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2005.01.08
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テーマ: 生き方上手(689)
カテゴリ: カテゴリ未分類
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、今年の最初のテーマは、日本語について思うところを、2回に分けて述べさせていただきます。

察しの日本語(1)

 話し相手の気持ちや感情を察する感覚は、欧米人より日本人の方が、強いように思われます。
あの人は人格者であるとか、徳ある人といわれるようになるには、ある程度人の心が読めなければなりません。

人格者とか、徳ある人の定義には、いろいろと言い方が、あるでしょうが、簡潔にいうならば、見返りを求めることなく、無私の心で、他人のためにつくす人のことでしょう。

あるいは、他人に対して、愛深き人と言っていいかもしれません。
他人のためにつくすには、その人が望んでいることを、積極的にするようにしなければなりません。

そのためには、人の心が読めなければなりません。

 誤解を恐れずに、結論めいたことをいいますが、相手の心がわかるということが、人間の進化と関係があるとするならば、日本人の方が、欧米人よりも、その点においては、人間としての完成度が高い、といえるのではないかと思います。

作家の司馬遼太郎氏は、その著「アメリカ素描」の中で、アメリカ人の教授から聞いた話を紹介しています。
以下は、その教授の言葉です。

「アメリカ人の場合、自己を表現するということを、母親や学校から徹底的に教えられます。まず第一に、自己を表現しなさい。第二は、自己が正しいと思っていることをやりなさい。そして自己表現はアーティキュレイト(明瞭)に、クリア(明晰)にやりなさい。また、相手に訴えるときはパーフェクト(完璧)にやりなさい、ということを教えつづけられます。そのため、相手の心を察する感覚が、弱くなっているのです。」

 アメリカのような多民族国家では、教育は、自然、このような自己主張重点主義にならざるを得ないと思われます。
出自のわからない者同士の共同社会では、相手がどのような考え方、価値観を持っているかわかりにくく、自己防衛のためにも、先ず自分の権利を明瞭、明晰、完璧に主張する必要に迫られます。

従って、手段としての言語も隙のない論理的なものになり、日本語のようなあいまいさは、少なくなります。
これは、アメリカだけではなく、陸地で国境を接している多民族のヨーロッパにおいても同様でしょう。

自己防衛本能というものは、動物において顕著です。
動物は、差し迫ってくる危機や危険に対し鋭敏な感覚を持っており、常に自分の身を守ろうとする自己防衛本能が、はたらいています。

例えば、敵らしきものが近づいてきた場合、すぐに牙をむいたりして、相手を威嚇しつつ、いつでも逃げることのできる態勢をつくります。

よく、私の家の庭に、野良猫が来ることがありますが、一瞬猫の目と、こちらの目が合う場合があります。
その時、猫はギョッとした表情をし、目と目を合わせたままの状態で、そのまま固まってしまいます。

この時の猫の心境は、どうでしょうか。

「この人は、自分に危害を加える人だろうか、それとも、何もしない安全な人だろうか。もし、危害を加えるようであれば、こちらの方向へ素早く逃げよう。」と体を緊張させたままで、このようなことを、考えているのではないでしょうか。

こちらが、何もなかったかのように、目をそらしてやれば、緊張を解き、しかし油断することなく、ゆっくりと去って行きます。

これと、似たような経験をされた方も、多いのではないでしょうか。

このような自己防衛本能を、強弱はあるにせよ、動物だけではなく、人間も具有しているのでしょう。

 私は言語学者ではないので、断言はできませんが、欧米のような弱肉強食の社会では、一種の自己防衛本能から、自己主張するようになり、そのための手段として、必然的に隙のない論理的言語が、発達したといえるのではないでしょうか。
(次回へ)







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最終更新日  2005.01.08 18:48:29
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