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ごくちゅう さく はしもとさない 獄中の作 橋本佐内 にじゅうろくねん ゆめ ごと す かえり へいせき おも かん ますます おお 二十六年 夢の如く過ぐ。 顧 みて平昔 を思えば感 滋 多し。 てんしょう たいせつ かつ しんせつ どしつ なお ぎん せいき うた 天祥 の大節 嘗て心折 す。 土室 猶 吟ず正気の歌。詩文説明二十六年の生涯はまるで夢のように過ぎてしまった。過ぎ去った日々を振り返れば、感慨はいよいよ多い。かの文天祥の守り抜いた節義には常々感服していたが、いまこうして文天祥と同じように土室の中に囚われていると、土牢の中で悠然と正気の歌を吟じていた人となりが、ますます慕わしく思えるのである。 左絵は詩文に沿って入牢中の橋本左内の絵を作ったものです。作者略伝 橋本佐内(1834~1859)洋学者。名は綱紀。通称左内、南宋の岳飛(武将)を慕い景岳と号した。越前国福井城下の常磐町に藩の外科医を営む橋本彦也長綱の長男として生まれた。7歳で漢籍、詩文を学び、10歳にはすでに「三国志」に通じた。12歳の時、済世館にて漢法医を学び、翌年には父の診察・手術の補佐をした。15歳で不朽の名文と云われる「啓発禄」を書いた。大阪緒方洪庵に蘭学・西洋医学を学ぶ。父の死後、家督を相続。藩主の許可を得て江戸に遊学。蘭学・漢学を学ぶ。藩邸に入ることにより藤田東湖・西郷隆盛らと接した。化学・兵学・英語・ドイツ語の文献にも目を通し,藩校運営において町人にも門徒を開き洋書習学所を開く。藩主春嶽の侍読兼御用掛となり、春嶽の手足・頭脳となって動き国事に携わる様になった。春額は幕閣体制改造論を唱導、水戸の徳川斉昭・薩摩の島津斉彬らが賛同した。これらの諸公は一橋派と呼ばれる。左内は一橋派の開国論と一橋慶喜擁立運動に全力を傾け、攘夷論を唱える梅田雲浜・頼鴨(がい) らの説得に回ったが、井伊大老の登場で一橋派の政策は挫折、安政5年、藩主春嶽は失脚、左内は捕われ幽囚の身となり翌年伝馬町の獄に投ぜられ10月7日斬首の刑となった。南千住小塚原回向院に埋蔵された。回向院に墓石建立され、明治22年靖国神社に合祀され、昭和7年足羽山公園に銅像建立,これは第二次大戦中回収されたが昭和38年再び公園内に建てられた。 回向院橋本左内廟地図と墓(荒川区南千銃-33)回向院住職は行路病死者や刑死者の供養の為に建てたが文政5年相馬大作事件の首謀者相馬大作と関良助が斬首・獄門されてからは国事犯を埋蔵する事になった。安政の大獄で処刑された吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内ら8名・桜田門外で暗殺した18名の志士・老中安藤信正を襲って負傷させた7名の志士らの供養塔がある。近代的な建物で門の右手に橋本左内の墓が小堂宇の中に安置されているが墓碑銘は風化が激しく文字は読めない。 橋本左内寓居跡と碑文天祥(南宋の忠臣)1236~1282.裕福な家庭に育ち苦労知らずに育ち21歳で進士主席となる。国が元の大軍に攻められ、滅亡へと向かう宋の臣下として各地でゲリラ活動を起し奮戦したがついに元に捕えられた。フビライより才能を惜しまれ、何度も元に仕えるようにと勧誘されたが、獄中「過零丁洋」「正気の歌」の詩を残し、忠節を守り降服を辱とし断って刑死した。文天祥が捕らえられている間に首都臨安(杭州)が陥落した。※天祥の大節=橋本左内は、文天祥の国への節を貫いた心に感服。岳飛(1103~1141)南宋の将軍であった。金と戦い連戦連勝の武人ぶりであったが、金と繋がりがあり講和を結びたいと思う宰相秦檜によって毒殺される。死後人々が彼を敬愛したため、南宋の朝廷が死んで63年後王号を追贈された。 橋本左内像 井伊直弼画像 左内が感服した文天祥画像 右端、岳飛像(橋本左内が慕い、岳の字を使って、号を景岳とした)
2009年08月29日
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かじつ りょう ほっ ぎん たの 夏日 涼 を 欲して吟 を楽しむ えんい ひ ほっ へんしゅう う こうじょう りょうふう あき ごと さわ 炎威 避を欲して扁 舟 浮かぶ。 江上 涼風 秋の如く爽やかなり。 ふさい あいたずさ ぎんえい たの じんせい きえつ まさ ゆうゆう 夫妻 相携 え 吟詠 楽し。 人生 喜悦 正に 悠悠詩文説明現在では都市部はコンクルートの建物ばかり、夏の日差しは特別に暑く、道路・建物の照り返しで水銀は更に上昇。これはたまらないと、或日、夫婦ふたりは連れ添って水涼を求め、小舟に乗り込んだ。舟上は爽やかな風が吹いていて、まるで別世界。秋のような感じである。気分は良好。趣味の吟詠が思わず口をつく。正に人生わが世の春、の納涼を楽しむことが出来た。(余談ですが、寒い時は寒さに従い、暑い時には暑さに従い、自然に溶け込み一対となる。それなりに楽しむ方法があるんですね。荘子の心境とでも云いましようか。当たり前の事ですね)。
2009年08月22日
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さけ すす うぶりょう 酒を勧む 于武陵 きみ すす きんくつ し まんしゃく じ もち 君に勧む金屈巵。 満酌 辞するを須いず。 はな ひら ふうう おお じんせい べつり た 花 発いて風雨 多し。 人生 別離 足る。詩文説明君に勧める黄金の杯。なみなみと注がれた酒を差し上げたいが、どうぞ遠慮などしないで下さい。花が咲いたら、風雨がそれを散らしてしまう事が多い、人は生きていく間に多くの別離を経験する。この人生には別離がつきものだ。(この詩は別れの詩ではなく酒を勧めること自体に意を用いている。目の前に繰り広げられている楽しい酒宴である。花が開くと、とかく風雨が多い。咲いた花はたちまちのうちに散ってしまう。人生もそれと同じで会えば別れなければならないのが世の定め、だから今この時を酒を酌み交わしながら過ごそうではないか)と。于武陵(810~ ?) 晩唐の詩人。名は業。字の武陵で知られている。長安(西安)の南郊の杜曲の人。宣宗の大中年間(810~860)の進士。役人生活がうまくいかず、琴と書をもって、西安の東方や四川省など諸国を漂泊して歩いた。ことに洞庭湖・湘江あたりの風物を愛した。最後は崇山(落陽の東南にある山)にこもって余生を送った。 (サヨナラだけが人生だ・ 井伏鱒二 「戯訳 」) この盃を受けてくれ、どうぞ、なみなみつがしておくれ。 花に嵐のたとえもあるぞ、「さよなら」だけが人生だ。金杯(金屈巵=黄金の杯で晩唐の時代は把手が付いているので金屈という)。 中央画は中国漢詩本「勧酒」の挿絵。 右写真は井伏鱒二井伏鱒二は于武陵の漢詩をこう解釈した。他にもこういった解釈の仕方をしているが、井伏鱒二の弟子の太宰治が「サヨナラだけが人生だ」の一句を愛誦し酔うといつも口ずさみ,随筆小説の「グッド・バイ」に載せてからだと云われる。またどうしたことか、太宰治も「グッド・バイ」を残して亡くなっている。私は于武陵の「酒を勧む」より、解釈の 「サヨナラだけが人生だ」 の方が独り歩きで有名のように思えます。もちろん日本国内でのこと。面白い解釈である。 人生、多くの出会いあり別れ有りの吟友の仲間たち。酒を飲み交わし楽しく過ごした一時。右はドームで野球観戦(花より団子・野球より一杯の盃なみなみと)。井伏鱒二(1898~1993)【明治31年2月5日~平成5年7月10日】 (95歳)広島県に生まれる本名満寿二、中学で小説を読む事を禁じていた関係で画家を志望。しかし日本画家の橋本関雪に入門を拒否され志望を本来の文学に戻し早大に入学した。しかし文学部長の片上伸と衝突して退学する。旧友と同人誌を創刊し「幽閉」を発表。それを改稿・改題「山椒魚」処女作となった。「さざなみ軍記」「ジョン万次郎漂流記」「本日休診」「漂民宇三郎」など高い評価を受けた。現在文学では最も長い作家の一人である。平成5年7月10日死去。享年95歳。
2009年08月15日
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げんさい むじょう 歌謡吟 彦斎無情 【歌謡吟(テープより)】 まつしま (歌) 松島みず代。(作曲・編曲 植村路雄)。 作者小山 良。 なみだ わか あ そ ごじん か み おさ 1、涙 をためて別れをつげる、 阿蘇の御神火 見納めなのか。 め ざ きょう あらし あめ とき なが いしん い 目指すは京 ぞ嵐 か雨 か、 時世の流れの維新に生きる かわかみげんさい はな ぶし 河上 彦斎 花の武士。 たすき ひも あさひ は な て ふ ひ くに 2、襷 の 紐が朝日に映えて、 泣いて手を振る日の国つばき。 たっしゃ く あさひ はな いのち むだ 達者で暮らせ朝日にかけて、花 の命を無駄にはするな、 げんさいむじょう せな な 彦斎無情 と背中で泣く。 (吟) せいせい るてん じんせい いちろ ぎんなんじょう はる いくたび 生々 流転か人生 一路。 銀杏 城 に春は幾度。 ゆうきゅう るいるい ふるさと と わ さか いくさんが 悠久 累々 故郷よ。 永久に栄えん幾山河。 なさ むよう かぜ き やいば つき かざ こ どう ぬ 3、 情け無用に風 切る刃、 月に翳した此の胴だ抜き。 うら こ み にほん ため かも なが つきかげ だ 恨むな此の身 日本の為 ぞ、 鴨の流れに月影 抱いて、 げんさい よ あ ゆめ み 彦斎 夜明けの夢 を見る。松島みず代さんの声もよく吟じ込んだ吟詠が素晴らしいので、この歌を投稿する事にしました。但し、この吟の部分の詩は漢詩(絶句)ではありません。平仄・韻など無視してありまして只、歌として作られたものと思われます歌謡吟として充分楽しめます。 河上彦斎(1834~1871)(佐久間象山暗殺する) 熊本・肥後藩士・小森貞助の子として生まれ、幼い内に同藩の河上源兵衛の 養子となる。16歳で細川家の掃除坊主となり、更に家老付きの坊主となる。 轟武兵衛に儒学を学び、兵学を吉田松陰の友人宮部鼎蔵(池田屋騒動で死 亡)に、国粋・敬神思想の持ち主である林桜園に国学を学ぶ。この3人の師に よって彦斎は尊皇攘夷思想を培養させ節を曲げることはなかった。 彦斎は脱藩せず尊攘活動を行った。尊攘の気配が強くなると彦斎は評価され て京に上り、肥後勤皇党の幹部格として認められる。その頃「天誅」ばやりで 新兵衛や以蔵が暗殺に奔走していた。彦斎もこの時期かなり人を斬ったとい われるが誰を斬ったか解らない、それだけ緻密に秘密裏に暗殺をやってのけ たという。竹刀の試合ではいつも負けていたが真剣を持つと凄味があった。 政変が起こり七卿と共に彦斎は、長州へ下り、そして池田屋騒動の直後再び 上洛。このころ佐久間象山が朝廷の海陸防備御用として活躍しており、攘夷 派にとっては許せない。象山は京都・木屋町三条上ル、高瀬川に沿った通り の路地の一角に仮寓していたが、付近でこれを急襲、元治元年(1864)7月 11日午後5時。因州藩士・前田伊佐衛門と壱岐・松浦虎太郎の二人が、まず 両側から馬上の象山を襲い、象山は左股に傷を受けながらも馬腹を蹴った。 走り出した馬の前に彦斎が立ちふさがり、象山は落馬し、一瞬に腹部を横ざ まに切り裂かれた。次の瞬間象山は頭を斬り割られていた。象山暗殺は成功 したが彦斎はこの時「あまりの大物相手に、髪の毛の逆立つた」と、以後暗殺 をやめたといわれる。後、藩主から「人を沢山斬ったので用心のため改名せ よ」といわれ、高田源兵衛と改名したが明治4年(1871)長州から逃亡してき た罪人を匿った罪で伝馬町の牢に入れられ12月4日首を切られた。38歳であ った。 熊本城(別名:銀杏城)右写真は、河上彦斎の故郷・熊本県の山あり川有りの幾山河・阿蘇五岳の景 映画全盛時代、「人斬り彦斎」が上映されましたが別の映画の一駒の写真を彦斎に仕立ててます。右図は京都佐久間象山他、維新の人達の事件跡地または、暗殺された付近地図 佐久間象山暗殺図 佐久間象山遭難の地場所京都木屋町付近(地図は上記に)(河上彦斎は人斬りとして異名のある一人ですが余談として幕末には、人斬り新兵衛(田中新兵衛)。人斬り以蔵【岡田以蔵】。人斬りの中でも彦斎は知識人である。また薩摩の桐野利秋は西郷隆盛の腹心として活躍し西郷と共に戦死したが、人斬り半次郎(中村半次郎)という異名があった。(明治になって桐野と改名陸軍少将にもなっている)。
2009年08月07日
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