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「夜と霧」の中である実存主義心理学者は書いている。ナチスの強制収容所から解放された途上、他人の畑を踏み潰そうとする男がいた。ナチに迫害された者は非道徳を許容されるという錯覚に陥った男の行為を見て彼(実存主義心理学者つまり著者)はたとえ何らかの被害を受けた者でさえもこのような道徳に反する行為は許すべきでないと考え男を制止した。被害を受けた者の暴力がそれだけで正当化されるものでないならば、被害を蒙らせた側たとえば人を殺した者が逆に殺されることへの共感は道理に沿わぬものであることになる。これはパレスチナ問題のイスラエルの行為が過去のナチからの迫害によって正当化されている側面が存在することと軌を一にする。人を殺した者が殺されることに大衆が賛成するという歌がある。その曲をカラオケで歌った友人との話題に上ったのがこの件だった。話の流れで死刑制度の是非について語り合った。私は死刑はもう一つの殺人だと思う。ただ、死刑の執行者が法治国家という抽象的な非在者をバックグラウンドに持っていることと、大衆の復讐心の正当化によってなんの疑問も呈しないものにされているだけである。彼(死刑囚)が殺される時、執行者(法治国家)は一種の暴力によって解決を与えているのだ。アンナ・ハーレントは言っている。「暴力は正当化できるが、その代わり正統性はない」と。つまり暴力は異端なのである。正統性をもって任じているはずの国家は、あろうことか排除すべき異端性によって法を編み、実行に移しているというのである。法は「敷居」をテーマにしたルールである。これを基にして法が増加し、道徳感が賑わいを見せるのは正しいことなのかどうかは定かでないが、よくニュースで復讐心をたぎらせる被害者の遺族が映し出されるけども、彼らが感情論で法を認識している気持ちは分からないでもない。実際、彼らの感情が裁判に反映されることに対しては別に疑義を呈するつもりはない。それが極端に感情移入された判決でない限りは。だから私は歪んだ社会の典型をこの制度に見ている。もちろん肯定論者は納得のいくような理屈を控えているのだろう。私も以前は彼らの側にいた。だが今は個人的に否定せざるを得ない思想的境地に到達しているので疑問がある。感情論だけでは意に沿いかねる。まあこの制度は感情的に作られたものではないが。
2005/03/21
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短編。映画「レフト・アローン」に登場、引用されてしたので、たまたますでに手に入れてたのを読んでみた。内容は映画のカラーでもある共産主義のパルタイに入った女性のドロップアウトするまでの話。最終的に暗黒系で収まる印象があった。作者は主人公の恋人に共産主義社会の暗部を、負の面を負わせて投影している。彼との確執やレイプ体験を経ることで彼女がそこから逸脱するという解決を与えているのは物語構成のクリシェだろう。特に感想は出てこない。エンゲルスが著書の中で女性の抑圧問題をあつかっているところを見ると、作者は共産主義という舞台装置を借りて、その内部矛盾を抉り出したかったのかもしれない。作者自身が性の問題を意識した部分もあるのではとかんぐりたくなる作品だった。
2005/03/15
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団鬼六原作の70年代作品ということだった。実際には原作と大きく相違するらしい。ストーリーは、少年時代の原体験から母権制の支配を象徴するインポテンツになった男が登場する。おそらく彼が「蛇」なのだろう。そして会社の社長夫人が「花」として表現されている。この物語は大まかに言うと、社長の父権制と男の母親の母権制の二項対立形式であり、偶像の破壊行為によって父権制の仮構された勝利が提示される。敗者である男の母親も仮構であり、もう一つの隠れた母権制である社長夫人の裏返しにされた勝利によって、つまり、破壊された偶像である彼女が裏返しに偶像化されるまでの過程をコミカルに描かれている。最終的に男は彼女を支配しようとして気づかぬうちに支配されていたのである。エロスはこのような転倒した権力構造を炙りださずにはいない。勝利の二重の仮構が権力の強烈なパターン化とコントラストを演出し、男のオナニーの終焉(=インポテンツの終焉)による一つの解決を与えられながら、エロスの計算しつくされたストーリーが完成する。初めは社長夫人が可愛そうに見えるのだが、観進めるうちに、彼女にのめり込む二人の男(主人公と社長)に哀れみをかけたくなった。観念的に計算されているという意味で、どんなのか聞かれれば説明しやすい。これを書いた脚本家はよほどのストーリーテラーだろう。
2005/03/10
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リアリティに忠実であることと、競争原理、相互扶助とは肌合いが違う。後者は制度だが、前者はそのうちに含まれる構成素であり、このことは、後者のどちらの制度下においても前者は適応できることを意味する。つまり、「リアリティに忠実である」いわゆるリアリストは資本主義者でもあり、あるいはアナーキストでもあるのである。もっと踏み込んで言うと、構成素であるリアリストは、自己を内に含むことのできる制度ならなんでも受け入れる用意ができているということになる。 彼、リアリストは共産主義者でもいいわけだ。クロポトキンによれば、正統なダーウィニズムは競争原理よりも相互扶助により高い適応力を見る。というのは、競争原理に比べて相互扶助のほうがずっと多くの個を生き残らせることができるためだ。そしてそれとは肌合いの違うリアリストは個々別々にどこでも適応するのでこの両者は各々別に論じなければならない。ここではリアリストについてもう少し見て行こう。リアリストの国家が可能であるとするなら、それは高度に適応力のある人種の国家であろうか?実はそうではない。彼らの個数つまり人口比率が高じるにつれて適応性が逓減するのである。彼らは少数であることによって厳しい環境に適応することを覚える。これは人間関係(世界は相互依存の体系であり、これはその一環だ)のなかで自己を強化していくことを意味している。そして類似の個体が増加するにしたがって、人間関係の動態は静止点へと収斂していきこのときまさに静態の国家が現出する。これが私のユートピアである。リアリストは相互依存に適応することで他者のうちに隠されているリアリティのしもべとなり、自らのリアリティを磨きだす。そうした社会では革命なんておこらないし、レジスタンスも必要ない。かつてベルジャーエフが「ユートピアはアンチユートピアだ」といったらしいが、この社会においてはそんなレトリックもみられないだろう。不満をもつ人間がいないからだ。なぜなら彼らはリアリストだから。
2005/03/09
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母権の圧制下にあり、成り行き任せに信じられる相手を遍歴し、軟弱で未練がましく悩んでばかりいる女々しい主人公。ううう、まさにこれは私のことを書いた小説ではないか!自分の姿を見ているようで腹立たしいやら親しめて嬉しいやらどちらともつかない気持ちで一杯になりながら割と楽しんで読めた。こういう文学を私は探していたのかもしれない。自分の分身が主人公の小説を。設定も学園紛争だし、探していたものにぴったりだ。というわけで、もしも自分が田舎者で六十年代の東京の大学に入学してたらこうなった、てなことになってる。気が弱いばかりに散々な目に会うのだけど、そこが自分そっくりで支持できるような気がする(いいのかそれで?)。解説者のような深読みはできないのでこんなところで勘弁してください。
2005/03/08
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私は映画から入っていった口なのだがこれが実話に基づいているとは思わなかった。もちろん映画自体はかなりの範囲脚色されて原作は見る影もないのだが。おそらくクネンの理想としているであろう非武装闘争は歓迎する。時にはしなければならない時もある政治活動に賛成かどうかは保留しよう。最近の自分の読書傾向が六十年代をテーマにしているらしいことに気づき始めた時、つまり適当に読みたいものを選んでいるうちに自覚するようになった時にはすでに手にしていた本であり、以前から気になっていたものをたまたま神田において見つけたのだ。本書の中でクネンはやたらとベトナム戦争に対する憎悪をあらわにし、革命、革命と、あるいはラジカル、ラジカルとそればかりをつぶやく。おそらく彼は無血革命を希望していたのだろうけれど、今の私には空虚なものに聞こえてしまう。この本はコロンビアの大学紛争から始まる。が、途中で彼に恋人ができてから様相を変えていく。退屈になり、することのない彼は日記を本にして儲けるために自ら活発に行動しだす。だが、彼が本当に何もすることがなくなるのは戦争が終わった時だろう。彼は言う。「戦争が終わったら僕は何をすればいいのだろう?」要するに学生運動とはひまな奴がするものということなのか?有り余ったエネルギーを発散するいい機会なのか?ものを考えるということは暇なやつの特権だろう。かといってどうでもいいことを彼らは考えていたのでもなかろう。彼らはことある度に革命という。革命は英語で不可抗力に起こる循環という意味があるが、それを不可抗力にしてしまっているのはわれわれなのだ。なぜ循環と呼ばれるのか考えてみればよい。われわれは歴史に意識を乗っ取られているのか?ごめんなさい、そんなことはどうでもいいですね。
2005/03/07
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いやがらせの好きなスガ秀実が識者達と饒舌に語った映画の書籍版。友人に言われてなるたけスガを理解しようと努めたのだが彼はひどく楽観的で、現実から遊離している節がある。六十年代から代わり映えのしない革命家気取りのところや、どう贔屓目に見ても暗さばかりが漂う日本の現状を踏まえての先ほど言った楽観論なんかが気になり読み物としては面白いのだがそれ以上に彼の個性が輝きすぎているきらいがあるのは否めない。映画では三割程しか流れない対話を長く楽しめる部分は認めてもいいのではないか。副題が『持続するニューレフトの「68年革命」』とあるところからも、この本(映画)にはスガの夢追い人の様相を捨てきれない悲哀が刻まれていると言ってよい。堂々と「革命」と銘打ってあるところからもその悲哀が強調されているように思える。彼を大人になりきれないロマンチストと呼ぶべきなのだろうか?錆びの付いた「革命ごっこ」に乗せられて一人で馬鹿を見るのは誰なのだろうか?読者か?情熱は若さだけに許された病である。そして彼は若くない。この神聖化された病を抱く者達の中に混じっている霜の降りたロマンチストをドンキホーテとしてたたえるべきなのかどうかは知らない。ただ、われわれの世代は生まれていたはずのない当時を振り返ってセンチに浸っていればいいだけだ。
2005/03/06
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朝、目が覚めるとインフルエンザにかかっていた。頭がくらくらして起きれない。午後四時まで寝ていたが気分が悪いままだ。結局病院へ行くことに。死にそうになりながらも自転車をこいでいったのです。瀕死の思いで薬を飲んだ後、再び布団にもぐりこんで気づくといくらか楽になっていたので今こうしてpcに向かっているわけです。映画鑑賞のお誘いがあったが泣く泣く断ってまた寝たのです。今日の出来事はそれだけでお仕舞。
2005/03/04
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