うきよの月 0
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からーん、と午後の始業の鐘が鳴る。「フラウ・イェッケル、ちょっと買い物に出てきます」 寮監に一言告げる。あの後あたしは、着替えを口実にあの場から抜け出していた。「あらルイーゼロッテさん、聞いたわ、あなた留学するんですって!?」「ええ何か急に。それで今からその買い物に出ようと思うんですが。あ、制服の洗濯、お願いしたいんですが」「じゃあいつもの籠に入れておいてね。夕方までには帰ってくるの?」「そのつもりですが」 あたしはにっこりと笑った。嘘は言ってません。帰って来るつもりですが、帰るとは言ってません。 荷物は最低限。できるだけ自然に「買い物」に出る様に。一番近くのキャッシュカウンターで口座に入っている有り金を下ろし、あたしはそのまま、駅へと向かった。 自動券売機でハルシャー行きの切符を買った。駅の売店で、時刻表を買った。―――アルク全土仕様の。 そしてあたしは「ハルシャー」では降りなかった。
2005.06.29
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「ほー」 …三十分は経っていない、と思う。 まあできるものなんて、大したものではない。ぶっちゃけて言えば、野菜とベーコンのスープに、溶き卵を加えたものを作っただけだ。 二人分より少し多めになる様に、水を調整し、スープキューブなんてしゃれたものは無いので、ソイ・ソースや塩と、ベーコン自体の旨みで調整した。一応味見もした。悪くは無いと思う。悪いなんて言ったら殴ってやる。調味料をキープしておかない奴が悪いんだ。 ソースパン一杯にできたそれをとりあえずとろ火にかけておく。 その一方で、冷凍ピザを温め、薄いものだったので、わざと半分に折って、でかい皿に盛りつけた。「…何か、いい匂いじゃねえか」 男はオレの背後に来ると、スープの様子をのぞきこんだ。「もうできる。何処に置けばいいんだよ。この部屋、テーブルも無えじゃないか」「あー…必要なかったしな」 男はそう言いながら、きょろきょろと辺りを見渡した。「お、そう言えばこんなところにあったか」 大きな手が、部屋の隅に転がっていたブリキの大きな箱を、ソファの前にどん、と置いた。 そしてその上に、おそらくは絵の台に使うのだろう、厚手の板を乗せた。「どーだ、これで一応テーブルだろ」 まあいい。オレはともかくソースパンの火を止め、ピザの皿を奴に渡した。「スープ皿って、何処?」「…何処だったかなあ…」 はいはい、探せってことね。 作りつけの戸棚のあちこちを開けてみる。何でこんなに紙ばっかり入っているのか判らないが、ともかく皿だ皿。…趣味悪い柄の、サイズも色も違う奴をかろうじて探しだし、オレはスープを注いだ。その調子でスプーンも探し出す。「ほー」 並べられた皿に、奴は目を丸くした。「いやあ、何か久しぶりだぜ。ピザはともかく、こうゆう熱いスープとかよ」「…何で、ちゃんとキッチンも冷蔵庫もあるのに」「忙しくてなあ」 何処がだ、とオレは内心悪態をつく。「…そう言えば、あんた、画家なんだ…」 正解、ははは、と男は笑った。「ただし、売れない画家、だがな」「それは判る」 おい、と男はぽかり、とオレの頭を殴った。「痛ってーっ!! 何するんだよーっ!」「おお、そう言えば、忘れていた」 男はオレの抗議には耳も貸さず、ぐい、とシャツのボタンを一つ二つと外した。「おい…何を」 そしてぐい、と右肩をあらわにする。「ふむ。確かに治ってるなあ」「…」 オレは思わずしかめ面をしてしまったに違いない。 離せよ、と奴の手を払った。「便利でいいじゃないか」「…特異体質なんだよ、放っといてくれ」「いいじゃねえか。特異体質、大いに結構。この世知辛い世の中で、ケガしても大丈夫なんて、医者要らずで結構なことじゃねえか。薬も医者の治療費も高くてなあ」 男は腕を組んでうーん、と首を傾けた。「そう…らしいな」「ん? お前は用が無いんじゃないか?」 スープに口を運びながら、奴は問いかける。「オレには用は無かったけど、用がある奴は居た」「ふうん? で、そいつは?」「死んだ」「そうか」 その口調がひどくあっさりしていたことに、オレは少しばかりびっくりした。 たいがいこんなこと言うと、言われた奴からは、こいつ何やってきたんだ、という興味か、可哀想に、という憐憫の情のどっちかが伝わってくるのが普通だ。 Jはオレの特異体質を知ると、バケモノだと言った。 だがこの男からは、そのどちらも伝わって来なかった。 ただそこには、それが事実なんだな、という乾いた感触があるばかりだった。 何となく、気持ちが落ち着かない。間が保たなくなって、オレはとりあえず周囲を見渡す。「…そういえばあんた、よくまあ、人間がここまで散らかせるなあ」「悪いか。それでもちゃんと住めてはいるんだ」「だけどもう少し…」 だって。オレは視線を床に這わす。 カーペットなんて一枚も無い。板張りの床の、かろうじて見えるあたりから観察するには、ワックスなんて掛けることなど全くなかったようなささくれ立った床。時々釘の頭も出ているようだ。 部屋の隅にはほこりが綿のかたまりになって寄せられている。 そしてその床の上には。 まず服が散乱していた。 まさかその一枚を着せたんじゃないよな、とオレは少し不安になる。そして、そのどのシャツにも絵の具がついている。 そして紙。 スケッチしたのだろう、濃い鉛筆で、自然の風景だの、店から見た人の通りだの、猫だの犬だの、そんなものが引きちぎられたスケッチブックの、クリーム色の紙に、無造作に描かれ、散乱していた。 …でもまあそれはいい。 問題は、何で、林檎の皮やら、洗っていないコーヒーカップやら、何度もパンを乗せたらしい皿やら、食ったきり捨てていないフィッシュ&チップスの包装紙やらまでがあるのか、ということだ。「…おいあんた、この部屋って、ゴミ箱ねえの?」「ああ、これだよこれ」 貧乏画家は、台にしているブリキ缶をがんがん、と叩いた。はあ、そうですか…「…何やってるんだよ、食えよ」 あ、とオレはあっけに取られていた自分に気付く。そうだメシメシ。食える時に食え。それが鉄則なのだ。何とか料理しているうちに復活してきた食欲で、スープをすする。
2005.06.28
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そして更にその翌日。 昼食どき。授業の片付けに手間取ったあたしは食堂に行くのが遅れた。哀しいかな、皆食事とその時間に関しては、容赦が無いのだ。 空いている席は何処だ、とあたしが定食のトレイを持ってうろうろしていると、こっちが空いているよ」と声。「…校長先生」「こっちが空いているよ、ルイーゼロッテ・ケルデン」 この学校では、昼食は食堂で皆、銘々摂る。それは校長にしたところで変わらない。いつも見る風景の一つだ。 ただいつもと違っていたのは、校長の前に居るのが、見知らぬ男であることだった。「…失礼します」 あたしはそう言うと、校長の右横に座った。「ちょうど良かった。君のところへ、いつ行ったものか、と思っていたんだよ」 校長の前にはビーフ・カツレツ定食があった。カツレツはたっぷりと掛けられたソースの海の中に沈んでいた。「こちらの方が君を帝大予科へと留学させたい、ということだ」 校長は自分の前に座る男性を示した。前にはあたしと同じ、野菜スープ定食。「あれは、僕の母校でもあるしね。帝都本星の構内は本当に静かで騒々しく、いい所だ」「母校…?」 あたしは眉を寄せた。「ケルデン、こちらは、現在の科学技術庁長官の、ゼフ・フアルト教授だ」 ぽちゃん。あたしは思わずスプーンをスープの中に取り落とした。くすくす、とそのひとは笑う。「やだなあ、聞いていなかったのかい?」「…は、はい…」 ちょっと待ってよ、何とか財団、じゃなかったの? 確かヘライ先生が引き出した情報では、キル何とか財団が、あたしを留学させたい、ということだった。それが何で科学技術庁長官に変わる訳? それとも、その話は別ルートなんだろうか。「じゃあさぞ驚いたろうね。でも君のことは、ずっと話に聞いてたし、ここから政府費用で留学させるなら、君しかいないと思ってね」「で、でも」 それにしてもこんな場所でする話じゃない気がするんですが。この学校の連中は、物見高く説明好きなんだから。ほら、あちこちでもうざわざわ顔をくっつけあって噂している。 それとも―――「そのスキップ状態でこの学校に入っただけでもまず凄いよね。それでその上、この学校でスキップスキップと来れば―――まあほとんど『バケモノ』だね」「お、お口が悪い」「バケモノ結構。才能は生かすべき。才能を殺すのは、罪悪に等しいさ。ルイーゼロッテ・ケルデン、君には飛び抜けた才能がある」 あたしはスプーンを置いて斜め前の彼を見据えた。「ただ惜しむらくは、その才能の使い方をよぉく知らないことだよね」「才能の、使い方?」 うんうん、とその「長官」にしては若い男は、うなづいた。そう、若い。若く見える。実際年齢は四十代くらいだ、とあたしの理性は判断しているのだが、この口調、この態度、これで中年だったら「不良中年」の類だ。それにこの笑顔。どう見ても、いたずらっ子のままじゃないか。「…あの、それは絶対ですか?」「んー?」 彼は頬杖をつきながら、一度書類を置くと、スープを、ず、とすすった。その間にあたしは一番近い集団のひそひそ話に耳を立てる。 …本物? 本物だよ、ありゃ。だって俺、前TVで顔見たぜ。…そうそう! あの新年番組ん時も…あ、俺も見たぜ? 確かにそうだ…でもそれが何だって…まああいつなら…「絶対って?」 彼はもう一度、ずーっ、とスープをすする。「だから、あの、ご命令か、ということで」「命令ってことはないけど。でもこの学校のカリキュラムの一つに、留学を位置づければ君としては便利じゃないかなー。だって君、最近母上を亡くされたそうで」「…それは」「別に断ってもいいけど、それってこの学校のカリキュラムに逆らうってことだし、そうしたら、退学も仕方ないね。政府ってのは見返り無しで君達を教育してる訳じゃないし」 …このひと、こんな口調で、ふざけてるのに、ストレートだ。校長の方が顔色変えてる。「だって君、賢いじゃない。そういう子に、回りくどい言い方したって仕方がない」 おおっ、と周囲から小さく声がした。くそ。「つまりは命令に等しいと」「そ」「断ったら路頭に迷うぞ、と」「そ」 わわわわ、と周囲がやはりざわめき立つ。「じゃああたしが断る、と思ってます?」「可能性はあるでしょ。君」「え…」「でも政府ってのはそうそう人の事情まで酌み取ってやれないのよ。だからここでぴしっと言っておくけど」 彼はぴ、とスプーンを突き付けた。「行くなら明後日の船で出発。用意しておきなさい。大学予科の来学期の星系枠の『空き』は一つだからね。できるだけ早くそこに入るための準備をしなくちゃならない」「行かないなら」「行かないとは思わないけど」「でも可能性はあるんでしょう?」「うん。そしたら君は退学。行くところ無くて路頭に迷うね。現在の持ち物も没収かな」 あたしはうなづいた。「OK。じゃあ、明日の朝、迎えをよこすからねー」 さて食事食事、と彼は再びスプーンを動かし出した。食べるのは早かった。食べ終わる都「じゃあ明日ねー」と「長官」は手をひらひらと振った。「お、お待ち下さい」 校長は慌てて立ち上がる。「あ、ゆっくり食べてて。食事は摂れる時にしっかり摂るべきものだよ」 校長室に行ってるから、と言い残して彼は立ち去った。校長だけではない。あたしも他の生徒も、皆呆然として、ポケットに手を突っ込みながら食堂を後にする彼の背を見送るだけだった。おほん、と校長は咳払いをした。途端、周囲も一旦自分の食事に集中する。「…ということなので、君は今日の授業はもういいから、出発の準備をしておきなさい」「あ、でも、ハルシャー市の実家は」「それもこっちで手配するから」 手配、って…引き払う、ということだろうか。―――嫌だ。唐突にあたしの中に、理屈では割り切れない感情がやってきた。 校長は慌てて定食をかきこむと、食器を片付け、客人を追いかけて行く。観音開きの扉が開き、閉じ、ゆらゆらと揺れる。 ―――と。「…何だよあれ!」「おいお前本当に、帝都本星に行くのか?」 あっという間にあたしの周囲は人だかりができた。あわわわわ。答えられない質問ばかりを次々に投げかけてくる。ちょっと待て諸君、あたしにこのスープ定食を食べさせてくれたまへ。さっきの長官も言ったでしょ、食べられる時には食べろ、と。 だけどそんなあたしの心の声は彼等に届くはずも無く――― かちゃん。 まだ中身が半分は入っていたスープの腕が、制服のスカートの上にダイビングした。
2005.06.28
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「…おい、何してる?」 背後で声がした。 おそるおそる振り向くと、出かけていたはずの家主が、そこに立っていた。 ばさ、とクラフト紙の袋を冷蔵庫の上に下ろす。どうやら買い物に出てたらしい。「お前が欲しいのはコレかよ?」 あ、とオレは家主がポケットから出した、奴のものらしい財布を指さした。「や、その…」「お前のはちゃーんと別のとこに預かってるさ。ついでに言うなら、持ってた物騒なモノは処分したぜ」「は」 何? まだ貧血は治ってなかったらしく、くらり、とその場にへたりこんだ。気が抜ける。「…じゃ、オレの財布、返せよ」「今のお前に渡したら何処に出てくか判らないだろ?」「いいじゃねーか、オレの勝手だよ」「あんだけ情けねえ顔して、助けて助けてって訴えてた奴が何言う」 かっ、と顔に血が上るのが判る。「お、オレそんなこと言った覚えねーぞ」「別に口に出して言った訳じゃねえけどよ、何っかなあ」 まさかオレと同じ体質? ってことはないよなあ。思わずオレは唇を噛む。「おいおい、そんな、なあ…野良猫を拾ってきた訳じゃねーんだから。ちゃんと治って、辺りに危険が無いとか、そういうのが判ったら返してやるよ」「…あ、あれもか」「銃か」 あっさりと奴は言った。「あんなもの、ガキが持つもんじゃねえ。金は後で返すが、アレは分解してゴミに出したぞ」「…ゴミにって…」 はああああ。オレは思いっきりため息をついた。「まだ数発、残ってたのに…」「残ってたあ? 何処かで撃つつもりだったのかよ、お前」「や、それは」「そんなコト言うならな、なおのこと、捨てて正解だったぜ。撃たなくていいなら、撃たないにこしたこたねえんだ」 それは、そうだけど。「それよりお前、もう身体はいいのか? 動いたりして」「あ…身体は、大丈夫」「嘘言え」「嘘じゃないよ。…あんた、見たろ」 それにはこの男も黙り込む。 起きた時、一応巻いてあった包帯の下を見たら、綺麗に血が拭われていた。(あの時のコットンのアルコールだろう。においが残っていた)「まあな。だけどケガ人には違いねえだろ」「…もう大丈夫だってば」「それで、とっとと金持っておさらばしようって思ったのか?」 ほれ、と冷蔵庫の上に置いていた新聞を奴は投げつける。「…ごちゃごちゃして読めねえよ」「バカか?」「バカで悪かったなあ、学校行ってねえんだから、仕方ねえだろ」「…あーあー悪かったな。じゃあちゃんと俺が要約してあげよう」 オレはぺたん、とクローゼットの前に膝を抱えて座り込む。「つまり、だ、一昨日のお前の巻き込まれた爆発事故ってのがな、マフィアの内部抗争だって言うことでな」「マフィアの…って」「マフィアって言えば、デビアの専売特許だろう。まあシレジエにも、カストロバーニの息が掛かった奴も居るが、特産のマフィアはねえぜ?」 そうなのか。オレはてっきり、何処の街にもそれなりにマフィアの様な組織が存在すると思っていた。「で、何かあそこで殺られたのは、こっちの地区幹部らしいな。…ミタナスも殺られたって言うし、…こりゃ、内部抗争が起こるんじゃねえかな」「…」 それはまずい、と思う。 シレジエまで来てしまえば安全だと思ったのに、向こうで幹部を殺した(一味の)オレとしては非常に困る。「ま、内部抗争も何でも、勝手に殺し合えばいいさ。それはともかく、お前、腹減って無いか?」「腹?」 言われてみれば、何かひどく腹はぺたんこだし、…実際きゅーっと胃が悲鳴を上げているようだ。「お前な、二日間眠りっぱなしだったんだぜ?」「二日?」「まあ、と言ってもな、うわごとで水水言った時には、水くらい飲んだがね」「…記憶に無い…」 そんなこと、言ったのか。「まあ病気してる時ってのは、そんなもんだろ。何か食うだろ?」「…腹は…減ってる」「じゃあ食うな? …と言っても…なあ」 ふむ、と男は部屋の片隅の冷蔵庫を開ける。 オレは何となく気になって、足元に気を付けながら、そろそろとキッチンの方へと進んだ。 さすがに少し寝過ぎたか、ふらり、と世界が回る。途端、背中を大きな手が支えた。「…っと、大丈夫か?」「大丈夫。…って何だよ、この冷蔵庫」 …確かに迷うはずだ。さっきのクラフト紙の袋の中には、包帯だの傷薬だの。わざわざ買い物に出たというのに、そんなものばかりで。 まあ冷凍のピザはいい。 あとは…水とビールと卵と…少しの野菜とベーコン、そんなものくらいしかない。「仕方ねえ、何か食いに行くか」「行くか、って」「無論お前も連れてくぜ。行きがかりだ」「じゃなくて、なあ」 オレは今にもドアから出て行こうとする奴の袖を掴んだ。「じゃなくて、何だ?」「…これだけあれば充分じゃないか? オレ作るよ」
2005.06.27
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しかしひょんなことからあたしは、とあるものを入手した。 今年初めに一気に市民登録をした「元政治犯」のリスト。一度は入手しようとして、だけどあきらめかけていたものだった。 何と言っても、所詮あたしは専門のハッカーではない。証拠を残さず危ない橋を渡る度胸もなかった。 だけどひょんなことから、危ない橋が目の前に掛けられてしまったのだ。「悪かったわね~ごめんね~でもわたしの授業、今日は休みだし~」 と、「文章作成法」のヘライ先生は、朝の光が射し込みつつある部屋で、へらへらと笑いながら濃いコーヒーをすすめた。 昨晩、寮住まいをしているヘライ先生は、急にあたしにスペルチェックの「アルバイト」を頼んで来た。何でも教師という立場にも関わらず、様々なペンネームを駆使してこっそり、大々的に活躍している彼女は、この時ちょうど締め切りが重なったらしい。「でも本当に、速いわ~凄いわ~これからもお願いしてもいい~?」「…お断りします」 さすがにあたしもそこはぴし、と言った。「あら~残念~読むの速いし正確なのに~」 …それは自信があるが。「帝大からお誘いも来てるし~」「へ?」「あら~初耳?」 初耳だった。思わず大きくうなづいた。 んー、と彼女は首を傾げると、一度離れた端末の前に座った。と。 あたしは目を見張った。見覚えのある画面。「んーと… *、*、*、*、*…」 一つ一つ、アルファベットを読み上げながら、彼女はとある画面の真ん中に打ち込んだ。「あ、出た」 うふふ、と笑いながら、彼女はずらりと並んだ文書リストを指す。「こないだ見た、ケルデンさん関係は…」 あたしの目は画面に釘付けになっていた。情報に、ではない。その画面に、だ。 先生が出すその一つ前。そこまでは、あたしも行けたのだ。「パパ」の情報を探した時、医師関係からまず手繰ってみたけど、どうしても出て来なかった。 業を煮やしたある日、もしかしたら、と「今年初めに新規に市民登録された三十代後半の男性のリスト」を出そうと思いたった。 ―――だけどそれは駄目だった。「そのひとはデータバンクにありません」と言われるだけだが「居ない」ことを調べることはできた。 けど「居る」ことは。―――ヘライ先生が出した、あの画面。パスワード請求の、あの画面。あれを越えることができたら。「あら~やっぱりケルデンさんよ。…あっら~スポンサーは、キルデフォーン財団?」 凄い~、とヘライ先生はあたしの腰を三回も叩いた。おかげで正気に戻る。「き、キルデフォーン財団?」「やーだー、知らないの?」「知ってますよ…有名じゃないですか」 食品産業に端を発する、中堅どころの財団。「きっともうじき、お話が来るわよ~」 うふふ、と彼女は笑った。そうですか、とあたしの唇は動く。内部情報を勝手に見てもいいんですか、といつもだったら突っ込むあたしも、この時には、それどころじゃなかった。*****。ヘライ先生の声を何度も何度も、あたしは頭の中で繰り返していた。*****。覚えろ、と自分に命令しながら。 チャンスは一度だ。 翌日、授業が終わるとすぐあたしは中央図書館へと出向いた。館内の本の検索端末の前に座る。斜め上には監視カメラ。落ち着け。こういうカメラは不審な人物の不審な行動を見る程度の画像しか映し出さない(と思う)。だから態度さえ堂々としていれば大丈夫。 楽観的だとは思った。けど何処でやっても結局その程度のことはつきまとう。だったらやると決めた以上、仕方が無い。 そのままキーを操作。館外文献の検索のふりをする。その途中で裏技をかける。これは卒業した先輩から教えてもらったものの改良版だ。時間が経てば対策も立てられる。対策を考慮した改良版。それをかけると、役所の情報バンクにつながる。 一応、そこまでは成功している。そこまでは…軽犯罪程度にはなるけど…まあ学生だったら一度は誰でも試すことであり、学校側も黙認していた。そしてそこから更に、幾つかのトラップをくぐり抜け、先日ヘライ先生が映し出した画面までたどり着く。 パスワードを無言で打ち込む。 ―――出た。 あたしはその中から目当てのデータを取り出して、自分の記録カードの中へと入れた。 一応用心のために、大量の情報が入れられるカードをあらかじめ買っておいた。 データ量は実際には大したものではなかったのかもしれない。だけどこの時落とす時間はずいぶんと長く感じられた。 心臓がどくどく言うのが感じられた。手首に浮いた血管が跳ねているのが判るくらいに。 …保存終了。 あたしはカードを手に、そのまま移動した。 今度は首府の繁華街の有料端末の店へ。 あたし達の学校だけじゃなく、中央大学の学生もよくそこを利用している。この日もずいぶんと混み合っていた。そこであたしはデータを全てプリントアウトした。 そしてカード自体のデータを全て消去し、工作ルームに置いてあったハサミで紙吹雪くらいの大きさにまで切り刻んで、ゴミ箱に捨てた。残されたのは、プリントアウトされた大量の紙。隣にある雑貨屋で可愛らしい袋を買うと、それをくるりと丸めてリボンをかけて突っ込んだ。 上手くいった…とは思った。だが本当に大丈夫だろうか、という気持ちも残った。 だけどやってしまったことは仕方がない。その時はその時だ。あたしは可愛らしい袋を抱えて、寮へと帰った。
2005.06.27
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―――そうだ、触れるんじゃ、なかった… 流れ込んで、くる。 黒かった。 重かった。 …落ちて行く。 何で何で何で何で何で何で何で何で… 痛い痛い痛い痛い痛い痛い… 何で… 痛い… ああ、とオレは一瞬声を上げそうになった。 流れ込んでくる。流れ込んでくる。ぐるぐると、流れ込んでくる。 吐き気がする。 なのにオレは、奴の血で濡れた身体から、手を離すことができない。 流れ込んで、くる。 ―――ぷつん、と。 スイッチを切ったように。 止まった。 どくん、とオレはその時自分の心臓が跳ねるのを感じた。 全身が震えた。 ああそうか。 黒い深い闇の中に、こいつは、もう。 …だけど。 オレはぶるん、と頭を振った。 自分の頬を何度かぺしぺしと叩く。オレはもう一度、唇をぐっと噛んだ。 同じだけ銃弾を食らったのに、オレは生きている。 オレの目の前で死体になってる奴は、そのことでさんざんオレをバケモノ呼ばわりした。 殴っても蹴っても切り付けてもヤキ入れても、全然つまんねーじゃんかよぉ、と。 そして時々、どーせすぐ治るんだろぉ、と煙草の火を手にわざと押しつけたりした。 そう確かに。オレの手も顔も、いつもつるんと綺麗なままだった。 まだ少しふらつくけれど、ぐっ、とオレは足をふんばって立ち上がった。傷は治りつつある。ただ少し血が足りないだけだ。動ける。動かなくちゃいけない。 オレは死んでいることになってるんだ。そうすぐ、逃げなくちゃ。明日。この夜が明ける前に、何処でもいい、このデビアから出なくちゃ。 …服。血まみれだ。中のシャツを脱ぎ捨てる。ポケットを探る。金…無い。奴の死体を探る。案の定、財布が入っていた。まとまった金が入っている。たぶん今回の手付け金とか何とか言われてもらったんだろう。「…ん?」 そしてふと、奴のズボンのポケットに硬いものを感じた。…銃だ。 そうか。あの時奴を撃った銃。そのまま持っていたんだな。 オレはカートリッジの弾丸の数を確かめる。 残りは二発。もしそれ以上必要なら、同タイプの銃弾を何処かで入手しなくちゃならない。「…あんがとさん」 オレはつぶやくと、そのまま駆け出した。 この街から抜け出すために。
2005.06.25
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それは最終学年になって、一ヶ月位経った頃のこと。あたしはその頃、週末となると必ず外出していた。それは首府内のこともあったし、ハルシャー市まで行くこともあった。 あれ以来あたしは「パパ」クルト・ケルデンの消息をずっと探し求めていたのだ。 ママの死はあたしの世界を一気に変えた。 それまでのあたしにとって、未来は「ママと自分」のためだった。 自分のためだけの未来なんか考えたこともなかった。なのにそのママが居なくなった。あたしの未来予想図は粉々に散ってしまったのだ。それまでの「予想図」にかけて来た力が強ければ強い程、修正するのは難しい。だから気持ちの切り替えが必要なことは判っていても、そうしてしまうのはまだ辛かった。あたし「だけ」のことを考えるなど。だから、とりあえず、気持ちを逸らすことにした。 この時、あたしは「パパ」を探すことに学校以外の全てのエネルギーを注ぎ込んでいたと言ってもいい。 止まってじっと考えているのはゴメンだった。そんなことしていたら、どんどんどんどん、ママのことばかり考えてしまう。 「こうしたらよかった」「ああしたらよかった」と、今更言っても仕方ないことばかりが頭の中をぐるぐる回ってく。そんなのは嫌だった。だからそんな時はあたしは唇をぎっ、と噛み、幾つかの言葉を祈る様につぶやいた。 ママは死んだ。もう帰らない。死んだひとは戻って来ない。泣き叫んでもわめいても何をしても無駄だ。そしてあたしは生きてる。後を追うつもりもなくこの先生きてくなら、とにかく動くしかない。 ただ。 それでも何も無かったかの様に、学校で前と同じ様なことにひたすら時間を使うことはできなかった。目的を無くした勉強に熱意は必要以上にかけられない。 じゃあ何に熱意を持てばいい? そこで「パパ探し」が浮上した。 何かいつもと違うこと。でもママに関連すること。すればあたしが納得すること。 目的を設定して。問題の解き方を考えて。 ―――動く。 その結果得られることに関しては、その時考えよう。 ただもう、足を止めないことだけが、この時のあたしにとって大切なことだった。 だがハルシャー市民病院では、ケルデン医師に関する資料は全て破棄されていた。 彼が居たという証明すら、婦長さんの様な、当時のスタッフの「記憶」以外無かった。 だから当時のスタッフを捕まえては少しづつでも聞こうとした。―――のだが。「無理よロッテちゃん」 婦長さんは当初「知らない」「死んだのよ」を押し通すつもりだったらしいが、結局、あたしのしつこさに負けた。「探し出してママのお墓参りをさせたい」と説明すると「仕方ない」と思ったらしい。 そこで婦長さんの証言。 まずパパは、婦長さんとそう歳は変わらない、現在だったら三十代後半であること。 それはあたしも知ってた。ママも「生きていれば」ということを時々つぶやいていた。 皆の憧れだったこと。「私達は、皆で彼に何か行事にかこつけて学生の様に告白したものよ」「婦長さんも!?」 こほん、と彼女は咳払いを一つ。そのあたりはあまり追求しない方がいいらしい。「でも実際、彼が大人しいマリアルイーゼを選んだ時には、皆びっくりしたものよ」「どうして」 初恋すらまだのあたしには、男女の気持ちなんて、さっぱり判らない。「だってマリアルイーゼは、あの頃本当に引っ込み思案で…ああ、ごめんね。別にけなしてはいないわよ」 婦長さんはひらひらと手を振った。判ってます、よぉく言いたいことは判ります。ママは優しかったけど、陽気ではなかったから。「仕事は真面目だったけど―――そうね、例えば患者さんにどうしても鎮静剤を打たなくちゃならない時があったりするでしょ」 うん、とあたしはうなづいた。あの時のママの姿が脳裏によみがえった。「それってやって当然なことなの。患者にとって、それが必要なら、押さえつけてでも私達はそれをするのが仕事なのよ」「ママはできなかった?」「いいえそんなことは無かった。マリアルイーゼは、毅然とした態度でやってのけたわ。ただ、その時の患者の気持ちが伝染ってしまう様で、後ですごく悩んだりしたわ」「…ママは優しかったから」「そう、優しかった。だけど外科の看護婦としては、少し弱い方の優しさだったわ。…でもママとしては本当に良かったでしょう?」「もちろん!」 あたしは大きくうなづいた。だが何となく話が逸れそうだったので、慌てて引き戻す。「…ねえ婦長さん、婦長さんから見て、パパはママと仲良かったんでしょ? だったらどうして、そんな、捕まる様なことになっちゃったの?」 婦長さんの顔が歪んだ。「だから、詳しいことは判らないのよ」「詳しくなくてもいいの。捕まったのは、パパだけなの?」「居たことは居たわ。誰かは忘れたけど…」 彼女は目を逸らした。嘘だ。 婦長さんに会う前にあたしは医師会関係の資料を検索していた。パパと同じ時期に医師の登録を抹消されたひとは三人しかいなかった。確か神経外科のひとが二人、内科のひとが一人。だけど、そのひと達はIDまで消去はされていなかった。 パパが居なくなったあたりにあった政治犯関係の事件。これも新聞社の公開情報の中から見付けることができた。そこには複数の医師が関与した事件が確かにあった。時期も重なる。パパがこれに関係した、と考えるのはたやすかった。そして逮捕された中で、パパだけが、「ライ」へと送られた。 ―――何故だろう。 だけど婦長さんからはそれ以上のことは掴めなかった。
2005.06.25
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「…んでさぁ、誰に会ったと思う?」「さあ?」「ちゃんと聞けよ! 何と、あの、カストロバーニさんご本人さまさまだぜ?」「…本当かよ」「本当だって!」 普段から緩みがちな口が更に緩んでいる。 その興奮状態で、順番もへったくれも無く喋った奴の「内容」とやらはこうだった。 痛めつけられると思って出向いた先には、そのご本人さまさまと、その片腕と言われる「フェイド」が居たんだという。「…あのひと間近に見たのは初めてだけどさー、やっぱり格好いいよ。うん」 カストロバーニの話じゃなかったのか、おい。「…で、いい度胸だ、って言われてさ」「本当かよ」「本当だよ! …でまあ、脅されるんだろうと思ってたんだけど、いい度胸だから、一つでかい仕事を任せてやる、って言われたんだ」「でかい仕事」「ああ」 もったいつける。こいつのクセだ。明るい緑の目が、らんらんと光ってる。「ほら、今、デビアの仕切りを任されている、第一の幹部って言われてる…」「ミタナス?」「そう。それを殺せ、って」「…冗談だろ」「冗談でこんなこと、言えるかよ! それにフェイドさんからも、『期待してるぜ』って言われてよぉ…」 口調まで真似してやがる。 確かに、「フェイド」は格好いいんだ。オレも知っている。…何って言うか、百戦錬磨の闘士、って感じだよな。 何かの用事で、ストリート・ギャングの地区リーダーのところに行った時、ちょうどあのひとが来ていて、壁の地区地図を指しながら、襲撃のポイントだの何だのをレクチュアしていたことがあった。 その時見たのは、背の高い、筋肉が良くついた身体と、短く刈り込んだ焦げ茶の髪、それに吸っていた煙草の銘柄…確かあれは、「パリッシュ・モーニング」だ。名前と彼の印象が合わなかったんで、覚えてる。 腰に手を当てて、窓の外を見ていた彼の姿が、ひどく格好良かった。 だがJは、彼の姿よりも、その成り上がりぶりに憧れているようだった。「おいクロ」「へ?」「何だよその面。大仕事だぜ?」「それはそうだけどさ。大仕事すぎないか?」「嬉しいじゃねえの! 成功すりゃ、取り立ててくれる、ってフェイドさんも言ったしさ。で、その後、車で移動して、いいもの食わせてくれて、いい酒呑ませてくれたんだよ。オレあーんな美味いもの食ったの初めてだぜ。へへへ、羨ましいだろ」「…いいけどよ」 単純だ。あまりに単純すぎる。「じゃ、がんばってくれよな」「何言ってるんだよ、お前もやるんだぜ?」 げ、とオレは思わずうめいた。「何だよその面」 奴は間髪入れずにがん、とオレを殴った。長い付き合いだが、こいつの動きには時々読めないところがある。オレはひっくり返った拍子に、椅子に顔をぶつけて唇を切った。「それにお膳立てはちゃーんと向こうがしてくれるんだぜ。オレ達がするのは、その場所に行って、こんな可愛いガキと安心させたところをぱん! と」 奴は左手でピストルの形を作った。「撃つ訳さ。それだけで、いいんだ」「だからそれだったらお前だけで」 オレは唇の血をぬぐいながら言う。「タイミングってのがあるだろ。…ったくよ、お前は殴っても切り付けても全然張り合いがねえんだよ。ああ鬱陶しい」 そんな鬱陶しいんだったらとっととオレを放り出せばいい、と思うのだが。「あーもう消えてるし。ホント、バケモノだよな、お前」 聞き慣れた台詞が、奴の唇から漏れる。「いっくらケガしても、見てるうちに治っちまうなんてよ、パケモノ以外の何でもねーぜ。傷付け甲斐もありゃしね」 聞き飽きている台詞。オレは思い切り無視する。 その無視する様子がまた奴の神経をとがらせたらしい。 今度は腹を膝で蹴ってきた。さすがに内側に来るのは少しダメージがある。「ふん。やるのは明後日だぜ。せいぜいちゃんといいトコのボーイに見える様に、スイミンちゃーんと取ってよ、その小綺麗な顔に、クマなんか作らせるなよ」 吐き捨てる様に言って、奴は自分の寝床に入って行った。* そして「お膳立て」も「小綺麗な顔」も確かに上手く行った。 行ったけど…
2005.06.24
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やがてあたしの目の前には大きなカップが置かれた。呑んで、と婦長さんは言った。はい、とあたしは言われる通りに口にした。「…落ち着いた?」「あたし、落ち着いてます」「馬鹿」 ぱん、と頭を上からはたかれた。「あれで落ち着いてる子が居たら、はり倒してやりたいわ」「…はい」 そう、確かにあたしはまだ落ち着いてなかった。だけど落ち着いていないなりに、頭はゆっくりと活動を始めた。「…婦長さん、ママは」「鎮静剤を打ったから、しばらく眠っているわ。…刺激の強い映像だったみたいね」「あの中に、もしかして…パパが」「ロッテちゃん!」 彼女はあたしの両肩を掴んだ。「そんなことは無いのよ! ええ絶対に!」 はい、とあたしはうなづいた。あまりにも婦長さんの瞳が真剣だったからだ。「…それと、さっき言ってたことは、…気にしない方がいいからね。たぶん、動転して」 あたしはうなづいた。うなづくことしかできなかった。 * ママの容態はその日を境に悪化した。 クーデターのおかげで、あたしはなかなか首府に入る許可を得られず、その間ずっと、予定以上にママの側に居ることができた。 ただ鎮静剤の効果が切れて目覚めたママは、もうあたしのママではなかった。 記憶が退行したのだ。そこにあたしが居る訳がない。あたしのことは、病院のアルバイトとでも思っている様だった。 ママは優しかった。病院のアルバイトにも。「あなた名前は何て言うの?」 髪を解くあたしに、ママは問いかけた。「ルイーゼロッテ…です」「まあ、わたしもルイーゼよ。マリアルイーゼ。きっとわたし、娘ができたら、あなたと同じ名をつけるんだわ」「…」「でもお母さんはわたしが入院しているっていうのに、どうしてお見舞いには来ないのかしら? もう。あなたも大変でしょう?」「…いえ」 大変じゃないです。全然大変じゃないです。あたしはずっとあなたの世話をしてきたんです。別にそれは全く苦にはなりません。 ただあなたが、あたしのことを思い出してくれれば。あの声で、にっこり笑って、ロッテ、と呼んでくれたら。 でもあたしはもうそんな日は来ないことを知っていた。 時々夜、病院の中庭に出ては、太く高い木に向かって、何度も何度も殴りつけた。蹴りつけた。 そして夜空をぐっとにらんだ。 ママの身体は一日一日と力を無くして行き―――あたしが首府に入る許可が出る直前に無くなった。 身寄りの無い彼女の葬儀は、病院のもと仲間達による簡単な埋葬だけで全てを終えた。 * あたしは寮に戻ってきた。 だけどもう、そこに居る目的は大半失われてしまっていた。あたしががんばってきたのは、ママのためだった。 だけどそのママはもう居ない。目的が無くなってしまったことで、あたしの勉強する意欲は一気に無くなった。それは態度に露骨に出た。宿題は忘れる、授業はさぼる。居眠りはする。 もうどうでもいいや、と思っていた。 そんなある日、婦長さんから荷物が届いた。 ママの病院に置いた荷物はあらかた整理したと思っていたけど、どうも見落としがあったらしい。 開けてみると、そこに入っていたのはアルバムだった。見たことの無いものだった。 開くと、そこには知らない男性と写っているママの姿があった。 いや違う。頭の中で暗い光がぎらりと走った。パパだ。 婦長さんはそこに何のコメントもつけていなかった。だから証拠は無い。 だけどこれはパパだ。それは確信だった。 何故ならママは、パパしか愛していなかったのだから。あたしのことなど、あの瞬間、忘れてしまう程、心の一番奥では、パパしか愛していなかったのだから。 途端、思考回路のスイッチが入った。 あの瞬間、ママはパパを見たのだろうか。 その後の言葉に対するショックで、その疑問はしばらく意識の上に昇って来なかった。 だけど今思えば。それに、どうして婦長さんはあそこまで必死に否定したんだろう。 そして婦長さんは、あの画面を見ている。 とすれば。パパは死んでないんじゃないか? そして次に思った。じゃあ何で死んだことにしていたんだろう? 答えは、クラスの男子がくれた。 *「…何? この地味な番組」 あたしは思わずつぶやいていた。幾人かの男子が、食堂のTVに見入っていた。いつもだったら、この時間は、音楽かドラマなのに。「何お前知らねーの? 『尋ね人の時間』」「知らないわよ」「遅れてるなー、お前。田舎に長々居るうちに情報不足になってねーかい?」 あたしはむっ、として、茶化す奴をにらんだ。すると中の一人がこそ、とそいつに耳打ちした。あたしの状況を知っていたらしい。「あたしのことはいいでしょ。それより、その『尋ね人の時間』って何よ?」 まあ座って、とその中の一人があたしを自分達の間に座らせた。何これ、とあたしは本気で思った。「…行方不明者探しの番組? 何でこんな時間にやってんの? 一番いい時間じゃない」 そんな時間に何でまた。「ほれ」 彼は一番前を陣取って、じっと画面をにらんでいる三年生を指さした。「ほら、こないだのクーデターあったろ」「うん」「あん時、勝った方の側の中心に居たのが、以前政治犯だった人たちだ、ってことは?」「それは一応聞いてる」 ただ耳を素通りしていたけど。「じゃあ、その政治犯達は、これまで何処で何やってのか、知ってる? おチビちゃん」「…知らない」 彼の発言の中には、「あたし禁止用語」が入っていたが、あえて無視。「チビ」「ガリ」「ソバカス」はあたしの中の三大禁止用語なのだ。「『ライ』に居たのさ」「ライ? って、あの冬の惑星?」 「ライ」。あたし達の住むレーゲンボーゲン星系には、居住可能惑星が二つ。あたし達が住んでいる「アルク」と、それよりやや外側を回っている「ライ」だ。温暖なアルクに比べ、ライは寒すぎる、ということでもっぱら資源惑星になっている…と習って来たけど。「何でそこに」「だから、政治犯が送られてたって訳」「…へー…流刑星でもあったんだ…でもそれがどうして?」「だからさ、そこで、なんだよ」 こそっ、と、けど彼は拳を握りしめて言う。「何でも、そこへ送り込む時、皆、記憶とIDを消されちゃったんだってさ」「…IDを!? それがどうして今? 帰ってきたの?」「お前ほんっとうに最近のニュース、見てなかったんだなあ…脱走してたんだと。ずっと前に。それで、今回のクーデターに参加してたんだって」「つまりこの番組は、その記憶と身元を消された連中が、自分を知ってる人探しをする番組なんだよ」 別の男子が口をはさむ。なるほど、とあたしは思ったが、せっかくの説明を邪魔された連中はむっとしている。「で、あいつは、この番組が始まった翌日からずっとあそこが指定席だ。おじさんがどうも、それで行方知れずになっているらしい」「へえ、そういうひとも、居るんだ…」「で、その横に座ってる奴は、新年番組の生中継の中に、従兄が居たとかいないとか」「新年番組?」「お前見なかったのか?」「…途中までね」「朝になってからかな。軍隊とクーデター側が合流したところで、カメラがいきなり外に出たんだよ。で、その時のクーデター側の連中の中に従兄を見たとか見ないとか」 …それって。 それからあたしはTVの前の常連となり、幾度となくニュースで繰り返される「新年番組」の映像に目を凝らした。 結果。 確かに「パパ」は居た。あたしの目が間違いないなら、あの写真のひと、「クルト・ケルデン医師」は、その中に居た。 あの写真よりこう少し老けてはいたけど―――アップにもなったんだから、間違い様が無い。 だけどそのひとは、一度たりとも、「尋ね人の時間」には出ていなかった。
2005.06.24
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―――! …ああ、触るんじゃ、無かった。* そもそも、美味すぎる話だとは思ったのだ。「おいクロ、やっとオレ達にも運が回って来たぜっ!」 その時、相棒のJは、部屋に入るなりそう叫んだ。「何だよお前、酔ってるのかよ」「へへへ、これが酔わずにいられるかっての」 オレは既に眠りかけていたので、非常に不機嫌だった。「けっ、オレがせっかくいい話掴んできたのによ、お前はだらだらと寝腐って。オレが居なかったら、何がお前にできるって言うんだよ」 いつだって、こいつはこうだ。まあ仕方ないって言えば仕方ない。奴はオレを引っ張ってきたと思っているし、オレは結局奴にずっと着いてきてるんだから。「…で、どんなことがあったんだよ」 しかし長年付き合っていればこういう時の対処は簡単だ。向こうの剣幕は反らしてしまうに限る。言いたがっている奴には言わせる。それが一番だ。「お前確か、今日は何だっけ、元締めのとこに行くとか行かないとか大騒ぎしてたろ…ショバ代のことでさ」「ああ。…いい加減、キモ冷えたぜ。シメられるかと思ってさ、覚悟してったんだけどよ」「違ったのか?」「大違い、だ」 へへへ、とあせたブロンドを揺らしながら、奴は笑った。 オレ達は、デビアのマフィアの下で、ストリート・ギャングとして、スリだのかつあげだのといった「お仕事」するためのショバ代を払わなくてはならない。 確か稼いだ分の20パーセントだったかな。それを払わなければ、場所荒らしとして、すぐさま消されても文句は言えない。 まあ逆に言えば、ちゃんと金さえ払えば、「お仕事」は安心してできる訳だ。 だいたいこの宙港都市デビアじゃ、警察権力もマフィアに買収されているってのは殆ど公然の事実って奴だった。 この街で生きて行くためには、結局マフィアと手を組んでいくしかない。歓楽街はもちろん、普通の銀行や店だってそうだ。皆資本はマフィアから出てる。 この都市は、マフィアの大ボス・カストロバーニの王国の様なものだ。 それだけの大きな都市を取り仕切る奴にとって、オレ達みたいなストリートギャングなんて言うのは、それこそガキの遊びみたいなもんだ。連中にしてみれば微々たる資金源でしかない。 ただ、それでも掟は掟なのだ。街に生きるためには、皆存在する「掟」を守らなくてはならない。 「掟」が存在するから、きちんとこのデビアはそれなりに機能しているのだ。良くも悪くも。それが嫌だったら、それこそ他の都市に行くしかない。 出るのはそう難しくはない。この都市から出ているエア・トレインに乗って、遠くの街へと出てしまえばいい。 だけどそう簡単に、育ち、慣れてしまった街から出るというのはできないというものだ。期待もあるが、不安も多い。 それで仕方なく、多少の理不尽も感じつつ、何とかオレ達はやってきた。 のだが。 どうもオレの相棒であるJは、その「街の掟」を甘く見ているフシがあった。つまりは、稼ぎをきちんと上納していないのではないか、ということだ。 奴とオレは組んでいるけど、稼ぎは奴が仕切ってる。 オレが下見をして、奴が実行する、という関係。 自分の方が危ない橋くぐってるんだから、現金は自分が持つべきだ、と凶悪な顔で言われたら、オレははいそうですか、と言うしかない。 別に奴が怖い訳ではないが、奴が凶悪な面をする時に、にじみ出る何かがただもう、オレは気持ちわるいのだ。 無論奴も、オレを飢え死にさせたりしたら、自分も困る。だからオレが生きて行く程度には、金をその都度分けてよこす。 ただ、実際のところ、オレは奴が全体のどれだけ取っていたかなんて、知らなかったのだ。 だからまあ、奴が上納する分もハネてた、と聞いた時には、ああやっぱりな、と思うオレも居た訳だ。 で、今日の夕方、いつもの様に、オレ達が自分たちのシマで、「仕事」の下見…タイミングが良ければ実行しようとしていた所、街区の元締めに奴が引っ張られて行った。 オレはそれを見ながら、ふうん、と首を傾け、こうつぶやいた。「…ま、良くて半殺しってとこかな…」 自分がやけに冷静なのに、何となくおかしくなってしまった程だ。 だってそうだ。 オレは奴の相棒だが、友達ではない。はっきり言えば、利用し合ってるだけだ。 ストリート・ギャングになってから、いや、施設で奴にオレのことを知られてからだ。四、五年前からか? ま、どっちにしろ、これで奴とも切れ目になるかもしれないな、と思っていた訳だ。 ところが、だ。 奴は無傷で帰ってきたばかりか、何か上機嫌で、酒まで呑んでるじゃないか。 何か、ひどく嫌な予感がした。
2005.06.23
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跳ね飛ばされる感覚で、目が覚めた。 いや違う。椅子から転げ落ちていたのだ。 痛、と転がった拍子にぶつけた肩や腕、お尻をさすっていると、目の前に信じられない光景があった。「ママ…」 ママはTVにかじりついていた。 文字通り、モニターに両手を大きく広げて、抱きしめていた。 その目からは涙。だらだらと、ひっきり無しに、流れ続けていた。 口はこう動いていた。あなた、あなた、あなた… あなた。 あたしはそんな、と息を呑んだ。 ママがそう呼ぶ相手は一人しか居ない。 パパ―――クルト・ケルデンたった一人だ。 あたしは慌てて当直室に走った。 彼女達はすぐにはあたしに気付かなかった。TVに釘付けだったのだ。その表情は、何処か興奮していた。だがそれはママとは違う。何か楽しいことが起きて、どきどきしてる時の、それだ。「どうしたの、ロッテちゃん」 婦長さんは訊ねた。彼女すら頬が軽く赤く染まっている。あたしは寝ていて知らなかったけれど、いつも冷静な彼女がそうなるくらいだ。よほど凄いことがTVの中では起きたのだろう。 だけどそれはあたしにはどうでもいい。「ママが…ママが大変なの!」 婦長さんはそこに居た総勢五人のうち、ミルタとハンナというナースを連れて、あたし達の部屋へと急いだ。「これは…」 扉を開けた途端、婦長さんの眉がきゅ、と寄せられた。「どうしたの! マリアルイーゼ!」 だがママが答える気配はなかった。TVスクリーンに目をくっつけて、ぐいぐいと押しつけている様に―――見えた。「マリアルイーゼ…マリア!」 婦長さんはママの両肩を掴むと、モニターから引き剥がした。けどママは視線を離さない。そして口からこう言葉を漏らした。「ああ先輩、…あのひとが!」「あのひと?」 婦長さんの顔色が変わった。「あのひとが!」 大きくママはのけぞった。そこには満面の笑み。あたしの見たことの無い―――「…ハンナ! 鎮静剤を用意して! ミルタ! 手を貸してちょうだい!」「何をするんですかベルタ先輩、だってあのひとですよあのひとがいるんですよ。先輩だって知ってるじゃないですかあのひとですよ。ベルタ先輩聞いてるんですか、ねえベルタ先輩。あのひとですよあのひと、あなたも大好きだったあのひと。ねえあそこに、あそこに、あそこに」 機関銃の様に繰り出される言葉。あたしは扉の横で固まっていた。「婦長!」 飛び出して行ったハンナが戻って来た。その声に反応したのか、ママはこちらを向いた。目が合う。そして。「…あなた…誰?」 がくん、とあたしは足から力が抜けるのを感じた。そのままずるずると壁に背をつけたまま、床に座り込む。ずるずると昇ってく光景の中、ママが力の強いミルタと婦長さんに取り押さえられて、鎮静剤を打たれていた。静かになったママを、ミルタが軽々抱きかかえてベッドへと運んだ。ふう、と額の汗を拭う婦長さんのため息が耳に入った。 だけどあたしはその場から動けなかった。「…ロッテちゃん?」 あたしの様子がおかしいのに気付いたのは、ハンナだった。婦長さん、と彼女はすぐに上司に問いかけた。婦長さんは二人を当直室へと帰らせた。モニターの中はひどく騒がしかった。カメラもあちこち動いているらしくて、ひどく揺れてる。その中で、軍人と、そうでない人たちが、何か騒いでいた。楽しそうに、騒いでいた。新年祝い? そうかもしれない。 と。ぱんぱん、と軽く両頬をはたかれる気配があった。ぬっ、と目とスクリーンの間に、見覚えのある顔が入ってきた。「…婦長さん」「大丈夫?」「だ…大丈夫です」「ううん、全然大丈夫じゃないわ。…ママには鎮静剤を打ったわ。…ちょっとこっちへ」 そう言って、婦長さんはあたしを強引に立たせると、当直室へと連れて行った。あたしは足に力が入らなかったので、彼女はほとんどあたしを引きずっていった。「…クーデターが、成功したんですって」 廊下で婦長さんはそうつぶやいた。「それ以上のことは判らないわ。ただ言えるのは、私達のこのハルシャーは無事だ、ということだけよ」 だったら何であたしの手を引っ張るのだろう。どうしてあの部屋に、ママの側に居させてくれないのだろう。自慢の頭があまりにも今、回転しないのがひどく不思議だった。「ハンナ、ココアを入れて頂戴。たっぷり」「ココアですか? …はい」
2005.06.23
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「ってお前…」 ぽとん。また一滴、消毒薬が落ちた。乾きかけた血が、再び赤い色を取り戻す。「頼む…」 俺はそのまま、自分の意識が暗い暗い暗い闇の中へ溶け込んで行くのを感じた。*** ぐぉぉぉん。 列車が頭上の陸橋を通って行った。腹の底まで響く、その音。オレはつい、そちらに意識を取られてしまったんだ。「…!」 腹と胸に、もの凄い熱と衝撃が埋まった。 何だよ一体。 通り過ぎる、列車の窓が、光を細切れに落として行く。 コマ送りの様に、胸に押し当てた自分の手のすき間から、血が噴き出すのが見えた。「てめぇ等には、もったいねえ程のお駄賃だろ、クソガキ共」 硝煙のにおい。笑いながら、聞き覚えのある声はそう言った。「甘い話なんて、そうそう無いって、教わらなかったか?」 教わってないよ。でも知ってたさ。 知らなかったのはオレじゃあなかっただけのことだ。 …ああでも関わった時点でオレも馬鹿か。 橋桁の、冷えたコンクリートの柱に背を打ち付ける。頭も一緒にぶつけた様で、ぐらん、と一瞬世界が揺らいだ。 痛みに、全身がしびれる。 コンクリートの柱を背に、そのままずるずると、身体が落ちて行くのを、オレは感じた。「いいんですかい、あのまま放っておいて」 別の男の声が耳にとどく。「いいさ。野良犬にでも適当に食いつかせとけ」 自分の血のにおい。そうだな、こんな町はずれだ。野良犬も普段は残飯漁りなのに、生肉だったら大ご馳走だろう。 笑いながら遠ざかる足音。コンクリートに反射する響きが次第に遠のいて行く。 やがて車を出す音が聞こえた。 オレはぐっ、と目をつぶって、唇を噛んだ。 息を整え、身体から力を抜く。 胸に手をやる。じっとりと湿っている。 ああ、ずいぶんと血が出ているようだ。 吹き出した血が、なまじ白っぽいコンクリートだから、じわじわと黒く広がって行く様子がよく分かる。 何かひどく疲れていた。 もういっそ、そのまま目を閉じて眠ってしまいたい様な気もする。 だけど残念ながら、痛みがそうさせてくれそうになかった。「…う…」 ごほ、と咳き込む音がして、オレは少しだけ頭を起こした。「…J」 相棒の名を呼ぶ。「…おいJ、生きてるか?」「…クロか…くそ…あいつら…」「…おい」「裏…切りやがって…」 そうだよな、と妙に納得した気分でオレは相棒の声を聞いていた。オレが撃たれたんだ。直接今回の仕事に手をかけたこいつが撃たれてないはずがない。 裏切り、か。 そりゃあ、そうだ。あはは。 変に空っぽなおかしさにも近い感情が、ぽっかりとオレの中にはあった。 いっそ大声上げて笑ってやりたい様な気もしたが、そんなことしている自分の姿も馬鹿馬鹿しいので、よした。 それに。「…おいクロ…オレ、どうなんだ? よく見えねえ」 弱々しい声だ。いつも、これでもかとばかりにオレに対しては威張り散らしていたあの口調は何処に行ったのやら。「血がすごいぜ」 そう、オレより凄い。血だまりの中だ。 オレは…もう出血は止まっているだろう。何となく、それは判る。弾丸も…めり込んだ穴から押し出てきている。手にさっき、小さな硬いものが触れた。「お前は、どうなんだよ…」「オレも撃たれた」「…嘘つけ。何だよ…その平気な声は…」 嘘じゃないよ。けど口にはしなかった。する前に、またごほ、と咳き込む音がした。「…おいクロ、オレ、どうなってんだよ…オレ、死ぬのか? おいクロ、おい、答えろよ! オレに答えられねぇって言うのか? おい…」「…お前は、死ぬよ」 オレは短く言った。そう、確実に。 そんなことも判らないのかよ、この馬鹿。 ああそうだよな、馬鹿だからこんな風にだまされるんだ。 お前のせいじゃねえか。オレのせいにするなよ。 でもお前は絶対オレのせいにするんだよな、そういう奴だよ、お前はずっとずっとずっと。「…何だよ…その言い方は」 それでもまだ悪態を付くらしい。馬鹿は死なないと治らないんだって、本当だ。「お前は死ぬんだよ。もう駄目なんだよ」「…くそぉ、嫌だ…死にたくねぇ…」「けどどうしようもねえよ。お前は、確実に、死ぬんだよ」「…何だってお前はそんな冷静なんだよ、このバケモノ…ああそうだお前はやっぱり…畜生、オレ、死にたくねえ…やだ…痛い…」 でも、お前は死ぬんだ。 オレはもう、その決定的な言葉は言わなかった。 相棒の言葉はどんどんかすれて行き、既にその端は聞こえるか聞こえないか、というところだった。 どうせもう、言っても聞こえないだろう。 ぽっかりと空いた穴に、何か奇妙に青空の様なものが見えた気がした。 奇妙に晴れやかな気持ちが、オレの中にはあった。 …ああもう、死んだかな。 オレは重い体をずるずると動かしてみる。 そしてぴくりとも動かない相棒の身体に、手を伸ばした。
2005.06.22
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半年位、ママは良くも悪くもない状態が続いた。「気力がね」と婦長さんはため息混じりに言った。「結局はそれなのよ。ロッテのママは。あなたと違って、足りなさすぎ」「あたしの元気を分けられればいいのに」「そうね、半分でもいいわ。それで治ってしまうのに」 彼女はそう言って、あたしの肩を抱いた。「パパが居れば、こんなことならなかったのかなあ」「そうね…マリアルイーゼはケルデン先生のこと本当に愛してたから」 それは初耳だった。いや違う。知ってはいたけど、このひとの口からその類の話を聞くのが初めてだった。「婦長さん、パパを知ってるの?」「まあね。ケルデン先生は、私達の間でも人気があったわ。実は私も結構憧れてたのよ」「婦長さん、それでまさか結婚しないの?」 こら、とあたしは頭をこつんと殴られた。 けど正直言って、あたしはパパについて、何も知らなかった。 いい医者だった。ハルシャー市民病院でも外科で評判の腕を持っていたのだけど、ママと結婚して、実家の医院を継いでくれたのだという。でもフォート一つ残ってない。怒ったおじいちゃんが捨ててしまったらしい。「哀しんで、じゃないの?」 あたしはその時おばあちゃんに訊ねた。おばあちゃんは首を横に振った。「ねえロッテ、もの凄く辛いことがあったら、お前はどうするね?」「泣く」 実際そうだった。あたしがおばあちゃんにその話を聞いた頃は、スキップ二学年したあたりで、教室でいじめられることも多かったのだ。今となっては、五歳も年上の同級生は大人げない、とそんなことはしない。 だけど一つ二つならいじめの理由となる。「そうだね。泣いてすっきりするのもいいさ。だけど、泣いてもどうにもならない、と思ってしまった場合は?」 すぐには判らなかった。「天に向かって、怒るのさ」 おばあちゃんはさらりとそう言った。 ―――今ならその気持ちが、判ると思った。 この年は九月くらいから物騒な雰囲気になってきていた。 とは言え、昔はもっとひどかったらしい。首府も、あたしが生まれたあたり前後数年はテロによる破壊活動が盛んだったらしい。 今では復旧されている繁華街も、店という店のガラスが壊され、道路がガラスの破片で埋まったというし、新聞社の建物が焼き討ちにあっただの、学生がデモを起こしただの、地下鉄が爆破されただの、首府警備隊が一斉蜂起して公開処刑されただの。 それに比べれば。 もっともあたし個人としては、あたしも何度かハルシャーへ行くのを止められたので「冗談じゃない」のだったけど。 新年休暇には、皆一斉に故郷に帰らされた。中にはスタジアムの新年行事に行きたかったのに、とぼやくヤツも居た。あたしには関係無いことだったが。 それより問題なのは、この年末が「冬」だったことだ。星間共通歴831年の「新年」はこの惑星では今年は「冬」。公転の関係で、年によって季節は違うのだ。ママの容態が急に悪くなっていたのは寒さのせいもある。 部屋に入った途端、力無く眠っているママを見て、あたしは心臓が跳ねた。息をしているのだろうか、と疑って、口の近くにそっと手をかざしたりもした。そしてそのたび、ああまだ生きてる、と安心した。 そしてニューイヤーズ・イブ。 さすがにこの時期には、よほど重病の患者さん以外、一時帰宅していた。残っているのはわずかだった。そのわずかの中に、あたし達は居た。 「まあこんなものよね」と婦長さんはからから、と笑った。あたしとママは、残っているナースや先生と一緒に年明けのカウントダウンをしよう、ということになっていた。 ところが。 ニューイヤーズイブ当日。夜になってもお祝いらしい雰囲気にならない病院に、あたしは嫌な予感がして、当直室の扉をノックした。「…あの…」「ああロッテちゃん、大変よ」「え…」 TVの画面の中ではわーわー、と騒ぐ人々。光の塔の建つ大きなスタジアム。そこで行われているはずの盛大な催しが、奇妙なざわつきと共に止まっていた。「これ、スタジアムの新年祭典ですよね?」 あたしは画面を指さして訊ねた。婦長さんも「ええ」と答えた。「…何が起きたんですか」「撃たれたの」 婦長さんはつぶやいた。撃たれたのは、当時の政治指導者と、その側近だという。「それって」「…大変なことよ、そう…私達はこれから、警戒態勢に入るから、ロッテちゃん、あなたも部屋のTVをつけて―――」 わかりました、とあたしはうなづいた。「ママ…」 どうしたの? とママは身体を起こした。「うるさいかもしれないけど、TVをつけていて、いい?」「いいけど?」 あたしは備え付けのモニターのスイッチを入れた。ぼんやりと白く光るスタジアムの内部がすっと浮かび上がる。「何、何が起こっているの? ロッテ」「ママよく聞いて」 こくん、とママはうなづいた。この頃は立場が逆転していた。ママはあたしの言うことを素直に聞く。あたしはママにいちいち注意をする。「さっきね、政府の偉い人が殺されたんだって。このスタジアムの中で」「ええっ」 ママは身体をすくませた。「…でも大丈夫。ここは病院だもの。それに首府とハルシャーは遠いもの」「…列車で六時間も掛かるんですものね」 そう、確かに夜行列車なら六時間だ―――あたしがいつもそれを使うものだから、ママの中ではハルシャーと首府は離れていた。だけどハイウエイでエレカだったら、たった二時間だ。端から見れば「目と鼻の先」の街だ。「ただもしかしたら、緊急ニュースが入るかもしれないから、つけておいてちょうだい、って言われたの。うるさかったらごめんね」「ううん、大丈夫。せっかくの新年を迎える時に、寝てなんかいられますか」 ママはそう言った。そして興味深そうに、自分の正面に大きく広がるTVスクリーンに映るものをじっと見ている。 結局寝てしまったのはあたしの方だった。つきあって見ているうちに、いつの間にか、椅子の上で、うとうとしてしまったのだ。
2005.06.22
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「…こりゃひでえ…」 建物の壁ぎわに、がれきと一緒にオレは埋もれている様な状態だった。 さっきまで居た場所がずいぶん遠い。爆弾? それとも何か、ちょっとした砲撃でもあったのか? 耳がぼぉっとしている。しばらく上手く聞こえないだろう。 ばさばさ、とがれきの山から這い出そうとする。 と。「…痛ぇ…」 ざっくりと、金属片が左肩に突き刺さっていた。くそ。 オレはとりあえず、刺さった破片をぐっ、と抜いた。「うっ」 喉から、思わず声が出る。血が吹き出る。とろ、と頬にも流れているものの存在が判る。頭…額? 何処か切ったのかもしれない。 がらん、と破片を取ると、大きくオレは深呼吸をした。 ああ、これ、さっきの車の色だ。 どうやらあの車も爆発に巻き込まれたらしい。こんな風にボディの一部がやられたんだとしたら…まあ中の野郎も、可哀想におねーちゃん達も、たまったもんじゃないだろうなあ。 この傷なら治るとは、思う。 だけど今は、血が足りない。色々、あったのだ。 それに加えて、今切った所があまり良くない所らしい。どくどく、と血は流れ出ている。 ぼぉっとした耳に、サイレンの音が聞こえる。あ、やばい… 立ち上がり、とにかくここから立ち去ろうとする。 人目の無いところで、じっとしていたい。そうすれば、オレは何とかなる。 オレは「バケモノ」だから。 だけどさすがに、頭がくらくらして、足がもつれる。貧血も起こしているのかもしれない。 あ。 目の前に星が散る。足から力が抜ける。 だが尻餅をつく感覚は無い。代わりに、何か暖かいものが、自分の身体に触れている。 右の腕をぐい、と掴まれていた。「おい」 低い声が、聞こえる。オレに向けたものか?「おいお前、大丈夫か? 意識あるか? 生きてるよな?」 はあ? とオレはのろのろと顔を上げた。「ずいぶんとろんとした目だな…おい、クスリなんかやってねえよな」「んなもの…やるわけねーよ…」 そう。ホントに効かないんだから…「ならいい」 ふっ、と暖かい感情が伝わってくる。「すぐ救急車が来る。どうする? そこまで連れてってやるぜ」 そう言いながら、男はオレのケガしていない方の肩に腕を回した。「…だ、駄目だ」「あん?」 怪訝そうな声が、聞こえる。オレは思わず、ケガした方の手で、男のシャツを掴んでいた。「…医者は…駄目…」「駄目?」「駄目なんだ…」 男の眉間に深いシワが刻まれる。「…な、判るだろ? 判ってよ。…ワケありなんだ」「…」 目線が合う。「…頼む」 自分がすげえ情けない顔になっているのは判る。 普段だったら、こんな顔、見せたくない。だけど、困るんだ。 その間にも、左肩からの出血はどくどくと続いている。 やばいよこれはマジで。動脈をかすっているんだろう。 そりゃあ無論、いまに止まることは判ってる。だけどその前に貧血起こしすぎたら、いくらオレでも。 必死な様子が伝わったのだろうか、男は何か考えていたが、意外とあっさり、こう言った。「…判った。俺のフラットが2ブロック先にある。…そこまでなら、お前、我慢できるか?」「…ああ。こんな傷、大したことはないんだ。血が足りないだけで…」「嘘つけ」 そう言いながら、男は俺をほとんど横抱きにする様にして歩き出した。 裏側の路地を抜けて、角を曲がる。 歩きながら、ふと俺は、触れているこの男の雰囲気に、何か奇妙なものを感じていた。 何だろう? 何か覚えのある「感じ」が。 ひどくそれは曖昧で、うっすらとしたものだったので、さすがに貧血でくらくらしている俺には判らなかったのだけど。 それに何となく、覚えのある―――「…本当に、大丈夫だってば」 ―――足の踏み場も無い――― 素晴らしくそれは今のこの部屋の状態を言い表している言葉だ、と思った。 こんな頭がぼぉっとしている状態なのに、だ。 奴はそれでも、唯一空いているソファに俺を下ろし、傷の手当をする、と救急箱を取り出した。 使い込んでいるセットをぱか、と開けると、手慣れた調子で消毒薬をコットンに染み込ませだした。「ケガを甘く見るな! だいたいお前その出血…」 俺は黙って首を振りながら、ばっさりと上着を脱いだ。「…おい」 中のシャツが、確かにひどい出血で、胸の辺りまで真っ赤になっている。濡れて身体に貼り付いて、気持ち悪いことこの上ない。 だけどそのシャツを、ほとんど無理矢理取ってみれば。「ほら」 オレは左の肩を指した。 傷が既に、血の塊で縫い止められた状態になっていた。さすがに深い傷だったから、やっと今で、この状態だ。もっと小さいものだったら、もうとっくに治ってる。「…」 ぽとん、と消毒薬がコットンから一滴落ちた。 ああでも、この血は拭いては欲しいかな… 男の視線が険しい。さてどうするだろう。俺はやや上目づかいで相手を見た。「…だからいいんだよ。だけどちょっと、血が出すぎちゃったから、疲れて…眠らせて欲しいんだ…」 一度座ってしまったら、もうその欲求が止まらないのだ。もうこの後何が起こってもいい。とにかく俺は、ひたすら今は。
2005.06.21
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「決して、良くないね」 と、ママの上司は言った。だがその直後、顔に笑みを貼り付けた。「けどこの病院の治療はしっかりしているから、大丈夫だよ」「治るんですか?」 彼は黙った。笑顔は凍り付いた。正直なひとだ。あたしはもう一押しした。「治らないんでしょう?」「君、そういうことを言うもんじゃないよ」 彼は眉を寄せる。目を逸らす。困っている。「君のママは治る。そう信じなくちゃ」「でも先生、信じることと事実とは別だと思います」 あたしは容赦なく言った。彼は嫌な顔をした。可愛げのないガキ、と言いたげな顔だ。スキップ組に大人が向ける目だ。あいにくあたしはそれにはとっても慣れていた。「…君はそう言えばとても賢い子だったね」 あたしは黙ってうなづいた。 と同時にあたしは自分がガキなことも良ーく理解していた。ガキは無力だ。「じゃあはっきり言おう。治らない」 やっぱり、という気持ちと、嫌だ、という気持ちがあたしの中で交差した。「何処がどうという訳じゃない。ただひどく弱ってしまってる。できるだけのことは病院はするよ。皆、君のママを大好きだし」 ええあたしも大好きです。世界中の誰よりも、あたし以上のひとは居ないでしょう。「だから個室を用意したんだ。彼女の長年の勤めに報いたいと、皆思ったんだ。…立派な部屋でないのは残念だが」「それはいいです」 あたしは首を振った。どんな部屋だって個室であるなら文句は言わない。あたしは顔を上げ、真っ直ぐ彼の方を向いた。「お願いします。ママに、できるだけのことを、して下さい。何でもします。費用が必要だったら、今すぐ学校を辞めてもいいです、この病院で働きますから」「おいおい」 彼は苦笑した。「大丈夫だよ。…そんなことはしなくとも」 そして彼の最後の言葉から判ったことがもう一つ増えた。 ママは二年は保たない。 それからというもの、あたしは毎週末、ハルシャー市へ通った。「大変でしょ、無理しないで」 ママは手みやげの林檎をむくあたしに、笑って言った。「無理してないわよ。だいたいあたしは周りからたまには休めって言われてるんだから。お前は頭良すぎる、十二歳は遊べ、って」 あたしはそう言いながら、うさぎ林檎を一つ、ママに突き出した。あらあら、とママはそれを受け取る。「あたしホントに頭いいんだから。成績いいんだから。宿題だって、列車の中でちょいちょいちょい、だからねー」「でも六時間も」「あたし若いのよ」「そうね…あ、ロッテ、ちょっと」 何、という間も無く、ママはあたしの髪に手をやった。「解けてるわ」 そして有無を言わせぬ勢いで、ママはあたしの椅子をくるりと回し、五本はあるピンをさっと抜いた。「ほらやっぱり解けてる」「一つにするのって、やりにくいんだもの」「ロッテの髪は絡まり易いからね」 ふふ、と言うとママは解けかけたあたしの三つ編みをやり直す。いい気持ち。ママが編むと、きつくないのに解けない。だから垂らしたままでも大丈夫。だけどあたしがやると、どうしてもあちこちから髪がはみ出て、一日の授業が終わる頃には滅茶苦茶になってる。 「じゃあ切ればいいじゃないか、ソバカスガリチビには似合いもしねーのに」クラスの男子は言う。そのたびにあたしは「言う方がガキなんだよー」と言い返す。 切るのはやだ。あたしがママと似てるとこなんて、チョコレートケーキと同じ色の、この髪くらいしかないのだ。その髪も、ママはまっすぐ、さらさらなのに、あたしは猫っ毛。顔立ちも違う。ママの子供の頃の写真をおばあちゃんから見せてもらったことがあるけど、それにも似てない。似ていたらいいな、と思うけど、事実はどうしようもない。 もしこの先ママの具合が悪くなって、輸血が必要になっても、ママはO型であたしはABだから、血をあげることもできない。 だからどうしても、この髪だけは、伸ばしていたいのだ。「はいできました。どうする? また上で止めておく?」「ううん、そのまま垂らしておく」「その方が似合うものね」「そう?」 そうよ、とママは笑った。
2005.06.21
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「あの、今何て言いましたか」「普段なら問い返すのは厳禁ですが、今回は例外です」 寮監の声は静かだった。「ルイーゼロッテ・ケルデン、あなたのお母様が緊急に入院されたという知らせが入りました。政府の特別の配慮によって、休暇及び外泊許可を出します。すぐにハルシャー市民病院へと向かいなさい」 あたしはその頃十二歳で、中央政府直属の全寮制中等学校の五年だった。 夜行列車で六時間掛けてやっとたどり着いたハルシャー市駅から、更にエレカで十五分。山の向こうから昇る朝の光が目に痛かった。「朝早くすみません」 当直の、顔見知りのナースにあいさつ。「まあロッテちゃん! …ああ、聞いたのね。でもまだ早すぎるわ。こっちでお茶呑んで行きなさいな。お母さんは逃げないわ」「…あの、ママは本当に、入院、したんですか? …間違いじゃ、なく?」 あたしはこの時まだ、情報ミスではないか、と疑っていた。ママはこの病院のナースだ。単なる情報ミスだと信じたかった。 彼女はとにかく当直室に入る様に促した。「お腹空いてない? よかったら食べて」 そう言いながら、テーブルの上の皿を指す。夜食だろう、目の詰んだチョコレートケーキが置かれていた。さすがにあたしもお腹が空いていたので、言われた通りにぱくついた。口全体に広がるチョコの甘い味。ねっとりした舌触り。飲み込むのが少し苦労する程に重い生地。ゆっくりゆっくりあたしはそれを口の中で噛み砕いた。 「ミルクが無くて何だけど」と彼女はお茶を渡してくれた。それを口にしてやっと普通に飲み込むことができた。体中に、じゅわぁ、とエネルギーが広がった様に思えた。「まだ五時半だからね。一時間くらい待ってちょうだい。七時に朝食だから、六時半には一応皆だんだん起きてくると思うの」「あの、ママはやっぱり…」「…ええ。一昨日、急に倒れて」 手が震えた。「で…も大丈夫よ、ロッテちゃん。ほら、皆、マリアのことは大切だから、大部屋じゃなくて、個室に入ってもらってるから…ねえ、もっと食べて。顔色、良くないわよ」「ありがとう…」 結局あたしは、チョコレートケーキを一本の半分と紅茶を三杯たいらげてしまった。「ママ!」「…まあロッテ。どうしたの、…ああ、呼んでくれたのね。ごめんね、心配かけた?」「かけた! すごく、かけた!」 そう言ってあたしはママに飛びついた。「大したことじゃあないのよ。…ただちょっと疲れがたまっただけだと思うの」「だったらいいけど…ママ、無理するから」 そうなのだ。あたしのママ―――マリアルイーゼ・ケルデンは、そういうタイプだった。特に、あたしが寮に入ってからの二年間と来たら、会いに来るたびに痩せて行く様で、気が気ではなかった。「ねえママ、あたしのことだったら、大丈夫だから、気にしないで。もっと楽に、自分の分だけ稼げばいいのよ」「そういうことを子供が言うものじゃあないわ、ロッテ」 ママはあたしが小賢しく意見すると、いつもこの調子ではねつけた。違うの、そうじゃない。ママが心配だから。 そう言ってもこのひとの頑固さはあたしが一番良く知っていた。だからあたしができるのは、早く、少しでも早く、中等を卒業して、中央大にストレートで入って、政府のどっかに確実な職を見付けることだった。卒業まであと一年ある。でもそれを待ってはいられない。また特別コースで単位を稼がなくちゃ、とあたしはその時心の片隅でその時思った。 何せママには身寄りは無い。三年前まではママの実家―――おじいちゃんとおばあちゃん夫婦が居た。もう居ない。あちこち所々で起きていたテロの「哀しむべき犠牲者」になって、二人揃って天国に召されてしまった。 おじいちゃんは医者だった。昔は小さな医院をやっていたらしいけど、パパが死んで以来、閉めてしまったらしい。 金儲けとは縁の無かったこのひと達がママに遺したものは家だけだった。あたし達はその家を売ったお金と、ママのナースとしての給料だけでつつましく暮らしていた。 つつましく―――だけど決して生活は楽じゃなかった。 だからあたしは、学校から政府直属の学校へ進学を推薦された時、一も二もなくぽん、と飛びついた。何せ全寮制、学費も食費も政府持ちだというのだ。 ママは「離れるのは淋しい」と反対したけど、あたしは押し切った。少し我慢して。ほんの何年か。そうしたら、今よりもっと楽な生活をさせてあげる。 だけど。やせた手が毛布から出ていた。あたしはその手の白さを、しわを、薬品しみを、―――そして細さを見てぞく、とした。 あたしは間違ってた? そんな思いが、背中を走った。
2005.06.20
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―――嫌だ!! がたん、という衝撃で、オレは目を覚ました。 声を上げてしまったんじゃないか、と思わず辺りを見回す。大丈夫、こんな時間、ほとんどの乗客は、寝ている。 早朝。窓の外が次第に明るくなってくる。 …嫌な、感じだ。 エア・トレインの車内アナウンスが、まもなく次の都市「シレジエ」に到着することを告げる。ハイトーンの気取ったイントネーションが何となく耳障りだった。 寝汗をかいていたらしく、身体が気持ち悪い。 引きずっているのかもしれない。オレは伸びすぎた黒い前髪を掻き上げながら、大きく吐息をついた。 ふと外を見ると、確かに大きな都市が近づいて来るのが判った。 あああれが「シレジエ」か。 逃げ出して来たデビアから約八時間。だいたい2400キロばかり離れた所だ。 この砂漠の惑星「ソグレヤ」では、砂漠のオアシスに豪勢な都市を作り、それをエア・トレインでつないでいる。 話には聞いていた。 赤茶けた砂が延々と続く中に、いきなりぽっかりと高層ビルの立ち並ぶ「都市」が出現するんだ、と。 シレジエに到着したオレは、夜を待った。昼の街は、面倒だ。 太陽の光が、オレという存在をそのままぎらぎらと照らしだす。 それに何って人が多いんだ。 さすがにもう早朝ではないから、この街でも多くの人々が動き出していた。 「小綺麗な」格好をした勤め人。学校へ行くガキども。デビアの端にあった施設や、裏町で生きてきたオレとはまるで別の世界の連中が、ぞろぞろぞろぞろと似た様な方向へと歩いて行く。 言葉は判るけど、意味の判らない言葉が耳ざわりだ。 ざわざわざわ。背中が気持ち悪い。 皮肉なもんだ。嫌だ嫌だと思っていた夜の世界、歓楽街、ネオンの瞬く、あの逃げ出してきた世界を、オレは結局捜しているんじゃないか。 何時間も、何時間も、オレはとにかく場所を移動した。 眠りたい。だけど眠る訳にはいかない。 その思いだけが、オレを昼の街の中に彷徨わせていた。 居場所を確保して、コインを出して、また移動して、その繰り返し。とにかく早く、夜が来て欲しかった。 陽の光はまぶしすぎた。 ようやく陽が沈み、街にネオンの灯りが点りだした時、オレはようやくほっとした。 ふらふらと、少し奥まった歓楽街に足を向ける。 ああ判りやすい空気だ。 少し足を踏み出せば、闇の中にとけ込むこともできる。 馴染み深い、この雰囲気。 欲望と快楽の意識が渦巻いている、場所。客引きの野郎ども。クスリの売人だろうガキども。大人達にぺこぺこするフリをしながら金を巻き上げるストリート・ギャング。 嫌なくせに、慣れすぎた空気。 ふらふら、とオレは裏道を意味もなく歩き続けていた。 ふと、ぱぁっ、とクラクションに押され、道の脇に寄る。 何ってえでかい車だ。狭苦しいところなのに、わざわざ入ってくるなよ。 だけどそれには触らない様にそぉっと足を進めた。 こんな車に下手に触ってキズでもつけたら、後でたまったもんじゃない。 君子危うきに近寄らず。 そうやって、足早にすり抜けようとした時だった。 ぴん、と張り詰めた、冷たい、重い気配がオレの全身に絡み付いた。 これは、誰の感覚だ? 時々あるのだ。その場に漂っている、ひどく強い「思い」が、オレの思考を混乱させる。 誰だ? オレは自分自身をぎゅっと抱きしめながら、周囲を見渡した。 皮膚の上に、むずむずとした感覚が走る。自分の感覚と他人の感覚がぶつかり合う時、拒否反応の様なものが起こって、上手く動けなくなる。 ええいもう、しっかりしろ、オレの身体! 車のドアを背に、裏道に飛び込む。下手な態度でジャンキーか何かと間違われてもたまらない。 確実に居るはずだ。大嫌いで大嫌いで大嫌いで、思い切り派手に潰してやりたいと思う誰か、が。 後ろで、きゃははは、という女の笑い声がした。 振り返る。 ネオンがどぎつくきらめくキャバレーの裏口から、ごつい野郎達を三人従えた、腹の出たおっさんが出て来た。スケベな顔の野郎は、胸ぼんっ、なおねーちゃんのきゅっとした腰にへらへらと指を這わせながら出てくる。 ハゲた頭に帽子をかぶり、酔ってるけど、酔い潰れてはいない。仕立てのいいスーツ。ふうん、何か偉そう。 女の化粧のにおいと、残り少ない髪につけた整髪料のにおいが混ざって鼻がまがりそうだ。 きゃはははは。女の声が耳障りだ。ああもう、早くどっか行ってくれ。 上手いこと、そいつらはオレには気付かず、そのままさっきのでかい車へと向かった。あーやっぱりこいつらの車か。 その時、オレはびくん、と背筋が震えた。 あ。 隣のビルの屋上から、閃光が走った。 ばずん! 鈍い大きな音が、響いた。 う…わ! オレは自分の身体が浮くのを感じた。思わず目を閉じる。 ばん、と路上に叩き付けられた。尻もしたたか打った。背中をひどく打ち付けたせいで、呼吸が苦しい。 腕は? 足は? 何とか大丈夫か? 手で顔を半分覆いながら、オレはゆっくりと目を開いた。何だ一体?
2005.06.18
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「よーし、今日はこれで終わり」 はふ、とあたしは思わず食器棚に両手をついた。「結構やるじゃないか、お前。ほれ、夕飯」 残り物の寄せ集め。焼き物揚げ物。それに煮物を利用したパスタ。豪華と言えば豪華。正直、お腹ぺこぺこだったので、そこは素直に席につき、フォークを手にする。「ほいお茶」「ありがとう…でもあたし、お前じゃないわ、ルイーゼロッテっていうの」「ルイーゼ・ロッテ。ほー、おかーさんかおばーちゃんがどっちかの名前?」「両方。おかーさんはマリアルイーゼ、おばーちゃんはシャルロッテ」 そう言うとあたしはずるずるとパスタをすすり込んだ。あー美味しい。お茶時間に一応軽くつまませてもらったけど、やっぱり労働(とか勉強)が終わった後のご飯というのは何って美味しいんだろう。 あれからこのマスターは、昼からお茶時間から夜まであたしを臨時の皿洗い兼ウエイトレスにしてくれやがった。当初は皿洗いだけか、と思ったら、あたしが遠くで聞いていただけのオーダーを一発で覚えていたのを聞いて、「お前オーダー取ってこい」とぬかしやがった。一食の恩義があるから何ですが、人づかいの荒いひとだ。「んでなあ、お前の目的のひとだけど」「ん」 あたしはパスタを口にくわえたまま、マスターの方を見る。「もうそろそろ来るぜ」「もうそろそろ、って」「だから、お前の言うとこの『パパ』さん。あいつはいつもここでメシ食ってくから」「いつも?」「オトモダチのとこでメシ食ってって、何か悪い?」「…悪くない」「それにアイツ、全然そのテのこと出来やしねーの。あんだけ傷縫ったりするのに器用なクセに何だろーね」 ん? やけに穏やかな口調。 何となくあたしの中で危険信号が走る。 やがてからん、とカウベルの音がした。 マスターは扉のところを見向きもせずに、言葉を投げた。「お客が来てるぜ、K」「私に客?」 低い声。あたしはまだパスタを口にしたまま、その方向を見る。 パスタがぽろり、と皿に落ちた。「…パパ―――だ」「は?」 マスターよりやや背が高く、やや恰幅もいいそのひとは、思った通りの反応を見せた。そのままその場で固まって、あたしとマスターの顔を交互に見る。「と言うことらしい、ぜ、K」「…と言われたって、なあ」「と言うことなんだけど。ルイーゼロッテ」 うん、とうなづくと、あたしはカウンタの椅子から降り、つかつかと「K」と呼ばれているひとの前まで歩み寄った。「あたし―――ルイーゼロッテ・ケルデンって言います。マリアルイーゼ・ケルデンの娘です。クルト・ケルデンさん」「ふーん、あんた、そういう名だったの」「…いや、判らない」 きっとそう言うだろう、とは思ってた。「あなたが知らなくても、あたしは知ってるんです」 *「…なるほど確かに、私の姿だ」「間違い無いのかよ、あんた」 四人掛けのテーブル。あたしを前に、マスターと「パパ」は並んで座っている。空いたスペースにあたしはママのアルバムを開いた。「…確かに、これは私なのかもしれない。私は実際医者だった訳だし」「じゃあ、認めてくれるの?」「おいK、認めるのかよ!」 あたしとマスターの声は揃った。「事実としては、な」「って」 あたしは「パパ」の方を真っ直ぐ見つめた。「それに普通、私を捜すなら、君ではなく、君のママの方じゃないか? …君、今幾つだ? 見たところ、十…一? 二?」 あたしは思わずぱん、とテーブルに手をついて立ち上がった。「十三よ! それにママに探せるなら、…」 あたしの声は詰まる。「ちょっと待て、おい、それってもしかして…ルイーゼロッテ、お前のおかーさんって」「ママは、死んだわ」 今度は「パパ」の眉が大きく上がった。だけどそれは一瞬だった。「しかしそれはそれ、だ」「おいK」「私が記憶を無くしていることくらい、君は判ってここにやってきて居るのだろう?」 あたしはうなづく。「だったら、私を捜しても、今更どうにもならないことじゃないか? それとも何か、他に目的があるのか?」「…別に何かしてもらおう、なんて、思ってないわよ! …さっきまでは、ママのお墓参りをして欲しいと思ってたけどね」「死んだ人間は元には戻らない。もし私が君の言うところの人物だったとしても、それは既に戸籍の上では死んでいる。死んでいる人間には何もできない」「おい冷たいんじゃないか? K、それは」「事実だろう。いずれにせよ、ルイーゼロッテ、君の『パパ』であるべき男は、ここには居ないんだ」「ええよーく判りました。訪ねてきたあたしが馬鹿見た、って訳ね」 そして立ち上がる。既に食器もカップも空になっていた。「帰る」「ちょっと待て」 強い力でテーブルの横を通り抜けようとしたあたしはぐっと引き止められた。「何よ」「お前さん、行くとこ、あるわけ? お金無い、ってさっき言ってたろ」「…それは」 確かにそうだった。没収される前にって下ろして来たのは全部旅費に回った。「それに俺達のことを知ってここまでやってこれたあたり、とんでもねーガキだよなあ、なあ? K」「それは」 パパ…いや「ドクトルK」は、言葉に詰まった。「俺達は確かに、自分を捜して欲しい場合には、データをメディアに提供したけど、そうでないヤツ、探して欲しくないヤツは、結構そいつを秘密にしておいて、って頼んでおいたはずだしなー」 あたしはぷい、とその蜂蜜色の目から目を逸らした。「ま、お前さんがとんでもない子供だってのはよーく判ったし、まあたぶんこのひとの娘だろーし、そーすると確かにお前さんにはこの町に居る権利が無きにしもあらず、だ。俺自身としては、別に構わないと思う。ただ」「ただ?」「その前に、お前さんの目の前のカフェオレは呑んでしまって」 ? 言われるままに、あたしはややぬるくなったカフェオレを飲み干した。「OK?」「OK」 んじゃ、とばかりにマスターは唐突にドクトルの後頭部に腕を回した。何を。「あ」 ぶちゅ、と音がしそうな程に、彼はドクトルの唇に吸い付いた。うわ。うわ。うわ。き、キスしてるーっ!! いや単にキスだったら別に驚かない。だって軽いキスなんら、男同士だってマウストゥマウスはありだ。だけど。 だけど目の前で長々と行われているのは…ディーーーーーーープキス、というヤツだ。 …そしてどのくらい経っただろう。ぷは、と空気補給、とばかりに離れた二人は明らかに上気していて。「…おや、結構しっかりしてるねー」 ふふふふふふふ、とあたし達はまた笑いながらにらみ合った。「…つまりマスター、トパーズさん、アナタ達もーしかして」「もーしかしなくても、そうなんだよね」「それって思いっきり、ホモって言うんじゃないでしょうか」「思いっきり言います。言わなくちゃおかしいです。でも付け足すとね、先に俺をこましたのはこっちのオヤジだからね!」 あたしははた、とドクトルを見た。彼は「仕方ないだろう」とつぶやくと、悠然とコーヒーのお代わりをカップに注いだ。「…つーまーりー、マスター、あたしがもしこの関係に対して平気で居られるなら、ここに居てもいいってこと?」「おお、さすがに察しがいい」「おいトパーズ」「いいじゃんかよ、この歳で物騒な覚悟の逃走してきたなんて、頼もしい。いい覚悟」 そう言って彼は、あたしの頭をぐりぐりと撫でた。 そしてあたしは、この「アンデル」駅前「食事もできるカフェ」の居候・兼・ウエイトレスになった。
2005.06.18
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「こいつだ」 その男はぐい、と写真と資料を突き付けた。「居るはずだぜ? 居ないなんて、言わせねえ」 にやり、と煙草をくわえたままのその顔には、不敵な笑みが浮かべられている。 それは勝者のみが持つ、傲慢なものだった。 カーキ色に赤いラインの入った軍服は、帝都政府正規軍のもの。肩に貼り付けられた星は、佐官の印。色は黒…軍警のものだ。 敗者の惑星政府の、一収容所長には、とうてい手向かえる相手ではない。「たった三十年前のことだ」「…そんな昔の」「たいした時間じゃねえだろ」 ふう、と佐官は煙を吐き出す。強いにおいに、所長は顔をしかめる。 それはあなた方だけでしょう、と言いたい気持ちが所長にはあるが、無論、そんなことを口にしてはいけない。自分達はあくまで敗者なのだ。「三十年前、ちょっとした事件がここで起きたな。その時にそいつは、この収容所に収監されたはずだ。既にこっちで、調べはついている。隠し立てしたらしたでまあそれは構わねえさ。だが、そうすればどうなるか、判っているだろうな」 星間共通歴588年。 全星系を巻き込んだ長い長い戦争が終わって約三十年が経っている。しかしその戦争自体の長さが、その後の処理にも時間をかけさせていた。 だから自分みたいな管轄違いまでも呼び出されるんだ、とこの佐官はぶつぶつとつぶやいていた。「し、しかし…」「ああ、面倒くせえなあ」 額をかりかりと人差し指で引っ掻きながら、彼は眉を寄せる。「別にいいんだぜ。こっちには、強制的に任務を遂行するだけの権利があるんだ。そしてお前等には反抗する権利は無い。判るか? この意味が」「…」「なあ、穏便に行きたかったら…さっさと通せ!」「…ご案内なさい」 ふんわりとした声が、続きの扉から放たれる。所長はがた、と思わず席を立つ。そこには、黒いスーツを身につけた、初老の女性が居た。「ぎ、議長…いらしたのですか」「帝都政府があれを捜していることは、前々から判っていたこと。対応が遅れたとしたら、それは我々の責任となりましょう。申し訳ございません」 あっさりと、優雅に彼女は佐官に向かって頭を下げた。「なるほど。あんた直々に出てくる用事、なんだな。OK、その方が話は早い」 どきな、とばかりに佐官は「議長」の女性の方へと近づく。「さっさと『あれ』の居る場所に案内してくれないですかね。俺は女性には手荒なことはしたくない」「判りました。ただ」「ただ?」 佐官は目を細めて、煙草を一度、深く吸う。「あれの状態を確かめてからにして下さいますか? 私達ではどうにもならないのです」 ふうん、と言うと、佐官はぐい、と所長の机に煙草をなすりつけた。 樹脂のデスクマットがじゅ、と焦げて嫌なにおいを放った。 長い長い廊下の奥には壁があった。「おいおい、行き止まりじゃないか」「いえ」 IDカードを差し込むと、その壁がすっと上がった。「煙草は遠慮なさって下さいませんか? この先は医療エリアなのです」「医療エリア?」 腕を半分めくった佐官は、ポケットに手を突っ込むと、きょろきょろと辺りを見回した。「…ずいぶん厳重じゃねえか」「…」 議長はそれには答えなかった。答えない代わりに、後ろを時々振り返り、ちゃんと自分の後を佐官がついて来るかを確かめるかの様だった。 やがて彼女は、一つの扉の前で立ち止まった。先程と同じ様にIDカードを差し込むと、音も無く、また扉が開く。スタッフが弾かれた様に顔を上げる。「これは議長…連絡下されば、案内の者を差し向けましたものを…」「いえ、唐突でしたし…それに悠長なことはお嫌いでしょう?」 佐官に向かって、ちら、と議長は視線を向ける。「よく判ってるじゃねえか」 そして煙草を出しかかり、おっと、とまたしまう。「で、ここに奴は居るんだな?」「ええ」「…と言うと」 スタッフもまた、その軍服の指し示すものが理解できた様だった。「この方に、説明を」「説明?」「は、はい」 神経質そうに眼鏡を直しながら、スタッフは持ち出した資料を、何処から言っていいものか迷う。面倒だ、と佐官はその資料をひったくった。「…ふん、なるほど、三十年前から、ずっと植物状態、か…それじゃあなかなかうちの情報網にも引っ掛かってこねえもんだよな」 ほいよ、とクリップで止められただけの資料を佐官は投げて返す。 そのまま、生命維持装置つきのベッドへと彼はブーツの音も高く、進んで行く。その時ようやく帽子を取ると、ばさ、と血の様に真っ赤な髪が目の辺りまでかかった。「ふうん。確かにこりゃあ、間違いねえな」 ベッドに眠る黒い髪の男を見て、佐官はつぶやく。そしてそばの丸椅子にどっか、と腰をかけ、腕と足を組んだ。「おい、わざわざ足を運んでやったのに、勝手に死んでるんじゃねえよ」 反応は無い。そうだろうな、という顔で議長とスタッフは顔を見合わせる。「いつもこんな、かい」「ええ。ずっとこのままです」「そりゃあ金食い虫だったろうなあ」 にやり、と佐官は笑う。「お金では替えられないものがあるでしょう?」 ふうん? と佐官は口の端を上げて議長を見る。「ま、いいさ」 そして彼は力無く毛布の上に投げ出された男の手をぐい、と掴んだ。「乱暴はしないで…」「何ですか御夫人。ずいぶんこの『特別囚人』に親切じゃないかい?」「…」「乱暴はしねえさ。ちょっとお話をしなくちゃならねえんだ。…ちいとばかり、出てってくれねえかな」「…さて、邪魔者は居なくなったことだし」 佐官は相手の手をぐっと握りしめ、そこに意識を集中させる。『よぉ、起きろよ…起きろ!』 触れた手から、意識を直接叩き込む。彼等の種族の中では、そう珍しい能力ではない。 すぐに返答は無い。『このねぼすけ野郎! 起きやがれ!』―――誰だ… すると、弱々しい意識が戻ってくる。佐官はここぞとばかりにその意識を掴み、叩き付ける様に意志をぶつける。『誰でもいい。何死んでるんだお前』―――オレは…死んでいないのか…『死んでねえ、生きてる。あいにくと思ってる様だが、お前は生きてるんだよ』 途端に、佐官の気持ちまで暗くなる様な重い感覚が伝わってくる。『止しとくれ! お前が滅入ってるのは勝手だが、俺は仕事だ。お前を連れに来た』―――…余計なことを…『ふうん? 余計なことかい。そんなにお前、死んだままで居たかったのかよ』 肯定の意志が、手から伝わってくる。『いいんだぜ? こっちはお前を完全に殺してやるのなんか、簡単なんだ。ただあいにくお前を生かしておくシステムにも、俺を派遣する軍警の方からも、それなりにコストってものが掛かってるんだ。要すんに、金がかかるんだよ! 生きたくもねえ人間を生かしておくとか、捜すとかそういうことにはな。だからちゃんとした理由が無えと、お前を易々と殺してやる訳にもいかねえんだよ』―――… 重く沈んだ相手も、さすがに面食らった様で、すぐに返答ができない様だった。『俺だって怒るぜ』―――怒る、のか…『そりゃあ当たり前だ』 ほんの少し、相手の意識が緩んだ様な感触があった。佐官はそこを狙って追いつめる。『だから話せ』―――話す?『お前に何があって、何で死にたいのか、俺に話せ。それ如何だ。どれだけお前が死にたいのか、俺を説得してみろ。お前を殺すのなんか簡単だ』―――そんな訳が…『簡単さ。帝都政府正規軍、軍警第五本部長イエ・ガモ中佐の名にかけて、斬首でも爆死でも何でもいい。お前を完全に、殺してやる。約束する』―――約束…『そう、約束だ』 約束という言葉に、男は反応した様だった。しばらくの間、その手から伝わってくるのは、混乱した、無意味な様にも思われる映像だったが、やがてそれを整理したらしく、男の意志が、言葉になって伝わってきた。―――オレは…走ったんだ。『走った?』―――初めは、逃げるために。…そして最後は、…
2005.06.17
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「え?」 カウンターの中から、マスターはにっこりとあたしに笑い掛けた。「もう一度、言ってくれる?」 うん、何って素晴らしい笑顔。「だから、お金ないの」「もういちど、言ってくれるかなあ…?」「何度でも言うわ。お金無いの。何にも」 ふふふふふふ。 あたしとその店のマスターは顔全体に笑みを貼り付けたまま、にらみ合った。「…すると君、君が今まで二時間を掛けてじっくりじっくりと食べた、『今日の特別定食』と紅茶とココアとザッハトルテと木イチゴのタルトに対する代金は全く無い、と」 「そ」とあたしは大きくうなづいた。そらそーよ。首府からこのど田舎の「アンデル」へ来るには金がかかったんだから。列車に乗る前に買ったココアの缶がコインの最後。「それは君、無銭飲食って言うんだよ?」「うん」 ここぞとばかりに、あたしは両腕をカウンタにつき、身を乗り出す。そして上目遣いで。「あたしは持ってないけど…あのねマスター、この町に、あたしのパパが居るの」「パパ? お父さん?」 言葉の端が震えてます、マスター。うん、とあたしはもう一度大きくうなづく。「…そう、じゃあお父さんに払ってもらおうね。そのひとの名前は? 居場所は?」 顔を近づけて、矢継ぎ早の質問。うーん、思っていた以上の迫力。プラチナ・カラーの短い巻き毛、あまり背は高くなくて、でも筋肉はそれなりについている様な身体、そして何と言っても、その蜂蜜色の瞳。 ふうん。なるほどね。「んーと…住所はこの町としか知らないの」「君ね…大人をからかうもんじゃないよ!」「でもパパはマスターがよぉく知ってるひとのはずよ?」「俺が?」「そぉ。ね、『トパーズ』さん」 彼の表情が凍る。「…コンラート・カシーラー」 すかさずあたしは一つの名前を囁く。音はぴた、と止まった。その時、からんからん、と扉の方からカウベルの音が聞こえた。 カウンタにはあたししか居ないけど、周囲のテーブルには客が数組。「あ、いらっしゃーい」 彼は即座に営業スマイルに変わる。「…ちょっと待ってて」「はあい」 注文を聞きに行く。それなりに流行ってるんだな、この店は。あたしが食事している最中も、食事でもお茶でもない中途半端な時間なのに、客はひっきり無しに入ってる。でもまあ当然と言えば当然かなあ。何せ駅前に一軒だけの「食事もできるカフェ」なのだから。「さっきの。それが君のお父さんの名前?」 カウンタ内に戻ってきた彼は注文のコーヒーを淹れながら問いかけた。「『ドクトルK』って言った方がいい?」「…そう思いたくはないねえ」 そう彼は言い捨て、口を歪めた。あたしは再び身を乗り出した。「どっちにしても、あたし、行くところが無いの。首府からここは遠かったわ。お金だってもう無いし」 彼の手が止まる。「少しでいいの。パパに会いたいの。場所を教えて欲しいの」「…無銭飲食者の言う台詞じゃねーがな」 そう言いながらマスター―――「トパーズ」と、とあるリストに記されていた彼は、ため息をついた。「お前その皿持って、こっち、来な」「え…」「今日の仕事が終わるまで皿洗い! それでその皿の分は、帳消しにしてやる」「パパのことは?」 くっ、とあたしは皿をまとめながら笑った。「それはその後だ!」 勝った、とあたしは思った。
2005.06.17
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ざあああああああ。雨は強く降り続ける。「俺は死んだんだ。これは確かだ」「事故だね、自殺じゃないんだ、ね」「誰かがそんなことを言ったか?」「ナナさんは自殺じゃないか、って言っていた。自分のせいじゃないか、とも言ってた」 ああ、彼女ならそうだろう。倉瀬は思う。あの時最後に自分と話したのは彼女だ。しかもやや微妙な三角関係の相談を。 でもそれは事故だ。倉瀬は思う。誰のせいでもない。逃げ出したかったのは確かだが、彼女を置いて逃げる気は、全く無かった。「自殺じゃあない。事故だったんだ」「事故で先輩は死んだんだ。でもじゃあどうしてワタシが先輩に触れることができるの」 彼女はぺたぺた、と彼の頬を、肩を、胸を手のひらで触れて行く。あの頃にこんなことをしてくれる様だったら。もしもそうだったら、彼女は「妹」ではなかったかもしれない。誰よりも、大切な相手だったのだから。 今なら判る。自分は気持ちをセーブしていたのだ。「妹」だから触れてはいけない、のではない。「触れてはいけない」から、妹だったのだ。でもそれはもう遅い。 何よりも、彼女にとって自分は「同族」ではあり得なかったのだ。あの少年の様な存在ではなかったのだ。だからもういい。 彼女は倉瀬の二の腕を両手で強く掴んだ。力がついたな。背も伸びたし。そこに居るのは、自分の知っている、自分が居なくては何もできない少女ではない。「先輩はここに、居るじゃない」「違うよ」 彼は首を横に振った。そして大きく手を広げて、空を見上げた。「ほら、雨は当たらない」 あ、と彼女は自分の手を見た。落ちて行く水は、彼女の手をすり抜けて行く。「雨は当たらないんだよ、トモミ」「だって、雨は当たらなくたって、ワタシが、先輩に」「そうだよ。だから」 彼は目を伏せる。「お前も死ぬんだ」「死ぬ?」「今度は、皆が、お前に会えなくなるんだ」「ワタシに」「そう、お前に」 ワタシに。再びつぶやくと、彼女はゆっくりと倉瀬から手を離した。両腕で、自分自身をぎゅっと抱きしめ、こう言った。「―――やだ」「何で? 向こうの世界は、暮らしにくかっただろう?」 もうやめよう、と彼は言った。「確かに暮らしにくかった。先輩が居なくなってからずっとワタシは戦ってた。ワタシを無くそうとするものから、ワタシを守ってた」「戦ってた?」「そう、戦ってた。それが先輩達の世界の『親切』で、あのひと達は『いいひと』。この世界の文化と感情パタンを計算すれば判る。感謝はする。でもそのたびに、ワタシはいつも、同時に、それと戦ってた。本当のワタシを無くさないために。殺さないために」「知ってる。見てきたよ」 ざああああああ。「お前はこの雨の音が好きで」 彼女は黙ってうなづいた。「…同じ音が好きな、あの、彼が、とても、好きなんだろう?」「彼」「マキノとお前が呼ぶ、彼」「好き」 彼女はその言葉を何度か、口の中で転がしてみる。「ずっと一緒に居たい、と思うんだろ?」「だとしたら、『好き』。とても。すごく。…ワタシは彼のことが判るし、彼はワタシのことも判る。ワタシ達は、やっとワタシ達を見付けたんだ。…だから、ワタシは彼に、彼の欲しがっているものをあげようとしたんだ」「うん、それは何?」「先輩のベースを。先輩はワタシにとって一番大切なひとだったから」 過去形だな、と彼は思った。「だから何か、先輩が持ってたものをあげたかった。マキノがそれを欲しがっているのがワタシには判ったから。ワタシもそれで通じると思った。ライヴの時に傷を付けてしまったアレが戻ってきたら、あの子にあげようと思った。だから、あの時、急いだ。急いではいけない、とナナさんに、あれだけ、言われていたのに―――」 彼女は自分のベスパが転がったはずの場所を見る。そこには当然、車体は無い。「あの辺だった。だからベースはあの辺に飛んでいたはずなのに」 倉瀬はそれを聞いて、首を横に振る。「ここには無いよ」「嘘」「俺はお前に嘘はつかない」 そして彼はおいで、と手を差し出した。彼女はその手を取った。「…ワタシ…?」 病院の、集中治療室の中に、彼等は居た。トモミは初めてみる自分自身の眠る姿に目を瞬かせる。「ワタシは死んだの?」「今は、生きてる。でもそれはお前次第だ」 彼は大きなガラス窓の方へ顔を向ける。何かあるの、とトモミは問いかけた。外には面会客用のベンチが置かれているだけである。 ただ―――制服姿の少年が、汚れたベースのケースを抱いて眠っていた。「マキノ」 トモミはするり、と倉瀬の横をすりぬける。自分の身体を越え、ガラス窓を突き抜けた。 濡れている。それはベースのケースのせいだけではない。彼の髪も、制服のシャツも、ズボンも、ぐっしょりと濡れている。 彼女はそんな彼に触れようとする。「触れたい?」 ガラス窓を越え、倉瀬もまた廊下へ現れる。「触れたい。このままではまた風邪をひく」「また?」「前もそういうことがあったんだ。台風の時、ワタシ達、外で遊び回ったんだ。そうしたら彼だけ熱が出た。彼は夏なのに寒いと言った。だからワタシは彼と一緒に眠った」「うん」「だからあの時約束した。そんなことがまたあったら、熱が出た方の側にずっと居る、暖まるまでずっと居る、と。だけどこれじゃ」 頬に触れようとする手は、するりと抜けて行く。「この世界は生きにくいよ」 だめ押しの様に、倉瀬は問いかけた。トモミは即座に答えた。「構わない」「この世界には、嘘をつく奴ばかりだ。記憶と計算だけは凄いけど単純なお前を騙そうとする奴も多い。お前はこれから先、今までよりずっと、自分自身の感覚を守るために、戦い続けて、傷ついていくだけかもしれない」「それでも」 トモミはマキノの身体を、ベースごと抱え込もうとする。「それでも先輩、ワタシは、ここに居たい。彼と、居たいんだ」 そうか、と倉瀬はうなづいた。 そして不意に、彼女の身体を横抱きにすると、再びガラスの中へと飛び込んだ。「先輩、何、ああああああ」 心が、突然のことに悲鳴を上げる。だけどその悲鳴をもう彼は聞かなかった。 そのまま彼は彼女を、眠る彼女の身体の上に押し込んだ。 *「…君、牧野君」 ゆさゆさ、と肩を揺さぶられ、牧野は目を覚ました。「トモさ…あ…」「残念ながら、私でごめんね」 いい夢を見ていた、と彼は思った。トモミが自分を抱きしめている、夢。 だけど目を覚ませば現実がそこにある。そこに居たのはトモミではなく、看護婦だった。 さすがに毎日毎日、学校帰りにやって来ている彼は看護婦にはお馴染みになっていた。「心配もいいけど、そんなびしょ濡れで寝てたら、風邪ひくわよ」 彼は黙ってうなづいた。すると看護婦はガラス窓の向こう側を示す。「ほら、彼女ががんばってるのに、あなたまで倒れたら、困るでしょう?」 眠っている彼女の姿。包帯をぐるぐるに巻かれた頭、点滴のために右だけ出された腕。見えるのはそれだけだ。「うん、…トモさんに、怒られるね」「だったら上だけでも着替えなさいな。貸してあげるから」 うん、と彼はうなづいた。 もう十日だった。毎日毎日、学校が退けたらこの病院へと飛んで来る。本当は、学校だって休んで、ずっと見ていたかった。だけどそれには、「B・F」のメンバーからストップがかかった。ナナからは「意識が戻ったら連絡する」とも言われた。 そして十日。雨が外では降っている。ひどい降りだった。朝方はやはり降る気配など見せなかったので、傘を持たずに学校へ行った。だから病院に走る途中で空の色が変わったのでやばい、と思った。そして案の定降られた。 でもこの音は、やっぱり心地よいよ、トモさん。 ガラス窓の向こうの彼女に、牧野は内心つぶやく。 あなたと一緒に、雨の音を、ずっとずっと、聞いていたいよ。「牧野君! ほらこっちにシャツがあるわ」 あ、はい、と彼はその場を離れようとした。 と。 ん? と彼はふともう一度、ガラス窓の方を向く。違和感。「どうしたの? 牧野君」 看護婦はシャツを手にしたまま、彼の方へと近づいて行く。「ねえ看護婦さん…点滴って、両腕だった?」「え?」 二人で目を凝らす。左腕が、胸の上に乗せられていた。「牧野君…」「看護婦さん…」 二人は思わず顔を見合わせた。 *「よ、ご苦労さん」 気がつくと、目の前には再び管理人が足を組んで椅子に掛けていた。「これでいいのかい?」「上等。歪みは消えた。俺的には大オッケー」 ふうん、と倉瀬はうなづいた。「じゃあ俺の役目も、これで終わりだろ?」「ああ。お前は行くべき所へ連れて行かれる」「連れて」「その先は俺の知ったことじゃない。無責任なんて言うなよ。高次の連中のすることなんだから、俺は手が出せない、ってことだ」「別にいいよ。俺も気がかりは無いから」 倉瀬はくっ、と笑った。「あっちの女の子は? お前の『カノジョ』」「ああ…あいつは強い。どうにかして生きてくだろ。そういえば、あんたが今言うまで、ずっと忘れてた。…ひでぇ奴」 全くだ、と管理人は言った。「でもまあ、これで俺もまた、休める。物事は流れるままに、行くべき場所へ」「あんたはどうなんだ、管理人」 俺? と管理人は面白そうに問い返す。「そういうこと、聞く奴も珍しいな」「あんたも元々は俺の様な、何処かの世界の出身なんだろう?」「まあね。でも」 ちょい、と管理人は倉瀬を手招きする。「俺に、触ってみな」 突然何を言い出すんだ、とばかりに倉瀬は顔をしかめた。いいから、と管理人は彼を無理矢理近づけた。「…え?」 するり、と手はすりぬけた。思わず彼は管理人の顔を見上げた。その顔に手を伸ばす。栗色の長い髪に指を近づける。するり。「どうして。だって、俺はトモミに触れられた。あんたも、その類じゃないのか?」 いいや、と管理人は首を横に振った。「お前に俺は触れられない。俺は生身だから」「生身」「そう、この空間で唯一の生身。唯一、ってとこがミソでね。代わりが来ないとね」 いや違うな、と管理人は空をあおぐ。「俺の居た世界の生身の奴が来ない限り、だ。前に紛れ込んだ奴が居たけど、別の所の奴だったから叩き出してやった」「他の世界じゃ、いけないのか? だってここでたった一人なんて…」 ばーか、と管理人は口の両端を上げた。「そんなこと聞いてる暇があったら、次の世界への希望を少しでも考えろよ」「え、え?」「次に生きる場所が何処か、は結局皆自分が決めるんだよ。願えよ。次にどういう場所で生きたいのか。ほら、もうお前消えかけてる」 あ、と倉瀬は自分の手を見る。本当だ、透けてる。「管…人、…は…」 声が。どんどん身体が、意識がおぼろげになって行くのを倉瀬は感じた。次。自分の生きたい世界。でも管理人は。「俺の生きる世界は、俺が決める」 最後に倉瀬の意識が感じたのは、その言葉だった。 終わったな、と管理人は思った。 ここまで自分に言わせるなよ、とも。 自分の居た世界に近い者にはつい言ってしまう。それもこれも、歪みの原因のくせに、自分に何故か同情するからだ。 ばーか、と管理人はその都度相手に言う。本当にそう思う。そんなこと考えるくらいなら、自分の次のことを考えろ。どうせ俺には滅多にそんなチャンス、来ないんだ…でも。 ゼロじゃない。彼は思う。可能性はゼロじゃない。その時には、誰でもいい。転がり込んできた奴をここに置いて、自分はあの世界に戻るんだ。 でもとりあえず今は、その時じゃない。 またきっと、何かあったらお呼びがかかる。 少し疲れた。 彼は空間にその身体を沈み込ませる。 頼むから虫達、俺の身体まで食ってしまわないでくれよ。 彼が次に起こされるのはいつなのか、誰も知らない。
2005.06.16
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「で、結局、監督には何も言わないで、行ってしまうつもり?」「ええ」 きっぱりとフォーレン夫人/エラは言う。「今私達が『再会』しても、何もならないわ。私はあの時死んだ。それでいいのよ」「本当?」 ぎゅっ、とテーブルの上に置いた手が硬く握りしめられる。「だって、ヨギ、彼は私に気付かなかったのよ」 それは、とヨギは言葉に詰まる。 それは仕方ないだろう、と思ったが、そのまま口にできることではない。 幾ら何でも、昔「死んだ」恋人が、姿形を変えて現れても、それは… どう言ったものだろうか、と彼は言葉を捜した。…と、その時だった。 おおっ、と学生達の間から声が上がった。「何だ?」 二人も画面に視線を移す。 そこには、時々ニュースで目にする、アンジェラス軍の総司令官の姿があった。 画面を見つめる彼等の背中が緊張したものとなる。 ヨギはじっと息を詰めて、総司令官の姿を見つめる。『…今回の要求は妥当なものである、と判断した』 息を呑む音が、食堂中に、響く。『よって、詳しい資料等を検討の結果、今回の建て替えは行わないものとする』 わっ、とその場がその瞬間、沸き上がった。 やったやった、と立ち上がり、跳ね回る者もいれば、隣の友達と抱き合って泣く者も居る。 特にそれは、連日細かい資料を、慣れない手で打ち込んでいたスタッフに多かった。 ああこれで報われる! そんな気持ちが、一気にこの食堂中に沸き上がり、膨れ上がった。「ちょっと待て落ち着け! まだ何か…」 ヨギの声に周囲が一瞬静まる。『…現在の建築物を改修し、活用する方針とするが、その際には、コヴィエ住民諸君の積極的な支援を、期待すものとする』 おおおお、と再び腕が上がった。 やってやるぜ! と声も上がる。そんな条件だったら、大歓迎だった。「やったね、エラさん」「皆の勝利よ、ヨギ」 二人は右手を差し出し、ぱん、と大きく合わせる。「満足?」「満足だよ。また新しい仕事に、これから忙しくなるぞーっ!」 彼は腕を上げ、仲間達に声を張り上げる。うぉーっ、と皆がその声に応えた。「…でもこれで、本当に仕事も終わりね」 彼女はつぶやく。「エラ…」「ミセス・フォーレン?」「私の『仕事』は今回の保存活動についてだったし…」「あ、ちょっと待って、監督だよ監督」 学生の一人が、画面を指さした。 議長が代表である監督にマイクを回していた。 ありがとうございます、と彼は頭を深く下げた。いつもの作業着姿とは違って、スーツ姿だった。「…こんなスーツが似合わない『有名建築家』もねえよなあ」と誰かの声が飛ぶ。全くだ、とエラも思う。『そして少しいいですか』 画面の中の彼は、議長と総司令官に向かって発言の許可を求めた。 二人とも、大きくうなづいた。『…発言許可、ありがとうございます。キュア・ファミ・ダーリニイです。今回この活動における監督をさせていただきました』 ああ、似合わないなあ、とあらためてエラは思う。こういうあいさつは好きではないひとだったというのに。『…自分はこの地の人間ではありません。しかしこの地の建築を深く愛するという意味では、この地の人々と同じでありたいと思います』 うんうん、と座り直した学生達はうなづく。確かに彼等にとってそうだった。この「有名建築家」はずっと、自分達と同じ所で、がんばってきたのだ。 出身地なんて、関係はない。『しかし、…実は一時期、私はこの地を憎んだことすらあります。ここ、コヴィエは、かつて私の大切な人を、亡くした場所でもあるからです』 議場が少しざわつく。 そんな話、そこでしなくてもいいのに、とエラはテーブルの上で手を握りしめる。『しかし』 静かな声だった。議場のざわめきは次第に治まっていく。 『しかし、その気持ちは、次第に変わってきました』 そうなのか? エラは彼の姿をじっと見つめる。『…ここは彼女がとても愛した場所でした。そして実際、やってきてみて、その気持ちがよく分かりました。きっと彼女が居たなら、この同じ空の下、やはりこう動くだろう、と思って活動を始めたのです』 そうだったのか、と中にはじんわりと涙ぐむ学生も居た。ぽん、とヨギはエラの肩に手を置く。『…そんな、ひどく私的な思いが発端であったのに、賛同してくださった皆様に、そしてそんな我々の意見を真っ当に受け止めて審議してくださった皆様に、私は、大変感謝いたします。どうも、ありがとうございました!』 議場に、聞き入っていた食堂に、さざ波の様に拍手がわき起こった。 エラもつられて手を叩こうとした。 と。『それに』 え、と彼女はその手を止めた。『どうやらこの地は、私にその大切な人を返してくれたようです』 息が止まるか、とエラは思った。『学生諸君、今現在、この会議を見ているか?』 おお! と手が上がった。『見ていたなら、ミセス・フォーレンをそこから出さない様に!』 ええっ、と学生達の目が一斉に後ろの彼女に注がれる。いつの間にか、肩を掴んだヨギの力が、充分強くなっていた。「ちょ、ちょっと、ヨギ…」「聞いたでしょ、エラ」 にっこりとヨギは笑った。「彼は、気付いていたよ」 あ、とエラは思わず力が抜けて行くのが判る。くたくた、と立ち上がりかけた腰が、すとん、とまた椅子の中に収まった。『そして伝言をお願いする』 しん、と食堂内が静まる。『もう離さないから、覚悟するように、と。嫌だと言っても、さらって行くから、と』 失礼致しました、と彼は最後に締めくくって、マイクを下ろした。 そして今度こそ、議場と食堂の両方に、拍手と歓声が鳴り響いた。 どうしたものか、とエラは頭が混乱するのを覚えていた。ヨギに押さえられているから、だけでなく、力が入らない。 だけど。「おーい、今日予約しておいた運送会社、キャンセルね」 ヨギは仲間に向かってそう呼びかけた。 何が何だか判らないが、高揚した気持ちの学生達は、おお、と声を上げる。「ね。エラ。彼もそう言ってるからね。出発は見合わせてね」「…ヨギ、あなた知っていたの? 彼が気付いたの、いえ、あなたが言ったの?」 いいや、と彼は首を横に振る。「俺は言ってないよ。ただ彼に、そうじゃないか、って相談はされたよ。俺があなたと昔知り合いだったことは、彼に言っていたから」「…」 彼女は微妙に顔を歪めた。「でも俺は、そうだ、とは言ってない。そう思うのだったら、よくあなたを見て、と言った。それだけだよ」 忘れていなければ。まだ、もう一度、会いたいと思えるなら。「だから、待ってておやりよ。絶対に」 ぽん、とそれまで押さえつけるように力を込めていた手を、肩から外した。「よーっしみんな、行くぞーっ、パーティの支度だーっ!!」 ヨギはそう言うと、学生達を引き連れて出て行った。 ぽつん、と彼女は、残された食堂で座りながら、次第に胸の中がざわつくのを感じていた。 不安はある。 当然あるのだ。しかしその一方で、期待が押し寄せてくる。 いいのだろうか、という思いと、嬉しい、という気持ちが。 亡くなった夫は終始、自分が幸せであることを望んでいた。 自分にはもったいない様な人だった。本当に、自分を愛してくれた。 だから、いくら幸せに、と言ってくれたところで、はいそうですか、とキュアとそのまま再会することはできなかった。 だからわざわざ未亡人の名義でここへ入り込んだ。 それで彼が気付くなら、自分は名乗り出よう、と思ったのだ。 賭けだった。 気付かなかったら、それでいい。自分は一人で、彼と、夫の記憶だけ抱えて生きて行こう。そう思っていたのだ。 だがどうやら、賭けは自分の勝ちだったらしい。 だったら迷うことはない。 彼女は顔を上げた。 ばたばたと、廊下を走ってくる足音が、彼女の耳に、聞こえてきた。
2005.06.07
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エラは思わず問い返していた。言葉の意味が、よく判らない。 教授もさすがに言葉が足りない、と思ったのか、すぐに付け足した。「…各地にある、歴史のある建物の中でも、構造が、現在の主流のものとは違うものもあるだろう? そういうものを『如何に効率良く破壊するか』そのために、専門家が必要だ、ということなんだ」「…それって…」 教授は口をつぐみ、目も閉じた。「それって、何ですか!?」 彼女は思わず叫んでいた。「建物を作るために参加するならともかく、壊すために参加、なんですか?」「そうなんだよ。信じたくはなかったが…」 言いかけて、教授はいや、と言い直した。「そういう要請を軍がするだろうことは、想像できた。だから僕は、絶対にそれには与したくなかった。正解だったよ。何の仕事か知らないで行って、目の前で、植民初期の建物が破壊されるなんて…」 ふるふる、と教授は首を横に振る。「…それは、仕方なく、ですか?」「いや、前から君にも言っていたかもしれないけど…ディフィールド教授に関しては、積極的な参加だ。…実際、ここで名と顔を売っておけば、この戦争が終わった後の、各地の復興計画が起きた時に何と言っても、優位に立てるだろうからね…でも」 教授は唇を強く噛んだ。エラもうなづいた。絶対に、この教授にはできないことだろう、と思う。「…そしてキュアは」 びく、と彼女は身体を奮わせた。「キュアは、それを知った時、とうとう教授に造反した」「…やはり」 あの男がしない訳がない、と彼女は思った。 確かに、やがて全星系を飛び回るためには名を高めておきたい、という下心有りで入った研究室である。 しかし、それにも限度というものがあるだろう。 ディフィールド教授が、破壊目的の参加をすることに、キュアが平気で居るはずがない。「ディフィールド教授は、そんな学生なら要らない、とばかりに、彼の提出した卒業製作計画を研究室に置いていった」「置いて…」「一応向こうでも、愛弟子達にはちゃんとそれなりに通信で指導できる様に、資料やら何やら持っていったらしい。待遇は良いだろうから、そのくらいの場所はあるだろう。時間もあるだろう。しかし出かけた後の研究室に、キュアの提出したものは、無造作に置き忘れられていたそうだ」「それって…」 彼女の中に、かっと燃えるものがあった。「それが故意なのか、どうなのかは判らない。ただ一つそこではっきりしたのは、彼の卒業製作は、期間内に絶対に終了しない、ということだった。キュアは確か、授業料免除の学生だろう?」「ええ。そう聞いたことがあります」「その立場の学生には、留年とか落第というのは許されないんだ」「…」「つまり、キュアは教授から、この学校をとっとと出て行け、と宣告されたようなものだったんだよ」「…ひどい…それって…ひどすぎます」「彼の選択が最初から間違っていた、と言ったらそれまでだけど…でも僕が学生だったとしても、キュアと同じことをしたかもしれない。ただ僕は彼より消極的だから」 そう言ってエフウッド教授は、やや寂しそうに苦笑した。「彼はその直後、退学届を出して、恐ろしい速さでこの学校を去っていったんだ。誰も行き先を聞いていないし、誰も聞こうとしなかったらしい」 だろうな、と彼女は思う。彼はそういうひとだった。「どうする? 彼の消息を追うかい?」「いいえ」 エラは首を横に振る。「…今は、できません」「君は、彼のことが好きだったのだろう?」「ええ。好きでした」 そして少し間を置く。「…いえ今でも好きです。大好きです。彼の行動を聞いて、…やっぱり、あたし、あのひとのこと、大好きです。誰よりも。だけど、あたし、今どんな顔をしていると思いますか?」 ああ…と教授はため息をついた。「…それにあたし、来月結婚するんです」「それは」 さすがに教授も、それには驚いたようだった。「それは、君が前に言っていたあの婚約者、のことかい?」「ええ。変わった人なんです。あたしの顔が変わったというのに、身体が人工のものに変わってしまったというのに…もう子供はできないというのに、それがどうしたの、という顔で居てくれたものですから」 エラはそれだけ、一気にまくし立てた。「本当ですよ、教授。だからあたし後悔はしていないんです。後悔は」「判ったエラ、判ったから」 興奮した口調で泣きそうな顔で言う彼女に、教授はなだめる様に手を振った。「…あたし、キュアが好きなんです。今でも、誰よりも、すごく、好きなんです。一緒に居たいんです。甘やかして、甘えて、ずっと側に居たいんです」 吐き出す様に言うと、彼女は天井をあおいだ。「…でも、自分の力で立ちたかったのに、そのせいで、周囲に迷惑をかけてしまった。両親を悲しませた。軍の手まで借りてしまった。…今のあたしは、彼と並んで歩くことは、できないと思うんです」「そう…思うんだね」「ええ」 顔を伏せる彼女に、ふう、と教授はため息をつく。「そう君が言うなら、それは仕方ないね。…僕はもう、何処か遠い空の下で、君達がいつかこだわりなく会える日が来るのを、待つしかないんだろうね」 そんな日が来るのだろうか、とエラはふと窓の外を見た。 空は宇宙に続いて、何処か彼の居る場所に続いているというのに。彼女にはその距離が果てしなく遠く思えた。
2005.06.06
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「あなたはもうここ一ヶ月近く眠っていたのですよ」とやってきた「先生」は言った。 つまりはここは病院なのだ、と彼女はその時、ようやく知った。 母親に呑ませてもらった水のおかげで、ようやく声が出せる様になる。「あたしは今、何処に居るのですか? 確かコヴィエに居たはず…」「コヴィエから、運んできてもらったのよ、軍の方々に!」 はっ、と彼女は目を大きく開ける。「どういう…ことですか?」 「先生」…医師は何か言いたそうな母親を手で制すと、彼女の枕元に座り、ゆっくりとした口調で話しかけた。「あなたは、コヴィエでアンジェラスの軍の爆撃を受けたのです。それは覚えてますか?」 彼女はうなづく。 その時も一応知ってはいた。だから余計に、あの地へ行くことを実家には内緒にしていたのだ。 実家はウェネイクの名家である。少なからず、軍とは関わりがある。「その爆撃の跡の調査をしていた時に、被害を受けた建物の中から、あなたが出てきたのだ、と彼らは言われました。爆撃の翌日のことです。ウェネイクの学生証が出てきたので慌てて保護したと…こう言っては何ですが、生きてるのが不思議な程だったそうです」 どういうことだろう、と彼女は思う。「ですので、とにかくあなたの身体を冷凍処理し、こちらへと運ばれたそうです」 冷凍処理。まるでそれでは死体の様ではないか。彼女は震える声で訊ねる。「…あたしは、死んだのですか?」「いいえ、生きています。あなたはほら、そうやって生きて喋ってるではないですか」「そうよエラ、あなた生きてるのよ!」 しかしそういう母親の瞳は、何故か濡れているではないか。「…あたしの身体は、どうなっているのですか?」 彼女は弱々しいが、はっきりと問いかけた。 次第にぼんやりしていた頭も、考えの焦点を結びつつあった。 医師は母親と顔を見合わせ、ゆっくりうなづく。「…エラさん、あなたは強い人だ、と信じています。ですから、今から言うことをしっかり聞いてください」 彼女はうなづくこともできないので、はい、と返事をした。 その声がひどく乾いているのが自分でも不思議だった。「あなたの身体は、本当に生きてるのが不思議な程、滅茶苦茶だったそうです。元の身体を修復する、という形を取るのが不可能な程」 それは。 彼女は目を見開く。予想はしていた。だけど確かに、あまり聞きたい話では。「あなたの身体は、現在脳を除き、全てが人工のものに取り替えられています」 やはりそうか。 彼女の中で、そんな言葉が響いた。 その後の医師の言葉は、またぼんやりとし始めた頭の中で、上手く整理されなかった。 冷凍保存して、ウェネイクまでの行程がどれだけだったとか、その後ちょうどいい身体の供給に手間取ったとか、そのパーツごとに取り替えるのではらちがあかないから、脳を移植したのだ、とか、未だそれは既製品のものだから顔の整形ができていない、とか。 顔。「…あたし…今どんな顔をしているのですか?」 包帯をしている、という感触はない。 神経そのものは、反応速度にずれがあるのせよ、働いているのだ。顔の上を覆うものは何もないはずである。「…見ない方がいいでしょう。意識が回復しましたから、やがて整形の方も行いますし」「いいえ今」 急に声を出したので、そこでつまづく。 医師にうながされ、母親が自分の化粧ケースを取り出す。 ぱく、と音がして開いたその中を、エラはじっとのぞき込んだ。 黒い髪、黒い瞳。 見知らぬ顔が、そこにはあった。何処の誰が自分を見てるんだ。 しかし鏡の中の女の目は、確かに自分を見据えている。これは自分の顔なのだ。 ああ、と一言つぶやいて、彼女はのろのろ、と何とか動いた手で自分の顔を覆った。「…え、彼、居ないんですか?」「知らなかったの?」とエフウッド教授は、彼女に問い返した。 「新しい身体」のリハビリには二ヶ月程かかった。 それを終えたある日、彼女はウェネイク大学のキャンパスへと、久しぶりに出向いていた。 しかしそれは、学生としてではない。 彼女の学籍は、入院中に抹消されていた。 それが実家の両親のせいだ、とは判っていたが、今の彼女に反論できる術はなかった。 あの後、目を覚ましたと言って、仕事をなげうってやってきた父親は、命を落として何が研究だ、と彼女に怒鳴った。 怒鳴って、そして泣いた。 さすがにその姿を見たら、これ以上の研究を続けたい、と言うことは彼女にはできなくなってしまった。 母親は、自分が産んだ娘の身体が失われてしまったことを、いつまでも悲しがっていた。おそらくそれは、本人より強く。 本人は、と言えば、当初の衝撃を過ぎると、後は割り切っていた。どういう顔であろうが、自分は自分だ、という気持ちもあった。 だから、医師から元の顔への整形を告げられた時、彼女は拒否した。 両親は何故だ、と詰め寄ったが、それに対しては決して退かなかった。 戒めの様なものだ。 彼女は自分に言い聞かせる。好きなことに突っ走るのはいいが、そこには代償が必要かもしれない、という。 その時、二度目の父親の涙を見た。 そして、それを見ながら、もう一人、自分のために泣いてくれるだろう男のことを思い出していた。「キュア・ファミはもうこの学校には居ないんだよ」 エフウッド教授は念を押すように言った。 この教授も、全くの別人の顔をして入ってきた彼女に、当初ひどく驚いた。 IDを確認して、それでもまだ半信半疑だったくらいである。声もまた変わっているのだ。 まあ当然だろう、と彼女は思った。 だからかつての級友には、すれ違っても声もかけなかった。 彼らは自分に気付かなかった。それでいい、と彼女は思った。 長期休暇をとった後の突然の退学の理由をあれこれ問われるのは嬉しくはない。 しかし恩師には会っておきたい。会って何があったのかをちゃんと伝えておきたい、と彼女は思ったのだ。 彼女はコヴィエでの出来事を、覚えている限り教授に語った。建物の種類、自分の見た印象、その土地の人々の対応、…そしてあの少年のことも。「あたしが受けた、あの空襲で…どうなったんでしょうか。うちの人々はそのことについては絶対言ってはくれないし、あたし自身もやっぱり」「聞きにくい?」 ええ、とエラは答えた。「これが平和な時だったらともかく…この時期に、あたしが危険度『B』のところへわざわざ行ったのを、やっぱり怒っていますから。ケガをしたから、口に出してはそうそう怒らないけれど、もうその方面のことは考えても欲しくない、と思っているに違いないです」「まあ、親だしなあ」 納得したように教授もうなづいた。「…残念だけどね。僕としても。君の様に熱心な学生は居なかった。…これからも出てこないだろうね」「それは、買いかぶりですよ」 いやいや、と教授は手を横に振る。「…キュアは」 はっとして彼女は身構える。「もう、三ヶ月くらいになるかな。まだ君が」「…眠っていた頃、ですか」「ああ。はっきり言って、彼には最悪の時期だった、としか言い様がない。君がコヴィエで死んだ、という知らせが、この学部に入ってきたんだ」「…あたし、死んだことになってるんですか?」「いや、無論、その後に正式情報が入っても来たんだが、一度学内に広まった噂というのはなかなか消えないだろう? 君は弁明に来られる状態ではなかった訳だし」「それはそうですが」 彼女はぐっ、と両手をひざの上で握った。「彼は荒れたね、その頃。どんな様子かは、誰も知らないが」「知らない…ですか」「扉がね。…ずっと閉まったままだったからね」 しかしエラには予想はついていた。 きっと彼が以前に言った様に、部屋は滅茶苦茶になっただろう。 泣きわめいて、手当たり次第に物を投げつけただろう。子供の様に。 でも誰に見られることなく。「…追い打ちをかける様に、例の、ディフィールド教授の軍の要請が本決まりになったんだ。と、同時に、その任務の内容も、明らかになった。そこで彼は切れてしまったんだ」「任務、って何ですか?」「…破壊工作だよ」「は」
2005.06.05
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「それにしてもさ」 ヨギは食堂のTV画面を見ながらつぶやいた。 この反対運動の集団の皆が皆、その日は画面に釘づけだった。 ただし、大きな画面のTVは、この集団が居座っているソヴィア中央大学の中でも、食堂の中にしかない。 規模の小さな学校なのだ。大きなテーブルに、皆椅子を持ち寄って、ぐるりと取り囲んでいる。 キュア・ファミ・ダーリニイ監督が、星系議会と軍に対する陳述書を提出し、その件についての審議が行われていた。その様子が今朝から、生中継されているのだ。 学生ボランティアの背中を見ながら、リーダー格であるヨギは、今回の資料作成の立て役者であるフォーレン夫人と共に、少し離れた位置に座っていた。「…仕事終わったら、あなたは帰ってしまうの? ウェストウェストに」「ええ。夫の墓がそこにはあるし。それに仕事もね」「仕事も…あったんだ…」「彼は私が幸せに生きて行ってくれ、と充分な資金を残してくれたけど、それだけじゃ、ただ生きてくだけでしょ」「…まあそれはそうだけど。…確かにあなた、そういうところは昔と変わっていないんだものね」「君は、変わったけれどね、ヨギ」 小声の二人の会話は、画面に集中している学生達には聞こえない。「でも本当に驚いたんだよ、エラ」 ヨギはぐい、と彼女の方へ顔を近づける。「俺は本当に、十年前、あなたは死んだと思ったんだ。それに何よりも、その姿」「変かしら?」 彼女はふっ、と笑う。「変というか…あの頃の俺にとって、あなたはおねーさんだったのに、今は同じくらいにしか見えないし」「まあね。でも、それはそれでいい、と思うのよ」 ふうん、とヨギはうなづく。そんなものかね、と。 * あの時。 気が付いた時、エラは自分が何処に居るのか判らなかった。 ぼんやりとした視界の中で、クリーム色の天井が、コウモリの羽根のようにカーブしているのが判った。 ああ教会のようだわ、と何となく思ったりしたのだが、教会というものが、一体何のことなのか、すぐには思い出せなかった。 しかし、自分を近くで、心配そうに見ている人の姿は、すぐに判った。「…お母様」 大学ではまず使わなかったその言葉が、すんなりと口から出る。 何故彼女がそこに居るのだろう。 エラにはよく事態が飲み込めなかった。「気が付いたわ…先生! 先生!」 母親は、部屋の中に備え付けてある端末に叫ぶ。 こうまでこの母親が、取り乱した所を彼女は見たことがなかった。 しかし「先生」。 何の先生だというのだろう。ふっと頭の位置を変える。「あ!」 小さく叫ぶ。背中を痛みが大きくよぎったのだ。「まだ動いては、駄目よ!」 端末に叫んでいた母親は、慌てて彼女に駆け寄って、位置をずらしたまま、動けない身体を、その白い細い手で、やっとのことで元に戻す。「もうじき、先生がいらっしゃるわ。もう大丈夫よ」 大丈夫、とは、どういうことなんだろう。 彼女は問いかけたかった。 だが、唇も喉もからからで、上手く声が出なかった。 いや、声どころでは無い。身体がひどく重くて、まるで動かせなかったのだ。
2005.06.04
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「フォーレンです。よろしくお願いします」 そう言って、遠方からはるばるやってきたという女性は、深々と頭を下げた。「…おい、本当にミセスなのか?」「しかも未亡人だってよ。信じられるか?」 ボランティアの学生達はざわめく。 黒い長い髪を、後ろで緩い三つ編みにまとめたその女性は、「ミセス」とか「未亡人」という単語から想像される姿とは、全くかけ離れていた。 どう見ても、ここに集まった学生と同じくらいにしか見えない。 ただこれだけは言えるな、と握手の手を出した監督は思う。 いい育ちのお嬢さんだったのだろう、と。物腰が語っている。 彼はそんな女性を知っていた。「はるばる遠くからようこそ、フォーレン夫人。ウェストウェスト星系からの旅は、長かったでしょう」「いえ、それほどでは。昔はもっと長い船の旅をしたこともありますわ」 彼女は微妙な笑いを浮かべる。 何となくヨギはそれを見て、あまり表情の動かない人だな、という印象を受けた。 監督は早速、とばかりに彼女を「仕事場」へ連れて行った。 そこにはいつもの通り、ボランティアの学生が多数「作業」に取り組んでいる。「あなたにはここで、彼らと共に、我々の収集したデータの分類をお願いしたいのです」「はい」「…ただ皆、基本的に素人ですから、あなたがリーダーとなってびしびしと進めていただけると、ありがたいのですが」「それで皆さんはよろしいのですの?」「見てやってください。この期待の目を!」 彼は苦笑しつつ、学生達を指す。 あらあら、と彼女はすがる様な目で自分を見る学生達に微笑んだ。彼らの目の下にはくっきりと隈ができていた。「わかりました。できるだけのことは致します。私も、ここの建物は大好きですもの」「…ご存じなのですか?」「ええ。そうでなければ、わざわざ長い旅はしませんことよ」 ふふふ、と彼女はそう言ってまた笑った。「お疲れさまあ」「お疲れさまです。また明日」「また残りですか? ミセス・フォーレン」 夜になり、学生達が一人二人と作業場から消えていく。 彼らが入れたデータを一通りチェックし、間違いを正し、とりまとめるのが、ここしばらくの彼女の日課だった。「ええもうしばらく続けて行くわ。あなた方は、早くお帰りなさいね」 ありがとうございます~、としばらく酷使されていた彼等は、本気でその言葉を彼女に投げかけた。 静かな部屋に、彼女の打つ端末のキーの音だけがかたかたと響く。 と、ふと、扉をノックする音が響いた。「はい?」 彼女は答える。「ダーリニイです」 声とともに、監督は扉を開けた。彼女は驚いて振り向く。「まあ監督。どうしましたの? もう皆、帰りましたよ」「ええ。でもあなたは続けてますね」「それはもう。これが私のお仕事ですから」「お若いですのに」「あらそれは、皮肉ですこと?」 くす、と彼女は笑った。ふと見ると、彼の手には、何やら大きな紙袋があった。「何てすの、それ」「ああ、そうそう。もう少しかかるなら、ご一緒に食事でも、と思いまして」 監督は中から、近くの店で調達してきたらしい、ホットドッグとサラダとコーンポタージュのパックを取り出した。 ほんの少し前に買ってきたらしく、ふたを開けたポタージュのパックからは、まだ湯気が立っている。「あら、美味しそう」「でしょう。でも、よく学生達からは、有名な建築家らしくない、と言われますがね」「確かに、そうですわね。私もキュア・ファミ氏のお手伝いができる、なんて思ってもみませんでしたわ」「俺は別に『有名な』建築家になってるつもりはないんですけどね…」 彼は苦笑する。「なりたかったことは、ありますの?」 ポタージュの厚手のカップを両手でくるむように持ちながら、彼女は問いかけた。 ええ、と監督はやや照れくさそうに答えた。「若い時の話ですよ。ウェネイク大学に居たこともあるんですが…」「まあ。あそこはたいそう難しい所でしょう?」」「そうですね。でも、結局あそこの体質に耐えられなくて、出てしまいました。それからはもう、現場現場、ですね」「そのお話…もう少し聞きたいですわ」「大した話ではないですよ」 彼は目を伏せる。「聞いてみなくては、判らないでしょう?」 フォーレン夫人は口元をふっ、と上げた。それにつられるように、彼もまた、口を開いた。「そうですね…当時は俺も、血の気の多い学生でしたから、教授にたてついてしまったんですよ」「あら、勇ましい」「そんなものじゃ、ないです」 彼は苦笑する。「今から考えれば、確かにそうなんですよ」 自嘲するでもない。淡々とした口調で彼は話し出した。「あの、派閥抗争がはなはだしい学界で、分野トップの位置でありつづけるというのは、単に純粋に、建築学のエキスパート、優秀なアーキテクト、というだけじゃ駄目なんですよ」「そうなんですか?」「ええ。周囲の、色んなしがらみ、それこそ、軍の力も借りなくてはならないこともある訳で…もしかしたら、軍の要請を受けないことには、後でウェネイクの建築学部自体の立場がまずいことになったかもしれない、と、今では判ってもいるのですが」「それで納得してしまったのですか? その時のたてついた教授には」「いえ」 彼は苦笑する。「今でも、…自分には、無理でしょうね」「あらどうして。何かすごい要請を軍から受けていたのでしょう?」「…ねえミセス・フォーレン」 はい? と彼女は問い返す。「…例えば、『見せしめ』のために、このコヴィエの建物を、一気に破壊する、ということがあったらどうします?」「それは、許せませんね」 彼女は即座に答える。「でしょう? だけどその時、俺の担当教授だったひとは、そういう時の『効率の良い破壊工作』の方法のために、出向いていったのですよ」「それは…嫌ですわね」「だから、自分の選択はそう間違っていないと思いますよ。今になっても」「ええ、それは正しいことだと思いますわ。でも、それでも振り切って行くのには、勇気が要ったでしょう? 六回生では」 ふと彼の眉がぴく、と動く。「…ちょうど当時、恋人を亡くしたんです」「あ」 彼女は口に手を当てる。「そうですね、彼女もあなたの様に、いい所のお嬢さんだったんですが、…ちょっとそういうタイプではなかったですね」「あら、それは彼女に対して誉めてるのかしら?」「うーん…誉めてるというと、あなたに失礼だし、でもけなしている訳ではないし」「正直な人ですね」 くすくす、と彼女は笑った。「まあ、そういうことは、もうどうでもいいです。だからその頃、もう何が何でもどうでもいい、と思っていたのかもしれませんね。結果としては悪くはなかった訳だし」「今でも、その彼女のことは…失礼ですが、ご結婚は?」 彼は首を横に振った。「何となく、その気になれなかったんですよ。しがない一人暮らしです。でなくちゃ、今ここにいきなり来るなんて」「できませんよね」と彼女も笑った。「…彼女は、このコヴィエで空襲に合って死んだ、と聞きました。ここの建物を卒業研究のテーマに選んだので、当時危険度『B』だったにも関わらず、出かけたのです」「…それは、無謀でしたわね。亡くなった方には失礼ですが…」「今はそれでも危険度『Cマイナス』から『D』ですからいいですが…」 彼はそこで口を閉じた。手にした食事に、なかなか口を付けられずにいる。「さすがにその時には、かなり自分も、やけになりましたね」「でもやけになるのは、当然ではありませんこと? 泣くのも物にあたるのも、当然だと思いますわ。…そんなに思われれば、その方も本望でしょうね」「…いえ? …ええ」 少しばかり奇妙な表情をしながら、彼は首を横に振る。「話を戻しましょうか」 そうですね、と彼女もうなづく。「…一年前のことです。ちょうど俺は、大きな銀行の仕事が終わったばかりで、少しばかり休暇を取ろうか、と思っていたんですよ。そんな時に、このコヴィエの建物が、軍から取り壊し命令が出ている、ということを聞いて、居ても立ってもいられなくなったんです。…でも、その時まで、すっぱり、彼女のことは忘れていました」「すっぱり? 、ですか?」「ええ、すっぱり。…忘れようとした訳ではないけれど、…忘れたかったのかもしれません」「辛すぎて?」「でしょうね。でも、コヴィエのことを聞いてから、どうしても、思い出さずにはいられなかった。彼女があれほど好きだった場所に、俺も行ってみたかった。そして」「彼女の好きだったものを守りたいと思った?」 彼は顔を上げた。「ええ。そうです。彼女の居た、あの空の下で、彼女がその瞬間まで好きだったものを、どうしても」「だったら、嬉しいわ」「え?」 それは小さなつぶやきだった。「いえ、彼女も喜ぶだろう、と思いますわ」 コーヒー、入れましょうね、とフォーレン夫人は立ち上がった。
2005.06.03
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「おーい、今日の話し合いの結果、タイプしておいてくれたか?」 現場監督はひょい、と隣室に顔をのぞかせた。 かちゃかちゃ、という旧式の端末を叩く音が、途切れる。 洗いざらしのTシャツとジーンズの青年達が、数名、顔を上げた。「すいません、まだ途中です…専門用語が多くて、何か、詰まっちまうんですよ」 ふう、と現場監督はため息をついた。 しかしここで言葉を荒げてはいけない。何せ彼らはボランティアなのだ。 現在彼がこの運動の本拠地としているのも、この地元の学校、ソヴィア中央大学の校舎の一室であるし、その機材を借りてやっと成り立っているのだ。「そう疲れてないでくださいよ、監督。皆、一生懸命は、一生懸命なんですから」「それはそうなんだけどな、ヨギ」 監督は好き勝手に跳ね回る髪の毛をうるさそうにかき回し、バンダナを巻き直す。 だったらもう少し、切ればいいのに、と皆こっそりつぶやいているのだが、本人はそんなことはお構いなしである。「それに、もうじきそういった整理とか分類とか、情報ファイリングの専門が来るってことじゃないですか。もうじきですよ、ね、もうじき」 ああ、と監督は大きくうなづいた。「そう言えば、そうだったなあ。うんうんうん。…そうしたらもう少し、偉いさん方を動かせる様な、びしっとしたデータが作れるんだけどなあ」「まあ今は、コーヒーでもどうぞ」 ヨギと呼ばれた青年は、あらかじめポットに入ったそれを紙コップに入れると、監督に両手で差し出した。 ありがとう、と監督は苦笑しながらそれを受け取る。「それにしても、君はよく働いてくれるな、ヨギ。大変だろうに」「や、そうでも…」「いや、この連中をまとめるのは。そもそも、君にだって、自分の仕事はあるのだろうに」「まあそれは…」 ヨギは照れた様に笑う。「…俺は一応、ここの集団の中では年長者だし…仕事持ちなのは、皆同じだし」 そして軽く目を伏せる。「それに何と言ったって、好きですからね。ここの建物が」 ああ、と監督もうなづく。「キュア監督も、お好きだから、こうやって、わざわざ仕事を中断して、いらしたのでしょう? 有名な建築家のくせに」 ははは、と監督は乾いた笑いを浮かべた。「そんなに有名という訳ではないよ」「ご謙遜を」「…そうだな、確かに俺は、辺境では有名かもしれんな。そっちを専門にやってきたから」 中央なぞ糞食らえ。彼の表情に軽く、そんな色が浮かぶ。「でもここではそうでもないだろう? このコヴィエは辺境という程、辺境じゃない」「ええそうです」 ヨギはうなづく。「それでいて、結構歴史が古い。だから下手に、軍から狙われたりするんですよね。そのあたり質が悪い。軍用施設に徴収されるだけならともかく、取り壊して建て直そう、なんて…冗談じゃないですよ」「そうだな。全くだ」 そして思い出したかの様に、監督はヨギに訊ねた。「そう言えば、その情報整理のエキスパート、何って名前だったかな。女性だったとは聞いているが」「えーと…何って言ったかな。ああそうそう、フォーレン夫人とか」「ミセスか…」「あ、でも未亡人だそうですよ」 そう言ってから、ヨギはちら、と意味深な視線を向けた。「だからって、監督、手出しはしないでくださいね」「俺が一体、何をするって」「いやだって、あまりにも監督、今まで女っ気なかったじゃないですか」「俺はなあ」「何がどう起こるかなんて、判りませんからねえ」 馬鹿、と監督はヨギの頭を軽くこづいた。
2005.06.02
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彼の字は確かにひどかった。 端末を基本的に使う生活の場合、どうしても肉筆はどんどん落ちていくのが普通だが、それ以上に、キュアの字は元々、みみずのたくりの類だった。 頭の回転が速いからだよ、と本人は言っていたが、それは理由の半分であろう、と彼女は思っていた。 確かに頭の回転が速い人は、字を書く際にもそのスピードを求める傾向がある。 すると筆記体はどんどん崩されていき、下手すると自分しか読めない様な事態に陥る。 一度、デートの約束を記したメモを受け取った時、あまりの字のひどさに、時間を間違えてひどいことになったこともあった。 ぷっ、と彼女は吹き出す。「…何だよいきなり。変だよエラ」「あ、ごめんごめん、ちょっと恋人のこと思い出して」「恋人、で笑う訳?」「あはははは」「それにしても、あんたかなり運がいいよね」 不意にヨギは言った。「何?」 エラは問い返す。 産業展示館の中を調査している時だった。 既に残り時間は、二日しかなかった。 予定は効率良く進み、あと残るはこの産業展示館と、この地の地上駅ターミナルだけだった。 小さなものからこまごまと効率良く進めたので、最後に二つ、代表的なものが残った。「運がいいって?」 ドーム型の天井がついている階段室を、屋上に向かって進みながら、彼女は問いかけた。 次第に細くなってくる階段なので、並んで行くことはできず、ヨギは後ろからついてくる状態だった。「空襲だよ。あんたが居る時を見計らったみたいに、最近無いじゃない」「ふーん。じゃああたしがずっと居れば、もう空襲は来ないかもね」「言うよなあ」 やや呆れた様に、彼は言う。「でも、実際そうかもしれないよな」「何よ。冗談と思ってたんじゃないの?」「あんたこの街、好きだろ?」「そうね」 即座に彼女は答える。「うん好き。でもそれはあくまで研究者として見た限りかもしれない。でも好きよ。この街は、すごくあたしは居てほっとする。ほら」 エラは途中の窓から、外を指さす。「何かね、ここにある建物は皆、緑とうまくとけあってるのよね」「どういう意味?」「ヨギがウェネイクや、他の惑星に行く機会があれば判るかもしれないけど、他の場所はそういう訳じゃないのよ」 それでもまだ首をひねる彼に、エラは補足する。「例えば、あたしの恋人…キュアっていうんだけどね」「変わった名だね」「そうかもね」 あはは、と彼女は笑う。「彼の故郷は、海がやたら多いから、人が住む場所が少ないのよね。そうすると、緑は必要最低限を残して、とにかく人の住む場所を作らなくちゃならないのよ」「へえ…ここは確かに大陸は、でかいよな」「そうすると、どうしても、作られる建物は、とにかく狭い場所に、できるだけたくさんの人を詰め込む様な形になってしまって…だからどんどんどんどん高く高くなってくし…どうしても緑を無理に開いてるから、しっくりこないのも当然だし」 実際に彼の故郷に行ったことがある訳ではない。それでも、キュアが見せてくれた写真で、それを感じ取るのは容易だった。「…だからまあ、ここに住んでる人たちには、やっぱりそれはそれで、言い分があるんだろうけど…」 彼女は言葉をにごす。 所詮自分は、外から来た人間で、上辺しか見ていないことは知っている。「でも、あたしはとにかく、ここのこうゆう部分が好きなのよ」「エラの言う、そのキュアさん? の故郷の様子は、いまいち俺には想像しにくいけど…でも、エラがここの建物が好きだってのはよく判るよ」「そう思ってくれる?」「そうでなくちゃ、あんな毎日毎日、こんないい歳のおねーさんが汗だくになって、砂ぼこりにまみれてるなんて、俺には判らないもん」「こら」 ふり向き、こん、とヨギの頭をつついた。 ―――その時だった。 酔っぱらったラッパの様な音が、半分開けられた窓から、飛び込んできた。 はっ、とヨギの表情が変わる。 エラは問いかける。「…今の音、何?」「…空襲警報だよ」「え? だってこないだのとは」「あれとは全然、規模が違うんだ!」 量が。 エラは先日の空襲を思い出す。あれと規模が違うというのか。 ヨギは彼女の手を掴むと、階段を走り降りる。彼の勢いにエラは思わず足を踏み外しそうになる。 それでも何とか、建物の外に出ると、ぶぁ…んという音が耳に響いた。「…空中母艦からの奴だ」 ヨギは険しい表情で空を見上げる。 どう違うのだろう、とエラもつられる。と。「あ!」 彼女は自分の手の中にあるものを見て声をあげた。忘れた!「ほら、向こうに待避壕があるから急いで」「ちょっと先に行って、あたし、中に資料を」「エラ!」 叫ぶ声が聞こえたが、彼女は振りきった。それは大切なものなのだ。どうしても。 その直後、産業展示館めがけて、爆弾が落とされた。 …大きな建物は、格好の爆撃目標なのだ…
2005.06.01
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「とにかく、今のこの広い広い広い全星系でしょ。でもその中でも、植民初期に作られた建物ってすごく少ないのよ」「そうなんだ?」「そうなの。だけどそれが今のこの時代でしゅ…戦争とかに飲み込まれて…」「壊されるかもしれない」「うん。いつ壊されても、まるでおかしくないじゃない。だからその前に、少しでもたくさんその姿を残して、それがどういう理由で建てられたか、とかちゃんと書き留めておきたいのよ」「それで何か、になるの?」「さあ」 エラは首を回す。「さあって」 少年は不思議そうに彼女を見る。「あたしだって知らないわよ。そういうことを考えるのは、また別の人々だわ。あたしはとにかく、集めて、残すことが大事。ヨギは何かに使いたいほう?」「うーん…よく判らないけど」 少年はカメラの前で腕を組む。「でも、普通大人達って、『何でそんなことをしたいんだ』って聞くんだよね、俺にも」 そうだろうな、とエラも思う。自分もウェネイクのあの教授のもとでなければ、必ず言われたことだろう。「うん。今エラが言ったこと、たぶん俺近い。何の目的がその上にある訳じゃないけど、とにかく集めたいんだ」「やっぱり同志だわね」 そしてまたあはは、と彼女は笑った。 それから数日、エラはヨギを助手に連れて動き回った。 ヨギの両親は、彼女がウェネイクの学生だ、と知ると、こんなお嬢さんがねえ、と感心半分、呆れ半分で見た。 しかし息子が、学校を数日休んでもその助手をしたい、ということには異存はなかった。「まあねえ、滅多にないことだしねえ」 そう言いながら、出された焼き菓子は甘味が薄く、バターが少ないのか、歯触りも決して良くはなかった。お茶も薄かった。物資が欠乏しているのだ、と彼女はそれを見てとる。「もうずっとそうだよ」とヨギは言った。「だから、俺なんかの好きなことだって、はっきり言えば、ぜいたくなんだよ。ね。だってフィルムだって今は少ないし」「あたしのを分けてあげようか。余ったら、だけど。これだったら規格も同じはずだし」「いいよ。エラはエラのお仕事をちゃんとしようよ。それでエラが認められたら、それはずっと残るだろ? 俺が撮っても、もしかしたらこの先、燃えてしまうかもしれないし」「OK」 彼女はそれ以上言わなかった。 夕刻になると、撮影の作業は一応の終了となる。 あとの時間は、その日近隣で聞き込んだ情報をまとめあげることだった。 ヨギが参加してから、この部分がずいぶんと充実する様になった。 彼は何はともあれ、地元民だから、何処の誰ならこの建物に詳しい、ということを良く知っていた。 また、彼自身、珍しい趣味持ちであることから、この界隈では良く知られていた。 顔馴染みに対しては、皆口も開きやすくなる。 彼女はそのたびに手首に巻いたカード式の録音機を動かすのだが、あまりよく作動させすぎて、夕方になる頃には、ちょっとしたしびれが左の腕に出ていた。「本当に、あんたが居てくれて助かったわ」 言いながら、それでも彼女の視線は、端末機から離れない。 そのままデータをウェネイクに送ることが出来れば楽なのだが、さすがにこの距離では厳しい。 そして、この惑星は情報規制がとられている。外部に電波を流すことはできない。 そうなると、やや旧式の端末打ち込みか、自分の手でノートを取るしかなくなる。 彼女はノートの部分をこの即席の助手に任せた。 よって、ヨギもまた、喋りながらもずっとノートとにらめっこしている状態である。「俺、字下手だけど、いいの?」「いいわよ。内容が重要なんだから」 解読不可能な字じゃないんだから、と思ったが彼女は口には出さない。 そう言えば。その時ふっと思う。キュアの字はひどかったわ。
2005.05.31
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「すいません、この台、ちょっと貸して下さい!」 エラはそう言って、館内の従業員から少し高めの台を借り、その上に乗った。 少し視点を変えるだけで、建物というのは見えかたがずいぶんと違う。「あ!」「揺れますよ、大丈夫ですか?」「だ、大丈夫よ」 本当は大丈夫ではない。落ちるんじゃないか、と気が気でない。 だけどそんなこと言ってられない。 この時エラは、惑星コヴィエの首府「ソヴィア」にいた。 コヴィエは決して辺境という訳ではないのだが、大学のあるウェネイク星系からだと、高速船に乗って、標準時換算で八日かかる。 彼女が「研究のため」にそこに滞在を許されたのは、十五日間だった。 たった半月! 彼女はそれを聞いた時ため息をついたが、この惑星の「危険度B」という状況を考えれば、仕方ないと言える。 「危険度B」というのは、空襲がある状態だった。 「A」になると、民間人を含めてその場が地上戦の戦場になる。まだ「B」の方が確率的にはまし、とは言え、危険なことには違いない。 しかし「B」ということは、いつ貴重な建物が焼けてしまうか判らない、ということでもある。 だったら行かない訳にはいかないではないか。 エラの熱意はどうやら通じたらしい。 無論彼女も、そんな場所に出かけるのだから、なまじの覚悟ではない。 余分な荷物を持たない様にしたのもそのせいである。 十五日間の日程は、あらかじめ決めておいた区域を、その日の戦況と相談して決める。 時には警報が鳴るから、待避場所でじっとしていなくてはならない可能性もあるのだ。 もう既に、そういうことが一度あった。彼女はじっと息をひそめながら、時間が無意味に過ぎていくことに歯ぎしりした。 だがそんな状況を抜きにすれば、活動は順調だった。 何よりも、コヴィエの住民が協力的だったのだ。「もうねえ、この家、お祖父ちゃんのお祖父ちゃんの時代からずっと住んでるんですよ…こんな、いつ壊されても仕方ない時代なんだから、せめて姿だけでも残しておいてやりたいじゃないですか」 そう言ってくれる人々の声が嬉しい。 首府ソヴィアは彼女にとって、宝の山だった。 本当に植民当時の建物がそのまま使われているのだ。多少の改修をされているにせよ、手入れを繰り返され、大事に大事に。 一歩その中に入ると、その時間が確かに刻まれている。 階段の手すりの、なだらかに擦れてしまっている木、天井の高さ、壁のひび割れ、窓枠に刻まれた模様… 時には、窓そのものの位置が、現在彼女のよく知っているものとは、まるで違っていたりする。 天井の形、玄関から居間へ向かう通路の、一見無駄に見える大空間… そんな一つ一つに、彼女は目を見張った。 どうして今まで、自分がここに来られなかったのだろう、と悔しくなる程に。 無論それでも、協力的、とは言えない人々もある。 集合住宅の住人の中には、明らかに嫌そうな顔をした者もあった。だがそれでも、基本的には彼女の行動を見逃してくれていた。 ありがたい、と彼女は思った。 それだけに、その好意を受けられるうちに、少しでも多く、少しでも深く、と彼女は毎日カメラと資料を両手に、運動靴で動き回っていたのだ。 さすがに一日の予定をこなして、宿泊先のホテルに戻ると、身体はもうくたくたである。 食事をいちいち椅子とテーブルのある場所で食べる時間も惜しいから、この地についてから、ずっと野外で朝昼晩と済ませている。疲れもたまるというものだ。 しかし気力のある時というのは、そんな自分の身体のことも忘れてしまうものである。 疲れ切って眠ってしまっても、翌朝には、気力が身体を奮い起こすのだ。「毎日よく続くね」 と、最初の日から彼女の作業を見ていた少年が、七日目に声を掛けた。 華奢な身体つきが、その黒いくりくりした目と、首から下げた旧式なカメラをずいぶんと大きく見せる。「あんた誰?」「俺? 俺はただのカメラ小僧だよ」 自分で言うか、と彼女はふとおかしくなる。「よくあんた、そんなでっかいカメラ持ってるわね」 実は彼の存在に気付いた時から、そのカメラのことがは気になっていた。「うん、じいさまの形見なんだよね。おねーさんのは、見たことはないけど、そうゆうのが、今ウェネイクでは出回ってるの?」「あたし、腕は大したことはないからね。機械に頼らなくちゃならないの。まあ建物は風で動いたりはしないからいいけど」「そうだよね。でもおねーさん、アングルは大事だよ」「今大事なのはアングルより数よ。…ところであんた、名前は? あたしはエラよ。おねーさん、じゃなくてね。エラ・オブライエン」「ヨギだよ」 少年はにっこりと笑った。可愛い、と彼女は即座に思う。「建物が、好きなの? ヨギ」「うん。友達は不思議がるけど」「不思議がる?」「何かじじいの様な趣味だって。でも好きなことは好きだし。最近はいつ壊されてもおかしくないし」「お仲間か!」 あはは、と彼女は笑って、同じくらいの背丈の少年の肩をぱんぱん、と叩いた。「エラは、学生なんだろ? 写真とって、何をどうするの?」「んー、ちょっと難しい質問よね。とりあえずは、収集と分類、かな」「?」 ああもう少し言い換えた方がいいかな、と彼女は考える。
2005.05.30
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せっかく親切から期間延長を申し出てくれた相手だけど、できれば解消してほしい、と彼女は思うのだ。 この背中から抱きしめてくれる男と、将来どうこうなりたい…と具体的に考えていた訳ではない。 だがそんな気持ちのまま、はいそうですかとあっさり結婚するのは嫌だった。 だからこそ、この卒業研究は彼女にとっても大切だったのだ。 そしてその一方、彼女は考える。 このひとが、有名な建築家になったなら、両親も納得してくれるだろうか。 無論、簡単には認めないとは思う。 ただ、学生の彼よりは、何らかの肩書きがある方が効果的だ、とは彼女も思うのだ。 ゆらゆら、と揺らされながら、彼女はつぶやく。「ねえキュア、あたしがもしコヴィエで爆撃か何かに合って死んじゃったら、あんた泣く?」「泣く」 即座に彼は答えた。「泣くかなあ!? 大の男が!」「俺は泣くよ? わんわん泣いて、部屋中ひっくり返すよ。だってお前、当然じゃねえ?」 エラは何も言わずに、回されている腕をぎゅっと掴む。「…じゃあ、あの部屋が余計にひどい状態にならない様に、無事で帰ってくることにしましょ。おみやげは何がいい?」「コヴィエだろ? 観光地じゃあるまいし。写真山ほど撮ってくるんだろ? 俺はそれだけでいいよ」「それだけでいいの? 本当に」「…うーん、じゃあ帰ってから、丸々一日、独り占めってのは」「…一日だけでいい訳?」「いい訳ないだろ」 ふてくされた様に言う彼に、彼女はくるりと振り向くと、腕を伸ばす。 そして首を抱え込むと、何度もキスを繰り返した。 そうこんな風に、いつでも。
2005.05.29
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「だからエラ、キュアが行ってしまうことを心配することはないと思う。問題は、そうじゃないんだ」「…と言いますと?」「今回の要請が、いつまで続くか、ということなんだ。彼は、卒業製作を教授に見てもらえないかもしれない」「あ!」 エラは小さく叫んだ。「他の連中はそれをも考慮して、自分からその要請に従おうとするだろう。そうすれば、自分の学生としての時間は、いったんそこでストップするからね。帰ってきてから見てもらえばいい。しかし留まった彼は。しかも、彼は取りかかりが決して早い訳ではない」 それに加えて、決して好かれていない、とすれば。「…でも、教授は、教授でしょうに…」「教授である以上に、人間だからね。特にこういう場所の地位の高い人間は」 おっと失礼、とエフウッド教授は片手を挙げた。「…とにかく、出発前の君に言うには何だったが、気になることではあるのでね」 ありがとうございます、と彼女は頭を下げた。 実際、それは考えられることだった。「おいエラ、本当に荷物、これだけなのかよ?」 寮の部屋で荷物整理をする彼女に、キュアは問いかけた。 彼女の荷物は確かに少なかった。 大きなトランクが一つと、あとは手持ちができるバッグが一つ二つ三つ。 靴は運動用の一足と、訪問用の一足だけだったし、服も、訪問用が一つと、あとは同じ形同じ色の、美術学群の学生が愛用するような、つなぎばかりだった。「そうよ。だって大した時間ではないんだし、戻る頃には、もっと荷物が増えてるし」「送ればいいだろう?」「あんた自分の部屋とか見て、よくそんなこと言えるよね?」「…はいはい」 下手に荷物が多くても、広げてしまって後が大変なだけなのだ。 滞在期間は十五日と短い。 その中で効率よく調査をこなすには、無駄なものに気をつかっている暇はない。 本当は必要が無ければ、「訪問用」の服や靴など置いて、代わりに高精度のカメラを入れたかったのだ。 しかし高精度のカメラは重いし、彼女自身、そのカメラに似合った腕を自分が持っているとは思わない。 だから持っていくのは、小型で軽い、そして操作も簡単なものだった。 問題はカメラの性能ではない。被写体をどれだけ真剣に見て、たくさん撮り、自分の疑問に答えるものを得るか、ということだった。「…ところでキュア、あんたの研究室、どうなの?」 何気なく彼女は話題を振ってみる。「どうって」「ディフィールド教授が、戦線に参加するって噂よ」「ああ、そのこと」「ああって」「俺が参加するかってこと? する訳ないじゃん」「やっぱりね」 ほっとする自分を彼女は感じる。しかしその一方で、不安も顔を出す。「…でもキュア、もし教授が参加して、研究発表までに、帰還しなかったら、どうするの?」「…そんなことはないだろ? 仮にも彼は教授だよ」 それは甘い、と彼女は思う。 どうして他星系出身なのに、キュアはそういうところは甘いのだろう、と時々思うのだ。 例えば彼が入室する前の嫌がらせにしてもそうだった。 反撃すれば、何かしらの別の反応があったかもしれないのに、あの時は周囲を超越する様な態度で、誰にも文句を言わせずに入室を許された。 だがその態度によって、彼は更に敵を増やしたと言ってもいい。 地元予科出身の彼女としては、「敵」の気持ちは嫌という程判る。自分がキュアと専攻が違って本当に良かった、と彼女は思う。 もし同じ専攻だったらたまらないだろう。こんないつも余裕で周囲を飛び越えてしまう奴は。 自分が一歩退いた位置に居るからこそ、冷静に相手の良い所を探し、そして好きになれたのだ。「…あれ、心配してくれてるの?」「そうよ、いけない?」「いけなくないいけなくない」 そう言いながら、彼は衣類をたたむ彼女の背後に回り、きゅっと抱きしめた。 ちょっと痛いわよ、と言いながら、その抱きしめる力の強さを、彼女は心地よく感じてしまう。本当に、自分のポリシーとは違うというのに。 自分一人で生きていこう、というのが小さい頃からの彼女のポリシーだった。 今でもそれは根本的には変わってはいない。 だからこそ、婚約者がどうの、と当たり前のように口にする実家から離れて、この総合大学に入って研究をしているのだ。 実家では、やはり現在の自分と同じ様に、小さな頃から婚約者が決められて、「良い上流夫人」になるように育てられた母親が毎日を怠惰に過ごしている。 いや、怠惰そのものはまだいい。 何が彼女にとって嫌なのか、と言えば、その怠惰に愚痴をこぼしながら、何もしない―――何もできなくなっている母親の「気持ち」なのである。 小さい頃から、その様な生活に慣れさせられ、疑問を持つこともせずに育った母親は、自分の退屈と愚痴が存在することに気付かずに、娘にも同じ道を歩ませようとしている。 だがあいにく娘は母親より賢かった。 母親の怠惰の原因を、幼い頃にはもやもやとしか気付いていなかったが、それでも中等学校の頃には、形として見えてきていた。 母親は家で何をしている? 何ができるというのだろう? そして何を楽しいと感じているのだろう? エラはそうはなりたくない、と思った。 だから、ぼんやりと気付いていた基礎学校の頃から、自分の好きなものに関しては、どん欲に取り組んできた。 取り組んでみれば、それが果たして自分が本当に楽しめるものなのか判る。 一つ一つ試し、一つ一つ彼女は振り落としてきた。 そして残ったのが、何故か建築だったのである。 無論、予科に行こうとする彼女に、母親は反対した。 まるで自分が何もできなかったことを思い出したかの様に、反対した。 嫉妬しているかのようだ、と彼女は言い出した時の母親の表情を思い出す。 予科に二年、本科に七年も居たら、婚期が遅れる、とも言った。 だが不思議なことに、その彼女に助け船を出したのは、当の「婚約者」だったのだ。 ミッド・フォーレンという名の婚約者は、十歳年上の好青年だった。 嫌う理由は無かった。ただ結婚する理由が見つからなかっただけで。 彼は別に何年待とうが構わない、と彼女と彼女の両親に言った。 変わった人だ、とエラは思った。思っただけだった。 許可が出た途端、彼女は勉強の方に夢中になり、しばらくは彼の存在すら完全に忘れていたくらいだった。 自分に婚約者が居ることを思い出したのは、キュアと付き合いだしてからだった。「ちょっと、くすぐったいってば」 背後からきゅっと抱きしめ、彼はエラをゆらゆらと揺さぶる。 この男は、一度慣れた相手には、ひどく甘えん坊になるのだ。それも付き合いだしてから知ったことである。 と同時に、自分も甘えることができるんだ、ということをエラは思い出していた。 何となく、こう素直にべたべたしてくる相手に、気を張ってみたところで仕方がない様な気がするのだ。 肩の力を抜いて、楽しいこと楽しもう。そんな気持ちにさせてくれるのだ。 だからそんな彼の側で、体温を感じる距離に居たりなんかすると、自分にはそういえば婚約者というものが居たなあ、と今更の様に思い出して、エラは少しばかり、暗くなる。
2005.05.28
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噂は前々からあったのだ。 それは学内のあちこちで見られる、この星域外の放送における各地の戦局であったり、現在最も勢力を持つ、アンジェラス星域の軍隊の動きであったり。 他星域出身の学生となると、画面を食い入る様に見ていることが多い。 自分の故郷がいつ出てくるか判らない。いつ攻撃されるか、その時に自分はどうしたらいいのか。いつも彼らは選択を迫られている。 なまじ頭もいい彼らだけに、現実と、その場に何もできない自分とギャップに苦しむことも多い。 一方、ウェネイク星系に元々住む学生にとって、それは現実感の無いことだった。 彼らにとって、戦争は日常とは関係の無い出来事だった。自分が参加する必要は無く、進んで参加することなど考えもつかない、遠い世界の出来事だった。 学生レベルでは、そうだった。 だが教授レベルではそうではなかった。 すでに、各学部学群の幾人かの教授・助教授・講師、と言った教える側の面々が、軍から要請を受けて、この地を離れている。 休職扱いになっているし、その間の身分と給与の保証もされるが、この惑星に居る時ほどの生命の保証はされない。 参加は自由である、らしい。 少なくとも、彼らを使おうとする軍はそんな姿勢を見せた。 彼ら教授群の使い方を軍は良く知っていた、とも言える。この学究の徒達の活動の源泉は、つまりは、自身の好奇心だったりするからだ。功名心や利益は所詮オプションに過ぎない。「…伝達デザインのホソノ教授も、心理学のトバエ教授も行ったらしいよ」 そんなことを級友が噂するのを、エラは半ば聞き流していたものだ。 ちなみに、彼女の師事するエフウッド教授ときたら、戦争も軍隊も嫌いだった。 積極的に反対の意志を見せる訳ではないが、どれだけ要請を受けても、絶対にそのまま従うとは思えない。「もっとも僕の専門を、彼らが必要とするとは思えないけどね」 それもそうだ、と研究室でお茶をごちそうになりながら彼女は思った。 この研究室は「建築」というくくりの中に居ながらも、どちらかというと、歴史を扱う側面の方が大きい。 無論、歴史とて軍隊に全く不要という訳ではないが、直接、お手軽に利用するには向いていない。 しかし同じ建築でも、他部門は違っていた。 エフウッド教授は、普段彼女に滅多に見せない程の難しい表情をすると、ややうつむき加減に話し出した。「建築学部にも、軍のオファーがあった。まあそれは、前々から言われているんが、問題は、今回指名されたのは、ディフィールド教授だ、ということなんだ」「ディフィールド教授が?」 彼女は思わず声を上げた。 だがすぐに気を取り直して、その言葉の持つ意味を考えてみる。「…ということは、教授傘下の研究者も、丸ごと、ということでしょうか」「かも、しれない。それに、ディフィールド教授が―――彼の体質として、一人で動くとは考えられない」 でしょうね、と彼女はうなづく。「彼が軍の要請を受けるとしたら、確実に何名か連れていくだろうね」 そして彼女ははっとする。「もしかして…その中に、学生も含まれたりするのでしょうか」「や、それは当の学生次第だと思うね」「そうですか?」「ディフィールド教授にずっとついて行こうと思ったり、卒業後に彼から、何らかの恩恵を受けようと思うなら、まず進んでいくだろうな。彼はそういう学生を好むからね」 彼女は唇をぎゅっと噛むと、首を横に振る。それを見て、教授は目を細めた。「…キュアのことが心配かい?」「当然です。あの馬鹿は…」「いや、彼は行かないとは思うよ」 彼女ははっとして顔を上げた。「君の知るキュア・ファミは、軍隊というものが好きかい?」「いいえ、大嫌いです」 彼女は大嫌い、の部分に思い切り力を込めた。「あのひとは、とにかく集団行動というのが嫌いですから」 だろう? と教授は笑った。だがエラの表情は硬いままだった。「…だから教授、あたし、いつも不思議なんです」「不思議?」「彼があの研究室に居るのも、居られるのもすごく不思議で仕方ないんです」「確かにね。キュアははっきり言って、あの研究室には全く向いてない」 教授は断言する。今までにも彼女が聞いてきた言葉だ。「だがそんな彼が、もっと締め付けのきつい集団に進んで加わろうかと思うかね」「…とあたしも思うのですが」 だけど、彼の目的が、ただ単に「良い建築物を作る」だけではないことを彼女は知ってといる。だから余計に、言いよどんでしまう。「それと、あと、ディフィールド教授が、彼を連れて行こうとするか」「あ」 エラは思わず口に手を当てた。「僕の予想では、彼はキュアは連れて行かないだろうね」「そんなに、好かれていないですか?」「彼が好かない程度には、ディフィールド教授も彼を好かないだろうね」 そうだろう、とエラも思い、大きくうなづいた。 ディフィールド教授はそもそも、キュアを自分の研究室には入れたくなかったのだ、という噂も彼女は聞いていた。 それでも入れざるを得なかったのは、彼の「入室試験」である図面があまりに素晴らしかったからだ、とも聞く。 現物には勝てないよ、と決まった時のキュアの得意そうな顔、立てた親指を、エラはよく覚えている。 そして彼女は、それに手放しで喜べない自分に気付いていた。
2005.05.27
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競争率高いディフィールド教授の研究室には、入室試験の様なものがあるのは有名な話だ。それは実際の使用に耐えうる図面だった。建築実技に関わる研究室だったから、それは当然のことだった。 正直、彼らはこの時点で、図面を引くことはできる。 この場合、図面、というよりは図面集、だ。建物全体図に加え、その建物を構成する一つ一つの部屋であったり、立地条件を詳細に計算した表を付け加えることもあるかもしれない。 いずれにせよ、このウェネイクの建築学部に五年在籍できた者は、その程度の作業は可能である。 エラもそれは経験している。経験して―――自分はそれに向いていない、と悟ったのだ。「それは判るだろ?」 キュアは当たり前のことの様に、彼女に問いかけた。彼女はうなづいた。「それは判るのよ。でもどうして、それをここでやっている訳?」「そんなに不思議?」「だってキュア、製図は普通マシンでやるものよ」「だぁね」「なのに何であんた、どうしてこんな、狭い寮の中で広げて、自分の手でなんかやっている訳? いくらディフィールド教授が厳しい方だと言って、それを許さないってことはないでしょ?」「そりゃ俺だって、CAD使った方が楽だけどさ」 古くから変わらない、製図用ソフトの名を彼は口にする。「だけど、何処にも空いてないから仕方ないだろ」「空いてない?」 彼女は眉を寄せる。そんな訳はない、と思う。 このウェネイクは、そういった設備に関しては、他の追随を許さない程なのだ。 製図用のマシンは一人一台あるのが当然のはず。「だけど実際、そうなんだもんな」 彼は茶をずず、とすする。「俺が借りようと思ってマシン室に行くと、絶対、誰かしらが使っていてさ、そっちが空いてるからいいんじゃないか、って思うと、そっちは先約がある、あっちはほら立ち上げたばかりだ、先輩達がもうじき来る、そんなことばっかで」「それって」 彼女の眉間のしわが深くなる。「それって、あんたに対する嫌がらせじゃないの?!」 CADを使わないで、教授の要求を満たす図面を引くなど、彼女には逆立ちしてもできそうになかった。「ま、そうだろうね」 あっけらかん、と彼は言う。「判ってて、どうして」「だからそいつら…ああ、先輩に向かってそいつら、はまずいか。とにかく連中は、俺に言う訳よ。工科学校出身だったら、機械無しでも図面くらい引けるんじゃないのって」「…」「まあそれも事実だけどさ。工科じゃ機材持ち込めないとこでの、実践向きのことも教わったし」「…そういう問題じゃないでしょ!」「そういう問題、で、俺は別に構わないけど?」 う、とエラは言葉に詰まる。「だってさ、そこで何かしら言って、結局使えたとしても、データを消されるのは目に見えてるんだぜ?」「だからそれは、ひどいって」「別にいいんだよ。俺はこんなことができるんだから」 とん、と彼は茶を手にしていない方の手で天板の上を叩く。「こういうでかい板を調達するのは、ちょっと苦労したけどさ。でも美術学群の友達に聞いたら、あっさり作ってくれたよ?」 そうだった。彼女は思い出す。 この男は、自分の学科より、他学部学群に友人が多いのだ。 何となく、自分の心配が何の意味も無い様な気がして、エラは胸の中がもやもやしたもので埋まり出すのを感じる。「…でもそれって、あんたが怒るのが正当なことよ? この学校に入った以上、皆同じ条件で学べることになってるんじゃない。同じ授業受けて、同じ授業料払って」「同じじゃあないよ」 彼はするりと、しかしはっきりと言った。「…違うの?」「違うよ。俺は授業料は四分の一しか払ってないし、それでいて授業だって、連中よりたくさん出てると思うし。安くても通えるってのは、俺が優秀で勤勉だってことだし」「それはそうだけど」 自分でそれを言うのか、と彼女は苦笑する。「それでいて、俺が正規ルートじゃない、よそ者だから、嫌~な気分になるのは仕方ないでしょ。それに俺がいちいち付き合ってたら、身が保たないもん」「…キュアあ」 ふう、と彼女はため息をつく。「あんた、本当にそれでいいの?」「だからわざわざ、手書きしてるんでしょうが。大丈夫、俺は絶ーっ対、あの研究室に入れますって」「…一体何処からその自信は来るのよ」 ここ、と彼は自分の頭を指さした。 しかしそもそも何故、彼がその研究室に入りたいのか、彼女は当時さっぱり判らなかったのだ。 しかし今では彼女も判る。彼はこの場所で、建築家としての「名」が欲しいのだ。 依頼者が「絶対に」必要なこの分野においては、「名」を売ることは非常に大きな意味がある。 全く自分の好き勝手に建築物は作ることはできないだろうが、「名」が売れていれば、その自由度は上がるのだ。 そのために、自分の性分に合わないところでも、彼は今じっと我慢しているのだ、と彼女は知っていた。 実際、その「入室試験」に彼は通ったことは通った。 だが決して、ディフィールド教授とそりが合う訳ではなかった。 教授はそれこそ、この地で育ち、この大学で学んで、そのまま教鞭をとることになった、言わば純粋培養のエリートである。叩き上げのキュアとそりが合うはずがないのだ。 彼は大丈夫、とエラに向かっては言う。 だが彼女はそれを決して100%、信頼できる訳ではない。 今現在、彼がたびたび「森」へ脱走しているのが、それを物語っているではないか。 彼女自身は、幸福な選択をした方だ、と思っている。 入った研究室は、案外人気がなく、それだけに、波長の合う彼女に、エフウッド教授は、自分の知ることを惜しげなく伝授してくれた。 遠くの惑星へと取材に行く時の心構えなども、自分の失敗談などを加え、面白おかしく話してくれることも多かった。 それでいて、ちゃんとポイントは押さえているから、彼女は教授をまた尊敬せずには居られない。 この教授は、キュアに対しても珍しく好意的な態度をとってくれていた。 彼女にディフィールド教授が時々漏らす、彼に対する辛辣な評があることを教えてくれたのも、この教授である。「気を付けたほうがいいよ」とエフウッド教授はそのたびに言うのだ。「僕はもう、そういう集団そのものが大嫌いだから、こんな外側から、衛星のように彼らの熱気を観察することしかできないし、内部に入りたくもないけど、彼はあの中でこの先もやっていかなくてはならないのだしね…」 彼女は自分の選んだことが「こんなこと」呼ばわりされているにも関わらず、その時には神妙にその助言を受け入れた。 そういう会話を教授とするようになった頃には、彼女は既に、キュアと友達から一歩進んだ関係になっていたのだ。 とりあえず彼女は、自分の心配もしなくてはならなかった。 日々の過ぎるのは速く、出発まであと二週間しかなかった。 下調べをなるべく深くやっておかなくてはならない。その作業が上手くできている程、持っていく荷物は少なくて済むのだ。 そんな忙しい日、急に呼び出したエフウッド教授は、研究室の扉を閉じ、声を潜めて言った。「もしかしたら、キュアの卒業製作は危ないかもしれない」 彼女は息を呑んだ。
2005.05.26
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五回生の半ば、と言えば、卒業制作や研究のための担当教官を決める時期だった。 エラは古い建築物を「研究」したかったので、その方面で著名なエフウッド教授に当時打診していた。 この気のいい教授は、一歩外に出て建築というものを見る立場を取ることで、学内派閥というものから逃れていた。 一方その学内派閥の中で、最も力を持っていたのが、ディフィールド教授の研究室だった。 ディフィールド教授は、この学内で教鞭をとるだけの人物ではなく、一線で働く建築家でもあった。 十年前に、軍の要請で新築されたウェネイク中央駅の設計が彼の最も有名なものと言えよう。 建築というのは、依頼者があって初めて成立する仕事である。 この時期、ディフィールド教授とその一派は、全星系で最も力のある後ろ盾を持っていたと言える。 ウェネイクは戦争において、中立地帯だったが、その当時最も強力な軍と無関係ではなかった。 いやむしろ、ウェネイクはその軍によって守ってもらっていた、と言っても間違いない。 「アンジェラス」星系から出たその軍は、全星系統一のあかつきには、ウェネイクを首都星とするだろう―――そんなことも囁かれていたのだ。 だから、そんな気風の研究室に、キュアが申し込みを出していたことが、当時友達付き合いを始めたばかりのエラには、不思議でたまらなかったのだ。 そんなある日、彼女は寮の彼の個室を訪ねたことがある。 手には、学内でも安くて美味しいことで知られている、ホットドッグとサラダと濃いコーンポタージュが入った箱。 どうしているか、と通信端末を開いたら、落ち着きの無い髪の毛が、いつも以上にあっち向きこっち向きしている。 端末画面ごしの相手は、今暇か、と彼女に訊ねた。暇よ、と答えたら、彼はエラに向かってこう言った。「メシ食いに行ってる暇がない~頼む、お願いだ、この通り…何か差し入れしてくれ~」 両手を合わせて頼む、悲愴なまでの声に、思わず彼女は近くにあった学生食堂のスタンドへ走ったのだった。 それを手に、寮の彼の部屋の扉を開けたら、彼女はまず、自分が何処に足を踏み入れていいものか迷った。 心底迷った。 足の踏み場も無い、とはこのことを言うのだ、と彼女は実感した。 部屋の真ん中で、彼は机の上に一回り大きな天板を乗せて、何やらひどく大きな紙を広げていた。 それが図面であることは、彼女も建築を学んでいる学生なので、一目で判る。 ただ彼女も判らないのは、それを何故わざわざこんなところでやっているか、だった。「おおっ、ありがたい~」 好き勝手に跳ね回る髪が落ちて来ない様に、額にバンダナを巻いていた彼は、彼女に両手を差し出す。 求められたのは自分ではなく、あくまで食べ物であるのは判っているのに、その時エラはどき、と胸の鼓動が大きくなったのを感じていた。 そう実際、彼女は何故あんな時の彼に、と後々にも思わずには居られないのだ。 何せ食事の時間も満足にとれないくらいだから、風呂も入っていないだろう。 それこそ眠気との戦いのためにシャワーを浴びることくらいはあるだろうが、それ以外には、絶対に身体の手入れなどしていない。その証拠に、普段はちゃんと剃っているひげが色づいていた。「…一体何が何なの?」 図面を汚しては元も子もない、とキュアは彼女から受け取った箱を持ち、紙くずと消しかすと資料が散乱した床に直に座り込んだ。 そして彼女には、ここ数日使われた形跡の無いベッドを指し示した。 普通ならそんな場所に座ることは彼女はしない。それは危険を意味する、と育った環境は彼女に教えていたからだ。 だがどう見ても、この男にはそんなことをしている暇はなさそうである。 そして彼女にも、その床に直に座り込む勇気は更になかった。 一段高い場所から、勢いよく食べものをたいらげる彼を見ながら、彼女ははふ、とため息をついた。どうやら食べ終わるまで、理由は話してくれないだろう。 食べ終わった彼は、これだけは、と彼女にお茶を入れてくれた。それもまた、「茶」なくせにコーヒーカップだったのだが。 その「茶」を呑みながら、話してくれたのは次のようなことだった。
2005.05.25
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「それにしても、エラ、やっぱり危険だよ」 六回生も中盤を過ぎた頃、級友は口々に言う様になった。「そうよ。何を好きこのんで、そんな場所まで。あなたなら卒業研究に、もっと探しやすい場所まで行けるでしょ? 何だったら、戦争もあまり関係ない辺境へ行けば?」 確かにそうだ、とエラは思う。 彼女の実家は、ウェネイクでも入植以来の歴史のある名家である。渡航が不便である現在であっても、戦争に関わりの無い辺境へ行くくらい、大した問題ではないはずだった。 だが彼女の研究対象である、危険度Bのコヴィエは違うのだ。 彼女は実家を通して申し込んだ訳ではない。あくまで総合大学に通う一学生として、申し込んだのだ。 だからこそ、渡航許可が出たのである。 これが実家を通したのだったら、絶対に許可は下りないはずである。「心配させて、ごめんね。でも」 彼女はにっこりと級友達に返す。 だけど「でも」の続きは口にしない。 言ったところで、ずっと予科から一緒だった級友達には、妙に通じないものがあるのだ。「…まああなたがそう言うなら、我々は止めることはできないんだけどさ」 ねえ、と彼らは顔を見合わせる。 彼女が何故コヴィエに執着するのか、は判らなくても、彼女が言い出したら聞かない人であることは、彼らは長い付き合いからよく知っているのだ。「で、いつ行くの?」「あと一ヶ月、ってところかしら」 標準時の一ヶ月は、一律に三十日、一年三百六十日、だった。 様々な自転をする惑星系がある以上、「一日」の長さが同じである訳が無い。皆「標準時」とその惑星の暦を併用するのである。 もともとの地球の暦は参考でしかないので、計算のたやすさから、一ヶ月は三十日、一年は三百六十日と決められたのである。「あと三十日ね…そう言えば、卒業制作の課題提出もそのあたりじゃなかったのかあ」 誰かがそう口火を切れば、まだテーマを決めていない学生は「ああ~」とうめきながら頭を抱える。 目的が曖昧なまま入った学生ほど、この時期に悩みやすい。 エラの様に、古い建物を好んで研究するとか、キュアの様に、「重々しい建物を作りたい」という明確な目標を持って入って来る者は滅多に居ないのだ。「そう言えば、あなたの相棒、何しようとしているの?」 口さがない級友達の話題は、彼女の相棒に移ってくる。「ん? うん、この間、製作の方にするって言ってたけど」「製作! 奴らしいと言えば、奴らしいよな」 そうだよな、とその場にいた五人ほどの男女がうなづき合う。「奴は絶対、研究より、実際の製作だよな」「あら、やっぱりそう思うの?」「そりゃあそうだろ。工科出身だし。そのまま工科に居た方が、実際の現場に出るのは早かったんじゃないの?」「それはそうかもしれないけど」 エラは言葉に詰まる。 確かにそうなのだ。共通の六年の基礎学校を降りたあと、実業コースと総合コースにかっちりと分かれるのが、ウェネイクの教育制度の特徴である。 実業コースは、そこから五年の工科学校なり商科学校なりの、即戦力を作るコースである。 一方の総合コースは、それこそ惑星ウェネイクの各地にある総合大学に進学するためのコースである。 中等学校がやはり五年あり、そこを卒業すれば、各地の総合大学を受験する資格は得られる。 ただ、彼らが現在通う中央の総合大学は別格で、更に予科に行かないことには滅多に受からない所なのだ。 そんな工科学校をキュアは通っているから、他の学生に比べて、実技面において、抜きん出ているのは当然だった。 ただ、それ故に、上級生からのいじめを受けたことがあるのも確かである。 エラは去年の今頃、まだ彼とペアを組むとは思ってもみなかった頃のことを思い出す。
2005.05.24
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「あれお前、実家に戻らないの? せっかくあんなでかい家があるのに」「帰りたくはないわよ」 彼女は吐き捨てる様に言う。「ここに出てくるのだって、一苦労だったのよ。言ったでしょ、前に」「ああ、確か婚約者どのがどうとか」「卒業したら即、なんて今でも言うのよ?」「いいじゃない、ちゃんと相手が居て」「あんたねえ?」 立ち止まると、エラは彼を見上げて強くにらみつけた。しばらくの間、にらみ合いがその場に続いた。 …しかしそれは数秒に過ぎなかった。 びよん、と顔全体をいきなり引っ張った彼に、吹き出したのは彼女のほうだった。「…あんた馬鹿!?」 その言葉を聞いているのかいないのか、キュアは小柄な彼女の身体を抱き上げる様にして抱え込んだ。 つまりは、そういうことなのだ。 教授の愚痴を代わりに聞くようなことになっても、いちいちこんな場所まで探しに行くのが日常茶飯事だとしても、「それでも」許してしまう自分が居るのを、エラは知っている。 ああ全く、恋愛なんて惚れた方が負けなのよ。 ぼやいてみたところで仕方がない。 それに付き合っていれば、相手が自分のことをちゃんと好きであることも判るのだ。 普通より大柄な、この他星系出身の彼が、普通より小柄な自分を抱き上げて振り回す様はまるで大人と子供の様だけど。 それは何となく、自分のポリシーに合わないような気もするのだけど。 それでも、子供の様に持ち上げられて振り回される時、自分が何よりも楽しいことを、彼女は知っているのだ。 できればずっと、学生のままで居たい。 ずっと、この曖昧な時間のままで。 だが終わりの時間が刻々と近づいていることも、彼女は、そして彼も知っていたのだ。
2005.05.23
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戦争が長引くに連れて、このウェネイク総合大学の地位が高くなっていったのは言うまでもない。元々広かったキャンバスは、一つの都市を丸ごと飲み込み、学部の必要によっては、「森」や「湖」はたまた「工場」や「劇場」も存在する。 無論そうなると、そこに入り込むのは非常に難しくなる。 それは地元民にとっても同じだった。 地元民にしてみれば、他星系の人間にむざむざ自分達の星系で、のほほんと研究されるのはそう面白くいない。 そこで、まず「本科」としての総合大学に入る前に、ウェネイクの地元の志望者は「予科」に入るのだ。 そこで二年程度の勉強をし、その上で本科を受験し、入学する。外部からの志望者には不利となる。 だがしかし、それでも入ってくる外部の学生は、それこそ優秀も優秀ということになるのだが。 エラはその「特別に優秀」なはずの相棒を見ていると、本当にそれは正しいのだろうか、とふと心配になる。 キュア・ファミは、割と近い星系の出身で、ウェネイクの工科学校からの転身組である。 他星系の上に、一度この地で実業系の学校に在籍していた、ということとなると、二重に不利なはずだった。 工科学校進学のルートと、総合大学に通じるルートでは、学問の体系そのものが違う。 なのにこの男は最初からこう言った。「キュア・ファミ・ダーリニイです。あいにく工科学校出身ですが、よろしく」 その言葉が、他の予科から「真っ当に」やってきた新入生にとって皮肉に響いたのは当然だろう。 事実、彼はその瞬間から、同期生の中で一匹狼の立場となった訳である。 エラとしても、そんな一匹狼は放っておきたいところだった。彼女はそれこそこの星系の出身で「予科」を通ってきた類である。 周囲の同期生も、同じようなルートでやってきた訳なので、話が合わないということはまずない。趣味が違ったとしても、会話の中の単語とか、考え方の道筋とかは、そう皆変わったものではない。 だから四回生の時、「珍しく」彼が卒業生の卒業パーティに出席した時には驚いた。 彼はその類のものには、一切顔を出さない主義の様に感じていたのだ。しかも、滅多にしない「盛装」をして。 緑のロングにドレスアップしたエラは、あまりの驚きに、思わず彼に進み寄った。「…どういう風の吹き回し?」 彼はこう答えた。「…好きな先輩の卒業だし」 その時彼女は思ったのだ。 なあんだ、あたし達と、おんなじじゃない。 それから一年後、彼女は彼とペアを組んでいた。後悔はしていなかった。 ただ、時々こうやって、姿をくらます彼を捜さなくてはならないことと、教授の愚痴を彼の変わりに聞く羽目になってしまうことだけは、実に厄介だと思わずにはいられないのだが。「…ま、一応、製作したいものはあるよ。決まってる」「え、決まってるの?」 今までの苛立ちは何処へやら、彼女は好奇心が先に立つ自分を感じていた。「何となく、ね。お前はどうなの?」「あたしは製作より、研究のほうだから。ほら、前々からあたし、ルシャンタン星域の惑星コヴィエの、一連の建築物に関してやってみたい、って言ったでしょ」「そうだっけ?」 彼は首を傾げながら、髪をかき回す。「言ったのよ! 全く忘れっぽいんだから! あそこ、危険度Bだから、なかなか渡航許可が出なかったんだけど、やっとそれが出たのよ!」「危険度B? ちょっと待て、大丈夫かよ」「大丈夫かどうかは…判らないけど。でもそんな場所だったら、下手すると、ちょっとCだのDだのになるまで待ってたら、建築物自体がいつ壊されてもおかしくないじゃない」「ま、それはそうだけどさ…」 でしょ、と彼女は念を押した。「でもね、実際のとこ、どうしてもちゃんとしたもの、残したいのよ。研究でも製作でも、それはどちらでも良かったんだけど」「俺は製作だな。だんぜん」 彼は断言する。「キュアはそうよね。あんたは『作りたい』ひとだもん」「ああ。それもできるだけ、重みのある奴が作りたいんだ」 彼は視線を空に飛ばした。 この話になると、いつでも彼はそうだった。同じ様に彼女は空に視線をやろうとするが、「森」の木々の間に間にこぼれる光がまぶしくて、なかなか彼の様にはいかない。「俺の生まれたとこはさ、何かもう、コンクリートの箱ばかりでね。場所があったら詰めましょう、って感じだったんだ」 エラは以前から聞いていた。 彼の生まれた星系は、気候こそ温暖だが、陸と海の比率が非常に極端で、居住できる面積がひどく少ないのだと。 少ない面積を活用するには、建物の高層化がどうしても必要となり、また、そのためには装飾よりはまず実用なのだ、と。 故郷は仕方がない、と彼は言う。「だから俺は、全星域で通用する建築家になりたいんだ」「あんたは、いつもそう言ってるものね」「できれば、俺が独立できる頃には、戦争も終わっていればよな」 そう簡単には行かないけどさ、と彼は付け加える。確かに、とエラも思う。「ほら、今作る建築物ってのは、やっぱり何処か、戦争に左右されてしまうだろ? 強さとか材料とか形とか、…注文する奴の好みとか」 そうよね、と彼女はうなづく。場所によっては、資材が足りなくて、代用品を使っている所もあるらしい。「あたしが調べたいと思ってるコヴィエも、まだ戦争の影響が出ていないあたりの建築物がごっそり残ってるんだもの」「…ああ、そうだったな」「で、さ、そういう頃のものって、まだすごく、存在が力強いじゃない。ここの土地に合うのはどんなもの、とか考えてるようで考えていないようで」 エラも握る手に力が入るのが判る。「…それはまあ、あたしの純粋な部分でね。…ちょっと不純なとこ言ってしまえば、そのテーマで、目を見張る論文とか書けたならさ、実家に帰らなくても済むかもしれないし」
2005.05.21
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「…彼だわ」 手にしていた洗濯物もそのままに、居間の壁から浮き上がる映像に思わず彼女は目を見張った。 いつもと同じ夜のはずだった。 浮かび上がるニュースキャスターの姿もいつもと変わらない。ただ違っていたのは、その後ろの風景だった。 見覚えのある光景。掴んだままのタオルが、次第にぐっしょりと手を濡らし始める。 映っているのは、幾つかの建物。 そう、私はそれをよく知っているのよ。「あのひとよ」 もうずっと、探していて、そしてとうとう見つからなかった、私のあの。 彼女の中で、その名前が次第に形を為す。 画面の中で、その男は、建物の前で、幾人かの人々の先頭に立ち、何処か古めかしい建物の、取り壊し反対の看板を手にしていた。「…キュア・ファミ…」 男の名前を、彼女は口にした。 1「キュア! キュア・ファミ・ダーリニイ!」 何処に居るのだろう、と彼女は濃い金色の髪を揺らして歩く。「…だいたいこのキャンパスは、広すぎるのよ」 ぶつぶつぶつ。「いくら最高学府だからって、広さまで一番にすることないじゃないの…」 彼女はそれでも「広すぎる」キャンパスの真ん中を突っ切り、「森」の方へと進んで行く。 その剣幕に、ペリドット色の瞳がきらきらと輝く。 キャンパスには「森」がある。 いや、「森」もまた、キャンパスの一部だった。 探し求める人物が、その「森」の常連であることを彼女は知っていた。 ただ問題は、「森」は必要以上に広い、ということで。 たった一人の建築学部の学生の姿を探し求めるには、なかなか難しいということで。「キュア・ファミ! いい加減にしなさいよ!」 ふう、と一声叫んで、彼女は息をつく。 だいたいこのあたりだろう、と予測をつけた所だった。「森」のその辺りには、彼の故郷の星系でしか見られない木々を植えてあるのだ。「んー…」 そして案の定、木々の合間から、声がもれて来る。彼女はそこだ、と慌てて声のした方へと駆け寄った。 短い、焦げ茶色の髪がとりとめもなく、あっち向きこっち向きしている男が、木々の一つにもたれ、うとうとしていた。 彼女は前から近づくと、勢いよくその両肩を掴む。「捕まえた」「は」 どうやら一瞬にして目が覚めたらしい。くるくると跳ね回っている頭の、その内側もまた激しく回転を始めた。「捕まえた、って何だよ、それ」「捕まえたから捕まえたのよ。あのねえ、キュア、あんたが居ないと、何故かあたしのところにとばっちりが来るんだってば!」「…そりゃ、仕方ないだろ、エラ…俺達、今年のペアなんだし…」「上から勝手に決められた、ね!」 彼女は言いかけた彼の言葉を遮る。「でも、それでも決めた学校に入学した時に従いましょ、って宣誓したのはあたし達よ」 彼女は腰に手を当てて、きっぱりと言い放つ。「あたし達はそれを承知で、ここで七年勉強することにしてるんだからね。今更言うのも何だけど、守るのは当然なのよっ! ええだから別にあんたと組むのは今更構わないわよ、キュア・ファミ」「だったら、いいじゃないの」「良くないっ!! 組んだのはいいわよ。だけどあんたがこうも逃走が日常茶飯事の奴とは思わなかったってことよ!」「…何、今日に限って、そんな今更のこと、そんなに怒ってるのさ」 きょとん、と言われた男は首をかしげる。「…あんたまだ、卒業研究だか製作、決めてないんだって?」「あーあ、そのことか」 あっさりとキュアは言って、落ちてくる前髪をかき上げた。「仕方ねーじゃないの。なかなかいいテーマが決まらなくてさ」「あんたねえ…自分が居る研究室、判ってる?」「判ってるよ」 んー、と伸びをして彼は立ち上がった。 ぱんぱん、とほこりをはらうそのジーンズは、元は黒だったらしいが、今ではいいところダークグレイとしか言い様が無い。 その上のシャツも、元は白だったらしいが、今ではクリーム色だ。しかし元の生地がしっかりしているらしく、何処もほつれたり透けたりしていない。 彼女はそんな彼の姿を見るたび、よくあの研究室に居られるなあ、と思うのだ。「判ってないわよあんたは」「判ってる、って言ってるだろ?」「判ってないわよ。ディフィールド教授の研究室って言ったら、このウェネイクの建築系で、いえ、全星域の建築学会でもって、一番のエリート集団じゃないの」「だからって、俺までそうしなくちゃならない理由ってないでしょ」 もう、と彼女は唇を噛む。 いつでもそうなのだ。同期生の彼女達が、このウェネイク総合大学の専門過程に入った三回生の時以来、ずっと彼はそんな調子なのである。 共通学科クラスのペアになったのは、六回生である今年が始めてだが、エラはずっと知っていた。 まあ実際、彼は当時も今も、目立つのだ。 最初からそうだった。入学した時から既に彼は目立っていた。 新入生歓迎の縦割りパーティで、専門課程の先輩達が彼らに一人一人自己紹介をうながした時からだ。 出身星系と、予科でのクラス。それだけは必須だった。 出身星系。 人類が地球を捨てて、広い宇宙に出てから数百年が経っていた。 当初は相互に連絡を取り合えず、植民した惑星はそれぞれ独自の発展をしていったが、やがてその事態が落ち着くと、遠く離れた星系同士で連絡を取り合う様になった。 相互発展の始まりである。 その一方で、星系国家同士の争いも起こり始める。 全星域を巻き込む戦争が、いつ始まったものか判らない。 当初はただの領地争いだったかもしれない。資源争いだったかもしれない。ただ戦争が戦争を呼んだのは事実である。 だが、その中で唯一、そんな戦争の手から逃れている場所があった。 それがこのウェネイク星系である。 この星系は、植民が最も古い部類であり、また、温暖な気候と居住可能地区の量において、他の星系をはるかにしのいでいた。 安定した環境は、安定した政権を呼び、その政権は飛び抜けた手腕で、中立を勝ち得た。 その結果、もともと歴史も古く、功績も大きい総合大学の地位がぐっと上がった。各星系の優秀な学徒が、安全な研究場所を求めてこの地へとやってくるのだ。
2005.05.20
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