うきよの月 0
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「…よし野?」 彼は鋭く顔を上げた。「何処だーっ!?」 最初に携帯の音とカーナビで確認した方向へ、彼はひたすら走っていた。 崖を駆け上がり、木々の細い枝をなぎ倒し、時には太い枝にぶつかって自分の手や頬に傷を作ることも厭わない。 靴は脱ぎ捨てた。よし野同様、滑りやすいタイプだったから、それならいっそ裸足の方がましだった。 冷たさも、痛みも、彼には関わりがないのだ。 そして勢いを緩めることなく走っていた時、不意に。 聞こえたのだ。彼女の声が。「よし野!」 彼は大声を上げた。いつも、われ鐘の様な声だ、と言われている、あの声を精一杯、彼女に届くように、何度も何度も、張り上げた。 聞こえたら、答えてくれ、と。 そして再び。「…哲ちゃーんっ!!!」 その声の方向に、彼の身体は反射的に動いていた。「な…」 ざざざ、と細いが高い木の一本が、目の前でゆっくりと倒れて行くのを見て、よし野にのしかかっていた毬絵の目と手が止まる。「う!」 次の瞬間、彼女の身体は、近くの太い木に、思い切り叩きつけられていた。 持っていた包丁は跳ね上がり、溝口の頭すれすれに飛んだ。「うわっ!」 彼は思わず叫んで跳ね退いた。 だが、それでもインスペクターを名乗るだけある。「使い捨て」の「R」が指令する側の自分に反抗するなど許せない。 溝口は包丁を拾い上げると、よし野に近づこうとする中里の背中に斬りつける。手応えが、確かにあった。 だが。「効かねえよ」 中里は、ぼそりと言い放ち、ゆっくりと振り返る。「痛くもかゆくもねえよ」 うわあぁ、と叫びながら、溝口は何度も何度も包丁を振り回した。 背に、肩に、腕に、胸に、腹に、首筋に、縦に、横に、斜めに。 だが中里の表情は変わらない。避ける様子も無い。「くそぉ!!」 鎖骨の下のあたりを狙って、思い切り溝口は上から包丁を突き立てた。「…だから、効かないって言ってるだろうが…」 中里は突き立てられた包丁をぐっと引き抜き、軽く投げた。 え、と溝口は自分の髪が数本、舞い落ちるのを感じた。 動きは、見えなかった。 しかしおそるおそる振り返ると、背後の木に深く突き刺さる包丁が彼の視界に飛び込んで来る。「そういうふうに、あんた等が、俺の身体を勝手に変えたんだろうが」 うわぁぁぁぁ、と溝口は喉の奥から叫び声を上げた。 数歩後ずさりし、やがて彼は全力で駆けだした。 叫び声がいつまでも続いていた。それはまるで、彼自身の意志では止まらないかの様だった。 追うべきか、と中里は一瞬迷った。だが。「う…」 声が、彼を引き止める。 よし野、と呼んで彼は駆け寄った。 押さえ込まれていたよし野の身体は、既に自由になっているはずなのに、起きあがろうとしていない。 慌てて抱き寄せると、彼女は左手で肩を押さえ、弱々しくつぶやく。「よかったあ…哲ちゃん、やっぱり来てくれたんだあ…」「おい、よし野!」 指のすき間から、だらだらと血が流れていた。彼は木に刺さっている包丁にちらと視線を投げる。そうか。 肩のそれは、明らかに刺されたものだ。 あの女か。 彼は自分に放り投げられ、うう、とうめいている女の方へと近づく。「…なるほど…お前が…『B』だった訳かよ、優等生」「…ふん」 それでも透明な声は、「R」に対するプライドだろうか、その調子を崩すことはない。「同じクラスで、全然気付かなかったあんたが馬鹿なんじゃない。全く計画が全部狂っちゃ…」 それ以上の言葉を彼女が言うことはできなかった。彼はそのまま、大きな手で彼女の顔を鷲掴みにすると、勢い良く木に叩き付けた。 要領は、手が知っていた。「彼」が知っていた。 木の幹に、血ともそれともつかないものが飛び散り、垂れた。 ざまあみろ。 その時彼は、そう思った自分に驚いた。 何だ。 何だ、危険なのは、俺も、じゃないか。 「彼」だけじゃない。 俺も、「彼」も、結局は同じなんだ。
2005.06.17
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「あれだ」と高村は車を止めた。 山の中の、やや道から外れた袋小路にそのくすんだワイン色のワゴンはあった。カーナビの片方は、この車を示していた。 結局ホテルからここまでたどりつくのに三時間はかかった。 地図上の直線距離的にはそう遠い訳ではない。だが、それが山だったり、そのまた中の細い道を探すとなると、話は別だ。 一方通行もある。回り道もある。時には単純に道の見間違いもある。試行錯誤の上、何とか彼らはここまでたどり着くことが出来たのだ。「けどよし野の方のは…」 これ以上はカーナビでは探すことはできない、と中里は顔をしかめた。「携帯は?」「いや、岩室さんが、さっきもう取られてるんじゃないか、って…」「取られてるとは思うけど、もしかして、あいつ等、電源切っていないかもしれないよ」 そうか、と彼は慌てて自分の携帯を取り出す。 その間に高村は手袋をきゅ、とはめると、どういう方法を使ってか、ワゴンのオートロックを簡単に外し、中の様子を探り始めた。 倒れたシート、散らばったチョコレート、そしてその更に奥の方には大きな黒い箱の折り畳んだものが。高村は忌々しげにそれを見る。 だが彼の用事があるのは箱ではない様だった。シートを持ち上げ、茶色のビジネスバッグを取り出すと、中を探り出す。 一方中里は、掛けた携帯が何とか通じることに安心する。電源を切ってはいない様だった。 耳を澄ませる。彼には岩室曰くの「地獄耳」もあった。 聞き覚えのある音が、微かに、聞こえた様な気もする。 だがぶつ、と携帯の方からは音がする。切られたのだ。 リダイアルする。すぐに切られる。繰り返す。向こうも繰り返す。少しでも少しでも。彼は目をつぶり、じっと耳を澄ませた。 こんな時くらい、役立ってくれよ。 彼は眉をぐっと寄せ、自分自身の身体につぶやく。 命を削ってまで、身体能力を引き上げているというのなら、一度くらい、俺自身のために、役立ってくれよ。 やがてぷつ、と切れた向こう側からは、「電源が切られています」という電話会社の音声しか聞こえなくなった。 しかしおおよその方向の見当は、ついた。 車に戻り、カーナビの示す方角と示し合わせる。OK、間違いない。「高村さん、俺行きますから。何かあったら連絡ください」 そう怒鳴ると、返事も待たずに中里は山道を真っ直ぐ駆け上がりだした。* 一方、よし野は息を切らしながら、山の中を逃げ回っていた。 何とかスカートの中にスリップを押し込み、コートのボタンを止めて、彼女は走る。 そしてやがて木々の間へと飛び込み、そのまま奥へ奥へと進んで行く。 とにかく身を隠すことが先決だ、と彼女は思ったのだ。 しかし決してそれは最善の方法、という訳ではない。慣れない場所であるのはもちろん、学校で決められた靴は、底に滑り止めがついている訳ではないので、少し坂道になると、上りであれ下りであれ、枯れ葉などでするすると滑りかねない。 その時、彼女の耳に携帯のコール音が届いた。 あれは自分のだ、と彼女は気付く。 音量を最大にしてあったことを彼女は思いだした。そして確か、浜辺で落として――― 音が近づくこと=相手が迫って来ている。 鳴らしてくれているのは、中里だ。 それだけは判る。何度も何度も切られているのに、しつこくしつこくコールを続けている。 そう、あれは哲ちゃんだ。彼女は確信する。追っ手の位置を教えてくれてるんだ。 そしてぐっ、と唇を噛む。足がひりひりと痛い。肩が痛い。だけどそれどころではない。とにかく、逃げなくちゃ。 逃げて逃げて逃げ続ければ、必ず中里はやってくる。 よし野ははあはあ、と上がる息を、高鳴る心臓を、無理矢理鎮めながら走り続けた。 ところが。「ああああっ!」 ずるり、とその時足が滑った。 ぬるりとした感触が、足元にあった。 光が届きにくい林の中では、土が乾きにくい場所もある。そしてそこがたまたま粘土質だった場合。 ぺたん、と尻餅をついた彼女は、懸命に立ち上がろうとしたが、左足をついた瞬間、鋭い痛みが足首に走った。 ひねったのだ、と気付くのには時間は掛からなかった。 だがまだ歩けなくなった訳じゃない。彼女は足を引きずってでも前へ進もうとした。 しかし。「…全く手間掛けてくれるよなあ…」 低い声が、斜め前から降ってくる。ざくざく、と枯れ葉を踏みしめる音が聞こえる。その後ろから、あはははは、と高らかに笑う声も聞こえる。 よし野は両方から逃げる様に後ずさりする。その足取りを見て、毬絵はにっこりと、心底楽しそうに笑った。「あらぁ、足をくじいてるのね」 そしてつかつかと、小気味いい程の足取りで近づくと、よし野の引きずっている方の足をさっ、と払った。「ああーーーーーっ!」
2005.06.16
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逃げたい。ぱっ、と彼女の頭にそんな言葉が浮かんだ。 でも、どうすればいい?「…おい今、何か後ろ、動かなかったか?」 ミラーをちら、と見た溝口は横の志野毬絵に問いかける。彼女は興味無さげに一瞬だけ振り返り、別に、と肩をすくめた。「さっきセンセ、ずいぶん変な追い越ししたじゃない。あの時揺れたんじゃないの?」 そうだった。ただその時、目を覚ましたのも確かである。「…で、何処へ行くの、あたし達、今から」 その毬絵の問いかけは、よし野が現在最も知りたいことでもあった。「ああ、まあ…そうだな、山の中の方がいいだろう。人目につきにくい所のほうがいい」「黒箱は?」「ああ、こいつを入れる奴か? 無論後ろに積んであるさ。またアレをいちいち学校へ持ち帰らないといかんのが面倒だけどな」 箱?「仕方ないでしょ。一度校長に見せしめるのが決まりだし。あーあ、いつもなら全部学校の中で済むのにねえ。あいつが悪いんだわ、あの馬鹿が」 何の箱だろう。よし野は考える。「こいつを入れる」と溝口はそう言った。こいつ―――自分だろうか? 自分を入れる。入れてどうするんだ。 そうじゃなくて。 よし野は発想を切り替える。どうかしてから、入れるんじゃないか? とすれば。 ぞっ、と彼女の背筋に一気に悪寒が走った。「そうよね。まあ結局はそれができれば、お仕事完了、よね。ああ、これで今年度の仕事も終わりねえ」「来年で解放されるぞ、お前は」「長かったわよぉ。センセ、そしたらあたしを当局にインスペクターに推薦してよね」「ああ、もちろんだ」 ふふふ、と毬絵の声に艶が含まれる。聞いているよし野にはまるで訳の分からない内容だが、物騒であることだけは感じられた。「じゃあ急いで山の中ね。遊ぶのはセンセ。殺すのはあたしにやらせてよ」 殺す! さすがにその言葉が出た時には、よし野も思わず声が出そうになった。 どうしよう! 「遊ばれる」のも「殺される」のも彼女は嫌だった。 だが今下手に動いたら、彼らは「山の中」に行く前に、すぐにでもそのあたりで停めて、「遊ぶ」抜きで殺してしまいそうな勢いがある。 だとしたら。彼女は度胸を決める。「遊ぶ」時を狙うしかない。 哲ちゃんのばか、と彼女は内心叫ぶ。あの時来ないから、あたし今、こんなことになってるんだぞ、と。 だがその一方で、何の根拠もなく思う。 あたしの居るとこくらい、判るでしょ、早く来てよ、と。 真剣に、思う。 やがて車ががくん、と止まった。彼女はぐっ、とベルトに胸が圧迫されるのを感じる。「ここいらなら、いいんじゃない?」「そうだな…静かなもんだ」 確かに、静かだった。それまでは閉じた窓越しにも感じられた、外の車の音一つ聞こえて来ない。 扉の開く音がして、外の冷たい空気が入り込んで来る。「…あー、寒いわよ。センセ、外なんかじゃたまったもんじゃないわよ」 がたん、と扉が閉められる。やっぱりワゴン車だ、と彼女は思う。特有の引き戸の音だった。 ふと、コロンだろうか、いい匂いがよし野の鼻に漂ってくる。上級生に顔を近づけられているんだ、と彼女は思う。「…まだ眠ってるわよ、この女。平和な顔しちゃって。呑気なものねえ」「おい、シートベルトと、足のロープは外せよ」「あら、外しちゃうの?」「足を外さなきゃ、何もできないだろ」 それもそうね、と毬絵はよし野のシートベルトと足のロープを外す。 その時に、手が擦り傷にかなり露骨に触れたが、よし野はその痛みを何とかやり過ごした。擦り傷ったって、死ぬ訳じゃない。こらえられるものなら、こらえてやる! シートを回し、位置がずらされ、広い空間が後部座席に作られる。よし野は自分が引き倒され、両手を上げさせられ、頭の後ろに置かれるのを感じた。 きもちわるい。 相手の手が自分の身体を動かそうとするたびに、鳥肌が立ちそうになるのを、彼女は必死でこらえる。 ふと、その拍子に手に何かが当たるのを感じる。ぶ厚い紙袋の様だった。 何が入ってるのかは判らない。ただ、覚えのある甘い香りと、堅いものがごつごつと幾つも入っている様な感触がある。「じゃあセンセ、済んだら言ってね。あたし、出番、待ってるから」 恐ろしいことをさらりと言うと、毬絵はカーステレオに手を伸ばした。途端、ぶつぶつとあちこちのスピーカーが細切れの音を立てる。「…何よセンセ、このスピーカー、何か調子悪いわよ」 言いながら、彼女は何度かあちこちのボタンやヴォリュームの操作を繰り返す。 一方よし野は、目を閉じたまま、神経を集中させていた。 シートの上に、誰かの重みがかかる。溝口だ。その手がよし野のコートを掴む。 そのままボタンを外し、その下の服へも進んで行く。スリップをスカートから引き出し、その下に手を潜り込ませようとする。乾燥した、冷たい堅い指が、腹から胸へと次第に移動して行くのを感じる。ああ嫌だ嫌だ嫌だ。 タイミングをひたすら待っていた。何か、きっかけを。「あ、何とか」 そう毬絵の声がした時だった。 じゃん!! 車のあちこちに仕掛けられたスピーカーから、一斉に大きな音が響いた。 今だ! よし野は袋を両手で鷲掴みにし、溝口の頭に思い切り振り下ろす。「うわ!」 ばさばさ、と音がする。頭の上、身体の上に容赦なく降り注ぐチョコレートの箱、箱、箱… 彼は何だ何だ、と普段の冷静さも忘れた様に両手を振った。 そのすきによし野は、自分の頭側の扉をぐい、と大きく開いた。「ああっ!」 開けようと力を入れた途端、肩に痛みが走る。そう言えば、振り下ろした時に、肩の奥で妙な音がした。脱臼したのかもしれない。 だがそんなことは構っていられない。彼女は何とか戸を開けて、外へと転がり出た。「…あ…の女、目、覚ましてやがったのか!」「そんなモノ、大事に持ってたセンセが悪いのよ!」 毬絵はそう叫び、溝口の頭をはたくと、自分のカバンを足元から引き出した。 そしてその中から包丁を取り出すと、にやりと笑う。「そんなもの、持ち歩く中等生が居るかい」「だってこれ、センセの部屋のキッチンのモノよ?」 そう言って笑う顔は、溝口から見ても非常に美しく―――そして禍々しかった。
2005.06.15
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「あー…それでだな、話が途中になったな。めいかは窓口みたいなものだった訳だ。学校のね。で、俺が薬大卒業した後には先生になる、とか話すうちに、結構気が合って。セールスに行くたびに、無駄話なんかもする様になったんだ。で、まず休日のランチに誘って」 段階を踏んでいるのか、と中里は肩をすくめる。「それからまたしばらくして、普通の日の夕食に誘って、で、その後、週末の夜の映画に誘った訳」「映画だけですか?」「そんな訳あると思う?」 無い、とさすがの中里でも思った。「週末の夜の映画、と来たら次は呑みつきのお食事。その後はまあその流れ次第、というのがオトナでしょう。俺はさすがにホテルに予約までは取らなかったけどね」 にやり、と高村は口元を上げた。「俺は」 赤くなる中里に、冗談、と高村は笑った。「ただね、呑みに行くと、結構忘れてたこととか、本音とか出るじゃない。俺達結構その時いいトシだったんだからさ。普段素面では出ない言葉が、アルコール入ると、ぽろっと出てしまう訳よ。で、俺もつい聞いてしまった訳。『めいかさんのとこ、やっぱり年に一人二人の転校ってあるの?』って」 それがどう失言なんだろう、と中里は首を傾げる。「で、彼女問い返した訳。いきなり正気の目になって、『やっぱり、って何?』って。俺まで正気に返っちゃったよ。彼女も何か薄々気付いてたんだね。だけど」 ほら、と高村はカーナビの横に置かれている折り紙を指す。ああこれが、岩室の言った化学模型か、と中里は思い出す。「彼女は『折り紙』には反応しなかった。これはうちの集団のしるしみたいなもんだからね。これは。だから俺は少し迷ったよ。その彼女の問いに答えるのは」「…でも結局、答えたんですか?」 まあね、と高村はうなづいた。「彼女の側の事情を聞いたからね。口にしてしまったら、酒のせいもあってか、まあぼろぼろと泣き出して」 信じられない、と中里は思った。そんな岩室の姿は想像ができない。だが「彼」に対する岩室の行動を考えれば、それはそれなりに納得できることかもしれない。「うちの奥さんから、事情は聞いた?」「俺じゃなくあいつが、聞いたけど」「もう一人の、キミ?」 中里はうなづいた。「そう、彼女はだから、たぶん俺よりずっと『R』のキミ等に対して強い感情を持ってる。だからこそ、俺も結局、うちの集団に誘った」「勧誘ですか」 ははは、と高村は笑った。「かなり危険な勧誘だよな。…でもまあ、俺達の参加は、結局は自分自身のためだと思うし」 と言うと? 中里は問い返した。「参加することで、自分のアイデンティティとか、自分がその時できなかったことに対する、償いができる様な気がするのかもしれない。…怒るかもしれないけどな、当事者であるキミ等にとっては」「いいえ」 中里は首を横に振った。「難しい言葉はよく判らないけれど、自分のため、ってのは、逆に俺は納得できる」「そう?」「だってそうだ。俺達はさんざん『社会全体のため』とか言われてきたんだ。そんなもの、何が信用できるって言うんだ。だったら、『自分のため』って言われた方が、よっぽど、俺にはわかりやすい。納得できる」「そう言われると安心する。俺、小心者なんだ」 くす、と高村は苦笑し、カーナビに目をちら、と走らせた。「あ?」 その声に中里も、両方に視線を落とす。「…ポイントが、ずれた…?」* がたん、という衝撃でよし野は目を覚ました。 だがそこが見知らぬ車の中である、ということに気付いた途端、彼女は再び目を閉じた。 とにかく、目を覚ましたことを気付かれてはいけない。 よし野は再び固く目をつぶり、自分の状況を考える。 まず身体がシートベルトでくくりつけられている。手も動かない。足首も縛られている様だ。膝下の裏側もひりひりと痛む。 どう考えても、動けない状況にある。 だがそこで泣き出したりわめいたりしないあたりがよし野だった。怖いものが無い訳ではない。ただ彼女は、あるものはある様に受け止めることができるだけなのだ。 父親の死も、その加害者の事情も、中里の外見も、内面も、とにかくそこにそうあるものは、そのまま受け止めることができるのだ。噂や色眼鏡、といった誰かのフィルター越しではなく、ただ自分の見たままに。 だが、それが彼女が「標的」にされた原因だったかもしれない。もっともそんなことは、今の彼女自身には関係は無い。 とはいえ、その性格が今ここで役立つのは確かである。 彼女は閉じた目の中で、自分の現状をなるべく正確に把握しよう、とする。 一瞬見えた光景。車の中。それも、たぶんあれはワゴン車だ。前の座席には二人。おそらくは、溝口と、あの綺麗な上級生。長い髪と制服が、視界に入ってきていた。 つまり、その二人が自分を何故かさらって、縛り上げている。 そして彼女は気付く。このひと達は、自分に何をするか判らない。
2005.06.14
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「ウチにある発信器を二台使った、とか、今回の標的はだれそれだから、拉致組に気付かれない様に連れ出して、とか急なことで、大変だったよ」 それでも何とかできてしまうのだから、凄いものだ。中里は思う。「でもどうやって、連れ出せたんですか?」 先程、彼女も言っていた。説明されても信じられない、と。「そりゃあまあ、普通は信じないよな」 あっさりと高村は言う。「俺だって、昔、こういう事態に巻き込まれるまでは信じられなかった。巻き込まれても、はっきり言って、信じたくは無かったね。…今だって、正直、信じたくはないさ」 しつこいくらいに彼は繰り返す。「だけど事実は事実だから、仕方が無い。で、あのお袋さんにも、事実を突きつけさせてもらった」 高村の話によるとこうである。 14日の夕方、帰社寸前の母親を会社で捕まえて、話をしたのだ、という。無論あの気丈な彼女である。見も知らぬ誰かに、そんな突拍子も無い話を唐突に言われたところで信じる訳がない。 そこで高村はまず自分の素性をきっちり証し、さらにこの晩の彼女の娘の行き先、よほど親しくない限り、まず知られるはずの無いことを口にした上で、こう言ったのだ、と。「とにかく、嘘だと思ったら、後ででしたらどれだけ俺をののしってくれてもいいし、俺の勤務する学校へ文句言ってもらってもいい。それこそ警察に訴えてもらってもいい。こんなやり方、まるでストーカーってことはよく判ってます。ただ! 今だけは、とにかく今だけは、俺の言うこと聞いてもらえませんか?」 さすがに高村のその必死の説得に、母親も心が動いたのだ、という。 そしてまず、持ち合わせる預金の全てを下ろしてもらう。 更に一度、部屋に戻って貴重品を持ち出させ、また彼の車へと戻ってもらったのだという。「どう考えても、向こうにしてみれば危険な賭さ」 高村は言った。「そうやって引き出したもの全てを取られる可能性の方が大なんだから。だから俺は、うちの学校にいちいち身元確認の電話もしてもらったよ」 そしてその晩、この車は、彼女のアパートが双眼鏡で見えるぎりぎりの位置に停められたという。「双眼鏡」 後部座席にスタジアムスポーツ観戦用の高倍率の双眼鏡が転がっていた。赤外線スコープつきだ、と高村は付け足した。「そして夜中、連中がやって来た。拉致組だ。その様子をそれで彼女に見せたら、さすがに半分は納得した」「それでもまだ半分、ですか」「うん。俺がまた別の拉致組、かもしれないだろう? だからさすがにあのひとはきっちりいつも逃げる算段を頭に浮かべていたようだね。ドアには絶対鍵も掛けなかったし、荷物や携帯も抱きかかえていたし、一睡もしていないし」 さすがだ、と中里は思った。「それで今朝、めいかから電話が入ったから、こうやってキミ等と合流した訳だ。それでようやく、本当に納得してくれたようだ」 自信を持って高村は言う。そう言えば。中里は思う。このひとは、岩室と何処か雰囲気が似通っている。「…そう言えば、お二人は…どうやって、知り合ったんですか?」「何でそんなこと、知りたいんだ?」「…単なる興味です」「単なる興味ね。うん、その聞き方は気に入った」と高村はうなづいた。 本当は「彼」のためだった。この人物が「彼」にとっても納得できる相手であればいい、と思ったのだ。自分というフレームの内側で聞いているはずの「彼」は、それを知りたがっているだろう。 ―――なあ、そうだろう? だが「彼」の答えはない。 不公平だな、と中里は思う。自分がフレームの向こうに居る間は、「彼」に話しかけることができる。「彼」も答えられる。 だがその逆はできない。 もしできたら、「彼」にも、何かしら、自分にできることがあるのに。だができないなら―――できるだけ、自分が、それを想像して行動するしかないのだ。「…出会ったのは、四年前、かな」 高村は話し出した。「俺が教育大を卒業して、その後薬大に入り直してた時だ」「そんなこと、できるんですか?」「適性はあったからね。教育大でも化学専攻だったし。ただ俺、その時に、キミ等みたいな奴等に出会ってしまってね」 そう言えば。「彼」に岩室は言っていた。「俺はその時の奴等に『R』を託されて、その分析のために、薬大に行き直してたんだ」「そんなことが…」「色々な、チームがあるらしいよ」 高村はふっと苦笑する。「だけどまあ、さすがに行き直しとなると、親のすねかじりって言う訳もいかないし、国の補助もそうそう効かないだろ。そもそも国のやり方に反旗翻すためだしね。だから民間の奨学金と、バイトで何とかしのいでたってとこ」 それはすごい、と中里は思う。「でもまあ、どうせバイトするんだったら、と思ってね、学校の紹介で、薬品会社のルートセールスとかやってたんだよ。指定されたとこに、薬品を届けるって奴。車の免許は持ってたし、やっぱり今の時代、何処でもパートとバイトが主戦力だろ。結構重宝がられてたぜ。で、そのルートの一つに、キミ等の学校があったんだ」 おっと、こっちだな、と彼は前方に青いルートの看板が見えた時、カーナビゲーションを確認する。「この車の方が広いから、改造カーナビも二台おけるだろ、ってあっさり言うんだよな、あいつは」「でも確かに、あっちの車よりは広いですね」「ああ、まあね。色々運んだりするにはでかい方がいいだろ」 形は岩室も高村もそう変わらない、ワンボックスである。ただやや高村の方がやや大きい。そしてその少しだけ大きな座席の前に、カーナビを二台置いているのだ。 現在、その一台はよし野が持つ「お守り」の発信器を、もう一台は溝口あての「義理チョコ」に付けられたものを追っているのだという。「…そう言えば、高村さんはチョコ、岩室さんからもらったんですか?」「おかげでまだだよ。あとでまとめてもらうさ」 彼は苦笑する。それもそうですね、と中里も答えた。
2005.06.13
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「…そうですか」 仲居の説明に、中里はなるべく平静を取り繕った―――つもりだった。「ええ。ずいぶんお待ちでしたよ…はい…お荷物は…はい、すぐに。一応、お客様がいらっしゃったらお待ちくださるように御伝言伺っておりますが…お食事の後、海の方へ向かわれてから、まだお戻りでないのです」 だが全く平静でないのが、すぐに判る。彼女ののんびりとした口調がひどく苛立たしい。「海の方」「ほら、そこに遊歩道が見えますでしょう? あれを越えるとすぐに海岸になっておりますので」 説明されている間に、よし野の荷物が運ばれて来る。本当に学校から直行しただけの荷物しか無い。バッグ一つだけが軽々と持って来られた。 仲居はばん、と中里の背を大きく叩くと、叱咤激励する様に言った。「あんな可愛らしい子を泣かす様なことをしちゃあいけませんよ、お兄さん」 そうですね、と中里は頭を下げる。本当に、肝に銘じたい所だった。*「荷物はそれだけかい」 小型の車窓から、岩室が顔を出した。「ええ。…すいません、おばさん、確認お願いします」 そう言うと、中からよし野の母親が出てきた。 午前十時を少し過ぎていた。 学校で、岩室が彼女の「ダンナ」と連絡を取ってすぐ出た彼らは、よし野が居るはずのホテル付近で合流した。「確かに、あの子のだわ…哲ちゃん、何であんた、行けなかったの!」「…お母さん、それは…」 岩室は彼女の肩に手を掛ける。母親は大きく首を横に振ると、その手をぱっ、と除ける。「いいえ先生、判ってはいるんです。ただ先生、私まだ、あなた等の言う状況が、まだ良く理解できないんですよ。信じたくないんですよ。何であの子なのか、どうして、だから、私まで、とか色々考えてしまって、収拾がつかないんです。そう、愚痴ですよ愚痴。判ります? それが本当だろうが嘘…嘘じゃないんですよね。こんなこんな、だから。…ああだから」 彼女はそうまくし立てると、荷物をぐっと抱きしめる。「ごめんね哲ちゃん、あんたの事情は説明されたんだよ。だけど、やっぱり私には、まだなかなか信じられない」 中里は大きくうなづく。それは、そうだろう。「でも私はあんたのことは信頼してる。お願い。よし野を助けてちょうだい」 母親は、強い眼差しで中里を見上げた。「もちろん」 そして彼もまた、即答する。「何があっても、あいつだけは」 いいや、と母親は大きく首を横に振った。「何があっても、なんて言うんじゃない。あの子と一緒に、絶対戻って来るんだよ、あんたも」 母親は荷物を一度下に置くと、中里の両手を掴んだ。中里もまたその手をぐっと握り、もう一度大きくうなづいた。「行ってきます」*「どうやって…えーと」 運転席に座り、スムーズにハンドルを動かす岩室の「ダンナ」に、中里はどう呼びかけていいのか迷った。「高村だ。高村正治」「…え、でも」「夫婦別姓くらい、今時ありふれてるだろ?」 彼は、隣の理系中等の教師だ、と言った。「じゃあ高村さん、えー…と、どうして、よし野のお袋さんを先に保護できたんですか?」「ああ、めいかから連絡もらってな」「めいか?」「うちの奥さんの名前。何だキミ、知らなかったの?」 知らなかった。「彼」は知っていたかもしれないが、中里は。 いや、「彼」も知らなかったかもしれない。 ふとその時、中里は一つの可能性に気付いた。 もしかしたら、自分が彼女にずっと「先生」と呼べずにいたのは。 「彼」は、岩室を「先生」とは呼びたくなかったのかもしれない。名前を知ることも呼ぶこともできないなら、せめて。 だがそれだけに、その意思は、普段の中里をも支配する程に強かったのだろう。 ちくり、と中里は胸が痛んだ。
2005.06.12
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「聞いてたんだろ?」 ああ、と中里は準備運動をする時の様に、身体のあちこちを伸び縮みさせる。「俺の出来ないことを、出来なかったことを…あいつは全部、引き受けてくれてたんだ…それで俺は、のうのうと手を汚さずにいたんだな…奴のおかげで、生きてこれたのに」 ほら、と替えのコーヒーを渡しながら岩室はつぶやく。 そろそろ外では、運動部の朝練習の声が聞こえ始めている。生徒達も次第に校舎に入ってくるだろう。「こんな平和な時間、奴には無かったのに」「でも奴も、お前だぞ。もともとは奴もお前も、同じ人間だ。一つの人格なんだ。ただお前らは、それを無理矢理引き裂かれたんだよ」「引き裂かれ…」 あの、意識を無くした時に。小学校を卒業してすぐに向かった所で。「我々も、それを何とかしようと、研究を続けてはいる。だがどうしても、お前らが最初に施された処置が判らないんだ。遅れてる。本当に遅れてるんだ」 どん、と岩室は机を両手で叩く。積み重ねられていた折り紙細工の箱が、がさがさと崩れた。「去年やっと、『R』の複製に成功した程度だ。お前らの人格を統合し、その力を元々の人間のものに戻すことができれば、…生きられる時間も、伸ばすことができるのに…」 ぎ、と岩室は歯ぎしりをする。握りしめた両の拳が、ぶるぶると震えていた。 その時、ぴぴぴぴぴ、と電子音が鳴った。 自分にだ、と中里は机にカップを置き、携帯の着信ボタンを押す。「…もしもし?」 中里は思わず眉を寄せた。何だこれは。ぼうぼう、と妙な音が入ってくるばかりで、誰かの声が聞こえるという訳でも無い。 いや――― 彼はぐっ、と耳を携帯に押しつける。 遠くで、声がする。『…遇だな。何故…、…んなとこ……居る…か…?」 風に混じって、男の声が聞こえた。『さ……たのかい? いけ…い子だ…」 何処かで自分はこの声を聞いたことがある、と中里は思った。「どうした?」 様子の変わった彼を、岩室は不審気に見る。中里は黙って携帯を渡した。ぐっと耳に押しつけると、彼女の眼鏡の下の目が、細くなる。「…これは…」 ぱっ、と携帯を中里に戻すと、彼女は自分の携帯を取り出し、慌てて誰かを呼びだした。「…そう私。…え?」 声が跳ね上がる。中里は自分の方の通信が切れるのを感じながら、岩室の表情が変化していくのに気付いた。「…判った。じゃあ、途中で。よろしく」 ぴ、と彼女は通信を切る。そして白衣の上に、大きなコートをかぶり、行くぞ、と中里に鋭い声を放った。「行くって、…」「羽根が奴らに捕まった」 え、と中里は息を飲み込んだ。「…うちのダンナと途中で合流する」 そう言いながら既に彼女は、内側の扉に「本日遅刻」の札を下げ、鍵を掛けた。「後は車の中で説明する。急げ、中里!」 判った、と中里は大きくうなづき、外側の扉から飛び出した。
2005.06.11
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「…はあ」 大きく口を開けて息を吐く。ぴりぴりとした冷たい空気に、彼女の吐息は白く膨らみ、やがて溶けていった。「綺麗、だなあ…」 できるだけ暖かな格好をして、と朝食の時に仲居に注意された。海辺は結構寒いのですからね、と。 確かに寒かった。だが風が吹かないだけ、その頬を刺す様な冷たさも、一種心地よくよし野には感じられる。 ホテルを出て、遊歩道を越えると海岸だった。夏なら海水浴客で賑わう浜辺だったが、さすがにこの季節、この時間には人っ子一人居ない。 さらさらとした白い砂浜を越えると、ざくざくと湿った部分に足は踏み込む。 ふと彼女の足が止まる。しゃがみ込む。「あ、かわいー」 朝の光を受けて、きらきらと輝く湿った砂の中に、幾つも幾つも貝殻が埋まっている。土仕事に慣れた彼女の指は、迷わずその中から、整った形、綺麗な色のものをつまみ上げた。 手の中に一杯になった時に、彼女は立ち上がる。 遠くから、小学校だろうか。登校時の音楽が流れてくる。「けっきょく、来ないつもりかなあ…」 ばぁか、と彼女は小さく悪態をつく。そして手の中の貝殻を見つめ、―――不意にそれを海に向かって放り出した。「哲ちゃんの、ばかーっ」 彼女は海に向かって叫ぶ。「一緒にごはんしたかったぞー! 海を見たかったよー!」 それだけじゃなく。 さすがにそれは彼女の口から出ることはなかったが、思いは十分込められていた。「せっかく、岩室先生に、お守りももらったのになあ…」 コートの内ポケットから、小さな小さな折り紙の箱を取り出す。一つが親指の爪くらいのものを三つつなげて、ビーズまでつけられている。 ふう、とため息をつくと、彼女はそれを再びしまった。 そして携帯を取り出す。もう一度電話して、それでも出なかったら、帰ろう、と。 ぴ。ナンバーを指定する。コール音が数回、耳に入る。 ふとその時、きい、と車が近くに止まる音に、彼女は顔を上げた。どこかで見たことがある、と彼女は思った。だがそれが何処でなのか、彼女には思い出せない。車には基本的に興味が無いのだ。 だが中から出てきた男の姿に、彼女は思わず携帯から耳を離した。男は遊歩道を越え、欠けたコンクリートの階段を下り、ざくざくと砂を踏みしめて近づいてくる。「やあ」 その声に、彼女は思わず堅くなった。「…み…溝口先生」 見つかった! それだけで彼女の頭は一杯になる。そんな時間に彼がここに居るという矛盾に気付く余裕も無かった。 ぽとん、と彼女の手から、携帯が落ちる。「奇遇だな。何故今、君はそんなところに居るんだい?」 ズボンのポケットに手を入れたまま、溝口はゆっくりとよし野に近づいて来る。彼は四年生の授業も担当している。「さぼったのかい? いけない子だなあ」 ぞく、と囁く様なその低い声は、よし野の背に悪寒を走らせる。端正だが、獲物を見付けたは虫類の様なその口元だけの笑みに、彼女は身動きできない自分に気付いた。 そしてその手が、彼女の左の肩をぐっ、と掴む。「おや、震えているじゃないか。寒いのかい?」「い、いえ…」「それとも、怖いのかな?」 いや、と彼女は思いきり力を込めて、身体をよじった。 その途端、溝口の手はコートの上を滑り、身体のバランスを崩す。うわ、と彼はよろけた。 今だ、とよし野はホテルの方へと向かって走り出した。濡れた砂は靴に張り付く。乾いた砂は靴の中に入る。足が重い。気持ち悪い。だけど急がなくちゃ。 彼女は階段を駆け上がる。重い足につまづきそうになりながら、駆け上がる。 はあはあ、と上まで駆け上がり、遊歩道の柵に手を当てた時――― そこに、そっと触れる白い手が、あった。「…?」 見慣れた制服姿の少女が、そこには居た。綺麗な少女だ。上級生だ。 だがどうしてここに居るのだろう? よし野は訳が分からなくなる。ただ、その先輩の少女の口元には、溝口と同じ笑みが浮かんでいる。 そして彼女はぽん、とこう言った。「ねえ、かたつむりのオスとメスの見分け方って知ってる?」 唐突な言葉に、よし野の頭の回転は一瞬止まった。 次の瞬間、少女はポケットからハンカチを取り出し、左手でよし野の頭を抱え込むと、右手で顔にそれを押しつけた。 臭い、鼻が痛い、とよし野が思ったのは、一瞬だった。 ぐったりとしてその場に崩れ落ちる彼女を、制服の少女は、手を貸すこともせず見下ろしていた。「薄情だな、毬絵」「あら、センセにそういうこと、言われるなんて、心外だわ」「ふん、日の光の下だとお上品だな」 そう言いながら溝口は、よし野の腰を抱える様にして持ち上げようとした。 だが片手では無理だ、と思ったのか、一度その場に振り落とす。ぱさ、と遊歩道の砂が舞う。 そして改めて両手を掴み、ピンクのアスファルトの上に背を下にして、ずるずると引きずりだした。「やだ、結構センセ、非力だわね」「俺は、あの筋肉馬鹿とは違うからな」「…あら、それ何?」 ああ、と胸ポケットからはみ出した携帯を彼女は指さす。「さっき落としてた奴だ。ちょうど通話中だった」 すると彼女は形の良い眉をくっと寄せた。「何よそれ。ちゃんと切ったんでしょうね? そんなモノ、捨ててしまえば良かったのに」「こういうのはメモリを確認してからの方がいいだろ。何か役立つものもあるかもしれないし」 ずるずる、と引きずりながら、彼は続けた。「まあそうだけど」「文句言わず、お前も足くらい持て」「あたしが?」 ま、後でゆっくり料理したいしねえ、とつぶやくと、彼女はよし野の両足を掴み、持ち上げた。「そういえば、この子、あの馬鹿に、昨夜してもらえなかったんでしょ? 結局」「ふん?」「ねえ、殺ってしまう前に、遊んじゃえば?」 くくく、と彼女は長い髪を揺らせて笑った。「好きでしょセンセ、そうゆうの」「…そうだな…それも悪くない」 そしてまた、溝口も同じ笑いを浮かべた。
2005.06.10
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―――何故!! それまでフレームの内側で様子をうかがっていた中里が、叫んだ。う、と「彼」は唐突な内部からの衝撃に顔をしかめる。「…ターゲットの家族もまた、別働隊によって拉致される。『ターゲットを育ててしまったから』という理由でな。その行く先に関してはまだ把握できていないが、…そう、お前達が、自分の家族を失ったように。おい中里、聞いてるか? よし野の母上も、狙われているんだぞ!」 そんな! と「彼」の中で中里が叫ぶ。 身体の主導権を握ることができない悔しさが、「彼」の中にも広がってくる。「だが心配するな。母上は、うちのダンナが保護している。昨日の朝から、拉致隊に先回りしてな」 ほっとする中里に「彼」も安心する。中里の不安は、「彼」にとっても決して気持ち良いものではないのだろう。「…ぬかりないんだな、あんたらは」「草の根レジスタンスというものはそういうものだ。それに、お前の知らない『B』やインスペクターについても」 知ってるのか、と二人が同時に問いかけた。 岩室はうなづく。そして何とか滑り落ちずにいた折り紙細工の箱をつまみ上げる。「よし野に昨日、この小さい奴を『お守り』ってことで渡しておいた」 あああの時か、と中里は思い出す。「そしてもう一つ。見栄えだけはいい安物のチョコレート。この二つにつけておいたのさ。発信器を」 岩室はにやり、と笑う。見栄えはいいが、安物の…義理チョコ。「英語の溝口が、お前らのインスペクターだ。それに奴のお気に入りの女生徒が居たな? そのくらいは覚えているだろう? お前らでも!」「…ああ…あの、優等生の…」 透明な声をした。 そう言えば、と中里は一つの光景を思い出す。たしかあの女は、授業中、溝口に何かをこっそり渡していた。「全く、色んなチームがあるものだ。うちのダンナが初めて出会った連中は、好き合っていた『R』と『B』がインスペクターを殺して逃走したらしいよ」 そんな所もあるのか、と中里は今更の様に思う。本当に、自分は何も知ろうとしていなかったのだ。だがそれは「彼」も同様だった。苦い思いが、二つの意識の中に広がる。 不意に岩室は「彼」に問いかけた。「なあ、お前はあの時、私の名を呼んだな?」 花壇を踏み荒そうとした時。荒そうとして、荒らせなかった時。そう、あの時足を止めたのは、中里ではなかった。「彼」自身だった。 どうしても、踏めなかった。踏めなかったのだ。 何故なら。 「彼」はいつの間にか自分の目から、だらだらと熱く、涙がこぼれ落ちるのを感じていた。 どうしてなのか、判らない。だがどうしても、止まらない。 うっうっ、と喉の奥から出る声と共に、うつむいた顔が、肩が、何度も上下する。 そして、絞り出す様な声で、彼は、告げた。「…あんたが、…好きなんだ」 岩室は息を呑む。「…アイツがあの女のことを好きになるずっと前から、オレはあんたを見てた。あんたと直に、話をしたかった。だけどこいつには―――普段のこいつには、オレの言葉なんか、聞こえやしない。そうなってんだ。そうゆうふうに、なってるんだ。なあ、あんた、何で、こいつに、優しくしてくれたんだ? 放っておいてくれれば、良かったのに」「…放っておけるか」 まくし立てる「彼」に、ぴしり、と彼女は言った。「誰も好きで『R』になった訳じゃあない。私の友人もそうだった。…お前は、お前らは、この先も、生きたいんだろ?」「生きたい」 地の底から響く様な声で、「彼」はつぶやき、岩室の両手を強く掴んだ。「もう時間が少ないのは知ってる。だから、その短い時間を、できるだけ、オレは、…あんたを見ていたかった。そのためだったら―――この学校に、居られるのだったら―――あの女なんか、オレには、どうでもイイんだ」 そして不意に、顔を上げた。「なあ、どうして、それじゃ、駄目なんだよ!」 ぱくぱく、と「彼」の口が動く。 指に力がこもる。だが痛みをもたらすだろうその強さに、岩室は声を立てることはしなかった。「…なあ…どうして…」 「彼」はぎっ、と歯を食いしばる。 判っては、いるのだ。 そう、判っている。だってこのひとには、大好きな大好きなダンナが居る。 いつも中里の奥で、「彼」はこの口調で、だけど明らかにのろけと判る言葉を聞かされてきた。 知ってる。判ってる。自分が、自分だけが好きでも、どうにもならない。 奪ってしまえば? そんな考えを起こしたことも無くはない。 一年に一度、自分は解き放たれる。その時、中里の気持ちを無視して、強引に彼女の「最愛のダンナ」を殺して、奪ってしまうこともできたかもしれない。 だがそうしたら。 「彼」はあいにく、中里よりずっと察しが良かった。 きっと自分が大好きな、あのさばさばとした、明るい、身も蓋もないくらいの言葉も表情も、そこで永遠に自分は失ってしまうだろう。 それだけは、嫌だった。それを失うくらいだったら。「すまん」 岩室はゆっくりと「彼」の手を離させた。 そして今度は彼女の方から、「彼」の背をぐっと抱きしめる。「私はお前には何もしてやれない。中里に対してなら、できることは少しはある。ほんの少しだが、それでも確実に、ある。だが今の私には、我々には、お前には、何もできないんだ」 腕に込められた力が強くなるのを、「彼」は感じた。「でも一つだけ言える。私は、お前と話せて良かった」 身体機能を上げ、その代わりにその寿命を縮めてしまう、その最初の処置。それは単に「凶暴な性格」を引き出すだけのものではないのだ。「彼」の存在は、それを岩室に伝えていた。「我々は、一刻も早く、お前を、お前の様な奴を元に戻す方法を、見付けたい。だけど今のお前には、どうしても、間に合わない。…すまない」「…もういいよ」 「彼」は岩室をそっと押し戻す。「岩室さん、オレに『R』をくれ。…あんたは―――あんたが、あの親子を助けたいんだろ」 喉の奥の奥から、絞り出す様な声だった。震えて、今にも、かすれて消えてしまいそうな声だった。「…お前」「だったらそれは、あいつに任せる。オレはあの女のために動く気は無い。あの女のために動くのだったら、あいつのほうがいい。どれだけ気が弱かろうが、度胸が無かろうが―――それは、あいつの役目だ」「…なあ、お前は、よし野のことは、嫌いか?」 「彼」は軽く目を伏せ、首を横に振った。「ねえ岩室さん、…嫌いとかそういうのじゃないよ。ただオレは、あんたが、好きなんだ―――それだけだ。…それだけなんだよ」 そうか、とつぶやき、彼女は小さくうなづいた。 そして眼鏡を外すと、「R」を一粒口に含む。 ベッドの両脇に手をつくと、彼女は「彼」の頬を両手でくるんだ。「すまない―――ありがとう」 最初で最後だ、と「彼」は目を閉じた。
2005.06.09
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「彼女はその時、私に短い手紙を残していった」 こんな風にな、とクラスの少女達が時々交換している、複雑な折り方の淡い色の紙を目の前にかざした。「もともと無口な子だった。でも手紙は好きだった。書きたいことが全て表せる訳ではないけれど、文字になっていれば、受け取ったひとのもとにずっと残るから、と」 「彼」は唇をぐっと噛んだ。「実際、その手紙の内容は、私にはさっぱり判らなかった。さようならのひとことも無かった。それに中等の六年生だ。今更『転校』もないだろう、と当時の私でも思った」 だが案外誰も考えないものだな、と彼女は苦笑しながらつぶやく。「その訳の判らなさが、それは私の中で、ずっと疑問になって気持ちの中にくすぶっていた。大学に行っても消えることは無かった。そして適性と努力の結果、私はこうやって保健医になって、学校という場に戻ってきて―――そして、判った。彼女の正体が」「その子が『R』だってことがかよ」「ああ」「どうやって、そんなこと、判ったんだよ!?」「昔、折り紙のカブトムシの中に、自分が受けたことを父親に書き残して自殺した『B』の少年が居た」「え…」 「彼」は話の飛躍に目を丸くする。「父親は教師だった。だから、それが正しいはずの教育改革のために、国が自分の息子にした結果だ、と悟るのは早かった。彼は―――復讐を誓い、仲間を増やして行った」 「彼」は折り紙細工の箱と、岩室に交互に目をやる。「…そういう集団が、あるんだよ。私や―――うちのダンナが、参加している集団がな」 「彼」は思わず胸を押さえた。「それで…あんたは? いやあんたらは『R』のオレをどうしようっていうんだ? …さっきあんたが撃ったのは何だ? 麻酔か何かだろ? その時オレを殺してしまえば、良かったんじゃないか?」「間違えるな。お前は死にたいのか? 中里じゃない、お前」 ぐっ、と「彼」は言葉を飲み込んだ。「我々は『R』や『B』を消したい訳じゃない。その役割から解放させたいだけなんだ」「は! そんなこと、できるのかよ」 「彼」は大きく手を広げ、首を振った。「…少なくとも、お前を抑え込むことはできるさ。…これは、何だと思う?」 彼女は白衣のポケットから、見覚えのある、赤い小瓶を取り出した。「…何で、それを…」「我々でも、この程度は、複製することができた。つまり、お前を抑え込むことはできるんだよ。人殺しのできる人格の方、は」「でも!」 「彼」は毛布を掴み、ぐい、と上半身を大きく乗り出す。「あんたはしなかったじゃないか―――何で? 何で、オレをまた覚まさせたんだよ? 何で?」 堰を切った様に、「彼」の口から言葉があふれ出した。 岩室は一歩、「彼」に近づくと、腰をかがめた。上目づかいの視線が、「彼」とぶつかる。 彼女は口を開いた。 そしてゆっくりと、低く、だけどはっきりと、「彼」に向けて話しかけた。「私は聞いてみたかったんだよ、お前に」「オレに?」 中里ではなく。「そう、お前にだ。何でお前、花壇を踏まなかった?」 ぱりん、と分厚いマグカップが割れた。 手の中から、コーヒーと血が混じって、クリーム色の毛布にぽたぽたと染みを作った。「そして今も、そうだ」 ゆっくりと、骨張った太い指に絡み付く、コーヒーと血を拭き取りながら、彼女は問いかける。「お前だったら、今この時にも、逆に私を殴り殺して逃げるくらい簡単だろう。…なのにお前は、何故それをしない?」 がちゃ、と膝に乗せられたかけらが音を立てる。「何でって…」 接近する白衣。眼鏡の下の目は、まっすぐ「彼」を見据えた。「お前はいい奴だな。私の知っている、『もう一人』の中では一番いい奴だ」 そうじゃない、と「彼」は小さくつぶやく。「彼」はそんな言葉が欲しい訳ではないのだ。「だからこそ、できるだけ、生きて欲しいんだ。…我々は…私は…ただ、お前達を、自由にしてやりたいんだ」「自由…オレ達、…って? オレと、こいつか?」「それだけじゃない」 彼女はきっぱりと言い放ち、ゆっくりと身体を離させた。「お前と、中里と―――よし野とその母親」
2005.06.08
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浅い眠りを何度もよし野は繰り返した。 中里を待ったまま、TVの前でうたた寝し、二時過ぎに布団に入った。だがなかなか寝付けなかった。 すっと少しだけ意識を失ったかと思うと、今度は奇妙な夢で目を覚ます。具体的にはまるで判らない。だけどそれがひどく悪い感触のものであるのは、確実に思い出せる。 外はぼんやりと明るい。柱に掛けられた時計の針が、六時少し過ぎを指していた。 彼女は起き出して、枕元に置いていた携帯を見る。鳴ったらすぐに目を覚ますことができる様に、音量を最大にしておいたものだ。 だけど結局それが鳴ることはなかった。メールも入っていない。ふう、とよし野は両手で携帯をくるむようにすると、ため息まじりに小さくつぶやく。「…ねえ哲ちゃん、もう15日だよ、今日…」 昨日プレゼントすることに意味があったんじゃないの? そんな彼女の言葉も彼には届かない。 仕方なく、彼女はもう一度、メモリのトップにある番号にコールする。* …ぴぴぴぴぴ…ぴぴぴぴぴ… 古典的な携帯電話のコール音がまだ薄暗い保健室に鳴り響く。 …うるさい… 「彼」はその音に、自分の意識が次第にはっきりしてくるのを覚えた。 コールは長い。しつこい。十…十一…。 またあの女だ。「彼」は思う。ひどく身体がだるい。 身体が、だるい? 「彼」にとって、それは初めての感覚だった。 太い腕に力を込め、顔をしかめながら、ゆっくりと身体を起こす。と、ふっとコーヒーの匂いが漂って来た。「…起きたかい」「岩室さん…何で」 「彼」は慌てて顔を上げた。「お前、あの時も、そう言ったな」 彼女は椅子から立ち上がる。机の上には、「麻酔銃」が置かれていた。去年の夏見た「壊れているはず」の。「携帯、鳴ってるよ」「どうせ、あの女だろ」「ふうん」 彼女はずっ、とコーヒーを口に含む。「何となく変だとは思ってたが…中里に見えるが、中里じゃないな、お前。もう一人の方かい」 「彼」はぴくりと肩わ震わせた。「まあ、コーヒーでも呑むか」「…カルピスじゃないのか」 そう「彼」が言うと、岩室は眼鏡の下の瞳を軽く細めた。「お前はあの中里じゃないし、今は夏じゃない。カルピスは冷たい方が美味いと私は思う」 そう言って彼女は、冷蔵庫の上に置かれたサーバーから、大きなマグカップにコーヒーをなみなみと注ぐ。「砂糖とミルクは」「両方」 ぽん、と投げ出す様に「彼」は言った。「なるほど、それでもそういう所は同じなんだな」 口元を軽く上げると、岩室はベッドの上の「彼」にカップを手渡した。 両手でそれを受け取ると、「彼」は黙って口にする。「熱くはないか?」「…」「それとも、そんなことは感じないか?」「…」 岩室は仕方ないな、という顔で苦笑する。「中里は、今、どうしてるんだ?」 「彼」は唇を噛んで押し黙る。 岩室はデスクの端に片手をつき、しばらく自分のコーヒーをゆっくりとすする。 次第に空が明るくなってくる。 遠くの住宅街の間から、太陽が昇ってくるのが、薄い、白いカーテンの隙間から見える。 五分くらい経った頃だろうか。「彼」はぽつんと口を開いた。「…オレの中だ」「中、か」「あんたの姿も見えてるし、コトバも聞こえるハズだ。ただ、身体だけが、今はアイツの自由にはならない」「『R』が切れたせい、か」 勢い良く、「彼」は岩室に顔を向け、言葉を投げる。「やっぱり、知ってたのか、あんた…岩室さん、あんたは、何なんだ? 何者なんだ? ただの『保健室のセンセイ』じゃねえのか? ねえんだな?」 ことん、と岩室はカップを置く。そして机の上の、小さな折り紙の箱細工を「彼」に向かって放り投げた。 「彼」の膝の上に、箱は落ちた。クリーム色の布団のカバーの上に、色とりどりの紙を組み合わせたその小さな箱は、奇妙に浮きあがって見える。「十年前、私の友人が、突然『転校』した」 はっ、と「彼」は顔を上げる。「それは―――まさか」 「…いや、殺された側じゃない」 岩室は首を横に振る。「彼女自身が『R』だったんだ。ただその最後のターゲット予定にされていたのが、私だった」「それで…その子は…」「インスペクターが上に報告する前に、気付いた彼女は死んだよ。自分のチームのメンバー二人を道連れにして」 岩室は軽く眉を寄せた。そんな、と「彼」はつぶやいた。
2005.06.07
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電話というものは時間を選ばない。 男は2コールで受話器を取る。そして絡み付く女の長い髪を邪魔そうに除けながら答えた。「…溝口だ」 向こう側から一言、二言。「…何だと?」 その男にしては大きな声に、横の女が目を覚ました。「…くそっ!」 普段の彼の、学校での冷静な様子を知る者だったら別人かと思われる様な口調で、彼は受話器を叩き付けた。「…どうしたの、センセ」「毬絵」 溝口はベッドから降りると、椅子に掛けてあった制服を彼女に投げた。「何か、あったのね」 彼女の透明な声にも緊張が走る。「『拉致組』から今連絡が入った。標的の母親は、昨夜から戻っていないそうだ」「旅行に一緒に行ったんじゃないの?」「いや、検索した限りでは、あのホテルはあくまで二人分で予約されている。男女二名、でな」「本当にあいつも馬鹿よね。標的がアレなら、遠くにやろうとするくらいのこと、あたし達が気付かないと思ってるかしら」「思っているから、お前と違って『R』なんだよ、毬絵」 すっ、と溝口は彼女の顎の下を撫でる。彼女はふん、と軽く笑うと、喉を鳴らす猫の様な表情になる。「お前は本当に、優秀な生徒だよ」「センセの教えがいいからだわ」 ふふ、と彼女は溝口の首を抱え込んで、唇を重ねる。だがそれはそう長いものではなかった。「続きは後だ。…あの馬鹿が、標的の家族のことなどに気を回すことは無いだろう」「無いわね」「始末した標的を箱詰めにして、当局へ送っているのが我々だ、ということも気付いていないだろう」「今更な言い方ね。センセにしては、歯切れが良くないわ。あの馬鹿じゃないとすれば、一体誰なの?」 至近距離から、溝口は真剣な表情で彼女の目を見据える。「あの連中が、乗り出している可能性がある」 毬絵もまた、顔を引き締めた。 政府直属の自分達に対抗する組織的な動きが、確実にあることを彼らもまた、聞いていた。 二人はさっと身支度を整えると、明け方の寒さに窓が凍りついたワゴンに乗り込む。「あー、こんな時間にあたし達に出させるなんて、全く」 制服の上にコートを着込み、彼女はぼやく。「どうせ、あの馬鹿のやりそうなことなら予想がついてたんだから、学校でへろへろになってる奴を回収して、あのボケボケの女、目の前で殺させてやろうかと思ったのに。あ、それとも、あたしがあいつの目の前で切り裂いてやろうかなあ」「…お前本当に、そういう場面が好きだなあ」「女は血なんか怖くないのよ」 溝口は眼鏡の下の瞳を細めた。「いっそお前が『R』になった方が、世のため人のためじゃなかったかね」 ぱん、と彼女は溝口の膝をやや強く叩いた。「冗談言わないでセンセ。あたしはあんな馬鹿とは違うのよ」「そうだな、お前は賢いよ。だからこそ、そんな性格でも『B』なんだからな」 そうよ、と彼女は首をぶん、と振った。その拍子にふと後部座席を見る。「…あら、何よこれ」 大きな紙袋を彼女はのぞき込んだ。 中には、色とりどりのパッケージのチョコレートが、あふれる程に入っている。「何だお前、昨夜気付いてたんじゃないのか?」「知らないわよ。昨日のあたしに判る訳ないでしょ」「お前は俺にはくれないのか?」「欲しいの?」 あはは、とワゴン車の中に、涼やかな声が響いた。
2005.06.06
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「…たく、しつこい電話だ!」 「彼」は二度目の長いコールに悪態をつく。 だが中里は、よし野だったら、そのくらいしてくるだろう、と思っていた。何よりも自分がこんな行動を取る決定打となったのは、彼女の存在なのだ。 よし野と出会って、言葉を交わして、触れ合って、彼女の母親を交えた時間を過ごすうちに、彼はあることに気付き始めていた。 「自分の殺した彼ら」にも、こんな時間があったはずだ、と ただそれは、今までは形にはならず、ぼんやりと彼の中で漂っているだけだった。 彼自身、この短い期間の中で急に自分の中にわき上がってきた「楽しい」「愛しい」と言った感情に振り回されるのに精一杯だったのだ。 だがよし野が「標的」とされた時。 その時本当に、中里は、自分の殺してきたのが、自分や彼女と同じ、生きて、生活している人間なんだ、と気付いた。 何てことを。 だが彼には、そこで悩んで沈んでしまう余裕は無かった。「くそっ!」 「彼」は悪態を何度もつく。 そして手のロープを解くのを断念し、近くの鉄骨の角で擦りだした。こうなったらもう時間の問題だろう、と中里もフレームの内側で苦々しく思う。「よし!」 ぷつ、と一本が切れたら、後はぐるぐる巻かれているものを解くだけだった。 手が取れたら早い。「彼」は足や胴に巻かれたロープのうち、一本を強く引き出し、引きちぎる。「…くそ、跡がついちまったじゃねーかよ」 ―――おい。 中里は「彼」に問いかける。「何だよ」 ―――お前は自分が殺しているのが、自分と同じ生きてる人間だ、とは思ったことは無いのか?「何だよ、オマエ、今頃、気付いた訳?」 「彼」の答えは、中里の思ってもみなかったものだった。 よ、と「彼」は倉庫の扉に手を掛ける。「…鍵、掛けやがったな。ま、いっか」 そう言いながら、そのまま強く戸を引いた。がっ、と音を立て、止めてあるプレートとネジごと、鍵が飛んだ。「ふん、こんなものだろ」 ぽんぽん、と「彼」は手をはたき、体育館を斜めに突っ切る。「…何だよ、こっちもかい」 仕方ねえなあ、と「彼」は助走をつけて、思い切りアルミサッシの入り口を蹴り倒した。がしゃん、と音を立てて、両開きの戸は向こう側に倒れた。「だってさ」 「彼」は中里に今更何だよ、とつぶやく。「そういうオマエだったから、『R』にされたんだろ」 中里はその「彼」の言葉に驚く。「何、驚いてるんだよ。ホント、今更。そもそもそういう部分が欠けてたから、こんなモノにされちまったんだろ」 そう言いながら、「彼」は体育館の外へと走り出た。 ―――何処へ行くんだ? 中里は問いかけた。「もちろん標的を狙いにだよ。オレは生きたいんだ。オマエと違ってね」 ―――俺と違って?「そうだよ。生きてても死んでてもどーでもイイ様な、そんなオマエだから、そしてそれに気付かない程のバカだから、使い捨てでじゅーぶん、って奴らは思ったんだよ。だけどオレは違う、オレは生きたいんだよ! 何をしてでもな!」 ―――それでよし野を殺すのか?「あの女か?」 そう言うと、「彼」は不意に足を止めた。「ああ。あの女もどーでもイイ。ただもう、オレは、生きられるだけ生きたいんだよ。オマエと違うんだオレは。だから、ここから抜け出してやる。あの女をとっつかまえて、殺してやる。そうすれば」 ―――「R」が手に入るから? それは変だ、と中里は思った。 ―――だって、「R」はお前を出させない様にする薬じゃないか。「うるさい!」 「彼」は叫ぶ。そしてそのまま足を速めた。 そして保健室の前まで来ると、花壇の周囲のブロックへ、がっ、と足を掛けた。「こんなモノがあるから、オマエはイロイロ迷うんだよ。オレに全部任せればイイんだ。そーだよ、『R』なんて無くても、オレはオマエなんかいなくても、平気だよ。そりゃあな、時々血も見たくなるけどよ。どーせ短い人生だ。好きな様に生きればイイじゃねえか!」 そう言って、「彼」は花壇のチューリップの芽の上に、足を踏み下ろそうとした。 ―――やめろ!「お…い!」 中里は必死でその足を止めようとする。 無理かもしれない、だが。 ―――… 振り上げた足は、空中で止まったまま、行き場を無くし、ぶるぶると震えている。自分の思いが身体に伝わったのだろうか? 中里は思う。 いや違う。「くそ! くそ! くそ!」 「彼」は上げた足を何とかして踏み下ろそうとする。だがどうしても動かないらしく、足はただ、空を切るだけだった。「くそぉ!」 大きく一言叫び、「彼」は歯を食いしばる。 一体。中里もその様子にただ、唖然としていた。 その時だった。「中里!」 正面から、鋭い声が飛んだ。はっ、と「彼」は顔を上げる。「あんたは!」 しゅ、と微かな音が、大気を震わせた。 う、と「彼」は声を立てる。 首に、何か鋭いものが突き刺さる感触を覚え―――中里の身体は、そのまま、ゆっくりと背中から地面に倒れていった。 倒れる身体。その口から、小さく声が漏れる。「…いわむろさん…何で…」 だがその声は、確かに「彼」のものだった。
2005.06.04
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昨年は――― 考えるのも、面倒だった。 後期部に入った時点で、中里は自分の時間の曲がり角が見えていた。だがそれに関して、やはり彼は何も感じなかった。 だから秋頃に、見知らぬ最上級生の頭を「彼」が楽しそうに潰した時も、フレームの向こうで、「あああとこれが二回続くのか」と思っただけだった。 ただ「死んだ最上級生」は、どうやら園芸部の二人の友達の様だった。 時々彼らの会話の中に「唐突に転校した奴」のことが出て来ることもあった。その時の表情や、「あいつ今どうしているかなあ」というぼやきを耳にするたび、中里は何故か自分の胸がざわつくのを感じていた。 「あいつ」のことを懐かしそうに、楽しそうに話されればされる程、中里の中で、そのざわつきは大きくなって行った。** … 携帯だ、と中里は思った。フレームの外で、自分の携帯電話が鳴っている、と。 だが「彼」は未だ自分の手のロープを解くのに一生懸命で、携帯に出るどころではない。「…くそ、誰だよこんな時に!」 「彼」は悪態をつく。中里には判っている。この相手は。 そもそも、自分の携帯番号など、ほとんど誰も知らないのだから。* 「…」 二十回、コール音を聞いたところで、よし野は電話を切った。「まだお連れさんはいらっしゃいませんか?」 着物姿のホテルの仲居が、心配そうに問いかける。よし野は黙ってうなづく。「…お先にお食事なさってはいかがですか?」「でも…」 よし野は言葉を濁す。きっとこんなホテルだったら、夕食も豪勢だろう。 だがそれだけに、できれば二人で取りたい、と願うのも当然だろう。自分には一人分でも多すぎる。「…だけど良く食べるひとだし…」「何だ」 ころころ、と仲居は声を立てて笑う。「そんなこと心配なさってるんですか。大丈夫ですよ。その時にはまたその時、たっぷりごちそういたします」「…いいんですか?」 もちろん、と仲居はうなづいた。「お客さんの様に可愛いお嬢さんを待たせてるなんて、どんな色男さんでしょうね」「色男って訳じゃあないけど…」 口ごもるよし野に、あらあら、と仲居はまた笑い、ではお食事持ってきますね、と部屋を出た。 彼女は窓の外の夜景を眺める。 ホテルと言っても、基本的には和室だった。海に面した景色を一望できる窓際だけが板張りで、差し向かいでくつろぐことができる様に、籐の椅子とガラステーブルが置かれている。広い温泉もあるが、部屋風呂もある。 正直、よし野はこう言った「観光」ホテルには来たことが無かったので、かなり戸惑っている状態だった。 彼らの隣の市にあるこの海沿いの町は、観光地として県内では有名だった。「近場の観光スポット」としてはなかなかの場所と言えよう。 海と言っても湾に面しているので、向こう岸の夜景が美しい。夏には海水浴や花火大会で賑わい、冬は冬で、魚介類を中心とした食事が売り物である。 話を聞いた時、だからかなあ、とよし野は中里がこの場所を選んだ理由を考えた。 やがて食事がやってきた。確かにそれは豪勢なものだった。全部の料理が運ばれてきてから、彼女はぽつぽつと箸を付け始めた。 そしてつぶやく。「美味しいけど、美味しくない…」 こんな所でTVを付けて食事する、というのも味気ない。 ふう、とため息をつき、箸を置くと、彼女はもう一度、中里の携帯に電話を掛けた。 コール二十回。やはり出ない。 留守電機能にしてくれていたら、大声で「早くこーい」と入れてやりたいところだ。「せっかく、あたしが、プレゼントなんだぞ」 思わずつぶやく。馬鹿だ馬鹿だと呆れられようが、何と大きなリボンまで持参している。 なのに、だ。 やがて思いつき、寄宿舎の方へ掛けてみる。コール一回で出た寄宿舎の当番は、すぐに「まだ帰ってこないけど」と返してきた。「ところで君可愛い声だね」なんて台詞も続いたが、彼女は丁重に無視して切った。 自分の家にも掛けてみる。もしかして、連絡が来ているかもしれない。しかしこちらもコール二十回。出ない。 今日は残業だったかな、と母親の携帯の方にも掛け直す。だが今度は留守電になっていた。仕方ない、とその中にメッセージを入れておく。「おかーさん、哲ちゃんから電話来たら、すぐ来る様に言ってください。こっちは…」 ホテルの名と、自分の携帯番号を告げる。知ってはいるだろうが、念のためだった。彼女は自分の身内の記憶力は当てにはしていない。 そしてはあ、ともう一度ため息をつく。「…哲ちゃん、早く来ないかなあ…」
2005.06.03
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最初の「仕事」。 中里はその時、中等学校一年生。まだ十三歳だった。 今の様に身体が大きくもなく、周囲に紛れ込んでしまえば判らない程度の少年だった。 正直その時の彼には、自分がどんな「仕事」を言いつけられたのか、よく判っていなかった。 「消去」とあの時の「声」は言ったが、自分の手で誰かを消してしまう―――殺してしまう、なんて考えることもできなかった。 だから、毎日毎日「R」を飲んでいても、その年度の終わり近くなった頃、顔も姿も見せない「インスペクター」から「標的」を指名された時にも、自分がどうすればいいのか、さっぱり判っていなかった。 そんな自分に、初めて意識の上に現れた「彼」はこう言った。「オレに任せておけばイイんだよ」 その声は中里にとって、奇妙に優しく感じられた。任せてしまえばいい、とその時の彼は思った。 そうした方が、少なくとも自分が何かするより上手く行く、と思ったのだ。 「彼」が自分の身体を支配している間も、中里自身の意識が無い訳ではなかった。ただ、目の前で起きていることが全て自分にとって他人事に見えた。 それはまるで、TVのフレーム越しの光景の様だった。 この時の標的は、三年生だった。 格別成績が良い訳でも、格好良いという訳でもないのだが、前期部の新聞部長である彼の書いた記事には威力があった。それがもし、全くのでっちあげであったとしても、全校生徒に内容を信じさせるくらいの。 中里は本も新聞も、とにかく活字とはまるで縁が無かったので、それは「仕事」の後で知ったことだった。 フレーム越しの風景の中で、中里は自分が相手の背後から近寄り、頭に手を掛けるのを見た。そして容赦なく力を込め、背骨まで一気に反らし曲げ折って殺してしまうのを。 ぼきぼきぼき。 音が、聞こえたような気がした。 常夜灯の光の下、玉砂利の中に、何が何だか判らない、という目をして三年生は海老反りに倒れていた。 そしてそれを見たフレーム越しの中里は、「人間ってこんなに曲がるんだなあ」と感じただけだった。 それだけだった。 「彼」は汚れた手を洗いに水飲み場に向かった。 するとそこには、見覚えのある赤い瓶が置かれていた。ふん、と言いながら、「彼」は中里に言った。「寝る前には呑んでやるよ」 そう言われて、中里は安心した。 死体の後始末など、考えもしなかった。* その翌年は、隣のクラスの少女だった。 彼女もまた、取り立てて美人、という訳ではなく、頭がいい、という訳でもなかった。 だが彼女は学校の中では目立つ存在だった。 彼女の使う特有の「言葉」は、瞬く間に周囲に流行って行くのだ。あまりにそれが頻繁なので、「**語」と呼ぶ者も居るくらいだった。 例えば先生のあだ名。学校のあちこちの場所の言い換え。彼女にとってトイレは「楽屋」だったらしい。 とにかく目の前にあるものを、誰の感性でもなく、自分の見たままに、感じるままに、言葉に置き換えるのが得意だった。 ある意味、風刺の才能に優れていたのかもしれない。 しかし無論、それも中里には関係は無かった。 その時の彼が気付いたのは、自分が殺した相手がどういう人物だったか、ということではなく、殺した相手が「唐突な転校」扱いとなり、それ以上にもそれ以下にもされない、ということだけだった。 「唐突な転校」は皆、小学校の時に、身をもって知っているので、それが中等学校であったとしても、「そういうものか」で終わってしまう。その少女のことも、すぐに皆の記憶から消えていった。 「彼」は誘い出された彼女を、自分もろとも屋上から突き落とした。叫び声を上げないように、わざわざ口を押さえつけて。 そしてまた平気な顔で、身体にべったりとついた血を洗い流すために、水飲み場に向かった。 そこにもやはり、「R」が置かれていた。 その少女の表情にもやはり「何故」という色はあった。だが無論フレーム越しの中里にはその意味が判らなかった。* 三年目は中里のクラスメートだった。 その男子生徒は前の年までは、ごくごく目立たない存在だった。しかしこの年、人を笑わせることにいきなり目覚めたらしく、口八丁手八丁で周囲を笑いの渦に巻き込むようになった。 一方、その頃の中里と言えば、急に身体が大きくなりだした頃だった。そしてまた、その成長する身体に内側からの痛みを感じていた頃だったので、笑うどころではなかった。 処置のせいもあっただろう。それは全身に一気に広がっていった。 外側からの痛みを二年間忘れていた彼は、その内側からの痛みに、どうしようもなく、耐え難い思いをしていた。 そんな中里の事情など、無論知らないその男子生徒は、ただいつも仏頂面をしている彼を、笑わせようとする努力を始めた。 彼はがんばった。とてもがんばった。持ちネタの全てを使って、何とかして、中里を笑わせようとした。 しかしその努力は無駄だった。 後になれば、中里もその理由が理解できた。彼はあくまで中里を「笑わせよう」としていただけだったのだ。 それはそれで、向上心に優れた、素晴らしいことだったかもしれない。だが相手を「笑わせよう」としても、「楽しませよう」と思わない「芸」に、内側の痛みに精一杯な中里は笑うことなど、できなかった。 あくまでそれは、クラスメートが、自身のためにやっていることに過ぎなくて―――そしてそういうものは、「何となく」判ってしまうものなのだ。 屋上の階段室の壁にその男子生徒の頭を打ち付けて殺した時、「彼」は月明かりの中、その染みが花の様だ、と言って笑った。 そしてやはり「何故」という顔で死んでいる身体の上に、こんな言葉を投げつけた。「オマエ言ったよな。コイツの居ない所で。『結局大したアタマも無いヤツにはボクの求める笑いなんて判んないんだよな』って」 くく、と「彼」はその時本当に面白そうに笑った。「オマエのつまんないネタより、このカベに残った模様の方がよっぽどオレには面白いよ」
2005.06.01
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がちゃがちゃ、と鍵を閉める音がする。 遠ざかる気配がする。窓の外は既に暗い。体育館の倉庫の中は、既に冷え切っていた。 だが中里にはそれは関係無い。 彼は気配が完全に体育館から消えてしまうのを伺うと、あらかじめ用意してきたロープで自分の手足を縛り始めた。 購入したホームセンターは何度も足を運んだ所だった。 だがそれはいつも、園芸部の、花壇の世話のためだった。種や苗、土や肥料、あの台風の日に持ち出したシートもそこで買ったものだ。 そんな行き慣れたところで、こんな目的のものを手に入れることになるとは。 早くしなくては。そろそろ自分の指が上手く動かなくなりつつあるのに気づく。完全に動かせなくなるその前に、できるだけ自分の身動きをとれない様にしなくては。 もっとも、自分で縛って結ぶのだから、「危険な自分」もいずれはそれを解いたり、引きちぎってしまうのは彼にも予想できた。しかも「彼」は、自分自身よりも、力も動きも強く、勢いも鋭いものがあるのだ。 そうでなくてはあんな「仕事」はできなかっただろう。 そう思いながらも、彼は自分の体を倉庫の柱にぐるぐると巻き付け、堅く堅く結び目を作る。足首と膝下にも同様に。そして最後に手首と指一本一本にロープを掛け、その上で、口でぐい、と結び目を作った。 売場で見つけたチェーンの方が良いか、とも思ったが、手錠まではそこには無かった。 時間があれば、もっと効果的なものを手に入れることができたかもしれない。だがそれでも、おそらく市販されている程度のものなら、「彼」はそれを引きちぎってしまうだろう。だったら同じことだ。 所詮、時間稼ぎだ。 せめて朝が来るまで。夜が明けるまで。 「彼」が動き出すのは、いつも夜中だった。 昼間なら、「彼」を止めてくれる者もいるのではないか。 中里はこんな期待しかできない自分を悔しく思う。 それが例えば「失敗だ」と思った「B」や「インスペクター」でもいい。いっそ警察でも機動隊でもいい。 いや、何なら、急所を的確に狙って、即死させてくれる一発の銃弾でいいのだ。 自分の生きられる年数がそう長くないことは、中里は知っている。そして「彼」も知っているだろう。 だが自分自身でそれを奪うことは、中里にはできなかった。 屋上から飛び降りても平気な程の体、痛みも暑さも寒さも感じない体。自分自身でとどめを刺す程の度胸は無かった。 …いやそれよりまず、そんなことは考えつかなかったのだ。「う」 頭の中が急にざわつきだす。痛みがある訳ではない。ただ、ざわざわとひっきりなしに、何かが蠢いている。そんな感覚が広がる。 頭を大きく振り、その感覚を振り払おうとする。 だがそれは無駄だった。いや、それより、その感覚が次第に薄れてくること自体が、実はもっと怖いのだ。 彼は自分で縛った両手が、意志に反してぴくぴく、と跳ね始めるのを、次第にフレーム越しの様に感じられる視界の中に見ていた。「…何だよコレは」 聞き覚えのある自分の声が、普段以上に凶暴な口調で耳に飛び込む。 ―――お前を動かさないためだよ。 そう言えば、そんな風に自分から「彼」に話しかけたのは、「R」と呼ばれる様になってから、初めてだった。 そんなことが自分にもできたんだ、と改めて中里は思った。 一方、こんな風に「R」が切れかかる時、「彼が」自分に話しかけてくることは、度々あった。「てめぇ、誰に向かって言ってんだよ!」 倉庫の中に、声が反響した。「判ってるだろ? てめぇが毎日毎日楽しく楽しく一年を過ごすために、オレが代わりに手を貸してやってるんじゃねぇか。お前はオレのせいにして、その薄呆けたドタマでただのらりくらりとずっと生きてただけじゃねえか」 中里はきん、と鋭い針で胸の奥を突かれた様が気がした。「判るだろ」 「彼」は鋭い口調で中里に突きつける。「今までオレがしてきたコトがさ」 ああ覚えてるさ。中里は内心つぶやく。ただずっと、思い出そうとしなかっただけだ。いや、思い出そうなんて意識もなかっただけなんだ。
2005.05.31
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やがて冬が訪れた。 クリスマスに、年越しに、正月に、彼女の母親は、「遠くて実家には帰れない」と口にする彼をアパートに呼んだ。 小柄だが豪快な母親は、中里を当初から気に入っていた様で、二人より三人のほうが楽しい、とばかりにケーキに年越しそばにおせちに雑煮に、と思い切りその時には腕を奮った。* そして冬の最後のイベントのバレンタイン・デイ。 正直、中里にしてみれば、「何だそれ」状態だった。「縁が無い」以前の問題だった。 なのにこの年は、と言えば、「彼女」が自分にこう尋ねるのだ。「ねえ哲ちゃん、バレンタインに、何が欲しい?」 その日の存在すら気付いていなかった彼にとって、何が欲しいもへったくれもない。 よし野はそんな彼の、硬直するくらい困った様子に気付いているのかいないのか、友達はどうしたこうした、と話を続ける。「ねえ哲ちゃん、聞いてるの?」「ああ…」 勢いに押されてはいるが、一応「聞いて」はいた。だが、やがて話の流れはおかしな方へと向かっていった。「でねえ、斜め向こうの関谷ちゃんは、こう言ったの『バレンタインには、あたしをあげるんだーっ』って」「は?」「だから、例えばあたしだったら」 そこまで言った時、さすがに彼女も思わず手で口を塞いだ。「えええええと」 さすがにその時には、察しの悪い中里も、その意味が判った。 硬直がさらに悪化して、彼は午後一の授業をついに欠席してしまったのだが、それも仕方あるまい。 ところが。 2月7日水曜日。 その日、靴箱で見つけた赤い小瓶に入っていたのは、六粒の「R」と「四年九組 羽根よし野」と書かれた紙だった。 彼は自分の目を疑った。何度も何度も、「R」の数を数えなおした。紙に書いてある字を読み直した。 嘘だろう、と思った。嘘であって欲しい、と思った。 つまりそれは。 彼はびんと紙をぐっ、と握りしめた。 逃がさなくては。 彼は思った。 自分から。危険になるはずの自分から、彼女を遠く、遠く、自分が追いつけない程の場所に。 そして中里は、よし野に旅行を提案したのだ。*「でもねえ」 女は手の中で、赤い小瓶を転がす。 うふふ、と甲高い、水晶の様な女の声が、放課後のLL教室の中に流れる。「あいつが考えることなんて、そんなものよねえ。結局コレが無くちゃ、いくら今日あのコを遠くにやったとこで、どうにもならないって言うのに…あ」 広げられた制服のブラウスの下、なめらかな白い肌の上に、男はねっとりと舌を這わせる。「全くお前は、アレが切れそうになると、淫乱になるな…それだけでもう、これか?」 んん、と長い髪が、教卓の下で揺れる。 男は一度スカートの下に潜り込ませた指に、透明な粘液を絡ませ、女の前にぐっと見せつける様に突き出した。「そういうセンセも、それをいいことに、あたしに好きなコトしてるじゃない…」「役得、と言うんだな」 低い声は、そうつぶやく。「こんな『仕事』をやってるんだからな」
2005.05.30
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「R」。 それはある薬の名称でもあるし、それを服用する者を指す場合もある。そしてまたそれは、日本の「教育大改革」の暗い一面を示すものでもある。 2032年の「教育大改革」。 それは表向き、能力主義を徹底したものだった。 能力や適性の早期発見のため、子供は小学校のうちに頻繁に選別され、振り分けられる。 そしてその六年間で適正な「振り分け」をされた子供は、最終的には卒業時の小学校卒業適性検査とそれまでの日常成績により、自動的に六年制の中等学校へ送り込まれる。 能力と適性が全ての基準であるので、遠方からはるばるやってくる生徒も少なくない。そんな生徒には寄宿舎も用意され、国はその生活を補助する。 二十年経った現在、改革は成功し、かつて社会を悩ませたドロップアウトや引きこもり、いじめや凶悪犯罪も無くなったと思われた――― しかしそれは、改革の表側の顔に過ぎなかった。 確かにそれまでの問題は無くなった。 一つの理由として、児童の頃からの度重なる振り分け移動の中で、「集団」より「個性」が重要になった―――ひらたく言えば、自分のことで精一杯で、他人をいじめている暇などない、という事も挙げられている。 しかしそれはあくまで表向きの理由である。 裏では、もっと単純でかつ効果的な方法が取られていたのだ。 すなわち、問題の根源を抹殺してしまうこと。 「ある種」の子供が居る。 いじめられる可能性を持つ子供、引きこもる可能性のある子供、凶悪犯罪を起こす可能性のある子供… 彼等は小学校を卒業する時に集められ、更に能力によって二つに分けられる。 それが「R」と「B」である。 その時のことを、中里はぼんやりとしか覚えていない。 小学校の卒業式の日に、証書と一緒にそっと渡された紙には、ある日時と場所が文部科学省の名で指定されていた。 だがたどり着いた場所に入った途端、彼は意識を失い――― 気付いた時には、小さな部屋に居た。 ぼんやりとした頭の彼に、姿を見せない「声」が幾つかのことを告げた。 自分は「間違うかもしれない」児童だから、ある処置をして、国がわざわざ「正しい」生徒にしてやったのだ、と。 そして「R」と呼ばれる政府の派遣員として、中等学校に通い、「間違った」生徒を消去するのだ、と。 断る自由はあった。ただし断った途端、「間違った」児童として消去する、と「声」は言った。 断ろうとは思ってもいなかった。 頭の芯がぼんやりとしていて、その後に言われたことも、ああそうですか、と感じるだけだった。元の名も家も既に無いことに対しても、その時の彼は、何とも思わなかった。 それからずっと、彼の頭の中心はぼんやりとしたままだった。 自分の身体が異様なまでの力を持ってしまったことも、寒さ暑さや痛みを上手く感じなくなってしまったことも、一日一回「R」と呼ばれる薬を口にしないと、自分が「危険な存在」になってしまうことも、「間違った」生徒をその手で撲殺してしまう時の気持ちも――― 全てが曖昧になっていた。 ―――花と、よし野に会うまでは。 「R」は彼の元に、毎週水曜日、小さな赤いガラスの小瓶に、一週間分を入れて届けられる。一日一粒、計七粒。 しかし、それが六粒と、一枚の小さな紙の時がある。 それはその週のうちに、その紙に書かれた「間違った」生徒を消去せよ、という指令なのだ。 彼はそれに逆らうことはできなかった。いや、逆らおうとも思っていなかった。 「R」を自分に届けているのは、「B」という、自分よりランクが上の要員だ、ということは中里も知っていた。そしてその「B」の上に「インスペクター」という、標的を決定する者が居ることも。 だが中里は、それ以上のことは、知らない。 知ろうとして来なかったのだ。** 「俺だって、よし野のこと、ぎゅっと抱きしめたいよ」「じゃあ」「だけど俺が本当に、そうしたら、本当に、お前なんか、つぶれてしまう。俺は、そういう奴なんだ」 すると彼女はにっこりと笑って言った。「大丈夫だよ」 そして土で汚れたままの手で、彼の顔をくるみ、軽く唇を合わせた。「お、おいお前」「ねえ哲ちゃん、痛かったらあたし、そう言うよ。そのために、言葉があるんだよ」 言葉が。「心を伝えるために、言葉があるんだよ。だから…」 やれやれ、と窓辺の自分に気付かない程の二人を、岩室は呆れながらも楽しそうに眺めていた。
2005.05.29
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「それはだなあ」 窓の向こうでしゃがみ込む相手の背に、岩室はため息をついた。「お前、本当ーっに気付いていないのか?」「はあ?」 中里はその時、ようやく顔を彼女の方に向けた。端から見たら思い切り凶悪な表情だった。そして構わずくっくっ、と笑う岩室に、こっちは真面目なんだよ、と彼は悪態をつく。「だって、気になるんだろ? 心臓が飛び跳ねたんだろ?」「ああ」 再び視線を花壇に戻して、中里はぼそっ、とつぶやいた。「お前、他の女生徒見ても、そうなるのか?」「いや…」 彼は簡単に首を振った。それは無い。一度も無い。「…お前なあ…それで判らなかったら、頭、鳥以下だぞ」「…って!」 今度は首だけではなく、立ち上がり、身体ごと彼は窓の方を向いた。そして土まみれの真っ黒な手をぐっ、と握りしめた。「じゃ中里よ、聞くが、お前は羽根のこと、嫌いか?」「嫌いじゃ―――」 嫌い。違う。ただ。「ただ俺は」 彼はそこで言いごもる。「ただ何だ?」「だから、俺は…あいつが、俺のこと、親父みたいだって言うから、何か…」「何か?」「何か、腹が立って」 ほー、と彼女は眼鏡のフレームからはみ出る程に、両眉を大きく上げた。「じゃあそれは何故だ?」「だって、…俺はあいつの親父じゃ、ない」「それじゃお前、一体、羽根の何でありたいんだ?」「俺は」 彼は言葉を止め、大きく目を見開いた。俺は。「…ふん、ようやく気付いたか。この鈍感。おーい」 そう言って、彼女はベッドのある場所のカーテンをさっと開いた。「あ…」 そこには顔を真っ赤にし、硬直しているよし野がそこには立っていた。「と、言う訳だ。はい、めでたくカップルの出来上がり」「岩室さん、あんたはーっ!!」「先生、だ」 そう言いながら、岩室はよし野を外の扉へと押し出した。* そして日々が過ぎ――― 慣れないことだらけのこのカップルではあったが、それでも地道に距離を縮めつつあった。 無論、その背後には、見ているとじれったくなってくる彼らを後押しする岩室の存在もあった。 堅苦しい呼び方も、名前と愛称に変わったし、内容はともかく、話をしよう、という意気込みが中里についたことは、非常に大きな発展と言えよう。 腕も組む様になった。もっとも、その時には、よし野がぶら下がっている様な格好になってしまうのは否めなかった。* そんな秋も深まったある日。 花壇の冬支度に精を出していた二人は、花壇の上にかがみ込んだまま、珍しい程会話が無かった。 何か授業であったのかな、と心配する程度には彼も気を回す様になっていた。 しかしそう納得しようとした時、彼女は不意に口を開いた。「ねえ」 何、といつもの調子で彼はそれに応える。「何で哲ちゃんって、あたしのこと、軽くしか抱きしめてくれないの?」 がたがた、と彼はその瞬間、立てかけていたフレームの金属棒を取り落とした。「何で、って」「だって」 彼女はじっと上目遣いで中里を見つめる。「クラスの友達が言ってたもん。そうしてくれるのがとっても気持ちいい、って」「気持ちいいって…いや、だけど俺、力、強いから」「強いから?」 どうやら一歩も引く気はなさそうである。 困った、と彼は本気で思った。彼もまた、彼女をぎゅっときつく抱きしめたくてならないのは山々である。無論それ以上だって。 だけど。 自分は「R」だから。 普段は意識することすら無いそのその言葉が、彼の中に突然重く、のし掛かってきた。
2005.05.28
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二階建てのアパートの階段を登り、「羽根」というプレートのある扉の呼び鈴を押した。するとすぐに扉は開いた。よし野に良く似た、小柄な女性が、通勤前なのだろう、白シャツに紺パンツ、軽いメイクをした姿で現れた。「えーと…」 中里が言いよどんでいると、彼女はすっ、と上から下まで、一瞬のうちに彼の全身に視線を走らせた。 そして数秒。母親は言った。「なるほどね…何してるんだい、お入りよ」 は、はい、と彼は思わずどもってしまった。 アパートは二人暮らしのせいもあってか、そう広くは無い。キッチン+2部屋、という所だった。「こっちに乗せてくれないかな」 キッチンに誘われ、食卓の椅子を示される。 ああそうか、と中里は思った。さすがにまだ彼女も自分もどろどろの格好のままなので、他の部屋に通せないのだ。「えーと、あんた、園芸部の部長だって?」「あ、中里です。…えーと、どうも、すみませんでした」 ふん? という風に彼女は片眉を上げた。「何を謝る訳?」「や、台風の夜に返しもせずに…」「それはいいさ。どーせこの子が、居るってだだこねたんだろ。まあ困ったと言えば、できれば今夜は帰りませんから、くらいの連絡は欲しかったってとこかね」 そう言って彼女は、あはは、と明るい声を立てて笑った。 だがちら、と見ると、テーブルの上には、吸い殻が山になった灰皿が置かれていた。 すいませんでした、と彼は改めて深々と頭を下げた。「いいよ。それよりあんた、腹減ってないかい?」「え」「どーせこの子の分も作っておこうと思うからさ、あんたも食っていけばいい」「や、俺は」「若いもんが遠慮するんじゃないよ。コーヒーにミルクや砂糖は?」「あ、両方…」 強い、と彼はため息をついた。「それじゃあ、行ってくるからね」 よろしく、と娘と自分を置いて、母親は仕事に出かけてしまった。食事に手をつけながら、彼はぼんやりとこの状況の意味を考えてみる。 だが確かに腹は減っていたようで、チーズオムレツを乗せたぶ厚いトーストは瞬くうちに彼の口へ、胃袋へと吸い込まれて行った。 そうか、俺腹減ってたんだ、と彼は今更の様に気付いた。 そして前方に同じ食事を用意されたよし野に目をやった。冷める前に起こすべきだろうか、どうするべきか… しかし、悩む時間は少なかった。母親が乗せていったタオルケットが落ちた拍子に、彼女は目を開いたのだ。「あ、…れ? 部長、おはよう…ございます…え?」「岩室さんが、送ってやれって言ったから」「あ、やだ! …ごめんなさい、ありがとう、です」 顔を赤らめ、いきなり彼女は頭を下げた。「いいよ。それよりお前のお母さんが、食事用意してったぞ」「あーっ! 食べなくちゃ食べなくちゃ」 そして慌ててコーヒーに手をつける。トーストに口を大きく開ける。豪快だな、と改めて彼は思った。母親似だ。 そう言えば、正面に座って食事をすることなど、今まで無かった。いつも保健室で岩室が間に入っていた。「…何ですか?」 手が止まっていたらしい。彼女は不意に顔を上げた。「や、ずいぶん豪快に食うなあ、と」「だってお腹、空いてたんです! でも、台風過ぎて、良かったですね! …あ」 そして今更の様に、彼女はぽん、と手を叩いた。「もしかして、部長、おぶって連れてきてくれました?」「あ? ああ。他にどうしようがあるんだよ」「やっぱり! 何か、すごく、気持ち良くて、それで目が覚ませなくて」 気持ちよくて? ふと彼はとくん、と心臓が音を立てて跳ねるのを感じた。「大きくて、暖かくて、しっかりして、ゆらゆらして、うん、本当に気持ちよくて」 とくんとくん、とまた跳ねる。何だ? と彼は思った。「…何かおとーさんにおぶわれてるみたいで」「親父さんに?」 その途端、心臓は平静に戻った。「会ったこと無いけど…こういう感じかなあ、って思って」「ふーん…」「だからですよ! 気持ち良くて、どうしても目がさめなくて」 うんうん、と彼は生返事をする。 そしてそのまま、朝食の続きをどんどん口に放り込み始めた。何となく、味が落ちた様な気がした。 いや違う。彼はふと気づいた。俺は今、美味いと感じていたんだ。 驚いた。とても、驚いた。 だがそれが何故なのか、彼にはまるで判らなかった。「ごちそうさま」 そう言って、彼は食器をシンクに置くと、飛び出す様に部屋を出た。 何か、無性に胸の中がもやもやとしていた。
2005.05.27
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しかし「適当に」と言ったのに、この少女はそれから毎日やってきた。家は学校から遠くないらしい。 仕方なし、彼はやってきた彼女に、水やりだの雑草取りだのをさせるのだが、のほほんと見える割に、こつこつと作業をするので、結果、案外はかどってしまうのだ。 そしてまた、その作業の間、彼女は何かととりとめも無い話を仕掛けてくる。中里はそれに曖昧なあいづちを返すだけだったが、彼女は平気で楽しそうに話を続けていた。 そして彼は、そんな彼女を見ながらつくづく思うのだ。「変な女だ」* そして8月の終わり頃。 台風がいきなりやってきた。それもかなり急激に育った、大型のものが直撃だった。 これはやばい、と中里は慌てて背の高い花々に添え木をしたり、周囲にフレームを立て、途中で買い込んだ厚手のシートを張るという作業に取り組んだ。 しかし、そもそも土壌が柔らかい花壇である。強い勢いに倒れてしまう可能性は非常に高い。今日一日つきっきりだな、と彼はその時思っていた。 Tシャツにハーフパンツの格好は、いつもと同じだったが、既にそれは完全に水浸しだった。 風雨がひどくなってくると、傘はもちろん、合羽もあまり役立たなくなる。そんな時はいっそ、濡れてしまう方が楽なのだ。気温は高いから風邪の心配も無いだろう。それに自分には、そんなことは関係無い。自分には――― そのとき。 黄色い蝶が、ひらひらと飛んできたのか、と彼は思った。「おい羽根! 羽根よし野! 何で来たんだ?!」「何でって…」 走ってきたのか、ぜいぜいと呼吸を乱しながら、彼女は膝に手をついて顔を上げた。「だって…ひどい雨風だったし…隣の植木が飛んでくの見ちゃったから…」 だからって。「危ないから、お前は戻ってろ!」「今から戻る方が危ないですよ! どうせ来ちゃったんだから、通り過ぎるまで、居ます!」 強情な女だ! 彼はち、と舌打ちをした。 雨も風も時間を増すごとに強くなる。弱い地盤なので、差し込んだ棒も、すぐによろけてしまう。ブロックの外側にしっかり打ち込んだはずのフレームも同様だ。いたちごっこだった。 耳には雨風の音がやかましい。だがそれにも増して、彼女の話しかける声もひどく大きく、必死なものになっていた。 当初はそれに中里もうるさいな、と思っていた。 だが次第に、その声が、内容が、必死なものになってきた。 そのとき彼は、唐突に思った。 こいつはもしかしたら怖いのかもしれない。 怖いから、何かと口にしていないと、気が紛れないのかもしれない。 だがさすがに、彼女の話のタネも尽きかけてきた。疲れてきたのだろう。 何か無いか、と彼も自分の中の少ないボキャブラリィを必死で検索し始めた。 しかし出て来たのは、こんな言葉だけだった。「…お前そう言えば、親父さんって…?」「おとーさん? あたしが生まれる前に死んじゃったんです」 聞くんじゃなかった、と彼は瞬時にして後悔した。だが彼女は堰を切った様に、その話を続けた。「交通事故だったんです。ね、良くある話でしょ。おかーさんも、そう言ってたし…結婚して、新婚で、あたしができたこと知って、すごく楽しい時期に、突然、だったし、苦しむ間も無かったから、まだいいほうた、っておかーさんは言うし…」 うん、と彼はうなづいた。うなづくしかできなかった。「だから…」* 台風一過とは良く言ったものだった。 翌朝は、西風こそやや強かったが、遠く突き抜ける様に青い空が一面に広がっていた。 かつかつ、と石畳を小走りに、岩室は保健室のほうへと向かった。「おやまあ」 彼女は苦笑する。 保健室前のコンクリートの段差の上では、疲れ果ててどろどろになった二人が熟睡中だった。 肩をすくめると、岩室は職員玄関の方へ回り、内側から保健室を開けた。そしてしばらくして、外側の扉をそっと開き、中里の頭をやや強くはたいた。「…何だあ? …あ、岩室さん」「よぉ、お目覚めかね。起きたんなら、とっととそこのお嬢さんをお家まで送ってってくれないかな」「俺、が?」と彼は自分自身を指した。「他に誰が居る」「だ、だって」「近いぞ。お前ならおぶって行けばすぐだ。電話しておいたからな。母上によろしく」 そして簡単な地図を一枚手渡すと、ぱたん、とやや優しく扉を閉めた。 仕方ない、と彼はそっと彼女を背に乗せた。確かに遠くなかった。
2005.05.26
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「けど、俺に寄って来る奴が居ると思うかよ、岩室さん」「先生、だ! だがなあ、私としても来年でこれが見納めというんじゃ、非常にもったいない」「あんたが見たいだけかよ!」「そうだ。悪いか」 そう堂々と言われてしまうと。中里は再び言葉に詰まった。 判ってはいる。判ってはいるのだ。 昨年の先輩達が一生懸命手入れをしている姿をそのたび彼は思い出す。とてもささやかな場所なのかもしれない。だが自分が学校に居る、残りたった一年半で終わらせてしまうには忍びなかった。 その時だった。「…ん?」 中里はとん、とコップをデスクの上に置いた。「どうした」「や、何か外から変な音が」「変な音?」 岩室は中里が指す方向を見た。「…いつも思うが、お前、地獄耳だな。おーい、どうした?」 あ、先生~、と女生徒の声が、中里の「地獄耳」にも飛び込んで来た。「陸上部で練習してたんですけど、日射病なんです~」 ショートカットの小柄な少女が、自分より背の高い相手の腕を肩に掛けて歩いて来た。「すいませんお願い…だっ!」 段差だ。中里は反射的に立ち上がり、腕を伸ばした。二人の少女は、彼の太い両腕の中に、あっさりと収まった。「あ、ありがとうございます…」「よーし中里、お前そのまま、二人とも運んでくれ。右のはこっち、左のはそこの丸椅子に乗せてくれ」「はいよ」 返事と共に、彼はそれぞれを指摘された場所へと乗せた。「…あーあ、こんな日に外で練習するんじゃないよ。ウチの学校の連中は、基本的に体育系の連中と違ってそう強くは無いんだからな」「そうなんですかあ?」 椅子に座らされたショートカットの少女は、驚いた様に目を見開いた。「そうだよ。あー…今日はこういう奴があと二、三名出てもおかしくは無いな…」 そう言って岩室はちら、と中里を見た。「何だよ」「後でアイス食わせてやるから、今日一日、お前、手伝っていけ」「アイス一つで、かよ」「ここに来た奴の人数分」「よし、引き受けた」 腕を振り上げる中里に、にやり、と岩室は笑った。そして丸椅子の少女に向き直った。「お前も疲れている様だな。カルピスどうだ?」「いいんですか?」「私がいいと言うんだ。いいんだよ」 それは理屈になっているんだろうか、と中里は思ったがあえて口には出さなかった。「でもこの後の練習はいいのか?」「…実はあたし、今日で辞めるんです」「まだ夏休みだろ、四年生」 岩室は呆れた様に腕を胸の前で組んだ。「えーと、今日、大会のお話とかあったんですけど、あれって結構費用とか、掛かるんですね。ユニフォームとかスパイクとか…聞いてるうちにこれはちょっとなあ、と思って…」「費用?」 何となく中里はその言葉に捕まった。「あ、うち、おかーさんと二人なんで」「ああ、なるほどなあ。それに家のこともしたいし、か?」 岩室の言葉に彼女はうなづいた。「始めは部活するのも止そうかな、とも思ったんですけど…」「それじゃあ園芸部はどうだ?」 ぶっ、と中里は再び口にし始めたカルピスを吹き出した。何だその話の飛躍は。「汚いなあ…ほれ、ティッシュ」「い、いわむろさん」「園芸ですか?」 中里の動揺も気にせず、少女は丸い目を大きくさせて問いかけた。「ほれ、そこの花壇、今こいつ一人でやってるんだ。…まあこいつ、見ての通り馬鹿力だから、一人でも構わないんだが、もしも鬼の霍乱でも起こして学校休んだりしたら、こいつはともかく、花が水もらえなくて可哀想だろ。その位でいいから」 何とも身も蓋も無い台詞である。反論してやりたい気持ちが中里にも無くは無いのだが、対抗できる程のボキャブラリイも彼にはあいにく無かった。 しかし相手は更なる彼の動揺も、全く気にせず、そうですね、とあっさりうなづいていた。「じゃあ入部だ。おい部長、いいだろう?」 良いも何も。自分抜きでさっさと決められてしまった現実に中里は思わずめまいがしていた。「悪いのか?」 岩室は重ねて問いかけた。「…良いです」「じゃあ決定だ。これでさ来年も園芸部は安泰だ」 ぱちぱち、と岩室は手を叩いた。「え?」「さっきから四年だ、と言ってるだろう、この子」 言われてみれば。体操服の下が短パンだったので、つい目を逸らしていたのだが、ゼッケンには「4年9組 羽根よし野」という名が大きく書かれていた。「部長さん」 お前のことだ、と岩室は面白そうに顔を歪めた。「いつから来ればいいんですか? 週に何回ですか?」「…適当に…」 そんな訳で、羽根よし野は園芸部の二人目の部員になった。
2005.05.25
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中里とよし野が出会ったのは去年の夏だった。 その頃の中里と言えば、先輩の去った後の園芸部を一人で守っている状態だった。 夏休みというのに彼は学校に毎日通い、麦藁帽にTシャツ、ハーフパンツで、鮮やかな夏の花々が咲き誇る三つの花壇の手入れに明け暮れていた。「おーい」 そしてそんな作業をしている彼の頭上から、聞き覚えのある声がした。ふっ、と彼は顔を上げ―――ぎょっとする。「手を挙げろ」 白衣を着た女が、彼の目の前に銃を突きつけていた。「な、何だよ、岩室さん、一体!」 中里は思わず叫んだ。無論、本物の訳は無い。ははは、と岩室は笑った。「先生、だ。そんな驚いたか?」「あったり前だろ!」 ちゃ、と彼女は窓越しにもう一度、構える真似をする。「いや、大学の先輩が、先日ようやくアフリカから帰ってきてなあ」「アフリカ…」「獣医をやっていてな」 見てみろ、と彼女はそれを中里に渡す。良く見ると、それは銃の形をしているだけで銃ではなかった。「先のほうに、何か取り付ける様に出来てるだろ」「ああ…」「大動物や、動きの速い動物用の麻酔銃なんだと」「へえ…」 中里は感心する。「で、でもあんたが持ってていいのかよ、学校の保健のセンセイが」 すると彼女は腰に手を当て、にやりと笑う。「ばーか、壊れてんだよ。撃てなくなってるんだ」「ああ…」 何となく、中里はほっとする。「そうでなきゃ、くれる訳が無いだろ」 確かにそれもそうだ、と彼は岩室に麻酔銃を返す。だがその一方で、どういう先輩だ、と彼は呆れてため息をつく。「それにしてもお前は、毎日毎日精が出るなあ。休憩して、カルピスでも呑んでいかんか?」「いいのかよ?」「綺麗な花を毎日見せてくれてる礼だ」 そうかい、と言って、彼は勧められるままに、保健室に入って行った。「最高気温が三十四度、だと。もうじき体温じゃないか」「へえ、そうなんだ」「何だお前、このくそ暑い中で作業していて、何とも感じないのか?」 岩室は眼鏡の下で眉を寄せた。―――感じない。と言っても通じないだろう。彼は曖昧な言葉で濁す。「毎日毎日大変だな」「や、慣れてるから…」 そう慣れている。それに中里はこの作業は嫌いではなかった。 偶然で入った様な部活だが、作業そのものは非常に具体的で判りやすく、勉強の類は嫌いな彼も、手で覚えていくことができた。 その作業にしても、当初は一人で黙々と取り組むことができる、という点が気に入っていただけだった。 だが、気持ちを入れて、丁寧に育てたものが、やがて綺麗に花を咲かせるということ。前の年の秋、それを目の当たりにした時、それはひどく不思議な気持ちを彼に起こさせた。 そんな彼の態度をみて、二人の先輩も、できるだけのことを「居るうちに」と教えてくれた。 卒業する時には、それまでの覚え書きのノートや、使っていた参考資料の本も置いていってくれた。 頼むよ、とそれらを手渡された時の彼等の笑顔に、中里は、それまで感じたことのない、くすぐったい気持ちを覚えたものだった。 ちりん、と風鈴が鳴った。 保健室にはクーラーは無い。あるものと言ったら、ひどくレトロな形の扇風機と風鈴だけだ。ただ、入り口の扉には藍染めの長のれんが掛けられ、大きく開け放たれている。おかげで風通しは良く、外よりはずいぶんと涼しく感じられる様である。 岩室は冷蔵庫を開け、昔から変わらない、水玉模様の紙に包まれた茶色のびんを取り出した。ちなみにその冷蔵庫の中には、薬品も同居している。 ほら、と手渡された大きめのコップは、既に汗をかいていた。口に含むと、爽やかな甘みが彼の口の中に広がった。「それにしても、良く咲いてるな」 デスクに寄りかかり、岩室は窓の外を眺めた。「何がある? ひまわり、ダリア。サルビア、西洋朝顔、おしろい花、トロロアオイ…」「誉めても何も出ないぜ」「いや、真面目に言ってるんだがな」 ずず、と彼はカルピスをすすった。「岩室さんの家には、花は無いのかよ?」「先生、だ。まあマンションだからなあ。ひまわりぐらいのものだ」「ひまわり?」 鉢植えに適していただろうか、と彼は思った。「うちのダンナが、プランタをベランダに置いててな、毎年咲かせてるんだ。結婚前からだから、よほど好きなんだろう」 へえ、と中里は少し感心した。「まあお互い忙しいからな、放っておいても花をつける、というのは正直ありがたい。だがここのとは少し種類が違うのかな? ウチのは何か、小学生が授業で蒔くような奴だが…ここのは小振りで、群れて、どっちかというと可愛い感じだな」「花壇にはこっちのほうが映える、って先輩達が卒業する時に俺に勧めてくれたんだ」 ふうん、と岩室は白衣のポケットに手を入れ、うなづいた。「何だよ、何か言いたそうだなあ」「お前さ、中里」 岩室の視線は真面目なものになった。「今年、園芸部に部員勧誘しなかったろ」 う、と彼は言葉に詰まった。「去年はお前一人が何とか入ったから、部も存続したが、この分だとまずいぞ」 そんなこと言われても。中里は困惑した。ただでさえ地味な園芸部なのに、自分一人しかいない、ときたら。
2005.05.24
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「保健室って、何処ですか?」 中里はそう言いながら、倒れた六年生を左の腕に抱え、右手には落ちていた大きな袋をひょい、と二つ同時に抱え上げた。ずっしりとした重みが感じられたが、彼にとっては、大した重さではなかった。 冷や汗をかきながらも、六年生は中里を保健室の前へと案内した。そして荷物もそこに下ろしてほしい、と頼んだ。「どうもありがとう」 両手の荷物を下ろした彼に、六年生は言った。「いや…そう言えばこの袋、結構重かったけれど、これは何ですか?」「土だよ」 そう言って、六年生は笑った。 一緒に歩くうちに、中里を怖がっていた気持ちもさすがにほぐれて来た様だった。「土?」「うん。僕らは、園芸部なんだ」 園芸部。そんなものが学校にあったとは、中里は知らなかった。 だが確かに保健室の前には、花壇らしいものがあった。ちょうどその時には、スイートピーが所狭しとつるを伸ばし、柔らかな色合いの花をつけて、絡み合っていた。「…でも、今年で廃部だろうけどね」 え、と彼はその時、思わず六年生に問い返していた。「去年も今年も、結局誰も入部希望者が居なかったんだ。残念だけど…」 その時、彼は何故自分がそこで入部する、と言ってしまったのか、後になってもよく判らなかった。 そして今でも、その理由は判らない。
2005.05.23
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「それ以上の彼の経歴、他の出版物については…」 そしてまた口にしながら、ボードに数種類の本の名前を上げて行く。まだ前の分を写し取っていない生徒達は、慌てる。スペースが無くなれば、彼は平気でどんどん前のものは消して行くのだ。「…以上の本が詳しい。関心がある者は読んでおくように」 三十名定員のクラスの半分が、冷や汗をかきながら、溝口のその言葉に無意識にうなづいている様だった。その大半は女子である。「…ねえねえ、読む?」 こそっ、とした声が所々で聞こえる。「一応…だいたい溝口サンのおすすめって当たりだもん。見ておいて損無いしさあ」「…ねえ、溝口センセ、今日あたり、チョコいっぱいもらってそうじゃない? ほら、怖いけど格好いいし」「えー…? やだなああたしも送ろうって思ったのに」「こらそこ! 原口、坂下!」 思わず声が大きくなっていたらしい。話していた女生徒達の間に、2センチばかりに欠けたチョークが飛んだ。びく、と二人の身体が固くなる。 すると溝口は口元だけでふっと笑い、眼鏡の下の色素の薄い瞳を光らせ、ゆっくりと生徒の机の間を回り始めた。「お前ら、授業中に喋っている余裕があるなら、今の章くらいは、軽く読めるだろうな」 溝口は片方の女子に近づき、指名する。だがまだその章は始めたばかりである。その上近くに溝口が居るときたら…さすがにしどろもどろになるのも仕方あるまい。 途中で止めさせると、斜め少し前に視線をやる。「話にならんな」 そして窓際の、真ん中あたりの女生徒に向かって声を掛けた。「…志野。志野毬絵」「はい」 透明感のある声が、教室中に響いた。ああまただ、というため息も同時に漏れる。しかしそれは仕方ないだろう、という納得とあきらめの混じった空気に変わる。 始めたばかりの章にも関わらず、志野毬絵という女生徒は、実に発音もなめらかに、すらすらと数段落を読みこなした。「…ふーん、いいわねえ、先生のお気に入りは…」「しーっ、また投げられると何だし、手紙にしよ手紙に。こないだ、岩室サンから、面白い手紙の折り方教わったんだ…」 少女達の囁きが今度は聞こえたのかどうなのか、しばらく歩き回っていた溝口は、志野の横に立つと、OK、と短く言った。はい、と答えて彼女は座る。 ふと中里はその時、彼女が何かを溝口の上着のポケットに入れるのが見えた様な気がした。手紙だろうか? チョコかもしれない。今日だし。 だがその疑問はすぐに頭の中に埋もれて行った。彼にはどうでもいいことだった。 志野毬絵は成績も良く、部活動にも熱心で、教員全体のおぼえも良い。自分とは別世界の人間だ、と中里は考えていた。 中里は勉強には全く縁が無い。 かと言って、その巨体と力を生かして運動部に入って活躍するということも無い。 後期部に入ったばかりの頃は、各部からのスカウトもそれなりにあちこちから来た。だがそれをことごとく断ったのは彼自身だった。 理由は「身体が弱いから」。 さすがにその時は、皆から呆れられた。それだけの体格と筋肉を持っていて何が「身体が弱い」だ、と。 だが部活動は生徒の自主性に任せられ、所属するもしないも自由なので、それ以上の無理強いは誰も彼にはさせられなかった。 そんな彼が、園芸部に入ったのは偶然だった。 勧誘が何処からも来なくなった頃、彼は正直、暇を持て余していた。 運動部をかわしていた頃はまだ良かった。逃げまくっていることで、時間を潰すことができた。 しかしそれも無くなると、勉強熱心ではない彼は、学校では全くの暇になってしまう。 友人と遊べばいいではないか、と言っても、その巨体とこわもての外見が、知らず知らずのうちに、彼から人を遠ざけてしまっていた。 ただ、前期部はそれでもまだ、自由裁量の時間が少なかった。勉強が嫌いだ、と言っても、毎日たくさん出る宿題はこなさなくてはならなかったし、部活動も必修だった。 彼にしてみれば、それだけで手一杯で、時間も潰すことができた、と言ってもいい。 ところが後期部に来てみると。 いきなり「授業の邪魔をしなければ後は個人の自由に任せる」という言葉が急に重くのし掛かってきた。宿題も無い。ただ、自分で予習復習をしない限り、どんどん授業から置いていかれる、それだけのことだ。 だが彼は、嫌いな勉強はとことん無視した。結果、窓際の「指定席」を用意され、クラスの「お客様」にされてしまったのだ。 そんなある日。 ふらふら、と彼は校舎の中庭を歩いていた。 やることも無い。寄宿舎に帰って、食事の時間まで寝てやろう、と思いながら、角を曲がった時だった。 あれ。 彼は思わず下を向いた。足元に、小柄な男子生徒が転がっていた。そういえば、何か腹の当たりに当たった気がした。 大きな袋が二つ、その場に投げ出されていた。ぶつかったショックで放り出したのだろう。 彼には「気がした」程度かもしれないが、相手には大きなダメージだったらしい。「だ、だいじょうぶですか?」 慌てて中里は相手に駆け寄った。ネクタイの色からすると、どうやら六年生のようだ。打ち所が悪かったらしく、気を失っていた。「おいどうしたんだ、一体」 その時、やはり重そうな袋を二つと、素焼きの鉢を三つ程肩に掛け、六年生がもう一人、よろよろと歩いて来た。「あ、先輩、何かこの人が、俺にぶつかって」 ひっ、と相手は一瞬退く。「えー…と」 この六年生も、中里の外見に負けている様だった。どうやら自分が動かないといけないらしい、と彼は結論を出した。「保健室って、何処ですか?」
2005.05.22
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「人間ってのはなあ、できる範囲で努力するのが大切なんだよ。例えばお前にこんなのが作れるか? 中里」 そう言って岩室は、机の上に置かれていた、折り紙のくす玉を放った。「うっわー、細かい~」 よし野はそれを手に取ると、まじまじと見つめる。それは、小さな折り紙のパーツを二十三十と組み合わせて丸くしたものだった。「うちのダンナはそういうのが実に得意でな」「何やってる人なわけ?」「ま、同業と言えば同業だな。隣の理系中等で化学を教えてる。化合物の組成式とかをこうゆう組み折り紙で作るのが得意なんだ」「へえ…」 中里は素直に感心する。「ま、水分子や結晶格子くらいならともかく、タバコモザイク・ウイルスやDNA模型なんか見せられた時にはさすがに私も、参った、と思ったがな」 はあ、と二人は言うしかなかった。何せ二人とも、その類のことには滅法弱い。 ここは文系の普通科中等学校である。芸術や体育、技術など、格別な才能がある訳でもなく、その上で文系の適性がある、もしくは理系の適性は無い、と小学校卒業適性検査で判断された者が、前期三年、後期三年の計六年間通う義務教育の学校なのだ。「ま、それにしても二人とも、そんなでかい声で旅行の話なんぞするもんじゃないぞ。一応ここは、職員達の管理棟の前なんだからな」 はあい、と二人はうなづくしかなかった。「おおそうだ」 ちょいちょい、と岩室はよし野を手招きし、何か小さなものを手渡した。そしてこそっ、と耳打ちする。途端、よし野の頬がぽっと赤くなった。 何を言ってるんだろう、と中里は首を傾げる。「まあ、健闘を祈るよ、二人とも」 ははは、と笑いながら岩室は片手を挙げて、窓際から引っ込んだ。 彼等はまたその場にしゃがみ込む。すると不意に、よし野はくすくすと笑い出した。「…何笑ってんだよ」「だって、いっつも岩室先生には見られちゃうなあ、って思って。ほら、哲ちゃんとはじめてキスした時とか」 中里は立てた膝に四角い顎を乗せ、何も言わず、不機嫌そうに唇を突き出す。「でもあたし、あの先生、好きだなあ」「お前、嫌いな奴なんて、この世に居ないんじゃないか?」「えー? そんなことないよぉ」 だって。中里は内心思う。自分の様な奴に、これだけ楽しそうに、毎日毎日飽きずに、大好きだと言ってくれているのなら。「違うよ。だって、やっぱり時々、あたし、お父さんをはねた、っていう運転手さんとか、…すごく嫌いになるもん」 彼女はそう言って、顔をしかめる。 だけどそこで「さん」づけしているじゃないか。「でもそうゆう時、思っちゃうんだよ。その時そのひとにも急ぐ事情があったんだって。あたし聞いたもん。だから仕方ないよ。おかーさんだって、仕方ない、って言ったし。でも時々、…嫌いになるけど」 それは当然だろ、と中里は思う。嫌いというより、憎む位で当然だ。 だが彼は、口にはしなかった。ただ膝を抱える彼女の頭に大きな手を乗せ、くしゃくしゃ、とかき回す。 するととん、と彼女は右側の中里に体重を掛けてくる。 彼女が触れている部分から、じんわりと暖かさが染みてくる様な気がする。―――そんなはずは、無いのに。 小さくて、可愛くて、…そして強く優しい存在。 守れるものなら、何でもしてやりたい、と思うくらいの。 キーン…コーン… どのくらいそうしていただろう。二人の耳に、午後の予鈴が鳴る音が届いた。「…あ、しまった! 今から体育実技!」 よし野は慌てて飛び上がる。「じゃあ哲ちゃん、またね!」「おい、よし野」 そのまま教室棟へと駆け出そうとする彼女に、彼は声を掛ける。なあに、と駆け足のまま、彼女は振り向いた。「俺は用事があるから、お前と同じヤツには乗れないかもしれないけど、必ずその時間に、先に行ってろよ」 料金も先払いしてるんだし、と彼は付け足した。 判った、と彼女は手を振り、極上の笑みが彼に向けられた。 中里もまた、手を振りながら笑いかける。 だがやがてその表情が厳しいものになる。それは羽根よし野には、彼が決して見せたことの無いものだった。 行ってろよ、よし野。絶対。 遠くへ。できるだけ遠くへ。 気付かれない様に、彼女をこの町から、自分から遠ざけなければならない。 そうしなくては。 歯ぎしりしながら彼は思う。 そうしなくては、彼女は殺されるのだから―――この自分に。*「…何だまたお前か」 低い声が、五年八組の教室に響く。既に授業は始まっていた。「…遅れて申し訳ございません、溝口先生」 そして違う種類の低い声が響く。後ろの扉を開けた中里は、軽く頭を下げた。彼にしてはこの上ない位に言葉は丁重だったが、心が入っていないことは誰が聞いても丸判りだった。「まあいい。座れ」 いつものことである。授業を露骨に妨害しない限り、注意されることも無い。 中里は一番後ろの窓際の席に座った。そこが一年前からの彼の指定席だった。 授業は英語のリーディング/ライティングの時間だった。担当教師の溝口は、なめらかな口調と、よどみない流れで授業を進めて行く。「…と言うことで、この章の作者に関しての、俺からの説明は以上だ」 とん、と溝口はホワイトボードを叩く。 ボードにはこの日入ったばかりの新章の出典に関して、細かい説明が書かれている。以上だ、とこの教師が言ったら本当に「以上」なのである。皆必死でノートを取る。彼は二度説明をするのが大嫌いなのだ。
2005.05.21
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一方、中里は風上である西側に、無言で陣取った。「あ、ホント、あったかーい」「お前、スカート、大丈夫か?」「だいじょーぶ。前座った時、白いのつかなかったし」 いやそうじゃなくて。彼の無言の抗議など関せず、彼女は無造作に足を投げ出す。そう長くないスカートからは、膝小僧が丸出しになる。「…で、よし野、お前どうしたんだよ、わざわざ昼休みに。いつも何かと一緒に居る『オトモダチ』の方はいいのか?」「だって今日だよ!?」 彼女は目を丸くして、即座に答える。「14日だよ! 皆今日はチョコ持って、あっちこっちに行ってるもん」 それもそうだ、と彼も思う。何せ今日は2月14日。世間的にもこの学校内的にも、バレンタイン・デーなのだ。「で、お前も俺にチョコ?」「…要らないって言ったの、哲ちゃんだよ…」「…あ、そっか」 いかんいかん、と彼は頭を振る。記憶力が低下している。まずい。「ああ…そうそう、俺が言ったんだよな」「そーだよ。それに、…本当にいいのかなあ、って思って」 彼女の声が弱くなる。中里は口をへの字に曲げて、よし野の顔をじっとのぞき込んだ。「本当にいいのかなあ、って何がだよ」 彼女は顔を上げる。そしてやや怒った様な、それでいて何処か照れた様な目で中里をじっと見据えた。「…だから、あたしが何か哲ちゃんにあげるのが普通じゃない。なのに」「おい…」「そりゃあ、チョコじゃなくて、あたしを…って言い出したのはあたしかもしれないけど」「…ちょっと待て」 きょろきょろ、と辺りを見て中里はよし野の口を大きな手で塞ぎ、もう片方の手で、上を指した。 あ、と彼女も目を大きく開けた。 保健室の窓が大きく開いている。おそらくあの保健室の主は、昼休みにも一斉に換気をするのだろう。 よし、とばかりに中里はぱっ、と手を離した。「…でも本当に、…」 今度は小さな声で、囁く。「いいんだよ! ほら、俺、寄宿舎の他の連中の様に、シュミとか遊びとか何も普段してねえから、仕送りだって結構使わないし、余ってるし…だから、旅行ったって、近場だし、大したことじゃねえって、あー…」 しかしまだ彼女の表情は、何か言いたげだった。 彼は節くれ立った両手の指で、伸ばしっぱなしの自分の髪をくしゃくしゃにかきむしる。 ああまるで理由らしい理由になっていない。彼は思う。「そうじゃなくてよ、…俺がしたいんだ。それじゃ、いけねえのか?」「哲ちゃんがしたい、って…」 そこまで言って、よし野の顔はかあっ、と赤くなる。「や、あの、そういうことじゃなくて」「違うの?」「いや、違わなくて…したいけど…」 本当にどう言えばいいんだろう。彼は本気で困っていた。 だから、また注意力が散漫になっていたに違いない。「…おいおいお前等、いつも私も言ってるだろ、往来で痴話喧嘩は止せ」 不意に頭の上から声が掛かる。「…岩室さん…おいあんた、いつから見てたんだよ!」「先生、だ! 今さっきからだが。いやあ、若いって、本当にいいよなあ。はははは」 と、二十八歳・既婚の保健室の主は眼鏡の奥の目を楽しそうに細める。「お前、ほんっとうに一つのことしてると、注意力もへったくれもないよな、中里」 中里は立ち上がると、露骨に眉を寄せた。「あんまり言わないでくれよ。俺だって気にしてるんだ」「へいへい。ところで旅行の相談か? 週末なら大歓迎だが」 うっ、と中里は詰まった。「少子化極まれりの、かの半世紀前の時代より、そういった関係は老若男女、奨励されてる。未婚の母も大いにOK。国の保証もある。が、平日はいかんよな、平日は」 う、と中里は思わず退く。「お前ら明日の授業にちゃんと間に合う様に帰って来れるのか? ちゃんと今日の外泊届けは寄宿舎に出したのか? 中里は」 くくく、と岩室は笑った。その拍子に、後ろで一つにくくった長い髪が揺れた。 中里には返す言葉が無かった。あいにく今日は水曜日なのだ。「…でもまあ、他の時ならともかく、今日あたりにそれを言うのも野暮なもの、か。下手に口出すと、馬に蹴られそうだしな。やめやめ」 ひらひら、と岩室は手を振った。「岩室さん…」「先生、だ! ちゃんとそこ位はきっちりしろ、中里」「悪かったな! こっちはいつも、ちゃんと先生って呼んでるつもりなんだよ!」「ほう、お前の口は、お前の思う通りにはならないのか」 う、と中里は詰まる。 そうなのだ。この保健室の主の「鋼鉄の女」は、彼がどんな言葉遣いをしようが気にしないが、そこだけは徹底させていた。「…そういう岩室さんも、チョコやプレゼント、誰かにあげたりしないのか? それとももうそんなものする歳じゃねえ?」「先生、だ!」 そう言って彼女は中里の頭に拳固を一つ加える。「ふん、私とてチョコくらい買うぞ。あいにく料理の適性は全く! 無いから、手作りなど、きっぱり断念している!」 ふん、と岩室は腰に手を当て、天を仰ぐ。その拍子に、意外と大きな胸が白衣の上に形を現した。「そのかわり、私は完璧なデータリサーチをしてだな、一番美味そうな奴をうちのダンナにはやるのだ。そして適当に高価そうに見える安い奴は職員室の連中に義理で…」「ダンナさん?」 よし野は意外そうな声を立てる。「本命中の本命じゃないか。当然だろう」 それはそうだけど。あまりにも当然なので中里も面食らった。
2005.05.20
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ちっ、と彼は靴箱を開けて舌打ちをした。 上段には、小さな、赤いガラスの小瓶が置かれている。今朝彼が置いたそのままに。 中身は無い。やはり、無い。 ぎ、と彼は歯ぎしりし、空の小瓶を強く握りしめる。 何とかしなければ。彼は内心つぶやく。 いや、自分にできる手は打ってある。自分程度の頭で、考えうる限りは。 頭のいい相手には、通じないかもしれない。 でも通じるかもしれない。 何もしないより、よほどマシだ、と彼は思う。 だがそれが通用しない奴が、確実に、一人だけ居る。 …自分自身だけは。 2052年2月14日。 某極東の小国では、全国的にバレンタイン・デイと呼ばれる日だった。*「哲ちゃーん!」 急に背後から抱きつかれ、中里哲夫はわっ、と手にしていた大きなブリキのジョウロに頭をぶつける。 わわわわ、とバランスを崩し、彼はしゃがみ込んでいた花壇のブロックの上から転げ落ちた。「だ、だいじょうぶ?」 抱きついた少女は、すんでの所で手を離したので無事だった。「よし野、お前、急に抱きつくな、っていつも言ってるだろ! もしこれで、やっと芽を出しかけたこいつらに、俺が倒れかかったりしたらどうすんだ!」 割れ鐘の様な大声が、よし野と呼ばれた少女の頭に浴びせかけられる。 まず普通の生徒なら、その声、いやその声を発した本人を前にしただけで、萎縮してしまうだろう。やや縦に大きな骨張った顔、大きな口、濃い眉、そして何と言っても、相手をにらみつける、ぎょろりとしたつり上がった目。それが顔を真っ赤にして、目の前で自分を怒鳴りつけていたとしたら。まず普通の生徒なら自分の明日のために、走って逃げるだろう。 だがこの少女は決して臆さない。自分より縦に頭二つ、横なら倍大きい男に向かい、太さ半分以下の眉を大きく寄せて、声を張り上げる。「そりゃあ、哲ちゃんが転んだら、この子達、全滅だろうけど」 そして結構身も蓋もないことを口にする。「けどあたし、哲ちゃんのこと、もうさっきから、何度も呼んでたよ?」「え?」 彼の逆八の字だった眉が、一瞬のうちにひっくり返る。「何度も何度も呼んだよ? だけど哲ちゃん、全然気付かないんだもの。だから仕方ないじゃない。お話があるのに」 彼女はそう言って大きくふくれる。 そう言われてみれば。中里も思う。何か後ろで声がしていた様な気がする。「だーかーらー」 よし野のふくれっ面は直らない。彼は仕方ねえなあ、と両手を上げた。「…判った、俺が悪かった」「わ、素直ぉ」 途端に、眉がまたひっくり返る。「誰のせいだと思ってるんだぁっ! …ああ、作業が途中になっちまった」 彼はジョウロを持って、再び水飲み場へと向かう。「あー、待ってよぉ」 途中、校舎と校舎の間を通る時に、冷たい風が大きく吹き抜け、彼女の短めの髪をくしゃくしゃに乱した。うわぁっ、と言いながら、よし野は彼の陰に回る。「お前、俺のこといいカベだと思ってないか…?」「だって哲ちゃんと居ると、暖かいんだもん」 水を汲み、再びカベになった彼は、もう文句を言わなかった。 さあっ、と黒い土の上に水が掛けられる。よし野も屈み込んで、その様子を見守る。「おい、あまり近寄るなよ、水が飛ぶから」 だがそんな彼の注意もお構い無しに、彼女は地面に顔を近づける。「すごいね。もうずいぶん、色んなものの芽が出てきたんだあ。わ、つやつやしてる」「ああ。チューリップ、ヒヤシンス、パンジー、キンギョソウ、スイートピー…」「哲ちゃんそう言えば、秋頃、色々植えてたよね。ねえ、一番咲くのが早いのはどれ?」 好奇心いっぱいの目で、彼女は中里を見上げる。「さあ…どれだったかな。パンジーはほれそこ」 ほら、と中里は地面を指さす。鮮やかな黄色や青紫の花が、風に揺れていた。「ホント、もうじき春だね。あ、でももう暦の上では春なんだって」「ふうん?」 がらん、とジョウロやスコップを一つにまとめながら彼はあいづちを打つ。「でもそんなこと言っても、寒いよね、まだすごーく」「ま、そーだよな…あ、よし野、寒くないか?」 今更の様に彼は尋ねる。「寒いに決まってるじゃない!」 それはそうだ、と彼も思う。ブラウスにベストに上着の三点セットだけでは、さすがにまだ寒いはずだ。おまけに黒いソックスも長いとは言え、その上の膝は生足なのだ。 彼等が住むこの地方は、太平洋側に位置して、冬でも雪があまり降らない。晴れの日が続き、日差しにだけは恵まれている。 だがその代わりの様に、風は強い。体感温度の低さは、他の地方と匹敵する厳しいものもある。「だーかーらー、さっきから、あたし哲ちゃんにくっつこうくっつこうと思ってたのに…哲ちゃん体温高いし、何かあまり寒くなさそうだし」「…はいはいはい、俺が悪かった悪かった」 確かに間違っていない。中里は体温が高い方だったし、寒さも感じない。 あちらを向きこちらを向き、そして保健室の窓をちら、とにらんだ上で、彼はよし野を手招きした。「ここならあまり、風が来ないぜ」 窓のちょうど下、側溝の手前に彼は彼女を持ち上げ、ひょい、と乗せた。ちょうどそこは、天気の良い時の日向ぼっこにはちょうど良い場所なのだ。
2005.05.19
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その朝、花壇のチューリップが一斉に花を開いていた。「岩室先生、郵便が来てますよ」 開け放した保健室の扉を軽くノックして、事務の女性が入って来る。「どうもありがとうございます」「あら…窓も全開で…まだ寒くないですか?」 底冷えしますよ、と事務の女性は言う。「全然。気持ちいいくらいですよ」 岩室は落ちてくる前髪をうるさそうに耳に掛けながら、幾つかの郵便物を受け取る。 医療品のダイレクトメール、学会の通知、時々買っている通販のカタログ… 今日は少し多いな。 下を向くと落ちてきそうな眼鏡を直しながら、彼女は思う。 と、その中から薄い一枚がひらり、と落ちた。 何だろう、と彼女は床に落ちたそれを拾い上げる。味も素っ気も無い茶封筒。差出人の名前は無い。 誰だろう? 開けると、そこからは手紙が三枚、入っていた。 一枚目には太めの罫線をはみ出す程の、大きくて、濃くて、角張って…下手な字。 彼女は、その字に見覚えがあった。 お久しぶりです。 あの時は、ありがとうございました。 俺達は、何とか生きてます。 できれば、花壇の世話を時々お願いします。 それでは、お体をお大事に。 あああいつだ、と彼女は顔をほころばせる。それだけかい、お前。 どうやら何度も何度も書き直したらしい。消した跡があちこちにある。あいつらしいな、と彼女は思う。 繰り返し繰り返し書き直した結果―――これ以上のことは書く必要は無い、と思ったのだろう。 次に彼女は二枚目を見て、大笑いした。 一枚目の素っ気なさとは反対に、二枚目にはぎっしりと細かく、花壇の手入れ法が書かれていた。 どうしても大きくなりがちな字を、どんどん細かくし、所によっては仕切りをしたり、図まで丁寧に書き込んであるその手紙を見て、岩室は苦笑する。 保健室の前には、コンクリートブロックで仕切られた三面の花壇がある。 そこには、去年の秋に植えた球根が、今の時期、一斉に花を咲かせている。色とりどりのチューリップをメインにしているせいか、その一角は誰の目から見ても、明るく、鮮やかだ。 だがそれを手入れしていた者は、もうこの学校にはいない。 政府の「教育大改革」からちょうど二十年目の春。 2052年4月。彼等はもう戻って来ない。 そして三枚目は、それまでの二枚とは違った、子供っぽい字で書かれていた。 あんたが、わらっていると、オレは、うれしい。 それを見た彼女は、鼻の奥がつん、と痛むのを感じた。
2005.05.18
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