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切れ者と評される、かの豊臣秀吉が家来に対して褒美を遣わすことになった時家来(曽呂利新左衛門:落語の祖との説も)が「毎日米を下さい。初日は一粒、次の日からは前日の2倍の米粒を」と申し出た。初日:米1粒2日:米2粒3日:米4粒・・・2週間(14日):米8192粒ようやく米1合と1526粒・・・(米1合約150gとして、米1000粒で約22~23gらしい。 従って、150÷22.5×1000≒6666粒)ところが、30日後にはなんと!536,870,912粒(÷6666≒80538合)80538合分の米!≒12087kg=12t(12トン!)その翌日には・・・24t更に48t、96t・・・さすがの秀吉も途中で別の褒美に変えてくれ、と音を上げたとの事。(途中・・・って何日目だったんだろ? 14日で8192粒≒約184g 15日で16384粒≒約368g 16日で32768粒≒約737g 17日で65536粒≒約1475g 18日で131072粒≒約2949g 19日で262144粒≒約5898g 20日で524288粒≒約11.8kg 21日で1048576粒≒約23.6kg 22日で2097152粒≒約47.2kg 23日で4194304粒≒約94.4kg …「米を数える家臣」は10日(512粒)の次には 「1024粒」が想定されていたわけで このあたりで既に相当な困惑であったと推定される。 秀吉に直訴したところ14日あたりで、 「もうよい8192粒≒約1.23合は2合で良いわ!」 てな具合に15日に4合(600g)、 次の日に8合(1.2kg)・・・ だとしても、23日(153.6kg)24日(307.2kg) あたりまでは意地でも米を与えていたと思われるが、 いずれにせよ当初の「倍々計算」で 30日で80538合(1石1000合として80石)の勢いでは 翌月中には「100万石大名」を超えてしまいますので 少なくとも30日以前に秀吉はGiveUpしたはずです。)有名な逸話ですが、流石に今では小学生でも基本的な知識として標準装備しています。ですが、この「2のべき乗」でさえも知らなければ秀吉同様に高を括って臨む可能性は全くゼロではありません。況やこれが「1.1のべき乗」とか「1.01のべき乗」であれば、「2倍の米粒」のように途中で気が付くことさえも困難なほどじわじわとボディブローのように大きく影響します。健康も、能力も・・・この「見えないべき乗」で大きく左右されているのです。(「1.01のべき乗」とか「1.001のべき乗」なんぞは「ほぼ ❝ 1 ❞ やんけ!」と高を括ってしまいがち!)過去にもかように綴っております。 ⇒2010年8月26日「苦しい時に踏み出す❝もう一歩❞の重み」受験生の家庭教師を引き受けた時には、必ず最初にこのことを話します。(A)毎日、前日より「+0.1%(前日+1/1000)」(B)毎日、前日より「-0.1%(前日-1/1000)」の2通りの過ごし方で如何に将来が変わるか?を数値でシミュレーションします。★30日後(A)「1.001^30≒1.030」(B)「0.999^30≒0.970」(Aの94%)★1年(365日)後(A)「1.001^365≒1.440」(B)「0.999^365≒0.694」(Aの48%)★10年(3650日)後(A)「1.001^3650≒38.404」(B)「0.999^3650≒ 0.026」(Aの0.07%)【参考①】もう1桁小さくしてみても10年後(A)1.0001:(B)0.9999★30日後(A)「1.0001^30≒1.003」(B)「0.9999^30≒0.997」(Aの99.4%)★1年(365日)後(A)「1.0001^365≒1.037」(B)「0.9999^365≒0.964」(Aの93%)★10年後(A)「1.0001^3650≒1.440」(B)「0.9999^3650≒0.694」(Aの48%)【参考②】逆に1桁大きくすると10年後(A)1.01:(B)0.99★30日後(A)「1.01^30≒1.348」(B)「0.99^30≒0.740」(Aの55%)★1年(365日)後(A)「1.01^365≒37.78」(B)「0.99^365≒0.026」(Aの0.7%)★10年(3650日)後(A)「5929兆」:(B)「ほほゼロ」という結果!即ち!高校3年生になり、大学受験を目指す時点で「あいつと俺」「あの子と私」が何故これほど成績に差がついてしまったのか!の答えにもなり、この先の受験生活を如何に過ごすかの心構えにもなるのです。実際には、「普通に現役で東大京大クラスに合格するやつ」と「私」「俺様」は遡る事16~17年前にはそんなに差は無かったのです。(脳みそ自体の大きさも問題ではないし、かのアインシュタインの脳は 平均的な人の脳より小さかったとの話もある。)その後の生活環境や学校で各々違いは有ったであろうが「日本での大学受験」に必要な能力を得る機会はそれほど差が無かったはず。塾へ行ったから共通テストの80%は解けるけど行ってないから60%しか解けない・・・とか、家庭教師に教わったから、他の人には解けない問題も解けるなんてことは無くて、どんな生徒にも同じ問題を課すのだから言い訳にはならない。(しかも、出題範囲は限定されている!)個人的な感覚では、高校3年生の頃の・現役で東大行ったやつ ・・・毎日ハンドボール部で汗をかいてたし 長期休暇も部活動してた。・同じく現役で東大行ったやつ ・・・こいつもバレーボール部やったはず。・現役で国立医学部行ったやつ ・・・剣道部で主将してたし、生徒会会長してた。他にも普段の学校生活では私よりも「勉強以外」にエネルギーを割いてた(ように見える)奴らがさも当然のように「私には手も足も出ない難問」を涼しげに解き、「下手をするとダブルスコア!」ぐらいの得点を取りすんなりと(私にはそう見えた)難関校に現役合格をしていった。何が違う???私なりの解答は高校入学時点では「表面的な試験」や「範囲と期間を絞った中間期末試験」などでは、それほど差がつかなくても一度受けた試験・・・更には「一度でも間違えた問題」は奴らは二度と間違えぬようしっかりと対策していたと思います。翻って私は、単に「何点だったか?」「何位だったか?」ぐらいにしか捉えていなかったので、「せっかく間違えた問題」を生かせなかった。そして、高校入学時(15歳)においても既に、それまでの10年間(5歳~15歳)で前述の「1.0001:0.9999」(【参考①】)ぐらいの差がついていたのではないか、と思われます。肩を並べて入学した・・・と思ってたのは大きな勘違いで私の実力は既に高校のスタート時点で彼らの「48%」そこから更に3年間(同じ学校で、とは言え)「本気で大学目指して勉強」した彼らとそうでない私は、もはや数値では表せないほどの差が出来てしまったのでしょう。そんなことに気づいたのはもはや社会人となって数年経った頃であり、これから勉強を教える弟子達にしか伝える意味がなかろう・・・と思っていましたが、これは何も勉強だけに限ったことではなくて仕事や、(おそらく)アスリートのトレーニングやいろんなことの考え方の土台にもなる。と確信しています。ひいては「人生の生き様」にまであてはまるはず。
2024年03月17日
↑三木清「人生論ノート」この話も、以前綴ったような気がしますが、なんせ、過去の記事を検索しようにも無駄に捻ったタイトルが多いせいか求める記事がなかなかヒットしません。「幸福が存在に関わるのに反して、 成功は過程に関わっている。」更には、「純粋な幸福は各人において オリジナルなものである。」この考えは、先日綴ったアリストテレスの「ニコマコス倫理学」に有った「徳(アテレー)」「善(アガトン)」「幸福(エウダイモニア)」の考え方に通ずるものがあるような気がします。現に「人生論ノート」では、プラトンやソクラテスにも言及しています。また、三木清は「中庸は一つの主要な徳であるのみでなく むしろあらゆる徳の根本的な形である・・・」と述べています。この「中庸」という言葉はかの仏陀(ぶっだ=お釈迦様)もその重要性を頻繁に説いていますし、アリストテレス、デカルトも「中庸」を重視しています。物理学者の竹内均の「『修身』のすすめ」でも「初心者がまず実行すべき徳目は、 勤倹、正直、感謝、次に貯蓄、報恩、中庸……。」と述べています。同じ「中庸」という言葉でもそれぞれに論点や目指すものは多少異なってはいますが「平均的」とか「凡庸」とか「どっちつかず」のような意味合いでは無く、「的を射る」とか「中枢」とか「バランスが良い」とか・・・そんな感じの意味合いが似合うか。
2024年03月01日
「晴れた日に傘を貸し」・・・記事は⇒ここ(2023年12月8日) 顛末(その1)・・・記事は⇒ここ(2023年12月19日) 顛末(その2)・・・記事は⇒ここ(2024年2月5日)一連の騒動の末、何とか年末年始を乗り切り更なる融資を勝ち取りましたが、結局・・・融資条件の内の「滞納中の年金保険料の清算」をして、遅らせていた他の支払いなどを済ませたらあれま!奇麗に無くなってしまったではあ~りませんか!(年金保険の延滞金だけでも、78,500円!!! 相変わらずお上(おかみ)の延滞金は 今どきの街金に勝るとも劣らぬ横暴ぶり!)実際は、もっと早く清算することが可能だったのですが(遅かれ早かれ払わねばならんのは同じなのに)少しでも手元にお金を置いておかないと不安で不安で、なかなかフンギリがつかなかったのです。しかし、その躊躇いは自ら己の首を絞めることになるのです。今回の「延滞金」の横暴さからもわかるように「お金を寝かせる」ということは常に「利息」が伴います。 「持てる者」には「+の金利」(昨今は低利) 「持たざる者」には「-の金利」(時代の変化に関係なく暴利)フンギリが付かず抱えたままの「現金(預金)」は限りなく「0(ゼロ)」に近い金利しか生みません。一方、ずるずると引きずったままの「負債」にはとんでもない金利が付きまといます。ですから、「払えるお金があれば、とっとと払う!」のが一番を被害最小限に食い止める唯一の手段なのです。頭ではわかっていても、根っからの貧乏性故に、結局損な方向へ自然に傾いてしまいます。本日は、いよいよ意を決して「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で年金事務所へ行きました。年金事務所では、他にも中小企業(零細企業)の社長らしき人が、隣の席と背後の席に2社、聞くともなしに聞こえてきた内容は ★年金事務所担当者「約束は守ってもらわないと!!!」 ☆零細企業社長(らしき人)「・・・」 ★「約束したことが守られていない以上、 この先の交渉には応じられません。」 ☆「何とか月々5万円ぐらいでお願いできませんか。」 ★「まずは、滞納分を清算してからです。」だからね!そもそも約束した時だって、あんたら(年金事務所)★「これ以外の条件では譲れない!差し押さえするぜ!」みたいな感じで迫ってくるからこちらとしても「約束」というより「飲まざるを得ない要求」として泣く泣く飲まざるを得ないのだよ。当然、出来もしない要求(約束)だから数か月後には、このような会話になるわけさ!★「まずは、清算して・・・」が出来ないから苦労してんのよ!言いたかないが、年金事務所って、この数十年でいろいろ不祥事やらかしてるし、そのせいで一旦解体されたんだよね。無理やり給料から天引きしていったお金をさんざん無駄遣いしたり、横領されたり・・・・・・アカンアカン、これ以上ヒートアップしてはお上を敵に回すことになる。ひっひっふ~ いったん落ち着いて・・・と。内の場合、今回は何とか「清算」できたけど、隣と後ろにいた零細企業の社長(らしき人たち)は話を聞く限り、けっこうしんどいと思うけどなぁ。最終的に「清算」の約束をしに次回「印鑑持参」で出向くような話になってたが、大丈夫か?★「これ以上滞納が続けば差し押さえ、ということになります。」って、簡単に言うんぢゃねぇよ!企業(特に中小・零細)は資金繰りが悪化すればまずは、必要最小限の支払い、従業員の給与だけは確保せねばならんのだし、そうそう簡単に「売上アップ!」とか「経費削減」とかは出来んのだよ。お上は簡単に「増税!」とか「差し押さえ!」とかで簡単に「売上アップ」出来るし、「所得アップ」とか「有給消化」とか「育児休業」とかは「率先!」して民間に先んじるけど、痛みを伴うことは、相変わらずへっぴり腰か馬耳東風・・・本日たまたま隣り合った席に居た社長(らしき人たち)はそれでも誠意があるからこそ出向いて相談に来てるんだろうけどお上の画一的な回答の前では「誠意=清算」なわけでそれ以上は望むべくもありません。他人ごとではないけれど、「清水の舞台から飛び降りる」のは己の判断だがどうも「清水の舞台から突き落とされる」ような状況があちらこちらで起こっているような。。。ま、何はともあれ「ほぼ0金利の現金」は無くなったが「暴利の負債」は解消されたわけで大いなる前進である!と言っておこう。
2024年02月29日
↑ラファエロ作「アテナイの学堂」この有名な絵の中央(向かって右の青い装い)の人物こそアリストテレスです。「万学の祖」と呼ばれ、現在の学問のほとんどが彼の言うところの「哲学」の範疇に含まれる・・・との事。(アリストテレスのいう「哲学」とは、 『知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体』)なんてったって、かの「アレキサンダー大王」の家庭教師だった・・・ってんだから驚き!プラトンの弟子であるが、後に袂を分かつ。決別した理由は政治的背景、思想的背景などが挙げられるがこの時の様子を、プラトンは「アリストテレスは私を蹴飛ばして行ってしまった。」と語ったらしい。プラトンの「イデア論」を否定する学説に傾きかかったことも大きな要因である。との事。ま、実際に「蹴っ飛ばした」わけではないとは思いますが。さきほどのラファエロの絵にも象徴的にプラトン:自著「ディマイオス」を持ち、天を指す。(理想主義の暗喩)アリストテレス:「ニコマコス倫理学」を持ち、手を前に。(現実主義の暗喩)と描かれています。先日記した、デカルトも、科学的アプローチを取り入れつつすべての事象を解き明かそうと試みたのですが、アリストテレスは、デカルトよりも遥か2000年前に科学的アプローチを試みていたのはすごいことです。もちろん、この頃(紀元前384年~紀元前322年)は「科学」という概念は確立されていなかったでしょうが・・・自然科学の分野では、後の科学的発展により当時の学説は多くが崩れ去っていますが、「哲学」においては2000年以上経った今でも十分に生きています。逆に言うと、「自然科学」は、この2000年で人類は飛躍的に真実を解き明かしてきましたが、こと「哲学」に関しては進歩が無い?それとも、2000年前に既に人類の限界まで解き明かしてしまった。ということか?アリストテレスは、「ニコマコス倫理学」の中で「徳」について触れています。「徳」というと、「道徳」に代表されるように人としての倫理的思考・行為や仏教で言うところの「徳を積む」という感覚がお馴染みですが、アリストテレスの言う「徳」とは、・それぞれが持つ固有の特性を十分に発揮できる状態にあること。更に、「その状態を発揮できること」を「善」としています。「善」に至るには即ち「徳を積む(=己の力量を磨く)」ことが必須で「徳」は日ごろの習慣により鍛錬され、磨かれていきます。己の才覚を磨くことも、仏教的な「徳を積む」ことも目指すべき姿に向かって、日々鍛錬を積む。と言う点では似た感覚だと思います。更に、アリストテレス曰く、「善」=「幸福」とも。個々の特性を磨いた状態が「徳(アレテー)」「徳」を発揮することが「善(アガトン)」「善」を為すことが即ち「幸福(エウダイモニア)」である、と。そう考えると、アリストテレスの言うところの幸福ってのは、日々の積み重ねさえしっかりしていけばそんなに遠い所にあるわけでもなさそう。ま、その「日々の積み重ね」こそが難しいんですけどね。常々自分に言い聞かせている 人生は、1年1年の積み重ね 1年は1日1日の積み重ね 1日は1分1秒の積み重ね 1分1秒は 今この瞬間瞬間の積み重ねという考えをしっかりと持ち続けることが「幸福」への確かな手段か。人生とは、これまで積み重ねてきた「徳」と目の前の「選択」の更なる積み重ね。そう考えると、過去積み重ねてきた「徳」を(良くも悪くも)しっかりと認識・自覚したうえでこの先常に迫ってくる目の前の「選択」をより「幸福」に向かえるようにしていくことが肝要。
2024年02月25日
個人的には、「一番好きな哲学者」と言えば ↑ちょっと怪しげ?フランシス・ベーコンなのです。その一番の理由は、誕生日が同じ日(ただし399歳年上)特に「知は力(ちから)なり!(Ipsa scientia potestas est)」という言葉は、コンプレックス満載の私には心に突き刺さるものがあります。で、本日は ↑かなり怪しげ??ルネ・デカルトのお話・・・過去にも何回か綴っているはずですが、その記事を探し出せませんので内容がかなり重複するかと。デカルト、と言えば「方法序説」です。発刊当時の正式名称は『理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法の話。 加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』・・・長いぞこの名称からわかるように、内容は昨今一般的に言われる「哲学」というよりは「科学を突き詰めて真実を解き明かす」というイメージです。その中で、森の中で迷った旅人の行動について次のように述べています。「あちこちむやみに動き回ってはアカン! 留まることもアカン! 一度決めた方向にひたすら進むべし!」と。ただし、現実的には①救助のアテが有る場合は留まるべき。②明らかにヤバい方角は避けるべき。でしょうが・・・過去の人生において、確かにデカルトの言うように決めた方向にひたすら進む!という行為には光明を見い出す要素があるように思えます。一歩進む・・・ということで今居る位置とは異なった視点が得られます。それが、少しでも高い位置で有れば見える景色自体が異なります。留まっていた場所からは見えない何かが新たに見えることも多々有ります。とてもじゃないが超えられない、と思っていた山でもその麓に行ってみたらトンネル(隧道?)が有ったり、とんでもない崖も、そこまで行ったら階段や梯子がかかっていたり・・・とにかく、「踏み出して、そこに行かねばわからない。」ということに人生においては幾らでも遭遇します。若かりし頃は、目先の難題に対してはあらゆる結果を想定し、・望める範囲の最上の結果・想定する範囲の最悪の結果を割り出し、「最上」と「最悪」を天秤にかけよほどのことが無い限り(多少の「最上」<「最悪」ぐらいでは、「GO!」)「最悪」の事態に対し、腹をくくった上で「最悪の事態でも、死にゃあせん!」という結論で突き進んできました。ま、何とか死なずにここまではこれたんですけどね。ところが、ここに来て、齢(よわい)64ともなると「よほどのことが無くても」いつ何時ぽっくりと死に至るかわかったもんじゃありません。そこで、最近は、森の中(人生)で迷った時の行動指針として・留まっていても、体力が持たんので動く! (デカルト先生と同意見)・じっくりと吟味して方角とタイミングを決め 何かにぶち当たるまで突き進む。(ただしゆっくり)・この期に及んで「何かにぶち当たる」は、 即ち、今回の人生これ以上挽回不能!・なので、「ぶち当たらない!」と信ずるのみ! どうせ何とかなっちゃうのさ・・・ぐらいの気持ちで。。。
2024年02月23日
12/19に、「晴れた日に傘を貸し・・・顛末(その1)」を投稿しました。「このままでは資金ショートは必至!」という銀行の分析結果は変わらぬものの・だから、当座貸越を全額返済せよ!という方針から12/19では、・取り合えず、当座貸越枠は存続・・・で残り枠も復活。そして、1月終盤では、更に・資金ショートする前に「追加融資」という願ってもない形に決着しました。思えば、開設当初(2019/5月)は、数カ月で手持ち資金がほとんど空(カラ)になりかかったところに県の「新規事業者対象枠融資」で何とか経営危機第一波を凌いだのも束の間、運営のメドが立つであろう時期(2020/1月~)に世間(世界)は、未曽有の「コロナ渦」に突入。だが、これのおかげでかなりの有利な融資を引き出して経営危機第二波を乗り越えることが出来た。更に、想定外に長引くコロナ渦で資金繰りが悪化しつつも世間(世界)も想定外の為追加融資枠が拡大し、これまた、経営危機第三波もかろうじて乗り切り・・・何とか順調に来たものの、「2つ目の施設」を開設した後は、再び、マイナス月が継続し、いよいよ題経営危機第四波で万事休す!か?と思われたのが今回の一連の出来事です。何とかこれにより一息付けたのは間違いないのですが、あと半年後には「夏のボーナス」という試練が待ち構えています。そこを乗り切れば・・・今度こそ この先も何とかなる!はず!必要とされる仕事をきちんと全うすれば、必ずや存続できるはず! と信じております。お気づきの事と思いますが、毎回経営危機を乗り越える際には「融資」が絡んでいます。即ち、波を乗り越えるごとにどんどんと「負債」が膨れているわけです。「今いくら借金があるか?」が問題ではなく「毎月きちんと返済できるか?」が全てなのです。ただ、事業の性質上、売り上げの上限は決まってきますので、「負債」もええ加減に膨らまさんようにせんと、最後には「破裂」してしまいます。今回の一連の騒動の結果、銀行とは「晴れた日に傘を貸してくれて、 時には、曇ってきても更に傘を貸してくれる(場合もある)。」ところ。追記1/22掲載の「When I'm Sixty-Four」の記事内でIf I’d been out till quarter to threeWould you lock the door?の箇所の訳を「もしも 夜中の3時15分前になっても 外出しているような時には ドアに鍵を掛けてくれないか」という(ほぼ直訳)のを採用しましたが、指摘を受けたことも有り再考したところ「ドアにカギを掛けちゃうかな?」てな感じの方が自然なのかもしれません。
2024年02月05日
先日、金融機関(要するに銀行)に対して、 暑苦しい夏に布団を貸し付けて、 濡らすな。汚すな。とばかりに管理され、 冬の気配が来る前に、引っ剥がして回収する。 オマケに僅かばかりの薪をくべた 囲炉裏に水をぶっかけて行く。 あるいは、 晴れた日に傘を貸し、 雨が降り出す前に自分とこへ呼び出して回収し、 雨が降り出したので「どうぞお帰り下さい。」などと暴言を吐きました。 暴言内容は⇒「こちら」年末の支払やら、何やらどないするべ!と途方に暮れつつも、何とか従業員の賞与を支給し、最低限の支払いを済ませました。それでも、「個人的にお金を借りてきて何とか凌いだ。」だけの事ですので、これも近々返済せねばなりません。「どないするべ!」が少し先送りされただけの状態で次の給与支払い日を迎えねばなりません。そこへ、暴言を吐いた(直接は吐いてないよ。)先の「銀行様」(「様」付けになっている。)から連絡が有りました。前回の「当座貸し越し解消⇒月々返済せよ」の場には臨席していなかった支店長から直々に電話が有り、 ①当初の計画通りに行ってない。 ②現状のままでは資金ショートするのが明白という事実に関して、前回は ・どないすんね!? ・当座貸し越しの残り枠を使う事禁止! 更に、更新も不可!なので、来月からでも 月々の返済をせよ。 (とまり、更に毎月の返済額が増える。)という話だったのが、支店長の決済は、 ・計画立案時は当行も参加していたので こちらの認識も甘かった。 ・当座貸し越しは今のまま更新。更に ・このままでは資金ショートするので 更なる融資を検討する。し・か・も ・追加融資はそれなりに月々の返済が増えるので 追加融資分は、「1年間の元金返済猶予」という「何かの罠か???」と思わせるほどの転換ぶり。しかも、「今度の融資をしてもまた数か月後に 同様の状態にあってはアカンので 余裕を持てる状態にしたい。」とな。いままで何十年といろんな金融機関と付き合ってきましたが、「晴れた日に傘を貸し、曇り始めたら 即座に回収する。」人ばかりで、今回のような「晴れた日にはもちろん貸しますし、 曇ってきたら、予報に合わせて グレードアップした傘を貸します。」なんていう提案は初めてです。決済は、支店長単独ではおそらく困難ですので、その上(誰か知らんが)の決済が下りるまではまだまだ手放しでは喜べませんが、何とかなっちゃう!か?取り合えず、本日「当座貸し越し枠更新」手続きを完了し、消滅しかかっていた「残り100万円」枠が復活!何とか、目の前の苦難は乗り越えられそうです。「追加融資」は、年明けに持ち越しです。
2023年12月19日
山積された課題・・・ほぼクリア!あとは資金繰りのみ!と先日報告いたしました。で、「ウルトラC」遂行に着手・・・ 経緯は、記事参照⇒ 窮地の脱し方~かむ太郎式「逆パレートの法則」 山積された難題・・・(ほぼ)クリア! (^。^)v「ウルトラC」をクリアするには、比較的低めのハードルが1つと、かなり高いハードルが1つ有り、実は、「高い方のハードル」を先にクリアすることが出来ました。が、「低めのハードル」に問題が発生し、なんと!こちらが「NG」となってしまいました。なんてこったい!!!ここにきて、何なくクリアできそうだった「低めのハードル」は、クリアできなかったことにより、新たな「高めのハードル」として別の手段を画策せねばなりません。これも、策をめぐらし、かなり無理くり何とか「クリア」することに成功!やれやれ、これで、ここ数カ月頭を悩ませていたあれやこれやの諸問題がぜ~~~んぶ解決ぢゃあ!と、久々にすがすがしい朝を迎えたところでした。そもそも、「ウルトラC」の前段階で、 ①銀行の「当座貸し越し枠残り100万円」 ②定期積金の満期金100万円を、「既に確保しているという事実」が出発点で、それらが「当然」クリアされている前提であれこれ画策してきたわけですが、そこへ、 (詳細は伏せますが)銀行から「当座貸し越し解消」の電話が。。。言いたいことは多々あるけれど、あんたんとこへの返済は何も迷惑かけてないよね!たしかに、年金事務所への支払いは遅れ遅れで、先日も年金事務所に頭下げに行って今後の支払いの計画も立てたよ!だからと言って、「税金等(年金含む)の滞納」を理由にあんたんとこが提案してきた「当座貸し越し」による貸し付けを即座に「証書貸し付け」に変更して来月からでも毎月返済に切り替えろ・・・たぁ!お天道様が許しても、かむ太郎様はおいそれと承知するわけにゃあいかねぇぜ!今、資金繰りが苦しいからこそ年金の納付も遅れ遅れになってるんだし、それもこれも、あんたんとこや他の金融機関の返済を優先してるからでしょうに!こんなことなら、あんたんとこ後回しにすりゃよかったのか?ま、そんなことしたらあんたら金融機関は、どんな仕返しするかわからんし。かと言って、お上はお上でそこいらの「サラ金」「闇金」並みのえげつないことを「合法的」かつ「どこよりも最優先」で実行できるから、逆らえんし。。。見通しが良さげな昨年末には、あれやこれやお金を貸してくれることばかり提案してくれてましたし、銀行で主催している「なんとか倶楽部」にも月々1500円払って入会しましたがな。それもこれも、支店の成績上げるのにほんとに微力ながらできることは協力したし、間違っても不義理なことは今のところ何にもしてないやん!今まで、そちらからお願いに来るときは支店長まで一緒に来てたのに今日は、今まで有ったこともない別部署が出てきて何だこれ!「当初の計画に比べて達成率がどうのこうの」て、福祉やら医療業界に対して、「売上ノルマ」「コスト削減」みたいな一般企業のようなモノサシで測るんぢゃねぇよ! ・「売上」が上がらんから、営業する! ・目標に未達だから、人件費を下げる!そういうことは、できない仕組みの中でやっていかなけりゃならん業界なのよ!ま、これぐらいのことで、今の施設を潰すわけにもいかないし、バブルが弾けた頃の金融機関の仕打ちに比べれば何てことはないので、また何とか凌いでは行くけれども・・・晴れた日に傘を貸し、雨が降ると取り上げる。(「雨が降る前に回収する。(傘が濡れないように)」かな?)とはよく言ったもので、今回は、暑く寝苦しい熱帯夜に分厚い布団(金利が他行より高め)を(他の銀行はもう少し軽い羽根布団=低金利だったけど、 担当行員の熱意で、あんたんとこから借りて 言われるがままに「当座貸し越し」も設定したんだよ。)貸してくれて、「汚すな」「湿気を与えるな」てな感じで毎月毎月売上やら人件費やら報告させて、1年前の当初から、今回の使い道と必要額は知らせてあったのに、このギリギリ土壇場にきて「寒くなってきたので布団を返して!」とばかりに引っ剥がして行きゃあがる。夏場は分厚い布団は要らないし、寒くなった時期に布団を借りに行ってもどこも出払ってしまってるし、急には調達できないんだよ。暑苦しい夜に布団を貸し、雪が降りそうな夕方に突如回収に来る。そう言えば、銀行って、そういうとこだったっけ?今回は、「利息さえ払っていれば元金返済はいつでもOK」の返済分(当座貸し越し)を「月々決まった金額返せ!もちろん金利付き!」に変更させられたわけだから、単に「布団を引き上げる、傘を取り上げる。」だけじゃなくて、苦しい月々の返済を更に上乗せさせる・・・ 暑苦しい夏に布団を貸し付けて、 濡らすな。汚すな。とばかりに管理され、 冬の気配が来る前に、引っ剥がして回収する。 オマケに僅かばかりの薪をくべた 囲炉裏に水をぶっかけて行く。あるいは、 晴れた日に傘を貸し、 雨が降り出す前に自分とこへ呼び出して回収し、 雨が降り出したので「どうぞお帰り下さい。」てな感じ。それでも、今回改めて感じたのは、「こういう時の怒りはエネルギー源になるぜ!」という事。状況は変わらずとも、「もう、どうにもならんのちゃうか?」という不安と恐怖に苛まれた心が「どうせ、どうにかしちまうし、何とかなっちゃうはず!」という楽観的感情に、怒りとともに反転していくがわかります。心の中に分け入ってこの仕組みを分析すると ①:この怒りを鎮めるには 「何とかせにゃ、納得いかんし悔しい。」 という気持ちが一番に有って、 ②:何とかする為には 「同じ状況なら、くよくよしてても良いことなし!」 という過去の人生から学んだことが 心と体全域にいきわたり ③:鎮痛剤のごとく「不安と恐怖」が薄らいでいく。 と同時に、 ④:このまま放っておいたんでは、鎮痛剤の効果が切れるので それを凌駕するだけの効能を持った「何か」が必要・・・ ⑤必要なんだけど、そんな気の利いたものが無いので、 てっとりばやく「今湧き出た怒り」をもって代用する。 ⑥「怒り」は、「愛」とか「平和」などの「漢方薬」ではなく 「劇薬」なので、即効性は有るが、依存してはならない。 出来れば、早めに「愛」「平和」「地域貢献」などの 本来の目的でもある「漢方薬」に代えるのが良い。退院後、毎月の検査で僅かずつでも下がってきたクレアチニンの値が、今回上がってました。さて、新たなる窮地を如何にして脱するか?奇しくも本日は、 1941年:真珠湾攻撃の日 1963年:力道山が刺された日(1週間後死亡) 1980年:ジョン・レノン暗殺の日 1991年:ロシア・ベラルーシ・ウクライナの代表が ソビエト連邦の消滅と独立国家共同体の創立を宣言。古くは、かの「仏陀」が悟りを開いたとされる「成道会」です。
2023年12月08日
先日、「窮地の脱し方」 ⇒ 「ここ」参照という日記を書きました。書き出して整理したおかげで、「その気になれば、無視できるもの。」「その気になれば、案外簡単に片付くもの。」「その気になれば、そもそも気にしなくても良いもの。」などが混在していて、ハードルの低いものから片付けていくと、最後に、「ひとつ ❝ だけ ❞」残ったのが、 資金繰り です。 (モト これさえどうにかなれば、後は何てことない・・・ というところがスタートで、 この最大の難問に振り回されて他の簡易な問題すら 解決できてない状況を打開するために、 「逆パレート作戦」を立てたので、 この結果は至極当然・・・ではある。)さて、これでは単に元々の立ち位置に戻っただけ・・・と思いきや、結果的には、「ハードルがメチャ低い。」あるいは、「そもそも問題というレベルではなかった。」などの問題を、どんな形であれ「処理」していくと 鍵のかかった扉にもたれかかって 「う~~~ん!」と押しているよりも 少しでも後ろに下がって助走をつけて 「どかん!」とぶち当たった方が、 扉を破りやすい・・・という感じで、同じ立ち位置に居てもとりあえず、「10の内、9を処理した」という勢いで、「ど~にもならん!あとはどこから謝りに行こうか・・・」と途方に暮れていた頭に 「ウルトラC」の閃きが・・・これを遂行するには、最低でも1~2か所頭を下げに行かねばならないのだが、「どこから謝りに行こうか・・・」と考えた時点でどの道、頭は下げねばならんのだからおんなじこっちゃ!しかも、謝ったところで、せいぜい先延ばしが関の山だけれど、「ウルトラC」なら、頭を下げた後に「万事解決」の道が開ける!「一歩踏み出せば、景色が変わる!」 記事は⇒「ここ」と常々思っていることが、久しぶりに実感できた数日でした。あとは、「ウルトラC」遂行のみ!!!「貧すれば鈍す」と「窮すれば通ず」は、表裏一体。
2023年12月05日
私と同世代の、「平均余命」が、概ね「20年」で、 注「平均余命」とは? →「ここ参照」私のような「透析患者」は、「その半分!」と担当医が申しておりました。となると、「あと10年か・・・」と、このような「10年カレンダー」を机の前に貼って、人生の終幕をあれこれとイメージしておりますが、その10年を構成する単位・・・「1日(毎日の暮らし)」が、なかなか思うように行きません。頭の中と心がどんよりしている原因は、「現在の困りごと」が大きく影響しています。実際は、物心ついてから「ほぼ24時間365日」困りごとだらけで頭も心も埋まっているのですが、それなりに「許容量」というものがあり、「人一倍の許容量」を自負している身では有りますが、時として、その許容量に迫ることがあります。「許容量」自体も、実際の物理的「器」のように常に一定の規格を維持しているわけではなく、体調や天候や「阪神優勝!」などで、日々変化します。現実は、「困りごと」が増えて「許容量」を超える、というよりも、「常に一定量の困りごと」を抱えているのに、日々変化する「器」が縮んだり凹んだり穴が開いたりして溢れて漏れ出しそうになる。・・・と言った方が近いかもしれません。いずれにせよ、溢れて漏れ出すと厄介なので、出来る限り規格を維持するか、さもなくば修復を試みます。が、限界近くまで来た頃にはちょっとやそっとの事では修復が追いつきません。そんな時、試みる手法があります。★まずは、今抱えている問題を列挙します。大きな問題、些細な問題・・・10個ぐらい挙げます。私の現状は、 ①資金繰り・・・要するにお金が回らない。 ②ハローワークに提出する書類が片付かない。 ③年金事務所に提出する書類が片付かない。 ④税理士に提出する書類が片付かない。 ⑤銀行に提出する書類が片付かない。 ⑥部屋が片付かない。 ⑦透析液交換のサイクルが安定しない。 ⑧勉強時間がとれない。 ⑨運動不足。体力不足。 ⑩肌が荒れてきた。ま、取り合えずこんなところで・・・列挙してみて改めて分かったことは、 形式の無い「レポート」や「統計」などは 作業自体が、「好き!」で得意(だと思う)。 が、「決まった形式の書類」や「役所への提出物」 を作成するのは「嫌い」で「作業が遅い」ようです。個々の、重要度を示すと ① 70% ② 6% ③ 5% ④ 4% ⑤ 3% ⑥ 2% ⑦ 2% ⑧ 5% ⑨ 2% ⑩ 1%ぐらいなので、「パレートの法則」に則ると ※「パレートの法則」⇒「わかりやすい記事①」 「わかりやすい記事②」 「わかりやすい記事③」 「過去の日記:2008年1月22日」 「過去の日記:2011年9月22日」あきらかに最優先順位は「①」以下、②→③→④→⑧・・・と処理していくのが最善なのです。労力はどうあれ、①を片付けた時点で、「70%」解決。以降、②までで「76%」、③までで「81%」、④までで「85%」たった4項目で「85%」片付くのですから、重要度の高い順にこなす!が大正解。・・・なのですが、そもそも、「重要度:高≒難易度:高」で、「それが出来んから困っとるんやんけ!」というのが現状なのです。★ここで一計を案じます。まず、⑥⑦⑧⑨⑩を「現状では致し方なし!!!」「そのうち何とかなる。今は致命傷ではない!」として、現時点での解決を諦めます。(これで、即座に「10個の内5個解決!」 ・・・実際は、全く解決してないのだが。。。)次に、比較的「厳密さを求められてない」書類として⑤を片付け、同様に、④、あわよくば③あたりまで何とか形になれば、「めんどくさい」ので手つかずだった②も、勢いで何とかなりそうな・・・ここまで来れば「10個の内9個」として「完遂率=90%」として評価します。実際は、②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩まで9個こなしたところで「30%」しか解決しないのですが、これを「90%」としてしまうのですから、かなり「我が心と脳みそ」を騙さないとアカンのです。かくして、あわよくば9個、悪くても6~7個処理できれば、「ほぼ」解決したも同然。あとは、残りの1個(あるいは2~3個)❝ だけ ❞ をこなせば「オール・クリア」なのです。実際、「とにかく1歩踏み出す」ことは問題解決に際しては、かなり有効な手段で、特に「何から手をつければ良いかわからない」時や「全くやる気にならないけれど、やらねばならん」時、には、「結局何も出来なかった」という結果よりは遥かにマシでしょう。これとは別に、目の前の「難題」(得てして己の力量のみでは解決が困難。)に対しては、客観的には「可:否=10:90」ぐらいでも強引に「上手く行く ОR 行かない?」の2択と捉えて、「可否は五分五分!」と決めてしまいます。これによって、「可:否=50:50」にまで持っていけます。当然ですが、結果は概ね「10:90」ぐらいで決着するのですが・・・とは言え、結果が出るまで「10:90」の恐怖に晒されるよりせめて結果がわかるまででも「五分五分」と思えれば多少は、ストレス軽減になり、この目の前の「難題」以外のことは、少しでも平静な心でクリアできそうになります。また、結果的には(当然のように)「×」だったとしても、そこから立ち直る時には「ほぼ不可能」として立てた作戦よりも、「五分五分」の可能性を勘案した作戦の方が、目指す着地点がより良いものになっているので、その後の「修正案」が「前向き」になります。メイン難題に心を崩されていては、普段なら簡単にこなせる案件すらも「次なる難題」に化けてしまいます。こうなると、本来一つしかないはずの「難題」がいくつもいくつも出現したかのような錯覚に陥り、気が付くと、「難題だらけ」になっています。よくよく整理してみれば、「難題はひとつ」だったりするのですが・・・一人で抱える難題に対しては、かように己の心構えを操作しながら何とか生き延びてきたのですが、これが、自分以外の人間を巻き込んでいる時はことは簡単には済みません。会社勤めをしていた頃は、なかなか周囲に私の思考が理解されず、 「何て楽観的な!」とか、 「かむ太郎さんは飄々としてますねぇ。」とか、 「実は、何かとてつもない秘策でもある・・・とか?」などと言われたものです。(だって、悲観しても楽観的でも 結果が変わらないんだったら、悲観しても仕方ないいやん!)私が一番の責任者である場合は、最悪自分がひっかぶれば済むのですが、そうでない場合(特に部下にせ金の所在が有る時)は、一言・・・ 「大丈夫やて。結果ダメでも、死にゃあせんから。」意外にこの一言が、効くことが多々有りました。この記事で、記念すべき「2400件」になりました。よくもまあ、綴ってきたもんですな。
2023年11月19日
以前・・・と言っても10年以上前に「世に従はん人は~徒然草 第百五十五段」 ⇒記事は「ここ」を綴りました。カテゴリーは、「かむ太郎の法則」 ⇒一覧は「こちら」として分類。「かむ太郎の法則」は、自分が生きてきたそれまでの人生で実際に付き合いのあった人の生き様、言動その時々の考え方や判断基準、歴史・文化・経済・科学・まんが・・・何冊も何冊も読み漁った書物から得た金言・格言、心構え、知恵、発想、などなど。更には実際に自分が直面して凌いできた場面での失敗した戦略、功を奏した戦術いろんなこと取捨選択し、織り交ぜた「わが人生の指南書」と言っても良いかと。時折読み返して、明日への羅針盤としております。運営、資金繰り、事務作業・・・零細企業の経営者ならどこも同じかと思いますが、日々の煩わしさ、月々のお金の工面、役所や関係先への書類の山。(「ぺーぱーれす」どころか、年々紙の書類増えてねぇか?)日々少しずつ「閏ストレス」が溜まり、月に1回、か2~3か月に1回或いは、半年、1年に1回ほど、目には見えない「積り重なったもの」が何かの拍子に、「ど・ど~~~ん」とのしかかってきて心も身体も重くなり、思考停止になりそうな時があります。そんな時は、誰のどんな言葉よりも「あの時の自分」の言葉が大きな拠り所となり、エネルギーを充填できるエネルギー源にもなります。何と言っても、「そりゃ、あんたはエエわさ。」とか「おまえと俺では生きてきた環境も違う。」とかいう逃げ道がないのです。その時の「あんた」は自分自身ですし「おまえ」も自分なのですから。たとえ、「今」と「その時」とのいろんな事情が異なるにせよまぎれもない自分が感じたことなのですから。そう思いながら「世に従はん人は~徒然草 第百五十五段」 (2011年7月15日)を読むと、 「春暮れて後、夏になり、 夏果てて、秋の来るにはあらず。」 苦しい時こそ、より真剣に 先を見据えなければ、悪循環になります。 窮した時こそ 通常以上にエネルギーを使って 次の準備を整えなければ 「負け戦」へまっしぐら! ぼやぼやしてる内に 人生なんて、あっと言う間に過ぎ去ります。と、12年前に力説しています。全然進歩してないなぁ。それどころか、12年経って再びやっとこさ同じ境地に立ってるやんけ!と自省しつつも、改めて 苦しい時こそ、「明日」への足掛かりを「今」作る。 種を蒔いたとてすぐには生えぬし、 蒔いた種、全てが生えるわけでもなし。 それでも・・・「蒔かぬ種は生えぬ!」お金も、体力も、残された時間もそれほど多くは無いけれども、出来ることが「全くない」わけじゃない。全然捗らなくても全然ゴールが見えなくても 「一歩踏み出せば景色が変わる」 ⇒記事は、「ここ」 迷ったら動く!止まりそうな時こそ、動く! ⇒デカルトの話は、「ここ」一歩でも・・・それすら叶わぬならばたとえ半歩でも、踏み出しますぜ!
2023年11月13日
「京セラ」「第二電電(現KDDI)」の創業者でもある稲盛和夫さんのオフィシャルサイト内に「思想」というページが有ります。その中の「すばらしい人生をおくるために」の「3:正しい判断をする」の最初に 利他の心を判断基準にするというのが有ります。 ⇒参照 「稲盛和夫OFFICIAL SITE」思想 「曹洞宗 梅宗寺」の公式HP 「浄土真宗大谷派桑名別院本統寺」HP 「真言宗智山派龍性院」HP 「東北福祉大学」HP今を去る事40数年前・・・❝ 1回目の ❞ 大学生だった頃、強めの勧誘や依頼には「NO!」と言えない性格故に街頭では怪しげなアンケートに誘われ「映画観賞券の割引チケット」をゲット!駅から大学への近道の大きな公園内では自転車の二人組の外国人のお兄さんに「モルモン教徒の集い」に連れていかれそうになり・・・名古屋駅前では、「ビアガーデンの年間パスポート」を買いそうになり(持ち金が少なく難を免れた)・・・とにかく大学の敷地内に入らねば大都会は危ない誘惑でいっぱい! 息を止めるように公園を突っ切って学内に入ったある日安全である学内で、安心である先輩から「さーくる」のお誘いを受けました。「たんにしょうけんきゅうかい」(歎異抄研究会)「安全な学内」での「安心な先輩」のお誘いを断ることもなくその場で入会をしました。その後に参加した活動の内容はほとんど覚えていませんが漠然と「モルモン教のお兄ちゃんの方が、な~んか優しかったような・・・」と感じていました。どれだけの期間そのサークルに居たのか全く記憶がないのですが唯一覚えていることがひとつ・・・それが、「自利利他」という言葉です。抹香臭い輩の善人もどきの自己満足と捉えていたものです。その後、大学を中退し、闇雲に社会に出て自力で商売を開始しますが、どんな時も「自利」の考えは有っても「利他」なんてことは微塵も考えずひたすら己の為に猪突猛進しておりました。ま、せいぜい悪いことをしてたんまり設けた輩がその後ろめたさを払うためにボランティアとかチャリティーとかのおためごかしで世間に「良い人」アピールをするぐらいが「利他」の正体なんぢゃねぇの!!!・・・としか考えていませんでした。(自分では気づいてないけど、長いこと負け犬根性だけは 一人前以上に大きくなってましたので・・・)自販機で飲み物などを買う時に何十回かに一度ぐらい、釣銭が多い時が有ります。機械の故障とかではなく、単に前の人がお釣りを取り忘れたのでしょうが、子どもの頃のように、これを意気揚々と交番に届けるようなことはなくかと言って、自分の正当なお釣り分だけを取って後は釣銭口に残す・・・わけでもなく結局は、「刑法第235条:窃盗罪」を犯すことに・・・※自販機の場合は、道に落ちている時と異なり 「254条:遺失物等横領」ではないようです。(諸説有り?)金額によって異なる訳では有りませんが、道端に落ちている場合も、「1円玉」「5円玉」「10円玉」は、「彼ら(硬貨)もこのままでは本来の使命が果たせないし かと言って、交番へ届けたところで ・私の時間と労力 ・交番の人の時間と労力と紙やペンの消耗 ・万が一落とし主が現れたところで その確認や受け取りまでの手間やら時間やら・・・などなどを総合的に判断して、これは私が使命を果たしてあげよう。(つまり、私が拾って使う)」という結論になります。「50円玉」「100円玉」あたりも少し時間をかけて自分を説得して「使命を果たす」ようにしています。私自身も、どこかで小銭を落としているだろうし、それが、ドブや川に落ちて世の中から抹殺されるよりは誰かが拾って「使命」を果たせれば、それで良いし多分、「ぷらまいゼロ」「いってこい」「ちゃら」なんじゃないか・・・と勝手に解釈しています。この何十年かは、「お札」を拾ったことが無いのでこの先拾ったときにどうするべきか?日々、油断せぬように頭の隅に置いています。子どもの頃は、「1円玉」であろうが「板垣退助」であろうが「大物:聖徳太子様」であろうが、すぐさま交番に出向いてまるで「表彰状」を頂いたかのような高揚感で「拾得物件預かり書」を常に複数枚所持していましたが、ここ数十年は、交番に届けるような大物拾得はありません。車に乗る時や小雨の時に下を向いて歩いている時時折「1円玉」をみつけて、使命を果たす・・・ぐらいです。(小銭を拾わなくなったのは、上を向いて歩く人生を送る努力を していることが大きな要因か??? そう言えば、借金返済に窮々していた頃は 「身も心も」常に下向きであったような・・・)ある時、コンビニで「コピー」をしたら釣銭口に小銭で「1060円」を発見!(500円玉×1、100円玉×4,50円玉×2,10円玉×6)私の使用分は「10円」で「100円」入れているのでお釣りは「90円」のはず。ということは、私の前のお客さんが「1000円札」で「30円分」コピーした、と思われます。お札ではないものの、数十年ぶりの「大物」がやってきたのです。小心者の私は、「この場合の最大多数の最大幸福」を考慮し (つまり「970円」を得るプラスよりも、この後 ビクビクしながら生きるマイナスの方がデカい!と判断した。)レジの方に、経緯を告げて「970円」を渡しました。(その後が「970円様」が使命を果たせたか否かは不知。)たったそれだけのことなのですが、いくらなら届けて、いくらなら「刑法235条」の基準が曖昧なことを痛感し、「小心者」かつ「統一されていない行動がイヤ!」な性格故今までの「小銭」の扱いが、自分なりの「理」に適っていたのか?もやもやだけが残ってしまいました。その翌週、銀行のATMで現金を引き出し、ついでに別の通帳に入金、更に、別の通帳から送金・・・完了して車に乗り込み、コンビニで買い物をしている時、 「さ っ き お ろ し た お か ね の ふ う と う が な い 」事に気づきました。「落としたお金は誰かが使えば、ちゃら」なんて嘯いていたのですが、封筒の中身は「130,000円」電気、ガス、水道、電話・・・の支払いが・・・嗚呼!これも、普段から「小銭」を「刑法第235条」してたからか・・・「1円」の「235条」は、「970円」を届ける、という当たり前の事では償いきれないのか・・・目の前真っ暗!!!嫌悪する「統一されていない行動」と自覚しつつも一縷の望みをかけて、さきほどの銀行へ・・・「やはり、かむ太郎さんでしたか・・・」取引先の支店でもあり、たまたま担当者が顔見知りで更に、防犯カメラの画像で「服装と言い、髪型(?)と言い、確信してました。」と言われました。なんでも、次のお客さんがATMで封筒を見つけ、行員に渡してくれたようで、すぐさま防犯カメラで確認、上からのカメラ画像にもかかわらず、すぐさま私、と満場一致で判明したそうです。銀行は(ルールなので)その足で近隣の交番へ届けてくれてました。銀行からその交番へ連絡を入れてもらい普通なら困難な確認作業もすんなりと突破。(なんせ財布とか鞄ではなく「封筒に現金」ですから・・・)結局、交番で受理された後だったので、既に「所轄署回し」の扱いになっていて「落とし主本人」と認定はされたもののその場で貰えるわけではなく(目の前に有るのだが)後日管轄の警察署へ取りに行くことに・・・手間はかかったものの、「現金」が戻ってきたことに感謝!「970円」届けた御利益が有ったか?というわけではないのでしょうが、銀行の中のATMとは言え、「名前も告げず」届けてくれた方には感謝しかありません。(届けてくれた「おば様」に幸あれ!と願うしかできませんでした。)これだけでなく、実はその2週間後にも、今度はコンビニでまたしても「現金30,000円入り封筒」をレジ前の「鞄置き台」に忘れて、数時間後に尋ねてみると「これですか?中身わかりますか?」と確認を要求されました。この時は、そのコンビニで買った「切手とレシート」を無造作に封筒内に入れていたのでこれまた無事に還ってきました。「あかんあかん、いろいろアカン!」これでは、「ちゃら」どころか「恩恵の負債」がたんまりと蓄積してしもうた。2回も現金を置き忘れること自体もアカンが、「ちゃら」が安定した状態である以上、この先そう考えても「負債」が残る。つまり、常に「マイナスエネルギー」に引っ張られるのでは・・・?その後、件のコンビニで支払いの直前に(ここはレジで金銭の受け渡しは無く現金もすべて機械投入)レジの釣銭口に「複数の小銭」を発見!「おお!ラッキー!」この「ラッキー」は、小銭をまんまと手にできることではなく「恩恵の負債」を少しでも返済できるチャンスに恵まれたことに対しての「ラッキー!」まるでホールドアップのように両手を上げ『ぼく、さわってませんよ』アピールしつつ釣銭口の小銭を指差し、「これ、前のお客さんの忘れ物とちゃう?」と店員に強く訴え、取り除いてもらいその後に、自分の買い物分を清算。おそらくは、「挙動不審」であったと、少し反省。自覚しているだけでも「恩恵の負債」が残っているのでこれからは、余分な拾い物をしないように、なるべく上を向いて歩き外に設置してあるATMや自販機はなるべく使わず、(置き忘れたらまず戻ってこないし 前の人の釣銭を発見しようものなら 交番まで届けねばならなくなる。)店内のATMや機械の釣銭口は、必ず事前に確認する!ことを最低限「負債を増やさぬ」ために実行しています。お金の「プラスマイナス」は、まだわかりやすいのですが(拾ってくれた人や交番の労力などは数値化できぬが)ことこれが、人とのつきあいになると「恩」とか「義理」とかは、なかなか量ることができません。自分では、十分恩返ししたであろう・・・と勝手に思っていても、先方は「まだまだ」という事もあるでしょうし、逆もあるかもしれません。そもそも、こちらははなから「恩」とも思ってなくとも先方は「きっちり貸し」と認識していたりその逆もあったりします。具体的な「先方」が存在しないこともあるでしょう。「自利利他」という言葉を反芻した時に冒頭の参照ページ(稲盛さんや各宗派のHPなど)に記載されているような高尚な考え方にはそれでも到達できません。とは言え、何となく「因果応報」的な思考回路は有ってしかも、・マイナスを施せばリターンは数倍~数十倍以上・プラスを施したところで、リターンなど見込んではダメ!ということは経験的に何となく身に染みています。それでも、今の自分は周りからの「先行投資=恩恵」を多分に受けてなりたっていると感じています。「自力」で何かを行った時は、ほとんど玉砕しています。周りの理解や助けが有ってようやく「今」何とか生きてます。もう少し素直な性格であれば、「自利利他」という言葉に頷くことが出来るのでしょうが、なかなか素直になれぬ身としてはせめて、「まずは、最低でもプラマイゼロ=ちゃら」に持っていけるよう「損得計算混じり」でも「形から」でもよいので、「利他」の心を育んでいこうと思います。(たとえ育めなくとも、表面だけでも同じことしてれば 少しは近づける、と思ってます。)自分に近しい周りの10人が揃いも揃って「不幸」であって、自分だけがそうでない、となると10人の人々との付き合いが無くなるか、あるいは、10人を自分1人で助けるか・・・どっちも厳しそう。足を引っ張るヤツや、やっかむヤツもいるかもしれない。では、逆に、周りの10人が揃いも揃って「幸福」であって、自分だけがそうでない、となると、どうだろ?10人から全て縁を切られれば、それっきりのことだけど、もし、10人がそれぞれ「100%」ずつとは言わない、「10%」ずつのパワーで自分を助けてくれたら・・・「10%×10=100%」何とかなりそう。ゴム状の円盤の中心が自分で円周上に10人いるとして真ん中の自分だけが上に「ギューン!」と飛び抜けようとしても周りのゴムに引っ張られて飛び抜けられない。よほど強い力で引っ張るか、周りを「絶って」飛び抜けるしか無い。逆に円周上の10人が上向きに「ギューン!」と飛び抜けようとしてたら真ん中の自分が、ある程度「下向き」で有っても10人力のパワーで少しは「上向き」になる。それでも、下向いてたら「絶たれる」だけ。でも、真ん中で上を向いてる自分が1人で下向きの10人を引っ張り上げる労力に比べれば周りの10人が上向いてるパワーに乗っかって下向いてる自分が上向きになるのは、まだ楽そうだ。PS:車を運転している時に、前方対面からの右左折車が有る時はバックミラーで後続車を確認し私の後ろに車が無ければ(私が最後尾ならば)そのまま突っ切りますが、私の後ろに車が続いている場合は前方対面の車を入れてあげるようにしています。逆に、私の車を入れてくれた時は「幸あれ!」と念を送っています。日々「恩恵の返済」を心がけております。
2023年05月20日
いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 【 我思う、ゆえに我あり。 】かの、デカルトが、『方法序説』の中で提唱した有名な命題です。この、あまりにも有名な命題の他にデカルトは次のような事を述べています。森の中で道に迷った旅人の取るべき行動について 「旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、 ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、 まして一ヶ所にとどまっていてもいけない。 いつも同じ方向に向かってできるだけまっすぐ歩き、 たとえ最初おそらく ただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、 たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。 というのは、 このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、 とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、 そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ」 (谷川多佳子訳)実際に、山や森で遭難した場合にはこの考え方が最善か否か議論が分かれるところでしょうが、基本的に、デカルトのこの話は私にとっては、行動の指針として背中を押してくれる素敵な考え方です。現状に満足出来るならば、むやみに動く事は得策ではありません。また、動くことで “ 確実に ”事態が現状より悪化すると分かっている時も動く事は、慎むべきでしょう。が、現状打破!・・・を目論むのであれば、「停滞」は即ち「現状悪化」に通じます。動く事によって活路が見出せるはずです。それが、たとえ誤った方向であったとしても、動いた事によってのみ「誤り」であった事を発見し正解にひとつ近付く事にもなります。最悪なのは、「現状」から脱却しようと思いながらも全く動かない(動けない)状態です。停滞は「迷い」であり、「動かない」状態はやがて「動けない」状況を作り上げます。迷ったら、動く!もちろん、やみくもに動くのではなく、現状で考え得る最善策をじっくりと練り上げて、決定する!一旦決めたら、迷わず疑わずに行く!その策に致命的な欠陥が見つかるまでは、とにかく迷わず疑わず!最善策が見つからない場合でも、とにかく一歩踏み出してみる・・・動いた一歩先一歩先で、必ずや新たなるヒントも見えてきます。 【 我動く、ゆえに我あり。 】 ☆★☆ 初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) またのお越しをお待ちしております。
2012年04月12日
世に従はん人は、まづ機嫌を知るべし。 ~~~ かむ太郎訳 ~~~ 世間と折り合いを付けて暮らすには、 何よりも「時期(タイミング)」を重視すべし。 ------ (中略) ------春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下にまうけたるゆゑに、待ちとる序はなはだ速し。 ~~~ かむ太郎訳 ~~~ 春が終わった後に夏になって 夏が終わって初めて、秋が来る訳ではない。 春は移り往く中で夏の気配を生み、 夏には、既に秋の到来を準備し、 秋は、次第に寒さを増し 初冬には小春の気候で草も芽生え 梅も蕾を付けはじめる。 落葉も、まず木の葉が落ちてから芽吹くわけではない。 木の葉の下から、既に芽吹いている事に 耐えきれなくなって落葉するのだ。 生気がなくなった葉の下で準備をしているため 新芽が生える新旧交代の速度が速いのである。 ~~~ この後に、有名な「死期は序を待たず」 のフレーズが出て来ます。 ~~~【四季】は、なほ、定まれる序あり。【死期】は序を待たず。季節は順序通りに移り変わるけれども人の死は、順番ってわけには行きません。本日の、テーマは「死期は序を待たず」の方では無く、「春暮れて後、夏になり、 夏果てて、秋の来るにはあらず。」です。何事も、次のステージに向かって「既に」歩き始めている。目の前の雑多な案件や切羽詰まった事柄などに翻弄されている「今現在」既に、次を見据えての準備を着々と整えていかなければ常に目の前の事に翻弄されっぱなし!・・・になってしまいます。苦しい時こそ、より真剣に先を見据えなければ、悪循環になります。窮した時こそ通常以上にエネルギーを使って次の準備を整えなければ「負け戦」へまっしぐら!ぼやぼやしてる内に人生なんて、あっと言う間に過ぎ去ります。 ☆★☆初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) 現在、工夫しております。暫くお待ち下さい。 いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 ↑「勝ちっ!」とひと押し↑ 【センター試験:目標900点満点!】 1日1クリック!応援に、一口のって下さいませ! 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 ここまで来たら【かむ太郎劇場】の行く末を とことんお付き合い下さいませませ。 今までの最高順位は、「1位/1016サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2011年07月15日
勉強も、人生も高みを目指せば目指すほど次から次へと難関が立ちはだかるものです。(ん?私だけじゃないよね?) 僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来ると、高村光太郎は詠みましたが私の場合は、既に後ろに有った(であろう)退路は完全に遮断してしまって後ろには、自ら敷いた「背水」があるだけです。従って、「道」は、前にしか伸びる可能性がありません。 僕の後ろには道がない 僕の前にしか道は出来ない前か、後ろか・・・いずれかに新たなる「道」を築くのであれば当然! 前しかありません!道を作るべく、分け入れば分け入るほど今まで見えなかった難関が現れますが、そこに至って初めて見える風景は決して「苦」ばかりではありません。予期せぬ「実」もあれば「花」もあります。動けば、そこに別の風景有り。 ☆★☆初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) 現在、工夫しております。暫くお待ち下さい。 いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 ↑「勝ちっ!」とひと押し↑ 【センター試験:目標900点満点!】 1日1クリック!応援に、一口のって下さいませ! 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 ここまで来たら【かむ太郎劇場】の行く末を とことんお付き合い下さいませませ。 今までの最高順位は、「1位/1016サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2011年07月12日
禍(わざわい)転じて福となす!…この必殺技(?)を体得すれば、四六時中襲い掛かかってくる一見『災い』と見える状況が『福の素』となるのですから、是非とも身につけたいものです。(^^)身の回りの様々な事象が『禍』になるか『福』になるかは、目の前で起こった事だけでは判断できません。どこでどんな風に『因果』関係が出来るかわかりません。ただぼけ~っ としていては『福の素』である『一見、禍』はそのまま見た目通りの『禍』として威力を発揮します。はたして、目の前の『禍』が『本当に禍』なのか『福の素』であるのかは、見極める事は出来ません。それでも、現に目の前で起こっちゃったならどうしようもないので『福の素』…のはず!と決め付けて…とすると、こいつを『本当に福』にするためには何をどないして、どんな道を歩めばええか?を思案します。『一見、禍』(『福の素』も『ほんまもんの禍』も含む)を『そのまま禍』にするのは簡単です。日々、悲嘆にくれてオロオロし、自然に思い付く、何百何千の『出来ない理由』のシャワーにうたれ、悪い事ばかり思い浮かべ、考えていれば、あ~ら不思議!『思い通り』の『禍』一丁あがり!オーダーストップするまでどんどんどんどん降り注ぎます。そんなのは、嫌なので『福の素…のはず!』と決めて後は、『望む形の福』に至る為の細くて脆い(であろう)道を一気に突っ走るしかありません。目論見通りの『福の素』であれば険しくとも『福』に至るでしょうし、当てが外れて、『ほんまもんの禍』だったとしてもどうせ、ぼんやりしてたら痛い目に遭ってるんだから駄目で元々…。全ての状況は『福の素』であり歩み出した通は全て『福』に通じる!禍福は糾える縄の如し! ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年06月02日
幸福は、 不幸の顔して やって来る。見逃せば、あっと言う間に遠ざかる。 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年06月01日
毎日毎日、数学の勉強をしていると『ハタ!』と、気付く事が有ります。例えば…普通に計算していくと、答が【2】になる式をわざわざ【4/2(2分の4)】や【6/3】にしたり時には、【√2×√2】…更には、もっと複雑な形に「あえて」変形してる場合が多々あります。模範解答を見ると、確かにこの「あえて変形した一見複雑な形」こそが、正解への分岐点であり、この変形無くしては、正解への道筋が見えない。…というケースが大半を占めています。30数年前の現役高校生の頃から【難問】【高度な解法】を見る度に、常々『そりゃあ、そんなわざとらしい変形がわかれば 苦労は無いぜ! 毎回毎回、そんな都合の良い変形を思い付く訳ねえやんけ!』と思っていました。ま、そんな『難問・奇問』は無視して8割得点出来れば上等上等!…ぐらいの思いでした。それでも、最難関のT大やK大はじめ国公立医学部へ現役で合格した同級生達はやはり、この『難問・奇問』に対してまるで知っていたかのように「あえて変形」した式を自ら作り出し、その分岐点から見事に「正解」へまっしぐらに突き進んでいましたっけ。(-。-)「何でそんな事を閃くんやね? やっぱり、おまえは天才なんか?」と聞く私に、彼らは口を揃えて「正解に辿り着こうとしたら、 こうするしか他に方法無いやんか! 正解に向けて突破口を模索した結果が 一見複雑になった式やんけ。 パッと閃くんなら苦労せぇへんぜ!」と言うてましたなぁ・・・最近になって、奴らの言ってた事を少しだけ理解できるようになりました。やみくもに思いつきで式をいじくっても最後になって結局 x=x とか y=y となり無意味な結果となったりします。うまい事記号が相殺されて消えて行ったと思ったら 0(ゼロ)=0(ゼロ)になってしまいます。・・・(TへT)そして、途方に暮れたまま無情にも「試験終了」となります。道に迷った時、やみくもにぐるぐるぐるぐると歩き回り貴重な時間とエネルギーを消耗した末に元の場所に戻ってきたようなもんです。一方、その頃「天才(に見える奴ら)」は多少時間をかけてでも、冷静に目的地の方角を割り出し、「今の地点」から「目的地」へ到達するための的確かつ最短のルートを探っています。一見、くねくねと曲がって複雑なルートですが、彼らの頭の中には「今のC地点から、目的地へは真っ直ぐには行けない。 まずは、目的地手前で迂回してA地点を通らねばならん! そして、そのA地点に行くためには このC地点から一旦後退してB地点に戻り そこからアタックするしか方法はない!」との結論を得ます。かくして、凡人には理解できないルートで難攻不落とも思える山頂を征服します。そして、それはまぎれもなく「登頂への唯一無二」のルートなのです。そして、彼らにとっては、ひとつひとつの緻密な理論の積み重ねでありあくまでも、「目的地」を見据えての計算であって、決して「やみくも」でもなければ「無謀」でもなく、もちろん「閃き」でもありません。お!これって…『登山』どころか、『人生も然り!』やんけ!まず、今の自分を知り、目指す場所を確認してそこへ到達するために一歩一歩着実に…目指す山頂さえ見失わなければ目の前の断崖絶壁にも、諦める事も無ければ根拠の無い無謀な行動を取る必要も無し!諦める為の100の理由や失敗の200の分析は要りません。『山頂へ到達する為のルート』をたった一つだけ確立すれば良い!そして、一歩踏み出す。…その延長線に山頂が有る。おっと熱く興奮しとる場合じゃねえ…これから帰宅して夜勤へGO!夜勤の合間は勿論…数学ですな。 ☆★☆初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) 現在、工夫しております。暫くお待ち下さい。 いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 1日1クリック!応援に、一口のって下さいませ! ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 ここまで来たら【かむ太郎劇場】の行く末を とことんお付き合い下さいませませ。 今までの最高順位は、「1位/1016サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2011年02月19日
普段見慣れた場所や風景も、身長2mぐらいの人にとっては、私よりも高い位置から「より俯瞰した」角度で見下ろしている事になります。毎晩(実はよくサボるが・・・)、豆吉(愛犬)と近くの公園に散歩に行きますが、そこにある「すべり台」に"滑らずに" ←受験生にとっては大事な事!登ってみると、いつもの風景が、違ったものになります。登ってみないと見えないものや、見えていても、違う角度で視界に入り新鮮な景色になります。遥か向こうに見え隠れしている「目指すべき山頂」を見上げると、とてつもなく遠く、険しく・・・とても自分の力では到達できそうにない!と、ため息が出る事が有ります。そんな時、「どうせ不可能だから、最初から無駄な事はしない!」と、“賢い”選択をするのか、「行けるとこまでいってみて、駄目なら諦める。」と、無駄足覚悟で一歩踏み出してみるか・・・常に賢く、常に冷静沈着で、計算高い・・・「スマートかむ太郎」としては、所詮、無理な事をわざわざトライするのも、時間の無駄!と、「無理である」事を証明する為にあれやこれやと、材料を揃え「これこれこ~ゆ~理由で、無理ですわ!」と、自分を説得して一件落着。こんな事を繰り返していると、少し頑張れば手の届く所にある物も「あの葡萄は酸っぱい・・・はず!」と、すべてから逃げてしまいます。「どうせ俺は・・・」という気持ちが、一瞬でも頭をよぎるともう後は、「出来ない理由・やらない方が賢い理由」を、やっきになって捜して、「な!止めた方がいいって!」「そうやな。その通りや・・・うんうん。」と自己完結してしまいます。しかも、この自己完結は「水が、高きから低きに流れる」如くいとも自然に、結末に導かれます。失敗する事は、怖い。挫折する事も、避けたい。「-(マイナス)」をひとつ避ける為なら「+(プラス)」の可能性を10捨てても構わない。そうすれば、「失敗・挫折」を味わう事もなくなる・・・「そりゃあ、あいつは才能が有るから・・・」「そりゃあ、あいつは頭がええから・・・」「そりゃあ、あいつは・・・」じゃあ、おまえには、何にも無かったのか?あいつは、何もせず才能が開花してんのか?あいつは、生まれた時から頭が良かったのか?何が違う?誰だって、「100%出来る」事なんて、タカが知れてるし、「100%出来ない」事も、同じぐらいしか無い。じゃあ、何が違う?一歩。その一歩を、どっちに向けたか?が、分かれ目だと思う。誰だって、いくつもの分岐点に立ち、大小合わせて、数えきれない程の「選択」をして、今に至っている。「今」この場所から遥か彼方の山頂を見て、「1日これだけ登るとして・・・ 上の方では、3日の1度は吹雪で足止め、 悪天候も予想出来るし・・・ あらゆるデータから計算すると・・・ ・・・ + - × ÷ ∫ Σ う~んんん・・・ 無理や!」誰もが、「無理や」と思う事も時に、誰かが成し遂げたりします。何が違う?計算している暇が有ったら一歩、踏み出してみる。行けるとこまで、一歩、一歩、一歩すると、計算では見つからなかったものがある場所に有ったりします。見かけ上は、「無理」なはずの崖に行ってみたら案外「階段」が有るかも知れません。「今」立っている麓からは見えませんが、最初の難関の、谷を越えると、その向こうには、見えなかったトンネルが掘ってあるかもしれません。「絶対無理!」と、計算したはずの絶壁も、そこへ行ってみると、裏側にエレベーターが設置されてるかも知れません。階段や、トンネルや、エレベーターは出来すぎ、としても実は、一歩一歩歩いて、難所にぶち当たる頃には麓で「あ~だ、こ~だ」と能書き垂れてる時より自分では気が付かないほど「力量・器」が成長しているもんです。計算上は、「無理(だったはず)」の難所も、やってみれば苦労しながらも、克服出来たりします。大なり小なり日々、「分岐点」を通り、その都度、意識するしない、に拘わらず無数の「選択」を経て人生を積み重ねています。「前!」か「後ろ!」かどっちに重心がかかっているか?特に、日々の選択の中でも大半を占める「無意識の選択」はこの重心の方向へ、どんどん引きこまれていきます。一方、完璧な計画、充実のモチベーションが有りながら、どうしても、軌道に乗れない・・・これも、答えは同じです。「よっしゃ!これで、計画は完璧や! 早速、“明日から”実行ぢゃ!」なんて考えていませんか?「いつか、やろう!」は論外ですが、「明日から・・・」という人にとって、明日になれば既に、明日は何時間か経過していてまた「明日!」から???永久に「明日」です。「明日からやろう!」は「いつかやろう!」と、対して変わりません。そして、「いつかやろう!」なんて言ってる人には、その「いつか」は永遠にやって来ないでしょう。やる! なら「今、この時」からです。そして、やる! なら「まず一歩」踏み出してみる事です。そうすれば、計算や理屈では計り知れないモノが必ず見えます。それは、踏み出してみた人にしかわからないし、踏み出しても、へっぴり腰で重心が後ろに有ったんでは、結局、それ以上は何も見えないでしょう。むやみに踏み出すと、痛い目に遭う事がしばしばです。「それ見た事か!」と、傍観者は、鬼の首を取ったかのように自分の「正当性」をアピールするでしょう。何かを成そうとする時、「止めた方がいい」と、必ず、『ありがたい』忠告をされます。たしかに、ほとんどの「冒険」は、「それ見た事か!」が正解となるでしょうが、何も痛い目に遭う事も無く、水しぶきひとつかからない所からしたり顔で、批評する人に自分の人生を決められたんではかないません。最初は、一歩・・・ですが、この一歩は、重心を前に向けていないとしっかりと踏み出せません。しっかり踏み出せれば、また一歩、一歩・・・そうするうちに、少しだけ、高い所に登ります。「一歩」の積み重ねですから、周りから賞賛されるような高みではありませんが、そこから見る景色は、きっと、踏み出す前の麓の景色とは全然違う風景になっています。その頃には、あんなに怖くて、何かと理由を付けて出来るだけ避けていた「一歩踏み出す事」自体が、当り前の行動になって、次の高みを見つめる自分になっています。途中で、ころんでも苦しい坂道や崖に遭遇しても、もう計算して、「出来ない理由」を一生懸命捜して「止めた方がいいよね!?」と言う自分はいなくなっています。「出来ない理由」なら100でも、200でも瞬時に用意できた自分ではなく、そこには、たったひとつでいいから「どうしたら、出来るか?」を模索する自分がいます。今いる所から、未知な領域へ踏み出す「一歩」は、既知の領域内で足を出す何万歩にもいや、それ以上にも値します。ましてや、水が低きに流れる如く漫然と時間を浪費する日々は、比較にも値しません。踏み出した「一歩」は、不安や、恐怖や、苦しみの種にもなりかねませんが、それらをも上回る「景色」を手に入れる為の避けて通れない「一歩」です。そして、勇気を出して踏み出した「一歩」からは、その次の「一歩」に繋がる計算や理屈では説明できないほどのエネルギーが生み出されます。人間、せいぜい生きて何十年です。否!明日にも命が絶えるやもしれません。こうして、漫然と何十年後か、明日か、わからない最後を迎えるまで、今日も、明日も・・・漫然としていても、何にも面白くないよねぇ。「自殺」を考えた事も何度か有ります。と、先日の日記に書きましたが、せっかく、明日も生きられるかも知れない貴重な命を自ら断つぐらいなら一旦、死んだ事にして、せめて、「人一人分」ぐらい何かの役に立つぐらいは残りの命で出来るんじゃないか?こう思って、「自ら命を断つ」事をずるずると先送りして生き延びてきました。 時には、「優柔不断で臆病」な性格が吉となるもんです。「死ぬつもり」の人も、「漫然として、行ける屍」状態の人も本当に「死んだ事」にして、何かを(決して大きな事じゃなくて)やってみよう!とすれば、かなりの事が成せる!と思います。「全人類を救う」とか「前人未到の事をやる」とかそんな事は、誰も期待していないし、第一、そんな器じゃない!って事は、自分が一番よくわかっています。本当に、死のうとした命・・・や生きてても、仕方ねぇなぁ・・・という命を、ぷすぷすと、燃えカスのような火でくすぶって生き長らえるよりも、ちょっと、風を吹きこんでたった一人でいいから温められるような炎になって燃え尽きるように燃やしてみると、人生、少し面白くなりそうです。 ☆★☆初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) 現在、工夫しております。暫くお待ち下さい。 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年02月01日
高校生の頃から30歳になる頃まで、 ●何かを“必死”になってやること。 ●少しの時間やお金を惜しんで せっせと、節約すること。 ●「自分の事」の為に、人との場を中座すること。 ●出来そうにない事に挑んで失敗すること。こんなことは、「カッコ悪いこと 」と思ってました。今、そのまま ●何かを“必死”になってやること。 ●少しの時間やお金を惜しんで せっせと、節約すること。 ●「自分の事」の為に、人との場を中座すること。 ●出来そうにない事に挑んで失敗すること。が、人が何と言おうと「カッコいい! 」少なくとも、「カッコよく成る為には欠かせない。 」と思うようになりました。中学生、高校生の頃休み時間でも寸暇を惜しんで勉強する・・・なんてのは、「かっこ悪い典型」のように思って、むしろ軽蔑しておりましたが、今となっては、そこまで信念を持って出来るのを心底、尊敬すべき事だと改心しております。人前では、「何にもしてない。」ような顔で、成績はトップ。というのが理想ですが、本当に人前だけでも何もせず「トップ」を維持するなんてのは至難の技です。・・・あの花形満でさえ、大リーグボール打倒の為には死に物狂いの特訓をし、「特訓したから、打席に立たせてくれ!」とまで「カッコ悪い」発言をするほどです。(個人的には、このシーンの花形が 一番カッコええ!と思ってます。)そして、 生活を犠牲にしてでも 必死になって 努力して、 困難に立ち向かうことは、賞賛に値しますが、花形もそうで有ったように、【結果】を伴ってこそ、“カッコええ”は、完結します。(花形は、きっちりホームランを打った。)関西で言うところの『ええカッコ』しい。(“しい”は、江戸弁に直すと“する人”・・・かな?)とは、語順が変わるだけで大違い!えてして、『ええカッコしい』は、『カッコ悪い』と紙一重・・・(若しくは、ほぼ同義語・・・?)因みに、本日1月31日は、28年前に47歳で急死した我が親父の命日です。親父も生きていれば今年で75歳かぁ・・・当時は、私も23歳・・・う~~~む。若かったなぁ。親父は、『メチャええカッコしい』でしたし、私もそれを受け継いでおりました。『ええカッコ』の為には、 ●人知れず弛まぬ努力を継続し、 ●かつ、人前でも平気で「必死に」なり、 ●目的の為には、人の目も気にせず、 ●他の何を犠牲にしてでも ●寸暇を惜しんで ●常に挑み続ける・・・ ●言い訳や、ごまかしはしない!そして、 ●必ず、【結果】を出す! 本当の『ええカッコ』への道はなかなか険しいもんです。 ☆★☆初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) 現在、工夫しております。暫くお待ち下さい。 いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 1日1クリック!応援に、一口のって下さいませ! ↓ ↓ ↓ ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 ここまで来たら【かむ太郎劇場】の行く末を とことんお付き合い下さいませませ。 今までの最高順位は、「1位/1016サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2011年01月31日
六然に、 自処超然(ちょうぜん) 人処藹然(あいぜん) 有事斬然(ざんぜん) 無事澄然(ちょうぜん) 得意澹然(たんぜん) 失意泰然(たいぜん)とあります。 ※六然(りくぜん)に関しては、⇒ここ参照!事有る毎に、この六つを反芻しては、ようやく途切れ途切れながら暗唱する事が出来るようになりました。(-.-)・・・30年前なら、2~3回復唱すれば覚えたんですがね・・・人生の岐路においては、言うに及ばず、試験の最中においても、僅か数10分の中で人生の縮図の如き瞬間瞬間が訪れます。ラッキー有り!失敗有り!想定外有り!・・・試験で、最も避けるべきは、「ケアレス・ミス」です。後からじっくり冷静にやり直してみても「さ~っぱり、わからん!」という問題は、諦めも付きますが、普段なら解ける問題が、あの独特の緊張感の中で、ついつい勘違いしてしまったり、何てことない計算ミスをしてしまったり・・・こんなのは、悔やんでも悔やみきれません。普段の練習から、肝に銘じ、簡単な問題(少なくとも、そう見える問題)ほどじっくり時間をかけて、『確実に解く!』=『失点を最小限に!』を心がけています。【得意澹然】に通ずるものと思っています。こうした問題を、“確実に”こなした上で、更に【難問】をどれだけ攻略出来るか・・・で、明暗が分かれます。難問に出くわした時や、思考が袋小路に入ってしまった時・・・どうあがいても、手の施しようがない!と、諦めてしまっては点は取れません。ここで、【失意泰然】・・・と行きたい所ですが、泰然と構えるだけでは、解決の糸口は見えてきません。こんな時、私は「AB型」の長所(?)であり、伝家の宝刀、とも言える『もう一人の俺様 』を登場させます。謙虚な姿勢で、【得意澹然】と問題をこなしていた姿から一転!【泰然】を超えて、【驕慢】な俺様になります。すると、それまでは、理詰めで解いていた問題を 「そんなの、90度か60度に決まっとる! 90度なら、後の計算も楽やし・・・」そう決め付けてみるとあ~ら不思議・・・見事に突破口が開けてすんなりと解けてしまったりします。(^。^)vただでさえ、時間が限られる試験では、一旦思考が止まると、致命傷になります。「諦めて次の問題」に行くのか、もう一度考え直すのか・・・「見切る力」も必要とされます。ただし、もう一度考え直して正解に辿り着ければ、まだ報われますが、最悪の事態も十分想定されます。こんな時、『おおぉ!まさに今までの人生の縮図・・・ こうやって、何度も岐路に立たされて来たぜ! こんな事を感じる受験生はそんなにいねぇぜ!』と、試験中に悪戦苦闘しながらもゾクゾクしている自分がいたりします。「計算は、変な数字になっちまったけど ここは・・・90度!」今回のセンター試験の「数学1A」の図形の問題で、迷路に入り込んでしまった際に、実際に取った行動です。「勘が当たった」と言えばそれまでの事ですが、そこに至るまでは、緻密に「謙虚な自分」作業してきたので、バトンタッチしてからも良い方向に行った!と思っています。2次試験では、このようには行きませんが、思考が迷路に入ってしまった時などはなにがしかの突破口を開く・・・という点で、かなり有効だと思います。日頃から、「驕慢」にならぬよう心がけていますが、「ここぞ!」という場面で、どうしようも無くなった時には、案外「驕慢」も必要かもしれません。勿論、ここで言う「驕慢」とは、そこに至るまでの自分が培ってきたモノに対する「信頼」が大前提ではあります。普段から頭の隅に「驕慢」を戒める回路を意識しているのであえて、この言葉を使いますが、「あれだけやってきた俺様に解けぬ問題は無い!」ぐらいの自信が付けば、試験場でどんな問題に出くわしても慌てたり、怯んだりする事は無いでしょう。少しでも、その域に近付けるよう日々、たゆまぬ訓練が必要です。人を蹴落として己の地位を奪い取る・・・人生の縮図をわかりやすくした仕組みそれが入学試験です。試験会場では、さすがに【人処藹然】は、難しそうですが、 【自処超然】 【有事斬然】 【無事澄然】 【得意謙虚】 【失意驕慢】は、極意に通ずると思います。 ☆★☆初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) 現在、工夫しております。暫くお待ち下さい。 いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 1日1クリック!応援に、一口のって下さいませ! ↓ ↓ ↓ ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 ここまで来たら【かむ太郎劇場】の行く末を とことんお付き合い下さいませませ。 今までの最高順位は、「1位/1016サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2011年01月20日
物理や化学の勉強をしていると、実に様々な『法則』や『定理』が登場します。よくぞここまでシンプルな式で現象を説明出来るもんだ!と、感心すると共に、そのシンプルな式の美しさにうっとりする事もしばしば…うっとりして油断すると、ついつい“もっと深いうっとり”に陥ります。(-_-)zzz今は、興味が湧いた分野も『試験範囲を超えない』ようにしております。一つの分野に夢中になって深く掘り下げるような時間の余裕は、今の私には有りません!『試験範囲内』で、堪能しております。(^^)以前、『人生は“ボイル・シャルルの法則”』 ⇒記事はここというのを提唱しましたが、これに限らず、自然界の中で生かされている身として、時折、『本の中の理論的な表現』としか捉えていない様々な『公式』『定理』の中に我が身…我が人生が、すっぽりと包まれる感覚を味わいます。『エネルギー保存則』『熱量保存則』『慣性の法則』などは、私の“人生”という“運動”に指針さえ与えています。一つ一つを言葉(文字)で表現出来ないのがもどかしいのですが、最近、感じる事を一つ…『陰陽思想』のように、自然界では、『+』と『-』、『正』『負』が引き合い、『中庸』とも言える『プラスマイナスゼロ』の状態になるのが『安定』です。『プラス』が多くても『マイナス』が多くても安定しません。前世の因果なのか、生まれる時にくじ引きでもしてきたのか、私達は、一人一人異なる条件下に生まれ落ちます。兄弟姉妹、双子でも、『全く同じ環境』では有りません。そういう意味では、人は、生まれた時点で既に「平等」では有りません。それでも、生まれたからには、「持って生まれた環境」や「条件下」でその後の人生を生きるしかありません。マージャンや、トランプゲームでも、最初に配られる牌やカードは「平等」では有りません。異なる条件下でゲームは始ります。マージャンでも、トランプでも、その他のゲームなどでも、一番興奮する勝ち方は、『この手札では、まず勝てそうにない!』と思われる条件からの「逆転勝利」です。人生も然り・・・とは思うのですが、こればかりは、なかなかゲームのようには行きません。(-.-)それでも、マージャンやトランプとは違い人生は、「長期戦」です。従って、逆転への道も長く、最初に背負った「条件」も重くのしかかります。短期決戦のゲームでは、よほどの事が無い限り、最初の「条件」が大きく明暗を分けます。逆に言えば、ゲームが長期戦になればなるほど最初の「条件」の影響を薄める事も可能です。・・・あくまで、「可能」というだけで、 その気が無ければ、いつまでも影響します。 特に、ハンディを背負ってしまうと、 自らの意志で取り組まない限り ハンディは、重くのしかかったままです。(-.-)話を戻して・・・最初の条件設定で(人生で言うと、どんな家庭に生まれ、 どんな容姿で、どんな頭脳で、どんな体力で・・・)「これ以上望む事は無い!」という条件下で有れば、後は、流れのままに生きれば何の不自由もなく、ゴール出来るでしょう。(これが、楽しいかどうかは別として・・・)しかし、大半は、多かれ少なかれ「ここをもう少しこう・・・」という不満な要素が有る事は事実です。それでも、今更どうしようもないので、この「初期設定」から始めるしか有りません。人にはそれぞれ、「持って生まれた"器"」が有ります。大きさ、色、形、材質・・・様々です。自然界がそうであるように、器は、常に「+」と「-」が半々でバランスが取れ、安定します。器が大きくても、小さくても、「+」「-」は、半々です。「+」と「-」が反応するとひとつの塊となって自分の人生の中で「経験」とか「実績」となって確固たる「自分の要素」となります。その時初めて「-」は、「悪い事」ではなく「+」=「良い事」、のひとつの要素となります。そうなると、生まれ持った器が少し大きくなります。これを繰り返して人は少しずつ成長します。ですが、器が大きくなる過程では、当然、自分の力で「+」だけを増やす事は出来ません。まず「-」が、器に入って来ることから始まります。現在の自分の器に、「-」がひとつ入ってきて、多かれ少なかれ、苦しみ悲しみながら、何とかこの「-」に見合うだけの「+」を創り出してようやくひとつの「プラスマイナスゼロ」が出来、めでたく、今の器を大きくする要素がひとつ増えます。しかも、この「-」も、当然自分では選べませんし、いつどんな形でやってくるかもわかりません。止まっている自分を動かすには自分の力だけでは出来ないので、外からやってくる力を利用するしかありませんが、外からやってくる力は、常に「-」のみ・・・こうして、今の自分に見合う程度の「-」が、ひとつ来ては、ひとつ処理して、少しずつ器が成長する・・・なんて、都合の良いよいには出来ていません。得てして、今の自分の器では対処できないような大きな「-」が、しかも順番を待たずに大挙して押し寄せる・・・むしろ、この方が現実です。大きな「-」は、器をでかくするための要素としては処理さえすれば「大きな+」の種ですので歓迎すべきものなのですが、下手をすると、この「大きな-」で、本体の「自分自身」が崩壊する危険性も有ります。手っ取り早いのは、大きな「-」からは、逃げる・・・!または、大きな「-」が出そうな場面を避ける。たいていは、こうして自分の器を上回る「-」とは遭遇しないように、道を選んで生きてます。普通は、それで、何も問題は有りません。しかし、そうして半世紀も生きてくると、「元々持って生まれた器の大きさ」に加えて、その後の人生で、 ◎着実に「+」「-」を処理して増やして来た。 ◎その度に回避して来た。の差が、積りに積って現在の器に、とんでもない差が出来ている事にいやでも気づいてしまうものです。(-.-)さて、ここまで来て、あまりにも大きく差がついた「器」・・・他と比べて、自分を評価しようとすると結果は明らかです。(-.-)こうなったら、人と比べて・・・というのはこの際無視してせめて、「自分としては、どうなのよ?」という範囲内でしか考える事ができません。それでも、甘い甘い評価をしたとしても「自分なりに、よく頑張って来た!」などとは、決して言えません。こうなると、この先、何とか器をでかくするには、必ずやってくる「-」要素をできるだけ多く受け止めながら無理やりにでも、それに見合った「+」を貰って「器」をでかくするしか有りません。当然、形はいびつでも文句を言う暇はありません。こうして、自分の身の周りに、何か「-」が生じる度に「よっしゃ!有りがたく頂きますぜ。」と、抱え込むようにしております。器をでかくするには、もはや選り好みはしていられません。すべて、「受けて立つ!」選り好みしない分、いろんな事がスマートに処理しきれるわけではありません。勢い、周りにまで、影響する事もあります。(-.-)ゆっくり、じっくり周りにも理解を得て・・・という悠長な事もできません。私の周りの人には理解を得るしかありませんが、なかなかそれもままなりません。本来は、確実に少しずつ処理すべき「+」と「-」の融合ですが、事ここに至っては、そんな余裕もないので、周りの「-」すらも、「らっき~!」と感じてしまい、誤解を与える事もしばしば・・・(-.-)それでも、いちいち気にしている暇もないので、現在は、周りからはかなり「わがまま勝手」な奴に思われているでしょう。そんなこんなも、一切気にせず、今は、「己の道しか見えません。ごめんなさい。」・・・う~ん。何を言いたいのかわからん日記になってしもうた。(-.-)しかも、タイトルとも全然違うし・・・ま、「自分の"幸せレベル"以上に、人を幸せにする事は出来ん!」という事で・・・余計わからん・・・か。(-.-) ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2010年10月11日
体積一定ならば、「圧力」と「温度」は比例する。【PV=nRT】ボイル=シャルルの法則です。人生も、しかり!と考える私は、一定の時間内で拘束される時間が増して、苦しくなればなるほど潜在エネルギーが増して、パワーアップする…はず!と信じて、いろんな事を甘受・克服するよう努めております。本日から、夜勤アルバイト再開です。しかも、いきなり三夜連続…(-.-;)もちろん昼間の仕事も行ってますので「昼間の仕事六日連続」の中に「夜勤三日連続」をぶち込んでいますので木曜:昼勤務金曜:昼勤務土曜:昼勤務日曜:昼勤務⇒夜勤月曜:夜勤明け⇒昼勤務⇒夜勤火曜:夜勤明け⇒昼勤務⇒夜勤水曜:夜勤明け⇒家庭教師う~ん。。。燃えて来るぜ。今回は、夜勤を三日連続やって一気に仕事を覚え早く生活リズムを安定させる為の初期負荷をかけました。最初に限界一杯の設定を身体に叩き込めば後は、いくらか楽になるはずです。負荷がかかればかかるほど内部エネルギーが増加するボイル=シャルルな かむ太郎です。 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 “瞬間最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2010年07月25日
本日は、我が『シルバー部隊』の“エース”からの要請で、一緒に外回りをしました。…と言っても ●進捗状況確認 ●問題点の共有 ●来月の計画と展望などを、“腰を据えてじっくり打ち合わせる”と称して、喫茶店で待ち合わせ、じっくりコーヒーを飲む・・・のが実態です。(-.-)本題は5分で完了させ、 (放っておいても勝手にノルマ以上の成果をあげてきます。)後は、『めんたる・かうんせりんぐ』です。 ま、要するに 愚痴を聞いたり、 世間話をしたり、 …がほとんど。。。(-.-)当初は、慣れない仕事で皆さんストレスを抱え私とコーヒーを飲みながら長話をして少しすっきりして仕事に戻る。…という感じで、私の存在意義も有ったのですが、最近では、私を気遣って「そろそろ息抜きが必要な頃でしょ?」と、誘ってくれるようになりました。「事務所には、 “Y(エースのおっちゃん)が ちょっと行き詰まっている。” とでも言って出て来なさいよ。」と気を使ってくれます。こんな日は、私と別れてからも普段以上に頑張って成果をあげてくれます。私と会って、アドバイスや叱咤激励を貰い“おかげさまで成果があがった”という筋書きを作ってくれます。他にも“Tさん”が同じような感じで雨の日や、寒い日に私を呼んでくれます。Tさんも、そんな日はずぶ濡れになってでも普段以上の成果をあげて「かむ太郎さんのおかげ…(^^)」を演出してくれています。最近、こうして甘えてばかりですので今度の土日は単独で気張ってみます。「私らも十分気晴らしになって、やる気になるんだから かむ太郎さんが気にすることないよ。 別にサボってる訳でもないし、 こうして私らをフォローするのが本来の職務でしょ!」と言って頂けるのですが、もはや、私には何も教える事もなくむしろ、教わる事ばかりなのに…なんだか“ずる”しているようで…(-.-)“ずる”と言えば、小学生時代・・・将棋を覚えたての頃、親父と対局して形勢不利!の曲面で親父がトイレに立った隙に将棋盤を180度回転させ、一瞬で形勢逆転!トイレから戻った親父は気付かないふりかそのまま続けはじめました。小心者の私は、びくびくしながらただでさえ弱いのに、全く頭が回らず結局、『“ずる”したのに負け』(-.-)という無様な結末を体験しました。勝ちを確信した、投了前の親父の一言は「もう一回トイレ行ってこようか?」記憶にある中では「“人生初”の屈辱」です。後に囲碁をかじり、初めて親父と対局した時の事。親父がトイレに立った時…私の頭の中に、天使と悪魔の声が… 天使(`へ´)「“ずる”はアカン!心が痛むだけやで~」 悪魔(-_-;)「将棋とちゃうから、180度回転させても無意味やで!」天使からも悪魔からも“駄目出し”を食らいました。(TへT)今でも、何かしら“ずる”をしようとするとその何倍もの反動や屈辱に見舞われる気がして“悪事”には手を染められません。(その気は無くても結果的に人に迷惑かけっぱなしですが…)以降、将棋・囲碁からは足を洗っております。(-.-)幼い頃のかむ太郎が得た教訓で一句・・・ 『“ずる”すれば、反動必ず2倍来る! ばれずに済んでも、ずっとびくびく…(-.-)』 2010年5月26日 19時55分57秒 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 “瞬間最高順位”は、【1位/1004サイト中】です。(^。^)v
2010年05月26日
「私は、純然たる“エピキュリアン”てす。」(@_@)と声高に言うと、日本語では“エピキュリアン”=“快楽主義者”などと翻訳されてしまっているためあらぬ誤解を生じてしまいそうなので控えめに宣言いたします。(-.-)元を辿れば、ヘレニズム時代 (キリスト生誕の300年程前から キリスト生誕の少し前までの約300年)の『ゼノン』という哲学者が“ストア派”なる学派を発展させます。“ストア派”は、“禁欲主義”の流れを汲んでいます。宇宙の働きを「ロゴス(理性)」と考え、ロゴスに従って生きる事をめざします。 ※ここでは、“禁欲”という日本語を使っちゃってます。(-.-)一方、「“快楽”が最高の“善”である」としたのが、『エピクロス』率いる“エピクロス派”です。※「禁欲」⇔「快楽」と翻訳してしまった為に 両派ともに、余計な誤解を招いてしまっています。さて、千年二千年後に、彼らが存在すら知らなかったであろう極東の小さな島国で、“禁欲”だの“快楽”だのと、やや後ろめたいニュアンスの言葉に翻訳されてしまう事は想像もしていなかった事でしょう。“禁欲主義”とされた“ストア派(ゼノン)”は、『ま、ま、ま~ええか。俺達結構ストイックだし…(^_^;)』で、済みそうですが、“快楽主義”と呼ばれる方はまるで、毎日毎日朝から晩まで ●あ~んな事や… ●こ~んな事や… ●そ~んな事…ばっかり考えて、ふしだら極まりない!(`へ´)…というイメージが拭えません。しかし!本来、我々エピクロス派が目指すのは ↑“我々”???そんな事や、こんな事や、あ~んな事ではありません!マイナスイメージを払拭する為にも以下の説明を読み、正しい認識をお持ち下さい。“我々”エピクロス派(エピキュリアン)が目指すのは、 ★肉体的放縦によるものではなく、魂の平静(アタラクシア)をさすもので、 物資面ではむしろ質素を好む。 ※アタラクシアとは、 「わずらわしさのない状態」 「身体において苦痛がなく、魂において動揺がない」境地。むしろ、「自然に従う!」というストア派よりも無欲な面もあるかと…(^_^;)さて、正しい知識を装備したとこで改めて、声高に宣言いたします。「私はエピキュリアンです!」毎日、ぼんやりと何も考えずに生きるのが私にとっては「わずらわしさのない状態」です。それが死ぬまで続けば「魂において動揺がない」となりうるかもしれません。今まで、幾度となく“な~んにも考えず、な~んにもしない”そんな暮らしをした事がありますが、結局、現実は、「わずらわしさ」が増し、「魂は日増しに動揺」し、三日ももちません。(-.-)金も無く、明日の展望も無い状態で“無為自然”を気取ったところで、魂は落ち着くはずも無く、いわんや、肉体をや…です。刹那刹那の目先の“快楽らしきモノ”に逃避したところで、結局は、日々無視して先送りしていた“煩わしさ”が、後日利子を付けて(しかも暴利!)きっちりとやって来ます。(-.-)そんな“エセ快楽”を何度も味わうと結局のところ、目先の餌に安易に誘われてパクパク食べていると、気が付けば罠に掛かって逃げられない…雀のようなものです。(-.-)実際に毎日遊んで暮らせる人はそれで楽しく暮らしても、後日何も困らないので全く問題はないでしょうが、少なくとも私は『日々の煩わしさをないがしろにすると 後日、めちゃんこ痛い目に遭う!』と、思い知らされております。そうなると、 (1)今◎⇒将来も◎ (2)今◎⇒将来は× (3)今×⇒将来は◎ (4)今×⇒将来も×という絵図のうち、(2)(4)は、避けたいし、理想とする(1)も閉ざされた…結果、エピキュリアンとして将来的に「煩わしさの無い状態」「身体において苦痛が無く、魂において動揺が無い境地」を目指すには、唯一、「今をストイックに生きる!」しかないのです。(-.-)こうして、我々(?)真の快楽主義者(エピキュリアン)は、今日もストイックに己を律し、来たるべき「魂において動揺かない境地」に備えている次第です。…最悪、「ストイックに生き、それに耐える自分」が快感になったらなったで、それも『快楽主義者』…か?(-.-)賢明な読書諸氏は既にお気づきの事と思いますが、これで『ヘレニズム期の思想』がスッキリしました。(^_^;)これで、また一歩【倫理満点】に近づいたせ!※私と同じ医学部を受験する人には…敵に塩! ぢゃあ~! ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 “瞬間最高順位”は、【1位/981サイト中】です。(^。^)v
2010年04月26日
思い返せば、ず~っと何かから逃げ続けて生きて来た。小学生の頃から、計画はいつも途中で頓挫した。働きながら受験して、二十歳で合格した大学も途中で辞めた。学生時代のアルバイトも、その後の職も、いくつか転々とした。だんだん人と関わるのを避けてきた。24才で起業したけれど、金儲けの才覚はなかった。35才で、借金を背負ったまま家に篭った。濡れ手に粟を狙って、1日中パソコンに向かってた。安易な…若しくは、安直な気持ちで関わる事には、安易な…若しくは、安直なモノしか返って来なかった。お金が無くなると、トラックに荷物を積み込んで、北海道から四国まで・・・行商みたいな生活もした。借金は少しずつ減ったけれども、数年間…という時間は着実に浪費された。俺の人生…って、何だろ?いつからか、そんなやり切れない疑問が、終始頭を駆け巡ってた。40歳を過ぎて、ようやく重い腰を上げて、生活の為に“真っ当な”職に就いた。朝早くから深夜まで、休日も返上して会社の為、身を粉にして働いた。一生懸命やればやるほど、足を引っ張る奴がいた。会社の利益を上げる事に全精力を費やした。“ほどほど”を嫌うやり方は、あまり理解されなかった。また、人と関わるのが嫌になってきた。家に帰ったら、次の日に出社するのが嫌になるから、雪の降る夜も、星の降る夜も帰宅途上、道路の脇に車を停めて車中で寝た。朝起きて、真っ直ぐ車を出せば会社の方向・・・その向きに車を毎晩停めた。家に向かう方向に停めると、朝起きて、そのまま家に帰ってしまう。家に帰ったら、2度と出社しなくなりそうだった。結局、三年半で会社を辞めた。また逃げた…?無職になった。糖尿病も悪化した。交通事故に遭った。リハビリが半年続いた。お金も無くなって、再び借金が増加に転じた。もうこれ以上、逃げる所も無くなった。俺の人生…って、何だろ?漠然とした疑問や不安が次第に輪郭を形作ってた。もう一度大学を受けようと思った最初は思い付きだった。周囲からは、揶揄(やゆ)された。 やめとけ! 仕事探せ! 絶対無理や!「ぶろぐ」…ってのを始めてみたやっぱりヤユされた。顔も見えない人にまで やめとけ! 仕事探せ! 絶対無理や!去年の3月、30年ぶりに大学受験をした。 …落ちた。今までなら、『受験した!』という事実だけで、もう充分だった。そこで辞めても、逃げじゃないはず・・・俺だって、生活もしなきゃならんし、借金返済もまだまだ続く・・・決して、逃げるんじゃない…はず!仕方がないだけ…の事。なぁ、誰も俺の事を非難しないだろ?それでも、「ぶろぐ」には、前向きの事しか書かなかった。半分は、自分の本心を隠しながら、半分は、心の奥底を真面目に描いてた。かなりギャップがあった。次第に、前向きな自分が独り歩きし始めた。ついて行くしかなかった。ついて行かないと、今度こそ、全てを失うような気がした。いろんな事を思い出すようになった。逃げてばかりで、その尻拭いの為に、年月を浪費してるだけの半生だったけど、一瞬一瞬に、一生懸命生きてた時間もあった。思い出したくもなかった記憶も顔を出してきた。悔しい時も、苦しい時も、哀しい時も、不器用ながらも、懸命に時を刻んでた。記憶の封印を解いた。一気に、辛い思い出が押し寄せた。全部受け入れるまで時間がかかった。それもこれも…全ての記憶が今の自分を構成する重要部品だった。いびつで、不格好だけれども、あるがままの自分の姿が見えてきた。少し、自分が好きになった。もう「ぶろぐ」の自分と、今の自分にギャップはなくなった。いつのまにか、この「ぶろぐ」にも真面目なコメントしか来なくなった。ここに訪れる人達は、多かれ少なかれ心にキズを負いながらも、懸命に前に進む事が出来る・・・懸命さが無い心では、俺様の渾身の日記は直視できないに決まってる。今年も挑戦した。また落ちた。だけど、もう逃げない。己の生き様・・・とか、生きる証・・・とか、そんな大げさなもんじゃなくなっていた。今までの50年間の人生全てが、今、ここに至る為の長い長いプロローグ・・・そんな気がしてきた。あちこちに蒔いてきた種が、少しずつ、少しずつ芽吹いてきた。今の自分を形作って、支えているものは、過去の一瞬一瞬の自分であり、その時その時の周りの人達の気持ち。好意も、悪意も、全部ひっくるめて自分に降り注がれた水であり、日光であり、肥料。封印していた記憶を解き放って、今の自分を省みた。目を背けていた事が、驚くほど大きな影響力で、今の自分の基盤の中に潜んでいた。少し、気が楽になった。得体の知れない感情の起伏も、その正体が見えたら、やけに愛しいものになった。ひとつひとつ、見えない所で、「因」と「果」が結びついてきた。「因」が見えて、「心」に沁みると、「恩」になる・・・昔、何かで読んだ事が、今は、素直にうなづける。ず~っと、「孤立無援」だと思っていた。それでも、周りを見渡し、過去を顧みると、いつも、誰かが応援してくれてた。今も、こうして・・・「辛い」と思ってきた事も、応援一つで「幸い」に変わってきた。恩を実感すると、自然に感謝の気持ちが沸きます。感謝の気持ちが沸くと、自然に幸せな気分に浸ります。いつも皆様の応援、心から感謝しております。この先も、野望に向かって前に進みます。今の私には、「あきらめる理由」というのが全く見つかりませんし、大願成就した後の事しか頭に有りません。今後も、末永く御愛顧のほど、よろしくお願いいたします。平成22年3月25日 深夜「不合格」確定から、数時間・・・次なるステップに向けて。 かむ太郎 拝 ここまで来たら、いつかは難攻不落の「1位」を! とことんお付き合い下さいませませ。 ↓ ↓ ↓ ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 今までの瞬間最高順位は、「2位/952サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2010年03月25日
昨日、新たなる英語習得用DVDをGET!(+_+) 【ニューシネマパラダイス】画像左上 公開時にカットされた50分余の映像を追加。 物語に一層の深みと新たな感動をもたらす・・・ ※公開版の“ビデオ”が有るので、見比べます。(+_+) 【スティング】画像右上 「どうせやるなら大きく騙せ!」のキャッチコピー。 どうせ抱くなら大いなる野望を! ・・・という私の生き様のヒントになっております。 【大脱走】画像右下 実は、この映画は見たことがないのです。(-.-) 何となく惹かれて・・・GET! そして、 【タクシー・ドライバー】画像左下 私の敬愛する「世界三大俳優」の一角 ロバート・デ・ニーロの映画で 私の「イチオシ」がこの作品です。 今のデ・ニーロの風貌とは似ても似付かぬ、 完璧な役作りを施した「主人公:トラビス」。この作品を見てから、後に他の作品を見た時、デ・ニーロの奥深さを思い知り、この「タクシー・ドライバー」を改めて見てから一気にファンになりました。v(^。^)久しぶりに、トラビスの声を聞きながら、以前と比べてリスニング能力がどれぐらい上達したのか確認できます。・・・トラビスの発音は聞き取りにくいからなぁ~ (-.-)・・・と、DVDを手にしてはしゃぐのはここまで。昨年秋に夜勤を辞めて以来、少しは、勉強に当てる時間が増えた分、我が家の経済事情は、余裕が無くなっております。ま、もともと余裕なんぞ無いので、今更、特に困る訳でもなく、嫁様も、それなりに手馴れたもんで、「カツどん」の具を、豚肉から、「麩(ふ)」に変えたり、「お好み焼き」は、“肉”を“天かす”にしたり様々な技を駆使しております。腐りかけたバナナ(ほとんど腐ったのも多少含む)もかさ増しされたバナナケーキに化けて、数日、食後に出てきます。(-.-)こんな生活が、かれこれ数十年続いていますが、その中で、ひとつ身に付いた事が有ります。 【苦しい時こそ、下がるな!】という事です。お金が無い時に、「節約」は必要ですが、闇雲に何でもかんでもケチっていては、唯でさえ、弱っている自分や家庭がますます弱っていきます。例えば、グルメな我が家では、 本来なら食費に1日3000円使いたい! というリッチな憧れに対し、 現状は、 給料日まであと10日間、 二人で食費予算合計5000円という条件の時、「5000÷10=500」で1日分500円で10日凌ぐ・・・などというケチな事はしません。10日のうち、9日を1日あたり200円以下で過ごします。そして、残る1日に本来使いたい3000円、を上回る3200円使う。・・・という考え方で過ごしております。これで、「貧乏人たる者我慢せずして大成なし!」をクリアしつつも、「心まで貧乏になっては、逆転も不可能!」もクリアです。「500円×10日」では、極限の我慢も出来ず、しかも、目指すべき「高み」も味わえず身に付くのは、「貧乏人根性」のみ!幼少の頃から、これに似た状況で育ってきたので、私にとっては、ごくごく当たり前の処世方法ですが、平凡な家庭で育った嫁様は、かなりとまどったようです。20年も一緒に荒波に揺られていると、私の手法に従う以外、身を守る術はない!と、覚悟したのか、最近は「阿吽の呼吸」に近づいております。特段、世に対しての武器を持たぬ身としては、困窮している時こそ、「いざ鎌倉!」に備えて己を磨かねば、永久に困窮しっぱなしになります。(-.-)それなりに苦しい場面に何度も遭遇し、その場から逃げ出すしか方法が無い時・・・今振り返ると苦しい中で、同じ逃げるにも ●真っ直ぐ後ろに退散した時、 ●横道に逃げた時、そして、 ●「前に」逃げた時・・・それぞれ、その後の人生に及ぼす影響が明らかに違っています。50年間の人生経験で培われた私のモットーは、「どうせ逃げるなら、前に逃げる!」「どうせ逃げられない場面ならば、迎え撃つ!」です。「アカン!」時は、出来れば最初から、逃げるのがベストです。が、中途半端に逃げたり、モタモタしてると、結局、己の力量すら発揮できません。「逃げる」と決めたら、さっさと逃げる!ただし、後退はしない!「もはや、逃げられない」となったら、腹を括って、ぐちゃぐちゃ考えずすぐに立ち向かう!それが、 「残された選択肢の中で “最良”の結果を得る可能性が最も高い。」と確信しております。 ・・・現実は、小さな事にもすぐに「へっぴり腰」で なよなよと逃げてしまいがちなのですが・・・(-.-)経済的に、困窮傾向にある我が家の今の作戦は、「夜8時過ぎたら、飯を食わん!」というものです。私は、遅番の日は、帰宅が夜11時頃です。従って、御飯は・・・用意して有りません。以前は、嫁様も私に付き合って遅い時間に食事を摂りそぐに寝ていたので、体重が・・・私も、主治医・管理栄養士から、「減量!」と口酸っぱく言われながらも全然コントロールできずに、投薬治療寸前状態が続いていました。遅番の日には、夕方ぐらいにスギ薬●で安売りしていた日に大量に買い込んで、会社の駐車場のロッカーにストックしてある「バランスアップ」を食べて凌ぎます。おかげで、体重は減り、その分、食費も減り、 (1日200・・・どころか、“0円”の日も)良い事づくめです。v(^。^)栄養バランスの心配が有りますが、365日こんな状態が続くわけでもないので、「栄養過多」に比べれば、私にとっては健康的なのです。こうして、災い転じて福となしながら、節約すべきお金で、自己投資のための「本」は惜しみません。「又、そんな高い本買って・・・ そんなお金が有れば、美味しいもん買えるのに~!」という嫁様に、「美味しいもん食っても、文字通り身に付いて 体重が増えて、病気になって、医療費がかかるか 寿命が縮まるだけぢゃ! 己を磨いて輝かせる為に使わんかい~!」昨夜も、4枚のDVDを見つけて「またこんなモン買って~!」という嫁様に、「あほ~! 今やからこそ、逃げずにこれをGETした俺様を あっぱれ!と思えんのかい!!!」と、どやしつけたところ、本日、嫁様は、「しばらく我慢しとったけど、 あんたの教えに従って、今だからこそ行くべき!」というメールを私に送りつけ、美容院に行っております。(-.-)あっぱれ!嫁様!今夜の御飯は、「テンプラ」です。はたして、テンプラの具は・・・??? 2010年3月20日 19時26分17秒 ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの、「勝ち!」のお裾分けを頂ければ百人力! お裾分けを頂いてばかりですので、僅かばかりの私の「らっき~」を お裾分けさせて頂きます。どり~むず・かむ太郎(Dreams Come True!) 今までの瞬間最高順位は、「2位/948サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2010年03月20日
明日をも知れぬ雇用形態で就業する私です。 (正確には3ヶ月毎の雇用契約ですので、 現状では、1月いっぱいは雇用が確約されてますが・・・)嫁様も、実質1年毎の更新を余儀なくされる身です。そんな我が家ですが、毎月何とか借金を返済しつつようやく、“人並な”貧乏所帯に“昇格”しつつあります。土日祝日の出勤が多く、先月までは夜勤もかかえていたため、私の休日は、「ほとんど無し!」か、有っても、平日だけでした。夜勤が無くなり、経済的には、やや困窮しておりますが、時間は以前より確保できるようになりました。ところが、【濃厚密度】をモットーとしている日常故に、少しでも、時間の隙間が出来ると、すぐに、【濃厚密度】が崩れます。(-_-;)本来ならば、夜勤が無くなった分、月に数十時間は、勉強時間が増えて然るべきなのですが、実際は、・・・・・・寝てしまってます。(-_-)休みも、案外勉強が出来ません。あれだけ、濃厚な時間を過ごしていたのに、自由になる時間が増えて、さも、勉強時間が増えるかと思いきや、自由になった時間だけでなく、以前は、1日あたり合計2時間は勉強していた通勤途上の電車・バス内ですら、最近は、・・・・・・寝てしまってます。(-_-)切り詰めて切り詰めて圧縮して圧縮して頑張って、密度を濃くする時は、なかなか目標に到達しません。ところが、“ちょっとだけ”気を抜いて生活を緩めると、「これ以上は緩めたらアカン!」という臨界点をもいとも簡単に割ってしまいます。しかも、元に戻すのに四苦八苦・・・(-_-)以前より時間に余裕が出来た (と言っても一般の受験生に比べれば全然足りない!)と油断した分、その倍以上に気を緩めてしまい、今や、1日あたりの勉強時間は減り、代わりに睡眠時間が激増しております。(-_-)以前、「人生は、ボイル・シャルルの法則だ!」 ⇒ちょっとへビィだけど読んでみてちょ!と、熱く語った事が有りますが、今の私は、「濃さ」と「熱意」が足りません。(-_-) 「与えられた同じ時間でも、 その濃さと熱意で、 合計時間(人生)の重み、熱さが変わる。」と豪語した私です。もう一度、気合を入れなおして、ゴールを目指します。さて、ことほどさように、「隙有らば、怠ける」という幼少の頃からの基本的性質に変化のない私です。季節柄、クリスマスだの、お正月だの世間一般の行事について嫁様からいろいろと提案を受けますが、一切の行事を拒否しております。 「け~ち!」 「あほぉ~」と罵る嫁様には、いつも一言・・・ 「欲しがりません!勝つまでは!」と諭しております。「戦中やないんやから・・・」という嫁様に「我が家は、まさに戦いの中ぢゃ!」と鼻息荒く答えております。お金は勿論、時間も厳しく管理せねば、いつでも、するりとこぼれてしまいます。特に、時間は取り戻せません。常に気を張り詰めている時でさえ、何かと、緩める理由を思いつき正当化してしまう私です。24時間気を張り詰める・・・ぐらいで丁度良いようです。さて、気合を入れて、更には、気合に見合うだけの行動を取らねば・・・2009年11月24日 1時23分53秒 ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの、「勝ち!」のお裾分けを頂ければ百人力! お裾分けを頂いてばかりですので、僅かばかりの私の「らっき~」を お裾分けさせて頂きます。どり~むず・かむ太郎(Dreams Come True!) 今までの瞬間最高順位は、「4位/752サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2009年11月23日
普段の生活では、絶対にしないであろう「2200円の丼を食う」・・・という暴挙に出てからかれこれ4時間経過しました。先回も、2500円の「特上うな丼」を食し満足感で心うきうきしました。4時間経過どころか数日間、「満足」を反芻しました。v(^。^)貧乏性・・・と言ってしまえばそれだけの事ですが、つい今しがたまで、「大名丼」の幸せを“反芻”しながら、お風呂に浸かっていたらある事に気が付きました。 アルキメデスも入浴中に「浮力の法則」を閃いております。 【満足感の記憶と、心への影響は 「1現象のインパクトの大きさ」に比例する。】平たく言うと、例えば ◎満足度「3」の食事を一週間続けると 3×7=21ポイントの満足感を得る。 ◎満足感「1」の食事を6日と満足感「5」の食事を1日では 1×6+5=11ポイントで、2倍近い差が付きますが、1年後に、この週の事を振り返ると、間違いなく、「5」の食事のみが、記憶に残っている事でしょう。そして、「5」を満点とした時、「5」の食事というのは、そうそうお目にかかれません。 通知表が「5段階」でしたので、どうしても 「5」=「最上」というイメージが・・・(-.-)記憶に残るのは、「5」とせいぜい一部の「4」ぐらいです。毎日毎日、「不満ではないレベル」の「3」の生活を365日続けるのと、普段は、「不満を残しつつも」時折、劇的な「5」を食す。心と、舌に残る財産としては、合計点数ではなく「5」がいくつ有ったか・・・が勝負です。理想的には、連日「5」を食する!ですが、なかなかそうも参りません。(-.-)食事を例にあげましたが、勿論、これは人生に通ずる事と思います。平穏無事・・・これはこれで良し!ですが、やはり一度きりの人生ですから、心に残る生き様をしてみたいものです。普段は、「1」「2」「3」あたりの生活に甘んじてもいずれ訪れる「5」を的確に捉えるための「雌伏の時」と思えば、苦を苦とも感じません。ただ、これが何の望みもなくただ単に「1」「2」「3」だけの暮らしでは夢もチボー(希望)も有りません。(TへT) ↑このフレーズ」に“ピン”と来た人は、40代後半以上ですな。 ★良い子の「ちょっとカッコイイ言葉」コーナー★ 雌伏(しふく)とは? 『雌伏雄飛』が原典。 中国の『後漢書(ごかんじょ)』趙典伝(ちょうてんでん)が出典。 人に付き従い、低い地位に甘んじていることと、盛んに活躍すること。 また、将来を期して人の下に従い、低い地位に甘んじ、 やがては大いに羽ばたき活躍すること。 「雌伏」は雌鳥が雄鳥に従い伏す意。転じて、人に付き従うこと。 低い地位に辛抱していること。 「雄飛」は雄鳥が飛ぶように、盛んに活躍すること。 正直、自分の今の暮らしを、ふと振り返ると 「毎日毎日、汗水垂らして働いて 眠い目こすって、勉強して、 思うほど実力は上がらず、 生活も全然楽にならず・・・ 俺は、一体何してんの??? (TへT)」と感じることも時折有りますが、以前の私と違って、傍(はた)から見れば、どんなに荒(すさ)んだ暮らしに見えようと全然苦にならない、どころか、本当に、毎日「ふっふっふっ・・・(*_*)」とこみ上げるものを感じながら生きています。ですから、毎日「1」とも思える生活をしながらでも常に「5」を意識して、その為の「雌伏」ですから何ら、苦痛を感じる事が有りません。 「1」の“雌伏”は「5」の“至福”の複線であり、 「5」の“至福”は「1」の“雌伏”の積み重ねで成る。今回の文章では、思いついたまんまのイメージがしっかりと伝えきれていませんので、後日、改めて書くやもしれません。今度は、「ウナちゃん」以外の「5」を食してみようと画策しております。ま、“食”以外にも、意識して求めれば日常の中にも「5」は結構あるもんですが・・・ ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの、「勝ち!」のお裾分けを頂ければ百人力! お裾分けを頂いてばかりですので、僅かばかりの私の「らっき~」を お裾分けさせて頂きます。どり~むず・かむ太郎(Dreams Come True!) 今までの瞬間最高順位は、「4位/631サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2009年07月14日
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