2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全6件 (6件中 1-6件目)
1
友人と柴又へ行った。矢切の渡しは山本亭や寅さん記念館共々休みだったのでがっかりした。実は友人の同級生のライブの始まるまでの時間潰しだ。それまで暇なので次に浅草へ寄ることにした。行っても喫茶店に入ってよもやま話に明け暮れるだけなのだが、まあそこは乙ななもの。それでもまだ時間が余るのでついでに上野まで歩いていった。といっても、古本屋に入ったり不忍池をぶらぶらするだけ。私はここで脱糞した。次に目白へ行き喫茶店に入った。友人から私は我が強い、こだわってばかりだと言われたのでこだわらずに受け入れることにした。それから考えて、あるがままの等身大に生きることにした。実験してみるといろいろと気持ちが楽になり、今まで見えてこなかったものが見えてきたみたいだ。自分以外の存在が際立つと共に、アウトサイドなアウェアネスに導かれる自分がいた。そうかこれが等身大というものなんだ。彼は私に、身体に慣れろと、身体に慣れた生を営むべきだという。社会を呼吸してみればいろいろなものが見えてくるはずだと。今までの私は観念に身体を奪われていたのでそういった言葉は新鮮に感じられた。この世には二通りのもの、事実と真実があり、私は真実のみを追求しすぎた感があるとも言った。事実と真実は表裏の関係を結んでいるにもかかわらず、私は事実というものを見失っているらしいのだ。だから私の言うことにはリアリティが欠けている。社会という一つの事実を思い切って呼吸すべきなのだ。ライブでは私は音楽だけで占められていた。それは私に身体を取り戻させるイニシエーションの役割を担っていたはずだったが、私はただ単独者になっているだけだった。視界のなかに入り乱れる影は数え切れないくらいであり、ただそれらを全て受け入れるのだ。すると「影」は「陰」となり、私のなかに入り乱れる記号の数々を覆ってしまった。結果、私はライブの感想を聞かれて曖昧にしか答えられなかった。ただ「事実」だけが私の五官に触れて離れないばかりなのだから。
2005/02/28
コメント(0)
夕刻、急に友人から電話があり、映画に誘われた。行き先の渋谷のユーロスペースで判明したのは、すが秀実という自称小ブル急進主義者のニューレフト映画。公共の電波に乗せられない「お話」をしてくれるというので興味本位に入館した。冒頭から早稲田の学内闘争の映像が映し出されたのはいいが、当のすが秀実が狂乱しているではないか。意味不明に吼えながら男に嫌がらせしている秀実。大丈夫かこの人?しかも三無主義(無秩序・無思想・無セッソウ)を肯定する始末。私はすぐに不快感を催し出した。映画自体の内容は六十八年安保闘争の時代から変わらないままの自分について語る彼や、その他当時活躍した識者達のよもやま話を聞かされるのだが、レベルが高いせいかうまく把握できないまま結局六十八年安保闘争ってなんだったのかはっきりせずに館を後にした。その日は店で一杯ひっかけてから友人の部屋に泊まることに。帰り、三省堂に寄ってみると偶然にも件の映画のネタ本発見!次回観る予定の第二部も含めて理解の種にしよう思い購入したのであった。声で聞くより文のほうがわかりやすいことがわかりほっとした。
2005/02/26
コメント(0)
進化の波には二つある。第一の波は競争原理。資本主義はまだ途上であり、これのみをテーゼとすることは真のダーウィニズムに反する。第二の波は相互扶助。クロポトキンはこれこそ進化の前衛と見た。しかし無政府状態においては退行現象と見られる危険性があった。発展途上のムラ社会のような裁判外調整システムがこれに該当し、大衆という匿名権力の猛威を予感させるものであるからだ。私はここに第三の波を見出したい。そのテーゼは一言で表現するならば、「あなたが誰かの信じられるリアリティとなるように、そしてまた、その人の中に眠るリアリティのしもべとなるように行動しなさい」。これこそ真に進化の前衛であり、第二の波の問題を大きく乗り越えている。つまり、これを実践に移した場合、暴力革命もレジスタンスも必要とせずに苦痛からの解放をうたうであろう。弱者の論理だとか自己憐憫だとかいう批判は尽きないと思う。そういう批判を浴びせる者は大抵平和を願っている。その延長線上に闘争を認めているのだ。だが実際には平和はわれわれ自身のうちになければありえない話だ。われわれは世界だけを平和にしよう、あるいは世界がなければわれわれはありえないなどと言う。そうではないのだ。われわれが世界を汚しているという事実を受け入れろ。自分と世界の間に境界を引く手を止めろ。そうしなければ平和は名ばかりのものに過ぎないままだろう。 この本は水平社と部落民の抵抗運動を扱い、彼らの勇ましい姿を高らかにうたいあげている点でまだ発展の途上にいるのを免れない。別に私は彼らが間違ってるなどと断言しているのではない。ただ、ラジカリズムはしばしば退行現象であることを仄めかしたいのだ。 小林よしのりは「ゴーマニズム宣言」の差別問題をテーマにした巻の中で、部落フェスティバルなるものを空想し、沖縄出身者が若者の共感を持って迎えられて芸能界で活躍する現状を踏まえ、いつか部落出身者がそれにとってかわることを願っているように見受けられる。私もそれは面白いのではないかと思う。支配層のノイジー・マイノリティーであった彼らのイメージと社会からの扱いを完全に転倒させる試みは彼らの本当の解放へと繋がるかもしれないではないか。徳川時代以後の差別システムはそれ以前のシステムを含めてわれわれにフィクションの一部を刷り込んだ。かがり火によってつくられる自分の影とにらみ合いながら洞窟に拘束されていることを自覚する努力は、すべてのフィクションから解放されるための努力は報われる時がくるのであろうか?
2005/02/23
コメント(0)
主人公の姿を借りたヘッセの宗教体験がゴータマ・ブッダの涅槃とパラレルになっている。ストーリーの軸となる川のメタファーは、そのまま私達人間の条件となるシステムによって構成されたフィクションからの解放をうたっているが、これは鈴木大拙やクリシュナムルティからの霊感だろうか?オルダス・ハックスレーが言うように、「時間」は暴力の中心テーマであることは様々な宗教の歴史を振り返れば自ずと気づくことであり、この小説の主人公が自らのアウェアネスに隔てられた世界をあるがままに享受することを発見したのは単に心理的な価値観からでなく、彼の内面の投影である「永遠」をサハー世界に露呈させたところにうかがい知れるだろう。彼は言わば器であり、その中に注がれたものが汚水であろうが清浄な水だろうが無条件に満たされるに任せるのであり、それによって彼はいかなる変化もこうむらず、ただじっと寂静を守るのみなのである。ヘッセは各々がそれぞれに違った過程と雰囲気のなかで相似のものを悟ることを、悟りは人の数だけ道があり、誰にでもその可能性は開かれていることを暗示して締めくくっている。私は始めてヘッセを読んだのだが、詩人を志していたという、そして実際詩人でもある彼のレトリックの美しさと思想の深さ(彼のオリジナルでないにしろ)に陶酔させられた。ヒッピー達は彼の本をよく読んでいたらしいがこの小説は彼らを追体験する絶好の書として特に挙げられるかもしれぬ。ということを言うためには他の作品も読まねばならないだろうが。
2005/02/18
コメント(0)
自己変革の書にカテゴライズしていいと思う。でもガーンディーは偉大だがそれだけにつめが甘いところが残念だ。別に徹底的にイギリスと闘えと言うのではない。彼のいう慈悲の実践が軌道を逸れているというのでもないが、真に宗教的になるには彼はあまりに祖国を慈しみ過ぎた感がある。宗教を政治的に具現する試みは政治性というものの解釈を歪ませているようにも思える。宗教は政治性という舞台装置を借りてそれを乗り越えるものであり、彼の極端とも思える思想は慈悲の性格を正確に言い表していないのではないだろうか。 そういう意味ではこれを自己変革の書とするにはまだまだかもしれない。彼は自己への暴力を通してインド独立を実現したのだから、真に非暴力主義ではなかった。サッティヤーグラヒーであるには極端に過ぎたのだ。自己の置かれた環境を清浄なものとするためには自己が清浄にならねばならない。彼は無批判を徹底した。だがそれはすべてを受け入れるまでには至らなかった。彼は奴隷になるべきだった。一切を包摂する力に身を委ねることこそ真のサッティヤーグラハであることを証明すべきであったのだ。
2005/02/17
コメント(0)
この手の仏教書はナンセンス色の濃いものが多いので敬遠していたのだけど、ナーガールジュナの作品の註釈だし、少しく興味をそそられていたこともあった。ヴァスバンドウの唯識論の印象が強すぎたのも理由のひとつ。読んでみたら納得しかねる点がやはりあった。それに個人的な思想上折り合わない。これは空について極端に説かれているのだが、その哲学的な傾向がよくない。私は、ゴータマは執着を断つ方便として空を説いたというラジニーシの説に賛同しているので、哲学的な極端論で推し進めるのには抵抗があったからだ。それに不変の本質を観念的に信奉しているので、自性を否定する論調にはついていけないところがあったのだ。でも勉強にはなったかな。友人に宗教を否定する人が多いのでこういう本を読むのはひどく肩身が狭い。でも倫理と自己変革を研究するには必要なので読まねばならないだろう。
2005/02/04
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1


