2015.08.11
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天の梯・高田郁



♤ みをつくし料理帖シリーズ 10(完結編)

☆天の梯(そらのかけはし)・高田 郁(たかだ かおる)
・角川春樹事務所
・ハルキ文庫、2014年8月18日 第一刷発行

早朝、翁屋の楼主、伝右衛門が澪を訪ねて来た。夏の旱魃を慮り、遅れに遅れていた吉原への引移りが、長月九日、重用の節句の日に決まったといい、ついては商い始めに「鼈甲珠」を是非売り出したいという。

芳と共に一柳へ移る様にと勧める、柳吾と芳たちに、澪は「食は天なり… 。ある方に教わったその言葉が私にとって全てです。… 後世に名を残すことを望まず、残すなら、名前でなく料理でありたい…」と言い、三人に向かって、深々と頭を下げた。澪は、芳のいる一柳を頼らず、飯田川沿いの貸し家を借りて、そこで「鼈甲珠」を作り、まずは持ち帰り用の惣菜などを商う算段をつけていた。

澪の行く末を案じて訪ねて来た源斉は、下戸で有ることを忘れて、酒粕を使った肴を進められるまま口にしつつ、じっと思案にくれるている。黙々とつけ揚げを摘みながら言葉を探しているようだったが、結局見つけられず、ゆっくり腰を上げたもののよろけ、咄嗟に抱きとめようとした澪ともども、二人して尻餅をついた。
源斉は、送って出た澪に「あなたが、どこかへ行ってしまうのではないか、と… 」
あとは言わずに、そのまま足早に帰って行った。

一柳が自身番へ届けた客の忘れ物は、製造販売を禁じられている「酪(らく)」だった。店主の柳吾が自身番に引っ張って行かれ、酪について「何か」を知る佐兵衛は、柳吾を助けるため、澪に妻と娘を託し町奉行所に自訴した。佐兵衛の自訴により事態を重く見て調べていた奉行所は「酪」製造販売に係わったとして登龍楼を厳しく取り調べ、登龍楼は取り潰しになった。間も無く柳吾と佐兵衛は解き放された。佐兵衛は、澪に「お解き放ちの時、吟味方から内々で教えてもろうた。「白牛酪考」という書を引き合いにして、私を庇うてくれはった人がおったそうや」と話し、また「幕府重鎮の覚えもよく登龍楼とも因縁のあった御膳奉行さまの進言やそうや」と。そして、そのお方が、縁も所縁もない者のために、なぜそこまでしてくれたのか分からないとも言った。自らの愚かさを悟った佐兵衛は、もう一度料理人としてやり直したいという。
佐兵衛の話を聞き、助けてくれたのはかつての想いびとだった小野寺数馬だったと気付いた澪は、佐兵衛に一礼すると駆け出した。真っ直ぐ行けば富士見坂という名の急な下り坂…。2度と来ることのないはずの場所だった。辻に立ち、両の手を合わせると、小野寺の屋敷に向かって、深々と首を垂れた。顔を上げ、何気なく富士見坂の方面に目をやると、坂の手前に、凝然とたたずむ人影を認めた。霞立つ遠景を背負った男は、渋い褐返しの紬の綿入れ羽織がよく似合う。小野寺数馬、その人だった…。

つる家を訪ねて来た攝津屋は、あの鼈甲玉を手にしたあさひ太夫の錦絵を見せ、太夫が大変なことになっていると言う。錦絵に描かれた太夫の天女の如き美しさが、人々の話題になってもて囃され、大名やら豪商やらが、執拗に太夫との饗宴を強いることになった。あさひ太夫の旦那衆三人は、とてもあさひ太夫を年季明けまで翁屋に留め置くことは出来ないと頭を抱えているという。澪に四千両もの太夫の身請け金が用意出来るのか、攝津屋は悠長には待てない、と言い置いて帰って行った。

約束の4日後につる家を訪れた攝津屋に、澪は「鼈甲玉には特別な調味料を用いていますが、その仕入先も含めて、作り方の一切を翁屋に売り渡し、以後、私は鼈甲玉から手を引きます」と言った。澪の答えを聞いた攝津屋の肩が上下に揺れ、笑いは徐々に大きくなり、ついには両の手を打ち呵呵大笑に至った。幾らで売るつもりだとの問いに「四千両です」との、打てば響くような答えに、札差は顎を撫で、にんまりと笑った。「弥生15日は梅若忌、昼見世のの始まる前に翁屋へ来なさい。お前さんが伝右衛門と商談をする席に私も立ち会いたいのでね」と言い置いて帰って行った。

何が野江にとって幸せか…、思い惑う澪は、ふいに化け物稲荷が脳裏に浮かび、神狐に呼ばれた気がして駆けた。境内に駆け込むと、そこには源斉がいた。澪の悩みを聞いた源斉は「あさひ太夫を澪が身請けすれば、それは太夫にとって一番の吉祥であると同時に、一番の枷になるでしょう。女に身請けされたとなれば、噂は世間を巡り、江戸にいる限りは、生涯好奇の目で見られることになる。澪が太夫を身請けするなら、廓を出た太夫は江戸で暮らすべきではない」と言った。そして、澪も一緒に、大坂へ移るのが良いという。戸惑う澪に、源斉は、私にとっての心星は、病に苦しむ人を救うことで、御典医になることではない。実は先達て亡くなった恩師から大坂に医塾を作ろうとの話が進んでいて、大阪行きを勧められていたことを打ち明け、「澪さん、私と夫婦になってください」と、手を握りしめた。

鼈甲玉の材料、その入手方法、そして作り方を記した書付を、翁屋に四千両で買い取ってもらいたいと言う澪の申出でを聞き、話にならぬと席を立とうとした伝右衛門に、攝津屋と二人の旦那衆から絶妙な加勢が入り、話は纏まった。
澪はこれ迄の鼈甲玉の売り上げの全てである金貨銀貨のぎっしり詰まった箱を出し、皆様にお願いしたいことがございますと頭を下げた。
攝津屋は「札差などと言うものは、滅多に驚くことが無いが、お前さんの申し出には心底驚いた。…… お前さんが太夫を身請けしたとなれば、太夫は生涯、それを負い目に思うに違いない 。太夫の幸せを一番に、との言葉は胸に沁みました」
よろしくお願いしますと頭を下げる澪に、誰があさひ太夫を身請けするのか、お前さんの案は、我々の心を打ちましたといい、太夫が吉原を出る卯月朔日に向けて、あらゆる手を尽くしますよと、結んだ。命の恩人である又次への償い、四つで亡くなった娘を野江に重ね合わせて、その幸せを心底願う攝津屋なればこその振る舞いだった。

つる家の人々を前に、これ迄の一部始終を語り終えた澪は「私は野江ちゃんと一緒に大坂に帰ります。…… 生まれ育った故郷に戻りたいのです」と頭を下げた。女二人の身で大坂へ行く事を案じる人々に、攝津屋の力添えがあること、それに「源斉先生もー」と、言いかけた澪の言葉を、種市が遮った。やがて、芳、源斉、源斉の母 かず枝も揃った。源斉は「奥医師にとの話を断って大坂へ行く事を選んだのです。父の立場にも大いに障りました。周囲の風当たりも強く長田家と絶縁するのは至極当然です。ただ、士分を捨て、澪さんと夫婦になることに関しては、母が皆を説得してくれました。『料理人、医師同然程の役也』という、かつての大老、土井利勝の遺訓を引かれては、誰も何も言えませんからね」そう話して、源斉は楽しそうに笑った。
澪を促して下座に移った源斉は「… 大坂に移り、この澪さんとふたり、手を携えて生きて参ろうと存じます。私は医学の道、澪さんは料理の道。互いの道を重ねて実りのある人生にします。どうぞお許しください」と、二人揃って深々と頭を下げた。

源斉は、澪や野江より一足先に船で大坂へ向かうことになった。見送りの澪に、攝津屋から「高麗橋のそばに、澪が料理の腕を存分に振るえるような調理場を持った住まいを探すように頼む」との文を受け取ったこと、そして、その返事に「澪が早晩料理屋を開きますので、住まいとは別に、こじんまりしたつる家のような造りの貸し店を探します」と書き送ったと伝えた。

その朝、江戸町の通りから、一群が姿を現した。先頭に立つのは翁屋の番頭、続いて伝右衛門、若い衆に守られて、純白の薄衣を被衣とした、あさひ太夫が現れた。大門が開け放たれた。あさひ太夫の身請け人が誰か確かめようと、誰しもが眼を凝らした先には、塗り駕籠が一艇控え、前後の提灯には、野江(あさひ太夫)の生家である「高麗橋淡路屋」の名が堂々と記されていた。
攝津屋の同行を受けて、野江と澪はゆっくりと二十日ほどかけて大坂を目指した。船ではなく歩いて旅をすることで、野江は身についた遊里の垢を落とし、徐々に町の暮らしへと馴染んでいく。一行が大坂の地に戻った卯月二十二日、元号が文化から文政へ変わった。
淡い雲が広がる空のもと、二人にとって思い出深い天神橋は、洪水のあと架け替えられて、幼い日に渡ったものではないはずが、二人の目には昔と少しも変わらない。
十六年前のあの日、水に沈んだ街は、息を吹き返し、多くの命を育む。声もなくその景色を眺める二人の目に、うっすらと涙が浮いていた。二人が持つ片貝は、澪の掌で漸く一つになり、澪は橋の欄干から手を差し伸べ、そっと落とした。
「雲外蒼天」二人の胸に、その四文字が浮かんでいた。





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Last updated  2015.08.11 22:55:42
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ココア410 @ Re:我が家の小菊たち2024(11/15) New! こんにちは。 夏の花の片付け、大変お疲れ…
☆末摘む花 @ Re[1]:我が家の小菊たち2024(11/15) New! 笹ゆりさんへ 確かにかんかん照りより、 …
☆末摘む花 @ Re[1]:我が家の小菊たち2024(11/15) New! リュウちゃん6796さんへ まあ「国華園」…
笹ゆり@ Re:我が家の小菊たち2024(11/15) New! 植物って半日影が良い物もありますね。 こ…
リュウちゃん6796 @ Re:我が家の小菊たち2024(11/15) New! 末摘花さんのお庭は、「菊花繚乱」ですね…
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