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自宅ではなく、仕事先の移転作業を昨日から指示しているが、そりゃもう指示駄々漏れである。レンタル事務用品等の引き上げ、しっかり事務椅子にパイプ椅子、コート掛け、空気清浄機のリモコン等がなくなっていた。急いで、現場引取り君にではなく、営業担当にメールをした。「なくしちゃったけど、怒らないで負けてね、ムフ」と。電気はきっと止めなければならないが、今休止連絡を忘れてたことに気がついた。水道は隣から管を分岐しており、その辺はもう知らん振りだ。売ってはいけない家具をリサイクル業者に間違って売ってしまい、追跡調査したが、既にネットオークションで売れてしまったとのこと、どうしよう。取引先業者の社員が欲しいといった家具があったので、いい顔して廉価で販売すると見栄張って、昨日OKしたら、今日それは必要なことが判明し、急いで連絡したら、「えー。、もうトラック借りて、今そちらに向かってますよ」といわれ、スンマセンを100連発!ビジネスホンを解体した後、移設先での電話設置、「すみません、管にそんなに回線と降りません」「なにー、無理やりねじ込んでくれ、最悪露出だあ」と携帯電話のやり取り。コピー機複合機の移設、LAN設定。「大変です、パソコン自体がいかれててます」「じゃあ、こちらのパソコンいってくれ」「あ、こちらもイカレテます」「なにー」「ちょっと、このパソコンずっと壊れてたの?」と現場責任者に聞いたら「ハイ、ずっと壊れてました」「え、パソコン、じゃあ、使ってなかったの??」「生きている無事のパソコンでやってました」「びっくりのあぁ、落胆のおぉ」「こんたわ、引越屋です、エアコンの取り外しに来ました~」「(な、なにぃ、もう専門業者で取り外したぞ・・・)すんません、わざわざきてもらいましたがキャンセルです」「ええ」レンタルマット業者による(まあダスキンだけど)回収。「次回ですねえ・・」「(いそがしいのだよテメー)あ、また営業は今度にしてね」自動販売機の回収。(まあコカコーラだけど)回収。「次回ですねえ・・」「(いそがしいのだよテメー)あ、また営業は今度にしてね」警備の解体。「今日から警備かかりませんからね」「はい今日からガランドウです、イエイ、ギャランドゥ」コンビニで10年ぶりぐらいにペプシコーラを買い一気飲みする。「懐かしいなあ。明日はスコールを飲むぞ」と誓う。イベントで使った風船ふくらましヘリウムボンベ発見、すぐにボンベ屋?に電話。「ボンベ回収に至急、今日、今から来てください!」引越業者いわく「あのーまだ梱包してないのでしょうか」「そうです、20箱ほどです、な、」(皆を見渡す)「なにー何もしてない?急いで、私物の梱包してくれー」有線放送の終了。「あ、チューナーとスピーカー買い取ってもらってましたね、置いていきます」「こんなのいらねえよ。あ、そういえば、昔、このいらないスピーカー10個を家にもって帰り、全部つないで流したよ。壮大だったなあ。」と5秒間感傷に浸った。部屋が一室急遽必要になり、急いで不動産屋に行く「すんません、1ヶ月だけ、部屋どこか1室あありませんか」といい、敷金礼金なしの家賃3倍で借りることに決定、急いで本社に戻り、稟議書を書き、提出、仲介手数料と家賃を経理から出してもらい、急いで不動産屋さんへ。「すんません、これ契約書捺印してきました、で、これお金、で、鍵、下さい!」といって鍵を貰う、同時に電力会社に電話。携帯電話が急遽必要になり、ツーカーへ。「すんません、3日間だけ、携帯電話が必要になりました、どうしたらイイデスカ!」といい、プリケーを購入、13000円、に1000円カードを購入。「すごいだろう1秒で購入を決定、支払いまでを5分で終わらせたぞ、あ、領収書は会社名ね、さっこの個人本人確認はあくまで確認だけだからね」と訳の分らないことをいった。引越屋より、携帯に電話「スンマセン、今日中には引っ越し全部無理です」「じゃあ、明日もお願いします」(クウウウウ、明日休むつもりだったのに・・・トホホ)
2004.08.31
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だいたい、こんなところだ。東京オリンピックと大阪万博のハザマに産まれた私は、今日、会社から自宅まで270分を要した。自宅3駅手前で、遂に、列車は終わり。昭和30年代の不自由な時代のノスタルジー世代と、高度成長期団塊の世代の子供達世代のハザマで産まれた私は、JRが静岡県で車内から海が見えるのをバイバイしてから兵庫県神戸市の西部の次に海を見るまでの凡そ500キロの間の東海道線を乗っていたのであるが、高潮で列車に波が当たる恐れがあるために止まってしまったのである。阪急沿線と阪神沿線のハザマにある旧国鉄沿線に産まれた私は、まずは、タクシーに乗って帰ろうと、駅を出たが、凡そ2万人ぐらいがタクシーの列に並んでおり、計算高い私は約2秒で、2万1番目に並ぶのは止めて、暴雨風の中、歩き出した。私の真似をした輩が後ろから着いてくる。しかし、前を歩いている輩は、きっと私の事を、「真似しやがって」とほぞを噛んでいる筈だ。企業(メーカー)訪問でスーベニアとして貰った賄賂としての傘も、暴風の前にはひとたまりもなく、敢え無く骨が折れた。しかし、肉体の奥深くに骨を装備した私は、約10分の歩行を敢行し、背広のズボンが足の肌にぺたっと張り付いたのをものともせず、阪急の駅に辿りつき、無事切符を購入した。傘をすてるのもなんだから、取りあえずと居酒屋の注文みたいに捨て台詞を吐きながら、傘を捨てずに電車に乗った。専業主婦が多く排出された頃とかぎっ子という言葉がもてはやされた時代のハザマに産まれた私は、また阪急で1駅だけで、降りて再び暴風の中を歩き出した。雨が頬に当たると痛いので、私の性格のようにひん曲がって折れた傘を、無理やりさして帰った。シャワーはもう外で十分浴びたので、もういいかなと家に帰って思ったが、シャンプーもしていないので、やはりまたシャワーした。考えれば、1950年代と1970年代のハザマで生まれた私は、1960年代うまれだった。
2004.08.30
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室伏選手が金メダルに昇格、どうも平井賢、野口健 http://www.noguchi-ken.com/ と似ていると思うのだが、オリンピックもあちは男子マラソンで終わり。先日、ディープブルーという映画をみた。BBCが7年かけて90分だけの海の生物の不思議なシーンを集めている映画で、その瞬間やその偶然を待ちに待つ続けたという幹事の映画で、へえこんなシーン撮れたんだなあと感心しながらも、どうもひっかかるものがあり、家に戻ってからRベンソンの「アトランティス」を借りて観なおした。そっか、ここ2,3年のCGは何か凄すぎるので麻痺しているのだと分った。2作ともみて、まるでCGみたいだと思ってしまったのであった。駄目だね。先日、外国人の友達を案内したが、何となく地元しかしらない所へ連れていきたくなるものだ。そういえば、香港の観光バスあんちゃんも、工事中の橋の上まで無断で行って止まってくれ、「今ここが対岸の夜景をただでみるには一番いい場所だぜ」なんか言ってくれた。これが、インドや中東になってくると、親戚一族郎党の家紹介引き釣り回しの刑になっちまう。安売りの店発見http://www.whobrand.com/今度、ローマに行く時にはここに泊る!http://www.hotelturner.com/giapponese/italiano_jap.htm
2004.08.29
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22万4858円それが請求額であった。仕事を早々に切り上げ、ディーラーに行き、泣きを見る。ステアリングギアボックス111000円をはじめ2.3万円のオンパレード。泣かされている横を、見たことのない車と、営業マン7,8人が垂涎のよだれを垂らしながらその車に群がっていた。工事担当者も、私の請求額に微塵の同情も見せず、その車を凝視していた。「トイモイハン、アルピナですわ、2400万円です、誰があんなん買ったんでしょうなあ、家買えまんがな」と限りなく嫉妬と大阪弁が交じった表情と言葉を発した。計算高い私も、思わず人間コンピューターが走った。「私の車、100回も修理できま!」ボディブレード、塩もみ、ヨガ体操、もみだしエステ、ベルト、主食抜き、冷麦、ダイエッテゥイン、ビスラットゴールド、下剤、恋愛、ビール酵母ダイエット、スーパーシェイパー、スリムメイト、ハラマキ、キノコ紅茶、惰眠、パイナップル、こんにゃく畑、ラストチャンス、ノーパンダイエット、ダイエットサプリメント、サウナレオタード、サイクルトレーナー、モンセール減量法、あしつぼダイエット、ルームランナー、ブレードランナー、女帝メニュー、ダイエット食品群、低インシュリン、スタイルローラー、スパイラルテープ、アイソメトリック、ダンベル、洗濯バサミダイエット、鈴木その子、風呂帽子、マイクロダイエットにマグネシウムダイエット、カロリーメイト、酢、万歩計、気功、回虫、ハイキング(合ハイ含む)、冷却シート、アカスリ、納豆キナーゼ、脂肪吸引、飲尿、豆乳クッキー、断食、中国針と気、ゼニカル、ダイエットスリッパ、骨盤体操などなど、いろんなダイエットをほとんど試していない結果、勝手に痩せてきた、というより、腹がまた凹んできた。2年前の背広のズボンがはけるようになってきた。よかった。夏は終わりかけ。今、3ヶ月ぶりに体重計に乗ってみた、が、体重は同じであった。レーニンは10月革命を成功させた1910年代、住宅政策をこう掲げた。「おいらたちは、今は貧乏だ。しかし共産主義の下、我々はきっといつの日か、平等に豊かになっていく」というようなことをいって、1部屋6LDKや7LDKのマンションや家をたくさん建てた。「そのうち1家族がこの部屋に住むようになる、しかし今は一家族一部屋だ」といって、1つの家に6,7家族を住まわせた。それから何十年という月日が流れたが、一向に人々は豊かにならず、相変わらず、1家族1部屋から脱却できなかった。その後の住宅政策も2DKのような小ぶりなものばかりが建てられた。皮肉なことに、資本主義が導入され、ロシアンマフィアが暗躍する現在、それらの家の住民は新興成金達に追い出され、リフォームをかけ、豪華な6LDKや7LDKに住み始めている。電車に乗っていて思ったんだけど、最近、水を買う人が増えたからもあるだろうが、昔確か、国鉄時代には、たいていの駅プラットフォームには蛇口が何故か丸い噴水型水のみ場があった。(インドにも誰が飲むのかあったなあ)しかし、JRになってそれらは撤去されて、変わりに自動販売機が置かれるようになった。なんだか、さもしいなあと思った。
2004.08.28
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何か前にも書いたことがあるような気がするけど、まあ、いいか。大学1回生の時、通知表を貰った仲良し(実は一人を除いてそう仲良くない)4人組が成績表のみせあいっこをした。まず、高校からの同級生であったN君は、「おお、48単位や」と言った。そしてO君が成績表を開示した。「おや、19単位や」そして私がO君に向って、「あんたアホやなあ」といいながら成績表を開いた。「ん、英語2、体育1、基礎ゼミ4、地学4、法学4・・・以上15単位」そしてSが私に向って、「あんた馬鹿だね」といいながら成績表を開いた。「あれ、基礎ゼミ4、地学4・・・・8単位???」大学2年のとき、私には留年リーチがあった。一般教養最低32単位リーチ、経済学甲リーチ、経済学乙リーチ、経済学丙リーチ、英語経済書講読リーチ、ドイツ語甲リーチ、ドイツ語乙リーチ、英語乙リーチ、経済原論リーチ、であった。私は、懸命に勉強した、とても勉強したふりをした。試験の2日前にドイツ語の教科書を紛失したりもした。そして試験結果は9つのリーチを1つクリアして留年は決定した。単位は、頑張って、ついに20台の大台に乗り、23単位であった。既に留年したことは、親にはトップシークレットのユアアイズオンリーであった。すなわち大学3回生ともなると貫禄はついてくるものの、リーチは相変わらず8個のままだった。そうは問屋が許してはくれないのだ。大学当局は、一個人には個人的に冷酷なのであった。おまけに授業料も欲しいはずであった。魂胆は見えている。だから学部の2割も留年させるのである。そう思っていじけることにしていた。しかし、試験は無常にも無情にもやってきた。私は、昨年程度には頑張った。私は、見事8個のリーチをクリアした。大学当局の慈悲であることは確かであった、2留させるのは申し訳ないと思ってくれたに違いない。利益集団にも涙はあるのである。ちなみに29単位であった。4回生というのは、天皇とも呼ばれる位であるが、それは単純に年を取っただけの儒教の弊害に過ぎない訳だが、何となくいばりたくもなる。おまけに、就職活動もない。4人組のN君は既に3回生で必要単位数140単位をクリアしていたが、O君はあと60単位卒業までに必要であった。私も、73単位必要であったが、それは2年間での話であって、O君は頑張って、格好よく60単位を取得して卒業していった。私は、随分頑張ったところ30単位を取得した。この年は苦労して、体育2を取った。皆、2回生の中で、卓球するのはちょい恥ずかしかった。3年のときは、5時間目水泳を取っていたが、3回で脱落したのであった。最後の年、私は、大学によく通った。大学1回生の頃の週休4日制が懐かしい。5回生にもなって、私は週3回は通っていたのである。私のには必要単位リーチの他に、キリスト教学1リーチ、ドイツ語2甲リーチ、ドイツ語2乙リーチ等のリーチがまだ残っていた。あと40単位、最後の試験期間中何度計算しても、ヤバイのである、ヤバイヤバイといいながらもささと試験を終えた翌日には、トルコ航空でバンコクに行き、そこからシンガポール経由でボルネオ島に行ったのであった。試験結果は、3月31日に知った。すべて、1科目も落とさず全て可であった。60単位の栄光であった、放校だったのかも知れない。大学当局は私に花道を与えてくれたのであろう。皆、卒業式に出てたと後で聞いてびっくりした、大人になってまで卒業式は恥ずかしいのではないかと思っていたからだ。卒業式の日に私は、ボルネオ島で川下りを楽しんで(日焼けに苦しんで)いたのであった。まあ、そんなことはいい。もう一人の友達S(8単位の男)は大学7回生の時にフランス語1を落とした。除籍である。彼は故郷の岩国に帰ったのであろうか。最近何してるのと7回生の時に聞いたら、「最近はプールでおよいどるんじゃけん」とまだ山口弁を喋っていた。元気だろうか。
2004.08.27
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オリンピックでゾクゾクと凱旋帰国してきておられる。その年の春、3月31日、私は成田にかえってきた。私の所持金は限りなく0に近く、成田空港内郵便局にて友人からの送金を待った。1万円を送ってもらった。実家に電話をした。「卒業してたかな」「ドイツ語が60、キリスト教が60・・・」と母は続ける。「そんなんええって。だから何単位取ってる?」「60単位やね」「キャッホー、卒業でえ」と上野駅近く西郷像近くのマクドナルド前の電話ボックスで叫ぶ。翌日、4月1日は、日曜日であった。旅の疲れか、熱が出た。グングン出た。ジャングル熱、デング熱ではないかと思う.ボルネオ島で熱をもらってきたようだ。4月2日入社式歩くと、飛んでいる気がする。4月3日研修開始だが、休む。40度を遂に越えた。食欲はなくなった。初めて点滴受けた。満腹感を得た。さすがに40度を越えると異次元の世界に入る。しんどくて仕方ないのに、何か、それが少し楽しく感じる。死と言うものが、近くを過ぎっている感覚になる。体も、意識も、確かに飛んでいる、何か懐かしい感覚。1週間、休み、熱は概ね下がり出社した。研修終了日、私は、研修を受けたことになっていた。しかし、同期は、「やっぱり辞めてんな、って思ってた」と言った。1、2回しか会ったことないのに。http://www.torihada.com/http://members.ytv.home.ne.jp/cupmen/ch/cupmen.htmlhttp://www.takarabe-hrj.co.jp/takarabe/clock/index.htm
2004.08.26
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起床8時半(もう少し寝てもいいのではないだろうか)正直言って車の調子が悪いようで、クーラント水が漏れ出したので、昨日ディーラーに予約を取った通り、10時に行ける様、逆算して朝のお勤めをして(歯を磨く、着替える、髭剃りなし、メールチェック)出かけたが、ガソリン補給とかしている間に10時半を越えてから到着。「8586のドイモイです」(あっ、何、俺は車両番号言ってんだ!)「どうぞおかけになってください」(お、そうだな)まあそんなやりとりが2,3分続いて車を置いて、ブラブラ散歩に出かける。お預かりだ。新しいシリーズの車が出たことを思い出したが、まあもう戻るのも面倒なので、本屋で立ち読みし、そのまま大阪に行き、「ディープブルー」を観て、帰ってくる途中に携帯にディーラーから電話があった。「他にもハンドルのオイル?が漏れています、これは交換するモノ自体が13万円です。全部直して23万円になります」ショックで、心の内を打ち明ける間もなく、今から倒れることにする。
2004.08.25
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昨日の続きソウルのアジア大会の記憶は定かではないが、会場入口で意味なくうろいろしていたら、開会式の券が1枚余っていたのか、間違えて購入したのか、親切なおばちゃんが何故か、ウロウロしている優良外人である私に入場券をくれた。私は思わず、カムサムニダと言ったが、心の中ではアイゴーと意味なく叫んだような気がする。きっと気のせいだ。帰りの地下鉄の中で爆睡した気がするが、何処へ戻っていったのだったか。アテネオリンピック開催中日曜だけはパルチノン神殿の入場料もタダということで、3日間も待っていたのに、ただなのでいっぱい。団体客来るなよなと憤慨し、愛人ぽい女を連れたおっさんに憤慨し、オーバーブッキングして飛行機に乗れない日本人に単純に同情した。もう1週間も待っていると言うパキスタン航空。(何故私は3日前に買って、席を確保できているのだ?という疑問を頭の中で呈しつつ)オープンカフェの横の地べたに座り、よくビールを飲んだ。宿の前に何故か、道路上で冷蔵庫だけを道端にひっぱて来ている屋台?があり、そこの売主がハイヒールに編みタイツで派手派手フッカー張りのおねえさん。そこで毎日何度もビールを買い、街を徘徊する。しかし予算がないので食事は3度ともドネルケバブ。美味かった。
2004.08.24
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昨日の続き マニラの下町で「もしもしパーラー」を開店していた無垢な日本人の痩せた気のよさそうなおじさんの後、私は、またジャパ行きさんと結婚する、そのために一度フィリピンにやってきましたという日本人に会った。寿司職人の彼は、私が日本人だというのに、フィリピンの現実に唖然としたのか終止私に話しかけることはなかった。彼の背中に一族郎党がのっかかっているのが見えた。お、重い。その後で、私は、ビーチに出かけた。そこで出会った日本人は、天涯孤独の良く喋るトラックのあんちゃんで、2年の旅行期間にも、自分のレゾンデートルのためか、殻家賃払いながら出てきたという。しかし、荷物は一切ないらしい。しかし、彼には帰る家を確保していた。そのがらんどうの部屋がなければ、彼は帰る理由を見失ってしまうのであろう。若かった私は、何故、そこまでして帰る家が必要なのか、何故帰ってきてから借りればいいのにと思ったものだ。本題は、これからだ。そのあんちゃんと、(いや、あんちゃんではなかった、もうおっちゃんだった)円形の屋外バーに行き、ビールを飲んだ(ホント、フィリピンで飲むサンミゲルは最高ですね)そのついでにスルメを頼んだ。それが歯の奥にタイミングよく挟まり、見事に歯が欠けた。泣いた。ソウルオリンピックの結果は知らないままであった。ソウルオリンピックの2年前のアジアンゲームスでは、ソウルオリンピックスタジアムに行った、が、その後の記憶が定かでない。まあいいか。
2004.08.23
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コンフリクト・フリーアテネオリンピックの女性マラソンを実況している。1988年ソウルオリンピックでは、私は、男子マラソンを見たかった、が、当時いたマニラでは何らテレビや新聞でもオリンピックのオの字もやっておらず、結局、マラソン結果は日本に帰るまで分らなかった。パサイ市の滞在していた民家のすぐ近くに、日本人がいて店をしているということを聞き、遊びに行った。名前は「もしもしパーラー」暇そうな日本人男性が奥に居た。カットしてくれる店員は全員バクラ(ゲイボーイ)。その気の弱い日本人は、気の強いジャパ行きさんと結婚したようで、マニラで店を出した(というよりいわれるまま金を出したという感じ)彼は、家と店の往復ばかりだというので、もう仕方ないので、遊びに連れて行った。彼は、それはエキサイティングしてしまい、こんなに楽しいところだったんですね、とやたら感心して、私には感謝などいらないのに、やたらありがとうを連発し、翌日カットをサービスしてくれた。数日、客が入っているのをみたことがない。資金が尽きるのは目に見えていた。「オリンピックはどうなったのですか」と質問したが、「分りません」とそんな彼は答えた。思考停止(コンクリクトフリー) 今、野口選手が1位で走っている
2004.08.22
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2003年携帯電話を紛失に関するアンケート(マクロミル社)ショック度合い財布を落とした程ショック 66.7%夜も眠れない程ショック 9.7%友達を無くすぐらいショック8.3%仕事にならない程ショック6.3%恋人にふられるほどショク2.4%てな訳で、昨日飲みに出かけて携帯電話を紛失した。何だか、もう携帯電話止めてしまおうかと頭をよぎった。携帯電話を持たない画期的にいいことは、何と電話が来ないということだ。(まだメールはこちらが都合のいいときに見れるからいいけど)何だか、携帯電話もっていても仕事の電話ばかりで、これ個人の電話で金も自腹なのになあと思いながら、今日も何度かあちこちからかかってきてたみたいで、「携帯都合により止まってますよ」といわれ「飲みに行ってなくしました、ははっは。停止中です」と言っていた。てな訳で、時間を割いて昨夜のルートを行き、残念ながら携帯電話見つかってしまった。ショック・・・
2004.08.21
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空港からタクシーに乗るが、もめて、空港に戻ってもらう。金は払わない。もめる。「うーん。インドだなあ」と思う。タクシーに乗り直して街に向かう。車や通行人ギリギリの所を猛スピードですり抜け、安っぽいスリルを味わうことができる。安全の中に隔離された遊園地のスリルを味わうアトラクションに乗っているようだ。空港から百ルピー。 タクシーを降り、すぐさまうろついているおっちゃんと知り合いになり、ぶらぶら歩きながら会話をする。「先日、カルカッタで大きな祭りがあったんだ」「へえ、そういえば、俺もバラーラスでホーリー祭のときに行ったなあ」「あそこは良くない。町中色を掛け合うなんて汚れて最低じゃないか」「今回はBBDバッグ地域に宿を取ったけど、昔はサダルストリートに泊まっていたんだよ」「あそこは汚くて最低だな」自分の住んでいる地域が一番なのである。「うーん。インドだなあ」と思う。そして、ふと気がつく。予定調和と確認作業のためにここに来たのだろうか。かつての印象から抜けることができないのだろうか。いきおい、ヒルトンホテルの様に、部屋の中はどの国に行ってもそんなに変わらないというマニュアル化したホテルチェーンに安堵を覚えてしまうのではないだろうか。そのうちハワードヒューズみたいに世界中どこへ行っても机の配置から同じにさせることに安心感を覚えてしまったらどうしよう。 少しでも富める者は、貧しい者に布施をするという考え方はインドだけでなく、結構多くの世界で見ることができる。ただ、その貨幣価値を崩壊させる様な行為はタブーである。短期間では、そのあたりがよく分からないのである。つきまとわれた乞食の子供に粉ミルクを買ってあげる行為。乞食とて、たいていプライドを持ってやっているので、あまりに小額だと怒り出すこともある。私が粉ミルクを買ってあげたことを、その女性は「いいカモだった」と忘れてくれることを願う。一過性のものなのだ。 ここにいると背広は乾燥して寒い季節での服つまりヨーロッパのための服なのだと感じる。日本の真夏の冷房は背広向けのものだ。まだ冷房が高級であるという意識から抜け出せないでいる。東南アジアの寒くてたまらないデラックスバスと同じである。豊かさは高級化贅沢化を産み、更に金がかかる。マグロを食うために何匹のイワシが必要か。肉を食うためにどれほどの穀物が必要なのか。日本は重くなっていく。
2004.08.20
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今日も、特に何もなかったので、ニ昨日の続き(本当は、毎日、特に何もない)普段と少し変わったところでいえば、タクシーに乗ったことぐらいだ。最近は、5000円越えると、その部分は半額というのが流行っていて(マイナスの流行やな)、カードも「おかしいな、おかしいな機械通りまへん、返事ないわどないしょ」といわれ現金で払わなければならないということもないほどカードの機械の性能が上がってきたようだ。ニ昨日前は、六甲山のこじゃれたレストランのテラスで、シェアしながらちょこちょこ食べた中で、海の幸ぽいパスタを食べた。ここは山の上だぜよ、と文句は言うはずはないが、いままで一番馬鹿ウマだったパスタは、ミラノの場末(といえば失礼か)で食べたオマールのパスタであった。そのレストランは他に客が1組程度しかおらず、どうやって探したかというと、宿のフロントから、その辺歩いている人を捕まえたり警官に尋ねたのである、「美味い店を教えてくれ」印象的だったのは、2ページにわたるワインリストの一番高いのが2000円ぐらいだったのであり、思わずいつも下から二番目に安いワインを選ぶ小心者の私も、この店最高級のワインもってこいと高慢になってしまったのである。ワインは美味かったが、長く店の片隅に置かれ続けていた風貌であり、しっかりまだ埃がついていた。馬に初めて乗ったのは、確か、小学校1年か2年か、3年の頃であった。岡山県の蒜山高原であった。あの頃は、何故か親に毎年連れていってもらっていたような気がするが、気のせいかもしれない。 宿泊施設の近くに、気のよさそうなおっちゃんが馬の横にいて、馬に子供を乗せて、自分は手綱を引っ張りながらのんびり一週するのである。生き物に乗ったのは、考えれば生まれて初めてであった。今後の人生で、その他に牛、ラクダ、女性、象、水牛等に乗るとはその頃、想像もしなかった純粋無垢な(今もだけど)少年であった(今は中年だけど)。考えれば、馬鹿馬といったが、多分、馬鹿な馬だったかどうかは今は分らない。ただ、インドでつかまされたラクダはババアラクダであったことは事実である。親父の数少ない趣味に、車の買い替えがある。親父は多分自分のそんな趣味に気がついていないと思う。親父は3年毎に車を買い替える。それも新車で、車庫が小さいのもあるが1500CCぐらいで、多分100万円台のものと相場が決まっていうようである。今まで15回は買い替えているだろうが、たいてい、色も白である。しかしながら、この蒜山のときは珍しく紫のあった。どこのメーカーか知らないが、名前はパプリカというものだった。その車のボディには白いラインが入っていた。子供心にラインを触ると、シールであった。はがしてしまった。しかし、親父は最後まで気がつかなかった。今思えば、鈍感さは受け継いでいると思う。
2004.08.19
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今日も、特に何もなかったので、一昨日の続き(本当は、毎日、特に何もない)心地良いシュチュエーションには、神様は時間を早回して、意地悪をする。と適当なことをいって締めくくったが、ときおり神を介在せずに時間は早回しになる。あるとき、マニラに来ていたが、使っていた航空券がパキスタン航空往復48,000円。しかし連日のオーバーブッキングで一向に乗れず、1日1回事務所にお伺いするのが日課となっていた。結局、チケットを無駄にして、ノースウエストのエグゼクティブ片道70,000円(フィリピンペソ払い)大枚をはたき帰ってきたのであるが、前の日にやけくそで飲み歩き、一睡も眠らず二日酔いのまま空港へ。 四時間だけど、エグゼクティブクラス(ビジネスクラス)はご機嫌だぜとハッピー状態になり席について、離陸し、ビールを飲んだ瞬間、成田に着いた。オー、ゴハンは?それから数年して、今度はニューヨークで。今度は二日間徹夜して遊学してしまった(嘘、飲み続けただけ)往路では、一人だったためか、混んでいるのにエグゼクティブに格上げ、チェックインが遅かったのだが、チェックインカウンターで搭乗券を見るとエグゼクティブシートになっていて狂喜したのであった。そんな訳でJFK空港でも、姑息にもチェックインはギリギリまで意味なく待ち、さて、チェックイーン、そして搭乗券を見ると、オオータダノエコノミー。確か初めてのニューヨークはこう会社に説明したものだ。「年末はデスネ、チケットが高くなるんですよ。12月23日出発なら12万円、25日なら15万円、27日ならもう20万円です。(嘘)しかし私が24日から27日働いても、差額8万円も稼ぐことができません。これは早く行った方がオトクじゃないですか?」そういって(説得はできていないが)一人納得して10日間我侭したのだが、そういう話ではなかった。12時間しかしエコノミー。後ろのほうの席について、確かまだ僅かに禁煙席が残っていた1000年代の時代であった。しかし、煙草は吸った覚えはない、酒も飲まなかった。15分ほどうとうとしただろうか、関空!オー、ゴハンは?腹が減ってたというものではなかった。寝返りも打たず、シートに引っ付いていた私は、見事に固まり、起き上がることが困難でさえあった。私は、全身全霊渾身の力を振り絞り、座席から抜け出た。眩暈。翌日からの仕事を抜け出し、当時詰めていた奈良市の現場近くの病院に行った。腰が砕けた。医者は「筋肉が固まっとるな。酸性やな、奥さんに叩いてもらいよ、特にお尻」といい、私は、「私、まだ結婚してませんよ」といったが、「まあまあ、うそつかんでも」と意味のないことを言われた。私は12時間不動尊の結果腰いわしましたと言うと、また医者はしったかぶりを発揮、「そや、飛行機中では散歩せなあかん、ほら、スチュワーデスは、あれやぞ、働いているふりして歩いて運動しとるんや」とまた訳の判らないことを言った。「時々体操までしてるねんから」と嘘までつかれた。しかし、それ以後、私は、後部で外を見るフリをしながら3時間に20分ぐらい立つのが日課となった。そういえば、立ちながら偶然見た、サンクトペテルブルグの街の光、幻想的だったなあ。綺麗に見えますよとアナウンスがあったので分ったのであるが。よく考えたら一昨日のこと書くの忘れてた。まあいいか。
2004.08.18
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今日は、特に何もなかったので、昨日の続き(本当は、毎日、特に何もない)夕刻に、ビールを飲みながら、阪神間から大阪平野、生駒山山系、関西空港、和歌山を見ていたら、先程まで雲の隙間から、陽が平野の一部を照らしていたというのに、すっかり空はグラデーションして、やがて夜景に変わっていった。かつて、ドッジラインより1ドル360円の固定為替が設定された1940年後半から、この夜景は100万ドルといわれてきた。何を勘違いしたか、まだ100万ドルといっている方々がいるが、当然今は1ドル120円としてみても300万ドルの夜景なのであった。夏だと言うのにテラスでビールを飲んでいると、標高おおよそ900メートルで、風があると、半袖だと、何と「寒い」という懐かしい感覚が味わえる。心地良いシュチュエーションには、神様は時間を早回して、意地悪をする。
2004.08.17
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奈良
2004.08.16
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山地の方に予約をして、鮎料理を食べに行った。鮎料理の前に、鮎を川の流れを一部分遮って放流して食べる分だけ網で取る余興付であった。一緒に来たイギリス人は、釣りは人生2回目だとはしゃいでいた。親戚が首を吊ってしまった。病苦であった。入院こそしなくてよかったし、しんどいながらも働き続けていた。しかしこんなに苦しいならもう何とか楽にして欲しい、死にたいとずっともらしていた。自殺未遂もあった。日記には「ごめん」を何十回も。そして本当に、先立つ不幸をお許し下さいって書くんだなあと、静かに思った。治る見込みのない病苦だったので、誰も何も言わなかった。60歳という若い死を悼み、私は、おっちゃんを思い出しながら、酒を飲んでいる。
2004.08.15
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猛烈に夜中にコーヒー飲みたくなりアイスコーヒー7杯作ってのんだら、利尿作用爆発して、何度も何度も目が覚めてトイレに行って、多少寝不足気味ではある。建築基準関係の調べものをしていたら、風営法特殊浴場にひっかかり、大真面目なのに苦笑した。 この法律において「店舗型性風俗特殊営業」とは、次の各号のいずれかに該当する営業をいう。(以下おもしろくないところ省く)1.浴場業の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業←接触する役務デアリマスカ!2.個室を設け、当該個室において異性の客の性的好奇心に応じてその客に接触する役務を提供する営業←性的好奇心にどう応じるのか!3.専ら、性的好奇心をそそるため衣服を脱いだ人の姿態を見せる興行その他の善良の風俗又は少年の健全な育成に与える影響が著しい興行の用に供する興行場を経営する営業←衣服を脱いだ!青少年に宜しくない!マジメ!4.専ら異性を同伴する客の宿泊(休憩を含む。)の用に供する政令で定める施設を有する営業←日本語って言葉で誤魔化しているよなあ。5.店舗を設けて、性的好奇心をそそる写真、ビデオテープその他を販売し、又は貸し付ける営業←どんな写真や!人によって違うで。6.前各号に掲げるもののほか、店舗を設けて営む性風俗に関する営業で、善良の風俗、清浄な風俗環境又は少年の健全な育成に与える影響が著しい営業として政令で定めるもの←育成に悪影響を与えるって・・・そうやって、ひとりつっこみやってると、えらい時間がたってしまった。時間を無駄にした。
2004.08.14
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エスカレーターには、若い女の子がけなげにも右側に立っていた。(関西では左側ははやく行く人、関東の逆)。後ろから急いで左側を駆け上がってきたおばさんが、その女の子の後ろで止まってしまった。悲しいことに、その女の子は、やたらめったら横幅の異常に広く、エスカレーターの幅の4分の3を占めていたのであった。おばさんもきっといろんなことが脳裏を掠めたであろう。「ドケ~」から「なんて哀れな」から「まあ私も数秒じっとしてたらエスカレーター上にいくことやし」から「後ろでつかえてること気がつかないのかな」とか考えたことであろう。悲しい光景であった。最近新しくできた公共ベンチとか見たら何となくむかつきますね。ステンレスパイプにお尻を置くだけのものや、必要ないのに一人一人のスペースを確保するための肘掛がついていたりなんかして、役所はオブジェをカモフラージュして、ベンチで眠れないように工夫しつつある。浮浪者追い出し対策だ。街は徐々に不寛容になっていく。http://www.elrosa.com/tisen/70/70476.html親父は、酒が弱かった。夕食にちょっぴり飲んではいたが、基本的に何かの飲み会に出かけると必ず、駅のベンチで寝てしまうという、スリ御用達専科の見本のような人であった。ベンチが3つに区分けされると、もう眠れない。くたばれハリウッドとラスベガスをぶっとばせを観た
2004.08.13
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あまりいばれたことではないが、着ていたTシャツが問題になった。女よりビールのほうが良い15の理由Tシャツ(NYで購入)1. A beer does not get jealous when you grab another beer.2. When you go to a bar you know you can always pick up abeer.3. A beer will not get upset if you come home and havebeer on your breath.4. You do not have to wine and dine a beer.5. If you pour a beer right you will always get good head.6. Hangovers go away. 7. When you are finished with a beer the bottle is stillworth 5 cents.8. You do not have to wish a beer before it tastes good.9. A beer always goes down easy.10.You can shere a beer with your friends.11.Beer is always wet.12.You always know you are the first one to pop a beer.13.A frigid friend beer is a good beer.14.You can have more than one beer and not feel guilty.15.You can enjoy a beer all month long. 久し振りにお好み焼き、モダン焼きなどを食べた。関西には「お好み焼き定食」というのがあって、お好み焼きにごはん味噌汁がついてくる昼飯の定番がある。あれは当り前であったが、九州の友達は、それってウドンとラーメン一緒に食べてるのと一緒という感覚なんだけどなあ、と言われたこともある。実は、何を隠そう、私は、冷たいご飯が、炊立てのほかほかご飯より好きなんだ。今日、初めて、私もそうなんですという人に出会い、ちょっぴり嬉しかった。
2004.08.12
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今でも、あまり居場所や居心地のいい場所というのがないが、20代前半はそういう場所がないのが一種の悪徳のステータスという間違った感情を持っていた。野心、打算、見栄、意地、体裁、偽善、虚偽、虚栄心といったツールをつぎつぎと身につけていくのか剥ぎ取っていくのか。家に帰る必要性がないということは、何だろう、宿泊費がかかる。着替えがない。ある晩、サウナの中で、夜中テレビをみた。奥尻島の地震であった。あんな目にあわれている人々がいるのに、私は、汗をだらだらかきながら、これってベロベロ酔いにやばいんじゃないの、って思いながら何だか悪い気がした。http://www.bo-sai.co.jp/sub8.htmlその後、自分自身が地震に遭った。ベロンベ、ぐらいまで酔っていた。皆様に助言を思い出した。マレーシアのマレー半島から陸路でタイを目差す時、それもバスや国際列車でなく、おっちらおっちら行く場合、ペナン(バターワース)より更に北上して、アロールスターという町から、更に北上した地点で、バスに乗る場合は注意が必要です。いや、長距離バスにのるためにバスターミナルまで、タクシーに乗るときに注意です。(国境まで行くバスがでている)「バスターミナル」とタクシーに乗って叫んでみると、運転手は「ハイヨ」といってくれるが、バスターミナルは遠い。5分10分、15分、フアンになってきて何度も尋ねる。運転手は「大丈夫」としかいあない。とうとうタクシーは田舎道を走り、50キロ以上走り、既に違う町にきた。運転手はにこやかに笑い、「着いたぞ」といった。その町の名前は「バスター」であった。皆様もご注意くださいませ。
2004.08.11
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慟哭し嗚咽することもないのだが、本日、新調した背広に気がついてくれたのは、何回数えても1人しかいない。しかし、考えてみれば、「それ新しい服ですか?」と他人に聞いたことがない。何も見ていない証拠である。 かつては、私も2週間に一度、カッターシャツ10~12枚を5~60分かけてアイロンをかけていた。アイロンがけには、何故だが、ボンジョビが似合ってたりなんかする。私が、高校生の時に、大阪南港の空き地で、大ロックフェスティバルがあり、受験生にもかかわらず、今日1日だけは遊ばせてくれアニキ(アニキいなかった)といいつつ、ロッカーの友達と出かけていった夏の暑い朝であった。まだ若い丸坊主に、サングラスな奴。暑いのに鋲の入った皮ジャンな奴、ピンクのミニスカートにピンクのバッシュな女の子、そんな中、始まりました!前座その1アンヴィル。皆さん、まだシーン。前座その2、ボンジョビ。シーン。皆さん、まだ後ろで焼きそば食ったり、仮説トイレに並んだり。そして、ホワイトスネイクになった瞬間、全員が舞台めがけてもみくちゃ。次にスコーピオンズ、トリはマイケルシェンカーグループ。一緒に行った友達は、もみくちゃにされながらも右手を高く挙げ、その腕の中には録音機能付ウォークマンが。彼は、帰り際、とてもご機嫌で、録音したでしたわと鼻息が荒かった。そして後日、そのテープを聴いた。絶叫であった。「おすな、押すな、おい押すなゆーとるやろ、ワレ~」と彼の絶叫が。その後方BGMとしてホワイトスネイクのデビッドカバーディルが歌っているのが微かに聞こえた。
2004.08.10
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昨日は、街中をブラブラとほっつき歩いて、住宅街をほっつき歩いて、海沿いをほっつき歩いて約4時間の叙情的世界であった筈はないが、汗はびょうびゅう噴出し、偶然、高校の同級生の実家にぶち当たり(というかこの辺にあったよなと思い出してそちら方面に歩いてみたり)して、買い物も、確か、えーっと、あ、何も買ってなかった、何ていいながら、食堂で飯は食ったし、DVDは借りたのだが、結局、一日、一言も喋らない日であった。急に気が付いた。メール等のやりとりやインターネットもあり、外にも4時間も出たというのに、音声を発していないのに、疎外感も孤独感もない。何か、そんな時代なのかなあと思った。そういえば、家の電話もファックス用にあるようなもので、電話がなっても大抵勧誘なので出ない。本当に用事があれば2回目かけてくるだろうが、そういう時は仕方ないので出ることにしている。電話は相手の都合考えずにかけたりかかってきたりするから、なかなか失礼なものだ。しかし、全くかかってこなかったら寂しいものなのかも知れない。ところで、電話って何回ぐらいコールするものなのだろう。今では、大抵留守電になっておるので、一概に言えないが、いろんな国にいけば、これでもか誰か出るまでがんばってやる、というぐらいずっとかかっている場合がある。バンコクのカオさんロードのかの有名な(何で有名か知ってる人アデック)VSクリニックゲストハウスに泊まった時に、ナゼかしらドミトリー部屋に電話があった。その電話が鳴った。しかし従業員は一向にくる気配はない。うるさいなあと思っていたが、5分ぐらい鳴り続けて、もういい加減にしろと電話に出た。「○○いる?」そんなの知らないよ。「ガーナ人だよ、ガーナ人」それ宿泊客にいたぞ、それも数人、明日一緒に訳の分からん映画に出演しようと声をかけられてるんだ私。その映画は、バンコクの公園で、黒人白人東洋人男女が手を取り合って、人類皆ちょぼちょぼやという映画のワンシーンだ。よく分からなかった。ところで何を話したいか分からなくなってきたので、今日はこの辺で勘弁しとく。
2004.08.09
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昨日、ついついジャケットのストーリーを読んだだけで(といってもソレしか情報がないが)DVDを借りた。予告編でこのフィルム会社の撮ったDVD予定の作品を数作次々と紹介していく。それが、やたらつまらない。予告というのは、つまらない作品でも見たくさせてしまうマジックがあるというのに。悪い予感がした。借りてきたこの作品すごくつまらないのではないか。 ビンゴ!おまけに借り入れ期間を当日にしていたのに翌朝10時までに返却できなかったために追加料金を取られた。男泣きに泣いた。 間違えがあっては困る、確か10年ぐらい前に、往年の名作最期のビデオ化といわれた(私が勝手に言った)「時計仕掛けのオレンジ」を借りて10年ぶりに観た。 あの夏の頃、タイのビーチはまだまだ田舎であった。浜辺から数十メートルも歩くと、椰子の木に畑が広がり、農民が働いている。私はウォークマンでドアーズの「ジエンド」を聞きながら、「爆撃じゃあ」と小さな心で叫び、「ベトコンじゃあ」と呟き、長い散歩をした。 本多勝一氏がベトナムで一番感動した光景というのは、数十メートルまで米軍戦車が来て炎をボワーっとあげているのに、それを無視して、クワで農作業を淡々とすすめる老婆の姿であったという。内心ははらわた煮えくり返っているだろう。 今日は、風があるというのに、暑さが風の音を奪っているようである。静かであった。自転車の速度は良い。かつて、よくビルの間を、夜中に、煙草を吸いながら、少しストイックに、ジグザッグに駆け抜けるのが楽しかった。酔っ払いを擦りぬけ、あらゆる信号を無視し、いつもより10センチ程高い視線から世界を眺め、人より速く、車より遅く、自己抑制のギリギリ効く範囲での耽美的世界。少しの幅させあれば擦り抜け、思いを巡らせ、不注意で散漫でさえも、多少の危険で済む、せいぜいこけるかぶつかるか、ちょっと人を轢くだけ。前方不注意の危険で楽しいチープスリル。安心感の中でスピードを満喫し、思いはゆっくり。夏のあの頃、よくビーチでレンタルバイクを借りた。オフロードの125CC。例えばコサムイ島、一周するにはちょうどいい距離と時間である。忘れたが1,2時間で1周できる。西洋人ドモは事故も結構起している。蝉になる。信号はない。ウォークマン聞きながら運転、案外、危ないよね。でもあの頃、いってしまってたから・・・
2004.08.08
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花火あるとこ私あるではないが今年3回目である珍しく。地元、神戸の花火祭であったが、仕事の為時間には間に合いそうでなく、対岸の人工島から見えるのでは、と10分弱車を走らせた。車がいっぱいなので、ハハーンみなさん考えることはそう変わらないか、ハハーン私も凡人ネという風情のまま空スペースを探した。雷とにわか雨で中止かと思われたが、遅れること15分、花火は始まった。 もう10年になろうか、このHPを紹介してくれた心斎橋ワタル氏と2人で、渋く片手に缶ビール、片手にダンボール(敷物)で港に出かけたことがある。かなり近い位置から見ることが出来、まさしく花火は巨大なラスタヘアーであった。「おいら、男同士、結構渋いよな、こういうのって男ベックっていうんかなあ」と意味不明の健闘を称えあった。 そういえば彼と、他の仲間達と、目覚ましベルを念じて止める超能力作戦を敢行することにした。カセットテープに録音を開始し、目覚ましを鳴らす。そして5人のメンバーは口々に、「止まってよ~」と色気じかけに言ってみたり、「止まらんかいコリャ」と凄んでみたり、「止まってください」とかしこまったり、「止まれ」と近所迷惑な大声を出したり(心斎橋宅なので、彼のみぞ迷惑)して最後は5人で止まれとまれを連呼。ついに、終に、遂に、ベルは止まった!電池切れで。流石に虚脱感でお互い健闘する余地もなかった。妹と、イギリスから来ている彼も花火を見て、今、焼き鳥食ってヤキヤキしているそうである。急遽特別参加することになった。それでは行ってくる(22時22分)
2004.08.07
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ハリハリ鍋をバリバリ、パクパク食べる。 ハラハラと パラパラ パキパキ パコパコ パサパサパタパタパチパチパフパフ初心に帰るのが常に重要であるが、初心者のパヤパヤ状態には帰るのは怖いといいながら、いつまでも素人のママ。行動と言動がバラバラの為、常に信用を失ってます。ハメハメ…しょうもないこと考えてるのバレバレ。パロパロとはフィリピンでは、おんなたらしのことである。 それにしてもである。コロンブスは今食べておる数々の野菜や煙草をヨーロッパに持ちかえったが、インドと間違えたまま死んでいった彼とその一行の功罪のひとつに、天然痘の免疫のない現地人に感染させ、人口の9割を奪ったこと、そして代わりに風土病の梅毒を持ちかえり、その年にはスペインを蔓延、翌年にはイタリアを蔓延、翌年にはヨーロッパを蔓延、5年後にはインドまで蔓延、ついに20年後には日本の大阪まで蔓延、種子島に鉄砲が伝わるより数年もいち早くやってきた。 かの杉田玄白は1日に何と1,000人もの患者を診ていたと言うが、8割方の病気が梅毒であったと言う。 それにしても、コロンブスをアチョーっと狂気させた本、東方見聞録であるが、晩年戦争で捕虜となった囚われの身であるマルコポーロが20年以上にわたる中国地方の魑魅魍魎な戯言(体験)を弾丸のごとく喋り続ける姿をほとんどの人間は笑って「くるくるぱー」といっていたに違いない。しかし、そこに売れっ子作家で、金になるなら嘘でもいいから飛びついたのがルスティケロ。マルコポーロの不思議な話を聞き取り書き写し、そしてベストセラーのロングセラーとなった東方見聞録。 その中で、黄金の国、ジパングジパング~が出てくるが、これは当時モンゴル帝国が、海を越えてまでそれも支配した雑多な地域の人々の寄せ集め軍をいかに、ニッポンへ攻めるもチンベーションをあげるか?そりゃ言うがな、「海を渡って、ニッポン支配したら黄金ザックザック、あなたのもの、そして女の子のモテモテ、とてもハッピー、行けーい!」と。 久し振りに「地獄の黙示録」を見直した。相変わらず、戦争映画の傑作であるが、小学校で初めて観た時の、この映画で初めてコレを知りました(後年に詳しく知りました)というのが結構ある。 ドアーズの「ジエンド」 全くなんちゅう曲やと思っていたが、10年後自らドアーズにはまるとは思いもしなかった。 ストーンズ「サティスファクション」 全く変な曲やなあと思っていたが、10年後自らストーンズにはまるとは思いもしなかった。 Dホッパー 狂ったカメラマン役で出ているのを知ったのは、後年、イージーライダーやブルーベルベットを見てから。この時、まだヤク中で俳優としてもなかなか使えなかっことも知った。 ワグナー 何か、勇んでつきすすんでいく時には頭の中にこの曲が勝手に廻る。宇宙音楽である。 LSD ・・・
2004.08.06
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ロシアからイスラエルに渡ったユダヤ人が5万人もロシアに帰っていった。世の中にカフェというものがなければ、私の人生の愉しみも半減していただろう。 昔々、黄金だあ、シルクだあ、香辛料だあとやたらアジアに劣等感を抱いていた貧しきヨーロッパ人に、またもや、羨ましき物質がっ!それは、茶、健康に良い、精神性の高い飲み物!作法!そりゃ、イエス、マイデカダンスのヨーロッパ貴族達は飛びついた!オリエンタルの神秘っ!なんて。 貴族や宮廷を先導に、ヨーロッパは、チャー、チャー、チャーああ。しかし、ヨーロッパは貧乏っ!香辛料に加えて、お茶なんか買ってると、ノーモーマネーだよっ!そうだそうだっ!いいこと考えたっ!サンカク貿易、そうだそうだ、でも売るものナイナイ、あっ、あったあった、阿片があったっ!こりゃ売れるわ売れるわ~。面倒だから、この歓迎的で人のいい奴ら、豊かな癖にやたら、めったらよわっちい。知らなかったよ、眠れる獅子ではなかたんだなっ! 何だか、面倒だから、そのまましばいて、国取りあげて、植民地にしちゃおう、何せ、わいら、肉食、狩猟民族だからねっ!野蛮で血の気が多いってことに関しては任しておいてくれっ! ワシらも、最初は発酵(酸化させない)緑茶を飲んでたんだけど、酸化した紅茶!こいつにしびれちまったっ!何せ、これは麗しきローズの香りっ!無垢な東洋人には分らないだろうよ。君たち酸化してない緑茶やちょとだけ酸化させたウーロンチャでも飲んでおきなっ!おいらはコレで決めるぜ、おいらは、ばら戦争まで起すほどバラ好きなのさっ!同じヨーロッパでもアフリカに向かった奴らは珈琲ばっか飲んでらっ! 茶道は精神文化さっ!実は葛根湯と同じなんてヤボなこといいないっ!見よっ!我々ティーパーティのマナーを。東洋の茶道と似てるよ、入れ方作法ちょいと瞑想、景色、おおチャドーっ! あー癒されるわ、カフェー、アチョー!!
2004.08.05
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昨日の花火観賞昼景(梅田の観覧車が見えます) 朝、目覚めた時に、今日は休みだった、とまた眠る瞬間が一番幸せというのは悲しいか。仕事が嫌というのもあるが、人に会わなくていいのが嬉しい。というとプチヒッキーかも知れないが、現実、気を遣うのが面倒なこともあるし、困ったことに、他人が話していることが理解できない、または理解しようとする集中力がない場合が多い。 何もみないで、何故、何分も何十分も話できる人がいっぱいいるのが不思議というか凄いことだと思う。 UKからの来客は、下痢の為、2日間フライトが延期になり早朝関西空港出向かえもなくなった。フライトが延期でなく、彼が乗船するのが延期になったんだった。 部屋に居ても暑いので、車を飛ばして、本を読みに、涼みに出かけた。海抜900メートルそこらまで駆け上がると風は涼しい。よく考えたら、曲がりくねった道の連続なので飛ばす筈がない。学生の時、六甲走り屋の学友がいて、そいつは、使いぱしりの走り屋ではなく、ザロングアンドワインディングロード専科であり、あの道でキンコンカンコンスピード出しすぎ音を鳴らせた。そういえば、警告音もう無くなったのかな、最近聞きませんね。風があったので、景色は今日は良く見えて、関西空港まで見えると思われたが、曇ってきたので、あまり何も見えず。今日行ったロッコウガーデンテラスの塔とスペインに行った時に観たセビリアの黄金の塔が似ている、と思ったが、似ていなかった。
2004.08.04
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「インディスワールド」というドキュメンタリータッチの映画を昨日観たが、アフガン難民がロンドンまで陸路で密航していくのだが、アフガン難民が100万人いるペシャワール、イランへの入口の大都市クエッタ、パキスタン国境の町トフタン、イラン側の国境の町ザヘダン、イランの首都テヘラン、イラン北部マク、トルコ国境と旅行者として通過していった私でも懐かしさはあった。その後、またビデオ屋に行き、ソフィーマルソーのファンだったかどうか自分で忘れてしまい、衝動借りしてしまう。その主人公の男は初老の売れない作家であり、若い妻であるソフィーマルソーを持て余しているインポであり、酔っ払いであり、何か自分みたいで情けなくなって嫌になってしまった。私はイザベルアジャーニのファンだったか?忘れた。忘れちまったよブリジッド。家の前に停まっているタクシーからは身障者の運転手が出てきた。一昨日飲み明かした仲間よりゾクゾクとお礼のメール。「復活(ってもう夜だけど)、飯を食った」「今、しみじみビールを飲みしんみりしてるとこ(なんや迎え酒か)」「反省会しましょう(っていうてまた飲むんやろ)」「どうやって帰ったんですか(あんたも私も覚えてないなーい)」「電話夜中にもらったみたいだけど(こうやって酔ったら電話する馬鹿がいるんだよなあ、って誰のことだよ)」私は、ナシゴレンというか炒飯というかカオパッというか焼きメシが好きなのだが、一度、中学生の夏の暑い日に母が作り置きしてくれた焼き飯が、糸をひいておりてっきりチーズ入りかと思って食べて、死んだことがある。おまけにその頃は、色弱を治すために針治療に出かけており(治らなかったけど)その道すがら恐怖の腹痛に悩み尽くされたのであった。バスの中で、前にいるおばちゃんの黒い網目の服が印象的な昼下がりであった。そう思いながら、外で焼き飯を食って帰った。http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/dem/efs/main/aral.htmlアラル海というのは、一九六〇年代までは世界第四位の大きな湖だったのに、無計画の灌漑のため、二〇一〇年には消えるといわれている。本日も淀川花火大会 地上100メートル屋上から5000メートル先の花火へ
2004.08.03
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カルカッタ 3空港から六十ルピー。裸電球の明かりに照らされて、彫りの深い顔が更に顕著に浮かび上がる。人を何度も引きそうになってタクシーは進む。影は美しくはっきりしているが、照らされた風景はおぼろげである。人々は蠢く。おおよその思考が頭の中で想像する描写についていけなくなり、自分の意志を持って思うことがあやふやになっていき、思考は歪み、画像だけが自動的に進んでいく。描写は私の意志からどんどん乖離してゆき、飲み込まれ、滅裂になってゆく。ついに意識が突然消える。熟睡。そして、朝。カラスの大軍。屋上で眠っていた。肌寒い。屋上から路上を見ると、歩く人、人、人。カラスが群がるゴミ捨て場にばあさんが壮絶に挑んでいる。じいさんも。擦り切れたシャツを着た子供も。救世主は来世まで。牛は参加していない。牛は。迷子の愉快。管理されることに慣れすぎると迷子になる為の地図でさえ必要になってしまう。もし、荷物がなければ、そこに戻る理由が薄らいでしまう。今回のテーマはそいつで、私の荷物はショルダーバッグひとつ。貴重品と着替えのシャツパンツがひとつづつ。タオル一枚。歯ブラシ歯磨き。ノートとペン。荷物はそれだけだ。人生そのものが所有の限りなく少ないものならば、そこに留まる必要がどこにあるのだろうか。流れ行くことが日常になってしまう旅行。何と、気楽なんだろうか。バナナを一房買い、次に来たバスに乗り、喉が渇いたら降りる。ここはどこだ。悟りも悲しみもない、ただの路面電車君。バス君。ただ、いづれ、どうせ私は、そこへ帰るのだ。路上生活者と知り合った。というより、私がぼんやり彼らの生活ぶりを眺めていたら食事に招待してくれたのだ。「食べるかい?」こんな時外国人にタブーはない。それに得体の知れないものでもない。青年は「これはチキンカリーだ。五ルピーした。これで家族五人分だ」といいながら、飯のついたチキンを汚れた手でかざした。彼はバングラディシュから仕事を求めてカルカッタにやってきて路上生活者となった。十八歳と主張する彼の頭髪には白髪が目立ち、顔の表情や皺から見て四十歳を超しているように見える。チキンを私が齧ると彼は微笑んだ。彼は裏にある博物館に行かないかと私を誘った。案の定、私達が館内に入ると見学者は我々を奇異の目で眺め、そして避けた。穴があちこちに開いた薄汚れた服に片足の青年が、腰巻き巻いた外国人と歩いている。彼は民族別地図の前で立ち止まり、民族衣装の人形を指差し、ベンガル我が故郷、といった。私とて、ニューマーケット内で一コンマ五ルピーのカリーを食っていたが。私とて、安宿の屋上の床の上に寝ている。それも便所への通り道ときたものだから、寝ている頭の横三十センチを時折人が通るのだで迂闊にも熟睡できないのだが。ただ、優柔不断のまま、好きでやっているのだが。
2004.08.02
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「なあこれいいやろ」「いやそれは似合わないで」とバーゲン会場ですったもんだしている乳母車を横に置いた夫婦を尻目に、私は、急いで、昨日の切れた時計の電池を購入した。私は、台風情報を正確に把握しておくのを忘れていたようである。私は、台風の海を見るために関西屈指の極悪ビーチを目差した。関東で言えば、湘南であり、タイでいえばパタヤである。写真は液から写した風景である。このビーチのあるJR須磨駅と言うのは恐らく日本で一番海に近い駅といっても過言ではなく、南側の階段を下りると、いきなり砂浜であり、いきなり黒く焼けただれた若いあんちゃんに、「休憩大人1000円でっせ」という洗礼を受ける。「あ、缶ビールは400円」と痛い所を付いてくるのも忘れてはいない。それにしても、台風はどこなのだ?私は台風の海が好きだちっとも風はなく、人々が繰り出している。波は多少きついが、とりあえず、ビール片手に、(ちゃんと駅前コンビニでエビスビールを定価で購入)直射日光にやられにいく。 六甲山系の西側の始まりである鉢伏山を背景に、神戸ポートアイランド人工島を造った砂利運び突堤をも背景に1枚撮る。鉢伏山の裏側は私の実家だが、この稜線付近の谷底は源氏平家の一の谷の合戦で有名であり、その下には敦盛塚があり、その横に敦盛そばというおどろおどろしいウドンヤがあることはトップシークレットである。まあみなくていいよまあ、一の谷一度はおいでよ。http://www.netpassport.or.jp/~winoguti/kodaishi/tabiihiyodoriichinotani.htmそうこういううちにビールは空になったので帰ることにした。といってもまっすぐ帰る筈もなく、神戸の繁華街を少し歩いた。中学校の頃は、神戸の繁華街に出かけるのは、最高のお洒落をして出かけた。お気に入りのアシックス、パウのジャージで決めていくのである。といっても当時は着ている服がジャージしかなく、運動用のジャージ、家でくつろぎ用のジャージ、試合に行く時のジャージ、そしてばっちり決める時のジャージである。繁華街のコースも決まっている、1件目から3件目まで全てスポーツ用品店である。そして何でも安い高架下で時々からまれたりしながらも、ラーメンを食べて帰っていくのである。そういえば不思議なことに、15年ほど前に、東京からドリーム号に乗って早朝に神戸に帰ってきた。一人のタイの男が声をかけてきた。何故なら、私がタイの坊さんがもつバッグ(バンコク坊主ショップで購入)を持っていたからであり、これは坊主しかもってはいけないと怒られたのである。まあ、それはいいとしてそのタイ人は神戸の高架下までバンコクから東京経由で買出しに来たという。買出しが終わればその夜にまた東京に夜行バスで戻り、そのまま成田に行くと言う。ゴクロウサマデス。ところで今日は洋食で有名な店に久し振りに行ったら、何と揚げ過ぎで、油が酸化しつつあり、駄目になってしまったんだなと悲しくなり帰宅。DVDを観るhttp://theater.nifty.com/db/0000050073/main.jsp
2004.08.01
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