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その時は、元気で、不良で、頭脳明晰とたまたま3拍子揃っていた。その時以外は大抵何かが欠けていた。そんな調子のいいときに、出会ってしまうと、メスはそのオスを躊躇なく選んでしまったりする。 見破るには数ヶ月かからない。魅力の減退ではなかった。匂いの違いであった。理性の糸は切れた。ヒステリーは絶対起こさないが、絶えずヒステリックだ。参った、参った、別れの言葉は参った。「腹、8分目で、ありがとう」少し疲れた感情で、疎外感を感じた時、言葉が欲しいと思った。しかし苦しくないのは、やせ我慢の為?まさか残り2割の余韻の為?別れた後も、見つめ合えるってつまらない。洒落た余韻など余計である。今日の晩飯http://www.osyare.biz/onigiri/index.ht_今日のDVDhttp://home8.highway.ne.jp/galzo/movie/shokusin.htm
2004.06.30
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何を隠そう、私は弱冠5歳程度の頃に2段ベッド上段デビューしたのであった。勿論下階は恋人の筈がなく当時弱冠2歳程度の妹であった。かくも子供は、意味のない場所やちょっぴり危ない所が好きであった。押入れ、風呂場の端っこ、裏庭のペットセメタリー、樫の木の上、屋根、埃たまりのする場所、陽の当たらない場所2段ベッドは勿論上段。 自慢しても仕方ないが、私は早熟にておねしょを克服したようだ。漏らした記憶がない。いや、小学3年の時に一度だけある。夢にちゃんと出てきた。放尿する夢だ。あれ程気持ちよかった夢は、その後の長すぎる人生においてもそうさらさらにない。目が覚めると、布団には、太平洋の真ん中にアトランチス大陸めいたものが湿って浮き出ていた。 自慢しても仕方ないのであるが、私は、大人になってから失禁はしたことがない。私の先輩はある。酔って意識失った人間があんなに重たいなんて。運んでいった後輩の車レガシーのシートは湿っておまけに変色していた。勿論先輩のジーンズの色も濃くなっていた。水分を含んだため先輩の体重が重くなった訳ではなく、恐らくは、もともと重たかったのであろう。家に送り届けると、奥様が血相を変えて現れ、グーで頬にパンチを10発以上食らわせたが、先輩は起きなかった。さすが渾名がスターリン(鉄の男)だ。ちなみグルジア人スターリンの本名はヨシフ・ビッサリオノビッチ・ジュガシビリ、それで、その先輩を今後、陰口で、サノバビッチ○○○チビリ(○○○は先輩の姓)の尊敬を込めて呼んでいた。 考えれば、スターリンやシュワルナゼ等はロシア人ではない。私はロシア語もチェチェン語もグルジア語も分らないので映像では普通に見えるが、生粋のロシア人からみたらそれは凄いロシア語だったそうだ。シュワルナゼ外相のロシア語の演説を日本語に直したら「ワタシ、この国、ダイスキ、ダカラ、守る、ネ」みたいな感じだったらしい。ソ連といえど、ロシア人にとっては侵略された気分だったのだろうか。 そうだベッドの話だった。2代目のベッドは、親のお下がりのダブルベッドであった。親は、ベッドがお好きではなかったらしい。使用期間は3年もない。やっぱり両親は相思相愛ではなかったことが予想された。しかし子供時代は今より敏感である筈なのに、両親がお互いどう思っているのか残念ながら気がつかなかった、いや関心がなかったか。我慢するとか離婚という概念はなく、いや、愛が分からなかった。しかし、それは今も学んでいない、是非、心ある方にご教授願いたいものだ。 まあ、それはさておき、小さな体の私にとってダブルベッドの広さは十分に魅力であった。ふわふわがたまらなかったし、まだ体が柔らかかったからか腰が痛くなるという現象もなかった。ベッドの下は空いている。ここは丸くなった埃と共に、何でもかんでも投げ入れていく禁断のスペースであった。数年後に探し物が出てきたりもする。 ダブルベッドには頭部に照明器具やミニ本棚がついていた。私は、寝つきの悪い子供だった。私は、文字ばかりの昆虫図鑑を広げてみる。 小学生1年のとき、クリスマスが到来し、近所の子供達十人くらいとブロック塀にまたがったりして歩いていた。そこに誰かの母が通りがかった。「みんなクリスマスプレゼントもらったの?」と聞いた。皆は、ワーワーいいながら「ブロックもらった」「プラレール」「ママゴトセット」「パチンコ台」「ぬいぐるみ」とか口々に叫んだ。叫ばなかったのは私だけであった。私のクリスマスプレゼントはほとんどが活字で占められた昆虫採集の本。「こんな文字ばっかりの読めるか!」私は子供心に憤慨した。私がその本を読めるようになるまでに3年と半年の月日を待たねばならなかった。 高校のとき、既にベッドのスプリングが馬鹿になってきたのを素早く母は察知したのであろうか、ある日、家に帰ってくると、ベッドの上に2枚の畳が敷かれてあった。これなら別にベッドじゃなくていいじゃんと私は危うく横浜弁を喋りそうになったが、真摯な母の姿を見て、敬意を表して一応黙っておいた。 阪神大震災の日は、数百冊の本の下敷きとなり、目の周りが内出血を起こし、パンダみたいになった。翌日市内にいくと、友人がいた。彼の店は潰れてなくなった。彼の家も潰れてなくなった。それなのに、道端で偶然あって、私の顔を見て「目どうしたん?」と心配してくれた。 その後、私は、天蓋ベッドになった。いや、私がベッドになった訳ではなかった。横にサイドテーブルを置いて、酒を飲むことを覚えた。前にテレビを置いて、WOWWOWをつけたまま眠ることを覚えてしまった。いや、シーツを換えるという健康的で文化的な最低限の法則も覚えたし、本を開いたまま裏返しにして寝てしまわず、ちゃんとしおりか指を挟んで寝ることも覚えた。教育的な日々であった。 そしてまたベッドを買った。マットは低反撥というので、それが気に入った。それを知るまで、ベッドは買うつもりはなかったが、私の体は、喜ばしいことか残念ながらか快楽でできているようだ。 何日も、駅で寝たり、泊めて貰った民家の地べたで寝たりして、固い所で寝たり、夜行列車や夜行バスで座ったまま眠るということは暫く経験すれば慣れてしまうものだ。しかし、またいつかパリッとしたシーツの上、柔らかいベッドに転がると、慣れるのに3秒もいらない。どれだけ、石の上で寝るのが慣れるのに時間がかかったと思っているのだ。眠くなるまで時間がかかったのだ。 インドではたいてい大きな駅には簡易宿泊施設を設けている。しかし、それに泊るののももったいなくて、駅でいっぱいむしろを敷いて寝ている乞食に交じって、蚊を避けるためにシーツに潜って横に寝てみたことが何度かあった。はっきり言って怖い。しかし、睡魔が襲ってきてうとうとして、はっとまた目覚めると、何故俺はここにいるのさあチャンチャラおかしいゼと、少しストイックになる。 ああ、これから、快眠で優美で耽美的世界に堕ちていきます。サヨナラサヨナラサンカクマタキテシカク
2004.06.29
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コペンハーゲンを散歩した 国内自給率百パーセントを達成し続ける国デンマークの首都コペンハーゲンを散歩する。コペンハーゲン子は北欧髄一の大都会だと自認しているという。実際街はそう大きくはないのだが、道が広い。四車線が主となり、気温も多少上がってきていることもあり、自転車軍団の大行進だ。平面の土地、環境問題への真摯な取組み、健康思考がそうさせるのであろう。駅の中にさえ、貸し自転車屋があった。ただ、勿論、ここも海に面した都市、風が冷たい。福祉の国、ビールの国、チーズの国といったイメージ通りである。世界初という約一キロに亘る歩行者天国をひょこひょこ歩く。ここに来て圧倒的にアジア人が増える。それもどうも住んでいる様だ。間違いかも知れないが、結構ベトナム、カンボジア人などが多いのかも知れない。難民を寛容に受け入れているからだ。それに東洋系観光客も何故か増え、私は完全に都市の色に埋没していく。今は歩行者天国というのは一般化しているので、何かアムステルダムのショッピング歩行者天国と変わらない気がした。 コペンハーゲンは確か北欧では結構古い街で、これはどこも同じだが建物の保存に力を入れている。ただ、色がカラフルで楽しめ、同時に古いという感じがあまりない。 夜になって、いろいろ歩き回っているとゴーゴーバーやナイトクラブ、エスコートクラブ?というのも、これがなかなかお盛んであることが分かる。世界で初めて性解禁した意地とでもいうものだろうか。なかなか愉快である。私が積極的にそれらに参加したかどうかは,永遠の謎である
2004.06.28
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ストックホルムを散歩した 中学生の頃、性教育の発展した国、アバの国といったイメージしかなかった国、スエーデンのストックホルムを散歩する。 イミグレーションオフィサーに「何、ストックホルムに2日しかいない予定だって?それは良くない」と笑いながら呆れられたことを思い出しながら、ちょっとわざとらしい旧市街ガムラスタンをまず歩き始めた。この都市は島で構成された公園の多き水庭都市であり、この旧市街以外は、やたら前向きの近代都市という感じで、その辺りが多少つまらないという面がある。湖の中にある首都という格好良さは否めない。水は流れ、風を起こし、気温2度というのになかなか厳しい寒さだ。旧市街はなかなかいいが、メーンストリートはどの都市の例に漏れず観光化はなはだしく陳腐な土産物屋が続く。何故か結構人は外で煙草を吸い、室内に気を使っているのか不思議な気がする。旧市街であるが、ずっとイスタンブール、スペイン、イタリア、フランスと北に来るにつれて何かどこか新しいというイメージがついて回る。 3時を回り、暗くなり、3つの博物館美術館を経た後、1つの中学生時代の疑問を思い出した。例の性教育のことだ。早速夜を待ち、またシティガイドや目クラ滅法怒涛徒歩行進で、何かヒントになりそうなものを探したが、せいぜいナイトクラブぐらいしか分からず、勝手に、性が開けっぴろげなのではなく性教育が一般の事象と同じ様に健康的に明るく実施されているだけだったのだな、ジェンダーの問題が発達しているのだな、と勝手に結論づけた。 それにしても、身体障害者が街に多く出ている。一瞬、割合が高いのかと誤解するぐらいであるが、結局バスや公共施設がそう対応していて、人々もそういう意識であって、さすがに福祉国家なのだなとすぐ分かる。そして、ここ最近のその福祉政策の行き詰まりを何とか、それでも推し進めながらも発展してやろうという意気込みを感じる。変に考えると、フィンランドと比較してであるが、過去の歴史なのだろうか、常に支配でやってきたからなのか、何となく強い、と感じてしまうのであった。 ところで、未成年犯罪は、クローズアップされるものだが、件数そのものは増えている訳ではないですね。http://kangaeru.s59.xrea.com/13.htm 親、大人がもっと自信を持たないといけないのかもね。
2004.06.27
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掃除も3日目最終日に入ると、以下のようなことが判明した。とにかく収納してしまったものは、以後の人生で在庫のシャンプーやら安全かみそりやら、日の目を浴びるのであろうかという疑問を呈しつつ、ただつっこんだということが分った。昨年新しい電話機兼ファックスを買っていたことを忘れていた。友人の子供出産祝いにオマル兼トイレ練習器を正月に渡すのを忘れていた。2年前、上海の知人から友人の結婚プレゼントを預かっていたが、何故か部屋の奥深くから出てきた。今週月曜日に買ったテレビの箱をまだ開けていないことが判明した。世界遺産の本・兼高かおるの本・香港という本、詐欺師の実態という本、が2冊あることが判明した。前回引越ししてきたときには既に賞味期限切れだった食品を捨てた。ニュースウイーク2年分100冊捨てた。英語読めないのに写真が綺麗だからと定期購読していたナショナルジオグラフィックを捨てた。パイプ椅子が15脚あることが判明した。コートをクリーニングに出しに行くのを忘れていた、というより、まだ壁に吊っていた。そして眠気が襲ってきたことに気がついた。
2004.06.26
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タリンを散歩した ヘルシンキからバルト海を渡ってほんの四時間。バルト三国のひとつ、独立して間もないエストニアの首都タリンを散歩する。今日、この旅行で初めて太陽を見た。インドの五十五度の大地を焼き尽くす太陽を感情的に恨んでみたりもしたが、やっと会えたなと今頃反省してみたりする。新しくそして近代的でガランとした港を後に、尖塔を目指してゆっくり近づき始めた。いきなり交通機関を利用してイッキに進むより、徐々に目的地に迫って行くっていう方が気持ちにワクワク感があっていい。(そしてその目的地が面白くかったら、その失望感もまたいい)このパターンがどこであれ止められない。線路を横切り、舗装状態の悪い道を、車の運転の乱暴さが、譲り合いのなさが、情けない程に若々しく感じる。 そしていつものことだが、スーパーマーケットがあれば、価格の把握や、どんなものを売っているのか入ってみることにしているが、その行動パターンも変わらず入ってみる。そして意味もなくスーパーを駈けずり回り、適当な品物を購入。何故私はチーズとビールとタバコを買ったのか、勿論、私の哀しき昼食の為である。 城内に入り、石畳に変わり、中世の街になる。パリやミラノといった西ヨーロッパの昔の建物を意識して残しているのとは違い、結果的にはいいことなのだが、ロシアに併合されて、貧乏になって、街は昔のまま残ってしまいました、という感じがある。あの暗黒時代の強制移動の産物なのか、そういう歴史だったのかは分からないが、いろんな民族が交じり合っていて、いろんな顔が見られる。そして混血のおかげで美人美男子が結構見受けられる。どうもフィンランドの人々は、そういえば割と、何か実務的な顔をしていて顔が平均的であったなと思う。同時に、アジアやアラブでもあるまいのに、東洋人が珍しいのか結構見られている空気がある。人は注目されると、ついついナルシストになってしまう。んーん、マンダム、なんてポーズを取っている。 それにしても、経済状況が芳しくないのだろうか、十年前に独立の先陣を果たした国ということを考えれば少し若々しさというか活気がない面を感じてしまう。何か元気そうなのは対岸七十キロのフィンランドを主とした観光客らしき人々だけだ。そうはいってもライティングにはやはりヨーロッパらしく力が入っていて、教会や聖堂、そして奥の細々道は趣きがある。 丘の上からは、街が一望でき、そしてバルト海が広がっていた。http://home.att.ne.jp/wave/TABIPLUS/sub3-24eesti.htm
2004.06.25
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掃除中である。掃除しなければ新しいベッドと、新しい表面がガラスで出来たダイニングテーブルが入らないからである。それから、実は、おとといテレビも買った。そろそろ私も世間に追いつく為に一人前にテレビでも見ようかと思い立ったのである。まずは、テレビを見る時間を無駄と思わないように脳をチューニングする必要があるかと思われる。大変だ。 まあ、そんなことはいいが、掃除整理して分ったことは、ただ右から左にしか移動させているだけだということが分った。この2時間で、雑誌と書類が今の所ダンボール3箱ゴミになったということが分った。 また、2,3発見したので、ここに残しておこうと、今、記していくものとする。母より葉書 H12.10.10(はれ)10月8日初めてフリークライミングをしました。4歳から68歳まで50人が参加ですが、もう身体が固くなった我々の年代はついていけないです。時代を感じました。お変わりないですか?先日鳥取西部地震では神戸でも震度4だったのでびっくりしました、そちらは大丈夫でしたか。感想:時代ではなく年を感じて欲しいです。ゴーヤチャンプルメモ(4人前)ゴーヤ500グラム、ブタモモニク150グラム、焼き豆腐200グラム、卵2個、塩小匙1、醤油・かつおだし・油それぞれ大匙1.1、 焼き豆腐、キッチンペーパーにくるみ、まな板の下において水気切っておく2、 ゴーヤは縦に2つに切って、スプーンで中の種を取り、フードプロセッサで薄切り、塩まぶす。3、 フライパンに油、焼き豆腐を手で4つにブッちぎり、フライパン底に置く。4、 その上にコーヤと豚肉を入れて、かつおだし加え、混ぜずにフタする。5、 2,3分でフライ返しで底入れしながら醤油を加え、軽く混ぜる。焼き豆腐崩れに注意する。6、 全体に火が通れば研ぎ卵を加えすばやく混ぜる。卵に火が通れば出来上がり。アサヒグラフ1965年3月15日号 緊急特集「戦火のベトナム」広告記事パンアメリカンで世界一周を ヨーロッパ線週7便(東南アジア・インド・中近東経由)、アメリカ線週17便(ハワイ経由10便・サンフランシスコ直行7便) 楽しく収穫の多い世界一周旅行。それにはパンアメリカンをご利用いただくのが第一条件です。縦横に張り巡らされた空路、数多い定期便、すべてが便利なスケジュールはあなたの思い通りに組めます。 東回り、米国西海岸直行、ハワイ経由。西回り、ベイルート経由。お好みのルートで、途中どこでもご自由にお立ち寄りできるのもパンアメリカンだからこそです。家族で味わうファミリアの秋 ファミリアがあれば家族サービスも苦になりません。ハンドルは快適、運転感覚は絶妙、疲れません。燃費は軽クラス並みの1リットル19キロから24キロ走ります。負担もかけません。性能は800CCの限界を破った素晴らしさ!ハウイエーでも山奥の悪路でもたのもしさを発揮します。世界のファミリーカーと比べて一歩もひけをとりません。最高時速115キロ。2ドア451000円より。もしも、双子が生まれたら。子供にピアノをねだられたら。縁談が急にまとまったら。手頃なアパートがみつかったら。どうしても風呂場が欲しくなったら。割安に車をゆずるといわれたら。お積立の途中でも融資します。日本勧業銀行。新婚旅行は出雲玉造温泉へ!肺がんの原因といわれる3.4ベンツビレンやニコチンその他有害成分を減らす特殊煙草ケースが世界で初めて発明されました。効果は永久。がん予防にナックシガレットパックを。全国有名デパートで。
2004.06.24
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今日会った取引先の方が急に言いました「来月仕事を辞めて、関東に戻ります」「運良くいるためにはどうしたら一番いいですか、って前にお聞きしましたよね、あのとき、貴方は即答しましたよね、私もそう思っているんです」と彼は言ってくれました。「運良くいるためには運のいい人の側にいて真似することだと思う」 私が大学1年の時、基礎ゼミという人文系のゼミがあったのですが、担当教授が「鬼のK地獄のA」と呼ばれる鬼のKに偶然(苗字順)に当ってしまいました。ゼミの内容は、幕末から明治維新の頃の何やらテーマで、中江兆民や北一輝等の著書を毎週の様に読まされて、レポート提出がありました。高校まで思想というものにほとんど触れたことのない私には新鮮というよりも難解なだけのものであり、ひたすら苦痛以外何でもありませんでした。 何を隠そうなのですが、今でこそ毎月十冊以上の本は買います(読むではないですよ)が、高校までは生まれてきてから十冊ぐらいしか本を読んだことがなかったのであり、先ずは、活字を追うだけけで目と頭がクラクラする学生時代の幕開けだった訳ですよ。 前置きが長くなりすぎましたので、話はこの辺で終わりにしてもいいのですが、私は、自分自身のテーマとして「脱亜論と岩倉使節団欧米視察旅行」というのを選択したのでありました。欧米視察団のちゃんとした本は当時にはあまりなく、資料探しに図書館に旅にでますのボレロ状態でした。 しかしまあなんです。明治初期に日本の重要人物、岩倉、木戸、伊藤、大久保等この人ラおらんかったら日本成り立たないでぇ~というソウソウたるメンバーが日本をおっぽり出してではないけれども、大使節団が2年弱も欧米あっちこっち大視察旅行をしてきたのであるから面白いです。 今、久しぶりにまた読み返しているところです。 先日、後輩がマレーシアのペナン島に来月行くという話を聞きました。何故か、私のペナン島の印象は、街の中に滞在してたせいか、何だか暑くてジメジメしていた街の中のイメージです。特に少し寒いインドネシア、スマトラ島のメダンからフェリーでペナンに入ったので、急激に熱くなり急激に大量水分摂取して、急激にゲリピーになったのが印象的でした。 不思議なことに、場末の映画館に行ったのですが、上映中も煙草吸うのがOKで、何だか愉快だなあという印象が残っています。 バスで島を周り、よく分からない亀がいっぱいの中国寺とかも行きましたが、ナンともペナンは阿片屈が今も残っていそうな優美な印象が残っています。 海は、マリンスポーツ等は盛んですが、俗悪で、おまけに海も汚かったのが印象的でした。「バリ」と背中に書いた旅行者向けの安々Tシャツを着ていた私は、現地のナンパ師に「バリ島行ったのぉ~」と声をかけられたのが印象的でした。 マレーシアの伝統的な腰巻サロンを巻いていたのですが、誰も巻いておらず、まるで中語に人民服着ていった日本人状態になりました。屋台ジュース屋の息子が親父に「何故あの人はスカートはいているの」と聞いてオヤジさんが「アレはね、マレーシアで伝統的な…」と説明していたマンダリンしか話せない中国人オヤジでした。いや、日本語もひとつだけ知ってました。ジュースのコップを2つ手に持って「オッキイノ?チッサイノ?」と。笑顔が印象的でした。 夜中にバスに乗っていてチンピラに絡まれたのが印象的でした。運転手が見て見ぬフリをしてくれたのも印象的でした。 そういう具体的なことは言わずに、「ペナン、行ったよ、いいねえ」というと、後輩が、「そうですか」と満面笑顔で答えてくれたのが印象的でした。 今整理してたらこんなん出てきました。(タイ語から日本語に訳してくれたのはボランティアの方だと思います)「こんにちは お元気ですか 私は元気です。3年間の今までにいたるまで私に奨学金を下さったあなたに感謝します。あなたの援助がなければこの高い教育が受けることができませんでした。家族は大変貧しいからです。5人家族です。両親、祖母、妹です。毎日学校へは歩いて行きます。家から学校まで3.24キロあります。週末には田畑に出て労働の仕事をします、そして学校の費用のために少しのお金を稼ぎます。あなたがご親切に私を高校に進ませて下さって嬉しいです。続けて勉強してできるだけ高い教育を受けたいです。きっと良い未来があるからです。あなたを決して失望させないで、良い人になることを約束します。あなたとあなたのご家族のお幸せとお仕事の成功とご健康をお祈りします。神のご加護と祝福があなたにありますように。さようなら」 私は一度も返事をしていません。私が良い人ではないので、情けなくなってきました。申し訳ないや。
2004.06.23
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12世紀頃、タイ北部では華南から南下してきたタイ族の勢力いわゆる土候国で乱立していた。その中で、スコータイがタイを制圧し、クメール文字からタイ文字を作り出し、セイロンからの小乗仏教を取り入れた。その後、マライやカンプチア方面からアユタヤへと滅ぼされていった。 スコータイは今では廃墟と化し、静謐を守っているが、その遺跡奥地にはいまだにゲリラが出没し、夕刻には街に戻らなけらばならない。 12時頃、タイ南部のコサムイ島で船の出航を待っていた。そこに麦藁帽子に下品な風体の男が出航30秒前に走って乗り込んできた。「あっ!Mさん!」何と大学の先輩であった。「オー!おまえか!探しとったんや!」(タイ中で探すか?)「何でこんなところにいるのですか?シンガポールかマレーシアではなかったのですか?」彼は私を見つけた満足感と征服感に満たされ「あまえこれからどこいくつもりやねん」「今、船の中で考えていたのですがね、まあ遺跡に興味津々ちゅう訳じゃないのですけど、スコータイの遺跡群は凄そうなんですよ、結構観光化されてないし、街からも離れててアユタヤとは全然違うみたいっすよ」「そうか、わしと今から北部にトレッキングに行く!ついて来い」それで決まりだった。 それから1週間後、我々はメオ族の村にいた。コカコーラを勧められた。ぬるいは断りたかったが、我々のような観光客のために瓶ケースを山の中2日かけて背負って商売にしている村人がいる訳なのだなあと思うと1本頼んでしまう温いコーラ。 お話は、これからどんどん続いていくのだが、今日はこの辺りで一旦停止とさせて頂き、再開の目処は立っていない。 今日は、「台風だから大変なんですっ!」と台風は近畿圏を過ぎ去ったというのに、適当な事を言って家路を急いだ。部屋で3分程で着替え、急いで駐車場へ。 イグニッションキーを回し、おもむろに急発進。エアコンを強めて「ああ、涼しい」と素直に呟いた。秒速17メートル、即ち時速60キロ程度で運転時間概ね10分。 http://www.kfp.co.jp/ (はっきり言って、ここの7階に来たが、別にみなくてもいいです)閉店10分前。私はツカツカツカと廊下を歩き、ベッドを一巡し、もう一度戻り、次に店員を呼びに行き、店員に声をかけ、「この低反撥のベッド1個下さい」と言った閉店7分前。シブイ、ベッドを3分で決めた!シブイと自分を誇りに思った。そして、商談机を見て「これも下さい」と言った閉店5分前。やはりシブイ、5分で買い物を終えた、即決即断、間違えていても後悔するだけ、シブイ、と自分で贅に入ったが、店員さんは私のスピードにツイテ来れないようである。シブイ。「ベッドカバーなどは?」と聞かれ、「それはいります」というまでに凡そ15秒、遅い、反応が遅い、しかし、それは色を決めるという要素もあったからだと言い訳しておく。カバーの色を見ながらも、すかさず私は質問した「さっき、買ったのダブルベッドでしたよね?」シブイ、質問内容を咄嗟に理解した店員も頭の回転が速い!お支払いは?そりゃ何十万もするものを、一般庶民の私がゲンナマで持っているはずがない。「カードで払います」これは別にシブクない、大衆的感覚に違いない。しかし、そこで店員は鋭く切り返しトークを発した。「現金でしたら消費税サービスしときます」とニキビの後が残ったまだあどけなさの残る女性店員(推定年齢22歳独身)は少し照れながら言った。「それならそうします」と言うまでに凡そ0.2秒、シブイ、瞬時にどっちがお徳か判断してしまった私であった。さすがに高校の時、県下で数学6番取っただけのことはある。シブイ。「では、本日前金でいくらかいただけますか」と推定22歳独身さんは言った。私は満面笑顔から財布を空けた瞬間に般若に変わった。シブイ、お札がない。「ガキの使いです」私は硬貨を出して、「残金は○○万○千円と端数を払いますね」と顔で誤魔化して心で穴があったら入りたかった。 既に、閉店時間は越え、上階の映画館からEVで地下駐車場に降りたのであった。先程、店にファックスした。「今日はありがとうございました。よく考えたら入るかどうか分らないので、サイズ、書いてファクスかメールいただけますか」と。 いやあ、シブイ夜だった。台風はもう去ったようである。
2004.06.22
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最後の荷物は電話機であった。 街路樹は、掃除が大変なので落葉樹はできるだけ避けられている。コンクリートの上では、落ちた花びらの行き所がない、土に帰っていく術がない。 この前、1冊50円で「リルケ詩集」と「バイロン詩集」を買った。今は、リルケの方がしっくり来た。人生をほんの少し豊かにしてくれたような錯覚に陥った。生活は変らなかった。どちらもLIFEだった。 少しだけ後悔しているのは、読み始めてから気が付く「ア、この本持ってた…」またやってしまった。 ほんの少しの散歩に出かける。電車を降りて、何やら、歩いている人々が素人ぽくっみえた。バタ臭い人も多かった。 信号は長かった。いつも通り無視した。パキスタンの北部ぺシャワール駅前凄い交通量なのに信号がないことを意味なく思い出した。 部屋に戻って飯を作ろうとするが、その前に「一杯やらせてもらうぜ」と一人呟いてアルコールを体に染込ませる。勢い、飯を作るが面倒になり、目が回った気分になる。 洗濯もしてやると意気込むが、排水が何故か故障、まあいいかと問題先延ばし人生。 服を着替えようとシャツに首を突っ込むと、世の中は暗闇の迷路で、立ち往生。まだページを開けていない読まれるのを待っている本は、今の所、30冊は越え、洗物はシンクから溢れそうになってきている。我未だ山麓にてウロウロ状態だ。気分転換に、また外に出ることにする。 外に出る覚悟をするよりも着替えてしまったほうが外に出る決断はやりやすい。 空には飛行機がチカチカと夜空を切って行く。高層建物の航空灯もチカチカと光っている。ワクワクとは、熱い熱湯が岩場の間から怒涛の如く絶え間なく湧いている温泉の光景からきているのだろうか。いずれにせよ、両ひじを2回上下させるだけで、ワクワクの表現ができるなあと意味ないことを考える。 クリーニング屋に寄る。ときどきアルバイトで入っている女性は、唇の両端が少し上がっている為に、いつも不用意に笑っているように見える。そう言えば、インドで10円かそこらで洗濯を頼んだことがあったなあ、子供達に仕事を提供したことになったのかなあ。 インドの砂漠地帯ラジャースタン州のウダウプルで道に迷い、湖に出たことがある。そこは洗濯場であり、何十人という子供達が、上半身裸或いは全裸洗濯をしていた。その中で、一人だけもう15歳前後になろうとする女の子がいた。もう体だけは大人のそれで会った。インドでは女性と話すことすら珍しいことであったのに、いけないものを見たような気がして直ぐに引き帰したこともあったなあ、と不用心に思い出す。 先日の火事から2日が過ぎ、焼け跡は一通り、焼け落ちたものは撤去されていた。高校の音楽の先生の家は、火事で燃え、多数の廃盤となった貴重なレコード類が焼失した。高校の同級生(ミュ○○○クマ○○ン勤務)も下宿先が火事で燃え、多数の廃盤となった貴重なレコード類が焼失した。私は、実家に帰ったら、多数の価値のないレコード類が、母によって一掃射撃されていた。今、実家にある私の私物は写真アルバムとへその尾と学校の成績表ぐらいだろう。私が家を出た瞬間、見事に全部捨ててくれた。私のその時の実家から持っていった引越し荷物は乗用車1台に充分乗った程度であったのだが。 今、また、整理しなかえればと決心しているが、どうすればいいか立ち尽くすのみである。先日も会社の書類ひとり大掃除をしたところ、重要書類もシュレッダーしてしまったことに気が付くまで書類を探しつづけた。何かがおかしい。ところで、アメリカ人は1日平均55分探し物をしているうという。昔は靴を25足、黒ズボンを18足、ネクタイを200本持っている人なんか周りにあまりいなかった。 ちなみに私は革靴2足(1個買っては一個捨てる)、背広は夏用4着(1着買えば1着捨てる)、ネクタイは増殖するのみ。何故かタオルが50枚ぐらいある。ハンカチは5枚ぐらいだ。トランクスも2週間洗濯しなくても対応できる程度にある。ちなみに、何の自慢にはならない。ちなみに引越しの最後の荷物は電話機だ。あじさいは、長屋の人々が似合う。
2004.06.21
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日常、何が普通かは疑問を残すとしても、普通の生活をしていて、まあ生活の豊かさには疑問を呈しながらも、生きていけない程の貧困に喘ぐこともなく、買えないものは山のようにあり、方や買えるものは山の様にあり、ときどきショックを受けて、時々いい目に遭遇したりなんかして暮らしている。その中に罪の意識はない。キリスト教のいうところの原罪とは違うかもしれないが、物質的に享受している国は、地球規模で将来の自然や資源を随分先食いしている。個人個人としてはこの広い地球で何も悪いことなんかしていないと思っている。ガソリンを巻散らし、スプレーを吹きちらし、商品を消費するために購入し、それでも、やっていることはかわいいものさ、と思っている。我々はあくまで主人公で、自然は背景にしか過ぎない。製造元や国は、問題が大きくなるまで対処できない。(それでも例えば、随分、変わってきてはいるのかもしれない。オランダは温暖化に対して熱心だ。なにせ一番に国が水没してしまうのだから)かといって、この快楽を簡単に手放すこともできないと思っている。曖昧なまま我々は「しあわせ病」に取りつかれている。「しあわせってなんでしょう」と小学6年生の時に担任の先生から年賀状を頂いた。そのとき初めてしあわせについて考えてみた。でも分からなかった。分からなかった理由が分かってきたのは、それがあまりに人類史上新しすぎる概念であると分かってからだろうと思う。百年そこらでは規定はできても実感を持つには斬新すぎる。勢い、結論を急ぎ、分からないままに総体をつかめぬまま部分に走った。しあわせはパーツに分断された。パーツは金であり地位であり名誉であり何がしであった。そのため、我々は走った走った。我々は快楽に溺れた溺れた。 例;人類史はほとんどの期間を飢餓の時代であり、紛争の時代であった。人を含む生き物は元来飢餓用の体にできている筈だ。それからたまたま紛争のない時代と地域に住んでいたので漠然とした平和を願いつつ生きているが、遺伝的には好戦的なのかも知れない。(遺伝より環境が強いと思うけれど。だからそう簡単に今の環境を崩して一段下の生活をするとすれば、苦しいと思うけれど)そんなことあじさい見ながら考えるなよな。今日のメシ
2004.06.20
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今日、隠すつもりはさらさらないが、近くで火事があった。ヘリコプターも飛び、その回旋する爆音と、消防車も走り、その勢いある音に誘われて、私も走り出した。 中学3年、私は陸上部副キャプテン、火事あるところ野外ロードに出発。煙があがれば、私は部員を連れて走る!急ぐのだ!そういって私は数回も火事を見学に行った。 ある火事に、また私たち陸上部は現場に向かって走った。すると目の前に学生服のまま走る男が居た。町で一番の不良(後年、おにぎり製造機で指を切断)だった。詰襟の学生服で走っているといるのに、私たちより速かった。 ぜいぜいいいながら私たち陸上部長距離軍団と街で一番の不良H君は、燃え盛る家の前に着いた。H君に私は言った。「この前、3時間目が終わった時、あそこで火事があって、隣の同級生Nの家の近くで、お前の家、ほら燃えてるで、といったら、ほんまや、といって泣いてましたわ」といった。本当に彼の家の横が燃えていたのだった。 H君にソレ以降会ってない。また火事があれば再会するのだろうか。 かつてフィリピンのマニラのマビニ辺りの歓楽街で火事があった。かつてといってもほんの数週間であったが、毎晩朝まで飲んでは騒ぐ鬼畜状態を続けていたことがあった。 盛り上がった、ビールはノメノメ、歌え、物売りは溢れ、煙草売りは溢れ、ガム売りはたかり、ポン引きは溢れ、売人は怯え、まあ熱かった。 昔、村上龍の69(最近また流行ってるね)でうんこに思想がないですというフレーズがあるが、シンガポールはガムをポイ捨てしても罰金、ツバをはいても罰金であるが、私は、何を隠そう、そこで、夜中であるが、インド人街はずれの道路で脱糞した。そこで後輩(今は社長)は言った。「ウンコに思想はないです」スマセン、もう酔ったので倒れます・・・ 格好よすぎる男がいる。7歳で母が死亡、と同時に失明、何故か16歳で視力を回復、正規の教育を受けていないが毎日12時間図書館に通い始める、18歳で父が死亡、天涯孤独で仕事を転々とする。27歳で自殺に失敗、季節労働者を10年、34歳、モンテーニュ「エセー」に衝撃を受け執筆活動も開始する。49歳で処女作「波止場にて」を発表、63歳から71歳までカルフォルニア大学バークレーで政治学を教える。81歳死去。30代半ばで恋愛、彼は彼女を愛したが、彼女は彼を崇拝してしまった。彼は何も言わず逃げた。そしてプラトニックラブを何年もひきずった。 5分口論するより5時間肉体労働したほうがいい。 教育は、優しいこころを育みはしない。大切なのは自己を重視しないこと。疲労は休息では消えない。「ドクトルジバコ」を読んでいる。おもしろいが、魂を揺さぶらない。わたしの生活の全ては1日2回の食事、煙草、私の関心を引く本、少々の著述を毎日、だけである(仕事ないのがシブイ)凡庸なる大いなる普通の人、エリックホッファ。シブイ。
2004.06.19
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今日は、昼間、近くにオープンしたイタリアンの店に行ったが、勘定が終わると、「よい一日を!」とマスターが大声で叫んでくれた。アメリカじゃないんだからさあ、とちょと照れる。この店は、立ち飲みと座席とで値段が違う。おーイタリアみたいやあ。ただイタリアと違い立っている人はいなかった。 豆が安かったので、豆ご飯にする。米に水、そして1合当たり1匙の酒に塩。そして炊き始めて、米がシュボシュボとなってきたら素早く蓋を開け、豆を突っ込み、素早く蓋を閉める。そうすると、豆が皺皺にならない。メシ炊き中に蓋を開ける勇気を。BY飯炊き男。 昔、瀬戸内海の無人島で、「ハッピーヒッピー無人島無為合宿」を終えた帰りに、神戸の三宮で降りた。神戸祭りだったので、サンバで昨日の発狂踊りの続きしようかということで。 しかし、夕刻だったか、サンバも終了しており、我々は「こうなったら(何がこうなったらかは分らないが)道端で徹底的に飲もうぜえ」と三ノ宮駅前地べたに座り込み、ビールをしこたま買ってきて、酒盛りを始めた。似非浮浪者とは5パーセントも変わらなかった。まず、合宿中風呂に入っていない(海水には入った)、電車賃以外は全てここで酒を買って現金はほぼなくなった。まあ、そんなことはどうでもいいのだが、まずは警察が来た。祭りだから大目にみてもらった。こちらも祭りだから大目に見てもらおうという魂胆はあった。「ゴミだけはちゃんと片付けていってくれよ」と懇願された。次に純粋な浮浪者が来たので、酒を渡した。何も言わずに去っていった。もはや、来る人は居なかった。 仕方ないので、こちらからキャッチすることにした。「よっしゃ、まっとれ」と私は皆に言い、キャッチをして数分後戻ってきた。「さて、街中でよく勧誘したり、手かざしさしてくださいという○慈○明会の人を連れてきたよ」(ちょっとかわいそうかな彼一人こっち数人でおまけに酔っ払いだから) 我々は、彼に酔っ払いの勢いも手伝い、ざっくばらんすぎるいろんな質問を彼にした。「今まで何度か手かざししてもらったけど、何にも変わらない、どういうこっちゃ」という事に対しては、「私の力がまだまだ足りません」というようなニュアンスで力弱く笑う。「食べるものは添加物だらけで、体に悪いことぐらい分るけど、何で浄化したら良くなるねん」ということに対しては「何でもです」「1日何人勧誘するノルマがあるの?」に対しては、「ンモゴモゴモゴ」結論的に言えば、彼は、親が信者なので自分もやっている、はっきりいって詳しい教義とかを体系的に捉えていないつまりよく分っていないということが、分った。もういいよ。もういい。我々は更に酒を飲み、遠い遠い地下のトイレまで何度も足を運び、そして後片付けをちゃんとして、良い子なので帰った。 「地雷を踏んだらサヨウナラ」のビデオを見て、感動しているのか分らないが、ウォオオオーとくるものがあった。私に取っては少しリアルな部分があったからか?心動かされる装置というのは「思い出」と「憧れ」からくるものかも知れない。本屋で写真集の立ち読みにも行った。17年程前に見た写真を数点覚えていて、自分でもびっくりした。キャパにしてもそうであるが、戦場の死と隣り合わせを撮っているからなのか、子供を撮った写真は、生命の新しい息吹を感じることができる。 70年代から80年代のプラザ合意まで(1ドル250円以上)にかけて、旅行をしていった者の一種の旅行を駆り立てた本ってどんなのがあるだろうか。私が、ウォオオオォーと燃えた本。(多くの旅行者に共通) 「何でもみてやろう」小田実心簡単解説;我々よりまだ10年ぐらい前の世代で海外旅行記というと、有名どころではこれと、ドクトルマンボウぐらいしかなかったようである。私が旅行し始めた時もまだ「地球の歩き方」はアメリカとヨーロッパとインドしかなかった。3番目にインドがでてくるところがスゴイ。私の1回目のタイ旅行のガイドブックは、何を隠そうロンリープラネットの靴紐である。 「サハラに死す」上温湯隆簡単解説;日本社会への違和感からセーシュンの証、そして死までの若さと純粋さが共感でした。 「青春を山に賭けて」上村直己上村の本で一番面白いのがコレ、ニンゲンポイ。不法でアメリカで働いていて、山に登りたいからと捕まった時に訴えて、強制送還にならなかったエピソードや、アルプスでの心温まる話、人間はやっぱ等身大やなあ。 「太平洋ひとりぽっち」堀江謙一 不法出国であり不法入国であった。当時同じ時期に金子青年がドラム缶のイカダで太平洋横断しようとして捕まった。堀江青年は突破できた。そしてアメリカでの歓待と日本領事館の冷たさ、その辺が面白かった。それから真似して、ビールで米炊いたりしたなあ~。 「インド放浪」藤原新也 深夜特急が何故バイブルにならなかったか、あれは共感の書であった。あれは丁度旅行を始めた頃に初校されたのだが、その表現や感覚、旅に出た時にたいてい感じる感覚であった。そう思うよなあと思いながら読んだよね。
2004.06.18
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「ニューカレドニアに3万円でいけるよ」18歳、その時の募集に私は、3%程度の警戒心しか持たず、飛びついた。他にもキャピキャピキャピー女学生4人程度も飛びついたようであった。説明を聞くと、それは、日本政府が主催する日本兵の遺骨収集であった。 私は、最近はそうでもないのだが、街の無防備君なのかどうか分からないが、すぐキャッチに声をかけられる(ちなみに海外ではすぐにポン引き、麻薬売人、物売りに声をかけられる) ずっと前に、暇だったので、宗教団体についていった。どういう過程で、あなたみたいに、目がいっちゃうのか少し興味があったからだ。かといって、私も洗脳されるのは恐ろしいので、少しでも危険と察知したら逃げてしまおうと思った。 勿論、名前は、ナントカカントカセンターと自己啓発セミナーを装っていたが、私はそれが、○一○会ということは分かっていた。もう10年以上前で、途中の過程は忘れてしまったが、例の○田○子等で物議を醸し出した合同結婚式より前であったと思う。 そういえば、あれで話題になった○旨○原さんは、私の友人の勤務先(○和○券)と同僚で、何度か一緒に仕事をしたことがあるらしいが、東大卒であるが鼻持ちならないエリート意識はなく、とても気さくで優秀な営業成績を上げていたようである。友人は、あの事件で初めて、あの宗教団体に入っていることを知ったそうである。会社もびっくりして、顧客先を調査したところ、会員相手には商売はしてはおらず、一般顧客へ会員の勧誘もしていなかったことが分かったそうである。その後、マスコミが騒ぐので、首にならないところがこの人の優秀さゆえかも知れないが、内勤になったそうである。 話を戻すと、そこで何度も対応してくれた人が、いろいろ私を勝手に分析するのである。その結果、いわれた事は、「あなたには、ひとつだけ問題があります。色情の気があります」「はぁ。そんなものですか(覚えがない)」「今までは、そうでしたが、あなたにもまだまだチャンスがありますよ」「はぁ。そんなものですか(覚えがない)」「ところで、世界を救う人がおられることをあなたは信じますか」「(で、でた~、やっと本番や)ほぉ、そうですねいるかも知れませんね」「誰と思いますか」「(文○○ていうたらあかんやろな)やはりアメリカやロシアの政治家が救うとはいわずとも先頭を立つのでしょうかね(とジャブを打ってみる)」「違いますねえ」「(そりゃ違うやろな)あ、やっぱ、宗教でしょうかね。うーん、サティアサイババ!(とフックを打ってみる)」「ははは。ではビデオをみてみましょうか」「(出た!洗脳ビデオ!か)ハイ、見ます見ます」 そのビデオは大会場で、あるおっさんが公演しているのだが、内容がまったく要領を得ない。「私はこれで人生が変わりました」だの「私はこの方の教えで救われました」だの一向に具体的な名前がでてこない。そうこうするうちにビデオは終了。私は、質問した。「いったい誰ですか」「とにかくすごいです」それを連発するだけである。他の者を捕まえて聞いても同じ(目もいっている)胡散臭い。つまらなくなってきた。なぜはぐらかすのか、そういうマニュアルになっているみたいだ。「2泊でのセミナーがあるのですが是非それに参加して下さい。素晴らしいですよ。人生変わります」「(出た!洗脳セミナー!)すんません、金と時間がないから結構です。(というより価値がない)どんな内容のセミナーですか」「それは、行けばすごいから分かります」「ちっとも具体的でないのですね。何も分かりませんでした。じゃあ、もう1本何か講義のビデオ見せてください」そうやって私はもう1本ビデオをみた。もしかしたら500円ぐらい払ったかも知れない。もう忘れてしまったが、ざっと、触りの部分は、天使が人間以下に堕落した理由どうのこうの、ルシファーがどうのこうの、またもとの位置に引き上げるどうのこうの、ということであった。見終わった後、また質問をしてみた。「で、キリスト教の解釈というのでしょうか、これは誰が考えたり、講義したのですか?」「それを知りたかったら2泊セミナーに参加することですよ」と言われた。イッテシマッタ目が危なかった。いったいどこを見てるノデスカ?私は、その会場を後にした。 その後、キャッチした子は私を勝手に友人と思い込んでいたようで、何度も連絡があった。(今考えたら住所電話教えていたんだなあ。危ないな)彼はいったい普段何をしているのだろうか?多分洗脳されてて、何も考えてなんかいないのだろうなと思った。年賀状がきた。彼の住所はそのゼミナー会場であった。もうこいつは駄目だな、と思った。
2004.06.17
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昨日の続きになるのだが・・・レメディを処方された後、また、どういう状態になったかチャクラ写真(ていうか、チャクラなんかそうそうそうに開かないんだけどなあ)をとってもらい診断してもらった。 世間は、貴方が知っていようと知っていまいと、精神的治療者として見ている。貴方は不思議な内面的明るさと共に生きている。人々は貴方が何か意味慎重(*翻訳機では深長ではないようだ)な、神がかった方面に行っているように感じている。一般的に言って、貴方は他人をなだめながら観照している。統一と所属しているということが大切である。貴方は意味慎重なレベルで他人の思想を伝達することが出来る。感受性の強い貴方は、時々世間の厳しさに耐えられないが、静かな一人だけの時間を持つことが出来たら、貴方は簡単に自分を取り戻すことができる。 「平和愛好者」と「治療」という言葉が現在の貴方を一番良く表している。貴方は自分自身と他人に対して、はっきりとした精神的治療を行っている。貴方が治療を行っていなくても、ただ貴方がいるという存在だけで、他人を激励し養成する。現在貴方の最高ゴールは、内面的平和に到達し、創造主との関係を深めることである。 貴方には不思議で神秘的な穏やかさが漂っている。人々は貴方の軽やかなしかも落ち着いた人柄に惹かれる。人々は貴方がどこか違っている、ということを知っている。内面の知識と直感に従い、理論よりも第六感に頼る。いろんな難問題を魔法のごとく解決し、交渉していく能力がある。常に物事を大きく見、宇宙に身を置き、世俗的な事柄は貴方を退屈にさせる。勘定を支払うことなど、毎日の瞑想とか夢にみた未来図とか、大好きな空想に浸る事に比べたら、何の重要性もない。貴方は現世よりも、もっと美しい別の世界に住んでいる人である。 感想:ちょっと違う方向に走り出したぞ・・・私の処方されたレメディをネットで調べてみると・・・マウンテンペニーロイヤル:思考力の強さと明晰さをもたらし、精神の統合とポジティブな思考を回復します。他人のネガティブな思考を吸収しやすい敏感な人に。霊的な汚染からあなたを守ります。心と体の浄化に。イエルバサンタ:胸の奥に深い悲しみや憂いをためこんでいる人に。呼吸器に負担がかかりやすく、咳や喘息に悩む人にも。呼吸を楽にし、閉じこめていた感情をも解放します。セントジョンスワート:「光の治療薬」といわれるこの花は、内なる自己の光と陰のバランスをとり、ポジティブな部分に繋がりやすくしてくれます。不眠や夢に悩む人に。アンジェリカ:あなたのガイドや天使からの守護と導きの感覚を深めます。結婚、転職など人生の転換期にあっても、心の安定と安心感をもたらします。ジニア:子供のような明るさと天真爛漫さを回復させます。真面目すぎて仕事と責任感に圧倒されてしまいがちな人に。心を軽くし、人生に「気楽さ」をもたらします。休憩のコーナーhttp://www.asahi-net.or.jp/~nm6f-nkmc/sekai-rank90.htmhttp://portal.nifty.com/chosa/030902/index.htm賞賛と興奮と集金システム、ということを思いついて書こうとしたが、ちょっとレメディに時間を掛け過ぎて疲れたからまた5年以内に書きたいと思っている。 自画像
2004.06.16
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帰ってきて、テレビをつけてみたら、UKでフラワーレメディが流行っているという。何年か前まで、私も、そして私の回りも(周りは今もかも)結構やっていた。 私は、占いの類は、あまり信用しないというか、いいところだけ信用するような性格であるが、大阪に唯一(今は知らない)あったフラワーレメディの診断所に出かけたことがあった。そこでは、何だか分らないがチャクラの状態を写真に写すようである。(違ったかな、忘れたな) その色合いを見て、自動翻訳機が翻訳して出してくる診断書を読んでみよう。(だからか日本語がちょと変) 貴方は、治療を施すエネルギーがある。世間は貴方がゴールに向かって一生懸命努力しているように見える。自己尊重のの強い人だとみている。貴方は、教育財政教養健康の為に富を得る為にいろいろの我慢をしている。また他人に対して寛大で忍耐強い。貴方は素晴らしい先生であり、社会福祉家、あるいは治療師、そして素晴らしい親である。 貴方は自分自身調和が取れていて、穏やかで、どちらかというと美しい方法で表現したいと願っている。また、文芸的で精神的とも言える貴方。瞑想に耽ることによって心の奥深い感情をはっきり表し、神との接触によって至上の喜びと一体を感じる人である。 貴方が人生で一番願っていることは、楽しみ、冒険をし、自然に接し、自己表示することである。独創的な考えで人生を楽しむ。非国教信奉者である。リスクも取るし、人生を好きなように生きる人である。世話もかからず、空想的で冒険好きで新しい計画に興奮している。基本的にハッピーで楽天家である。いろいろ新しい実験やアイデアを好む。そんなのが続き、ソノ後でレメディを処方されて、また写真とって見て診断してもらった。そこが信頼できたのは、先生が全然そのレメディを売りつけようとせず、資料をくれただけで終わったことであった。一休みのコーナー ボッス http://www.fantasy.fromc.com/art/bosch.shtml ブリュッセルの小便小僧、コペンハーゲンの人魚姫、そしてシンガポールのかつてのマーライオン、この辺りが「世界の行ってみてはぁ~」というところだろうか。 あ、題名を「シェーライオン・フラワーレメディ」としたが日本語では三井住友銀行、横文字ではSUMITOMO―MITYUIだった。どっちがエラそうか分るよね。 まあ、そんなことは問題ではない。私が、初めてシンガポールに行った時は、確か普通の部屋に単純にベッドをやたらめったら詰め込んだだけの、やたらめったらドミトリールームであり、そのくせバスルームが一個だけで、朝ともなれば行列になっている。西洋人というものは、こうも自分達のスタイルを変えないものなのか、と私は思い、私はシャワータイムを空いている昼間や夜中に移行した。朝になると、ドミトリーの癖に(癖には余計か)アメリカンブレックファストとかコンチネンタルブレックファストとかメニューがあり、西洋人というものは、こうも自分達のスタイルを変えないものなのか、と私は思った。 アジア人は、何故か私と私の隣のマレーシア人女性だけであった。この女性が曲者で、やたらめったら派手で、ドミトリーに住み込み、夜はナイトクラブでホステスをしているらしい。おかげでやたらめったら服があり、その派手な服は私のベッドの頭上まで増殖しており、私は、悲しいかな嬉しいかな狂わんかな、派手な服の擁護の下、眠るのであった。 おまけに朝は、西洋人がシャワールーム争奪戦を展開しているので、私は午前中はベッドの上で服を眺め、その向こうで回る天井の扇風機を眺め、やがて、散歩に出かけるのであった。しかし、宿を出た矢先から行く所がない。買い物もしないし、飯を食う訳でもない。そして、適当にブラブラ歩き初めて1時間、公園に出て、海に出た。遠くに見てはいけないものを見てしまった気がした。シェーライオン。 ちなみにシェーとは高校時代に「しょーもない」という意味で数十人の中だけで流行った隠語である。ちなみに、このマーライオン、今は、移設され、口から再び水を吐いている。また97年に観光客をがっかりさせないようにと、今の4,5倍あるハイテク(目が光る)マーライオン展望台付きを完成させた様である。 今度、しんがぽーるに行く時はいったい、どこへ行けばいいのか?そんなことを考えているようでは酒豪あ、違った、修行が足りない。
2004.06.15
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緑というのは、目に良いものだ。電車から、雲のない真っ青や空を背景に六甲山系の緑が続き、視力がどうかしてしまったのかボヨーンボヨーンとなる。 少し、通り掛りリではあったが、有料菖蒲園に入園してみた。期間はあと1週間程あるが、既に花は萎れつつあった。背広姿は、残念ながら私だけであった、が、背広姿にデジカメを持っていたのは私だけであった。注意:一応飛行機が高度900メートルのところを飛んでいたので入れたが、写真では点であった。 昔、菖蒲君という子がいた。彼の特徴は、人と話をする時に、人差し指でその人を指差しながら話すことだ。私は何度か「その人差し指をオレに向けるな」と言いたかったが、少し臆病でいうのも大人気ないと思い、いうのは控えた。今でも、彼は、社会人になって、人を指差しながら、相手と話しているのだろうか。 まあ、そんなことを思い出しながらも、自転車で淀川わんどをサイクリングした。 私は、昔から、歩きでは、信号機に従うのは嫌なので、車の往来がなければ信号無視し続けてきたのだが(関東に行って、結構、皆さん守っているのをみてびっくりした)、最近になって、信号無視する前に、子供がいないか確認することにした。子供も大人を真似て、信号無視して車に轢かれたら洒落にならないからだ。最近は、子供を見て、車を見て、どちらもなければ渡るようになった。チョトダケ進化した。 私の父親の趣味なのか何か知らないが、3年おきに(車検の来る前に)車を買い換える。車庫も狭いことも合って、安くて小さく馬力がない車がお好みらしい(私とは反対である)。いつもN社にを買っている。一度だけT社の車を買ったことがあるが、営業だけでなくやたらDMが来たり熱心なのだが、父親は、何故かそういうのがお嫌いらしい。「N社のいいところは、売ったら売りっぱなしで後は定期検査等の必要最小限の案内以外は音沙汰がないところだ」と言っていた。 学生の時、一度だけ父親に「車を買うから見に行こう」と言われて着いて行ったことがある。車は動けばいいし、金も出さないので口も出さないと言っているのに、「これにするか」と、どこの会社のショールームか忘れたが、父親に勧められた。「いいんじゃないか」といい、「じゃあこれにししょうか」といって試乗してないのに決まりかかった。 数日後、家に来たのは、何故か違う会社の車であった。 それから10年程して、私は、結婚もしていて、駅前に住んでいたので車は不要だったのだが、ついに買うことにした。私は、「車買ってくるわ。何がいいかな」と質問した。「ワーゲンゴルフ」と言われ、「よし、ではそれを買いに行って来るわ」と私は颯爽と車屋に出かけた。車を買ったことがなかったので何といっていいか分からないので、車屋に着くと同時に「ワーゲン1台下さい、2台はいりません」と言っていた。 時間がなかったので試乗はしなかったが、一応、写真を撮り、また来るのが面倒なので契約もした。 数日後、家に来た車をみて、ワーゲンであるが、ゴルフでなかったことに気が付いた。 今まで酔っ払って醜態をさらしたことは、ほんの2,000回程度しかないが、生命の危機は3回程度しかない。(他にもあったかも知れないが思い出せない)1回目。そんなに酔ってなかった筈なのだが、気が付けば、家と家の間に寝ていた。体に釘が刺さっていた。その次に気が付いた時には、風呂場で血を落としていた。翌朝目覚めると、枕は血だらけで、鞭打ちになっていた。2回目。フィリピンのセブ島、セブシティのバーでしこたまサンミゲルビール及びマニラビールを飲みまくった。(一人で)5リットルを越えた所で帰ることにした。宿は、少し町外れにあり、ミックジャガーのマネ~なんかいいながら踊りながら歩いていたところに、暴漢にあった。4人の男に取り押さえられた。シラフになった。「スマン、ビザヤ語は解らん、英語で頼む!」と私は訳分からないことを叫ぶ。驚いたのは向こうだった。こんなところに外国人が歩いているとは、と一瞬ひるんで間抜けな質問をしてきた。「おまえは一人か?」「イヤ、違うんだ、もう2,3分したら後から友達が着いて来るんだ」「本当か?じゃあ、その友達の名前は何だ?」「ワタルにヒカルにハルジだ」(忘れたが日本人にありがちな名前を3人あげた)「そうだったのか」(何がそうだったのか、なのだろう)暴漢4人組は何故か一瞬、しんみりして力が緩んだ。私は、振りほどいて、一気に逃げ去った。被害は、煙草1箱とライター。宿に戻り、ベッドに倒れ、天井を回る扇風機を見ていたが、既にシラフになりすぎていて、現金なもので、「オイ、5リットル分の金返せ」とぼやいていた。3回目。能登半島の狼煙で12月31日にキャンプをしていた。雪の中でキャンプファイヤー及びナベパーティ。ベロベロに酔っ払い、海で泳ぐ。体が紫になり、車の中に収容され、朝まで暖房。私のえらいところは、「あかん、吐く」といって、わざわざ、車から出ていって吐いていたことだ。 もう醜態はさらさないであろう、大人になったから。つまんない奴になっちまったななんて思わないでね。 そんなことを思い出しながら、貨物専用線路兼人間自転車馬羊犬猫専用橋を通った。「戦場に架ける橋」のクワイ川を思い出した。またそのことは5年以内に書きたいと思う。
2004.06.14
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働き蜂の死因は過労死である。あまり働かないようにすると寿命が2倍以上に伸びるそうです・・・働き蟻のうち2割が、サボり蟻らしい。つまり、ただ動いているだけで、実は食糧を運ぶなどの何も仕事をしていない。けしからん、といって、この働いていない蟻だけを抽出して取り除けば、また残った蟻の2割がサボリ蟻になってしまう。こういうのを無用の用というのか?組織や会社も似たようなものだ。仕事のできない2割をカットすると、そりゃ以前、仕事のできない下位6~8割の人々が仕事のデキナイ2割になる。というよりも、仕事はできないけど、その人が来たら会社の空気が明るくなる、とか、アフターファイブだけが異常に盛り上がったり面白い人も居るわけで、そういう人々を切っていくと、仕事効率が逆に落ちていったりする。私の社内での効用は「あんな奴でもやってるんだ、できているんだ」と人々に微かな希望を与えることだ。だから、こんど、コレのってしませんか?1日チャーター570万円。旅行ところで、お金の使い方を知っているお金持ちはちょとカッコいい。海外から帰ってきた税関員がパスポートを見ながら怪しいまなざしをチラッと向けていいました。「毎月いろんな国に行かれてますね。どうしてですか?」と。返した言葉は、「お金持ちだから」 車で駐車場を探して辺りをうろうろしていたら、助手席にいたお金持ちが、「ホラ、無断で停めたら1万円申し受けますって書いてあるじゃない、あそこに停めて!」 そういえば、世界一の金持ちであるブルネイのボルキア王には、いろんな逸話があります。シンガポールでグッドウイルホテルに泊って気に入ったので、このホテルを買収したいと申し出たら断られて、この近くにあったハイアットリージェンシー(グランドハイアットに変更)やホリディインを買収して全部スイートルームにして、最上階は自分の部屋にしてグッドウイルを見下ろしたという。さすがに現在はオールスイートではなさそうです。 おまけに東南アジア最大で無料の遊園地を造ってしまうし、(現在は有料。有料になったのはもっぱら弟の資産運用の失敗だとか)自宅はバチカン宮殿より多い1800室近いし、100台のロールスロイスを含む300台の車をお持ちですし、国民は税金教育費医療代がタダ。(整理してたらこんな文章でてきた。もしかしたら以前アップしてるかもしれない) かつて、プラハを何時間も散歩していたら、いたるところでコンサートがあるから見に来いチラシを配られたり貼り出されたりしていた。ドボルザークを聞きに行った。ドボルジャークと聞こえるので何だかかわいく聞こえたのだ。そのドボルザークであるが、大の機関車好きであったらしく、時刻表を丸暗記していたり、毎日駅に通ったり、どうしても通えないときは弟子に行かせたり(行って何するか不明)していたらしい。 ちなみにバッハはハゲだった。カツラかぶるから関係ねえか。 かつて、私はインドを旅行していて、そのときに仏陀関連の本を読んだふりをしていたのだが、仏陀(になる前ですな)の修行中に、シャダルタにミルクを与えた娘がいて、その名前がスジャータといった。そのときは「へえ、ナンかコーヒーのコンフィデンスミルクの名前と同じやん」と思っていたが、十年以上たって、そのミルクがその娘の名前から来た事を知った。そういうふうに自分の中で逆から入ってくることってありますね。 ちなみにカルピスは梵語サルピス(乳製品醍醐)とカルシウムを掛け合せたものらしい。カルピスウォーターにしてから俄か復活したなあ。私はちょっとだけ嬉しかったよ。昔、濃いカルピスを飲むのはステイタスだったなあ… かつて、アムステルダムの国立博物館に行った。入ればすぐ「夜警」がどでぅううぇぇんと現れる。レンブラントは初めて一般市民を題材にした、市井の画家であったといえよう。しかし、残念ながらできあがった作品を見て、描かれた人達は、平等に描かれていない(真中あたりの人達だけが光を浴びている)のに不満で、文句をいい、レンブラントはその後仕事がまわってこなくなったらしい。ちなみにそんなレンブラントは色盲であったらしい。 ちなみに私も色弱である。色弱で困ったことはないですかと就職試験で尋ねられて、「就職試験で困ってます」と答えた。それ以外に生きていて困ったことはない。 かつて、肝炎等肝機能を損なうと、思考能力が低下するということを本で読んだ。そのとき思い出したのが、バンコクで偶然出会った大学の後輩であった。全財産単純に盗まれただけなのに(ジュースを飲まされて3日ほど寝ていた間に財産なくなっただけなのに)、銀行のせいにしたり、パキスタンに行っただけなのに、村全員が復讐のためだけに生きていると言う復讐の村に行ったとか、フライングスネークという空飛ぶ蛇の存在を主張したりとか、完全に電波系になっていた。おまけに、痩せてきて格好良くなってきたでしょ、と自慢しつつハイテンションのまま別れた。 ちなみに私が帰国すると、後輩は、しっかり肝炎で入院していた。 かつて、バンコクの薬局で時々買っていたもカフェイン剤「P-HOUSE」というのがあった。カフェインなので、日本でも法律には触れないであろう(外国で禁止されてない薬局で売っている薬を気軽に持ち返らない方がいい。どこで日本の法律に触れるか分からない)旅行中は、移動でもしない限り朝急いで起きる必要もないが、夜は夜な夜な夜更かししたくなるときにはこいつを服用していた。意識がはっきりして、一本筋通ったような気分になり、眠気がなくなる。但し胃には悪そうである。コーヒー飲んでもグーグー直後に寝てしまえる私でさえ、そうなのだからかなりカフェインが含まれているのであろう。今は販売されているかは知らない。 ちなみにコーヒーは4時間に100杯飲むと致死量となる。気をつけた方がいいよ。
2004.06.13
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以前、時々、行っていた神戸のバーの一つに人形だらけのバーがあった。先程、ハンス・ベルメール→渋澤龍彦→人形→そう言えば、と思い出したのだ。人形以外にもおどろおどろしいものをコレクションにしていたマスターであった。そこに例の、阪神淡路大震災が来た。裏はラブホテルで窓から梯子伝って下りてくるカップルを尻目に、そのバーも結構いかれてしまった。あの辺りは瓦礫の山と化し、マスターも潰れたコレクションを家の前にポンと置いていた。 警察が訪ねて来た。「これはあなたのものですか?」「はい、壊れたので捨てます」「これは子供の頭蓋骨です。ちょっと署まで来て下さい」結局散々調べられたが身元不明の頭蓋骨ゆえに散々絞られて釈放された。 「あれ、中国で買ったんだけど、やっぱり本物だったんだなあ」と少し嬉しそうにマスターは言っていた。電話をしてるときのオートライティング電話をしていっるときに紙と鉛筆があれば、知らない間に書いてしまうグラフティー。 先程、10分程ブラブラ歩いていたら、夜中というのに、道端に座り込んで1000円札を数えている若いネクタイ男が居た。9・11に3・11に続き6・11は何事もなく(日本では12日になった(今0時11分)、まだ世界の大半は11日だ)良かった。何かPCの調子が悪いから今日は終わり。
2004.06.12
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島の東側の波はやたら平穏を保持している。私は、一人寒がりながらコーヒーを啜る彼女との話題に軽い沈黙になり、それを埋める為ではなく、そのセンチメンタルな感じが、彼女を触れる方向に走らせることができたらな、と一人思っていた。 感情は少し高まり、海に浮かぶ漁船を見ていた。 海が軽薄に伝授してくれた。太古の記憶との連続と継続が帰化している。 誘惑してくる。今日の海は、愛や死や哀愁が似合う。海は陳腐だ。簡単に人を感動させてしまう。死と愛というアイテムを使えば簡単に感動してしまうのもだから、敢えてそれは切り離したくなる。 海は抽象が似合う。乖離、中庸、駆逐、払拭、訳分からない言葉の羅列。脳味噌皺クチャ。定規で引かれたような水平線を見る。 悩みや愛を打ち明ける場所としての海。思うに、死を思いやすいから、或いはその衝動に走りやすいから?取りも直さず、表現としての「海に還える」は、逃げる場所が軽く広大に面の前にあるからなのか。無意識に、それなりの或いはその為の覚悟を決めて海に向うのであろうか。 生暖かくなってしまったビールを飲み干して、また海を見る。キラキラした波の反射はツクリモノぽくて嫌だ。 例えば、泳ぎにいくとしよう。肉体の解放だけではない、精神的にも社会的にも覆われた垢を剥ぎ取って貰い、拭いてもらい、塩で揉んでもらい、癒してもらう。海に浮きつつ、還りたいと思う。何処へ。羊水であろうが太古であろうがここではないどこかへ。 イカン、イカン、自分の世界に入っていこうとしてしまっていた。昨日の日記に出てきた(勝手に出した)旧友心斎橋君のそっくりさんそれから、心斎橋君の高校時代のそっくりさんちなみに、私に似てると一度でも言われた人々とかね、とかね、とかね、15年前に一度だけ会ったハルジ君の印象とかね、セルフポートレートとかとかね、シーレ風にいうととかです。先日の飲み屋では隣のおっさんに山之内弁護士といわれました。とりあえず起訴しました。 直近では小池さんと言われました。右端、上から16番目です 国内ナンバー1シェアコンドームメーカーといえばオカモト であろうが、日本生産量ナンバー1は相模 である。何故なら日本では少子化に加え、避妊の8割がコンドーム使用でもはや成熟産業なのである。しかし、海外では10~20%、さらに人口抑制しなければならない国々も多く、需要が見込まれる。★小学生高学年の時、よく学校の帰りに子供達と待ち合わせた場所が会った。その前に不思議な自動販売機があったのであった。私たちは、300円とか500円とかする、ガムのようなものが一体何か全く分らず、「一度、買ってみようか」など言ってみるが小学生に300円は厳しい。これって何て読むのや「サガミス キン?」「サガ ミスキン?おまえ買ってみろや」「なんかあのおばちゃんこっちじろじろ見てるで、何でやろ」そんな事をいいながら結局、一度も買ったことがなかった。もし買っていたら、きっと無駄金を使ったことに後悔していただろう。
2004.06.11
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私、ウイリアムトイモイロウズ少年の高校時代から、アレン心斎橋バーグ少年の浪人時代にかけて、冗談書簡は概ね私が受け取っただけででも200通あまりになる。先日、苦悩の浪人時代の彼のお手紙が出てきたので、第3弾として、彼に無断で、ここに書き写す。将来、考現学第1級資料になることは予想されない。6月30日図書館休み。曇り おはよう、もう今日は、人間は嫌になりました。昨日は駿台模試をモシモシ受けて、久しぶりの試験だったので疲れて疲労のヒーローになりました。今日起きたのはAM11時、そしてうちの駄犬TのためにI高校の向かいにあるI動物病院にフォラリアの薬を買いに行きました。 帰りはちょっと違う道から帰ろうと思ってゴリラを飛ばしつつ見知らぬ道を帰りました。幅約2メートルの狭い道の下り坂グネグネカーブを走っていたら、いきなり向こうからぬっと赤いJOGが出てきました。私はドビックリして急ブレーキしました。すると地面は昨日の雨で濡れたままで、おまけに坂道で、更に急カーブでした、そして驚くことに幅2メートルでした。 私は「アレー!」という間もなく、「うわあ」と叫ぶ暇もなく、あっけなく大転倒しました。ちょっとの間ボーっとしてました。車輪がカラカラ回っていたのが印象的な昼下がりでした。JOGの兄さんは「ダイジョウブですか?」とカタカナの日本語で言ってきましたが、私はボーゼンとしていたので返事もしませんでした。お兄さんは戸惑いながらも行ってしまいました。 私は、ようやく我に返り、起き上がり、破損状況を調べました。うわわわ、腕がえぐれとる。ジ、ジ、ジーパンが、買ったばかりのジーパンが裂けている。ギェエエエ、ブレーキレバーが折れてシモタ。ドエエエエ、タンクがタンクがボコォとへこんどるぞ~。ありゃりゃあ、ステップひん曲がった、体中ドロドロうわーんうわーん。ナニィ、服も破れとるぞ。腕も足も痛いよ~。あれぇ、血が出てきた。エライコッタ、どないしょ、と思いながら何とか家までたどり着きました。 しかし困った。そこで質問。タンクのへこみはっきりいって直りますか?もし直らんかっったら交換代金2万円だよーん。レバーはまあ2000円くらいだろうけどねえ。 事故当時は血液中のアドレナリン急激に増加して興奮状態で痛みはなかったけど、家に帰ってからビンビンきいてきました。とにかくタンクほっといたらガソリン漏れますか?あ、おまけに取り付けたばかりのアルミ製前カゴもいがんでもた。誰が悪いんじゃい!それは私です! おかげさまで有事故無違反になりました。ところでテント買いましたか?Tではますます値下げして4900円になってましたよ。FROMてんとう無視。17年ぶりにお手紙拝見いたしました。大変な事故だったのですね。私もあなたもすっかり忘れていたことですね。それに誠実かどうか不明の私は、ちゃんとタンクの質問に答えたでしょうか?あ、それも忘れましたよね。すべては忘却の彼方ですね。今、あなたの頭の中がカユイのは、その時の事故の後遺症かも知れませんね。私のあの頃、RZ50そして原付スクーター3台、それから免許もないのにガンマ250を所有後、引っ越しました。そういえば、RZは確か、堀川通りにキミがナンバープレート外して捨ててくれましたね。引越当初は自転車でしたが、ついつい4年前についに車を買いました。今の車は4台目です。うち2台は廃車です。ところで、昨年、原付に5年ぶりぐらいに乗りましたが、危ない乗り物ですね。でもスリルが愉快ですね。あなたも転ばないようにして下さい。(あ、もうゴリラどころか二輪車はないですか)FROM糞無視。タイトル「地獄の1週間」5月13日 夜キミ(トイモイ)とPロタが来る。イエスタデーでジンジャエール350円飲む。5月14日 午後5時に○大学発表。まだか電報6時、今か今かと7時、ウーム遅いなと8時、こりゃやっぱしと9時、神様、かみさまよと10時、オーノー11時、来年があるさと12時に寝る。ついに電報来ず。5月15日 朝から心機一転、O図書館へ。わしはヤルぞ!5月16日 朝から心機ニ転、O図書館へ。公園のベンチで猫と浮浪者のおじさんたちと弁当食べる。アベックがジロジロみて「ケッ、バロ~っ」と小さく思った。チクショー。5月17日 朝から心機三転、O図書館へ。図書館終わってからポートピアのバンドールまで走る。神戸大橋ビューンとバイク爽快ぞ!カセットテープ買って帰る。帰りにパトカーにぶつかりそうになる。向こうが悪いんぞ!5月18日 寝坊してO図書館に行くが、既に机無し。そのままスゴスゴと帰ってくる。夜中突如ゲロ吐く。5月19日 これまでの疲れがイッキに出て、ゲリとゲロで一日寝込む。寝たきり浪人になる。しんどいのに、今からこの葉書を投函しにいくのは一大決心だ。 17年ぶりにお手紙拝見いたしました。地獄の1週間だったのですね。その前の週も、その次の週もあまり代わり映えなさそうに相変わらず勉強してそうなので、ずっと地獄の週が続いたのですね。いかがですか、私は、今でも、試験前に勉強しようとするが全然やってなかって焦ったり、塾に行ってたり、受験どうなってるねん、てな悪夢に時折うなされます。ばっ、と起きて、ああ、もう働いているんだったと気が付いて、それはそれでまた空しくなります。ところでゲリゲロは治りましたか?確かに上、下の優先順位は難しいですね。時々、キミの姿を見にO図書館にも行きましたが、司法書士の勉強をしていて、もう浪人生活も10年ぐらいに入りそうな暑苦しいおっちゃんがいましたね。ブツブツ言って危なかったです、でも何となく人事じゃないような気がしましたね。それにしても、学生になってしまったPロタやSニノやMサワリや私が、勉強で忙しい(筈の)キミの家に嫌味ではないけど、夜、意味なく遊びによく行きましたなあ。きっとお母さんは泣いて喜んでいたことでしょう。
2004.06.10
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梅雨の散歩王ノーマネーノーメイク・地面に裾が付くジーンズ・タイで買ったニセモノTシャツ(チャンネルと書かれている)・ビーサン(メス犬の息子という意味ではないよ)・普通の眼鏡・ビニル袋に中身文庫本1冊+デジカメ・片手に缶ビール+傘で昼間から散歩に出掛ける。 あ、あかん、まず5秒で缶ビール切れた。また振り出しに戻る・・・ まずは、目の前の本屋に行くが、この本屋、景色が良い。山が霧で消えて行く。これぱくつきながら。来年乗る予定のポルシェの前の電光掲示板「落とせ、スピード、落とすな、命」のテロップ。シブイ。「落とせ他人の財布、落とすな自分の財布」そういえば、この前の台北で財布ではないがパスケース落とした。泣いた。手続きが面倒だった。多分このあたりで落としたはず。マンション建設住民反対!悲しいかな、ワタクシの会社ではこんなのをナダメル仕事もしている。 そう思いながら 奥崎宅を思い出してた。自宅の壁やシャッターに「田中角栄を殺せ」とか書いてたもんなあ。通るたびにビビッタわ。知らぬ存ぜぬは許しません!橋、右側は天下の 「灘中学高校」遠くから通っている子も多いみたいだ、正面奥は関西のオール億ション 「バブルの塔」、今や中古価格が3000万円台まで落ち、返済を考えると11万円~12万円で、こりゃいけるのではと思うかも知れないが、管理費等が18万円、返済より高い。左は人工島に行くタイヤで走る無人電車の線路。これ、行きたいなあと思いながら歩くのを続ける。右側は元住友財閥当主宅(石垣だけ)。左側は東京三菱銀行。何故都市銀行支店が住宅街にあるか不明。いつも閑散としている。しかし女王宅はない豆腐を買う。 そう思いながら、海は出てこないなあと、思った。(車でなら5分で海にぶち当たるが) 私の実家は、海水浴場まで原付で10分程度。ある夏の日々、よく海に出かけた。海水パンツにTシャツ。途中の酒屋でビール500CCを買う。海岸に着けば、原付にお金のお釣りや運転免許証等を仕舞う。そして、おもむろにビールを一気に飲んで、泳ぐ、それが快感、向こうの岸壁まで。2往復したら、少し乾かせて、帰る。その間30分程度。家に帰ってからシャワーを浴びる。 一度、女性軍団に声をかけられたことがある。「どこから来たの?」「ン。ハハ、オレ、浜っ子、じゃあ」ナンだかシブイじゃん。(浜ベン) そんな時代だったなあ。(どんな時代や?)最期は茶しばいて散歩終わり!散歩の終わりし標べに、ツタヤに寄ったのだが、そこではCDも試聴できる。思わずまた、「キューティハニー」を大音量でヘッドホンしてしまった。「くちゅクチュしちゃあう~イヤヨイヤヨいやあよ♪」のところで腰を振っていた30代後半のヤサ男!やっぱり誰も見ていなかったのだろう。逮捕されなかったから。
2004.06.09
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経済学者ケインズは、「生活から解放された時、人は生きる意味を考え始める」のようなことを言った。反省の色はピンク空が黄色なら何てサイケデリックコーヒーが青ければきっと好きになっていないエラーとは基本的にプリミティブ屋根に登って梯子を取られた気分だぜ地球が丸い、感じますか?ウソっぽい太陽への絶縁、300秒だけ 外を出かけてみたが、空気は歪んでいて、弄ばれていて、もがいているよう。その癖に私の体と空気の間に闇の障壁が出来て、外界とつながらず。空気に嫌われた。空気だけない、大地にも。靴が上滑りになる。かろうじて、すべての人と、すべての物と稀薄にも、空気と土地によってつながっていたのに。 一人の家来もいない大将を演じておけばいい。生かされている事実を忘れた傲慢な奴には、こちらからおさらばさ。邪悪な風は、何の罪もなさそうな人々に撒き散らしそうな勢いだ。 まったく無駄なパワーだ。無駄どころか迷惑極まりない風だ。そのたびに、馬鹿みたいに疲れ、情けなくなる。それ以上に迷惑を被った人々は、怒り、呆れ、そのうち去ってゆく。力の正しい使い方を習いたい。悪循環。 そして、この長い、静かで寂しい夜に面会している。 私が気が付いた時、身をもって多大なる犠牲を払って、分からせてくれた人々に感謝。しかし、気が付いた時、すべては終わっていた。嵐は夢のようであった。これからもずっと同じという幻想を抱くことは、ただの気のいい幸福者であった。 自分が普通の人間だと気が付き、ショックを受けた。精神的貴族、そんなものない。 寒い国だったか、寒い季節だったかはよく覚えていない。外は、俄かに、雷を伴った激しい大粒の雨であった。足元と左肩を濡らしたまま、一人その店で待っていた。妨げになるもののすべては、私を奮い立たせてくれた。紫の蛍光灯に昇る煙草の煙と整然と並べられたグラスを、虚ろにも遠くから見つめるふりをしていた。やたら元気で、デタラメの方向から男女の戯れた話し声が耳障りだ。低い声で話して欲しい。流れてくる音楽が不協和音。そんなことをとめどなく思い出していた。先程、車を停車させるとホタルが1匹フロントガラスにへばりついた。光った。許された気分になった。下らぬことを考えて悪循環するゴッコはやめることにした。 今日もビデオを借りてきた。「惑星ソラリス」。昔、ロシア映画いやソ連映画のオリジナルソラリスを観た。未来の描写がオレンジ色の照明のトンネルか高速道路のようなところを走っているんですよね、あれ東京なんだってね、赤坂目付あたりを走っている首都高。旧ソ連の未来像はトーキョーだったのか。 ところで、リメイクのソラリスはJクルーニーが主演である。この人といえばERを思い出してしまう。原作のMクライトンとジュラシックパークとか書いた人だけど、作家にしてほんまもんの医者免許持っているよね(「インナートラベラーズ」という本、とても面白かった)なので、ERはリアルらしい。私の知り合いの外科医は、日本の医療ドラマが嫌いだ。「アー駄目!そんなことしちゃ死んじゃう!」「ここで、こうしなきゃ手遅れだ!急げ」とか医者独自の感想を述べる。ストーリーではなく、単なる職業病かも。しかし、彼は「ER」を観るのが好きだった。「へーこんなやり方あるんだ」とか「ああ、アメリカではこっちのやり方でやるんだあ」とか「それにしても実際に忠実だなあ勉強になるよ」と彼は感心しているのであった。 そのジョージクルーニーが出演しているQタランティーノも出演のメキシコおばか映画http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD10547/comment.htmlフロムダスクティルドーン笑えます。メキシコではトップクラスのhttp://www.fmstar.com/movie/s/s0046.html女優がセクシー踊り子として出演しちゃってる訳の分らなさが好き。 ところで古本屋で「ザビエルの見た日本」という書簡集を読んだ。ザビエルというと、教科書に載ってる落書きされやすいナンバー1かと私は中学校の時から思っていたのだが、頭きっとそうだよね。ザビエルが日本にきてまずびっくりして、辞めさせようと躍起になったのが、男色。普通のことだったんだよね。しかしこの本には出てなかった。この本で分ったことはイグナチウスロヨラもザビエルも金持ちでお互い隣町の城に住んでいて、もともと残念ながら敵同士だったということが分った。それに、一番迷惑な宗教心だね。「邪教に侵された僧たち」とかう表現が目立ち、辟易するが、宣教師ってのは誰より早く現地入りするのは、その使命感ゆえなんだなあ。苦しいね何か。そういや亡くなっても腐らなかったんだよねこの方
2004.06.08
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凋落の記、隆起の記 我が街を散歩する 幸福な時期、果報者、溢れている者、表現が不要な者、道具としてしか表現が不要な者。1時間の彷徨であった。「待つ」という行為は往々にして苦痛であり、息苦しいものであった。主体的に「待つ」を最優先に置いて、目標があって、対象があって、太い実態が横たわっていた。「待つ楽しみ」「ついでに待つ」 せめて、そこで、そして、1時間、目的も無く、ただ、爛れた。既知の道を、薄れた記憶の時間帯の挟間に、静寂を持続させながら、シンコペートさせながら闊歩。薄れた季節の気温と湿度の混合の中に、既知の風景を飛ばしながら、ハーモニーさせながら疾走。 街は、それでそれはよかった。 夜のオフィス街は細々と息をしていた。 夜の中華街は重厚に酸味を発していた。 夜の旧外人居留地は生の鼓動を拒否し、存えていた。 夜のセンター街は、立ちん坊娼婦と嘔吐物と閉じられたシャッターの祭典であった。 片手をふさいでいたビール缶を一気に空け、潮の薫りが濃淡になる方向、つまり南に向かって落ちて行く。 夜の海の水面は、コールタールのようで気だるく揺れ動いていた。強力な吸引力と粘着力を以って誘惑してきた。振り切れば、イルミネーション。華麗であり虚構であった。そこでは、人々は、笑っていた。成金も阿呆も若者もビジネスマンも淑女も醜男も笑っていた。それはよかった。皆、元気だった。それは、それで良かった。 マニュピュレートして、キャラキュレートして、してして~。丁重に棄てられることと、屑のように捨てられることに何等相違はなかった。使い捨てられるなら、それはそれでいいと思った。期限付きの「待つ」時間が終わりを告げつつあった。一人は良かった。浮遊は良かった。浮遊は特権階級を押し退けた。主張とそれに付随する力みがなかった。軽やかな離脱であった。潮の混じった空気は私を捉えた。ひとりはよかった。だが、なお、ふたりもいいかも知れない。神戸の高校 成績表ギャグ映画を見直した。「ライジングサン」主演:ショーンコネリー。日本大企業(コングロマリット)落成パーティに引き起こった殺人事件を追う自称日本通の(ショーンコネリー)のドタバタ喜劇。1. ショーンコネリーが日本人に握手をしようとアメリカ人を制して「違う!」といって深深と、一歩引いてお辞儀をする。→そんなに、誰もかしこまってしねーよぉ2. パーティ会場の受付場が芸者ガール→ええなあ。おまけに傘までさしとる。3. 会議室の裏にシークレットルームがあり、そこはセックスルーム→日本企業がそうとは知らず勉強になりました。やはり単なる社員では、本当のことは分からないもんなんだなあ。4. フンドシ1丁で女体盛り寿司を食う日本人。乳房の間に酒を垂らして飲む→ハア。ところで、一度、温泉街でこの女体盛りを体験したことがあるという土建屋のオヤジに話を聞いたことがある。面白かったのは、翌日の朝、チェックアウトしようとしたら、土産物の店員さんにその女の子が居て、笑顔で手を振ってくれたそうだ。5. 日本企業研究所の会社名が「ハマグリ社」→泣けてきた。6. 豪華な屋敷がヤクザの愛人宅→こんなの描くからやくざ希望の方が増えるのかしらん。7. ゴルフ場の倶楽部ハウス内に雀荘がある→私自身10年前にゴルフ引退したので今はこうなっていたのか。あれ、違う、これも10年前の映画だった。こんな楽しい国だったんだね~。東洋の神秘は健在であるなあ。 そう言えば、シンガポールに出かけた時、私は後輩2人と、「おもっきり日本人ゴッコしよか」と言って、3人とも、Tシャツ単パンになり、眼鏡をかけ、一眼レフを首からぶら下げて歩いた。残念ながら3人ともポーチを持っていなかったのだが、まあ「日本人してる?」と言い合いながら街を闊歩。マレーシアから来たバスの中で一緒だった西洋人にばったり出会い、ナンかバツが悪くなり「俺ラ、バリバリの日本人に見られたんちゃうん?」と不安になった。日本人ゴッコというタイ人が日本人のふりをするというオモシロカナシズムの本があったなあ。 ところで、ツタヤに借りにいったのだが、そこではCDも試聴できる。思わず、「キューティハニー」を大音量でヘッドホンしてしまった。「くちゅクチュしちゃあう~イヤヨイヤヨいやあよ♪」のところで腰を振っていた30代後半のヤサ男!きっと誰も見ていなかったのだろう。逮捕されなかったから。
2004.06.07
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銀嶺の覇者 先日、顧客の妻が心不全で亡くなった。結婚2年、子一人、まだ20台。前の日まで、用事で話をお電話でしたところだったのだが。 数年前、前妻(現妻まだ)の知合い(私と同じ年の男性)も心不全でなくなった。休日の朝、いつまでたっても起きてこないので、妻が見に行くと息がなかったという。 前日の夜は、友達数人で会っていたらしく、そのうちの一人が「明日ゴルフに行こう」と誘っていたのだが、その彼は後日、「午前中に用事があるからと断られたけど、無理にでも誘って早朝5時に起きてもらってれば、まだ生きていいたのに」と悔しがっていた。 私も、山で二人の知人を失っている。Aさん。私の二つ上の先輩Bの一番仲の良い友人であった。よく覚えているのが、18歳の時、「インドに行くのですっ!」と鼻息荒く、インド経験者のAさんに伝えたところ、涼しげな笑顔と寂しげな笑みを交わらせた顔をして「止めといた方がいいよ」と言った。Aさんは、その時、レプラ(ライ病)の乞食の話をしてくれた。 その年の夏、Aさんは隊長として、パキスタンのメラピーク登頂を目指してパーティを組んで遠征に出た。 話はこうだ。高山病に陥った後輩の限界を知り、Aさんは自分自身の登頂は諦め、後輩と二人で、先に山を下ることにしたらしい。 そして後輩が高山病や疲れから朦朧とした意識の中でよろけて足を踏み外した、その瞬間、Aさんは、彼を支えて助けた。 が、Aさんは、このまま谷底へ落ちて行った。 日本では遺体無き葬式が行われた。Aさんの母による遺稿集が出た。インドの聖地バナラスのガート(沐浴場)で、夜中、オナニーをしているインド人を見たことが載っていた。Aさんは、涼しげな笑顔と寂しげな笑みを交わらせた顔をして、それを見ていたのではないかと思った。Aさんには彼女がいた。彼女は学生の時に彼氏を失った。私の先輩Bと結婚した。二人は学生の時に結婚した。途中の経緯やドラマは聞かない。生前、3人はとても仲が良かったことは確かだ。やがて、2人の間には2人の子供が生まれた。ただ、残念ながら、今、先輩Bは一人で暮らししている。もう一人は私の同級生Cだ。Cとは、大手お菓子工場で、夜中の徹夜バイトを一緒にしていた。ベルトコンベアーは、いつか終わりのあるアルバイトには楽しい経験だよね、と朝もやの中、つまみ食いのし過ぎで、口の中が気持ち悪いまま、語り合った。 Cも私も、夏休みの資金を貯める為に働き、私は中国からヨーロッパまで100日間程度の陸路の旅行計画を、彼は1ヶ月に及ぶ山合宿計画をそれぞれ語り合い、私が帰国した時に報告しあおうというということで、意気統合していた。 あっけない死であった。山の谷底を流れる川が雨の為に増水しており、渉れるか確認ししょうとしたら、そのまま流されてしまった。山で溺死。 法事の度に、私は年をとっていく。 毎日、生きていると錯覚しているが、生かされているだけなのかも知れない。 ついでにいうと山でもう一人。D。彼は、山で雷に打たれて心臓停止。しかし、「ボクは生き返ったんですよ、生まれ変わったんですよ」人懐っこく彼は笑った。つくづく洗濯物を干しているときに思う。背広の色に合わせて靴下の色、ベルトの色に合わせて靴の色を選んでいるというのに、このトランクスの色の統一性のなさよ。
2004.06.06
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誰でもないあの方への手紙 あなたを批判するのは、妬んでいるみたいだから辞めときます。私は、相談役も慰め役も辞退します。自分で解決して下さい。不特定多数あなたへ。私は、あなたにとって問題外の人になってしまいましたね。 そう言えば、あのイタリア人、もうエイズで死んでしまったのだろうか。悲惨ドミトリーでの会話だったな。 あのオカマのフィリピン人カメラマンは元気だろうか。一緒にホモディスコに行ったね。すっかり忘れていたよ。一人の女の子を連れてきていたね。彼女は泣いていたよね、泣いているのに、一緒に踊ろうといって、私をダンスフロアに誘ったね。男女で踊っているのは私立ちだけだった。最後まで彼女の泣いている原因は分からなかったし、それはどうでもよかったことなんだろう。店を出るときにカメラマンは言った「ゴメン、ここホモディスコなの」そんなの分かっている。 大阪でもそういえば週末のホモディスコに行ったな。私の後輩が、自分の彼女を連れてきていた。すぐ近くに住んでいた私を連れてきた。トイレが行列になっているのが、なんだか状態であった。私の住んでいたところはホモの集まる真ん中であった。道理で、道端で男に声をかけられることが多いと思ったよ。そういえば、住んでいる隣はラブホテルだったのだが、男同士入っていくのを何度も目撃したんだよね。 思いっきり、耳を手でふさぐと、地獄の音が聞こえます。目を閉じると火の玉が振ってくるイメージです。 面白かったことも楽しかったことも苦しかったことも、上澄み液になっただけ。手紙には書きません、エピソード。どうでもいい細部だけにこだわり。下男の話、祭の話、映画の話、列車の話、城壁の話、オートリキシャーの話。 若いから、無茶とか、はちゃめちゃ、とかしたいでしょ。そういった瞬間、私は、いつも若いと思っていた。 セラヴィ、謳歌してね。
2004.06.05
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先日会った同級生の息子が万引きをして警察に補導された。何を隠そう、私もほろ苦い思い出は幾つもある。そんなある光景を思い出しながら、同級生の話を聞いていた。 中学校1年の1学期間だけ、私は、大の鉄道ファンになっていたのである。私は山陽本線線路沿いまでよく写真撮影の為に早朝や夜中に家をこっそり抜け出しては線路沿いにスタンばっていた。私の住む地域は東海道本線の静岡辺りから、次に走りながら海の見える神戸市の西部に住んでおり、バックに海を写す等、よく鉄道ジャーナル等の写真スポットになっていたのであった。私は、ブルートレインの通過する時刻を一晩かけて作成し、密かにそれを我が心の内なる宝物紙切れにしsていたのであった。 勿論、時効なので話すが、置石してみたり、10円をレールに置いて飛ばして硬貨をツルツルんいしてみたりと、チープスリルを味わったものだ。 そんな中で、大阪駅、そして東京駅上野駅と中学生ながら単身夜行列車(岐阜県大垣発東京行)に乗ってはパシャパシャ写真小僧をしていたのである。 中学校初めての夏休みが近づこうとしている頃、私は仲間2人を誘い、また撮影会に行こうと誘った。勿論、中学生にお金はない(今もないけど)し、それは先月の東京行きで全て使い果たしていたのである(私も先月のクレジットカードの支払いで今月分は全て使い果たしている所か、今月分の生活費を落としている) 我々は、次の駅までの切符を買い、電車に乗り込んだ。そして大阪駅、京都駅と順調に撮影を終え、米原駅で乗り換えの為、ホームを歩いていた。「君達、切符みせなさい」背後から制服を着た悪魔が声をかけてきた。制服に一番近かったSがそその前にいたTに声をかけた。「ア、俺の切符持ってるやろ、出して」Tがそそのまま、その前にいた私に声をかけてきた。「ア、俺と、Sの切符持ってるやろ、出して」私は、背中に汗をかきながら意味無く笑い、「ア、どこかな」とおもむろにかばんの中を探し始めた。「ア、あったあった、1区間やから追加料金払わなあかんなあ、ハハハ」5分後、我々は、牢屋のようなところに案内され、一人づつ執拗な取り調べを受けた。私のカバンからは順調に「大計画書」が出てきた。「君ねえ、名古屋まで行くつもりやったんか」更に、こっぴどく怒られ危うくラーゲリ(収容所)送りになるかと思った。 キセル乗車はロクでもないということを弱冠12歳で学んだのであった。 で、その同級生であるが、戦友というのは極限の中を共に生き抜いて戦い抜いて同じ釜の飯を食って、一緒にいたのがほんの短い期間であっても、その後の人生でほとんど会う機会がなくても、こいつのためなら何だってしてやりたいと思える程の仲間になってしまうように、何となく彼にもそんなことろがある。 ひとつ思い出すのが、日本の北アルプスの槍ヶ岳を秋に目差したことである。私は、これでも知人を2人、山で失っているので、そんなに山をなめている訳ではないつもりなのであるが、えらいことに気がついた。「先輩、すみません、間違えてワンダーフォーゲル部のテントを何故か持ってきてしまいました。ポールはうちのです」そんな訳で、2畳にも満たないテントに5人と総量120キロ分の荷物が入った。寝袋を敷いてザックを枕にすればキョーツケ状態で動けぬ。奴隷船である。これが何日も続くと発狂する。そして2日目、大雪に見舞われ、我々は停滞。すごい風で、一番端の男がテントに挟まって見えない。そして、我々は、そこで体操座りをしてメシまで作るのであった。火も使うが高所の為沸点が低く、おまけに胡坐はかけず、飯はまずく、そして暇であった。5人はキョーツケをした状態でぴっちりひっついたまま寝袋に収まりつつも、1日意味のないことを喋り続けた。 翌日も嵐と雪は収まらず、また停滞。結局、翌日、槍ヶ岳登頂は諦め、下山して行った。どんな話を皆でしたかシモネタ以外は忘れたが、擬似連帯感を味わった登山であった。 何がいいたいのか、まとめはないです。 大富豪、ハワードヒューズは、トランジット人生であったと思う。世界一周を最短時間で達成したあと、ラスベガスで引きこもりしてしまったのだが、確か10年以上前の記憶なので定かでないが、世界中どこにいっても、彼の宿泊先は机椅子の配置や装飾や温度湿度を同じにして、世界のどこにいてもどこでもない人生したり、とにかく仕事場を航空機の中に作り、給油以外飛び続けて、そこから仕事の指示をしたりと聞いたことがあるが、馬鹿馬鹿しいが面白い。 住所不定、いい言葉だと思う。私の、夢ひとつ挙げれば、やはりホテル暮らしだ。愛車は、勿論、タクシー。
2004.06.04
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SPEED 距離、空間、時間 パキスタン西部クエッタ - イラン国境 トフタン の18時間バス> 自転車のカゴとエッフェル塔って似てるよね、今日、フト思ったよ。 私らしくない話であるが、私は、毎月1万円で、大丸の積立をしている。1年たつと、1万円の商品券がついてきて13万円になるのだ。銀行の利子を考えればなかなか高いし、万一大丸で買う気がなくても金券ショップに持ち込んだところで、銀行利子の数百倍の利息分は受け取ることができる。今日は、そんな訳で、1年が経過してたので大丸で手続きをした。 私らしい話であるが、私は、その1万円を自動引き落としにしていたのであるが、その口座を失念してしまっていた。残高不足の場合、引き落とされないのであるが、何故かその口座は当座になっており、マイナス分は自動融資になっていた。最近は銀行も経費節減か通帳未記入のものを郵送してくれることがなくなって久しい。その口座も、数年前に既に余白がなく記帳できない状態(というより既に通帳紛失)していて、1ヶ月ほど前、たまたまついでに通帳を更新して記帳してみて驚愕すべき事実が判明したのである。毎月引き落としが1万円あるが、残高0にもかかわらず自動融資されていたのである。私は知らない間に10数万円の借金をこしらえていた。おまけに返済で1万円毎月落ちるのであるが残高がないので同時に1万円がその場で融資されているのである。マッチポンプ通帳と化していたのである。 私のエライところは、「こりゃ大変じゃ」といったままほったらかしているところである。 今日は空間のことを書こうとしていたのであるが、それは5年後ぐらいに書こうかと思っている。
2004.06.03
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昨日の続き 20時30分、10年以上ぶりに訪れた西宮の居酒屋に着いた時には、M先輩は既に17時より飲み続けており、もはや泥酔状態。「15年も働き過ぎたわわいやわいや、銀行今日辞めたんや~」と居酒屋の中で愛を叫んでいた。月末、税金締め切り等で20時台でも行員にしては早すぎるこれはおかしいと薄々感じていたのであるが。 それにしても何故、今日で終わりだというのに、送別会がないのか、最期に同僚と飲みにいくのがないのか少し不思議と思いつつ、乾杯の嵐。「で、おまえはいつ辞めんねん」を約2000回言われたが、昨日までそれは自分に問いかけていた言葉であった。 先輩は、大手都市銀行勤務で、我々のような兵隊大学の中ではまずまず出世したほうであったようだ。しかし、ここ数年は、取立て専門で、つくづくイヤになったという。真面目に返済する人を可哀想に思い、何故返すのかと思いつつも取り立て、開き直って払わないベンツのおっさんには、強いこともいえず、まあ返しても返さなくてもこちらはただの会社員だと、自分を慰めてきたらしい。 先輩は、しっかり辞めると宣言して退職金を取って辞めた。しかし、辞めるといってから辞めるまで執拗ないじめにあうのだという。そのため、退職金請求どころか、ある日突然、失踪する社員が少なくないらしい。 先輩に、半年前に会った時には、上司から「お前は首や」と言ってくれないかなと真剣に言っていた。 きっと先輩は、鬼畜に戻ってまたしばらく旅立つであろう。学生時代、サハラ沙漠縦断を1回目失敗し、休学して2回目のチャレンジに出かけた程の人物だ。何故か休学しても、金がなくバイトをして7月にまだ日本にいたが、ちょうど中国パキスタンのクンジュラブ峠の国境が解放された時で日本人第一号になったるといって勇んで行ってバス正面衝突で中国未解放都市(というのが昔あった)で入院したりしながらも、いつしかサハラ縦断してナイジェリアのラゴスから手紙が来た。「こいつらは人間じゃねえ」ちょっといってしまっていた。朝3時、解散。先輩は朝、もはや起きる必要はなかった。その日、カオサンロード朝方 隣の部屋には、偶然出あった後輩が泊っていた。タイ女性と一緒であったのだが、二人ともヘロイン中毒になっていた。朝方、ギャーっという奇声が上がり、その女性の背骨が不自然に折れ曲がったような姿で床にのた打ち回っていた。慌てて起きて、ワタシと後輩は彼女を担ぎ、表にでる。宿の人は我々を冷ややかな目で見て、手伝ってくれそうにもなかった。またヤク中かと呆れた顔をしていた。 タクシーでなく、トゥクトゥクに乗った二人を見ていた。テールランプが歪んでいた。 昼過ぎ、二人は戻ってきた。彼女は、注射2本打たれたと笑いながらその跡を指差し、笑いながら、運んでくれてありがとうと私に合唱してくれた。後輩は、ビザ延長の為、一度国外に出る必要があり、マレーシアに向かおうと彼女と二人ファランポーン駅に向かっていったのであった。トゥクトゥクに乗った二人を見ていた。排気ガスが不必要に出ていた。 スコール。私は惰眠に入る。全く起きる必要がなかった。
2004.06.02
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夜、急に何年も会ってない大学の先輩から電話があった。「おりゃー!銀行今日やめたぞ!飲むぞ!」年収1500万エリート銀行マンは、明日から、ただの38歳独身無職ホモになる。願により退職を認める!株式会社○○○○銀行明日から予定は何もないみたい。切れたみたい。某月某日 バンコク 夜中の2時、喉が乾き、下の24時時間レストランに行く。ナンとか頑張って注文する。「パパイヤシェーク」注文を受けた兄ちゃんの真面目な顔が愉快だが、ここで笑ってはいけない。1. 冷蔵庫からパパイヤを取り出す。2. パパイヤを切って、ミキサーに入れる。3. シロップをドボリと入れる。4. クーラーボックスを空けて氷を入れる。5. スイッチを入れる6. 15秒待つ。7. コップに移す。8. 作り過ぎた。9. 眉毛がハの字になった兄ちゃんの姿が見られる。運び込まれてきたパパイヤシェイク体内注入作業の処理は、氷占有割合が多過ぎて、ストロー内限界密度及び肺活量不足により、粛々と、進まない。全身全霊でストロー吸込み活動の死闘を展開している間に、西洋人がワタシのテーブルに座り、勝手にスプライトを取り出してきて、ウインクをして、沈黙が始まった。数分が経過した所で、ワタシはパパイヤシェイクと悪戦苦闘継続中であったが、前のフランス人は微粒だに動かない。十数分後、遂にシェイクを空にすることを達成したワタシは、晴れ晴れした気分で勘定を済ませた。お釣りを貰うときにやっと、そのフランス人はワタシが席を立ったことに気が付き、にやりと笑って「おまえも同類か」と目は語り、ワタシは黙って、煙草(クロングテップ)を進呈し、「グーテンナハッ、アウフビーダーゼーヘン」とドイツ語でおちょけて見たが、既に彼の意識は山の向こうへ。ワタシは、タイ語を解さないのであるが、ワタシの前で展開されているお喋りを自動自己解釈してみたのであった。女同士の喧嘩に、トゥクトゥクの運転手が仲裁にはいったようである。運転手「おっと、喧嘩はいけねえ(何故か江戸調)、ディズニーランドの王子様ならいいぜ」といいつつ指を口元で揺らしながら「チッ、チッ、チッ」とにやけながらやってのける。女性2人がそれを見て呆れているうちに、エンジンを吹かして、クラクションを2回鳴らして行ってしまう。別のトゥクトゥクの運転手がやってきて「わしゃよう分からんわ」と言ったが、中国系の上半身裸で腹の突き出たおっさんが店から出てきて、運転手の胸ぐうらを掴み、「金はちゃんと払え」と言っている。「分かってるよ」と運転手は言いながら、近くにあった卵を指差す。「もうアフガン戦争はとっくに終わったんや、息を吹き返せよ」と白目を向けて笑ったふりをする運転手。女性のうちの一人がどうやら運転手の妻のようであり、旦那に「男のお喋りはみっともない」とたしなめるが、運転手は、分かってるとジェスチャーをするだけ。夜中と言うのに、赤い上着に青いパンツを履いた少年が走っている。女性2人に「イーダっ」をする。運転手の妻でないほうの女性が、歯を剥き出しにして腕を組み、「あなたの考えることではないわよ」と叫ぶ。少年は「ヒッチハイクしにきたのに」と言い返す。運転手はパーマのかかった妻に「おまえ、まだ…」と感動的な目つきで見つめる38歳になっても純な男を演じている。明日の予定は何もないみたい。切れたみたい。
2004.06.01
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