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昭和56年4月6日 釧路市内の快適なバス停で一夜の宿を取り、朝は、残っているお菓子などで朝食をとりました。当初の計画以上に長距離を移動してきました。 稚内 ↑↓ ↑↓ 音威子府 ↑↓ ↑↓ →札幌→→旭川 ↑ ↓ ↑ ↓ →→→→→釧路 ↑ ↓ ↑ 函館 ↓ ↑ ↓ ↑ 襟裳岬振り返ってみると縦横無尽に道内を移動しているのです。欲を言えば、「根室」「網走」あたりも視野に入ってきますが、この日は、さっぱり車が止まりません。調子に乗って、 「根室→網走」という無茶なコースを段ボールに書いていたので・・・この頃になると、調子に乗った一行は、「止まらんか~い!」「乗せんか~い!」「メシ食わせんか~い!」と、通り過ぎる車に叫んでいます。もはや、“我々を見た車は、止まって目的地まで乗せていく。”のが当たり前で、“当然、途中でメシを食わせてくれて、オミヤゲもつける”のが当然!これぐらい“つけあがっている”ので、困ったモンです。結局、この思いあがった態度のせいか、この日は、夕方まで「収穫ゼロ」昼飯も、夕飯も「自分たちのお金で」食べるハメになりました。 ↑ ↑ メシも誰かに奢ってもらうのが当たり前になってる調子よく、釧路までやって来ましたが、そろそろ内地へ移動する時期です。学校も、始まる頃です。3月22日に岐阜を出てから、2週間以上経っています。もともと少なかった所持金も、内地での電車賃などを考慮するとギリギリしか残っていません。さすがに、内地では、苦労して移動してきたので、ヒッチハイクですんなり移動できるとは思っていません。「ボチボチ内地へ向かうか・・・」幸い、ここ釧路からは、仙台行のフェリーが出ています。 絞ったばかりの~ 夕日の赤が~ 水平線から~ ・・・ 苫小牧発~ 仙台行フェリー 吉田拓郎を口ずさみながらいよいよ、内地へ帰還するフェリーに乗り込みます。フェリーに乗るや否や(あず・す~ん・あず フェリーに乗る)一行は、普通の人とは違う行動を取ります。 「お風呂」です。ほとんど入る人はいません。(風呂の存在すら知らない人の方が多い)貸切の一番風呂・・・しかも丸窓からは、太平洋が見えます。「準備中」の札も、関係有りません。お湯があれば、入る。これが、一行のモットーです。・・・この後、 函館の“アニキ”の「カニ缶」 襟裳岬の“若頭”の「とど缶」を食べようとして、缶切りがない事に気付くのでした。そして、とど缶の袋の中から、松坂慶子に似た“若頭の奥さん”からの手紙と 30000円を発見するのです。手紙(トド岩付近のパンフレットの紙の裏側)には、 「(お金は)何かの時にでも、使って下さい。 心がすさんで、他人を信用できなかった私達ですが、 北海道に来てから、 周りの人たちの好意に支えられて何とかやってこれました。 久しぶりに関西弁を聞いて、本当に懐かしかった。 はぐれ者で、半人前の私たちでも 少しでも、誰かの役に立つことができて かえって御礼を言いたいぐらいです。 (ジュンちゃんが)涙を見せたのは何年ぶりでしょう・・・ 若い頃の事、いろいろ思い出して・・・ 私も涙をこらえるのに必死でした。 少しでも、輝いていたあの頃の自分を思い出しました。 人生って、辛い事ばかりですが、 良いことも沢山有ります。 この先の人生で、辛い事や苦しい事が有ったら、 今回の旅の事を思い出せば、 きっと乗り切れると思います。 もっともっと人を信じて生きていきたい そう思うことができました。 “一期一会”をありがとう。」・・・と書いて有りました。ボロボロになって、開くと敗れてしまいそうなこの手紙を今でも持っています。わずか数時間でしたが、若頭のベンツの中ではいろいろな話をしました。一緒になって泣いてくれた“若頭”も、手紙の中で「涙をこらえていた」と白状した松坂慶子似の姉さんも、私の心の中で、今でもエールを送ってくれています。仙台から、栃木県那須塩原市の「黒磯駅」まで2日かけて到達しましたが、もうこの頃は、寝不足と体力低下でフラフラでした。北海道ほど簡単に「宿泊施設」がみつからないのと、想像通り・・・車が止まってくれない。止まってもなかなか長距離を稼げない。岐阜までの、「キップ」を買えるギリギリのところが黒磯だったのです。そこからは、電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、東京からは、「大垣行き」の夜行列車です。(今では、「ムーンライトながら」という名前で、 しかも全席指定で、“指定席券”が要ります。)北海道のバス停でも、熟睡できるのですから、夜行列車の座席(当時は、リクライニングなど有りません。各シートに“灰皿”完備の直角シートです)はまさに「スィートルーム」です。こうして、無事に岐阜に戻る事が出来ました。今でも、この時の事は鮮明に覚えています。高校生の頃から、寝袋一つ持ってあちこち行ってましたが、見ず知らずの人の家に泊めてもらったりメシをご馳走になったり、いろいろな施しをいただいた事が多々有ります。北海道は、特に顕著なのか、この旅の間も次から次へと、暖かい施しの連続でした。「カニ缶」や「とど缶」は、食べてしまいましたが、慶子姉さんの「30000円」は今でも私の手元に有ります。この3枚の1万円札は、私の財産であり、金額には換算できない大切なものです。今でも、時折眺めながら、いろんな人から頂いた「気持ち」を大切にしながら人の為に何かができる人間になろう!・・・と、挫けそうな心にムチを入れています。 ~~~ 完 ~~~ ざざ~んこの2年後(23歳)には、250ccバイクに跨り、3ヶ月の時間と、「1人10万円」という低予算で「全国47都道府県走破」を果たします。この時は、写真も撮りましたので、また機会が有れば、ご紹介いたします。 北海道へ行ってる間、うちの「オカン」には「どこへ行く」とも「いつ帰ってくる」とも行ってなかったので、友達の間では、「行方不明」となっていました。数年後にバッタリ街で会ったA君には、「行きとったんか~。お母さんに電話したれよ!」と言われました。情報が交錯していて ◎北海道に移住したらしい。 ◎行方不明者名簿に載っているらしい。 ◎スリランカに言ったまま消息不明らしい。などなど様々な情報が尾ひれを付けて飛び交っていたようです。最近まで、「死んだらしい」というのを信じてたヤツもいました。
2007年11月16日
期せずして、めるせですべんつに拾われた一行は、「俺は、カタギじゃあ!」と聞いてもいないのに弁明を繰り返す「若頭」風の夫婦(だと思う)と共に襟裳岬から、「北へ!」向かうのでした・・・・・・ 若頭「俺はなぁ・・・今ではちゃ~んとカタギの仕事してるんやて」 若頭!!“今では・・・”って言いました??? 極妻「怖そうな顔してるけど、許したってな~」若頭は、“やっぱり”以前は、関西地方で「そのスジの人」だったそうです。「ほんっっっっっとに・・・いろいろ有ってなぁ」流れ流れて北の果てまで来たそうです。若頭の話です。生まれは、九州のとある地方で極貧の家庭で育ったそうです。お決まりのように、アル中の父親と日雇い仕事で家計をまかなう母親と弟二人妹二人。弟たちの遠足の弁当の為に卵を万引きしたのを皮切りに母親の仕事を「貧民の仕事」とぬかした教師を殴って停学・・・妹の修学旅行の費用ほしさに、中学生の分際で「カネをもっていそうだったから」と柔道部の大学生3人と殴り合いになって保護観察・・・17歳で、広島に出てきて「カタギ」になろうとしましたが、警察の方と気が合うようで、お泊りもするようになったようです。20歳の頃に、「天下取るなら大阪じゃけんたい」と無理無理関西人となるも、人の良さとケンカっ早いのがタマにきずで、とうとう長期出張(塀で囲まれた所です)。常に、誰かの為に罪を被る人生です。松坂慶子の若い頃を思わせる奥さんが 慶子「夢ばっかり語って、人の為にばかり生きて 結局、騙されたり、濡れ衣着せられたり・・・ そんなのばっかり・・・」 若頭「イヤなら、広島へ帰れ!」極妻慶子さんは、広島時代に若頭に恩があって、 (詳しい経緯は語りませんでしたが)その時に、自分の命は捨てたつもりで「何か有ったら、自分を盾にしてでも守る」そんな覚悟で、ず~っと若頭に付いて来てるようです。話を聞いていると、慶子さんの為に「そのスジ」での出世をあきらめたような感じです。慶子さんも、それを感じていて、どこまでも付いて行ってるのでしょう。お互いに、そんな事は決して口にしませんが・・・私も、自分の生い立ちを語りました。 ◎うちのオヤジも酔っ払いであった事 ◎小学生の頃、「もう、お米が無い」 と言っていた母の為に一回だけお米を万引きした事。 ◎その万引きが見つかった時、店の人が、 「これは、うちの米じゃない!持って帰れ!」 と、下手な演技で見逃してくれた事。 ◎お金が無くて給食費が払えなかった時 「持ってくるのを忘れました」と言って、 毎日廊下に立たされた事。・・・などを話していると若頭は、急に“べんつ”を路肩に止めて外に出て、しばらく空を見ていました。戻ってくると、慶子さんが、 「ジュンちゃん、また泣いてるんやろ? この人、すぐもらい泣きするんやから・・・」 若頭「・・・・・・」 慶子「ほら、ハンカチ」 若頭「・・・・・・」 慶子「ジュンちゃんも タマゴ万引きしたもんね~」 若頭「・・・」 私の話に同情したのと、自分の過去を思い出したのと、で再び“ベンツ”を停めると、ダムが決壊したかのように若頭は大声で泣き出しました。私も、自分の過去がフラッシュバックされて、一緒になって泣き出してしまいました。ラチが空かないので、私と若頭は、後部座席に移され、極妻慶子さんが運転を変わり、相方が助手席に座ります。後部座席では、私と若頭二人が「ヒック・・ヒック」としゃくりあげて泣いています。 慶子「着いたよ~、ごはんごはん」厚岸(あっけし)あたりの、「トド岩」が見える海岸沿いです。ドライブインの食堂で、トド肉の料理をご馳走になりました。 慶子「もう、泣き止んだ?」 若頭「泣いてへんわ!風邪引いたんじゃ!」 慶子「はいはい」 腹いっぱい食べて、海を見ると、北海道の、遅い春の気配が漂っています。若頭も、“べんつ”も最初の「怖さ」「重圧」はすっかり失せて、まるで何日も一緒にドライブしているかのような心地よさになっています。 若頭「今夜の宿は、どないするん?」 一行「雪もなさそうだし、どこかのバス停で寝ます」 若頭「そうか・・・」 若頭「これ、持ってけ!」若頭は、財布から1万円札を三枚出して差し出します。 一行「それは、ダメですって」 若頭「メシ食わせたったんやから、言う事聞け!」 ・・・若頭は、自分の気持ちを伝えるのが下手なようです。 極妻「この子らだって、意地があるんやから、 あんたやったら、どうする?受けとらへんでしょ?」・・・極妻は、若頭をてなずけるのが上手そうだ。 極妻「これやったら、持ってってもええでしょ。 オミヤゲにも出来るし・・・」紙袋に、さっきのドライブインで買った「とど肉の大和煮缶詰」その他、缶詰の詰め合わせ。 その後、帰りのフェリーの中で缶詰を食べようとしたが 缶切が無い事に気付く一行であった。 (函館の“アニキ”に買っていただいた「カニ缶」も有る。) 「とど肉缶詰」のスキマに「現金3万円」と慶子さんからの お手紙を見つけたのは、フェリーが太平洋に出航して数時間 経った頃でした。・・・慶子さん、あっぱれ! その後も、喫茶店で、ケーキをご馳走になり、釧路の駅に到着しました。別れ際にボソボソっと語りかけてきます。 若頭「男はなぁ、“アカン”とわかっとっても やらなきゃならん時が有るんや!」 若頭「男にはなぁ、守らにゃならんモンが三つ有るんじゃ ひとつは、己の信念じゃ、 ふたつめ、プライドじゃあ、安っぽい見栄とは違う本物の プライドを身に付けにゃアカンで。 そして、大切な人を守らにゃアカン!」 私「最後のは、奥さんに言ったって下さいよ。」 若頭「そんな事は安っぽく口にするもんじゃねえ!」 「なんだかんだ言っても見栄張ってこんな車乗ってるけど、 見せびらかしたいだけで、こうして時々アテもなく ドライブしてるところへ変な二人組みをみつけた・・・ってワケや」 「自分の器(うつわ)以上の事をしようとして背伸びしても ロクな事はないな」 「人間、どこに青い鳥がいるかわからんぞ」若頭の一言一言が、今でも時々思いだされます。「大阪や、広島や、故郷九州にも帰れん。」と言ってた二人は、今でも北海道に住んでいると思います。やはりこの二人も決して住所も名前も教えませんでした。若頭は「ジュンちゃん」らしいですが・・・。黒いベンツに乗って、助手席には松坂慶子(に似た奥さん)関西訛りで、時々九州弁(とニセ広島弁)、角刈り、黒いサングラス、涙もろい、おそらく生き方は「ヘタ」・・・そんな“カタギ”の人でした。昭和56年4月5日の夜がやって来ます。お宿は、釧路市内の「幣舞橋」から数分歩いたところのバス停。(早い時間でも、人のいるところでも、もはや「平気」)つづく ⇒「さらば北の台地・・・内地へ!」2007/11/15 03:11:46
2007年11月15日
襟裳岬のバス停をお宿にして、枕元のお菓子に囲まれて幸せな一夜を過ごします。隙間風が吹き込んで、音威子府よりも寒い夜でした。それでも、しっかりと熟睡できる強固な肉体を持つ一行です。 昭和56年4月5日百人浜沿いの道道(岐阜県なら“県道”ですが、北海道なので“道道”)を北へ、ぶらぶらと歩きながら「黄金道路」方面を目指します。国道まで出れば、何とかなるだろうと思いましたが、実は、国道まで15kmほど有るのです。その時は、そんな事もつゆ知らず、海を横目に見ながら歩いても、歩いても景色が変わりません。歩きながらのヒッチハイクは、ワザが必要です。立ち止まって待機しながらの時は、進行方向(左側車線)の脇で、行き先を書いた段ボールの紙を目立つように掲げます。ドライバーの視線を考慮して、逆光を避けたり背景の色と重ならないように気を使ったりします。勿論、段ボールに書く文字も進化してきました。まず、例えば「襟裳岬」はNGです。「えりもみさき」もNG。「えりも岬」がGOOD一瞬の勝負ですから、判別し易い文字使いが要求されます。「札幌」とか限定するのも確率が低い。「札幌 方面」とすると、選択肢が広がって止まってくれる確率がアップします。一度使った段ボールは、使い回しはしない。(理由は有りませんが、同じ段ボールで2回成功した事がない)ぼ~っと持ったまま突っ立っていてはダメです。「あんたやで!あんたに頼んでんねんで!」という感じで、ターゲットが通り過ぎても、その車の方に文字が見えるようにする。(ミラー越しに見ても、まだしつこくお願いしている)などなど、なかなか奥深いのです。・・・立ち止まっての「勝負」ですら、大変なのにこれが、歩きながらだと更に上級篇になります。立ち止まったまま、3時間も反応なし!などという時は、「これぐらいなら歩けば15km進めたのに・・・」という後悔をします。そこで、ゆっくりと歩きながら、(カニ歩き状態)行き先を書いた段ボールをターゲットに突き付けるのです。車が来ない時は、ひたすら前を見て歩く。・・・と言っても、気配を感じた頃には車は通り過ぎてしまう。ややカニ歩き気味に前進しながら視界に動くものが入れば、すかさず「北へ!」のような段ボールを“サッ”と掲げるのです。原付バイクだろうが、自転車の女子高生だろうが、ゴルゴ13のごとく、背後から忍び寄る者には容赦なく“サッ”と「北へ!」の文字を浴びせかけます。一度だけ、女子中学生が、「ごめんなさい。二人乗りは学校で禁止されてます。」と言って、わざわざ降りて謝ってきた事があります。「いえいえ、こちらこそご無理を言いまして・・・」田舎の道道で、女子中学生と無精ひげの二人組みがお互いに深々と頭を下げあう奇妙な光景でした。さて、この日は車がほとんど通らないので「上級者篇」のゴルゴ13クラスのワザが要求されます。行き先も「北へ!」にしました。襟裳岬からは、北以外に行く所はありません。ぜ~んぜん車が通りません。かれこれ1時間ほど歩いた頃でしょうか・・・ようやく背後に車の気配がしました。すれ違う寸前ぐらいに、まるでバットでボールを叩くようなタイミングで「北へ!」がドライバーの視線を横切ります。これまでにも、何台かいろんな車に乗せていただきましたが、おそらく函館の「アニキ」の金ピカデコトラ並の高級車・・・(デコトラは、結構がかかってます)めるせですべんつ っていうヤツです。通り過ぎた“めるせですべんつ”は、300mほど行き過ぎてから、きききききき~っと止まりました。「げげ~っ やばいんちゃうかぁ?」逃げるまもなく“めるせですべんつ”はぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ っていう感じでバックして来ます。左ハンドルですので、右ハンドルのドライバーより目のすぐ近くで段ボールを振り回されたわけです。 「おまえら、何やっとんじゃぁ?」あ~ しかも、とってつけたような関西弁です。「どういうこっちゃ、それは?」しかも、サングラスです。「すいません。ごめんなさい。」頭を下げるのは素早い私たちです。「どういうこっちゃ?と聞いてるんや」「すいません。悪気はありませんです。」「意味を聞いてるんやて!その紙に書いたる事の!」「は?」「北へ! て何のこっちゃ?」その「や○ざ」さんのような人は、 「北へ!」は具体的にどこなんや? おまえらは、どこへ行きたいんや?という事を聞きたかったのです。「何してんの~?」助手席には、奥様(のハズ)が乗っています。ヒッチハイクをしてここまで来た事。アテはないが、金もない事。そろそろ、帰るルートを決めねばならない事。などを告げると、“や”の人「話には聞いたが、いてるんやなぁ。こんなんが」“や”の妻「可愛そうやから、乗せたりぃな」“や”の人「じゃ、乗ってけ!」クマの次に恐ろしかった瞬間です。私たち「汚い格好ですけど・・・」“や”の妻「かまへんかまへん」私たち「アシ臭いですけど・・・」“や”の妻「かまへんかまへん」私たち「お金持ってないですけど・・・」“や”の人「あ、おまえら俺を“や○ざ”か、何かと思ってるな?」“や”の妻「大丈夫やて。こう見えてもこの人カタギやから」昼間から“べんつ”に乗って派手な服着てこんなとこ走ってるし、そもそも、カタギの人が「カタギやから」なんて言うか?しかし、これ以上逆らえません。かくして、“めるせですべんつ”での旅が始まりました。(お兄さん、声も顔つきも、こわいよ~) つづく ⇒「若頭と“めるせですべんつ”」2007/11/13 06:47:21
2007年11月13日
四半世紀前の、ボロボロの手帳に記された日記を元に綴っていますが、読み返すと、2週間あまりの期間の中でも今でも記憶に留まっているぐらいの出来事だけが感嘆と、感謝と、不安と、空腹に包まれてメモのように書きなぐってあります。当然、この2週間の中には、「詳細に記録しても、全然面白くも何とも無い事」や「ひたすら、止まってくれる車を求めて何時間も国道に立っていた」そんな事も沢山有ります。クマの出現や、「今時そんな親切な人がいるか?」というドラマチックな事も、当時は(今でもそうかもしれませんが)北海道に限らず、他の地でも体験しています。人間、それほど捨てたモンじゃないんです。この「北の大地・・・貧乏漫遊記」は、当時の日記(毎日メモ帳に書き綴ってました)を元に再現しています。都会育ちの若い世代の方には、「フィクション(創作)」と受け取られても仕方ない記載が満載です。世知辛い昨今の日本ですが、少なくとも、こういう人たちが現実に存在する事を認識していただければ幸いです。さて、そのメモ帳(日記)の表紙にも大きな字で「Operetion シンザン」と書いてあります。(“r”の次の“e”が間違っている。正しくは“Operation”)その「シンザン」に遭う日がとうとうやって来ます。昭和56年4月3日バス停で一夜を明かした後、猟銃をぶっ放す「自称マタギ」のおっちゃん宅で朝食をよばれて、その後、「稚内」までドライブすることになりました。「最北端の街:稚内」は、はっきり言って「な~~んにも無い」所でした。(稚内の人、ごめんなさい)「ようこそ最北端の街:稚内へ」という看板があって、「最北端の碑」が有りました。どこからか、「最北端音頭」とかいう音楽が流れてました。マタギのおっちゃんは、とにかく夕方まで子供の面倒を見るのが今日の仕事ですので、特にあてもなく車で移動します。行きがけに持たせてもらった「手弁当」も途中で食べて早めの夕食も食べさせていただきました。「手弁当」がなくなってしまったので、「補給」と称して、途中の食堂で「弁当4人前」を持たせてくれました。夕方、自宅へ寄って奥さんに子供を託すと旭川ステーションホテルに向かいます。 ↑旭川駅構内での野宿の事です・・・念のため「寒いから、これ持ってけ」毛布か何かをくれるのかと思ったら車の後部から取り出したのは・・・「北の誉」の一升瓶です。マタギのおっちゃんは、天真爛漫で、豪快です。早めの時間から、酒盛りを始めながら駅構内の一番暖かそうな場所を寝室として確保し、寝袋を広げて「弁当4人前」を食べました。明けて、昭和56年4月4日もはや、どこでも熟睡できる身となった一行は朝8時頃に駅員さんに起こされるまで、たっぷりと寝ました。そして、ゆっくりと片付けをし、段ボールの切れ端に 「新冠・浦河」と書きました。3月に岐阜を出てから、二人が違うルートで青森まで到達し、その後もヒッチハイクを続ける中で初めて、具体的な地名を書いたのがこれでした。もともと、目的なんかなくて、ここまで来たのですが、なぜか「シンザンを見たい」という気持ちが日増しに高まっていたのです。流石に、ピンポイントで目的地を指定しているのでなかなか車は止まってくれません。それでも、あきらめずにいるとお昼頃(開始後3時間ほど)にようやく1台の車が止まりました。60歳ぐらいの夫婦です。当ても無くドライブにでかけるようで、「オペレーション:シンザン」の話をすると「それじゃあ、一緒に牧場見に行くか~」道中は、今までの経緯を二人でお話しました。奥さんは、「どうして、そんな事をしたいのかわからない」と言います。オヤジさんは、「それが、男のロマンっちゅうモンだ」と言います。奥さんは「あんたも、そんな事ばっかり言って生きてきてるモンねぇ」「ロマンでは、お腹が膨れないの!」「あんたに騙されて苦労ばっかりしてきた」と言う顔には、満足げな笑みがこぼれています。新冠(にいかっぷ)から 浦河の谷川牧場そこで、遂に「シンザン」にご対面・・・・・・のハズだったのですが、その日は、体調が悪いらしくて一般の見学は中止!!!当分、一般見学は見合わせているとの事です。もともと、それほど拘っていたわけではないので「仕方ないな」という程度でしたが、「ロマンチスト」のおっちゃんは、何故か私たちよりも落胆しています。「せっかく京都からはるばるシンザンに会いに来たのに・・・スマンなぁ」おっちゃんが、謝る事じゃないって!しかも、俺たちは「はるばるシンザンに会いに来た」ワケでもないんだって。もう、おっちゃんの落胆は留まるところを知りません。「どうしよう・・・このままでは申し訳ねぇ」とまで言います。「ここまで来ただけで、満足ですから・・・」「また、来年来ますから・・・」「シンザンも見たかったんですが、襟裳岬も見たかったんです」「そうか!襟裳岬は逃げも隠れもしないし・・・行こうか!!!」 (・・・シンザンも逃げも隠れもしてないんですけどね)おっちゃんは、途中で“お詫びに”夕食を奢ってくれて「朝飯代」と言ってお金まで渡そうとします。何とか、お断りしましたが、「これならいいだろう」とお菓子を袋一杯に買ってくれました。こうして、この日は、襟裳岬のバス停をお宿にします。太平洋側は、比較的雪も少ないそうですが、一昨日の「音威子府」の大雪が信じられないぐらいに襟裳は、ほとんど雪が有りません。昭和56年4月4日のお宿は「襟裳岬のバス停」です。今夜も、食べ物だけは、どっさりと有ります。 つづく ⇒「またしても、ピンチ到来・・・ 」2007/11/12 19:29:55
2007年11月12日
<前回までのあらすじ>旭川から「北へ!」向かった一行は、軽トラ(書いてなかったですが、軽トラックなのです。二人乗りの所に ぎゅうぎゅう詰めで乗ってました。)のおじいちゃんに拾われて行き着いたのは、「音威子府(おといねっぷ)」です。気品のあるおばあちゃんに歓待を受け「わんこそば」状態で、酒と料理を頂きました。以前、泊めてあげた人に、「孫が来る時の為にコツコツ貯めていた」というお金を盗まれたそうです。以後、おじいちゃんが例え深夜に“見知らぬ”お客さんを連れてきても料理・酒のもてなしは、喜んでしますが、泊まる事だけは、ご法度なのです。その為に、おじいちゃんは、自腹を切って「宿を紹介する」とまで言うのです。その申出を断った一行は、道の脇の「バス停」を今宵の宿とするのですが・・・・・・ 昭和56年 日付が変わって4月3日早朝・・・・・・真っ暗な中で、目が覚めました。一瞬、どこにいるのかわからない状態です。「ああ、バス停で寝たんだっけ・・・」外に人の気配を感じます。真っ暗な中を、手探りで入り口に向かいます。バス停の入り口は、昨夜トタン板と、木戸でフタをしてあります。風が吹いたら、飛んで行きそうです。スキマ風もほとんど無く、意外に密閉性があるんだなぁ・・・外に出ようとして、戸を押してみますが、ビクともしません。 ??????「おい!起きろ!」相棒を起こします。「どないしてん?」「ちょっと手伝えや」二人して押してみますが、ダメです。ライターの灯りで戸のあたりを見ると・・・あちゃあぁ~ ←ブルース・リーでは有りません。どうやら、夜のうちの雪で、このバス停はすっぽりと覆われ入り口の無い「かまくら」状態になっているようです。相当な雪だったようで、二人して押せどもどうにもなりません。 「春まで冬眠か?」冗談も、通じません。戸を蹴ったり、叩いたりしても事態は変わりません。とりあえず、タバコを吸いながら作戦会議です。 と 急に Ba GooooooooooNnnnn 「ななな・なんじゃあ!?!?!?!?!?」「何か、爆発したんか?」あたふた「ちゃうで、そんな音やないで!」あたふた更に、続けて Ba GooooooooooNnnnn「げ~~っっっっっっ!!!!これって、猟銃か何かの音ちゃうかぁ?」 あたふた「しかも、明らかにこのバス停に向けて打ってねぇか!?」 あたふた「どないなってんね?どないすりゃええねん?」 あたふた「助けてくれよ~~~~!!!!!!」 あたふたああぁぁぁ「誰かおるか?」外から、人の声がします。「お・お・お・おられます。」 ←既に上ずっている。「大丈夫か?」「は・は・は・はいぃ~」 ←もう「かまくら」の中で両手を挙げている。「熊は?」「は?」「熊はおるか、と聞いてる」「熊さんは、おられませんん」 ←ず~っと「ばんざい」状態。泣きそう。「待ってろよ、今発掘してやる」「手を下ろしても、エエですか?」「何をワケのわからない事を言ってるの?」しばらくして・・・・・・私たち二人は、無事発掘されました。「こんな所で、な~にをしてた?」「寝てたんです」「バカもんがぁ!これ見てみろ」猟銃と、スコップを持った叔父さんが指差したところには、・・・・・・ネコ の足跡じゃ無いよねぇ・・・・・・・・・おんまさん(お馬さん) でも無いよねぇ・・・「クマだ、熊!」「クマ・・・・って・・・・・・」「だから、さっき クマはおるか?って聞いたんだよ」「てっきり、熊崎さん、とか熊田さんとか、の事かと・・・ だから、そんな人はいません・・・って言うたんです。」「まぁ、生きてたから良かったけど、 今時のクマは冬眠明けでハラすかしてっから・・・ また、うまい事カマクラになってよかったなぁ。 雪降ってカマクラになってなかったら、 おまえらぁ クマに食われてたぞ。はっはっはぁ~っ」・・・笑い事じゃ、ないんですけど・・・「おまえらぁ、行くアテあんのか?」「ありません。」 ←まだボーゼンとしてる。「また、クマが戻って来ないうちに、メシ食うぞ」 ひえぇ~ この状態で、戻って来られたら一巻の終わり!!!「乗れ!」4輪駆動の車に乗って、ほっとすると急にカラダ中の力が抜けました。「朝、電話で“クマが、バス停ん中に閉じ込められてる” って電話が有ったんさ。で、鉄砲持って行ってみたら 足跡がいっぱい付いてるし、様子探ろうと思って 撃ってみたんさぁ。」昨夜、クマさんが私たちの寝ているバス停の周りをウロウロしてたかと思うと、ぞぞぞっとしました。 カマクラ状態で気が付きませんでしたが、もうすっかり日が昇っています。 岐阜を出る時から時計を持っていませんので、 カマクラ内では時間がわかりません。かくして、恐怖の宿から脱出した一行は、「自称“マタギ”」の親分の所へ朝ごはんをいただきに向かったのです。それにしても、ほんと~~に、北海道の人って見ず知らずの人に優しいので、びっくりです。20数年前は、日本中が今よりはもう少しノンビリしていたような気がします。こういう経験をしてからは、時々、逆の立場で、見知らぬハイカーを乗せた事もしばしばですが、平成の今となっては、「乗せるのが怖い」というのが正直な気持ちです。まして、こちらが1人で、二人のハイカーを乗せる・・・なんて事は、ゼッタイにできません。私の心が狭いのか、それとも世の中が変わったのか?音威子府(付近)のマタギ宅で、これまた豪勢な「朝飯」をご馳走になり、これまた、「手弁当」をいただき、「どこまで送ればよい?」と聞かれ、「別にアテは無いので、今日中に旭川に行ければ・・・」今夜の宿は「旭川ステーションホテル(駅構内で野宿)」と決めていたので、何とか1日かけて旭川へ行くつもりでした。「何時までに?」「何時でもええんです。駅で寝るだけですから・・・」「旭川駅ならクマも出んから、大丈夫だ。 それじゃあ、夜までドライブに行くぞ。」この日は、奥さんが出かけるようで、子供を1日面倒見なくてはならないようです。稚内へ遊びに行くようで、私たちも「ついでに乗ってけ」という事です。かくして一行は、更に「北へ!」しかも、いよいよ 最北端へ つづく ⇒「シンザンに遭う・・・「オペレーション:シンザン」完遂!!!」2007/11/10 14:22:05
2007年11月10日
パソコンの調子が悪いのか・・・これで、今日3度目の更新です。長々と綴った文章が、PCのフリーズにより1度ならず、2度までも ぱぁ 前回までのあらすじは、省略いたします。 昭和56年4月2日 夕闇迫る音威子府村「お客さんだぞぉぉ!」帰宅して玄関を開けるなりおじいちゃんは叫びます。「あらあら、いらっしゃい。寒かったでしょう」気品のあるおばあちゃんが、珍客に驚く様子も無く出迎えます。「メシだ!」「はいはい、ご飯多目に炊きましょうねぇ」おじいちゃんは、おもむろに 国士無双 の一升瓶を開封して「飲め!」すかさずおばあちゃんが、台所から顔を出して「ごめんなさいねぇ。いっつもこんな言い方しか出来ないんだから・・」「何でオマエが謝る!?」「はいはい、これでも、食べながら待ってて下さいね」私たちに言ってるのか、おじいちゃんに言ってるのか・・・まるで、子供をあしらうかのようです。「はいはい、テーブル片付けてね」おばあちゃんは、 これでもかぁぁぁ!と言うぐらい沢山の魚介類を並べます。おじいちゃんは、「食え!」すかさず、おばあちゃんが「ごめんなさいねぇ、口は悪いけど怖い人じゃないからね」「何でオマエが謝る!?」「飲め!」「食え!」「ごめんなさいねぇ」「何でオマエが謝る!?」こんな調子です。ひとつ、ふたつ・・・・と、ようやくテーブルの上の皿が片付いて来た頃・・・「お待たせぇ」 音威子府 舐めたらいかんぜよ!とでも言いたそうな・・・メチャクチャ沢山の皿盛りが、ドン!ドン!ドン!「他にも、家族の方か、お客さんが見えるんですかね?」恐る恐る聞くと「全部、食え!」 もうすでに、満腹状態です。 ですが、私も相棒も 「出されたモノは残さない!」 「しかも、タダで頂けるものは、ゼッタイに食う!」 のが信条です。国士無双は、2本目の登場です。「飲め!」「食え!」「ごめんなさいねぇ」「何でオマエが謝る!?」3時間ほど悪戦苦闘の末、ようやくテーブルが片付いてきました。「まだ、食えるか?」おじいちゃん、勘弁してちょ「本当に、ご馳走様でした。」じい様が、酔った口調で語るには 1人息子がちょうど私たちの年齢(この時21歳)の頃に 就職で内地に行ってしまったそうな。 手紙は来るけど、電話はあんまりかかってこないし、 電話代が高いからだろうとお金を送っても 時々かかってくるぐらいで、里帰りもしないし、 だんだん手紙も来なくなった。 そのうち、内地でエエ人見つけて結婚してしまった。 孫の写真を送ってくれるけど、こっちまで来た事はない。じい様も、ばあ様も、息子のつもりで、「あれも、これも食わせてやりたい」という心の現われだったんです。しんみりと夜が更ける頃・・・おばあさんが、意を決したように言いました。「ごめんね。本当は、泊まっていってほしいんだけど・・・ 泊まるところは、紹介してあげるから、そこで寝て下さい。」「おまえら、お金無いだろうから、そこの宿代払っておくから 心配しないで、ゆっくり眠れ!」突然、こう言われては仕方が有りません。荷物を持って、おじいちゃんお車に乗り込みます。おじいちゃんが、車の中で 「すまんな。 去年、同じように若い人を泊めたときに、 お金や、貯金通帳ぬすまれたんだ。 ばあさんが、孫が来る為の飛行機代に貯めておいたのを 全部持ってかれちゃった。 それでも、俺はこうやって若いモン拾って連れてきちゃうんだよ。 ばあさんも、人が来るのは歓迎だけど、 泊めるのだけはやめてちょうだい!・・・ってことなんだ。 すまんな。ごめんな。」 「十分、ありがたく思ってます。 何で、じい様が謝るの!?」半べそになったおじいさんに送ってもらって、村役場あたりまで来ました。私たちのハラは決まっています。このまま、じい様の好意に甘えて宿に行ったんでは男がすたる!「この辺で、降ろして下さい。」「アテでも有るんか?」「ええ、何とか・・・」「じゃあ、気をつけてな・・・」じい様は、心配そうに帰って行きました。・・・当然 アテなど有りません。 ですが、これ以上じい様ばあ様に甘えられません。宿探しが始まりました。コンビニも、携帯電話も、道の駅なんかも無い頃の話です。 雪国の特徴に ◎タテ向きの信号 ◎バス停の豪華さ が有ります。北海道のバス停は、ほとんどが、終バス以降は 宿泊施設 として十分使えます。入り口さえ塞げば、寒さも雨露も凌げます。雪がチラチラして来ました。今夜の宿が見つかりました。国道からは、離れているのでしょうか、それとも、廃線のバス停でしょうか、やけにオンボロです。まだお腹は満腹状態で、しかも国士無双が利いています。「ここで、寝るぜ!」「異議なし!」とりあえず、バス停裏にあった、トタンと、大きな板で、入り口を封鎖しました。なかなか良い具合です。待合用の木の長椅子もあります。ぐにゃぐにゃっと倒れこむように寝袋にくるまりました。この頃には、新聞紙をカラダに巻いて保温していました。結構暖かいんです。靴下も、3枚~4枚履いて、あるもの全部身につけてドロドロっと眠りに落ちていきます。 <恐怖のお宿の実態は、いかに? つづく> ⇒「音威子府の恐怖のお宿 その2 」
2007年11月09日
<前回までのあらすじ>恋の街札幌で、別れを告げたアニキに変わって現れたのはオヤジ様だった。4月の日本国内で、しかも札幌市内で凍死する・・・という最悪の事態を見事に救ったオヤジ様は夜中に奥さんを叩き起こし、厚くもてなしてくれたのであった。「年に数回しか乗らない“よそ行き”用」の車で早朝の旭川駅まで送ってくれたのである。 昭和56年4月2日旭川駅に着いたのは、早朝6時半頃でした。駅構内の、ちょっとした場所に段ボールを敷いてオヤジ様のところで頂いた おにぎり シチューを広げれば、そこはもうすっかり Myリビング昨日からの睡眠不足と、満腹感で、その後は、もうすっかり My寝室朝の通勤時には、シュラフ(寝袋)を広げて二人しっかりと、駅構内の待合室で熟睡 です。北の大地へ来てから、はじめて本格的に寝ました。6時間後・・・昼過ぎあたりに、何かの気配で起きました。なんと枕元(と言っても、枕は有りませんが)に置いてあった タバコ と 100円ライターを取って逃げる怪しげな人影・・・幸い金目のモノは持っていないので難を免れましたがまだ封を開けて1本しか吸ってないたばこを盗られました。何も、こんな俺たちからタバコ盗らなくてもエエのに・・・よく見たら、財布も「盗ろうと思えば取れる」所に有ったんです。タバコで済んでよかったなあ。騒ぎを聞いて駅の人がやって来ました。 駅員「被害届どうしますか?」 俺達「そんなん、エエですよ」 駅員「それより、よくこんな場所で6時間も寝てるねえ」 俺達「すんません。寝てなくて・・・」 駅員「ここは、24時間空いてるから、寝る人多いけど こんな昼間から堂々と寝てる人も珍しいねえ」 24時間空いてる・・・ しかも、冷暖房有り(“完備”とは言えないが) トイレ付き、水道完備この駅員の何気ない一言が、数年後に再び北の大地を訪れる時の「北海道周遊」の 拠点 にされるとは、この時知る由も無い。 最近は、防犯上24時間空いてるわけでは無いようですが、 北海道のターミナル駅として、当時は24時間解放されていました。 内地では、必ず外へ出されるでしょうが、「凍死」の可能性の高い 北海道では、かなり“寛大”でした。体力を回復した一行は、この日も街道に立つ。この日の目的地を決めます。「次に目の前を通る女の人の血液型」で決めました。 O型(日本人の約40%)なら、南へ A型(日本人の約35%)なら、東へ B型(日本人の約15%)なら、西へ (札幌方面へ戻る) AB型(日本人の約10%)なら、北へ!!! (雪が多いので避けたかった)結果は・・・ご推察の通りです。私たちのわけのわからん“企画”に乗ってくれたお姉さんの血液型は見事に AB型 だったのです。 ※ 私の中には、父上から受け継いだDNAが有るようで ↑この逸話の<余談1>参照 このお姉さんには、「京都のKBCというテレビ局です。」 と言ってお話を少しして血液型を聞きました。 「AB型ですかぁ?北へ向かわないとアカンのですわ」 何か、こんな番組最近やってますねえ。こうして、北へ向かう事になった一行は、 ↑ 北へと書いた段ボールの切れ端を持って街道に立ちます。10分も経ちません。 「北・・・ってどこへ行きたいの?」もう車が停まってくれます。 内地では、あんなに車が走ってても、ほほんど無視でしたが、 北海道に来てからは、車が停まってくれるまでの時間が非常に短い! 全部は記載していませんがm小刻み(2~3km)の移動も結構あって 段ボールに字を書いている最中にでも「どこへ行く?」などと 声をかけられて乗せてもらった事もある程です。 「北ならどこでも、ええんです。」 「○○○○○○村までなら乗せてくよ」年の頃は、おそらく65歳ぐらいの人の良さそうな「おじいちゃん」です。聞き取れないので、どこへ行くのかわからないのですが、 「お願いします」 さて、この頃には我々一行は 「どこから来たの?」という質問には 「京都です」と答えていました。まず、「岐阜県」というのがわからないようです。 (土地によっては、「岐阜橋」とか岐阜に関係のある地名が有って 岐阜が故郷だけど行ったことがない、という人もいました)東北から北海道にかけて、いろんな人の認識を総合すると まず、関東から近畿あたりの県名と位置関係がわからない 東京・横浜・千葉あたりを中心に「なんとなく関東」 次に、その関東の隣は、もう名古屋です。 しかも、「愛知県」「岐阜県」は、眼中に無いので 東から順に 東京都 次に横浜(“横浜県”っていう感じの認識) その隣が「名古屋“県”」 その隣が「大阪・京都」← 一緒くた(いっしょくた:一緒にしてる、の意) ですから、「岐阜県」は存在していなくて、 「名古屋県」の中(若しくは回り?)に「愛知」とか「岐阜」が有る。まぁ、こんな感じです。我々、東海地方の人も、 「群馬」「栃木」の位置関係や 「秋田」と「岩手」どっちが日本海側でどっちが太平洋側か? 「佐賀」「大分」とか「四国4県」の位置関係・・・など遠くの位置関係の認識は怪しいものです。そもそも「47都道府県」全部の名前を間違いなく挙げることが出来る人・・・意外に少ないですよ。 「九州の県“九つ”全部言えるか?沖縄は、含まない」 などと質問すると面白いですよ。 実際の“七つ”全部言えれば合格(勿論「九つが既に違う」とわかった上で) 下手をすると七つの中に「徳島」とか「宮城(宮崎ではない)」 などを平気で言う人もいますし、仮に七つ全部言えても 「あと二つかぁ・・・」と言ってギブアップします。 勿論、九州・四国あたりの人には通用しないでしょうが・・・話がそれましたが、「京都から来ました」と言えば、話が早いのです。さて、一行は、北へ(地図で見るとまさしく“真北”)北へと向かって行き着いたのは、 音威子府 という村でした。村の入り口にこの字が書いてあるのですが、何て読むのかわかりません。ようやく 「OTOINEPPU」と書いてあるのを見つけて 「おといねっぷ村」だとわかりました。おじいちゃんが、「○○○○○○村」と言っていたのも言われてみれば「おといねっぷ村」と聞こえなくもありません。 北海道の地名は、アイヌ語を漢字にあてたのが多く、他にも 弟子屈(てしかが) 厚岸(あっけし) 大楽毛(おたのしけ) 長万部(おしゃまんべ) 倶知安(くっちゃん) 妹背牛(もせうし) 温根沼(おんねとう) 椴法華(とどほっけ) などなど因みに「かむ太郎」の由来である「カムイ」は「神威」と書きます。「カムイ岬」や「カムイワッカの滝」など北海道は「カムイ」の故郷のような土地です。(白土三平の「カムイ伝」の由来は、不明)こうして、北の大地「おといねっぷ」に辿り着きました。 次回予告北の大地の北の方「おといねっぷ」の「オススメお宿」乞うご期待 つづく ⇒「音威子府の恐怖のお宿」2007/11/09 04:45:54
2007年11月08日
<前回までのあらすじ>北の大地北海道に降り立った一行は、天使の化身か、仏の使いか・・・「京都ナンバー」を付けた金ピカデコトラに乗ってアニキが現れた。すっかり世話になり、一路「恋の町 札幌」へと向かう。深夜の札幌で、アニキと別れた一行の上には 雪 が舞うのでした。「あんた、エエかっこしてここに残ったけど、どないすんね?」相棒は、不安と、寒さで言葉が震えています。「しゃあないやんけぇ。死ぬ事はないやろ 北海道の人は、親切やし・・・」と答える私ですが、どんどん降ってくる雪を眺めながら、「これから、どないなんのやろ~?」と本音が出てしまいます。北海道の人の親切心をアテにしていますが、「“地獄”に仏」だった アニキのような人の出現は二度と望めないでしょう。(そもそも北海道の事を“地獄”呼ばわりしてるし、 「アニキ」は京都の人やったんや・・・と気がついた)深夜2時 雪は、容赦なく降り続けます。 安物のシュラフ(寝袋:しかも、夏用)と3980円の防寒具ではな~~んの役にも立ちません。ズック靴(「すにーかぁ」などという立派なモノでは有りません。)も雪にまみれています。歩くたびに靴紐に雪が絡まって「ボンボン」のようになっています。鼻水も凍りそうで、身も心も凍てつく寸前です。この頃は、コンビニはおろか24時間営業の店はほとんど有りません。我が人生も、ここまでか・・・道路だか、歩道だか区別も付きません。前後左右上下がはっきりしません。だんだんと方角がわからなくなり、遂には、路上でしゃがみこむ始末です。まさか20世紀の日本国内で、ホワイトアウトによる遭難・・・凍死そんな事態になろうとは けふのうちにとほくへ いってしまいそうな わたくしよ みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ (あめゆじゅ とてちて けんじゃ) うすあかく いっさう 陰惨(いんざん)な 雲から みぞれは びちょびちょ ふってくる (あめゆじゅ とてちて けんじゃ)宮沢賢治の「永訣の朝」の一節が頭の中に聞こえます。眠くなってきます。映画の遭難シーン・・・ 「寝たら、死ぬぞ!!!」この言葉が、“冗談”では、なくなってしまった。 ビッ ビ~~ッ 気が付くと、軽ワゴンのクラクションです。本当に眠っていました。 「おまえらぁ、死ぬぞ!」 「自殺なら俺は見なかった事にするし、 そうじゃないんなら、早く乗れ!!!」今なら、どんな事を言われても素直に聞きます。持参していたポットのお茶を飲ませてくれました。生き返りました。(まさに文字通り“生き返った”感じ)「あんなとこで何をしてた?」オヤジ様は、もともとこういう口調なのでしょう立て続けに、どやされまくりました。「こんな道、普段でもこんな時間は車なんか通らん! たまたま気紛れで、こっちの道を来ただけで 本当なら、俺もここは通らん!!!」「おまえら、親から貰った命を何だと思っとる! ハラ減ってるんか?命を粗末にするヤツは許さん!」お叱りの言葉の合間合間に「メシは?食べたのか?」「泊まるアテはあるのか?」などの労わりの言葉も出ます。「旭川までなら乗せて行ってやる本当なら、死んでたぞ!」「家へ寄って、握りメシ持たせてやる。本当なら、死んでたぞ!」「旭川に着いたら、内地へ帰れ!おまえら死ぬぞ!」オヤジ様は、札幌に単身赴任(と言っても旭川の家を行ったり来たり・・・らしい)で、この日は、帰宅する日だったようです。 「たまたまだぞ!」助手席には、大きな荷物が一杯でした。後部座席の荷物の間に私たち二人は身を詰め込みました。途中の公衆電話から、奥さんに電話をして、メシの用意をさせるようです。携帯電話も無ければ、深夜営業のコンビニや、スーパーなど有りません。しかも、こんな時間に叩き起こされた奥さん・・・ごめんなさい。「歌志内(うたしない)」あたりの家でした。奥さんは、「よ~生きとったねえ。本当なら死んでたよ。」 (夫婦は、似るものである。)と、愛想よく出迎えてくれました。メシを食べる間、今までの道中の経緯を話しました。 「よく生きてたなあ」 「よく生きてたなぁ」コンビはピッタリです。奥さんは、たっぷりのオニギリとポットにシチューを入れて私たちに持たせてくれました。 「帰ったら、お礼がしたいんで、ここの住所を・・・」というと、「本当なら、死んでたんだからそんな事は気にするな」「そんな心配するぐらいなら、内地へ帰りなさい!」結局、どこの誰だったのかわかりません。私は、出かける間際に せめてもの御礼の気持ちで壁にかかっていた「日めくり」を1枚めくってきました。明けて、4月2日です。長い長い1日でしたが、無事に次の朝を迎えられそうです。歌志内から、旭川までは、どれぐらい有ったでしょうか薄暗い夜明けの道を 「よそ行き用」という車でゆっくりと送ってもらいました。かくして、一気に北海道の真ん中あたり旭川まで来てしまいました。九死に一生の連続だが、これからどうなる?函館で、朝メシを食ってからのこの日の支出:二人合わせて 0円 つ~ びぃ こんてぃにゅ~ど ⇒「何て読むの?この地名???」2007/11/07 17:43:32
2007年11月07日
<前回までのあらすじ>苦難を乗り越えて、「約束の地:青森」から青函連絡船に乗って、遂に「北の大地:函館」に降り立った。「オペレーション:シンザン」を遂行すべく作戦を立てるのだが、飢えと寒さに打ちひしがれる二人であった。そこへ・・・アニキは、やって来た。金ピカデコトラで、京都から・・・まるで俺たちを迎えに来たかのようにアニキは、 蟹 を振舞ってくれた。一行は夜の帳の中、一路札幌を目指して走り出す。「いつもは、5号線で小樽へ行ってスシを食う」というアニキですが、この日は流石に途中の長万部の「カニ」で満腹。 「よっしゃ! 今夜は、別のルートで行くかぁ 星も綺麗なことだし・・・ええモン見せたろう。」長万部(おしゃまんべ)を出ると、金ピカデコトラは、国道37号線(だったと思う)に入ります。当時は、まだ道央自動車道が、ここまでは来てなかったと思います。・・・そうです。アニキが迂回して向かったのは 洞爺湖 です。金ピカデコトラを停めて、外に出ると満天の星に、冷たい夜の風西に沈みかかった、切れ長の三日月はまるで、夜空をすべるカヌーのようでした。中原中也の「湖上」が似合う風景です。 ポツカリ月が出ましたら、 舟を浮べて出掛けませう。 波はヒタヒタ打つでせう、 風も少しはあるでせう。北の大地の空は、普段の50倍の数の星と、いつもの500倍の安らぎがありました。凍える手で、タバコの火を点けて凍りつく息と一緒に吹き出します。その息が、すぐに凍ってしまいそうな・・・そんな透き通った昭和56年4月1日の夜です。寒さが我慢できなくなると、金ピカデコトラに戻ります。自分のシートが、まるで我が家のように馴染みます。アニキは、慣れない道をゆっくりと、重厚な音を撒き散らしながら、札幌を目指します。深夜1時頃・・・「あれが、時計台やで。 周りの景色見ると“ガッカリ”やろ? どんな写真もゼッタイ同じアングルしか写さんからな」「ここいらが、大通り公園や」真夜中の市街地を、金ピカデコトラで案内してくれます。観光案内の写真では、わからない真夜中の札幌でした。この勢いだと、アニキは翌日も私たちをあちこち案内してくれて旨いもんをたらふく奢ってくれてそのアシで京都まででも乗せていってくれそうな感じです。「アカン、アカンこれ以上甘えたらアカン 楽して帰ったって意味ないやん」私たち二人は、敢えてアニキに別れを告げました。私たちの意図を理解してくれました。結局、名前も住所も何にも教えてくれませんでした。「アホか?そんなん教えたら、 何かお礼でも送ってくれるかも・・・ って期待してまうから、アカンて! 少しでも、そんなん期待したら自分がイヤになるし、 俺は、好きでやってんのやから、ええて! “ごちそうさん”って言ってくれた時点で おまえらは、奢ってもらって嬉しい。 俺は、それを見て嬉しい。 フィフティ・フィフティ ってやっちゃ。」 人に何かをしてあげる時、いつも私はこの言葉を思い出します。 心の中に、少しでも見返りを求めたら それは、親切でも何でもない。 単なる“投資”になってしまう。 挙句の果てには、「親切にしてやったのに」と 優しさの押し売りにさえなってしまいます。こうして、金ピカデコトラのアニキは、夜の街に消えて行きました。嗚呼、禍福は糾える縄の如し、直後、二人の頭上には雪がチラチラ・・・深夜の札幌に降り立った二人はこの後いったい・・・ つづく ⇒「アニキ去って、お父さん現る」2007/11/07 03:01:43
2007年11月06日
<前回までのあらすじ>三月末に、桜前線を追いかけながら、ある時は、地下道で野宿して流れ込んだ大雨に溺れそうになりある時は、「きせる乗車」を企てながらも、生来の小心者故近場の駅で中途半端に下車し、またある時は、優しいトラッカーに施しを受けながら「約束の地」に、二人のチャレンジャーが集結だがしかし、所持金は少なく、引き返すだけのギリギリしかないぞ!!!その時、どこから聞こえてきたのか、ニールの励ましの声が・・・「たとえ、ドブの中でも前のめりになって死ぬ」 (星飛雄馬&坂本竜馬 談)俺たちは、遂に津軽海峡を渡った。(BGM「津軽海峡冬景色」)かくして、北の大地「函館」に降り立ったのである。(BGM「函館の女」しかし、感動の涙も束の間、あてにしていたアルバイト代は20000円ささやかな贅沢三昧の末、二人合わせて7万5000円ほどの所持金。俺たちの運命やいかに・・・函館で、たらふくメシを食ってからは今後の作戦を企画しました。命名「オペレーション:シンザン」あの「伝説の名馬:シンザン」の牧場まで行こう!という作戦です。 ※作戦は、すぐに「全会一致」で決まりましたが、 「作戦名」を決めるまで数時間かかりました。シンザン君は、1961年生まれで、私たちと“同年代”です。この時点で、彼が北海道のどこにいるのかは知りません。私たちの認識は、 「函館⇔網走」間が、せいぜい「東京⇔名古屋」ぐらいの感覚でしたので、「函館に着けば何とでもなる」と思ってました。 (だって、北海道・・・って、日本地図でも変なふうに離れているので、 実際の距離間が全然わからんのです。)実際は、「函館⇔網走」は、600~700kmぐらいですかね・・・「東京⇔名古屋」は、300kmぐらい・・・かな?と、言う事で「常に前向き:ポジティブシンキング」です。実際は、ほとんど「ヤケクソ」状態です。作戦名を付けるのに時間がかかったので、なんとか重い腰をあげた頃には、夕闇迫る函館の街が異国のように不思議な感覚で、我々をいざなうのでした。とは言え二人とも「約束の地:青森」を目指す道中でヒッチハイクをしてきて「簡単には、“どこの馬のホネかわからんヤツ”を自分の車に乗せない」という事はイヤというほどわかっています。さんざん苦労してきたので、いざ決行・・・となっても「どないすべえ・・・」自称「ヒッチハイク3段」とか抜かすワリにはお互いに気が重いわけです。この寒さの中、このままここに居てもラチがあきません。「とりあえず、サウネにでも泊まって作戦立てようか」二人とも「作戦会議」が大好きです。「内地での苦労を糧にして、1台ゲットせんかい!」「おめぇこそ、ここまでの武勇伝は、ウソやったんかい~?」と、寒さと不安に打ち震える私たちに「兄ちゃん、どこ行きたいん?」・・・おおおぉ 関西弁???見ると、そこには、金ピカデコレーションのトラックが1台。し・か・も・・・「京都ナンバー」やんけぇ~地獄に仏とは、この事か!(決して北海道を“地獄”と言ってるのではありません。 勝手に二人組みがビビッてるだけです。)「札幌までなら、乗ってもええよ」おおお じぃざす!金ピカデコトラのお兄ちゃんは、京都から札幌までJRA(日本中央競馬会)の券売機だか何だかを運送中との事。一人でブッ飛ばして来たが、エエ加減退屈してきたとこらしい。そこへ、「怪しげな関西弁の二人組み」を発見・・・という事でした。(因みに、私は、母親が「浪花のお嬢様」親戚の大半が「岸和田市民」 相方は、「生粋の大阪人」です。)さて、トラックは一路北へ・・・ 「ヒッチハイク」で肝心な事は、“乗せて頂くまで”は勿論ですが “乗ってから”が勝負です。 まず、「寝る」なんぞは御法度です。 乗せてくれる人のほとんどは、「退屈しのぎ」を期待しています。 話題も、「名古屋~静岡までは中日ファン」 「江戸~東北にかけてはジャイアンツファン」たまに関西訛りがあると 「ブレーザー監督ではあきまへんなあ」と豹変します。 (乗せてくれるなら、悪魔にでも命を売るぜ) 話題も少しずつ仕入れます。 さっき乗せてもらった人が言ってた事を次の時に 「この辺は○○○らしいですねぇ」などと言っておけば 「よう知ってるなあ。実はな・・・」 てな具合に膨らんできます。それを順繰り順繰りに回していきます。 初めて言った東北でも、「花巻」に来る頃には もはや、「東北生まれですが、今は大阪です。」ぐらいの勢いです。 夜の帳が下りて、次第に漆黒の闇が迫ってくる頃には、「長万部」の文字が見えてきます。「メシでも食うか?」とデコトラ兄ちゃんが言いますが、私たちの当日の「メシ予算」は既に使い切っていました。無言でいると、「ああ、そういえばデカイ声で“作戦”立ててたなぁ。で、今日のメシ代はもう使ってもうたんやろ?カネ出せ!なんて言えへんから、安心せえや」あんたは、ホントに仏さん? カニ です。カニ・・・ってこんなに旨かったのか?「もう食えん!!!」というほど食べさせて頂きました。しかも、「非常食用」にカニ缶まで買ってくれました。長万部を出てからは 「アニキ!」と呼んでいたのは至極当然の成り行きだ。アニキと共に長万部を後にして、向かいは「恋の街 札幌」何事かを期待しつつ、金ピカデコトラは走り出す。 つづく父に幼い頃から、「カニのミソは毒があるから子供は食ってはならん!」と教育されてきたので、この時まで食べた事がありません。子供には、「美味しいアシ」を分け与え自分は「俺は、これを我慢して食べる」と言って自ら犠牲になってきた偉大なる父です。カニのミソが食える事を初めて知った私ですが、「俺も大人になったからか・・・?」と健気な事を思っていました。 つづく ⇒「アニキと別れて・・・」2007/11/05 18:42:50
2007年11月05日
お詫び前回の「予告編」で 「北海道へ渡った二人に襲い掛かる巨大怪獣!! 運命の糸に導かれて、正義の為に戦う二人のヒーロー だが、その頃、火星では謎の爆発が・・・」と記載しましたが、番組の都合により、無期延期いたします。代わって、「21歳・・・北へ!!!」の続編をお送りします。 ※番組編成局注 前回「20歳」と記載しましたが、正確にはこの年の1月に 21歳になっておりました。 訂正と共に、お詫びいたします。・・・ごめんちゃい。 (閑話休題:よくテレビなどで、「お詫びいたします」と言いますが、 「お詫びします」と言うだけで実際に「すみませんでした」とか 「ごめんなさい」とかの言葉は一切有りません。 もっと高慢になると「遺憾の意を表します」とか更には 「起訴状を見ていないのでコメントできません」だと・・・ 私は、常に嫁様から「“ごめんなさい”は!?」と躾られているので テレビなどの「おためごかし」にはうんざりです。)さて、苦難の末にようやく青森に到着した私たちですが、手持ちのお金は、二人合わせて 80000円+α しか有りません。このまま二人引き返すだけでもギリギリの予算です。ヤツのアルバイト給料をあてにして、このまま海を渡るかそれとも、ここまで来た事で満足するか・・・思案のしどころです。引き返すにしても、この一週間の生活は二度とゴメンです。かと言って、本来の目的地である北海道を目の前にしてこのまま引き返すのも無念です。「とりあえず、函館の地を踏もう」・・・函館に、「チョン」と足を付ければ「北海道制覇!!!」という事にして、吹聴してもエエやろ?(実際に到達せずに「制覇!」と言えるほど豪気な俺たちではない)当時は、まだ「青函トンネル」が開通していないので「青函連絡船」(フェリー)のキップを買いました。(たしか、「石狩丸」だったと思います・・・)記憶では、夜間の運行で、早朝に函館に着いたような・・・生まれて初めて北海道の地を踏んだのは 1981年(昭和56年)4月1日です。途中、静岡あたりで「暑くて」上着を捨ててきた相棒ですが、前日の青森で、3980円のフード付き防寒着を購入しました。寒い寒い4月でした。(・・・あのなぁ、80000円しか無いねんで、 「北海道は寒いから絶対上着持って来いよ」と念を押しておいたのに でも、この先はヤツの給料頼みやから、我慢せなアカンか・・・)アポロ11号のアームストロング船長が月面での第一声 " Houston, Tranquility Base here. The "Eagle" has landed " (ヒューストン、こちら静かの海基地。『鷲』は舞い降りた) ↑絶対米国人は「鷲」とか名前付けますねぇ。に続いて " That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind. " (これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとって大きな飛躍だ)9歳の頃、夜中に叩き起こされてテレビで見た時のニール(アームストロング船長のこと)の声が私の頭の中に聞こえてくるようでした。 「・・・ニール、ようやく北海道に来たぜ」 (もはや、タメぐちです)言葉にできない感動と、寒さにうち震えながら我々は、次なるミッションの計画を始めました。「これで、目的は果たしたし、岐阜へ戻ろっか」何故か、ヤツはフェリーを降りてからは覇気が有りません。朝食をたらふく食べた後に判明したのですが、ヤツは「給料7万円ぐらいしか無くって、 そのうち5万円前借してんねんて・・・」 ぱぁどぅん ななひくごぉわ にぃ・・・やで、あんたし・か・も、あんだけ、たらふくメシ食った後に言うなや。し・か・も、それで、もう帰るつもりだったんなら3980円も出して服買うなや!!!フェリー代やら、服やら、メシやら、更に昨夜は大盤振る舞いで、サウナにも泊まったし・・・ (おまえが、「北海道様に失礼やから、身を清めてから行くべきや!」 とか何とか抜かすからや!)結局、昨日、今日で贅沢三昧したおかげで手持ちは55000円ぐらい・・・そこにあんたの給料振り込んでもらってその20000円足しても・・・ どどど~~んん オホーツクの波はでっかいぜ! 続く次回、どうなる北の大地での作戦は・・・?BGMは、「カニ 風になりたい」(ザ・ブーム) つづく ⇒「は~るばるぅ きたぜ はぁこだてぇ」2007/11/04 12:06:44
2007年11月04日
祖父と、父は「道産子」です。帯広の北あたりの生まれのようです。私自身は、岐阜県生まれですので、北海道は未知の土地でした。初めて北海道へ行ったのは、20歳の頃です。3月の後半・・・春の彼岸を過ぎた頃に北へ向かいました。アルバイト先の給料振込をアテにして給料日の1週間ちょっと前に出発したので、3月22日・・・かな?手持ちのお金は、1万円ほどでした。当然、これでは「まともな方法」では内地から脱出できません。 ※※※北海道の人は、「本州」の事を「内地」と呼ぶようです。 祖父も、父も、魂は「道産子」のようで、 ず~っと、本州のド真ん中に住みながらも、 「内地」「内地」と言ってました。22日の深夜に、意を決して大垣発東京行きの夜行列車(現「ムーンライトながら」に乗りました。「意を決した」のは、 東京まで行きたいが、 予算が無いので、愛知県の刈谷駅までしか切符を買っていません。 でも、東京まで行きたい。という事です。・・・・・・元来、小心者の私は乗車した時点で きせるの文字が頭の中を飛び交って、今にも心臓が飛び出しそうなのです。どれほど時間が経ったでしょうか。あと少しで、刈谷駅です。「男一匹、夢の為には“きせる”ぐらいやるぜ!」と度胸を、決めました。「まもなくドアが閉まります。・・・・」次の瞬間、慌てて電車から降りたのは言うまでも有りません。真夜中の12時頃です。止むを得ず国道まで歩きました。作戦を早めに実行します。本当なら、東京まで「豊橋行キップ」で行きたかったのですが・・・ヒッチハイク開始素人の私は、いきなり「北海道」とマジックで書いた段ボールの切れ端を掲げたのです。車は通るのですが、全く反応がありません。3時間後、ようやく1台の軽トラが止まりました。「・・・いきなり“北海道”は無理やで、兄ちゃん」何とか隣の「安城」まで乗せてもらいました。「東京方面」と改訂した段ボール紙に変えてからは、少しずつ、乗せてくれる車が増えてきました。それでも、夜が明けてからは、ほとんど無理でした。通勤時間を過ぎて、昼を過ぎて、夕方になってもダメです。この間、止まった車は「タクシー」だけです。 (「バカ野郎、紛らわしい事するな!」と言われました。)学習した私は次第に進化します。昼間は、公園で眠り、夕方から活動開始。少しずつ要領を掴みながら、ようやく東京を越えるまで6日かかりました。静岡~神奈川あたりまでは、もう桜がちらほら咲き始めて夜も、それほど寒くはありません。持参の寝袋で十分に眠れました。給料日(3月末日)まであと3日ぐらいです。このペースでは、いつ北海道に着けるか見当も付きません。当初の予定では、31日に「国鉄青森駅」でもう一人のチャレンジャーと落ち合う予定なのです。当時は、携帯電話など有りませんので、お互いに相手を信じて、ただひたすら「31日青森駅」を目指すしかありません。(彼も、同じバイト仲間でしたし、貧乏人でしたので 同じような条件でした。出発は、私より1日後でしたが・・・)3月27日深夜国道6号線沿い腹が減ってフラフラ歩いていた所へ、後ろからトラックが来て、運転席から運転手が降りてきました。「六国(ろっこく:たしか茨城県の人は国道6号線の事をこう呼んでいたような・・・) で、日立までなら乗せてやる」この人は、途中でメシも奢ってくれるし、「どうせカネもないんだろ」とパンや、お菓子をごっそりと持たせてくれました。その後も、日立から仙台へ向かう仲間の車を紹介してくれて何の苦労も無く、一気に仙台まで行きました。29日には、どうにか「花巻」に到着。30日には、「弘前」まで来ました。いよいよ31日。確実に、電車を使って遂に「国鉄青森駅」に着きました。その時点で、所持金は900円ほどでした。苦節8日、長い長い行程でした。朝9時になるのを待って銀行へ行き待望の「給料」を引き出しました。それでもアルバイトの給料は、せいぜい8万円程度です。当時は、コンビニも有りません。近くの定食屋を探して、朝飯を食っていると後ろの方で「ねえちゃん、おかわりぃ」と言う聞き覚えのある関西弁。そうです。ヤツも腹を減らしてここでメシを食っていたのです。ここで、感動の再会シーンでも有れば良いのですが、お互いにメシを口一杯に詰め込みながらご飯の茶碗を高くあげて、お互いを確認し、後は、ひたすら・・・食う 食う 食うようやく腹を満たしてから、駅前の一番暖かそうな所に陣取りここまでのお互いの行程を報告し、ようやく本来の目的地である北海道を目の前にした感慨にふけりました。ヤツも同じようにヒッチハイクと野宿を繰り返しながらようやくたどり着いたようでした。暖かな静岡あたりで、防寒具を捨ててしまい、悲惨な状態で鼻みず垂らしてました。地下道で寝ていたら、増水で、溺れかかったりトラックの荷台に忍び込んで移動したり、ハードな毎日を送ってきたようです。し・か・も・・・ヤツは、今の定食代を払った時点で、所持金ゼロ(本当に、最後の数百数十円をピッタリ使ってメシを食ったようです。 「“ガッチリ買いましょう”に出たら買ってるで!」とぬかしてました。)更に、「頼みが有るんやて」と言う。私たちのアルバイト代は、当時「現金手渡し」でした。私は、店長に頼んで銀行口座に振り込んで貰う手配をして来ましたがヤツは、それをしてなかったのです。今頃は、受け取り手のない「現金入りの給料袋」が事務所に置いてある。それを、今朝、銀行に現金を引き出しに行って初めて気がついたのです。アルバイト先に電話をしたら「店長は明日まで休み。本人以外に給料は渡せないし、店長以外のモノが貴方の給料を勝手に振り込む事も無理」との事です。ごもっともな対応です。ヤツの頼みというのは、店長が休みを終えて出勤し、給料を振り込んでくれるまで「おゼゼ(お金)を貸してくれ!」と言う事です。「おまえなぁ・・・貸すのはええけど 万が一、途中でギブアップして、 俺がここに来なかったら、どないするつもりやったん?」と聞くと、ヤツはそれまでの事を思い出したのか泣きべそをかきながら「だって、北海道行きたいんやもん・・・ ここで待ってれば絶対来るハズやん・・・ 地下道で溺れて死ぬかと思ったし 約束したから、途中で帰れんし・・・」あとは、言葉になりません。私も、半分泣きそうになりながら「ここまで来て、北海道に渡らずには帰れぇへんしなぁ 行けるとこまで、言ってみるかぁ。 死にはせんやろ。」・・・と言葉を詰まらせながらヤツに声をかけると 「そやな」ウソ泣きしてやがった。しかも、逆に私に向かって「こうして揃ったんやから、泣くな! 北海道は、目の前やんか。」と激励してくれました。そう言えば、そういうヤツでした。何だか、立場が逆転してしまいました。かくして、約束の地で再会し、北海道を目の前にして、決意を新たにした二人の運命や いかに どどど~~んん ・・・すみません。北海道の事を綴るつもりが、 前置きが長くなりすぎました。 続きは、明日のお楽しみに・・・という事で。 次回予告編 「北海道へ渡った二人に襲い掛かる巨大怪獣!! 運命の糸に導かれて、正義の為に戦う二人のヒーロー だが、その頃、火星では謎の爆発が・・・」 (睡眠不足で少々“ハイ”になってます。)~~CM~~ おりこうにグリコ ↑ ↑ 文中に「ガッチリ買いましょう」を引用しましたので・・・ つづく ⇒「青函連絡船」2007/11/02 02:10:27
2007年11月01日
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