.     47歳今まで中途半端に生きてきたけど,この歳になって「今から医者になる」と決意しました

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2007年11月16日
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釧路市内の快適なバス停で一夜の宿を取り、

朝は、残っているお菓子などで朝食をとりました。

当初の計画以上に長距離を移動してきました。

            稚内
            ↑↓
            ↑↓
            音威子府
            ↑↓
            ↑↓
    →札幌→→旭川
   ↑       ↓
   ↑       ↓  →→→→→釧路
   ↑       ↓ ↑
  函館      ↓ ↑
           ↓ ↑
           襟裳岬




振り返ってみると縦横無尽に道内を移動しているのです。


欲を言えば、「根室」「網走」あたりも視野に入ってきますが、

この日は、さっぱり車が止まりません。

調子に乗って、


  「 根室 網走


という無茶なコースを段ボールに書いていたので・・・



この頃になると、調子に乗った一行は、

「止まらんか~い!」

「乗せんか~い!」

「メシ食わせんか~い!」

と、通り過ぎる車に叫んでいます。

もはや、

“我々を見た車は、止まって目的地まで乗せていく。”のが当たり前で、

“当然、途中でメシを食わせてくれて、オミヤゲもつける”

のが当然!

これぐらい“つけあがっている”ので、困ったモンです。



結局、この思いあがった態度のせいか、

この日は、夕方まで「収穫ゼロ」

昼飯も、夕飯も「自分たちのお金で」食べるハメになりました。

↑ ↑ メシも誰かに奢ってもらうのが当たり前になってる



調子よく、釧路までやって来ましたが、

そろそろ内地へ移動する時期です。

学校も、始まる頃です。


3月22日に岐阜を出てから、2週間以上経っています。

もともと少なかった所持金も、内地での電車賃などを考慮すると

ギリギリしか残っていません。

さすがに、内地では、苦労して移動してきたので、

ヒッチハイクですんなり移動できるとは思っていません。



「ボチボチ内地へ向かうか・・・」

幸い、ここ釧路からは、仙台行のフェリーが出ています。





   絞ったばかりの~

     夕日の赤が~

       水平線から~ ・・・


   苫小牧発~ 仙台行フェリー 



吉田拓郎を口ずさみながら

いよいよ、内地へ帰還するフェリーに乗り込みます。




フェリーに乗るや否や(あず・す~ん・あず フェリーに乗る)

一行は、普通の人とは違う行動を取ります。



「お風呂」です。


ほとんど入る人はいません。

(風呂の存在すら知らない人の方が多い)

貸切の一番風呂・・・しかも丸窓からは、太平洋が見えます。

「準備中」の札も、関係有りません。

お湯があれば、入る。これが、一行のモットーです。



・・・この後、

  函館の“アニキ”の「カニ缶」

  襟裳岬の“若頭”の「とど缶」

を食べようとして、缶切りがない事に気付くのでした。




そして、とど缶の袋の中から、

松坂慶子に似た“若頭の奥さん”からの手紙と30000円

を発見するのです。






手紙(トド岩付近のパンフレットの紙の裏側)には、



  「(お金は)何かの時にでも、使って下さい。



   心がすさんで、他人を信用できなかった私達ですが、

   北海道に来てから、

   周りの人たちの好意に支えられて何とかやってこれました。

   久しぶりに関西弁を聞いて、本当に懐かしかった。




   はぐれ者で、半人前の私たちでも

   少しでも、誰かの役に立つことができて

   かえって御礼を言いたいぐらいです。




   (ジュンちゃんが)涙を見せたのは何年ぶりでしょう・・・




   若い頃の事、いろいろ思い出して・・・




   私も涙をこらえるのに必死でした。




   少しでも、輝いていたあの頃の自分を思い出しました。

   人生って、辛い事ばかりですが、

   良いことも沢山有ります。




   この先の人生で、辛い事や苦しい事が有ったら、

   今回の旅の事を思い出せば、

   きっと乗り切れると思います。



   もっともっと人を信じて生きていきたい

   そう思うことができました。  

   “一期一会”をありがとう。」



・・・と書いて有りました。

ボロボロになって、開くと敗れてしまいそうなこの手紙を

今でも持っています。




わずか数時間でしたが、若頭のベンツの中では

いろいろな話をしました。



一緒になって泣いてくれた“若頭”も、

手紙の中で「涙をこらえていた」と白状した

松坂慶子似の姉さんも、

私の心の中で、今でもエールを送ってくれています。

















仙台から、栃木県那須塩原市の「黒磯駅」まで

2日かけて到達しましたが、

もうこの頃は、寝不足と体力低下でフラフラでした。

北海道ほど簡単に「宿泊施設」がみつからないのと、

想像通り・・・車が止まってくれない。

止まってもなかなか長距離を稼げない。

岐阜までの、「キップ」を買えるギリギリのところが

黒磯だったのです。



そこからは、電車を乗り継ぎ乗り継ぎ、

東京からは、「大垣行き」の夜行列車です。

(今では、「ムーンライトながら」という名前で、

 しかも全席指定で、“指定席券”が要ります。)


北海道のバス停でも、熟睡できるのですから、

夜行列車の座席(当時は、リクライニングなど有りません。

各シートに“灰皿”完備の直角シートです)は

まさに「スィートルーム」です。








こうして、無事に岐阜に戻る事が出来ました。

今でも、この時の事は鮮明に覚えています。


高校生の頃から、寝袋一つ持ってあちこち行ってましたが、

見ず知らずの人の家に泊めてもらったり

メシをご馳走になったり、

いろいろな施しをいただいた事が多々有ります。

北海道は、特に顕著なのか、この旅の間も

次から次へと、暖かい施しの連続でした。





「カニ缶」や「とど缶」は、食べてしまいましたが、

慶子姉さんの「30000円」は今でも

私の手元に有ります。

この3枚の1万円札は、私の財産であり、

金額には換算できない大切なものです。



今でも、時折眺めながら、

いろんな人から頂いた「気持ち」を大切にしながら

人の為に何かができる人間になろう!

・・・と、挫けそうな心にムチを入れています。




       ~~~ 完 ~~~  ざざ~ん




この2年後(23歳)には、250ccバイクに跨り、

3ヶ月の時間と、「1人10万円」という低予算で

「全国47都道府県走破」を果たします。

この時は、写真も撮りましたので、

また機会が有れば、ご紹介いたします。







北海道へ行ってる間、うちの「オカン」には

「どこへ行く」とも「いつ帰ってくる」とも

行ってなかったので、

友達の間では、

「行方不明」となっていました。


数年後にバッタリ街で会ったA君には、

「行きとったんか~。お母さんに電話したれよ!」

と言われました。

情報が交錯していて

  ◎北海道に移住したらしい。

  ◎行方不明者名簿に載っているらしい。

  ◎スリランカに言ったまま消息不明らしい。

などなど様々な情報が尾ひれを付けて飛び交っていたようです。

最近まで、「死んだらしい」というのを信じてたヤツもいました。






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最終更新日  2010年10月28日 05時13分04秒
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