全5件 (5件中 1-5件目)
1

つと はくていじょう はっ りはく 早に白帝城 を発す 李白 あした じ はくてい さいうん かん せんり こうりょう いちじつ かえ 朝 に辞す白帝 彩雲の間。 千里の江陵 一日にして還る。 りょうがん えんせい な や けいしゅう すで す ばんちょう やま 両岸 の猿声 啼いて住まざるに。 軽舟 已に過ぐ万重 の山。 詩文説明朝早く、朝焼け雲のたなびく白帝城に別れを告げて、千里の向うの江陵まで、たった一日で進んでゆく。切り立つ両岸の猿の声が絶え間なく続くうち、軽い小舟は幾重にも重なる山の間を通り抜けて行った。白帝城前の李白(合成) 朝焼け雲たなびく三峡江陵(湖北省荊州)に着く (右写真は荊州城三国時代、関羽は治めていた城)。 (詩文と城や三国時代とは関係ありません。江陵(荊州)の説明の為)(白帝城は三国時代の劉備元徳が一時、居城しており臨終を迎えた所)現在、三峡ダムが進行中ですが出来上がると残念ながら、三峡の絶景は消滅するします。 白帝城に別れを告げて三峡(瞿塘峡・巫峡・西陵峡)を行く (両岸の猿は詩文に合わせて合成しました) 途中両岸には絶え間なく猿の啼き声が聞こえていた 白帝城~江陵(荊州)まで、およそ1200里(600キロ)あり一日では行ける距離ではないといわれますが、激流の為か、詩情を高める為でしょう。 (当時の中国の一里は約500メートルといわれます)。 作者 李白(701~762)盛唐の詩人。母が太白星を夢に見て生んだのでそれにちなんで字を太白という。また出身地の蜀(四川省)の青蓮郷にちなみ、青蓮居士と号した。出身地については他に山東省・甘粛省の天水県ともいう。10歳にして「詩経」「書経」に通じ、15歳には合従連衡の弁論術を学び、任侠を重んじ財を軽んじ施しを好んだ。蘇(そ てい)が李白を見て「もっと学問をしたなら司馬相如と比肩することが出来ると驚いた。27歳の頃から孟浩然ほか、幾多の名士と交わる。孔巣父・韓準・はい政・張叔明・陶(とう べん)と徂徠山に隠棲し日々酒を愛し「竹渓の六逸」と人々は呼んだ。賀知章は李白を「天上の謫仙人」と称賛して翰林供奉に推薦する。玄宗が沈香亭で牡丹を賞し、李白を召して詩を作らせる。李白は泥酔のうちに三章をたちどころに賦したが、詩文に問題ありと高力士の(ざん)により宮中を追われ以後各地を漫遊。安史の乱勃発。玄宗の子永王(えいおうりん)が安禄山討伐の軍を起し、李白は請われてその幕僚となるも永王は兄粛宗の命に従わなかったので反乱軍と見なされ永王の軍は管軍に敗れ永王は殺され、李白は獄に繋がれ死刑となる処を郭子儀によって減刑され夜郎に流されることになったが途中で大赦に合い許され宣城・歴陽に遊び当塗の李陽(りようひょう)を頼ったがそこで病死した。 白帝城を後にして(松下 緑 訳)。 井伏鱒二さんが于武陵の「酒を勧む」の詩を「サヨナラダケが人生だ」と翻訳したように松下緑さんも、替わった詠み方をされてる書を見付けましたので記載致します。 東雲の白雲城を後にして。 千里をいっきに江陵へ。 両岸の猿啼きやまず。 断崖また絶壁を舟は過ぎ。
2009年10月30日
コメント(1)

おうりん おく り はく 汪倫に贈る 李 白 りはく ふね の まさ ゆ ほっ たちま き がんじょう とうか こえ 李白 舟に乗って将に行かんと欲す。 忽 ち聞く岸上 踏歌の声。 とうかたんすい ふか せんじゃく お おうりん われ おく じょう 桃花潭水 深さ千尺。 及ばず汪倫が 我を送るの情に。 詩文説明(李白は汪倫を尋ね、けい県の桃花潭にやってきたが、好きな酒を振るまってもらい、その親愛の情に,この詩を贈った)。私、李白は桃花潭に遊びに来て今小舟に乗って正に出発しようとするとき、ふと岸辺で足を踏みながら歌う声が聞こえてきた。汪倫が私との別れを惜しんで村人達と共に見送りに来ていたのだ。この桃花潭の水の深さは千尺程も有ると云うが、その深さはとても王倫の情愛の深さにはとても及ばないであろう。桃花潭岸辺(木彫り図) 李白の小舟を踏歌し見送る村人達2点(木彫り図2点) 桃花潭岸辺に見立てた水路 小舟に乗った李白像 右写真 遠ざかっていく李白の乗った小舟。※ 作者 李白(701~762)詩才に優れ、豪放磊落。財を好まず、自由を好み、自然を楽しむ。酒を好み任侠に心を寄せ、詩を作っては盛唐随一の詩人で詩仙と呼ばれた。安徽省当塗県で病死し、享年62歳。•※ 李白の死については、采石(安徽省当塗県北)の江上で舟を浮かべ、大酔して水中に映った月 を捉えようとして溺れ死んだと云う伝説があります。•※ 大酔といえば、 玄宗皇帝に仕えていた時、泥酔中に皇帝から呼び出され 迎えに来た高官の高力士に靴を脱がさせたり、肩にすがったりしたことな どがありこれを根に (李白の作った詩の中に「晩年悲劇の主となった趙 飛燕になぞらえた処があると暗に楊貴妃を侮辱したものだ」と) 高力士の讒により宮中を追い出さ れた。常に酒から離れることは出来なかったようです。•※ 李白は、汪倫がいる村を訪れ、すでに知名度の高い李白のことですの で、村中が歓待し長逗留したようです。別れに際し、この詩を汪倫に贈り、ま た、次の土地をもとめて旅を続けたことでしょう。亡くなる七年前の事のよう です。汪倫は喜び子孫にこの詩を家宝として残したとあります。
2009年10月24日
コメント(2)

しょく しょう と ほ 蜀 相 杜甫 じょうしょう しどう いず ところ たず きんかん じょうがい はく しんしん 丞相 の祠堂 何れの処 にか尋ねん。 錦官 城外 柏 森々。 かい えい へきそう おのず しゅしょく は へだ こうり むな こういん かい に映ずる碧草 自ら 春色。 葉を隔つる黄り 空しく好音。 さんこ ひんぱん てんか けい りょうちょう かいさい ろうしん こころ 三顧 頻繁 なり天下の計。両朝 開済す 老臣の心。すいし いま か み ま し とこしな えいゆう なみだ えり み出師未だ捷たざるに身先ず死し。 長 えに英雄をして涙 襟に満たしむ。 ※ 【詩文の「黄り」の (『り』 は、麗遍に鳥と書くきます=朝鮮鶯)】 ※ 【 『かい』 は=土遍に皆と書くきます】 ※ 出師=(出兵に同じ)劉禅に「前・後出師表」を奉って魏を伐つために軍を 出し、目的を達しないうちに「武功(陝西省武功県)の五丈原の陣営で病没 した。この事柄を詠った様です。 詩文説明蜀の名相諸葛孔明の廟は何処だろうと尋ね尋ね、成都の錦官城外の柏の木が茂っている処にやってきたが此処であった。廟には人影も見えず、社の階段には緑の草が自ら春らしき装いを醸し出し、葉影には朝鮮うぐいすがいい声で鳴いている。思えば孔明は三度も礼を尽して孔明を尋ね、天下統一の計を問い出馬を懇請した。孔明はこの頻繁なる誠意に感じて父子二朝にわたり、劉備の為に建国の基を開き、二代目の劉禅にもその業を継いで忠誠を捧げ、老臣としての真心を尽くしたのである。さらにその功を全うしようとして、魏討伐の軍を起したが、半ばにして勝利しないまま惜しくも病没してしまった。いついつまでも後世の英雄たちには、痛恨の涙を襟にいっぱい注がせるのである。 左より 武侯祠。 武侯祠(観星亭)。 武侯祠の諸葛孔明像 。孔明の廟・武侯祠は四川省成都市の南郊にある。死後に忠武侯とおくり名された為、後世の人がその廟を武侯祠と呼ぶようになった。劉備(昭烈帝)は死後、成都南郊の恵廟に葬られ、その陵の脇に廟を建て祭祀を続けた。西晋の末(四世紀初頭)に、その脇に孔明の廟、武侯祠が建立された。明代の始め(十四世紀半ば)になると両廟は合併され、主従合祀という廟が生まれた。後殿の静遠堂には孔明が祀られ、廟門の額には「漢昭烈廟」とあるが、民間では「昭烈廟」とは呼ばずに「武侯廟」と呼んでいる。これも孔明に対する人気の故でありましょう。 左より 武侯祠の武官群像。劉備玄徳(白帝城にて没す)。 武候祠の文官群像左より 白帝城 白帝山麗 武侯祠の諸葛亮殿左より 武侯祠の武官群像。劉備玄徳(白帝城にて没す)。 武候祠の文官群像中国の切手(三国志)矢を集める。杜甫草堂。劉備・孔明を懇請の(三顧の礼図) 三国志の面々。 諸葛孔明五丈原にて没す。享年51歳。
2009年10月16日
コメント(2)

だいなんこう こうのてんらい 大楠公 河野天籟 あかさかのしろ ちはや たむろ よううん ばくばく てん ま いた 赤坂之 城 千窟の屯。 妖雲 漠々 天を捲いて臻る。 ゆめ あら かさぎさんとう あかつき はな ち か かお よしの はる 夢は新 たなり笠置山頭 の 暁。 花は散り香は薫る 芳野の春。 なみだ の こ わか さくらい えき わら し つ みなとがわ しん 涙 を呑んで児に別る 櫻井の駅。 笑って死に就く 湊川 の津。 なんぷう きそ ち まみ いえど いせき とこ つと ちゅうれつ かみ 南風 競わず地に塗ると雖 も。 偉績 長しなえに伝う 忠烈の 神。詩文説明南北朝時代、南朝の忠臣。楠木正成の居城、赤坂・千早の城に天を蔽うほどの大軍が押し寄せ妖雲暗澹となる。正成は神策奇謀な戦法で北条百万の大軍を散々こらしめた。思えば御醍醐天皇が笠置山頭の明け方、正成の夢を見たのが発端であった。晩春の吉野山中の花は散ってゆくが香りは(正成の偉績)いつまでも残っている。櫻井の駅で七生報国を子(正行)にさとし、涙を呑んで児に別れ、後醍醐天皇の為に勝算なくも、笑って湊川の決戦場に就いた楠木正成は、南朝の武運及ばず兵庫の湊川の戦いで、終に力つき亡くなるも、その偉大なる功績は、忠烈の神として末長く伝わるであろう。 笠置山の戦い 赤坂城の合戦図 千早城の合戦 左より、下赤坂城址 (以外と狭い広場。) 赤坂城古戦場跡右の広角図。 下赤坂城址碑。 右写真、下赤坂城址を下から見る(大阪府の中では町でなく只一つの村で、【千早赤坂村】といいます。下赤坂城址の下の方には広範囲に棚田が見えます。地元の人に尋ねると戦いのあった場所は下赤坂だと聞きました。上赤坂城址も有ります 千早城案内地図。千早城登り口石段。 楠木正成生誕地。 大楠公一代記絵巻 この千早城登り口の近くにロープウエイの千早駅が有り、6分ほどで金剛山駅に着きます。 左より、後醍醐天皇の夢の図。 楠木正成像。神戸湊川神社。櫻井の別れの楠木父子像( 奈良県吉野如意輪寺) 後醍醐天皇の夢笠置山での或る日、夢の中で、庭先の南側の木が茂っていてその下に高官が並んでいる。突然童子が現れ「日本国中、束の間も御身をお隠しなさる場所が度ざいません。あの木の葉が茂った陰の南に天皇の玉座がございます」といった処で目が覚めた。主上に尋ねると「木に南と書くと『楠』という字になる、楠という字にゆかりのある人を召して国を治めよと云う事に違いないと解き、楠木正成の登場となった。作者 河野天籟熊本県玉石郡長洲町の人。名は通雄。天籟は号。文久2年生れ(1862~1941)昭和16年5月没す。熊本師範学校を卒業後小学校校長を歴任、作詩に志し40年、詩賦自由自在にして、漢詩百余編を収録した孟浪余滴の冊子を著す。
2009年10月09日
コメント(1)

ちゅうしゅう つき そ しょく 中秋の月 蘇 軾 ぼうん おさ つ せいかん あふ ぎんかん こえ な ぎょくばん てん 暮雲 収まり尽くして清寒 溢る。 銀寒 声 無く 玉盤 を転ず。 こ せい こ よ とこし よ めいげつ みょうねん いず ところ み 此の生 此の夜長 なえに好からず。 名月 明年 何れの処 にか看ん。詩文説明夕暮れの雲はすっかり何処かえ仕舞い込まれて、清々しい冷気が夜空に満ち溢れている。天の川の流れは音も無く、玉の皿のような月が天上にめぐらせている。限られた我が生涯、いついつまでも、こんな素晴らしい中秋の夜に会えるものではない。この満月の素晴らしさを、来年はどこで看るであろう。この写真は作ったものであり実在ではありません。風景・月・中心部の天の川・蘇軾像・玉盤を眺める人物・何れも組み合わせたものです。 作者 蘇軾(1036~1101)北宋の詩人・文章家。北宋の文章家蘇洵の長子で蘇轍は弟。洵・轍と合わせて三蘇という。唐宋八家の一人。名は子瞻。号は東坡。四川省眉山県の人。父の蘇洵は諸方に遊学がちだったので、蘇軾は10歳の頃母から学問を受けた。20歳の頃には経史に通じ、沢山の書を愛読し、特に『荘子』を読んで、「この書我が心を得たり」と感嘆したと云う.嘉祐元年(1056)父に従って弟と共に都へ出、翌年兄弟そろって進士に及第。この時、試験官であった欧陽脩は蘇軾の答案の出来栄えに驚喜激賞した。これがきっかけで欧陽脩の知遇を受けることになり陜西省鳳翔県の僉判に任ぜられた。王安石の新法に反対して睨まれ、浙江省通判となって都を離れ、密州・徐州・湖州の知事を転々とした。湖州の知事の朝政を誹謗した詩があるというかどで、死刑に処せられたが神宗の温情により検校水部外郎黄州団錬副使として黄州に流された。ここで農民と交わり農耕生活を送り、東坡と号した。この間に有名な「赤壁賦」「後赤壁賦」を作っている。新法党の没落により都へ召し返され、中書舎人や翰林学士となるが、保守派に対しても批判的な意見を述べて嫌われ再び地方に転出。晩年は瓊州・たん州(海南島)に流されたが大赦により都へか帰る途中大病にかかり没した。死後、資政殿学士を贈られ文忠と諡された。蘇軾は儒・仏・道に通暁し、書画・詩文・詞に於いても一家を成している。蘇軾の弟、蘇轍。蘇軾の父、蘇洵図。 三蘇の図。 右写真、東坡書院載酒亭(海南省たん県)
2009年10月02日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1