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「平等と格差」最近では、よく格差社会だといわれています。この一因が低賃金の派遣労働者の増加といわれています。この一番大きな理由が、自由化の一環である規制緩和の流れです。一昔前までは派遣できる業種は通訳といったような特殊なものに限られていたのが、規制緩和により製造業のような業種にも適用されるようになってきました。企業は当然人件費を抑えようとしますから、賃金の安い派遣労働者を使おうとします。この流れが、非正規社員の増加となっております。働いても、働いても、なかなか豊かになれない人たちが増えてきたといわれています。ここで「平等と格差」について考えてみたいと思います。格差社会となっているので、それでは皆平等にすればいいのかということになりますが、これはよく考えてみる必要があります。皆平等にするという考えは社会主義、共産主義の考え方です。不思議と今の地球の社会主義国で豊かな国は一つとしてありません。過去もそうでしたが、今もありません。この理由の一つは、よく働いた者も、そうでない者も平等に扱ったら、だれも働く意欲を失ってしまうからです。人間の性として、よく働く人はだんだんばからしくなって、働かないようになってきます。イノベーションもなかなか起こりません。この結果社会は成長がストップし停滞してしまいます。また別の理由を考えてみます。たとえば平等に全員を金持ちにしたらどうなるでしょうか。日本国民全員が金持ちだとしたら、そのうち物価が上昇しインフレとなり、お金の価値が下がり、結果として国民全員が貧乏となるでしょう。なかなか国民全員が金持ちになることは難しいことです。貧困の平等というのはありえますが、金持ちの平等はないようです。平等で大切な考え方は、結果の平等ではなく、機会、チャンスの平等ではないかと思います。教育を受けるチャンス、試験を受けるチャンス、職を選ぶチャンス、出世するチャンス等々。もし結果の平等だけを求めたら、社会全体が活力を失い、貧しい国となって、そこには貧しさの平等が実現するでしょう。ある程度の格差はやむを得ないと思います。皆を自由にしたらどうしても格差は生じてきます。しかし社会全体としては成長、発展するでしょうから、その中で相対的に貧しい人でも、豊かな社会の恩恵にあずかるわけです。ただ、どうしても、いろんな事情で働けずに貧しい人も出てくるでしょうから、そういう人たちには救いの手を差し伸べる必要があります。しかし、行き過ぎた格差社会は問題です。格差社会で問題なのは、働いても、働いても、なかなか楽にならない構造になっていることです。一生懸命に努力してもなかなか報われないというのは問題です。このままいったら社会が停滞するのは目に見えています。やはり努力したら、努力しただけの結果が出る社会にしなければなりません。そうであってこそ、みなやる気が出てきて、社会が活性化するでしょう。行き過ぎた格差社会は、政治、経済レベルで解決できるものと思われます。
2026/05/02
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「逆境への対処法(2)」前回では、逆境という苦しみを乗り越えると、人生のちょっとのことではへこたれない強い人間となり、その逆境の中から教訓を得て知恵や洞察力が深まることにより、器の大きな人間となって、その喜びも一入となるということを述べましたが、 また逆境から得た教訓をもとにして、同じような問題に悩む人たちを教え導くこともできます。逆境を悪と考えず、足腰を鍛える材料であると考えることです。いわゆるプラス思考で考え、積極的に生きていった方が人生は開けてくるようになります。この意味において運命は変えていけます。人生には必ず、各人に数多くの大なり小なりの逆境が与えられるということには、「人生の意義とは何か」という疑問に対する、一つの解答のヒントが隠されているのかもしれません。人生とは人を鍛え上げる道場みたいなものかもしれません。そして、すでに多くのものが与えられていることに感謝しつつ、よい心を持って、人のためになることをしていけば、将来はきっと実りある収穫が得られることでしょう。積極的で明るい心を持って逆境を乗越え、また人のためにも生きることです。それは自分が向上していく道でもあります。最初から非凡な人生を生きることは誰にでもできることではありません。しかし、平凡な人生を積重ねながら、前向きに努力して生きたならば、最終的には平凡が非凡となる可能性が高いでしょう。おそらくは、人に尊敬される徳ある人格高潔な人物となっていることでしょう。それこそ付加価値人生を送ったといえます。人のためにお役に立てたことが大きければ大きいほど、より付加価値の大きい人生を生きたと言えます。歴史上の偉人と言われる人たちはその最たるものでしょう。どうせ生きるのであれば、自分のことだけではなくて、人のためにも生きたいものです。偉人のように大きなことをする必要はありません。自分の置かれた立場で、自分のできることから始めればよいのです。明るい元気なあいさつからでもよいでしょう。人のために生きることが取りも直さず、本当の意味での自分自身のためにもなります。なぜなら、繰り返しますが、それが人間の本源的欲求である「自己の重要感」を満たすことになるからです。今日からでも、意識的に人のために生きることは可能です。 過去の事実は、同じ過ちを繰り返さないための学習材料、判断材料にはなりますが、決して変えることはできません。しかし、現在をどう生きるかによって未来は変えることができます。未来にどのような影響を与えるかは、現在ただ今をどう生きるかにかかっています。したがって、現在の時間を大切にしなければなりません。むだなことに時間を浪費してないか自問自答してみる必要があります。
2026/04/21
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「逆境への対処法(1)」人生に逆境はつきものです。人生の途上では、ほとんどの人が必ず、苦難、困難といった逆境に遭遇いたします。運命といえば運命でしょうが、それから逃れようとしても本当の解決にはなりません。次々と逆境が襲ってまいります。その場合に必要なことは、逆境から逃げることばかり考えるのではなく、受け入れてしまうことです。一種の居直りです。逆境を乗越えてこそ人は強くなれます。逆境に押し潰されないことです。障害物のハードルは飛び越えるためにあります。飛び越えてこそ筋肉は鍛えられます。人生の途上に全くハードルがなく、楽な人生を送ったとしたなら、その人はどのような人物になるでしょうか。人から尊敬されたり、賞賛されたり、高い評価を受けたりする人格高潔な人物になるでしょうか。そういうことはあり得ないでしょう。これでは以前述べたような、人が本源的に持っている、「重要人物になりたいという欲求」を満たすことはできません。しかし、一生懸命に悪戦苦闘し、努力して逆境を乗越えた暁には、人生に対する抵抗力が一段と身に付き、知恵や洞察力も深まり、より成長した自己を見出すことができるでしょう。ひと回り大きな人物となるでしょう。これは何ものにも替えがたい喜びとなります。苦労したあとの喜びは格別です。昨年のお盆休みに墓参りのため、家内の実家に近いお寺に行きました。お寺の入り口の掲示板に白い紙が貼ってあり、何か墨で文字が書かれていました。近づいてよく見ると「苦しみは喜びの深さを知るためにある」と書かれていました。なるほどと感心いたしました。別の言い方をすれば、これは「苦しんでこそ本当の喜びが分かる」というようなことです。感心すると同時に、これと似たようなものとして、スイスの思想家カール・ヒルティ(1833~1909)が述べた「前もって働いていない休息は、食欲のない食事と同様で楽しみがない」を思い出しました。これはつまり「働いてこそ、休日の本当の楽しさが分かる」というものです。いずれも「苦しみ・喜び」、「労働・休日」のように相反する語の一方が他方を際立たせるという点で似通っています。(次回へ)
2026/03/28
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「小さな発見の喜び」ちょっとしたことに気づいて何となくうれしくなった経験をした方も多いかと思います。例えば、私の場合を述べてみます。ここ20年あまり、毎朝1時間ほどの散歩の習慣があります。高血圧、高脂血症、高血糖、いわゆる生活習慣病を持っていたため、これを改善するために始めたわけです。今では生活の一部となり定着しております。三日坊主に終わらなくて、このように長く続けられるのは、生活習慣病持ちということも大きな理由の一つですが、一番大きな理由は、長続きさせるコツとして、ある人から教わった「①できることを、②できるときに、③むりなく」を実践したからだと思います。また、この散歩コースとして、飽きがこないように5つほどのコースを持っています。この中には大きな新興住宅地内を通るコースも入っています。散歩をしているときには、いろいろと考えごとをすることも多いのですが、何も考えていない全くリラックスしたような状態のときもあります。仏教的にいえば無我の境地に近いのでしょうか。このようなときにふと気づくことがあります。例えば、何年も前のことですが、この新興住宅地内を歩いているときです。秋も深まった頃で、朝は多少寒くなってまいりました。ふと足元を見ると、枯れ葉がたくさん落ちているのに気づきました。あらためて周りを見てみると、道路に沿って木がたくさん植えられていました。掃除も大変だろうなと思いながら、歩いていると、アッとする瞬間がありました。「秋」は英語では「autumn」といっていたな。まてよ、もうひとつ別の「fall」といういいかたもあったな。確か「fall」には「落ちる」という意味もあるな。「秋」を英語では「fall」というのは、ひょっとしたら秋になったら枯れ葉がこのように木から落ちることに由来するのではなかろうか? これが瞬間に思ったことでした。きっとそうに違いないとワクワクしながら家に帰り、さっそく辞書で確かめてみました。有りました、有りました、「秋をfallというのは、落ち葉(fall of the leaf)から来ておりアメリカ英語で一般的である」というようなことが書かれていました。この由来について知っている方は多いとは思いますが、自分は知りませんでした。人から教わったわけでもなく、本から学んだわけでもなく、自分の力で気づいた喜びは何ものにも換え難いものです。いつまでも記憶に残るものです。何年経ってもあのときの小さな発見のよろこび、何ともいえない幸福感が持続しています。これは仏教でいうところの悟った瞬間の喜びに近いのでしょうか。人生にはいろいろと不幸や苦難、困難はつきものですが、できるだけ幸福感を多くするために、できるだけ小さな発見やあらたな気づきに喜びを見出すように努力するのも一つの知恵かなと思います。
2026/02/22
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「人の痛みが分かるようになるには」 少し前まで、よく人生における勝ち組、負け組というあまり好ましくない言葉を耳にしたことがあります。 何をもって勝ち組、負け組を決めているのでしょうか。その判断基準は一体何でしょうか。 おそらく、会社での立身出世や、社会的な地位、名声の獲得、あるいは大金持ちになるということでしょう。 しかし傍からみてあの人は勝ち組だと思ったとしても、本人はそう思っていないかもしれません。会社だったら、もっと出世したかった、できれば社長にまでなりたかったのになれなかったので、自分は不幸だと思っているかもしれません。 また、社長になったらなったで、家庭生活をいままでおろそかにしてきたので、家庭崩壊の寸前にあって、心が休まることがない人もいるでしょう。 傍からみてうらやましいと思われる人も、本人自身は必ずしもそうではない場合があります。 金持ちになったらなったで、心配ごとが増え、遺産相続などで身内同士の葛藤が生じたりします。 一方、傍から見て、あの人は負け組だといわれる人が、本当に不幸かどうかは分かりません。 会社人生で、それほど出世しなくても、自分の器相応に出世もし、家庭も円満で、地域活動等もしていたため、退職後も人との触れ合いがあり、心のうちは幸福感で満たされているかもしれません。 要するに勝ち負けの基準はいろいろあると考えた方が正確でしょう。幸福か不幸かは自分自身が決めるものです。他人が決めるものではありません。 結婚できなかったと嘆く人もいれば、結婚したばっかりに、夫との葛藤で悩む人もいます。子供ができないと悩む人もいれば、子供の非行に悩む人もいます。 傍からみて、気の毒だと思われるホームレスの人の中にも、自分は気楽にこうしているのが一番いいという人もいるとのことです。何がいいかは一概にはいえないようです。 人生を一本調子で昇っていく人はきわめてまれだと思います。山あり谷ありです。 この時どのような考え方をしていったらいいでしょうか。 つまりいわゆるプラス思考でいった方がよいでしょう。そして、人生の途上では勝ち組と負け組の両方の立場を経験した方がよいでしょう。 特に逆境を乗り越えると人の心の痛みが理解できるようになります。そうすれば、他人の気持ちがよく分かる人間となります。 つまり人が理解できるようになって、人が望んでいるものが分かるようになります。その結果、人が望んでいるものを的確に提供できるようになります。 これが、商売にしろ、他人へのアドバイスにしろいろんな面で有効にはたらき、商売の繁盛や人から尊敬されたりして自分なりの成功となっていくでしょう。 これが本当の意味での人生の勝ち組といえるかもしれません。 他人に勝ったということではなく弱い自分に打ち克って、その結果、幸せを得たということでしょうか。
2026/01/24
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「人物の器を測る尺度」(2)前回からの続きです。 一般に、人は地位や立場が上がるにつれて、その責任の範囲が広がっていきます。 人には私的な部分と公的な部分があり、地位や立場が上がるにつれてだんだんと公的な部分の比重あるいは優先度が増してきます。 いや、そうでなければなりません。なぜなら、それだけ公的な影響力が増してくるからです。 たとえば、仕事と家庭と、どちらを優先するかの問題では、内容にもよりますが、一般には会社での地位や立場が上がるにつれて、家庭よりも仕事の方を優先させなければならない場合が増えてくるということです。 もっと、話を分かりやすくするために、極端な例をあげれば、一国の首相の場合、その影響力は国全体に及ぶため、私事よりも公務の方を優先させなければ、とんでもないことになる場合が多くなるということです。 しかし、地位や立場相応の責任をとるのは、当然といえば当然ですが、一番偉いなと思うのは、自分の地位や立場を超えた範囲までも、自分の責任と受け止めている人です。 こういう人たちは、立場を超えた範囲が広ければ広いほど、より人格高潔な人であるとか、あるいは神近き人と言ってもよいかもしれません。 本テーマ完
2025/12/11
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「人の器を測る尺度」(1) 今回から3回シリーズで本テーマについて話します。 人の器を測る尺度としては、他人に対する受容性、寛容性あるいは無私なる心など、いろいろあると思いますが、その一つとして「責任をとれる範囲」があります。 責任をとれる範囲が、その人の人物としての器の大きさをあらわしています。 すぐ環境や他人のせいにする傾向はないか。責任逃れの傾向がありはしないか。 責任をとれる範囲が、あなたの人物の大きさ,器の大きさをあらわしています。 子供は言い訳が多い。 自分の子供をちょっと注意すると、すぐに「だって何々だもの」と、他のせいにしがちであることに気付いておられる方も多いことでしょう。 大人の我々も小さい頃はそうであったかもしれません。 なぜ、子供は言い訳が多いのでしょうか。 それは、能力的にも、体力的にも、自分で自由にできる範囲が限られているために、子供はもともと責任がとれる範囲が限定されているからではないでしょうか。 次第に大人に近づくにつれて、自分でできることが増え、自由度が増して、それとともに責任の範囲も広がっていきます。 しかし大人になっても、すぐ他の責任にする傾向のある人が多いようです。 例えば、最近では、政治家の贈収賄等で、すぐそれは秘書がやったことだ、自分は関知してないと、言い逃れる政治家が、多いのは周知の事実です。 他のせいにするのがいけない大きな理由の一つは、そこに何ら成長や発展の余地がないからです。 自分の責任と受け止めないために、そこから教訓を学んで、よし次は二度とこういゆうことはしないようにしようとか、ここのところを、このように改善しようといった反省がはたらかないからです。 当たり前のことですが、自分が直接手を下したことについては、自分の責任であると自覚しやすいものです。 しかし、問題は直接手を下していないことについて、どこまで自分の責任として受け止められるかです。 どこまで責任をとれるかが、あなたの器の大きさをあらわしています。 直接手を下していないことについても、自分にも責任があると思っている人を見れば、この人はどこか偉いなと感じます。 立派だなと思う。尊敬もするし、こういう人とは、お付き合いをしてもいいなと思うし、何か協力してあげたいなと思うものです。 (次回へ)
2025/11/28
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「育ちのいい人間は義理の観念に欠ける」これは昔に限らずいつの時代にもいえそうです。 オーナー企業の2代目3代目ともなると苦労しらずの坊ちゃん育ちが多いでしょうから、他人の気持ちが理解できず、また他人の苦しみにも鈍感な面があります。 こういう人はほかの人が困っても気にしない、というよりは気にならない面があります。 あまり信用してついていかない方がよいでしょう。 簡単に捨てられる場合があります。 捨てることに対して何とも思っていないような面があります。 従ってそういうものだと思って、ある程度距離を置いて付き合ったほうが賢明でしょう。 これは2代目3代目の政治家、すなわち世襲議員についても同じようなことが言えます。 もちろん、2代目、3代目にも立派な人はいますが、ここでは一般的な話をしました。
2025/11/15
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「子供の遊びの効用」現代の子供は家に閉じこもって、TVゲームをやったり、パソコンとにらめ合ったりして、けっこう一人で遊ぶことが多いようです。何十年も前になりますが、自分が子供の頃の遊びといえば、同じ年頃の子供たちと、いっしょに、ほとんど外で遊んでいました。鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたり、隠れ屋を作ったり、チャンバラごっこをしたり、あるいは、現代では危ないからといって禁止されている場合が多いのですが、夏休みには川や池や堤で泳いだりしていました。 もっとも現代では、特に都会などでは手軽に外で遊べる十分なスペースや自然環境があまりないようですが。 しかし、親は子供をできるだけ外で遊ばせるようにし、それが十分にできない場合でも、屋内で遊ばせるときもグループで遊ばせるように心がけた方がよいと思います。 なぜなら、幼稚園から小学校の中学年の頃までは、同じ年ごろの子供たちといっしょに遊ばせることも、総合的な知能教育となるからです。 遊びをとおして、子供は、約束事を守ること、リーダーと部下の役割分担の違い、創造性などを学ぶという貴重な体験をすることになります。 これは社会人になる準備をしていることになります。また能力を開発していることにもなります。 習いやお稽古ごとも結構ですが、そればかりでなく、かたよりのない総合的な教育をしようと思うなら、他の同じ年頃の子供たちと積極的に遊べる機会をつくってあげる必要があります。 そのために、同じ年ごろの子供を持つ親同士が協力しあうというのもひとつの手かもしれません。 単なる遊びだからといってバカにはできません。 子供のころの遊びは社会常識を備え、一人前の立派な大人とするのに役立つ面があります。親は遊びの効用を認めた方がよいでしょう。
2025/11/01
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「事実を事実として述べることの是非」事実を事実として述べることが本当に正しいことなのかどうかを考えてみたいと思います。 事実を事実として述べることは正義にかなったことであり、なにか正しいことのように思えますが、結論は、「事実を事実として述べることは、常に正しいとは限らない。相手を生かすことは大きく、相手を苦しめることは小さく、そうした努力もまた、必要ではないか」ということです。 例を一つ上げてみます。小学生の友達AとBの親同士の例です。小学生のAが学校から帰ってきて、親に「B君は学校の帰り道に100円玉を拾って、それでジュースを買って飲んだよ」と言ったとします。 Aの親はBの親にそのまま事実を伝えるべきでしょうか。それとも、そのままにしておくべきでしょうか。あるいは他に方法があるでしょうか。 難しい問題です。そのまま伝えたら、おそらく、Bの親は何か、子供が犯罪人扱いをされ、また自分の教育が悪いと非難されたような気になって傷つくのではないかと思われます。 伝えたAの親も何か後味の悪さが残ると思われますがどうでしょうか。かといって他に何か方法があるでしょうか。 そのままにしておくのも、教育上、あまりよくないような気もします。しかし、そのまま伝えるのは、相手の親の性格にもよりますが、一般には、程度の差はあれ、傷つく場合が多いでしょうから、ベストの方法とは思われません。 ただ親同士が非常に仲がよくお互いをよく理解している場合には言ってもよいかもしれません。 これよりもましだと思われる方法は、自分の子供も共犯者にしてしまうことです。 「学校の帰り道にAとBが拾ったお金でジュースを買って二人で飲んだ」ということを子供のAから聞いたので、Aの親は「そんなことをしてはいけない。交番に届けるか、親に渡しなさい。そうしないと泥棒と同じになってしまう」というように、自分の子供であるAを注意したということを、Bの親に話したらどうでしょうか。 そうすれば直接傷つくことはないと思われます。Bの親も自分の子供を注意するでしょう。 たとえその時、真相が明らかになっても、共犯者にしたAの親の思いやり、心遣いを理解し、感謝することはあっても、直接傷つくことはないと思います。うそも方便です。うそも使い方によっては許されます。 このほかにも方法はあるでしょうが、ようするに人間関係において、事実をいつもそのまま伝えるのではなく、相手を生かすことは大きく、相手を苦しめるようなことはできるだけ小さく、そのように配慮することが必要になる場合もあるのではないかと思われます。
2025/10/24
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「企業の経営理念」企業にはたいていその会社の経営をやっていく上での基本的考え方や経営方針、経営哲学を表わした「経営理念」といったものがあります。国でいえば憲法がこれに近いかもしれません。経営理念をみれば、たいてい会社の経営者や創業者の考え方が分かります。 経営理念のなかには、各個人の生活信条や人生哲学として参考になるものもたくさんあるようです。各個人が生きていく上で精神的バックボ-ンともいうべき生活信条(人生哲学)を持つことは非常に大切です。 以前、某会社のホームページを見ていたら次のような立派な経営理念が目にとまりましたので紹介いたします。 某会社の「経営理念」: 「人生の最高の理念は社会奉仕なり」 具体的な心の実践例として次の項目があげられています。 日常の五心:心の具体的実践例: 「はい」という、素直な心 「ありがとう」という、感謝の心 「おかげさま」という、謙虚な心 「私がします」という、奉仕の心 「すみません」という、反省の心 これは個人の日常生活にとっても大切な心掛けです。素直な心、感謝の心、謙虚な心、奉仕の心、反省の心があれば、人間関係はよくなり、むしろ、人格者として尊敬される人物になっていくでしょう。企業も人も発展の道はこのへんにあるのかもしれません。 別の社訓の例として、自分が以前勤めていた会社の経営理念を紹介します。自分はその会社に40才の時転職したのですが、その会社を選んだ理由の一つがこの社訓とこれを作った会長の人柄にほれ込んだためでした。この社訓は、人はどう生きていくべきかをもきわめて簡潔に表現しています。洞察力に富んだ言葉です。 社訓: 1.私は、仕事を通じて社会に貢献します。 2.私は、仕事を通じて自己の完成に努めます。
2025/10/18
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「仕事の効率と優しさ」優しいと人間関係が良好になります。優しい人に反発してくる人はあまりいないでしょう。優しい人に接していると何となくくつろいだ気持ちになります。そして心配ごとや悩みを相談したくなります。 またこの優しさは、仕事の面で言えば、仕事の効率化や能率アップに繋がります。 たとえば、報告書を作成する場合には、誰が読んでもよく分かる、分かりやすい報告書を作成するようになります。また内容だけでなく文字も読みやすいように丁寧に、また大きめに書くかもしれません。分かりづらいと読むのに時間がかかります。それだけ多くの時間を他人から奪っていることになります。優しい人はおのずと分かりやすい報告書を作成するようになるでしょう。 また、取引先や関係者に迷惑をかけてはいけないという意識があるため、必然的にムダ、ムリ、ムラな仕事をしなくなります。従って、これは仕事の効率化、能率アップに繋がります。 製造業などの生産ラインでは「後工程はお客様」という考え方があります。後工程の作業がスムーズにいくように、その前の工程でちゃんとしたものを作るということです。これが結果的に作業能率をアップし、低コストでの製作を可能にします。 後工程はお客様という考え方の根底にあるのは仕事上における誠実さ、優しさでしょう。 結局は企業全体でみれば、低コストで製造、製作したことになります。
2025/10/11
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学校の学力や成績がよかったからといって社会へ出て必ずしも成功するとはかぎらないようです。 社会へ出てから成功するには学力以外に、「人間としての信用や信頼感がある、考え方が明るい、積極的で建設的である、陰で悪いことをしない、約束は守る、人のためになることをする、人に対して優しい、寛容である、人間関係が良い、忍耐強い、無私である」等が重要な成功要因になっているようです。 これらは持って生まれた性格的部分もありそうですが、教育や努力次第で改善していく余地は充分にあります。 こうしたことは、今の学校教育では十分には教えられないので、家庭における、特に幼いうちからの教育、しつけが大切です。 いくら頭がよくても性格が悪ければ何にもなりません。 悪いことを考え世の中に害を流すだけです。腹黒いことを何時も考えているような人は信用されません。 そういう人には協力したくなくなります。 学生時代はいくら成績が良くても、考え方が暗く、消極的な人生をその後もずっと続けていれば、人生は開けてこないでしょう。今の学校教育では、人生において成功要因となるような重要なことをあまり教えていません。知識教育に偏っています。従って家庭教育が大切です。家庭でこうした重要なことを教えなかったら、一体誰が教えてくれるでしょうか。教育はまず家庭から始まります。家庭は教育のスタート点でもあります。教育の原点は家庭にあると思います。
2025/10/03
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「お金の使い方で分かる人物」 たいていの人がお金は欲しいと思っているでしょう。自分もそうです。多ければ多いほどよいと思っているのが正直なところです。 ただ、ある人が言っています。「人の値打ちは持っている金銭の多寡ではなく、それをどう使うかによって決まる。」なるほどと思いました。 たとえば、生活に困らないぐらいのお金があったとして、ある人は、ギャンブルに使い、ある人は子供の教育費に重点投資し、また、ある人は資格をとるための将来の先行投資として使う。 ある人はどこか慈善団体に寄付をする。ある人は、それを元手に企業を起す。ある人は、宝飾類を買い集める、旅行する、車を買い換える、趣味に使う、将来に備えて一定の割合を貯蓄する。宝くじを買う。資産を増やすために株式に投資する。 個人的にみれば、その時々の心境、必要性に応じて千差万別ですが、人によってある程度の傾向性はあるのではないかと思います。 使い方を、1つのグループは、「目先のことに使ってしまう。単なる享楽のために使ってしまう。ムダ遣いをする。」、もう1つのグループは、「長期的観点から考えて使用する。ムダ遣いをしない。自分を向上させることに使う。人のためになることに使う。」というように2つのグループに分けた場合、どちらがよいかは明白です。 他人を見てどちらの使い方をしている人が偉いなと思える方がよい使い方です。 だれでも、どちらか一方に完全に偏ることはないと思われますが、できるだけよいグループの方へ偏るようにしたいものです。 ある人が言っています。「お金、家、土地、宝石類などのこの世的財産は、あの世に持っていけないが、心の財産は持っていける。」 そういうことであれば、たとえ貧しくとも心だけは貧しくなってはいけない。心の財産の億万長者になることを肝に銘じたいと思います。
2025/09/27
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「人間の本源的欲求」 D・カーネギーはその世界的名著「人を動かす」の中で人間の根強い欲求として、「自己の重要感に対する欲求」をあげています。 換言するならば「他人に認められたい、評価されたい、誉められたい、有名になりたいという欲求」です。 名誉欲、出世欲などもこれに含まれるでしょう。この欲求は個人の成長の源泉ともなっています。これがあるからこそ社会も発展するのです。 この欲求を満足させるには、積極的に人のためになることをしなければなりません。 なぜなら、自分のことしかしなければ、決して他人に認められて評価されることはないからです。 他人のためになることをすれば他人が喜び、自分を評価してくれるようになり、これは取りも直さず自分の本源的とも云える欲求を満たすことにもなるというわけです。 換言するならば、自分が最高の幸福感を味わいたければ、自分のことではなく、他人のためになることをしなければならないということです。 ここに一種のパラッドクス(逆説)が成立します。 格言を1つ: 「人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しだ」 By 中村天風
2025/09/18
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「外国語の発想」 現代は世界中がインターネットで結ばれています。さまざま言語が使用されています。特に英語は世界共通語といっても過言ではなさそうです。 インターネットを通じてコミュニケートする機会が増えてまいりました。 しかし単に外国語をコミュニケートの手段としてのみ学ぶのはもったいないような気もします。複眼の視点を養うには外国語の学習も効果的なものの1つです。 言葉は文化です。言葉にはその国の文化が反映されています。外国語は異なる文化的背景を持っています。言葉はそもそも、その国や地域で共有できるように成立したものですから、その言葉がそこに住む民族の文化を反映しているのは当然です。 従って表現する内容は同じでも、発想や表現方法が異なっています。これを学ぶことにより複眼の視点すなわち多様な価値観を身に付けることができます。 例えば、励まし方の違いの例をあげてみます。英語圏の人なら、試験や試合を間近かに控えている人に対して、Don’t work too hard! などとよく言います。この直訳は「あまり無理するなよ」、「頑張りすぎるなよ」です。日本人なら、この場合、普通「頑張れよ」などと言います。英語圏の人は相手の緊張を解いてやろうとし、一方日本人は相手のさらなる奮起を促そうとします。このように励まし方にも発想の違いがあります。発想の違いを学ぶことにより、相互理解が深まり、相手をよく理解できるようになります。また、よく日本は縦社会、欧米は横社会といわれます。一般に日本は歴史的に農耕社会であり、また日本神道系などの影響により、調和や秩序や礼儀が重んじられます。従って日本は年長者や目上の人が敬われる縦社会となっています。一般に単純再生産の農耕社会では年配者ほど知識や経験や知恵が豊富だという考えが主流になると思われます。これに対して欧米では年齢はさほどには重視されません。年齢よりも実際の能力や経験が重視されます。いわゆる実力主義です。欧米は歴史的に狩猟民族であり、また隣国と国境を接しているため、常に他国からの侵入の脅威にさらされています。もし能力や実力のない者をリーダーにすれば、その集団や部族は危険にさらされることになります。従って年齢に関係なく、実際に獲物を捕まえたり、他国の侵入を防ぐことのできる能力、経験が重視されます。こうした社会は年齢による上下関係はそれほど強くなく、むしろ横のつながりが強い横社会となっています。ここが日本人と発想が異なる点です。
2025/09/08
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「誰のために生きる」多くの人が、「あの世は存在するのだろうか」という疑問を持ったりしたことがおありでしょう。そのような疑問を持ちながら、明確な答えが得られないままに生きているのが現状ではないでしょうか。あるアンケート調査では、「死後の世界はあるか」に対して「ある」または「あると思いたい」と答えた人は全体の6割に上ったという報告があります。男女別では女性の方が「ある」と答えた人が多かったそうです。もちろんアンケートの対象となる人たちの選別法や質問のし方によってはその割合は変化するでしょう。しかし答えは2つのうちのどちらか一つだけです。あるかないかだけです。ある場合もあるし、ない場合もあるというような中途半端はありません。では、誰もその存在を証明したことのないあの世についてはどのように考えたら良いのでしょうか。生きるということには、この世だけではなく、あの世の観点も含めて考えた方がより真実に迫ることができるかもしれません。この世だけとしたら付加価値人生を生きて何になるのだという考え方もあります。どうせ一度きりの人生だ、自分の思うままに楽に暮らせばよいではないかという考えもあるでしょう。もっともなことと思われます。しかし、例えば、他の人がつくったり、創意工夫したものを自分のためだけに使ったり、消費する人ばかりになってしまうとどのような世の中になるか想像に難くありません。誰も生産的なことをしなくなった社会は進歩、発展はなく、確実に衰退していきます。ついには消費するお金すらなくなってしまいます。その結果、他国から借金をし、ついには他国に隷従させられ、屈辱を味わうようなことになるかもしれません。また、自分のためだけに生きている人を見たら、心情的にそういう人にはあまり協力したくないものです。そういう人とはできれば付き合おうとは思いません。しかし、自分のためだけではなく、無私なる気持ちで人のために生きている人を見ると何か協力したくなります。実際に協力者が出てくる可能性も高くなります。従って、この世で成功する確率も高くなります。それは、何かしら名を残すことにもなります。つまり人のために生きるとうことは、結局はこの世で成功し、自分のために生きるということになります。逆に自分のためだけに生きれば、人が敬遠し、世の中がそういう人たちばかりになると、社会は衰退していくことになります。
2025/08/17
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「増えつづける資源とは」常識的には経済が発展すれば、石油、石炭、鉄鉱石、木材、天然ガス・・・・等の資源は利用されて減っていきます。しかしこれら資源の中で逆に増加しているものがあります。一体何でしょうか? 答えは、「時間」と「情報」です。情報の方はインターネットの時代となり情報が氾濫しているので、なるほどとうなずけるでしょう。それでは、時間の方は1日皆等しく24時間ですが、どういうことでしょうか。時間が増えたということは次のような点においてです。(1) 日本人の平均寿命が延びたこと。今や世界の国々(特別区である香港を除く)で日本人女性の平均寿命は世界第一、男性も世界で二位にいます(2020年度)。(2) 技術の進歩により、密度の濃い生活を送っていること。つまり時間当たりにできることが増えたこと。(3) ほとんどの企業や官公庁で週休二日制となっていること。その結果、自分の自由にできる時間が増えたこと。このふくれあがった時間を、いかに有効に活用するかは、自分次第となっています。つまり、情報が価値を生むようになったのと同時に、時間も価値を生む時代になったのです。「時は金なり」ということわざがありますが、ある意味では時はお金以上のものだといえるかもしれません。お金の使い方も大事ですが、時間の使い方も大事です。いやお金以上に大切かもしれません。むだなことに時間を費やしたくないものです。時間を自分の成長のための投資、あるいはできることなら、人のためになるようなことに使いたいものです。学生であれば、勉強を一生懸命にやれば、自分の成長になるし、社会人となって、その知識を生かして仕事を一生懸命にやれば、自分が成功するとともに、その仕事を通じて社会に貢献することができます。そうすれば、人から認められるようになります。これはなにものにも替えがたい喜びとなるでしょう。格言を1つ:人生は学校である。そこでは幸福より不幸の方が良い教師である。 Byフリーチェ
2025/07/16
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「憲法改正の是非について」憲法改正の是非について考えてみたいと思います。有史以来、部族と部族の争い、国と国の争いといった戦争が、何度も繰り返されてきました。現代でも地域紛争や戦争が絶えません。しかし、平和主義者のように、平和だけ唱えていれば平和がくる、というわけでもないように思います。平和がいいのは分かりきったことです。日本の近くでは、中国が異常なまでに高い軍備拡張を長年続けており、これが意味するところは火を見るより明らかです。日本国憲法は、第9条で戦争放棄をうたった、世界にも類をみない模範的な憲法です。しかし、あまりに時代を先取りしていて、現実的でないと思います。これが成り立つ前提条件は、周りが侵略戦争などしない善良な国ばかりの場合です。この場合は軍隊を持つ必要も、戦争をする必要もないでしょう。ただし、現状は、周りに野心的な国があるため、そうはいきません。平和だけ唱えていて、自衛が充分でなかったら、他国が攻めて来た時にどうするつもりでしょうか。その時に、どうぞ好きにしてくださいと言って、国土が踏みにじられるままにしておいて、国が滅びてしまってもいいのでしょうか。日本においても、朝鮮半島問題や、中国と台湾問題といった東アジア情勢を見る限り、その可能性がないとはいえません。中国に侵略されたチベット自治区やウイグル自治区、内モンゴル自治区等を見ればわかります。言論の自由はありません。情報も統制されています。思想的に反対側に立つ人たちの多くが監禁、粛清されています。日本が攻められれば同じようになる可能性があります。中国語の使用を強制され、日本語の使用が禁止されるかもしれません。人種差別を受け奴隷に近い扱いをされるかもしれません。思想的に反対の知識人、学者、市民、友人、知人たちが大勢監禁、粛清されるかもしれません。ここで日本国憲法の改正の是非について考えてみたいと思います。自衛のための戦争の是非については、歴代の政府により現行憲法の解釈が変遷しておりますが、現在のところ、限定的な自衛権にとどまっているようです。現実的な問題として、自衛権が十分でない(自衛の最後の手段である武力行使(戦争)を認めない)と、現行の憲法が保証する生命、財産を守れなくなります。これは現行憲法自身がその中に矛盾を含んでいることになります。つまり、現行憲法が不備だということになります。正当な自衛権というのは、憲法の有無にかかわらず、各国が憲法以前にすでに生来保有している権利です。憲法の解釈で自衛権が限定的になるというのは、これは憲法が欠陥憲法であるからといえるのではないでしょうか。いつも不思議に思うのは、憲法学者といわれる人たちが現行憲法の解釈論ばかりを述べて、現行憲法自体が現在の国内外の情勢にふさわしいものであるかどうかを議論するのを聞いたことがないことです。国内情勢は刻々と変化しております。憲法も現状に合うように変更する必要があります。世界各国の現行憲法で改正されていない憲法として一番古いのは日本国憲法だともいわれています。 現行の憲法が不備だらけの大きな理由の一つは、この憲法が、戦後、アメリカの進駐軍の専門家でもない人たちが日本を弱体化し無力化するために1週間ほどで起草したものに若干の修正を加えて、翻訳してできたものだからです。従って、憲法上の不備は他にもあるかもしれませんが、現在、重要なのは国家存亡にかかわる国防のところです。左翼勢力が、現行の憲法を平和憲法として執拗なまでにその改正に反対していますが、その隠された理由は、日本の弱体化であるということを知るべきでしょう。これを一番喜ぶのは中国であることを知るべきでしょう。戦後80年が経過し、周りの国際情勢も大きく変化し、中国や北朝鮮などの近隣諸国にも着々と軍備拡張に余念がない野心的な国が現れました。現行の憲法も現状に対応しきれなくなっています。現代を生きている我々日本人とその子孫のために、現行の即席・翻訳憲法は早急に改正すべきだと思います。もちろん、これと並行して軍備増強も必要でしょう。手遅れになる前に!
2025/06/28
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「怒り」 今までに怒ったことのない人 は、程度の差はあれ、ほとんどいないでしょう。 大抵は感情的になって怒る場合がほとんどだと思います。相手が身内の場合には、遠慮することがあまりなくて、ストレートに感情が出やすくなります。お互いに言葉のバトル(闘い)が始まります。ひどい場合には暴力を振るう場合もあります。職場などでは、他人の目もあり、ブレーキがかかって、口に出して相手をののしったり、取っ組み合いの喧嘩になったりすることはあまりないにしても、心の中では怒っています。車を運転していて、後ろの車からクラクションを何度か続けて鳴らされると、なぜかカッとなる経験をされた人も多かろうと思います。怒りにも大きく分けると2つのタイプがありそうです。1つは私的怒りです。 上に述べたような個人に立脚した感情的な怒りです。 もう1つは公的な怒りです。つまり公のためを思っての怒りです。例えば、正義のための怒り(義憤)、無私なる怒りなどです。人を教え導くための怒りなどもこれに含めていいかもしれません。このように怒りにも違いがあるようです。自分が怒っているとき、今自分はどの怒りを発しているのか、思ってみるのもいいかもしれません。ただ感情的になっているだけなのか、それとも、人のため、公のためを思って怒っているのか、客観的に見てみると自分の人格のレベルを知るのに役立つかもしれません。できれば公的な怒りの比重を増やしていきたいものです。
2025/06/21
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「二とおりの愛」男女間の本能的な愛は別として、ここでは一般的な愛について考えてみます。この愛の発揮のしかたという切り口からみると、「優しい愛」と「厳しい愛」の2種類がありそうです。いや、現実にあります。これはどのように考えたらよいのでしょうか。これは自分の子供を育てるときのことを考えてみれば、分かりやすいと思います。赤ん坊が泣けば、親は、ミルクをやったり、抱っこしたり、オムツをかえたり、あやしたり、といろいろ世話をやきます。これは親が赤ん坊に対して優しい愛を発揮している状態です。余談ですが、赤ん坊は、人間に限らず、動物も一般的にかわいいものです。これはなぜでしょうか? 不思議に思ったことはありませんか。これは、赤ん坊は自分では何も出来ないからです。つまり、何もできないから、世話をしてもらうためには、せめてかわいくなければならないからそうなっているのだと思われます。それも非常にかわいらしく! ここに巧妙な神しくみといったものが感じられます。次に子供が3、4歳頃になると、優しい愛だけではだめでしょう。これは度が過ぎると甘やかしとなって、結果としてわがままな子になってしまいます。この時期には、ある程度厳しい愛も必要となります。いわゆる躾です。していいことと、悪いことの区別、善悪の区別を教える必要があります。子供の将来のことを考えるなら、心を鬼にして、厳しい愛を発揮しなければならない場合もでてきます。ただ基本的には優しい愛をベースとした方が良いでしょう。厳しい愛が主体となると、子供が萎縮してしまい、のびのびと成長しなくなり、性格的にいびつになり、またかげに隠れてこそこそするようになるのではないかと思われます。学校などの野球やサッカーといったクラブ活動でも、優しい愛がベースですが、コーチや監督が優しい、甘いだけの指導だけをしておれば、強いチームにはならないでしょう。やはり将来、地方大会や、全国大会にでるようになるには、それなりの厳しさが必要です。この練習に耐えてこそ、忍耐力がつき、技量が向上して成長の喜びが味わえます。ただ感情的に怒るだけの厳しさであってはいけません。厳しさの根底には常に、選手やチームの成長を願う愛がなければなりません。学校の教師も職場の上司も、時として厳しい指導をしなければ、生徒も、部下もなかなかうまい具合に育ちません。一般に、優しさ厳しさのブレンドの仕方は、やはり優しさが主で、厳しさは従の方がよいと思われます。また、厳しい愛は、目上の者から目下の者へ向かう愛ですが、優しい愛の方は、上下関係にかかわりなく注がれる愛といえるでしょう。
2025/06/14
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「否定の否定は肯定か」この意味するところは、あることがらを一旦否定していて、いや違う、そうではないと再び否定すれば、それは肯定したことになるのかということです。常識的に考えれば、否定の否定は肯定になりそうですが、結論は「否定の否定は確かに肯定だが、単なる肯定とは違う」ということです。どう違うのか以下に説明していきます。たとえば、Aさんという人が、いつも要領が悪くて仕事を仕上げるのに時間がかかっているため、職場の同僚にあいつは仕事のできない奴だと否定されているとします。「しかし彼のことをよく考えてみれば、彼は確かに仕事は遅いが、非常に几帳面で、何にでも細心の注意を払い、丁寧でミスがほとんどない、また人が嫌がる仕事も率先して行う。要領が悪いのは几帳面さが多少過ぎるからだろう。これは直そうと思えば簡単に直せることだ。彼の全般を評して言うならば、彼は決して仕事のできない奴ではない」。このように否定の否定の経過をたどって彼は肯定されたことになります。次の例をあげてみます。Bさんという受験生が志望校の大学受験に失敗し、自分はもうだめだ、自分の人生はもう終りだと自分の人生を否定していたとします。しかしここでBさんは思い直しました。「いやまてよ、志望校に受からなかった人は自分だけではないぞ、日本全体でみればたくさんいるはずだ。過去にもたくさんいたはずだ。この人たちはどうしたのだろう。よく考えてみれば、選択肢はたくさんあるようだ。あきらめずに再度チャレンジするか、志望校を変えるか、専攻科目(法律、経済、文学、理学、工学等)を変えるか、あるいは別の道を進むか、例えば、音楽、美術、スポーツ等いろいろあるはずだ。自分は何に向いているのか、これを機会によく考えてみよう。選択肢がたくさんあるということは自分の人生もまんざらすてたものではない」と、Bさんは自分の人生を否定し、さらにそれを否定することによって結局自分の人生を肯定しました。このBさんの否定の否定の例は、結局は積極思考、プラス思考と呼ばれているものと同じです。挫折や苦難に遭遇した場合に、人は、普通は自分はだめだと落ち込み(否定)ますが、プラス思考(否定の否定)により挫折や苦難を克服していきます。上の2つの例から分かることは、2回目の否定をするプロセスには、深く考えたり、多方面から考えたりといったような深い洞察を伴っています。一種の悟りに近いのかもしれません。「否定の否定」には深い洞察や悟りを伴っています。また「否定の否定」をしようとするその動機のところにはプラス思考があります。これは今後の成長や発展の可能性の種となります。こうしたことが「否定の否定は単なる肯定ではない」といわれるゆえんです。
2025/06/01
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「学生時代の勉強」「進歩」と「調和」は宇宙の2大原理であるといわれています。この大宇宙、地球、国家、社会、企業、個人のすべては周りと調和を保ちつつ成長発展(進歩)するという方向を目指しています。すべてはこの原理のもとにあります。個人のレベルにおいて成長、発展(進歩)し、人を理解し他人と調和していくにはたゆまざる日々の学習が大切です。なぜなら学習することにより、考えるもととなる知識を手に入れることができるからです。それに経験が加わると智恵となります。その智恵により自分を救い、小さいながらも自分のできる範囲で他人を救い、世の中を救うことができます。それは自分の喜びともなります。人から感謝されればうれしいでしょう。人のお役に立っているという実感は何ものにも替えがたい喜びです。自分のためにも、人のためにもなることをするには、道具が必要です。その道具のもととなるのが、学生時代の勉強です。学生時代には砂地に水が染み込む如く知識を吸収することができます。それは頭が柔軟であるからです。大人の4~5倍の吸収力があります。今のうちです。大人になってからでは遅すぎます。日々の学習が大切です。学生時代は勉強の時間はたっぷりあります。大人になってから、学生時代に十分に勉強していなかったことを後悔する人の何と多いことか。「克己心」という言葉があります。日々の学習を続けていくには、この上ない忍耐が要求されます。人は時として怠慢となることがあります。その時にはこの言葉を思い起こし、勇気の言葉としてください。己の弱さに打ち克て(克己心)!
2025/05/24
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「第三の視点」「物事は両面からみる。それでは平凡な答えが出るにすぎず、智恵は沸いてこない。 いまひとつ、とんでもない角度― つまり天の一角から見下ろすか、どちらかして みれば問題はずいぶんかわってくる。いろんな角度から見てみる。 鳥瞰的に見てみると真実にせまることができる。」 (司馬遼太朗、「第三の視点」 夏草の賦より)これを別の言い方で述べてみます。「同じ土俵で相撲をとればなかなか勝負がつかない」ということがよく言われますが、これは同程度のレベルや能力(認識力)を持ったもの同士の議論ではなかなか結論が出ない、というようなことです。あるいは言い争いなどでも、いっこうに決着がつかないということです。高い認識力を持った人であれば問題はいっぺんに解決するのに、そうでない者同士がいや自分こそが正しいと言い張ってらちがあかないような状態です。あるいは悩み事でもそうです。ある人がああでもない、こうでもないと何年も悩むことを、その人よりも認識力の高い人であれば、いっぺんに解決してしまうことがあります。例えば、小学生の悩みを聞いて大抵の大人は小学生よりはいとも簡単にアドバイスを与えたり解決することができるでしょう。これは小学生と大人の認識力の高さに差があるからです。また、大人は小学生と本気で議論するようなことはないでしょう。これも認識力の高さに差があるからです。できればこの認識力を高めていく努力をしていきたいものです。認識力が高ければ、悩み事や、他人事とのトラブルにあまり時間をとられないために、効率のよい人生をおくることができます。ではこの認識力はどうすれば獲得できるのでしょうか。小学生よりは大人の方が認識力が高いのは、それだけ知識や経験あるいはそれから得られる知恵が多いからです。やはり大人になってからも向上心を忘れずに、すべてから学んでいこうとすることでしょう。良書を読んで学ぶ、人を観察して人間というものを学ぶ、今自分が逆境にあれば、その中から教訓を学ぶ、自分の関心領域を広げるといろいろあります。認識力とは一種の悟りといわれるものに近いのかもしれません。
2025/04/24
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「ユーモアは潤滑油」笑いの効用にはいろいろとあるでしょうが、とにかく笑うと緊張した筋肉がほぐれリラックスするのは誰でも経験することです。自分だけでなくまわりも明るくします。緊張した他人もこのユーモアを聞いてリラックスします。笑うことにより萎縮していた心が解放され、どんどん発想が出てくることも珍しくありません。緊張した雰囲気が漂う大勢の会議の場などで意見がなかなか出ないような時に、誰かがジョークを言うといっぺんに緊張した場が和んで、その後会議が活発に行われるというケースが多々あります。交渉の席上でのジョークにより、緊張や敵意が解消しその後の展開がうまくいくこともあります。ユーモアをふりまくとまわりを明るくします。ユーモアとは他人を笑わせることであり、緊張を解きほぐし、勇気づけることであるともいえるかもしれません。ユーモアは人のためになります。こういう意味で、ユーモア感覚を身に付け、常日頃ユーモアをふりまいている人は、付加価値人生を生きているといえるかもしれません。ユーモアを言っている人のまわりには人が寄ってきます。ユーモアを言う人を避ける人は珍しいかもしれません。これは笑顔の人を避ける人はいないのと同じことです。また、ユーモアは人間関係を長続きさせる潤滑油となります。私たちは笑いを通して共に生きていることを実感できます。友情も笑いを通じて深まり、笑いによって維持されます。友好関係が愉快なひと時や笑いをきっかけに生まれる場合もあります。欧米などの多くの国では、ユーモアがコミュニケーションをよくするものとして位置付けられています。欧米などでは、大勢の人たちの前での公式のスピーチで、冒頭にジョークをとばす場面をよくみかけます。これは聴き手の関心を引き付け、場を和ませて、これからしゃべるスピーチを聴く態勢を整えさせるためです。内容がいくらよくても、聴いてもらえなければ意味がありません。アメリカでは大統領の就任演説ですらジョークで始まります。また、笑いも医学的にみて病気の治療や予防によいということがいわれるようになってきました。「笑いに勝る良薬なし」ともいわれています。薬を使わずに笑いで病気を治すという考え方は、まだ一般によく知られていませんが、笑いの医学的効用に関する知見も、近年、よく発表されるようになってきました。筑波大学名誉教授の村上和夫氏の調査結果にとると、糖尿病患者に吉本興業のお笑いを聞かせたところ、その前後では血糖値が50ミリグラムも下がったそうです。同氏はまた、「いつもいいことを考えている人は、いい遺伝子が活性化されて、いいホルモンが出て、体全体の調子がよくなる。悪いことばかり考えている人は、悪い遺伝子が活性化されて、悪いホルモンが作られて、どんどん体の調子も悪くなる」と述べています。このことからも、よく笑うということは、心が明るく、よい心の状態のことであるから、体の調子がよくなって病気の予防にもなることが推察できます。
2025/04/20
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「ある人物をひとに観察させるとき、よほどの器量の者に見せなければ印象を誤る」(夏草の賦、文庫本上、司馬遼太朗著より)これはどういうことかというと、蟻が像の全体を見ることができないように、普通の人では、大人物は大きすぎて見えないというようなことです。つまり、心の内面で考えていることとか志し等が高尚すぎて、凡人では慮ることができないというようなことです。凡人はその大人物を自分のレベルで浅くしか見ることができず、本当の姿というものを知ることができないから、その大人物の人物評を誤りやすいということです。同じ行為をしていても、例えば寄付をしているときに、行為は同じでも、その動機のところが問われます。寄付を売名行為の手段にしている場合と、純粋に本当に役立てて欲しいという気持ちで寄付をする場合とでは、大きな違いがあります。一般に、寄付をする人の動機まで見抜くのには難しい面もあります。ただ、大人物の場合は、認識力が高く、物事や人物がよく見えるので、寄付をする人とちょっと話しただけで、その人の動機まで見抜くことはたやすいかもしれません。会社の入社面接試験でも、人事部の採用担当者が不採用にした受験者が他の会社で採用され、将来その会社の社長になったという例を聞いたことがあります。一般に人事部の人は自分の部下にしたいぐらいの人を採用する傾向にあるらしいです。その人事部の採用担当者は将来大成するような人を見抜くだけの力がなかったのでしょう。本の偉人伝なども同じようなことがいえます。偉人伝の中の偉人とその作者とでは、通常偉人の方が、大人物であり、認識力が高く、物事がよく見えます。したがって、作者はその偉人の全体像をつかみきらずに、十分には表現できないでしょう。誤解する場合もあるかもしれません。目に見える行為については書くことができても、どういう思いでその行為をしたかまでは想像でしか書くことができません。私たちは、大人物や偉人にはなかなかなれないでしょうが、近づくことはできます。そのためによこしまな考えや、自己中心的な考えを捨て、認識力を高めていく努力をしていきたいものです。
2025/03/15
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仕事などで忙しい毎日をおくっていて、休日などに自然の中で活動すると、リフレッシュできるようです。また、スポーツをした後にも、気分爽快となって調子がよくなる経験は誰でもしたことがあるでしょう。これはなぜでしょうか? あくまで推測の域を出ませんが、本来、人間が持っている、動物的本能が刺激されるためではないかと思います。現代の都市生活では本来の本能があまり刺激されないので、一種のストレスとなっていて、これが解放されるからだと考えられます。現代のように科学文明の発達した都市生活では、日頃、眠っている動物的本能がこうした活動により目覚めるためではないかと思われます。特に危機意識とか闘争心が目覚めるからではないかと思います。この危機意識とか闘争心は動物において顕著に見られるものです。大昔、人間は獲物をとるために野山を駆け回っていました。また他の部落との争いも絶えなかったことでしょう。このため昔の人は現代人に比べたら闘争心や危機意識は高かったことと思われます。現代人の生活では、食うか食われるかといった危険性はほとんどないため、本来、備わっている闘争心や危機意識といった本能が十分に発揮されていません。海に潜ったり、山登りしたり、スポーツしたりすれば本来の本能を刺激するために、心身ともにリフレッシュすることになるのではないでしょうか。都市生活や仕事では人間全体の機能からみれば一部の機能しか使っていないのかもしれません。例えば、職業では専門分化が進んで、毎日、同じ機能しか使っていないことが多いのではないでしょうか。事務職ではデスクワークが多く、ほとんど1日中パソコンのキーボードをたたいているかもしれません。また研究室のある人は毎日試験管相手に仕事をしています。またある人は小説を書いたり、作曲をしたりしています。またある人は建築工事に携わっています。体を使わない事務職と工事現場など肉体労働に大きく分けられるでしょう。どちらかに偏っている場合が多いのではないでしょうか。体をあまり使わない事務職の人は、たとえば休日にはスポーツ、散歩、サイクリング等でできるだけ体を動かしたほうがよいでしょう。逆に仕事の大半が体を使う人の場合には、休日には読書等で頭を刺激すればストレスをためることなく、心身のバランスのとれた生活が送れるでしょう。こうしたことを踏まえて、意識的にリフレッシュして心身のバランスをとることが重要だと思います。ただ、人とのけんかや夫婦げんかなどでのストレス解消はいただけません。
2025/03/09
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大文字屋は「相場師の目は、片方が近眼で片一方が遠眼やないといけまへん」と、まずいった。大文字屋のいうところの意味は、十年先の世の中がどうなるかという巨視的な観測と、きょうあすの相場はどう動くという手近な観測の二つが必要であるということである。(司馬遼太郎「俄」より) これは、現代風の言い方に換えれば、長期的視点と短期的視点で物事を見る、あるいは考えるということに該当するでしょう。 国家、企業、個人の各レベルにおいて、この二つの視点は大切です。たとえば、自分の人生を考えるとき、今日、明日、あるいはここ1年ぐらいは何をすべきか、どう生きていくかということを考える短期的な視点と、10年先、20年先、30年先をどう生きていくべきかを考える長期的視点が必要です。その際に重要となるのはその順序です。まず長期的視点に立って将来の自分のあるべき姿を考え、次に、では、将来その姿を実現するためには、今現在何を何時までにどうしなければならないかを短期的視点に立ってちょうど糸をたぐり寄せるようにして考えます。 将来の姿を明確にすることにより、今すべきことが明らかとなります。そうすれば、つまらないことに足をとられたり、回り道したりすることなく、効率よくむだのない人生をおくることができるようになるでしょう。 これは、まず将来の大目標を立て、次に、それに行き着くまでの中目標、小目標を立てることと同様なことです。企業も長期経営計画、中期経営計画、年次計画を立てたりします。この場合もまず長期経営計画があって、これをベースに中期経営計画や年次計画が策定されます。長期、短期の視点は時間的視点といえましょうか。 視点としてはこの他に空間的視点としての、マクロの視点とミクロの視点というものがあります。 この他にも、立場を換えて見る、相手の立場に立って考えるといういうようなことです。例えば、喧嘩を成敗するときは両方の言い分を聞いてみるというようなことです。あるいは外国からあらためて日本を見て見るというようなことです。 このような複眼の視点を持てばものごとがよく見えるようになります。ものごとの本質に迫ることができるようになります。真実が分かるようになります。
2025/01/27
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人間が行動するときの基準について考えてみたいと思います。言葉を変えれば、行動するときの動機は何かということです。作家の司馬遼太郎氏は「人間が行動する基準というのは、損か得かという利害と、それから正義か不正義かという二通りがある」(日本史探訪P.108、109、司馬遼太朗)と述べています。この他に利害を超えた、命も惜しくないという「意気に感ず」というものもあるようです。つまりある人物にほれ込んで、この人のためなら自分の命をも預けてもよいと言うようなことでしょう。もっとも現代社会では命まで捧げるというようなことはあまりないでしょう。しかしこれに近いようなこととしては、職場の上司の人間性にほれ込んで、上司のために損得抜きで一生懸命に働くというようなことはあるようです。上に述べた人間の行動基準(動機)を参考にすれば、人を動かしたり、説得したり、あるいは働いてもらうときに教訓となるものは何でしょうか。それは人は理屈だけでは動かない場合があるということです。人間は感情の動物でもありますので、感動したり、意気に感じたりと情の部分に訴えるものがあれば、損だと分かっていても、そのように行動する場合があります。だから、他人をいつもいつも理詰めで説得しようとしていないか反省してみることも必要ではないかと思います。
2024/12/15
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一般に事実と真実は違います。例えば、ここに1台の車があるとします。この車がどういう形状をした車であるかその全体像を表現するには、正面図、側面図、平面図といったいろんな角度から見た図面を作成しなければなりません。車は1台なのに違った図面が何枚も要るわけです。この各図面がそれぞれの角度から見た車体の形状を示す事実に相当します。そして各図面を合計したものが車体の全体像を示す真実に相当します。事実を集めることにより真実が浮かび上がってきます。真実を知ろうと思えば、多様な見方をしなければなかなか真実の姿にせまることができないということです。Aという人と、Bという人が喧嘩をしてその仲裁をする場合、両方の言い分を聞いてみないとなかなか本当の喧嘩の原因(真実)は分かりません。片方だけ聞いた場合には正しい判断ができないし、また公平でもありません。裁判などでも、裁判官は弁護側と検察側の両方の言い分を聞いて判決を下します。また、日本のことが知りたければ、外国へ行けともよく言われますが、これも立場を変えて客観的に見るようになるからより真実に近い日本の姿が見えるようになるのでしょう。服装なども外見だけで人を判断すると判断を誤る場合があります。確かに服装はその人間の内面を反映しているのでしょうが、100%ではありません。だらしない服装や奇抜な服装は別として、普通の格好をしているのであれば、その人の真の姿は、実際に話したり、日頃の行いを観察してみないとなかなか分からないものです。人のために生きるには人が理解できなければなりません。多様な見方ができれば、相手がよく理解できて、寛容になり、少々のことがあっても許せるようになるでしょう。これはまた自分自身が大きく成長していく道でもあります。それでは複眼の視点で物事を見る方法論としてはどのようなものがあるでしょうか。方法論として次のような3点があげられると思います。(1) 意識的に立場を変えて見るようにすること。例えば、相手の立場や第三者の立場に立って考えて み ること。(2) マクロとミクロの空間的視点で見てみること。(3) 短期と長期の時間的視点で見てみること。注意点としては、行き過ぎた欲は持たないことです。欲の深い人は、欲のためによく働きますが、欲にとらわれて物事をありのままに見ることができなくなり、ついには身を滅ぼすことになりかねません。最後の注意点として、ある1つの事実だけを見て、早とちりや思い込みにより真相(真実)を誤解する例を述べます。自分の恋人の男性が、街中で他の若い女性と一緒に並んで歩いているのを見かけて、その男性が浮気をしていると思いました。しかし実際は、他の若い女性が自分の恋人の男性に道をたずねたところ、たまたま近かったので、その男性は目的の場所まで他の若い女性を案内していただけのことです。ところが恋人の女性はこの情景をちょっと見ただけで浮気をしていると誤解したのでした。こういうのを事実誤認というのでしょうか。やはり物事はよく見て判断しないと早とちりや思い込みをしてしまいがちです。次の例を挙げてみます。ある洋服店で1日の来店者数は男女別ではどちらが多いかを調べることになりました。開店中の1時間おきの店内の男女の数を調べたところ女性がいつも男性より2倍ほどいました。しかし実際は1日の来店者数は男性の方が多かったということです。これは一体どういうことでしょうか? こういうことがあり得るのでしょうか? すでに分かった方もおられるかもしれませんが、答えは、1日の来店者数では男性よりも女性の方が少ないにも関わらず、女性たちの店内での滞留時間が長いため、店内をいつ見ても女性の方が多かった理由です。これは、入り口で来店者数をカウントすれば正解がでます。これは目の前の事実から思い込みによる判断ミスを犯した例です。目的に合った正しい調査法をとるべきでした。
2024/11/13
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前回からの続きです。(1)あの世が存在する場合人のために生きておれば、人に感謝され、評価され、名を残すこともできます。自分も満足します。自分の喜びともなります。以前述べたようにD.カーネギーの言う自分の重要感を満たすことができるからです。人のために生きておれば、あの世が存在するとした場合、死んだ後おそらく天国にいくでしょうから、この世でもあの世でもいいことずくめです。逆に、もし自分のためだけに生きたなら、人に感謝されることもなく、評価されることもありません。死んだ後、天国に行けるかどうかも保証の限りではありません。地獄かそれに近い世界に行く可能性が高いでしょう。(2)あの世が存在しない場合人のために生きておれば、人に感謝され、評価され、名を残すこともできます。自分も満足します。自分の喜びとなります。前述したとおり自分の重要感を満たすことができます。もし、この世かぎりだと思って、自分のためだけに生きて、享楽主義に生きれば、誰も尊敬しないでしょう。また誰も協力者となることはなく、この世的に、一時的に成功したとしても、長続きはしないでしょう。名を残すこともないでしょう。むしろ自己中心に生きた結果、他人に害を与え、悪名を残す事になるかもしれません。それでもいいと強がっても、心の底では、そんな生き方を望んではいません。自分の心に正直になる必要があります。よく自分の心の内を見てみる必要があります。悪人でも自分を本当の悪人だとは思いたがらないそうです。かつて全米をふるえあがらせた暗黒街のギャングの王者アル・カポネは「おれは働き盛りの大半を、世のため人のためにつくしてきた。ところが、どうだ、おれの得たものは、世間の冷たい非難と、お尋ねものの烙印だけだ」と、なげいたそうです。カポネほどの極悪人でも、自分では、悪人だと思っていませんでした。以上をまとめると次のようになります。人のために生きるべきである。それが本当の自分自身のためになる。なぜなら、あの世は存在する可能性が高く、人のために生きておれば、この世的には人から評価され、さらに死後はあの世の天国生活が待っている可能性が高いからです。逆に、自分のためだけに生きれば、この世的には、一時はいいかもしれないが、長い目でみれば、人から敬遠され、誰も協力者が現れず、死ねば、地獄での苦しい生活が待っています。もしあの世が存在しない場合でも、人のために生きておれば、少なくともこの世的には人から評価され、分自身の喜びともなって、前述した人間の渇望してやまない欲求を満たすことになります。従ってあの世の存在の有無に関わりなく、自分のためだけに生きることは割に合いません。
2024/10/23
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今までに、目に見えないあの世の存在を証明でき人は誰もいません。大昔からあの世や天国、地獄について述べた宗教が世界の各地に存在していました。現代のような交通手段がなくてお互いの交流がなかった時代にも、同じようにあの世や天国、地獄の思想が各地にありました。言葉や文化、風俗、習慣が違うのにどうしてこのような共通した思想があったのでしょうか。このことはあの世の存在証明とまではいかないとしても、存在を暗示しているようにも思われます。あると思うのが自然だと思われます。逆に、あの世がないということをこれまでに証明できた人は誰もいません。しかしあの世の存在を暗示したような宗教は昔から世界各地にありました。どちらが正しいのでしょうか。答えはどちらかです。中途半端はありません。世界のあちこちで臨死体験が報告されていますが、これなどもあの世の存在を暗示しているようです。もっとも臨死体験を単なる脳の作用だという学者もいるようですが。みなさんはどちらにかけますか。私としては、以上述べてきたことから推察してあの世の存在の可能性は高いと考えています。目に見えないからといって存在しないとは言い切れません。たとえば、テレビやラジオなどの目に見えない電波がそうです。スイッチをひねれば、音声が流れ、画像が写しだされます。これについては誰もが電波の存在を認めています。また紫外線や赤外線も目に見えませんが、その存在が確かめられています。あの世の存在を証明できないのは、単に今の科学技術レベルがそこまで達していないからかもしれません。電波も200年前であれば、その存在を誰も証明できませんでした。次回ではあの世が存在すると考えて生きていった方が、もしかりに存在しなかったとしても、結果的には得であるということについて述べます。
2024/10/19
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前回は「パレートの法則とは」何であるかについて述べました。次にこのパレートの法則が個人の仕事の能率アップへ応用できないか考えてみましょう。個人の仕事にこの法則はどのように働いているか考えてみます。おそらく次のようになるでしょう。1日の仕事時間を分かりやすくするために10時間とします。そして、その日に達成すべき成果を100とします。パレートの法則に従えば、「この100の成果のうち80の成果を達成するのは、1日の仕事時間である10時間のうちの2時間である」ということになります。言葉を換えれば、「1日の仕事のうちでやらねばならい重要な仕事(8割)は2割の時間を割くことによって達成できる」ということができます。従って、これを活用して、次のようにすれば、比較的簡単に仕事の能率を上げることができるでしょう。(1) 朝一番にその日にやらなければならない仕事をメモ用紙等に箇条書きしてみる。あるいは前日の仕事が終わって、帰り際に翌日の仕事を箇条書きしてもよい。(2) このメモをじっとながめて、このうちどれを押さえたら8割を制することができるかを見極める。つまりどれが重要な仕事かを把握する。自分の仕事で何が重要な仕事かは割と簡単に判断できると思います。(3) この重要な仕事に2割の時間を割いて、全力を集中して取り組む。できれば、肉体的にも、精神的にも元気のいい午前中にやってしまう。(4) 残りの8割の時間は余裕となるので、この時間を使って、できるだけ、前向きで、創造的なことを考えたり、行ったりする。以上のことを実行すれば、仕事の成果も上がり、残業する必要性も軽減し、私生活においても時間の余裕が生まれて、より幅広い積極的な活動が可能となることでしょう。(本テーマ完)
2024/09/07
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パレートの法則とはイタリアの経済学者「パレート」の発見した法則で「80:20」の法則とも言われます。パレートが自分の身の回りや世間一般で起きる事象を観察したところ、ほとんどの事象がほぼ「80:20の法則」に従っていることを発見しました。これは非常に利用範囲が広く、日常生活、ビジネスの世界でよく使われています。この法則を使うことにより能率があがって時間に余裕ができます。つまり時間を創造することができます。この法則を簡単に言うならば、「世の中のたいていの事象はこの『80:20の法則』に従っている」ということです。どういうことか分かりやすい例を以下に列挙してみましょう。(1) あなたの持っている100本のネクタイのうち、よく使うネクタイはそのうちの20本(2割)である。残りの80本(8割)はあまり使用しない。(2) 売り上げの8割までは全得意先件数の2割によるものである。そして残りの売り上げ2割は残りの得意先件数8割によるものである。(3) 員100人の会社で100億円の売り上げがあったならば、そのうちの80億円(8割)までは、社員のうちの20人(2割)が上げている。そして残りの売り上げの20億円(2割)は残りの社員80人(8割)で上げている。(4) あなたの持っている10足の靴のうちよく履く靴はそのうちの2足(2割)である。残りの8足(8割)はあまり履かない。(5) あなたの友人10人のうちよく会っている友人は2人(2割)である。残り8人(8割)とはたまにしか会わない。(6) 20人の会議でよく発言する人はそのうちの2割の4人である。(7) あなたの料理のレパートリーが100種類あったとしたならば、あなたが日頃よく料理するのはこの中の20種類(2割)である。残りの80種類(8割)は時たましか料理しない。このように考えれば、いろんな環境や状況において他にもたくさんありそうです。 次回はこのパレートの法則の応用編です。
2024/09/04
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重要なのは同じ日本語でも、状況によっては長所が短所になり、また短所が長所になるので、その都度使い分ける必要があるということです。ビジネスのような世界では不明瞭さや非論理性は不利になるので、日本語を意識的に明確かつ論理的に表現する必要があります。逆に、気の合った仲間同士の会話では、あまりに明確かつ論理的な言葉ではかえって白けてしまうでしょう。このような場合は、従来の日本語の表現で充分です。 以上、言語について長々と述べてきましたが、言語そのものを論じることが目的ではありません。言いたかったことは、「日本人は歴史的に相手の心を察する能力を磨く環境に恵まれていた。それがまた日本語の発達にも影響をおよぼしてきた。この物言わずして相手の心を察するというのは、人間にとって高度な能力である。」ということです。昔から読心術とかいわれているものでもあるでしょう。 この高度な能力をさらに磨くにはどうすればよいでしょうか。 それは自分のことばかりではなく他人にも関心を持てばよいでしょう。そのためには人の言うことには耳を傾け、また、人はどのような時にどのように考え、どのように行動するか観察を通して学ばなければなりません。つまり「他人に関心を持つ」とは「他人を理解しようとする」ことであり、それはまた言葉を換えれば「他人を愛する」ということでもあると思います。 赤ん坊を持つ母親は、泣声を聞いただけで、赤ん坊がミルクが欲しいのか、おむつを替えて欲しいのか、眠たいのか、あるいは何か硬いものが体に触れて痛いのかなどの区別がつくらしいです。これは赤ん坊を限りなく愛しているからこそ、何をして欲しいのかがすぐに分かるのでしょう。 現代はペットブームでもあるので、ペットを飼っている方もたくさんいますが、自分のペットがかわいくない人はいないでしょう。であるからこそ、泣声を聞いただけで何を欲しているのかが分かるような経験をされた方も多いのではないでしょうか。 本テーマ完
2024/08/12
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一方日本語にはあいまいさがあります。よく言われているように、日本は元々、村社会、農耕社会、ほぼ単一民族による同質社会です。そこで必要とされるのは調和とか秩序といったものです。このような社会では欧米ほどには自己主張をする必要がありません。むしろ他人との和を優先するようになって角の立つようなあからさまな表現を避けようとします。つまり言葉はあいまいな表現となり、後は察してくれということになります。長い期間、同じ土地に定住する村社会ではお互いの気持ちがある程度わかるようになるため、完璧な文章でなくても意思の疎通には支障がないからでしょう。片言隻句でも通じる場合があります。時に自己主張の強い人がでると、あの人は我の強い人で調和を乱す人だということになり、疎んじられるようになります。 あいまいさの例として、「はい、結構です」というのがあります。これには「YES」と「NO」の両方の意味があり、その時の会話の状況に応じて、どちらであるかを察しなければなりません。「NO」の場合、あからさまに断るのではなく、婉曲に断り人間関係に角を立てないという効用があります。ただし、現代ではこれが悪用される場合があります。たとえば、会社などへ高額な書籍などを購入するよう、しつこく電話がかかってくるようなことがあり、この時、断るつもりで「結構です」と返答したりしたら、購入を了解したということでその書籍を送りつけてきてトラブルケースがあります。このような時は、最初から明確に毅然とした態度で「要りません」とか「購入いたしません」と返答すべきでしょう。 日本語と欧米語の優劣はつけ難いことです。それぞれの異なった環境のなかでそれぞれに適合するかたちで発達してきたからです。 ただし、これだけグローバル化したビジネスの世界では、明確で論理的な欧米語の方が有利です。日本語のようなあいまいさや腹芸で商売をして、後は察してくれということであれば、後のトラブルの発生原因ともなり、また悪用されかねない面もあります。次回へ
2024/08/07
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自己防衛本能というものは動物において顕著です。動物は差し迫ってくる危機や危険に対し鋭敏な感覚を持っており、常に自分の身を守ろうとする自己防衛本能がはたらいています。 たとえば、敵らしきものが近づいてきた場合、すぐに牙をむいたりして相手を威嚇しつつ、いつでも逃げることのできる態勢をつくります。 よく自分の家の庭に野良猫が来ることがありますが、一瞬猫の目とこちらの目が合う場合があります。その時、猫はギョッとした表情をし、目と目を合わせたままの状態でそのまま固まってしまいます。この時の猫の心境はどうでしょうか。「この人は自分に危害を加える人だろうか、それとも何もしない安全な人であろうか。もし危害を加えるようであれば、こちらの方向へ素早く逃げよう。」と体を緊張させたままでこのようなことを考えているのではないでしょうか。こちらが何もなかったかのように目をそらしてやれば緊張を解き、しかし油断することなく、ゆっくりと去って行きます。 これと同じような経験をされた方も多いのではないかと思います。このような自己防衛本能を強弱はあるにせよ、動物だけではなく人間も具有しているのでしょう。 自分は言語学者ではないので断言はできませんが、欧米のような弱肉強食の社会では、一種の自己防衛本能から自己主張するようになり、そのための手段として必然的に隙のない論理的言語が発達したといえるのではないでしょうか。次回へ続く
2024/08/03
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4回シリーズで述べていきます。 話し相手の気持ちや感情を察する感覚は欧米人より日本人の方が強いようです。あの人は人格者であるとか徳ある人といわれるようになるには、ある程度人の心が読めなければなりません。人格者とか徳ある人の定義にはいろいろと言い方があるでしょうが簡潔にいえば見返りを求めることなく無私の心で他人のためにつくす人のことだと思います。あるいは他人に対して愛深き人と言ってもいいかもしれません。他人のためにつくすには、その人が望んでいることを積極的にするようにしなければなりません。そのためには、人の心が読めなければなりません。 誤解を恐れずに結論めいたことをいえば、相手の心がわかるということが、人間の進化と関係があるとすれば、日本人の方が欧米人よりも、その点においては、人間としての完成度が高いといえるのではないかと思います。 作家の司馬遼太郎氏はその著「アメリカ素描」の中で、アメリカ人の教授から聞いた話を紹介しています。以下はその教授の言葉です。 「アメリカ人の場合、自己を表現するということを、母親や学校から徹底的に教えられます。まず第一に、自己を表現しなさい。第二は、自己が正しいと思っていることをやりなさい。そして自己表現はアーティキュレイト(明瞭)に、クリア(明晰)にやりなさい。また、相手に訴えるときはパーフェクト(完璧)にやりなさい、ということを教えつづけられます。そのため、相手の心を察する感覚が弱くなっているのです。」 アメリカのような多民族国家では教育は自然このような自己主張重点主義にならざるを得ないと思われます。出自のわからない者同士の共同社会では相手がどのような考え方、価値観を持っているか分かりにくく、自己防衛のためにも先ず自分の権利を明瞭、明晰、完璧に主張する必要に迫られます。 従って、手段としての言語も隙のない論理的なものになり、日本語のようなあいまいさは少なくなります。これはアメリカだけではなく、陸地で国境を接している多民族のヨーロッパにおいても同様です。次回へ続く
2024/07/30
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前回は、言葉は文化であり、日本は縦社会、欧米は横社会であるといわれていますが、それは言葉にも表れているということを述べました。今回はその体験談について述べます。私も30代の会社員時代の頃、九州の阿蘇山の近くに建てられた会社の研修施設で1ヶ月間缶詰の英会話合宿に参加したことがあります。メンバーは全国の各事業所から選ばれた50名ほどの20代から40代の社員でした。朝から晩まで英語漬けです。そこでは1つのルールがありました。研修期間中、すべて英語を使用すること。日本語は一切使用してはいけないというものでした。日本人のメンバーとも英語で話さなければなりませんでした。日本人と輪になって英語で話していると、ふと感じたことがあります。それはこの輪の中で横のつながりを強く感じたことです。上下の関係なく、何か皆とフレンドリーになったような気持ちになりました。何か仲間意識ができたような気がしました。欧米諸国に住んだことはありませんでしたが、欧米の社会もこんな感覚なのだろうかと思いました。この輪は欧米諸国の縮図かもしれないと思ったりしました。この輪の中では英語が使用されるので、相手を呼ぶのに年齢の上下に関係なく「you」あるいは「Mr.~」だけですませます。日本語だったら、相手が年上か年下か判断して、年上の場合には「~さん」、年下の場合には「君」、「お前」あるいは「~君」と使い分けます。日本での日常生活では、この使い分けの判断が難しい場合もあり、結構気を使います。ところが英語の場合は、相手を呼ぶのにも、敬語を使うのもほとんど気を使う必要がありません。これが年齢の上下があるにも関わらず、私がこの輪の中の皆とフレンドリーになり、フラットに感じた理由かもしれません。以上、日本は縦社会、欧米は横社会ということを述べてきましたが、ビジネスの世界で、縦社会の日本では年功序列主義、横社会の欧米では能力主義が主流を占めてきたのもうなずけます。また、この縦社会、横社会に関連して、英語には、上下関係を表す「兄」、「姉」、「弟」、「妹」「先輩」、「後輩」などを一言で表現する言葉はありません。たとえば、「兄」も「弟」も通常は「brother」の一単語で表現され、特別の場合を除き区別されません。強いて区別する必要がある場合には、「兄」は「older brother」、「弟」は「younger brother」などとそれぞれ二単語で表現されます。同様に「姉」、「妹」は通常は「sister」、特に区別する場合には、それぞれ「older sister」、「younger sister」と表現されます。以上述べたように外国語を単に異文化間のコミュニケーション手段としてだけでなく、外国語の学びを通じて、その言語を使っている国や地域の文化や発想の違いを知るということが大切ではないかと思います。そうすれば、いわゆる複眼の視点を持てるようになり、相手をよく理解できるようになるからです。(本テーマ完)
2024/07/21
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現代は世界中がインターネットで結ばれています。さまざま言語が使用されています。特に英語は世界共通語といっても過言ではなさそうです。インターネットを通じてコミュニケートする機会が増えてまいりました。しかし単に外国語をコミュニケートの手段としてのみ学ぶのはもったいないような気もします。複眼の視点を養うには外国語の学習も効果的なものの1つです。言葉は文化です。言葉にはその国の文化が反映されています。外国語は異なる文化的背景を持っています。言葉はそもそも、その国や地域で共有できるように成立したものですから、その言葉がそこに住む民族の文化を反映しているのは当然です。従って表現する内容は同じでも、発想や表現方法が異なっています。これを学ぶことにより複眼の視点すなわち多様な価値観を身に付けることができます。例えば、励まし方の違いの例をあげてみます。英語圏の人なら、試験や試合を間近かに控えている人に対して、Don’t work too hard! などとよく言います。この直訳は「あまり無理するなよ」、「頑張りすぎるなよ」です。日本人なら、この場合、普通「頑張れよ」などと言います。英語圏の人は相手の緊張を解いてやろうとし、一方日本人は相手のさらなる奮起を促そうとします。このように励まし方にも発想の違いがあります。発想の違いを学ぶことにより、相互理解が深まり、相手をよく理解できるようになります。また、よく日本は縦社会、欧米は横社会といわれます。一般に日本は歴史的に農耕社会であり、また日本神道系などの影響により、調和や秩序や礼儀が重んじられます。従って日本は年長者や目上の人が敬われる縦社会となっています。一般に単純再生産の農耕社会では年配者ほど知識や経験や知恵が豊富だという考えが主流になると思われます。これに対して欧米では年齢はさほどには重視されません。年齢よりも実際の能力や経験が重視されます。いわゆる実力主義です。欧米は歴史的に狩猟民族であり、また隣国と国境を接しているため、常に他国からの侵入の脅威にさらされています。もし能力や実力のない者をリーダーにすれば、その集団や部族は危険にさらされることになります。従って年齢に関係なく、実際に獲物を捕まえたり、他国の侵入を防ぐことのできる能力、経験が重視されます。こうした社会は年齢による上下関係はそれほど強くなく、むしろ横のつながりが強い横社会となっています。ここが日本人と発想が異なる点です。次回は自分のこの体験談を述べてみます。
2024/07/20
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世に出て成功するには、学力以外にも重要な諸要因があるということについて以前述べたことがありますが、もちろん今の学校の知識教育も重要です。決してないがしろにしていいと言っているのではありません。何年も前に、受験勉強緩和のためにゆとり教育が実施され、その結果学力低下が問題となりました(その後何度も見直しされていますが)。また受験勉強に付随した偏差値教育もやり玉に挙げられたりしました。子供に厳しい受験戦争をさせ、子供同士に差をつけるのはかわいそうだという優しさからとられた措置でしょうが、これは真の優しさとは違います。単なる甘やかしに過ぎないと思います。このままでは、国力は衰え堕落への道が始まるのではないでしょうか。本物の優しさは長期的観点から人や国を生かそうとするものです。本物の優しさにはそうした知恵があります。何十年も受験勉強をしろと言っているわけではありません。頭脳が柔軟な若い一時期をやりたいことを我慢して勉強に集中するのも意味があるものと思われます。社会に出てから数学、英語等は直接には仕事に役には立たないかもしれませんが、受験勉強の経験は仕事に役立ちます。受験勉強というものは、限られた期間内に一定以上の分量を消化し学力をつけなければなりません。従って、この経験は社会人となってからも仕事を能率よく仕上げるということに生かされてきます。また筋道立った合理的判断を下せるようにもなります。このように受験勉強の経験は仕事がよくできる一要因になるわけです。仕事がよくできてこそ、世のため、人のために貢献できます。また、ゆとり教育は受験勉強の緩和にはなっていないという報告もあります。どういうことかというと「ゆとり教育により、学校で反復学習をあまりやらなくなったため、昔にくらべ子供たちの基礎学力が低下した。全体の学力が下がっているので受験や進学の難易度自体は変わっていない。つまり、受験や進学は、同世代との相対的な比較なので、皆が下がっている場合には、同じような難しさで推移していく」というわけです。アメリカの小学校では株式等の投資の仕方を教えるところがあるそうですが、早すぎるのではないでしょうか。そんな人生の本道から外れたようなものは大人になってからやればよいでしょう。そんなことより、昔の言葉でいえば、読み、書き、ソロバン等の基礎学習を徹底させ、また正しい職業観や人生観等を教える方が先だと思います。(本テーマ完)
2024/07/17
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人間が人間として生きていくのに一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しである。by中村天風
2024/07/13
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涙は口をきかない悲しみの言葉である。 by ヴォルテール
2024/07/12
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最近では、犯罪の低年齢化等もあって、こころの教育の重要性が唱えられたりしていますが、何をどう教えたらよいのか大人自身がよく分かっていないのが実情ではないでしょうか。子供は親の後ろ姿を見て育つといいます。子供に対し悪い見本を見せている場合が多いのではないでしょうか。例えば、何年か前の新聞に寄せられたある小学校の先生の投書によると、「最近、痛感することは、親の子供への無関心さとマナーの悪さ」とのことである。授業参観の時も、自分の子供の学習態度を熱心に見守る親は少なく、大抵は廊下で久しぶりに会った知人との井戸端会議に興じているとのことです。その一方で、授業中だというのに写真を撮ったり、撮影のために歩き回ったりする親もいるという。後で、その担任の先生は、別の熱心な親から、おしゃべりがうるさくて参観どころではなかったと苦情を受けたとのことです。昨今、授業に身が入らなかったり、落ち着きを欠く児童が増えてきたと云われるのも、一事が万事、親のこうした態度が一因かもしれません。これも新聞に寄せられた主婦の投書ですが、修学旅行中の小学生のマナーの悪さについて次のように述べています。「修学旅行中の小学生が大勢、電車を待っていた。電車が止まると、降りてくる人を待たずに、一目散に電車に乗込んだ。空席がすべて占領され、お年よりや子連れの女性などはあっけにとられていた。引率の先生ですら優先席を見つけ、そこに座るよう児童らに呼びかけていた。乗車中もおしゃべりしたり、つり革にぶらさがってふざけたりしていた。電車の乗降マナーを教える良い機会だというのに何のための修学旅行か分からない。」幼児期における教育の基本となるのはやはり家庭教育だと思われます。幼児期においては、特に物事の善悪、つまり、しても良いことと悪いことをはっきりと教えることが大切でしょう。親がマナーの悪いことをしたり、人に迷惑をかけるようなことをしておれば、このような親のもとで子供はどのように育っていくか想像に難くありません。その子が親になってまた同じことを繰返すことになるでしょう。どこかでこの悪循環を断ち切らねばなりません。こうした状況を改善するためには親子を一緒に教育するか、あるいは親だけを教育し直す施設や教育機関が必要かもしれません。(本テーマ完)
2024/07/11
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人には、自分では選択できない宿命というものがあります。それは生まれてきた時から決まっている親兄弟といった家庭環境や地域および時代です。そのもの自身を変えることができません。その中で人は自分独自の人生を歩んでいきます。運命というものもありますが、これは自分の努力が入る余地があって、変えていけます。ところが宿命とは生まれた時から決まっているものです。広義の意味では宿命も運命の中に含まれるようですが、あえて宿命と運命を分けて考えれば以上のようになるでしょうか。このように人はそれぞれの宿命、運命のもとで人生航路を進んでいきます。自分自身も含めて、多くの人の人生を見るにつけ、それは決して平坦な道ではありません。人生のどこかで必ず、大なり小なりの苦難、困難、挫折といった逆境が待ち受けています。それは、典型的には受験の失敗、失業、離婚、病気、人間関係の軋轢等から発生いたします。しかし同じ時代に生き、同じような境遇にいる人でも、ある人は逆境を乗越えて、人に尊敬されるような立派な人物になり、またある人は逆境に打ちのめされて挫折したり、他人に危害を加えるような人になったりします。この違いは一体何でしょうか。どうしてこのような違いが現れてくるのでしょうか。 それはその人の日頃の心のありようではないかと思います。どのような思い、考え方を持っているかで決まってくるのではないでしょうか。例えば、言い訳が多かったり、すぐ人のせいにする傾向があるのはよくないと思います。なぜならそこには反省する心がないからです。反省しないと成長、発展の余地はありません。やはり、常日頃、前向きで明るく積極的な考え方を持ち、もし失敗したらすぐに人のせいにするのではなく、反省をして自分でできることをしていくのがよいと思います。本テーマ完
2024/07/07
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最近では格差社会とかいって、派遣労働者の人たちのように契約を突然打ち切られたりして、働いても楽にならずその日の衣食住にも事欠く厳しい世の中となっていますが、これは政治や経済で解決すべき問題だと思われますので、これについては触れません。ここでは一般的な話をします。たいていの人がお金は欲しいと思っているでしょう。自分もそうです。多ければ多いほどよいと思っているのが正直なところです。ただ、ある人が言っています。「人の値打ちは持っている金銭の多寡ではなく、それをどう使うかによって決まる。」なるほどと思いました。例えば、生活に困らないぐらいのお金があったとして、ある人は、ギャンブルに使い、ある人は子供の教育費に重点投資し、また、ある人は資格をとるための将来の先行投資として使う。ある人はどこか慈善団体に寄付をする。ある人は、それを元手に企業を起す。ある人は、宝飾類を買い集める、旅行する、車を買い換える、趣味に使う、将来に備えて一定の割合を貯蓄する。宝くじを買う。資産を増やすために株式に投資する。個人的にみれば、その時々の心境、必要性に応じて千差万別ですが、人によってある程度の傾向性はあるのではないかと思います。使い方を、1つのグループは、「目先のことに使ってしまう。単なる享楽のために使ってしまう。ムダ遣いをする。」、もう1つのグループは、「長期的観点から考えて使用する。ムダ遣いをしない。自分を向上させることに使う。人のためになることに使う。」というように2つのグループに分けた場合、どちらがよいかは明白です。誰が見ても、使い方が偉いなと思える方がよい使い方です。だれでも、どちらか一方に完全に偏ることはないと思われますが、できるだけよいグループの方へ偏るようにしたいものです。ある人が言っています。「お金、家、土地、宝石類などのこの世的財産は、あの世に持っていけないが、心の財産は持っていける。」 そういうことであれば、たとえ貧しくとも心だけは貧しくなってはいけない。心の財産の億万長者になることを肝に銘じたいと思います。(本テーマ完)
2024/07/05
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ユーモアセンスは、人間関係やコミュニケーションをよくし、病気の予防や治療にも役立つと言われています。では、このユーモアセンスを身に付けるにはどうしたらよいでしょうか。一番目の方法としては、相手の気持ちがよく分かる、相手の立場に立って考えることができるようになるということです。そうであってこそ、状況に合わせてユーモアを飛ばすことができます。そのためには、常日頃、自分のことばかりではなく、まわりの人たちにも関心をもたなければなりません。自分のことばかり考えていると、相手の気持ちや考えていることが分からなくなります。気付かずに相手を傷つけるようなことを言ったり、したりしているかもしれません。これでは、適切なアドバイスができないばかりか、相手を喜ばせることもできません。一生懸命に人生を生きているのは自分だけではありません。まわりの人たちもよく観察すると、それぞれの人生を皆一生懸命に生きていることが分かります。こうした人たちに関心を向ける必要があります。人はどんなことで喜び、悩むのかよく観察する必要があります。人はどんなことに興味関心があるのか常日頃よく観察する必要があります。他人の人生を観察することにより、相手のことが分かるだけでなく、自分自身にとって参考になることもあるかも分かりません。人に関心を持つ根底には何があるでしょうか。それは人に対する優しさではないかと思います。愛情といってもよいかもしれません。人をよく理解するには人に対する優しさ、愛情が必要です。これがあれば、相手がよく分かるようになります。母親が赤ん坊の泣き声を聴いただけで、ミルクが欲しいのか、オムツを替えてほしいのかが分かるというのは、母親の赤ん坊に対する愛情ゆえんでしょう。会社などでは、自分とうまが合わない嫌いな人とも一緒に仕事をしなければならない場合があります。会社などでは自分と気の合った者同士だけで仕事をするわけにはいきません。このような場合は、無理をしてでも相手のことを好きになることです。そのためには相手の嫌いな面を小さく、よい面を大きく見ていくようにすればよいでしょう。そしてこちらの方から積極的に話しかけたり、かるくジョークでもとばしていれば、相手もだんだん打ち解けてくるでしょう。結果的に、それまでの人間関係が好転するかもしれません。ユーモアセンスを身に付ける二番目の方法は、頭を柔軟にするということです。頭が固い人とはどういう人でしょうか。それは自分だけの固定観念にとらわれ、相手のいうことには少しも耳を傾けず、融通が利かず、どちらかといえば頑固なタイプの人です。従って、この逆をやれば頭を軟らかくできます。自分一人でしゃべろうとはせずに、人の話はよく聴くものです。いわゆる傾聴の姿勢が大切です。特定の考えに固執せず、多くの意見を聞き、世の中には多くの考えがあることを知ることです。そのためには他の意見や考えを受け入れる、素直さが必要です。そして、頭が固いということは、視野が狭いためにおきることでもありますから、常日頃から興味関心の領域を広げ、勉強しつづける姿勢が大切です。知識や経験を広げ、深めていく努力が必要でしょう。知識や経験が増えるとユーモアをつくりだすことが容易となります。(本テーマ完)
2024/07/01
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犯罪防止のために、刑罰を重くすれば、犯罪や重大犯罪が減少するのは事実です。また再犯防止にも効果的です。ただしこれは、ある程度までです。厳罰化と犯罪の発生には平衡点が存在するのではないでしょうか。行き過ぎた厳罰化はそれほど効果がないように思われます。それよりも経済をよくしたほうが、盗みや、引ったくりは減るかもしれません。一般的に、規則や法律を厳罰化すれば規則や法律違反が減るというのは正しいのでしょうが、行き過ぎた厳罰主義には疑問があります。制定当初は確かに効果があるようにみえる場合もありますが、日が経つにつれ、またもとに戻ってしまうようです。例えば、交通違反の罰則など次第に厳罰化していますが、違反はいっこうに減りません。いたちごっこをしています。これは道路事情などの根本的な解決がなされていないからです。近年では路上駐車が全面的に禁止されるようになりましたが、都市部などでは、十分な駐車スペースがありません。こういう状態ですとまた、目を盗んでの路上駐車、あるいは法の網の目を抜けた駐車が増えるようになるかもしれません。都市部での十分な駐車スペースの確保が先決だと思います。(本テーマ完)
2024/06/28
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中国の故事「韓信の股潜り」は、大志を抱く者は、小さな恥辱に耐えなければならないという教訓です。漢の高祖を助けて天下統一の功績のあった名将の韓信は、青年時代に、町のやくざの若者から侮辱を受けたが、よく我慢してその股の下をくぐったという故事からきています。大望を抱く者は腹を立てずによく忍耐しなければならないという教訓です。これと似たようなことを作家の司馬遼太郎は簡潔に「大事は小事より破る」(歳月、文庫本P.453)と表現しています。 やはり現代の我々も、特に若い人たちは、長期的には、何をしたいのか、何になりたいのかといったような将来のビジョンを強く持ちつづけ、途中の誘惑や小さなことで足をすくわれないようにすることが大切だと思います。人間はどうしても安きにつきやすく、自分に甘い面がありますので、夢を現実のものにしていくには、ある程度欲を抑えて、自分に厳しく、ストイックに生きていかなければなりません。夢は思っただけでは実現しません。それを実現するために、強い思いを持ちつづけ、途中小さなことや誘惑に負けることなく、それなりの工夫と自助努力が必要だと思います。もし人に頼りやすい性格であれば、これも直さなければなりません。夢は自分でかなえるものです。人がかなえてくれることはあまりないでしょう。「棚からぼた餅」式のように、たとえあったとしても、それは自分で努力していない分、本物ではありません。簡単に崩れ去ってしまいます。夢の実現にはやはりそれなりの努力が必要だと思います。本テーマ完
2024/06/27
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いつも何かを長期間継続しようと思って、始めてみてもすぐに3日坊主で終わってしまい、自分に嫌気がさし、ジレンマを覚えたことのある方もたくさんおられることと思います。私の場合、昔、会社の健康診断で生活習慣病(当時の成人病)のきらいがあるといわれました。みなさんも、よくごぞんじのように、この病気の原因は明らかです。主に食べ過ぎと運動不足です。運動については、さっそく体質を改善すべく、ジョギング、水泳、サイクリング、筋肉トレーニング等をやりはじめました。食事についても、食べる量を減らしたりしました。間食もやめました。飲酒も減らしました。しかし、なかなか当初の計画どおりにはいきませんでした。いつも計画倒に終わりました。これのくり返しでした。いわゆる3日坊主です。このように長続きさせるには、どうすればいいのか悩んでいる時期に、ある会合で、ポルトガル語の通訳のボランティをやったことのある知り合いの方といろいろと話している中で、たまたまボランティアを長続きさせるコツを聞く機会がありました。その方は、ボランティアのプロ(こういう言葉があるかどうかしれませんが)の講習会で、そのプロがボランティアを長続きさせるコツとして、次の3点を述べたそうです。それはきわめてシンプルなものでした。1. できることを2. できる時に3. 無理なくということでした。これを聞いて、私はなるほどそうかとひざを打ちました。何かを習慣化するのもこれといっしょではないかと思い到ったわけです。思えば、当初は私も、勢い込んで無理な計画を立てていたようです。さあやるぞというときには、どうしても多少無理な計画を立ててしまう傾向があるようです。そしてだんだん苦痛になってきて、習慣化する前に止めてしまいます。皆さんもそういう経験がおありだと思います。自分に気付かせてくれたこの3つの貴重なアドバイスに従って無理のない計画を立てました。それ以来、毎週休日の土、日、祭日には軽いジョギングを17年間継続しました。そして家に帰ってからは軽い筋肉トレーニングを行いました。また平日の出勤前にはラジオ体操と腕立て伏せを50回行いました。自分にはこの程度がちょうどよいようです。ただ、退職してからは年をとったせいか、ジョギングを散歩に替えました。しかし毎日行っています。もちろん体操、筋トレも毎日行っています。こうしたおかげで、体調はよく、体重は20代の頃とあまり変わらなくなりました。 昨年の9月のある日曜日に、いつものとおり朝早く、1時間ほど散歩をした時に、田んぼのあぜ道などのあちこちに赤い彼岸花が咲いているのをよく見かけました。どうして、花は申し合わせたように、一斉に咲くのだろう? どうして、あんなきたない土の中から、あんなきれいな花が咲くのだろうかとふと不思議に思ったりもしました。自然は生きてるなと実感したりもします。そして癒されるような気もします。散歩の効用でしょうか?(本テーマ完)
2024/06/25
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