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船の博物館を回遊、論破したが、まだ結婚式に間に合わせるには、概ねまだ50分の時間の余裕があった。一瞬の迷いはあったが、抜かりなく、私は、次のターゲット、地球未来舘に歩いていく。歩く道中、アジアコミュニティー留学生居住地区があり、あれれ、ここ、2002年に来たよ、と急遽思い出したのであった。 館長は、沖田ではなく、毛利さんであり、いわば、元宇宙飛行士である。催し物については、朝一に来なければ、すべて予約が埋まってしまうというほどの夏休みの盛況ぶりである。こちらのほうは、家族連れ以外にも、若干のカップル、そして、背広を着て仕事できているようなふりをしている求道者の私に加え、相変わらず、独り者年配西洋人旅行者が何人もうろうろしていた。いろいろ触って遊べるのだが、英語の説明書きはほとんどなく、どうしても日本の子供に向けたものなのであろう。数少ない英語を読みながら、力なく地球儀を回す西洋人カップルの背中が、それぞれ寂しかった。まあ、私も、海外で暇なときは、こういう場所に行く。(一人で、ニューヨーク自然史博物館はすでに3回ぐらい行ってしまったし、ベルリン貯金箱博物館のようなものにも顔を出しているのである)しかし、子供には難しいとはいわないが、好奇心を育むという意味ではよろしいかもしれないが、十分、ちまたのパパにも知的好奇心を刺激されるはずである。しかし、なかなか、子供より熱心になってエキサイティングしているパパが見受けられないのが残念だ。もう枯れているのか、沈着冷静なのか、子供の前だから知ったかぶりしているだけなのかは、不明であるが、多分、子育てに疲れた母親に、怒られ、子供を連れてどっか行ってきてくださいなと、小言を言われているような家庭内風景が想起されるのであった。子供は、疲れない。疲れる直前に眠るからだ。そんな訳で、相変わらず、はしゃいでいるのは子供である。ここでは、1日ゆっくり見回ることができるであろうが、私の持ち時間は50分しかなく、猛スピードで駆け上がるのである。勿論、エスカレーターの力を借りてであるが。スーパーカミオカンデ、ゲノム、深海・・・テーマは深遠である。おお、もう時間がない・・・ここでも、人形フェチ発揮かいとおぼしきや、声に合わせて動くのである。冷静な人ならば「へえ」で終わってしまう。私も冷静なので、「へえ」といって終わる。しんかいについては、20年前には知っていたが、手前のカミオカンデについては、何を隠そう、立花隆の本で知ったのである。ちなみに、関係ないけど、日本で一番地震に合いにくそうな可能性の高い地域は、この前最高気温を出した熊谷市らしいのである。そんでもって、日本の中枢ホストコンピュータとかも置いてる企業もあるらしいよ。こういう英語の説明には西洋人(結構、カップルが多い)が群がり、意味なく地平線を回しながら、もっと難解そうな機械をいじる子供をうらやましそうに眺める。ゲノムの解読はいろんな議論がある。将来どんな病気になるか分かるならば、保険料がえらく変わるではないか。保険会社は遺伝子の個人情報が欲しいだろうな。子供の好奇心や発想は無垢で純粋であると思うが、提供しているのは大人である。考えれば、アメリカの大学では、学生が本当に馬鹿な質問するくせに卒業するころには、優秀になってたりなんかする訳で、その辺が以心伝心ジャナイかい文化とちょとだけ違うところか?脳をいぢくる健気な子供。「ママー、前頭葉がはまらないよ、いらないよね、ハート」この前で5分佇むわたくし。親子がいろいろ挑戦するが、不思議にも20代の娘と50代の母が2人で挑戦。「ねえ、盲腸いらないよね。」「胃もいらないんじゃない?」宇宙船のトイレである。ところで、飛行機のトイレであるが、これが、ファーストクラスもエコノミークラスも同じなのである。一番素晴らしかったのが、ルフトハンザ航空の窓付トイレだな。宇宙船、立って寝るのか?上下ないからね。無茶地上では狭い。飛行機のトイレと同じくらい。感動である。ドラマがある。プライバシーもある。脳のスライスは今度、実物を見に行く所存です。いくらガキとはいえ、人間をくるくる回すのは結構忍びないです。そんな訳で、お土産は、宇宙食です、この女の子のはずがありません。あ、ああ、結婚式に遅刻だ。くるしゅうない。
2007.08.31
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当時(といっても、3日前であるが)、この日も灼熱地獄の暑さであり、腹が減った私は、定食を食ったが、普通のかやくご飯の熱さなのに、口の中を火傷して、ヒリヒリした。もしかすると火薬(TNT)が入っていたのかも知れない。 まあ、それはさておき、本日は羊蹄丸及び宗谷の一大ドラマに比べて、しょぼいが、一番人が入っている船の科学館、本館の紹介である。このストーリーはノンフィクションである。登場人物及び内容は、一部フィクションかもしれない。('◇')ゞ どうもシュンズレイシマシタ!カトチャン。広い館内で私がじっくりビデオを見たのは、13分間の北朝鮮密航船の日本領を侵し、巡洋艦に攻撃してきて、最語に自爆する映像であった。海の宴会場というが、ここは、山ではない、博物館である。遊ばないでほしい。 奥のほうでも('◇')ゞ館内遊泳禁止かと思いますが・・・何故にやけているのか、人形の分際で。一人で来ているのは、私だけでない。西洋人おばちゃんもいるのだ。考えてみれば、西洋人は結構、一人でいろんな博物館に行く。そういえば、私も海外では暇なら、博物館行くよなあ。コペンハーゲンポスト博物館とか(コペンハーゲンエロチック博物館も行ったけど)、ヘルシンキおもちゃ博物館とかね。宇宙戦艦大和。アメリカでは、スターブレイザーという題名で放映されたわな。沖田艦長 Captain Avatar 古代進 Derek Wildstar 島大介 Mark Venture 森雪 Nova 相原 Homer徳川 Orion アナライザー IQ-9 スターシャ Queen Starsha ってな感じ。鰻取りの裏方さん。ごくろうさん。なんと、この男、ジャックマイヨール!世界モグリ記録を出したときの喜びの電話を再現したとのこと、でも何故かテレビから手の亡霊。人が入っているのですが、プラステックが曇っていて見えない訳ですね。 さて、多分、この博物館を作った、元A級戦犯の日本船舶振興会のお方である。確か、自分は助かりたい思いで、GHQと取引して、日本の重要な情報などをアメリカに渡しまくって、罪を逃れたという実績の持ち主である。母親は、確か、大阪の箕面に住んでいたと思うのだが・・・。1974年、米タイム誌のインタビューで「私は世界で一番金持ちのファシストである」と繰り返し自慢している。統一教会とも関係あるらしいし・・・。この時期に小中学生であった私のような年代の者にとって、「一日一善」若しくは「戸締まり用心、火の用心」の良いおじいさんとして認識されている。確かに、おかんに、「いい人だねえ」というと、「あんなの右翼の黒幕だよ。ウソウソ」と吐き捨てるように言われたなあ。そういえば、小学校の時の校長先生が本を出していて、それが家にあり、「本出すってすごいねえ。えらいひとなんだねえ」とおかんにいうと、「あんなの父兄に売りつけただけ」とシニカルに言われたこともあったなあ。そういう教育もあり、順調に人を疑う、否、権力を疑うという健全な思想を子供心に育みながらすくすくと成長していった次第である。一日一膳のお歌です。二膳は食べましょう。まあ、人形でなくてすんませんなあ。銅像でんねん。おまけ・・・臨海部分2000人人形!出た!
2007.08.30
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南極船「宗谷」は、青函連絡船「羊蹄丸」の朋友であるので、俄然、長い間、並んで鎮座している。さて、宗谷に乗船する。。('◇')ゞ勿論、見学のため乗船している青年は、少なくとも私一人である。何故なら、恐らく、私がゆっくり見学できるように邪悪な子供たちや無垢な家族連れを私のSPがシャットアウトしてくれたお陰かと思われる。しかし、私が熱心に写真をとっている間に、おじさん2人組と、オカマ2人組に抜かれたのであった。SPは彼らが静かに見学すると判断したのであろう。さて、いよいよ、本番である。スクリューなんか見ている場合ではない。あ、そ。あ、そう。乗務員に遭遇。でも、どう見ても、君たち外国の人だから・・・ギターはカオサンロードで弾きなよ。ハイ、今、野菜不足で脚気病になるのを防ぐために、途中寄ったバリ島で仕入れた茸料理を作ってるよ、オムレツでいいかな、アハハハ、何故か、笑いが止まらない乗務員全員!南へ進め!南極へ。何故、天に行こうとする船長!お、こんなところにも食料があった。栄養つけないとな。長年、氷ばっかり食べてたからさ。taro jiroね猫のぬいぐるみなんかでごまかしてるけど、ぼくたち、羊蹄丸の青森隊に比べたら、人形の作りがちゃちいのです。人形道の努力が足りないと思います。男だけで何日も、南極に行って女っ気ないのは、絶えられないよ。今が、2007年だったら、こんなに、人形も進化したのに。200円印紙2枚で資料請求しよっと。じっくり研究して、持っていくよ。(R-35指定)だから、当時、国家予算で作られた難局1号なんか、目じゃないです。(R-39指定) だから、お医者さんごっこも流行るのです。仙台だけで流行ってた訳じゃないんです!みーんな、男同士、お医者さんごっこに夢中で、計器室にはだーれも、いないよ。じゃあ、最後に、船長からご挨拶。みんな船の科学館本館ばかりでなく、こちらにも来てね、寂しいよ。追記:そうや、ちなみに、このオリエント工業については、何かのインタビューの本で(部屋のどこかにある)、人形職人が紹介されていた。人肌にいかに近づけるか、その苦労の様子が淡々と語られていて、感銘を受けたが、すっかり内容は忘れた。忘れた頃に、この日記を書いている途中で、この会社の名前を思い出したのであった。こういう何かを考えたりしたり思いついたりしたことに、関連つけて思い出したり考え付いたりすることを「愛のフック」と呼ぶ(といっても、今、私が考えてみただけだけど。まあ、既存の言葉では「見立て」っていうのかしらん)
2007.08.29
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地球の歩き方タイの第一版を探したのだが、ない。第一版でよく覚えている女の子のコラムがある。「タイって、安くって、楽しくって、おもしろくって・・・」で始まる馬鹿みたいなコラムを読んで、たった1年程、タイに早く行っただけで、先輩づらした若い私は、「フン!時代も変わったな」なんて鼻息を荒くした、若き日々であったことを思い出した。その後、タイなんて旅行しやすい国に、歩き方なんかいるのか?といってもしかしたら、買わなかったのかもしれない(それならないはずだ。誰かに見せてもらったのかもしれない。)バンコク宿について宿泊紹介欄には、1にマレーシアホテル周辺。2にスクンビット通り。お、あったあった、アトランタホテル・・・すべての部屋が綺麗な訳ではない、プールは汚そう。麻薬取締官が頻繁に出入りし、人気が落ちた。おお、マイアミ、クラウン、スターライトも紹介されてるぞ。3に、ファランポン駅周辺・・・ひとつも知らない。このあたりはタイで最も安い宿のある地域であるが、騒音も酷い。ラマ4世通り沿いは、信じがたい騒音。4に、チャイナタウン。エンパイアホテル・・・ここにも1階泊まったことがあるわ。スリクロンは紹介されているが、ジュライや楽宮、台北はない。6にサイアム広場、そしてついに、7番目に出たのが、バランプー!おお!カオサンとは書かれていない! 有名なビエンタイ、ロイヤル、ロイヤルについては、働いてから泊まったことがある。そして続くのが、VSゲストハウス・・・トイレで旅行者が死んでいた・・・何だかなあ、いいコメント・・・・。カオサンの老舗、ボニー。ボニーの隣、TUM。カオサン通りは3件のゲストハウスの紹介しかない。 空港について。空港出国税50バーツ。タクシー。メーターはついていない。3人で行くと、リムジンより安く街にいけるだろう。エアコンバス、29番バス。3バーツ・・・あれれ、2バーツだったので、値下がりしたのかな。鉄道。ビルマ24時間ビザか1週間ビザしかない。闇レートでは東南アジアで一番安い国だが、公式レートでは一番高くなる。ビルマにつくと、所持金をすべて申告することが必要で、宿泊、交通はツーリストビルマを通さねばならず、大変だ。ビルマ旅行に行くなら、空港でタバコのスリー5とウイスキーのジョニ赤を買っていくといい。2つで、売れば1万円程度になるので、これで1週間十分に旅行ができる。ベトナムベトナム観光局を事前に通して、ホテル食事交通手段をすべて予約しなければならない。ツアーになるが、自分たち以外のツアーバスを見ることはないだろう。バンコクで1週間のサイゴン体験ツアーが予約できるが、ビザの関係上、4週間前に予約しなければならない。ラオス5日間の通過ビザしかない。バンコクービエンチャンーハノイの飛行機に乗るしかない。カンボジア1979年、クメールルージュが倒れた後、カンボジアを訪れた人はいるが、入国は難しい。地雷も覚悟の上である。やはり、20年で、すべてはずいぶんかわったものだ。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.28
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私が、東京に野暮用(結婚式)で行っても、そのまま、素直に結婚式だけに出席するという訳にもいかず、朝から、早起きして、船の博物館に行ったのである。行ってから気がついたのであるが、中学校のときに、はとバスで行ったような気もする。しかし、ゆりかもめに乗ったときから、子供たちで満員なのである。これは、ヤバイと思った。こんなにいっぱい、船の博物館に行ってもいいのだろうか、と思いきや、若者は一駅前のお台場あたりでじゃんじゃんおり、子供連れの親子と、背広の規則正しい私と、それに、浮き輪を持った若者が残された。こいつら全員、船の博物館かい?と思ったのだが、半数以上が、船の博物館横に面したプールに吸い込まれていくのであった。勿論、私の目的は、船の博物館の別館、羊蹄丸である。船の博物館から2,300メートル歩いた港に放置されており、誰もそちら方面に歩いて行こうとしないのである。勝利である、大都会の中、また私一人である。一応、運転席に行ってみるが、暑いので、誰もいなかったこともあり、「暑いだけやわ」と小声で言った。シャツに汗が垂れる。この船は、簡単にいえば、青函連絡船であった。さて、本題である。半券を受付で見せて入ると、早速、1階に行くと、変なおじさんがようこそといって船の説明が始まるのであった。一応、誰もいないので、洞窟のようになっている1階を歩くのである。そして、地下階に行く。そこには昭和30年代の青森がリアルワールドがあった。魚屋リアルな人間は私だけなのに、私に声を掛けてくる人々。高岡よ、あ、花岡よ。リンゴの嵐である。セクシー系おばちゃん。「ねえちゃんねえちゃん」と声を掛けられるが、私は、その風貌からしてニイチャンである。リンゴやなのに、焼き芋を作っている。いや、焼リンゴだ。甘くて酸っぱいヤキリンゴじゃ。鎌田商店の林檎もまあまあいける。おばちゃんもいける。愛嬌一番。家出絶賛継続中。またもや焼き芋屋。鍋の蓋を時々取る。ボウズ、金ない無いなら、シッシ!かぼちゃこうてってや。ネギもあるけど。市場の横はすでに青森駅になっているのである。活気がある。寒がるヤクザや、駅員や飯食いセクスィー女がいる。憲兵(駅長)、不貞な人々を監視する。キオスクのセクシー系ねえちゃん。ピースやリンゴや北海道新聞を売る。セクシー女、握り飯を口元につけるお茶目さ。おまえには切符は売れん!と発券拒否する駅員と、子連れおかんこの改札を通るもの、生きて帰れると思うな、とメガネ男がにらみをきかす。没収品の嵐。夜逃げ、いや名物泥棒柄駅の横には、やっと、羊蹄丸が函館からやってきたわ。津軽海峡冬景色歌うわよ緊急事態発生!極悪ブログに載せられようとしてます!船からも、駅の動乱の様子がはっきり分かる。走れポーター、負けるなポーター。ウイ、ちょと飲みすぎたかな・・・と思いきや・・・ちょと、カレー食べ過ぎて、動けなくなりました。さて、いよいよ上野に行きます。みなさん、お達者で。オイ、お前、そんなところにいたら轢くぞ!このDE1020様が!OK,、私をじゃんじゃん轢いて下さい。私は死にません!私は人形ですから!蝋人形でなくてすみません。おー、列車待ってくれえ、乗り遅れる!飛行機じゃないんだからちょっと待ってくれえ!もしもし、もしもし、おねえちゃんのパンツの色何色?あ、これ伝言ダイヤルだった、あ、昭和30年代か、ポケベルか、あ、プロフやね。ウィー、カレーからまだ酔いが醒めない。何混ぜやがったんだ!ヒロポンかあ~?ぁあ~?
2007.08.27
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不健康は蜜の味・・・そういうのは、「若かった頃だけの特権だぞという法則」を少し破ってみたい気がする。疲れないのか・・・そういうのは、楽しくないときだけの台詞である。何しに来たのだ、何をしているのだ・・・意味を求めて安心したくねえ。熱帯の暑さは夜も続き、久しぶりに、玉の汗が吹き出るが、それさえ心地良い。かつて、タイを自転車で縦断していたので、バンコクに着いたときも自転車を持っていた。チャイナタウンのジュライホテルから数キロ先のこのパッポン歓楽街まで、自転車できた。それも二人乗りして。そのストイックな時間、なんて、おれはおしゃれなんだ、と思った。フラフラしながら、真っ暗な中、ホテルに戻る途中、ヒンドゥ寺院を発見。フラフラしていたので、部屋番号を間違えて、朝方に、ガチャガチャ開けようとして、泊まっている人に、男娼と間違われた私。暗い道には、ゴキブリとネズミの巣窟であった。舗装が直されていない道が懐かしいのである。さて、朝、早起きして、出かけるぞ、と思いきや、3時間程寝坊。といっても行くところは特にない。特に予定はないが、マッサルヂに行くことにした。タイでのメインである。何せ、昨日のサンフランのマッサルヂの看板を見て、マッサルヂをすることにしたのだから、これなくして、タイはなし。といっても、最安値のワットポー(涅槃仏がいるお寺)内にあるマッサルヂではなく、かといって外国人向けではなく、地元のデパートに入ったのである。1980年代、デパートは、人々が涼みにくるところであり、購入者が2、3割という状況であったが、今は、買うために来るようになったと思われる。とにかく、2時間で1000円である。大富豪なので300円もチップも弾むのである。大変喜ばれるのである。どうせなら最初に渡しておくべきだったか?しかし、最上階フードコート横のガラス張りのマッサルヂ屋であり、柔道着のような薄着に着替えるのに、ガラス張りに、着替えパンツ丸見えなのである。さぞかし、食べている方々は不快になったことであろう。しかし、2時間はおばちゃんも疲れたようであった。1時間を2回に分けるとよかったかなと思ったのであるが、後の祭りであった。しかし、夜中からすぐに、揉み返しがやってきて、結局、また行く羽目に陥るのである。日本に帰ってからもさらに肩こりがひどくなることが目に見えているのである。タイに来たら、結局、何かと、禁断症状を起こす羽目になるので、大変困るのである。敬虔なブディストなので、仏陀グッズを買うのである。蝋燭とか。学生の頃、タイの坊さんが持つ黄色のかばんを持っていつも学校に行っていた。ある日、日本に来ていたタイ人に注意された「これは坊さんが持つ専用のものだよ」と。マッサルヂをしたローカルデパートの地下にタイスキMKがあったので、野菜を食べまくるのである。食べまくっていると、急に店内に音楽がなりだし、従業員が踊りだしたのである。意味不明に笑い出したが、他のお客さんは無視していた。(一応、最後に皆さんお愛想拍手はしていた)踊っている間に、注文や後片付けの仕事がたまり、どえらく忙しそうにしていた。(ホテルでテレビをつけると、MKのコマーシャルをやっており、やはり踊っていた。エグゼクテイブなので、テレビつきのホテルに宿泊した。)とにかく、九州旅行を1年前からするようになってから、佐賀県でMKを見つけて以来、おお、なんだかMK行きたいぞ、と密かに思っていたのである。とにかく、海苔巻きがお勧めなので、今度誰か行くなら食べるべしである。しかし、タイスキチェーン店は、MKとコカ、テキサス、カントンとかあるが、多分、MKが一番庶民的なのである。廃墟ビルを眺めながら、BTSに乗る。大渋滞に巻き込まれることがなくなった画期的である。昔は、暑いので、3キロ先に行くためトゥクトゥクに乗ったが、1時間かかたりなんかしたなあ。昔、夜に、建設中のビルに入って、夜景を眺めていたら、警備員に見つかったが、外国人と分かると、なにやらはにかんで、どこかへ行ってしまった。何となく、警備員の心理が分かるような気がして、嬉しくなった。地下鉄MRTにも乗るのである。地盤が緩いので地下を掘るのは無理なんて話を聞いていたのに・・・なんだ。おまえ。また行くのかよぉ~。なにやってんだ、俺、ゴーゴー・・・・。明日帰るんだろ、オメエ、あっ、おれ・・・。・・・・チカチカするものが好き。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.26
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ところで、簡単なことに気がついたのであるが、日本の一等地の不動産価格が上がっているというが、購入しているのは、外国人だという。もしかして、その外国人とは、ユーロ圏の人ではないかと思ったのである。2,3年前まで1ユーロ12、130円だったのが、今、15,160円である。日本の不動産が1,2割上がっても、ユーロ圏の人には同じ価格なのだ。違うか?あれか、もしかして誰もが知ってる当たり前ことか?今、シンガポールや香港の不動産も暴騰している。同じか。Let’s spend the night together
2007.08.25
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8月23日は、私の二人の親友の誕生日だ。「あの宴会から20年たったなあ」とメールが本人から来たので、また書くことにした。1987年8月10日、一人旅が基本の大学生同級と奴隷2名は、インドのニューデリー、ボンベイロッジにて集合であった。しかし、8月10日にボンベイロッジに来たものは0人、律儀な後輩は、1人が1日遅れ、もう一人が2日遅れで、タイ経由カルカッタインにて、それぞれが、やってきた。しかし、中国チベットネパール経由で、陸路でやって来た私は、ほんのだが、1週間遅れただけだった。大学同級にも、偶然、カトマンドゥの安宿街を歩いているところを発見。一緒に、インドに下ってきたのであった。私は、彼がネパールにいることを事前に知っていた。チベットからネパールに入り、ボーダー付近で通過するものは記帳していかねばならなかったのだ。そこで、2,3日前に彼が通過していったことを偶然知ったのであった。ボンベイロッジには後輩奴隷2人の姿はもうなく、奴ら逃亡したのか、と思ったのだが、近くにある、当時の日本人溜まり場ホテル、ハニーゲストハウスに鍋を借りにいくと、奴隷二人は、ドミトリーベッドで眠っていた。彼らは、何ですか、やってきたんですね、遅刻ですねといったのだが、彼ら奴隷を再度引き連れボンベイロッジに戻ったのであった。別段、ボンベイロッジに義理があったわけではないのだが、シクのマスターが大変気さくな人であり、そこのサーバントが何とも愉快だったし、同輩と私は、屋上のペントハウスの部屋をあてがってくれたし、奴隷2人には窓のない部屋をあてがってくれたに過ぎないのであった。 しかし、窓のない部屋では煙の漏れていく箇所がなかなかなく、「おまえたち、フロントまで煙とニオイがくるではないか、屋上でやってくれ」といわれ、我々は毎日、屋上で、緊急ミーティングと称して、1日数回の緊急ミーティングが行われるのであった。勿論、議題は後回しである。列車の切符を手配して、ラジャスタン州の砂漠に出かけた。またニューデリーに帰ってきた。8月23日、同輩の誕生日である。日本から持ってきた味噌が残っていた、というか、全然使っていなかった。誕生日大宴会と称して、日本食を食しながら、飛んでくパーティをボンベイロッジ屋上にて執り行うことにし、私は、野菜を市場に買いに行った。実は、生野菜をインドで買ったことがないどころか、インドでは自炊もしたことがなかった。理由は簡単だ。高くつくからだ。大根が高かった。日本人の溜まり場ハニーゲストハウスの床に転がっていた鍋に味噌と野菜とをぶち込んだだけである。蓋の開けた後のある怪しいビールを買い込み、パイプにぎゅうぎゅうに葉を詰め、味噌汁を配給し、何の手伝いもしなかった奴隷後輩Bに、白飯を買いにいかせたはいいが、彼の存在は、宿を出て行った後、すぐに忘れ、同輩と奴隷後輩Aとで、宴会を始めたという按配であった。1ヶ月ぶりの日本食は旨く、何故か、われわれは、(毎日のことだが)、立てないぐらいにフラフラになるのであった。20年の歳月が過ぎ、同輩の彼も、私も、不思議なことに、20年の年齢を重ねた。彼は、その後就職し、ヘッドハンティングで転職した、その間に私も就職し、選択と集中で部門ごと身売りされ自動的に転職。彼は、月収7桁で、私は、手取りで5桁。彼は、やがて結婚し、子供が3人で、私は、やがて結婚し、そして別れた。彼は、出張で飛行機に乗りまくっているが、私も、自称仕事で飛行機に乗りまくっている。そんな訳で、20年たっても、彼も私も大して変わりないままだ・¥。ちなみに、誕生日の同じ(同学年で、血液型も同じだが、背丈や性別や性格は違った)私の二人の親友は、当時、付き合っていた。
2007.08.24
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アテネを夕方に出発した。その日、シエスタと称して存分に昼寝をしてしまっていた。飛行機内では、一睡もすることなく、パキスタンのカラチに到着。十二時間の待ち時間があったため、空港で一緒になった日本人八人を誘い、一日一人一ドルでタクシーを借切り、一台のタクシーに九人が乗り込み、「どこへでも行ってくれ」といい、存分に回る。前は運転手と女の子三人。後ろは野郎六人。建国者のモスクを経てアラビア海のほとりに。左前方に難破船。荒い波に観光用ラクダ。右前方に小さな島が点在。運転手がさりげなくチャイをご馳走してくれた。支払おうとするが、「ここは俺の庭だ。気にするな」といった。そして空港に戻ると、皆はパキスタンで余ったお金を彼に渡す。彼はなかなか商売がいまいぞ。我々がそんまま去ることを察知していたので九ドルで請け負ったのだな。そしてプラスαを充分に見込んでいた。空港の滑走路から太陽を見上げ、渋く「さらば」といってみるが、その光景を微粒だに動かぬ兵士が何の感慨もなく見られた。夕方、飛行機は出発、お喋りのうちに、夜中、バンコクに。正直、私は、久しぶりの日本語に飢えていたのかも知れない。正直、八人のいち私だけが、アジア体験者で、勝手に隊長に任命されたことが、快感だったのかも知れない。正直、ヨーロッパを巡ってきた彼ら彼女らに、たった十二時間のパキスタンが一番面白かった、それも私がいたからといわれて、少し、勘違い的自負心が芽生えたのかも知れない。空港で夜を明かすが、スリっぽい男がうろうろしているので、目をパチリと開け続ける。駆け引きは朝まで続く。そんなに鋭い物色するような目をしていると、スリ丸出しなのだ。朝、交通機関が動き出し、バスで、街に向かい、ホテル楽宮にチェックインするやいなや、次のチケットの予約に、ビザを取るための、フィリピン大使館と、パスポート増刷のための日本大使館と目まぐるしく回る。道に迷う。トゥクトゥクの兄ちゃんにパキスタンのK2という渋いパッケージの煙草を勧め、「急いでくれ」という。「行くぞ。こうなったら今からビーチに行くぞ」排気ガスを吸いながらヤケクソ気味に意味なく思った。最後に、「駅に直行してくれ」といった。そこで、四十分後の列車の切符を買い、歩いてホテルに戻って、荷物をまとめる。その瞬間、五十七時間不眠の私は気を失った。十五分後、奇跡的に目が覚める。もしかして、扉を開けっ放しにしていて、ホテルの廊下をうろつく娼婦や他の宿泊客の足音に目が覚めたのかも知れない。「危ないところだった」といい、駅に向かう。駅で荷物を半分忘れたことに気がつき、駅員を無条件に信じ、「ちょっと五分だけ」といって、荷物を持ってもらい、走る。そのとき発車十分前。宿で残りの荷物を取り、走る。そのとき発車五分前。汗が吹き出て、列車が既に、ゆっくり動きだしていた。私は顔面蒼白だった駅員から荷物を受け取り、走る。走って、最後尾に飛び乗る。汗をボトボト落としながら、混雑した車内を先頭まで歩いていく外人である私を、皆は不思議そうに見ていた。あってないような指定席に座り、風で汗を蒸発させ、焼き飯を食べる。そうそう、いつも、車内で販売している、ワゴンもお盆もなしに直接皿を持って歩き回る売り子からいつも買うのだった。スプーンは胸ポケットに差している。タイにいて、タイを思い出す。タイの列車について。一、 二等列車は三等の倍の値段だが、不快さは半分以下ということは、いつも三等に乗っていれば分かる。二、 車掌が銃を持っている。もしかして車掌ではないのかも知れない。鉄道公安官を兼ねているのかも知れない。三、 風に一晩中吹かれると、流石に冷える。四、 バスと違って歩けるので、尻の皮の薄い私のような奴にはピッタリだ。五、 車内は人口密度が高い。一人が忙しくすると、連鎖反応か共振か分からないが、結構近くの人も忙しくする。ウォークマンの最大音でさえ、列車のきしむ音には勝てない。そのため、夜中というのに、人々は大声で話をしているのが笑える。しかし、列車が止まったときには、不必要に静寂となり、ビニール袋をクシャクシャ丸める音や本のページをめくる音さえ聞こえてくる。人々は機敏に声の音量を調節し、コソコソ喋っているのが、笑える。が、ときどき、環境調節の鈍い人が、走っているときと同じ大声で喋っているのが、更に笑える。それにしても、その音の差を調節し、使い分ける鼓膜は、自己防衛とはいえ、偉い。六、 列車の揺れは人間のバイオリズムを研究して作られておるのか。波長が合えば、心地よさのため、眠ってしまう。あの排他的爆音と、エアコンデショナーカーのモーター音さえなければ。七、 走行中も昇降口が開きっぱなしというのは、画期的に良い。自分の責任は自分でとるという明確な意思の現れであるし、早く降りたい人や飛び乗る人の危険度を省みない自由がある。第一、安全に閉じ込められるのが、基本的につまらない。責任擦り付け合いの保護第一主義ではひ弱になる一方である。車内放送など、ない。降りる奴は降りるのだ。白線などない。自分がどれほど危ないか分かっているのだ。八、 列車の揺れや音や風にも負けず、或いはボロ負けしてか、座ったまま不快そうにも 寝てしまう人間とは、素晴らしき生理的欲求だる。その環境への順応さは、悲しい かな、爆音の時に不快そうに眠りながらも、列車が急停車して静寂が訪れると、変 化に対応しきれず、起きてしまう。そして、また列車が動き出し、不快度が増すに つれて、安堵も増し、眉間に皺を寄せて眠っていくのである。そんな訳で、六十時間中十五分睡眠を除く不眠状態は、焼き飯を食べ終えた瞬間に途切れる。初めて題目のついた夢をみる。「流星になったポケット」それは地域には、その地域のやり方と伝統があるという国籍不明の長老のつぶやきと、太古からの宇宙的渦巻きの中心に収束されて、天文学的時間をかけ長老の談話と共にポケットに吸い込まれ、それが流星になっていくというメタファーを含んだ夢であった。汗をかきながら、列車の硬い席にうなだれる私を、第三者の私が、近くから見ている感覚になる。列車が走り、止まり、そのたびに、その変化に気がつき、目を覚まし、スラタニー駅はまだだと、思い、眠る。1秒で起きることができるほどの浅い眠りだが、簡単には起きることができないぐらいに眠いのだ。砂風に当たる不快と、戦いながらも起きることができないのだ。朝、列車を下り、バスに乗り換え、船に乗り換え、ジープに乗り換え、正月のビジネス街より十分静かなビーチに到着した。波は薄かった。海から一番近い一番安い一番狭い朝日を拝めるバンガローを与えてもらう。海水に濡れるまで十六歩。草履を投げ出し、衣服を全部洗濯し、着る服がなくなってしまった。1週間、もう誰も、何も、関係ない。もう生まれたままの姿で気を失った。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.23
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主題に入る前に副題ではなく、脇道である。昨日、中華航空が那覇で爆発したが、そのビデオを見ていると、音声が入っており、若者が「ヤバイ、ヤバイよ、超ヤバイよ」と聞こえてきた。オマエがやばくない?と一瞬思った。先日の飛行機の中で、末広涼子がバブル時代1990年にタイムマシンで戻る映画を観た。過去に戻った末広は「それやばいよ」といって、感心するのだが、「君、やばいとは、あぶないときに、使うのだよ」と直されてて、吹き出した。「君、シャツが短いよ、おへそがでてるよ」と何人もの人に注意もされていた。末広は、ボディコンの人見て「眉毛濃ゆ!」といっていたが、何か、ボディコンの人が、東南アジア人に見えた。カオサンはタイの主に西洋人の集まる安宿街である。何を隠そう、カオサンには十数年ぶりにやってきたのであった。それはそれは、すごい変わりようで、パンパンに膨れ上がっていた。私が、批評をすることは何もないが、バンコクというより、旅行者の大型溜まり場であり、現地タイ人の外人ビンボウ人覗き通りという感じであった。当時、何十泊もしたVSクリニックを探すのにも、一苦労するぐらいであった。脇道に入る通りが分からなかったぐらいである。しかし、徐々に、この路地の椅子でスイカシェイクを飲んだとか、NATゲストハウスでビデオ見たとか、思い出しつつあった。私がカオサンに西洋人が集まっているということを知ったのは、チェンマイで知り合った西洋人と話をしていて、バンコクの宿について、この通りに安宿がいっぱいあるんだよ、ということを教えてもらったのであった。当時、私は、カメラを壊したことを彼に話し、一眼レフを彼が売ってくれるというので購入しようと腹巻に巻いた財布を見ると、見事に、ほとんどのお金を抜き取られていることに気がついたのであった。多分、チャンマイに来る寝台車でやられたのであろうか。怪しいのは同じ旅行者だ。それにすぐに気がつかないように、9割ぐらいを抜き取っているのだ。チラッと見るだけでは、あると、勘違いするぐらいであった。そんな訳で、彼からカメラを買うことはできなくなった。彼は、「あ、そう」といって終わったのであった。すると、偶然、楽天日記の竹亭さんの店を偶然発見してしまう。しかし、午後4時前だったのだが、順調にずっと店は開いていたので、緊張しながら店に入った。思わず、40歳前後、日本人が一人だけ、飯を食っていたので、夜に備える竹亭さん本人と勘違いし、声をかけそうになったが、どうやら店にオーダーしている姿を見て、挙げた手を、ふにゃふにゃと、下ろしたのであった。着物を着たタイ女の子の従業員がニコニコ注文を採りにきたのだが、まだ、夕食でもないので、大便でなく大瓶のビールを注文、あとは、お腹を押さえて、お腹いっぱいポーズをとった。ビールまで注いでくれたありがとうと思ったら、2杯目まで注いでくれた。 昔、タイを自転車で縦断している頃、ある町で、昼間から贅沢にビール飲もうと思って注文したら、誰も他に客はいなくて、ウエイトレスの女性が、私の後ろに待機して、私が飲み干すのをじっと持っていたことを思い出した。2杯目を注いでくれるためだけに、背後に立っていてくれたのだが、それは緊張したなあ、というあっさりしたことを思い出した。 竹亭さんに、メッセージを書く。一人だけ、背広を着た男性がいたので、もしかして、あのタイ人化した人が、本人さんかと思い、思わず、声をかけてみたが、従業員の方であった。 昼間からちょといい気分になって外に出る。カオサンの左も右も突き抜けられるようになっており、木造のゲストハウスは軒並み、鉄筋に変更されておる。民主記念塔を見ると、これまた懐かしい気分になるのである。こんなに綺麗だったヵな。なんだか、またもやなつかししリーズだったわ。まとめ、解説調べによると、カオサンのゲスト第一号は1978年、ボニーゲストハウスであった。また今度、昔のガイドブックを調べなおしてみる気分に今なったのであるが、たしか、地球の歩き方第一号にしてもカオサンの宿紹介は、1ページの半分もなかったよな気がする。初めて行ったときは、地球の歩き方がなかったので、私のガイドブックは、ロンリープラネットであった。そこにも、そんなに詳しくは載っていなかったような気がする。90年代に入り、私もカオサン中心に泊まるようになっていったのだが、このあたりから、タイも急速に発展しだしたのである。それと同時に、チャイナタウン周辺の宿が急速に衰えだしたのであった。それについては、私の体験の中にはないのだが、どんどんつぶれていったということはそういうことなのだろう。チャイナタウンでは、安チケットが買えなかったのであることもあろうが、日本人も普通の旅行者も来る(普通ってナンだ?)ようになって、より安全性を求めるようになったのであろうか。確かにチャイナタウンは治安がよろしいとはいえない。80年代ぐらいまでは、周りにアジアに行く人もそう多くなく(私の周りは別だけど)、根性や覚悟のようなものが必要だったのかもしれないが、その分、多少治安が悪くても、面白い方を選んだのかもしれないが、90年代以降、そうではなくなったのであろう。チャイナタウンの分、皆、カオサンに向かったのであろう。そして、今では、サイアムスクエア近く、国立競技場前のソイカセムンソンあたりもよろしいらしい。国立競技場・・・私が初めて泊まったタイの宿である。1泊150円であった。ともかく、確実にいえることは、当時の私は、20年もたてば、私も、まともな大人になるものだと思っていたことぐらいである。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.22
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ファランポン中央駅初めてのバンコクドンムアン国際空港から4駅。よく荷物を預けた駅。北や南方面にいつも出発していた駅。やることもなく、駅に行き、やることもなく、新聞をあぐらをかいて読んでいるタイ女性をポカンと見ていた駅。ノーンカイまで切符を買って、何だか何もかも嫌になって10分間迷って、キャンセルして、チェンマイ行きに変更し、手数料取られた駅。トイレが有料だった駅。ビーチに行くッスラッタニーに行くのに、楽宮に忘れ物をしたことを思い出し、走って取りに戻り、列車が動き出したのに飛び乗った駅。一度だけ奮発して乗った2等エアコン寝台車。駅前の屋台で何度もタイアイスコーヒーを飲んだ。駅前の店で、とても気に入った花柄のジーンズをキツキツなのに、無理に買って、いつも、おなかを凹ませて履いていた。詐欺に誘われて、危うく全財産を取られそうになった駅・・・楽宮旅社いずれこんことは詳しく書き直しておきたいと思いつつ、楽宮ホテルは淫猥であった。ホテルにはホテル付の娼婦がうろうろしていて、チャックインすると、すぐノックがあり、大変、うっとうしいホテルであった。81年に出版された谷恒星の「バンコク楽宮ホテル」は、小説仕上げだが、実際のことも良く描かれていたが、当時は非難の対象であった。私が初めて行ったときは、まだ地球の歩き方がアメリカ、ヨーロッパ、インドしかなくて、中国が出た頃で、翌年、タイが出たときは、このホテルもしっかり紹介されていた。今は、もうないかもしれないし、何だか、本当に寂れていた。多分外から見ると、つぶれているようだ。ファランポーン駅横のスリクロンホテルは、よくこれまた冷房を取るだけのために、アイスコーヒーを何百回も飲んだんだなあ。だいたい、このあたりを歩いてみたが、もう、日本人らしき旅行者も誰もいなかった。もう日本人の溜まり場がなくなり、皆、カンボジアやカオサンに移っていったという噂である。ロータリー前には、なんと、BMWのショーウインドウが・・・時代は変わったな。スワニー食堂このおじさんはまだ座っていた。もう誰も入っていない。きっとスワニーさんも、もう50歳超えてるんだろうなあ・・・シミジミ。7月22日ロータリー噴水とジュライホテルこの噴水の前では、娼婦に卵をおごってもらった懐かしい経験があるが、やはり、タケテイサンやホウロウサンにも懐かしい思い出がある場所である。 前の屋台で、いつも飯を食っていた。変な日本人もうろうろしていたが、今考えたら、私も変だったのかもしれない。頭に包帯をした日本人おっさんがやってきて、そこで頭を棒で殴られて、意識失っている間に財布取られましたよ。といっていたが、「へえ。あ、っそう」なんて感覚も鈍っていたような気がする。台北旅社かろうじてここだけが、まだやってるようだ。チャイナタウン。何度ここをさまよったことであろうか。棺おけ屋の横にひよこ屋の横に棺おけ屋の横にひよこ屋・・・泥棒市、金行。なんだか、懐かしシリーズ・・・だったわ。まとめ、解説。1970年代、ベトナム戦争・・・日本の若者もたいていは北海道なんかに向かったかに族であったが、一部の人間はアジア方面にも流れ、いわゆるヒッピー、ヒッピー崩れで、旅行期間は年単位の人も多かったに違いない。あの深夜特急もチャイナタウン、ファランポーン駅周辺に宿をとったのであろう。当時は、1ドル250円の時代である。この人たちは、本当に金がなかったのであろうし、本当のビンボウ旅行者だったのであろう。海外旅行が爆発したのは、1985年のプラザ合意以降の円高からであろう。私も、初めて行ったときは1ドル220円であったが、2回目以降はプラザ合意以降で、急激な円高になっていったのであった。私は、この1派に属する。たまたま、それが、学生になった年だったからに過ぎないが。 80年代、宿泊施設としては、日本人にとっては、このチャイナタウン、そしてマレーシアホテル周辺、そして、少し値は張るがスクンビット周辺にもあった。マレーシアホテル周辺では、安チケットが売られており、当時、世界でもバンコクと香港が世界の安チケットのメッカであり、多くの人がこの2都市をベース地としていた。HISがまだ秀インターナショナルの頃、タイに行くのに、往復8万円とか10万円とかしたのであった。それも、決まって東京からパキスタン航空かエジプト航空。ついに、その後、イラク航空、トルコ航空と出てきたのではあるが。 それに、インドに行くときに1泊だけするときは、スクンビットのアトランタホテル、マイアミホテルなど、ちょとだけ奮発して泊まったものであった。何せ1500円ぐらいでプールがついていたのだからちょい豪華な気分に浸れたわけなのである。働いてからも、アトランタホテル、クラウンホテルなどにはお世話になった。 マレーシアホテル周辺は部屋が狭く、やっぱりチャイナタウンのジュライホテルであった。何せ安宿のくせに、毎日シーツは換えてくれる、部屋が広い、屋上に行ける、3階に安食堂がある、1階に夜になると屋台がいっぱいでる、人によっては、周りに売春宿や麻薬屋がはびこっているというなかなかなところだったのである。すぐチクル伊藤四郎従業員とか、小遣い稼ぎの麻薬関係摘発警官などもはびこってはいたのだが。そして、そうしようもない北京飯店、ではなく、どうしようもない北京飯店にはびこる日本人たち・・・しかし、チャイナタウンの明るい時代であったことは確かであった。明日は、パート2カオサン編である。まあ、いわばゴッドファッキンファーザーパート2のようなものである。誰も楽しみにしていない(ホウロウさん以外)ともかく、確実にいえることは、当時の私は、20年もたてば、私も、まともな大人になるものだと思っていたことぐらいである。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.21
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タイのマクド(関東ではマック、私の中ではドナルド)では、合掌。通りにある、小さな祠に、若い女性が通り過ぎながら、フト気がついて合掌したのが、今日の印象的光景。どんな国に行っても、スーパーがあれば入ってしまう癖がありますが、卵の色がヤバイと思います。割と、私も、グルメなのでインスタントラーメンが好きなので、いくつか買い込む。でも最近は暑いので、ここ1年ぐらいでは、2回ぐらいしかインスタントラーメン食ってないような気がする。こういう、訳のわからないものは、とりあえず、買うという習性。コーヒーショップでビールを飲んで、出陣である。河童えびせんくいたくもなる、パパ。日本人専門飲み屋通り、タニヤ。実は、こちらの店には高くて一度も行った事はない。移動してスクンビット方面にGOだ。ソイカーボーイ。こちらも、歓楽街である。以前、グレースホテルの地下に遊びに行ったことを思い出した。ここは、アラブ人専用の女を漁るところで、カフェには娼婦とアラブ人が血眼になっている姿をみるのが、刹那的で楽しいのであった。アラブ人の鋭い目つきに、何とか仕事にありつこうとする娼婦たちの群れ。第3者としての私は、ただただその血走った駆け引きの様子を見るのであった。ここ2、3年、シンガポール、香港、台北、北京などいくつかアジアに行ったけれども、飛行機の中から乗客が浮かれているのが、なんと言ってもタイ路線である。もう、みんな、ウキウキしているのが伝わってくるのだよね。日本でいうと、沖縄路線だね。もう、遊びたいモードが飛行機に中に充満しているのだ。タイもそれに加えて、邪悪な雰囲気が流れているのが、何とも、私も、ゲヘヘと下品に笑ってみたくなるのであった。バンコクからの帰り便も笑ってしまうのである。早朝便であったが、飛行機は満席のはずなのに、実際乗ってみると席が結構空いているのだ。隙を見て、客室乗務員にその理由を聞くと、バンコク便は、だいたい1割くらいの人が、予約だけして乗ってこないとのこと。多分、騒ぎすぎて、寝過ごすのじゃないの?と呆れながら話していた。そうか、皆、タイが好きなんだなあ。困ったなあ、と思うのであった。沖縄と同じで、ビジネス客が結構少ないのも特徴なのだろう。それに、西洋人でも男性1人とか男性数人という乗客も多く、怪しいのだ。というおのれはどうなんだ!ということは、おいておく。ビリケンシュトック、7年前に購入したときは、2万円ぐらいしたドイツ製であったが、500円ぐらいになっていた。何とも、世の中の経済リセッションというかデフレというか価格破壊は凄いものだ。いつの間に、屋台で売るようになったのかもちょとだけ疑問である。散歩人としての私には、必要な正装である。エンポリオアルマーニ、11年前に購入したときは、2万円ぐらいしたイタリア製であったが、1000円ぐらいになっていた。何とも、世の中の経済リセッションというかデフレというか価格破壊は凄いものだ。いつの間に、屋台で売るようになったのかもちょとだけ疑問である。会社員としての私には、必要な制服である。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.20
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バンコク、チャイナタウン。十数年前までは現役の刑務所だったというから、私が頻繁に訪れていた頃は、バリバリ現役であった訳である。とにかく、汗をダボダボ流しながら、やってきた公園なのだが、やたら健康的健康公園で、公園の周囲を走っていたり、バトミントンをしたり、ベンチプレスしている人々を見受けられる。今でこそなのでるが、一般の人が、運動をしているという姿をアジアで見るというのは大変珍しい光景に見えるのであった。ある人々は、豊かになったのである。 初めて海外に行った1985年、フィリピンではルソン島、北部の避暑地バギオで一人だけランニングをしている大人の人を見た。違和感を感じた・・・運動?富裕層の人なのだなと思った。それまで、の2週間ほど、初めてきた海外で、生きるためだけで精一杯という人々を見てきた。運動なんかしたら体力が消耗する。ただでさえ、暑いのだ。元刑務所の公園に来た。チャイナタウンにある場所である。監視塔が残されている。小魚のようなものを捨ててもらっては困る。それからゴミを手つかみで拾っても困るし、ドジョウを釣ってはいけない。手足を固定、ダイエッツ。博物館は日月が休みだったのだ、残念。外から見る。ワザワザニポンから来たんだけどなあ・・・。って文句言う人もいないや。首だけ出して、蒸し風呂廊下に立たされる女性刑務員もいます次は、正座させられるか?刑務所全景、外から丸見え。銃、撃てます。そんな訳で、カオサンロードまで、タクシーに乗るのであった。初乗り30バーツ、約110円。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.19
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この1週間、家を不在にしていて、一番寂しかったことといえば、家に帰ってきたときに、ポストにDMの1通どころか、各種請求書、定期購読誌が入ってないどころか、携帯電話や不動産やピンクチラシの1枚も入っていなかったということであった。盆休みで各種会社が休みだというのは分かるが、からっぽのポストに何となくシュンとしただけでなく、何かの間違いではないかと、隣や周りのポストを覗き見したぐらいである(一応鍵はついているので、まさに、指で押し開けて覗き見た)。不思議なことに、チラシなんかなくなったらいいのに、迷惑な!(といいつつ、仕事でチラシを作っているが)と思いながらも、なくなってしまえば、こころなしか寂しいのであった。まあ、それはさておいて、バンコックの夜は、昔から行ってみようとしていた教育的レストランである。運営はタイ国内で最も有名なNGO(名称はPDA)という社会開発財団。元タイ国副首相(現在は国会議員)、ミーチャイ・ウィラワタイヤ氏(ほら、あのミスターコンドームといわれてた人だよ)が1947年に国連のバックアップを受けて設立した「PDA」は、タイの貧困を撲滅するために、バースコントロール、エイズ予防、農村部での雇用を創出するための活動を行っている。キャベツとコンドーム。タイの人々が幸せへの布石として、人々が市場でキャベツを買うように、コンドームも手に入れやすいものであるようにとの願いが込められているのだ。しかし、楽しいのだ、笑ってしまう私は不謹慎なのだ。場所はスクンビットのソイ12。ナナ駅からチャオプラヤー川方面(西か?アソク駅方面だ)に数分歩き、ソイ12(12通り)を南。昔、バスはどこまで行っても、2バーツだったが、エアコンバスは遠くに行けば行くほど高くなった。奮発してエアコンバスに乗り、車掌が切符を切りに来たときに、行き先であるスクンビット!と叫んだが、車掌は「ソイ?」と聞いてきた。スクンビット通りも長いのだ、遠くに行けば値段もあがるのだなあ、と思う。そういえば、80年代後半にスクンビットだったかなあ、少し離れた郊外に巨大ディスコ「ナサ」があって、UFOが降りてきたりして楽しかったなあ。あの頃は、いつも何故かフラフラしてたからなあ。懐かしくなったなあ・・・いろんな近藤さんがあるのだなあ。勉強になるよ、でもイボイボとかとんがったのとか、単なる男性願望なんだよなあ、多分。世界中の近藤君のパッケージが展示されてるんだけど、イングランドのパッケジを紹介。そういえば、日本で絶大なる人気を誇るシェア率ナンバル1の岡本君も世界に出ると相模君に負けてるんだよねえ、何だか不思議だねえ。照明もコンチャン。そうえいば、昔は、分厚いほうが乾かして、何回も使えるから良いと東南アジアでは言われてた感じがするんだよね。でも2回目以降は、十分過ぎる膳偽が必要だね、きっと!照明も、さらにコンチャン。昔、秀吉と信長の四こま漫画を思い出した。相原コージだったかな。1コマ目、信長「なんだ、このわらじは暖かいではないか。尻に敷いていたなサル1!」秀吉「いいえ、暖かいように、このように胸に入れておきました」2コマ目、信長、女の布団に喜んで入る。「オヌシも好きよのお」3コマ目、信長、女に向かって「おぬし、いつもより、ぐっしょり濡れているではないか。、どうしたのだ」4コマ目、庭にいる秀吉「殿が、すぐに入れるように、拙者が十分に愛撫をばし尽くしておきました」同時に、信長、拳銃を取り出して、秀吉を撃つ。出た、でも蝋人形でなく、マネキン。オマエ、そんな服着て恥ずかしくないか!!テーブルにも、ガラス張りの下には、メニメニコンドー。食後、清算していただいたあとは、お口直しにミント・・・ではなく、コンド。・・・あ・・・そう・・・コンドーマン・・・フーーン額に入れるほどのことかどうかは、私には、よく分からないが、ゲージツは爆発だ!いや、破裂だ!いや、破けるとこまっちまう!オマエ、どれ使いますか?といわれるとさ、結構、困るよね。とりあえず、全部破れそうだよね、だよね、けどね、でもね、我慢できないね~。トイレなんかにもいくのだが、巨大キノコに道を示されても、結構困るんだよね。小学校のとき、子供だったので、コンドムが何かしらなくて、いつも学校の帰り道、コンドムの自動販売機のところで、友達とバイバイするのだが、いつもそいつと、「オイ、コレ何やろな・・・サガミスキン・・・サガミス?サガのミスキン?ガムか?」と何度も白熱した議論を繰り返し、意味もなくお金も入れずボタンを押していた。誰も、すれ違う大人は順調に無視してくれていて、通り過ぎる大人は誰もが、順調にやはり、無視してくれていた。 そういえば、私の原爆疑似体験は小学校4年生のときの「はだしの元」中岡元である。全巻揃えて、多分、100回は読んだと思う。アンチャンアツイヨギギギ、とかピカドンとか、サンカクマタキテシカクとか、いろいろ学習したのだが、米軍から必死で食べ物を盗もうと、基地に忍び込み、MPに追いかけられ、一人の同士の死をもってして盗み出したものが、コンドムであった。「アメ公たちは、こんもの膨らませて遊ぶのかのう」とかいいながら元がコンドムを膨らませていたのが印象的な30年前である。(勿論、私自身、それが何か分からなかった)クールビズコンドー。クールビスって発表したのは某百合子なんだよね。某百合子、私の大学の先輩なんだよね。その後、カイロ大学出てる変り種だね。ゴムは照明熱で焼き切れるか?伸びきった、近藤!オマエが一番、情けない!その独りよがりに満足した笑顔が嫌じゃ!イイセクス、思い出のせく巣は後儀にアリ!と詐欺で捕まった元イイトモ、モトアンナの彼も言ってたではないか。コンドムドレスアップ女性を連れて歩くより、すっと、合唱する敬虔な人を連れ歩くほうが恥ずかしくはない。だから、伸びきったのを飾るのは止めようぜ。カワイイネ、テーブルに置かれた花、なんていってたら、ゴムです。あっ、そうだ、なかなか、おいしかったよ。12年後に行く。(リンク) ・12年後に行く2。(リンク) 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.18
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サンフランでは、やたら外でタバコを吸っている人が多い。かなり多く、2,30人すれ違えば、一人は吸っている感じだ。カルフォルニアでは、全米でも、建物内でも禁煙が最も厳しいと聞く。飲食店、公共の場、職場ではすべて禁止である。掃除など、維持費が安くなっているということだが、何だか、ここはアメリカ、禁酒法のようになるのであろうか。 サンフランといわず、アメリカ一般にいえることだが、多種多様な人種がいるからもあろうが、ファッションもバラバラである。ファッションだけでなく、体感温度もバラバラであり、コート着ている人の横で、胸がはみ出そうなノースリーブを着ている人もいる。趣味趣向は、おおむね、10代後半から20代前半に一生分をほぼ決めてしまうと思うのだが、ああ、こいちは青春時代にヒッピーだったんだなあとか、ああ、こいつは親が成金だなとか、分かる。私も、10年前、20年前の格好とそう変わらないのである。未だに、普段着はジーンズであるが、何となく、同世代でジーンズも徐々に減ってきたような気もする。私は、多分、60代70代になってもジーンズの予感がする。アメリカナイズされてんのか。ちなみに私の場合、サンフランでは、背広の上着を着てちょうどとう気候であった。ジーンズに、ジャケットとして背広の上着、カッコいいだろう。 疲れて、座っていたら、前に女性が二人座るが、尻の割れ目まで見えてしまい、ちょっと恥ずかしかった。 サンフランでは、というか、初めてアメリカに来た時、それはニューヨークであったのだが、インドに類似しているのである。インドを徹底的に綺麗にしたらアメリカになるのである。そして、徹底的に綺麗にし純粋培養することによって、何となくつまらなくなってしまうと感じてしまうのは、インド派だからであろうか。 それにしても、私が子供のころはもうそうではなかったが、もう少し上の世代では、アメリカは、未来だったのかも知れない。それでも、私は子供のころ、未来を書くのに、アトムみたいに、地下都市にできた超高層ビル、人口太陽、チューブみたいな移動手段、タイヤのない宙に浮いた車を描いていた。そう、あのとき、人類は月に行った、国家の威信があったというイメージがあり、ああいうことを皮切りに、科学技術はどんどん発展発達していくのだろうなあ、という夢を子供のころに描いていたように思う。 今の子供は、未来をそうとは描かないかも知れない。もしかしたら、今の子供は、私と同じように、未来は今日の延長、みたいに冷めた気分で思っているのかも知れない。まあ、私の救いは、楽天的意志ぐらいであろうか。 サンフランでは、というか、アメリカというのは、よくプラグマチズムというが、合理的に感じてしまう。アメリカとは、自動販売機のような気がしてならない。120円を入れて、ウーロン茶を押すと、祖の通り出てくるという。アメリカでは、コーヒーを飲みたいと思っても、110円では何も出てこないし、ボタンを押し間違えると違うものが合理的に出てくる、といった感じである。意思表示もそれに順ずる。私のように生き方そのものが曖昧な人間には少し辛い場所かも知れない。その代わり、分かり易すぎて、ツマラナイ部分をも感じることもあるのだ。行きの機内で読んだ雑誌によると、アメリカ人が自分たちのことをどう思っているかという第一位が「知的」であったことを思い出し、苦笑する。 それにしても、サンフラン、信号機が変わるのが早い。20秒置きほどで変わるのではないか。しかし、これがなかなかイライラしないのが不思議なものだ。渡れなくても、すぐにまた渡れる、合理的だ。 サンフランでは、というか、日本以外の世界中にいえることなのだが、街、盛り場にいるのは、ありとあらゆる年代である。日本だけである。若者しかいない場所がこんなに多いのは。日本では、お洒落なバーといわず、いまやスターバックス程度に行っても、周りを見渡すと、一番私が年上ぽいなと感じることはあるのだが、世界中どの店に行っても、流行っている店、廃れている場所に行っても、自分で年齢を意識することはない。日本の街は若者以外に厳しいのだ。日本の年寄りも、年相応を考えてしまうのか、全然街の情報誌を見たり、いろいろ新しいもの、場所に触手が動かないのが、つまらないのかも知れない。 サンフラン、ケーブルカーがあるため、街は、ケーブルを引っ張っている音が、道の中からカタカタなっている。懐かしい音でもある。私も、奈良の生駒に仕事に行っていたことがあるが、あそこも、生駒山までケーブルカーが走っているのである。勿論、家の近くにも六甲のケーブルカーはあるが、生駒やサンフランと違い、山の急斜面を登っていく。考えれば、近くに麻耶と六甲の2つのケーブルカーがあるので、身近な感じがするのだが、日本では結構少ないのかも知れない。それでも、高野山や比叡山、東京の高尾山、天橋立に京都の男山、妙見と、日本のケーブルカーの半分近くは制覇していることに、今気がついた。 サンフランの第2国内ターミナルチェックインカウンターは今、整備中なのか使われていないのであるが、私の目的は国際線である。そこから、私の空白の10数時間が始まるのである。 今回、メキシコアミーゴ数日間を過ごす予定であったが、結局、メヒコに行けなかった私は、26時間十分にアメリカを楽しんだ後、急遽、放浪達人さんホームグラウンドのバンコクに行き先を変更したのである。空港は、ドンムアン国際空港でなく、新しい空港に去年変わったのである。もう時間的感覚が分からなくなったが、バンコク空港時間夜中の0時を越えているのである。とにかく、タクシーに乗ってシロームにゴーなのである。バンコクは20回以上着ているが、実は数年ぶりなのである。ホテルでチェックインした私は、急いで飲みに行くのである。勿論、この時間なら2時までやっている歓楽街パッポンなのである。ベトナム戦争の産物である。すると、偶然、楽天日記の竹亭さんの店を偶然発見してしまう。しかし、午前2時前だったので、何となく店は閉まっていたのであった。もう2時前には、前の屋台は終了である。とにかく、ゴーゴーバーでビキニゴーゴーダンサーを押しのけ、ビールを1杯飲み、機内で爆睡及び爆酔していたので、腹が減り、前の店で、ゴーゴーバー(明瞭会計のキングスグループのキングスコーナー)の前のレストランで、ソムタムに、パッタイにビールを飲む夜中下がりなのであった。アジアに帰ってきたぞー、ほっとしたという気分になるのは、やっぱり、10代後半から20代前半で趣味趣向が固まってしまったからであろうか・・・・とにかく、娼婦を連れた野郎共がドンドン入ってくる冷房のガンガン効いたレストランで、辛い料理に、汗をダボダボ流しながら、夜は更けて行くのであった。アミーゴじゃなく・・・マイペンライ・・・か・・・何やってんだ、俺。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.17
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サンフラン(以下「SF」と略す。勿論、セクスフレンドではない)もいよいよ、最終編になるのである。驚いたであろうか、書いている本人はちっとも驚いていないのは周知の事実である。 チャイナタウンの端にあるワシントンスクエア。君たち、そんなに、日光が好きかね。今日、74年ぶりぐらいに、日本最高気温が出たよ。死ぬよ。人間だもの・・・(小学校のとき、豆辞典で日本の最高気温が山形県だと書かれていたことを思い出した)髪の毛染めるけ鮫、売ってます。硬そうです。死しても、鋭利な歯が開き、満面笑顔の鮫です。チャイナタウンを主張。鮫の笑顔に敗れる。バスの先頭に自転車を搭載。何か正面衝突事故を起こせば、自転車が真っ先に壊れてしまうのが、心配といえば、心配の種でもある。日本料理「三船」・・・。前に、飛行機に乗ると、三船夫婦が乗っていたのであるが、当然、周りの外人乗客や外人客室乗務員は知らない。何となく、あれは、「世界のミフネの娘なんだよー」と教えたくなったが、はしたないのでじつと我慢したのであった、しかし、ミフネ娘はなかなか周りに気を遣っていい人であるが、だんなはちょっと育ちが悪そうに、ちょっと傲慢なんだなあ・・・。これ秘密。日本人街はこれね。ポストがあるからポスト街かい?歌っていってもいいんだけどさ・・・マサルヂに行きたくなってきたと、ふと、思った、思ったので、明日、実行することにした。今日、SFで初めてとなる食事(そして最後となる食事)はズバリ、インド料理である。ナンにダルカレーにマンゴージュースで8ドルぐらいの無茶安で、激混みである。しかし、一人で来ているのは、私と、前にいるシク教徒ぐらいである。チャイが飲み放題である。驚きである。大道芸をして、逆立ちを続けている、黒人に、彼の友達が通りがかり、声をかける。「オイ、タバコもってないか?」「今手が離せないんだよ、バロー」地下溝には、雨水だけよ、蟹を流しちゃだめよ。SF地獄である。ウエエエヴェ~。寄っていくか?イイエ。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.16
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アルカトラス島:アルカトラスといえば、昔、機内で「ザ・ロック」を見たり、アルカトラズからの脱出を見たりしつつも、昔、レインボーにいたグラハムボネット(ボーカリスト)が作ったバンド名でもある。高校生のころ、あの声にしびれて、思わず、全部アルバムは揃えていたのであるが、あのギタリスト、イングウエイマルムステーンはどうしているのか。まるで、グラハムを無視しているようかのプレイで、ちょとだけむかついていた高校生時代であった。以下、ウディキペデシアより抜粋;1983年、マイケル・シェンカー・グループを解雇されたグラハムは元ニュー・イングランドのゲイリーとジミーと共にバンドを結成する。グラハムはレインボーで共演したリッチー・ブラックモアに良く似たギタリストを探すためオーディションを行い、元スティーラーのイングヴェイ・マルムスティーンを獲得。(イングヴェイ本人の話ではUFOの誘いも受けていたが、グラハムの方が歌が上手いと言う理由でアルカトラスに加入したという。)イングヴェイを獲得したバンドはまだ正式なドラムが決まっていなかった為、スケジュールの都合で加入できなかったコージー・パウエルの推薦でクイーンのロジャー・テイラーと元アイアン・メイデンのクライヴ・バーを紹介してもらったが、ロジャーとはスケジュールの都合で断られ、クライヴに至ってはイングヴェイが拒否したため、加入にはいたらなかった。バンドは元アリス・クーパーのヤン・ウヴェナを加入させ、レコーディングに突入。1983年12月にはデビューアルバム『NO PAROLE FROM ROCK'N'ROLL』をリリース。グラハムの凄まじいボーカル、イングヴェイの強烈なギタープレイとそれまで聴いたことないようなメロディアスな楽曲は世界中のヘヴィメタルファンに衝撃を与え、数年後の速弾き戦国時代突入のきっかけとなった。また、日本盤の伊藤政則のキャッチコピー「泣くがいい。声をあげて泣くがいい。」は日本のヘヴィメタルファンの間では有名な名言(迷言?)になっている。1984年1月には初来日を果たした。イングヴェイはリッチーに憧れているとはいえ黒い衣装、白いストラトキャスター、ギターを壊すパフォーマンスと全てリッチーのコピーであるため客から失笑がもれた。しかし「テープの速回しじゃないか?」と噂されていたイングヴェイのメロディアスかつ強烈な速弾きは紛れもない本物であった。そして、この初来日の東京公演を収録されたアルバム『LIVE SENTENCE』をリリースされるも、グラハムとの関係が悪化したのを理由にイングヴェイは脱退してしまう。後任にはイングヴェイとはギタースタイルが極端に違うスティーヴ・ヴァイを加入させ、1984年10月に再来日を果たした。初来日公演も再来日公演もライブ・ビデオが発売され好評であった。1985年にはスティーヴを迎えての傑作「Disturbing The Peace」をリリースしたが、同年、スティーヴが当時ヴァン・ヘイレンを脱退したばかりのデイヴィッド・リー・ロスの誘いを受け脱退、後任にダニー・ジョンソンを迎え、3rdアルバム「Dangerous Games」をリリースするも鳴かず飛ばずで1987年に解散した。トランスアメリカピラミッド:金融街にある48階建ての三角錐の建物。内部一般非公開のため、内部ではどんなインサイダー取引が行われているかは不明。以上。 グレース大聖堂:丘の上のほうにあるノブヒルというエリアはお金持ちと高級ホテルがあり、景色がまあよいということなのである。ノブヒルといえば、小売の微笑の、シャロンストーンにマイケルダグラスだが、ダグラス、セックス中毒は治ったか?コイトタワー:丘の上にある。勿論、コイトさんが作ったのだ。手前は、性ペテロパウロ教会。サンフランが一望ということだが、私は、一応、コイトタワーを一望して終了。チャイナタウン。急に人通りが増える。どうやら市場にでたようだ。ここでやっとチンツーナイチャー(タピオカミルクティー)を流暢なマンダリンでオーダー。(このチャイナタウンは広東系らしいが)。世界一広い、アジア以外のチャイナタウンはここかバンクーバーか、ニューヨークか。それにしても、80年代に行ったシンガポールのチャイナタウンを思い出してしまう。ジャパンタウン:益子、五重の塔に、大阪城はいかがかな、近鉄経営よ、私がここで飯を食うと思いきや大間違いである。夜、歩いていって、むちゃくちゃ疲れたのだからね。しかし、考えれば、ここの人たちは強制収容所に入れられたのだねえ。同じ、敵国ドイツ系は野放しだったというのにねえ。ジャパンタウンといっても、実際はコリア系や中華系が多そうだ。ジャパンタウンのピークは過ぎたのであろう。3,4世はもう日本語も分からず、店も継ぎたくない訳だ。しかし、まあ、サンフランといえば、ここか。そんな訳で、清く正しく美しいカンコー案内を終了します。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.15
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アメリカらしく、ノースリーブからコートの人間まで歩く街も、朝の5時、ビルの軒先で眠る宿無しと、サングラスをしたランニングの親父、そして徹夜で飲んだくれた黒人が道の真ん中で眠っていた。 既に、都市機能は胎動し始め、バス、地上を走るメトロが走り始めている。ケーブルカーもこの時間なら待ち時間なしで乗れる。チケット売り場も閉まっており、その前に切符売りの親父が一人ぽつりと立っている。風が心地よい。風景と私の感情が、映画のセットのように陳腐だ。それほど高いビルはないが、ビルの上空あたりは霧で隠れている。 バスが、ふらふら歩いている酔っ払いの肩に当たり、酔っ払いの黒人は倒れ大声で文句を言っている。泣き言のようだ。運転手はバスを止め、すまないという顔はせず、大丈夫か、と彼を抱き起こし、バスに乗せた。乗っている数人の乗客は、あまり関心なさそうに、その光景をチラっと見ただけであった。 ベイブリッジまで徒歩40分。交通量が世界一多い橋らしく、瀬戸大橋が出来るまでは世界最長の吊橋であったということである。その脇にあるフェリー乗り場では、マーケットの準備をする人々で多少賑わいかけていた。その脇にある公園では、相変わらず何人かの人が夜を明かして眠っており、頭のいかれた奴が、私の方を向きながらも、私ではない誰かに怒鳴りかけていた。早朝である。都市に植えられた整ったパームツリーは不自然に思えて好きになれない。好みの問題に過ぎないのであるが、ビーチに自然にメクラ滅法に生えた椰子に生命力を感じ、それが美しいと思う。 その後、チャイナタウンに入り、公園で体操をする世界中華街共通の風景を見つつ、先に進む。何かを食べようかと思うが、まだ、準備している状況で、店は開いていない。 ここの住人ではないというよそ者的感覚が何故そんなに楽しいか。責務責任義務を逃避しているように思えるのだが、多分、そうなのだろう。誰にも怒られず、誰からも無関心にされ、記憶を買い、街に金を落とすだけだ。少し寂しいな、という感覚があれば、旅は、尚、いい感じだ。掃除してくれている人、ありがとう、少し、そう思えれば、それは、それでいい。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.14
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そんな訳で、わが夏は、終わったのであった・・・とは、言わせず、気を取り直して、涼しいサンフランシスコ(以下「シスコ」と略す)を探索することにするのである。いつまでも空港にしがみついている訳にはいかないのである。 空港に置いてある、市内マップを見ると、市内に行く方法として、シスコからはここ数年でできたというバートという結構速度を出す(加速力があった)列車があり、それに乗る。風景を見ながら、下を見ると、まるで、仕事をしにきたみたいだぜ、フッと悲しい横顔が旅愁をそそるというものである。 それにしても、私は、用意周到なのである。シスコには行く予定はなかったのではあるが、半年ぐらい前に「地球の迷い方、シスコ&シリコンバレー編」の最新版が105円で売られていたので、とりあえず、意味なく大人買いしていたのである。そして、出かける寸前に買ったことを思い出し、趣味で集めている世界ガイドブックコーナーINマイルームを散策すると、出てきたので、まあ、重いけど、一応念の為に入れておくか・・・なんて荷物の底に入れておいたのであった。そんな、もしもシスコに行くはめになってしまったらと一瞬1パーセント程度思ってしまったのが、ポジティブシンキングから外れてしまったのか、最悪を考えると、それが現実になってしまったのか、大変複雑な心境になっていたのである。そんな心境になり続けること30分で、メインの駅であるパウエル駅に到着したのであった。パウエルストリートのパウエルの由来は知らないが、多分、コージーパウエルでも、ベーデンパウエルでもないとは思う。そういえば、ボーイスカウトの創始者ベーデンパウエルってさ、スパイだったんだねえ。 まあそんなことを思いながら、まずは、宿を取り、荷物を置くことにしようと、駅の近くから、外観を見ながら、宿を探す。宿だらけである。 しかしである、観光シーズンなのか、10数件回っても全部満室、または、居住者長期滞在者向けのホテルばかりで、だんだん、どこでもよくなってきたのも事実である。 16件目にやっと1室探し当てる。中心の広場ユニオンスクエアから奇しくも50メートルぐらいしか(1ブロックも離れていない)ない便利なロケーションなのであった、というか、もうどこでもよかった、値段以外はどうでもよかったというのが正直な感想だったりなんかもするのである。ホテル探しに、90分という長い年月を費やした私は、早速チェックインし、地球のだまし方を開いた、と思うと同時に目が閉じたのであった。いかん、いかん、時差ぼけに負けてはいかん、と意識を回復したのは90分後であった。とりあえず、もう夕刻である。アメリカ本土に到着してから観光に出かけるまで、すでに、8時間という長い年月を費やしていることに気がつき、そういえば、寝てたので機内で朝飯も食ってないので、神妙な計算をすると16時間ぐらい飲まず食わずの状態であることにも、気がついたのである。まずは、メインのユニオンスクエアに出てみる。ここで有名なのは、ここの地下が世界初の地下駐車場であるということぐらいである。ちょうど、フィリピン人バンドによる催し物が開催されていたのであるが、奇しくも、中央の円柱は、米西戦争時代、米軍がフィリピンのマニラを陥落させた記念に建てられたものだということなのである。勿論、フィリピン人にとっては、為政者が代わっただけである、というか島国なので、国という概念もなかったはずである。そんな訳で、呆然とむちゃでかい消防車を見て、アメリカはでかいのお、とカッペになる。そうして、坂を歩き始めるのである。私のシスコの知識は、何か坂が多い街なのだという程度である。それから世界一古いケーブルカーがあるということだが、街中を走っているとはしらなんだ。しらなんだというついでに、いくつも丘があり、起伏の激しい街ということもしらなんだ。一つの丘があるだけかと思っていたが、これはなかなか珍しい街だなあと思う。いくつもの丘まるごと都市なのである。丘を越えてテッペンかと思えば、また下り、また上るのである。勿論、地図からは分からなかったのである。よく、日本でも西洋人が意味のないところで、街中へたり込んでいることがあるが、あれはよく分かる。私も各都市で、歩き過ぎて、意味ないところでへたり込んで休憩することがあるのだ。そんな訳で、休憩ついでにアルコール度10パーセントのフルーツビールのようなもの500CCを買って、へたり込んで飲んでいるが、これが非常に不味く、休憩中も、修行中のような気分なのであった。(以下明日以降続く・・・と思われる。誰も期待していない。) 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.13
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朝、私は、サンフランシスコ(以下「SFO」と略す)に到着した。到着したが、今回、私は、アメリカには用がない。そのまま、1時間半後のメキシコ行きに乗り継ぎのだ。だから気分はアミーゴ!4日前に、すでにヤフオクで300円で「アミーゴ、地球の迷い方」を落札し、メール宅急便で送ってもらい、急いで、1日でいろいろチェックし、ネットでメキシコ関係を調べ上げ、ノートにいくつか、危ない行く場所や、夜の盛り場情報や、危ないもの販売事務所などいろいろチェックをばしており、すでに、気分と実態もろともアミーゴなのであった。 しかしである、現在、アメリカでは、トランジットであろうとも、乗り継ぎであろうとも(あ、意味一緒だった)いったん、アメリカに入国しないといけない決まりになっているのである。そんな訳で、神経質になっているアメリカイミグレーションは指紋を採ったり写真を撮ったりして、大忙しで、長蛇の列なのである。飛行機も順調に30分ぐらいは遅れて到着なのである。 そんな訳で、いらいらしながら行列に並ぶのである。並んでいる間にも、一向に列は進まないのである。比較的日本人は早く進みそうなものであるが、その前の便の働かれそうな国から来た飛行機を降りた列が、嬉々として進まないアミーゴ状態なのである。まだ1時間もあるさと、余裕かましまくりプープーのエグゼクテイィブな私も、多少、動揺を隠しきれなくなってきているのであった。すでに、昨日にして、1日延長してもらっているぐらいである。日本から到着した機内から、全員ごぼう抜きしてきた私さえも、すでに、入国を果たしたときは、非常にやばい状態であった。アメリカは、出国はスタンプ押さず、セキュリティは厳しいだけであるが、SFOもなかなか広く、どこじゃあここじゃあ、走れなんとか言っている間に、すぐにセキュリティを抜け、アミーゴ行きの搭乗口に到着したのである。 そこには、同様に、呆然としているメキシコ人らしき老夫婦と、アメリカ人レズカップルが閉まったゲートで相変わらず呆然としていた。私も、急いで呆然とした。 しかし、何時間も呆然としている訳にはいかず、早速、明日のメヒコ行きを予約しに行こうと折り返し、カウンターに直行すると、満席オーバーブッキング、明後日もオーバーブッキング!明日、また空港で空席待ちしてもいいけど、空席待ちが、えーっと20人ね・・・と言われる。 そんな訳で、アミーゴ紀行は、幻と化し、気を取り直して、アメリカ、サンフランシスコ紀行となり、アメリカナイズされてしまったのであった。 すでに、時間も、入国を果たしてから4時間が過ぎ、我、未だ、山麓にありいや、空港にあり状態であった。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.12
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自慢ではないが、エグゼクティブというものは、忙しいふりをするのに忙しく、ビジネスホリデーの区分けがハッキリしているはずなのであるが、私も、コインロッカーに預けた荷物を気にしながら、昼以降の打ち合わせの類を全てなくすように、密かに誘導し、事務処理雑務処理に勤しんでいたのであった。エグゼクティブは忙しい、対外的だけでなく、社内向け報告書類にも余念がない。下手しなくても、そちらの作成書類が多いくらいでもある。イエイとか言っている暇もないほどの忙しさと、迫り来る時間と戦いながら、そんなときに限って、新たな仕事が急遽舞いこんできたりなんかして、嬉し涙の限りである。 ガンバレ、エグゼクティブ、ガンバレ、目が回る。遂に、汗を拭いながら、駅前コインロッカーに走り、順調に電車が乗り遅れる。かつて、心斎橋ワタル氏がカルカッタぬ向かう列車の中で、自分の乗るべき飛行機が飛んでいったということを思い出し、昨年、順調に成田で乗り遅れた悪夢が駆け巡りながらも、何故か電車には軍服を着た男がいた。 日本には軍隊がある。勿論、憲法どおり解釈すれば、憲法違反である。自衛隊問題をよく考えると、現実的に、もし有事になったときどうなるか考えてみるとであるが、日本は、資源がない、食糧自給率も低い、ということいを考えると、機能しないのでくある。つまり有事には役に立たない組織なのである。現実的に。そこんとこの議論が抜けていると思うのだが、自衛隊も災害時に役立つというなら災害救助隊にすればいいのに。阪神大震災の時も自衛隊は来た。来たが、来たんはありがたいが、来るのが遅い。命令系統がダメなのか、発生後1時間以内には出動すればもっと人々を救えたはずだ。それに、私は見たよ、何だ、あの給水車は。軍隊のものである。給水車に10人ぐらい乗れるのである。自分たちの水が余れば、住民に分けてもいいよという軍隊的構造になっており、給水タンクがちっこいのである。民間から来た給水車は当然、2人乗りぐらいで、タンクがでかい。ああ、現実的でないなあ・・・と思っていると、まさしく現実的でないことが起こった。空港カウンターに汗をかきながら走ったのであるが、出発30分前、「トイモイサン!×!」とカウンターの人に、手で×印をつけられたのであった。うなだれる私は、明日に変更してもらい。暫く、佇むのであった。帰っても仕方ないので、ここに泊まるか・・・エグゼクティブは厳しいのである・・・それではきょうこそ、アミーゴみなさん、アディオス! 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下
2007.08.11
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目が覚めたところで、人生が始まった。ジャズが流れてて、夕日をみているうちに、まだ名前も決めていないのに大人になってしまった。でもなんか、ずっとビーチに座っているだけで、昔、日本という存在を何かの本で読んで、何かの夢で体験したことがあるように思った。断続的に、日本の記憶が残っている。そう思いながらビーチに座っていると、夜になった。水になった魚になれず・・・理由。メガネが外せないから。舟の音を聞いた。波の音と共に。大移動した。コテジ→ビーチ水際 50メートル。一番大変なこと。・・・海水パンツに履き替えること。カナダ人を見た・・・浜辺を走ってる。夜、おいでおいでをして、一服進めたら、息を止めすぎて、床に倒れた。「いやあ、瞬間的にすべてが止まったよ」と正気に戻って照れていた。昔、気持ち悪かったけど、今は昔。シンガポール人、レストランに現れる。・・・コミカルで見ていて飽きない。手にマジックで落書きをしてみた。ミズスマシの大群。・・・ノートに、墨汁のインクが垂れたらそうなった。 生活がありますから
2007.08.10
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ほんの1年3ヶ月ぶりに高校時代の大部長居酒屋「心斎橋」氏と偶然、メールで連絡した為に出会う。勿論、高校の同級生ながら、高校時代の遅刻魔を周到して、今日もほんの1時間ぐらい遅刻してきたことは、公然の秘密である。緻密でもある。国家機密でもある。インテリジェンスでもある。そんな訳で、ほんの8ヶ月ぶりに私は、再度、ムール貝のバケツを食べることになったのである。ほんの8ヶ月と言う歳月は人を変えるといいながらも、その前にビール3杯で人格を変えながらも、近況報告、近況会社報告、緊急事業報告、ニーチェ、サドンデス、まるちゃんの赤いキツネ、京都大卒も馬鹿、心斎橋ワタルの娘の行方及び、守秘義務があるので果たせないが、在学校名及び日々破廉恥な行動、ユリイカ、ニートは世界を救う、アンチョビからいがうまい、ゴアの環境問題には啓蒙としては賛同するが、本当に二酸化炭素が温暖化の原因なのか?あさっての天気予報もできないくせに、に続き、温暖化問題は強いては国家国境問題でありそれがなかったらツバルの人もモルジブの人も陸地のあるところに移動すれば終わりだよ議論、この夏のお互いの渡航先(プライバシーマークがあるので詳しくは話せないがお互い海外である)、ラーメンカレードッチがエライ議論など多岐に渡ったが結論は、今日は暑いねえであった。そうして、話は、ココに来て、心斎橋氏に日記のアップを抜かれるはめになったのでる、きっと会社からアップしているに違いない。その後、彼は会社に戻って、後輩に酔っ払ったまま、「おいこらぼけなす」と回らぬ舌で激を飛ばしていたのであろうが、優雅な私はそのまま、遅れているJRでひたすら暑いを繰り返しながら電車を待ち、そして、汗だくで家に戻った後、水シャワーを浴び、アイスコーヒーを作り、さて、そろそろ今日の重要な出来事でも書いておくか、忘れてしまうよ、明日にはと思って書いていると、日記アップしたぞ、オイコラとメールが入り、急いで確認すると、ばっちりビールジョッキを持った私が写っていたのであった。最後のハゲのオヤジは私ではなく、私の横に立っていた関係ない人物であることをここで断っておこう。という訳で、2次会として20メートル離れたバルに行く。立ち飲みなら安いのだが、富豪なので、立ち飲み席に椅子を用意してもらって特別に座って飲むという特権階級ぶりを特権的に使わせてもらったのであった。なぜかというと、我々はおじんだからである。おまけに我々だけが、背広かジャケットの上着を着ていたからでもある。彼は広告代理店なので派手なシャツを着ていたが、私は地味な水色のバーゲン3800円のバナリパのシャツであり、本当は、38万円ぐらいする代物である。秘密をばらしてはいけないが、彼も3900円のシャツを着ていたが、着ていたと言う事は、多分、裸ではなかったということである。そんな訳で、またお互いプライバシーポリシーを守りつつ、1年半後の再会を待つのであった。(多分)
2007.08.09
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子供に「ステゴザウルス」と書かれたTシャツを着せるとはなんとチャーミングな母なんだ。最近、ファミリーレストランやくるくる回転している寿司屋で待たされて、名前を書かなければならないときには、仕方なく「おう」と書いている。順番が来たら、「王様、王様」と呼んでくれて、小市民としては多少気が晴れるというものだ。実践あれ!降りろ地味~ あの頃、南国のビーチに寝そべっていた。ずっとずっと寝そべっているようで、何て近くに居る人は偉いのだと思っていた。何故なら、オレの為に、砂を越して波の音を作り、ストーブを私の近くに当ててくれているのだ。悪いなあと思って、そんなことしてくれなくていいよ、と何とか、顔を上げると、誰もおらず、近くに海があり、太陽がギラギラ照っていた。あれれ、何故なんだと思って、雲を見ていると、雲がどんどん動き、空に向けて固定したビデオの早回しのように、雲がビュンビュン迫ってくる。不思議なことであった。(放浪氏のまねっこ)
2007.08.08
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今でこそないが、新入社員2年目や3年目や5年目には、就職予備軍大学生の面接や、大学訪問や、なにやらで、威張る機会もあろうかと思っていたが、さすが人事部も人を見る目があり、私以外の誰かの同期にそういうことをやらせていた。私も、ナンでしたら、後輩ぐらいお誘いしますよ、面談しますよ、なんてこっそり提案してみたりしたのだが、そうだねえ、というだけで、1度たりとも、私の前に就職を考える学生が来たことがない。人事部や総務部の目が節穴だということが証明された訳である、が、矛盾することに、優秀かつ魑魅魍魎かつ間抜の私を採用したことだけは慧眼であったといえるのかも知れない。 今、もし、就職を考える学生が来たら、ちゃんと面接の方式を教えてあげるだろう。「メラビアンの法則という嘘っぱちの法則があるだろう、ほら人は見た目が9割とかいった100万部ベストセラー、読んでないけど・・・。俗説によるとだな、見た目が55パーセント、仕草が、38パーセント、言葉そのものが7パーセントというやつだな。しかし、不思議なことにだな、仕事ができるからかも知れないのだが、電話ではほぼ仕事内容や依頼内容の100パーセントが10回に9回には通じるんだよ。ハナクソほじくりながら電話してんだけどねえ。それに、オレは、スワヒリ語が出来ないから、ボディランゲージで大阪駅に9時に来てくれといったが、着てくれなかったんだよねえ。さすがにタイの田舎で通行人に、寝るところはないかと寝る仕草をしてみると、タイ語ができないのに、通じたよ、こちらは55パーセント程度通じたのかもしれないが、エアコン無しとかドミトリーとかいったことまでは伝えることはできなかったんだよなあ。仕草では。おまけに、今ではメールで仕事のやり取りなんかして、見た目も仕草も言葉もなしに、通じるんだからシブイよなあ。ドイツ語の芝居を字幕無しでみたのだが、55パーセントというか、3パーセントぐらいしか分からなかったんだな。大学でドイツ語を習ってたというのにだよ。と思って、メラビアンの法則をぐぐってみたら、いきなり、最初からほとんどが、都市伝説とか間違った解釈とかおかしいというものばかりであったわ。なーんだ。そうだよなあ。」とでもいうのであろう。これ、個人宅のポストなんだよねえ。
2007.08.07
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おかんに急がない用事をメールしたら(「ハワイかサンフランシスコかメキシコ連れてったろか?」というメール)全然返事がなく、先ほど、「八ケ岳に登ってたのでメールできませんでした。今、美濃戸山荘に来ています」とメールが返信されてきた。それは状況報告であって返事じゃないんだけどなあ。問題:世界で一番有名なパラサイトシングルは?ヒント1:30歳ぐらいまで家族と同居の独身。34歳ぐらいで独身のまま死刑。有名な活躍した期間は2年ぐらい。ヒント2:実家は大工。2000年前の人。母親が処女のままその人を生んだとされる。ヒント3:地元と遠く離れたところで布教。後に世界宗教となる。地元で流行らなかったのは、「なに言ってんだ、ロクに働かないパラサイトシングルのくせに」と思われていたからではないかと思われる。昨晩は、真実の人郡山ハルジ氏より貴重なコメントを頂いたので紹介しておくと、「>ホントはトイモイさんも知ってると思うけど、犯罪者とか精神病者とかはなくならないよ、仮に犯罪者や倒錯者や精神病者とかを皆殺しにしても、たぶんほぼ同じ数の犯罪者や倒錯者や精神病者が現れるんだよ。光あるところに影あり、善のあるところに悪あり、正気のあるところに狂気あり、モーレツ・サラリーマンのいる会社にトイモイあり、集団主義序列社会に放浪の達人あり、犯罪者や倒錯者や精神病者は社会のスタビライザーとして社会が必要としているんだよ、だから国家も矯正に何千万も掛けたり、異常者を世に放ったりするんだよ、ナイショだけどネ!」というちょっと長いが全部紹介させていただいた。ちなみにスタビライザーって、安定装置みたいなものでいいのかなあ。これは、事実だろう。一定数は存在しするんだなあ。ただ、結構、数に地域差があるんだよなあ。勿論、年代にも。まあ例えば、犯罪白書によると、ここ数年、14歳以下の殺人が毎年、3~6件ですが、アメリカでは100件ぐらいあるわけですなあ。うわあ、少年犯罪が日本で3倍に増えたといっても、それまで1~2件なので、まあ確かに3倍なのだが、1学年100万人以上いる中での数件っていうのは、仕方ないといえないかもしれないが、仕方ないことか。これを0にするのは難しいね。倍のお金と時間と労力を費やしても難しいね、95点をコンスタントに取る学力がある人を100点に持っていくようなものだね。そういったとき、一人一人気をつけるしかないね、とかしか優等生的にいうしかないんだよねえ。それにしても、アメリカは10~20倍というのがすごいね。2つ反対の理論があって、例えば、街にエロが氾濫している(電車の釣り広告なんか)日本より、厳しく抑圧されているアメリカや韓国の方が、性犯罪が多いと言うのは、一種、ガス抜きになっているということなのか、それとも、例えば、萌え系、ロリコン漫画系が仲間内やネット内で激しさを増すのが結局エスカレートして、実際の犯罪に結びついていってしまうというのか。結局、個人それぞれによって違うのであろうなあ。ところで、前から何度か指摘しているのだが、実際、少年犯罪は別に増えているわけではないのだが、こうやって助長するのは、誰が得するのか、警察か?警備会社か?マスコミが面白がっているだけか? 増えているといわれているグラフはいつも犯罪白書ではなく警察白書の平成2年以降だけであるが、これを見ると増えているのである。都合のいいところだけ切り取っているからである。だいたい、自転車のパクリも犯罪に加えられたので急に検挙率も下がるわけである。それに凶悪犯罪の定義も変わるし・・・とにかく、前にも書いたけど、凶悪犯罪の多かった時代は、ズバリ、昭和35年前後である。ズバリ、3丁目の夕日の頃である。ズバリ、現在60歳前後のオヤジ達が一番ワルであった。おお、団塊の世代じゃん!ってことは、ゲームのしすぎとか、ファーストフード食ってるからとか、ではないわけなんだなあ。おお、昭和25年も相当ワルよのう。今の犯罪の7倍ぐらいやのお。昔は危なかったんやなあ。そうかそうか、水と安全はただ神話は嘘だったんだなあ。昔は水はただ今は安全がただみたいな方がまだ正しい訳ですなあ。てか、考えたら、最近物騒だ物騒だ、良くニュースでやってるというけど、少なくとも、私の周りにはそんな事件はないんだなあ。ちなみに昭和35年の犯罪白書抜粋である。やばいねえ。即物的・・・欲求を満足させる為に、熟慮せず、ただちに無計画に行動に移す。少年精神の未熟さが原因である。享楽的・・・かつては経済的困窮や生活苦からの犯罪が多かったが、そうでなくなった。集団性・・・犯罪から生ずる罪悪感を仲間意識で薄める。攻撃性・・・大人や権威に対して反抗心を持つ。過剰性・・・金を取るだけでいいのに、殺してしまう。これが、当時の犯罪分析である。あれれ?去年の犯罪分析じゃないよ、あれれ50年ぐらい前だよ・・・まあ、しかし、昨日は、罪を重くすべきだと言ったが、加害者にとってはメリットであるが、犯罪が減るわけではなかろう。大抵の犯罪は、突発的に無計画に行われているからねえ。理性的に計画的に犯す犯罪者なら捕まった時のめりっとディメリットを十分に考えるだろうけどねえ・・・ゼエゼエ。
2007.08.06
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昨晩は、久し振りに、降りるべき駅を寝過ごして、遠く西方浄土まで行ってしまったので、帰宅にえらく時間がかかった。最近では、酒を飲まない日が増えたので、私はアルチュウでないことが証明されつつある。何故酒を飲まない日があるかといえば、単純に飲むのが面倒になってきているということに過ぎない。酔っ払った感覚に飽きてきたという飽き性が原因かも知れない。今迄で、一番危なかった酔い方を披露して、今日の疲労を終えたい。といいつつ、前にも何度も書いた気がしてきたのでやめることにする。 あれは、今より数年若い18歳の時のことであり、酒に関しては、まだ未成年なので、憶えたばかりで癖になって、未成年なので遠慮しながらも毎日飲んでいたという訳なのだが、その日は、そんなに飲んでいなかったはずなのである。確かに、じゃあ、帰るわ、といって100メートル程度離れた友人の家を出たのは22時頃だったように思う。気がつけば、何故だか、自分の家と、隣りの家の間に寝ていた。何故だかは分からないが、釘のようなものが出ているなあということは微かに気がついたが、そのまままた記憶が消えた。次に気がつけば、風呂場で、一生懸命、血を洗い流している所であった。どうやら、どこか怪我したようだ。そういえば、先ほど釘が出ていたなあと思いながら。その次に気がつけば、朝であった。ちゃんと自分のベッドで眠ってはいたが、恐ろしいことに、枕が真っ赤に染まっていたのである。これは大変だ!と思ったが、もう血は順調に固まり、そして、私は、鞭打ちになっていた。首が動かない。恒例の二日酔いはなかった。 明後日から、初めての海外旅行フィリピンに行くというのに、こんなことで大丈夫なのだろうかと思いながら、明後日までの安静の日々が始まったのであった。といいつつまた書いてしまった。進歩がない。 しかし、まあ、なんというかハルジコオリヤマ氏が「天国地獄」で明らかにしている通り、天国地獄は、その「死ぬ瞬間」に決まってしまうということなんだが、そう考えると、死刑にする人間は、恐怖のまま、痛みのまま、安らかに殺してはいけないということだろう。捕まっていなくて、罪悪感もなしに死んでいく犯罪者は、ホントにこの世あの世に裁判してくれる閻魔さんが居て欲しいと願う所である。 コロンバイン高校銃撃高校生犯人は、以前、窃盗で捕まり1年間更正プログラムを受けていて、あたかも更正したかのように見えて、優等生で出てきたのであった。古くは、三菱銀行北畠支店を襲った梅川も、未成年者の時に人を殺しているし、女優シャロンテート(ロマンポランスキーの妻)を殺したマンソンファミリーのチャールズマンソンは20年間刑務所で優等生のまま服役して出てきた人間であったし、羊達の沈黙のレクター博士のモデルとなったルーカスは350人以上の人間を殺したが、かつて母親を殺害したり幼女を誘拐して更正プログラムを受けている。またあのサカキバラは性的興奮のために何か起こすのではないかと私は思っているのであるが、宅間(前科11犯)も奈良県で幼女を誘拐し、死体写真メールを母親に送りつけた小林(前科1989年 (20歳) 大阪・箕面 幼女強制わいせつ容疑で送検 1991年 (22歳) 大阪・住吉 幼女の首を絞め殺人未遂容疑で逮捕 )も、かつての犯罪者である。特に性癖は治らないので、せめて出所させるなら虚勢させるべきであろう。アメリカのミーガン法じゃないが、皆に教える広報に出しておくと言うのも有効だろう。ナニ、人権とな!人権とは、国家暴力から人の権利を守ることであって、被害者加害者間のものではないのだ、というのもあるが、だいたい、こいつらを更正させるのに、毎月税金が、一人あたり2~30万円かかっているのである。我々は国家の威信をかけて、サカキバラを少なくとも2000万円ぐらいの矯正費を掛けて野に放ったのである。こいつが、殺害された方々に賠償できるのか?取立人制度を作るべきである。それこそ、内臓のひとつ目玉のひとつ取ってでも賠償してもらわなければ困る。こいつが地獄を体験しようが知ったことじゃない、現世で、弁償賠償しろ!ってことだなあ・・・何いってるか分からなくなってきた・・・また酔っ払ってきたのか、おれ!明日も仕事!働き者だ!休憩が必要だ!いけない!またフラフラ病が・・・
2007.08.05
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ビーフランドでビーフしたと思えば大間違い。まだ球の上に鎮座しておる。四国をカタチドッタところのオブジェです。魚、アクリル板に突っ込む。 死人と女には花が似合います。道端で、急に怒る人。今度は2ヶ月ぶりに、四国側から小型船に乗って渦に乗りに行くことにする。 とにかく港の中は狭いのでスロオにな。 写るんです、すっかり流行らなくなりました。デジカメに追い出されたな。とにかく、誰も他に乗っていない貸しきり状態であり、スコブル良い。これが前に乗った船である。淡路島側から20分ほどかけてくるのであった。しかし、こいつはでかくて、橋にぶつかる程度であり、渦潮が近場で見られないという噂である。うずうずうずうずうずするんだから向こう側の船から、私は写真を撮られまくるので、撮り返してやる。仕方ないので、淡路島には歩いて帰るコトニする。歩いて帰る人は多いのだろうか。 夕刻、渦に生える陽。 誰もおらんけど、とにかく勝手に乗るなよ。 かわいこちゃんもかわいもちゃんも好きになるよう、努力する。 品はない。品はある。 四国、淡路大橋。車のみ。電車も自転車も行けないし、連絡線もない。
2007.08.04
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自衛隊駐屯地の前にあるミリタリーホテルから車を走らせよう。田舎の道を走っていると、本当に日本は未来を先取りした土建国家なんだなあと思う。こいつは、財政投融資、つまり郵便貯金をもつまんでいる。40兆、50兆という借金だが、財政投融資というのは、役人が決定するが、たとえ申請されても、意味がないと判断されれば当然却下されるが、たびたび政治家が介入してきて、またもや覆される。政治家の裏には、土建屋地元選挙民がいる。それに反対して恨みを買ってまで反対できる役人は少ない。役人だけが完全に決めても良いものだったら、ここまでつまらぬ借金は造らなかったであろう。時速140キロで走っても、スイスイ進む。楢元磨崖仏 室町時代にできた、すんごい石像の数々という噂を聞いてはるばる400キロの彼方からやってきたのだが・・・規模的には、あれれ・・・1分で見学終了。如来像、菩薩像、神将像など45体の素晴らしい仏像が鎮座しており、これだけの数が一箇所に彫られているのは全国的にみても非常に稀なことなのだそうだ。右側には司命、地蔵菩薩、十王と地獄に関係する仏像が彫られているので、『十王経』に基づくものと考えられるのだが、誰が何の目的で作ったのかは分かりないという、しかし、・・・あれれ1分で見学終了。磨崖仏の宝庫、大分県なのであった。全国の8割があるという私が、何となく石仏に興味を抱くのは、インドのアジャンター石窟院やエローラ石窟院を見学した影響を受けているのかもしれないと、石を見ながら思ったのであった。衝撃を受けたというと嘘っぽいが、アジャンターは、ボンベイ(ムンバイ)ともまあまあ近く(列車で1日もかからない)、ジーンズを履いたインド人女性を見て「スゴイ」と思ったのであった。きっと都会からのとんだファミリーなんだ。今は知らないが、前世紀、インド人女性でジーンズを履いているのを見たのは、デリーのコンノートプレイスとボンベイだけであった。インドに行って初めて、ほぼ全員がサリーやパンジャピードレスを着ているのを見て、スゲエと思ったのであった。洋服を着た人はおらず、さしずめ日本でいうなら、現在社会に江戸時代の服を持って移してきたという感じである。アジャンターで石窟を見て感動したのではなく、ジーンズを見て感動した?人間そんなものだる。 エローラといえば、一番有名なのが、カイリーサータ寺院(だったかな。調べたら、カイリーサーナータだった。)なのだが、こいつは、1枚の岩を削った3階建ての寺院であり、紛れもない岩盤を削って(積んでいくより安くできそうだ)百年もかけて造られたものであり、パルチノン神殿の倍もあるのであった。それは圧倒されるものであった。そして、名前の通り、聖なる山、カイラスをイメージされている(ボロブドゥールもアンコールワットもカイラス山をイメージしている)。そのテッペン、一番奥に鎮座しているのが、リンガである。日本語で言うと、ティンポである。ずっこけたのである。そして、先日の説明の通り、雌牛のナンディー石像がリンガを眺めているのである。100年の歳月を掛けて石を切り崩して彫刻していき、その頂点に達するものが、ティンポ・・・何て奥が深いのだ。私は感動せざるを得なかったのであった。全景である。山の中にポツンとあるのである。今でこそ、道沿いにあるのだが、こんな山奥のもの、ずっと祈られてきたのであろうか?何百年後に発見されたのであろうか。
2007.08.03
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ここ桂昌寺跡地獄極楽という洞窟型地獄巡りで、江戸時代ものである。 文字の読めない庶民のためにつくられたという江戸のビジュアル重視の体感型仏教テーマパークである。ココに行くまでは、高速道路を時速140キロで走って、別府の地獄温泉から1時間ぐらいかかったような気がするのである。安心院と書いて、アジムと読む。それが、この町の名前だったりなんかするのである。全然、関係ないことであるが、昨晩は、夕方から講演会があり、ベストセラー「下流社会」を書かれた三浦展氏のお話を聞かせてもらった後、しこたま飲みすぎて、家に帰り、パソコンにスイッチを入れ、ホームページアップ寸前のところでエネルギーが切れ、熟睡してしまったのである。そのため、アップは朝になってしまったが、パソコンの画面つけっぱなしの状態を心斎橋ワタル妻に見つかるようなこともなかったのであるが、清清しい二日酔いになってしまっていたのである。しかし、さすがに、内容がエロッピーだったので、朝のアップにも関わらず、アクセス数はいつもの3割り増しという状態である(22時47分調べ)。天国地獄はこちらです。最近は、蝋人形フェチだけでなく、割と、天国地獄フェチにもなりつつある自分に驚愕しつつあります。というか、仏像フェチか?寺フェチか?山の中に天国地獄が隣り合わせになりますか?天国地獄は地図案内付なんですか?広場にポツンとコンクリートで補強された入り口があるのです。天国地獄を見物に来る人はいませんか?まずは、閻魔大王が迎えてくれます。地獄は予想に反して、洞窟なのでとても涼しいのですか?入場料は無料なのに、誰かが電気代払ってくれていますか?天国地獄は神の領域です。犯罪者福祉国家で育った日本人極悪人もちゃんと、ここでは裁かれます。性癖は治らない。死んでも治らない。一生掛けて償いますだって?どうやって?99.99パーセントは賠償金踏みにじっているんだ!そんな訳で、先に地獄からどうぞですか?おう!五道輪王か?少し頼りない説明ですか?地獄は涼しくていいですが、じめじめもしていますか?赤鬼と青鬼の血の池地獄だそうです・・・か?胎内くぐり道は、狭くて水がたまっていて、這っていくと、シャツがドロドロになりますか?人生の出口見えてきましたか?外に出て地獄コースは終わりですか?次は極楽行きですか?天国には、鎖を藻って登っていかないといけない前途多難な縦穴ですか?3メートルぐらい穴を登りますか?穴から出ると、ついに天国ですか?地獄より厚いですし、地獄より厳しい道でしたか?ああ、山肌にポツポツ石像があるのが、天国だったんですね?天国から見る風景は、とってものどかな風景でしたか?棚田ですか?詳しい説明はコチラ地味というより、シミなんだなあ・・・なんだかおかしい。シミ治す!
2007.08.02
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西洋人も参加するのであった。一応、優しく触っては見るものの、なんてこともない。日本の奇祭にも興味がわくのである。それにしても古代に盛んだったティンポ崇拝も、現在社会で経験できるのは、世界広しといえども、日本とヒンズー寺院ぐらいなものだのである。何だか分からないので、一応、押してみるとですね。聖水を掛けられるという按配です。嬉しいですか?性癖は治らないので、性犯罪者は死刑にすべきですね。本人のためです。少なくとも虚勢はすべきですね。性善説ではだめです、矯正なんかできません。ミテゥナ像は石で出来ているのだけどなあ。乗って行きますか。しかし、この馬鹿げた肉の管から地球上の人間が生まれたというのは、馬鹿馬鹿しい話である。そういえば、高校の時、学園祭であるバンド名が「音楽肉棒」という名前で、刷られてしまってから先生にばれ、1枚1枚マジックでチラシで肉棒という部分を消していた。余計に卑猥だった。ペルーの石。モチーカ文化では、男根像を注ぎ口に持つ水差しが有名である。それにしても、古代より、ティムポ神は多く、大らかだったんである。ギリシャ・・・酒神ディオニソス、プリアポス、ヘルメス。というか、ヘルメスとはギリシャ語でティンポそのものである。ローマ・・・バッカス。エジプト・・・オリシズ。インド・・・シバ。手を入れてもなんてことないのですよねえ。ところで、インドの寺院に行けばリンガ(男根)を見ることができるが、そこには結構牝牛の像がそのリンガを眺めていたりするのである。或る日、シバが、とってもいたしたくなり、妻のパールバティにしようぜといったのに、その日拒まれたので、仕方なく、田畑の牝牛とやることにした。牝牛にナニやらせてくれると、俺にぶちこんでもいいよ、といったそうである。そうしてシバはナニを楽しんだのであるが、それ以来、牝牛は自分の順番を待っているのである、ということだ。リンガをセットしてくれるのを待っているということだろうか。ちっともお宝ではない。ガネーシャもやりたいのであった。売店。お土産コーナー。脱力したまま、出てくる。ということで、ここは、愛の戦士、郡山氏の意見と実感を待ちたいところであるが、私の性愛蔵書のひとつを紐解いてみるとですね・・・・Prick 意地悪なひと。Dick 人当たりは良いが図々しく、準備万端、しかし、ちょっとオツムが弱い人。Putz 小さくて意地悪。Schlong 大きくてしまりのない奴。Pecker 硬くて策略に富んだ奴。Tool ただの道具。Dickhead 全く邪魔臭くて馬鹿な奴。Ding-dong 大馬鹿者、局部を含む自分の管理が出来ない人。Cocksucker サイテーな奴。Joint またはRod ビジネスライクな呼称で人を現さない。これはフェイント、近くのお店のマネキン。お土産貰いました。工夫次第です。家宝といたそう(数日以内になくなる前に記念撮影)記念写真とってくださいったってもねえ・・・その道訪問北海道 レトロスペース2札幌市洞爺湖の珍小島虻田郡洞爺湖町乳神神社浦幌町岩手県花巻温泉郷・金精長根花巻市コンセイサマ 遠野市福島県浄土松公園キノコ福島県郡山市新潟県金玉神社新潟市遊郭に泊まる・東光院・十上神社・岩屋山石窟佐渡島雲母神社関川村ほだれ祭1・ほだれ祭り2長岡市 雁田神社 上越市茨城県御前岩 那須川町栃木県門田縁切稲荷神社足利市性神の館・ 性神の館2宇都宮市日光東照宮横、輪王寺 観音堂 香車堂日光市群馬県迦葉山弥勒天狗寺沼田市縁切寺満徳寺太田市命と生命のミュージアム・ 命と生命のミュージアム2階・珍宝館 渋川市東京都オリエント工業1・オリエント工業2・オリエント工業3・オリエント工業4局部に宿る1・局部に宿る2・局部に宿る3・局部に宿る4渋谷区ロボットレストラン1・ロボットレストラン2・ロボットレストラン3・ロボットレストラン4・ロボットレストラン5・・ロボットレストラン6・ロボットレストラン7・ロボットレストラン8新宿区神奈川県金山神社祭り ・かなまら祭り2・かなまら祭り・かなまら祭り3川崎市静岡県最後のエンタメ系秘宝館熱海市伊豆極楽苑 ・伊豆極楽苑2 伊豆市まぼろしアート館1 ・まぼろしアート館2 ・まぼろしアート館3 ・まぼろしアート館4 ・まぼろしアート館5 ・まぼろしアート館6 ・まぼろしアート館7 ・まぼろしアート館8伊東市山梨県夫婦木大神甲府市長野県姥捨・澳津神社・岩鼻上田市愛知県間々観音小牧市高浜茶屋吉貴高浜市野間大坊 美浜町 大縣神社・田縣神社 犬山市石川県スッポン堂 加賀市和歌山県円月島・歓喜神社 白浜町京都府縁結び神社 ・縁切り神社・五条楽園京都市奈良県宝山寺、色町 生駒市大阪府バーレスク大阪1・ バーレスク大阪2・バーレスク大阪3・バーレスク大阪Ⅰ・ SMクラブ潜入 ・メイドカフェ潜入・滝井新地 ・松島チョンの間大阪市橋本遊郭跡 枚方市兵庫県 なぞのぱらだいす1・ なぞのぱらだいす2・ なぞのぱらだいす3 ・芝右衛門狸、キティ 兵庫県淡路島岡山県軽部神社総社市金勢大明神赤磐市金精神社 高梁市島根県玉造温泉の珍宝石さん、八重垣神社松江市香川県お花権現、林下寺1みよし町愛媛県 凸凹寺宇和島市広島県阿伏兎観音福山市喫茶伴天連東広島市山口県マラ観音長門市福岡県鬼塚観音 岡垣町縁切神社 福岡市不思議博物館1 ・不思議博物館2 那珂川市男根岩 八女市長崎県木花咲耶姫神・雲仙大仏別院いのりの里 長崎県雲仙市壱岐 男岳 男獄神社・壱岐 男岳 賽神社・壱岐 島沖の島壱岐島愛の駅諫早市佐賀県鏡山道祖神・太閤一里塚 佐賀県唐津市秘宝館 ・秘宝館2 ・秘宝館3 嬉野市大分県秘宝館 、秘宝館2 、秘宝館3大分市熊本県七郎神和水町 潮神社(おっぱい神社) ・賽神社(だんこん神社)湯前町柴立姫神社 球磨村弓削神社龍田町弓削法皇社弓削町おっぱい岩 ・おっぱい岩再訪天草市宮崎県鵜戸神社・鵜戸神社再訪1 ・鵜戸神社再訪2日南市陰陽石・陰陽石再訪1・陰陽石再訪2・陰陽石再訪3小林市鹿児島県子授け岩日置市三角関係岩ウエルカメ与論島小山神社屋久島韓国ラブミュージアム・ラブミュージアム2・ラブミュージアム3ソウル女郎街釜山 済州島ラブランド ・ラブランド2 ・ラブランド3 ・済州島 健康と性の博物館 ・健康と性の博物館2・健康と性の博物館3 ・済州島 ワールドエロスミュージアム 済州島タイスイスホテル裏バンコクシンガポールゲイラン地区デンマークエロティカミュージアム コペンハーゲンチェコセックスマシーンズミュージアムオランダソドム街飾り窓・ソドム街飾り窓2・セックスミュージアム・エロチカミュージアム ・エロチカミュージアム2 ・ソドム事情・2018レッドディストリクト
2007.08.01
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