CAPTAINの航海日記

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2006.12.16
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テーマ: 鉄道(22041)
カテゴリ: 鉄道忌避伝説
またまた鉄道忌避伝説ネタです。くどくてすいません(苦笑)

宮城県北部も、東北本線敷設にまつわる鉄道忌避伝説が残る地域です。私の知る限り、大崎市古川をはじめ、涌谷町、大崎市松山など歴史ある町に、強く残っているようです。
確かに、地図で見る限り東北本線は奥州街道(国道4号線)のはるか東側の人口希薄な地域を縦貫しておりかつこれより遠回りのルートになるため、その限りでは、伝説に正当性があるように見えます。
しかし、東北本線の敷設の歴史を細かく調べると、1887年に仙台ではなく塩竃(現在のJR塩釜駅とは別物で、1997年に廃止された塩釜線の塩釜埠頭駅のこと)まで開通してから3年後の1890年に仙台~塩竃間の岩切から一ノ関までの区間が開通したのであり(ただし、岩切~品井沼間は現行の路線ではなく利府経由の路線(1962年廃止))、仙台~塩竃間の既設線上に分岐点を設けた方が建設上都合が良かったことが推察できます。また、仮に仙台駅から分岐していたとしたら仙台市中心街の用地買収に手間取ったであろうことも、奥州街道沿いのルートが避けられた一因であるでしょう。
でも、最大の理由は、宮城県北部では河川が東西方向に流れているケースが多く、従って南北に連なる奥州街道沿いの地域は河川と河川の間の丘陵が連続していたという地形的な背景ではないでしょうか。仙台から順に挙げると、仙台市中心部~丘陵A~仙台市泉区七北田(七北田川)~丘陵B~富谷町・大和町(吉田川)~丘陵C~大崎市三本木・古川(鳴瀬川・江合川)~丘陵D~栗原市高清水(小山田川)~丘陵E~栗原市築館・金成(一迫川、二迫川、三迫川)~丘陵F~栗原市金成藤渡戸(金流川)~丘陵G~栗原市金成有壁(有馬川)~丘陵H~一関市となる訳で、明治中期の鉄道敷設技術では、これだけ丘陵が連続する地域は敬遠されても仕方なかったでしょう。
逆に、東北本線のルートならば、上記の丘陵のうちA、D、F、Gは完全に回避可能であり、C、Eも河口に近くなる分鞍部の標高が低く、従って勾配も緩和されています。もっとも、この理屈でいけば松島から現在の国道346号線~国道398号線のルートで敷いた方が涌谷北方の箟岳(ののだけ)以外に丘陵はなくなりまた涌谷や登米市佐沼などこの地の主要都市を結ぶことが可能と思われますが、これだと遠回りになり過ぎます。従って、現ルートはやはり「選ばれるべくして選ばれた」と考えざるを得ないのです。
ただ、このルートでどうしても気になって仕方がないのが、駅の設置場所。この区間の東北本線が開通した当時の駅は、既存線との分岐点となった岩切をはじめ、松島(現在の松島駅とは別物。現在のJR愛宕駅の西方約1キロの地点にあり、1962年廃止)、小牛田、瀬峰、石越、花泉、一ノ関でした。ちなみに、この区間の駅間距離を示すと、仙台~8.1キロ~岩切~約20キロ~松島~約19キロ~小牛田~12.8キロ~瀬峰~15.7キロ~石越~7.7キロ~花泉~13.9キロ~一ノ関となります(岩切~小牛田間の駅間距離は旧松島駅の正確な位置を示す資料が手元になかったので、推定で記載。なお、同区間の距離は39.0キロ)。当時の駅間距離は10~15キロが標準だったから、岩切~小牛田間の駅間距離がやや離れ気味なのが若干気になります。
当時の駅間距離が何を基準にして10~15キロ程度としていたのかは詳しくはわかりません(一説には機関車の加速性能を考慮してのものということだが… ダイヤグラムとの関連もあるのではと個人的には思っています)が、東北本線を敷設した当時の日本鉄道はこの原則を頑なに守っていて、1887年に開通した栃木福島県境の黒磯~13.4キロ~豊原~11.5キロ~白河(ただし、距離は1920年に線路の付け替えが行なわれて以降のもの)や1891年に開通した岩手県北部の沼宮内(現・いわて沼宮内)~12.4キロ~中山(現・奥中山高原)~15.4キロ~小鳥谷~11.0キロ~福岡(現・二戸)(厳密に言えば、この区間は1891年9月の開通だが福岡のみ同年12月の開業)といった例があったように、駅間距離を守るためなら黒田原や一戸などそこそこの町でも平気でおっ飛ばして人家の少ない地域にに駅を作ることもいとわない傾向があります。
であるならば、岩切~小牛田間においても、例えば、岩切~約10キロ~利府町赤沼(現在の三陸自動車道松島海岸IC付近。なお、ここには1913年以降信号場が所在した)~約15キロ~品井沼~13.4キロ~小牛田と、駅の設置場所を調整することは難しくはなかったはず。が、それがなされなかったということは、どういう事情によるものなのだろう? 個人的には、ちょっとした謎です。





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Last updated  2006.12.17 12:47:15
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