全3件 (3件中 1-3件目)
1
BS各局で映画を再放送している。昔の評判の映画や最近封切られたばかりの映画も放映するときがある。時が経っていない映画は恐らく再配給できない興行成績しか上げられずにネットワークに売却されたのかもしれない。テレビで見る映画の扱いの便利なところは、録画しておいて後で見ることができる点である。落ち着いて鑑賞できるので、作品の細かいところがよくわかるのだ。小津監督の作品が一挙一週間にわたって放映されたことがある。「東京物語」かっら始って「秋刀魚の味」まで小津監督の代表作である。東京物語に出ていた女優原節子のセリフの言い回しが、秋刀魚の味の岩下志麻と全く同じと言うのには気づかなかったが、これも連続で鑑賞したからこそだろう。女優に全く同じ演技指導をする監督、岩下は恐らくだが原の言い回しを何度も聴いて練習したに違いない。小津の演技指導はこまかいことで定評があるそうだ。エピソードに有名なのがある。どうしても彼がOKを出さないシーンがあった。何度も繰り返させられる女優が思い切って理由を聞くと、まばたきするタイミングが異なっているとの指摘。これは小津自身にも最初わからなかったそうだ。なぜ自分がこの演技を気に入らなかったのか。何度も彼女の演技をやり直させているうちにわかったそうである。このような監督の偏執的な演技指導のせいか、彼の作品は独特の小津ワールドと言われるまでに共通したものがあった。しかし反面、リアリズムを追求する点から行くと彼の作品は評価が分かれていた。安心して見れるのが小津監督の作品で、それ以上のものはなかったようだ。見事なまでに共通の各作品のかたちは、まさに上演回数を誇る演劇のそれとも言うべき精度まで練り上げられていた。見ようによってはマンネリであるが、何となくもう一度見たくなるような味を持っていると思う。もう一つの彼の作品の特色は、別な意味でのリアリズムである。家族や友人、恋人間の出来事をきれいごとで描かず、本当にありそうな筋書きで物語は流れていく。しかし、映画の中の登場人物、とりわけ女優さんたちの美しさを引き出すテクニックは素晴らしいと思う。前述したところのまばたきのタイミングはまさにそれに違いない。リアリズムと登場人物の非現実的なありようこそ映画の魅力で、小津さんはそのあたりを引き出す名人だったのだろう。往年の名監督と言われる人は、最近のリバイバル風潮とあいまって,大した作品でもないのにほめそやされたりけなされたりと、口やかましい評論家たちの材料である。しかし、この人の作品なら劇場に行ってもいい、安心して人に勧められるというブランド感こそが映画人の骨頂だと思うのだ。映画だけではなく今の評論家たちは作品をじっくり味わうこともなく、ネットを検索して他人の嗜好を仕入れて自分なりにアレンジするものが多い。それはそれで悪くはないが、まず鑑賞する姿勢が大事だ。
2022.12.29
コメント(0)
いま二人の人物がマスコミににわかに浮上した。一人は安倍元首相狙撃犯人の山上徹也、もう一人は小川さゆりさん(仮名)である。山上の犯罪はまわりまわって犯罪実行に至る動機のひとつであるある反日宗教団体の実態をさらけ出し、また小川さんはその犠牲者のシンボルとして連日のごとくマスコミに登場している。前者の犯罪動機はある意味達成されつつあると思うし、また殺された安倍前総理の生前の実態を暴くことにもつながると思うからだ。二人のつながりは山上の犯罪がきっかけで、後者小川さんはいまや国会にも招致されて参考人となり、まさに反宗教団体排斥の旗手的存在、それらの動きは安倍の生前の疑惑ともどもいい方向に向かっていると思われる。狙撃犯山上徹也の犯罪は結果として稀なことだが、日本社会の暗部を照らし出した。それと引き換えに安倍総理が生前に生んだとされる数々の疑惑と帳消しになるとすれば、悔しい話である。死人に口なしで、岸田政権も安部が死亡しているので、生前の行いに対しては調査は難しいと明言している。警察畑に任せた方がこんな場合はうまく行くのではないだろうか。被疑者が死亡しても犯罪調査はほとんどが整然と行われるのが常、政治家たちは犯罪捜査のプロではないので、政治家の犯罪はやはり警察、餅は餅屋だろう。小川さんのマスク姿で時折見せる落涙の風情は日本国民を十分に教団憎しの感情を湧き上がらせた。湾岸戦争時の重油にまみれた水鳥の映像はイラクを世界の悪役に仕立てることに成功、図らずも今回この宗教団体を悪者として定着させることに貢献したのだ。善良な信者たちは戸惑い、心のよりどころを失ってしまうのは目に見えている。このあたりはほとんど何も考えていない野党の議員の浅はかさが残念ではある。恐らくだが、犯人山上が長期間観察と言う名目で世間から遮断されているのは、彼の供述はそのまま安部元総理の悪行を暴くことにつながっているのではないだろうか。これを当局は恐れているのかもしれない。
2022.12.10
コメント(0)
ジャズ喫茶に通い出したのは浪人しているころからで、かれこれ半世紀前である。お茶の水や新宿といった駅周辺には多数のジャズ喫茶があり、隆盛を誇っていた。何処々の店はJBLを真空管で鳴らしているとか、いやこっちはタンノイの同軸だとか、ジャズファンとオーディオマニアが共通して通っていたころだ。延べてコーヒーはまずいし、普通の店よりも高い。善意に解釈すると、レコード代が上乗せされているからだ。わがふるさとにも3,4件あり、学生や若い人たちで混んでいた。それが昨今は全く入らない。閉店する店も続出して残っている店は貴重品存在となってしまった。隆盛を誇っていたころは、住宅事情がとても大音量で鳴らせる環境ではなく、せいぜいがラジカセで聴くしかなかったから、大音量を競うジャズ喫茶に客足が向いたのは当然である。店主の特徴はまず不愛想で客商売にはほど遠い人たちだ。客と言えば常連客はじっとひたむきに腕組みして大音量に耐えていた。まるで禅寺の修行僧のようだった。互いに人定めをするように客と経営者は無言で対峙していたのだろう。不愛想な理由は、ジャズ喫茶の経営者ではあるが、同時にジャズの愛好家でもある。いわば好きなものを仕事として、生業としている幸福な人たちだから、ある意味では喫茶店のプロではない。コーヒーの味は二の次で、音質とレコードの在庫で勝負する異質の世界である。このアマチュアリズムがなければジャズ喫茶などできるものではない。しかし逆もまたしかりで、ジャズの知識がそこそこでもジャズ喫茶をやれば当たると知った店主がいて、彼は愛想もいいし、客の入りも悪くはない。ただし、くるお客さんは一般の人たちで、岩や売るジャズファンではないのだ。ジャズを流行ないしファッションとして受け止める人たちが多いのだ。生演奏つまりライブで客を引き付ける店主にはこのタイプが多い。面白いことに、地方では中央よりもライブの入りがいいのだ。理由は生演奏はレコードに勝るという客が多いのである。これもまた地方ならではの理屈で、アマチュアバンドの演奏でもレコードで聴くプロの演奏よりも有難がる人は地方に多いのである。プロに徹したジャズ喫茶またはライブハウスの店主は、店が内容と音質さえ良いジャズをかけていれば客は来るとは思っていない。それだけではない要素、例えば視覚と実在の人間が出す音が客を呼ぶということを知っている。このあたりがアマチュアとプロの差なのだ。一般に全国的に有名で雑誌にたびたび取り上げられるようなジャズ喫茶は閑古鳥が鳴いていることが多い。赤字でも社会的に存在していることが使命だと頑張る店主はそれだけで店を切り盛りしている。喫茶店は一つの文化と言えるが、ジャズ喫茶はそのなかでも極端な最右翼だろう。マスターたちは個人的な趣味を他人に啓蒙しようとして儲からなくても頑張っている。初めて店を訪れるあなたは戸惑うだろう。しかしそれはあなたに気を使わせまいとしているだけなのだ。個人的な優越感もちょっぴりあるかも。常連客は冷たい視線をあなたに浴びせるが最初だけである。話しかけられるのを嫌がるのがジャズ喫茶のマスターである。口下手なのがジャズ喫茶のマスターである。大音量の中では手話をするのが妥当かも知れない。
2022.12.08
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1