炬燵蜜柑倶楽部。

炬燵蜜柑倶楽部。

2005.06.17
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カテゴリ: 調べもの
「…よし野?」
 彼は鋭く顔を上げた。
「何処だーっ!?」
 最初に携帯の音とカーナビで確認した方向へ、彼はひたすら走っていた。
 崖を駆け上がり、木々の細い枝をなぎ倒し、時には太い枝にぶつかって自分の手や頬に傷を作ることも厭わない。
 靴は脱ぎ捨てた。よし野同様、滑りやすいタイプだったから、それならいっそ裸足の方がましだった。
 冷たさも、痛みも、彼には関わりがないのだ。
 そして勢いを緩めることなく走っていた時、不意に。

 聞こえたのだ。彼女の声が。

「よし野!」
 彼は大声を上げた。いつも、われ鐘の様な声だ、と言われている、あの声を精一杯、彼女に届くように、何度も何度も、張り上げた。
 聞こえたら、答えてくれ、と。
 そして再び。
「…哲ちゃーんっ!!!」
 その声の方向に、彼の身体は反射的に動いていた。

「な…」
 ざざざ、と細いが高い木の一本が、目の前でゆっくりと倒れて行くのを見て、よし野にのしかかっていた毬絵の目と手が止まる。
「う!」
 次の瞬間、彼女の身体は、近くの太い木に、思い切り叩きつけられていた。
 持っていた包丁は跳ね上がり、溝口の頭すれすれに飛んだ。
「うわっ!」
 彼は思わず叫んで跳ね退いた。
 だが、それでもインスペクターを名乗るだけある。「使い捨て」の「R」が指令する側の自分に反抗するなど許せない。
 溝口は包丁を拾い上げると、よし野に近づこうとする中里の背中に斬りつける。手応えが、確かにあった。
 だが。
「効かねえよ」
 中里は、ぼそりと言い放ち、ゆっくりと振り返る。
「痛くもかゆくもねえよ」
 うわあぁ、と叫びながら、溝口は何度も何度も包丁を振り回した。
 背に、肩に、腕に、胸に、腹に、首筋に、縦に、横に、斜めに。
 だが中里の表情は変わらない。避ける様子も無い。
「くそぉ!!」
 鎖骨の下のあたりを狙って、思い切り溝口は上から包丁を突き立てた。
「…だから、効かないって言ってるだろうが…」
 中里は突き立てられた包丁をぐっと引き抜き、軽く投げた。
 え、と溝口は自分の髪が数本、舞い落ちるのを感じた。
 動きは、見えなかった。
 しかしおそるおそる振り返ると、背後の木に深く突き刺さる包丁が彼の視界に飛び込んで来る。
「そういうふうに、あんた等が、俺の身体を勝手に変えたんだろうが」
 うわぁぁぁぁ、と溝口は喉の奥から叫び声を上げた。
 数歩後ずさりし、やがて彼は全力で駆けだした。
 叫び声がいつまでも続いていた。それはまるで、彼自身の意志では止まらないかの様だった。
 追うべきか、と中里は一瞬迷った。だが。
「う…」
 声が、彼を引き止める。
 よし野、と呼んで彼は駆け寄った。
 押さえ込まれていたよし野の身体は、既に自由になっているはずなのに、起きあがろうとしていない。
 慌てて抱き寄せると、彼女は左手で肩を押さえ、弱々しくつぶやく。
「よかったあ…哲ちゃん、やっぱり来てくれたんだあ…」
「おい、よし野!」
 指のすき間から、だらだらと血が流れていた。彼は木に刺さっている包丁にちらと視線を投げる。そうか。
 肩のそれは、明らかに刺されたものだ。
 あの女か。
 彼は自分に放り投げられ、うう、とうめいている女の方へと近づく。
「…なるほど…お前が…『B』だった訳かよ、優等生」
「…ふん」
 それでも透明な声は、「R」に対するプライドだろうか、その調子を崩すことはない。
「同じクラスで、全然気付かなかったあんたが馬鹿なんじゃない。全く計画が全部狂っちゃ…」
 それ以上の言葉を彼女が言うことはできなかった。彼はそのまま、大きな手で彼女の顔を鷲掴みにすると、勢い良く木に叩き付けた。
 要領は、手が知っていた。「彼」が知っていた。
 木の幹に、血ともそれともつかないものが飛び散り、垂れた。

 ざまあみろ。

 その時彼は、そう思った自分に驚いた。

 何だ。
 何だ、危険なのは、俺も、じゃないか。
 「彼」だけじゃない。
 俺も、「彼」も、結局は同じなんだ。





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最終更新日  2005.06.17 06:36:11
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