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めおそう にっぽんごう まつぐちげつじょう 名槍 日本号 松口月城 びしゅ がんらい わが この ところ とはい かたむ つく ひと きょうとう 美酒 元来 吾 好む所。 斗杯 傾 け 尽して人 驚倒。 こよう いっきょく げいじょう うち の と めいそう にっぽんごう 古謡 一曲 芸城 の中。呑み取る名槍 日本号。(歌謡吟として承句と転句の間に黒田節民謡を入れ吟じると宴会には受けるようです。酒は飲め飲め飲むならば日の本一のこの槍を、呑み取るほどに呑むならばこれぞ誠の黒田節) 詩文説明美酒はもともと自分の好む所であり、大杯になみなみと注がれた酒を飲み干して座中の並みいる人々は倒れんばかりに驚いた。主君の使いを帯び芸州候のを陣中に訪ね謡曲の一曲を歌い且つ舞い、約束の名槍日本号を見事貰い受けたのである。毛利但馬友信(母里太兵衛)黒田二十五騎の中でも最も有名な母里太兵衛のことである。黒田武士の典型として知られているが「酒は飲め飲め飲むならば…」の「黒田節」福岡の民謡が全国に広まってから一段と有名になった。播磨(兵庫県)出身。先祖は播州加古郡 母里 から起こり、この地名を性とした。幼名、万吉。毛利但馬友信と名乗るのは筑前に入ってからである。改姓の経緯は太兵衛が1606年に江戸城修理の宰領をした時、見事な出来栄えで将軍家から感状が出され、それには「毛利太兵衛」と記されていた。明らかに誤記であったが長政から「将軍家から頂いた性だと思って毛利と名乗るがいから鞍置き馬を褒美として与えられているが、武勇談の最高の見せ場は何といっても飲み取り槍の一件である。場所は京都伏見福島正則候の陣中に殿様名代として年賀の挨拶に出向く。正則は音に聞こえた酒癖悪い武勇の士であるが酒癖悪く太兵衛が出向いた時は既に出来上がっていた。大きな鉢を持ち出して来て、なみなみと酒を入れ「さぁ、これをぐっとあけろ」という。主君長政から酒癖の悪いからと酒を飲むのを止められていたが、「是にて酒を飲まば何にても望みの物を引き出物にせんと有しかば太兵衛内々彼の大身の槍を望みに思いければ、よき折節と思い、その座上にかかりて有けるを見やりて、あの槍を給わらば此鉢にて飲み申さんという。かの槍の秘蔵なることを忘れ、しからばこの槍を与うべし、其鉢にて飲み候えと言われしかば太兵衛、其頽廃にて酒を受飲みて、かの槍を取りて帰りける【貝原益軒『黒田家臣伝』】。中国風に一斗と詠まれたようです。一斗は日本の一升になると云われます。飲みっぷりが良いので更に2~3杯勧められるままに飲んだとも言われます。明治維新になって戸籍を訂正元の母里に変わり子孫は母里となってます。尚「もり」でなく「ぼり」と読むようです。翌日酔いがさめた福島正則は槍が無くなっているのに気付き大いに後悔し、太閤から賜った重宝であるので返してくれと使いをやるが「太兵衛は武士と武士の約束でござる」と云って突っぱねたという。他にも石田三成に長政夫人が人質として軟禁されていたのを助け出したなどの武勇伝がある。 左の掛け軸は松口月城先生直筆の優れもので、吾家の家宝とする5~6点中の一品。力の籠ったもので92歳の時の作品です。横にあるのが黒田武士博多人形(母里太兵衛)右上は福岡市城内にある母里太兵衛の長屋門。その下が福岡市の博物館内にある本物の名槍日本号。その長くて立派な槍を見るのは感動物です。 槍の経緯。(造られたのは室町時代?)正親天皇(1575~1586)→室町時代15代将軍足利義昭→織田信長→豊臣秀吉→福島正則→母里太兵衛→後藤又兵衛→野村家→14代当主黒田家→福岡市美術館へ福岡市天神にある安国寺と横にあるのが母里家累世のお墓。右が飯塚市の母里太兵衛の菩提寺「麟翁寺」 左の三個のお墓の一番左が母里太兵衛の五輪塔。中央の木の前にあるのが太兵衛のお孫さんの墓。三つのうちの一番大きいのが太兵衛の子供さんのお墓と説明して頂きました。右側の写真は 「母里太兵衛」 の写真を拡大したものです。今以ってお花が供えられていました。
2009年06月27日
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かみかぜ とくべつこうげきたい おも まつぐちげつじょう 神風 攻撃隊 を 懐う 松口月城 ゆ かえ なん ひそう おお こ こうがん りょくはつ ひと 往いて返らず何ぞ悲壮なる。 多くは是れ紅顔 緑髪の人。 にく も たま な りょかん ほふ み ごこく だいせいしん 肉を以って弾と為し虜艦を屠る。 看るべし護国の大精神。 詩文説明戦地に行ったら、悲しいことではあるが勇ましく心を奮い立たせ二度と生きて帰ることはない。これが神風特別攻撃隊の定めである。この人たちは殆んど年若い紅顔(血色豊かな青少年)の人達である。自分の身体が大砲の弾となって、勇敢にも戦艦に当たって行く肉弾戦闘機である。看るべしは、この日本を護り次の世代の日本の幸せの為、命を投げ出して散っていく大精神を。 ※歌謡吟として、和歌[中国の漢詩に対し日本の歌、短歌を和歌と云った]や軍歌を吟の 前、或いは中間に入れ詠うと一層哀調を帯び吟詠効果が増します。[和歌]いまさらに、なに惜しからむ栄えゆく、国のいしずえ築くわが身に[軍歌]■同期の桜(貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花 なら散るのは覚悟 見事散りましょう国の為)。 ■海ゆかば(海ゆかばみずくかばね 山行かば草むすかばね 大君の 辺にこそ死なめのどには死なじ。 ■荒鷲の歌(見たか銀翼この勇姿 日本男児が精こめて作って育てたわが愛機 空の護りは引き受けた来るなら来てみろ赤蜻蛉 ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ。 左側写真は鹿児島県の知覧にある0戦戦闘機です。爆弾が取り付けてあります燃料は片道文の量しか積載されてないらしいです。中央は特攻隊として出征する兵士を見送る母親像。右は特攻隊の映画の一コマです。 左は飛行機ごと敵艦にぶつかって行く特別攻撃隊の0戦戦闘機図(これは飛行機を加えて創った合成図です)。右は戦場に行く前の別れの盃を交わす特攻の若者達です。知覧に行くと若者達の親に宛てた遺書が沢山あります。只今23歳、昔は人生50と云われたが現在は人生20年、3年ほど長生きをしました。お国の為に働いてきます。お父さんお母さんお世話になりました。さようならと云ったような文も有りました。目頭が熱くなります。若い人達が命を捨てに行く戦争は残酷です。人の行うべき行為ではありません。広島の平和記念堂ではさらに残酷な写真が身に入ります。特攻隊員宿舎です。右はこの宿舎の前に掲げてある文です。三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕を作り屋根には杉の幼木をかぶせ、擬装してありました。各地から集まった隊員は2~3日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。出陣の前夜はこの三角兵舎で壮行会が催され酒を酌み交わしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を掻き、また別れの手紙をしたためて出撃して征ったのです。ここに三角兵舎を復元し当時をしのぶよすがとするものであります。 この2枚の0戦戦闘機の写真は、広島県呉の大和ミュージアムにある展示物を写してます。ここにも沢山の遺書が胸を打ちます。このミュージアムは戦艦大和ほか沢山の潜水艦が展示されてます。
2009年06月20日
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こじま たかのり おうじゅ しょ ず だい さいとうけんもつ 児島高徳 桜樹に書するの図に題す 斉藤 監物 ふ やぶ せんざん ばんがく けむり らんよ こんにち いず へん いた 踏み破る千山 万嶽の煙。 鸞與 今日 何れの辺にか到る。 たんさ ただ い ころう いわや いっぴ ふか さぐ こうがく ふち 単簑 直ちに入る虎狼の窟。 一ヒ 深く探る鮫鰐の淵。 ほうこく たんしん どくりょく なげ かいてん じぎょう くうけん いか 報国の丹心 独力を嗟き。 回天の事業 空拳を 奈んせん。 すうこう こうるい りょうぎょう じ おうか ふよ きゅうてん そう 数行の紅涙 両行 の字。 桜花に付与して九天 に奏す。詩文説明(児島高徳は隠岐の島に流される後醍醐天皇を助け出さんものと後を追う)。幾重にも重なる山々はいずれも高くそびえて雲に囲まれている。後醍醐天皇のあとを慕い、折あらば途中でお乗り物を奪わんものと、険しい峰々を超え後を追って来たが、天子の召すお乗り物はどの辺りに居るのであろうか。高徳一人になるも奪還せずにはおれないと、夜陰にまぎれ、蓑笠をまとい、一本の匕首を懐に隠し、虎狼の窟、鮫鰐の淵ともいうべき敵の警戒堅固な陣屋に忍び行った。しかし一人の力では非力である。いかに報国の丹心をつくし、回転の事業を成さんとしても不可能である。天皇の御側近くに来ていながら、独力の空拳では如何ともしがたい。せめて、間近に天皇を救出しに来た者がいたことを知って頂き、お心を安んじて頂きたいと桜の幹を削り、したためるはただ二行の十文字。(天莫空勾践時非無范蠡)。聡明なる天皇のことであらせられるから、必ずこの句をお読みとりになり、高徳の意中をおくみ取り戴けることであろう。※天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非らず)(翌朝漢詩を見つけた兵士達は何の意味か解らず、ただ騒ぐばかり、これを見られた天皇は微笑まれたといいます。中国春秋時代の呉越の戦いで范蠡という忠臣が越王勾践を助け制覇を成した故事のことで、御醍醐天皇に范蠡のような忠臣が助け出しに来てます、もう暫くご辛抱下さいという意味です(後日、桜田門外井伊大老暗殺では折からの雪の為、蓑をまとっている。)※児島高徳〈文部省唱歌〉1、船坂山や杉坂と御跡慕いて因の庄、微衷をいかで聞こえんと、桜の幹に十 字の詩。天勾践を空しゅうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず。 後醍醐天皇今年2度目の吉野に遊び、勝手神社に入ろうとする時ヒョイと後ろを見ますと何と吉水神社が有り、当日は戸が閉まってましたが、門扉の横にこの十文字が有るではありませんか思わずびっくり。宝物を見付けたような思いでした。全く予期しないことなので嬉しかったです。後醍醐天皇の喜びは如何ばかりだったでしょう)。さっそく天勾践の両行の字を使わせた頂きました。後醍醐天皇や児島高徳・斉藤監物その他この時代の人達は国事に奔走し身体を張っての忙しい中、漢詩にも精通されてますね。 斉藤監物幕末の勤皇家。名は一徳。通称監物。号は文理。常陸(茨城県)那珂郡静村、静神社の祠官の家に生まれた。父は文静。藤田東湖に師事。剣道は神道無念流の達人。藩主徳川斉昭が水戸藩の天保改革に当たり、神道尊重、祭政一致の方針をとるや、その依託を受け、東照宮の祭祀にあずかり、ついで弘道館の神官にも抜擢された。弘化元年(1844)斉昭が幕府に命により駒込の下屋敷に蟄居させられるや、憤激して領内の神官を糾合、赦免運動に奔走し、禁を犯して江戸に赴き、老中阿部伊勢守に上書し、斉昭の無罪を直訴しようとしたが、越訴のかどにより身分をはくばくされ水戸に禁錮された。井伊直弼が紀州慶福を迎えて将軍の継嗣とし、再び斉昭を厳罰に処するに及んで、監物ら水戸藩の志士は激昂、加えて直弼が勅許を待たずして条約に調印すると、その非を怒り、天下の志士と連絡し、勅を請うて幕府の改革を図ろうとした。これに対し、直弼は積極的に志士の弾圧を断行「安政の大獄」である。高橋多一郎・金子孫治郎を主謀とする直弼暗殺の計画に参加、ついに3月3日折からの暁雪を衝いて、同志17人と共に直弼の登城を桜田門外に待ち受け襲った。斬奸状を差し出す役目だった監物は、初めは襲撃の中には入らなかったが、乱闘となって斬り込み、重傷を負い、訴状は蓮田一五郎に託し、共に閣老の一人脇坂氏の邸に自訴した。その日の夕刻、同志は細川越中守邸に幽閉され、深傷の佐野竹之助は同日死し、監物は6日の後、8日に没した。細川邸で絶命の際、〈君が為つもる思いを天つ日にとけてうれしきけさの淡雪〉と詠じた。死体は、佐野竹之助と同じく小塚原に棄てられた、享年39歳。臥薪嘗胆呉王夫差が父を殺された恨みを忘れない為に毎日薪の上で寝起きし、越王勾践は会稽山で呉王に降服し、その屈辱を忘れぬよう毎日朝夕、肝を嘗めて屈辱をはらした。この越王勾践を助けたのが范蠡である。范蠡は中国の4大美女の一人西施を呉王夫差に送り込んで堕落させ呉を滅ぼした。
2009年06月13日
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和歌二題 亀山上皇 (第90代亀山天皇) ※ちはやぶる神の定めむ我が国はうごかじものをあらがねの土。 神々のお力によって、お定めになった我が国はいかなることがあろうとも断 じて動くことはない。この大地のように、と確信をもっている。(ちはやぶる は、霊力盛んな神という枕詞)※世のために身をば惜しまぬ心ともあらぶる神は照らしみるらむ。 世の為には身をも惜しまぬ私の心を激しい霊力のある神々は、必ずや国を 護って下さるに違いない★弘安4年(1821)元軍が再び襲来するという知らせに国内は騒然となった。山々寺々にお祈りが行われること数知れず、その時亀山上皇は、もしもこの日本の国が侵略されるようなことがあれば自分の命をお召しになって頂きたいと、身を投げ出して国を護るべき決意を自ら筆をとって願文にお召しになった。福岡市の箱崎宮の正門に「敵国降伏」の文字が掲げられてある。 福岡市箱崎宮の正門には亀山上皇が懸れた「敵国降伏」が掲げられている。中央は外敵の襲来を予言した日蓮銅像と右端の亀山上皇の銅像が東公園に建立されている。(どちらも蒙古の方を睨んでいると聞いています)。以下は鎌倉時代元寇最後の戦場跡となった鷹島に造られているモンゴル村の景観です。 元寇当時の遺品が資料館には海の底から引き揚げた遺品があります。以下肥前鷹島のモンゴル村の様子です。移動式住居(ゲル)は30棟。宿泊出来るようですソフトバンクホークスの必勝鷹像です。
2009年06月05日
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