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今朝の新聞に、近くのデパートのチラシが入ってきました。それは、バレンタイン・フェアの宣伝。チョコレート、ね……。今どきは、自分や友達などのために買う人も増えていると聞きます。ひと昔前よりも自由に楽しめる感じ、いいですよね。・・・・・・今から20年以上も前の大学時代、春休みに地元のロフトでアルバイトをしたことがあります。雑貨が好きだったのがそのアルバイトを始めたきっかけでした。配属された売り場はバラエティ雑貨売り場で、春休みという時節柄、ホワイトデー用のお菓子がたくさん売られていました。私はレジの仕事をしていたのですが、仕事内容にはラッピングも含まれていました。ラッピング用紙を使うラッピングは意外と手間がかかるし、包む物の形によってはけっこう難しかったので、お客様から特にご要望がないときは、ビニール袋を使った簡易ラッピングをするようにしていました。・・・・・・それは、ホワイトデー当日のことだったと思います。背広を着た40代ぐらいの男性が、ふらっと売り場に現れて、小さめのお菓子をレジに持ってくると、「ラッピングしてちょうだい」……と頼まれました。その頃は、ラッピングにもだいぶ慣れてきた私。ロフトの黄色いビニール袋の口があいている側を、扇子を折りたたむようにきれいに折りたたんでから、リボン型の金具でぎゅっと口を絞るようにとめれば完成!できあがったのは、とてもきれいなラッピングでした。ただ、それは思いのほか、大きかった……のです。ラッピングした商品を手渡すと、その男性はちょっと驚いた様子で、困ったようにこう言いました。「あれ、こんなに大きくなっちゃった?!」・・・・・・「プレゼントなら、きれいにラッピングされていて、見栄えがいい方がいいはず!」……という単純思考が頭の中の大半を占めていた当時の私には、その男性の「あれ、こんなに大きくなっちゃった?!」の意味するところがわかりませんでした。いったい何が気に入らなかったのだろう、と……。でも、今はよくわかります。この手のギフトって「なるべく目立たないように渡したい」と思う人もいるんですよね。周囲に悪目立ちしないようにとか、鞄に入れて持ち帰りやすいようにとか、豪華に見えすぎて相手に負担をかけることのないように、とか……。贈る人との関係性や置かれている状況などにより、いろいろなニーズがあるんですよね。・・・・・・亀の甲より年の功……などと言いますが、私も40歳を過ぎて、ようやく少しは物事がわかるようになってきたのかなあ。少なくとも、あの頃にはわからなかったことがわかるようにはなってきたのかもしれません。そうだとしたら、こうして年を重ねていくのも悪くはないもんですね、きっと。リンツのチョコレート。一粒が大きくて、中がクリーミーでとてもおいしいですよね。自分へのご褒美にもぴったりですが、職場や家族などに贈り、大人数でシェアして食べるのも楽しそう(画像をクリックするとお店に移動します。)にほんブログ村のランキングに参加しております 応援のクリックをしていただけましたら幸いです! おすすめ記事一覧は こちら ご意見・ご感想は こちら (メールフォームへ移動)
2020.02.04
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みなさま、お元気ですか?8月にブログを更新してから4ヶ月……その間、緑内障を患っている目のことを中心にいろいろと悩み多き日々を過ごしてきましたが、この年末はなんとかこうして元気に過ごしています。さて、4ヶ月もブログを書いていないと、何を書けばいいのやら……文章を書く勘もやや鈍っておりますが、お付き合いいただければ幸いです。・・・・・・今日は「別れ」をテーマに書きたいと思います。私は今月41歳になったのですが、この年になると、振り返ればたくさんの出会いと別れがありました。転職も多かったので、なおさらかな……。なかでも一番心に残っているお別れは、ニュージーランドのホストファミリーとのお別れです。・・・・・・大学卒業前の2月、私は3週間、ホームステイをしながらニュージーランドの語学学校に通いました。ホストファミリーは、Cさんという50代の女性でした。旦那さんとは離婚されたそうで、一人暮らしをしている人でした。Cさんはとても面倒見の良い人で、暇を見つけては私の話し相手になってくれました。ほとんど毎日、私たちは夜遅くまで、リビングルームでいろいろな話をして過ごしました。Cさんは教養があり、物知りなインテリ……なのに毒舌でジョーク好き。本当に魅力的な女性でした。今振り返ると、よくそんなに話すことがあったなあ……と思うのですが、Cさんの人生について、仕事について、ニュージーランドと日本の違い、音楽や映画のこと、語学学校での出来事など……手当たりしだいなんでも話題にして話し合っていたような記憶があります。そんなふうにたくさんお話をして、ひとつ屋根の下に一緒に暮らして3週間。Cさんと私は、すっかり気心の知れた仲になっていました。・・・・・・日本への帰国の日が近づいてくると、私はなんとなく後ろめたいような気持ちになってきました。3週間という短い間とはいえ、Cさんが離婚を経験して心に傷を負っていることはわかりました。50代で独りぼっちだという寂しさを抱えていることも……。それなのに、せっかく仲良くなってきた日本人の大学生である私も、もうじき帰国してしまうのですから……。帰国の前日、私は通学路沿いにある花屋さんで花束を作ってもらいました。お花が好きなCさんへの感謝のしるし……とはいっても大学生の予算ですから、それは本当に小さなブーケでした。帰宅するとすぐに、私はCさんにそのブーケを渡しました。けれども、喜んでもらえるかと思ったら、Cさんはなんだか寂しそうに「私の好きな花よ」と言って、そのブーケをぼんやりと見つめていました。そんなCさんのなんだか気のない反応を見て「うーん、やっぱりちょっとショボすぎたかな……」と、私はそんなことを思いました。さて、いつものように夕食を終え、そろそろ荷造りを始めなければならない時間が近づいてきました。「そろそろ部屋で、帰国の準備をしますね」と私が言うと、Cさんはこっちを向いていきなりこう言いました。「戻ってくるわよね?」一瞬意味がわからずぼんやりしていると、Cさんはもう一度、「戻ってくるでしょう?」と言いました。「はい、きっと……!」と、思わずそんな返事をしていました。・・・・・・翌朝まだあたりが暗い中、Cさんは車で空港まで送ってくれました。いつもはおしゃべりな私たちなのに、その朝、車内はしーんと静まりかえっていました。空港に着くと、いよいよお別れの瞬間が訪れました。なんと言ってお別れをしよう……?と私が考えていると……Cさんは何も言わずに私を抱き寄せ、ギュッとハグをすると、すぐに背を向けて行ってしまいました。一度もこちらを振り返ることはありませんでした。……あれ、こんなにあっさり、なんの言葉も交わさずに?私はきょとんとしてしまいました。よくアメリカのファミリードラマで見かけるようなおおげさなお別れではないにしても、あれだけ仲良くなったことを考えれば、もっとドラマチックなお別れであってもいいような?……なんて、当時の私はそんなふうに思ったんです。・・・・・・あれから18年。実はCさんとは、今でも交流が続いています。その間、ニュージーランドに行ってCさんに再会できたのは、結局一度きりでした。・・・・・・さて、あの頃はわからなかったけど。お別れするときの感情表現の大きさと、想いの深さは、必ずしも比例するわけではないのかもしれません。つらくて悲しいからこそ、あっさりになっちゃう――そんな人もいて、実は最近の私もそんな人のひとりです。だから今は、当時のCさんの気持ちも、なんとなくわかるような気がするのです。・・・・・・というわけで、私の昔話はこれで終わりです。……そうそう、今年はCさんにクリスマスカードを出し損ねてしまったので、これからCさん宛てにニューイヤーカードを書こうと思います! 2001年春‐‐ウェリントンのB&Bにいた猫さんとの一枚にほんブログ村のランキングに参加しております 応援のクリックをしていただけましたら幸いです!★おすすめ記事一覧★
2019.12.26
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以前からときどき、数年前に某大学で英語科の先生方の事務方のアシスタントをしたことがあると書いてきました。そこは、いろいろな国の出身の様々な先生方がいるにぎやかな職場でしたが・・・そこは決してアカデミックな桃源郷ではなくて、「ほんとにどこにでも嫌な奴はいるんだなあ」・・・ということを思い知らされた職場でもありました。・・・もしここに書けば、読んでくださる方の興味をけっこうそそるであろうセクハラやパワハラも受けました。・・・とはいうものの、楽しいこともたくさんありました。まず、日本にいながらにして英語漬けになれるという点では、英語を使って働きたいという人にとっては理想の環境であるとも言えたかもしれません。特に話す英語を使いたい方は、私が経験したような職種で大学で働くことはおすすめですよ。なんやかやいっても大学というのは国際的な職場ですし、雇用形態にこだわらなければ(=派遣社員やパート採用などでもよければ)、けっこういろいろな職種を頻繁に募集していると思います。私は派遣情報を載せている求人サイトでこの職を見つけましたが、同僚のパートの方はハローワークで見つけたと言っていました。また、パワハラで私を苦しめた先生もいましたが、その一方でなにかと話しかけてくださり、仲良くしてくださる先生方もたくさんいて、そういう交流は本当に楽しかったですね。・・・・・・さて、ある金曜日の朝のことでした。カナダ人の先生が出勤してきて、私の顔を見るなり、こう言ったのです。"TGIF!"・・・・・こう言われたその当時の私。そのときはこの言葉の意味を全く知らなくて、本当にぽかーんとしてその先生の顔を見つめてしまいました。すると、先生はもう一度、"TGIF!"と強調してきました。(・・・これは何かの暗号か・・・はたまた、まさかこの人頭がおかしくなったんじゃ・・・)などとやや不謹慎なことを思いつつ、いぶかしげな顔でなおもその先生を見つめていると、"Thank God, It's Friday!"と、先生はやっと、この謎の言葉の答えを教えてくれたのでした。・・・・・・"Thank God, It's Friday!"・・・つまり、訳してみると、「神よありがとう!今日はついに金曜日です!」・・・みたいな感じでしょうか。この表現に使われている各単語の頭文字を取ったのが、くだんの"TGIF"という言葉だったのです。「お~、なるほど~!」と、新しい表現を覚えることができて、本当に得した気分の朝でした。・・・・・・いろいろあって、私は半年で、派遣契約を延長せずにその職場を去ることを決めました。大学の学期でいえば、前期の間だけ働いた、短い短いアシスタントでした。私が辞めるとき、私の窮地を理解してくれて一緒になって怒ってくれた人もいたし、直属の上司からは謝罪されました。ちなみにその人が誰かに謝るのを見たのは、半年間でその一回きりでした。その一方で、よく事情を知らない人からは「せめて1年ぐらいは働かなくちゃ・・・」と、説教めいたことを言われたりもしました。そのどちらの反応も、ありがたかったし、つらかった。・・・・・・辞めてからしばらくした後、同僚だったパートさんからメールが来ました。なんでも、"TGIF"を教えてくれたあの先生が、バカンス先からお土産を買ってきてくれたので渡したいとのことで。パートさんと久々に再会すると、「bonaさんをイメージして買ったんだって!」と言って、そのお土産を私に差し出してくれました。お土産が入っているその袋を開けてみると、そこには石けんが入っていました。そして、その香りはココナッツ。「・・・いったい、どんなイメージだったんだろうねェ。」って、パートさんと2人で大笑いしました。ひとしきり笑ったあと、パートさんが思い出したように言いました「ああそういえば」「○○先生がね、『ちくしょう、bonaと結婚できるlucky guyはどんな奴なんだろうなあ!』って言ってたよ。」・・・・・・思わず、ずっこけてしまいました。私をネタに、いったい何を話していたんだ・・・・・・でもなんというか、自分が海外ドラマの登場人物にでもなったような気分もしました。ちなみにその○○先生は、既婚の南アフリカ人の黒人の先生で、いつも優しい先生でした。日常の些細なことを話題におしゃべりしたりして、仲良くなれた先生の一人でした。「ああそれからね」「職員の●●さんが、『△△先生には、俺が絶対に復讐してやる・・・そうとはわからない方法でな』って言ってたよ(笑)。」・・・・・・再び、ずっこけてしまいました。そうとはわからない方法による復讐・・・その発想がすごいなちなみに△△先生は、私がこの仕事を辞めるきっかけを作った張本人であり、まあドラマなどで例えるとすれば悪役といったところでしょうか・・・。そしてこの日本人職員の●●さん。彼もやはり既婚の方で、派遣社員の私に対しても壁を作ることなく何かと世話を焼いてくださった、本当にいい人でした。・・・・・・今思い出すと、なつかしいような、つらいような、何とも言えない気持ちになる職場です。半年間ちょっとすれ違っただけのあの先生方は、今はどうされているのかな。そして●●さんは、私の代わりに、復讐を果たしてくれたのだろうか・・・そうとはわからない方法で(笑)。・・・どうであれ、今日は金曜の夜です。TGIF! みなさま、よい週末を!
2018.06.22
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今日はちょっと趣を変えて、ネイティブとの会話について考えてみたいと思います。また思い出話になってしまうのですが、在宅フリーランスの翻訳の仕事を辞めた後、私は派遣で働き始めました。派遣先は教育機関で、仕事内容は、その教育機関に働くネイティブの先生たちのアシスタントのようなものでした。それに加え、日本人職員とネイティブの先生たちの間の橋渡し役として、ごく簡単な通訳のような仕事や、資料の翻訳、授業で使う教材の校正など、何でも屋的に働くことになりました。楽しいことや衝撃的なことなど、本当にいろいろなことがあった職場でした。ネイティブと同じ職場で働くというのは楽しくもあり、大変でもありました。当たり前のことですが、いい人もいれば、ひどいなあと思う人もいました。それはさておき。私が働くデスクがあった場所は、ネイティブの先生たちが講義の合間に次の講義の準備をしたり、休憩を取ったりするお部屋でした。先生たちの中には、話し好きで、暇つぶしに私に話しかけてくれる人もいました。ある夕方のこと。若いアジア系アメリカ人の先生と私が、お部屋で二人だけになってしまったことがありました。沈黙が続く中、なんかちょっと気まずいかなあ・・・と思っていたら、先生が話しかけてきてくれました。それは、とても無難な話題でした。「週末は何をして過ごしているの?」と聞かれました。しかし、私はここで動きが止まってしまいました。(週末・・・?! ・・・何もしてない。)そう、私は話すに値するようなことを何もしない自堕落な週末を過ごしていたのです。かなり無難な話題を前に、しばし無言で考え込む私に、ややしびれを切らした先生は、「だーかーら、フリータイムに何をしているかって聞いてるんだよ?」と迫ってきました。仕方がないので私は、正直にこう答えました。「洗濯してます!」先生は独身みたいだし、週末に洗濯とか、もしかしたら共感してくれるかも??なんて思ったのですが・・・。私の返答を聞いた先生は、「ギャハハハハ!」と大爆笑したんです。あー情けない、と思いました。そんなことがあってからしばらくたった頃、今度はまた別の先生と二人きりになりました。今度は南アフリカ出身の先生だったのですが、その先生からも、まったく同じ質問をされたのです。前の経験から学んだ私は、今度は少しはましな答えを準備していました。よく考えてみると、私はお菓子作りとかパン作りが好きなので、そのことを話してみようと決めていました。「週末は、お菓子作りとかパン作りとかをしていますよ。」・・・みたいな感じで答えたら、予想外の反応が返ってきました。「ほんとに?食べてみたいなー、クッキーとかさあ。」と言われました。それもしつこく。(あー、めんどくさいことになったな。)とは思ったのですが、そんなに言うなら作らないと、と思いました。私は次にその先生が出勤してくる日に合わせて、1日の労働で疲れた体に鞭を打ってクッキーを焼きました。翌日になり、クッキー食べたーい、としつこく言ってきた先生がお部屋に来たので、「先生、クッキー作ってきましたよ!」と、私がクッキーを差し出すと、それを見たその先生は一言、こう言いました。「・・・これ、毒とか入ってないよね?」食べたいって言ったの、あなたでしょー!!・・・・・・私は、高校時代に1回と大学時代に2回、計3回ホームステイをしながら現地で英語を学んだ経験はあるのですが、それも2・3週間だけで、長期間英語圏で過ごしたことがありません。だから、ネイティブと会話するのに慣れているわけではないのです。振り返ってみると、あの職場でも本当に、たいして充実した会話ができていたわけではないのですが・・・。(上記のような、まぬけなやりとりを日々繰り返していたような気がします。)ただ、先生たちの反応がわりと良かったなあと思えたやり取りもあり、それらを振り返りますと・・・例えば、いつもメガネをかけていない先生がある日メガネをかけていたら、「あ、今日はメガネですね!お似合いですよ。」ある先生がYouTubeに動画をアップしていると聞いたら、その動画をチェックして、「動画見ましたよ!とてもよかったです。」アジア系の先生のルーツが韓国だと聞いたら、「私韓国ドラマが大好きなんです!たくさん見ているうちに韓国語も少しだけわかるようになりましたよ。」・・・などというように、何かきっかけを見つけて、できるだけ自分からも話すようにすると、先生たちも喜んでくれて、それまでよりも少しだけ仲良くなれるような感じがしました。・・・・・・最後に、参考になるかもしれない本をひとつご紹介します。この本は数年前、地元の紀伊國屋書店で平積みになって売られていました。表紙を見て、「英語が2日ですらすら話せるのか~、いいですねぇ!」と思い、買ってしまったのですが。読んでみると、正直あまり参考になるところはなかったんです。そのため、ずっと本棚の奥にしまってあったのですが、先日本棚の整理をしたときに再びパラパラと眺めていたら、なかなか参考になる部分があることに気付きました。それは、ネイティブとの会話の進め方について書かれている部分です。「話題がドンドン広がるトピックツリー」話題が尽きなければ、英会話はいくらでも続けることができる。英会話をしながら、新しい話題を探すテクニックを教えよう。 (本書161ページより引用)・・・とあるように、いかに話題を尽きさせることなく会話をつないでいくか、その方法が提案されています。英会話をしていてもすぐに話題が尽きてしまう・・・という悩みを抱いている方がいたら、なにかしらのヒントが得られるかもしれません。
2017.11.01
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世の中にはいろいろな先生がいます。おもしろい先生、友達のように親しみやすい先生、厳しい先生、怖い先生・・・。皆さんの心に残る、思い出の先生は、どんな方でしょうか?************大学時代、私に忘れがたい恐怖を与えてくれた先生がおりました。K先生は、当時でもう60代かそれ以上であろうという年齢の女性でした。大変品のある話し方をされる先生で、上品なスーツに身を包んだその風貌は「品の良いご婦人」といった感じでした。しかし、その風貌に似合わず、K先生は大変厳しい方で、毎回の授業で生徒を恐怖に陥れるのでした。K先生が担当する授業は、英国の女流作家、ヴァージニア・ウルフの短編を、翻訳しながら精読していく授業でした。高校を卒業したての大学1年生の生徒たちにとって、ヴァージニア・ウルフの英語は難解です。翻訳しろと言われても、わからないことの方が多いのです。ですから、たいていの生徒は、K先生から指名されても、途中で翻訳ができなくなり、言葉につまってしまいます。そうすると、待ってましたと言わんばかりに、K先生のキツイご指導が始まります。「あなた、この文章は、必ずおわかりになるはずよ・・・・・・もしあなたに brain があるならば。」これがK先生の決まり文句。brain とは、言うまでもありませんが「脳みそ」のこと。「脳みそがあるならば、必ずおわかりになるはずよ・・・!」なんて皮肉で、意地悪な言葉なんでしょうか。そして、K先生に婉曲的に(いやかなりダイレクトに)「脳みそがない」と言われた生徒たちは、授業後「ううっ」と肩を寄せ合い、お互いを慰め合うのでした。そんな風に、K先生の恐怖におびえながら挑んだ授業はいつまでも忘れがたく、私の中でのK先生のイメージは「まったく、とんだばーさんだ!」でした。************卒業後長い時が経ち、昨年大学から送られてきた広報誌で、K先生がお亡くなりになったことを知りました。その知らせを読んだ時、なぜだか意外なほど悲しくなりました。目の奥に涙がたまってくるのを感じました。K先生は今もお元気で、あの古い教室で、生徒たちを「脳みそがないのね、オホホホホ」と、いじめていると思っていたのに・・・・・・そうじゃなきゃ、いけないのに・・・・・・。先生の訃報にショックを受けている自分に気付き、私は本音のところではK先生のことが好きだったということに初めて気付きました。いやだとか、怖いだとか思いながらも、実際はK先生のその厳しさに育てられた自分がいたのかもしれません。K先生は、天国でも相変わらず、厳しい授業を続けられているような気がします・・・・・・ヴァージニア・ウルフの本を片手に、生徒のおびえる姿にほくそ笑みながら。
2011.08.15
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昨日部屋を片付けていると、懐かしいものを発見!私の初TOEICを含む、今まで受験したTOEICの受験結果が出てきたのです。私が初めてTOEICを受験したのは、大学1年生だった1997年5月。その日の授業が終わり、すでにクタクタになっていた夕方、新入生はホールに集められ、訳もわからぬうちにナゾの英語の試験が開始。・・・その時は、それがTOEICだとは知らされておらず、「この鬼のように過酷で難しい試験は、一体何なんだ?! はやく、はやく終わってくれ!!」と思いながら、必死で問題を解きました(笑)。その時のスコアは、Section 1 335 Section 2 285 Total 620今と表記が異なり、当時はリスニングがSection 1、リーディングがSection 2でした。この頃の私の英語力は、1996年高3の時に英検2級を取得、得意科目だった英語のセンター試験は数問のミスで9割以上の正答率だったと記憶しています。その後、大学で1年次の前期・後期の授業を取り終えて、1998年1月に再度TOEIC形式の試験を受験させられました。その時のスコアは、Section 1 380 Section 2 345 Total 7258ヶ月で105点アップしていました。・・・もっともその8ヶ月間、英文科の学生だった私は、鬼のように容赦ない先生方に毎日ビシビシ英語をしごかれていたので、当たり前と言えば当たり前の得点アップだったと思います。以上2つのスコアは、詳しくはどういう仕組みだったのかはわかりませんが、どちらも大学独自で行われた、非公式の形式で受けたTOEICテストです。本物のTOEICを受けたのは、その6ヶ月後の1998年7月の第66回。その時のスコアは、Section 1 410 Section 2 350 Total 760 (Percentile Rank 86.3)この3ヶ月後の1998年10月に英検準1級に合格しています。準1級は特に対策なしで受け、1度で合格しました。その後はしばらく受けておらず、2000年1月の第75回に受験。スコアはSection 1 455 Section 2 385 Total 840 (Percentile Rank 94.1)ここまでが大学時代の記録。社会人1年目のTOEIC受験は、2001年7月の第85回。スコアはSection 1 450 Section 2 395 Total 845 (Percentile Rank 94.7)大学時代から5点しか伸びず・・・。上記の結果に不満を抱き、少し対策して挑んだのが同年2001年11月の第88回。スコアはSection 1 485 Section 2 435 Total 920 (Percentile Rank 98.9)ついに900点台に突入。対策による効果を実感しました。ちなみにこの回からは、Official Score Certificateに白黒の顔写真と自筆の署名が入るようになっていました。さて、次にTOEICを受けたのは、しばらく間が空いて2003年11月の第103回。スコアはSection 1 480 Section 2 470 Total 950 (Percentile Rank 99.4)この2ヶ月後に受けた英検1級1次試験(前年の6月に続き2度目の受験でした)は合格でした。・・・そして長い長い時を経て、いつの間にかTOEICは新形式になっていました。新形式になって初めての受験が2010年1月の第152回。Listening 495 Reading 495 Total 990 自己記録を更新し、初の満点を取得しました。Official Score Certificateはカラー印刷になっており、項目別に正答率がわかるように改良されていました。・・・というわけで、私のこれまでのTOEIC受験の全記録でした。1998年から2010年の12年間で、非公式のものを2回、公式のものを6回の計8回受験しており、620点から990点まで、370点得点が伸びていました。
2011.08.12
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先日美容院に行ってきました。髪を洗ってもらっている時に聞こえてきたのがこの曲、シュガー・レイの Someday でした。バカンスで聴きたいような、今の季節にぴったりなイメージの曲だと思います。 ←このアルバムに収録されています---------------------------------------------------------さて、私がこの曲をよく聴いていたのは、今から11年前の大学生の時です。美容院でこの曲を耳にしたら、自然とあの頃のことを思い出している自分がいました。あの頃、私は駅前の英会話教室イー○ンに通っていました。先生はアメリカ人のリック。シュガー・レイの歌う曲のように、明るくてお気楽で、いかにもアメリカ人的な良い奴だったリックのことを、私は兄のように慕っていました。英会話教室に通うのを止めた後は、彼が英会話講師の傍らに教えているという合気道教室の授業の見学をしたり、一緒に映画に行ったりと、友人として交流するようになりました。しかしながら、リックと映画に行った時は大変でした。映画館には、アメリカのアニメ、ルーニー・テューンズのキャラクターのイラストが描かれていたのですが、彼はこのキャラクターの名前を、ひとつひとつ、アメリカンな発音で教えてくれるのです。教えてくれるだけならよかったのですが、それだけでは物足りなかったようで、なんと自分の発音に続けて私にも発音しろと言うのです!そこは映画館のロビー・・・「ここで発音を?!」と思うものの、リックの好意を無駄にしたくなかったので、リックの後に続き発音をくり返していたところ、私の「Wile E. Coyote(ワイリー・コヨーテ)」の発音が悪かったらしく、リックは人目もはばからず、特に coyote の発音を、「カィヨーティ!」「カィヨーティ!」と何度も直してくれました。それだけならまだよかった(のか?)のですが、映画の予告編が始まると、また事件が起きました。映画『パール・ハーバー』の予告編で、"We Americans are playboys!(俺たちアメリカ人はプレイボーイだぜ!)"とかいう感じのセリフがあったんです。するとリックは大声で、"Yeah!(イエ-イ!)"と、腕をふりあげ、スクリーンにむかって返事をしたのです!私はやや驚きながらも、「おお、この映画に対するリアクションの良さは、まさに世に聞くところのアメリカ人だ!」と思いました。しかしながら、そこは日本の映画館ですから、周りのお客さんはみんな静かにしています。結果、リックはやや悪目立ちしてしまいました。でも、日本人って外国人には優しいのか、みんなそんなリックを温かく見守ってくれていました。というわけで、シュガー・レイのおかげで、今は疎遠になってしまった昔の友達、リックのことを思い出しました。その後リックと映画に行くことは二度とありませんでしたが・・・いやー、懐かしいですね。皆様も、外国人の友達がいたら、ぜひ一緒に映画館に行ってみてください。きっと、いろいろな意味でスペシャルな体験ができることと思います!
2011.07.27
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2002年の夏、イタリアはローマへ旅行に行きました。ローマでは地下鉄を使っていろいろな観光名所を巡り、とても楽しい時を過ごしました。ところで、うわさどおり、イタリア人男性は日本人男性はしないようなことをしてきました。それは「ウィンク」。店員のお兄さんが、人なつっこくウィンクをしてくるのです。目が合うと、お兄さんが微笑みながら、ウィンク!・・・・・・けっこうリアクションに困りました。さて、異国を旅している時に日本人に出会うと、知らない者同士なのに、なんとなく連帯感を感じることがありますよね。あれは、確かトラベラーズチェックを現金化するために両替所の行列に並んでいた時のことでした。この両替所では、実際に窓口に行くまで、正確な両替レートがわかりません。ちょっと不便な両替所でした。さて、私の後ろに、日本人とおぼしきおじさんが並んできました。おじさんは、私が日本人であると知ると、とたんにグチり始めました。なんでも、奥様とヨーロッパ周遊旅行をしているのだけれど、両替で損ばかりしているとのこと。ロンドンではホテルで両替したため、だいぶ損してしまった・・・と不満を語るのです。「あー、それは大変でしたねぇ」・・・と同意すると、おじさんはこんなことを言い出しました。「ねぇ、ちょっと悪いんだけどさ、もしここの両替レートが○○ユーロより上だったら、俺は両替したくないから、合図して教えてくれないかな?もしレートが○○ユーロ以下だったら、こっちに向かって手を振るかなんかしてくれる?」え、そんなのちょっとめんどくさい、と思ったのですが、おじさんの勢いに負けた私は、「え・・・わ、わかりました。」と、おじさんの子分になることを了解してしまいました。で、私が両替する番が来たので、カウンターに行ってレートを確かめると、おじさんの希望通りの○○ユーロ以下だったので、やや挙動不審ながらも私は後ろを振り返り、おじさんに向かって「OK」というように手を振って合図を送りました。するとおじさんはクールに、「了解」とでも言うように、私に向かって頷くのでした。数分前までは他人同士だったおじさんと私は、しばしの間、共同の任務を終えた満足感にひたりました・・・。旅は道連れ世は情け。→ 旅では道づれ同士が助け合い、世渡りでは互いに同情をもって仲よくやるのがよい。(広辞苑)→ In traveling, companionship; in life, compassion. (和英辞郎) あの時は何で私がこんな子分のようなことをせねばならないのか・・・と思いましたが、海外では、日本人同士お互いを支え合い、協力し合うのが良い、ということかもしれません。この夏海外旅行を計画している方は、現地で出会うであろう日本人同士、仲良く協力しあってほしいなぁと思います。 ↑イタリアにはこの本を持って行きました。読むだけでもかわいくておもしろいので、おすすめです。
2011.07.01
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hashishという英単語、皆さん意味はご存知ですか?今日はhashishにまつわる思い出話をしたいと思います。高校時代、私の趣味は海外文通でした。英語圏はイギリス、オーストラリア、カナダの文通相手がいて、英語圏以外では、イタリア、スウェーデン、ブルガリア、韓国、そしてエジプトに文通相手がいました。当時は毎日学校帰りに郵便ポストをのぞくのが楽しみでした。海外の香りがする封筒に、自分の名前が書いてあるのを見つけると、ワクワクしました。今でも印象的な文通相手は、まずはブルガリアの女の子。私より2・3歳年下でしたが、彼女の書く英語はとても正確でした。「今、先生たちがストライキを起こしていて学校が休みなの。」と書かれていたことがあり、日本ではありえない出来事に大変驚いたことがありました。ブルガリアにはヨーグルト以外の様々な側面があることを知りました(笑)。カナダ人の女の子も印象的です。彼女は『赤毛のアン』の舞台プリンス・エドワード島の近くに住んでおり、「休日に家族とボーイフレンドと一緒にプリンス・エドワード島に行ってきました。 彼とはロマンチックな時間を過ごしたわ。」というようなことが書かれており、私は「プリンス・エドワード島で彼氏と過ごすなんて、なんてステキなの!」などとうらやむばかりでした。当時私立の進学校(女子校)に通い、勉強づけの毎日を送っていた私にとっては、もはや同じ地球上に住んでいる人とは思えませんでした(笑)。さて、上記の2人は良い思い出として覚えているのですが、悪い思い出のある人もいます。それはエジプト人の男でした。たしか私より年上で、20歳ぐらいの人だったと思うのですが、彼はある日、こう書いてきました。「hashishを送ってあげるから、代わりに日本のポルノ雑誌を送ってくれ。」「ポルノ雑誌」と書いてある時点でかなり引いたのですが、「hashishとは何だろう?聞いたことのない単語だな」と思い、とりあえず辞書を引いてみました。hashish:ハシッシュ《大麻(cannabis)から作る麻薬》・・・・・・彼がかなりの危険人物であることを知り、私は文通をやめました。彼がそんなモノを送ってこようものなら、危うく大麻取締法違反で逮捕されるところでした。彼はその後も何度か手紙を送ってきたと思うのですが、無視し続けると、そのうち手紙は来なくなりました。しかしその数年後、大学生になったある日、突然彼から手紙が届いたのです。おそるおそる読んでみると、そこにはなんと「ネズミ講」的な商売を一緒にやらないか、と書いてありました。怖い・・・。彼に住所を知られていることが怖い。いつかエジプトから家に押しかけてこられたらどうしよう、と思いました。当時はまだインターネットなど発達しておりませんでしたから、まだよかったと思います。これがもし現在の話だったら、Googleの地図で簡単に我が家を特定されてしまいますよね。というわけで、良くも悪くも、海外文通の思い出でした。海外文通を通じて、英語でいろいろな国の人とコミュニケーションを取る楽しさを知りました。私が英語好きになるのに、海外文通が一役買っていたことは言うまでもありません。
2011.06.24
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今まであまり日記に書いたことはありませんでしたが、実は私は韓国好きです。数えたことがないので正確な数はわからないのですが、これまでに見た韓国ドラマは数知れません。また、ドラマだけでは飽きたらず、数ヶ月前には、東京のコリアタウン・新大久保に行き、韓国の雰囲気を満喫してきました。新大久保はお手軽に韓国気分が味わえるので、首都圏に住む韓国ファンの方には本当におすすめの街です。さて私は、過去に韓国に旅行に行ったことがあります。もう10年前のことになりますが、当時働いていた会社の社員旅行の行き先が韓国だったのです。そして私は、韓国でさまざまな体験をしました。1)韓国人のおばさんに話しかけられる日本から飛行機で数時間、韓国の仁川国際空港に着くと、中年のおばさんが私めがけて突っ走ってきました。そして、必死の形相でなにやら韓国語でまくしたててきたのです。韓国語がわからない私は、おばさんが何を言っているのだかさっぱりわかりません。とりあえず「いいえ」というように手を振って、「わからない」というそぶりをしたら、おばさんは心底失望したように、あきらめてどこかへ行ってしまいました。その様子を遠くから見ていた同僚に、「bonaちゃん、今のは誰?どういう知り合い?韓国語、話せたんだね?!」と怪しまれました。2)冷麺で死にそうになるその後空港から、私たちはチャーターしたバスでソウルに向かいました。ソウルでは、お昼ご飯に冷麺を食べるとのことでした。冷麺初体験の私。日本のラーメンやうどんのようなやわらかいものを期待していたのですが、本場の冷麺は、ゴムのようにかたく、そして長い。つまり長いけれど、かたくてなかなかかみきれないのです。何も知らない私は、口いっぱいにほおばった冷麺がうまく飲み込めず、のどにつまるのを感じました。かみきりたくても、かみきれない長い麺・・・。冷麺がのどにつかえたまま、私の動きは止まりました。「日本人観光客、ソウルの冷麺店で死亡」という見出しが一瞬頭をよぎりました。結局何とか呑み込んだのですが、本当に窒息して死ぬかと思いました。恐るべし冷麺。3)サウナで死にそうになる韓国と言えばエステも有名。韓国2日目は、オプショナルツアーでエステに行きました。エステでは、まずはサウナに入るとのこと。このサウナがくせ者で、「汗蒸幕」と呼ばれるものでした。それは、大きなドーム状の釜のサウナで、釜の中に入って防災ずきんのような形をしたゴザのようなモノを頭からかぶるのがしきたりなのだそうです。私はゴザを手に持ち、ワクワクしながら「汗蒸幕」の中に入りました。暑い・・・。ちょっと普通じゃない暑さでした。後から知ったのですが、中は100度以上になっているのだそうです。こんなに暑いのに、その上ゴザをかぶるのか・・・死ぬ・・・と思いました。実際、ゴザをかぶって汗蒸幕の中で座っていると、体に良いというよりは、暑さで倒れてしまうのではないかという不安が頭をよぎりました。4)店のお姉さんがキレる韓国と言えば、お買い物も楽しみの1つです。私たちは、「南大門市場」という、日本で言えばアメ横のような場所に行きました。市場には、食料、衣類、雑貨まで、いろいろなものを扱うお店がそろっていました。ガイドさんは、値段交渉をする時の韓国語を教えてくれました。そのガイドさん曰く、「安くしてください」を、韓国語では「サゲ チュセヨ」と言うのだそうです。私は外国でその国の言葉を使って話すのが好きなので、さっそくその表現を使ってみることにしました。ちょうどバッグ屋さんで良さそうなバッグが売っていたので、そのバッグを手に、売り場のお姉さんに「サゲ チュセヨ~!」と明るく言ってみました。するとどうでしょう、お姉さんがあからさまに不快そうな顔をして、日本語で言いました。「モウ ジュウブン ヤスインダヨ!」結局お姉さんが怖くて、私は値札通りの額を支払いました。・・・というわけで、旅行って本当に楽しいですね!(本当に?)皆様も韓国に行かれる時は、ぜひさまざまなことにお気をつけて、楽しんできてください。 ←マンガで楽しめる初級韓国語&韓国滞在記。おすすめ!
2011.06.23
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1)あれは1999年の夏、イギリスに2週間の超短期語学留学&ホームステイをした時のことでした。週末に、私はイギリス南部の小さな島、ワイト島に観光に行きました。観光中、イギリス人のおばあさんに、突然肩を叩かれました。振り返り、おばあさんの顔を見ると、おばあさんはこう言いました。「トイレはどこにあるかしら?」イギリス人とおぼしき西洋人がたくさんいる中から、明らかに外国人である私にトイレの場所を聞いたおばあさん・・・なぜ私に?!2)今度は日本編です。私は用事があり、首都圏のある町を足早に歩いていました。するとどこからか、「すみません!」と、私を呼び止める人がいました。振り向いてみると、そこには20代ぐらいの若いお兄さんがいました。お兄さんは、続けてこう言いました。「僕、お笑い芸人を目指しているんです。 今からネタをやるので、見てもらえませんか?」・・・そこは、かなりの人数の人が行き交う交差点のそばでした。・・・ここで、いま、ネタを?!一瞬見てみたいと思ったのですが、新手のキャッチセールスかもしれないと思い、「・・・すみません、時間がないのでっ!」と言って逃げました。結局あの人は何だったんでしょうか?本当にお笑い芸人を目指していたとしたら、今頃はデビューできたのでしょうか?仮にそうだとしても、なぜ私にネタを見せようとしたのか・・・。3)10年前の夏。会社帰りの私は、珍しく会社の最寄り駅から電車の椅子に座ることができました。いつもは混んでいて座れません。ラッキーでした。座ってからしばらくすると、どこからか「ジーーーーー、ガーーーーー、ジーーーー」というような音がすることに気付きました。あたりを見回してみると、ちょっとあぶなそうな雰囲気のおじさんが、小型ラジオをいじっていました。どうやらチャンネルを合わせているよう。しばらくすると、歌番組のチャンネルが見つかったようで、おじさんは周囲の迷惑も考えず、ごく当たり前のように、イヤホンもつけずに大きな音で、そのままラジオを聞き始めました。あたりの人は、このおじさんを恐れて、ひとり、ふたりとその場を離れていきました。私も、「ちょっとこのおじさんやばそうかなぁ・・・」と思いつつも、その日は疲れていたので絶対に座っていたいという思いから、その場を離れずに、おじさんは無視して、平然とした顔で座り続けていました。しばらくは、何事も起こりませんでした。この変なおじさんのおかげで、車両もすき気味でしたので、ラジオがうるさい以外はむしろ快適でした。しかし、やはり異変は起こりました。電車がラジオの電波が届きにくい場所に達したらしく、ラジオから流れる歌に、「ガーーー」だの「ピーーー」だの、雑音が混ざり始めたのです!!おじさんは、いらだった様子で電波の良い場所を探し始めました。小型ラジオを、電車の天井にかざしたり、左右に振ったりするのですが、なかなか電波の良い場所が見つかりません。おじさんの様子がいよいよやばそうになってきたので、私は「そろそろ席を立った方がいいかな・・・次の駅で車両を変えよう」と心に決めました。が、その時です!おじさんが、私の顔の真横にラジオを持ってきたのです!そしてなんと、その位置で電波がぴったり合って、ラジオが再び軽快に動き出したのです!「なんでよりにもよって私の顔の真横なの?!」と、心の中はかなり動揺していたのですが、私は平静を装い、その場に留まりました。しばらくそのままの状態が続き、電車は次の駅に到着しました。するとおじさんは、だまって電車を降りていきました。よ、よかった~(涙)!それにしても、なぜ私がこんな目に?!・・・というわけで、今日は「なぜ私に?!」3連発でした。・・・最後まで読んでくださった方(がいらしたら)、くだらない話におつきあいいただき、どうもありがとうございました。そして、英語と全く関係のない話でごめんなさい。
2011.06.16
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もう5年近く前のことですが、私には塾講師をしていた時代がありました。個別指導の学習塾で、主に英語を教えていました。いろいろな生徒がいましたが、なかでもイトウ君は思い出深い生徒のひとりです。イトウ君は、とにかくやる気がなかった。英語が大嫌いで、そして苦手だった。だから、英語の授業中は、よく寝ていました。目を離すと必ず寝ているイトウ君を起こすのが、私の仕事でもありました。ある日、事件が起きました。それは、ある暑い夏の日のことでした。夏期講習の半ばぐらいのことで、毎日塾に通ってくる生徒たちには、だんだん疲れの色が見て取られるようになってきていました。イトウ君も、日々の勉強にかなり疲れていたのだと思います。イトウ君は、もうろうとした様子で、ある問題を前に手をとめていました。その問題をみると、答えは簡単。「行く」という意味の"go"を記入する問題でした。私は、この問題ならさすがにわかるはずだと思い、イトウ君を起こしにかかりました。「イトウ君、ちょっと起きて。この問題はわかるはずだよ。」「・・・・・・」「イトウ君、ここは『行く』だよ、『行く』!」「・・・・・・いく・・・?」「そうだよ、絶対に知っているはずだよ。ほら、アルファベットで2文字の『行く』だよ!」「うーん・・・2文字?」私はしびれを切らして、最大のヒントを与えました。「イトウ君、"g"から始まるあの単語だよ?!」「・・・うーん・・・、g・・・?」「"g"と、あともう1文字だよ?!」「・・・うーん・・・・・・」「ほら、『レッツなんとか』、ってよく言うでしょ?」「・・・レッツ・・・・・・・・・」・・・そう言い残して、イトウ君は眠りの世界へと帰って行きました。私は不安になりました。イトウ君は、中3なのに、もう冬には受験が迫っているのに、本当に"go"がわからないのだろうか・・・?あんなにヒントを出してあげたのに・・・(というか、もうほとんど答え)?夏の日の事件でした・・・(笑)。結局イトウ君は、私の心配をよそに、無事志望校に合格してくれました。今では、もう高校も卒業し、どこかで青春をエンジョイしていることでしょう。そして、もしかすると、もう英語を勉強しなくてもよくなったかもしれない。・・・でも、願わくは、あの夏あの後必死で覚えてもらった"go"ぐらいは、覚えていてほしいなぁ。
2011.06.11
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「香港」という言葉を耳にすると、私はいつも、ヤンのことを思い出す。ヤンは香港出身の女の子で、私の友達だった・・・たった3週間だけの。今から10年前の2001年の春、私はニュージーランドのオークランドにある語学学校に通った。それは大学卒業直前の春のことで、3週間だけの短期語学留学だった。ヤンと出会ったのは、その語学学校だった。私のクラスにいたのは、ドイツ人、イタリア人、オーストリア人、そして香港出身のヤンだった。クラスでたった2人だけのアジア人だった私たちは、すぐに仲良くなった。私は22歳で、ヤンはまだ16歳だった。まだ16歳だったヤンは、ニュージーランドの現地の高校で、ドロップアウト(退学)をくり返していたらしい。最後の手段として、「留学生」として進学することを目指し、語学学校に入学してきたのだった。なるほどヤンは、ドロップアウトをくり返してきたというだけあって、見かけはイッパシの不良少女だった。ピアスの穴は両耳で合計10個はあろうか・・・、厚く塗ったアイシャドウと濃い口紅、おへそが見えるトップスに、超ミニスカート。おまけに髪の毛は金髪に染めていた。なぜだかわからないが、ヤンは出会ったその瞬間から、私に心を開いてくれた。休み時間になると、ヤンは他の生徒との交流を嫌って、「外に出ようよ!」と言って私を学校の外へ連れ出し、けだるそうにタバコをふかすのだった。最初のころ、私はヤンにとまどっていた。強烈なルックスで、タバコをふかし、ずいぶん年上の彼氏の家で寝泊まりしているというその少女と私には、なんの共通点もなさそうだった。実際、共通点はほとんど何もなかったのだが・・・私とヤンはなぜかうまく行った。お互いの存在に慣れてくると、ヤンは時々、少女らしい一面を覗かせるようになってきた。日本が好きだというヤンは、よく私に、「日本語を教えて!」と言ってきた。「どんな言葉が知りたいの?」と尋ねると、ヤンは、「"I love you" は、なんて言うの?」と聞いてきた。"I love you" か・・・。簡単なようで難しい。私は結局、こう答えた。「『あいしてる』だよ」ヤンは、『あいしてる』という言葉を何度もくり返し口にして、ノートに書き留めていた。(やれやれ、ヤンはやっぱりませているなぁ・・・いったいそんな言葉、いつ使うつもりなんだろう?)そんなことを考え、私は心の中で苦笑していた。ある日の放課後、ヤンとウィンドウショッピングをしていた時、ヤンは突然こう言った。「みんな私のことを見て、不良だって言っているのはわかっているの。 私だって、あなたみたいな普通の服を着てみようかな、と思うこともあるけど。 でも、このファッションが、私なんだから。」その言葉を聞いた時初めて、私はヤンの孤独を知った気がした。ヤンは、香港の裕福な家庭に生まれた子どもだったらしい。より良い教育環境で子どもを育てたいと願ったヤンの両親は、ヤンを1人ニュージーランドへ送った。お金には不自由しない生活だったが、ヤンの心の面倒まで見てくれる人は、誰もいなかったのだろうと思う。私よりずっと年下のヤンが置かれている境遇は、決して良いものではなかった。そのことを思うと、胸が苦しくなった。3週間はあっという間に過ぎ、ヤンとお別れする日がやってきた。ヤンはいつもと変わらぬ様子で、私に1枚の紙を差し出した。それは手紙だった。英語で書かれた手紙の最後に、日本語でこう書きそえてあった。「bonaさん、あいしてる!」ヤンに教えたあの言葉を、ヤンは私に対して使ってくれたのだった。ヤンはきっと、私より、ずっと純粋だった。私とヤンは、お互いを抱きしめてお別れした。ヤンは別れ際に、「私の彼氏のメールアドレスにメールして。そうすれば私も読めるから。」と言った。帰国後、私はヤンに手紙を書いた。けれどもその手紙は数ヶ月後、「宛先不明」というスタンプが押され、私の元に戻ってきてしまった。ヤンが言ったように、ヤンの彼氏のメールアドレス宛にメールも書いた。返事はなかった。3週間だけの友達だったヤンのことを、私はずっと忘れない。ヤンが時折見せた16歳としてのあどけなさや、純粋さや、心の葛藤も。あれから10年。ヤンは今、どんな大人になったのだろう。今、ヤンが元気で、幸せであってほしいと思う。
2011.06.07
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