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「裸のランチ」にも程遠いが一応麻薬映画。この中でLSDやりながら自画像を描いた男やバロウズそっくりの神父(勿論ヤク中)などが登場。70年代、ヤクを得るためにドラッグストアを襲撃することを繰り返す男が、仲間がベッドに帽子を置くという悪いジンクスをもたらしたことからツキが落ち、やがて更正するという何のことはないストーリー。不満を言えば、もっと観てる側にもヤクに浸っている疑似体験みたいな気分を味あわせてほしかった。アメリカ行ったらヤクやりながら詩をものしたい私は一時期ビートニクづいていたのだ。(芸術至上主義万歳!)私が興味あるのはヤクによる退廃と想像力。ランボーも似たようなことしてたんだからね。私はまだ芸術を捨てきっていないのでいつかは復活するんじゃないかな。
2004/11/29
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見た目とタイトルに騙されてアダルトビデオつかまされた。しかもやおい。ハリウッドのコーナーに普通に置かれていたのだ。クソ!悔しいから別のレンタル屋でマトモそうなの借りてきた。別にゲイ死ね!とか思ってないよ全く、それどころか大歓迎(変な意味ではない)。ただまともなエンタテイメント映画が見たかったんだ、本当だよ母さん、信じてくれよ!そういうわけで前から気になっていた「17歳のカルテ」を観たんだ。露骨に無理のあるストーリー展開には「地下鉄のザジ」以来、免疫になっていたので特に抵抗はなかった。全体的に見れば、ソフトな厭世観に裏打ちされていて楽しめた。前向きだが現実妥協的なラストには複雑な気持ち。ただ、顔を石油で焼いた女の吐いた「私は醜いわ(だから誰もキスしてくれない)」にはやられた。はっきり言って名言だ。拍手を送りたい。役者の外見以外は変な美化は施されていないのも共感できるポイントだった。その他、示唆に富む箇所が散見される。私も自殺する時は音楽を流したい。その時は迷わずモーツアルトのレクイエムにしよう。神にひたすら懇願するしか他にない荘厳で美しい曲に乗って旅立とう。そうして死すべき生命のほとんどがそうであるように地獄でダンテとヴェルギリウスに会うのだ。ああ自分のために涙を流すもののない人間は二人になんと声をかければいいのか・・・?私もウィノナ・ライダーみたいにノートに落書きしてみようかな。でもジョン・レノンも幻覚見てたんだね(アメリカじゃ当たり前か)。
2004/11/28
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無数の子供の手が私の股間に触れているという体感幻覚に悩まされながら目を覚ました。以前の無数の手が四方八方から皮膚をつねって痛い思いをしたのに比べれば、セクシャルで気分の悪いものではない。夕刻、みのもんたの番組に美輪さんが出演していた。彼、いや彼女は特殊な存在で面白いと思う。いわゆる「オモシロ人間」の類に加えられるだろう。番組の中でオモシロさを存分に発揮していてたまらない。(注意しておくが別に小馬鹿にしているのではない。その逆だ)彼女は灰色のビルや若者の破けたジーパンなど、環境の劣悪さが犯罪を大量生産しているという特に目新しくないことをおっしゃる。だがこれには私なりの知見によれば根拠がある。精神的な荒廃を感じさせるようなファッションや音楽の制度化されたノイズ、つまり現代まで排除される傾向にあった情報が正式に社会でのランガージュを確立されるとそうした騒音的な表象が内部に浸透して内側から乱れた作用をするからだ。これは動物の摂食活動のメカニズムから説明できる。動物は五感から得られる情報によって環境のモデルを形成し摂食活動のための経験的な賦活を作用させることに結びつく。だから、目から入るノイジーな情報が相応した反応を、つまり犯罪などの荒廃した反応を起こさせることになるのだから、彼女の言にもそれなりに根拠がないわけではないのだ。それでも私は普通にニルヴァーナを聴くのが好きだし、荒涼とした小説も読む。暗い絵も描く。別に問題はない。趣味の問題だと言えばそれまでだが、私も社会の病理の落し児なのかもしれない。(こうして私は今日も逃走する・・・)テレビを見ていると部屋に入ってきた弟にぼやかれた。「この寄生虫が!」
2004/11/26
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友人とハローワークに行った。事務員の女性が応対した。労働者の自負か、こちらを一瞥して不適応者と見抜いたのか、登録用紙の記入漏れを指摘するその声質は変に乾いていて蔑みと嘲り、慢の気配が匂う。彼女の細やかな視線の向こうに、排除のイメージ。それにおびき出されて立ち会うように、敗者のイメージが脳裏に胸糞の悪い種を落とした。やがて二つのイメージは私の寂しい小指にかわいらしく結び付けられ、帰り道、苦虫を噛み潰した亡霊が私達の間に同伴していた。そうして落とされた種は、この先、私の就職活動に二次的な不自然さを花開かせるのだろう。ところで、この日記が家族に見られてしまった。見た直後の反応はニンマリ不自然な笑顔。後で問いただしたらもっと正しい道に適った文章を書けと。いったい、何がどう正しくないのか?もっと読む人を気持ちよく清らかにしろということなのだろうが・・・。何か違う。それでは嘔吐物ではなくなる。別に嘔吐でなくったっていいかもしれないが、今の私の目には自己疎外と映る。だが今の自分は本来の似姿にもならないのだろう。それはわかっている。根にはいつ接触するのか。内部の裂け目から飛び散る光はどんな色をしているのか。ほんの少しだが憧憬は拭いきれない。
2004/11/25
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最悪の絵を描いた。やはり三年間のブランクは大きい。モデルがいないとうまくいかない。タイトルは「キルミー」勿論自殺アート。たち現れてはすぐに消えていく表象たち。そんな中に、滞りながら自らを露出しつづける表象がある。反ユダヤ感情の構成素となる血反吐を産出し続ける日常システムとの相互浸透によって閉塞した意識が偽りのない錯誤を私に迫ってくるのだ。私は見ることをやめない限り、持続する身体の根に(それは世界の根でもある)たどり着けないのだろうか?つまり私を停止させるということであり、解放なのだ。画用紙に嘔吐しながら次の表象を白紙のままにしておくことがどんなに快感であり、かつまた耐えがたいことか!
2004/11/23
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逃走せよ!逃走せよ!プロフィールにネオプロレタリアとあるけど、要するに現行の日本の体制を改革して完全雇用制を立ち上げようとか思っちゃったりして第二のケインズを期待しているものの、現場でなんて働く気毛頭ないので矛盾するわけなんだけども、そうした矛盾を抱えたままハローワークに足を向けるのをめんどくさがって本屋にだけは足繁く通いつめるのもまた乙なもんです。一日中だらだら過ごしているもんだから、家人からは働く意志がないものと当然のように見なされているので、ひどく肩身が狭かったりする。かように夢想している割には革命というものを否定している。例えファシズム体制のもとにあっても多分、レジスタンスにはなるべく関わらないと思う。別に逃げているのではない。そういう思想背景にあると思ってくれればいい。弱者の論理だと言われようがなにされようが、私は国家のカルマの背後にある名状しがたい意味の輪郭をを、恐れからではなくあるがままに生のただ中で描いていこうと思う。それが無駄なものを省いたあるべき姿なのであり、感情論では不必要な遠近法のまにまに全てにベールを被せてしまうから。私はあえて暴力という言葉を使わない。こんな手垢にまみれた語彙では私の求める意味を裏打ちできないと思ったからだ。そういうわけでサルトルもカミュも私から遠ざからざるを得ない。ああ、それにしても誰か私に仕事をあたえてくれないかなあ。
2004/11/22
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新札発行記念に上演されるという樋口一葉の作品を観にいった。本劇の演出家とは先来からの知遇を便りに小道具をさせていただいたことがあるので興味があった。上演されたのは「たけくらべ」と「おおつごもり」の二作品だったが、前者は朗読もので、内容が美人への憧憬という手垢にまみれた題材。後者は劇で、こっちが本命なのではないか。こちら側は、大晦日というひとつの舞台装置を介して始めはなんのコミュニケーションもなかった二項が、社会批判の原風景である片方の事件を成立させるための要素を利用することで自立した別の事件に観察者の視点を絞るという巧妙なストーリーになっている。私は残念ながら原作を読んでいないのでどこがどう脚色されているのかわからないが、これを書いた人は相当なストーリーテラーだろう。演出家は新劇の写実主義に影響されているということだが、主人公の、井戸からくみ上げた水を桶に入れて運ぶ(実際は桶には何も入っていない)姿は観客を驚かせた。歩き方やわずかなしぐさで本当に水が入っているように見えるのだ。なかなか演劇もあなどれないと感嘆するのでした。モノクロ時代の樋口一葉の伝記映画をテレビで見たことあるけど、いじめ、失恋、文学となかなか見ごたえがあったのを思い出す。ドラマ化された方は見てない。
2004/11/21
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霊夢を見る。またいつものように讀経している奴だ。殺人宗教がとんでもないことしてくれたおかげで、波及効果。早く私の体から被害者さんの霊がでていってくれないかな。私には関係ないし。人類大虐殺を妄想しているとこんな目にあうといういい霊、いや例だ。この世には醜い人間しかいないんだから地球上から一掃してしまえなどと心にもないこと考えていたけど、本当はシステムにコントロールされていただけなんだね。そのシステムが私の付属物だというわけなら、37564計画も真実じゃないんだね。友人の言う世界に真実がありえないのは、私のせいなんだと早く気付くべきだったんだ。ありがとう(・・・と誰にともなく言う私)。
2004/11/20
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「太陽の季節」を読んだ。これは当時の革命だったが、いまではテレビを見ればわかるとおり、ステレオタイプに成り下がっている。個人的には内容の男くささが感情移入を阻んでいる。主人公のモデルとなった裕次郎には自己破壊的な魅力があったが、男くささ、汗臭さにはついていけないものがあるのだ。私には、青白い顔をして詩を読んでいて、運動会が嫌いで、大江健三郎のように毎朝登校するなり同級生に殴られ、泣きながら「なにするのやめてよ」と言ってはまた殴られ、あるいは犬が小学生のギャング団に嬲られていても見て見ぬふりを決め込みながらそっと横を通りすぎ、後で決まって「ああなんて俺は屑なんだああ」と嘆き、反省ばかりしているわりには同じ失敗を繰り返す(ほとんど自分のことだったりする)、そんな奴に親しみを感じてしまうのだ。こんな私は女の腐ったのであり、諧謔的なかっこよさを見出してしまうというある種の病に冒されている。慎太郎が新世代の若者を弟に見出すなら、私は別にそれでもいいが、私のような若者も確実に存在していることをわかってもらいたい。
2004/11/19
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石原慎太郎の「弟」を観る。ドラマの中の裕次郎は退廃的な素顔をのぞかせていた。(ていうかあれ本当に実話か?)彼の意識の空洞には誰にも触れられないような悲劇が幅をきかせているのかもしれない。彼は、その苦悩の投影に当たる括弧つきのリアルを透明な力で握り締め、その握力に任せて生存していたように思う。少なくとも俳優になる前の彼はそのように描かれていた。勿論、彼の描いた絵や詩(いやコメントか?)には魅せられた。画力を無視すれば、なかなかよいセンスをしていると思う。これは個人的な趣味の問題でもあるけれど、ああいう病んだ社会の嗚咽に似たリアルさが、実際的なやさしさで心をレイプするものが強く訴えてくるのだ。彼が彼の境界の侵犯者を片っ端から拒絶する透明な握力に私もくしゃくしゃにしてもらいたいほどだ。今まで彼のことをただの大衆受けのする陳腐なスターぐらいにしか扱ってなかったが、このドラマで考えが変わってしまった。裕次郎さんどうもすいませんでした。慎太郎さんありがとう。
2004/11/18
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今日は絵を描いていた。テーマは自殺アート。私の絵は後からこのテーマに数えられたものが少なくない。この反吐生活のただなかで失われがちなレーゾン・デートルを昇華した嘔吐物。coccoの曲がうんこならわたしのは消化しきっていない嘔吐物。木村千穂のような大げさにならない程度の気分悪くなるようなものが描きたいわけではない。いや、わからない。結果的に見るものの気分を害したとしても、反対に私は喜ぶような気がする。ただはっきりすることは、普通のテーマでは満足しないということ。それでも血だらけの少女などの大げさな絵では納得しないだろう。私の感性はそんなに単純にはできていないから。美術の学校に通っている友人の話では、学校というイメージから、きっと上手な生徒ばかりだろうと思いきや、そうでもない。友人や私は彼らの中では上手なほうらしいので、ちょっとだけほっとするのだった。
2004/11/17
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昼間、何度も体感幻覚の手が眠りを妨げて、しまいには私の股間に手をのせてきた。感極まって馬鹿と罵ったら、唐突に透明な腕が視覚化されて、怖くなった私はすぐに起きてしまった。薬が効かなくなっているようだ。もっと飲まねば。
2004/11/15
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今日から日記を始めることにした産業廃棄物です、よろしく・・・と誰にともなく挨拶・・・。この前、神田祭で入手した戦時体制版の「我が闘争」があまりにおもしろく、つい、総統の写真を部屋に貼ってみた。別に共鳴を感じたからではない。逆鉤十字を腕にした軍服姿の総統が私の反吐生活の気付けになるのではと踏んだから。ところが二日後の夜、見知らぬユダヤ女が上体を崩しているという幻を目撃。以前から、自分の読んだ本の著者の霊幻覚(霊夢みたいなもの)の訪問を受けていた私はその翌日、すぐに総統の写真をゴミ箱にすててしまった。これでよかったのだろうか?
2004/11/14
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