一区切りを先般終えました。数日前にふと思ったのです。手軽に実際に探訪や鑑賞に出かけられないなら、代わりにインターネットで龍探しができるのではないか。龍は様々なところに登場しているのではないか・・・・・と。インターネット検索での龍探しの旅ならば、絵画・彫刻・織物等の世界にも、日本と世界の区別なく各地各スポットに存在する龍像にも、情報が公開されている限り、自由に飛び回り、アクセスできるのではないか。思いつくままに龍探しをするのも一興かと。自由に公開できそうな画像はご紹介し、龍と巡り逢えるブログ記事などがあれば、リンクを張ってご紹介できるかもしれない。気が向いた時に、時折、思いつくまま、行き当たりばったりで、龍探しの旅にでかけることにしました。ご興味があれば、お付き合いください。冒頭の画像は、『北斎漫画二編』に載る龍図です。6コマ目。右のページには「龍」と明記されています。左のページの上段にも龍らしきものが描かれています。左上は「應竜」と読めます。中段の左は「□竜」、右は判読できません。北斎が空想の龍の仲間をこれらは描画したのでしょうね下段は、たぶん「うわばみ」、大きな蛇の図。大蛇は龍につながるというイメージなのでしょうか。国立国会図書館デジタルコレクションは、情報の宝庫。これは文化年間に新刻された北斎漫画。「尾陽 東壁堂」と内表紙に記されています。それが明治11年に出版され、インターネット公開(保護期間満了)されています。北斎漫画を国立国会図書館デジタルコレクションで手軽に楽しむことができます。 (資料2)『北斎漫画四編』にも、見開きページにまたがる形で黒雲の中に龍が描かれています。その周りには人物画などが並んでいます。 (資料3)『北斎漫画十三編』には、剣にまとわりつく龍が描かれています。左には「倶利伽羅不動(クリカラアフドウ)」と記され、この剣龍は倶利伽羅不動の索なりという意味に受け取れる語句が記されています。不動明王は右手に宝剣、左手に羂索を握る姿です。羂索は「不動明王や羂索観音などの持物(ジブツ)で、五色の糸を撚りり合わせた縄の両端に金具をつけたもの。仏・菩薩が衆生を救済する働きの象徴とされる。けんじゃく」(『日本語大辞典』講談社)という意味です。ここではたぶんこの龍が羂索と見立てられているのでしょうね。 (資料4)『北斎漫画十二編』に載るこの図には、「灰吹き大蛇」と付記されているように読めます。見開きの2ページにまたがって龍が大きく描かれています。辞書を引きますと、「灰吹き」の項に、「灰吹きから蛇が出る」ということわざが載っていて、「小さなこと、または予想しないことから意外な結果が生じる」と説明されています。「灰吹き大蛇」はこのことわざをもじった語句かもしれません。大蛇をさらに巨大化した化身を龍とみなしていたのでしょうか。ならば、とてつもない結果を予感させる絵が描かれているということになりますね。それは、吉か凶か。この絵の雰囲気からすれば、大凶の予感・・・・・かも知れまえん。恐ろしや・・・・・・と惑う人々の姿なのでしょう。 (資料5) こちらは長野県の小布施に所在する北斎館の2021年秋の企画展のPRチラシの引用です。北斎が描いた龍が左上に取り入れられています。この龍はどの絵から登場してきたのでしょうか・・・・・。つづく参照資料1) 北斎漫画 2編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 6/34コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」2) 北斎漫画 4編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 5/33コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」3) 北斎漫画 13編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 5/33コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 北斎漫画 12編 著者 葛飾北斎 画 出版者 片野東四郎 出版年月日 明11 25/34コマ :「国立国会図書館デジタルコレクション」5) 過去の企画展 :「北斎館」補遺国立国会図書館デジタルコレクション 検索トップページ画狂人葛飾北斎の美術館 北斎館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 インターネットで【龍/Dragon】探しの旅へ 」一覧表 へ
2024.03.10
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我が家の小さな庭の西端の花壇に、ボケ(木瓜)が咲きました。山渓ポケット図鑑1『春の花』によりますと、中国原産の落葉低木だとか。 つぼみのボケが花開く時を待っています。 クリスマスローズが咲き始めました。この花もうつむいて咲いています。 ちょっと強引に、花のお顔を見せてもらいました。上掲の図鑑を引くと、クリスマスローズはヨーロッパ原産の多年草。日本でクリスマスローズより広く普及しているのは、3~4月に開花する春咲きクリスマスローズと呼ばれるものだそうです。こちらかもしれません。いずれにしてもクリスマスローズ属の花です。 敷地・小さな庭の南西隅に南天がふさふさと実をつけています。常緑低木です。三月になりました。奈良の東大寺二月堂では、お水取り「修二会」の行事が既に始まっていることでしょう。春が近づいてきました。小さな庭の花たちはその先駆けなのでしょう。今日の天気予報は、最低2度、最高14度。曇り時々晴れと、当地では報じています。スマホの画面表示では、現在12度です。三寒四温の「寒」中になるのでしょうね。ご覧いただきありがとうございます。補遺ナンテン :「みんなの趣味の園芸」クリスマスローズ :「みんなの趣味の園芸」ボケ :「みんなの趣味の園芸」お水取り :「奈良国立博物館」修二会 :「東大寺」令和6年度 修二会 拝観について :「東大寺」 ライブ配信 ニコニコ生放送 3月1~15日 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.03.04
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今日の宇治市の天気予報は、最低3度、最高7度です。朝方には雪の予報がありましたが、雪を見ないですみました。午後5時時点で、スマホの画面は、6度、曇り時々晴れと予報が出ています。この寒空のもとでも、今日、小さな我が家の庭にはいくつかの小さな花が咲いています。 ブロック塀側の小花壇に数本のスイセンが咲き、 壁際に群生するラベンダーが小さな花をほんの少し開いています。南面するリビングのガラス戸前のオーシャンブルーは枯れましたので、一旦ツタを切り取ってしまい、根元の茎だけ残して、グリーンカーテンを取り除きました。 今、プランターに植えたエンドウが白い花を咲かせています。スイセンなどと違い、下向きに咲いています。恥ずかしそうに・・・・と感じてしまいます。 下向きの花弁の上に、雨滴が留まっていました。 側に置かれた鉢にジンチョウゲが花を咲かせ始めていました。『日本語大辞典』(講談社)で「じんちょうげ(沈丁花)を引くと、花弁のように見えるのは萼(ガク)だそうです。外側は紅紫色、内面は白色。小さな白い花が開いています。 「かおりは沈香に、花はチョウジに似ているところから」この花の名が付いたといいます。 別の箇所に置かれたプランターにも、ジンチョウゲが花を開かせています。 もう一つの鉢に咲く花は、 ヒマラヤユキノシタだそうです。家人がそう教えてくれました。花はそれぞれに精一杯生きているのでしょうね。小さな庭の花の記録としてまとめてみました。補遺スイセン :「みんなの趣味の園芸」ラベンダー :「みんなの趣味の園芸」ジンチョウゲ :「みんなの趣味の園芸」ヒマラヤユキノシタ :「みんなの趣味の園芸」エンドウ :ウィキペディアDISH// - 沈丁花 [Official Live Video]沈丁花 歌詞 石川さゆり :「Uta-Net」the shes gone「ラベンダー」Music Video 「スイセンが咲く丘」Blue Sheep / 1st アルバム収録曲空音 / 「水仙」 in VROOM powered by au 5G八代亜紀『花水仙』(Official Audio)七つの水仙 / ブラザーズ・フォー ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.02.27
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=== 2024.1.20 === 南の空南西方向の空 9時30分過ぎに撮りました。小雨が降っていましたので、窓際から二方向だけ撮りました。 観察経験では、雨が降ている時の空はいつもこんな感じです。 南の空 14時40分過ぎに眺めると、雨は止んでいました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も空は雲で覆われていますが、雲の形はわかりやすくなっています。 南の空南西方向の空 16時35分頃に空を眺めると、再び雨が降っています。二方向を撮っただけ。 雲の形は少しわかりやすい程度です。雨が降ったり止んだりという一日でした。=== 2024.1.21 === 南の空ベランダの手すりには、雨の降った跡が残っていました。雨は止んでいました。11時10分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空前日に続き、どの方向の空も銀鼠色の雲で覆われています。 東方向の空15時30分近くに撮りました。稜線上空は雲で覆われています。一方、山並みは思いのほか明瞭に眺めることができました。光の射し具合でしょうか。 南の空南は、大な雲とちぎれ雲が浮かび、青空が広がっています。天気が回復していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 頭上にも青空が広がっていました。 南の空16時55分過ぎに撮りました。大きな雲は飛び去り、雲の姿は様変わりです。南西方向の空 西方向の空 東方向の空稜線上空では、一塊の大きな雲が漂い、山並みの手前には青みが強い素鼠色で鏃状の雲が浮かんでいました。曇りのち晴れの一日です。さて、この雲がたりから逸れて、坂村真民さんの詩についてのご紹介の最後です。真民さんが「わたしの願い」として、三つ目に採りあげているのは、「二度とない人生だから」という一行です。この一行は次の詩に由来します。 二度とない人生だから 二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう 一羽の鳥の声にも 無心の耳を かたむけていこう 二度とない人生だから 一匹のこおろぎでも ふみころさないように こころしてゆこう どんなにか よろこぶことだろう 二度とない人生だから 一ぺんでも多く 便りをしよう 返事はかならず 書くことにしよう 二度とない人生だから まず一番身近な者たちに できるだけのことをしよう 貧しいけれど こころ豊かに接してゆこう 二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりいのふしぎを思い 足をとどめてみつめてゆこう 二度とない人生だから のぼる日しずむ日 まるい月かけてゆく月 四季それぞれの わがこころを あらいきよめてゆこう 二度とない人生だから 戦争のない世の 実現に努力し そういう詩を 一篇でも多く 作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる 若い人たちのために この大願を 書きつづけてゆこう 詩集「海から海に立つ虹」⑤ p90-91この「二度とない人生だから」を詠み込んだ詩が、詩集「しんみん川」に収録されています。併せてお読みいただくと、真民さんの思いに近づけるのではないでしょうか。詩の題に「人」が入っている詩をご紹介します。その他にも、「天女のごとく」、「気づく」、「詩国の皆さんへ」という詩が、「二度とない人生だから」に連なる詩として収録されています。 ある人に あなたは天国のことばかり思うて どうしてこの地上の美しさに 心うばわれないのですか あんたは天国にばかり目を向けて どうして大地の美しさに 目を向けないのですか あなたが熱砂の国に生まれたなら わたしは敢えて申しませんが 山あり川あり海あり 四季折々の花が咲き 春夏秋冬の鳥が鳴く この豊かな国に生まれながら 遠い処ばかり見つめて過ごし あの世へ行ったら むしろ神さまは愚か者よと お叱りになるかも知れません どうか神の造り給うた このとりどりのものを じっと愛の目で見つめて 二度とない人生を 生きてくださいませんか 詩集「しんみん川」 ⑥ p8 まわりの人に こんな美しい如来さまがおられ こんな優しい菩薩さまがおられ 呼んでいられるのに 寄ってゆくこともなく お声をきくこともなく あくせくと日を過ごし お金のために 体も心もくたくたになり 二度とない人生を わびしいと思いませんか 今からでもおそくないから 少し生き方を変えてみませんか 天地と一体になる 広い世界が開けてきます 若い時とまたちがった 喜びが生まれてきます いかがです 一緒にまいりましょう 詩集「しんみん川」 ⑥ p52 ある人へ 光が射しているのに あなたはそれを浴びようとしない 呼んでおられるのに あなたはそれを聞こうとしない 手をさしのべておられるのに あなたはそれを握ろうとしない お経にもそんな人のことを 書いてあります どうか素直な心になって 二度とない人生を 意義あるように生きて下さい 詩集「しんみん川」 ⑥ p337二度とない・・・というフレースは詠み込まれていませんが、真民さんの生き方を端的に詠まれた短詩を最後にご紹介して終わります。 一心 限りある命だから 蝉もこおろぎも 一心に鳴いているのだ 花たちもあんなに 一心に咲いているのだ わたしも 一心に生きねばならぬ 詩集「しんみん川」 ⑥ p379 さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.22 === 南の空 14時55分頃に撮りました。空はほぼ快晴状態です。午前中は撮り忘れ・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 太陽の位置の関係で、頭上の青空だけが見やすく撮れています。 東方向の空稜線上空はあまり見かけない雲の構図です。小型の雲が縦方向に連なるように見えるところがおもしろい。雲の家族のお散歩・・・・風という感じ。 東方向の空17時近くに撮りました。稜線上空は形を何とか見分けられる程度の雲で覆われていました。 南の空 遠くに白雲が横に広がり、手前の空は青空で小さな雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 西から南西にかけての雲の姿はあまり見かけない形でした。こういう雲はどのように呼ぶのでしょうか。 西の遠くの空に夕焼けが見られます。電線が邪魔なのですが・・・・空の一部を切り出してみました。 頭上の空コロナ禍の中で、ふと思って「ベランダから見た雲の変化と雲がたり」をブログに書き始めたのが、2022年12月22日。いつまで続けられるか未知数のままでの試みでした。「2022.10.11~11.7の雲」から始めて、今日(2024.2.24)のブログへの書き込みで、1年と2ヶ月続けることができました。1年余の雲の変化を曲がりなりにも記録に留めることができました。コロナ禍もひとまず終息してきたようです。最後に『坂村眞民全詩集』(大東出版社)全六巻を通して雲を探す試みで、雲がたりに取り組み、全詩集をひとまず通読することもできました。これを区切りとして、このシリーズをひとまず終わりに致します。今後は、撮る場所を限定しないで、おもしろいな、素敵だなと感じる雲があればブログに書き込みたいと思っています。このシリーズをご覧いただきありがとうございます。 付記 大東出版社のホームページを最後にアクセスして、今知ったことです。 『坂村眞民全詩集』は、第7巻・第8巻がその後出版されて、全8巻に なっていました!! 全6巻でなく全8巻であると訂正致します。 手許にはありませんので、このシリーズとしては一区切りです。 あと2巻、読む楽しみができるとともに、課題を残すことにもなりました。補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について二度とない人生だから 藤掛廣幸 YouTube大東出版社 ホームページ 「坂村真民の世界」というページが設けてあります。 (上記の付記はここを見て・・・。誤情報へのお詫びを兼ねて併記しました) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.24
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=== 2024.1.17 === 南の空 9時25分過ぎに撮りました。快晴の空です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空にも雲はなさそうです。少し靄がかかっているように見えました。 東方向の空15時50分近くに、稜線上空を眺めると青空が広がり、雲はなし。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、そして頭上も引き続き快晴の状態が続いています。良い天気です。 南の空 17時20分過ぎに撮りました。雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も、空は雲で覆われた状態に変化していました。=== 2024.1.18 === 南の空朝、雨降っていました。10時10分近くに、窓際から南と南西方向だけ撮りました。南西方向の空 南の空南西方向の空 16時30分近くに、もう一度、二方向だけ撮ってみました。 静かに小雨が降り続く一日でした。さて、雲がたりから逸れて、坂村真民さんの詩についてのご紹介のつづきです。真民さんが「わたしの願い」として、二つ目に採りあげているのは、「めぐりあいのふしぎにてをあわせよう」という一行です。この一行は次の詩に由来します。 めぐりあい 1 人生は深い縁の 不思議な出会い 2 世尊の解かれた 輪廻の不思議 その不思議が 今のわたしを 生かしてゆく 3 大いなる一人のひととのめぐりあいが わたしをすっかり変えてしまった 暗いものが明るいものとなり 信じられなかったものが 信じられるようになり 何もかもがわたしに呼びかけ わたしとつながりを持つ 親しい存在となった 4 子を抱いていると ゆく末のことが案じられる よい人にめぐりあってくれと おのずから涙がにじんでくる 5 めのみない人たちとの ふしぎなめぐりあいが このごろのわたしに かぎりない力をあたえる 手をにぎりあって 喜びあう めしいの人たちとの あたたかい交わりが いまのわたしに ひとすじの光をあたえる 6 めぐりあいの ふしぎに てをあわせよう 詩集「赤い種」 ① p289-290全詩集には、ほかに「めぐりあい」と題する詩が三篇、「めぐり会い」と題する詩が一篇、収録されています。こちらも合わせて読んでいただくと、真民さんの意味される「めぐりあい」を感じ取っていただくのに役立つと思います。 めぐりあい 鎌倉杉本寺の十一面観音に奉る この若い観音は なにを思いつめて いられるのであろうか 衆生の救い難きをであろうか それとも己の力の 足らざるをであろうか きりりとむすんだ口もと 半眼のめじりの張り それは柔和なお顔の観音に 見慣れてきたわたしを しばしとまどいさせるものがあった 思えば青年時代の世尊は こんなお顔であったかも知れぬ ああそれにしても生き難い世に 生きてゆこうとするわたしに 生きる力と励ましとを 与えてくださる この観音との めぐりあいのふしぎさよ 詩集「朴」 ② p198 めぐりあい 足をとめて見入る 花とのめぐりあい 耳をかたむけて聞き入る 鳥とのめぐりあい めぐりあいのふしぎを ふかめてゆこう 詩集「詩国 第二集」 ③ p248 めぐりあい 1 めぐりあい それは ふしぎなもの ありがたいもの なみだのながれるほど てをあわせずにおられないほど わたしをはげまし わたしを生かしてゆく いのちであり ひかりであり つえであり つなである 2 めぐりあい それは この世だけのものではない あの世へ行っても結ばれてゆく 永遠(トワ)なるものである また人と人と間だけのものではない 道のべの一もとの草にも 空とぶ一羽の鳥にも 深いえにしの糸がつながりつながっている 広大にして無辺なものである そのことに気づいた時 わたしの心は柔らかになり わたしの言葉も変わってきた ああ輪廻(リンネ)の花よ わたしにもこの妙なる花を 握らせていただこう 詩集「念珠集」 ④ p86 めぐり会い このひとに会うために つまずき迷い苦しみ悩み 流転流浪の旅を 続けてきたといってよい その人の目は愛にあふれ 澄んで美しく光っていた わたしがめぐり会った時は すでに髪を落とした尼僧の姿であった この不思議な出会いから 暗かった人生が明るくなり 光が射しくるようになり 人を見世の中を見る目が一変した ああ得がたい仏心を頂き 一本の筋金がはいり 真実の世界が開けてきた 詩集「詩国 第二集」 ③ p401「めぐりあいのふしぎにてをあわせよう」という詩句は、これらの詩ともつながっていると思います。さて、雲の変化に戻ります=== 2024.1.19 === 南の空10時10分近くに撮りました。前日は終日小雨が降る天気でしたが、今朝は曇り空です。雲の背後に太陽を感じます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空全方向に銀鼠の雲が広がっています。雨となる雲ではなさそうです。 東方向の空13時20分近くに稜線上空を眺めると、雲の色合いが少し明るくなっていました。雲が覆っている状態には変化なし。 南の空一方、南の空は小型の白雲が青空に浮かぶ形に変化していました。曇りのち晴れです。南西方向の空 西方向の空 西の空には、あまり見かけなかったうろこ雲風の雲がみられました。 頭上の空 南の空 17時5分頃に撮りました。空は再び雲が張り出してきていました。南西方向の空 西方向の空 西の遠くの空は夕焼けています。夕焼けた空の一部を切り出してみました。 頭上の空 東方向の空 稜線上空は、終日雲が覆っていたように思います。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について大蔵山杉本寺 公式サイト霊場巡り 総持寺~包丁の道~ :「春は花」(安田念珠店) 記事の中に、 秩父観音霊場 第三十四番札所 水潜寺 「念ずれば花ひらく」の奉納額 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.23
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=== 2024.1.14 === 南の空 10時5分過ぎに撮りました。どの方向を眺めても快晴でした。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 東方向の空14時過ぎに稜線上空を眺めると、空は一層青空らしい色合いになっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西にかけて、頭上もまた快晴状態が続いています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時50分頃に撮りました。快晴の日の夕暮れ時の空の色合いが眺められました。一日中快晴。良き一日。=== 2024.21.15 === 南の空9時45分近くに撮りました。前日の夕暮れまでは少なくとも快晴でした。しかし、この時、ベランダの手すりには雨が降った跡が残っていました。雨は止んでいましたが、南の方向に素鼠色の雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空三方向の見える範囲は形がわかりやすく活発そうな雲で覆われていました。前日に打って変わって、朝から曇りです。 東方向の空14時30分過ぎに稜線上空を眺めると、雲が覆っていますが、少し穏やかな大きな雲の層に変化しています。一部青空も垣間見えるように。 南の空 南の空にも遠くの方に青空が見えています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空曇りから晴れの方向に変化しつつある感じでした。 南の空16時50分近くに空を見上げると、青空が確実に広がっていました。雲が出ていますが、小さな雲が浮かぶ形の穏やかな感じの雲に変化していました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空の雲には夕映えが見られました。曇りのち晴れの一日でした。さて、この雲がたりのつづきです。とは言いながら、雲から逸れてのご紹介。坂村真民さんの詩そのものについてです。 2024.1.21この全詩集(大東出版社刊)の第六巻に、詩集「しんみん川」が収録されています。この詩集の最後の方に、「天使の鳥」と題する詩が載っています。「『念ずれば花ひらく』を覚えた/ ポー太郎君がこんどは」という詩句から始まる詩です。ポー太郎君といのは、インコなのです。このポー太郎君が真民さんの詩句を覚えてくれたそうです。この詩の最後は、 わたしの念願である 念ずれば花ひらく めぐりあいのふしぎにてをあわせよう 二度とない人生だから この三つを声高らかに唱え鳴く ポー太郎君 ありがとうありがとう p426で終わります。つまり、ここに記された3行が真民さんの詩の中核に据えられているとも言えるでしょう。そこで、この詩句が出てくる詩を全文引用しご紹介して、『坂村眞民全詩集』を終えたいと思います。まず最初にご紹介したいのは次の詩です。 念ずれば花ひらく 念ずれば 花ひらく 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしもいつのころからか となえるようになった そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつ ひとつ ひらいていった 詩集「赤い種」 ① p249この「念ずれば花ひらく」というフレーズが、その後、真民さんの詩の中で繰り返し詠み込まれていきます。例えば: 八字十音の誓願 念ずれば 花ひらく 八字十音の誓願を タンポポの種のごとく 流布させんがために 日夜心身を砕くべし しんみんよ そのほかに 求むべからず 望むべからず 詩集「朴」 ② p308 専一専心 念ずれば 必ず花はひらくのだ 専一なれ 専心なれ 詩集「しんみん川」 ⑥ p14 次のような変形バージョンも・・・・。 御詠歌 念ずれば必ずひらくみ仏の 花の不思議を讃えて生きん 詩集「しんみん川」 ⑥ p167この八字十音「念ずれば花ひらく」は、京都市北区鷹ケ峯にある常照寺に第1番碑が建立されて以来、さまざまな人々の発願により全国各地に建立が広がっているようです。 2023.12.10 これは京都・東山にある知恩院の三門の右側の緩やかな参道、通称「女坂」を登り切る少し手前、参道の左側に建立されている第76番碑です。知恩院で撮ってきました。 全詩集第六巻は、平成3年(1991)10月初版発行ですが、その末尾近くにある収録されている「念ずれば花ひらく第百四十八番碑」と題する詩があります。スリランカの通称ケラニヤ寺院に建立されたもの。ネット検索してみますと、「海外をも含め平成16年2月1日現在では688基に達し」(資料1)という記事をみつけました。現在はさらに増えているのではないかと思います。このブログ記事をお読みいただいたあなたのお住まいの近くにも、「念ずれば花ひらく」碑が発願建立されているかもしれません。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.16 === 南の空9時30分近くに撮りました。小型の雲が浮かんでいる青空が広がっていました。良い天気。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空には雲が幾重にも重なっていますが、青空が見えています。普段の空模様とは一味違う明るさのある空です。 東方向の空14時15分過ぎに、稜線上空を眺めると、空全体を大きくて厚そうな雲の塊が覆う状態に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、そして頭上もまた、同様に雲に覆われる形に変化。経験敵には雨が降る雲とは少し違う感じです。 南の空16時35分過ぎに撮りました。午後の雲が去りゆき、雲は出ているもののその姿は大きく変化。小型の雲が広く散在する形になり青空が見えます。南西方向の空 西方向の空 一方、西の方向は雲に覆われていました。それは頭上の空にも続いています。 頭上の空 東方向の空稜線際にうかがえる遠くの空は青空のようです。一方手前の空にはでんと横雲が巨大なひとかたまりとして山を押しつけようとでもしているようにも見える広がりで浮かんでいました。つづく参照資料1) 真民詩碑 :「日本ワイドクロス株式会社」補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について「念ずれば花ひらく」の碑 :「江差の石碑めぐり」まだま村 念ずれば花ひらくの石碑 :「OSAKA SEKIZAI」オリンピア市から平和の使いと言われました :「株式会社世界地図」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.22
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==== 2024.1.11 === 南の空 9時55分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向を眺めても、空は全面的に銀鼠あるいはそれより少し明るめの布を広げたような雲で覆われていました。 東方向の空13時40分過ぎに稜線上空を眺めると、横雲状に層をなす雲の間に青空が見える形に変化していました。 南の空南方向は薄い雲がふんわりと浮かぶ程度で、青空が広がっています。南西方向の空 西方向の空 西方向は一層淡いあるかなきかの雲がかかる青空です。 頭上の空 頭上に、ぽつんと小さな雲が見えました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時55分近くに眺めると、天気の良かった時の日の入り近くの空の色合いが広がっていました。=== 2024.1.12 === 南の空9時30分近くに撮りました。前日と比べると、雲の姿がはっきりとわかります。南西方向の空 西方向の空 西の方向と頭上は雲が広がるものの青空が見えています。 頭上の空 東方向の空普段の朝の状況と似たような感じですが少し明るさが増していました。 東方向の空14時10分過ぎに稜線上空を眺めると、雲は層状から塊状に変化し、青空が見えるようになっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南に青空が見え、南西から西に活発な感じの雲が張り出しています。 頭上の空 南の空 16時55分過ぎに撮りました。南西方向の空 ズームアップ! 西方向の空 南から西にかけての雲の一部が夕映えしています。これだけの夕映えはめずらしい。 西の遠くの雲を最大限のズームアップで。 頭上の空 東方向の空稜線上空に浮かぶ横雲にも夕映えが見られました。さて、この雲がたりのつづきです。『坂村眞民全詩集』全六巻(大東出版社)を読み通すことと兼ねて、真民さんの詩に「雲」がどのように詠み込まれているかを探すという課題を設定しました。発見箇所の詩句を引用、時には全文の引用ご紹介という形で、雲がたりを続けてきました。真民さんの詩に詠み込まれた「雲」には、その使い方にいくつか特徴があると気づきました。私なりの感想を箇条書き的にまとめてみます。雲がたりとしてご紹介した中からサンプリングし詩句をいくつか例示します。どの巻に収録された詩かを①~⑥で示しています。1.自然現象として、雲そのものを詩に詠み込んでいる。 雨をふくんだ雲が層々と西へ流れていた (「吉田海蔵寺を訪れて」①) きょうも紫の雲をいただいて (「かなかな蝉」②) 石鎚の山際の雲が/ 茜色に染まり/ 日の出もま近かである (「元旦のタンポポたち」④) 黒い雲がひっきりなしに流れていく (「鳥さえも虫さえも」⑤) 一雨サァッと驟雨のきそうな/ 雲のゆききである (「白花夾竹桃」⑥) 飛行機が日本に向かって飛ぶ雲の下に (「三つの虹」⑥)2.自然現象である雲が存在しない、澄明な空を表すために雲を詠み込んでいる。 一点の雲なく/ 満天の星 (「生かされて生きる」③) 一片の雲もなく/ 満天の星 (「暁天祈願」④) 一点の雲もなく/ 光静まる/ 屈斜路湖 (「屈斜路湖」④) 雲ひとつない空に/ 星星がリンリンと冴え光り/ 夜明けの霊気が身にしみる (「寂」⑤) 一片の雲もなく/ 二十四日月が光り (「熱禱」⑥) 雲ひとつない空のもと/ 川は流れ (「メナム川」⑥)3. 真民さんの心情・思いを仮託する対象として雲を詠み込んでいる。 一片の雲にも/ 無辺の詩を抱き (「六魚庵箴言」①) 雲は/ 私の息吹 (「分身」②) あかねの雲が浮かぶと/ いつも茜をしのぶ (「あかね観音」③) あかねの雲から茜が (「あかねの雲」④) 雲よ/ 私の思いを/ 父母の国へ告げてくれ (「四国と詩国」④) あかね雲/ 早世童女茜 (「あかね」⑤) 母の大きな乳房を思いださせる/ 乳雲であった (「乳雲」⑤) いつものように母を乗せた/ 白雲が近づいてくる (「大音声は響く」⑥)4. 雲を比喩として詠み込んでいる。 水のように清められ/ 雲のように高められ (「六魚庵主の願い」①) やがて朴も白雲のような花をつけ (「樹木と人間」①) 動いて止まぬ/ 雲と水 身は雲水の/ 旅なれば (「雲と水」②) 雲のように/ 身軽に/ 生きてゆこう (「三願」③) 虚空の紫雲を/ 先生と観じ/ 合掌する (「抱石庵久松真一先生」④) 流転流浪雲のように水のように/ 定めのない歳月を送ってきた(「比翼」⑤) 白い雲が/ 天使を乗せ/ 諸仏菩薩を乗せ/ 去来する (「証の体験」⑥)5. 自然の雲を、宗教的心性の象徴として詠み込んでいる。 虚空雲海/ 虚空遊歩/ こういう言葉は/ いいなあ (「言葉」④) 心を空にすれば/ 少しも罣礙するものではない/ 白雲は悠々 (「人間の中で」④) 何しろ/ 雲も波も/ 無心なのだから (「遊戯三昧」⑤) 雲のように/ 水のように/ なにごとにも執着せず (「飛鳥飛花」⑤) 無礙無心の/ 雲や水に心ひかれ (「遊」⑤)真民さんの詩の中の「雲」探しをしていて、こんな表現方法の特徴があることに少しずつ気づいていきました。雲がたりからは逸れますが、最後に真民さんの詩そのものについてのご紹介を次回からあと少し続けます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.13 === 南の空10時過ぎに撮りました。ベランダの手すりには小雨の跡が見られました。南の空に雲が張り出していますが、青空が見えていました。南西方向の空 西方向の空 西の方はいくつもの小さな雲が青空に浮かんでいます。 頭上の空 東方向の空稜線上空は、まあ普段のよく見かけ景色です。形の定かでない雲が覆っていました。 東方向の空14時30分近くに撮りました。午前中とさほど変わらない空模様です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西、頭上、どの方向も銀鼠の雲が空を覆う姿に変化していました。三方向の曇り空を撮った後、少しして、暫くの時間ですが小雨がパラつきました。 南の空16時45分近くに撮りました。雨もよいの雲が過ぎ去り、青空が見えるように。南西方向の空 西方向の空 雲そのものの色も明るくなっていました。 頭上の空 頭上は青空が広がっています。 東方向の空稜線際には白雲が広がっていて、その上に銀鼠に青味が色濃く加わった色合いの大きな塊の雲が広がっていました。白雲とあまり見ることのない色合いの雲の広がりの重なりでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.21
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=== 2024.1.7 === 南の空14時50分近くに撮りました。良い天気です。朝は撮り忘れ・・・・。 南の遠方の空には小型の雲が点在しています。南西方向の空 西方向の空 西の空に雲がでています。 頭上の空 東方向の空 稜線上空も青空が広がっていて気持ち良い天気です。 東方向の空16時25分近くに、稜線を眺めると雲に覆われた状態に変化しています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空南から西方向と頭上もまた、雲が広く張り出してきています。青空が見えてはいます。晴れのち曇りという天気になりました。=== 2024.1.8 === 南の空 この日は夕暮れが近くなる16時45分近くに撮っただけでした。 祝日で成人の日。連休の最終日。家に居たはずなのに・・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 雲も見られる晴れた一日ではありました。=== 2024.1.9 === 南の空 9時25分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西および頭上の空は快晴状態です。 東方向の空東の稜線上空は靄がかかっている感じを受けます。午前中によく見かける景色です。 東方向の空14時50分過ぎに稜線上空を眺めますと、雲が少し出ていました。 南の空 南西方向の空 西方向の空 頭上の空頭上には雲がほぼ見えないのですが、南の空から西にかけては雲が出て来ています。 南の空 16時55分近くに撮りました。空の色合いは天気が良かった夕暮れ時の色合いです。南西方向の空 西方向の空 西の果てで太陽が沈もうとしています。電線が避けられない位置にありますので、こんな映像に。滅多に撮れない太陽の姿ですので記録として残したいと思います。デジカメの最大限のズームアップです。 頭上の空 東方向の空さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)第六巻の残りページが少なくなりました。まずは、「大音声は響く」と題した詩です。この詩は、平成2年6月12日の前書きがあります。熊本県玉名市にある蓮華院誕生寺奥の院の開山堂付近に建立された「念ずれば花ひらく」の第139番碑の入魂式当日について詠まれた詩です。第二節に雲が詠み込まれています。 大読経が始まると いつものように母を乗せた 白雲が近づいてくる p405「孤」と題する詩に出てきます。10行の詩です。 孤が 人間を磨く 人間を 本物にする 孤雲 孤島 孤木 孤は わが終生の友 p408「七十三年」と題する詩。全文引用します。 七十三年前の九月十四日父急逝する 七十三年後の九月十四日空路熊本へ行く 雲低く垂れ心は重い 思いもしなかったのに七十三年ぶり しかも命日の日に玉名小学校長室にて 父の写真に対面する(第五代の校長) 七十三年の歳月一瞬にして消え 若き父の姿を見る 新築され校長室は変わっていたが 窓から見える校庭は昔のままだった 父よ私を守り給え そしてわたしの大願を成就させ給え そう告げ 二度ともう来ることもない別れをした p431全詩集最後のこの巻で、雲が詠み込まれた最後の詩は、「三つの虹」と題する詩です。「龍玄尼さまへ」という前書がついています。仏島国スリランカの通称ケラニヤ寺院に龍玄尼さんの発願で「念ずれば花ひらく」第148番碑が建立され、真民さんがその除幕式に参列されたとか。虹と龍玄尼さんとの不思議な交流の発見として、真民さんが虹を見た体験を詠まれた詩。詩の後半、三度目に見た虹についての箇所に雲が出てきます。 飛行機が日本へ向かって飛ぶ雲の下に またしてもまんまるい虹が 立っているではないか わたしは上から虹を見たのは 初めてだったので これは忘れないだろう ああ偉大な人の霊威現象よ p440この第六巻に収録された詩集「しんみん川」から、2つの詩(全文引用)をご紹介します。一つは、「しんみん川」と題する詩。 世界の地図にはないけれど 心のなかを流れゆく とわのいのちの清い川 飲んでご覧よ乳のよに 幸せ喜びいっぱいの なんとも言えない愛の川 しんみん川はあめつちの 光を集めもろびとを 彼岸の国へ渡す川 p421もう一つは「前進しながら」と題する詩です。 過ぎ去ったことは思うな 人間振りかえる病気になると 進歩がとまる ものを作る人間は 前進だけ考えたらいい 前進なくして 進歩はない ギャーティ(行け) ギャーティ(行け) あるのみだ 人間いつかは終わりがくる 前進しながら終わるのだ p434真民さんの詩に詠み込まれた「雲」探しはこれで終わりですが、少し触れておきたいことを次回に続けます。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.10 === 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空9時20分過ぎに撮りました。どの方向もべったりとひろがた布のような雲で覆われています。雨の降る兆しを感じる空の状態。この後、時折小雨が降る天気になりました。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空16時55分近くには雨は止んでいました。雲の様子には変化が現れています。雲の形が少しわかりやすくなっていました。曇り一時雨という一日でした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について親を大切にする心を育んだ第三十三回こどもの詩コンクール :「蓮華院誕生寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.19
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2022.7.23 2017.7.22室町通三条を下ルと「烏帽子屋町」。「鯉山」の会所前には「登龍門 鯉山」の看板と赤提灯が掲げられていて、山が建てられています。どの山鉾も、埓で囲われその前後に駒形提灯が設けてあります。鯉山の会所は、細長い通路を東方向に奥に進むと、まず蔵があり、その先は北側に会所の座敷、南側は細長い庭になっています。 2023.7.23座敷の壁面とその前を使い、会所飾りが行われています。懸装品などの展示の全景です。 2017.7.22座敷の東端には、山舞台に搭載される朱塗りの社殿と鳥居、左甚五郎作の巨大な鯉などが飾ってあります。 2022.7.23まずは、この胴懸です。上部には水引が懸けてあり、ここに龍はいません。 2017.7.22 胴懸は、ギリシャの詩人ホメロス作「イーリアス」物語の一場面を図柄にしたタペストリーを裁断し、その1枚を中央に、両側に波濤雲龍文様の刺繍と併せた三枚継ぎにしてあります。ここに龍がいます。龍の刺繍は350年前の婦人官服からの流用だそうです。(駒札、資料1) 2022.7.13これも上部が水引、下部が胴懸です。 2017.7.22こちらも、同様に波濤雲龍文様で、龍も昇龍の刺繍です。上掲の龍の刺繍と同じ官服からの流用なのでしょう。龍の相貌の表現方法が同じです。 この扁額には、「龍」の文字が墨書されています。中国の伝説によれば、龍門の瀧を鯉が登りきると龍になるとされ、これが「登龍門」の語源となったそうです。(駒札より) 2019.7.242019年の巡行風景です。鯉山では胴懸と扁額以外で、龍を見た記憶も、記録写真もありません。余談です。会所内の通路は、宵山の時、一方通行でUターンする形見物の流れをスムーズにする工夫をされています。南側の長細い庭を進んで、Uターンして、社殿・鳥居・鯉などを拝見し、上掲の懸装品等を眺めながら会所の出入口に戻るという形です。 2017.7.22 2022.7.23 2023.7.23会所の東端に、この小堂が祀ってあります。2017年には、「天道大日如来」と墨書した提灯が吊され、灯明台が置かれていました。2022年には小堂の格子戸は閉じられたまま。2023年には、格子戸は閉じたままで灯明台は設置されていました。訪れたタイミングの問題でしょうか。三者三様の状態がおもしろい。鯉山を後にして、室町通を蛸薬師通まで下り、左折して東に向かいます。最後の「橋弁慶山」があるのは、「橋弁慶町」です。烏丸通蛸薬師西入ルという方がわかりやすいかもしれません。 216.7.23 2022.7.23 橋弁慶山の東西両側からの眺め 2016.7.23蛸薬師通の北側、ビルとビルの谷間に、町家の会所があります。1階に懸装品等を、2階には御神体の人形-牛若丸と弁慶-が安置され、眺めやすくしてあります。 宵山では、弁慶と牛若丸を横並びにして飾ってあります。 2019.7.24 これは2019年の巡行風景です。場所は五条大橋上。牛若丸は欄干・擬宝珠の上に二枚歯の足駄、一本足ですっくと立ち、橋上の弁慶と闘うという瞬間的場面を具現化しています。「牛若丸の人形は足駄金具一本でこれ(=牛若丸)を支えている」(駒札より)のです。 2023.7.231階・表の間には、山ニ搭載される黒漆塗、飾り金具で装飾された五条大橋が座敷の中央に置かれ、懸装品が壁側に懸けてあります。 2022.7.22手前にこの前懸が見えます。右上側に大きな龍、下方に小ぶりな龍が二頭います。全体の景色は波濤雲龍文様の綴錦です。 下方・二頭の龍をクローズアップしてみました。この前懸は現在では、宵山の会所飾りだけで見ることができます。昭和58年(1983)からは、富岡鉄斎原画の椿石霊鳥図綴錦が使用されていますので。(駒札より) 2017.7.22 奥側は後懸です。雲龍文様の刺繍。 2016.7.23こちらは、3列2段のマス目に図柄が描かれ、中央上段に正面龍、下段の左右のマス目に向き合う形で龍がいます。 一部分を拡大しますと、少しはそれぞれの龍が見やすくなるかもしれません。橋を装飾する金具には龍はいません。私が見つけたのは懸装品の龍だけでした。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)祇園祭の宵山巡りと巡行見物で私が眺めてきた範囲の「祇園祭と龍」をこれで終わります。シリーズとして長くなりました。「辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」をご覧いただきありがあとうございます。参照資料*京都市作成の駒札1) 鯉山飾り :「鯉山町衆」2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ鯉山町衆 鯉山保存会 ホームページ タペストリーイーリアス :ウィキペディア橋辨慶山 橋弁慶山保存会 オフィシャルサイト演目事典 橋弁慶 :「the 能.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.18
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2016.7.23宵山では室町通に建てられた山を囲む「埓(ラチ)」越しにすぐ間近で見ることができるこの龍から始めます。その場所は、三条通室町上ル「役行者町」。「役行者山」です。 2023.7.232023年の宵山巡りで訪れた時は、役行者山前で神事が行われる少し前でした。「本山修験宗総本山聖護院による護摩焚が行われる」(駒札より)のです。山伏姿の行者さんたちが参集されます。この年は山の懸装品等に透明の保護シートが被せてありました。 2022.7.23雲龍波濤文様の胴懸です。龍像がダイナミックに刺繍されています。 217.7.22 2019.7.24こちらは、2019年の後祭巡行の時に撮った反対側の胴懸です。 2016.7.23 山に懸けられた見送です。 ここにも龍がいます。それでは、役行者山の会所飾りを眺めて、龍を見つけましょう。 2022.7.23 これは山の欄縁の装飾金具に造形された龍を撮りました。2022年の宵山に訪れた時、会所飾りの方法が大きく変化していました。会所内の通路沿いに展示室風にガラス越しに懸装品等が展示され、網入りガラスを介してごく間近に眺めることができるようになっていました。肉眼で見る分には展示品の細部がわかりやすくなりました。しかし、一方で写真映像としてはこのような記録になり、撮る楽しみは半減です。通路を通り抜けると、役行者山の御神体となる人形三体が納められた蔵の前に向かう形になっていました。以前に撮った会所飾りの記録から、見つけた龍たちをご紹介します。まずは、上掲の欄縁をかつての宵山巡りで部分撮りしたものから始めます。 2017.7.22 様々な姿態の龍が造形され欄縁を飾っています。 2017.7.22この見送は、「袋中上人請来と伝える中国の旗と思われる龍文様のものを二枚合わせ、縁を赤地古金襴(安楽庵裂)で縁どったもの」(資料1)だそうです。手前には、山の四隅に立てられる金弊が置かれています。 2016.7.23上部に水引、下部に胴懸が展示されています。手前に見えるのは山の四隅に懸ける房飾りです。 この胴懸もまた、雲龍波濤文様の綴錦で、龍を正面から見た図柄です。胴懸の上の、二番水引にも龍がいます。 こちらは上部に水引、下部に前懸です。前懸は、中央に牡丹胡蝶図、その左右に雲龍文様を三枚継ぎにしたものです。 左側の雲龍文様。これもまた正面龍です。この前懸は平成9年(1997)に復元新調されました。(資料1)こちらの二番水引にも龍がいます。画像では龍の胴体のうねりで推測していただける程度ですが。 2023.7.23巡行当日、山に安置される御神体の人形が蔵に祀られています。中央に神変大菩薩(役行者)、向かって右側に葛城神、左側に一言主神の三体です。 2019.7.242019年の巡行風景です。役行者山の後、室町通を下り、三条通を東へ。烏丸通三条の南西側は「饅頭屋町」で「鈴鹿山」がありますが、私は会所飾りで龍を見つけていませんのでスキップします。室町通に引き返して、三条下ルは「烏帽子屋町」。 2016.7.23「黒主山」があります。この山の会所飾りを拝見しましょう。 2023.7.231階のフロアーの中央に御神体の人形・大伴黒主が桜の花を仰ぎ眺めている姿で安置されています。三方の壁面には懸装品が展示されています。 2023.7..23 右側の壁面に龍がいます。 2016.7.23一つは、水引に龍が数多くいます。 2017.7.22一頭だけクローズアップしますと、こんな感じです。波濤雲龍文様の意匠です。 2017.7.22水引の下は前懸。波濤雲龍文様で中央に正面龍を大きく、周囲に小龍を配置してあります。萬暦帝御服(バンレキテイギョフク)と伝えられていて、平成元年(1989)に復元新調されたもの。(駒札より) 2016.7.23左側の壁面に懸けられた水引にも、この部分には龍が3頭見えます。左右に展示の水引は繻珍(シュチン)です。 2017.7.22 こちらの水引にも、龍が3頭。 下部の後懸はまさに1頭の龍のみ。3本爪の龍。飛龍文様綿入刺繍で、平成13年(2001)に新調されたものだそうです。惹きつけます。 2019.7.242019年の巡行風景です。上掲、右壁面の前懸が使われています。黒主山から室町通を下り、六角通で左折し東に歩めば、「骨屋町」で「浄妙山」があります。しかし、この山の会所飾りで龍を見つけていません。ここではスキップします。これで一区切りとします。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)室町通に戻り、六角通を下がると鯉山町です。次回でいよいよ後祭の宵山巡りも終わりです。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 役行者山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ祇園祭 役行者山保存会 ホームページ【2023祇園祭】京都・祇園祭 後祭「役行者山の護摩焚き」 YouTube Gion Festival Goma-daki on Enno Gyoja-yama 葛城の神 :「コトバンク」一言主神 :「コトバンク」黒主山保存會 ホームページ万暦帝 :ウィキペディア繻珍 :「きもの用語大全」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.17
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2016.7.23南観音山から新町通をさらに北へ。蛸薬師通を越えると「六角町」です。「北観音山」の駒形提灯がまず見えてきます。 2019.7.242019年の巡行風景です。北観音山もまた、南観音山と同様に、外観は鉾とほぼ同じ姿の曳山です。巡行の時に山舞台には楊柳観音像と韋駄天立像が安置されます。南観音山は楊柳観音像と善財童子像が安置されます。 2023.7.22北観音山の正面に近づき、見上げますと、ここに龍がいます。 2016.7.23 一つは、黒漆塗の桁を飾る金具です。 2016.7.23 2017.7.22 ますここに龍がいます。 上掲の正面を見上げた画像を、画像処理で水平方向に回転してみました。もう一つが天水引。この「雲龍図」に龍がいます。 2016.7.23 山の側面です。 2014.7.22 2016.7.23 側面の天水引にも龍がいます。四面はすべて雲龍図です。 2022.7.23余談です。こちらは2022年の宵山巡りで山の角から二側面を撮ってみました。この景色と上掲の側面をご覧いただき差異に気づかれたでしょうか。天水引が「雲龍図」ではなく「観音唐草」が使われています。この二種を隔年で使用されています。もう一つは、欄縁が異なることです。 2016.7.23 2014.7.22反対側の軒裏を見上げます。桁の装飾金具と天水引に、同様に龍がいます。 2017.7.22 北観音山から再び新町通を北へ。六角通を横断すれば「三条町」。 2016.7.23「八幡山」の駒形提灯です。 2019.7.242019年の巡行風景です。この巡行では、麒麟・唐獅子・獏という「聖獣三体胴掛幕」が使用されています。山舞台には、八幡宮(小祠)と朱塗りの鳥居が載り、その中に応神天皇騎馬像が安置されます。 2017.7.22この金箔を施された八幡宮(小祠)の 脇障子をよく見ますと、龍が透かし彫りにされた雲龍図のようです。何度も宵山で拝見していますが、今回再認識した次第。 2022.7.23八幡山の会所飾りで、この龍の見送を見ることができます。雲龍波濤文図です。 宝暦年間(1751~1764)の制作品だそうです。八幡山では、童の柄の見送(1785年制作)をもう一枚所蔵されていて、これらが隔年で巡行に使われています。ほかに、龍の胴懸があるそうなのですがですが、未見のようです。記憶や記録写真にありません。この後、すぐ北の三条通を東に入ります。そこは「衣棚町」。復活した「鷹山」が見られるところです。 2023.7.23「鷹山」は2022年に再興され、後祭の巡行に復帰しました。鉾とほぼ同じ姿の曳山です。龍を探しましたがいないようです。下水引は麒麟の図柄のもの。2022年の宵山では懸装品に透明の保護シートがかけてありましたが。2023年はスッキリと眺めることができました。大船鉾と同様に、この鷹山の山そのものが段階的に整備されていく様于を眺める楽しみができました。鷹山復活のご紹介と記録を兼ね書き加えておきます。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)新町通から一筋東は室町通。室町通を北に上り、役行者山に向かいます。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 北観音山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ楊柳観音について :「高野山真言宗やすらか庵」八幡山 八幡山保存会 はちまんさんのかわら版鷹山保存会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.16
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=== 2024.1.4 === 南の空南西方向の空 外を眺めますと小雨が降っています。9時50分近くに、窓際から南と南西方向だけ撮りました。 南の空10時5分近くにふと見ると、雨雲が去り、白雲が浮かぶ青空に変化していました。15分ばかり経過しただけですが、様変わりです。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 やはり、青空が見られるのはいい!! 東方向の空 稜線の上に雲が広がっていますが、その上には青空が見えます。 東方向の空14時15分頃に稜線を眺めますと、今度は稜線近くに青空が広がり、その上の銀鼠の大きな雲の塊が浮かんでいます。 南の空南西方向の空 西方向の空 白雲が広がっていますが、南から西にかけては青空が続いています。 頭上の空頭上には銀鼠の雲が広がっています。 南の空 16時40分近くに撮りました。夕方まで青空が続いてくれました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空雲が去り、青空が広がって行ったと言う方が適切かもしれません。=== 2024.1.5 === 南の空 9時45分頃に撮りました。快晴の天気です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 稜線上空は、少し靄がかかっている様ですが雲は見えません。 東方向の空 14時5分過ぎに稜線を眺めると、上空には青空が広がっています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空17時15分近くに撮りました。快晴の一日の夕暮れ時に眺めてきた空の色合いです。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)「濃度」と題した詩の次に、雲という文字が詠み込まれた詩は「乗」と題する詩。全文引用します。 雲は 風に乗り 飛天は 雲に乗り 人は 運命の軽車に乗る 乗れ しんみん ためらわず 大乗の車に p388 大乗の車とは、日本に伝搬されてきた大乗仏教をさすものと理解します。「乗」と題する詩の次の「美しい光」と題する詩の第2節に雲が出てきます。 一片の雲もない 夜明けの空に いきいきと輝き給う 女身明星菩薩 p388「神招き」と題する詩の半ばに雲が出てきます。 高千穂の神神の息吹が 立ちのぼる雲となり 音たてて降る雨となり 三夜四日わたしを包み わたしを変える p394「朴の大会祝詩」と題する長い詩は、 朴をこよなく愛し/ 朴の木を一本でも多く/ 植えようとする運動が/ かつてあったであろうか という詩句からはじまりまります。その詩の末尾に 天に向かって伸びる 純朴の朴よ わたしたちの夢と願いとを 尽十方に広めてくれ 風よ 雲よ 鳥よ お前たちも協力して伝えてくれ 朴寿千年の乾杯よ 天にとどけ 地にひびけ p401今回読み進めた詩編の中に、「宇宙の塵」と題する詩があります。真民さんの生き方を表出している詩の一つと思います。引用し、ご紹介します。 何か一つでもいい いいことをして この世を去ろうではないか 散る花を惜しむ心があったら 一匹のこおろぎでも 踏み殺さないように 心してゆこうではないか 大きなことはできなくても 何か自分でできることをして 宇宙の塵となろうではないか p397さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.6 === 南の空 9時45分過ぎに撮りました。白雲がかなり出ていますが、青空です。南西方向の空 西方向の空 西の方向に雲は見えません。 頭上の空 頭上もほぼ雲がかかっていません。 東方向の空稜線上空は白雲が重なる形で南寄りに見えますが、それ以外はスッキリとした空です。空の色合いは、普段見かける感じですが。 東方向の空15時15分頃に稜線を眺めると、稜線上空全体に白雲が広がっていました。午前中より青味を増した空が垣間見えます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空雲がかなり広がっていました。晴れという基調は変化なしです。 南の空 16時50分過ぎに空を眺めると、空一面にべったりとした感じの雲が覆っています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空どの方向も、同じ感じの雲の状態です。布を広げたような雲ともいえます。晴れのち曇りという一日となりました。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について04439_明星菩薩像 :「東京文化財研究所」木造明星菩薩立像〈(伝空海作):「文化庁」明星観音 :「仏像美術館」大乗仏教 :「ジャパンナレッジ」大乗仏教 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.15
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2024.7.22四条通新町下ルに「大船鉾」が見えます。そこは「四条町」です。平成24年(2012)に、大船鉾が唐櫃にて巡行の加わりました。そして、平成26年(2014)に大船鉾が再興され巡行に加わることになります。これを契機に、後祭巡行が復活することに。2014年以来、前祭(7/17)・後祭(7/24)が楽しめるようになりました。それでは、後祭の山鉾で見つけた龍をご紹介して行きましょう。(私の探訪範囲ですので、見過ごしによる未発見の龍がいるかもしれません。ご了解ください) 2016.7.23 2017.7.222017年に宵山巡りをしたとき、大船鉾の会所飾りで、龍頭が披露されていました。 左側の龍頭は、JR奈良線/京阪電車の「東福寺」駅からほど近い「瀧尾神社」の拝殿天井を飾る巨大な木彫龍の頭部です。この龍頭をモデルに、右側の龍頭が制作されました。 2022.7.15大船鉾は、これで船の舳先の飾りが大金弊と龍との2つになり、巡行のおりにいずれかが使われることになります。2012年は大金弊での初巡行でした。 2022.7.13 2022年に祇園祭の宵山巡りに行った時には、上掲の龍頭に金箔が施され、京都大丸のショーウインドウでお披露目の展示が行われていました。ガラス越しですが、ごく間近に見る事ができました。 2019.7.24 これは2019年の後祭で大船鉾が最後を締めくくり、四条通を東から西に巡行する風景です。 2018.7.222018年の巡行は舳先に木肌のままの龍が飾られたことがこれでわかります。 2022.7.23それでは、舳先の龍頭以外の龍を見つけましょう。 2018.7.22舳先の龍頭の下部に飛龍を刺繍した前水引が懸けてあります。 その下、船の先端部に懸けられた前懸は雲龍波濤文様の綴織です。上部に大きな正面龍、下部に二頭の龍が見えます。 2023.7.232023年には、舳先に大金弊が飾られていました。この場合、正面の前水引は陰に隠れてしまいます。上掲から数葉の大船鉾の写真から気づかれたでしょうか。大船鉾船上の屋形や高欄などの木部の表面が段階的に漆塗り等により装飾・整備されてきているという点です。復活した大船鉾については、大船鉾自体が華麗に整備されていくステップを観察するという楽しみがあります。 2023.7.23両舷側の水引には、様々な姿態の飛龍が波濤の上を飛ぶ姿が刺繍されています。 2023.7.23 2017.7.22 2023.7.22 2018.7.22 楫(カジ)の両面に降龍が後懸に向き合う姿で緋羅紗地に刺繍されています。 後懸は、6頭の正面龍が雲龍波濤文様で描かれた綴織だそうです。それでは、四条通を横断し、新町通を北上します。四条通から一筋北側の錦小路通を超えると「百足屋町」です。 2022.7.23ここに「南観音山」があります。「下り観音山」とも称されています。山名でわかる通り、この山には「楊柳観音」が安置されて巡行します。山の前後方向、屋根の軒下には極彩色の透かし彫りが施されています。 2017.7.22 その一つがこれです。 右側に龍がいます。 2018.7.22屋根の下の天水引に龍がいます。四面同じスタイルです。 2016.7.23 龍はこんな姿!!また、 2018.7.23こちらの天水引が懸けられる年もあります。 こちらの龍は巡行の時にも目に止まりやすいことでしょう。 2016.7.23南観音山も外観は鉾と同じです。南観音山の側面です。 2017.7.22三番水引の一部を撮っていました。雲龍文様の水引です。数多くの龍がいます。 2019.7.24 2019年の時の巡行風景です。 2019.7.24この見送にご注目ください。 2005.7.16 こちらは、その見送を2005年の宵山の夜に撮ったものです。この辺で一区切りとして、次は北観音山に進みましょう。 祇園祭・後祭 山鉾地図 (資料2)つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭の歴史 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 祇園祭山鉾巡行路 後祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ大船鉾 四条町大船鉾保存会 ホームページ南観音山 :ウィキペディア楊柳観音について :「高野山真言宗やすらか庵」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.14
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=== 2024.1.1 === 南の空新年の初撮りは10時25分近くでした。雨が降った跡がベランダに見られました。雨は止んでいたので、曇り空をデジカメで記録することから始まりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 いずれの方向も、銀鼠と白鼠の雲が混在する空模様です。 東方向の空15時20分近くに、稜線上空を眺めると雲がびっしりと空を覆ったままです。 南の空 一方、南から西にかけての方向では、青空が見え始めていました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空この日、午後は、拝受した年賀状への対応と新年のブログ記事のまとめ作業をしていたと記憶します。そして、突然、地震の揺れを感じました。当地の速報は震度3でした。「令和6年能登半島地震」の発生。最大震度7ということを報道で知ることに・・・・・。あらためて、被災し亡くなられた方々のご冥福を祈念いたします。合掌。また、被災された皆様には衷心よりお見舞い申しあげます。一日でも早く、日常性が回復し、復興が進むことを願っています。 南の空 17時10分頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空午後は、青空が見えた後、雨が降る天気に戻ることなく夕刻を迎えました。=== 2024.1.2 === 南の空 9時近くに撮りました。快晴といえる天気に変わりました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上空だけは、普段通りの状況です。雲が出ています。 東方向の空 15時5分過ぎに稜線上空を眺めると、青空に転じています。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西の空ならびに頭上は引き続き快晴です。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空16時40分頃に撮りました。快晴の一日と言える状況でした。さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)前回「昭和最後の日」と題する詩を最後にご紹介しました。その次の詩は「昭和の最後を飾ったしんみんテレビ」と題する詩です。 昭和の終りを/ テレビ「念ずれば花ひらく」で/ 飾って下さったことを/ ここに特別しるしておこう ・・・・という詩句から始まる詩が載っています。そして、真民さんの平成に入ってからの詩が続いていきます。「ちぎれ雲」と題する5行詩が、雲の詠み込まれた最初の詩です。 ちぎれ雲 なぜにちぎれて飛んでゆく 呼ばれているのを知らないか もどってこいよ ちぎれ雲 p318「飛天」と題する詩。韓国慶州仏国寺を訪ねられた時の詩で、大梵鐘の飛天を拝された詩の末尾です。 早春の空は澄んで 雲一つなく すべてが一期一会の ありがたさだった p324「朴菩薩」と題する詩。朴の木に菩薩を感得する真民さんが詩の後半に雲を詠み込んでいます。 鳥と歌い 白雲と遊ぶ 世を挙げて 利に走るとも 二度とない人生だ やりたいことをやり 自分の世界を生きていく そうした勇気を 与えてくれるのが 朴だ 朴は わたしの守護菩薩 p328「世を挙げて/ 利に走るとも」という詩句は、真民さんの生き方の対極にある世界です。「やりたいことをやり」は、真民さんにとっては、勿論詩作であり「詩国賦算」です。「メナム川」と題する詩。メナム川はタイの母なる川。チャオプラヤー川のことです。 雲ひとつない空のもと 川は流れ 川に暮らす人たちの 素直な姿よ p371と詩の途中に雲が出てきます。「傷心の子に」と題する詩。詩の途中に出てきます。 その夜九十九里浜沿いの家に泊り 親子三人で寝た 翌朝の日の出が美しかった 雲ひとつない洋上から 日が光り輝き出るのを 三人で拝した p375「濃度」と題する詩の末尾に出てきます。真民さんのルーティンワークである重信川の彼岸での暁天の祈りに関連した詩です。 重信川 わたしの祈りを 一番知っている川 一片の雲もなく 満天の星 p379今回ご紹介した詩の途中にある詩をご紹介したいと思います。上掲の「朴菩薩」とも照応する詩「あるがままに」です。雲は出てきませんが、真民さんの信念が表出されている詩の一つです。全文引用。 才なき人は才なきままに 処するがよい 花にたとえるなら侘助(ワビスケ)のように 鳥にたとえるならみそさざいのように おのれの花を咲かせ おのれの歌をうたい 嘆かず訴えず なにごともあるがままに 生きるのが一番よい p365真民さんにとってのおのれの花は詩作であり、詩国賦算が花を咲かせることなのです。そして「念ずれば花ひらく」の八字十音の真言を人々に知ってもらい、体感してもらうことが、花ひらくにつながっています。さて、雲の変化に戻ります。=== 2024.1.3 === 南の空 10時10分近くに撮りました。先日とは一転して、曇り空。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空いずれの方向も、雲で覆われています。それも形が定まらない雲。雨になりそうな雲です。 東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空14時10分過ぎに空を眺めると大きな変化はなし。この後、夕刻から小雨が降り始めました。連日、能登半島地震の実況報道が大きなウエイトを占めていました。令和6年、悲しいことですが、鮮烈な記憶に残る年初となりました。自然の威力のすさまじさ。人知の及ばない自然のパワーを改めて感じている次第です。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について平成 :ウィキペディアホオノキ/ほおのき/朴の木 :「庭木図鑑」朴の木 (ほおのき) :「季節の花300」ワビスケ :「草木図譜」侘助 :「くすきの杜」ミソサザイ :「サントリーの愛鳥活動」ミソサザイ好きのためのおみそ動画【作業用・途中広告なし】 YouTubeチャオププラヤー川 :ウィキペディア世界地図でメナム川はいつからチャオプラヤ川になったのか?:「タイランド ハイパーリンクス」重信川 :「国土交通省」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.13
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2023.7.17室町通は、錦小路通と一筋北側の蛸薬師通との間が「山伏山町」で、そこに「山伏山」が建てられています。宵山巡りには、室町通りに面した会所の二階に、御神体の人形を眺めることができます。そのものズバリ。山伏の姿です。「昔八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿をあらわしている」(資料1)と言われています。 これは室町通から見える1階の会所飾りのうち、懸装品の一つの見送です。ここに龍がいます。 2023年の巡行風景 見送の全景を切り出してみました。 2023.7.16 会所内の通路を挟んだ壁面には懸装品が並べて飾られています。一番手前の前懸の上部の左側には 龍がいます。切り出して色彩補正の画像処理をして少し見やすくしました。 切り出した前懸の下部には、龍が並んでいます。波濤雲龍文様です。 2023.7.16右から2つめは、その姿から推測して見送(ミオクリ)です。ここにも3頭の龍がいます。巡行の時、山の後ろに懸けられます。いわば、山の後ろ姿になります。 2009.7.15 2009年の宵山巡りで、山伏山の蔵内に懸けた状態の「古見送 萬暦龍」を拝見していました。上掲の見送りは復元新調品ということになりますね。 2023年の巡行。河原町通御池で山伏山を回すパフォーマンスをコマ撮り風に・・・・・。錦小路通に引き返し、左折する(東入ル)と「占出山町」です。 「占出山」が建てられています。 2022.7.13 神功皇后が肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆としたという説話を題材にしている山です。占出とは占って推測するという意味なのでしょう。祇園祭山鉾連合会のホームページでは、「占出」を「divination」(占い、予言、予知)という語で訳出してあります。(資料2)説話の内容から「鮎釣山」とも呼ばれるそうです。 2022.7.13 会所内では、このように懸装品等が展示されています。これらの懸装品等が、山に飾られて巡行する時には、 2023.7.17 このような姿になります。これは2023年の巡行風景です。会所飾りは、壁面の上部に下水引、下部に前懸等が懸けられています。これらは旧蔵品で、復元新調品が会所の奥の座敷に飾ってあります。床に置かれているのは、欄縁と見送を懸ける衣桁のパーツです。 2022.7.13 手前に並ぶのは、欄縁のパーツです。 壁側にまとめられた黒漆塗の丸い棒、これらの装飾金具にご注目ください。 龍がここにいます。これらの丸棒パーツは、 見送を懸ける衣桁に組み立てられます。巡行本番では観覧者からはほとんど見えないか、意識しない部分になっていることでしょう。巡行では全景を眺めるにとどまりがちです。宵山巡りの楽しみは、懸装品類等の品々の細部を比較的間近で眺められることです。さて、占出山を離れ、錦小路通を東に歩み、烏丸通に出ます。南を見れば「笋町」です。 2023.7.16ここには「孟宗山」が建てられています。町名は「たけのこ」。山の名前の「孟宗」は、中国の史話「二十四孝」の一つに出てくる人物名です。病身の母を養う孟宗が、真冬に筍(タケノコ)をさがし求め、雪の中から掘り当てるという逸話です。竹の一種、孟宗竹はこの孟宗にちなむネーミングだそうです。(資料3,4) 2023.7.16会所飾りの座敷の一角に御神体の人形(孟宗)が安置されています。 よく観察しますと、孟宗の衣服の正面に龍が刺繍されています!!何度か会所飾りを拝見してきていますが、初めて気づきました。 2023年の巡行風景 2023.7.17 改めてよく記録写真を観察してみますと、 孟宗の衣服の背中の方にも龍が刺繍されています。ここにも龍がいました。余談ですが、孟宗山の会所前の駒札によりますと、笋町会所(孟宗山)は会所家と土蔵が京都市指定有形文化財に指定されています。 2023.7.16会所の敷地内に祀られた地蔵堂が「附(ツケタリ)地蔵堂」として登録指定の一部になっています。前祭の宵山巡りでは、この孟宗山を最後にすることが私の通例です。ここで、1箇所、最後にご紹介する山があります。「保昌山」です。 2018.7.16この保昌山だけが他の山鉾とは異なり、少し飛び地になっているのです。場所は、東洞院通高辻下ル「燈籠町」にあります。東洞院通松原上ルとも表記されます。高辻通を軸としますと、東洞院通から西へ、烏丸通・室町通・新町通と三筋進み、新町通上ルが岩戸山という位置関係で、少し距離が離れています。 会所飾りでは、この建物(紫宸殿を模したものか?)の左奥の壁側に この見送が飾ってあります。見送の縁をよく見ますと、 ここに龍がいます。 保昌とは、丹後守平井保昌のことで、和泉式部との間に恋物語が伝わっています。それを題材にしたのがこの保昌山だそうです。和泉式部が保昌に、紫宸殿の紅梅を手折って私に持ってきてよという無茶なことを言ったとか。(駒札、資料5)かつては、「花盗人山」と呼ばれていたそうです。明治初年に改称。 2023.7.172023年の巡行風景です。保昌が和泉式部の求めたことを実行する場面を表しています。 上掲の見送が使われています。 祇園祭・前祭 山鉾地図 (資料6) これで、前祭の宵山で出会った龍たちのご紹介を終わります。引き続き、後祭と龍についても順次まとめてご紹介したいと思っています。おつきあいいただけるとうれしいです。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 山伏山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)2) 占出山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)3) 孟宗山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)4)『日本語大辞典』 講談社5) 保昌山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)6) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺祇園会占出山雛形 :「文化遺産オンライン」山鉾の魅力細見 -保昌山- :「京都市下京区」藤原保昌 :ウィキペディア和泉式部 :ウィキペディア【解説】花盜人 たびかがみ :「天来書院」祇園祭 山鉾篇 :「フィールド・ミュージアム京都」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.12
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2018.7.14綾小路通西洞院東入ル、あるいは綾小路通新町西入ルは、そこは「矢田町」。「伯牙山」のあるところです。かつては「琴割山」と称されてきて、明治4年(1871)に「伯牙山」に改称したそうです。中国・春秋時代の琴の名手・伯牙は、鐘子期という伯牙の琴演奏の真価を味わえる友人を無くした時、琴の弦を断ち二度と琴を弾かなくなったと言います。この逸話が親友を示す「知音」の由来になったと言います。(資料1) 宵山の会所飾りで見たのがこの龍文様の錦の前懸です。 強引に拡大してみました。ここに龍がびっしりといます!! 2023.7.172023年の巡行時の伯牙山の正面、「慶寿裂」と称される前懸の下に、上掲懸装品が使われています。 余談です。この景色は、河原町通御池の辻(交差点)の北東側から撮った景色です。山鉾の巡行方向は、河原町通を北に進んできて、この写真のビルの右方向になる御池通に90度曲がって西へ巡行します。この先の御池通には観覧席が設けられています。すると、この伯牙山の向きが違いますね。これは山の場合、この辻で単に90度曲がって御池通に進むのではなく、山自体を舁き手の人々が方に担ぎ上げて、辻で数回くるくると回し、山の各側面を観覧者が見られるパフォーマンスを行うのです。鉾と鉾の形式の山が「辻回し」をする代わりになっていると、私は解釈しています。どの山も行われています。それが辻で見物する楽しみでもあります。洛中洛外図の巡行風景を見ますと、かつての巡行は山を担いで巡行したのでしょうが、現在の山には、小型の車輪が設けてありますので、直線方向は押していくことで巡行できる形です。西洞院通に引き返し、北に向かいます。綾小路通の一筋北は四条通です。四条通の南側歩道から、四条通を横断して西洞院通上ルには「蟷螂山」、四条通の北側の西方向には「四条傘鉾」、東方向には「郭巨山」が見えます。私の宵山巡りの経験では、四条傘鉾と郭巨山では龍を見つけていません。見落としているのかもしれませんが・・・・。そこで、四条傘鉾と郭巨山はスキップします。四条通を横断し、西洞院通上ルは「蟷螂(トウロウ)山町」。蟷螂はカマキリを意味します。 「蟷螂山」 2017.7.15蟷螂山は「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事に由来し、南北朝時代に、足利義詮軍に挑んで戦死した公卿、四条隆資(1292~1352)の戦いぶりを象徴したと言います。四条隆資はこの辺りに住んでいた公卿で、四条家の御所車を模したそうです。(資料2)山に小型の御所車が搭載され、御所車の屋根に大きなカマキリが乗っています。このカマキリはカラクリ人形で、前脚と翅が動く仕掛けになっています。御所車の車輪も回転するようです。カマキリの動きは見物していますが、車輪は記憶がありません。カマキリも巡行中、始終動かされるわけではないようですので、見られるかどうか、観覧者には運不運がありますね。 2022.7.13蟷螂山の山建てを見物しているときに撮ったものです。御所車の御簾が巻き上げた状態です。御簾の左右にご注目! 御所車の左側面の御簾の両側には降龍が装飾されています。 2017.7.15右側面は、逆に昇龍が装飾されています。いずこでも、昇龍・降龍は一対です。 2017.7.15御所車の右側面です。御簾は下がっています。宵山で普通にみる景色です。 御所車を牛に曳かせる轅(ナガエ)の根元のすぐ傍に、龍頭が彫刻されています。 同様に、左側の轅の傍にも龍頭が見えます。 2023.7.17 2023年の巡行風景。宵山での保護のための覆屋がない本来の姿が良いですね。四条通に戻って東に進み、新町通を上ルと「小結棚町」です。 そこに「放下鉾」があります。鉾の上に立つ真木の中程の「天王座」に放下僧の像を祀ることに由来する鉾名です。駒形提灯に見える赤色の文様が、鉾頭に掲げられ、日・月・星の三光が下界を照らす形を象徴しています。この形が州浜に似ていることから「すはま鉾」という別称もあります。 2023.7.172023年の巡行の時の景色です。河原町通御池の交差点で「辻回し」の準備をしている場面です。車輪の車軸は固定されていますので、車輪は前後方向に回転するだけ。そこで、車輪に対して割竹を敷き並べ、水を撒いて、その上を滑らせるて強引に一定の角度回転させるのです。 2022.7.13この鉾の天水引に着目してください。 2017.7.15天水引が四側面に懸けてあります。そこに雲龍文様が刺繍されています。 2023.7.172023年の巡行の時の下水引で龍は無縁です。しかし 2017.7.15 2017年は、龍を描いた下水引が懸けられました。 放下鉾から新町通を北へ。四条通から一筋北側の錦小路通に右折します。「天神山町」に「霰天神山」がありますが、龍と出会っていませんのでスキップします。 祇園祭・前祭 山鉾地図 (資料3)ここで一区切りとします。次回は前祭・宵山巡りの最後です。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭 伯牙山の名宝 :「京都文化博物館」2) 蟷螂山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)3) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺放下鉾保存会 公式アカウント :「instagram」祇園祭 山鉾篇 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.11
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20237.17これは巡行中の「木賊山」です。船鉾から少し南に下り、新町通と仏光寺通の辻で右折して、西に進みます。新町通の一筋西、西洞院通を越えれば、「木賊山町」です。「木賊山」のあるところ。この山は、謡曲「木賊」を題材とし、木賊を刈る翁が登場します。山鉾巡りをし始めた大昔、駒札に「木賊」の漢字に「とくさ」とルビが振ってあったので覚えたのですが、私には難読漢字の類いです。上掲の御神体の人形が右手に鎌を持っています。この木賊を刈ることを題材とした山です。手許の辞書で「とくさ」を引くと、説明の末尾に古来の用字が木賊と記されていて、「とくさ」の項のすぐ下には、[『砥草(トクサ)』の意」とまず記述されています。「中空の茎が根から直立する常緑多年生のシダ植物。節に葉が退化したさやがある。昔、物をみがくのに使った。[トクサ科]」(『新明解国語辞典第五版』三省堂)と説明されています。物をみがく、それで砥草の意・・・なるほどです。 龍はこの山の欄縁の飾り金具にいます。 2017.4.15 宵山の会所飾りを拝見して、撮っていたのはこの2枚です。駒札には「欄縁金具は緻密な雲龍文様で、角金具は唐団扇(トウウチワ)、木賊と銀兎文様のものが用いられてている」という説明があります。木賊山から、仏光寺通を西に歩めば次は、油小路通と交差する辻です。この辻に立って南を見れば「太子山」、北を見れば「油天神山」が見えます。まずは、油小路通を下ります。仏光寺通と一筋南の高辻通までの間が「太子山町」です。 2017.7.15油小路通の南側から撮った景色。 透明の保護カバーが覆っていて見づらいですが、波濤に飛龍文様の見送です。 2023.7.16こちらの方が少し見やすいかもしれません。保護シートが被せてありますが。 部分拡大しますと・・・・。上部に正面龍、下部に向き合う龍がいます。ここに描かれた龍は5本爪です。この見送、2023年の巡行では使われていません。後でご紹介するように、別の見送が山を飾っていました。こういう点も宵山探訪の楽しみになります。 下水引にも龍がいます。 2023.7.16 2017.7.15毎年のように眺めて来ましたが、「泰家」の前に立てられた赤傘と太子山と白抜きされた赤提灯には情緒を感じます。祇園祭での<太子山会所飾り>をこの泰家が担われ、通りに面した「店の間」で展示が行われています。(資料1)余談ですが、「秦家住宅」として京都市有形文化財登録されている「表屋造り形式」の京町家です。かなり以前に、内部を見学したことがあります。 217.7.15宵山では「店の間」の土間から会所飾りを拝見する形です。正面に御神体の人形・聖徳太子が祀ってあります。、 その手前に、船鉾で見るのと同類の飛龍がいます。この飛龍は、巡行の時に太子山の四隅に飾り房を懸ける箇所の装飾金具です。 2017.7.15 この見送には、上部に二頭、中央に大きく一頭の龍という構図で三頭の金龍が、「波濤に飛龍文様」として刺繍されています。4本爪です。駒札によればこの見送は平成15年(2003)に新調されたとのことです。 2011.7.16 2023.7.16 2023年の宵山では、会所飾りの展示の懸装品と展示方法が変化していて、単体として造形された飛龍以外は見られませんでした。 2023.7.17 2023年の巡行です。 部分拡大してどこに単体の飛龍が使われているかおわかりいただけるでしょう。また、見送は上掲の会所飾りで展示された「波濤に飛龍文様」錦織が懸けられていることがわかります。太子町から油小路通を北に歩み、仏光寺通を渡ると、「風早町」です。 2018.7.14ここが「油天神山」のある所。駒形提灯の前に油天神山と墨書した提灯が見えます。 2017.7.14 巡行当日までは、油小路通に建てられた山には、油天神山で今は保存されている懸装品が懸けられています。宵山でしかみられない風景です。 龍の部分を切り出して色彩補正の処理をしますとこのような感じになります。 会所飾りを拝見しましょう。 2018.7.14 2017.7.14山に安置される社殿と鳥居の右側に前懸が飾ってあります。ここに龍がいます。ここの龍も4本爪です。駒札によれば、平成6年(1994)に新調された「木瓜波濤龍図(モッコウハトウリュウズ)」錦織です。 2023年の巡行です。山正面の前懸の龍はよく見えることでしょう。 下水引は、宵山で見られる龍を刺繍した旧懸装品から平成18年(2006)新調の「翔鷹千花図」に取り替えられています。仏光寺通の一筋北は綾小路通。この通で右折しますと、「芦刈山町」です。 「芦刈山」が綾小路通に建てられています。 2017.7.15 御神体の人形は、難波の浦で芦を刈る老翁。謡曲「芦刈」を題材にした山です。 この老翁の帯の部分に、昇龍と降龍が刺繍されています。 2023.7.16胴懸の「雲龍図」で、中国刺繍・官服直しと説明書きが置かれていました。 2017.7.15 2018.7.14龍を単体でクローズアップして、いくつか撮ってみました。手製の刺繍なので、それぞれ個性が生まれています。 2023年の巡行では胴懸として尾形光琳原画「燕子花図(ッキツバタズ)」が使われています。綾小路通には、西洞院通を挟んで東側に「伯牙山」があります。次回はここからです。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 京都秦家 ホームページ補遺木賊・砥草(とくさ) :「茶の湯辞典」山鉾の魅力細見 -太子山- :「京都市下京区」秦家住宅 :「京都府観光ガイド」山鉾の魅力細見 -油天神山- :「京都市下京区」芦刈山 芦刈山保存会 ホームページ演目事典:芦刈 :「the 能.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.10
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2023.7.16白楽天山の会所から室町通をさらに下ります。仏光寺通を越えてその先の高辻通まで。右折して高辻通を西に入り、室町通から一筋西の新町通を北に上ります。洛中の町内は基本的に通りの両側が同じ町、つまり両側町の構造です。新町通北入る、そこは「岩戸山町」で、「岩戸山」が所在します。 2022.7.132020年に訪れた時は、岩戸山の上でお囃子が実演されていました。写真の時刻記録は15時25分。岩戸山はその名の通り「山」ですが、その形は「鉾」とほぼ同じです。鉾と同様の車輪も備わっています。 2018.7.14岩戸山の側面です。この姿は前回の長刀鉾や月鉾とほぼ同じでしょう。下水引や胴懸には龍はいません。その上の欄縁を観察しますと、 欄縁のこの箇所の右側が龍のようです。この側面を撮っていた時は意識していませんでした。 2022.7.13 もう一ヵ所、別の側面の欄縁にも龍がいます!! こちらはクローズアップで撮っていました。 2017.7.15 さらに、ここにも!!この時、屋根裏に描かれた鳥に注目して写真を撮っていたのです。写真を精査していて、屋根の合掌部の正面に龍が透かし彫りにされていることに気づきました。 2018.7.14こちらは展示でみた下水引「紺地丸龍文様錦織」。ここに龍がいます。説明書きによれば、18世紀初期朝鮮王朝製で、元文5年(1740)に新調され、安政3年(1856)に仕立て直されたものとのこと。 円形の中に、正面龍が織り込まれています。 2018.7.14もう一点、展示で見たのがこの見送(ミオクリ)「日月龍唐子嬉遊図」(一部刺繍)。 ここに龍が!! 見送の上部、額のところに、正面龍がいます。4本爪の龍が描かれています。 2023.7.17岩戸山の巡行風景です。巡行の様子は鉾の巡行とまったく同じ。辻回しも同様です。違いは何か。正面に稚児人形が載っていないことと、屋根の上の違いです。鉾の場合は真木が建てられて先端に鉾頭としてシンボルが取り付けてあります。山の場合は、屋根の上に松の木が立てられていることです。まず屋根を見れば、鉾と山の識別ができます。 上掲の見送が懸けられています。この龍なら巡行観覧者にも目に止まることでしょう。新町通を上り、仏光寺通を渡ると「船鉾町」です。「船鉾」が見えています。私の好きな山鉾の一つです。 2022.7.13船鉾に船尾から近づくことになります。宵山で普段はこのように船尾の見送がストレートに正面から全体を眺められることはありません。鉾建てに続いて懸装品等の装飾が完了し、巡行ができる直前までの準備が終了。鉾の曳き初めの儀式が始まる少し前というタイミングでした。写真の記録時刻は14時27分。 2009.7.15宵山巡りをする普通の状態はこんな景色です。船鉾の周囲には「埒(ラチ)」と呼ばれる囲いが設けられ、前後に距離を置き、駒形の提灯が吊された状態です。懸装品は部分的にしか見えません。 2017.7.15船鉾の船尾には、まず私の好きな螺鈿細工の施された龍が舵の部分にいます。黒漆塗螺鈿細工による飛龍文様の姿です。舵にいる飛龍はこのシリーズの第1回目に触れていますので、ここでは繰り返しません。この船鉾には、他にも数々の龍を見ることができます。そのご紹介に専念します。 2011.7.16 2018.7.14まずは、この見送の龍です。正面龍の形です。 2022.7.13舵から目を上に転じると、艫の高欄の下部に、金色の飛龍が雲の上を飛ぶ様々な姿で丸彫りされ、取り付けられています。 船鉾の左舷 飛龍の下には「麒麟」。 2017.7.15 2017.7.15 右舷 2018.7.14 そして、船の左舷の下水引にも龍がいます!! 船の右舷の下水引にも対照的に龍がいます。 2023.7.16船鉾の船首には、鷁と称する鳥がいます。その舳先の下部に、前懸が懸けてあり、 そこにも正面龍がいます。 2023.7.16船上の屋形の唐破風屋根に目を転じますと、束の両側に、 二頭の龍が向き合う透かし彫りの装飾があることに初めて気づきました。船鉾の船上内部を2011年に拝見しました。私の記憶では、この時は船鉾の曳き初め式に、一般参加として鉾の曳き手に加わり、わずかの直線距離ですが、曳かせてもらえたのです。そして、船鉾の船上内部拝観券をいただきました。有難く拝見した次第。それで知ったことなのですが、 2011.7.16船上の艫の舵を操る舵室になる建屋の柱に 昇龍と降龍が螺鈿細工で描き出されています。ここにも龍がいるのです。 2011.7.16 その時、たぶんその時点で既に保存品になっているオリジナルの懸装品の展示も併せて拝見できました。ここにも龍がいます。船鉾にはそんな思い出があります。 2023.7.17上掲の景色でご覧のように、宵山では、船鉾の周囲に埓が設けてあり、仮設の覆屋が設けてあります。当然ながら、他の山鉾と同様ですが、巡行当日に初めて、船鉾のスッキリした全景を見られることになります。その代わりに、龍がどこにいるかなどの細部は見づらくなります。宵山と巡行は、山鉾の鑑賞という点では相互補完関係になっています。 (資料1)次回は、少し引き返し、仏光寺通を西に歩むところから、ご紹介します。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺岩戸山 岩戸山保存会 ホームページ祇園祭船鉾保存会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.09
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2023.7.16祇園祭の山鉾に棲む龍を探しに行きましょう。まずは前祭から始めます。今までは祇園祭の宵山と巡行という観点で繰り返し祇園祭をご紹介しています。しかし、龍に出会いつつも、龍だけに焦点を当てるということはしたことがありません。そこで、寺院や神社の境内・庭に棲む龍から祇園祭に山鉾を居場所とする龍を、今までに撮ってきた記録写真から再発見する試みを始めました。そのご紹介です。何時撮った写真かを明記しています。過去の写真からの再発見を組み合わせてみます。冒頭の景色は、四条通を西に進み、烏丸通の手前、長刀鉾町に鉾建てされた「長刀鉾」です。 2023.7.16四条通の南側歩道から長刀鉾の側面を撮りました。 2023.7.16 2018.7.14こちらは鉾の同じ側面を撮ったもの。2023年とは鉾の胴懸と下水引(一番)が異なります。しかし、二番・三番水引は同じものが組み合わされています。鉾の欄縁の下に、三枚の水引が重ねられて懸けてります。上から一(下水引)・二・三です。 二番水引には、三本爪の金龍が刺繍されているようです。 三番水引には、龍を正面から描いた正面龍がいます。その隣りには飛龍がいます。 2018.7.14部分拡大してみました。飛龍は、船鉾と大船鉾にもいます。 2018.7.14この三番水引は、正面龍と飛龍が交互にデザインされた構図になっています。 2023.7.162023年に撮った下水引(一番)は一見龍のような相貌をしています。胴体の一部も龍に近い感じ・・・・。しかし、この動物の脚部を見ますと、蹄が描かれています。想像上の動物・麒麟です。鉾の傍に立てられた駒札には、「下水引の五彩雲麒麟図刺繍の図も復元新調品を使用」と説明がありました。山鉾の懸装品は、今までにない新調品が加えられる一方で、今まで使われてきた懸装品の復元新調品が作られ、経年変化が加わってきたオリジナルの懸装品と代替していく事業が計画的に組み込まれているようです。そしてオリジナルは大切に保存するという管理がなされています。この懸装品の代替、いわば新陳代謝を眺めるのも、祇園祭での鑑賞の楽しみになります。長刀鉾で龍に気づいたのはこれだけです。記録写真を精査していて、長刀鉾の欄縁の飾り金具の中に龍がいないかどうか疑問が。この点未確認のままです。課題が残りました。 2023.7.172023年の巡行場面。河原町通御池の交差点で、これから辻回しが始まる準備場面です。現在は長刀鉾だけに、生稚児が乗っています。後の鉾は稚児人形に変わっています。末尾に祇園祭山鉾連合会のホームページに掲載の前祭の山鉾の位置図を引用・借用し切り出してみました。(資料1)山鉾の位置関係をご理解いただくのに役立つと思います。烏丸通を横断すると「函谷鉾」が四条通の北側に見えます。函谷鉾では龍を見つけてはいません。私の見落としかも・・・・・。これもまた課題に。烏丸通から一筋西が室町通です。四条通から北に入りますと、目の前に「菊水鉾」が見えます。この菊水鉾でも龍は未発見です。四条通を南側に渡ると、四条通の南側道路、月鉾町に「月鉾」が建てられています。 2018.7.16四条通の北側歩道から月鉾の側面を撮りました。 欄縁の飾り金具には雲と龍が浮き彫りにされていて、 2018.7.16 二番水引には、様々な姿態の金龍が刺繍されています。 2023.7.172023年の巡行時の月鉾です。たぶん、辻回しの最初の牽引場面。観察経験からは3回に分けた段階的な牽引で90度方向転換されていると思います。鉾の懸装品を眺めると、上掲の2018年と同じ組み合わせで飾られていたようです。月鉾から室町通を南に入ると、鶏鉾町に「鶏鉾」が見えます。鶏鉾では懸装品等に龍がいるかどうか、気づきませんでした。少し南に進めば、綾小路通です。右折してこの綾小路通に立ち寄ります。 ここ(善長寺町)にあるのが「綾傘鉾」です。 2018.7.14 2018.7.14 綾傘鉾の土台の角を覆う飾り金具の一つに、龍がいます。 2023.7.16余談です。 2023.7.17巡行の当日は、綾傘鉾の先を進みながら行われるこの棒振りの鮮やかなパフォーマンスが見られます。宵山でも演技が時間限定ですが披露されます。 2023.7.17綾傘鉾と称するように、かつては鉾の屋根に綾傘を載せた形だったそうですが、今は綾傘だけになり、その名を残して巡行しています。綾傘鉾の巡行を見物する時には、飾り金具の細部など目に止まることがありません。宵山を巡り、山鉾の細部を限られた範囲ではありますが、眺め観察する楽しみがあります。再び室町通に引き返し、少し南に歩めば、白楽天町です。山は建てられていますが、御神体の人形をはじめ懸装品は白楽天山の会所に展示されています。 2017.7.15会所の入口付近から正面に御神体の人形-道林禅師(右)と白楽天(左)-を拝見できます。 2022.7.13左側の壁面に前懸が吊り下げてあり、右側に見えるのは後懸です。 2023.7.16中央はトロイ城陥落の時、アイネイアスが父を救出する場面を描いた毛綴(ケツヅリ)で、その両側に文化5年(1808)に新調された紺地雲龍門刺繍裂が。三点継(ツナギ)で組み合わされています。(駒札より) 2022.7.13この刺繍裂に龍がいます。雲と龍、雲龍文様です。部分図を切り出してみました。 2023.7.1617日の巡行では、前懸はこのように山の正面を飾ります。 祇園祭 前祭の山鉾マップ (資料1)付記:「祇園祭と龍」は実質上第二部と位置づけ、シリーズ番号を30番から始めます。つづく参照資料*京都市作成の駒札1) 祇園祭山鉾巡行路 前祭 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) 補遺祇園祭 祇園祭山鉾連合会 ホームページ長刀鉾保存会 ホームページ月鉾 月鉾保存会 ホームページ綾傘鉾保存会 ホームページ白楽天山 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.08
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=== 2023.12.29 === 南の空 10時頃に撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 いずれの方向を眺めても、曇り空そのものです。 東方向の空14時30分近くに稜線を眺めると、上空は小型の白雲が浮かぶ青空に変化していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 南の空を眺めると、西から南東に広がる大きな雲が浮かんでいますが、青空が広がっています。 頭上の空 頭上を見上げると、ほぼ快晴にちかい状態です。 南の空 16時35分頃に撮りました。大きな塊の雲が去り行き、小さな雲が浮かぶ姿に変化。 青空が続いています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空朝曇りの後晴れていく天気となりました。=== 2023.12.30 === 南の空9時35分過ぎに撮りました。前日の午後から引き続き、天気は晴れでスタート。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南から西方向、および頭上の空は雲がなく快晴です。 東方向の空 稜線とその上空は靄がかかったようでおぼろな感じです。 東方向の空16時55分過ぎに稜線を眺めてると、稜線のかなたの雲に夕映えを少し見受けました。 南の空 青空の下に小さな白雲が広がって漂っています。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけても同様です 南西から西にかけての遠くの空の夕焼けがきれいでした。 ズームアップを最大限にして部分撮りしてみました。 頭上の空さて、雲がたりを続けます。詩集「しんみん川」のつづきです。 (参照『坂村眞民全詩集 第六巻』大東出版社)前回は詩集の題となった「しんみん川」と題する詩で区切りとしました。そこから2つ目の「昇華」と題する詩に雲が詠み込まれています。全文引用します。 祈りが昇華され 雲となり 星となり 露となり 花となり 時には 光る風となり 胸を暖め 目を清くし 日々の暮らしを 高めてくれる p255「そのうち」と題する詩に「雲」が出てきます。前半は悲観的観測。後半は己への使命感に転じて行く詩です。以下は詩の出だしです。 山をうたう詩人もいなくなるだろう 川をうたう詩人もいなくなるだろう 僅かに雲をうたう少女たちが残るだけで 少年たちは草笛も竹笛も知らなくて 大人になるだろう p257「とり年生まれのしんみん鳥を放つ」と題する詩に出てきます。「四月十日愛知県西尾市にて」の前書が付き、碑の建立に関わる詩です。その前半部。 白い幕が除かれ三基の碑が その姿を現すと 一片の雲もない空に 八十羽の鳩が放たれる それはまさに壮観まさに讃美 p259「山中」と題する詩。全文引用します。 わたしを呼んでいるのは 花の精たち 山中 幽たり 寂たり 白雲 遊戯し 去り また来る p262「熱禱」という詩に。これも全文引用です。平和を願う真民さんの詩。 地球は生きている 今日は第四十三回目の 広島原爆記念日 二度とこの悲劇を繰り返さないよう 地球に額をつけ 熱禱する 一片の雲もなく 二十四日月が光り 暁(ア)けの明星が輝き わたしの祈りが 天を染める 恒河沙の諸仏諸菩薩よ 守らせ給え 地球の平安を 人類の幸福を p283「石道」と題する詩の後半に「雲」が出てきます。 久しぶり斑鳩のお寺に来て 白雲を仰ぎ 石道を歩いた 変わらぬものは 斑鳩の声と 松風の音 p290「成道の日の明星光吸飲」と題する詩の前半に「雲」が詠み込まれています。 泣きだしたいような この感激 この感動 雲ひとつないのに どうして拝することができないのだろうかと 川原で祈っていると 東天ひくく一点ぽっと明るくなったと 思ったとたん キラキラと出現して下さったありがたさ p298「昭和最後の日」と題する詩。「一月七日」という前書が付されています。この日の天気、記憶にありません。この詩で再認識しました。全文引用します。 その日 雲は重く垂れ 日は光を放たず 風は一日中声をあげ 昭和は 六十四年の歴史を閉じた 鳥たちもどこへ行ったのか 姿を見せず 午後二時を過ぎると 雨になり いつもより早く暮れていった p302雲の変化に戻ります。=== 2023.12.31 === 南の空2023年の大晦日は、天気予報通り、曇り空です。9時近くに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空 いずれの方向も、曇り一色。 東方向の空16時20分過ぎに稜線を眺めると、午前中のベタッとした感じの雲から雲の姿がわかる位には変化しています。雲が全面に広がっているのは同じ。 南の空雲は午前中の白鼠から銀鼠に色に変わり、雲がそれほど厚くなさそうなことと背後の青空との関係なのでしょうか、雲が青みがかって見えます。南西方向の空 西方向の空 南西から西にかけては青空が垣間見えます。 さて、この天気が明日の元旦にはどうなるのか・・・というところでした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について恒河沙 :「コトバンク」斑鳩はなぜ「いかるが」なのか?古代ミステリー、七十二候「霜止出苗(しもやみてなえいずる)」 :「tenki.jp」昭和 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2024.02.05
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2003.8.30近江(滋賀)の湖東、「竜王山」から始めます。金勝(コンゼ)アルプスと通称されるハイキング・コースを歩いたことがあります。そのとき、この山に、 「金勝寺八大龍王本殿」と刻された石標の立つ小社に出会いました。龍が龍王(竜王)として祀られています。八大龍王とは、手許の『日本語大辞典』(講談社)を引くと、『法華経』に説く仏法を守る八竜王の総称と説明し、その名称を列挙して、その後に、八大竜神と説明しています。難陀,跋難陀(バナンダ),娑伽羅(サカラ),和修吉(ワシュキツ),徳叉迦(トクシャカ),阿那娑達多(アナバダツタ),摩那斯(マナス),優鉢羅(ウバツラ)の8尊を言うそうです。「竜王を本尊として単独に造像することはほとんどないが,密教における祈雨の修法である請雨経法の本尊となる請雨経曼荼羅(まんだら)では,釈迦如来の侍者として八大竜王が描かれている」(資料1)とのことです。また、『岩波仏教辞典』の「八大竜王」の項には、「わが国では水神信仰と習合して、湖沼の水神に<八竜権現 ゴンゲン>など、八大竜王にあやかった神格化を付している場合が多く、雨乞いの神ともなっている」と付記しています。(資料2)上掲の小社は近江の地域性を考えると、雨乞いに関わる龍神信仰とたぶん深い関係があるのでしょう。遡って、龍(竜)についてですが、インドのサンスクリット語のナーガが、漢字としては那伽と音写され、一方、龍(竜)と漢訳されました。「インド神話におけるナーガは、蛇(特にコブラ)を神格化したもので、大海あるいは地底の世界に住むとされる人面蛇身の半神。彼等の長である<竜王>は巨大で猛毒を持つものとして恐れられた反面、降雨を招き大地に豊穣をもたらす恩恵の授与者として信仰を集めた。特にインドの原住民部族の間では古くからナーガ信仰が盛んであった」(資料2)そうです。この<竜王>が仏教の初期段階に、仏法を守護する護法善神として、八部衆の一つとして取り入れられ包摂されました。「中国の竜は、鳳・麟・亀とともに四霊の一つで神聖視された。角、四足、長いひげのある鱗虫の長で、雲を起こし雨を降らせ、春分に天に昇り秋分に淵に隠れるといわれる。そこで仏教の竜も中国的な竜のイメージを思い浮べられるなど、大きく変容した。わが国の竜神信仰は中国の竜と日本の蛇=水神との習合であるが、雨乞いの神、豊漁の神、海の神として信仰された」(資料2)一方、『日本の神様読み解き事典』を引きますと、「竜神」の項で、「竜神は、竜の姿をして水中に住み、水を司るとされる神のことである。日本では、農耕と結びついて雨乞い祈願の対象となり、また漁師にも信仰されてきた」と説明しています。さらに、「竜は蛇が長じて大蛇になり、さらに年が経て竜となり、昇天すると信じられていた。また水を好む蛇であるから、蛇を水の神とし、農業を営む人々の信仰の対象とされ、また漁業者の信仰する海神でもあった」と説明しています。(資料3)古代インドのナーガ信仰が龍王として仏教に取り入れられ、インドから中国に仏教が伝播されて、中国の四神信仰と混淆し、中国の仏教が日本に伝播して、龍王は日本の水の神、龍神信仰と習合して行った側面があるようです。近江の竜王山から、京都・洛中に飛びます。 再び「白峯神社」の境内に。ここには、境内社の一つとして、 2014.2.9 「潜龍社」が祀られています。 この潜龍社の覆屋の左側にも駒札が設置されています。ご祭神は総称が「潜龍大神」で、三大龍王が祀ってあるそうです。祭神名が写真に写る駒札に記されています。白峯大龍王、紅峯大龍王、紫峯大龍王。神道系の龍神ですね。左側の駒札には、「龍神様の坐す潜龍の井から湧き出る神水は、家内安全・家業繁栄並びに悪縁を絶ち良縁を得る霊験あらたかなる水神様として、篤く崇敬されています」と説明されています。白峯神社から、洛東の三条大橋東詰まで飛びます。 2021.11.21川端通の東、三条通の北側に、「だん王法林寺」があります。 この境内の小規模なお堂には龍神像が安置されているようです。右側手前に設置された縁起碑に「霊元天皇の勅令によって現在の龍神尊像が勧請され」と記されています。 正面のお香や花を供える石壇の正面に「加茂川龍神」と刻され、龍が彫刻されています。「加茂川龍神 縁起」には、別名、八大龍王とも呼ばれると記されています。「晴雨を司る神様として、仏法を守護し、民衆を日照りや水難から守ってくれる大きな役割を古来より担ってきた」と説明してあります。三条通を少し東に進み、南に入ると、大将軍神社があります。 2013.4.17 この「大将軍神社」の境内社の一つに、 「白龍弁財天社」が祀られています。境内の南東角に位置します。弁財天は弁才天と同じ。弁才天は梵名がサラスヴァティーで古代インドのサラスヴァティー河が神格化され河神となったそうです。もともとは、土地の豊穣をもたらす農耕の女神。「さらに、弁舌の神ヴァーチと習合されて、恵みを与える福徳神の性格に学才・音楽の神としての性格が加わることとなった」(資料4)とか。この神が仏神に取り入れられました。インドのヒンズー教ではサラスヴァティーはブラフマンの配偶神とされているそうですが、日本では宇賀神との夫婦神として信仰する民俗があります。弁才天の髻(モトドリ)に宇賀神をいただいた弁才天像を見たことがあります。宇賀神は老相人頭蛇身で表現されます。弁才天は河神です。水辺には蛇が棲みますので、弁才天と蛇が結びついてきます。上記のとおり、蛇は龍とリンクしていきます。(資料3) 白蛇=白龍というつながりでしょうか。ネット検索情報で、この白龍弁財天社の御朱印には蛇の図像が描かれているのを見つけました。(資料5)なお、白龍弁財天そのものについての詳細は不詳です。洛東を南に、知恩院境内に向かいます。 2013.6.16 知恩院総門を入り、華頂道を東に進むと華頂学園の学舎の西側に北に入る通路があります。その先に、信州善光寺別院「得浄明院」があります。「戒壇廻り」で知られています。特別拝観で体験したことがあります。 門を入ると、境内の左(西)側に、「白天龍王」と「白女大明神」と二種の墨書された提灯が吊された小社があります。芸事や商売の神様として信仰されているそうです。白天龍王についての詳細は不詳。調べてみますと、余談ですが、ここでは「白天龍王祭」として、5月に「包勝一條流」の「式包丁」という儀式が本堂で奉納されます。(資料6)ここから、洛南の山科、天智天皇山科稜の北側へ。 2018.10.26 飛び先は、琵琶湖第一疏水の北に位置する「本圀寺」(日蓮宗、御陵)です。 本圀寺の境内に、「九頭龍銭洗弁財天」が祀ってあります。 石灯籠の竿の正面に「南無九頭龍銭洗弁財天」の銘板が嵌め込まれています。鳥居の扁額とこの龍を見ていて、ふと、鎌倉にある銭洗弁財天を連想しました。ネット検索で確認すると正式には「銭洗弁財天宇賀福神社」。御陵から、同じ洛南ですが伏見の深草に飛びます。 「瑞光寺」、ここも再びです。 2016.3.20 境内に2つの小社が祀られています。「帝釈天王」と「白龍大弁財天」の2社。いずれも仏法の護法神です。左側が「白龍弁財天」の小社。手水舎に棲む龍のところで、石造の龍像をご紹介しています。さらに、洛南を南へ。中書島に飛びましょう。 境内側から 2013.5.5 「長建寺」(東柳町)。京阪電車「中書島」駅から少し北に、運河沿いにあります。 この1枚しか撮っていなかったのですが、左が地蔵堂で、右が「飛龍大権現」の小社です。飛龍という名称ですので、龍神様なのでしょう。詳細は不詳です。そして、最後は北の稲荷山ニ飛び、この項の締めくくりとします。伏見稲荷大社の周辺には、稲荷に関連する神社やお塚が、大社の本殿がある境内地の周辺から稲荷山の山上まで広がっています。 2016.10.15 伏見稲荷大社の北側周辺を探訪し時に見つけた龍神像。「龍神」の駒札が立っています。 この龍神像の前の道沿いに東に進むと、「豊川稲荷社」があります。 その近くで目に止まったのが「白龍大神」「黒龍大神」と刻した石標が立つ龍神像です。たぶん、これもお塚の部類になるのだと推測します。山上まで様々なお塚があり。石碑に様々な神名が刻まれています。お塚を丹念に観察していけば、「龍」を含む名称の石碑がたぶん数多くあり、信仰対象にされているのではないかと思います。これで、龍神・龍王とされる龍の社について、探訪範囲でのご紹介を終わります。屋根に棲む龍について、一箇所見落としていたところがありました。それを追補します。 そこは「東寺」です。 2013.5.25 境内の中心的な建物の一つ、「金堂」に龍がいました。 記録写真を確認していて龍を再発見したのはこの箇所です。 龍の角の片方が少し欠損していますが、この龍いつ頃からこの位置にいるのでしょう。 上掲の龍から右方向の対称的な位置に、 この龍がいます。ズームアップで記録していたのはこの一枚だけでした。 龍を切り出してみました。左右の龍は姿態が異なる造形です。日本の建物を装飾する物は、多くの場合、左右非対称で、どこか意匠をかえて造形している事例が多いように思います。門の装飾金具の意匠も個々に観察していくと、どこか少しずつ違う。そういう事例が観察経験から多いように思います。これでひとまず、寺院神社や庭に棲む龍の総まとめと致します。これを第一部とするなら、続きとしての第二部は、祇園祭の山鉾に棲む龍たちです。山鉾にいる龍にフーカスを絞って、巡ってみたいと思います。つづく庖勝一條流奉納式【得浄明院】参照資料1) 八大竜王 :「コトバンク」2)『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店 3)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房 4)『仏尊の事典』 関根俊一 編 学研 5) 御朱印 東三條殿 白龍弁財天 大将軍神社 :「インスタグラム」6) 庖勝一條流奉納式【得浄明院】 :「京都観光Navi」補遺金勝アルプス :「YAMAP」白峯神社白峯神社 ホームページ本圀寺 いのちに合掌 :「日蓮宗」銭洗弁財天宇賀福神社 :「鎌倉観光公式ガイド」得浄明院 :「全国善光寺会」伏見宮家ゆかりの尼寺「得浄明院」での「白天龍王祭」。式包丁の奉納を拝見 :「ネコのミモロのJAPAN TRAVEL」京都深草 瑞光寺 ホームページ長建寺 :「京都観光Navi」伏見稲荷大社 ホームページ よくあるご質問お塚のインバウンド :「passport」(大阪観光大学) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.03
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これは「京都御所」の築地塀の南面です。西側から撮りました。東には夏の行事・送り火で「大」の文字が浮かび上がる如意が嶽の山腹を遠望できます。見落としていた門に棲む龍の続編として、京都・洛中にある門から始めます。記録写真を精査していて気づいたものです。 2018.5.4 御所の築地塀の南面には「建礼門」があります。この門は四脚向唐門の形式です。 門のある本柱の頭貫上の蟇股に、 龍がいます。ここから洛東、粟田口に飛びます。 三条通に北面する形で、「佛光寺本廟」があります。既にご紹介しているお寺です。この門も四脚向唐門です。 門扉の頭貫上に、龍虎が向かい合う形の透かし彫りが見られます。 向かって右側に龍がいます。 龍像の背面を境内側から眺めると、このように透かし彫りが裏面に連続しています。洛東を三条通から五条坂へ、南に向かいます。 五条通と東大路通の交差点の北東側に西本願寺の「大谷本本廟」があります。 総門の正面に掲げられた扁額に二頭の龍がいます!!! 総門を見上げると、この龍たちの他に、まだ他に龍がいました!! 総門の木組構造の中で、建物の角の所に組み込まれる尾棰の所に龍が彫刻されています。 こういうスタイルを他で見た記憶がありません。 五条坂から、洛東をさらに南へ。「東福寺」境内に飛びます。 東福寺の「通天橋」は秋の紅葉で有名な観光スポットです。この通天橋へ歩む回廊の途中、右側には築地塀で囲われた「方丈」が見えます。回廊は方丈に向かう唐門へと分岐しています。唐門の前までは行くことができます。この唐門を眺めますと、 門扉の上部に龍がいます。かなり繊細な透かし彫りです。東福寺から洛中の西大路八条に飛びます。 西大路八条交差点の北東側に「若一神社」(七条御所ノ内町)があります。この辺りは、平安時代末期、平清盛が「西八条殿」と称する別邸を建てたエリアです。平清盛が紀州熊野の若一王子の御霊を勧請して祭ったのが始まりと言います。(資料1) 石鳥居に「若一王子」と記した扁額が掲げてあります。 その扁額の上部に向かい合う二頭の龍がいます!! 扁額がちょっと変わった形だなと思って眺めていて、龍に気づきました。さて、ここから洛南の山科へ。 西本願寺の「山科別院」です。ここも既に触れているお寺。 ここの山門にも、蟇股の箇所に龍がいます。 蟇股に巻き付く姿で龍が彫刻されています。少し見える右眼から判断すると左眼の玉眼が欠損となってしまったようです。ここから、近江(滋賀)の湖南へ。まずは膳所に飛びます。 膳所には、山門の左斜め前方に「膳所烈士墳墓所」と刻された石標を設置した「安昌寺」(曹洞宗、膳所一丁目)があります。 道路から 境内側 境内側 山門の降棟のところに、龍像が据えてあります。 かなり傷みがでてきているようですが見事な瓦の造形です。膳所から湖東の東近江市へ。 飛び先は「弘誓寺」(浄土真宗本願寺派、躰光寺町)です。 ここの山門にも龍がいます。二頭の龍が向かい合っています。余談ですが、確認のためにネット検索していて、改めて気づいたことがあります。東近江市に弘誓寺と称する寺が複数出てくるのです。調べていて参考となる事情報に出会いました。「下野国から建部の領主に封ぜられた那須与一宗高の七弘誓寺建立の発願」(資料2)というのがあったそうです。「源平合戦の武者・那須与一の子孫が開創し、または再興した近江の七ヶ寺の弘誓寺を近江七弘誓寺と呼んでいるようだ」(資料3)と説明されるブログ記事も。その所在地が「東近江市瓜生津、東近江市建部、東近江市五個荘、東近江市射光寺、 東近江市小田苅、東近江市中一色の弘誓寺と彦根市の法蔵寺」(資料3)と説明されています。なんと6ヵ寺は今もそのまま「弘誓寺」の名称です。知らないと錯覚してしまいそうです。少し関連情報を検索してみて、私は、現在そこに宗派的に差異がある点を興味深く感じています(資料2~7)。時代の変転の影響でしょうか。さて、最後は奈良に飛びます。 「唐招提寺」で締めくくりたいと思います。南大門は三間三戸八脚門の形式です。 唐招提寺には露天の戒壇があり築地塀で囲まれています。正面の門は四脚門です。この門に龍がいます。 本柱の頭貫の上、蟇股に巻き付く形で龍が彫刻されています。これで門に棲む龍を終わります。寺社等に棲む龍を様々な観点から眺めてきました。寺社関連での龍の最後に、探訪の範囲で知った龍に関わりのある神社についてまとめておきたいと思います。つづく参照資料1) 若一神社 :「京都観光Navi」2) 弘誓寺 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」3) 弘誓寺 (滋賀県東近江市瓜生津町) 近江七弘誓寺 :「お寺の風景と陶芸」4) 弘誓寺 :「滋賀・びわ湖 観光情報」5) 弘誓寺 :「浄土宗寺院紹介Navi」6) 弘誓寺 (滋賀県東近江市小田苅町) 近江七弘誓寺 :「お寺の風景と陶芸」7) 源平の合戦と「那須与一」、愚咄坊(ぐとつぼう)と「近江七弘誓寺」 :「スローライフ滋賀」補遺京都御所 :「宮内庁」佛光寺本廟 ホームページ龍谷山本願寺 大谷本廟 ホームページ東福寺 ホームページ浄土真宗本願寺派 本願寺山科別院 ホームページ平清盛公西八条殿跡 :「フォールド・ミュージアム京都」若一神社 :「平清盛の京を歩く」若一王子 :ウィキペディア曹洞宗安昌寺 ホームページ 膳所烈士弘誓寺本堂 :「文化遺産オンライン」弘誓寺本堂 :「文化遺産オンライン」 上掲とは別。こちらは東近江市五個荘町。唐招提寺 ホームページ 戒壇 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.02
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2019.8.13京都・洛東の黒谷にある「金戒光明寺」から始めます。これは境内墓地の中で出会いました。形式は亀趺(キフ)と称される石碑です。元は「かめの形に刻んだ碑の台石」を意味する言葉だったのですが、碑そのものの異称となったそうです。(資料1)ここでは、亀趺碑と記し、この碑そのものの意味で使用します。亀趺の淵源は中国にあり、朝鮮半島でも数多く作られたと言います。日本の亀趺が墓前碑として作られるのは、江戸時代に始まったそうで、江戸時代になり大型墓葬が整備されたことと関係があるそうです。(資料2) この亀趺碑の上部を見ますと、ここに龍が浮き彫りにされています。 もう一例、この墓地で拝見したのがこの亀趺碑です。「天野可古墓誌銘」と刻されていますので、この石碑には墓誌銘として、死者の姓名・行状・業績などが刻みつけられていることになります。冒頭の亀趺碑は、姓名の後に碑と記すだけですが、こちらも墓誌銘が刻み込まれています。余談ですが、台石としての亀趺を用いているいわば本来の姿のものもあります。私が探訪した範囲では一事例。 2013.10.5滋賀県近江八幡市にある「長命寺」です。寺号碑の台石として亀趺が使われています。金戒光明寺から洛中の「東寺」に飛びましょう。 2013.5.25東寺境内の「毘沙門堂」の近くで、 この亀趺碑に出会いました。この亀趺碑は上部に「佛頂尊勝陀羅尼碑」と刻されていて、その下に、同心円状に梵字(サンスクリット語)が刻まれています。陀羅尼はサンスクリット語のダラーニーの音写だそうで、仏教において用いられる呪文、真言を意味します。(資料3) その下に龍が線刻されています。画像が見づらいので画像処理し、多少は見やすくしてみました。上記二例とは亀趺碑の利用目的は異なります。東寺から、洛南の伏見・深草に飛びます。 2013.5.15丘陵地に「仏国寺」(黄檗宗万福寺派、深草大亀谷)があります。 境内の庭にこの亀趺碑が建立されています。 この亀趺碑の上部にも龍がいます。 この碑は、仏国寺の案内駒札によりますと、「高泉和尚銅碑」(重文)で、正徳元年(1711)に鋳造された中国風の青銅碑として有名だそうです。高泉和尚の教えを受けた近衛家熈の撰文だそうです。(駒札、資料4)京洛を離れ、宇治に飛びます。再び「黄檗山萬福寺」へ。 2013.6.9 亀趺碑に覆屋が設けられた「石碑亭」があります。 この亀趺碑も上部に龍の浮き彫りを見ることができます。その下に、「特賜大光普照國師塔銘」と刻されています。大光普照国師は隠元禅師のことです。 2022.3.30万福寺から西に向かうと宇治川があり、隠元橋が架かっています。この橋の近くが、隠元禅師が川岸に上陸され、万福寺を開山される起点になった場所とされています。 ここに「黄檗開山隠元禅師登岸之地」と刻した亀趺碑が建立されています。 この亀趺碑の上部には、正面から裏面にまたがって龍が彫刻されています。 碑の裏面を見ると、京都華僑黄檗山萬福寺協力会をはじめ、在日華僑の人々が碑建立に協力されたことがわかります。それでは最後に奈良の「薬師寺」へ飛びましょう。 2017.12.4薬師寺境内には、「玄奘三蔵院伽藍」があります。「玄奘塔」への門の手間、参道の両側に亀趺碑が建立されています。 向かって右側の亀趺碑は「大遍覚三蔵」と刻され、上部には龍が「大唐玄奘三蔵法師」の文字を囲うようかのように彫刻されています。 向かって左側も同様です。残念ながら文字が見慣れない書体の文字で判読できません。最初が「聖」、最後が「三蔵」であることはわかりますが。これで、境内・庭等に棲む龍のご紹介を終わります。門に棲む龍の続編をご紹介します。記録写真を確認していて見過ごしていた場所です。つづく参照資料1) 亀趺 :「コトバンク」2) 日本の亀趺 :「江戸・明・古代プロジェクト」(東京大学)3) 陀羅尼 :ウィキペデキア4) 大円広慧国師碑 :「フォールド・ミュージアム京都」補遺浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺 ホームページ萬福寺 :ウィキペデキア法相宗大本山薬師寺 ホームページ江夏友賢墓 :「姶良市デジタルミュージアム」亀趺の亀 :「ぷらら」<第22回企画展>「讃岐の亀趺碑(きふひ)パネル展」 まもなく開催です!! 塩江町歴史資料館 :「塩江つれづれ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.02.01
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2017.6.12寺院・神社の境内には手水舎と灯籠、寺院にはさらに鐘楼・梵鐘があります。これ以外にも、寺院・神社の境内に、龍の居場所があります。冒頭の景色は、京都・洛東にある浄土宗総本山「知恩院」の境内に置かれた香炉です。御影堂の南東方向、池に架かる橋の手前に置かれています。 池の東側の石段道の上に納骨堂がありますので、そのお堂に向かっての香炉になります。 香炉の口縁の下部、凹形にくびれた箇所に龍がいます。北の「平安神宮」に向かいましょう。 2013.5.15応天門を入ると、広々とした広場があり、上下二段仕切られています。手前の下段側に、方位に関係する四神の内の二神の像があります。東側に配されているのがこの「蒼龍」。ここに龍がいます。元々は手洗所の機能を担っていたようですが、今は二神の像として眺める形のようです。西側には白虎の像が配されています。方位としては、北が玄武(神亀)、南が朱雀です。平安京の大内裏の南の門は朱雀門と称されていました。平安京自体の南門が羅生門です。平安神宮から一筋南が二条通です。二条通の南側、平安神宮からは南西方向に、 2022.6.28このオブジェ作品が目立つ場所、「みやこめっせ」があります。 オブジェ作品の東側に、市制100年記念として作られた「悠久」と称するモニュメントがあります。 2003.3.21この半球体の石造モニュメントの東の方位に龍の形象が刻み込まれています。寺院・神社とは外れますが、ここで採りあげておきます。ここから東の南禅寺近くに飛びましょう。この辺りにはよく知られた別荘などがある地域です。その一つに「何有荘(カイウソウ)」があります。特別公開があったときに、探訪し庭園を拝見しました。その庭に、 2004.11.28 龍の石像が置かれています。また、この庭には 「瑞龍」と名付けられた瀧が築造されています。「作庭は7代目小川治兵衛(植治)、洋館の設計は武田五一であり、明治から昭和初期に活躍して名を残した人々の手によってこの邸宅が作られた」(資料1)とのこと。ここから、洛中の中京に飛びます。神泉苑の南西方向、三条通の南に、 2017.3.10「武信(タケノブ)稲荷神社」(今新在家西町)があります。 境内の榎(エノキ)の御神木の大枝が平成20年(2008)8月に折れて落下したそうです。その大枝がチェーソーアート世界チャンピオン城所ケイジ氏によって龍に生まれ変わったのです。 ここから、中京界隈の南東方向に飛びます。 2017.3.10 再び「壬生寺」です。参道を進むと、本堂よりも手前、右側に弁天池があります。 この池に龍がいます。 この龍神像は、板金業を営み、アート&クラフトの領域でも活躍されている桶本忠弘さんの作です。 この橋を渡り、弁天池の中島に行けば、そこは新撰組隊士たちの墓所「壬生塚」になっています。近藤勇胸像、土方歳三胸像も建立されています。いわば新撰組の聖地です。 橋の手前の地面、ここにも龍が! 瓦を使ったこんな龍像が造形されています。さて、洛南に飛びましょう。 2013.5.5まずは、ふたたび伏見の「御香宮神社」です。 探訪した時に、この絵馬額が奉納されているのが目に止まりました。 船首部分に龍が描かれています。船首に龍が彫刻されて取り付けられているということでしょう。ここから、同じ洛南の北東方向、山科に飛びます。 2013.9.21「宮道(ミヤジ)神社」(勧修寺仁王堂町)です。勧修寺の南に位置します。古くは宮道氏の氏神社であり、勧修寺の鎮守社でもあった神社だそうです。(資料2)今では社殿一宇の小社にななっています。 その境内にこの龍頭が安置されています。かつては大きい手水舎があり、浄水を注ぐ龍頭の部分だったのだろうかという連想が働きます。が、事実とその意図は不詳です。(なお、それと推測できそうな写真を掲載されているサイトに出会いました。補遺でご紹介しています)それでは、最後に近江(滋賀)に飛びます。 2013.11.15めざしたのは坂本の「西教寺」です。ここもふたたびということになります。 境内には、この「石造龍頭像」に出会いました。これで一区切りとします。つづく参照資料1) 何有荘 :「京都市都市緑化協会」2)『昭和京都名所圖會 6 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p332補遺平安神宮 ホームページ何有荘 :ウィキペディア武信稲荷神社 ホームページ城所ケイジ チェンソーアート・ジャパン 彫刻人 ホームページ壬生寺 ホームページ 壬生塚案内図桶本忠弘 :「京都工芸美術作家協会」御香宮神社 ホームページ宮道神社(京都市山科区) :「京都風光」天台真盛宗総本山 西教寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。「観照 辰年 時空を跨ぎ龍の棲息地へ」 記事一覧
2024.01.30
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京阪電車・石清水八幡宮駅前のロータリー傍の歩道で目に止まったマンホールのふた。可愛いイラストです。2022年が八幡(ヤワタ)市制45周年だったことがわかります。記念に作られたマンホールのふたです。既に拙ブログで昨年末から年始にかけて、12月24日石清水八幡宮の探訪記をご紹介しました。その日、駅前から八幡宮の周辺を歩いているときにマンホールのふたのウォッチングもしていました。2022年5月に神戸のマンホールのふたをブログに載せて以来、久々にこの見聞考を記すことになります。現在、2つのシリーズを続けていますので、気分転換を兼ねて、まとめてご紹介します。 これが道路・歩道を歩いていて現在目にする汚水のマンホールのふたです。 ふたの中心の太い円形の輪の中に、八幡市の「市章」が象られています。市のホームページを参照しますと、町村合併10周年を記念し制定された市章だそうです。つまり、このエンブレムは、町村合併した10周年の昭和39年(1964)10月1日に「町章」となりました。昭和52年(1977)11月1日、市制施行とともに、改めて「市章」になったことになります。(資料1)もともとは、明治時代に町村制が施行された時に、綴喜郡八幡町、都々城村、有智郷村が発足しました。この3町村が昭和29年(1954)10月1日に合併して、「八幡町」ができました。この八幡町が八幡市となったという変遷があります。(資料2)この市章について、次のように説明されています。「周囲の竹は、伸びゆく若い力と困難に打ち勝つ根強さを、中央の2羽の鳩は、八幡市の頭文字である「八」をかたちどるとともに、平和と友愛の精神を表現しています。竹と鳩は、ともに本市にゆかりの深いものです。」(資料1)八幡の竹は、エジソンが白熱電球を発明した時に、この地の竹をフィラメントに使ったことで有名になりました。石清水八幡宮のある男山の山上に、「エジソン記念碑」があります。この記念碑があることもよく知られていることと思います。もう一つが鳩です。これは昨年末に何十年ぶりかで石清水八幡宮を訪れて、私自身は初めて気づいたことにリンクします。 2023.12.24 この扁額は石清水八幡宮の大きな石造の一ノ鳥居に掲げてあります。「八」の字が鳥に象られています。 こちらは男山の山上にある社殿の正面、唐破風屋根の拝所の蟇股に象られている向かい合う鳥です。この鳥が鳩(ハト)です。なぜ、鳩?八幡宮は鳩を神様の使いとしているそうです。宇佐八幡宮から石清水八幡宮に八幡神が勧請された時、白い鳩がその道案内をしたという伝承があるそうです。そこに由来して鳩が尊ばれていると言います。(資料3,4)鳩のゆかりはここにリンクするのかなと推測しました。もともと「八幡」自体が「八幡宮」とつながっている名称なのですから。 もう一つ、このマンホールのふたが眼にとまりました。ふたのデザインは上掲のふたと同じです。しかし、何か違う印象を受けました。 これはふたの中心部分です。こちらのふたんの方が年代物のようです。かなり以前のもののよう・・・・・。よく見ると、上掲の蓋と図柄の凹凸が逆転しているのです。 こんなマンホールのふたも見つけました。中央部に市章が象られています。その周囲は、上掲のふたとは異なります。レンガ様の舗装歩道の状態に合わせてよりマッチングするようにしたふたのバリエーションのようです。石清水八幡宮周辺でのウォッチングで、汚水ふたを眼にしたのはこれら4種でした。マンホールのふた以外で、市政レベルのパブリックなインフラ設備に関わるものとして目に止まったふたが2つあります。 一つは、「水道・仕切弁」のふた。 もう一つは。「消火栓」のふたです。こんなところで、八幡市でのウォッチングを終えました。見知らぬ町のマンホールのふたウォッチングに出歩きたいなぁ・・・・・。この見聞考は断続的になりますが、これからも続けて行きたいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料 1) 市章 :「八幡市」2) 八幡市 :ウィキペデキア3) 石清水八幡宮 京都観光おすすめナビ :「京西陣菓匠宗禅」4) 走井の鳩もなか :「やわた 走井餅老舗」補遺八幡市 ホームページ石清水八幡宮 ホームページ はちまんさんとエジソン ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮細見 -1 一ノ鳥居、放生池、頓宮殿、高良神社ほか 6回のシリーズでご紹介。探訪 京都府八幡市 石清水八幡宮周辺にて -1 相槌神社・泰勝寺・安居橋・五輪塔ほか 2回のシリーズでご紹介。
2024.01.29
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