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しゅうじつぐうせい ていこう 秋日偶成 程こう (程こうのこうの字は下を参照) かんらい こと しょうよう な ねむり さ とうそう ひ すで くれない 閑来 事として従容 たらざるは無し。 睡 覚むれば東窓 日已に紅 なり。 ばんぶつ せいかん みな じとく しいじ かきょう ひと おな 万物 静観すれば皆 自得。 四時の佳興 人と同じ。 みち つう てんち ゆうけい ほか おも い ふううん へんたい うち 道は通ず天地有形 の外。 思いは入る風雲 変態 の中。 ふうき いん ひんせん たの だんじ ここ いた こ ごうゆう 富貴にして淫せず貧賤にして楽しむ。 男児 此に到らば是 豪雄。 詩文説明一地方官となり暇になってからは、何事においてもゆったりと落ち着いた。早朝に出仕する事も無いので、東の窓に真っ赤な太陽が差し込む頃に目を覚ます。万物のいろいろな姿を静かに観察すると、それぞれが自分の置かれた境遇に満足している。春夏秋冬のよい趣きは自分も他人と同じく楽しむ。わが信ずる道は天地間の有形のものばかりでなく、無形の精神上の事にも通じ、わが思いは世の中の変化の多い全ての事柄の中に入って、よくこれに処する事が出来る。修養を積み、富貴であっても心をとろかし迷わすことなく、貧賤であっても心の楽しみを失う事のない境地に男児が到達する事が出来れば、豪雄の人と称すべきであろう。 地方官を辞して出仕しなくなり、日が差し込む頃目を覚ます。これからは貧富にかかわらず自分なり心の楽しみを失わないように豊かな人生を送りたい。(唐詩選画に色付け実写写真と合成) よくよく万物観察するとそれぞれ自分の置かれた境遇に満足して生きている。 春夏秋冬世の中の変化に迷わず、よい趣は自分も他人と同じしみ、豪雄といわれる境地に到達しよう。 (左の春景色は福岡市城南区樋井川。右は冬景色は以前北京旅行で写した万里長城) 作者 程こう(1032~1085)北宋の学者。字は伯淳、号は明道。諡は純公。弟の程「ていい」と合わせて二程子といわれる。洛陽(河南省洛陽県)の人。記憶力抜群で9歳にしてよく詩を作った。15・6歳で弟と共に儒学を学び、20歳の頃進士に合格。こ県(陜西省)の主簿(記録や文章を司る)になった時、土地の寺にある石仏の首から光が出るという噂が立ち、見物人がしきりに身に来た。程こうは僧に石仏の首を届けるように命じたところ、その後光が出なくなったという。ついで沢州(山西省)の令となると、学校を建てて子弟の教育に当った。その為、い寧・元豊{1068~1084}の 間に科挙の試験に合格する者が10人以上にも達した。大子中允・御史裏行(文書や検察等を司る)となり、神宗の召見をしばしば受け、「正心窒慾(欲望を塞ぐ)求賢育才」を説いて、神宗を感動させた。王安石と新法を議して合わず、願い出て地方の官となった。哲宗の時、召されて宗正丞(皇族の系図の管理を司る)になったが、都に行かないうちに没した。その学問は、若い頃儒学ばかりでなく、老荘や仏教にも出入りしたが、結局儒学に戻り、異端の排斥に努めた。弟の程「ていい」は程「ていこう」を「孟子の後、一人のみ」と称した。その性質は温和で、友人や門弟たちは十数年にわたって「ていこう」の怒ったのを見たことはなかったという。
2009年11月28日
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にっ ぽん とう えい とくがわみつくに 日本刀を詠ず 徳川 光圀 そうりゅう なお いま うんしょう のぼ ひそ しんしゅう けんかく こし あ 蒼竜 猶 未だ雲霄 に昇らず。 潜んで神州 剣客の腰に在り。 ぜんりょ みなごろ ほっ さく な あら ようい けが なか にっぽんとう 髯虜 鏖 しにせんと欲す策無きに非ず。 容易に汚す勿れ 日本刀。 詩文説明正保元年(1644){光圀17歳}外国船が長崎へやって来たので撃退した事件があった。後にも延宝元年(1673)(光圀46歳)に英国船が通商を迫ってきたが我国は許さなかった。我が国の海辺を侵して通商を迫る外国船の振る舞いは目に余るものがある。これを全滅撃退する策はあるが時期尚早だ。竜は深い淵に潜んで、時期が来ると一気に天に昇るのと同じく、今はじっと我慢して堪える時である。腰にある日本刀は武士の魂であり。この腰の日本刀が鞘走った時こそ竜が雲を呼んで大空に登る時であり,機の熟する時である。滅多な事で神聖な宝刀を汚すべきではない。(竜を刀に譬え、蒼竜未だ天に昇らずという事でまだ刀を抜く時ではない、ゆっくりと時期を待ち、滅多なことで刀を汚してはならない)。 正宗、日本刀(名刀)を作り魂を入れる 次は日本刀を作る宗近(三日月宗近画像) 右は、日本刀 通商条約を迫る外国船 大日本史編纂 水戸光圀像 隠棲した西山荘 左は徳川光圀像 中央写真は神戸湊川神社境内に水戸光圀が楠木正成を 讃え建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑。 右写真は水戸光圀が福岡市の百道浜に出現し私と記念写真。 これは仰天と言いたいところですが、合成写真です。 徳川光圀(1628~1700)水戸藩第二代の藩主。名は光圀。字は子竜。初め徳亮、また観之、常山人、日新斎、梅里などと号した。権中納言に叙せられて、その唐名により水戸黄門といわれる。寛永5年(1628)頼房の第3子として生まれた。幼少から才知優れ、兄の頼重を越えて後嗣なったが、史記の伯夷伝を読み、深く感じ、寛文元年頼房が薨じた際、兄の子綱方を家嗣とし、綱方の没後弟綱条を後嗣に立てた。早くから修史の志あって、江戸に彰考館を設け、学舎を集めて史料を採録し「大日本史編纂事業」に生涯を捧げるべく、編集に着手し完成間もなく元禄3年官職を辞し太田の西山荘に隠棲、西山隠士と号する。楠公の碑を湊川に建て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と自分の師、朱舜水に賛辞を書いてもらい祀り楠氏の忠誠を千古に不朽ならしめた享年73歳。 (「水戸黄門諸国漫遊」は行っていません)
2009年11月14日
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ひんこうこう と ほ 貧交行 杜甫 て ひるがえ くも な て くつがえ あめ 手を翻 せば 雲と作り手を覆 せば雨。 ふんぷん けいはく なん かぞ もち 紛紛 たる軽薄 何ぞ数うるを須いん。 きみ み かんぽう ひんじ まじ こ みち こんじん す つち ごと 君 見ずや管鮑 貧時の交わり。 此の道 今人 棄てて土の如し。 詩文説明手のひらをちょっと上に向ければ雲となり、ちょっと、ひっくり返して下に向ければ雨となる。今の世の人情は、まことに測り難く、忽ちにして変わってしまう。世間にいっぱいいる軽薄な奴ら(うわべだけで、真心がなく、利害によって親しく交わったり疎んじたりする連中)は、数えたてる必要もない程である。見たまえ君たち、あの管仲と鮑叔との貧しかった時の変わらぬ交わりを。このような美しい交友の道を、今の人は土のようにうち棄てて、まるで顧みないのだ。 杜甫盛唐の代表する詩人で、李白の詩仙に対し詩聖といわれる。(712~770)30代~40代の苦難時代、妻子を抱え職はなく、進士の試験に及第せず、八方塞がりの中、伝手を求めて曲げたくも無い腰を曲げなくてはならなかった。『残杯と令炙と、至る処潛かに悲辛す』(飲み残しの杯と食べ残しの冷えた脂肉をあてがわれる屈辱に、何処へ行っても心中辛い悲しい思いをした)《北征》という痛烈な苦難を味わったような詩もあります。そんな時、腹に据えかねる思いを、叩きつけたのがこの詩であります。雨を書き込んで降らせたり、自分の手を翻したりして少しふざけております。軽薄な人の表現です。 右写真は、故事「管鮑の交わり」の管仲の墓(山東省) ※ 管鮑貧時の交わり→管鮑の交わり「管鮑の交わり」の故事管仲と鮑叔牙の二人は幼い頃からの親友で、貧乏書生であった頃、二人で商売し、分け前を管仲が多く取っても、鮑叔牙は管仲の貧しいことを理解していたので、怒ることも無かった。また、管仲は三度戦争に入って三度とも逃げ帰ったが、鮑叔牙は管仲を臆病と思わなかった。管仲に老いた母がいるのを知っていたからである。その後、管仲が宰相となった時に「私を生んだのは父母だが、私を本当に理解してくれたのは鮑叔牙である」。と言った。貧しい時期からの二人の交友は生涯変わらなかったという。この二人の関係は今をして長く「管鮑の交わり」として語り継がれています。 左は管仲の画像 右写真は管仲記念館と記念館前に立つ管仲の石像。春秋時代大公望呂尚を祖とする斉の14代暴君襄公の時、内乱が興り、親友であった管仲と鮑叔牙は主の為に別れ敵対した。鮑叔牙は公子小白が君位を継ぎ、敗れた管仲は小白に捕えられ、小白を暗殺しようとした管仲を殺そうとした。鮑叔牙はそれを止めた。「殿が斉の君主であることだけを望むなら私一人でも十分ですが、もし天下の覇者になりたければ必ず管仲の力が必要です」と説き、管仲を重用するように進言、なんと管仲を小白の宰相とした。(余談ですが 、鮑叔牙は管仲(?~前645) を宰相にした後、身を退き、管仲は宰相となり、桓 公(小白 )に仕え、見事に「覇者」として天下に号令をせしめる名宰相となりました)。
2009年11月06日
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