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息子が中学校2年生の時のこと。定例の学年役員会の席で学年主任の先生から「みなさんにちょっとお知らせしておきたいことがある」と言われた。 「監視カメラに映っている万引き犯がお宅の生徒さんのようだ」と学区内のコンビニから通報があり、教師数人でその映像を確認して来たそうだ。映っていたのは2年生で、氏名は明かせないが、ごく普通の、成績も上位に入る子だったという。保護者には知らせるとのことだったが、こういう事件があったということだけは役員にも知らせておきますと言われた。当時その中学は少し荒れていて、問題を起こす子たちは数人いたけれど、万引きをした生徒は感じの良い、ごくごく標準的な生徒だったそうだ。世の中に物があふれている。お店に行けば何でも並んでいる。「一つ位取ったって大したことはない」とか「ちょっとスリルを味わう」という軽い気持ちだったのかもしれない。でもたとえ小さな商品でも、一つの物が店頭に並ぶまでにはたくさんの人の手を経ている。物を盗むということは、そういうたくさんの人の気持ちや努力を踏みにじるということなのだ。ごくごく普通の生徒が万引きするという実態に、みんなショックを受けたのを覚えている。今の子どもたちは物を作る過程を見る機会がとても少ない。特に都会では商品として店頭に並んだ物を見ることしか無い。「一つの商品の背景には色々な人の思いが込められていること」や、「物の大切さ」を教えるのが難しい時代なのだ。勉強は大事だけれど、親には他にも教えなければならないことがたくさんあるのだと思う。
2012.09.21
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パラリンピックを見ていてある同級生のことを思い出した。彼とは中学、高校が同じ学校だった。30年近く前、大学に入ってすぐに彼は交通事故に遭った。学費の足しにと自転車で新聞配達をしている最中の、トラックとの衝突事故だった。 彼は幸い一命をとりとめたが脳に損傷を受け、20歳を前に寝たきりになった。意識はかろうじてあった。けれど起き上がることも言葉を交わすこともできなかった。お見舞いに行った時彼はじっと私たちの顔を見て泣いた。「泣くのが唯一の感情表現なの。きっとあなたたちのことが分かったのね」とお母さんが話してくれた。彼は20年近く寝たきりのままで一生を終えた。亡くなったという連絡を受けた時、「息子を残しては逝けない」と話しておられたご両親のことを思い、切なかった。人間の能力とはなんて儚いものだろう、と思う。たった一つの事故や病気で一瞬にして奪われてしまうものなのだ、と。歩いたり、座ったり、話したり、食べたり・・・そういうごく普通の能力を、自分がずっと持ち続けることのできる能力だと思い込んでいたけれど、本当は一時的に私に預けられているだけで、何かあれば一瞬にして失ってしまうものなのかもしれない。失った能力への思いを断ち切り、自分に残された、今ある能力の全てを結集して闘うパラリンピックの選手たちの姿が美しかった。大切なのはどんな能力があるのか、どんな能力が無いのかということではなくて、今自分にある能力を精一杯使って生きることなんだと思った。
2012.09.14
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私はお世辞にも働き者とは言えない。だから年子の子どもたちに手のかかる間はしんどかった。「ちょっとゆっくりしたい」とよく思っていた。そんな時、全く苦にせずどんどん動く働き者のお母さんたちを見ると「偉いなあ」と思った。ひとつ作業をしたらちょっとお休みしたくなる私とはえらい違いだ。 ところが最近働き者のお母さんも気をつけなければいけないんだ、と思った。働き者のお母さんの子どもが甘えん坊の怠け者になってしまっているケースを見かけるからだ。親が子どものするべきことに手を出し過ぎている。「働き者」という美徳が仇になっているのだ。例えば中学生にもなって、自分の使った食器を自分で洗わず、親が洗うのは過保護だと私は思う(今はどこの家も食器洗浄機を持っているのかな?子どもの為にはない方がいいんだけれど・・・)。どんなに勉強や部活で忙しくても、自分の使った食器位は自分で洗う。家族に養われ、毎日心配することなくご飯を食べ、学校に通わせてもらっている子どもにとって当然のことだと思う。洗ってあげる余裕があっても、子どもの為にあえてしないという選択も必要だ。子育ての最終目標は何だろう。私は「親がいなくても生きていける子にすること」「自分で自分のことを何でもできる子にすること」だと思う。親にとってそれは少し寂しいことだけれど。その目標のためには、「働き者」という美徳を封印しなければならない期間がある。親が手を出す年齢。手は出さず口だけ出す年齢。手も口も出さず見守る年齢。年齢や状況に応じて対応を変えていかないといけない。子育ては結構奥が深い。
2012.09.07
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