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残虐な犯行に及んだ犯人だからなのか、世間が忘れたころに死刑を執行したなどと実名と写真入りで報道されるってなんだかなあ。刑が確定する前、裁判中はその経過を逐次報道するのは当然だが、わざわざ実名をまたも挙げて世間に忘れるなよと言っているような感じを受ける。それに伴い死刑の執行は現内閣で何人目とか発表するが、これはいいと思う。死刑が法律としてある以上、執行は当たり前の話であるが、中には一度も死刑を執行しなかった内閣もあった。これはこれで国民の評価を受けるべきである。犯人を憎む気持ち、あるいは犠牲者を弔う気持ちは人それぞれである。しかしこの報道でその感情が再度揺り動かされるようなことになってはまずいことだと思う。加害者の遺族、被害者の遺族、両方の遺族の思いは複雑で、それを恣意的とも思われる過剰報道と判断されても仕方のないような報道はまずいと思う。それとも、殺人と言う犯罪に大小があるとすれば、それを計るのは被害者の数が手っ取り早い。1人殺害しても7人殺害しても同じ死刑である。マスコミはこれを勘案しているのかもしれない。実名をそのたびに公表してその名前と憎むべき犯行を大衆に知らしめると言うのが諮らずとも合致しているかもしれない。不謹慎な理論だが、死刑の執行の方法で加害者は罪を償うことができるとしたら、法として釣り合うのかもしれない。思い出すのは中学校で習ったハンムラビ法典だ。「目には目を歯には歯を」という「同態復讐」が基本となっている。この基本は今でもそんなに違っていないと思う。殺害されたのが一人でも何人でも、加害者が一人である以上は死刑は一回で、犯行の大きさが被害者の数と比例するならば、考慮しなければならないのかもしれない。先の不謹慎な理論はあんがいと当を得ているかもしれない。死刑になるまでの死刑囚の心理は心理学者や法学者あたりが研究しているのだろうが、執行の方法を何段階かに分けるのも一方法かもしれない。江戸時代の刑罰の一種で、往来に首だけ出して罪人を埋め、かたわらに竹で出来たのこぎりを置いて、通行人に必ず一回挽かせるというものがある。死亡までに至る時間が長く、罪人の苦しみは言うまでもないが、フランスで考案されたギロチンは一瞬で命を絶つので、よく使われたという。この両方の刑を比べれば、同じ死刑でもおのずと軽重がわかるというものだ。50年代の米映画で「私は死にたくない」と言う社会派の映画では、死刑になった主人公が薬剤注射か電気椅子かを選択できるシーンがある。また最近の映画「グリーンマイル」では公開死刑が行われ、電気椅子での死刑が凄惨にすぎ。立会の検察官や陪審員が倒れたり退場したりするシーンがある。日本では死刑はただ一つの方法、絞首刑であり、採用されている理由は被執行者の苦痛がほとんどないとされているからであるが、本人に確かめようもないので確かではないと思う。閑話休題とにかく、いまの死刑執行の実名での報道は、死刑と言う刑罰を受けたまっとうな人間に対してふさわしくないと思う。
2022.07.31
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感染者4万人を超すかもしれないと言われた日曜日に東京から帰った。気がついたのは、都心の電車内にはほとんどお年寄りがいないということだ。すくなくとも1949年より前に生まれた人は皆無だと思う。優先席は健康な若者が遠慮なく座っている。お年寄りは巣鴨にでも行っているのか?身代わり地蔵など撫でまわしているのかもしれない。ならば神社仏閣の代表である浅草寺は?やはりいないのだ。コロナのせいで客は激減しており、大ちょうちんから奥のお寺まで見渡せるほどだった。ここでもほとんどが外国人または日本人の若者である。お年寄りには都心はまったく親切ではないのだろう。車を持つには地方の維持費の数倍かかるし、かといって電車を使うには歩行での移動距離は長すぎる。東京駅や渋谷駅など地方に暮らす人たちにはなんでこんなに歩かなきゃならんの?と言う感慨がわく。地方では車さえ運転できれば枯葉マークつけて何とか移動できる。早朝の都心には若者がマラソンマンに早変わりでこれまた出現、お年寄りはいない。群れを成して走るマラソングループがなぜ皇居周辺に多いのだろうか?このあたりは歩行者優先の信号感覚で、非常に歩きやすいからかもしれない。あるいは日本の中心地で走るという虚偽のステータス?一人では心もとないので集団で誘い合う心理かもしれない。お年寄りはお呼びでないところ、それが東京である。知人のお医者さんは大宮に介護施設を持っているが、いま地方にも土地を物色、増設する計画である。物価指数は東京の方が断然高いので、この差額で地方に要介護者を移動しようということらしい。東京から流出するのは老人だけかもしれない。土地はいくらでもある。一級河川の河畔には広大な土地が坪800円ぐらいで売りに出ているんだから介護施設は次々と地方に移っているのだろう。最近は介護保険の点数が上昇して穴場になっているとのことだ。
2022.07.31
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われわれ(1949年生まれ)が習ったのは世界史と日本史で、受験はどちらかを選択したっけ。世界史は大学に行くとなくなり、より細分化して西洋史とかアジア史とかに分かれた。しかし近代になるとその区別はあいまいになり、教科書のページもめくるのが早くなってあっという間に終わってしまうのだ。もっとも期末には受験が控えていたので仕方ないところもある。今の日本人が体験している「世界史」の最大のイベントは、やはりコロナとウクライナ戦争と大地震だろう。この三つがわずか10年の間に起きて、われわれは物価高、物不足、医療貧困という不便さに直面している。世界が日本と直結しているから、とても日本だけは安泰と言うわけにはいかないからだ。江戸時代には日本史は純粋に存在した。外国で何が起きてもほとんど国内には影響なく、周囲を海に囲まれた国土では独自の歴史が刻まれていった。時々外敵が攻めてきたり、こっちから外征したりと言うのはあった。幕府が倒れた時、世界は西欧の強国が陣取り合戦の真っ最中で、アジアもまたその勢いに吞まれていた。そんな意味では、明治維新は日本という国が興廃の瀬戸際にあったころと言えるのかもしれない。明治維新がまさに日本史が世界史に仲間入りするエポックだったのだろう。我々は日本は加工貿易で暮らしていると教わった。優れた加工技術を持ち、しかも賃金は安いので価格も競争力があった。今は中国がそれにとってかわり、世界第二位の経済大国となった。習近平が何を考えているかが我々の生活に大きな影響を及ぼす時代、アマゾン川で一匹の蝶が羽ばたくと日本が台風に襲われるというのも冗談ではなくなりつつある今、ニュースの聴取は欠かせない日常事だ。今、世界の歴史学者は何をしているのだろうか?少なくとも地域に分かれたアジア史とか南欧史とかは既存を除いてはもう成立しないだろう。せいぜい北南半球か東西半球、またはアフリカ史、南北米大陸史ぐらいが関の山ではないだろうか。ますます世界史はそのページを加速的に増やし、地球全体を吞み込むようになるだろう。現代にそぐわない無力に近い国連は再編成され、国としてではなく地域として参加する機関ができるかもしれない。東アジア連合、西欧州連合とか北米連合とかなんたらかんたらキリがない。これに加わらない国はこの新機関が軍事的に征服するとか、経済的に協力するとかで、いまのEUがその先進的テストケースになりうるかもしれない。「かもしれない」ばかりだが、その程度の話ではある。
2022.07.29
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実際は「悪い遺伝」とか訳した方が映画の主旨も伝わるというものだ。今日のBSでこの1956年制作のスリラーを放映していた。評判は聴いていたので期待して見たが、なるほどたがわぬ出来の映画であった。この時代、アメリカは第二次大戦、朝鮮戦争を戦い、世相は荒んでいたはずだ。しかし庶民の暮らしは向上し、世界一の繁栄を謳歌してもいた。物欲しさに持ち主を殺害して手に入れるという犯罪癖のある8歳の女の子を演じたパティ・マコーマックと母親役のナンシー・ケリーの演技が見事、幸せそうな母子を演じているが、だんだん友人の水死や叔母の死に娘がかかわっていることに気づく母親の心理的葛藤と、本来の母子愛が行ったり来たりして演技の奥深さを感じる作品。これはもともとブロードウエィで上演された演劇で、さぞ難しい作品なんだろうと思った。迫力ある心理描写は、殺人の秘密を握った下男が地下室の焼却炉の前で焼死してしまうときに、女の子が弾くピアノ練習曲が不気味に響く効果も計算済みか。「悪い遺伝」とは、母親が自らの出自を父親の告白で知った時、母親が稀代の殺人鬼であったことを知り、絶望する。殺人鬼の系統は遺伝するのだという妄想に取りつかれた母親は娘を睡眠薬で殺害、自分は拳銃自殺するが二人とも生き残る。エンディングは凝ったもので、出演者が一人づつスクリーンに登場してあいさつする。子役のパティのあどけなさは演技と言うものがいかに人をマスキングするかわかろうというものだ。また母親がパティのおしりをぶつシーンは、おそらく身もふたもないこの映画の結末をすこしでも和らげようと監督が追加した本来の親子関係を表していると思う。いい映画は何度かリメイクされるが、この映画もまた二回ほど後世に別名でリメイクされている。
2022.07.21
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泥棒に追い銭のタイトルで数日前に投稿したが、あちこちで被疑者安部さんの国葬決定と言うのがくすぶりだしている。岸田さんの決定はいかにも数を頼んで拙速に過ぎる愚策で、もう少しあちこちの意見を聞くべきだった。気象庁の梅雨あけ宣言が外れたのとは違い、こちらは重大な責任を伴う決定だ。国際的には安倍さんが国内で何をしでかし、何を疑われているかなんてはどうでもいいことで、要はカネをもらったり貸してもらったりした恩義があれば犬と同じく尻尾を振って飼い主に媚びる。しかし国内ではきちんと検証して疑惑があれば徹底的に調査して国民のもとに晒さなければならない。これは当たり前の話で一党独裁とは違うのである。下手すれば岸田政権の命取りになるかもしれない。またこの問題は別なところに新しいベクトルを発生させ、成長しつつある。ろくに名前を憶えていないのだが、「旧統一教会」と言う宗教団体である。朝のモーニングショーはまさにこれ一色で、現職の国会議員や弁護士がこの団体について数々のコメントを発表、ベクトルは確かにある方向に向かって整合されつつあるようだ。調査が進み、安部さんは被害者であるのにまるで自業自得みたいになってしまうかもしれない。これもひとつの世論ではあるが、犯人に対する同情ももちろんあるとみていいだろう。メディアはこんな時弱者の味方をする。勧善懲悪で桜吹雪と御白州の前ではウソはつけめえと国民総金さん気分かも。新聞やテレビと言った機構もニュートラルではなく、世の中を忠実に映しているわけではない。かつて柳田国男さんは長年やってきた新聞の切り抜きを突然やめた理由にこれを挙げている。報道も人間が作る限りは世相を表しているわけではないとのこと。大事なのはその報道の中から真実を読み取ろうとする観察眼であるとのことだ。あやかるのは難しい。世捨て人にはなかなか成れないからだ。
2022.07.19
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安部元首相射殺犯の横顔がだんだん報道によってわかってきた。彼が投かんしたという手紙の内容は、彼は優れた分析力と意思と思いの調整力とを備えており、冷静に自分を見つめていることがわかる。なぜ彼ほどの人物がこのような度外れた犯罪を?と言う疑問は考察する気もないが、一言で言えば彼は彼なりに意思を貫徹、実現したということだ。いろいろな方向から彼を見ることができようが、彼は理不尽極まる宗教団体の犠牲者ともいえ、少々乱暴な理屈だがもっと関連付ければ、安部元首相には因果がめぐって来たともいえるのだ。優秀な人間が宗教団体によって挫折するという図式は多いのだろう。しかも韓国生まれのこの団体、朝のモーニングショーのソースだが、日本人のエリートをターゲットにもしているという。わたしには韓国が宗教団体の隠れ蓑をかぶって日本を思想テロの標的にしているとも考えられるのだ。日本が宗教の自由、結成を憲法に謳っていることを利用し、かつてのオウム真理教への捜査が遅れに遅れ、数人の犠牲者まで出たことを忘れてはならないと思う。
2022.07.18
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福島大学がなぜ他県の国立大よりしょぼいのか?と言う動画、タネを他人のブログから拝借している(汗)まあ冗談半分と言うか100%にしかとれませんが、いまだにしょぼいのは戊辰戦争の敗戦のせいと言うネタ、キャッチーなネタとして捉えればいいと思うが、しかしこの作者はよく各大学の実情を調べ上げており、なかなか痛いところを衝く力作だろうと思います。正直知人のお医者さんによれば、なぜ福大って福島医大と合併しないのか?という疑問がすべて福島県の後進性を表しているというよりも、超保守性、非積極性、事なかれ主義を表していると思われる。その結果、確かに人口が約半分の山形県の国立大学に後れを取っている。理由は明確にはわからないが、作者の言うことは恐らく間違いではない。会津の優秀な高校生は会津高校ではなく、峠を越えて山形東高校へ進学している事実がある。同じ戊辰戦争で冷遇されたとすれば、山形の方がはるかに先進性があったと言えるだろう。実際に山形には国立音楽高校があり、歴史も古い山形交響楽団がある。東北の雄都仙台の通勤圏にありながらその文化程度は高く、福島県とは比べにならない。ジャズ喫茶もまだ数件残っており、そのオーディオ感覚は日本でも有数と思われる音質である。野口英世の出身県とは思えない福島県は数々の不名誉を残して今あるわけだが、やはり戊辰戦争と言うよりは、根底に県創立時の県庁移転のごたごたが後を引いていると言ってもいい。福島県は地政的に南北に交通が発達し、東西は山岳部で隔絶して往来が不便な地形となっている。県庁はけっきょく県北の福島市に置かれて不便をかこつことになっている。このため、県境近くの自治体は福島県の指揮を受けるというよりは他県のおこぼれちょうだいと言う傾向があり、福島県の存在は極めて薄いものとなっている。茨城県に隣接するいわき市は県庁までの距離は120km強、会津若松市からはおよそ100km南端の白河からはこれまた100km弱、これほど分散している自治体を持つ県は他に類を見ない。しかも明治時代に日本で最初の県議会ができたと自画自賛するわりには、県庁を中央の郡山市に移転させる決議がなされた後も数々の福島市側の妨害工作で決議が覆されたという民主主義からは程遠い県議会の体たらくを示した。このあたりが今でも県内自治体の結束が薄く、自治体はみな(県北を除く)わが道を行くスタイルであることと、福島大学のしょぼさは案外と連結しているのかもしれない。また県庁所在地の福島市そのものが仙台市と距離が極めて近く、ほとんど経済圏に飲み込まれており、県民が寄せるであろう県庁所在地としての風格にはほど遠いのも事実、人口は県内でもいわき市、郡山市の後塵を拝している。県はこの批判をかわすために戦中に建てられた県庁本庁舎を建て替えることもできず、耐震補強でお茶を濁し、みっともない姿をさらけ出している。また県は空港を中央部に設置する事、また付帯設備として阿武隈高原道路を作ったが、ほとんど交通量はなく、空港と合わせて超赤字のお荷物施設となっている。これに不満を持つ県民は何度も県庁移転運動を起こしているが、そのたびに施政者、議会は肝を冷やすという図式でもある。しかし県庁移転運動そのものは、その使命が極めて公的な物であるにかかわらず、一部の政治屋の名誉欲のみで行われ、善良な多数の支持者を失望させて失ったのは現状維持派にとっては幸運であったろう。わたしとしては新たな指導者の出現を望むの見である。閑話休題大儀的に見て、戊辰戦争の敗戦は県民の感情の奥底に残っていることは間違いないが、それと福島大学のしょぼさはほとんど関係がないと思われる。
2022.07.16
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マラソンマンは中途半端に見たことは何度もあるが、最初から通しで見たのは初めてである。BSで今日放映されると知って録画しておいたのだ。わたしの一存だが、この映画ほど常に緊張感のある映画ってあっただろうか?と思わせるほどストーリー、配役、カメラワーク、音楽が全て溶けあっているのだ。これぞまさしく映画芸術の極みだろう。元ナチの首領を演ずる歯科医のローレンス・オリヴィエの不気味さ、彼が出ると音楽は彼のテーマともいうべき不協和音に満ちたメロディが鳴る。また誰が味方か敵かわからないストーリーも凝っていて、ストーリーは複雑に過ぎ、やもすればもう一度録画を戻して重要なセリフを確認したりする。とにかく走る男ダスティン・ホフマンは父の形見の大型拳銃を振り回すが、オリヴィエの拷問を受ける役で、歯科医の使う器具が不気味に見えるように演出されている。オリヴィエはまずホフマンの歯を診察し、虫歯を探しだしてそこの神経を器具で刺激するのと丁字油を塗って痛みを止めるのを交互に繰り返す。丁字油が歯の痛みに訊くとは知らなかった。またロイ・シェイダーが「ジョーズ」のしがない警察署長とは比べにならないカッコよさで出てくる。俳優陣が超ベテランたちだからできる映画で、最近のつまらないアクション映画とはできが違う。
2022.07.12
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あちこちのネットニュースを見ていると、ブラジルが喪に服した、インドもだあの国もだ、弔電があの国から来たなんだかんだ、これは事実であるが、在任期間が歴代首相で最長なんだから当たり前の話である。決して彼が特に外交に長じていたとかではないのだ。わたしから言わせればただの一人芝居がおおく、空回りしていただけと見る。こんな安部さんを美化する文章も多い。故人を美化するのはけっこうなことだが、こと彼に関してはことさらの美化はいけない。これから彼の生前の数々の疑惑が解明されなければ民主主義の国が聞いてあきれる。野党はこんな時のためにある、一緒に引きずられて喪に服すようでは政党の資格はない。長期政権の驕り高ぶりが行政の自殺者を生み、ウソが噓を生んで安部さんの周りは限りなく黒に近いグレーに塗りつぶされているのだ。行政は彼を恐れ、忖度し、数々の疑惑を秘匿しているはずだ。もう恐れる必要はない。徹底的に暴くチャンスなのだ。凶事変じて福と成すということわざはないが、まちがっても個人を祭り上げてはいけない。有名な戒石銘に「民をだますのはたやすいが、天を欺くことはできない」とある。これなど安部さんに捧げる墓標銘にふさわしい。
2022.07.11
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よく見ないとわからないが、薄く虹がかかっているのが見えますか?これはあるペンションでの日常風景だそうです。しかしわたしには初めての光景、おもわず撮りました。朝は静寂そのもの、鳥の声は全く聞こえず、湖畔の水面も鏡のようです。たまに魚が跳ね上がり、水面の虫を喰っている。自然てこんなに静かなのだと知ったのだが、街の早朝はカラスが泣きわめき、スズメがエサを探し、案外と動物の出番なのだ。山の中は街と違って非日常と言えるほど静かなのだ。生物はじっと息をひそめあって天敵の襲来に備え、逆にまたうまい朝食にありつこうとじっと待ち伏せしているのだろう。このあたりの蚊は人間サマを襲撃するのはたった一回、ブーンと来てあっという間に針を刺している。でさっさと逃げてしまうか生まれてくるだろうわが子のためにリスクを冒してたっぷり吸血して手で叩かれるか、まさに安部を襲撃した暗殺者の手口である。彼は第二撃で目的を果たし逃げなかったが・・。街の蚊はしつこく周囲を飛び回って機会を狙うのだが、山の中では数少ない獲物なので、生存競争激しくチャンスは一回限りなのだろう。このような非日常を手に入れようと、別荘を買ったりペンションのオーナーになったり、また移住する人もいる。しかしそれもいいが、この二つの世界を往復することで両方が日常になりえる。そして日常はグレードアップするのは間違いない。日常が新鮮に見え、ヒントがたくさん生まれるのだ。やはり人間新しい出会いと環境は必要なのだろう。クラリネットのPee Wee Russelのインパルス盤Old Bottle New Wineのタイトルを思い出す。
2022.07.11
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マーチン・スコシッジ監督の昔の映画で「タクシー・ドライバー」と言う映画がある。主人公(ロバート・デ・ニーロ)が幼い娼婦(ジョディ・フォスター)を救い出すためにいろいろな銃器を試して改造するシーンが印象的だが、元々は大統領暗殺を目論んでいたという内容である。安部元首相を射殺した犯人は報道によればかなりのマニアで、実際に改造銃器や爆発物を隠していた由。マニアがどんどんその程度を深めていくとやがて目的は一度使ってみたいという欲求に代わり、動物から人間にターゲットは変わっていくのだそうだ。それにしても第一発目を外したら次はないというのがゴルゴ13の有名なセリフで、これはじっさいにも暗殺者の金言であるそうだ。フレッド・ジンネマン監督の「ジャッカルの日」では暗殺者が一発目を外し、第二発目を装填中に警官に射殺されるという筋書きである。映画とはいえ、事実に相違ない。それにもかかわらず、第二発目が安部元首相の命を奪ったという事実は、警備が甘かったということに尽きるだろう。それにしてもネットの報道が入り乱れる中で、消防署や警察、ドクターヘリと医療機関が次々と詳細な時間系列を発表し、あたかも後で問題にならないようにアリバイ工作をしたような形跡がある。こんなところは自己保身主義極まれり。要人が襲撃された例はたくさんあるが、安部元首相の場合は引退後のことであり、彼の影響力がいかに大きかったかを表している、というよりも引退したのは首相と言うポストだけで、在任中に築いた人脈を生かして最大派閥を率い、しかも数々の疑惑を生んだ張本人であり、そんな意味では引退した人間ではないのだ。彼が亡くなったことで、これらの疑惑が解明されることに躊躇があってはならないと思う。とかく日本人は死人を鞭打つという行為を忌避する傾向があるが、この場合は話は別である。これらの疑惑は日本の総理大臣が侵すことのできる犯罪解明につながるはずである。ロッキード事件の田中角栄にも劣らない疑惑解明に遠慮があってはならない。
2022.07.09
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七夕は盧溝橋事件の日でもある。今からおよそ90年前、柳条湖事件(昭和6年)をきっかけに起きた事変は満州国を作り、さらに6年後の今日、盧溝橋でまた軍同士の紛争があり、日本と中国は全面的戦争を起こした。いずれの出来事も日本軍が仕掛けた自作自演だったらしい。前者では満州を手に入れるきっかけとなり、、後者は逃げる中国軍を追いかけて広大な大陸で鬼ごっこをする羽目になった。とにかく中国軍は弱かった。ろくな軍事教練もできず、将校を養成する学校も西安にあるだけで、そこの教官は日本人が多く、中国の将校を馬鹿にする有様であったらしい。日本人は小学生まで中国人を軽蔑し、差別していた。昔は中国を師と仰ぎ、遣隋使や遣唐使を派遣することもあったのに、中国は欧州の軍事力に敗退し、香港を英国に、マカオをポルトガル、満州北部をロシアに統治させていた。明治維新を日本が成し遂げると、日本に留学していた孫文が日本こそお手本とばかり、辛亥革命なるものを勃興させたが、中国全土には至らなかった。このころ中国には二つの政党があり、内戦状態となっていたのだ。ソビエト共産党の指示を受ける毛沢東の紅軍、蒋介石率いる国民党の軍隊とである。アメリカやドイツから軍事援助を受け、このころは軍事的に共産軍より優位であった。日本はこれをいいことに、内戦状態であればあるほど中国は弱っていくのは明らかと見たが、実際は国共合作と称して国民党と共産党は対日戦線で合意に達し、共同戦線を張ったのである。この情報はまったく日本人には入らず、中国軍恐れるものぞと言う独りよがり的優越感に浸っていたのが当時の日本人である。孫文は日本と中国の橋渡しを望んでいたが、まさに中国のことわざ「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」であった。大多数の中国人は教育を受けず、無学で文盲であった。このころの中国の文盲率は100%に近かったはずである。このため外国はおろか、国内のことも知ることはなく、政治的にも全く白紙であった。しかし文盲の中国人兵隊の逃げ足は速く、日本軍が追撃する倍の速さで揚子江を遡行して重慶まで逃げた。日本軍は負うことができず、爆撃機で重慶を空襲するにとどまった。これが世界で最初の戦略爆撃となった。この時すでに心ある日本人は広大無限の中国本土を占領する事の愚を悟ったものが何人かいたが、いずれも少数派で、勇ましい発言ばかりが歓迎される軍内では大きな声にはならなかった。本来、進歩した国の軍隊と言うものは、政府の完全な管理下にあり、軍自体が政府を左右するものなどではない。しかし日本の陸軍は政府の言うことなど聞かなかった。これは陸軍が当時天皇の直接指揮を得るものとして扱われていたからである。政府が天皇の軍隊をして口を出すなどとんでもないと陸軍の一人勝手な理屈であった。そして中国で身動きできずにいる軍隊を目にしながら、さらに東アジアの原油やアルミニウムやゴムなどの軍需物資を得るために軍事行動を起こし、これがアメリカの反発を買って太平洋戦争につながっていくのだ。この責任はだれにあるのか?旧陸軍の幹部にあるというのはたやすいが、それでは答えにはなっていない。陸軍の思いあがった精神を叩き直して正しい道に戻すのが政府の役目とすれば、当時の政府、首班だった近衛、東条、広田の責任もあるが、最大の犯人は当時の国民だろう。 ちょうど英国のジョンソン首相が閣僚の信頼を失って辞任するニュースが流れた。彼は私立のイートンスクールを出てハーバード出、国内では超エリートである。かえって日本の首相だった近衛も東条も広田もこれまたエリートである。日本も英国も同じ内閣制で政治的に似ているところはあるが、ジョンソンと日本の首相たちが違うのは、前者は現実主義者、後者は理想主義者で、現実とかけ離れた思想に固まったお坊ちゃん体質だったということである。ジョンソンはエリート臭をおくびにも出さず、女性ではだらしなく、酒でもだらしなくしてかえって国民の人気を集めた。逆に近衛は天皇五摂家の筆頭で、ジョンソンとは比べにならないほどの家柄だった。これが何を意味するか?首相としての責任よりも自分の家計を守るために生きていた人物と言うことである。そのためにひたすら保身に身をやつし、人の評判をものすごく気にして行動した。そのいい例が対米戦について率直な意見を山本五十六から聞いたときである。山本が、開戦して一年や半年は暴れて見せるがそのあとは確証がない、と言ったとされる。この意見を参考にして近衛が立ち回ったという話を聞いたことがない。彼はそのあと戦争に反対したという記録はなく、御前会議で開戦決定後に辞任した。彼は日米会談も全くやる気がなく、東条に後を任せてしまったのだ。両家の子女に過ぎない彼の特質はまだある。終戦後、彼は珍しくマッカーサーに会見を申し入れ、マッカーサーから終戦処理の指導をするように言われて有頂天になり、憲法改正や国務大臣としての敗戦処理にあたったほどである。しかし彼のマッカーサー訪問は、戦勝将軍を訪問することで、戦犯を逃れるために行動したのではないかとわたしは見る。彼は恐らく戦犯指定の予感があったのだろうが、だからこそ米国の占領軍最高司令官に会ってご機嫌を伺ったのだと思う。それほど彼は世間知らずだったのだ。時がたって東京裁判でA級戦犯として収監される前日、荻外荘で自殺してしまった。彼の神経は細く、それでいてきぐらいは高かった。東条もしかりで、MPが収監にきたとたん、拳銃自殺を図ったが当時の大発明ペニシリンの使用で命を取り留めた。豪放磊落な一面を見せたジョンソンの人間味と現実を見極めて決断する能力、肩や政治よりも家系にしか興味のない男のちがいなのだろう。当時の日本は一部の誤ったエリートたちに国を動かされていたとしか言いようがない。
2022.07.07
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最近は庭いじりばかりやっている。親が作った庭だが、ほとんど手入れもせず放置していたので、目隠しとして植えた杉の根っこがやたら猛威を振るって地面を凸凹にし、庭石を押し上げ、縦横に地下に値を張り巡らせている状態、これを何とかしようと日々格闘しているのだが、つくづく思い知らされるのは、木と言う植物の物理的才能である。水のある方に根っこの先端は伸びていき、やがてそれは排水管の継ぎ目から侵入して管内にびっしり張り付き、中で繁殖して一種のスポンジ状になっている。水脈を辿るわけでもないから、水音でも聞きつける聴覚か水の香りをかぎ分ける嗅覚でも持っておるのだろうか。最近言った温泉の近くに大きな杉があり、神木としてまつられているのだが、その根は昔築かれた砂防ダムとしての石垣にがっちり食い込み、それをXY方向の基礎のベース(専門用語ではフーチンと呼ぶ)に見立てて支柱として垂直に伸びているのだ。地盤調査の専門家が良く言うのは、地盤の耐力(どのぐらいの荷重を支えられるか)はその付近の木の高さを見れば見当がつくそうだ。高ければ地盤は強固、低ければヤバいということになる。一般に海岸に近いと地耐力は下がり、山間部に近づくと上がるようだ。と言うことは、樹木もまた物理学の基礎ぐらいは知っているようで、これ以上伸びるにはベクトルを分解して水平方向に何m必要かを計算するのだろう。根っこが伸びる時の土壌の硬度も計算しているのだろう。常に倒れないように最小限の根っこの長さと深さを絶えず計算してバランスしているのだろう。プレデターのように完全に透明になる物体は自然界にはないので、虫や鳥はこれで多大な損害を被っている。ガラスに衝突して死んでしまう鳥、ガラス窓があるのを知らずにその前に巣を張ってしまう蜘蛛など、生物は正直なのだ。閑話休題木をいじっていると、時々得も言われぬ薫りが立ち上る時がある。庭の殺風景な光景はたちどころに高級デパートのコスメ売り場の周辺と化す。化粧品の大部分は植物から成分を取り出し、それを化学的に合成して香りのデザイナーが調合するらしい。デパートの入り口でオーデコロンの新作ですとか言ってサンプルをくれる時があるが、まあ人間とはいろいろなことをするものだ。庭石の積み方なども温泉や大きな公園の風景を見て勉強してみた。すると共通するのは、尖ったほうが上にする積み方と、平らな方を上にする積み方があり、これを組み合わせてたいへん姿の良い庭ができるようだ。また石の色や種類なども参考になる。明治の元勲山県狂介は庭いじりの名人で、目白の椿山荘などはその遺作であるらしい。造園屋さんに訊くと、コツは自然に見えるように置くことらしい。草花や樹木は成長すれば人口臭さは抜けるが、石は形が変わらないのでずっとそのまま、垂直だったり水平だったりは避けること。自然にそのようなものは水以外はないからだと。なので庭石は時々眺めてみて、あの石はもう少し右に振ったほうがいいとかもっと傾けたほうがいいとかキリがない。
2022.07.07
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BSチャンネルで「リバティ・バランスを撃った男」を見た。ネタ明かしすれすれになるが、米国が銃社会から法治国家に成長?する過程で、こんなこともあったろうなと言う筋書きの社会派ドラマ、監督はウエィンとコンビを組んで長いジョン・フォードだ。1962年の映画だが画面はモノクロ、色を識別する必要がないので、そのぶん画面構成や人物の表情を読むことができる。このあたりの機微をフォード監督はわかっていた?この時代のカラーフィルムは日本ではかならず「総天然色」と言うキャッチが入って、ポスターも今に比べると毒々しい原色に近く、いい仕上げとは言えなかった。しかしフランス映画ではモノクロと総天然色とバージョンがあったのを憶えている。例としては、イブ・モンタンの「恐怖の報酬」があり、YOUTUBEにカラーの方がアップされていたことがある。しかし、モノクロに比べて色調がどぎつすぎて作品としてはモノクロの方が好ましいと思った。今の人には理解できないだろうが、昔はピンク映画と言うジャンルがあり、要するに今でいうポルノ映画の走りだが、カラーフィルムの節約のために画面がなんてことないときはモノクロ、ことに及ぶ画面はカラーになっていた。なので観客はモノクロ画面の時は寝ていて、カラーになると目を開けていた(笑)閑話休題話題を戻すと、ジョン・ウエィンはフォード監督とともに西部劇のジャンルを切り開いた一つの方向で、いわゆる勧善懲悪、銃をもって銃を制すという筋書きだったが、この映画はちょっと違って、ウエインがベラ・マイルスに失恋するという物語、彼は常に強者だったのに降られた彼は泥酔いして自分の家に放火し、従者のウディ・ストロードに助けられるという、恋愛弱者を演ずる。また、マイルスが弁護士のジェームス・スチュアートに惹かれていることを知り、反面弁護士が銃の所持に反対していることを決して否定せず、批判はしながら最後にはスチュアートを助けるという役割は難しかったに違いない。ウエィンの表情の変化はなかなか彼が大根役者ではないという証明になるだろう。なんせ彼の真骨頂は、馬に乗ってインデアンや悪者を追い回し、拳銃では小さすぎるのでウィンチェスター73を乱射しながらやっつけるという役割が長かったから、とかく批判もあったのである。特に社会派の西部劇「真昼の決闘」でのゲーリー・クーパーとの演技の対比が西部劇ファンを二つに分けたのだ。クーパーの重厚な演技に対して、ウエインはただの大根役者と言うファンと、いやいやウエィンこそ本当のアメリカ人だというファンであった。クーパーなど弱虫で、助太刀を求めに街中探し回った挙句みんな逃げだし、最後に一人で悪漢に立ち向かうというストーリーは男らしくないというファンと、いやいやそうではない、彼こそアメリカ人の鏡じゃよと言うファンと、いろいろな方向で論争があったが、これもアメリカが世界の最強国だったころの国民の考え方だった。今でもアメリカに漂う銃規制と反対の流れのぶつかり合いはこのような映画の批評からも読み取れる。
2022.07.03
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関東は梅雨明けだそうだ。6月中に梅雨明けと言うのは経験したことも聞いたこともないが、これも異常気象のうち?と素人判断するしかない。どういうきっかけか思い出せないのだが、やはら庭をいじりまわしている。庭石を交換してみたり、積み方を変えてみたりと、飽きずにやっている。幸い空梅雨で雨が少なく、作業ははかどっている。庭石の積み方って実にいろいろあり、セオリーはないようだが、石の姿をじっと見ていると、この方向から見てくれと言っているような声がする(そろそろお迎えが近いかも)隣り合った石とのバランスもあり、ある種の妥協も必要なのだろう。露天風呂の石の積み方など大いに参考になるので、最近はしっぽり温泉通いもしている。梅雨に振り込められた場合も考えて、内業リストも作っている。摩耗した階段踏板の再生、漆喰の塗替え、窓枠の清掃など実に多い。スコップで土をいじりまわしていると、木の根っこやミミズやなんとカエルまでお目にかかる時がある。前に書いた自然は物理と化学で出来ている感想も新たに、いろいろなことに考えをめぐらす。庭をいじりながら、全然関係のないあの件をどうするこうするとか、あの金は誰に借金しようかなあなど、まさにマルチ人間である。人間ボーッとして生きていられないようになっている。小さな庭だが、正岡子規が晩年病床から障子の隙間を通して見た庭の風景は歌に仕立てられて残っているそうだ。南と北はビルに囲まれているので、空は狭いが鳥は入れ代わり立ち代わりきちんと順序を守ってやってくる。最初がカラスで、食料を探して飛び回り、叫び、だいたい六時ごろまで騒いている。次がスズメで、カラスに比べると小さくて可憐な鳴き声で、実にかわいい。庭の木で休んだ後、またどこかへ飛び立つのだ。鳥を愛でるようになると、花鳥風月の順番からいって二番目、次は風かな。
2022.07.01
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