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いくた しゅく かんちゃざん 生田に宿 す 菅 茶山 せんざい おんしゅう ふた そん ふううん とこしな ため ちゅうこん とむろ 千歳 恩讐 両つながら存せず。 風雲 長 えに為に忠魂 を 弔 う。 かくそう いち や しょうらい き つき くら なんこう ぼはん むら 客窓 一夜 松籟 を聴く。月は暗し楠公 墓畔の村。詩文説明長い年月を経た今日となっては、その昔、敵味方に分かれて戦った南朝勢と北朝勢も跡形もなく消えて、その墓所を尋ねてみると、ただ風が吹き、雲が漂い、自然の風物だけが、忠義の為に戦死した楠公の御霊を弔っているのである。私(作者)は旅の夜をここ生田に過ごし、すさまじい松風の音を耳にしながら窓から外を見ていると、月もどんよりと曇り、楠公の墓のほとりには灯火もなく、湊川一帯の村は物寂しく感じられた。 (楠木正成は負け戦と解りつつも、天皇の命により出陣するも、 形勢悪く戦い敗れ、湊川で弟正季と共に自刃した) 生田神社〈神戸三宮〉 湊川神社境内にある大楠公一代記 菅茶山が宿泊したとみられる生田、(生田神社)。ここら一帯は当時は広大 な森に包まれていたらしいのですが現在では神殿の裏手に僅かばかりの森が残っています (下中央写真)。右は楠正成が祀られている湊川神社の境内に掲げられてる楠正成一代記絵巻。(平成20年の大晦日に撮影した時(左写真と下左)正月の準備の最中でした。 右はすさまじい松風の風景を想像して作ったもの(松籟)。 大きな幹に松ぼっくりを強調して加えています) トラックが生田神社の入り口を塞いでます。(出店の荷が運び込まれている処)生田神社に近い三宮JR駅(平成20年大晦日撮)。 中央は湊川神社 徳川光圀の文字を刻んだ碑「嗚呼忠臣楠子之墓」徳川光圀がここを訪れた時は荒れ果てていて墓碑を建てたといわれます。また、作者茶山も黄門さんのこの文字を見たことでしょう。生田に宿泊した時、人の訪れもなく寂しい状況にあって忍び難く、かっての昔を追憶し、詩をもって弔った。 作者 菅茶山(1748~1827)江戸中期~末期の漢詩人。名は晋帥。茶山は号。備後(広島県)神辺に生まれる。家は代々儒者。幼少より書を好み詩に親しみ、京都に上り、那波魯堂に学び、帰郷のち、黄葉夕陽村舎と名付けのち「廉塾」と改めた。 頼春水・杏坪兄弟と親しかった。享年80歳。
2009年03月28日
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しずかごぜん らいさんよう 静御前 頼山陽 くどう どうひょう ちちぶ つづみ ばくちゅう さけ あ なんじ まい み 工藤の銅拍 秩父の鼓。 幕中 酒を挙げて汝の舞を観る。 いっしゃく ぬの なお ぬ べ いわ こ そうしゃ ひゃくしゃく いと 一尺の布 猶縫う可し。況んや此の繰車 百尺の 縷をや。 かいは かえ あ か こころ なんざん ゆき とこしなえ ふか 回波 回さず阿哥の心。 南山の雪 終古に深し。 解説源義経の愛妾静御前は義経と共に頼朝に追われ奈良の吉野山に逃れたが、義経と別れた後、蔵王堂で捕られられ鎌倉に送られた。歌と舞の名手として知られる静に頼朝は舞曲を命じたが、義経の妻として敵の前で舞を披露するのは恥じだと断るも、「八幡様は源氏の守護神ですよ、舞を奉納して御兄弟の仲直りを祈願しては」と工藤祐経の妻に云われ、やむなく舞う事になったが、頼朝の面前で死を決し大胆にも毅然として即興で心情を歌ったのが、この詩 「しずやしずしずのおだまきくり返し昔を今になすよしもがな」 「吉野山みねの白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」義経が恋しいと吉野山中で別れた義経を慕う歌である、謀反人を偲ぶ唄を歌うとは、頼朝は激怒して静を処刑しようとしたが、頼朝の妻、北条政子が女心とはこんなもの、夫を想う真情、わたしでも、立場変われば、この様に詠ったでしょうとなだめられ許されるが、この時静は義経の子を孕んでいた。のち、男の子が生まれたが、頼朝は生かしては禍を残すと仇討を恐れ、由比ガ浜に流され殺された 詩文説明鎌倉、鶴岡八幡宮の境内、工藤祐経銅拍、(のち、富士の裾野で曽我兄弟に討たれる) 秩父(畠山重忠)の鼓に合わせ静かが舞う。幕を張った中、酒を傾けながら舞を鑑賞する。一尺の布でさえ、気持ちがあるならば二つに裁断して着物に縫う事も出来る。一杯の飯でも、分け合って食べ、飢えを凌ぐことさえ出来る。どんな追い詰められた境遇でも、兄弟心を一つにするならば道は開けるものである。それをどうして殺すまで憎み合わねばならないのかと歌った。頼朝公、貴方は権力をもっている。弟の命を救うことなどわけないことであろう。弟が一尺の布しか持っていないとすれば貴方は糸車にかけた百尺の糸を持っておられる源氏再興の為に功績を建てた弟をこんな仕打ちをしなくてもいいのではないですか、波寄せてはまた返ってくる、貴方の気持ち(阿かの心)はどうして昔に帰らないのですか、貴方が平家討伐を起こした時、駆け付けてきた我が夫、義経の手を取って涙を流して喜んでくれたではないですか、その時の気持ちに、どうして戻ることが出来ないのですか。私は夫を慕いいつまでも吉野の峰に深く積もった雪のように恋しさが消える事はありません。 (歌謡吟として和歌を入れて吟じる時は、2行目と3行目の間に 「しずやしず」を入れ、4行目と5行目の間に「吉野山」を)鎌倉鶴岡八幡宮の舞台 静御前 頼朝の前で舞を舞う左写真は八幡宮舞台前にて。東京武道館で男子50人組合吟出場の為上京、帰りは浅草・鶴岡八幡宮・箱根・鎌倉大仏さんなど観光した時、吟友達とのひと時。中央写真は、遥かに見える蔵王堂の吉野の山々・静御前が彷徨ったとみられる風景。右は吉野神宮(ここは、後醍醐天皇を祀って有りました)吉野金峯神社と義経隠れ塔の掲示板左写真は、吉野吉水神社の案内標識(義経・静御前の古跡・吉水書院世界遺産と書いてある。中央写真は義経が隠れてたと云う隠れ塔。右写真は吉水神社内の義経潜居の間。左写真は静が捕らえられた場所奈良県吉野の蔵王堂前。中央写真は義経が静と共に起居した「義経潜居の間」。とすぐ横にある部屋が「弁慶思案の間」。右写真は弁慶思案の間・ここで弁慶が山伏姿に変装したと云われる部屋です。(有名な勧進帳の姿になります)
2009年03月20日
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「しずやしず賤のおだまきくり返し昔を今になすよしもがな」「吉野山みねの白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」 説明かって、義経は平家追討に勲功を立て世間をときめかした。そういう世の中がもう一度来ますようにと歌い、続けて、雪深い吉野の山に入り込んでさまよっている別れたばかりの夫、どこへ行ったのだろうか義経が恋しいと別れた悲しさを詠った。二首の歌は八幡神に捧げたもので静御前の眼中には頼朝はなかった。源義経の愛妾静御前は義経と共に追われ奈良の吉野山に逃れてが、義経と別れた後、捕られられ鎌倉に送られた。歌と舞の名手として知られる静に頼朝は舞曲を命じたが、義経の妻として敵の前で舞を披露するのは恥じだと断るも、「八幡様は、源氏の守護神ですよ、舞を奉納して御兄弟の仲直りを祈願しては」と工藤祐経の妻に云われ、むなく舞う事になったが、頼朝の面前で死を決し大胆にも毅然として即興に心情を歌った鎌倉八幡宮。吟詠大会50人合吟の部で武道館出場した時、八幡宮に寄りました。舞台は石段の下でした。この大きな木は石段の中間辺りになりますが、ここは 源実朝が暗殺された処 だと聞きました。右端の衣装は 奈良吉野の吉水神社に静が残した衣裳 です。義経が恋しい昔の勇壮な頃が恋しい吉野山中で別れた義経を慕う歌である。自分の面前で謀反人を偲ぶ唄を歌うとは、頼朝は激怒して静を処刑しようとしたが、頼朝の妻、北条政子が女心とはこんなもの、夫を想う真情、自分でも立場変われば、この様に詠ったでしょうとなだめられ、許されるが、この時静は義経の子を宿していた。のち、男の子が生まれたが、頼朝は仇討を恐れ、由比ガ浜に流された。静は、のち許されて尼となって生涯をとじた 富田林駅 ここから楠正成ゆかりの千早赤坂に車で向かい観光後、吉野に向かいました。 中写真は 「吉野蔵王堂近く」 です。 右は吉野の勝手神社で、静は義経と別れ雪道の中蔵王堂にたどり着いたところを 捕えられています。勝手神社の社殿の前でも舞を所望され舞っています。 舞塚が有ると云われますが残念ながら見ないで次に回りました。 左は吉水神社 「義経潜居の間」 「弁慶思案の間」 などがあります。 中央写真は金峯神社の裏手にある 「義経隠れ塔」 です。追手が来たが屋根を 蹴破ってうまく逃げ延びたといわれます。 右は蔵王堂、静は義経と別れ雪の中を彷徨い此処の前で捕えられ鎌倉に送られた。
2009年03月10日
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しょうなんこう はは えい もとみやさんこう 小楠公 の母を詠ず 本宮 三香 なんちょう れっぷ せい くすのき 南朝 の烈婦 姓は楠木。 ゆる わ こ ここ はら ほふ 許さず我が子の茲に腹を屠るを。 さくらい いくん なんじ わす 櫻井の遺訓 汝 忘れたるか。 かたな うば し いま なみだ め あふ 刀を 奪い死を諫め涙 目に溢る。 まさつら かんげき せいちゅう ちか 正行 感激して誠忠 を誓い。 けっせん いく そう ちくはく こう 決戦 幾たびか奏す竹帛の功。 きみ み こ はは あ こ こ あ 君 見ずや斯の母 在って斯の子在るを。 ちゅうこう ふた まった しょうなんこう 忠孝 両つながら全 きは小楠公。 詩文説明 楠木正行は父正成と伯父正時および一族の戦死を知り、 共に死のうと仏間に入って切腹しようとした。母は驚き、櫻井の駅で父との別れの時の 父の言葉を忘れたのか、自ら切腹するとは何事かと刀を奪い、 厳しく叱り父の遺志を継ぐことこそ子の執るべき道ではないかと正行をさとした。 正行は母の言う通りだと母の気骨に触れ自分が間違っていたと感激し、 怨敵を倒すため、戦いを挑むことを決心した。この母の厳しい母の愛があってこそ、 奮い立ち父の遺志を継いで事績を起した。 この良妻賢母の母が有ってこそ此の子在りと作者本宮三香は称えている。 この後、討死せんと後醍醐天皇陵の如意輪寺を訪れ、如意輪寺の扉に 「返らじと兼ねて思へば梓弓なき数に入る名をぞ留むる」と一首を残し敵地に向かった。 右図・如意輪寺の扉に辞世を書く楠木正行 左は奥に保管されている当時のままの扉中央は正行が扉に鏃で辞世を書いた当時のままの直筆。(写す時傍にある電気の光で文字が見えにくくなりました)四条畷の戦い図 中央は正行の短刀 母久子が正行の自刃しようとするところを諫めている図。 右写真は小楠公の母久子を祀ってある楠妣庵 中央・左は四条畷の小楠公の墓所 如意輪寺にある櫻井の父子訣別の石像 如意輪寺境内 左写真は楠妣庵小楠公の墓碑此処より石段を上がる 中央はは楠妣庵の墓所 右は大楠公夫人隠栖の草案。昭和天皇 皇太子が御砌行啓の御座所とかいてあります なお、正行の母、の名は此処に来てから「久子」と解りました。 櫻井の訣別(歌)•1、青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ 木の下かげに駒とめて世の行末を つくづくと 、しのぶ鎧の袖の上に散るは涙かはた露か。•2、正成涙をうち払いわが子正行呼び寄せて父は兵庫におもむかんかなたの浦にて 討死せん汝はここまで来つれどもとくとく帰れふるさとへ。•3、父上いかにのたまうも見捨てまつりてわれひとり いかで帰らん帰られん この正行は年こそはいまだ若けれもろともにお供仕えん死出の旅。•4、汝をここより帰さんはわれ私のためならずおのれ討死になさんには 世の尊氏のままならん早く生い立ち大君に使えまつれよ国のため。 四条畷(歌)1、吉野を出でてうち向かう飯盛山の松風になびくは雲か白旗かひびくは敵の鬨の声2、あな物々し八万騎大将師直いづくにか彼の首を取らずんば再び生きて還るまじ。
2009年03月06日
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