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一般に事実と真実は違います。例えば、ここに1台の車があるとします。この車がどういう形状をした車であるかその全体像を表現するには、正面図、側面図、平面図といったいろんな角度から見た図面を作成しなければなりません。車は1台なのに違った図面が何枚も要るわけです。この各図面がそれぞれの角度から見た車体の形状を示す事実に相当します。そして各図面を合計したものが車体の全体像を示す真実に相当します。事実を集めることにより真実が浮かび上がってきます。真実を知ろうと思えば、多様な見方をしなければなかなか真実の姿にせまることができないということです。Aという人と、Bという人が喧嘩をしてその仲裁をする場合、両方の言い分を聞いてみないとなかなか本当の喧嘩の原因(真実)は分かりません。片方だけ聞いた場合には正しい判断ができないし、また公平でもありません。裁判などでも、裁判官は弁護側と検察側の両方の言い分を聞いて判決を下します。また、日本のことが知りたければ、外国へ行けともよく言われますが、これも立場を変えて客観的に見るようになるからより真実に近い日本の姿が見えるようになるのでしょう。服装なども外見だけで人を判断すると判断を誤る場合があります。確かに服装はその人間の内面を反映しているのでしょうが、100%ではありません。だらしない服装や奇抜な服装は別として、普通の格好をしているのであれば、その人の真の姿は、実際に話したり、日頃の行いを観察してみないとなかなか分からないものです。人のために生きるには人が理解できなければなりません。多様な見方ができれば、相手がよく理解できて、寛容になり、少々のことがあっても許せるようになるでしょう。これはまた自分自身が大きく成長していく道でもあります。それでは複眼の視点で物事を見る方法論としてはどのようなものがあるでしょうか。方法論として次のような3点があげられると思います。(1) 意識的に立場を変えて見るようにすること。例えば、相手の立場や第三者の立場に立って考えて み ること。(2) マクロとミクロの空間的視点で見てみること。(3) 短期と長期の時間的視点で見てみること。注意点としては、行き過ぎた欲は持たないことです。欲の深い人は、欲のためによく働きますが、欲にとらわれて物事をありのままに見ることができなくなり、ついには身を滅ぼすことになりかねません。最後の注意点として、ある1つの事実だけを見て、早とちりや思い込みにより真相(真実)を誤解する例を述べます。自分の恋人の男性が、街中で他の若い女性と一緒に並んで歩いているのを見かけて、その男性が浮気をしていると思いました。しかし実際は、他の若い女性が自分の恋人の男性に道をたずねたところ、たまたま近かったので、その男性は目的の場所まで他の若い女性を案内していただけのことです。ところが恋人の女性はこの情景をちょっと見ただけで浮気をしていると誤解したのでした。こういうのを事実誤認というのでしょうか。やはり物事はよく見て判断しないと早とちりや思い込みをしてしまいがちです。次の例を挙げてみます。ある洋服店で1日の来店者数は男女別ではどちらが多いかを調べることになりました。開店中の1時間おきの店内の男女の数を調べたところ女性がいつも男性より2倍ほどいました。しかし実際は1日の来店者数は男性の方が多かったということです。これは一体どういうことでしょうか? こういうことがあり得るのでしょうか? すでに分かった方もおられるかもしれませんが、答えは、1日の来店者数では男性よりも女性の方が少ないにも関わらず、女性たちの店内での滞留時間が長いため、店内をいつ見ても女性の方が多かった理由です。これは、入り口で来店者数をカウントすれば正解がでます。これは目の前の事実から思い込みによる判断ミスを犯した例です。目的に合った正しい調査法をとるべきでした。
2024.11.13
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前回からの続きです。(1)あの世が存在する場合人のために生きておれば、人に感謝され、評価され、名を残すこともできます。自分も満足します。自分の喜びともなります。以前述べたようにD.カーネギーの言う自分の重要感を満たすことができるからです。人のために生きておれば、あの世が存在するとした場合、死んだ後おそらく天国にいくでしょうから、この世でもあの世でもいいことずくめです。逆に、もし自分のためだけに生きたなら、人に感謝されることもなく、評価されることもありません。死んだ後、天国に行けるかどうかも保証の限りではありません。地獄かそれに近い世界に行く可能性が高いでしょう。(2)あの世が存在しない場合人のために生きておれば、人に感謝され、評価され、名を残すこともできます。自分も満足します。自分の喜びとなります。前述したとおり自分の重要感を満たすことができます。もし、この世かぎりだと思って、自分のためだけに生きて、享楽主義に生きれば、誰も尊敬しないでしょう。また誰も協力者となることはなく、この世的に、一時的に成功したとしても、長続きはしないでしょう。名を残すこともないでしょう。むしろ自己中心に生きた結果、他人に害を与え、悪名を残す事になるかもしれません。それでもいいと強がっても、心の底では、そんな生き方を望んではいません。自分の心に正直になる必要があります。よく自分の心の内を見てみる必要があります。悪人でも自分を本当の悪人だとは思いたがらないそうです。かつて全米をふるえあがらせた暗黒街のギャングの王者アル・カポネは「おれは働き盛りの大半を、世のため人のためにつくしてきた。ところが、どうだ、おれの得たものは、世間の冷たい非難と、お尋ねものの烙印だけだ」と、なげいたそうです。カポネほどの極悪人でも、自分では、悪人だと思っていませんでした。以上をまとめると次のようになります。人のために生きるべきである。それが本当の自分自身のためになる。なぜなら、あの世は存在する可能性が高く、人のために生きておれば、この世的には人から評価され、さらに死後はあの世の天国生活が待っている可能性が高いからです。逆に、自分のためだけに生きれば、この世的には、一時はいいかもしれないが、長い目でみれば、人から敬遠され、誰も協力者が現れず、死ねば、地獄での苦しい生活が待っています。もしあの世が存在しない場合でも、人のために生きておれば、少なくともこの世的には人から評価され、分自身の喜びともなって、前述した人間の渇望してやまない欲求を満たすことになります。従ってあの世の存在の有無に関わりなく、自分のためだけに生きることは割に合いません。
2024.10.23
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今までに、目に見えないあの世の存在を証明でき人は誰もいません。大昔からあの世や天国、地獄について述べた宗教が世界の各地に存在していました。現代のような交通手段がなくてお互いの交流がなかった時代にも、同じようにあの世や天国、地獄の思想が各地にありました。言葉や文化、風俗、習慣が違うのにどうしてこのような共通した思想があったのでしょうか。このことはあの世の存在証明とまではいかないとしても、存在を暗示しているようにも思われます。あると思うのが自然だと思われます。逆に、あの世がないということをこれまでに証明できた人は誰もいません。しかしあの世の存在を暗示したような宗教は昔から世界各地にありました。どちらが正しいのでしょうか。答えはどちらかです。中途半端はありません。世界のあちこちで臨死体験が報告されていますが、これなどもあの世の存在を暗示しているようです。もっとも臨死体験を単なる脳の作用だという学者もいるようですが。みなさんはどちらにかけますか。私としては、以上述べてきたことから推察してあの世の存在の可能性は高いと考えています。目に見えないからといって存在しないとは言い切れません。たとえば、テレビやラジオなどの目に見えない電波がそうです。スイッチをひねれば、音声が流れ、画像が写しだされます。これについては誰もが電波の存在を認めています。また紫外線や赤外線も目に見えませんが、その存在が確かめられています。あの世の存在を証明できないのは、単に今の科学技術レベルがそこまで達していないからかもしれません。電波も200年前であれば、その存在を誰も証明できませんでした。次回ではあの世が存在すると考えて生きていった方が、もしかりに存在しなかったとしても、結果的には得であるということについて述べます。
2024.10.19
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前回は「パレートの法則とは」何であるかについて述べました。次にこのパレートの法則が個人の仕事の能率アップへ応用できないか考えてみましょう。個人の仕事にこの法則はどのように働いているか考えてみます。おそらく次のようになるでしょう。1日の仕事時間を分かりやすくするために10時間とします。そして、その日に達成すべき成果を100とします。パレートの法則に従えば、「この100の成果のうち80の成果を達成するのは、1日の仕事時間である10時間のうちの2時間である」ということになります。言葉を換えれば、「1日の仕事のうちでやらねばならい重要な仕事(8割)は2割の時間を割くことによって達成できる」ということができます。従って、これを活用して、次のようにすれば、比較的簡単に仕事の能率を上げることができるでしょう。(1) 朝一番にその日にやらなければならない仕事をメモ用紙等に箇条書きしてみる。あるいは前日の仕事が終わって、帰り際に翌日の仕事を箇条書きしてもよい。(2) このメモをじっとながめて、このうちどれを押さえたら8割を制することができるかを見極める。つまりどれが重要な仕事かを把握する。自分の仕事で何が重要な仕事かは割と簡単に判断できると思います。(3) この重要な仕事に2割の時間を割いて、全力を集中して取り組む。できれば、肉体的にも、精神的にも元気のいい午前中にやってしまう。(4) 残りの8割の時間は余裕となるので、この時間を使って、できるだけ、前向きで、創造的なことを考えたり、行ったりする。以上のことを実行すれば、仕事の成果も上がり、残業する必要性も軽減し、私生活においても時間の余裕が生まれて、より幅広い積極的な活動が可能となることでしょう。(本テーマ完)
2024.09.07
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パレートの法則とはイタリアの経済学者「パレート」の発見した法則で「80:20」の法則とも言われます。パレートが自分の身の回りや世間一般で起きる事象を観察したところ、ほとんどの事象がほぼ「80:20の法則」に従っていることを発見しました。これは非常に利用範囲が広く、日常生活、ビジネスの世界でよく使われています。この法則を使うことにより能率があがって時間に余裕ができます。つまり時間を創造することができます。この法則を簡単に言うならば、「世の中のたいていの事象はこの『80:20の法則』に従っている」ということです。どういうことか分かりやすい例を以下に列挙してみましょう。(1) あなたの持っている100本のネクタイのうち、よく使うネクタイはそのうちの20本(2割)である。残りの80本(8割)はあまり使用しない。(2) 売り上げの8割までは全得意先件数の2割によるものである。そして残りの売り上げ2割は残りの得意先件数8割によるものである。(3) 員100人の会社で100億円の売り上げがあったならば、そのうちの80億円(8割)までは、社員のうちの20人(2割)が上げている。そして残りの売り上げの20億円(2割)は残りの社員80人(8割)で上げている。(4) あなたの持っている10足の靴のうちよく履く靴はそのうちの2足(2割)である。残りの8足(8割)はあまり履かない。(5) あなたの友人10人のうちよく会っている友人は2人(2割)である。残り8人(8割)とはたまにしか会わない。(6) 20人の会議でよく発言する人はそのうちの2割の4人である。(7) あなたの料理のレパートリーが100種類あったとしたならば、あなたが日頃よく料理するのはこの中の20種類(2割)である。残りの80種類(8割)は時たましか料理しない。このように考えれば、いろんな環境や状況において他にもたくさんありそうです。 次回はこのパレートの法則の応用編です。
2024.09.04
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重要なのは同じ日本語でも、状況によっては長所が短所になり、また短所が長所になるので、その都度使い分ける必要があるということです。ビジネスのような世界では不明瞭さや非論理性は不利になるので、日本語を意識的に明確かつ論理的に表現する必要があります。逆に、気の合った仲間同士の会話では、あまりに明確かつ論理的な言葉ではかえって白けてしまうでしょう。このような場合は、従来の日本語の表現で充分です。 以上、言語について長々と述べてきましたが、言語そのものを論じることが目的ではありません。言いたかったことは、「日本人は歴史的に相手の心を察する能力を磨く環境に恵まれていた。それがまた日本語の発達にも影響をおよぼしてきた。この物言わずして相手の心を察するというのは、人間にとって高度な能力である。」ということです。昔から読心術とかいわれているものでもあるでしょう。 この高度な能力をさらに磨くにはどうすればよいでしょうか。 それは自分のことばかりではなく他人にも関心を持てばよいでしょう。そのためには人の言うことには耳を傾け、また、人はどのような時にどのように考え、どのように行動するか観察を通して学ばなければなりません。つまり「他人に関心を持つ」とは「他人を理解しようとする」ことであり、それはまた言葉を換えれば「他人を愛する」ということでもあると思います。 赤ん坊を持つ母親は、泣声を聞いただけで、赤ん坊がミルクが欲しいのか、おむつを替えて欲しいのか、眠たいのか、あるいは何か硬いものが体に触れて痛いのかなどの区別がつくらしいです。これは赤ん坊を限りなく愛しているからこそ、何をして欲しいのかがすぐに分かるのでしょう。 現代はペットブームでもあるので、ペットを飼っている方もたくさんいますが、自分のペットがかわいくない人はいないでしょう。であるからこそ、泣声を聞いただけで何を欲しているのかが分かるような経験をされた方も多いのではないでしょうか。 本テーマ完
2024.08.12
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一方日本語にはあいまいさがあります。よく言われているように、日本は元々、村社会、農耕社会、ほぼ単一民族による同質社会です。そこで必要とされるのは調和とか秩序といったものです。このような社会では欧米ほどには自己主張をする必要がありません。むしろ他人との和を優先するようになって角の立つようなあからさまな表現を避けようとします。つまり言葉はあいまいな表現となり、後は察してくれということになります。長い期間、同じ土地に定住する村社会ではお互いの気持ちがある程度わかるようになるため、完璧な文章でなくても意思の疎通には支障がないからでしょう。片言隻句でも通じる場合があります。時に自己主張の強い人がでると、あの人は我の強い人で調和を乱す人だということになり、疎んじられるようになります。 あいまいさの例として、「はい、結構です」というのがあります。これには「YES」と「NO」の両方の意味があり、その時の会話の状況に応じて、どちらであるかを察しなければなりません。「NO」の場合、あからさまに断るのではなく、婉曲に断り人間関係に角を立てないという効用があります。ただし、現代ではこれが悪用される場合があります。たとえば、会社などへ高額な書籍などを購入するよう、しつこく電話がかかってくるようなことがあり、この時、断るつもりで「結構です」と返答したりしたら、購入を了解したということでその書籍を送りつけてきてトラブルケースがあります。このような時は、最初から明確に毅然とした態度で「要りません」とか「購入いたしません」と返答すべきでしょう。 日本語と欧米語の優劣はつけ難いことです。それぞれの異なった環境のなかでそれぞれに適合するかたちで発達してきたからです。 ただし、これだけグローバル化したビジネスの世界では、明確で論理的な欧米語の方が有利です。日本語のようなあいまいさや腹芸で商売をして、後は察してくれということであれば、後のトラブルの発生原因ともなり、また悪用されかねない面もあります。次回へ
2024.08.07
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自己防衛本能というものは動物において顕著です。動物は差し迫ってくる危機や危険に対し鋭敏な感覚を持っており、常に自分の身を守ろうとする自己防衛本能がはたらいています。 たとえば、敵らしきものが近づいてきた場合、すぐに牙をむいたりして相手を威嚇しつつ、いつでも逃げることのできる態勢をつくります。 よく自分の家の庭に野良猫が来ることがありますが、一瞬猫の目とこちらの目が合う場合があります。その時、猫はギョッとした表情をし、目と目を合わせたままの状態でそのまま固まってしまいます。この時の猫の心境はどうでしょうか。「この人は自分に危害を加える人だろうか、それとも何もしない安全な人であろうか。もし危害を加えるようであれば、こちらの方向へ素早く逃げよう。」と体を緊張させたままでこのようなことを考えているのではないでしょうか。こちらが何もなかったかのように目をそらしてやれば緊張を解き、しかし油断することなく、ゆっくりと去って行きます。 これと同じような経験をされた方も多いのではないかと思います。このような自己防衛本能を強弱はあるにせよ、動物だけではなく人間も具有しているのでしょう。 自分は言語学者ではないので断言はできませんが、欧米のような弱肉強食の社会では、一種の自己防衛本能から自己主張するようになり、そのための手段として必然的に隙のない論理的言語が発達したといえるのではないでしょうか。次回へ続く
2024.08.03
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4回シリーズで述べていきます。 話し相手の気持ちや感情を察する感覚は欧米人より日本人の方が強いようです。あの人は人格者であるとか徳ある人といわれるようになるには、ある程度人の心が読めなければなりません。人格者とか徳ある人の定義にはいろいろと言い方があるでしょうが簡潔にいえば見返りを求めることなく無私の心で他人のためにつくす人のことだと思います。あるいは他人に対して愛深き人と言ってもいいかもしれません。他人のためにつくすには、その人が望んでいることを積極的にするようにしなければなりません。そのためには、人の心が読めなければなりません。 誤解を恐れずに結論めいたことをいえば、相手の心がわかるということが、人間の進化と関係があるとすれば、日本人の方が欧米人よりも、その点においては、人間としての完成度が高いといえるのではないかと思います。 作家の司馬遼太郎氏はその著「アメリカ素描」の中で、アメリカ人の教授から聞いた話を紹介しています。以下はその教授の言葉です。 「アメリカ人の場合、自己を表現するということを、母親や学校から徹底的に教えられます。まず第一に、自己を表現しなさい。第二は、自己が正しいと思っていることをやりなさい。そして自己表現はアーティキュレイト(明瞭)に、クリア(明晰)にやりなさい。また、相手に訴えるときはパーフェクト(完璧)にやりなさい、ということを教えつづけられます。そのため、相手の心を察する感覚が弱くなっているのです。」 アメリカのような多民族国家では教育は自然このような自己主張重点主義にならざるを得ないと思われます。出自のわからない者同士の共同社会では相手がどのような考え方、価値観を持っているか分かりにくく、自己防衛のためにも先ず自分の権利を明瞭、明晰、完璧に主張する必要に迫られます。 従って、手段としての言語も隙のない論理的なものになり、日本語のようなあいまいさは少なくなります。これはアメリカだけではなく、陸地で国境を接している多民族のヨーロッパにおいても同様です。次回へ続く
2024.07.30
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前回は、言葉は文化であり、日本は縦社会、欧米は横社会であるといわれていますが、それは言葉にも表れているということを述べました。今回はその体験談について述べます。私も30代の会社員時代の頃、九州の阿蘇山の近くに建てられた会社の研修施設で1ヶ月間缶詰の英会話合宿に参加したことがあります。メンバーは全国の各事業所から選ばれた50名ほどの20代から40代の社員でした。朝から晩まで英語漬けです。そこでは1つのルールがありました。研修期間中、すべて英語を使用すること。日本語は一切使用してはいけないというものでした。日本人のメンバーとも英語で話さなければなりませんでした。日本人と輪になって英語で話していると、ふと感じたことがあります。それはこの輪の中で横のつながりを強く感じたことです。上下の関係なく、何か皆とフレンドリーになったような気持ちになりました。何か仲間意識ができたような気がしました。欧米諸国に住んだことはありませんでしたが、欧米の社会もこんな感覚なのだろうかと思いました。この輪は欧米諸国の縮図かもしれないと思ったりしました。この輪の中では英語が使用されるので、相手を呼ぶのに年齢の上下に関係なく「you」あるいは「Mr.~」だけですませます。日本語だったら、相手が年上か年下か判断して、年上の場合には「~さん」、年下の場合には「君」、「お前」あるいは「~君」と使い分けます。日本での日常生活では、この使い分けの判断が難しい場合もあり、結構気を使います。ところが英語の場合は、相手を呼ぶのにも、敬語を使うのもほとんど気を使う必要がありません。これが年齢の上下があるにも関わらず、私がこの輪の中の皆とフレンドリーになり、フラットに感じた理由かもしれません。以上、日本は縦社会、欧米は横社会ということを述べてきましたが、ビジネスの世界で、縦社会の日本では年功序列主義、横社会の欧米では能力主義が主流を占めてきたのもうなずけます。また、この縦社会、横社会に関連して、英語には、上下関係を表す「兄」、「姉」、「弟」、「妹」「先輩」、「後輩」などを一言で表現する言葉はありません。たとえば、「兄」も「弟」も通常は「brother」の一単語で表現され、特別の場合を除き区別されません。強いて区別する必要がある場合には、「兄」は「older brother」、「弟」は「younger brother」などとそれぞれ二単語で表現されます。同様に「姉」、「妹」は通常は「sister」、特に区別する場合には、それぞれ「older sister」、「younger sister」と表現されます。以上述べたように外国語を単に異文化間のコミュニケーション手段としてだけでなく、外国語の学びを通じて、その言語を使っている国や地域の文化や発想の違いを知るということが大切ではないかと思います。そうすれば、いわゆる複眼の視点を持てるようになり、相手をよく理解できるようになるからです。(本テーマ完)
2024.07.21
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現代は世界中がインターネットで結ばれています。さまざま言語が使用されています。特に英語は世界共通語といっても過言ではなさそうです。インターネットを通じてコミュニケートする機会が増えてまいりました。しかし単に外国語をコミュニケートの手段としてのみ学ぶのはもったいないような気もします。複眼の視点を養うには外国語の学習も効果的なものの1つです。言葉は文化です。言葉にはその国の文化が反映されています。外国語は異なる文化的背景を持っています。言葉はそもそも、その国や地域で共有できるように成立したものですから、その言葉がそこに住む民族の文化を反映しているのは当然です。従って表現する内容は同じでも、発想や表現方法が異なっています。これを学ぶことにより複眼の視点すなわち多様な価値観を身に付けることができます。例えば、励まし方の違いの例をあげてみます。英語圏の人なら、試験や試合を間近かに控えている人に対して、Don’t work too hard! などとよく言います。この直訳は「あまり無理するなよ」、「頑張りすぎるなよ」です。日本人なら、この場合、普通「頑張れよ」などと言います。英語圏の人は相手の緊張を解いてやろうとし、一方日本人は相手のさらなる奮起を促そうとします。このように励まし方にも発想の違いがあります。発想の違いを学ぶことにより、相互理解が深まり、相手をよく理解できるようになります。また、よく日本は縦社会、欧米は横社会といわれます。一般に日本は歴史的に農耕社会であり、また日本神道系などの影響により、調和や秩序や礼儀が重んじられます。従って日本は年長者や目上の人が敬われる縦社会となっています。一般に単純再生産の農耕社会では年配者ほど知識や経験や知恵が豊富だという考えが主流になると思われます。これに対して欧米では年齢はさほどには重視されません。年齢よりも実際の能力や経験が重視されます。いわゆる実力主義です。欧米は歴史的に狩猟民族であり、また隣国と国境を接しているため、常に他国からの侵入の脅威にさらされています。もし能力や実力のない者をリーダーにすれば、その集団や部族は危険にさらされることになります。従って年齢に関係なく、実際に獲物を捕まえたり、他国の侵入を防ぐことのできる能力、経験が重視されます。こうした社会は年齢による上下関係はそれほど強くなく、むしろ横のつながりが強い横社会となっています。ここが日本人と発想が異なる点です。次回は自分のこの体験談を述べてみます。
2024.07.20
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世に出て成功するには、学力以外にも重要な諸要因があるということについて以前述べたことがありますが、もちろん今の学校の知識教育も重要です。決してないがしろにしていいと言っているのではありません。何年も前に、受験勉強緩和のためにゆとり教育が実施され、その結果学力低下が問題となりました(その後何度も見直しされていますが)。また受験勉強に付随した偏差値教育もやり玉に挙げられたりしました。子供に厳しい受験戦争をさせ、子供同士に差をつけるのはかわいそうだという優しさからとられた措置でしょうが、これは真の優しさとは違います。単なる甘やかしに過ぎないと思います。このままでは、国力は衰え堕落への道が始まるのではないでしょうか。本物の優しさは長期的観点から人や国を生かそうとするものです。本物の優しさにはそうした知恵があります。何十年も受験勉強をしろと言っているわけではありません。頭脳が柔軟な若い一時期をやりたいことを我慢して勉強に集中するのも意味があるものと思われます。社会に出てから数学、英語等は直接には仕事に役には立たないかもしれませんが、受験勉強の経験は仕事に役立ちます。受験勉強というものは、限られた期間内に一定以上の分量を消化し学力をつけなければなりません。従って、この経験は社会人となってからも仕事を能率よく仕上げるということに生かされてきます。また筋道立った合理的判断を下せるようにもなります。このように受験勉強の経験は仕事がよくできる一要因になるわけです。仕事がよくできてこそ、世のため、人のために貢献できます。また、ゆとり教育は受験勉強の緩和にはなっていないという報告もあります。どういうことかというと「ゆとり教育により、学校で反復学習をあまりやらなくなったため、昔にくらべ子供たちの基礎学力が低下した。全体の学力が下がっているので受験や進学の難易度自体は変わっていない。つまり、受験や進学は、同世代との相対的な比較なので、皆が下がっている場合には、同じような難しさで推移していく」というわけです。アメリカの小学校では株式等の投資の仕方を教えるところがあるそうですが、早すぎるのではないでしょうか。そんな人生の本道から外れたようなものは大人になってからやればよいでしょう。そんなことより、昔の言葉でいえば、読み、書き、ソロバン等の基礎学習を徹底させ、また正しい職業観や人生観等を教える方が先だと思います。(本テーマ完)
2024.07.17
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人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しである。by中村天風
2024.07.13
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涙は口をきかない悲しみの言葉である。 by ヴォルテール
2024.07.12
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最近では、犯罪の低年齢化等もあって、こころの教育の重要性が唱えられたりしていますが、何をどう教えたらよいのか大人自身がよく分かっていないのが実情ではないでしょうか。子供は親の後ろ姿を見て育つといいます。子供に対し悪い見本を見せている場合が多いのではないでしょうか。例えば、何年か前の新聞に寄せられたある小学校の先生の投書によると、「最近、痛感することは、親の子供への無関心さとマナーの悪さ」とのことである。授業参観の時も、自分の子供の学習態度を熱心に見守る親は少なく、大抵は廊下で久しぶりに会った知人との井戸端会議に興じているとのことです。その一方で、授業中だというのに写真を撮ったり、撮影のために歩き回ったりする親もいるという。後で、その担任の先生は、別の熱心な親から、おしゃべりがうるさくて参観どころではなかったと苦情を受けたとのことです。昨今、授業に身が入らなかったり、落ち着きを欠く児童が増えてきたと云われるのも、一事が万事、親のこうした態度が一因かもしれません。これも新聞に寄せられた主婦の投書ですが、修学旅行中の小学生のマナーの悪さについて次のように述べています。「修学旅行中の小学生が大勢、電車を待っていた。電車が止まると、降りてくる人を待たずに、一目散に電車に乗込んだ。空席がすべて占領され、お年よりや子連れの女性などはあっけにとられていた。引率の先生ですら優先席を見つけ、そこに座るよう児童らに呼びかけていた。乗車中もおしゃべりしたり、つり革にぶらさがってふざけたりしていた。電車の乗降マナーを教える良い機会だというのに何のための修学旅行か分からない。」幼児期における教育の基本となるのはやはり家庭教育だと思われます。幼児期においては、特に物事の善悪、つまり、しても良いことと悪いことをはっきりと教えることが大切でしょう。親がマナーの悪いことをしたり、人に迷惑をかけるようなことをしておれば、このような親のもとで子供はどのように育っていくか想像に難くありません。その子が親になってまた同じことを繰返すことになるでしょう。どこかでこの悪循環を断ち切らねばなりません。こうした状況を改善するためには親子を一緒に教育するか、あるいは親だけを教育し直す施設や教育機関が必要かもしれません。(本テーマ完)
2024.07.11
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人には、自分では選択できない宿命というものがあります。それは生まれてきた時から決まっている親兄弟といった家庭環境や地域および時代です。そのもの自身を変えることができません。その中で人は自分独自の人生を歩んでいきます。運命というものもありますが、これは自分の努力が入る余地があって、変えていけます。ところが宿命とは生まれた時から決まっているものです。広義の意味では宿命も運命の中に含まれるようですが、あえて宿命と運命を分けて考えれば以上のようになるでしょうか。このように人はそれぞれの宿命、運命のもとで人生航路を進んでいきます。自分自身も含めて、多くの人の人生を見るにつけ、それは決して平坦な道ではありません。人生のどこかで必ず、大なり小なりの苦難、困難、挫折といった逆境が待ち受けています。それは、典型的には受験の失敗、失業、離婚、病気、人間関係の軋轢等から発生いたします。しかし同じ時代に生き、同じような境遇にいる人でも、ある人は逆境を乗越えて、人に尊敬されるような立派な人物になり、またある人は逆境に打ちのめされて挫折したり、他人に危害を加えるような人になったりします。この違いは一体何でしょうか。どうしてこのような違いが現れてくるのでしょうか。 それはその人の日頃の心のありようではないかと思います。どのような思い、考え方を持っているかで決まってくるのではないでしょうか。例えば、言い訳が多かったり、すぐ人のせいにする傾向があるのはよくないと思います。なぜならそこには反省する心がないからです。反省しないと成長、発展の余地はありません。やはり、常日頃、前向きで明るく積極的な考え方を持ち、もし失敗したらすぐに人のせいにするのではなく、反省をして自分でできることをしていくのがよいと思います。本テーマ完
2024.07.07
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最近では格差社会とかいって、派遣労働者の人たちのように契約を突然打ち切られたりして、働いても楽にならずその日の衣食住にも事欠く厳しい世の中となっていますが、これは政治や経済で解決すべき問題だと思われますので、これについては触れません。ここでは一般的な話をします。たいていの人がお金は欲しいと思っているでしょう。自分もそうです。多ければ多いほどよいと思っているのが正直なところです。ただ、ある人が言っています。「人の値打ちは持っている金銭の多寡ではなく、それをどう使うかによって決まる。」なるほどと思いました。例えば、生活に困らないぐらいのお金があったとして、ある人は、ギャンブルに使い、ある人は子供の教育費に重点投資し、また、ある人は資格をとるための将来の先行投資として使う。ある人はどこか慈善団体に寄付をする。ある人は、それを元手に企業を起す。ある人は、宝飾類を買い集める、旅行する、車を買い換える、趣味に使う、将来に備えて一定の割合を貯蓄する。宝くじを買う。資産を増やすために株式に投資する。個人的にみれば、その時々の心境、必要性に応じて千差万別ですが、人によってある程度の傾向性はあるのではないかと思います。使い方を、1つのグループは、「目先のことに使ってしまう。単なる享楽のために使ってしまう。ムダ遣いをする。」、もう1つのグループは、「長期的観点から考えて使用する。ムダ遣いをしない。自分を向上させることに使う。人のためになることに使う。」というように2つのグループに分けた場合、どちらがよいかは明白です。誰が見ても、使い方が偉いなと思える方がよい使い方です。だれでも、どちらか一方に完全に偏ることはないと思われますが、できるだけよいグループの方へ偏るようにしたいものです。ある人が言っています。「お金、家、土地、宝石類などのこの世的財産は、あの世に持っていけないが、心の財産は持っていける。」 そういうことであれば、たとえ貧しくとも心だけは貧しくなってはいけない。心の財産の億万長者になることを肝に銘じたいと思います。(本テーマ完)
2024.07.05
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ユーモアセンスは、人間関係やコミュニケーションをよくし、病気の予防や治療にも役立つと言われています。では、このユーモアセンスを身に付けるにはどうしたらよいでしょうか。一番目の方法としては、相手の気持ちがよく分かる、相手の立場に立って考えることができるようになるということです。そうであってこそ、状況に合わせてユーモアを飛ばすことができます。そのためには、常日頃、自分のことばかりではなく、まわりの人たちにも関心をもたなければなりません。自分のことばかり考えていると、相手の気持ちや考えていることが分からなくなります。気付かずに相手を傷つけるようなことを言ったり、したりしているかもしれません。これでは、適切なアドバイスができないばかりか、相手を喜ばせることもできません。一生懸命に人生を生きているのは自分だけではありません。まわりの人たちもよく観察すると、それぞれの人生を皆一生懸命に生きていることが分かります。こうした人たちに関心を向ける必要があります。人はどんなことで喜び、悩むのかよく観察する必要があります。人はどんなことに興味関心があるのか常日頃よく観察する必要があります。他人の人生を観察することにより、相手のことが分かるだけでなく、自分自身にとって参考になることもあるかも分かりません。人に関心を持つ根底には何があるでしょうか。それは人に対する優しさではないかと思います。愛情といってもよいかもしれません。人をよく理解するには人に対する優しさ、愛情が必要です。これがあれば、相手がよく分かるようになります。母親が赤ん坊の泣き声を聴いただけで、ミルクが欲しいのか、オムツを替えてほしいのかが分かるというのは、母親の赤ん坊に対する愛情ゆえんでしょう。会社などでは、自分とうまが合わない嫌いな人とも一緒に仕事をしなければならない場合があります。会社などでは自分と気の合った者同士だけで仕事をするわけにはいきません。このような場合は、無理をしてでも相手のことを好きになることです。そのためには相手の嫌いな面を小さく、よい面を大きく見ていくようにすればよいでしょう。そしてこちらの方から積極的に話しかけたり、かるくジョークでもとばしていれば、相手もだんだん打ち解けてくるでしょう。結果的に、それまでの人間関係が好転するかもしれません。ユーモアセンスを身に付ける二番目の方法は、頭を柔軟にするということです。頭が固い人とはどういう人でしょうか。それは自分だけの固定観念にとらわれ、相手のいうことには少しも耳を傾けず、融通が利かず、どちらかといえば頑固なタイプの人です。従って、この逆をやれば頭を軟らかくできます。自分一人でしゃべろうとはせずに、人の話はよく聴くものです。いわゆる傾聴の姿勢が大切です。特定の考えに固執せず、多くの意見を聞き、世の中には多くの考えがあることを知ることです。そのためには他の意見や考えを受け入れる、素直さが必要です。そして、頭が固いということは、視野が狭いためにおきることでもありますから、常日頃から興味関心の領域を広げ、勉強しつづける姿勢が大切です。知識や経験を広げ、深めていく努力が必要でしょう。知識や経験が増えるとユーモアをつくりだすことが容易となります。(本テーマ完)
2024.07.01
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犯罪防止のために、刑罰を重くすれば、犯罪や重大犯罪が減少するのは事実です。また再犯防止にも効果的です。ただしこれは、ある程度までです。厳罰化と犯罪の発生には平衡点が存在するのではないでしょうか。行き過ぎた厳罰化はそれほど効果がないように思われます。それよりも経済をよくしたほうが、盗みや、引ったくりは減るかもしれません。一般的に、規則や法律を厳罰化すれば規則や法律違反が減るというのは正しいのでしょうが、行き過ぎた厳罰主義には疑問があります。制定当初は確かに効果があるようにみえる場合もありますが、日が経つにつれ、またもとに戻ってしまうようです。例えば、交通違反の罰則など次第に厳罰化していますが、違反はいっこうに減りません。いたちごっこをしています。これは道路事情などの根本的な解決がなされていないからです。近年では路上駐車が全面的に禁止されるようになりましたが、都市部などでは、十分な駐車スペースがありません。こういう状態ですとまた、目を盗んでの路上駐車、あるいは法の網の目を抜けた駐車が増えるようになるかもしれません。都市部での十分な駐車スペースの確保が先決だと思います。(本テーマ完)
2024.06.28
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中国の故事「韓信の股潜り」は、大志を抱く者は、小さな恥辱に耐えなければならないという教訓です。漢の高祖を助けて天下統一の功績のあった名将の韓信は、青年時代に、町のやくざの若者から侮辱を受けたが、よく我慢してその股の下をくぐったという故事からきています。大望を抱く者は腹を立てずによく忍耐しなければならないという教訓です。これと似たようなことを作家の司馬遼太郎は簡潔に「大事は小事より破る」(歳月、文庫本P.453)と表現しています。 やはり現代の我々も、特に若い人たちは、長期的には、何をしたいのか、何になりたいのかといったような将来のビジョンを強く持ちつづけ、途中の誘惑や小さなことで足をすくわれないようにすることが大切だと思います。人間はどうしても安きにつきやすく、自分に甘い面がありますので、夢を現実のものにしていくには、ある程度欲を抑えて、自分に厳しく、ストイックに生きていかなければなりません。夢は思っただけでは実現しません。それを実現するために、強い思いを持ちつづけ、途中小さなことや誘惑に負けることなく、それなりの工夫と自助努力が必要だと思います。もし人に頼りやすい性格であれば、これも直さなければなりません。夢は自分でかなえるものです。人がかなえてくれることはあまりないでしょう。「棚からぼた餅」式のように、たとえあったとしても、それは自分で努力していない分、本物ではありません。簡単に崩れ去ってしまいます。夢の実現にはやはりそれなりの努力が必要だと思います。本テーマ完
2024.06.27
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いつも何かを長期間継続しようと思って、始めてみてもすぐに3日坊主で終わってしまい、自分に嫌気がさし、ジレンマを覚えたことのある方もたくさんおられることと思います。私の場合、昔、会社の健康診断で生活習慣病(当時の成人病)のきらいがあるといわれました。みなさんも、よくごぞんじのように、この病気の原因は明らかです。主に食べ過ぎと運動不足です。運動については、さっそく体質を改善すべく、ジョギング、水泳、サイクリング、筋肉トレーニング等をやりはじめました。食事についても、食べる量を減らしたりしました。間食もやめました。飲酒も減らしました。しかし、なかなか当初の計画どおりにはいきませんでした。いつも計画倒に終わりました。これのくり返しでした。いわゆる3日坊主です。このように長続きさせるには、どうすればいいのか悩んでいる時期に、ある会合で、ポルトガル語の通訳のボランティをやったことのある知り合いの方といろいろと話している中で、たまたまボランティアを長続きさせるコツを聞く機会がありました。その方は、ボランティアのプロ(こういう言葉があるかどうかしれませんが)の講習会で、そのプロがボランティアを長続きさせるコツとして、次の3点を述べたそうです。それはきわめてシンプルなものでした。1. できることを2. できる時に3. 無理なくということでした。これを聞いて、私はなるほどそうかとひざを打ちました。何かを習慣化するのもこれといっしょではないかと思い到ったわけです。思えば、当初は私も、勢い込んで無理な計画を立てていたようです。さあやるぞというときには、どうしても多少無理な計画を立ててしまう傾向があるようです。そしてだんだん苦痛になってきて、習慣化する前に止めてしまいます。皆さんもそういう経験がおありだと思います。自分に気付かせてくれたこの3つの貴重なアドバイスに従って無理のない計画を立てました。それ以来、毎週休日の土、日、祭日には軽いジョギングを17年間継続しました。そして家に帰ってからは軽い筋肉トレーニングを行いました。また平日の出勤前にはラジオ体操と腕立て伏せを50回行いました。自分にはこの程度がちょうどよいようです。ただ、退職してからは年をとったせいか、ジョギングを散歩に替えました。しかし毎日行っています。もちろん体操、筋トレも毎日行っています。こうしたおかげで、体調はよく、体重は20代の頃とあまり変わらなくなりました。 昨年の9月のある日曜日に、いつものとおり朝早く、1時間ほど散歩をした時に、田んぼのあぜ道などのあちこちに赤い彼岸花が咲いているのをよく見かけました。どうして、花は申し合わせたように、一斉に咲くのだろう? どうして、あんなきたない土の中から、あんなきれいな花が咲くのだろうかとふと不思議に思ったりもしました。自然は生きてるなと実感したりもします。そして癒されるような気もします。散歩の効用でしょうか?(本テーマ完)
2024.06.25
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最近では、企業において、従来の年功序列が次第に崩れ、成果主義、結果主義が欧米にならって採用されるようになってきました。これは経済がグローバル化し、規制緩和等で競争が厳しくなったこと等と関係がありそうです。これはこれで、歓迎すべきことかもしれません。努力し、成果を上げた人をそれなりに評価することは個人のやる気を引き出し、個人、企業、ひいては社会全体の成長につながってまいります。 ただどこの企業もはっきりとは明言しませんが、その成果主義を、厳しい経営環境を乗りこえるために人件費抑制に利用するというあまり表ざたにされない口実もあるようです。だいぶ前になりますが、日本の有名な某会社が、日本でも最初の段階で、この成果主義を採用し、徹底しました。その結果、弊害ばかりがでてきて経営も危うくなったので、見直しを行ったとのことです。 どういう弊害かというと、 (1)新製品が生まれにくくなったということ。 なぜかというと、すぐに結果を出す必要があるために、皆が長期的視点に立った 会社の経営や利益をあまり考えなくなったからです。 誰でもが目先の利益だけを考えて、評価されようとしたからです。(2)協調性が失われた 成果で評価されるために自分の仕事だけをするようになった。 その結果、チームや組織全体のことをあまり考えなくなり、また、人の仕事を 手伝ってやるということがなくなった。 以上のような弊害が生じたということを聞きました。 このような弊害は、よく考えてみれば当然といえば当然と言えるかもしれません。 人間というものをよく知っていれば、予想できることでしょう。さらにこの成果主義を継続していけば、人間の特性から考えてどのような弊害が生じることが予想されるでしょうか?私は次のように考えます。(3)何か失敗しても、すぐに人や、組織といった他の責任にする。 責任のなすりあいが行われる。素直に自分の責任と受け止めないために、失敗から学ぶことがない。 その結果、成長することがない。それは個人にとっても、企業にとっても損失となる。(4)成果さえあげればいいとなると、姑息な手段や、人をだますような手段、違法な手段をとりかねない。 これは個人レベルでも、企業レベルでも起こり得ることです。 やはり結果だけの成功ではなく、動機と成功に至るプロセスも重視する必要があるようです。 いずれにしろバランスが大切でしょう。どちらかの両極端に走ると無理がきてひずみが出るようです。 日本の年功序列もいい面があります。現代の日本社会のシステムでは、結婚して中高年になるにしたがって、お金がかかるようになっています。 こどもの教育費や住宅費等などがそうです。 やはり成果・能力主義と年功序列制度の両方のバランスをとるのが大切だと思われます。(本テーマ完)
2024.06.23
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家庭は社会の縮図であるとよくいわれています。家庭の中には、社会の、先輩・後輩あるいは上司・部下といった縦の関係、友達・同僚・仲間あるいはグループといった横の関係、男女の役割(*ジェンダーフリーの問題はここでは触れないことにします)といったものの縮図が投影されています。親子、兄弟姉妹、夫婦、家族間の関係がこれに相当します。親が意識していようがいまいが、子供は家庭の中でこれらの関係を学んで成長して、社会へ出ていきます。従って、どのような大人になるか、親の責任は重大です。子供を育てる時は、親はこのことをよく意識して育てる必要があるでしょう。子供は親のことをよく見ているものです。そしてよく真似もします。親が言っている言葉を真似してそのまま口にすることがよくあるものです。親が常々悪い言葉を吐いておれば、子供も真似します。夫婦げんかが絶えなかったり、いつも夫、あるいは妻に対して不平、不満を言っていませんか。身内という甘えもあり、感情がストレートに出てしまい、つい悪い言葉を吐きやすくなります。悪い言葉が出そうになったら、ぐっと思いとどまり、ブレーキをかける必要があります。親しき中にも礼儀ありです。また兄や姉に対しては弟や妹の面倒をよくみるように言い、弟や妹に対しては、兄や姉の言うことをよく聞くようなことを教えてやる必要があるでしょう。親がこれらを意識して子供をしつけさえすれば、ちゃんとした大人になっていくと思います。「三つ子の魂百までも」といいます。特に幼少期のしつけは大切です。本テーマ完
2024.06.22
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一般に人をみてみると、学校の学力や成績がよかったからといって社会へ出て必ずしも成功するとはかぎらないようです。社会へ出てから成功するには学力以外に、「人間としての信用や信頼感がある、考え方が明るい、積極的で建設的である、陰で悪いことをしない、約束は守る、人のためになることをする、自分に厳しく人には優しい、寛容である、人間関係が良い、忍耐強い、無私である」等が重要な成功要因になっているようです。これらは持って生まれた性格的部分もありそうですが、教育や努力次第で改善していく余地は充分にあります。これらは、今の学校教育では十分には教えられないので、家庭における、特に幼いうちからの教育、しつけが大切です。いくら頭がよくても性格が悪ければ何にもなりません。悪いことを考え世の中に害を流すだけです。腹黒いことを何時も考えているような人は信用されません。そういう人には協力したくなくなります。学生時代はいくら成績が良くても、考え方が暗く、消極的な人生をその後もずっと続けていくならば、人生は開けてこないでしょう。今の学校教育では、人生において重要なことをあまり教えていません。従って、子供が小さいうちは特に家庭教育が大切です。まずしてよいことと、悪いことの善悪を教えることが必要でしょう。家庭でこうした重要なことを教えなかったら、一体誰が教えてくれるでしょうか。教育はまず家庭から始まります。教育の原点は家庭にあります。(本サブテーマ完)
2024.06.20
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最近では、企業において、従来の年功序列が次第に崩れ、成果主義、結果主義が欧米にならって採用されるようになってきました。これは経済がグローバル化し、規制緩和等で競争が厳しくなったこと等と関係がありそうです。これはこれで、歓迎すべきことかもしれません。努力し、成果を上げた人をそれなりに評価することは個人のやる気を引き出し、個人、企業、ひいては社会全体の成長につながってまいります。 ただどこの企業もはっきりとは明言しませんが、その成果主義を、厳しい経営環境を乗りこえるために人件費抑制に利用するというあまり表ざたにされない口実もあるようです。だいぶ前になりますが、日本の有名な某会社が、日本でも最初の段階で、この成果主義を採用し、徹底しました。その結果、弊害ばかりがでてきて経営も危うくなったので、見直しを行ったとのことです。 どういう弊害かというと、 (1)新製品が生まれにくくなったということ。 なぜかというと、すぐに結果を出す必要があるために、皆が長期的視点に立った 会社の経営や利益をあまり考えなくなったからです。 誰でもが目先の利益だけを考えて、評価されようとしたからです。(2)協調性が失われた 成果で評価されるために自分の仕事だけをするようになった。 その結果、チームや組織全体のことをあまり考えなくなり、また、人の仕事を 手伝ってやるということがなくなった。 以上のような弊害が生じたということを聞きました。 このような弊害は、よく考えてみれば当然といえば当然と言えるかもしれません。 人間というものをよく知っていれば、予想できることでしょう。さらにこの成果主義を継続していけば、人間の特性から考えてどのような弊害が生じることが予想されるでしょうか?私は次のように考えます。(3)何か失敗しても、すぐに人や、組織といった他の責任にする。 責任のなすりあいが行われる。素直に自分の責任と受け止めないために、失敗から学ぶことがない。 その結果、成長することがない。それは個人にとっても、企業にとっても損失となる。(4)成果さえあげればいいとなると、姑息な手段や、人をだますような手段、違法な手段をとりかねない。 これは個人レベルでも、企業レベルでも起こり得ることです。 やはり結果だけの成功ではなく、動機と成功に至るプロセスも重視する必要があるようです。 いずれにしろバランスが大切でしょう。どちらかの両極端に走ると無理がきてひずみが出るようです。 日本の年功序列もいい面があります。現代の日本社会のシステムでは、結婚して中高年になるにしたがって、お金がかかるようになっています。 こどもの教育費や住宅費等などがそうです。 やはり成果・能力主義と年功序列制度の両方のバランスをとるのが大切だと思われます。(本テーマ完)
2024.06.18
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企業にはたいていその会社の経営をやっていく上での基本的考え方や経営方針、経営哲学を数項目で表した「経営理念」といったものがあります。国でいえば憲法がこれに近いかもしれません。経営理念をみれば、たいてい会社の経営者や創業者の考え方が分かります。経営理念のなかには、各個人の生活信条や人生哲学として参考になるものもたくさんあるようです。各個人が生きていく上で精神的バックボ-ンともいうべき生活信条(人生哲学)を持つことは非常に大切なことだと思います。 某会社のホームページを見ていたら次のような立派な経営理念が目にとまりましたのでご紹介いたします。 某会社の「経営理念」:「人生の最高の理念は社会奉仕なり」具体的な心の実践例として次の項目があげられています。日常の五心:心の具体的実践例:「はい」という、素直な心「ありがとう」という、感謝の心「おかげさま」という、謙虚な心「私がします」という、奉仕の心「すみません」という、反省の心これは個人の日常生活にも大切な心掛けだと思います。素直な心、感謝の心、謙虚な心、奉仕の心、反省の心があれば、人間関係はよくなり、むしろ、人格者として尊敬される人物になっていくでしょう。企業も人も発展の道はこのへんにあるのかもしれません。私が以前勤めていた会社の経営理念を紹介いたします。私はその会社に40才の時転職したのですが、その会社を選んだ理由の一つがこの社訓とこれを創った会長の人柄にほれ込んだためでした。この社訓は人はどう生きていくべきかをも簡潔に表現しています。社訓:1.私は、仕事を通じて社会に貢献します。2.私は、仕事を通じて自己の完成に努めます。 本テーマ完
2024.06.17
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「上に媚び、下に傲慢、という種類の人物は、自分の智略、器量に自信がない証拠である。」(「最後の将軍」文庫本P.74より、司馬遼太朗)確かにこういうことはいえるだろうと思います。たとえば現代でいえば、会社などの職場においても同じようなことがいえそうです。会社での上司へのごますり、ご機嫌取り、何を指示されてもYESしか言わないようなYESマン。上司にとって不利になるような情報は流さず、あえて聞き心地の良い情報しか流さないような人はたくさんいるようです。これはまあ自分や家族の生活がかかっているため自分の出世や人事上で不利にならないよう不本意ながら我慢してやっているという面もあり、同情すべき点はあるだろうとは思います。現代サラリーマンの悲哀の一つでしょうか。こういう人たちは多いだろうと思います。ただ問題なのは、こうした人たちの中でも、さらに部下や、後輩たちに対しては、傲慢であり、一方的に意見を押し付けたり、わがままであったり、えらそうに威張ったりしているような人たちです。自分のサラリーマン時代を振り返っても、確かにこういう人たちがいました。そしてこうした人たちが部や課の長をしていた場合、自分のグループにメンバーをたくさん抱える傾向にあるようです。なぜなら自分の智略や器量に自信がないからです。自己保身のために周りを大勢で固めようとします。企業効率からいってもマイナスです。いわゆる小物です。たいした人物ではありません。誰も尊敬しません。こういう人たちに部下はついてきませんし、だんだん離れていき、いざというときに助けてくれないでしょう。自分の才能、能力、知恵、器量などに自信を持っているような人は、上に媚び、下には傲慢というようなことはしないでしょう。こういう自信を持っている人たちは、自分の信念、哲学意見等をもっています。また人間としての器も大きく、人に対して寛容です。それに則って生きていくので、上に媚、下に傲慢ということはありえません。こうした人物になりたいものです。本テーマ完
2024.06.16
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・「欲深な者は欲のためによく働きはするが、しかし欲に気がとられて物事をありのままに見ることができなくなり、ついに身を滅ぼす」(播磨灘物語、司馬遼太郎)・「おごる心があれば、見えるべきものも見えなくなる」(箱根の坂、司馬遼太郎)・「私心があっては、それに囚われて物が見えぬ。物が見えなければ、武辺はできぬ」(播磨灘物語、司馬遼太郎)・「私情を殺せば、たいていの人の心や物事はよく見えてくるものだ」(播磨灘物語、司馬遼太郎)以上をまとめると、「欲があると物事の本質がよく見えない、真実がよく分からない」ということですが、つまり、言葉を替えれば「公平無私になることが大切である」というようなことです。自分の欲にだけ目がいき、他人やまわりの環境に目がいかなくなるため、全体像がつかめなくなって、真実や全体像が見えにくくなるのは容易に想像できます。以前、ものごとの本質に迫り、真実を知る方法として、複眼の視点を持つことが重要であるというようなことを述べました。複眼の視点とは:1.時間的視点(長期、短期)2.空間的視点(マクロ、ミクロ)3.立場を替えた視点(相手の立場、他者や他国の立場等) 等です。本質に迫り、真実を知る方法には、この複眼の視点のほかに上に述べた「公平無私」も追加することができそうです。本テーマ完
2024.06.14
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前回はタイプ3の「自分に厳しく、人にも厳しい」タイプについて述べました。今回は最後のタイプ4の「自分に厳しく、人には優しい」タイプについて述べます。この四つのタイプの中では、このタイプ4が一番好ましいように思われます。人間にはいろいろな欲があります。食欲、金銭欲、名誉欲、睡眠欲、性欲などといったものです。これらは人が生きていくうえで、必要なエネルギーとなっています。こうした欲がないと人間活動が起きてこないでしょう。しかしこうした欲は自分に厳しくして、ある程度抑えていかないと、天井知らずです。睡眠欲は別としても、自分に甘いだけの生活をしていると、時とともに次第に拡大していきます。例えば、食欲などはほったらかしにしていると、だんだん食事の量が増えてきて、肥満となります。おまけに中高年になると新陳代謝も衰えてくるので、若い時みたいに食べていると、なおさら肥満になりがちです。金銭欲、名誉欲、性欲などは度がすぎると、犯罪にもなりかねません。人間はどうしても弱いものですから、自分に甘い考え方をしがちです。やはりストイックな生き方をして、こうした欲をうまくコントロールしていく必要があるでしょう。人生に何か大きな目標を持った人ほど、ストイックになりがちです。なぜかというと、ストイックになって欲望を抑えていかないと、小さなことで足をとられて、志を成就できないからです。しかし他人に対しては、育てる、気付かせるというような観点からたまに厳しいことも必要ですが、大方は優しい方がよいでしょう。人は甘きにつきやすい心情を持っていますので、ストイックに生きている人を見ると尊敬します。またその生き方にならいたいとも思うでしょう。そして、その人に協力したいとも思うでしょう。このようにストイックな生き方は人に良い影響を与えます。ただ、長期的にみて大成功を収めるには、ある程度欲を抑えてストイックに生きていく必要がありますが、自分を律する気持ちを持っていると、えてして他人に対しても厳しくなって、前述した「自分に厳しく、人にも厳しい」タイプ3になってくるので、他人に対しては寛容の心や包容力を養っていく必要があります。本テーマ完
2024.06.12
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前回はタイプ2の「自分に甘く、人にも優しい」タイプについて述べました。今回はタイプ3の 「自分に厳しく、人にも厳しい」タイプについて述べます。自分に厳しく、欲に振り回されることなく、自分を厳しく律していく生き方、すなわちストイックな生き方は、人は甘きにつきやすいからこそ傍からみて尊敬に値します。しかしその生き方を他人に押し付けてはいけません。その人の側にいるといつも厳しいことばかりを言われると、人は離れていってしまいます。何かをしようとする時にも協力者はそれほど集まらないでしょう。いざという時にも誰も助けてくれません。従って、大きな成功はできないということです。人は理屈だけでは動かないということを知るべきでしょう。人が動く理屈とは損か得かの利害と、正義か不正義かといういうようなことです。しかし人が動くのは情の部分もあります。その人の生き方、考え方に感動、感銘して、協力する場合もあります。その人の無私なる目標達成のために協力する場合もあるでしょう。本テーマ次回に続く
2024.06.09
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前回はタイプ1の「自分に甘く、人に厳しい」タイプについて述べました。今回はタイプ2の 「自分に甘く、人にも優しい」タイプについて述べます。このタイプの人はひとことでいえば、成長、発展がありません。それは自分だけではなく、人もだめにしてしまいます。このタイプは親子あるいは教師と生徒の間で発生しやすいようです。ただ優しいだけ、甘やかすだけでは人をだめにしてしまうことがあります。努力精進を放棄してしまう面があるからです。本当にその人のことを思うのであれば、優しさの中にも厳しさが必要な場合があります。 例えば、親子の関係で、子供がTVゲームが好きだからといって、勉強をそっちのけで好きなだけさせていると、今はよくても勉強ができなくなって、将来困る事になるでしょう。その子の将来のことまで考えたうえで、今は多少TVゲームを制限してでも勉強させるのが本当の意味での優しさといえるのではないでしょうか。自分自身も甘い考え方で生きていけば、努力を怠るために、いつか堕落してしまう危険性があります。これではとうてい成功の見込みはほとんどないでしょう。そうなれば、幸福であろうはずがありません。こうなるのが分かっていて、こうした生き方をよしとするかです。本テーマ次回に続く
2024.06.07
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人を優しさ、厳しさの面から分類すると4通りに分けられるようです。4回シリーズでこのテーマで話していきたいと思います。人のタイプには4通りあります。自分自身も含めて、人はどうしても自分には甘く、人には厳しくなるようです。例えば自分に都合のよいように考えるのもそうだし、自己中心的な考え方もそうでしょう。組み合わせは1. 自分に甘く、人に厳しい2. 自分に甘く、人にも優しい3. 自分に厳しく、人にも厳しい4. 自分に厳しく、人には優しいの4通りがあります。今回は.タイプ1の「自分に甘く、人に厳しい」について述べます。いままでの人間観察からみると、自分自身も含めて1番多いのはタイプ1のようです。例えば、規則は自分が決めておいて、メンバーにはそれを守ることを強制しておきながら、いざ自分のことになると、ちょっとぐらいまあいいかということがあるでしょう。職場などで、「あいさつは明るく元気に」と決めていた場合、自分のことはさておいて、人があまり実行しないのを往々にして批判したりします。「電話が鳴ったら、すぐにとること」と決めておきながら、自分からはなかなか取ろうとはしません。「出張の時はできるだけ公共の交通機関を利用すること」と決めておきながら、他人には強制するくせに、自分の場合には楽なものだから、ついタクシーを使ってしまうということがあるでしょう。皆さんも似たような経験をされたことがおありでしょう。また、物事を自分中心に考える人もこのタイプに含まれるかも知れません。他人のことはさておいて、自分に都合のよいように考える人は一種のわがままかもしれません。こういう生き方をずっと続けていったならば、どうなるでしょうか。こういうひと達を見て、皆さんはどう思われるでしょうか。他人はよく見ているものです。職場などで上司が、部下には厳しいことばかりを言っていて、自分は楽をしているのであれば、反感を買うようになるでしょう。いつかしっぺ返しがくるかも分かりません。これではとうてい人はついてきません。いざという時にも助けてくれません。とうてい人に好のましく思われたり、尊敬されるような人物とはならないでしょう。それでもいいというのであれば話は別ですが。 本テーマ次回に続く
2024.06.06
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「ひとは欲で動き名誉心もまた欲望の上に載っかっているということを、いわばひどく質朴な哲学ながら、かたくそれを持していた」(播磨灘物語、司馬遼太郎より)今回は欲について考えます。欲といえば、あまり響きがよくないかもしれませんが、確かに、世の中は大半が欲で動いているのかもしれません。だれかが「欲は生きていくためのガソリンのようなものである」といいましたが、そういう面はあると思います。大きなものとして食欲、睡眠欲、性欲、生存欲があります。 また、金銭欲、偉くなりたい、有名になりたいという出世欲、名誉欲、自己顕示欲、あれも欲しい、これも欲しいといった物欲などがあります。忙しい人は、休みが欲しい、日常から離れ、どこか旅行に行きたい、といったような欲があるでしょう。確かに、欲は個人が生きていくためのエネルギーであり、法人格を持つ企業活動などもそうでしょう。これがなければ、活発な個人、社会の動きはないかもしれません。世の中はガソリン切れで停滞してしまうでしょう。ただ、その欲の発揮のしかたが問題です。欲望のままに動いたら、とんでもないことになることは想像に難くないでしょう。欲望の度が過ぎないように時々は自戒する必要があります。身の丈以上を望まないことです。ときどきは足ることを知るということを考えてみることも自戒する意味で効果があるかもしれません。そして、欲望のためなら手段を選ばないというやり方も問題です。そのやり方が人に迷惑をかけず、法に触れなければいいのでしょうが、大抵は法に触れるか、スレスレのところではないでしょうか。企業の粉飾決算、インサイダー取引、食品の偽装表示、産地の偽装表示、違法な贈収賄、教員採用試験での口利き、製品のトラブル隠し、脱税、詐欺、恐喝、性犯罪、出世のための他人の足の引っ張り合い、誹謗中傷等々。欲は大切です。これがなければ、個人の成長、社会の発展もありません。ただ欲は放置すると増大していくため、よくコントロールすることが、個人においても、企業においても、社会においても大切だと思います。ただ人は欲だけでは動かないということも事実です。以前述べたことがありますが、ひとは理屈だけでは動かないということを述べました。自分には不利だと分かっていても、情や義理から動く場合もあります。本テーマ完
2024.06.05
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前回では、性悪説よりは性善説をとった方が、希望が持てるというようなことについて、述べました。さらに続けます。 世の中の人たちが全員、本質的に悪の心を持っているとしたならば、お互いに人が信用できなくなり、猜疑心に満ち満ちたそしてギスギスとした世の中となって、調和のとれた理想社会を実現していくことは永遠に不可能となるでしょう。憎しみ合った結果どのような社会が現出するでしょうか。我々は人と憎しみ合うために生まれてきたのでしょうか。そうではないと思います。性善説を持ってこそ皆で協力し合ってすばらしい家庭、企業、国家、世界を築いていけるのではないでしょうか。 「自分を、悪人と思っている悪人はいない」といわれています。たいていの犯罪者は、「あくまで自分の行為は正しかった。ただ、自分の身を守っただけである。自分は犠牲者だ。」と言うとのことです。犯罪者でさえ、自分自身のことを、本当の悪人とは、思いたがらないようです。これは何故かといえば、以前にも述べたことがありますが、「人の最も強い欲求は、他人から評価されること、つまり自己の重要感を満足させることに対する欲求である」ことと、無関係ではないようです。つまり、悪人であっては他人から認められ、評価されることがないからです。この「自己の重要感」は、人間の持つ、最も本源的ともいえる欲求である、といわれています。これを裏返せば、人は誰でも、本質的には、善を求めるように、できているように考えられます。 しかしながら、人の本質は善であるにしても、人は神様みたいに完全ではないので、実際には一時的に間違って悪いことをする場合もあります。そのような時には、人は、気付き、悔い改め等を通して、もとの善の方向へと、軌道修正していくものだと思います。それは、ちょうど、船が傾いた時、もとに戻ろうとする復元力にも似ていましょうか。昨今では、親の子殺しや虐待のニュースも報じられているようですが、その時点での親の心は、鬼か悪魔に近いといってもよいでしょう。人間ではありません。動物以下です。私は、動物の親が、その子を殺す例を知りません。しかし、子殺しの親も、一生、鬼か悪魔の心で、生き続けることはないと思います。導きや、悔い改めのきっかけさえあれば、本来の善の心に立ち直る可能性は高いと思います。 世の名には、実際に悪いこともあるので、加害者や被害者にならないようによく気をつけておくことは当然ですが、人の本質はあくまで善と考えた方が、社会の調和や発展に対し希望が持てると思いますが如何でしょうか。(本テーマ完)
2024.06.03
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今回より2回シリーズで本サブテーマについて話してまいります。 人をみるのに、二通りの見方があります。性善説と性悪説と言われているものです。性善説とは、人間の本性を善とみる説であり、すべての人間の心には善へと向かう方向性が内在するとしています。一方、性悪説とは、人間の本性を悪とみる説であり、放っておくと悪いことばかりするようになるので、教育・訓練等により、矯正していかなければならない、としています。「人間罪の子」の思想も、性悪説と通じるものがありましょう。何人かの人たちに、あなたはどちらの説をとるか、と尋ねたことがありますが、性悪説の人が過半数でした。バブル崩壊後の長引く不況も、その一因となっているかもしれませんが、新聞、テレビ等では、毎日のように犯罪のニュースが報じられています。最近では、政治家や役人の贈収賄、企業ぐるみの隠ぺい工作、あるいは保険金目当ての殺人等が、目立つようです。こうも、悪いニュースが多ければ、人間不信に陥って、性悪説をとりたくなるのも、無理もないかと思われます。私はどうかといえば、性善説をとっています。この理由について、私なりの見解を以下に述べていきたいと思います。ほとんどの親が、自分の子供は、可愛いと思っているものです。たとえ、世間から非難されるような悪いことをしても、自分の子供は、どうしょうもない本当の悪人であるとは、思っていないでしょう。魂まで腐っているとは、思いたくないでしょう。何とかして、立ち直らせようとするでしょう。動物でさえ、親は、自分の子を慈しむものです。また、家族同士が、仲むつまじく生活しているのをみて、どう思われるでしょうか。彼らは、お互いを、本当は悪人だと思い、疑いの目で日々接しているのでしょうか。そうとは、とても思えません。人間性悪説をとれば、仲むつまじい調和のとれた家庭は、世界中どこにも存在しないことになります。また、企業経営の中へ、性悪説の考え方を、持ち込めばどうなるでしょうか。従業員は放っておけば、必ず不正を行うものだ、という立場をとるため、不正防止のために、より厳しい規則・罰則や、何段階にもわたる、必要以上のチェックシステムが、採用されるようになるでしょう。その結果、管理コストが、必要以上にかかることになり、企業の収益を圧迫することになりかねません。また、経営者と従業員が、相互不信に陥って、まともな企業活動ができなくなり、長期的存続が難しくなるでしょう。次回は、なぜ、人は善を求めるようにできているのか、一つの見解を述べてみます。 (次回へ続く)
2024.06.02
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(傾聴の効果) そういうことであれば、意識的にこの自己顕示欲を少し押さえて、できるだけ聞き手にまわるように努力してみてはどうでしょうか。他人にはなかなか強制はできませんが、自分ならすぐにでも実行できることです。 ただし、自分の経験からいっても、一時的にその気にはなっても、継続することはなかなか難しいことです。ではどうすればよいか。 継続させるためには「すべての人から貪欲に学ぶ」という精神的態度を把持することであると思います。どんな人からも学ぶべき点があります。各人にはそれぞれに長所、短所があるのでそれらを学びの材料とすることです。人間研究の一環であると考えることです。 そうすることにより、自分自身が一回りも二回りも大きな人物となっていきます。傾聴は自分自身のためにもなるのです。 自分が聞き手にまわることにより、話し手は認められた理解してもらえたと満足し、あなたに対し好感を持つようになるでしょう。悩みなどを最後まで聴いてあげるだけで相手はすっきりするというのは本当です。これはカタルシス効果とも呼ばれています。私も両方の立場での経験をしたことがあります。 また、人は他人の話を最後まで聞こうとしない性向を持っていますから、それを逆手にとって、人に話す場合には、できるだけ短く、しかも結論から先に話すようにすれば効果的です。 そして相手が関心を示してきたら、じっくりと話せばよいでしょう。そのためには、話す前に、頭の中で話す内容を、相手が関心を持つようによくまとめておく必要があります。関心がなければその話題はやめてしまえばよいでしょう。 傾聴は人間関係をよくするひとつの方法でもあります。人間関係をよくするにはお金は全くかかりません。 「口は一つ、耳は二つ」なぜか? 「自分がしゃべるよりも、人の話をよく聴くため」といわれています。ここに何か人智を越えた巧妙な神しくみといったものが感じられます。 本テーマ完
2024.05.31
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(しゃべりたがる理由) どうして人にこのような傾向があるのか、いろいろと調べたり,考えてみたりもしましたが、世界的ロングセラーとなったD・カーネギー著の「人を動かす」が参考になりそうです。この中で著者はアメリカの第一流の哲学者であり教育家でもあるジョン・デュ―イの次のようなことばを紹介しています。 「人間の持つもっとも根強い衝動は、『重要人物たらんとする欲求』である。」 さらに、すぐれた心理学者としてウィリアム・ジェームスの次のことばも紹介しています。 「人間の持つ性情のうちでもっとも強いものは、他人に認められることを渇望する気持ちである。 どうも淵源はこのへんにありそうです。「重要人物になりたいという欲求」も「他人に認められたい、評価されたいという欲求」も同じ欲求の違った表現でしかありません。二〇世紀の偉大な心理学者フロイトのいう「偉くなりたいという願望」も同じでしょう。 D・カーネギーはこれらをまとめて「自己の重要感に対する欲求」といっています。この欲求は個人の成長の源泉ともなっています。この欲求があるからこそ社会も発展します。 ただ、往々にして人は、もっとも強い欲求であるこの「自己の重要感」を満足させるために、他人の話に耳を傾けるよりもより多く自己主張をするのだと思われます。これは度が過ぎると一種の自己顕示欲となります。 次回へ
2024.05.28
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3回シリーズのテーマです。 (しゃべりたがる自分) どうも人間というものは、人の話を聞くよりも、自分でしゃべる事の方に夢中になる性向を持っているようです。たとえば、職場で休憩時間などにリラックスして同僚たちと談話をしていると、よく話がいろんな方向に展開、発展していく場合があります。 このような時は、各個人がそれぞれに自分の思いを活発に述べている状況がかもし出されているわけですが、人の話はろくに聞いていない場合が多いようです。人の話に素早く割り込んで誰よりもいかに早く自分の思いを開陳するか、そのタイミングを虎視眈々と覗っています。 なぜ、そのように思うのかといえば、他ならぬ自分自身が長年そうであったからです。 このことに気づきかけた頃、このような打ち解けた談話の場ではできるだけ第三者の立場に立って他人を観察してみることにしました。その結果、他人も全く同じ性向を持っていることが分かり、確信するに至ったわけです。 皆さんも自分自身を振り返るとともに他人を観察し、この事を確認されてみてはどうかと思います。また違った新たな発見があるかもしれません。 これは何も職場に限ったことではなく、かしこまった会議などは別として、友人、仲間同士の会合、近所同士の寄合、女性同士の井戸端会議などでも見受けられることです。 私の家内にもこのことを話してみましたが、そういうことはよく経験することだと云っていました。だいぶ前になりますが。子供が小中学生の頃に所属していたスポーツクラブで知り合いになったお母さん達とは、その後何度も集まって話をすることがあったそうで、その時の話題は、子供の教育や家庭のこと、人のうわさ話、世間話など多岐にわたるとのことです。 家内に言わせると、それはやかましいぐらいに会話が弾(はず)むとのことです。このような時、自分が何かしゃべりたいことがあったら、しゃべっている人が話の途中で一息入れたその瞬間、間髪をいれずに割り込まないとなかなか難しいといっていました。 なぜなら、他にもしゃべりたい人たちがいるからです。私もスポーツクラブの応援をしていた頃のお母さん連中を知っているから何となく想像がつきます。次回へ
2024.05.26
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(お互いに影響しあう心の状態) 犬は飼い主に似るとはよくいわれることです。長年いっしょにいると飼い主の精神状態や心の傾向性が犬に影響し、その結果、雰囲気や外見が似てくるのでしょう。私も以前、18年余り柴犬を飼っていたことがありますが、散歩をさせたりする時に、よその人が飼い犬を散歩させているのによく出くわすことがありました。会釈してすれ違う時に、確かにこちらがハッとするほど飼い主とその犬が良く似ている場合があります。遺伝子的に身内ではないかと疑いたくなりそうなほどです。ただ、相手もこちらを見て同じようなことを思っていたかもしれません。ある一定の心の状態が長期間継続されるとそれが表面化、顕在化してくるよき例ではないでしょうか。 似た者夫婦というのもあります。長年連れ添っていると相互に影響し合うのか、雰囲気ばかりでなく外見まで似てきます。そういう夫婦を時々見かけることがあります。それは夫婦円満で幸せに暮らしてきたという証拠でもありましょう。似た者同士が一緒になったといえば、それまでですが、そればかりでもなさそうです。 また、ずっと昔、私が結婚したての頃、何人かの会社の同僚を身内に引き合わせたことがあります。あとで身内の者が、私と他の同僚たち全員に似たような感じを受けたと言っていました。皆が同じような雰囲気をかもし出していたというのです。その時はそんなこともあるのかなと思っていましたが、その後の人生で私も同じような経験を何度かしたことがあり、なるほどと納得したものです。同じ会社に何年か勤めていると、その会社独特の雰囲気を身につけるもののようです。心の持ち方は大切です。どのような心を持つべきでしょうか。もちろんよき心を持つことが大切です。ではよき心とはどんな心でしょうか。それは、相手によかれという思い、親切、勇気、責任感、克己心、忍耐、優しさ、愛などでしょう。これらを簡単にまとめて言うとするならば、「自分に対しては厳しく、人には優しい心」ということになるでしょうか。 本編の結論は、よき心を持続して持つように努力すべきであるということです。なぜなら、よき心を持てば、病気の予防にもなるし、人間関係もよくなり、幸福な人生を送る秘訣にもなるからです。 本テーマ完
2024.05.24
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(病気の原因の大半は心の状態) 病気とは気の病と書きます。「病は気から」ともよくいわれます。しかし、すべての病気がそうであるとはいえないようです。たとえば、物理的な外部要因によるケガとかウイルスによる病気は別です。ただ、ケガやウイルスによる病気も油断の心があったためと言えなくもありません。いずれにしろ大半の病気は心が原因しているのではないでしょうか。それも悪しき心が顕在化してきたのではないでしょうか。 もちろん逆に、身体が悪くなって、心の方も悪くなる場合もあり得るでしょう。体が不調になると、愚痴や不平不満が出やすくなり、心も悪くなる場合があります。そして悪循環を繰り返します。また「健全なる精神は健全なる身体に宿る」とも言われます。 しかしながら、これはあくまで従と考えるべきもので、主とすべきは先ず心の方でしょう。 心が原因で病気になる例としては、ストレスや過度の緊張により胃が痛むことや、ひどい場合には、胃炎や胃潰瘍になることなどがあります。また長年の暴飲暴食や運動不足によりいろいろな病気を併発する場合もあります。いわゆる生活習慣病といわれているものです。個人差はあるでしょうが、これなども自分を律することを知らない心や怠慢の心が原因といえるでしょう。 ガンなども長年のストレスまたは破壊的な憎しみの心、あるいは自己破滅的な心などが影響してガン細胞として顕在化してきたのかもしれません。現在では、各国において喫煙とガンとに密接な関係があるとの研究報告がなされています。確かに煙草には発ガン性物質が含まれているのでしょう。ただ喫煙してガンになるのは発ガン性物質だけによるものではないように思われます。これはかってな推論ですが、心のあり方も影響しているのではないでしょうか。中毒性の煙草を飲み続けるというのは、ずっと不安、心配、ストレスなどの溜まりやすい生活を送っているからだと考えられますが、それがガンを生み出す一要因になっているのではないかと思われます。その心のあり方と発ガン性物質との相乗効果により、ガンが発生しやすくなっているとも考えられます。今後の医学の発達に期待したいと思います。次回へ
2024.05.21
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3回シリーズです。 (心の傾向性が身体に顕在化してくる) 良い心も悪い心も長年の心の傾向性として持続すると、それが身体に顕在化してくるようです。四〇歳すぎたら自分の顔に責任を持てとはよくいわれていることです。年をとった方の中でも、ああ、あの人はいい顔をしているなという方を見かけることがよくあります。 特に女性でお年を召した方で若々しく、穏やかで美しい方がおられます。おそらく純粋で美しい心でずっと生きてこられたのでしょう。そしてそれがそのまま顔に現われてきたのでしょう。逆に、若い頃は純情そうで美人であったのが、その後の人生の生き方が問題であったのが、中年以降、あまりよくない人相、たとえばきつい顔になっていたりする場合があります。社会の中でもまれているうちに心の持ち方が悪くなったのでしょう。よこしまな心、自分だけよければいいというような心、人をだますような心、妬むような心といった、いわゆる悪しき心の傾向性が悪相として顔に顕現してきたのでしょう。また神経質な方は眉間に縦皺がはいったり、怒りっぽい人は、目が吊上がったりして厳しい顔つきになるようです。 心の美しい人は、美しい顔になります。化粧にたよらなくてもよくなります。妬み、嫉み、怒り、憎しみ、愚痴、貪欲、猜疑心、自惚れ、劣等感などの悪しき心を捨て、穏やかさや平静さを保つように努力していくのが美しくなる近道のような気がします。 次回へ
2024.05.20
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前回まで、いろいろと劣等感とその対処法について述べてきましたが、次にまとめとして対処法について、自分への戒めの意味も込めて、箇条書きしてみます。(1) 挫折したのは目標が一つしかないからではないか。この意味では目標は複数持った方がよい。そして小さな目標から達成し、順次成功体験を積んでいくこと。(2) 劣等感をバネにしてがんばってみる。(3)劣等感は自分だけではなく誰でも持っているものだと思って開き直る。自分の劣等感について、自分が気にしているほど、他人はそれを気にしていないということを知ること。(4)すべての面ですぐれた完璧な人間はいないと思うこと。 一種の居直りが必要。そう考えることで気も楽になる。(5)悩んでもどうしょうもないような劣等感は捨てる。例えば足が短いといったような肉体上の劣等感等。(6)努力すればなんとかなりそうなものについてはがんばってみ る。ただし簡単にはあきらめない。人が1年かかるものであっても、自分は2年、3年はやってみるつもりで努力するようにする。2、3年では他人との違いはわからないだろうが、さらに、10年、20年と続ければ、誰の目にもその違いは明らかとなる。耐え続ける辛抱強さが必要である。忍耐は平凡が非凡となる秘訣である。もしどうしても道が開けないならば、潔くあきらめて執着しない。別の道を捜すこと。がんばったことは決してむだにはなっていない。最後に劣等感の効用について考えてみます。劣等感に効用があるのだろうかと思われるかもしれませんが、劣等感への対処法を充分に踏まえた上であれば、効用と思われる面もあり得るようです。例えば、劣等感の種類にもよりますが、時々、劣等感が発生することにより、自己慢心や自惚れの心を抑止する効果があるのではないでしょうか。また、劣等感をバネにして、向上へ向けての努力を開始する人は大勢います。さらに劣等感を経験することにより、人の痛みや悲しみや苦しみが分かり、人間というものを知ることができ、それだけ、人間としての幅が広がります。劣等感にはこのような効用がありそうです。この他にもたくさんあるかも知れません。劣等感を持ってますます落込むのではなく、劣等感と上手につきあって、自己の成長に利用していったほうが、得策といえるでしょう。 (本テーマ 完)
2024.05.19
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この「自己の重要感に対する欲求」がある限り、通常の状態では、他人への評価が自分より高ければ、この嫉妬心と言う感情が、自然発生的に生じるであろうことは、容易に想像がつきます。通常の状態というのは、自分とその比較される他人とが、自分から見て、才能、能力の面においてほぼ同等と見なされる場合に、他人が高い評価を受けた場合です。極端に差がある場合には、あまり嫉妬心はおきないものと考えられます。また、自分の関心領域で、自分が現に向上を目指して、鋭意努力している分野や領域で、他人が成功したり、自分より評価された時にも、嫉妬心が起きやすくなります。逆に、自分の関心外で、努力目標としていない領域では成功している人をみても、妬ましく思わないものです。例えば、オリンピックなどで、水泳の選手が金メダルを取ったのを見ても、水泳に関心がなければ、その選手に対してすごいなとは思っても、妬ましいとは思わないでしょう。個人レベル以外のもっと大きな国レベルでの嫉妬心もあります。所得が大きくなるにつれて税率が高くなる累進税率は、日本の方が欧米より高いといわれています。これは日本の方が金持ちに対する嫉妬心が強いからだといえましょう。なぜ、日本の方が強いのでしょうか。この理由は、日本が歴史的に農耕社会であったことと関係があると思われます。農耕社会は、言い換えれば、同質社会であり、皆が同じ平等が尊ばれます。日本には「出る杭は打たれる」という諺があります。頭角や才能を表すと、周りから非難されたり、災いに会うということです。これも嫉妬心から起きることです。 (次回へ)
2024.05.18
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人にはなぜ、このような嫉妬しやすい傾向があるのでしょうか? いろいろと調べたり、考えてみたりもしましたが、世界的ロングセラーとなったD・カーネギー著の「人を動かす」が参考になりそうです。この中でD・カーネギーはアメリカの第一流の哲学者であり、教育家でもあるジョン・デューイの次のようなことばを紹介しています。「人間の持つもっとも根強い衝動は、『重要人物たらんとする欲求』である」さらに、すぐれた心理学者としてウィリアム・ジェームズの次のことばも紹介しています。「人間の持つ性情のうちでもっとも強いものは、他人に認められることを渇望する気持ちである」どうも淵源はこのへんにありそうです。「重要人物になりたいという欲求」も「他人に認められたい、評価されたいという欲求」も同じ欲求の違った表現でしかありません。20世紀の偉大な心理学者フロイトのいう「偉くなりたい」という願望」も同じでしょう。D・カーネギーはこれらをまとめて「自己の重要感に対する欲求」といっています。これは、人間の求めてやまない、本源的欲求であるということです。 見方を変えれば、結局は「人からより愛されたい」ということと、同じであるといえるかもしれません。これが嫉妬心の元凶と考えられます。つぎに嫉妬心の起きるいろいろなケースを考えてみましょう。 (次回へ)
2024.05.17
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これは大きく且つ難しい問題です。嫉妬心というものは程度の差はあれ、誰にでも起きるものであり、古今東西を問わず、これがもとで争いが絶えませんでした。それは個人レベルでも、国レベルでもあります。典型的なものには男女間の嫉妬心があり、これは自分よりも他人に、より愛が向けられる場合です。この他にもいろんな局面で嫉妬心が起きます。能力や才能の面における嫉妬心、人の恵まれた環境に対する嫉妬心、他人の成功に対する嫉妬心、他人が余計に注目されることに対する嫉妬心、このように嫉妬心というものは人間にはつきものです。これらはいずれも他人に、より多く関心や愛が注がれる場合に起きるようです。家庭、職場、仲間同士などの日常生活の中で、しばしば軽い嫉妬を覚えたことはありあせんか。自分の気付かないうちに嫉妬している場合もあるのではないでしょうか。では、なぜ、人はこうも嫉妬しやすいのでしょうか? (続く)
2024.05.16
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良い心も悪い心も長年の心の傾向性として持続すると、それが身体に顕在化してくるようです。40歳すぎたら自分の顔に責任を持てとはよくいわれています。年をとった方の中でも、ああ、あの人はいい顔をしているなという方を見かけることがよくあります。特に女性でお年を召した方でも、年相応に穏やかで美しい方がおられます。おそらく純粋で美しい心でずっと生きてこられたのでしょう。そしてそれがそのまま顔に現われてきたからでしょう。逆に、若い頃は純情そうで美人であったのが、その後の人生の生き方が問題であったのか、中年以降、あまりよくない人相、例えばきつい顔になっていたりする場合があるようです。社会の中でもまれているうちに心の持ち方が悪くなったのでしょう。よこしまな心、自分だけよければいいというような心、人をだますような心、妬むような心といったいわゆる悪しき心の傾向性が悪相として顔に顕現してくるのでしょう。また神経質な方は眉間に縦皺がはいったり、怒りっぽい人は、目が吊上がったりして厳しい顔つきになるようです。心の美しい人は、美しい顔になります。化粧にたよらなくてもよくなります。妬み、嫉み、怒り、憎しみ、愚痴、貪欲、猜疑心、自惚れ、劣等感などの悪しき心を捨て、穏やかさや平静さを保つように努力していくのが美しくなる近道のような気がします。「病は気から」と言われるように、病気も大半が心の持ち方がまずいためです。
2024.05.15
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人間というものは、どうも人の話しを聞くよりも、自分で喋ることのほうに夢中になる性向をもっているようです。例えば、気の合った仲間同士や職場などでリラックスして談話をすると話しがいろんな方向に発展、展開していく場合があります。このような状況では各人がそれぞれに自分の思いを活発に述べるばかりで、人の話しはろくに聞いていない場合が多いようです最大の関心事は、人の話しに素早く割り込んで誰よりもいかに早く自分の思いを開陳するかであり、そのタイミングを虎視耽々と覗っているようです。皆さんもこういうおしゃべりの輪の中では自分が言いたいことを喋るのに困難さを感じたことがおありでしょう。どうして人にはこういう傾向があるのでしょうか?(理由は上記の紹介書籍で詳述)。 これは度が過ぎると自己顕示欲となります。そうであるならば人のこのような性向を逆手にとって人間関係を良くするという方が得策です。人には強制はできないので、まず自分でできることから始めるようにした方が賢いでしょう。例えば;(1)できるだけ聞き手にまわる。人の悩みを聴いてあげるだけで、悩みが解消するというのは本当です。カタルシス効果といわれているようです。自分も両方の立場での経験をしたことがあります。(2)話す場合は、できるだけ短く、そして結論から話すようにする。相手が関心を示してきたならば詳しく話すようにすればよい。そのためには話す前に頭の中で話す内容をよく整理しておく必要があります。「口は一つ、耳は二つ」何故か? ”自分が喋る以上に人の話しをよく聴くため”とも云われています。傾聴は人間関係をよくするひとつの方法でもあります。人間関係をよくするにはまったくお金は必要ありません。
2024.05.14
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「米国大統領選について」2020年12月現在、世界中がコロナ禍で大変な目に合っております。この新型コロナは、自然発生的に生まれたものではなく、中国(正確には中国共産党)が武漢近くの洞窟にいるコウモリのウイルス遺伝子を操作して作った生物兵器だともいわれています。ある研究者によれば、「特定の人種の遺伝子をターゲットにした複数のウイルスを研究・開発して各国にばらまいた可能性がある」といわれています。そうであれば、これはウイルス戦争を仕掛けたともいえます。それで「感染者の致死率が、特に米国や欧州では高くて、アジアではそれほど高くない(ただ中国が仮想敵国にしているインドでは高い)」という理由も納得できます。この狙いは、反中国勢力を一掃して、世界の覇権を握ることです。もし米国が敗れて中国が覇権を握れば、国防を日米同盟に依存した日本は、中国の一省か植民地あるいは自治区になる可能性があります。そうなれば、香港、ウイグル自治区、チベット自治区、内モンゴル自治区などのように、日本人は、中国共産党(中共)により言論弾圧を受けたり、人権無視や強制収容されたり、中国語使用を強要されたり、あるいは奴隷扱いされる可能性もあります。現在、日本のほとんどの主要マスコミ(米国の左翼系のマスコミと提携している)は、相変わらず米国の大統領選ではバイデンが勝利したような偏向報道をしておりますが、トランプ大統領が敗北宣言をしておりませんので法的にはまだ決まっておりません。菅首相や欧州のいくつかの首脳陣は早速バイデンに祝辞を贈りましたが、現職のトランプ大統領に対して失礼ではないかと思います。ロシア、ブラジルなどのように祝意をまだ表明していない国々もあります。日米の主要マスコミは詳しく報じておりませんが、バイデンも含めた民主党と中共は以前からかなり癒着しております。今回の大統領選でも組織的な数多くの不正選挙を共同で行っております。例えば、ドミニオンという電子投票システムではトランプ票を実際よりも少なくし、バイデン票を実際よりも多くしたりしております。また、死人名義の投票券で投票したり、有権者よりも多い投票がなされたりしております。実際に不正を行っている現場の映像記録等もあります。それにもかかわらず、日米の左翼系主要マスコミは証拠がない、証拠がないというばかりです。日本や世界の未来のために、中国(中共)を崩壊させるには現トランプ大統領にぜひ再選してほしいところです。現在の主要マスコミの報道を見たり、聞いたりするだけでは情報操作されて洗脳されてしまい真実が分からなくなります。そうならないために、米国の大統領選については、ユーチューブ等でNTDや大紀元、および個人のジャーナリスト(及川幸久、中野博、張陽、HaranoTimes Official Cannel等)の報道を見ることをお勧めします。 追記:ユーチューブは、2020年12月9日(現地時間)、選挙の不正を訴える関連動画を削除する方針を発表しました。これはまるで中国共産党のように左翼的な言論に誘導しようとするものです。今後の動向しだいではユーチューブでは不正選挙に関する言論は聞かれなくなる可能性がありますので、その場合にはユーチューブの代替として「ランブル」や「パーラー」などが利用できるようになるかもしれません。
2020.12.08
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「習慣を長続きさせるコツ」いつも何かを長期間継続しようと思って、始めてみてもすぐに3日坊主で終わってしまい、自分に嫌気がさし、ジレンマを覚えたことのある方もたくさんおられることと思います。私の場合、昔、会社の健康診断で生活習慣病(当時の成人病)のきらいがあるといわれました。みなさんも、よくごぞんじのように、この病気の原因は明らかです。主に食べ過ぎと運動不足です。運動については、さっそく体質を改善すべく、ジョギング、水泳、サイクリング、筋肉トレーニング等をやりはじめました。食事についても、食べる量を減らしたりしました。間食もやめました。飲酒も減らしました。しかし、なかなか当初の計画どおりにはいきませんでした。いつも計画倒に終わりました。これのくり返しでした。いわゆる3日坊主です。このように長続きさせるには、どうすればいいのか悩んでいる時期に、ある会合で、ポルトガル語の通訳のボランティをやったことのある知り合いの方といろいろと話している中で、たまたまボランティアを長続きさせるコツを聞く機会がありました。その方は、ボランティアのプロ(こういう言葉があるかどうかしれませんが)の講習会で、そのプロがボランティアを長続きさせるコツとして、次の3点を述べたそうです。それはきわめてシンプルなものでした。1. できることを2. できる時に3. 無理なくということでした。これを聞いて、私はなるほどそうかとひざを打ちました。何かを習慣化するのもこれといっしょではないかと思い到ったわけです。思えば、当初は私も、勢い込んで無理な計画を立てていたようです。さあやるぞというときには、どうしても多少無理な計画を立ててしまう傾向があるようです。そしてだんだん苦痛になってきて、習慣化する前に止めてしまいます。皆さんもそういう経験がおありだと思います。自分に気付かせてくれたこの3つの貴重なアドバイスに従って無理のない計画を立てました。それ以来、毎週休日の土、日、祭日には軽いジョギングを17年間継続しました。そして家に帰ってからは軽い筋肉トレーニングを行いました。また平日の出勤前にはラジオ体操と腕立て伏せを50回行いました。自分にはこの程度がちょうどよいようです。ただ、退職してからは年をとったせいか、ジョギングを散歩に替えました。しかし毎日行っています。もちろん体操、筋トレも毎日行っています。こうしたおかげで、体調はよく、体重は20代の頃とあまり変わらなくなりました。昨年の9月のある日曜日に、いつものとおり朝早く、1時間ほど散歩をした時に、田んぼのあぜ道などのあちこちに赤い彼岸花が咲いているのをよく見かけました。どうして、花は申し合わせたように、一斉に咲くのだろう? どうして、あんなきたない土の中から、あんなきれいな花が咲くのだろうかとふと不思議に思ったりもしました。自然は生きてるなと実感したりもします。そして癒されるような気もします。散歩の効用でしょうか?
2016.05.17
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「憲法改正の必要性について」有史以来、部族と部族の争い、国と国の争いといった戦争が、何度も繰り返されてきました。現代でも地域紛争や戦争が絶えません。しかし、平和主義者のように、平和だけ唱えていれば平和がくる、というわけでもないように思います。平和がいいのは分かりきったことです。日本の近くでは、中国が異常なまでに高い軍備拡張を長年続けています。北朝鮮も着々と核開発を進め、核実験やミサイルの実験を進めています。ちなみに中国の2005年~2014年の10年間の軍事費の伸び率は167%で世界一であり、一方、米国は0.4%減です(2015年4月13日SIPRI発表)。何のために拡張しているのでしょうか。これが意味するところを考えてみる必要があります。日本国憲法は、第9条で戦争放棄をうたった、世界にも類をみない模範的な憲法です。しかし、あまりに時代を先取りしていて、現実的でないと思います。これが成り立つ前提条件は、周りが侵略戦争などしない善良な国ばかりの場合です。この場合は軍隊を持つ必要も、戦争をする必要もないでしょう。ただし、現状は、周りに野心的な国があるため、そうはいきません。平和だけ唱えていて、自衛が充分でなかったら、他国が攻めて来た時にどうするつもりでしょうか。その時に、どうぞ好きにしてくださいと言って、国土が踏みにじられるままにしておいて、国が滅びてしまってもいいのでしょうか。日本においても、朝鮮半島問題や、中国と台湾問題といった東アジア情勢を見る限り、その可能性がないとはいえません。中国に侵略されたチベット自治区やウイグル自治区等を見ればわかります。言論の自由はありません。情報も統制されています。思想的に反対側に立つ人たちの多くが監禁、粛清されています。日本が攻められれば同じようになる可能性があります。中国語の使用を強制され、日本語の使用が禁止されるかもしれません。人種差別を受け奴隷に近い扱いをされるかもしれません。思想的に反対の知識人、学者、市民、友人、知人たちが大勢監禁、粛清されるかもしれません。ここで日本国憲法の改正の是非について考えてみたいと思います。自衛のための戦争の是非については、学者でも現行憲法の解釈が分かれるところですが、現在のところ、政府の見解は、国際法上、自衛権はあるが、憲法上は戦争できないとのことですが、これは何か変です。これは、現行憲法が不備だからと思われます。現実的な問題として、自衛の最後の手段である武力行使(戦争)を認めないと、現行の憲法が保証する生命、財産を守れなくなります。これは憲法自身がその中に矛盾を含んでいることになります。正当な自衛権というのは、憲法の有無にかかわらず、各国が憲法以前にすでに生来保有している権利だと思います。憲法の解釈で自衛権の有無が分かれるというのは、これは憲法が欠陥憲法であるからといえるのではないでしょうか。個人でも法律の有無にかかわらず正当な自衛権を持っているというのは万人が認めるところでしょう。現行の憲法が不備だらけの大きな理由は、この憲法が、戦後、アメリカの進駐軍の専門家でもない人たちが日本を弱体化し無力化するために1週間ほどで起草したものに若干の修正を加えて、翻訳してできたものだからです。従って、憲法上の不備は他にもあるかもしれませんが、現在、重要なのは国家存亡にかかわる国防のところです。左翼勢力が、現行の憲法を平和憲法として執拗なまでにその改正に反対していますが、その隠された理由は、日本の弱体化であるということを知るべきでしょう。戦後70年が経過し、周りの国際情勢も大きく変化し、近隣諸国にも着々と軍備拡張に余念がない野心的な国が現れました。現行の憲法も現状に対応しきれなくなっています。現代を生きている我々日本人とその子孫のために、手遅れになる前に、現行の即席・翻訳憲法を早急に改正すべきと思います。
2016.05.10
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