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図書館で『日本人が誤解している東南アジア近現代史』という新書を、手にしたのです。中国の経済成長に陰りが見える今、次の成長セクターは東南アジアになるとのことで・・・対中認識を改める必要があるようです。【日本人が誤解している東南アジア近現代史】川島博之著、扶桑社、2020年刊<「BOOK」データベース>より「日本が侵略した」「日本が解放した」どちらも間違い!!11ヵ国、6億5000万人を抱える東南アジアの多彩な歴史と文化の実相!日本人だからこそ知っておくべき東南アジアの歴史の真実!<読む前の大使寸評>中国の経済成長に陰りが見える今、次の成長セクターは東南アジアになるとのことで・・・対中認識を改める必要があるようです。rakuten日本人が誤解している東南アジア近現代史「第3章」でベトナムでのスマホ普及などが語られているので、見てみましょう。p212~215<スマホと自動車> スマホをいじっていると時間が潰れるので、スマホ以外のものを欲しがらなくなると言われるが、それは日本だけの現象ではないようだ。筆者が最も興味を持って見ているのは、東南アジアにおける自動車の普及である。工業生産の中で自動車の占める役割は大きい。自動車は裾野が広い産業である。1人当たりGDPが3000ドルを超えると自動車が急速に普及すると言われる。現在、東南アジアではインドネシア、フィリピン、ベトナムなどがその時期を迎えている。しかし、スマホが普及した現在、そのような過去の経験則はあまり役に立たないと考える。 自動車は移動手段であるとともに富の象徴だった。人はお金持ちになると、押し出しのよい大きな車に乗りたがる。日本には車には富の象徴としての役割があった。私が覚えているCMに「隣の車が小さく見えます」、「いつかはクラウン」などというキャッチフレーズがあった。自家用車は移動手段であるとともに、見栄を満たすものであった。 それは中国でも同じだった。中国人は日本人よりももっと見栄っ張りだから、どの国の人よりも自動車を欲しがった。それも大きくて豪華な車。中国では小型車は人気がないと聞いた。 しかし、そんな中国でも変化が起きている。2017年頃から車の販売が低迷し始めた。エコノミストはその原因はスマホの普及にありそうだ。中国のスマホの普及は日本以上である。スマホが普及すると、新たな現象がいくつも起きる。その一つがシェア自転車であった。これは一時のブームで終わったようだが、それでも一時はすごい人気であった。 スマホはシェア経済に向いている。自動車のシェアも普及し始めた。ただ、シェア自動車はそれなりに面倒臭い。シェア自転車で問題になったように、管理が難しいためだ。みんなで所有するものは管理が難しい。社会学でいうところの“コモンズの悲劇”である。中国のシェア自転車のブームがあっと言う間に去ったように、シェアは経済の主流にはならないと思う。 その一方で移動手段に革命が起きている。それはウーバーやグラブに代表されるスマホを用いたタクシー・システムである。これは、東南アジアの交通事情に革命的な影響を与えている。<スマホでタクシーを呼べるベトナム> 東南アジアでは、本格的な自動車の普及はこれからである。ベトナムでの自動車の普及は日本より50年、中国より20年は遅れている。現在、ベトナムの年間自動車販売台数は30万台に過ぎない。それは日本が500万台、中国が2800万台であることを考えると、極めて少ない。 そんなベトナムではスマホを利用したグラブに代表されるタクシー・システムが急速に普及した。数年前まで、ベトナムのタクシーは信頼できなかった。遠回りをしたりメーターを改造したり、外国人だけでなくベトナムの人々もその柄の悪さを嫌っていた。 しかし、数年前からスマホを用いたシステムが普及し始めると、状況は大きく変わった。ここで重要な役割を果したのが白タク(免許を持たない一般人が運転するタクシー)である。ベトナムでは、誰もがスマホを用いてタクシー業を始めることができる。その結果、自家用車を持っている人が暇な時間を利用して、こずかい稼ぎを始めた。また、自家用車を貸して、借りた人がタクシーとして使うことも増えた。 一般の人がタクシーを安心して使えるようになった。スマート・タクシーでは動いた道筋が記録に残る。決済もスマホで行うことができる。現金で払ってもよいが、現金を使わなくてもよい。そんなシステムでは過大な請求をされることはない。 人件費が安いこともあり、ベトナムのタクシーは安い。それに加えて、白タクがライバルになったために、プロのタクシーはよほどサービスをよくしないと、白タクにお客を奪われてしまう。『日本人が誤解している東南アジア近現代史』1:華僑
2023.08.27
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図書館で『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』という本を、手にしたのです。終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。【秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争】井上祐子著、みずき書林、2018年刊<「BOOK」データベース>より戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのかー。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介。陸軍参謀本部傘下の写真工房“東方社”の実像に迫るとともに、当時の日本・中国・東南アジア各国の変動していく社会をとらえる。<読む前の大使寸評>終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。rakuten秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争「はじめに」で東方社とか宣伝誌『FRONT』が紹介されているので、見てみましょう。p6~8<東方社と「東方社コレクション」>■東方社とは 東方社とは、陸軍参謀本部傘下の特殊機関として、主に対外向けの写真宣伝物を制作していた団体である。同社は1941年春に設立されたが、設立のきっかけはその2年ほど前にさかのぼる。 当時陸軍は、張鼓峰やノモンハンにおいて、ソ連との紛争に敗北していた。そのため参謀本部第二部第五課(ロシア課)と第八課(情報・宣伝・謀略)では、ソ連への宣伝・謀略の強化によって日本の威信を回復することを考え、ソ連の国家宣伝のためのグラフ雑誌『USSR in Construction(ソ連邦の建設)』に対抗しうるような雑誌の制作を、後に東方社の初代理事長となる岡田桑三にもちかける。 岡田は映画俳優でもあったが、映画や演劇だけでなく、写真や写真宣伝物に対しても造詣が深く、当時、国際報道写真協会の同人であった。国際報道写真協会は、写真家木村伊兵衛、グラフィックデザイナー原弘、美術評論家伊奈信男らが運営していた中央工房に併設された対外写真配信機関であり、ここを拠点に彼らはソ連やドイツなど海外の雑誌や宣伝物に学びながら、写真宣伝物の研究を進め、実績も積んでいた。 東方社は、この中央工房・国際報道写真協会を軸に、評論家の林達夫、民族学者の岡正雄・岩村忍などが加わって設立された。(中略) 当初の運営資金は三井や三菱など財閥からの寄付に仰いだ。陸軍参謀本部の音頭取りで作られた東方社は、資材は陸軍から支給され、制作品もすべて陸軍が買上げるという陸軍と深く結び着いた団体であったが、あくまでも民間会社で、前述のように参謀本部の特殊機関という位置づけであった。気鋭の知識人やクリエーターたちが集まって、対外宣伝物という一種の“軍需品”を参謀本部の下で制作していた、特殊な民間写真工房だったといえば、少しわかりやすくなるだろうか。(中略) 1941年5月に作成された設立趣意書によれば、東方社は『東亜建設』という一冊一テーマの月刊グラフ雑誌の刊行を業務の中心に据えていた。同誌が予定していたテーマには、「産業戦士」、「高等専門教育」、「駐日留学生」、「働く日本女性」などがあり、「日本海軍」、「日本陸軍」もあったものの、必ずしも軍事宣伝を優先したものではなかった。しかし、世界情勢が変転する中で、その性質を変えざるを得なくなっていく。 つまり、40年9月に日独伊三国同盟が結ばれ、41年4月に日ソ中立条約が結ばれる一方で、同年6月に独ソ戦が始まり、日本政府・軍部は南進に舵を切り、対米英戦争が必至となった。そのためにソ連を主たる対象とした国家宣伝誌『東亜建設』は、中国や東南アジアを主たる対象とした軍事宣伝誌『FRONT』へと切り替えられることとなったのである。『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』2:占領初期の華北地方『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』1:占領初期のマラヤ・シンガポール
2023.08.13
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図書館で『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』という本を、手にしたのです。終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。【秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争】井上祐子著、みずき書林、2018年刊<「BOOK」データベース>より戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのかー。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介。陸軍参謀本部傘下の写真工房“東方社”の実像に迫るとともに、当時の日本・中国・東南アジア各国の変動していく社会をとらえる。<読む前の大使寸評>終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。rakuten秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争「第3部 中国編」から占領初期の華北地方を、見てみましょう。p154~155<第1章 1943年華北地方取材:林重男> 1937年7月7日の日中全面戦争勃発後まもなく日本は北京を制圧し、12月には王克敏を中心にした対日協力政権である中華民国臨時政府を樹立した。1940年3月、南京で汪兆銘が中華民国国民政府(以下南京国民政府)を立ち上げると、臨時政府は華北政務委員会に改組して、南京国民政府の一部となった。 同委員会委員長には王克敏が就任し、高度な自治権をもつ同委員会が引き続き華北地方の統治にあたったが、いずれにせよ実質的な支配権は北支那方面軍が握っていた。 華北地方は、綿花や小麦などの農産物に加え、石炭や鉄、銅などの鉱山資源も豊富であり、日本は1930年代前半からその資源開発に食指を動かしていた。 日中全面戦争勃発後は北支那開発株式会社(1938年11月設立)を中心に、それらの資源を日本の手中に収めていった。アジア・太平洋戦争開戦後、南京国民政府は紆余曲折を経て1943年1月9日に米英に宣戦布告し、戦争遂行のために日本に協力することを発表する。このころ戦局は悪化してきており、日本は華北資源への依存をさらに強めていた。 林重男は1943年夏、『FRONT』「華北建設号」の取材のため、木村伊兵衛とともに中国に赴いた。同号では、“対米英戦争を戦うために、華北は兵站基地として再建設されなければならない”とうたい、高山、製鉄、製塩、農業などさまざまな産業をとりあげている。そのほかに青少年たちの活動や現地軍関係の写真も掲載されている。「東方社コレクションⅡ」には、この取材で林が撮影したネガ2578点がある。<第1節 産業と労働> 前述のように『FRONT』「華北建設号」の中心テーマは、華北の資源開発と産業であり、それに関わる写真が多く残されている。図〈養蜂〉は、昌黎農場果樹園で蜜蜂の巣箱を取り出している男性を撮影したものである。同農場では、葡萄を収穫する若い女性やさまざまな果物の樹や実なども撮影されている。図〈トウモロコシ畑〉は、トウモロコシを収穫する少女たちをとらえたもの。トウモロコシは華北の主要な食糧のひとつであり、特に河北省で多く栽培されていた。 図〈塩田〉は天津の長蘆塩場で働く男性たちを撮影したもので、後ろに見えるのは野積みされた塩の山。塩は食料としてだけでなく、化学工業の原料としても大きな需要があり、華北の塩は日本にとって重要な産物であった。『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』1:占領初期のマラヤ・シンガポール
2023.08.11
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図書館で『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』という本を、手にしたのです。終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。【秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争】井上祐子著、みずき書林、2018年刊<「BOOK」データベース>より戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのかー。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介。陸軍参謀本部傘下の写真工房“東方社”の実像に迫るとともに、当時の日本・中国・東南アジア各国の変動していく社会をとらえる。<読む前の大使寸評>終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。rakuten秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争「第2部 東南アジア編」から占領初期のマラヤ・シンガポールを、見てみましょう。p100~101<第1章 1942年マラヤ・シンガポール取材:光墨弘> 1941年12月8日のアジア・太平洋戦争開戦から約半年で、日本軍は欧米の植民地であった東南アジア各国の攻略に成功し、各地に軍政を敷いた。日本軍は南方占領地に対して、基本的には「残存統治機構を利用し、従来の組織及民族的慣行を尊重」(大本営陸軍部「南方作戦に伴う占領地統治要綱」1941年11月)する方針をとったが、軍政のあり方は、国、地域により違いがあり、また戦局の推移にともなって変化していった。 しかし、いずれにせよ南方軍政の要諦は、「治安の回復」、「重要国防資源の急速獲得」、「作戦軍の自活確保」にあり、現地住民の民生は軽視された。日本は、アジア・太平洋戦争の目的として、欧米支配下にあるアジア諸民族の解放を唱えたが、日本軍の支配の下で、各国とも現地住民はさまざまな苦しみを味わうこととなった。 イギリスのアジア支配の中心地であったシンガポールは、日本軍の最大の攻略目標のひとつであり、陸軍は真珠湾攻撃の約2時間前にマレー半島への奇襲上陸作戦を開始した。アジア・太平洋戦争が対英戦争でもあったことは忘れがちであるが、日本軍は真珠湾攻撃で対米戦争を開始するとともに、マレー攻略作戦も開始しており、真珠湾攻撃より一足先にイギリス領コタバルへの上陸に成功していた。 マレー半島を“銀輪部隊”などで縦断し、1942年2月15日にシンガポールを占領した日本軍は、シンガポールを南方軍政の拠点とし、シンガポール島を昭南島と改称、行政府として昭南特別市設置した。 そして、資源の豊富なマレー半島とともに同地を敗戦まで日本の直接統治下においた。 光墨弘(みつずみひろし)は、1941年11月に陸軍宣伝班に徴用され、マラヤ・シンガポール方面に赴任した。航空部隊付報道班員となった彼は、マラヤ・シンガポール各地で写真撮影を行い、42年末に徴用解除となって帰国する。44年には、この時撮影した写真を集めて、『南方報道写真集マライ』(東亜文化書房)を刊行した。 「東方社コレクション」の中に、同写真集に掲載されている写真と同じものが79点あり、光墨が報道班員として撮影したと思われる写真ネガが、それらを含み788枚存在する。 その大半がシンガポールで撮影されたものであり、『FRONT』「インド号」にも1点利用されている。この写真群が東方社の写真とともに保管されていた経緯は明らかではないが、占領初期のマラヤ・シンガポールの状況を記録した貴重な写真であるので、本章でその一部を紹介したい。 光墨はシンガポールで行われた各種行事や街の様子などをとらえているが、人口の約四分の三を占める中国人の姿は、該当風景に少し見られるだけで非常に少ない。マラヤ・シンガポールでは日本軍は民族ごとに統治方針を決定しており、マレー人やインド人は比較的優遇されたが、シンガポールが華僑の抗日運動の拠点であったため、中国人に対しては強圧的な施策をとっていた。中国人の写真が少ないのは、その影響であるかもしれない。<第1節 軍関係の視察・行事・作業〈ラッフルズ像の撤去作業〉は、トーマス・スタンフォード・ラッフルズ卿の銅像を、インド系の現地住民たちが撤去する様子をとらえたもので、1942年9月に撮影された。ラッフルズは、シンガポールを貿易の中継地として好適と考え、同地をイギリスの植民地とした立役者である。インド系住民たちがその銅像を撤去する様子は、イギリス支配の終焉を象徴するものであるが、一連の写真からは、作業が丁寧に進められていたことも見てとれる。 撤去作業の様子は、『写真週報』250号「ラッフルス博物館に入る」でも紹介された。銅像の後ろの建物(現ビクトリア・シアター)は、シンガポール市政庁・市公会堂であったが、日本軍占領後は、写真の看板に見えるように日本軍の「やせんいうびんたい」(野戦郵便隊)として使われた。なお撤去されたラッフルズ像は、このあと昭南博物館に移された。光墨は昭南博物館に設置される様子も撮影している。 日本軍は、シンガポール争奪戦の山場となったブキテマ高地を、占領後「武威山」と名付け、そこに忠霊塔を建てた。〈忠霊塔の除幕式〉は、1942年9月10日に行われた、その忠霊塔の除幕式の模様である。小高い山に建てられた忠霊塔は、それを見上げるシンガポール市民たちに支配者が日本であることを示すための装置でもあり、ラッフルズ像の撤去と一体となって支配者の交代を強く意識させるものであった。
2023.08.10
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図書館で『写真で見る満州全史』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・まさにタイトルにあるとおり写真が満載のビジュアル本となっているのが、ええでぇ♪【写真で見る満州全史】太平洋戦争研究会, 平塚柾緒著、河出書房新社、2018年刊<「BOOK」データベース>より日本は大陸で何をしようとしたのか?…「幻の帝国」の前史から崩壊後まで!満鉄・関東軍・満州事変・満州国誕生・日本人街・開拓移民団・帝国崩壊・シベリア抑留・負の遺産…私たち日本人が今知るべき歴史!【目次】消えた帝国を歩くー現在も姿をとどめる「満州」残影/第1章 満鉄と関東軍/第2章 満州事変/第3章 関東軍の満州支配/第4章 日本人が住んだ街/第5章 満州帝国の繁栄と崩壊<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・まさにタイトルにあるとおり写真が満載のビジュアル本となっているのが、ええでぇ♪rakuten写真で見る満州全史柳条湖付近の爆破地点でのリットン調査団一行「第1章 満鉄と関東軍」から関東軍の登場について、見てみましょう。<満州駐屯「関東軍」の登場>p26~27■関東州と満鉄の半永久所有 日露講和条約が締結されて間もない明治38年9月26日、天皇直隷の関東総督が新設され、総督府をかつての激戦地・遼陽において南満州の経営にあたることになった。総督には陸軍大将大島義昌が任命され、租借地と満鉄付属地の軍政がスタートする。そして総督の下には二個師団、約1万の兵力が駐留して関東州の守備を行うことになった。 ところが清国は、日本の総督府による軍政は、ロシアに数倍する悪政だと不信感をつのらせ、あからさまに軍政非難を強めてきた。そこで明治39年5月22日、日韓併合によって初代韓国統監に就任した伊藤博文が中心になって、「満州問題に関する協議会」が首相官邸で開かれた。 その結果、関東州の軍政制度を見直し、政府の監督下で軍事と行政を分離する平時組織に改めることになった。そして同年9月1日、名称も関東総督府から関東都督府(旅順)と変え、行政は行政は外相の監督下に入り、軍事は都督府の陸軍部が管轄することになった。この陸軍部が、のちの関東軍司令部の前身になるのである。 総督府から都督府に変わったことで、駐箚=駐屯兵力も二個師団から一個師団に縮小された。ただし、満鉄=南満州鉄道沿線に分散駐屯し、居留民の保護と鉄道警備にあたる独立守備六個大隊が新設さらた。予備・後備役の志願兵で編成された守備隊司令部は、公主嶺に置かれた。 駐箚師団は遼陽に司令部を置き、内地の師団と二年交替で駐屯することになった。しかし駐箚師団と独立守備歩兵大隊を合わせた常備兵力は約1万4百名と少なかった。(中略) 兵力はわずかでも、ともかく満州に地歩を築いた日本軍は、密かに勢力圏の拡大を狙っていた。そこに起こったのが、明治44年(1911)の辛亥革命である。満州を父祖の地とする清朝を倒し、漢民族の国家をつくろうという「倒満復漢」を旗印にした革命軍は、中国各地に兵を起こし、その勢力は次第に北上してきた。 日本の軍部、ことに陸軍は革命の混乱に乗じ、鉄道の保護という名目で華北と満州にそれぞれ一個師団ずつを派遣して、満州増兵の既成事実をつくろうと画策した。もちろん関東都督府は大賛成であったが、日露戦争で被った経済的打撃から立ち直れないでいる政府の賛成は得られず、部隊増派は実現できなかった。 ところが大正3年(1914)7月に第一次世界大戦が勃発し、欧米列強の目を満州から逸らしてくれたと同時に、中国大陸(万里の長城内)進出を狙っていた日本に絶好のチャンスを与えた。ドイツに宣戦布告したイギリスは、日英同盟のよしみから8月7日に、日本に対して援助を要請してきた。イギリスの通商破壊をしているドイツの仮装巡洋艦(武装商船)を撃破してほしいというのだ。 欧米列強に先駆けて中国・満州に確固とした地位を築いてしまおうと考えていた日本には、渡りに船だった。日本はイギリスの申し出を快諾し、早くも36時間後には大戦への参戦を決定し、ただちに出兵準備に入った。そして8月23日、ドイツに宣戦布告をするや、ドイツが租借している中国の膠州湾の軍港・青島攻略を開始した。わずか千六百名の正規兵に、アジア各地からかき集めた在郷軍人を加えたドイツ軍は、しょせん日本軍(第18師団)の敵ではなかった。 11月7日、青島のドイツ守備隊は降伏し、日本軍は膠州湾と青島はもちろんのこと、青島と済南間を走る膠済鉄道全線を押さえて青島守備軍を編成、長期駐留の構えをとった。中国政府はただちに日本軍の即時撤退を要求したが、中国進出を狙う日本はにべもなく拒絶し、いわゆる「二十一ヶ条」の要求を逆に中国側に突きつけたのである。『写真で見る満州全史』1:ラストエンペラー・溥儀について
2023.07.17
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図書館で『写真で見る満州全史』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・まさにタイトルにあるとおり写真が満載のビジュアル本となっているのが、ええでぇ♪【写真で見る満州全史】太平洋戦争研究会, 平塚柾緒著、河出書房新社、2018年刊<「BOOK」データベース>より日本は大陸で何をしようとしたのか?…「幻の帝国」の前史から崩壊後まで!満鉄・関東軍・満州事変・満州国誕生・日本人街・開拓移民団・帝国崩壊・シベリア抑留・負の遺産…私たち日本人が今知るべき歴史!【目次】消えた帝国を歩くー現在も姿をとどめる「満州」残影/第1章 満鉄と関東軍/第2章 満州事変/第3章 関東軍の満州支配/第4章 日本人が住んだ街/第5章 満州帝国の繁栄と崩壊<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・まさにタイトルにあるとおり写真が満載のビジュアル本となっているのが、ええでぇ♪rakuten写真で見る満州全史柳条湖付近の爆破地点でのリットン調査団一行「第3章 関東軍の満州支配」からラストエンペラー・溥儀について、見てみましょう。<皇帝・溥儀と満州帝国>p102~103■国の運命を決した建国5日後の密約 昭和7年3月1日、世界の視線が上海事変に引き寄せられている間隙を縫って、「五族協和」「王道楽土」を掲げて「満州国」は誕生した。しかし満州国の運命は、早くも建国式が行われた数日後には決定されてしまった。 昭和7年3月9日の執政就任式を前に、溥儀は一通の書簡に署名している(3月6日)。これは関東軍司令官と交わした重大な密約であった。 内容は次のようなものであった。一、満州国の治安維持および国防は日本軍に委ねる。一、国防上必要な鉄道、港湾、水路、航空路の管理、ならびに新設はすべて日本に委ねる。一、日本人を満州国参事に任じ、中央、地方の官署にも、日本人を任用する。その選任、解任は関東軍司令官の同意を必要とする。 このように満州国は、最初から骨抜き状態で誕生した見せかけの“独立国家”だったのである。ところが、この密約は鄭考胥が勝手に結んだもので、自分は5カ月後になった初めて知らされたと溥儀は『わが半生』に記している。しかし、これは偽りであろう。彼は将来の皇帝就任という確約と引きかえに、新国家の重要な諸権利を引き渡したのである。 昭和7年9月15日、日本政府は正式に満州国を承認、両国の間に「日満議定書」が結ばれる。公表された「議定書」の本文には、「日本の既得権の尊重」「日満の共同防衛」、この二ヶ条しか見られない。しかし、付属協定として先の密約も認め合っていたのだ。それが世人の前に明らかにされたのは、戦後のことである。 後世に売国奴のそしりをまぬがれないと怖れたのだろうか、議定書調印式の満州国代表・鄭考胥総理は、挨拶をうながされても「いたずらに口をもぐもぐさせ、顔面神経をぴりぴり動かし泣かんばかりの」表情を見せるだけで、ひと言も発しなかったという。 ■「五族協和」のスローガンも虚しく 満州国では執政・溥儀を元首とし、国務院という組織が行政の中心とされた。国務院のトップが、すなわち首相である。清朝時代から溥儀の側近ナンバーワンである鄭考胥が、初代の国務総理に任命されていた。 しかし鄭は乗り気ではなく、何回も「辞職したい」と申し出ている。「日満議定書」調印日の6日前にも「今度こそ」と突然いいだし、自宅に閉じこもって登庁しなくなった。あわてた関東軍は、岡村寧次参謀副長を新京に向かわせ、何とか翻意させるというドタバタ劇を演じる。「駒井徳三総務長官の横暴ぶりにがまんできない」ことに、その辞意は発していた。国務総理とは言っても“飾り物”にすぎず、政府の実験は日本人の総務長官が握っていたのだ。ことに駒井は二月に馬占山を帰順させるなど、自らの政治手腕に酔い、大変な高飛車ぶりだった。 駒井について溥儀はこう記している。「当時日本の雑誌『改造』は、公然と彼を『満州国総務総理』『新国家の内閣総理大臣』と呼んだ。駒井は元『満鉄』につとめていた男で、(略)東京の軍務と財閥の目にとまり、『中国通』とみなされたのだということだった」「彼の目から見た最高の上司はもちろん関東軍司令官であり、私という名目上の執政ではなかった」満州国についてはNHKの『プレミアムA「満州 アヘンでできた“理想郷”」がお奨めです。
2023.07.17
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図書館で『半藤一利の昭和史』というムック本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・半藤さんが精査した新聞秘蔵写真なるものによって、リアルな皇国シーンが見えるのです。【半藤一利の昭和史】ムック、 文藝春秋、2021年刊<商品レビュー>より妻が亡くなられた半藤一利氏のファンだったので、ムック化された本品を購入してプレゼントしました。とても喜んでくれました。半藤氏の昭和に関する研究・著作は大変勉強になるもので、これを機に夫婦で再勉強したいと思います。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・半藤さんが精査した新聞秘蔵写真なるものによって、リアルな皇国シーンが見えるのです。rakuten半藤一利の昭和史PART 2「私たちはこの時、戦争への道へと足を踏み入れた」で三国同盟が語られているので、見てみましょう。p68~70<三国同盟締結>■そこにいたる道筋で 南京陥落直後の昭和13年1月16日に近衛文麿首相は、「国民政府を相手にせず」との声明を発表します。 つまり国民政府総統の蒋介石と和平交渉なんてしないということです。かわりに蒋介石と反目している汪兆銘という人物を擁して傀儡政権をつくり、これと国交を樹立することで戦争終結を目指したのですが、これが愚の骨頂でした。 日本は蒋介石軍との和平の機会を失い、徹底的に相手を打倒するまで戦闘を続けねばならなくなりました。さらに中国の後ろにはイギリス、アメリカがついていましたから、やがてそれらと正面衝突して世界的な戦争になる恐れがでてきました。 昭和15年5月1日、ナチスドイツが西部戦線に大攻撃をしかけて第二次世界大戦が本格的にはじまります。ドイツは電撃作戦により、それまで世界史上に例のないほど見事な戦果をあげます。5月15日にオランダが降伏、17日にはベルギーの首都ブリュッセルが陥落、つづいてフランスの最大の防衛線マジノラインを突破したドイツが英仏連合軍をドーバー海峡まで追い詰めると、英国軍はほうほうの体で撤退し、本国に逃げ帰りました。 6月14日にはパリを無血占領。こうしてヨーロッパは完全にドイツに席捲されました。連戦連勝のドイツがヨーロッパ新秩序をつくるなら、これにならって日本もアジア新秩序をつくるべきだ、今こそ「バスに乗り遅れるな」と日本中が浮かれに浮かれました。 こうした世界情勢下において日独伊三国同盟の政策が大いに叫ばれ、この国の人びとは、覚醒からますます遠ざかっていくのです。 ■ドイツの快進撃を横目に見て 昭和15年7月22日にヨーロッパ戦争に不関与の方針をとっていた米内光政内閣が倒れます。そして誕生したのが第二次近衛内閣でした。 外務大臣に就任したのは強硬な反英米派の松岡洋右です。この人は日独伊にソ連を加えて四国協定で臨めば英米と対等にやりあえる、という強烈な意見の持ち主。松下はたった一人で政府を引っかき回し、なかば強引に三国同盟を成立させてしまいました。この同盟を結ぶことは、イギリスはもちろんのこと、それを応援しているアメリカをも敵とすることになる、非常に重大にして危険な決定でした。 かつて米内光政、山本五十六、井上成美の海軍トリオが陸軍と戦争する覚悟で反対した三国同盟を、一年たつかたたないうちに海軍も事実上賛成してしまったのです。 海軍の翻意の理由はいくつかありますが、これに同意することで、予算増額を陸軍に認めさせる裏取引をやれると考えたことが大きかった。予算獲得のために海軍はその魂を売ったと言ってもいいでしょう。 三国同盟を結べばアメリカの経済制裁がきびしいものになるのは目に見えています。石油やくず鉄の禁輸となれば戦艦や戦闘機の増産にストップがかかる、その対策の検討もされぬまま、いいかげんな決定がなされてしまったのは、あまりにドイツが強いのでドイツと組んだ方が有利だという単純な理屈があったからです。日本からは、明日にでもドイツ軍の英本土上陸作戦がはじまらんばかりに見えていたのです。 ところが歴史は皮肉なものでした。9月15日、日本海軍の首脳が三国同盟を決めたまさにその日、ドイツ空軍がロンドン上空で大打撃を受けていたのです。戦況の潮目が変わっていました。さらにもうひとつの皮肉も付け加えておきましょう。 9月19日に御前会議が開かれ、三国同盟は国策として決定されるのですが、その二日前の9月17日、ヒトラーが重大決定をしていました。英本土上陸作戦を完全に放棄し、ソビエト侵攻に方向転換の決定をしていたのです。「日独伊ソの四国協定によって英米に対抗する」という甘い夢が、露と消えたことを日本人はまだ知るよしもありません。『半藤一利の昭和史』2:東京大空襲『半藤一利の昭和史』1:戦争文学としての『いちばん長い日』
2023.07.15
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図書館に予約していた『満洲国から見た近現代史の真実』という本を、待つこと8日ほどゲットしたのです。このところ、覇権スタンスを隠そうとしない中国を見るにつけ・・・やや右寄り(と思われる)の宮脇さんのご意見を見てみたいと思うのです。【満洲国から見た近現代史の真実】宮脇淳子著、徳間書店、2019年刊<「BOOK」データベース>より五族にとって満洲国とはどのような国であったか?歴史を政治の道具にする中国・韓国に、日本は歴史の事実を武器に反撃せよ!<読む前の大使寸評>このところ、覇権スタンスを隠そうとしない中国を見るにつけ・・・やや右寄り(と思われる)の宮脇さんのご意見を見てみたいと思うのです。<図書館予約:(7/01予約、副本1、予約0)>rakuten満洲国から見た近現代史の真実「第六章 日本はなぜ満洲国を建国したのか」でこの本の勘所を、見てみましょう。p161~163<日本はなぜ満洲国をつくらなければならなかったのか> そもそも関東軍が1919年に独立の在満軍事機関として発足したのは、1917年のロシア革命と社会主義への脅威からだったということは、いまでは忘れ去られています。かれらの任務は、日露戦争で勝ち取った日本の権益を守るための、満蒙の治安維持でした。 朝鮮と満蒙にはすでに共産主義運動が広まっており、1928年から始まったソ連の第一次5ヵ年計画では、西部シベリアが開発され、特別極東軍も整備されつつありました。張学良が東支鉄道(かつての東清鉄道)を強行回収したことに端を発する1929年の中ソ紛争では、ソ連が新設したばかりの特別極東軍が、装備の近代化をすすめていた張学良軍を圧倒しました。 このとき「もしも日本が満蒙になんらの勢力を有していなかったならば、ロシア軍は恐らくいささかの躊躇もなく、北満一帯はおろか南満洲の武力占領もあえて辞さなかった」だろうと板垣征四郎は述べました。かれはさらに「満蒙の赤化は直ちに朝鮮の治安を乱し、朝鮮の治安が乱れれば日本内地の治安に影響する」と考えたのです。 中国は依然として軍閥割拠がつづいており、南京の国民政府は実質的に満蒙を支配する実力がありません。中国全体の治安も悪く、また、日露戦争で日本が勝利しなければ、満蒙はロシア領になっていたはずで、この戦争に中国政府は何一つ貢献していません。それにもかかわらず、いまになって国権回復といって「十万の英霊、二十億の国帑(国庫金)」を費やして日本が得た正当な権益を攻撃し、日本人が長年にわたって開拓したものを無償で返せというのは許せない、と軍人だけでなく当時のふつうの日本人も考えたのです。 一方、有名な石原莞爾の満蒙領有論は、「日米開戦は避けることのできない世界史上の必然であり、支那問題、満蒙問題は対支問題に非ずして対米問題である。世界最終戦としての日米戦争を闘うつもりがないのなら、満蒙も必要でなく、軍備も放棄してしまったほうが、小手先で戦争回避の手段を弄するよりはるかに日本のためである」というものでした。 石原はまた、このようにも言っています。「支那人がはたして近代国家をつくることができるかどうかはすこぶる疑問で、むしろわが国の治安維持のもとで、漢民族の自然的発展を期待するほうがかれらのために幸福であることは間違いない。満蒙は満洲人とモンゴル人のものであって、彼らは漢民族よりもむしろ大和民族に近い。日本の努力が減れば満蒙も中国と同じ混沌状態におちいるだろう」 満蒙は、革命の総本山ソ連に対峙する最前線でした。対ソ戦の観点から見れば、これまで日本が特殊権益を持つ南満洲、東部内蒙古にとどまらず、北満洲からソ連を追い払うことが必要である。この考えが、満洲国建国の原動力となりました。 関東軍ははじめ、満蒙領有計画を持っていましたが、満洲事変勃発からわずか四日後には、独立国家案へと後退しました。それは、陸軍参謀本部の反対が思いのほか強かったからです。そこで石原は、国防を日本に委任し、鉄道・通信を日本の管理に委ねることを条件として、日本の保護下に満蒙を独立国家とするという解決策を出し、結局それが採用されることになったわけです。石原莞爾の深慮遠謀が「戦争不拡大・反東条」を主張したカリスマ軍人・石原莞爾はなぜ“満州事変”を計画したのかに出ています。『満洲国から見た近現代史の真実』2:明朝時代のモンゴル『満洲国から見た近現代史の真実』1:現代中国がタブー視している満洲
2023.07.13
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図書館に予約していた『満洲国から見た近現代史の真実』という本を、待つこと8日ほどゲットしたのです。このところ、覇権スタンスを隠そうとしない中国を見るにつけ・・・やや右寄り(と思われる)の宮脇さんのご意見を見てみたいと思うのです。【満洲国から見た近現代史の真実】宮脇淳子著、徳間書店、2019年刊<「BOOK」データベース>より五族にとって満洲国とはどのような国であったか?歴史を政治の道具にする中国・韓国に、日本は歴史の事実を武器に反撃せよ!<読む前の大使寸評>このところ、覇権スタンスを隠そうとしない中国を見るにつけ・・・やや右寄り(と思われる)の宮脇さんのご意見を見てみたいと思うのです。<図書館予約:(7/01予約、副本1、予約0)>rakuten満洲国から見た近現代史の真実「第二章 満州とはどういうところか」で明朝時代のモンゴルを、見てみましょう。p47~51 北京に行ったことがある方はわかると思いますが、八達嶺にしろ司馬台にしろ、万里の長城はどちらの方向にも、北京市街から日帰りで遊びにいく距離にあります。万里の長城から北は漢人は住んでいなかった。つまり、モンゴル人の土地だったということです。明代は北京からあれほど近い場所がモンゴルだったのです。 明はモンゴルに負けに負けました。明の記録では、モンゴル高原の遊牧民を「蒙古(モンゴル)」と呼ばずに「韃靼(タタル)」と呼び替えています。シナの正統史観では、明は元から天命を受け継いだ王朝でなくてはなりません。ですから、言葉の上だけ、彼らが元朝の後裔であることを否定したのです。<モンゴルと女直との交易で発展した瀋陽と遼陽> モンゴルにはまったく歯が立たなかった明も、満州では戦果をあげました。元軍を撃退し、現地の狩猟民を手なづけることに成功します。ここに住んでいたのが女直(女真)です。遼、金、元、明の史料で「女直」、宋と朝鮮の史料では「女真」と漢字が異なりますが、同じ民族です。モンゴル語で「ジェルチト」、女真語では「ジュシェン」と呼ばれました。 万里の長城の北側で、大興安嶺山脈を境に肩を並べる形で接するモンゴル人と女直人は、地形と気候の差によって、遊牧民と狩猟民という民族性の違いになりました。先に述べたように、大興安嶺山脈の西側のモンゴル高原は年間降水量が200ミリ程度しかなく、農耕には向かない土地です。古くから五畜と呼ばれるヒツジ、ヤギ、ウシ、ウマ、ラクダを放牧しながら移動式住居の天幕で暮らす遊牧民の地でした。 これに対して、東の満州平野(中国東北平原)は年間降水量が500~600ミリあり、森林とまではいかないまでも、灌木地帯ができる。すると、放牧は難しくなります。ですから、満州の狩猟民は歩いて移動します。森に入って獣を捕り、朝鮮人参を掘り、木の実を拾ったり、淡水産の真珠を採って、それを交易に行って暮らしていました。この辺りでは昔から豚も飼っていました。 騎馬民族のモンゴル人と狩猟民族の女直人は、大興安嶺山脈の東側で接触し、古くから交流していました。お互いに必要なものを物々交換する交易の町として栄えたのが、瀋陽や遼陽です。のちに、これら遼東の主要都市を鉄道でつないだのが満鉄です。日本人は遼東というと、旅順や大連など遼東半島だけをイメージしてしまいますが、そうではなくて、遼河の東、つまり半島から北の内陸部にかけての地域を指しました。 遼河の西は遼西といって、ここはモンゴル人が住む地域でした。沼地が多くて農業には不向きな土地で、主として遊牧が行われていました。大興安嶺山脈の東の裾野に当たるところまでがモンゴル草原で、かつての満州帝国興安省、いまは中国内モンゴル自治区になっています。 この土地は清朝時代にはモンゴル人だけが住む場所でしたが、ちょうど日清、日露戦争の頃から漢人農民が入ってくるようになり、漢化が激しくなっていきました。『満洲国から見た近現代史の真実』1:現代中国がタブー視している満洲
2023.07.12
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図書館に予約していた『満洲国から見た近現代史の真実』という本を、待つこと8日ほどゲットしたのです。このところ、覇権スタンスを隠そうとしない中国を見るにつけ・・・やや右寄り(と思われる)の宮脇さんのご意見を見てみたいと思うのです。【満洲国から見た近現代史の真実】宮脇淳子著、徳間書店、2019年刊<「BOOK」データベース>より五族にとって満洲国とはどのような国であったか?歴史を政治の道具にする中国・韓国に、日本は歴史の事実を武器に反撃せよ!<読む前の大使寸評>このところ、覇権スタンスを隠そうとしない中国を見るにつけ・・・やや右寄り(と思われる)の宮脇さんのご意見を見てみたいと思うのです。<図書館予約:(7/01予約、副本1、予約0)>rakuten満洲国から見た近現代史の真実「第二章 満州とはどういうところか」で満州の基礎情報を、見てみましょう。p33~40<現代中国がタブー視している満洲> いまの中華人民共和国では、「満洲」ということばはタブーになっています。清朝の支配階級だった満洲人の後裔たちはいまも1000万人以上いるのですが、かれらは満洲人とは呼ばれず、満族と呼ばれます。歴史的なことでどうしても満洲ということばを使わなければならないときは、かならず「偽満洲」と、偽という字を上につけなければなりません。それは、日本がかつて傀儡の満洲国をつくった歴史を、すべて悪いものと考えることにしようという、現代中国の固い決意なのです。 現代中国の言う「歴史」はすべて政治ですから、この本ではそんなことは気にせずに、かつてあったことを説明するために満洲ということばをおおっぴらに使います。私が別の本で詳しく書いたように(『世界史のなかの満洲帝国』PHP新書)、「満洲」という漢字の使い方は史実ではなくて誤っていますから、あくまでも「満洲」と、さんずいをつけた洲の字を使いましょう。 さて、満洲(英語でManchuria マンチュリア)と呼ばれる土地がどのようなところなのかを最初に説明します。<遊牧民と狩猟民の住地であった満洲の地理> かつての満洲には、いま、北から黒竜江省、吉林省、遼寧省の中国の東北三省がありますが、省は、1912年に中華民国という、はじめて中国という国家が誕生する前にもシナ内地に置かれていた行政区でした。省という地方行政区の起源は、モンゴル人がシナに建てた元朝時代に、中書省の出先機関という意味で地方に置いた行中書省を縮めた行省にあります。 満洲に清の東三省が置かれたのは、日露戦争のあとの1907年でした。あとで詳しく述べますが、それまでは満洲はシナ内地とは別の土地と考えられていたのです。 この東三省は、合計123万平方キロメートルあります。いまの日本の面積が約38万平方キロメートルですから、およそ三倍です。その真ん中に、むかし満洲平野と呼んだ東北平原があります。南北に長くて、面積は35万平方キロメートルです。ちょうど日本の面積くらいです。 北は黒龍江(ロシア語ではアムール河)がロシアとの国境になっていますが、黒龍江は、支流の烏蘇里(ウスリー)江が南から流れ込むところで、中ロ国境を離れて北上し、間宮海峡(韃靼海峡)の北端の樺太(サハリン)の対岸で、オホーツク海に注ぎ込んでいます。ウスリー江から東側は、ロシアの沿海州です。 満洲平野を流れるもっとも大きな河は松花江で、北流して黒竜江に注ぎ込みます。その次に大きい遼河は、打ちモンゴルの草原から流れ出して、渤海に注ぎ込みます。北朝鮮との国境は、東は図メン江(朝鮮では豆満江と呼びます)が日本海に注ぎ込み、西は鴨緑江が黄海に注ぎ込んでいます。 満洲北部は日本の北海道よりも緯度が高く、しかも内陸性気候で寒暖の差が大きいです。黒龍江や松花江は半年間も氷結し、鴨緑江や遼河でも冬季3ヶ月間は氷で閉ざされます。(中略) 満洲北部に入植した日本人は冬の寒さに苦労しました。ロシアとの国境警備のために黒龍江に派遣された関東軍の日本人兵士は、まつげもおしっこも凍った、と書いています。 ところが、シベリアから南下してきたロシア人にとっては、アムール河沿岸は夢のようによいところだったというのです。穀物がとれ、家畜も多く、森林には貴重な毛皮獣が住み、河には魚類がまるで河岸に自分からよじ登ってくるほどたくさんいた、と書いてあります。(中略)<モンゴル帝国がのちの満洲を征服する> 複雑な近現代史をひも解く前に、13世紀にさかのぼって満洲の歴史を見ておきましょう。モンゴル人の建てた元朝は、清朝にも、いまの中国にも大きく影響を与えているからです。 いまの中国東北地方は、13世紀にはモンゴル帝国の支配下にありました。かつて「満蒙」という言葉が使われていたように、満洲とモンゴルは歴史的に深いつながりがあります。 12世紀後半、モンゴル部族から出たテムジン、のちのチンギス・ハーンは、はじめ金の同盟部族となって、ほかの遊牧部族を征服していきました。金はのちに満洲族と名前を変える女直(女真)が建国した国です。そして、1206年、ケンテイ山脈のオノン河の源にモンゴル高原の全遊牧部族の代表を招集し、この会議の席上で盟主に選挙されて、チンギス・ハーンという称号を採用しました。これがモンゴル帝国の建国です。 チンギス・ハーン率いるモンゴル軍は、東方で金を討ち、西方では中央アジアに遠征しました。チンギス・ハーン自身は、南の西夏王国を攻撃している1227年に他界しましたが、息子たちや将軍たちはその遺志を受け継いで攻撃と拡大を続け、東は日本海沿岸から西はロシア草原までがモンゴル帝国の領土になりました。
2023.07.11
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図書館で『半藤一利の昭和史』というムック本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・半藤さんが精査した新聞秘蔵写真なるものによって、リアルな皇国シーンが見えるのです。【半藤一利の昭和史】ムック、 文藝春秋、2021年刊<商品レビュー>より妻が亡くなられた半藤一利氏のファンだったので、ムック化された本品を購入してプレゼントしました。とても喜んでくれました。半藤氏の昭和に関する研究・著作は大変勉強になるもので、これを機に夫婦で再勉強したいと思います。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・半藤さんが精査した新聞秘蔵写真なるものによって、リアルな皇国シーンが見えるのです。rakuten半藤一利の昭和史PART 1「半藤少年がくぐり抜けた戦争と空襲」で東京大空襲が語られているので、見てみましょう。p20~22<命からがら、東京大空襲の夜> いま考えると、私が初めて歴史と正面から向き合ったのがその時でした。つまり、昭和史“探偵”の原点がそこにある。昭和20年3月10日・・・。まずはその前の晩のことからお話ししましょう。 9日の夜、東京に警戒警報が鳴ったのは、午後10時半頃でした。この警戒警報というものにすでに慣れっこになってしまっていましたから、この日もさほど驚らかなかった。 軍需工業じゃなければ爆弾は落とされない、さすがにあの頃はもうそんなことを考える人は誰一人いませんでしたが、逆に言えば、どこにいようが当たってしまえばもうそれまで、と覚悟を決めていたところもあったんですね。ですから、あの晩も警戒警報が鳴ったにもかかわらず、おやじと二人、呑気に寝ていたんですよ。 東京で米軍のB29による空襲が始まったのは、前年の昭和19年11月24日のことです。11月1日からB29が東京上空に飛来して、警戒警報が発令されることがしばしばありましたが、それはせいぜい一機か二機、偵察に飛んで来るだけで、いわゆる空襲ではありませんでした。 しかも空襲が始まったといっても、最初のうちは中島飛行機があった武蔵野地区が標的でしたので、私が住んでいた向島(墨田区)あたりはB29はただ素通りして行くだけ。それも攻撃は昼間と決まっていましたから、澄みきって青々とした冬空を、B29の編隊がキラキラ輝きながら、飛行機雲をひっぱって飛んで行く姿がきれいでしてね。 向島あたりではみんな物見高くて、空襲だといってもまるで他人事のように見物しているような有り様だったんです。なんとものんびりしたものでした。 私が勤労動員で働いていた工場でも、B29が来ると、作業を停止して防空壕に退避するんですが、誰も中に入りゃしない。自分の身に降りかかってこない間は、映画なんか観ているよりよっぽど面白い。坂口安吾さんが書いたように「正規の見せ物」ですからねえ(笑)。 19年の暮れ頃までは、まだ我が周辺には空襲による死者もそれほど出ていなかったし、時には日本の戦闘機がB29に食らいついて撃墜することもありましたから、「日本もまだまだよく戦っているわい」なんて思いもみんなのどこかにあったんでしょう。 年が明けて、戦略爆撃機の専門家としてヨーロッパ戦線で名を馳せた、カーチス・ルメイが、テニアン、サイパン、グアムを基地とする第20空軍の指揮をとるようになる。 ルメイはそれまでの高高度からの照準爆撃じゃ効果が少ないことに苛立って、攻撃法を変えろと命じました。だいたい日本の家屋は紙と木でできている、爆弾ではなく焼夷弾の方が有効だ、しかも、編隊ではなく単機で、昼間に超低空で攻撃せよ、と。 このカーチス・ルメイに日本の政府は勲一等の勲章をあげるんです(昭和39年)。いくらなんでもそれはないんじゃないの、とガックリしました。 このルメイの作戦変更による第一回の夜間無差別大空襲こそが、この3月10日夜の東京大空襲だったのです。 母親と弟、妹たちは茨城県に疎開してしまっていましたから、向島の我が家にいたのは、おやじと私だけ、昭和5年5月生まれで私は満で14歳、中学2年生でした。『半藤一利の昭和史』1:戦争文学としての『いちばん長い日』
2023.07.11
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図書館で『半藤一利の昭和史』というムック本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・半藤さんが精査した新聞秘蔵写真なるものによって、リアルな皇国シーンが見えるのです。【半藤一利の昭和史】ムック、 文藝春秋、2021年刊<商品レビュー>より妻が亡くなられた半藤一利氏のファンだったので、ムック化された本品を購入してプレゼントしました。とても喜んでくれました。半藤氏の昭和に関する研究・著作は大変勉強になるもので、これを機に夫婦で再勉強したいと思います。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・半藤さんが精査した新聞秘蔵写真なるものによって、リアルな皇国シーンが見えるのです。rakuten半藤一利の昭和史多くの人から「半藤さんから受け取ったもの」が語られているので、見てみましょう。<戦争文学としての『いちばん長い日』:加藤陽子>p148 1月12日に長逝された半藤一利さんの仕事について、この2週間ばかり、振り返り、読み返しなどして考えていた。半藤さんの仕事を再定義することは、共に歴史を語り合った者の負うべき役目だろう。まず、作品群を三つの画期に分けて考えてゆくのはどうだろう。 文藝春秋社の屋台骨を担った編集部次長・編集長時代、昭和戦前期の一次資料の解題や注釈づけに奔走した産婆役時代、編集者として仕えた作家・坂口安吾のことば「歴史探偵学」にちなみ、「歴史探偵」と称して健筆を振るった作家時代、の三期となろうか。その上で、『昭和天皇独白録』(文藝春秋)は第二期だな、『昭和史』(平凡社)は第二期だな、などと頭を整理してゆく。 だが何を措いても、第1期の代表作『日本のいちばん長い日』(文藝春秋)[以下『長い日』と略す]が大事だろう。改めて読み直してきちんとした評価を下したい。全ての創作者にとって最初の作品には、作家の特徴の全てが内包されているという。『長い日』にもこれは当てはまる。 本作を書いたときの半藤は35歳、『文藝春秋』編集部次長の重職にあった。夏の刊行に合わせるため、春から毎朝4時起きで机に向かった若き日の思いを半藤は、日1日と夜明けが早まってゆくのがわかった、と決定版「あとがき」に記す。執筆の進捗具合を瑞々しく捉えたこの感性は、本文中にも随所に見られる。史劇の後半で、クーデター失敗が確実になってくるあたりから、夏の朝の日差しの描写が印象的に増やされてゆく。 今回読み直し、『長い日』の各章タイトルが、凝った作りになっているのに初めて気づいた。1945年8月14日正午から15日正午までの24時間を描いたものだが、1時間ずつの進展を24の章で構成し、しかも各副題はといえば、その時間帯の主人公の口にする短い「台詞」で表現していて、唸らされる。一例を挙げれば、クーデター計画の失敗が明らかになる章、「午前6時‐7時」の副題は「“”天皇はいわれた」との、印象深いものとなっている。 『長い日』は、軍隊に敗戦の事実を認めさせつつ無条件降伏するという難題を実行した人々を多面的に描いた。ポツダム宣言受諾による終戦がいかに紙一重の真剣刃渡りであったか、これを半藤は、執筆の2年前に自ら企画した30名の大座談会出席者を始めとする80余人への聞き取りや新出史料で描いた。蹶起将校の側の論理を説得的に描き、天皇が二度の聖断を下した際の言葉を最も信頼できる典拠で再現した、歴史作品としての不動の評価は揺るがない。 だが私は『長い日』をあえて、戦争文学の傑作として位置づけてみたい。歴史科文学かという二分法に陥りたいのではない、まして、歴史学の立場から本作品に対し、これは歴史ではなく文学だと言いたいのでは全くない。 そうではなく、近代日本の戦争文学が達成できなかった観点を、『長い日』が易々とクリアしてしまった点に注目したいのだ。『石の来歴』の作者奥泉光は、日本の戦争文学に関する座談会でこう述べていた。いわく、従来の戦争文学は二つの型に篏まっていた、その一つは、個にとっての軍隊を単なる狂気、非合理として描くもの。もう一つの描き方は、個を軍隊という組織の中に埋没させて描くものだった。 だが人間は、具体的な集団の中に子として存在しており、実生活の重要な部分は、集団と個の関係で推移しているにもかかわらず、日本の近代文学はこれまで集団のレヴェルを描くことができなかったのではないかと。『長い日』は違った。 半藤が各章で主語として設定した人物、ある時は阿南陸相、ある時は昭和天皇、これらの個は陸軍省の中において、あるいは宮内省や御前会議の場において、いとも天然自然に「生きて」動いていた。戦争の最終盤における人間を『長い日』は見事に描いていた。(中略) 半藤は、三つの画期を通じて、過去を描いてきた人だ。小林秀雄がこんなことを述べていた。多くの作品が過去を描きながらも、あるものは未来を創りだす力があり、あるものにはそれがない。その差を小林は「天才の刻印」と命名していた。『長い日』に限らず半藤の作品は未来を創り出せる。半藤は「万能の天才児」だったのだろう。大人の身体に健全な「児」を宿していた人だった。
2023.07.10
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図書館で『米中ソに翻弄されたアジア史』という新書を、手にしたのです。中国のような全体主義国家に世界を征服されていいのか?という通底論調に裏打ちされた本なのでチョイスしたのです。【米中ソに翻弄されたアジア史】江崎道朗, 福島香織著、 扶桑社、2022年刊<「BOOK」データベース>より今なお続く、中共による各国への“共産主義浸透工作”。それは、日本にとって決して他人事ではない!カンボジアをはじめ、東南アジアすべてにおいて「中共の革命輸出」はどのようになされたのか?3人の気鋭の著者による画期的な“真実のインドシナ史”。<読む前の大使寸評>中国のような全体主義国家に世界を征服されていいのか?という通底論調に裏打ちされた本なのでチョイスしたのです。rakuten米中ソに翻弄されたアジア史「第四章 鼎談」の続きが語られているので、見てみましょう。鼎談「中共の暴虐とインドシナの命運」>p263~266■中華思想はコンプレックスの裏返し福島:米中対立が先鋭化して、香港の問題などが起きてくると、私自身も、ネット上やメールなどで非常に変な輩にからまれたりするのです。明らかに中国人なんだけど、日本人をよそおっていたりしていて。日本人を名乗っているから、日本国籍を取っている華人、いわゆる「ネット紅衛兵」「小粉紅(ピンクちゃん)」と呼ばれる新華人、あるいは中国人留学生かもしれません。 世界中にこうした、中華民族意識の強い、若い、比較的教育レベルの高い新華人が増えていて、忠実に中共の代弁者のふるまいをします。彼らは、昔の華人たちが中共に利用されて捨てられたり裏切られたりした経験や歴史を知らずに、今の中共政権の繁栄だけを見ている世代なので、華人としての自意識が高い。その一方で、外国に行くと何とも言えない差別や排斥にあう。そういうアイデンティティの微妙なところをついて、うまく洗脳され、「習近平はいい皇帝だ」みたいなことを本気かどうかは知りませんが叫び出して、中国に有利になるようにSNS上で世論誘導したり、反対意見を攻撃したりしています。宮脇:中国の先兵になって働いているのですね。福島:中国が「偉大」になっていることに対する、民族としての微妙な誇り、虚栄心を持っているのに、アメリカなどではすごく差別されている。 でも、だからこそ、中共は過去に、そういう華人たちを使って、何をしてきたかというのを、もう一度見直すことに意義があると思って、第三章を書きました。カンボジアの悲劇、ポル・ポトの悲劇などにも、明らかに、華人が使われていたのです。 今も、「香港のデモ参加者はアメリカの操り人形だ」とか、「本当は香港の若者たちが市民を虐殺しているんだ」などと言ってみたり、あるいは、アメリカで起きているBLMの反人種差別デモの暴動化を扇動したりとか、中共の指示に従ってそういうことをしている華人はいます。 トランプ政権が2020年7月22日にいきなりヒューストンの中国総領事館の閉鎖を命じましたが、この総領事館は華人留学生・研究者に対して、新型コロナワクチン開発の機密を盗んだり、スパイ工作にあたらせる「スパイ・センター」であったと、デビッド・スティルウェル国務次官補が指摘しています。1950~70年代のカンボジアなど東南アジアでの華人特務員も、中国の在外公館がセンターでしたから、同じことをやっているんですね。(中略) 普通の華人なんだけれども、うまくコントロールされているのですよね。コントロールされているうちに本当の特務員になる人もいると思うのだけれども、彼らに信念や忠誠心があるわけではない。 中国共産党のほうも、だんだんと才能のある人間を選別していくのです。今、私たちに絡んできている中国人というのは、特務とかそういうレベルではなく、単に民族のプライドとコンプレックス、あるいは望郷心を刺激されて、うまく乗せられて動いているだけかと。世論を意図的に誘導しているのではなく、誘導されている側かもしれません。宮脇:それは、江崎先生がいつも言われている、ソ連共産主義がやったことと重なるわけで、本当のスパイではなくて、知らないうちに動かされてしまう人が、いっぱいいるわけですね。江崎:共産党に騙されて利用される人たちのことを専門用語で「デュープス」といいます。宮脇:だから、19世紀末からは、そういう時代なんですよ。人口が増えて大衆社会になると、アジテーション、扇動がうまいグループが政治的に優位に立つのですが、それをやるのが上手なのが左なのですよね。福島:デュープスというのは、いかにも“おバカさん”みたいなイメージですが、非常にみんな有能なのです。有能だから使われるのです。知識人が。『米中ソに翻弄されたアジア史』2:新書化にあたってのあとがき『米中ソに翻弄されたアジア史』1:鼎談「中共の暴虐とインドシナの命運」
2023.07.07
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図書館で『米中ソに翻弄されたアジア史』という新書を、手にしたのです。中国のような全体主義国家に世界を征服されていいのか?という通底論調に裏打ちされた本なのでチョイスしたのです。【米中ソに翻弄されたアジア史】江崎道朗, 福島香織著、 扶桑社、2022年刊<「BOOK」データベース>より今なお続く、中共による各国への“共産主義浸透工作”。それは、日本にとって決して他人事ではない!カンボジアをはじめ、東南アジアすべてにおいて「中共の革命輸出」はどのようになされたのか?3人の気鋭の著者による画期的な“真実のインドシナ史”。<読む前の大使寸評>中国のような全体主義国家に世界を征服されていいのか?という通底論調に裏打ちされた本なのでチョイスしたのです。rakuten米中ソに翻弄されたアジア史「あとがき」で習近平の問題点が語られているので、見てみましょう。p300~302新書化にあたってのあとがき> 中国の習近平が2022年10月の第20回党大会で総書記任期第三期目を続投することになり、中国共産党が集団指導体制の改革開放路線から、習近平個人独裁体制の毛沢東路線回帰の道を加速させるというタイミングで、本書が新書化され、新しい読者のお手元に届くことになりました。これは大変意義深いことだと感じています。 本書は20世紀のカンボジア情勢と米中ソを中心とした国際情勢に対する考察が一つのテーマですが、当時の毛沢東の革命輸出やイデオロギーのアジアへの影響力、米中ソの対立構造などは今まさに進行中の国際社会の枠組み変動に相通ずる部分があると思います。 鄧小平は毛沢東の個人独裁時代の悲劇、大躍進や文化大革命の教訓っから、個人独裁・個人崇拝を否定し、集団指導体制による経済優先の改革開放路線によって人民を豊かにすることに政治の重点を置くようになった。この変化に伴い、中国は革命思想の輸出をいったん中断します。 同時に1989年の天安門事件で民衆を戦車で鎮圧するという十字架を背負い、政治改革にはブレーキをかけた。この結果、経済は改革開放で市場化、自由化、グローバル化が進むが、政治は権威主義独裁のままで、党内の利権化、腐敗か、経済と権力の癒着、貧富の格差などの矛盾が突出。この矛盾解決を託された習近平は、文革時代の農村下放によって刷り込まれた毛沢東思想に従うやり方しか思いつかなかったわけです。 粛清で利権集団を潰し、イデオロギー統制、管理監視強化の徹底で、党内・人民の不満、反対の声を恐怖で封じ込めた。経済を軽視し、習近平は党指導部から反対派のパージに成功し、集団指導体制はもはや機能しなくなりました。これが習近平第三期目スタートの意味です。 この習近平路線を誰も阻止できなければ、毛沢東時代動揺、習近平新時代のイデオロギー輸出が再開し、世界は20世紀半ばの不安定時代に回帰するかもしれません。実際、習近平は準警察機構を世界の華僑圏に設置したりして、その統治、監視網を広げつつあります。 おりしも、ロシアのプーチンによる戦争で、安全保障枠組み再構築の動きが加速しています。微妙に牽制し合っていた中ロ関係は中国が風上に立つようになり、イランなどが中ロに急接近。米国は中国をグローバル経済・安全保障枠組みから排除しようとしていますが、中国も反米新興国・途上国による新たな国際枠組み形成をもくろんでいる。そのコアとなるのが、上海協力機構や一帯一路であるとすれば、これは中葉アジア、ユーラシア、東南アジアを巻き込むことになる。そしてこの二つの対立する国際枠組みのはざまにあるのが日本と台湾。 さて、この混沌の時代に日本がどのように活路を見出すのか。インドシナ半島の歴史を比較的微細に複数の視点から紹介した本書に、そのヒントを見出してもらえると自負しています。 2022年11月『米中ソに翻弄されたアジア史』1:鼎談「中共の暴虐とインドシナの命運」
2023.07.05
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図書館で『米中ソに翻弄されたアジア史』という新書を、手にしたのです。中国のような全体主義国家に世界を征服されていいのか?という通底論調に裏打ちされた本なのでチョイスしたのです。【米中ソに翻弄されたアジア史】江崎道朗, 福島香織著、 扶桑社、2022年刊<「BOOK」データベース>より今なお続く、中共による各国への“共産主義浸透工作”。それは、日本にとって決して他人事ではない!カンボジアをはじめ、東南アジアすべてにおいて「中共の革命輸出」はどのようになされたのか?3人の気鋭の著者による画期的な“真実のインドシナ史”。<読む前の大使寸評>中国のような全体主義国家に世界を征服されていいのか?という通底論調に裏打ちされた本なのでチョイスしたのです。rakuten米中ソに翻弄されたアジア史「第四章 鼎談」で中共の暴虐が語られているので、見てみましょう。鼎談「中共の暴虐とインドシナの命運」>p252~255■中国の「一帯一路」に対抗するための東南アジアへの投資江崎:宮崎先生が今回まとめてくださいましたが、カンボジア、インドネシアのことについては体系立った歴史記述がありません。宮脇:日本の東洋史家は、戦前は、大学を卒業したら、たとえば東南アジアに赴任して、すぐに南方司政官のような偉い役人になれた。先進諸国で外国のことを勉強するのは、どこでもみんな植民地経営のためだったんです。だから、日本が進出していく土地すべてについて研究が進んだのですけど、戦後は、東洋史のせいで大東亜戦争を起こしたと言われて、叩かれて、みんな委縮してしまった。満蒙はもともとシナじゃなかった、と東洋史家が言ったせいで、満州事変を起こして、結局、原爆を落とされた、とか言われたの。 それで、戦後の東洋史学は、絶対に現代政治には関わらないという人たちばかりになって、しかも大学は左が強くて、現代中国礼賛の人ばかりが残って先生になったという図式です。私が今回参考にして一番よかったのが、インドシナ半島の歴史をお一人で描かれた石井米雄先生の概説書なんだけど、ひと握りの先生以外は、若い研究者たちも現実離れしたままです。福島:先ほどの、日本も、カンボジアやベトナムやタイに投資をという話なのですが、これから国際社会の枠組みの再構築という時代に入るのだとすれば、そのときの、次の布石になるための投資であり、進出ということなんです。 つまり、ビジネスの、お金儲けのためだけではなくて、なぜこの投資をしなければならないかという意味をわかっていないといけない。中国の「一帯一路」というのは間違いなく、そういうことを考えているのだけれども、今の日本のビジネスマンは、たとえば、カンボジアに投資とか、ベトナムに進出などと考えても、失敗しやすいのです。言葉も習慣も違って難しいから。 そのとき仲介役に広西チワン族自治区にいる、チワン系やベトナム系やクメール系の中国人らと組むとうまくいくよというのを、ベトナム在住者に聞いたことがある。あの辺は人種のるつぼで、ベトナム華僑やカンボジア華僑の帰住者などもいっぱいいるわけです。 台湾のビジネスマンなどは、華僑ネットワークを使って、こうした人たちと組むんだ。逆にそういう人たちと組まなければうまくいかないよという話を聞きました。そうなってくると、現地管理職などで働く人間、先兵が、全員中国人ということになってしまう。 これでは、日本がお金を出しても、実は中国が全仕事を請け負っているみたいなことになりかねない。東ティモールに行った時に、日本のJICA(国際協力機構)のプロジェクトなのに、働いているのは中国企業と中国人労働者というような現場を実際にいくつも見たのです。 カンボジアでも実感しました。中国の存在感の強さというのは、本当に脅威。宮脇:日本のビジネスマンは、中国に乗っかって、儲けようとしか考えていないのですから、今も中国と一緒にやろうとしているでしょう。福島:2018年秋の安倍首相訪中のとき、「一帯一路」支持を打ち出しましたね。「一帯一路」じゃなくて「第三国における民間経済協力」という言葉に言い換えていましたけれど。結局、日本人は、中国の「一帯一路」に乗っかってしか、東南アジアに投資できないのか、というイメージがある。宮脇:というか、安倍首相が中国に軟弱なのは、ビジネスマンから圧力を受けて、そう言ってくれ、中国とうまくやってくれということだと思います。福島:でも、それではダメなのです。「一帯一路」を潰すぐらいの気持ちで進出しないと。投資とかビジネスというのはお金の問題だけではないというのが、中国が今やっていることなのですから。江崎:実は中国の「一帯一路」に対抗して2019年11月、アメリカが日本とオーストラリアと一緒になって「ブルー・ドット・ネットワーク(BDN)」という、対アジア・インフラ投資の国際組織をつくりました。東南アジアが「一帯一路」で買収されているのに対して、日米豪が対抗しようとしているわけですが、日本では驚くほど関心が薄い。宮脇:日本の政治家もビジネスマンも、戦後の教育が悪いから、誰もそんな覇気がない。中国に対抗しようなんて怖いことは考えたくもないというような人たちばかりなので、余計なことはしない。お金にしか興味がない。福島さんがいつも書いているように、中國みたいな、あんな専制的な全体主義国家に世界を征服されていいのか、あんなやり方を許しのかと、私たちがどんなに言っても、なかなか危機感が生まれないですよね。
2023.07.04
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図書館に予約していた『南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史』という本を、待つこと7日ほどでゲットしたのです。米中が対峙する境界線といえば、台湾海峡と南シナ海であり、インドを加えた日米豪印クアッド(QUAD)は対中防衛軍でもあるわけで・・・必読書とも言えるこの本をチョイスしたのです。【南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史】ビル・ヘイトン著、河出書房新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より境界線と領有権の「なぜ」を詳説!人工島の拠点化、緊張する周辺国、衝突の危険と不測の事態。「南シナ海の歴史」は「世界の歴史」であり、その未来は世界の関心事だ。ここで起こることは世界の未来を決めることになる…歴史、国際法、資源、政治、軍事など、あらゆる角度から解説する必読書。<読む前の大使寸評>米中が対峙する境界線といえば、台湾海峡と南シナ海であり、インドを加えた日米豪印クアッド(QUAD)は対中防衛軍でもあるわけで・・・必読書とも言えるこの本をチョイスしたのです。中国外務省の報道官は「クアッドは時代遅れの冷戦思考に満ちており、軍事的な対抗の色彩が強く、時代の流れに逆行し、人々の支持を得られない」とけん制しています。<図書館予約:(6/09予約、副本2、予約1)>rakuten南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史「エピローグ」で、南シナ海の平和共存を、見てみましょう。p357~359<エピローグ> 2014年3月、マレーシア航空MH370便からの連絡が途絶えると、ただちにベトナム、中国、フィリピン、シンガポール、インドネシア、タイ、アメリカの船が南シナ海で生存者の捜索にかかった。海上でこのような協力が見られるのはかつて例のないことだった。 しかし、墜落したとみられる場所がもっと南東寄りだったら、見苦しい国際的な論争が始まっていたかもしれない。「U時型ライン」の内側では、いかなる捜索救難活動も時刻が主導すると中国が主張し、中国の主権を認めることになってはたまらないと、他の国々は協力を拒否していただろうからだ。しかし今回は、領有権の問題がおおむね解決されている海域での事故だったおかげで、関係国すべてが協調して作業にあたることができた。 このような事例が積み重なれば、南シナ海に平和共存の新時代が開かれる・・・そう考える楽観主義者もいるかもしれない。信頼感が生まれ、自信が深まり、好循環が始まるというわけだ。実際的な協力はつねに喜ばしいことだし、正しい方向への一歩なのはまちがいないが、根本的な対立が解消されないかぎり、平和はたえず領土問題におびやかされることになるだろう。 事実、MH370便の自己から2ヶ月とたたないうちに、協力は衝突に変わった。パラセル諸島沖で中国が石油を採掘しようとし、それにベトナムが抵抗したのである。この地域はふたたび、衝突から破滅に向かいつつあるように見えた。当事国の一方が、海の果ての環礁から他方を追い出そうとして武力を用いる可能性があるし、また米中の戦略的な対立から摩擦が生じ、その摩擦が思わぬところで火を噴く可能性もある。どこかで火の手があがれば、たちまちほかの場所へも飛び火して、好循環が悪循環に早変わりするだろう。 南シナ海に島がひとつもなかったら、なんの問題も起こらなかっただろう。占拠すべき土地もなく、この土地がだれのものと言っても意味がなく、広大な海の領有権を主張する根拠もなく、重要な国際航路を封鎖する手段もなければ、戦略的アクセスに関するいさかいが起こることもなかっただろう。しかし、これらの豆粒のような土地から歴史的な議論が生じ、現代的な海域への利権が生じ、国際的な威嚇競争の舞台が生まれる。 そしてその舞台では、一国のステータス、というよりその国を運営するエリートのステータスが、外国から、さらに重要なことには国内からも、そこでの演技によって判定される。 これらの海上の土地を所有して実際的にどんな利益があり、どれだけ費用がかかるのか。それに関する具体的などんな計算よりも、心理的・認知的影響のほうが優先される・・・ここはそういう意味なのだ。 南シナ海における中国の主張は、戦略的ポーカーゲームでの壮大なはったりにすぎないという見かたもある。テーブルの座席を確保し、観客を感心させるためだけにやっているのだと。私はこの問題はもっと根が深いと思っている。小学校から政治局まで「U時型ライン」は世俗の宗教になっている。この神話の起源は、帝国から共和国に移行するさいの中国の混乱の歴史にあり、容易なことでは振り払えないだろう。 はるか海中の岩礁の帰属が、国内問題から目をそらせたい指導者にとって完璧なめくらましになるいっぽうで、政府が大言壮語のレベルを上げれば上げるほど、あがった梯子をおりて地道な決着をつけるのがむずかしくなっていく。「U時型ライン」は、今後も東南アジアの国際関係を毒しつづけるだろう。20世紀を通じて、ナショナリズムに駆られた地図制作者たちが政治的な地図を作りつづけたせいで、新たな「アジアの世紀」はおびやかされ、何十億という人々にいやます繁栄をもたらすチャンスが危うくなっているのだ。『南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史』2:南シナ海の海洋資源『南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史』1:「九段線」の根拠
2023.06.28
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図書館で『室町は今日もハードボイルド』という本を、手にしたのです。この本の副題が「日本中世のアナーキーな世界」となっているが・・・・面白そうなのでチョイスしたのです。【室町は今日もハードボイルド】清水克行著、新潮社、2021年刊<「BOOK」データベース>より僧侶は武士を呪い殺し、農民は合戦を繰り広げ、浮気された妻は相手の女を襲撃するー。あなたたち、本当にご先祖様ですか?数々の仰天エピソードから浮かび上がる中世の日本人像は実は凶暴でアナーキーだった!想像の斜め上を行く驚愕の日本史エッセイ。<読む前の大使寸評>この本の副題が「日本中世のアナーキーな世界」となっているが・・・・面白そうなのでチョイスしたのです。rakuten室町は今日もハードボイルド北条政子(「鎌倉殿の13人」より)「第3部 中世人、その愛のかたち」で中世人の恋愛が語られているので、見てみましょう。p129~137<第9話 婚姻のはなし>■女たちの復讐「みなさんは“うわなり打ち”って聞いたことありますか?」 この問いかけで始まる授業を、私はもう何年繰り返しただろう。大学の教壇に立ってかれこれ10年以上になるが、毎年、大教室の講義で話題にすると妙に盛り上がるのが、このネタである。漢字で「後妻打ち」と書いて、「うわなりうち」と読む。その内容を簡単に説明すれば、こういうことになる。 妻になる男性が別の女性に浮気をする。というのは、好ましいことではないにせよ、現代でも時おり耳にする話である。しかし、これが「浮気」でなく「本気」になってしまったとき、悲劇は起こる。夫が現在の妻を捨てて、べつの新しい女性のもとに走る。そんな信じがたい事実に直面したとき、現代の女性たちならどうするだろうか? ただ悲嘆に暮れて泣き明かす?証拠を揃えて裁判の準備?週刊誌に告発?あまい、あまい。そんなとき、過去の日本女性たちは、女友達を大勢呼び集めて、夫を奪った憎い女の家を襲撃して徹底的に破壊、ときには相手の女の命を奪うことすら辞さなかったのである。 これが平安中期から江戸前期にかけてわが国に実在した、うわなり打ちという恐るべき慣習である。(中略)■“女傑”北条政子 うわなり打ちを行った人物として、おそらく史上最も有名なのは、北条政子(1157~1225)だろう。源頼朝(1147~99)の“糟糠の妻”として鎌倉幕府の創業を陰で支え、頼朝死後は“尼将軍”として幕府に君臨した、いわずと知れた女傑である。 まだ頼朝が平家を滅ぼす以前の話。頼朝と政子は親の反対を押し切って駆け落ちのすえゴールインしたとされる相思相愛の夫婦だったのだが、ただひとつ、頼朝には浮気性の悪癖があった。頼朝は政子という妻がいながら、かねて亀の前という名の女性を愛人にして、彼女の身を密かに家来のもとに預けていたのである。不遇時代を政子に支えてもらった義理もあって、頼朝は政子には生涯、頭が上がらなかった。 そこで彼の浮気は隠密裏に進められていたのであるが、ちょうど政子が出産のために別の屋敷に移ったこともあって、頼朝の動きは公然となった。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』によれば、亀の前は「*1」とされるから、“女傑”政子とは正反対のタイプの女性だったのかも知れない。 ところが、この浮気の事実が出産を終えた政子の耳に入ってしまったから、大変である。怒った政子は、寿永元年(1182)11月、牧宗親という配下の者に命じて、亀の前を庇護している伏見広剛の屋敷を襲撃させる。驚いた伏見は亀の前を連れて、命からがら大多和義久という同僚の屋敷に逃げ込むことになる。このとき、もし伏見の機転が利かなかったら、亀の前はさきの上原郷の下女のように殺されてしまったかも知れない。 この事件を聞いて顔面蒼白となったのは、他ならぬ頼朝である。浮気がばれた・・・。しかも政子、すごく怒っている・・・。さいわい愛人の命が無事だというのは救いだ。とはいえ、政子の手前、すぐに駆けつけるわけにもいかない・・・。 震えて眠る夜を二晩過ごし、頼朝は翌々日を待って、亀の前が匿(かくま)われている大多和の屋敷に、いそいそと駆けつける。しかし、このとき頼朝は一計を案じ、実行犯である牧宗親を騙して大多和屋敷まで同行させることを忘れなかった。 そうとは知らず、頼朝にノコノコついていった牧は、大多和の屋敷で伏見と不意の対面をさせられる。唖然となって言葉を失う牧に向かって、頼朝は、烈火のごとく怒って、こう言い放つ。「政子を大事にするのは大変けっこうなことだ。ただ、政子の命令に従うにしても、こういう場合は、どうして内々に私に教えてくれなかったんだ!」(中略) 恐懼(きょうく)して地べたに頭を擦りつけて謝る牧に対して、頼朝の怒りはなおも収まらず、ついにみずからの手で牧のマゲをつかんで、切り落としてしまう。当時の人々にとってマゲを切られるのは最大級の屈辱である。気の毒にも牧は泣きながら、その場を逃げ去ったという。なんとも頼朝の器の小ささがうかがえる、みっともないエピソードである。*1:亀の前の説明が載っていたのだが、この本を図書館に返却してしまったので、もう分かりません(汗)『清水克行さん「室町は今日もハードボイルド」インタビュー 自粛しない人々の正義感がお奨めの書評です。『室町は今日もハードボイルド』1:悪口のはなし
2023.06.27
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図書館で『室町は今日もハードボイルド』という本を、手にしたのです。この本の副題が「日本中世のアナーキーな世界」となっているが・・・・面白そうなのでチョイスしたのです。【室町は今日もハードボイルド】清水克行著、新潮社、2021年刊<「BOOK」データベース>より僧侶は武士を呪い殺し、農民は合戦を繰り広げ、浮気された妻は相手の女を襲撃するー。あなたたち、本当にご先祖様ですか?数々の仰天エピソードから浮かび上がる中世の日本人像は実は凶暴でアナーキーだった!想像の斜め上を行く驚愕の日本史エッセイ。<読む前の大使寸評>この本の副題が「日本中世のアナーキーな世界」となっているが・・・・面白そうなのでチョイスしたのです。rakuten室町は今日もハードボイルド「第1部 僧侶も農民も! 荒ぶる中世人」で中世人の実態が語られているので、見てみましょう。p13~17<第1話 悪口のはなし>■戦国なぞなぞ のっけから、楽しい「なぞなぞ」を一つ。 母は二度会うけど、父とは一度も会わないもの、な~んだ? これは戦国時代に書かれた『後奈良院院御撰何曾』という、なぞなぞ本に書かれている問題である。原文は「母には二たびあひたれども、父には一度もあはず」である。わかるかな? 正解は、「くちびる」。なぜなら、「母」と発声するときは唇は二度触れ合うけど、「父」と発声するときは唇は一度も触れ合わせることがないから。どうです? ・・・え? 腑に落ちない? そう。自分で発声してみるとわかるが、残念ながら「ハハ」も「チチ」も、どちらも発声する際に唇は一度も触れ合わないのである。これでは、まったく「なぞなぞ」にならない。いったいどういうことなのだろうか。 では、本当の答え合わせをしよう。じつは、戦国時代以前と以後では、「はは」という言葉の発声の仕方は異なっていたのである。現代では「はひふへほ」はそのまま「ハ(ha)・ヒ(hi)・フ(hu)・へ(he)・ホ(ho)」と読むが、戦国時代以前の日本語では「ファ(fa)・フィ(fi)・フ(fu)・フェ(fe)・フォ(fo)」と読んでいたらしいのである。だから、「母」は「はは」ではなく、当時は「ファファ」。そう読めば、「母」と発声しようとすれば、いやでも唇が二回触れ合うことになる。 信じられない人は、あたりに他人がいないことを確認したうえで、自分で声を出してみてください。ね? ちゃんと口が閉じるでしょ? ちなみに、江戸後期の国学者、本居内遠(本居宣長家の三代目)も、このなぞなぞの意味がわからなかった。苦心して、母は「歯々」、父は「乳」の意で、「くちびるで自分の歯に上唇・下唇で合計二回触れることはできるけど、自分で自分の乳首を一回も吸うことはできないから」という、トンチンカンな解答を書き残している(「後奈良院院御撰何曾」)。残念!本居先生、ちょっと考えすぎ! ここからもわかるように、江戸後期になると、「はひふへほ」は現代と同じ「ハヒフヘホ」と発音するようになってしまっていたため、かの本居家の家督を継ぐ大国学者でも、このなぞなぞの意味が理解できなくなってしまっていたのである。 以前、歴史ドラマの時代考証の仕事をやったとき、徹底的に史実に忠実なドラマを、という制作側の要望に応えて、この「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」の発音の完全再現を真面目に提案したことがあるが、さすがにイヤな顔をされた。「本能寺(ふぉんのうじ)に火(ふぃ)の手が!」「なに、謀(ふぁか)られたか!」では、やはり緊迫感がなさ過ぎるか・・・。 ドラマや映画などでは現代人の俳優がもっともらしく義経や信長を演じていて、鎌倉~戦国時代は、私たちにも身近に感じる時代である。しかし、言葉や発音の麺だけをとっても、江戸時代以降の日本人と、その前の日本人では、だいぶ異なっていた。 現実に私たちが戦国時代の人々と出会ったら、同じ日本人とはいえ、そもそもリスニングにかなりの困難がともなうはずである。今日は、そんな現代とは異質な日本中世の「ことば」の問題、それから「母」をめぐる、ちょっとした謎について考えてみたい。■謎の悪口「母開」 少しまえからインターネットやSNS上のヘイト発言や罵詈雑言が目に余るようになった。自分はいったい何様のつもりだ、というような“上から目線”の発言の数々は、正直いって、かなり見苦しい。ただ、そこで展開されている悪態の数々は、冷静になって見てみると、「氏ね」とか「厨房」とか「マジキチ」とか、「左巻き」「ネトウヨ」「マスゴミ」とか・・・。 どれもこれも、どこからか借りてきたような紋切り型の表現ばかりではないだろうか。いわれた側もさすがに唸ってしまうような絶妙な表現にネット上で出会うことは、ほとんどない。そもそも日本社会はあまり悪口や罵倒語のボキャブラリーが多くないとは、よくいわれるところである。 1960年代後半に作家の筒井康隆が「悪口雑言罵詈讒謗私論」というエッセイを書いて、日本語の悪口語彙の列挙、分類を試みたことがある(『筒井康隆全集』第9巻所収)。それなどを読むと、さすがは筒井康隆、よくぞこれだけの悪口が思いつくものだ、と感嘆させられる。しかし、こちらもよくよく読み返してみると、半世紀以上前の作品だけあって、いまや死語となってしまったものも多数含まれている。「ラリ公」とか「フラッパー」とか「パン助」とか、現在の若者には、それが悪口であるかどうか識別するのも難しいだろう。 また、そこにあげられた言葉の大半は動物名(いぬ)や植物名(もやし)など、それ単独で悪口と分類するには躊躇を覚えるものばかりだ。やはり、総じて日本語が少ないというのは、これを見ても当たっている気がする。
2023.06.27
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図書館で『太平洋戦争への道1931‐1941』という新書を、手にしたのです。表紙に名前が出ているお三方は、日本のリベラルな論客とも言えるような人選であり・・・チョイスしたのです。【太平洋戦争への道1931‐1941】 半藤一利, 加藤 陽子著、NHK出版、2021年刊<「BOOK」データベース>より2017年の終戦の日にNHKラジオで放送されて話題を呼んだ鼎談に、保阪正康の解説と図版・写真を加えて再構成した「開戦八十年企画」。1931年の満州事変から、1941年の真珠湾攻撃へ。昭和日本が犯した「最大の失敗」に至る道筋を六つの転換期から検証し、私たちが学ぶべき教訓と、令和日本が進む道を提言する。<読む前の大使寸評>表紙に名前が出ているお三方は、日本のリベラルな論客とも言えるような人選であり・・・チョイスしたのです。rakuten太平洋戦争への道1931‐1941 かなり、中抜きというか、飛ばしてしまいますが・・・「第3章 言論・思想の統制」でテロの時代が語られているので、見てみましょう。p95~100<1931五・一五事件―1936二・二六事件> 満州事変の翌年の1932年(昭和7年)、日本国内では、テロ事件が相次いでいました。 右翼団体の血盟団によって、前大蔵大臣の井上準之助と三井財閥の団琢磨が暗殺されました。その2ヶ月後、五・一五事件では、海軍青年将校の一団が総理大臣官邸を襲撃し、犬養毅総理大臣を暗殺しました。 陸軍士官学校生や農本主義者らも参加し、内大臣官邸や警視庁なども同時に襲撃しました。国家改造を目指すとして引き起こされた事件は、日本社会を大きく揺るがしました。*********************************************************■五・一五事件が社会に与えた影響保阪:1932年(昭和7年)から1936年にいたる4年間は、テロやその予備的な事件が起こりますが、そういう国内テロの最も象徴的な事件が五・一五事件です。 実は、この事件の二、三カ月前には血盟団事件がありました。井上日召という人物に指導されている右翼団体の青年たちが、「一人一殺」というスローガンを掲げて、前大蔵大臣の井上準之助と三井合名会社理事長の団琢磨を暗殺したわけです。 こうしたテロ活動に刺激を受けた人たちが起こしたのが五・一五事件です。この事件の最大の特徴は、決起の際の檄文を読めばわかりますが、支配階級そのものを糾弾するということです。当時の日本は、大恐慌の影響で農村が疲弊し、また日本は国際的に侮られているという被害者意識も高まっていました。「どうしてこんな状態になるのか。それは国の支配層、つまり天皇を周辺で支える支配層に問題があるからだ」。官僚、軍人指導者、経済指導者、文化的な指導者も含めて、そういった国の指導層が、国民と天皇との間を邪魔し、阻害になっている・・・と彼らは考えます。そして、現状を打破するためには革新行動を起こさなければならないと考え、ついには首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害するに至るのです。 ところがこの事件は、いわゆるテロ以外の、別な意味を持ってしまいます。裁判の過程で、陸軍の士官候補生や海軍の士官、あるいは農本主義団体の愛郷塾の塾生など、事件の決行にかかわった者たちに、自分たちの主張を思う存分語らせてしまうのです。 加藤:そうですね。保阪:その結果、法廷が「国家改造運動」のプロパガンダの場になってしまう。そうなると、たとえば吉原政巳という、陸軍士官学校を一番か二番で卒業すると言われていた優秀な候補生がいたのですが、その彼が「なぜ自分は参加したかといえば、この国を救わなければいけないと思ったからだ」と説明する。それは、西南戦争を起こした西郷隆盛の遺訓にある「名も金も名誉もいらぬ」の心境で、こういう行動を起こしたのだと涙ながらに自らの行動を訴えるわけです。 すると、それを聞いた軍事法廷の判士長も泣く。新聞記者に至っては、自分は泣きながらこの記事を書いていると平気で記している。そして、在郷軍人会が中心になって、彼らの助命嘆願運動が起きるのです。加藤:ああ、なるほど。保阪:全国から百万通と言われる嘆願書が集まります。そして、彼らは国士であり、その行動は義挙だということになり、テロリズムが肯定されていく。五・一五事件の裁判が行われた昭和8年、1933年という1年間に、テロリズムそのものを悪とするのではなく、動機が正しければ何をやってもいいという空気ができ上ってくるわけです。 私はこれを日本の一つの特徴だととらえて、「動機至純論」読んでいます。これによってテロリズムが肯定される。その結果、むしろ亡くなった犬養首相の家族などが、世間で冷たい目で見られるという事態が起きる。ある雑誌に至っては、事件を起こした、その「国士」がどういう家庭に育ったのかを紹介するという、まるで英雄扱いするような記事を書いている。日本は、この昭和8年を境に、テロリズムの公然たる容認の時代に入ったと思います。『太平洋戦争への道1931‐1941』2:満州国建国『太平洋戦争への道1931‐1941』1:はじめに
2023.06.26
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図書館に予約していた『南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史』という本を、待つこと7日ほどでゲットしたのです。米中が対峙する境界線といえば、台湾海峡と南シナ海であり、インドを加えた日米豪印クアッド(QUAD)は対中防衛軍でもあるわけで・・・必読書とも言えるこの本をチョイスしたのです。【南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史】ビル・ヘイトン著、河出書房新社、2015年刊<「BOOK」データベース>より境界線と領有権の「なぜ」を詳説!人工島の拠点化、緊張する周辺国、衝突の危険と不測の事態。「南シナ海の歴史」は「世界の歴史」であり、その未来は世界の関心事だ。ここで起こることは世界の未来を決めることになる…歴史、国際法、資源、政治、軍事など、あらゆる角度から解説する必読書。<読む前の大使寸評>米中が対峙する境界線といえば、台湾海峡と南シナ海であり、インドを加えた日米豪印クアッド(QUAD)は対中防衛軍でもあるわけで・・・必読書とも言えるこの本をチョイスしたのです。中国外務省の報道官は「クアッドは時代遅れの冷戦思考に満ちており、軍事的な対抗の色彩が強く、時代の流れに逆行し、人々の支持を得られない」とけん制しています。<図書館予約:(6/09予約、副本2、予約1)>rakuten南シナ海 アジアの覇権をめぐる闘争史「第4章 南シナ海と国際法」で、中国共産党が説く「九段線」の根拠を、見てみましょう。p161~164 2013年1月22日、フィリピン政府は南シナ海論争の条件を変更しようと試みた。従来の「歴史的権利」に関する議論は打ち切って、海洋法条約に基づいて議論の仕切り直しをしようとしたのだ。広い海域の領有権をめぐって感情的な論争を続けるより、特定の地点からの距離によって、具体的にどこをどうするという議論にもっていこうとしたわけである。 フィリピンは、ハーグの常設仲裁裁判所に20ページの文書を提出したが、そこで明確にされているとおり、フィリピンが求めていたのは歴史的な領有権に関する判断ではなく、また海上の国境線を定めることでもなかった。純粋に、どれが島でどれが岩礁であって「領土」と分類できるのかということ、そしてまたそこから法的にはどんな種類のゾーンが引けるのかということだった。 フィリピン政府が期待していたのは、中華人民共和国が実効支配している場所はいずれも、人間の居住または経済活動を維持できる島ではなく、したがって排他的経済水域は生じないと判断されることだったのだ。 これらの論争を仲裁裁判に持ち込むことで、フィリピンがなにをねらっていたかは明らかだ。いわゆる「U時型ライン(九段線)」(従来型の国際法の解釈に基づき、中国が引いた国境線)内の海域はすべて歴史的に中国のものだとする主張に対し、それは無効であるという判決を引き出すことである。 どの国がどの岩を所有していようと、周囲の海域に対する権利は、最大でも半径12カイリの範囲に限られるわけだ。とすればフィリピンは、自国のEEZ内の油田を開発したり魚を獲ったりできることになる。その資源が、中国の支配する場所から12カイリ以上離れていればいいのだ。その場所の所有権については、いずれべつの裁判所に判断をあおげばよい。 1980年代に中国がスプラトリー諸島のパーティに加わったころには、よいテーブルはすでにとられたあとで、あとは安い席しか残っていなかった。中国が実効支配している場所八つのうち、五つ(ミスチーフ礁、ケナン礁、スビ礁、ガヴェンノース礁、ガヴェンサウス礁)はせいぜいよくて低潮高地だ。そして残る三つも、フィリピンの申立によればせいぜい岩でしかなく、12カイリの領海は生じてもEEZは生じない。 国連海洋法条約に明記されているとおり、それが低潮高地であるかぎり、そこにいくら大きな要塞を建てても無意味である。その下にあるもともとの土地が満潮時に水没するなら、そこからはいかなる領海も生じない。マレーシアが実効支配するすべての地点(スワロー礁も含めて)、ベトナムの支配するほとんどの地点、そしてフィリピンが押さえている少なくとも三つの地点にも同じことが言える。 低潮高地や暗礁になにを建てようが、海洋法条約のもとでは島どころか岩とすら見なされないのだ。 フィリピン、ベトナム、そして中華民国(台湾)はたしかに、島と分類されそうな、したがってEEZが生じそうな場所をいくつか実効支配している。しかしこれを裁判所に認めさせるためには、海洋法条約の文言を借りるなら、その島が「それじたいで人間の居住または経済生活を維持」できることを証明する必要がある。 だからこそ、この三ヵ国はいずれも、さんざん骨を折ってできるかぎり民間施設を開発してきたわけだ。住宅や学校は明らかに人間の居住の一形態だし、漁業施設や観光業は経済生活の一形態だ。九九を覚えるシツ島の子供たちや、教をあげるスプラトリー島の僧侶たちは、母国の領有権を下支えするのにささやかながら役立っているのである。(中略) DX遠征隊が決定的に証明したように、スカバロー礁では人はとうてい暮らすことができない。材木や発電機や傘があっても、一度に数時間以上滞在するのは無理だった。したがって12カイリの領海は生じるが、EEZも大陸棚もいっさい無関係なのだ。 それにもめげず、中国の海洋関係当局は尋常でない労力を注ぎ込み、2012年にはフィリピンからスカバロー礁を奪いとっている。にらみ合いが始まったのは4月10日。八隻の中国漁船が、大量の珊瑚、オオシャコガイ、生きたサメまでも密漁しようとしていたため、それを発見したフィリピンの沿岸警備隊が検挙しようとしたところ、中国の大型の海洋監視船二隻がやってきてそれを阻止した。 フィリピンはそこで、自国海軍で最大の軍艦〈グレゴリオ・デル・ピラール〉を派遣したが、のちにこの決定を考え直し、沿岸警備隊の艦船に交代させることになる。台風が接近してきていたため、両国政府とも艦船を撤退させることに合意した・・・が、引きあげたのはフィリピンの船だけで、中国船は残ってスカバロー礁を物理的に支配しつづけた。 中国が領有権を主張する南シナ海の「土地」には、これらとはまた種類のちがう「土地」がある。しかしそのきわだった特徴は、国連海洋法条約の文章にまったく出てこない場所だということだ。つまり水中の土地なのである。国連海洋法条約では、干潮時にも水面下にある暗沙や暗灘に対しては、いかなる国も所有権を主張する根拠を持たないと決まっている。たんに海底の一部と見なされるのだ。 国連海洋法条約第五条では、干潮最低水位線などあるはずもなく、したがって独自の領海など生じようがない。それにもかかわらず中国は、「歴史的権利」に基づいてマックルズフィールド堆およびジェームズ礁(どちらも海面よりずっと下にある)に領有権を主張している。
2023.06.25
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図書館で『太平洋戦争への道1931‐1941』という新書を、手にしたのです。表紙に名前が出ているお三方は、日本のリベラルな論客とも言えるような人選であり・・・チョイスしたのです。【太平洋戦争への道1931‐1941】 半藤一利, 加藤 陽子著、NHK出版、2021年刊<「BOOK」データベース>より2017年の終戦の日にNHKラジオで放送されて話題を呼んだ鼎談に、保阪正康の解説と図版・写真を加えて再構成した「開戦八十年企画」。1931年の満州事変から、1941年の真珠湾攻撃へ。昭和日本が犯した「最大の失敗」に至る道筋を六つの転換期から検証し、私たちが学ぶべき教訓と、令和日本が進む道を提言する。<読む前の大使寸評>表紙に名前が出ているお三方は、日本のリベラルな論客とも言えるような人選であり・・・チョイスしたのです。rakuten太平洋戦争への道1931‐1941「第1章 関東軍の暴走」で述べているので、見てみましょう。p43~48<1931満州事変―1932満州国建国> 昭和のはじめ、日本は国際連盟の常任理事国で世界の五大国(米・英・仏・日・伊)の一つでした。しかし、1929年(昭和4年)の世界恐慌により、経済は冷え込み、農村は困窮していました。 日本にとって特別な権益があるとされていたのが、「満州」とも呼ばれていた中国東北部でした。 日露戦争の結果、日本はロシアから、中国東北部を走る鉄道と、大連と旅順の租借権を手に入れ、鉄道防備のための軍隊=関東軍を置いていました。 1910年(明治43年)に大韓帝国を併合し朝鮮半島まで支配していた日本医とって、北隣りに位置する満州は、ソ連に対する国防や、鉄や石炭の供給地として重視され、日本の「生命線」とも言われました。*********************************************************■大日本帝国にとっての満州加藤:大日本帝国にとって満州が、なぜ「生命線」と位置づけられたのかについて、考えてみたいと思います。半藤:満州というのは、日露戦争の結果、日本が日露戦争で勝ったことで、当時のロシアから得た権益です。「二十億の資材と二十万の生霊」というスローガンがありました。日本を守るために、二十万の人の命と、それから二十億のお金がかかって、多くの犠牲を出して権益を獲得したのだから、この権益を守らなければならない。だから関東軍は、満州を日本の生命線として一生懸命に守り抜いているのだと訴え、国民はそれを信じました。加藤:まず「名前を与える」ということはとても大事で、たとえば元老にして元勲の山形有朋が「主権線」「利益線」ということを唱えました。韓国、朝鮮半島は日本にとって利益線である。だから、ここをまもらなければいけないということで、日清、日露戦争に進むわけです。一方で、満州を日本の「生命線」と名づけたのは松岡洋右ですが、大日本帝国にとって、満州を日本の「生命線」と位置づけることに、どのような同時代的意味があったと思われますか。保阪:日清、日露、第一次世界大戦、そして昭和に入っての満州事変へと進んでいきますが、私はこの満州に入っていく一連のプロセスを見ていて、主に経済的な権益の確保ということが重視されたと感じます。つまり、満州への進出は生存権の拡大であるとする財界・経済界が、軍を支えたわけです。自分たちの国は貧しい国で、こんな狭い国土で、とてもではないが生活するのもやっとである。 私たちの国や民族にも、生存権を拡大する権利がある・・・ということで、満州に入っていることを正当化したのです。********************************************************* 1931年(昭和6年)9月18日、中国東北部の柳条湖で、日本の経営する南満州鉄道の線路が何者かによって爆破されました。 関東軍は、これを中国軍によるものとして、武力攻撃を開始します。政府は「不拡大」の方針でしたが、朝鮮駐屯軍は、独断で越境して満州に入りました。 陸軍は自衛を名目に、5ヶ月でほぼ満州全域を制圧します。満州事変です。 しかし、鉄道爆破は、実は関東軍が自ら行ったものでした。関東軍は、政府に無断で謀略を進め、内閣が決定した不拡大の方針に逆らって、軍を動かしたのです。 そして、翌1932年(昭和7年)には、満州国を独立させました。満州国は民族自決で生まれたとされましたが、実際は、行政や軍事を関東軍が握る傀儡国家でした。*********************************************************■なぜ関東軍の独断を許してしまったのか加藤:では、次に「なぜ関東軍による独走、独断が許されてしまったのか」について。 当時、大日本帝国の出先軍、現地軍というと、朝鮮半島に朝鮮軍二個師団がいて、中国には関東軍がいました。外地ですので、中央からの制御ができにくい。天皇の命令を現地軍に伝える奉勅命令というものがありますが、これで現地軍をとめるというのも、なかなか政党内閣ではやりにくかったと思いますね。半藤:中央部、つまり、政府ばかりでなく、東京の陸軍参謀本部が不拡大という指令を出しています。しかしながら、関東軍はそれを聞かなかった。ということは、これは統帥権干犯にあたりますから、本来は違反行為です。軍法で言えば、とんでもないことをやっている。 ところが、ソ連がこうした関東軍の動きに干渉してこないとわかった瞬間に、参謀本部も一緒に乗っかってしまいます。昭和天皇の命令が「不拡大」で、できるだけ戦争を早くやめろというのを、参謀総長は「は、承りました」と言っておきながら、参謀総長から参謀へ、さらには参謀から関東軍の参謀へ、「おい、おまえたち、いい加減にしろ」というようなことをただ口で言うだけで、後半はずるずると一緒に乗っかってしまっています。ですからこれは、独断を許したというよりも・・・。加藤:陸軍中央も乗ってしまったわけですね。半藤:このチャンスに、満州国の権益をできるかぎり広げようとして動いたと見ざるをえないと思いますね。そういう意味では、まさに「侵略」であったと言えると思います。昭和天皇は、統帥権を持っている大元帥として、これは侵略であるから止めろと明らかに言っています。参謀総長はそれを承っている。だから、本当は統帥権の干犯なんです。 ところが困ったことに、昭和天皇は政府が決めてきた国策にはノーと言わないのが、きつい“しきたり”というか、心得なんですね。ですから、大元帥としては軍を止めろ、迫害をやめろと言っているけれども、政府のほうはごちゃごちゃしているうちに朝鮮軍越境の予算を出すことを決定してしまい、天皇はそれを認めます。 つまり、昭和天皇は「大元帥」としては抑えているんです。ところが、「天皇陛下」としては、残念ながら国家の決めてきたことに対しては、ノーと言わない、と。それで、「では許す」ということになる。ですから、これは統帥権の干犯なんですよ、違反なんです。『太平洋戦争への道1931‐1941』1:はじめに
2023.06.23
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図書館で『太平洋戦争への道1931‐1941』という新書を、手にしたのです。表紙に名前が出ているお三方は、日本のリベラルな論客とも言えるような人選であり・・・チョイスしたのです。【太平洋戦争への道1931‐1941】 半藤一利, 加藤 陽子著、NHK出版、2021年刊<「BOOK」データベース>より2017年の終戦の日にNHKラジオで放送されて話題を呼んだ鼎談に、保阪正康の解説と図版・写真を加えて再構成した「開戦八十年企画」。1931年の満州事変から、1941年の真珠湾攻撃へ。昭和日本が犯した「最大の失敗」に至る道筋を六つの転換期から検証し、私たちが学ぶべき教訓と、令和日本が進む道を提言する。<読む前の大使寸評>表紙に名前が出ているお三方は、日本のリベラルな論客とも言えるような人選であり・・・チョイスしたのです。rakuten太平洋戦争への道1931‐1941NHKラジオセンターの児島芳樹さんがこの新書の成り立ちを「はじめに」で述べているので、見てみましょう。p3~6<はじめに>「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本の在り方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」 2015年(平成27年)元旦、当時天皇だった上皇さまが、戦後70年を迎えて表された感想です。1931年(昭和6年)の満州事変に始まった中国大陸での戦争は、やがて日中戦争へと広がり、1841年(昭和16年)にはアメリカやイギリスを相手に加えた太平洋戦争へと拡大しました。一連の戦争は、「15年戦争」とも呼ばれます。 今年(2021年)は太平洋戦争の開戦から80年。日本は、なぜ、無謀な戦争への道を選んだのでしょうか。 本書は、NHKラジオの特集番組「太平洋戦争への道~戦前日本の歴史の選択~」(2017年8月15日放送)をもとに、ノンフィクション作家の保坂正康さんに本編の議論を補足する解説を書き下ろしていただき、まとめたものです。 番組では、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で太平洋戦争へと至る歴史に新たな光をあてた東京大学教授の加藤陽子さんを案内役に、戦争の時代を体験し『昭和史』で歴史のドラマを生き生きと伝えた作家の半藤一利さん、『ナショナリズムの昭和』など戦争と昭和史についてさまざまな角度から検証してきた保坂正康さんを迎え、三人の議論を通して満州事変から太平洋戦争へと至る日本の選択について考えました。 三人の皆さんには、2017年夏の暑い日にNHKに集まっていただきました。議論を始めたところ、昭和史の革新ともいうべき十年間について語るべきことは山のようにあり、それぞれのテーマについて話は尽きません。 進行役の加藤さんの必死の努力で何とか最後まで辿り着くことができたものの、収録が終わったときには夜になっていて、みなさん疲労とともに安堵の表情を浮かべていたのが印象的でした。限られた時間で収録するには無謀な企画だったと反省しました。けれども、昭和史に精通する三人の議論は時を忘れさせ、歴史の奥深さを改めて教えてくれるものでした。放送は幸い好評で、戦争への歩みを“一筆書き”で辿ったことで、戦争の時代の輪郭を描き出せたように思います。 私の母方の祖父は、1944年(昭和19年)に仕事で赴任していたフィリピンのマニラで現地招集され、妻と子ども三人を残して38歳で戦死し、遺骨も戻りませんでした。 私は、1980年代後半の学生時代に鶴見俊輔や丸山眞男を読むことで、先行する世界がいかに深く戦争という経験に向き合ってきたのかについて、知るようになりました。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります」(『荒れ野の40年』) 1985年、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領による有名な演説の言葉です。ナチスという過去は、決して過ぎ去るわけではありません。「ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とを掻きたてつづけることに腐心しておりました。若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい」(同) いま、世界では、「事実」を巡って認識が分かれ、対立が深まっているとも言われます。SNSの普及により、人びとは事実か否かよりも「信じたいものだけ信じる」傾向が強まっているとの分析もあります。歴史認識を巡っても、国や民族など立場の違いから意見が分かれ、それぞれの言い分を主張するばかりの「水かけ論」に終始する場合が見られます。「水かけ論」は、どうすれば脱却できるのでしょうか。対立から先に進むには、立場を超えた共通の前提にまで立ち戻る必要がありますが、それは「事実」と「論理」をおいて他にありません。自然科学をはじめ学問の発展を支えてきた実証的な考え方です。 半藤一利さんは、自らを「歴史探偵」と称しました。あくまでも事実に基づく証拠を集め、その意味を批判的に考えることを通して歴史を解明する努力を大切にされました。 近年、政府内部での公文書改竄が明らかになりましたが、戦争への歴史は、たとえ都合の悪いことであっても「なかったこと」にしてはならないことを教えています。 半藤さんは、『昭和史』の最後の部分で、「昭和の歴史というのはなんと多くの教訓を私たちに与えてくれるかがわかる」としたうえで、「しっかりと見なければ見えない、歴史は決して学ばなければ教えてくれない」と締めくくっています。 本書を通して、読者のみなさんが昭和史への関心を深め、三人の著者たちの豊かな仕事の世界にふれるきっかけにしていただければ、幸いに思います。
2023.06.22
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クルド人といえば国を持たない最大の民族と言われるが、このところのトルコ、スウェーデンの難民問題がウクライナ侵攻にも影響をあたえています。ということで、以前の日記を読み返してみます。***********************************************************図書館で『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、おお「アラビアのロレンス」にも触れているではないか・・・これが借りる決め手になったのです。【サイクス=ピコ協定 百年の呪縛】池内恵著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>より百年前の「秘密協定」は、本当に諸悪の根源なのか?いまや中東の地は、ヨーロッパへ世界へと難民、テロを拡散する「蓋のないパンドラの箱」と化している。1916年、英・仏の協定によって地図の上に無理やり引かれた国境線こそが、その混乱を運命づけたとする説が今日では専らだ。しかし、中東の歴史と現実、複雑な国家間の関係を深く知らなければ、決して正解には至れない。危機の本質を捉える緊急出版!<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、おお「アラビアのロレンス」にも触れているではないか・・・これがかりる決め手になったのです。rakutenサイクス=ピコ協定 百年の呪縛協定区域地図の上に無理やり引かれた国境線こそが諸悪の根源だともっぱら言われるが、果して?p19~21<第1章 サイクス=ピコ協定とは何だったのか>■分かった気にさせるマジックワード「結局、サイクス=ピコ協定が諸悪の根源だ」 近頃、こういったフレーズをよく聞くようになった。中東の混迷の原因は何なのか。一体誰が悪いのか。誰もが自然に思い浮かべる素朴な義憤に、単純明快な答えを見つけたような気にさせてくれる万能のマジックワードが「サイクス=ピコ協定」である。 要するに、中東の混乱の原因は、イギリスとフランスが、サイクス=ピコ協定によってアラブ世界に不自然な国境線を引いたからである。だからシリアやイラクなど、民族や宗派が違う人々が同じ国に住まされて、まとまりがなく、争いが絶えないのである…云々。にわか仕込みのテレビ・コメンテーターなどが急にこの言葉を用いるようになった。 確かに、こう言ってしまいたくなる気持ちは分かる。「アラブの春」以来、中東情勢の混迷は一向に収束する気配がない。「イスラーム国」が行なって誇示する処刑やテロなどの蛮行の数々は、一般的な感覚からは到底理解が不可能だろう。何か一つのキーワードで「要するに…」と大雑把にまとめてしまってスッキリしたい、という気持ちは分からないでもない。 そして、実際に「サイクス=ピコ協定」は重要な文書である。現在の中東の成り立ちの、ある根本的な部分を基礎づけている。確かにサイクス=ピコ協定は「悪い」。帝国主義・植民地主義の時代にイギリスやフランスやロシアなど「西欧列強」が、そして冷戦時代はアメリカとソビエト連邦など超大国が、中東に介入し、影響力を競ったことで、どれだけ大きな混乱が、戦争の惨禍が、中東を襲ってきたことか。 しかし同時に、「サイクス=ピコ協定が悪い」と言っているだけでは、現実を理解するという意味でも、将来を見通すという意味でも、そして解決策を見出すという意味でも、先に進めない。 これは東アジアに置き換えて考えてみれば少し分かりやすくなるかもしれない。例えば、北朝鮮の核兵器・ミサイル開発の問題について、「そもそも日本が朝鮮半島で帝国主義・植民地支配をしたから悪い」とだけ言い続ければどうなるだろうか。日本が植民地支配をした挙句、太平洋戦争で敗れて朝鮮半島から撤退したから、朝鮮半島は米ソ冷戦の最前線となって、南北に国家は分断された。 いつ戦争が再開されてもおかしくない緊張状態が続き、北朝鮮は独裁化し、核兵器やミサイルを開発して威嚇する。悪いのは日本の植民地支配だ…と主張したら、どうだろうか。確かに、日本が朝鮮半島を併合して支配していなければ、朝鮮半島は今のような状態にはなっていないかもしれない。おそらく、現在の朝鮮半島の政治情勢に、日本のかつての植民地支配は、多くの日本人が現在意識しているよりももっと大きく影響を及ぼしているだろう。 しかし植民地主義の時代から現代までの間には長い時間が経っており、その間の、より大きな影響を与えた多くの出来事が生じている。もし日本による統治の時代がなければ、もちろん朝鮮半島の歴史は大きく変わっていただろうが、日本の統治下に入る以外の可能性がどれだけあったかとというところが定かでなく、しかも別の可能性がよりましなものであったとも言えない。ロシアや中国に併合されて、現在独立国でいることができなかったかもしれない。それを現在の南北朝鮮の国民の感覚からは、到底受け入れられないだろう。 さらに言えば、現在の朝鮮半島の国家や国際関係が抱える問題に日本が責任がある、ということであれば、「日本が責任を取ってもう一度朝鮮半島に介入して今度はきちんと問題を解決するべきだ」ということにもなりかねない。もちろん、そんなことを現在の日本で本気で主張して実行しようとする人は皆無に近いだろうし、朝鮮半島の民族も決して求めないことだろう。 同じように、「結局、サイクス=ピコ協定が悪いのだ」という議論も、中東の歴史を方向づけた非常に重要な歴史の事象に触れているのだが、それだけでは現在の中東を読み解き、将来を展望するのに十分ではない。『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』1:アラビアのロレンス『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』2:20世紀は難民の世紀『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』3:諸悪の根源
2023.04.02
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兵庫県立美術館で開催されている『恐竜図鑑』展が面白そうなので・・・行く前に兵庫県立美術館のサイトを覗いて予備知識を得るというか、士気を高めようと思ったのです。 恐竜図鑑at兵庫県立美術館より「白亜紀-モンタナ」<化石の出ない異色の恐竜展、美術館で開幕。> 人類が誕生する遥か以前、中生代(約2億5000万年前~6600万年前)の地球を支配していた恐竜たち。絶滅して久しい彼らを実際に見ることはもちろん不可能ですが、その姿を再現しようという試みは、恐竜という存在が“発見”された19世紀の前半以来、現在に至るまで絶え間なく続けられてきました。 そして今日では、自然史系博物館の主要コンテンツとして化石標本や復元モデルが陳列され、映画・漫画・玩具といったエンターテイメントの分野でも多くの人々を魅了しています。 本展は、これまで美術館で取り上げられる機会があまりなかった恐竜に着目し、過去200年に描かれたパレオアート(古生物美術)の名作や珍品を「恐竜誕生-黎明期の奇妙な怪物たち」、「古典的恐竜像の確立と大衆化」、「日本の恐竜受容史」、「科学的知見によるイメージの再構築」という4つの章で紹介します。想像力によって創造された太古の世界の住人たちとの不思議な出会いをお楽しみください。・会期:3月4日-5月14日・休館日:月曜日・開館時間:10時-18時3月30日に見に行ったのですが、なかなか充実していて見どころも多かったのです。とにかく化石から導かれたパレオアート(古生物美術)の臨場感には驚かされた次第です。また、ディノディノという日本の漫画の原画が展示されていたが、この漫画の存在を知らなかったことは、我ながら不覚であったというべきでんな。ディノディノの原画は写真撮影禁止となっていたので、以下の通りネット情報を紹介します。もう絶版になっているので、市立図書館にも置いてないようです。DINO2より『DINO DINO The Lost Creatures』(ディノディノ)は所十三による日本の漫画作品。単行本は全3巻だが、絶版となり、電子書籍で発売されている。恐竜時代に生きている恐竜が、人間の言葉で会話を行うという特徴がある。所十三が得意とする方言やヤンキー言葉が頻出する。狭義の「恐竜」には限定されず、古生物全般が題材となっている。科学研究に基づいた、徹底した時代と生物考証が行われている。また一方では作者独自の想像による部分もあるが、そこもまた科学的考察を経た描写となっている。中には、その後になって論文により補強された内容もあり、例えば『海岸で翼竜がゴカイやエビを漁る』シーンがそれに当たる。『日本の白亜紀・恐竜図鑑』という本もお薦めです。
2023.04.01
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<潜水艦あれこれ R1>これまで潜水艦についてあれこれとりあげてきたように、潜水艦はミニブームでもあるのです。R1:「THE ENEMY BELOW」「The Battle of the Atlantic」を追記***********************************************************・U32—German Submarine Soldiers 2020年2月21日・『潜水艦(歴群「図解」マスター)』2015.11.03・潜水艦映画を観てきた2014.11.29・Uボート回航2013.08.16・Uボート戦全史2013.08.16・『Uボート』2003.10.10・THE ENEMY BELOW ・The Battle of the Atlantic***********************************************************潜水艦映画の一押しといえば、大使の場合『Uボート』になります。【Uボート】ヴォルフガング・ペーターゼン監督、1981年西ドイツ制作<解説>より第2次大戦を舞台にドイツ軍潜水艦の乗組員たちの行動を描く戦争人間ドラマ。製作はギュンター・ロールバッハ、監督は「昼と夜のような黒と白」のヴォルフガング・ペーターゼン、ロタール・ギュンター・ブッフハイムの原作を基にペーターゼン自らが脚色。<大使寸評>潜水艦映画のジャンルがあるほど、潜水艦とはドラマチックな兵器と言えるし、この映画の主役は潜水艦そのものかもしれない。第二次大戦中、独潜水艦乗組員4万のうち、3万人が帰還できなかったという事実は、壮大な消耗戦を想像させるとともに、戦争の過酷さを語っているだろう。goo映画UボートUボート byドングリ
2023.01.30
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図書館で『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』という本を、手にしたのです。ウクライナ侵攻で吹き荒れる昨今、領土問題の変化を見てみようと思うのです。【60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳】関眞興編著、山川出版社、2021年刊<「BOOK」データベース>より植民地の独立、地域紛争、宗教戦争、交通網の発達ー新旧の地図を並べて現代世界の変化を体感する!国名、領土の変化にまつわる事件や戦争、領土問題、民族問題などを地図の変化とともに解説、現代史への理解も同時に深まる。変遷がひと目でわかる国名一覧付き!<読む前の大使寸評>ウクライナ侵攻で吹き荒れる昨今、領土問題の変化を見てみようと思うのです。rakuten60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳ソ連と周辺国の摩擦を、見てみましょう。P74<ヨーロッパ東部>■19世紀に普露墺という大国3国に翻弄される 現在の地図で東ヨーロッパにある国を2つのグループに分けて紹介する。いずれも北から南に下がる。 1つは、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ブルガリア、アルバニア、ギリシャであり、もう1つはエストニア、ラトビア、リトアニア、モルドバである。 前者はギリシャを除いて、いずれもかつてのソ連の衛星国だった諸国で、後者は、ソ連の構成国だった諸国だ。 社会主義は資本主義体制下で苦しむ人々を解放するという建前であったが、その実際は、ソ連の厳しい指導・命令に従わなければならず、反論は許されなかった。ソ連を守るための防波堤というような役割も大きかった。 ソ連の前身、ロシア帝国が発展する前、これらの地域の北部にドイツ人が進出していて、ドイツ人との対立があった。また、南部にはオスマン帝国が領土を拡大していた。オスマン帝国はハンガリーやルーマニア、旧ユーゴスラビア諸国、ブルガリア、アルバニアなどを支配下に入れた。 さらにこの地域の国々はオーストリアと戦ったが、19世紀になると、オーストリアやロシアに領土を徐々に奪われるようになる。オーストリアは、同じドイツ人のプロイセンと対立するようになり、東方から拡大してきたロシアと3国で、18世紀末にポーランド分割を行った。 オーストリア、プロイセン、ロシアは19世紀初め、軍隊を中心に近代化を開始するが、プロイセンを中心に近代ドイツ帝国が建設された。ロシアも近代化を急いでいたが、後進国ゆえの問題も多く抱え、第一次世界大戦末期に起きた革命で社会主義を採用した国家建設を行った。 東ヨーロッパ諸国では、セルビアやルーマニア、ブルガリア、ギリシャのように19世紀のうちに独立を果たした国家もあるが、多くの国はオーストラリアやオスマン帝国、そしてロシア帝国の支配下に置かれたままだった。■ナショナリズムと民族紛争 第一次世界大戦の結果、オーストラリア、オスマン、ロシアの3つの帝国が崩壊し、支配下にあった諸民族は解放され、それぞれの民族国家をもった。しかし、ロシアを中心に成立したソ連は、かつての支配領域の多くをそのままに併合し続けた。 新独立国家のポーランドは、ロシアやドイツから領土を奪って新国家を建設した。チェコスロバキアの獲得した領土にはドイツ人移住者がたくさんいた。ブルガリアやルーマニアも領土的不満があった。そしてセルブ=クロアート=スロヴェーン王国は内部の民族的対立が大きく、1929年にユーゴスラビアと改称することになった。 そして91年にソ連が崩壊した結果、この地域では大変動が起きたのだ。ソ連圏では社会主義が普遍的真理で、ナショナリズムは乗り越えられたと考えられた。 しかし、ソ連が崩壊して、かつての国家が復活したとき、人々のよりどころになったのはナショナリズムであった。独立した諸国家間でナショナリズムと領土が問題になるのは必然であり、無理やり一体化させられていた国家の分離独立が起きたのだ。ウーム ナショナリズムに対しては共産主義というイデオロギーがいかに無理筋であったか、よく分かりますね。そしてプーチンの場合は、さらに宗教とKGB体質と個人的怨念が加わるわけで、もはや出口が見えないのではないか。『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』2:香港・マカオ返還『60年前と現在の世界地図 くらべて楽しむ地図帳』1:ロシア周辺
2023.01.28
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図書館で『敗者の明治維新』という本を、手にしたのです。表紙に載っているラストサムライたちは、河井継之助、西郷隆盛、徳川慶喜など・・・そうそうたるメンバーなのでチョイスしたわけです。【敗者の明治維新】ムック、洋泉社、2018年刊<「BOOK」データベース>よりムックにつきデータなし<読む前の大使寸評>表紙に載っているラストサムライたちは、河井継之助、西郷隆盛、徳川慶喜など・・・そうそうたるメンバーなのでチョイスしたわけです。rakuten敗者の明治維新まず、「PART1 敗れざる者たちの明治維新」から河井継之助を、見てみましょう。P36~38<河井継之助>■江戸や西国に遊学 得た知識を藩政改革に活かす 幕末の長岡を背負った藩の重職・河井継之助は、文政10年(1827)正月元旦、長岡藩の中堅藩士である代右衛門秋紀の嫡男として、越後国長岡城下に生まれる。通称を継之助、いなみは秋義、雅号を蒼龍窟と称する。 河井家の家格は百二十石と長岡藩内では低くはなく、郡奉行や新潟町奉行という民政に直接携わる役職か、勘定頭など藩の財政に関する役職に就く家柄であった。藩主牧野家の長岡入部とほぼ同時に家臣となっており、長岡藩牧野家と興亡をともにしたといえる。そのため、継之助の理財論や藩政改革論は、長岡藩牧野家のもとで受け継がれてきた為政者意識が土台にあるといわれる。 藩校崇徳館で儒学や陽明学を学び、のち江戸や西国へ遊学に出て、江戸で佐藤一斎や佐久間象山、備中の国松山藩では山田方谷に師事している。 慶応元年(1865)10月に郡奉行に任命され、民政の改革に乗り出し、財政立て直しや藩校崇徳館の改革を行う。また、百石以上の者の禄高を減じ、それ以下の藩士の禄高を増して禄制改革を行うとともに、家格の上下に関わらない人材登用を実現した。軍制改革では、フランスの兵制を採用し、藩兵の再編成や、ミニエール銃やガトリング砲を導入している。■新政府軍との交渉決裂 抗戦を決意する 大政奉還による藩閥政府の成立と、討幕派と佐幕派の激しい対立という政局の動揺に際し、長岡藩は武装中立を藩是とし、河井を名代として上京させ、徳川家擁護のため周旋を図る。 しかし、一連の活動で佐幕派と目されてしまい、また態度を明らかにしていない北陸諸藩も多く、いよいよ新政府軍が北陸へ進軍するに至る。 慶応4年5月2日、長岡城下から遠く離れた小地谷町(新潟県小地谷市)の慈眼寺で、新政府の東山道先鋒総督府軍の軍監岩村精一郎らとの会談、いわゆる小地谷会談が行われた。継之助は長岡藩の家老として、中立の立場を示すことで長岡藩の戦争回避と会津藩の赦免を求めて会談に臨むが、話し合いは決裂した。 翌日、長岡藩の本陣に諸隊長を集めて開戦決意を表明し、奥羽越列藩と協力し、抗戦することに至ったのである。長岡を舞台に各地で激しい闘いが繰りひろげられ、長岡藩は最新の軍備をもって善戦するが、継之助は重傷を負ってしまい、長岡城も陥落、一行は会津へ退くこととなった。そして8月16日、会津藩領塩沢村(福島県南会津郡只見町塩沢)の医師矢沢宋益宅で継之助は没する。 河合継之助については、強烈な個性が注目されるのに対し、複雑な藩機構をひとりで切り盛りできるはずもなく、近世中後期以降の藩政の変化、中堅藩士層の台頭という歴史的背景のなかで理解されるべきものであることも指摘されている。継之助が自ら著した史料はほとんど無く、現在でも不確定な事象も多く、継之助の評価に対しては、肯定派・否定派が存在する。 在職中の出張で長岡に行った時の日記を復刻して見てみましょう。***********************************************************東下りあるいはドサ回り第三弾 (2)より長岡から約7時間かけて帰還しました。金曜だから、東京からは指定席が満席で3列シートのまんなかで・・・・エコノミー症候群にかかったら、どうしてくれるのだ!しかもまた、25日から習志野、大府、十三、東大阪とドサ回り第三弾のような出張が控えています。何か楽しみでも見つけないと、ドサ回りはやってられないが・・・・・司馬さんに倣い、偉大な先人の足跡をたどるというのもいいではないでしょうか?(かなり、真面目でアカデミックな大使である。自分でいうのもなんですが)長岡と言えば、もう河井継之助をおいてないので、タクシーのオッチャンに話をふったら・・・継之助とアホな官軍隊長(土佐藩の若造)との談判決裂の顛末など、さすが、土地柄で詳しいのです。河井継之助近代化に貢献した官軍であるが「勝てば官軍」と案外に不評なんですね。今でも長岡、会津では薩長土に怨念があるとか?(ないとか)私は官軍輩出の地の出身ではあるが・・・・・・・長岡、会津に入ったら、彼の地の民の肩を抱いて官軍を罵倒したい衝動があるのです。(根っからの判官贔屓というか、反官なんでしょうね)ところで、習志野と言えば、自衛隊の空挺部隊の地というくらいの知識しかないので、大使にとっては心細い東下りともいえるのですが・・・・このあたりの先人といえば、江戸時代から講談で知られる平手酒造と佐倉惣五郎でしょうか?(土地勘がないので、習志野からかなり外れているかも?)
2023.01.13
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図書館で『300点の写真とイラストで大図解 世界史』という大型本を、手にしたのです。めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪【300点の写真とイラストで大図解 世界史】ジェレミー・ブラック著、ニュートンプレス、2020年刊<「BOOK」データベース>より人類1000万年の歴史がこの1冊でわかる。【目次】第1章 先史時代の人類(1000万年前~紀元前1万年)/第2章 古代世界(紀元前1万2500~紀元前1000年)/第3章 古典文明(紀元前1000~紀元500年)/第4章 中世(500~1500年)/第5章 ルネサンスと啓蒙思想(1500~1750年)/第6章 革命とナショナリズム(1750~1914年)/第7章 争い合う世界(1914~1945年)/第8章 現代の世界(1945年~現在)<読む前の大使寸評>めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪rakuten300点の写真とイラストで大図解 世界史「第6章 革命とナショナリズム」でイギリスのインド支配を・・・見てみましょう。とにかく、英蘭の東インド会社は大使のツボでもあり、見逃すわけにはいかないのです。プラッシーの戦いp167~168<イギリスによるインド支配> ヨーロッパ人が国民意識を強めていきましたが、ヨーロッパの外の人々が抱く国民意識に敬意を払うことはありませんでした。ムガル帝国の崩壊に伴って、インドへのヨーロッパ勢力の拡大が始まります。イギリス東インド会社やオランダ東インド会社のような貿易会社はこの亜大陸を直接支配しようとし始めました。しかし間もなくオランダは香辛料の産地であるインドネシアの島々に目を転じ、インドをイギリスの手に委ねることにします。 ロバート・クライブが指揮するイギリス軍はプラッシーの戦い(1757年)でベンガルの太守を破り、東インド会社の支配が当地に及びます。マイソール王国とマラーター同盟に対する勝利は、インド全域に支配を広げるため、そして一部の地域を併合するための序章でした。 ほかの国と異なり、イギリスにはインド全土にまたがる戦略を考え、物流を維持するだけの力がありました。1842年には、アフガニスタンへの冬期の出兵がうまくいかず、イギリス軍の師団が全滅するという事態に陥りはしましたが、1818年に西インドのマラーター同盟領、1826年にビルマからアラカンとテナセリム、1831年にマイソール、1843シンド、そして1845年からの2度にわたるシク教徒との激しい闘いを経て、1849年にはパンジャーブを手に入れました。カシミールは1848年にイギリスの属国となりました。こうしたイギリスの勝利の陰には、インド人兵士の大きな助けがあったのです。 イギリス王室は1858年、インドの統治権を東インド会社から奪い、1877年にはヴィクトリア女王がデリーの即位宣言式でインド皇帝の称号を得ることになりました。 インドの大部分は地方の藩王(マハラジャ)の支配下にとどまりましたが、これは重層的な統治を維持しようとした試みの一環であり、そうした分割統治はおおよそうまくいっていました。同時にインドは大英帝国でも最大規模の植民地になりました。ウーム イギリスの覇権(パクス・ブリタニカ)には、良い悪いは別にして、見るべきものがありまんな『300点の写真とイラストで大図解 世界史』3:拡大する中国『300点の写真とイラストで大図解 世界史』2:太平洋戦争『300点の写真とイラストで大図解 世界史』1:清の衰退
2022.08.14
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図書館で『300点の写真とイラストで大図解 世界史』という大型本を、手にしたのです。めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪【300点の写真とイラストで大図解 世界史】ジェレミー・ブラック著、ニュートンプレス、2020年刊<「BOOK」データベース>より人類1000万年の歴史がこの1冊でわかる。【目次】第1章 先史時代の人類(1000万年前~紀元前1万年)/第2章 古代世界(紀元前1万2500~紀元前1000年)/第3章 古典文明(紀元前1000~紀元500年)/第4章 中世(500~1500年)/第5章 ルネサンスと啓蒙思想(1500~1750年)/第6章 革命とナショナリズム(1750~1914年)/第7章 争い合う世界(1914~1945年)/第8章 現代の世界(1945年~現在)<読む前の大使寸評>めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪rakuten300点の写真とイラストで大図解 世界史「第8章 現代の世界」で戦後の中国を・・・見てみましょう。どうしても拡大する中国が気になるんです。p224~225<中国の台頭> 第二次世界大戦の結末も、東アジアに安定をもたらしてはくれませんでした。日本が敗北すると、たちまち国民党と共産党との間の反目が蒸し返されました。5万人もの米軍の協力を得て、国民党軍は日本軍に占領されていた領土をただちに奪回し、1946年に共産党軍に対して攻撃を開始します(国共内戦)。 1947年には共産党の拠点だった延安を占拠しましたが、この勝利は短命に終わりました。1948年から1949年のジュン海と平津の戦役で共産党が決定的な勝利をおさめたため、国民党の指導者蒋介石は、軍を率いて台湾へ退却しました。 1949年10月1日、中国共産党の指導者毛沢東が中華人民共和国の樹立を宣言します。毛沢東のもとで中国は一連の急進的な改革を進めました。1958~1962年にかけて実施した「大躍進政策」では農業を集約化し、中国を工業社会に変えることを目指しました。1966年に始まった文化大革命は、共産党があらゆる階層の人々に党の価値観を行きわたらせ、国民の文化生活に劇的な変化をもたらすことを狙ったものですが、この改革は大きな犠牲を伴いました。 1976年の毛沢東の死後、制作には著しい変化が起きます。京安藤の支配層が相変わらず実権を握っていたとはいえ、表向きは共産主義の信条を掲げながらも、国の政策はそれほど急進的ではなく資本主義にも順応できるようになったのです。1980年代になると、新しい指導者である鄧小平が経済の自由化と近代化政策(改革開放)を推し進めました。価格を自由化し、民間企業を認め、農民には余剰作物を手元に置く権利を与え、外国からの投資を誘致しましたが、これらの政策はすべて外国市場の存在にも助けられて好景気を呼びました。 中国のGNPは、特に南部の海岸地方で跳ね上がりました。中国は豊かな労働力に助けられて競争力の点でほかの輸出国に比べ有利だったため、国内への投資を呼び込むこともできました。しかしながら環境の劣化、社会格差、汚職の蔓延という点では大きな代償を支払ったといえます。中国は2000年代に世界第2の工業生産国となり、2010年代には第1位になりました。 1990年代の終りには、アジアを席巻し、アメリカと競合できる主役は、日本から中国へ移りました。2000年代からは戦力投射が中国の政策における重要なテーマとなり、2010年代になると積極的な海軍力の拡充計画と海外基地計画、東シナ海や南シナ海での強引な政策に見られるように、ますます強固なものになっています。 一党体制の国家である中国は、アメリカとは違う価値観を提示しようと務め、特にアフリカで大きな支持を取りつけることに成功しました。『300点の写真とイラストで大図解 世界史』2:太平洋戦争『300点の写真とイラストで大図解 世界史』1:清の衰退
2022.08.14
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図書館で『300点の写真とイラストで大図解 世界史』という大型本を、手にしたのです。めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪【300点の写真とイラストで大図解 世界史】ジェレミー・ブラック著、ニュートンプレス、2020年刊<「BOOK」データベース>より人類1000万年の歴史がこの1冊でわかる。【目次】第1章 先史時代の人類(1000万年前~紀元前1万年)/第2章 古代世界(紀元前1万2500~紀元前1000年)/第3章 古典文明(紀元前1000~紀元500年)/第4章 中世(500~1500年)/第5章 ルネサンスと啓蒙思想(1500~1750年)/第6章 革命とナショナリズム(1750~1914年)/第7章 争い合う世界(1914~1945年)/第8章 現代の世界(1945年~現在)<読む前の大使寸評>めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪rakuten300点の写真とイラストで大図解 世界史空母「飛龍」「第7章 争い合う世界」で太平洋戦争について・・・見てみましょう。p206~208<太平洋戦争> 1940年にフランスとオランダがドイツの攻撃に敗れ、すでに弱体化していた太平洋でのイギリスの地位が揺らぐと、東アジアと東南アジアに権力の空白が生まれます。その空白を狙って南下しようとしたのは日本軍でした。この地域における日本の主な敵はアメリカ(仏領インドシナ、特にベトナムへの日本の清軍に抗議していたため)でした。 1941年12月7日、事前の宣戦布告がなされないまま、日本はアメリカの太平洋艦隊の拠点であったハワイの真珠湾で、破壊的な空爆を行います。また1941年から1942年の冬、フィリピン諸島、マレーシア、オランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)およびビルマ(現在のミャンマー)を制圧しました。当初日本軍の攻撃は成功し、脆弱で統率もとれていなかった敵を尻目に広大な領土を獲得しましたが、それでも米軍は、長期戦で巻き返しを図ろうと勤めました。 アメリカは平和への妥協案には興味を示さず、短期決戦で有利な停戦に持ち込もうと図っていた日本は、重ねた勝利を束ねる現実的な戦争計画をもたなかったのです。 1942年夏、アメリカ海軍は太平洋で日本の艦隊を封鎖し、ミッドウェー島で日本軍に深刻な打撃を与えます。このとき日本側では、海軍の新しい戦力として広く使われていた空母4隻が鎮められました。1943年になると、アメリカは空母の援護を受けて水陸両用作戦を開始し、日本軍を太平洋の南西部と中央で撃退する一方、1944年末にはフィリピンに侵攻します。日本海軍は壊滅状態でした。 1945年8月、アメリカによる広島と長崎への原子爆弾投下は、なおも闘い続けようとする日本の自殺行為を阻止し、日本本土への上陸が行われれば避けられなかった犠牲を食い止めるために必要だったと主張されました。原爆投下ののち、日本はただちに無条件降伏しました。 『300点の写真とイラストで大図解 世界史』1:清の衰退
2022.08.11
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図書館で『300点の写真とイラストで大図解 世界史』という大型本を、手にしたのです。めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪【300点の写真とイラストで大図解 世界史】ジェレミー・ブラック著、ニュートンプレス、2020年刊<「BOOK」データベース>より人類1000万年の歴史がこの1冊でわかる。【目次】第1章 先史時代の人類(1000万年前~紀元前1万年)/第2章 古代世界(紀元前1万2500~紀元前1000年)/第3章 古典文明(紀元前1000~紀元500年)/第4章 中世(500~1500年)/第5章 ルネサンスと啓蒙思想(1500~1750年)/第6章 革命とナショナリズム(1750~1914年)/第7章 争い合う世界(1914~1945年)/第8章 現代の世界(1945年~現在)<読む前の大使寸評>めくって見ると、1頁半ほどのカラー写真があったりして、すごい迫力です。まさに百聞は一見にしかず・・・だがや♪rakuten300点の写真とイラストで大図解 世界史英メネシス号の中国兵船砲撃「第6章 革命とナショナリズム」で清の衰退について・・・見てみましょう。p170~172<清の衰退> 19世紀には中国の清朝もまた、経済と政治の衰退に苦しんでいました。1850年には4億5000万の人口を抱えながら、かつては強大だった産業基盤を発展させることができなかったのです。西洋諸国が世界的な経済の結びつきやグローバル化の動きの中心となっていくにつれ、対照的にそれ以外の大国は力を失いました。 その一つである清も19世紀に徐々に衰え始めました。理由の一部は内乱や格差の拡大でしたが、西洋で見られたような工業化への変革や強力な政府の樹立が理論上も実践上もなかなかできなかったためでもあります。アヘン戦争(1839~1842年、1856~1860年)は清朝政府にとって、西欧の列強に比した自国の脆弱さを露呈してしまう危機的な結果となりました。 1830年代の末、アヘンの中毒者が増えていたことは中国社会の悩みの種となっていました。総督であった林則徐がこの麻薬の禁輸を上奏したことは、イギリスの商人たちを狼狽させます。イギリスにとってアヘンで得られる利益ガアジアにおける茶の取引との経済バランスをとるうえで大切だったために両国とも譲ろうとはせず、あつれきは激しくなる一方でした。 林はヴィクトリア女王に対してアヘン取引に反対する旨の書簡を送り、そのなかでイギリス人を「蛮族」と呼びました。何の対応もないのを見てとった清朝政府は、イギリス商人を広州から追放し、アヘンを没収します。 大衆からの声に押され、イギリスは1842年に長江付近にある清の要地を封鎖し、そこから南京まで長江を北上しました。結果は清の敗北でした。勝利したイギリスは南京条約で清から香港島を割譲されます。この条約で清側は自国の経済や社会を律する権利を失い、イギリス製品への課税を下げ、1839年に破棄されたアヘンに対する賠償金を支払い、5つの港をイギリスとの貿易のために開くことを余儀なくされました。 これは西洋の国が中国にしかけた最初の戦争、中国に対するヨーロッパ勢の最初の勝利であり、さらにこれがまさに中国で起きたということに大きな意味がありました。 2度目の戦争が勃発したのは、イギリスが自国との貿易のために清の港をすべて開くよう求めたためです。広東の領事を務めていたハリー・パークスとイギリス首相パーマストン子爵は積極的に戦争を唱えていました。そうしたなか、イギリス国旗を掲げた香港の貨物船、アロー号に乗り込む中国人船員を広州で抑留したことが格好の口実となり、イギリスは1856年、広州を攻撃しました。 英仏連合軍は1858年1月1日にこの都市を占領し、さらに北上して天津近くの太クーにある要塞へと戦いの舞台を移します。そして、1859年にはうまくいきませんでしたが1860年にこの要塞と天津を掌握しました。その後北京の郊外で清軍に勝利して北京に入城したことは、清朝政府の威信を大いに失墜させました。さらに皇帝の夏の離宮までもが、清側の残虐行為への報復として破壊される事件が起きています。 1860年の戦争終結に伴って結ばれた北京条約では、清は香港島に加えて九龍半島南部を割譲し、英仏に賠償金を支払い、国内での宗教の自由を認めたうえ、さらにアヘンを含めた外国との貿易のため、ほかの港も開くことになりました。 多くのヨーロッパの列強と同様、イギリスも自国の制度や規則を押しつけ、自国の利益を重視しました。一方、敗北の屈辱を味わった中国では清朝の威信が大いに傷つき、改革を望む動きが高まって洋務運動が始まります。
2022.08.11
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昨今では、日中韓の歴史認識がトレンディであるが・・・ナショナリズムを静める意味でも、過去の日記(2012.5.24)から「漢字文化圏の成り立ちについて」を読み返してみようと思い立ったのです。****************************************************************************中華思想には反発するが、漢字文化圏という括りが好きな大使である。それでは「日本古代語と朝鮮語」という本で、漢字文化圏の成り立ちについて見てみましょう。【日本古代語と朝鮮語】大野晋編「日本古代語と朝鮮語」毎日新聞社、1975年刊<大使寸評>中国に過剰適応してしまった朝鮮が見えてくるが・・・つくづく日本という辺境の有りがたさが解りますね。Amazon日本古代語と朝鮮語この本の漢字文化のあたりを紹介します。<漢字文化>p120~121 いったい日本、あるいは朝鮮が、なぜ漢字文化を必要としたか。それはご承知のとおり、中国からこの政治の仕組みを学ぼうとしたのです。日本の各地にはたとえば紀の臣、葛城の臣、播磨の臣・・・などと呼ばれる豪族どもがおりました。それぞれの豪族がみな私民を持って独立支配をしているわけです。ところが、そのうちの有力豪族にかつがれた大君というのが起こってきて、各地豪族の持っている私民を取り上げて自分の直轄支配の中に置こうとする。あるいは朝鮮や中国から渡ってきた人たちを職業団体として受け入れ、それをまた朝廷の直轄支配のもとに置いて、品部(しなべ)とし、それから貢物を取り立てようとする。そういう時代になってきて、いよいよ政治の制度が必要になってくるわけです。行政制度が必要になった時代というのは、おそらく倭の五王のころでしょう。そこで倭の五王が、あれほど頻繁に中国に使いをやる。何を学ぼうとしたか。何はともあれまず、この官僚制度を学ぼうとしたのです。 それの具体的なあらわれは、後のトヨミケカシキヤヒメ(推古)のときに、いわゆる「十六階の官位」を制定し、そして「十七条の憲法」を発布して、「私民を廃して公民とせよ」「この世の中に二人の王があってはいけない、大君が全国を統一するのだ」そういう意図をはっきり「憲法」としてうち出します。さらに下って、「大化の改新」に至って初めて「律令制」を日本に取り入れるということになってくるわけです。だから中国の文化を必要としたというのは、要するにそういう全国支配の官僚体制、政治の知識がほしかったわけです。でなければ、万里の波濤を越えてあんなに頻繁に使いを出すものですか。漢字文化というのは、漢字文化というのは、徹底的に「政治的なもの」であるということを、日本の歴史のがわからもご理解いただきたい。 なお、ここでちょっと申し上げますが、「律令」の律というのは刑法のことです。漢の刑法のことを「漢律」と申します。そして令というのが、いまいいましたような、官庁の組織法です。ですから中国の律令制度は、秦の始皇帝に始まり、漢の時代に大躍進を遂げ、魏の時代に完璧になった。その律令制度を六朝の宗の国へ行って学んできた、これが倭の五王が使いを出した原因です。またそれを隋の王朝へ行って学んできた、それがトヨミケカシキヤヒメ(推古)のときに遣隋使が行った原因です。同じように、遣唐使を出した主たる目的も、やはり唐の行政組織と行政のやり方を輸入する、それが最大の目的でございました。 同じことは百済についてもいえます。百済が五世紀から六世紀にかけて、「郡県のごとし」(魏書にみえる言葉)といわれる地方の役所を置くようになります。それから宮廷の内部にも「内官」というものを置くようになります。それから冠位の制定も決めます。やや遅れて新羅も冠位の制定をする。そういう時期になって百済も新羅も盛んに中国の文化に取り入れるわけです。その主たる目的は、いうまでもなく律令制を取り入れるということにあったわけです。そのほかの、たとえば暦だとか、天文だとか、薬草・食品だとかは付随的に入ってきたのであって、主たる目的はあくまでこの官僚制を導入することにあったわけです。日本古代語と朝鮮語では、漢字をどう読んだのか?・・・・文献はあるがテープレコーダーが無かったので、学者の間で好き勝手な推論が飛び交っています。<漢字の訓読み>p159~161 鈴木:ところで、朝鮮では漢字の万葉仮名的な一時一音的な表記がありますね。それから、かなり早い時代に、漢字の意味をそのまま朝鮮語に当てはめたり、あるいは訓読みのような形で使ったりしていますが、これについてお話ししていただけませんか。大野:「郷歌」の文字の使い方は、「万葉集」の巻一、巻二などの古い書き方に非常によく似ていますよ。むしろ一時一音という「古事記」の表記は新しいんですね。そして意図的にきちっと整理して使ったものです。「万葉集」巻五は、大伴旅人の歌に、当時唐の都に留学したという山上憶良の歌などを収めたものですが、これは一時一音になっている。それから東国の歌を集めた巻十四--これがまた東歌で大和地方とは非常に言葉が違っているものだから、手直ししてある。これは時代にどうも問題点があります。 巻十五が新羅に遣使された人たちのもので、これも一時一音、巻十七~二十はそれぞれ用字法が違っているので、これはおそらくさまざまの書き方がしてあるのを四人の人に一時一音に直させたんだろうというのが私の見解です。ともかく「古事記」のほうが新しいんです。むしろ「万葉集」だけについていえば、巻一、巻二などは音もあり訓もあり、その他いろいろに当てて使う点で、郷歌の書き方と同じなんです。ともかく場合によっては、「万葉集」の古い時代の書き方は、朝鮮から習ったものであり、それを日本的に当てはめたものであると考えます。梅田:鈴木先生のおっしゃった一時一音表記というのは史読や吐のことだと思いますが、史読というのは文書類に用いられた表記法で文を書き表す時にその実質的な意味を表す部分は主として漢語で表記し、助詞や助動詞などの文法的要素に当たる朝鮮語を漢字の音や訓を借りて表したものであり、また、吐は漢文につける送り仮名のことでこれも漢字の音や訓を借りて表記されました。吐には漢字の略体も使われ、日本の片仮名と形が同じものもあります。 しかし、史読にしろ吐にしろ、いわば漢文表記の補助手段ですが、郷歌は朝鮮語の文全体を漢字を使って書き表している点でちがっています。おっしゃるとおり、成立は郷歌のほうが恐らく先行すると思います。ただ史読の前身ともいえるような漢字使用法が新羅の金石文に見られますが、これはかなり古いといえます。なお、史読と吐について言えば、それに含まれている語法から考えると、史読はかなり古い語法を含んでいてその成立が吐よりも古いことを思わせます。前述の郷歌式の表記法はその後用いられなくなりましたが、史読や吐は近世まで使われました。鈴木:そうすると、中国から朝鮮へ漢字が入ってきたときに、それを最初に表記したときは最初から一時一音と訓読みの両方が入っていたのかどうかということですが。大野:最初は漢文ですよ。鈴木:固有名詞の読み方なんですけれども、たとえば新羅の王子の名前が波珍(ハトリ)という形で出てきます。珍という字にトリという音を当てていて、これは三品彰英さんが訓読みだということをおっしゃっています。ですから、いわゆる訓読みのようなものと音読みとが、最初からごっちゃに使われたのか、それともどちらが先なのかということについてお聞きしたいのです。大野:それは中国語に習熟している人なら全部漢字音で、漢字で書くでしょう。ところが、十分中国語に習熟していない者は最初から混同して書きますよ。漢語に習熟するということはたいへんやっかいなことですからね。長田:『古事記』については成立上そういうことが考えられるかもしれませんが、いわゆる推古朝遣文の仮名書きは一時一音です。それから『古事記』の序文で例の有名な、一時一音で書くと趣旨が長くなるからやめるというくだりを見ると、一時一音のほうが先にあったというふうに考えられる。鈴木:『古事記』の序文は、日下(クサカ)とか帯(タラシ)はそのままで使って一時一音にはしないとも言っていますね。大野:一時一音にすれば、倭国の言葉を倭国の言葉としてはっきり書くことはできる。しかし、それは、今度は長々しくなるからわずらわしい、そういう意味じゃないですか、序文のあのくだりは。
2022.08.10
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図書館で『日本人はどこからきたのか?』という本を、手にしたのです。海部陽介さんといえば、丸木舟などの手作り船で古代の航海を再現しようとした(やや誇大妄想気味の)国立科学博物館の人類学者ではないか♪【日本人はどこからきたのか?】海部陽介著、文藝春秋、2016年刊<「BOOK」データベース>より約10万年前、アフリカを出た私たちの祖先は、4万8000年前、ヒマラヤ山脈を挟んで、南北に別れて拡散、1万年後、東アジアで再会する。そして、私たちの遙かなる祖先は、古日本列島に、3ルートから進出した。3万8000年前の航海術の証拠そして実験、世界各地の遺跡の年代調査比較、DNA分析、石器の比較研究。国立科学博物館気鋭の人類学者の重層的な調査によって浮かび上がる日本にいたる人類の「グレート・ジャーニー」その新たなる仮説ー。<読む前の大使寸評>海部陽介さんといえば、丸木舟などの手作り船で古代の航海を再現しようとした(やや誇大妄想気味の)国立科学博物館の人類学者ではないか♪rakuten日本人はどこからきたのか?「第10章 日本人の成立」で、結論めいたあたりを、見てみましょう。p197~200 <そして弥生時代へ> 弥生時代と言えば、大陸から日本へ、水稲耕作や金属器を軸とした新しい文化と社会・政治体制が入ってきた時期である。この弥生時代の幕開けを巡って、かつての人類学では「弥生渡来論争」とでも呼ぶべき大きな論争があった。 弥生文化が大陸からもたらされたことに疑問の余地はないが、これが実質的に人の移動を伴わない文化だけの伝播であったのか、あるいはかなりの規模の集団のトライを伴うものだったのか、という論争である。後者の説は、ただ渡来人が来たというのではなく、この弥生渡来民が後の日本人の形成に大きく寄与したという考えを含んでいる。 詳細は他書にゆずるが、遺跡から出土する人骨の形態分析や遺伝学の研究が進んだことにより、この論争は1990年代に事実上決着し、今では渡来説が正しいという認識に落ち着いている。 つまり弥生時代以降に、縄文人の系譜を受け継ぐ在来系の人々と、大陸からの渡来系の人々が様々に混血した結果として、歴史時代の日本人が形成されたというわけだ。 この渡来系弥生人の遺伝的影響は地域によって異なり、本州~九州で強く、アイヌや琉球の人々では弱かったと考えられている。逆に言うと、アイヌや琉球の人々は、それぞれの土地の縄文人の系譜をより色濃く受け継いでいるということだ。人類学ではこの図式を日本人の「二重構造」と呼んできた。ただし次節以降で述べるように、現実の歴史はこのシンプルなシナリオよりも複雑だったようであるが。 つまり弥生時代の幕を開けたのは大陸からの移民たちで、それは旧石器時代から基本的に連続してきたと思われる九州~本州地域の集団構造を大きく変える出来事であった。いっぽう、この出来事によって、最初の日本列島人たちの系譜が途絶えたわけではもちろんない。その意味で、彼らは現代日本人の直接の祖先(の1つ)なのである。(中略) <沖縄ルートの祖先はどこへ行ったのか> 沖縄(あるいは奄美大島)以南の琉球の島々は、台湾を出発して困難な航海にチャレンジした旧石器時代人によって、3万年以上前にはじめて植民された。1万年前頃になると、これらの島に、九州方面から縄文文化の影響が及びはじめる。 それらは九州でみられる石斧や土器が沖縄地方に出現する事であるが、沖縄県立博物館の山崎真治によれば、そういう文化要素の南下が、1万4000年前以降に幾度か繰り返された可能性があるという。その後の沖縄地方では、11~12世紀頃から農耕とグスク(各地に築かれた石積みの城塞)に特徴づけられるグスク時代がはじまり、やがて15世紀には地域を統一した琉球王国が生まれる。 こうした長期にわたる文化変遷史の中で、沖縄地方と周辺地域との間にどのような人の移動があったかは十分に明らかではないが、琉球大学の研究グループが2014年に興味深い研究成果を発表している。沖縄・宮古・八重山諸島の現代人のDNAを解析したところ、少なくとも3万年前頃にこれらの島へ渡った旧石器時代集団が、そのまま各島の現代人になったというモデルは否定された。縄文時代以降に、九州方面から沖縄地方へ大きな集団の移住があったことが装幀されるのである。実験航海のルート3万年前の航海 徹底再現プロジェクトより
2022.06.29
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図書館で『日本人が知るべき東アジアの地政学』という本を、手にしたのです。露・中・北朝鮮のパワーアップに曝される昨今ですが・・・この際、アジアの地政学を学んでみようと思うのです。【日本人が知るべき東アジアの地政学】茂木誠著、悟空出版、2019年刊<出版社>より米中覇権争いが本格化する中、日本は中国、韓国、北朝鮮とどう対峙すればよいのか。日々のニュースだけでは、国際情勢の本質が見えてこない。国家の行動や国民性は、地理や歴史の制約を大いに受ける。今こそ、欧米のエリート層が国際教養として学ぶ『地政学(地理+歴史+イデオロギー)』を武器に、日本の国益を考えよう!<読む前の大使寸評>露・中・北朝鮮のパワーアップに曝される昨今ですが・・・この際、アジアの地政学を学んでみようと思うのです。rakuten日本人が知るべき東アジアの地政学「第2章 地政学でひもとく東アジアと朝鮮半島」で、元寇を地政学的に見てみましょう。p66~69<刀伊の入寇と無防備な日本> 日本史における宋は、日宋貿易の相手として知られています。宋の特徴は、朝貢という「政治の論理」よりも、「貿易による利益」を重視する王朝だったことです。イデオロギーよりも経済合理性を重視することは、シーパワー的な考え方と言えます。 日宋貿易を主導したのは平氏で、伊勢湾と瀬戸内の海賊を配下に置くシーパワーでした。遣唐使終了後は密貿易が盛んになり、兵士はその「元締め」として莫大な利益を上げ、朝廷に献上することで政治力を伸ばしたのです。この過程で宋から大量の銅銭を輸入し、日本からその原料となる銅を輸出しました。この平安末から戦国時代にかけて、日本で流通した貨幣はもっぱら中国の銅銭でした。日本は事実上、中国と「通貨統合」をしたような状態です。 平氏が優れていたのは、決して宋と政治的に関わろうとしなかったことです。単なる貿易相手、ビジネスパートナーとしか考えておらず、政情不安な大陸の動きからは距離を置きました。 これと対照的なのが、関東に拠点を置く源氏です。源氏はまったくのランドパワーであり、ナショナリストです。いま風に言えば「反グローバリズム」で、その支持基盤は開拓農民が武装した東国武士団でした。シーパワーの平氏は海上ルートを押さえていましたが、ランドパワーに結局チョークポイントの港を押さえられてしまったことがきっかけで、滅亡へとつながっていきました。<暗転する高麗、モンゴルへの服従> 鎌倉ランドパワー政権が着々と基盤を築いていった日本に対し、悲惨なのは高麗でした。13世紀、宋の北半分を奪い取ったモンゴル帝国(大モンゴル国)は、同時進行で高麗への侵攻を開始します。その後30年間、モンゴル軍は高麗全土を焼き尽くし、数百万人を拉致します。国号を中華帝国風に「元」と改めたフビライ・ハンは、高麗王を服属させ、忠誠を誓わせました。こうれの王子は首都・大都(現在の北京)に人質として送られ、モンゴル語で教育を受け、ハンの娘を王妃に迎えてモンゴル化させられます。こうして高麗は元の一部となり、やがて日本遠征に全面協力するのです。 高麗を使って日本に対し何度も試写を送り、服属を要求します。このとき、もしも日本が国防に関心の低い平安末期の混乱状態であったら、あるいはプライドよりも実利を優先させる平氏政権であったなら、強力な元の要求をあっさり受け入れた可能性はあったと思います。 ロシアや他の中国王朝のような典型的なランドパワーが農業を基盤としているのに対し、モンゴル民族はあくまで遊牧民であって、土地に固執せず、流通の重要性もよく理解しています。紙幣の発行など経済政策も得意で、海にも目を向けることができます。 同時に、征服した国を直接統治するよりも、旧支配層を臣下として間接統治させる方法を好みました。これならば最小限で最大の戦果を得られるのです。高麗にもそのように接しましたし、日本に対しても同様にするつもりでした。しかし、鎌倉幕府の執権・北条時宗は要求をはねつけます。こうして全面戦争を迎えることになります。 一回目、1274年の文永の役では元・高麗の連合軍がやってきたわけですが、船も船のこぎ手も高麗が提供したものでした。博多上陸に成功しますが、日本武士団の抵抗に阻まれ、わずか一日で撤収します。フビライは再び服属を求める使者を送ってきましたが、この使者は鎌倉で斬られました。この間に南宋がモンゴルに滅ぼされます。 1281年の弘安の役は、元・高齢・旧南宋の連合軍です。元は旧南宋軍兵士が反乱を起こすことを警戒し、半ば棄民として日本を攻めさせ、入植を促したのです。 南宋軍の戦意が低かったのは当然として、高麗軍はそれなりに奮戦したといいます。すでに王までが元にからめとられ、言葉も服装もすべてモンゴル風に同化しているのですから、頑張るしかなかったのかもしれません。日本の武士団はモンゴル兵と高麗兵は殺し、戦意喪失の南宋兵は捕虜として送還しました。 一般に元寇は「神風」が吹いて勝ったとされますが、鎌倉武士の奮戦と南宋兵の士気の低さが最大の勝因でした。 同時に、刀伊の入寇や二度の元寇からわかるのは、陸軍国は海軍国を、大陸国家や半島国家は島国を攻めにくく、大陸国家はなかなか日本を攻撃できないという原則です。同じことは、欧州大陸の国は英国を征服できない、という事実からも証明できます。 『日本人が知るべき東アジアの地政学』2:ロシアのスラブ主義『日本人が知るべき東アジアの地政学』1:中国のシーパワー
2022.04.30
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図書館で『日本人が知るべき東アジアの地政学』という本を、手にしたのです。露・中・北朝鮮のパワーアップに曝される昨今ですが・・・この際、アジアの地政学を学んでみようと思うのです。【日本人が知るべき東アジアの地政学】茂木誠著、悟空出版、2019年刊<出版社>より米中覇権争いが本格化する中、日本は中国、韓国、北朝鮮とどう対峙すればよいのか。日々のニュースだけでは、国際情勢の本質が見えてこない。国家の行動や国民性は、地理や歴史の制約を大いに受ける。今こそ、欧米のエリート層が国際教養として学ぶ『地政学(地理+歴史+イデオロギー)』を武器に、日本の国益を考えよう!<読む前の大使寸評>露・中・北朝鮮のパワーアップに曝される昨今ですが・・・この際、アジアの地政学を学んでみようと思うのです。rakuten日本人が知るべき東アジアの地政学「第7章 ロシアの戦略」でロシアのスラブ主義が語れているので、見てみましょう。ウクライナ侵略を企てたプーチンの性向が解明できるのかも。p217~221<東ローマ帝国の末裔、モンゴル帝国の遺産> 19世紀以降の世界史を振り返ると、ロシアは典型的かつ最強のランドパワー国家でした。同じランドパワーの中国と似ているところがあります。周辺諸国との付き合い方が上手ではなく、すぐに粗暴な手段に頼るのです。 周辺の小国の国民性を理解することが難しいために、バルト三国や東欧、中央アジアや東アジアでも、ロシアと関わった国々に、不信感や反感を抱かせてしまいました。 同じランドパワーでも、豊かな農業地帯を有する中国大陸の為政者は遊牧民から侵略されるたびに、贈物で買収するという交渉術を身につけ、宋の時代にはビジネスを重視しました。 対照的に、あまりにも寒冷なロシアは穀物自給が困難で、油田が発見される19世紀までは、毛皮と奴隷しか売るものがなかったのです。また、2世紀にわたるモンゴル帝国の支配を受けたため、騎馬戦法に習熟し、モンゴル帝国に代わって周辺の小国は交渉相手ではなく、力でねじ伏せればよい存在でした。 ロシア人はよく言えば純朴、ネガティブに見れば世間知らずで我を押し通すところがあります。また、中国人が冷徹なリアリストであるのに対し、ロシア人は非常に観念的、内省的です。これは、ギリシャ正教会を受け継ぐロシア正教会の影響も大きいのでしょう。ドストエフスキーに見られる哲学的な文学は、中国ではついに生まれませんでした。っ経済的な実利よりも観念やイデオロギーを重視するロシア人の気質を知っておくと、気難しく粗暴に見える隣国を理解できるのではないでしょうか。 第1章でも触れたとおり、今日ロシア人と呼ばれる人たちには複数の源流があり、それぞれに独自の価値観やアイデンティティを持っています。 まずは、「西欧世界の一員としてのロシア」意識。彼らはもともとバイキングの血を引き継ぎ、スウェーデンからやってきた人間の末裔だというロシア年代記の建国神話が元になっています。 ノルマン人はバルト海の海洋民族でしたから、シーパワー的な発想をします。英国でもノルマン人が建てた王朝が長く続きましたから、自分たちロシア人は西欧人の仲間であり、西欧列強と対等な地位を築くべきだ、と考えるのです。近年では、ゴルバチョフやエリツィンが西欧派を代表する政治家です。 これと真逆なのが、スラブ人意識です。スラブ人は東欧の先住民で、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)からキリスト教(ギリシャ正教)を受け入れ、西のゲルマン人(かとりっく教徒)、南のトルコ人(イスラム教徒)に対抗しようとしました。現在のロシアの原型となったモスクワ大公国は、自らを「ビザンツ帝国の後継者」と考えました。この考えは、ビザンツ帝国の滅亡とともに強まり、イヴァン3世は東ローマ帝国皇帝の姪と結婚し、帝国の後継者として「皇帝」という称号も使い始めました。 ちょうど明の滅亡後、朝鮮王朝が明の継承者として「小中華」意識を持つに至ったのとよく似ています。スラブ派はロシアの土地にこだわり、ランドパワー的な行動を取ります。近年ではプーチンがスラブ派の代表です。 さらにロシア人には、もう一つの隠されたアイデンティティがあります。「モンゴル帝国の後継者」という意識です。13世紀前半に現在のロシアはモンゴル帝国の侵攻を受け、その後250年間、モンゴル人に間接支配されました(ロシアではこの暗黒時代を「タタールのくびき」と呼んでいます)。この間、モスクワの領主はモンゴル人の王女をめとり、進んでモンゴル化していきました。高麗王が、進んでフビライに臣従したのとよく似ています。ロシア人にとっては屈辱の歴史ですが、朝鮮と同様、この時代の記憶が、その後のロシア人の行動様式に大きな影響を与えていることは、さまざまな事例から説明できます。 後にモンゴルから独立し、現在のロシアにつながるモスクワ大公国のイヴァン4世(雷帝)は、いったん退位してモンゴルの王子を即位させ、そこから改めて譲位されるという面倒な手順を踏んでいます。自らがモンゴルのハンの後継者であると演出することで、カザフ人、ウズベク人など中央アジアの遊牧民を臣従させることに成功したのです。 モンゴルの「遺産」は、ロシア・コサック兵にも受け継がれました。広大な原野を縦横無尽に駆けめぐるコサック兵は、ロシア陸軍の精鋭部隊として、モンゴル帝国に匹敵する巨大な領土をロシアが獲得することに貢献したのです。 北欧のノルマン人、土着のスラブ人、そしてモンゴル人。さまざまな流れを受け継いでいるロシアは、一枚岩ではありません。大きく見ればランドパワーですが、国内では長い間、ランドパワー派とシーパワー派が対立を続けてきたのです。『日本人が知るべき東アジアの地政学』1:中国のシーパワー
2022.04.29
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図書館で『日本人が知るべき東アジアの地政学』という本を、手にしたのです。露・中・北朝鮮のパワーアップに曝される昨今ですが・・・この際、アジアの地政学を学んでみようと思うのです。【日本人が知るべき東アジアの地政学】茂木誠著、悟空出版、2019年刊<出版社>より米中覇権争いが本格化する中、日本は中国、韓国、北朝鮮とどう対峙すればよいのか。日々のニュースだけでは、国際情勢の本質が見えてこない。国家の行動や国民性は、地理や歴史の制約を大いに受ける。今こそ、欧米のエリート層が国際教養として学ぶ『地政学(地理+歴史+イデオロギー)』を武器に、日本の国益を考えよう!<読む前の大使寸評>露・中・北朝鮮のパワーアップに曝される昨今ですが・・・この際、アジアの地政学を学んでみようと思うのです。rakuten日本人が知るべき東アジアの地政学「第4章 中国の戦略」で中国のシーパワーが語れているので、見てみましょう。p161~166<ランドパワー帝国はシーパワーに変身できるか?> 中国は二千年にわたって東アジア最大のランドパワー帝国として君臨し、朝鮮と東南アジア諸国を臣下として冊封してきました。唯一、シーパワーの日本だけが冊封体制から離脱し、台湾もまた島国だったため、中華帝国の支配を免れてきました。台湾が中国領となるのは、17世紀の清朝になってからです。 19世紀以降、産業革命で近代兵器を装備した英国・フランス・ロシア・日本が相次いで中国に派兵し、国内では内戦が続くという「屈辱の百年」を迎えます。帝国は崩壊し、その廃墟の中から立ち上がった共産党が、初めはソ連型統制経済で失敗したものの、試行錯誤の末に、一党独裁を維持したまま米国型市場経済を導入するという、まったく新しいシステムを構築しました。 米中の接近はその反動として中ソ対立を激化させ、冷戦期の中国は常に北方の脅威であるソ連から身を守るため、またチベット・ウイグルなど国内少数民族の分離運動を抑え込むために、核戦力と陸軍の増強に努め、海軍育成は後回しにされました。 それでも1970年代の鄧小平時代に、「中国海軍の父」とされる劉華清司令が将来を見据えて、列島戦概念を提唱しました。現在の中国海軍の増強とその動きは、基本的に劉華清プランに従ったものなのです。 ・第一列島戦・・・日本列島・沖縄・フィリピンを結ぶ線。 この手前の東シナ海・南シナ海を2010年代までに確保する。 ・第二列島戦・・・小笠原・グアム・ニューギニアを結ぶ線。 この手前のフィリピン海を2020年代までに確保する。 ソ連崩壊で北の脅威から解放され、21世紀の中国は、米国に次ぐ世界第二位の経済大国にのし上がりました。その結果、彼らはシーパワー大国になるという野心を隠さなくなったのです。現状では中国海軍は、西太平洋で圧倒的なパワーを保つ米軍や、これと共同作戦を行う日本の海上自衛隊のはるか後塵を拝しています。また、米国の同盟国に囲まれて海へのアクセスが制限されていることにも強い不満を感じています。 この現状を打破し、韓国や沖縄、佐世保や横須賀の米海軍をグアムまで撤収させ、日本には平和憲法を厳守させて自衛隊の手足を縛っておき、中国海軍が西太平洋・インド洋地域の海上覇権を握る――これが習近平の唱える「中国の夢」であり、「一帯一路」計画なのです。 歴史上、ランドパワー帝国として君臨してきた中国が、シーパワー化しようとしたことが過去に二度ありました。明の永楽帝の時と、清朝末期の李鴻章の改革の時です。 14世紀、モンゴル人による征服王朝・元の支配を脱し、明を建国した洪武帝は、朱子学的農本主義を採用し、モンゴル残存勢力との戦いに全力を傾けました。対モンゴル戦争に勝利し、北方の脅威から解放された三代永楽帝は、中国の歴代皇帝で初めて海に関心を向け、側近の鄭和を艦隊司令官として、「南海遠征」を命じます。 この「鄭和の南海遠征」とは、どんなものだったのかを説明しましょう。 まず鄭和です。この人は漢民族ではありません。アラブ系と思われるイスラム教徒で、祖父の代から元に仕え、雲南地方の地方長官を務めていた家系です。世界帝国モンゴルはグローバリスト政権であり、高級官僚には「色目人」と呼ばれる西アジア出身者が多く採用されていました。 中華ナショナリズムの明は、モンゴルからの独立戦争の過程で色目人を殺戮し、鄭和の一家も全滅しました。少年だった鄭和は、去勢されて宦官として明の後宮に入り、その才覚を認めた永楽帝に重用されるようになったのです。 「南海」とは南シナ海からインド洋までを意味します。そもそも「南海遠征」という発想は、ランドパワーの漢民族からは出てきません。この地域の情報や航海技術は、鄭和がイスラム教徒のネットワークから入手したものでしょう。 次に「遠征」の意味です。この言葉からはペリーが日本に対して行ったような砲艦外交をイメージしますが、実態はまったく違います。 「鄭和艦隊」は巨大な商船隊であり、船底には陶磁器、その上には絹織物を満載して、東南アジア・インドの各港を訪問するのです。いわば移動見本市です。これらの産物を現地人に見せ、明の皇帝に朝貢するよう促すのです。「〇」と誘うのです。日本の足利義満にも同じ要求をし、義光はこれに便乗して永楽帝に朝貢し「日本国王」に冊封されました。唐の時代、白村江の戦いを機に朝貢しなくなった日本を八百年ぶりに朝貢させたことは、明の威信を高めるのに効果的でした。 民がやったことは、習近平の中国が「一帯一路」構想を打ち出し、ユーラシア諸国の港湾・鉄道・パイプラインなどインフラ開発のためにチャイナ・マネーをバラまいていることとオーバーラップします。 鄭和の南海遠征も、基本はバラマキです。というよりも、中華帝国の冊封自体が歴史的にバラマキそのものです。属国が書状を持ってやってきて、頭を下げて貢ぎ物を献上してきたら、中華帝国の皇帝は、その何倍もの下賜品を与えることで、自らの威光を維持してきたのです。 つまり、帝国の威光が世界に広がれば広がるほど、バラマキを続けざるを得なくなり、中華帝国の財政は悪化します。結局のところ、朱子学的な「華夷秩序」という政治の理論が、経済的合理性を上回ってしまうことを意味します。言い方を変えれば、中華帝国の威光をカネで手に入れているにすぎません。 手を広げきった明は、当然のごとく財政難を招きます。永楽帝が没すると南海遠征は中止され、三年に一度の朝貢使が五年、十年に一度になり、公的な貿易の規模が縮小していきます。すると今度は密貿易の増加を招き、武装商人が東シナ海を跋扈します。これが倭寇(後期倭寇)です。 対モンゴル人政策も同じことで、馬を貢がせ、その数倍の絹織物を下賜することで、平和を保とうとしました(絹馬貿易)。しかし財政難からこれも制限され、絹を求めるモンゴル人が再び北辺を侵略する結果を招きました。明はひたすら万里の長城を巨大化して立てこもり、兵力の大半を頂上防衛にあてたため倭寇の取り締まりもままならず、秀吉の朝鮮出兵で援軍を送ったため財政危機を招き、増税が農民反乱を引き起こし、別の北方民族(女真=満州人)の侵攻を招いて、滅亡してしまうわけです。
2022.04.29
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<縄文人の世界R13>図書館で借りた『縄文の思考』という新書を読んだところです。これまで読んだ本、テレビ番組などを以下に並べてみるが・・・縄文人の世界がおぼろげながら見えてくる気がします。・「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産に登録(2021年NHK)・『びっくり! 縄文植物誌』(2020年刊)・『(耕論)縄文、若者もハマる』(2019年デジタル朝日)・縄文人はどう生きたか。(Discover Japan 9月号)(2018年刊)・ぐるぐる博物館(2017年刊)・『知られざる縄文ライフ』(2017年刊)・『文明に抗した弥生の人びと』(2017年刊)・『縄文の思想』(2017年刊)・『アイヌと縄文』(2016年刊)・アジア巨大遺跡(第4集)縄文 奇跡の大集落(2015年放映)・『(日本人)』(2012年刊)・『新説・あなたの知らない岡本太郎』(2011年刊)・『縄文の思考』(2008年刊)・『イネが語る日本と中国』(2003年刊)・『縄文農耕の世界』(2000年刊)・『日本人のルーツ』(2000年刊)・『「王権誕生」日本の歴史第2巻』(2000年刊)・『縄文人は飲んべえだった』(1995年刊)・『倭人の登場』(1985年刊)・『栽培植物と農耕の起源』(1984年刊)・『稲を選んだ日本人』(1982年刊)ナラ林文化領域R13:『「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産に登録』を追加**********************************************************************「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産に登録の見通し『びっくり! 縄文植物誌』2:人類は日本列島にいつ来たのか?『びっくり! 縄文植物誌』1:ウルシの旅(耕論)縄文、若者もハマる『縄文人はどう生きたか。(Discover Japan 9月号)』4:縄文の美を発見した岡本太郎『縄文人はどう生きたか。(Discover Japan 9月号)』3:三内丸山遺跡『縄文人はどう生きたか。(Discover Japan 9月号)』2:縄文のデザイン『縄文人はどう生きたか。(Discover Japan 9月号)』1:気になった土偶たちや土器『ぐるぐる博物館』2:茅野市尖石縄文考古館『知られざる縄文ライフ』3:縄文人はどこから来たの?『知られざる縄文ライフ』2:縄文の美の発見者『知られざる縄文ライフ』1:鬼界カルデラで大噴火があり『文明に抗した弥生の人びと』4:水田をいとなむ社会『文明に抗した弥生の人びと』3:農耕社会の登場『文明に抗した弥生の人びと』2:縄文時代、縄文人について(続き)『文明に抗した弥生の人びと』1:縄文時代、縄文人について『縄文の思想』2:海民の誕生『縄文の思想』1:北海道の住人『アイヌと縄文』3:『アイヌと縄文』2:ニブタニ時代(鎌倉時代以降)のアイヌ『アイヌと縄文』1:続縄文文化や水稲耕作『イネが語る日本と中国』1:長江流域の遺跡から出土したイネp8~10『イネが語る日本と中国』2:長江流域、江南の地の農耕風景p46~50『イネが語る日本と中国』3:イネはいつ、どこから来たか『イネが語る日本と中国』4:日中のいろんな酒p196~198『(日本人)』2:新渡戸の『武士道』『(日本人)』1:新渡戸の『武士道』『(日本人)』1:農耕の発祥『新説・あなたの知らない岡本太郎』1『縄文の思考』3:ムラの生活『縄文の思考』2:縄文語や縄文文化『縄文の思考』1:記念物=モニュメント『縄文農耕の世界』1 <ヒエは日本列島原産か>p84~86、<イネはあったか>p103~107『縄文農耕の世界』2 <「海上の道」の痕跡をどう証明するか>p124~126、<日本列島を巡る複数の縄文街道>p133~134『縄文農耕の世界』3 <ヒトに撹乱されてできた耕地>p171~173『縄文農耕の世界』4 <第2章 縄文農耕の実像にせまる>p82~83、<ヒエは日本列島原産か>p84~86『縄文農耕の世界』5:縄文農耕の概要p16~18『縄文農耕の世界』6:水田稲作の渡来p82~85『縄文人は飲んべえだった』3:根強い日本人南方起源説『縄文人は飲んべえだった』2:落葉広葉樹林が育てた縄文文化『縄文人は飲んべえだった』1:日本語の起源『倭人の登場』2:始皇帝、武帝の時代の朝鮮半島『倭人の登場』1:東シナ海横断ルート『日本人のルーツ』1『「王権誕生」日本の歴史第2巻』4:エピローグp348~349『「王権誕生」日本の歴史第2巻』3:戦争のはじまりp126~128『「王権誕生」日本の歴史第2巻』2:水稲農耕の伝来p50~51『「王権誕生」日本の歴史第2巻』1:水稲農耕の伝来p44~48『栽培植物と農耕の起源』1:前書き『栽培植物と農耕の起源』2:クズとワラビp60~62『栽培植物と農耕の起源』3:照葉樹林文化の遺産p68~73『栽培植物と農耕の起源』4:雑穀というものp78~82『栽培植物と農耕の起源』5:イネは湿地の雑穀p116~118、山棲みと平野型のイネ作農業p132~136『栽培植物と農耕の起源』6:根菜農耕文化の成立と伝播についてp50~58『稲を選んだ日本人』3:餅の禁忌について『稲を選んだ日本人』2:稲を選んだ日本人『稲を選んだ日本人』1:稲を拒否した日本人**********************************************************************2021.5.26「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産に登録の見通しより 世界文化遺産への登録を目指している北海道と青森県、岩手県、それに秋田県に点在する「北海道・北東北の縄文遺跡群」について、ユネスコの諮問機関は世界遺産への登録がふさわしいとする勧告をまとめました。これにより、ことしの世界遺産委員会で世界文化遺産に登録される見通しとなりました。「北海道・北東北の縄文遺跡群」は北海道と青森県、岩手県、秋田県に点在する17の縄文時代の遺跡で構成され、▼竪穴建物や掘立柱建物などが配置された青森市の「三内丸山遺跡」や、▼大小の石が環状に配置され「秋田のストーンサークル」と呼ばれる祭祀遺跡、秋田県鹿角市の「大湯環状列石」などが含まれています。 国は、狩猟や採集、漁を基盤に人々が定住して集落が発展し、1万年以上続いた「縄文時代」の生活や精神文化を現代に伝えるもので普遍的な価値があるとして、ことしの世界文化遺産への登録を目指しています。文化庁によりますと、ユネスコの諮問機関「イコモス」は、現地調査などの結果、4段階ある評価のうち最も高い、世界遺産に登録することがふさわしいとする「記載」の勧告をまとめました。 これにより、「北海道・北東北の縄文遺跡群」は構成する17の遺跡がすべてことし7月にオンラインで開かれる世界遺産委員会で正式に世界文化遺産に登録される見通しとなりました。勧告を受けて文化庁は午後8時から記者会見を開き、「我が国の貴重な文化遺産が国際的に高い評価を受けたことを喜ばしく思うとともに、地元の関係者の方々の努力に敬意を表したい。農耕以前に狩猟や採集を中心とした生活がこれほど長く続いていた点に価値があると伝えてきたので、そこが良い評価を得られてよかった」と話しています。 国内では、今月10日に鹿児島県の奄美大島と徳之島、それに沖縄県の沖縄本島北部と西表島にある森林などが世界自然遺産への登録にふさわしいと勧告されていて、いずれも登録されれば日本の文化遺産は20件に、自然遺産は5件になる見通しです。【縄文遺跡群とは】「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、津軽海峡を挟んだ北海道と青森県、秋田県、岩手県に点在している17の縄文時代の遺跡で構成されます。縄文時代草創期のおよそ1万5000年前から縄文時代晩期のおよそ2400年前にかけての、集落や貝塚、大規模な墓のほか、祭し用の遺構などが残されています。それらの特徴から、この広大なエリアが1つの文化圏を形作っていたと考えられ、定住の始まりから発展、成熟に至る1万年あまりにわたる道のりを知ることができる貴重な遺跡群とされています。 このうち道内には6つの遺跡があり、▼函館市の大船遺跡は、100棟を超える竪穴住居跡が見つかっている大規模な集落群です。この遺跡からは、クジラやオットセイの骨やクリなどが出土していて、漁を行うとともに、森林の恵みも活発に利用していたことが分かります。また、土坑墓と呼ばれる円形の墓も確認でき、当時の祭しや精神文化を知る上でも貴重な遺跡とされています。**********************************************************************<『びっくり! 縄文植物誌』2>図書館で『びっくり! 縄文植物誌』という本を、手にしたのです。遺跡から出土するクリやウルシなどについて考察する考古植物学なるものがあるそうで・・・びっくりするわけでおます。【びっくり! 縄文植物誌】鈴木三男著、同成社、2020年刊<「BOOK」データベース>より縄文人たちは、こんな植物を、こんなふうに使っていた!その驚きの利用法を植物学者ならではの視点から突きとめ、知られざる縄文文化の世界を紡ぎだす。<読む前の大使寸評>遺跡から出土するクリやウルシなどについて考察する考古植物学なるものがあるそうで・・・びっくりするわけでおます。rakutenびっくり! 縄文植物誌**********************************************************************<(耕論)縄文、若者もハマる> 考古学者の吉田泰幸さんがオピニオン欄で「文化ナショナリズムを駆り立てる四つの考え方」を説いているので、紹介します。(吉田泰幸さんのオピニオンを4/09デジタル朝日から転記しました)何度目かの「縄文ブーム」が到来している。「土偶女子」という言葉が生まれるなど、今回のブームは若い世代にも広がっているのが特徴だ。なぜ私たちは、縄文時代に引きつけられるのか。■解釈に幅、右派も左派も 吉田泰幸さん(考古学者) 考古学は戦後日本の文化ナショナリズムを強化する役割を果たしてきました。ただ、考古学がナショナリズムと結びつきやすいのは、世界共通の現象です。 社会学者の吉野耕作は、文化ナショナリズムを駆り立てる考え方を四つ挙げています。「私たちと彼らは違う」という境界主義。歴史の古さに価値を置く原初主義。自分たちのルーツを強調する歴史主義。そして、日本に顕著な自民族周辺主義。自分たちが中心ではなく、周辺にいるからこそ特別とする考えです。 縄文はこの四つが見事に当てはまります。「日本独自の文化」という境界主義、「1万年以上前」を強調する原初主義、「日本人のルーツ」の歴史主義、「東アジアの周縁だからこそ特別な存在」という自民族周辺主義を併せ持っています。旧石器時代は世界共通の時代区分ですし、弥生時代、古墳時代だと大陸文化の影響は否定できません。 縄文は時期が長く設定され、わかっていることも断片的なので、想像や解釈が入り込む余地が大きい。だからいわゆる「右」も「左」も縄文を称揚できるのです。 保守的な主張で知られた俳優の津川雅彦さんは、「縄文派」を自任し、日本人の「伝統」的な美点は縄文時代にさかのぼると考えました。一方、脱原発を唱え、安保法制反対デモにも参加した音楽家の坂本龍一さんは、現代社会の問題を解決できるものが縄文にあると考えています。同じ縄文から、どちらの解釈も引き出せてしまうのです。 三内丸山遺跡の6本柱の復元建物は、その大きさ故に「縄文すごい」論にも結びつきます。復元はあくまで解釈の一つですが、あの姿になったプロセス、それがはらむ諸問題を考古学者がよく分析できていないのも問題です。 これまでの考古学ブームは、藤ノ木古墳と古代史ブーム、吉野ケ里遺跡と弥生(邪馬台国)ブーム、三内丸山遺跡と縄文ブームなど、発掘調査報道とセットでした。でも、今の縄文ブームは、そうした大きな起爆剤がないところが特徴かもしれません。 縄文展では、若い人も年配の人も土偶を見て「カワイイ」と言っていました。それも決して悪いことではなく、むしろ一過性のブームに終わらせないためにはどうすべきかを考えるべきです。 映画「縄文にハマる人々」の監督・山岡信貴さんが「縄文を知るにはまずどこがお薦めですか」と聞かれて、「あなたの町の博物館」と答えたことには共感します。まず近くの博物館や郷土資料館で縄文のモノを見てみる。それをきっかけに、いきなり大きな話に飛びつかず、自分なりの理解をつくっていく。その過程を楽しむことをお勧めしたいです。(聞き手 シニアエディター・尾沢智史)ウーム ニッポンも中韓のようなウリナラ文化ナショナリズムが芽生えてきた面があるのかも知れんなあ・・・でも土偶のカワイサにハマッた大使でおます♪(耕論)縄文、若者もハマる吉田泰幸2019.4.09**********************************************************************【縄文人はどう生きたか。(Discover Japan 9月号)】雑誌、エイ出版社、2018年刊<商品の説明>よりいま「縄文」が熱い注目を集めています。東京国立博物館では、特別展「縄文-1万年の美の鼓動」が2018年9月2日まで開催中。会場には「縄文の美」を目がけて、多くの人々が足を運んでいます。そもそも縄文時代が、実は1万年も続いたことを皆さんは知っていますか?しかも縄文時代の人々は、自然と共存し、戦争もせず、サステイナブルな社会を築いていました。そんな豊かな暮らしの中で生まれたのが、あの土器や土偶たち。その造形の美しさ、愛らしさ、不思議さに多くの人々が夢中になっています。<読む前の大使寸評>追って記入amazon縄文人はどう生きたか。(Discover Japan 9月号)**********************************************************************この本の冒頭が縄文考古館となっていて、縄文人がミニブームとなっている大使にとって、ツボが疼くわけでおます。【ぐるぐる博物館】三浦しをん著、実業之日本社、2017年刊<「BOOK」データベース>より人類史の最前線から、秘宝館まで、個性あふれる博物館を探検!書き下ろし「ぐるぐる寄り道編」も収録!好奇心とユーモア全開、胸躍るルポエッセイ。【目次】第1館 茅野市尖石縄文考古館ー私たちはつながっている/第2館 国立科学博物館ー親玉は静かに熱い!/第3館 龍谷ミュージアムー興奮!の仏教世界/第4館 奇石博物館ーおそるべし!石に魅せられた人々の情熱/第5館 大牟田市石炭産業科学館ー町ぜんぶが三池炭鉱のテーマパーク/第6館 雲仙岳災害記念館ー災害に備えつつ穏やかに暮らすということ/第7館 石ノ森萬画館ー冒険と希望の館で失神するの巻/第8館 風俗資料館ー求めよ、さらば与えられん/第9館 めがねミュージアムーハイテク&職人技の総本山/第10館 ボタンの博物館ー美と遊びを追求せずにはいられない<読む前の大使寸評>巻末を見ると、「月刊ジェイ・ノベル掲載分」を主に編集した本のようだが…編集者の企画が良かったのかも♪rakutenぐるぐる博物館**********************************************************************<『知られざる縄文ライフ』>図書館で『知られざる縄文ライフ』という本を、手にしたのです。火炎型土器、土偶、岡本太郎・・・この流れは、縄文人、縄文ライフにたどりつくわけで、この本をチョイスしたのです。ぱらぱらとめくると、全ページにカラー画像満載のビジュアル本である・・・とにかく、疲れてきたらビジュアル本でんがな♪【知られざる縄文ライフ】譽田亜紀子著、誠文堂新光社、2017年刊<出版社>より 現代を生きる私たちにとって、誰もが知っているようであまり知らない、縄文時代。この本は研究から見えてきた縄文を、小難しいことを抜きにしてザックリ知るための縄文入門です。 縄文時代ってどんな時代だったのでしょう?1万年というとてつもなく長い年月の中、縄文人たちはどのように暮らしていたのでしょうか?ご飯は? トイレは? 服はどんなものだった??そんな身近な疑問をヒントにすれば、意外と知らなかった縄文時代をノゾキ見するための手掛かりがきっと見つかるはず。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、全ページにカラー画像満載のビジュアル本である・・・とにかく、疲れてきたらビジュアル本でんがな♪rakuten知られざる縄文ライフ**********************************************************************【文明に抗した弥生の人びと】寺前直人著、吉川弘文館、2017年刊<「BOOK」データベース>より水田農耕や金属器などの新文化を、列島の在来社会はどう受け止めたのか。縄文の伝統をひく土偶や石棒など儀礼品や、打製石器に着目し、文明に抗う人びとを描く。大陸文明の受容だけでは説明できない弥生の実像に迫る。<読む前の大使寸評>大使の関心は、辺境ニッポンの長い縄文時代と、文明に抗した縄文人、弥生人とはいかなる者か?・・・に向かうわけでおます。<図書館予約:(2/10予約、2/13受取)>rakuten文明に抗した弥生の人びと**********************************************************************<『アイヌと縄文』1>図書館で『アイヌと縄文』という本を、手にしたのです。弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。【アイヌと縄文】瀬川拓郎著、筑摩書房、2016年刊<「BOOK」データベース>よりアイヌこそが縄文人の正統な末裔であることが、最近のさまざまな研究や調査で明らかになっている。平地人となることを拒否し、北海道という山中にとどまって縄文の習俗を最後まで守り通したアイヌの人びと、その文化を見ていけば、日本列島人の原郷の思想が明らかになるにちがいない。交易、祭祀、葬制、遺跡とその遺物、言語などの多方面にわたる最新のアイヌ研究を総合し、弥生文化を選択した現代日本人にとって、ありえたかもしれないもうひとつの歴史を叙述する野心的試み。<読む前の大使寸評>弥生文化を選択した現代日本人にとってのアイヌ人、縄文人という視点が、太子のツボに響くわけです。rakutenアイヌと縄文**********************************************************************<『縄文の思想』>図書館で『縄文の思想』という新書を手にしたのです。岡本太郎が縄文の美を発見して以来、われわれは常に「縄文性」が気になっているのではないか?【縄文の思想】瀬川拓郎著、講談社、2017年刊<「BOOK」データベース>よりアイヌ・海民・南島…。縄文は、生きている!!!われわれの内なる「縄文性」に迫る、まったく新しい縄文論。<読む前の大使寸評>岡本太郎が縄文の美を発見して以来、われわれは常に「縄文性」が気になっているのではないか?yodobashi縄文の思想**********************************************************************カリフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授も、農耕に頼らない縄文人の社会は従来の文明論を根底から揺さぶっていると言っていました。アジア巨大遺跡(第4集)縄文 奇跡の大集落初回放送:2015年11月8日 最終回は、日本人の原点とも言われる、縄文文化。その象徴が、青森県にある巨大遺跡、三内丸山である。巨大な6本の柱が並ぶ木造建造物や長さ32メートルもの大型住居など、20年を超える発掘から浮かび上がってきたのは、従来の縄文のイメージを覆す、巨大で豊かな集落の姿だった。 この縄文文化に、今、世界の注目が集まっている。芸術性の高い土器や神秘的な土偶、数千年の時を経ても色あせぬ漆製品。その暮らしぶりは、世界のどの地域でも見られない、洗練されたものとして、欧米の専門家から高い評価を獲得している。さらに、世界を驚かせているのが、その持続性。縄文人は、本格的な農耕を行わず、狩猟採集を生活の基盤としながら、1万年もの長期にわたって持続可能な社会を作りあげていた。こうした事実は、農耕を主軸に据えた、従来の文明論を根底から揺さぶっている。 なぜ、縄文は、独自の繁栄を達成し、1万年も持続できたのか。自然科学の手法を用いた最新の研究成果や、長年の発掘調査から明らかになってきたのは、日本列島の豊かな自然を巧みに活用する、独特の姿だった。 さらに、縄文とのつながりを求めて、取材班が訪れたのは、ロシアの巨木の森。そして、地球最後の秘境とも言われるパプアニューギニアで進められている、縄文土器の謎を探る調査にも密着。時空を超えながら、世界に類のない縄文文化の真実に迫っていく。農耕とは地球の自然を人為的に破壊するという側面もあるわけで・・・ブラジルやアメリカのような過度な農耕は地球環境に良いわけないのです。ジャレド・ダイアモンド教授の大局的な慧眼は、そのあたりに注目しているのかも。**********************************************************************<『イネが語る日本と中国』>図書館に予約していた『イネが語る日本と中国』という本を、待つこと5日でゲットしたのです。図書館に予約するには、この種のやや専門的な本が狙い目かもね♪【イネが語る日本と中国】佐藤洋一郎著、農山漁村文化協会、2003年刊<「BOOK」データベース>より【目次】1 ジャポニカのイネは中国生まれ/2 黄河と長江ー中国二つの顔/3 イネの遺跡・遺物/4 水稲の誕生/5 中国の稲作風景/6 イネ、日本に至る/7 占城稲のゆくえ/8 現在水稲品種の系譜/9 米の日中比較<読む前の大使寸評>図書館に予約して5日後にゲットしたが、この種のやや専門的な本が狙い目かもね♪<図書館予約:(3/19予約、3/24受取)>rakutenイネが語る日本と中国**********************************************************************『(日本人)』1という本で、かのジャレド・ダイヤモンドが農耕の発祥を語っているので、見てみましょう。【(日本人)】橘玲著、幻冬舎、2012年刊<「BOOK」データベース>よりこれまでの日本人論で「日本人の特殊性」といわれてきたことは、ほとんどが人間の本性にすぎない。世界を覆い尽くすグローバリズムの中で、日本人はまったく「特殊」ではない。従来の日本人論をすべて覆すまったく新しい日本人論。<読む前の大使寸評>目次を見てみると、興味深い項目が並んでいて、切り口の鋭さが表れているようで・・・ええでえぇ♪rakuten(日本人)**********************************************************************【新説・あなたの知らない岡本太郎】ムック、マガジンハウス、2011年刊<出版社>よりムックにつきデータ無し<読む前の大使寸評>雑誌『カーサ ブルータス』の特別編集ムック・シリーズとのことであるが・・・大型本の全篇に画像満載であり、ええでぇ♪ぱらぱらとめくると、太郎さんの家の内外の写真が多く、興味深いのです。rakuten新説・あなたの知らない岡本太郎**********************************************************************<『縄文の思考』>図書館で『縄文の思考』という本を、手にしたのです。大陸に比べて、長く続いた日本列島の縄文時代であるが・・・中華文明が栄えていたころの日本列島の縄文文化はどんなだったかと思うわけです。【縄文の思考】小林達雄著、筑摩書房、2008年刊<「BOOK」データベース>より縄文土器を眺めると、口縁には大仰な突起があり、胴が細く、くびれたりする。なぜ、縄文人は容器としてはきわめて使い勝手の悪いデザインを造り続けたのか?本書では土器、土偶のほか、環状列石や三内丸山の六本柱等の「記念物」から縄文人の世界観をよみとり、そのゆたかな精神世界をあますところなく伝える。丹念な実証研究に基づきつつ、つねに考古学に新しい地平を切り拓いてきた著者による、縄文考古学の集大成。<読む前の大使寸評>大陸に比べて、長く続いた日本列島の縄文時代であるが・・・中華文明が栄えていたころの日本列島の縄文文化はどんなだったかと思うわけです。amazon縄文の思考********************************************************************** <『縄文農耕の世界』4>図書館で『縄文農耕の世界』という本を手にしたのです。なんか既視感のある本やけど、まいいかと借りたのだが・・・帰って調べてみたら1ヵ月前に借りていたことが判明したのです(イカン イカン)【縄文農耕の世界】佐藤洋一郎著、PHP研究所、2000年刊<「BOOK」データベース>より 農耕文化は従来弥生時代の水田稲作の渡来が起源とされてきた。だが三内丸山をはじめ縄文遺跡で発掘されるクリは栽培されたものではないか?縄文人は農耕を行っていたのではないか?著者によれば、「ヒトの手が加えられるにつれ植物のDNAのパターンは揃ってくる」という。 その特性を生かしたDNA分析によって、不可能とされていた栽培実在の証明に挑む。本書では、定説を実証的に覆した上で、農耕のプロセスからそれがヒトと自然に与えた影響にまで言及する。生物学から問う新・縄文農耕論。<読む前の大使寸評>なんか既視感のある本やけど、まいいかと借りたのだが・・・帰って調べてみたら1ヵ月前に借りていたことが判明したのです(イカン イカン)rakuten縄文農耕の世界********************************************************************** <『日本人のルーツ』2>図書館で『日本人のルーツ』というニュートン・ムックを、手にしたのです。大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。【日本人のルーツ】ムック、ニュートンプレス、2000年刊<「MARC」データベース>より日本人はいつ、どこからやってきたのか。血液型が示す日本人の足跡、遺跡・遺物が語る日本人のルーツ、モンゴロイドの大移動などから日本人の起源を探る。『Newton』誌上に発表してきた文章をまとめる。<読む前の大使寸評>大使は、日本人のルーツは南方系にあるだろうと漠然と思っているのだが・・・そのあたりの確証を得たいわけでおます。amazon日本人のルーツ**********************************************************************【「王権誕生」日本の歴史第2巻】 寺沢薫著、講談社、2000年刊<「BOOK」データベース>より水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのか。群雄割拠した国々は、いかに統合され、王権成立へと至ったのか。そのとき卑弥呼はどこにいたのか。最新の考古学が古代の謎を解く。<大使寸評>この本は父親の蔵書を継ぐものであるが・・・水稲は、列島をどのように変えたのか。なぜ、戦争が始まったのかと、とにかく読みどころが多いのである。Amazon「王権誕生」日本の歴史第2巻**********************************************************************<『縄文人は飲んべえだった』>図書館で『縄文人は飲んべえだった』という文庫本を、手にしたのです。先日『知られざる縄文ライフ』という本を読んだが、その勢いでこの本を読んでみようと思ったのです。それにしても、「ハイテク考古学」という視点がいいではないか。この本は『週刊朝日』91~92年に連載した記事をもとに加筆して文庫化しているそうだが、なかなか目を引く構成になっています。【縄文人は飲んべえだった】岩田一平著、朝日新聞出版、1995年刊<「BOOK」データベース>よりバイオ、CGなど最新技術が古代史研究を塗り変えた。ユニークで斬新な「ハイテク考古学」の視点から、言語学、環境考古学の研究動向をふまえ、日本人のルーツ、縄文人の食生活、など数々の謎に迫る。話題の三内丸山遺跡についてもふれた“古代史マジカル・ミステリー・ツアー”へようこそ。<読む前の大使寸評>先日『知られざる縄文ライフ』という本を読んだが、その勢いでこの本を読んでみようと思ったのです。それにしても、「ハイテク考古学」という視点がいいではないか。rakuten縄文人は飲んべえだった**********************************************************************【倭人の登場】森浩一編、中央公論社、1985年刊<「BOOK」データベース>より中国の文献史料に現われる「倭人」とは何者か―。東アジアの舞台に登場したわれらの祖先の目をみはる活動を、新しい考古・歴史資料にもとづき、壮大な視野のもとによみがえらせる。<大使寸評>この本は父の蔵書を受け継ぐものですが・・・・古書なので、楽天オークションのデータです。楽天倭人の登場********************************************************************** <『栽培植物と農耕の起源』>図書館で『栽培植物と農耕の起源』という新書を手にしたのです。中尾佐助さんと言えば、照葉樹林文化論を唱えた第一人者として大使が尊敬している学者だから、この新書もいけてるのではないかと期待するわけでおます♪【栽培植物と農耕の起源】中尾佐助著、岩波書店、1984年刊<「BOOK」データベース>より古書につき、データなし<読む前の大使寸評>中尾佐助さんと言えば、照葉樹林文化論を唱えた第一人者として大使が尊敬している学者だから、この新書もいけてるのではないかと期待するわけでおます♪rakuten栽培植物と農耕の起源********************************************************************** <稲を選んだ日本人>図書館で『稲を選んだ日本人』という本を、手にしたのです。注目点は要するに、水稲耕作という文化衝撃に抗った縄文人がいたのではないか?と思うわけです。【稲を選んだ日本人】坪井洋文著、未来社、1982年刊<「BOOK」データベース>より古書につきデータなし <読む前の大使寸評>注目点は要するに、水稲耕作という文化衝撃に抗った縄文人がいたのではないか?と思うわけです。amazon稲を選んだ日本人
2022.04.27
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図書館で『図説・源平合戦人物伝』という本を、手にしたのです。NHKの『鎌倉殿の13人』を観るうえで役立つ本じゃないか♪・・・ということで借りたのです。【図説・源平合戦人物伝】ムック、学研プラス、2011年刊<「BOOK」データベース>より総勢186名!平清盛と同時代に生きた平氏・源氏・公家などを徹底網羅。【目次】第1章 武士台頭/第2章 平氏絶頂/第3章 反平氏の萌芽/第4章 源氏蜂起/第5章 義仲入京/第6章 英雄義経/第7章 平家滅亡/第8章 争乱終焉<読む前の大使寸評>NHKの『鎌倉殿の13人』を観るうえで役立つ本じゃないか♪・・・ということで借りたのです。rakuten図説・源平合戦人物伝『鎌倉殿の13人』では、わりとコミカルで押し出しのつよい頼朝を、見てみましょう。p82~83<思慮周密に万事準備した武家政治の創始者:源頼朝> 源頼朝は顔面あくまでも広く、短躯体の男であった。しかし、話す声はいわゆる音吐朗々として、立ち居ふるまいに、精悍な東国武士さえも惹かずにはいられない、犯すべからざるの威儀、おのずからそなわるところがあった。 こう述べると瑣末な事にこだわらぬ、おおらかな武人の像が想われがちだが、なかなかその性格は、分析をなやませるものがある。一つには、非常に用心深い性格だったことである。良くいえば思慮周密、万事に用意周到だったことになろうが、これは子ども時代の体験からくる後天的なものだったのかもしれない。 14歳の時にあじわった、むごい体験がそれである。 平治の乱に敗れて尾張に逃れた父義朝は、この年、家人の長田忠致に謀殺された。38歳だった。これより先、次兄の朝長は、負傷の身で平家に生け捕られるのを案じて、自ら望んで義朝に刺殺されている。16歳だった。美濃に逃れていた長兄義平は、父の死後に京都に潜伏中、捕らえられて斬殺された。20歳だった。三男の頼朝は、人づてにこれらのことを聞かされていたのであるが、その衝撃、泣血哀傷は察するに余りあるものだ。 永暦元年(1160)のこの年3月11日、頼朝は伊豆の蛭ヶ島(静岡県韮山町)に配流されて、20年の歳月をこの流謫の地に贈ることになる。 狩野川の流れの中に孤島となしたその土地での頼朝の暮らしは、後世に見る流人のそれではなく、流ざんの貴族のように万事にめぐまれたものだったようである。屋敷は豪族のそれと比べても遜色のない構えであった。父義朝の運動により齢13にして右兵衛佐に任官していたこの若者は、「佐殿(すけどの)」と、往来する伊豆や相模、駿河の武人たちに尊称されて、一個の貴公子としての自由な日々を送ったのである。(中略) 頼朝は生涯に度々暗殺の危難を受けているが、それはその最初の受難だ。伊豆久須美荘(伊東市)の領主、伊東祐親が、その三女の八重と恋仲になり子までもうけた頼朝を、平家への聞こえをはばかって殺そうとした一件である。頼朝は北条時政の館に逃げ込み難をのがれたが、子の千鶴丸は祐親のために狩野川に沈められ、八重は江間郷(伊豆長岡町)の領主、江間小四郎のもとに嫁がされている。 これが頼朝29歳の安元(1175)のことである。この体験は、彼の用心深い性格を増幅させたに相違ない。この本では頼朝の元妻・八重については章立てて語られていないのだが、NHKドラマでは圧倒的な存在感が表れています(このへんに三谷さんの好みがでているのかも)八重であるが、父親に我が子を殺されて、その父親も頼朝に殺されて、頼朝・政子夫婦のもとで侍女として仕える境遇が哀れである・・・なんとかしてくれ!『図説・源平合戦人物伝』3:上総広常『図説・源平合戦人物伝』2:源義経『図説・源平合戦人物伝』1:北条政子
2022.04.17
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図書館で『図説・源平合戦人物伝』という本を、手にしたのです。NHKの『鎌倉殿の13人』を観るうえで役立つ本じゃないか♪・・・ということで借りたのです。【図説・源平合戦人物伝】ムック、学研プラス、2011年刊<「BOOK」データベース>より総勢186名!平清盛と同時代に生きた平氏・源氏・公家などを徹底網羅。【目次】第1章 武士台頭/第2章 平氏絶頂/第3章 反平氏の萌芽/第4章 源氏蜂起/第5章 義仲入京/第6章 英雄義経/第7章 平家滅亡/第8章 争乱終焉<読む前の大使寸評>NHKの『鎌倉殿の13人』を観るうえで役立つ本じゃないか♪・・・ということで借りたのです。rakuten図説・源平合戦人物伝源義経『義経伝説』を見てみましょう。p130~131<野生児から貴公子へ、源平随一のヒーロー> 豊饒の海のような義経伝説の中から、とりあえず確かなことを拾えば、義経は31歳という没年から逆算して、平治元年(1159)に生まれた。平治の乱で父源義朝は敗死し、美貌の母常盤御前が平清盛の愛妾となった代償に命を助けられた。11歳のとき、ゆくゆくは僧侶となるべく鞍馬寺に預けられた。 ここからは伝説の領域になる。平家憎しをエネルギーにして武術に熱中、鞍馬山の僧正ヶ谷で天狗――たぶん源氏の残党に武芸を習い、鬼一法眼から秘蔵の兵法書を盗みだし、京の町で弁慶と渡り合って家来一号にした。後の奇襲戦の天才を予想させる少年時代であった。京都にはその伝説地が多い。 まもなく奥州平泉の藤原秀衡のもとに走る。手引きしたのは金売吉次、謎の人物だ。途中、熱田神宮で元服して九朗義経と名乗ったり、山賊の伊勢義盛を手下にしたりと伝説は多い。のちに彼自身が書いたという「腰越状」には、この間の苦難が「諸国を流れ行き、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖になし、土民百姓に服仕せらる」と述べられている。 秀衡に温かく迎えられた義経だったが、治承4年(1180)、異母兄頼朝の挙兵の報を聞くと、たまらず脱出。黄瀬川の宿で頼朝と涙の対面をする。このとき頼朝は34歳、義経は22歳。 寿永3年(1184)、ようやく義経の名が歴史の表面に躍り出る。まず、木曽義仲を宇治川の戦いで破った。 次の敵は平家である。同年2月、一の谷の合戦で源平の勝敗が容易に決しない戦況のとき、平家本陣の北側の断崖から義経軍が雪崩のように馬ごと駆け下った。世に有名な鵯越の逆落としである。鞍馬山や東北の山野を駆けめぐった義経ならではの奇想天外な戦法だった。不意をつかれた平家は大敗した。 翌寿永4年(1185)2月、屋島の合戦では、義経が遠征軍の将に起用された。宗盛など平家の主力が拠った讃岐の屋島は、今と異なり完全な島で、周囲を海に守られた鉄壁の要害とされていた。その常識を、義経が大胆に破る。 暴風雨の海上をわずか5艘の船で押し渡って四国に上陸、約60キロの道を疾駆して平家本営の対岸、古高松に姿を現した。しかも小勢であることを隠すために、周囲の民家に火をかけた。北の海上ばかりを警戒していた宗盛は度肝を抜かれ、おまけに大軍と勘違いして、慌てて船で海上へ逃れた。『図説・源平合戦人物伝』1:北条政子
2022.04.16
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図書館で『図説・源平合戦人物伝』という本を、手にしたのです。NHKの『鎌倉殿の13人』を観るうえで役立つ本じゃないか♪・・・ということで借りたのです。【図説・源平合戦人物伝】ムック、学研プラス、2011年刊<「BOOK」データベース>より総勢186名!平清盛と同時代に生きた平氏・源氏・公家などを徹底網羅。【目次】第1章 武士台頭/第2章 平氏絶頂/第3章 反平氏の萌芽/第4章 源氏蜂起/第5章 義仲入京/第6章 英雄義経/第7章 平家滅亡/第8章 争乱終焉<読む前の大使寸評>NHKの『鎌倉殿の13人』を観るうえで役立つ本じゃないか♪・・・ということで借りたのです。rakuten図説・源平合戦人物伝北条政子まず『鎌倉殿の13人』の主人公ともいえる北条政子を見てみましょう。p100~101<激しい気性で頼朝没後の鎌倉を支えた「尼将軍」> 政子は、いつの頃か流人である頼朝と恋仲になっていた。だが、流人頼朝を監視する役を負っていた政子の父時政がこれを許すはずはなく、時政は、頼朝との仲を裂くため、伊豆国の目代山本兼隆と政子の婚姻の話をまとめてしまった。 しかし政子は、兼隆邸を一人抜け出して、激しい雨の降る夜、伊豆山神社に籠る頼朝のもとへ走った。伊豆山神社では、僧兵たちが、頼朝と政子を追手より守ったという伝説が残る。こうして政子は、ついに頼朝との恋を実らせて、頼朝挙兵以前のある時期に、北条館で頼朝と生活をともにするようになり、長女王姫を産んでいる。 治承4年(1180)8月に、頼朝の命で北条時政が山本兼隆館を襲撃し、公然と平氏政権に反旗をひるがえしたことは、当然ながら政子の運命にも大きな激動をもたらした。頼朝が石橋山の合戦で敗北し、味方の軍勢がちりじりになり、頼朝自身も海路房総半島に逃げざるをえなくなったため、政子も夫と別々の行動を強いられ、伊豆山神社にいた文陽房覚淵のもとにかくまわれた。 その後、伊豆山神社は政子の命で頼朝戦勝祈願を行っており、これらの頼朝挙兵時の貢献により、同社は鎌倉幕府より手厚い保護をうけることとなった。(中略) 承久3年(1221)、後鳥羽上皇が執権北条義時(政子の弟)の追討命令を発し、いわゆる承久の乱がおきると、政子は動揺する御家人たちに対し、「頼朝様が、あなたたちに与えた恩の大きさを忘れたわけではないでしょう。その恩に報いるために、今こそ幕府を守る戦いに立ち上がりなさい」と演説して彼らを鼓舞し、幕府方を勝利に導く上で重要な役割を果たした。 ここに紹介したエピソードからも知られるように、政子は激しい気性の持ち主であった。そのような政子の性格が、頼朝亡き後の幕府政治を支えることを可能にしたのだといえよう。 その政治力の大きさと毅然とした行動ぶりから、政子は後世「尼将軍」と称されている。 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がええでぇ♪
2022.04.15
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図書館で『禍いの大衆文化』という本を、手にしたのです。いまのところコロナ禍は小康状態であり、ニッポンはウィズコロナを目指して折り合いをつけようとしているが・・・この本にも、その「禍い」にどう折り合ってきたかという歴史が述べられているようです。【禍いの大衆文化】小松和彦著、KADOKAWA、2021年刊<「BOOK」データベース>より「禍い」に襲われた人々は、様々な文学・絵画・芸能・信仰を生み出してきた。その多くは娯楽の側面も持ち、世相を反映しながら、時代や地域に根付いていく。過去・現在の民衆の心性を解き明かす、研究プロジェクトの第2弾!<読む前の大使寸評>いまのところコロナ禍は小康状態であり、ニッポンはウィズコロナを目指して折り合いをつけようとしているが・・・この本にも、その「禍い」にどう折り合ってきたかという歴史が述べられているようです。rakuten禍いの大衆文化「第1章 疫病と怪異・妖怪」の冒頭を、見てみましょう。p25~26<はじめに:福原敏男> 近代西洋医学の普及以前、病因不明の上、治療法もない疫病(感染症)は超自然的な祟り、悪霊や鬼のしわざとされ、例えば疱瘡(天然痘)はその症状より狐が憑いたなどと恐れられてきた。 島国日本にとって、疫病は外つ(とつ)国からやって来るもので、729~49年の天平時代に大流行した疫病は、先進文明の知識を求めて唐や新羅に派遣された使節が疫病まで持ち帰ったという説がある。 欧米諸国との交流を本格的に開始しつつあった19世紀中葉、特に都市部の庶民の暮らしは密集した居住環境や、外出時の市中感染により、何度も疫病の脅威にさらされていた。 同時期の江戸では西洋の疫病医療も開始されつつあり、疫病は超自然的存在が媒介してもたらされるものと、多くの人が信じ込んでいたわけではないともされる。 その一方、一部では呪術的な風説も広がっており、江戸町名主で学者でもある斎藤月シンは『武江年表』において、以下のような話を書き留めている。 1867(慶応3)年正月半ばより、王子村(現北区)辺りの母親が幼児を疱瘡で喪い、愛着のあまりに児の死肉を喰らって鬼女となり、江戸の周辺のみならず市中をも徘徊し、夜な夜な家々の児を取って喰らうとの巷の噂が立った。すでに1858(安政5)年以来、お玉が池種痘所では牛痘接種も行われており、月シンは「無限の妄譚」と切って捨てたものの、庶民の根強い恐怖心は消えていなかった。 維新前夜の江戸市中でもなお、このような呪術的な風説が根強く残っていたのであり、本章では幕末の江戸を中心とした疫病にまつわる妖怪や怪異について考察する。<疫鬼の約束手形とコレラの妖怪> 退治された悪者が「もう二度としないから命だけは勘弁」と許しを請うて許されることは古今東西の現実世界で行われてきたと思われるが、これをフィクショナルな疫神の約束手形になぞらえた事例について検討する。 1818(享保3)年、近松門左衛門作の「日本振袖始」が大坂竹本座で初演された。日本神話をモチーフとする同作品には、以下のような疫神の手形の話が出てくる。日本振袖始素箋鳥尊妖怪降伏之図 美濃国もがり山(岐阜県美濃市)には疫神の首領、三熊野大人(みくまのうし)とその眷属が棲みつき、人びとを疫病で悩ませていたため、武勇に秀でた須佐之男(すさのお)に疫神退治の勅命が下った。かつて、天照大神が葦原国を平定した際、諸悪鬼・悪神から日本に仇をなさぬよう誓いの手形を取ったなかに、三熊野の名は洩れていたのである。
2021.11.07
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図書館で『イエズス会がみた「日本国王」』という本を、手にしたのです。戦国末期~江戸期に来日した欧米人(ポルトガル、バスク、オランダ、イギリス、ロシア、アメリカ)のフロンティア・スピリット(あるいは泥棒根性)がええでぇ。【イエズス会がみた「日本国王」】松本和也著、吉川弘文館、2020年刊<「BOOK」データベース>より戦国末期に来日し、キリスト教を布教したイエズス会の宣教師たち。彼ら西洋人は、日本の権力者をどのように見ていたのか。書き残された膨大な書翰や報告書を分析し、実体験に基づく日本国家観、権力者観を読み解く。<読む前の大使寸評>戦国末期~江戸期に来日した欧米人(ポルトガル、バスク、オランダ、イギリス、ロシア、アメリカ)のフロンティア・スピリット(あるいは泥棒根性)がええでぇ。rakutenイエズス会がみた「日本国王」イエズス会の成り立ちあたりを、見てみましょう。p15~18<イエズス会の東洋布教> イエズス会のアジア布教は、ポルトガルの布教保護権のもと、フランシスコ・ザビエルを中心として、インドや東南アジア、日本、中国へと布教地域を広げ、現地の者達をキリスト教に改宗させていった。 イエズス会は、イグナティウス・デ・ロヨラやザビエルらによって設立された修道会である。ザビエルは、1525年にパリ大学の聖バルバラ学院で学ぶことになった。当時パリ大学は神学研究が盛んで、とりわけ聖バルバラ学院はパリ大学にあった学院の中でも著名であった。 この聖バルバラ学院でザビエルと同室になったのが、ロヨラとピエール・ファーブルである。ザビエルはロヨラに感化されて、彼とともに歩む決意をした。それに、学友のディエゴ・ライネス、アルフォンソ・サルメロン、ニコラス・ボバディーリャ、シモン・ロドリゲスが加わり、「七人の同志会」が成立した。 1534年、この七人がパリのモンマルトルの丘で、清貧、貞潔、聖地エルサレムへの巡礼、という三つの誓願を立てた。この「モンマルトルの誓い」により、イエズス会は創立された。その6年後の1540年、教皇パウルス三世の勅書によって正式に修道会として認可され、ロヨラが初代総長に就任した。 イエズス会がローマ教皇によって正式に認可されると、ポルトガル国王ジョアン三世は、ローマ教皇にイエズス会をインドに派遣するよう要請した。これを受けて、ロヨラは当初宣教師シモン・ロドリゲスとニコラス・ボバディーリャを派遣する予定だった。しかし、ボバディーリャは熱病にかかり、ロドリゲスはポルトガルにとどまることになった。そのため、最終的にザビエルがインドに派遣されることになり、1542年ゴアに到着した。その後、ゴアはイエズス会にとって布教活動の拠点となった。 ゴアは、イエズス会だけでなく、すでにサンフランシスコ会が来ており、イエズス会の後にはドミニコ会、アウグスチノ会がやって来て宣教活動を行った。1534年には、ローマ教皇直属のゴア司教区が設置され、喜望峰から日本までを管轄とした。 1538年にサンフランシスコ会出身のジョアン・デ・アルブケルケが初代ゴア司教に着任した。ザビエルがゴアに到着した頃、聖職者養成のための教育機関として聖パウロ学院が建設され、ザビエルに学院の管理や運営が任された。のちに日本人アンジロー(または、ヤジロー)がキリスト教を学ぶ場所である。<ザビエルの伝えたキリスト教> ザビエルが日本布教を考えるようになったのは、マラッカで日本人のアンジローに出会ったことがきっかけである。アンジローと語り合うなかで、日本人の優秀さを見て取って日本布教を決意した。ただ、イエズス会が日本布教を行うにはポルトガルの支援が必要であり、ザビエルは当時インド総督であったガルシア・デ・サァに日本情報と日本布教の計画を伝えた。 こうして、ザビエルはガルシア・デ・サァやマラッカ長官ペドロ・ダ・シルヴァ・ダ・ガマの援助を得て、日本布教が実現する。1549年、ザビエル一行は鹿児島に到着し、キリスト教の布教を開始した。 日本で布教が始まると、キリスト教は、日本に根付いていた仏教とはあきらかに異なるため、仏教界や一部の識者からの抵抗を受けながらも、わずか半世紀の間にキリシタンの数を爆発的に増加させた。のちに豊臣秀吉が伴天連(ばてれん)追放令を、徳川幕府が禁教令を出し、島原・天草一揆後にはキリシタンに対して徹底的に弾圧や迫害を行った。 それでも宣教師は日本に潜伏して宣教を試み、日本の民衆もキリシタン信仰を守り続けた。このことを考えれば、イエズス会の活動やキリスト教に関わる事柄は、日本史においても欠くことのできない出来事であった。
2021.11.05
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<東インド会社あれこれR3>図書館で『スパイス戦争』という本を借りて読んでいるところです。太子はこれまでに、東インド会社や倭寇や海上覇権にからむ本を読んできたわけで、ツボのようなそれらを集めてみました。・ハイパー世界史用語集「香辛料」・ハイパー世界史用語集「イギリス東インド会社」・『スパイス戦争』(2000年刊)・『ラッフルズ』(2019年刊)・『東インド会社とアジアの海賊』(2015年刊)・『紅茶スパイ』(2011年刊)英メネシス号の中国兵船砲撃R3:「ラッフルズ」を追加***********************************************************************ハイパー世界史用語集「香辛料」ハイパー世界史用語集「イギリス東インド会社」『スパイス戦争』1:プロローグ『スパイス戦争』2:探検隊の悲劇『スパイス戦争』3:日本人海賊の登場『ラッフルズ』2:ラッフルズがもたらしたもの『ラッフルズ』1:イギリス東インド会社や私貿易商人『東インド会社とアジアの海賊』1:東インド会社の特徴や商品『東インド会社とアジアの海賊』2:徽州海商と後期倭寇『東インド会社とアジアの海賊』3:ポルトガル人や後期倭寇の海賊行為『東インド会社とアジアの海賊』4:オランダ東インド会社の登場『東インド会社とアジアの海賊』5:オランダ東インド会社のダークサイド『東インド会社とアジアの海賊』6:清朝に雇われたイギリス海軍『東インド会社とアジアの海賊』7:アヘン戦争と清朝水師『紅茶スパイ』1:プロローグ『紅茶スパイ』2:庭園を愛でるイギリス人『紅茶スパイ』3:1848年東インド会社本社『紅茶スパイ』4:1848年チェルシー薬草園『紅茶スパイ』5:中国への再渡航『紅茶スパイ』6:アヘン貿易『紅茶スパイ』7:フォーチュン余話***********************************************************************ハイパー世界史用語集「イギリス東インド会社」より(1)1600年、ロンドンの商人がインド以西のアジア各地との貿易を独占するため、エリザベス1世の特許を得て設立した。1601年からアジア貿易を開始したが1航海ごとに資金を集める形態であったため、1602年に始まるオランダ東インド会社に後れをとるようになり、東南アジアの香辛料貿易からは撤退し、インド経営を主力とするようになった。 イギリス絶対王政の最盛期、テューダー朝のエリザベス1世は、1600年12月31日、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。従って「東インド会社」East India Company というのは通称であるが、EICの略称は広く世界に知られるようになった。 最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年3月であった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団であった。翌年10月にスマトラのアチェに到着、さらにジャワ島のバンテンに立ち寄り、マラッカ海峡ではポルトガル船を襲い、積荷の胡椒などを略奪、1603年9月に無事イギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。■オランダ東インド会社との競争イギリス東インド会社は、国王から貿易の特権を与えられた特許会社であり、それ以後、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデンといった西ヨーロッパ諸国が競って設立した東インド会社の最初のものである。その手本となったのは、すでに存在していたロンドン商人による地中海での東方貿易のためのレヴァント会社であった。それは一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという株式会社の形態を採っていた。しかし、航海ごとに利益は分配されたため、恒常的・組織的な株式会社としては不十分なものであった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、実質的な最初の株式会社と言うことができ、イギリスの東インド会社はその競争では後れをとることになる。 イギリス東インド会社は一時、オランダ東インド会社との合同も考えたが、反対も強く、とくに1623年のアンボイナ事件での両国の対立から、イギリスは東南アジア地域から撤退し、インド亜大陸経営に方向を転じる。1643年には現在のイラクのバスラに商館を設け、西アジアにも進出した。***********************************************************************【スパイス戦争】ジャイルズ・ミルトン著、朝日新聞出版、2000年刊<「BOOK」データベース>より香料残酷物語。アジアの片隅の小さな島々が歴史の流れを変えていく!黄金より貴重なスパイス、ナツメグの支配権をめぐって血なまぐさい戦いを繰り広げるイギリスとオランダ。埋もれた史料から、その渦中にいた人々の勇気と知略、残虐さと陰謀を活写して、英米でベストセラーになった傑作歴史ノンフィクション。<読む前の大使寸評>イギリスとオランダの戦いに日本人傭兵もからむという、波乱にみちた南シナ海を描くノンフィクションが、興味深いのである。rakutenスパイス戦争***********************************************************************【ラッフルズ】坪井祐司著、山川出版社、2019年刊<「BOOK」データベース>よりシンガポールの建設者ラッフルズは、フランス革命でヨーロッパが激動した時代、自由主義の理想に燃えてアジアに赴いた。ラッフルズは、ジャワでは農民を封建領主から解放し、シンガポールでは海賊や奴隷制を排除して自由な交易空間をつくろうと試みた。彼を迎えた東南アジアには、豊かな海の交易世界と華人やムスリムなど多様な人びとからなる折り重なったネットワークが広がっていた。ラッフルズがもたらした「近代」は地域や人びとをどのように変えたのだろうか。<読む前の大使寸評>ラッフルズは英国・東インド会社の社員だったが理想主義であったことが特異なんですね。インド、東アジアを舞台に暴れ回った東インド会社が興味深いのです。rakutenラッフルズ***********************************************************************【東インド会社とアジアの海賊】東洋文庫編、勉誠出版、2015年刊<「BOOK」データベース>より誰が海賊だったのか?海賊の多様性を歴史から読み解く。17世紀初頭にヨーロッパで誕生した東インド会社とその海上覇権の確立にあたって大きな障壁となった現地の海賊たち。両者は善と悪という単純な図式では表せない関係にあった。東インド会社もまた海賊であったー。東インド会社と海賊の攻防と、活動の実態を明らかにする。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、アジアの海賊、国姓爺、アヘン戦争とか興味深い史実が見られます。要するに、清朝末期の列強の大陸侵食が興味深いのでおます。rakuten東インド会社とアジアの海賊***********************************************************************【紅茶スパイ】サラ・ローズ著、原書房、2011年刊<「BOOK」データベース>より19世紀、中国がひた隠ししてきた茶の製法とタネを入手するため、英国人凄腕プラントハンター/ロバート・フォーチュンが中国奥地に潜入…。アヘン戦争直後の激動の時代を背景に、ミステリアスな紅茶の歴史を描いた、面白さ抜群の歴史ノンフィクション。<読む前の大使寸評>ちょっと硬い視点かもしれないけど、アヘン戦争当時のイギリスの帝国主義、植民地主義を知りたいわけでおます。rakuten紅茶スパイ
2021.10.11
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図書館で『陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」』という本を、手にしたのです。穏やかな風貌の陳さんが説くリベラルで聡明な語り口が、好きなんですよ。それに神戸っ子だし♪【陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」】陳舜臣著、集英社、2004年刊<amazon>より国際的な視野で文明を考える陳舜臣氏の対談。世界史的な大きな流れの中で、一人一人の日本人は、いま現在をどう生きたらいいのだろうか? 陳舜臣氏が司馬遼太郎氏、桑原武夫氏、ドナルド・キーン氏、山折哲雄氏らと国際的視野で語る対談集。<読む前の大使寸評>穏やかな風貌の陳さんが説くリベラルで聡明な語り口が、好きなんですよ。それに神戸っ子だし♪amazon陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」神戸と孫文について語られているあたりを、見てみましょう。対談者は加藤徹さんです。p247~251<歴史小説から現代小説へ>加藤:陳先生はこれまで『阿片戦争』『太平天国』、そして日清戦争を描いた『江は流れず』と、中国近代史の重要な事件を題材にした歴史長篇を書きついでこられました。 近代中国の父と言われる革命家孫文をお書きになると聞いたとき、いよいよ長年温めてこられた「とっておき」のテーマに取り組まれるのだな、と感じました。陳:人間は誰しも、自分が生れた時代にいちばん関心をもつでしょう。『史記』の司馬遷も、ほんとうはいま自分が生きている武帝の時代を描きたかったのではないでしょうか。 『阿片戦争』の執筆を開始したのは、私の初めての小説が上梓されてまもなくの頃、1962年のことです。足かけ6年書きついで、合計三千枚になり、1967年に刊行しました。以来、長篇の歴史小説を書き進めるいっぽうで、近現代史を背景にした推理風の小説もたくさん書いてきました。たとえば『炎に絵を』は、辛亥革命の資金横領の疑いをかけられた父の汚名をそそぐ若者の物語です。 そうした近現代小説を書くたびに、私はいつも孫文という大きな存在にぶつかりました。そして彼の周辺を手探りで行きつ戻りつしながら、思いをめぐらせました。いつかは取り組まねばならないテーマでした。加藤:陳先生は1924年のお生れで、孫文は翌25年に死去しています。先生と孫文は1年間、同じ時代の空気を呼吸したことになりますね。陳:ええ。私の父親は1896年に生まれました。これは小説の冒頭場面の翌年ことですから、父親はすっかり日本統治時代の台湾人ということになります。そして一家が神戸に移住した1924年2月に私が生まれました。この年、孫文が神戸に来て、県立高等女学校で講演をしてるんです。そのことに、私は何か見えない縁のようなものを感じています。加藤:有名な「大亜細亜主義」の講演ですね。「日本は西洋覇道の手先となるのか、それとも東方王道の干城となるのか」という孫文の名言は、今もよく知られていますね。陳:神戸での講演の頃、孫文はもう癌に冒されていて、翌年3月に北京で亡くなった。私は生まれたばかりの赤ん坊だったから、もちろん記憶にはありません。けれども家族や周囲から、その当時のことを聞かされて育ったので、私には、切り離された歴史の一コマとは感じられません。この『青山一髪』で描いた時代は、祖父母や両親を介して私と直接に血のつながっている時代なのです。加藤:『青山一髪』は、先生にとっては「現代」に最も近づいた歴史小説、ということですね。陳:そうですね。私にとっては、自分が生まれて物心ついた頃からが現代小説です。『青山一髪』を新聞に連載していたころ、登場人物の子孫や縁者の方々から、手紙で「これまで誤って書かれてきたことをよくぞ正してくれた」と感謝されたり、「ここは自分たちの手元にある史料とは食い違っているが」と指摘されたりしました。 孫文は1895年の広州における最初の蜂起失敗後、日本に亡命しました。そして革命運動鼓吹のため、世界の華人たちに遊説してまわるのですが、孫文たち革命派は運動の拠点を日本に置きました。いっぽう1898年には、戊ジュツの政変に敗れた康有為と梁啓超ら変法派も日本に亡命してきました。 実際に彼らと会った日本人は、ついこの間までいっぱいいたんです。その人たちが亡くなったあとは、子供たちに語り継がれているでしょう。私にとってはまだ湯気が立っている時代のことです。孫文と日本人女性との間に生れた娘もいます。そうした女性関係も含めて、孫文の日本における動きは、かなりはっきりわかっています。加藤:それって公然の・・・?陳:表立ってとりあげる人はいませんが、遠慮しているんでしょうね。加藤:そういえば、陳先生は、康有為と日本人女性との間に生れた息子と称する人から、電話をもらったことがおありでしたね。突然、見知らぬ人から「自分の父親について知りたい、父の名前はコウ・ユウイと言います」云々という電話がかかってきて。陳:ええ。まだ日中の国交が回復してなかった頃のことです。加藤:そんな男女関係のゴシップめいたことは、先生は小説にお書きになっていません。そこがまた奥ゆかしいのです。<神格化された孫文>陳:当時のことですから、特別のご乱行というほどでもないのでしょう。それに、そういうディテールを拾い上げていたら、きりがないと思います。 孫文は美化されたり、神格化されている部分があります。小説に書くときにはそれを剥ぎ取る作業が必要でした。またいっぽうでは、康有為一派との対立があり、革命派にも激しい内紛がありました。章ヘイ麟らが「孫文の罪行」というパンフレットを作って金銭問題を言いたてたり、執筆者不明の怪文書が孫文の女性関係を攻撃したり・・・。さまざまな解釈がなされ、正反対の史料が併存することも少なくありません。もっとも、それらは中華民国誕生以後のほうが多いようですけど。ウン 陳先生は奥ゆかしいというか、日本的ですね。『歴史に未来を観る』2:日本人と国際化(with司馬遼太郎)『歴史に未来を観る』1:モンゴルの世界制覇(with奈良本達也)
2021.10.10
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図書館で『陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」』という本を、手にしたのです。穏やかな風貌の陳さんが説くリベラルで聡明な語り口が、好きなんですよ。それに神戸っ子だし♪【陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」】陳舜臣著、集英社、2004年刊<amazon>より国際的な視野で文明を考える陳舜臣氏の対談。世界史的な大きな流れの中で、一人一人の日本人は、いま現在をどう生きたらいいのだろうか? 陳舜臣氏が司馬遼太郎氏、桑原武夫氏、ドナルド・キーン氏、山折哲雄氏らと国際的視野で語る対談集。<読む前の大使寸評>穏やかな風貌の陳さんが説くリベラルで聡明な語り口が、好きなんですよ。それに神戸っ子だし♪amazon陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」対訳語について語られているあたりを、見てみましょう。対談者は司馬遼太郎さんです。p145~148<日本人と国際化>司馬:先日、これはべつに英語の専門家でもない市民だけど、おもしろい造語で日本人の国際化の問題を話していた。 トランスネーション。これは辞書にはない。その人、そういう人がたくさん出てくればいいというんです。 トランスだから、あっちからこっちへ、あるいは逆に。つまり行ったり来たりやね、意識の上でのことです。頭の中でスイッチのきりかえができる精神のことやな。中国の文化や他の国の文化、日本の文化と、むりなくスイッチ転換もしくは翻訳ができて、少しもその行き来に違和感がない、というような。陳さんはトランスネーションです。陳:ただね、私は日本人そのものも、トランスネーションだったと思うんです。明治までは中国語でものを書いていたでしょう。漢文でものを書き、漢詩を作る、全く違う言葉ですよ。発音しないけれども、読んでいるわけやからね。受け入れているんです。だから、日本の近代化が早かった一つの理由は、それだと思う。司馬:中江兆民が明治7,8年ごろ、フランスからルソーの思想をもって帰ってきた。それで翻訳するのに、あの人は漢文のできた人だけれど、もう一度漢文塾に通って中国の古い漢文、哲学用語のふんだんに使われている古典を勉強し直したんです。というのは、明治7,8年の日本語の状況ではまだヨーロッパの哲学・思想を翻訳することは困難だった。 ただ中国の古典の中にそれに対応するものがある。そこで、もっと的確な言葉はないか、というようなことで勉強し直し、有名な『民約訳解』(明治15年)を書いた。あれは翻訳じゃなくて、兆民がかみくだいて、兆民の文章にしたものです。だから、そこに非常におもしろいトランスネーションがある。陳:リライトしたもんやね。漢文・漢語の知識を十分に生かしています。対訳ということで言えば、明示初年、物理は究理学だったが、野菜のキュウリと間違えるというんで物理にしたとか。経済学だって理財学、慶応の経済もだいぶ後まで理財科って言ってたねえ。司馬:経済といえば、幕末の坂本龍馬は経済のことを射利、と言っていた。明治初年にはすでに経済という対訳ができており、井上馨なんかはしきりに使っていた。それを、、江藤新平は長州人嫌いだったものだから、いじめてね。おまえ、経済っていう意味知ってるか、とかみついている。井上が、それは経世済民だと答えると、江藤がお前のような男に経世済民の精神があるかとやりかえす。そのぐらい、ヨーロッパ語が波のように入って、対応した漢語が古い意味を引きずっているため、混乱と思い違いがいっぱいあったと思うな。陳:それで、中国は日本が英語とかヨーロッパ語から翻訳した言葉を全部入れてるわけですよ。だから、もとは中国かも知れないけども、日本からの輸入です。共和国というのでも、「共和」というような言葉は昔から中国にあるわけです。 周の時代に共国の伯爵の和という人が、人びとに推されて国王のかわりに治めたという、そういう意味なんです。それをリパブリックに当てたのは日本で、これを中国が逆輸入した。司馬:明治期、日本から中国は何千という対訳語を受け入れている。法律、軍隊、幼稚園、図書館・・・。ともかく日本は中国にお返しした。恩返ししたわけです。これも一種のトランスネーションですね。『歴史に未来を観る』1:モンゴルの世界制覇(with奈良本達也)
2021.10.09
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図書館で『陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」』という本を、手にしたのです。穏やかな風貌の陳さんが説くリベラルで聡明な語り口が、好きなんですよ。それに神戸っ子だし♪【陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」】陳舜臣著、集英社、2004年刊<amazon>より国際的な視野で文明を考える陳舜臣氏の対談。世界史的な大きな流れの中で、一人一人の日本人は、いま現在をどう生きたらいいのだろうか? 陳舜臣氏が司馬遼太郎氏、桑原武夫氏、ドナルド・キーン氏、山折哲雄氏らと国際的視野で語る対談集。<読む前の大使寸評>穏やかな風貌の陳さんが説くリベラルで聡明な語り口が、好きなんですよ。それに神戸っ子だし♪amazon陳舜臣対談集「歴史に未来を観る」まずモンゴルが語られているあたりを、見てみましょう。対談者は奈良本達也さんです。p111~115<モンゴルの世界制覇>陳:ジンギス(成吉思)汗は中国の歴史のなかで少し異質な感じがしますね。奈良本:といいますと・・・。陳:中国を征服した異民族の制服王朝ということなら、それまでに北魏とか遼とか金とかがありますが、ところがどうもジンギス汗というのは、ちょっと様子がちがうんじゃないかという気がするんですね。たとえば、北魏は鮮卑族・拓跋部ですね。それから遼は契丹族、金は女真族、みんな周辺に中国の高い文明がありまして、それに接して同化されるというパターンですけれども、モンゴルだけは中国文明に接する前に西征をやっておりますね。ホラズムへ送った使節が殺されて、それで怒って7年間西へ遠征していきます。 そのときにサラセンの高い文明に接しているわけですね。中国文明に接する前にもう一つ大きな文明に接しているということで、異質な征服王朝になっているんですよ。中国ぶんめいにあまり敬意をはらわない。こんなものはもう知っているんだということですね。奈良本:その当時のサラセンというのは非常に高い文明だったんでしょうね。陳:サラセンというのは、もともとアラブのまったく文明のないところにマホメットがでまして、やっとアラブの民族が統一できるわけですね。その勢いを駆りましてね。だから自分たちは何もないんだという謙虚な気持ちがありますから、全部うけ入れてしまうわけですね。インドの文明とか、ギリシャとか、イランとか、それを全部アラビア語に翻訳します。奈良本:西洋の文芸復興というのは、そのアラビア語からラテン語に翻訳する仕事だったようですな。「光は東より来る」というのは、サラセンから来たという意味があるんですね。陳:その高い文化へ紙が入ってくる。751年のタラスの戦い、サラセンと唐との国境紛争ですが、その唐の捕虜のなかに紙漉き職人がいましたから、その職人が紙を漉く。それまでに紙はちょっと来ていましたけれども、値が高いわけですね。やはり絹のほうがもうかるからというので紙はほとんど来なかったんですが、758年ごろ西のサマルカンドに最初の紙工場ができて紙が普及しはじめます。それがまた増幅された文明になるわけですね。羊皮紙のバイブルを一冊つくるのに、ヒツジ三百頭分いるんですよね。そこへ紙をサラセンのサマルカンドでつくるということでまた普及度が高くなる。 だからかなり高い文明なんですよ。それから百年か二百年たって爛熟に達しているところへジンギス汗が行ったので、かなり高いインド、ギリシャなんかの文明を見ていますからね。そのあとで兵を返して甘粛にいた西夏を攻めるわけですね。だから中国と異なった文明にすでに接している。奈良本:なるほど、そこが鮮卑とか女真、契丹などとちがうわけですね。陳:鮮卑や女真などは、それに魅入られたというか、最後に中国に同化されてしまうわけですけれども、モンゴルだけ最後まで同化されなかった。それはもう一つの文明をみている、ということが私は重要じゃないかと思うんですね。奈良本:そういう意味では初めから世界帝国の萌芽というものを何かもっていたんでしょうね。陳:私はそれを考えますと、モンゴルというのはアラブと似たところがあるんですよ。自分のところは初めから何ももっていないい。奈良本:そして世界の三大文明国、あるいは三つの大きな思想というものを全部見てきている。インド、ギリシャ、中国、その三つを統合する位置にあったというか、なにか歴史的な流れがあったからでしょうな。■急速な勢力拡大陳:ジンギス汗があらわれる前の状況というと、中国からいえば金、女真族なんですが、これは同じ征服民族でも漢族の政権を倒すのじゃなくて、北から来て契丹を倒したわけなんで、自分たちは少数派ですよ。だから支配下の民族の大同団結をさまたげるというのが金の至上の方針ですね。 北の方の契丹とほぼ同系のモンゴルに対しましても同様です。これも遊牧民ですが、遊牧というのは小さく分かれるんですね。牧草地の広さが限られていますから、初めから小さく分かれるんだけれども、それが団結しないように金はかなり努力していますね。それからモンゴル系の部族には、よその部族の首長をつかまえてきたらとり立ててやるというようなことをいって内輪もめを奨励しているようなところがありますね。奈良本:これは戦国における最高の政治でしょうな。つまり、統治するには分割せよということばがある。日本でも江戸時代に各藩に分けたのは、やはり一種の分割政治ですわね。陳:そのような状況のモンゴルにジンギス汗は生まれるわけです。ただ、私、思うんですけれども、ジンギス汗はちょっとした部族の出だけれども、若い頃に貧乏して、「影の外に伴はなく、尾の外に鞭はなし」、自分の影のほかに道連れはないというほど孤独だったんですね。それが一代で世界帝国をつくるなんていうことはちょっと信じられないんです。奈良本:そうですね。陳:その膨張の秘密、拡大の秘密というのが問題なんですね。それは強いところには全部ついていくという草原の掟というか・・・。奈良本:それがあるんでしょうね。
2021.10.09
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図書館で『覇権の世界史』という本を、手にしたのです。めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。【覇権の世界史】宮崎正勝著、河出書房新社、2019年刊<「BOOK」データベース>より悠久の歴史を編んできたドライ・ランドは大航海時代以降、海からイギリスに統合され20世紀後半になると強大なエア・パワーを持つアメリカが地球規模で一強体制を掌中にした。つまり、人類は「二度の空間レベルの覇権交代」をへて今の世界をかたちづくってきたのだ。それらの興亡はなぜ起きたのか?どうしてその国だったのか?読み進むほどに、歴史の必然が見えてくる!<読む前の大使寸評>めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。rakuten覇権の世界史『第11章』から米中の覇権争いを、見てみましょう。p226~229<『第11章 アメリカの「空」の覇権に挑む中国の思惑とは』>3. GAFAという「覇権企業」と中国の挑戦■アメリカの覇権に挑戦する中国の“3段飛び” 中国は、南シナ海の囲い込み、海軍の拡充、空母の建造、航空機の量産による「海」の覇権国への脱皮を図っているが、従来の中国が典型的な内陸帝国だった関係もあり、実は「海」へ進出した経験が極端に少ない。 そもそも、中国の1920~40年代の国家形成の内戦も紅軍(人民解放軍)により担われた。軍の中心を海軍に移すことは容易ではなく、中国が「海」の覇権を握ることはさらに難しいだろう。それが中国の抱える基本的な矛盾である。まさに前途多難なのだ。 そこで中国は、最先端の科学により担われる「空」の世界でチャレンジすることになる。すでにジェット旅客機網を拡大し、北京の世界最大の第二空港も完成間近である。ドローン技術も、世界の最先端である。地球を取り巻く電子空間の分野では、アリババ、テンセント、バイドゥなどが、世界人口の5分の1を占める優位性を生かしてプラットフォームを築き、短期間でアメリカと並ぶIT大国にのし上がる勢いだ。 今、世界は「第4次産業革命」といわれるIT産業の大変革期に差しかかっており、その中心になるのが、4Gから5Gへの転換とされる。 中国は次に述べるように、国策として膨大な資金をIT産業に集中し、5Gへの転換を期に「空」の世界で覇権を一挙に確立することを狙っている。中国の性急なチャレンジ、つまり短期間での「陸」から「海」「空」への3段飛びは、第一次大戦の前の、ドイツのイギリスへの挑戦を彷彿とさせるものがある。■5Gを巡る米中の覇権争いの行方は? 習近平政権は、中華人民共和国建国100周年の2049年までに世界の製造大国になることを国家目標として掲げ、向こう10年間に製造業のデジタル化、ネットワーク化、インテリジェンス化を進め、製造強国の仲間入りを果たすという「中国製造2025」を発表している。 成長のための重点分野としては、次世代情報通信、ロボット、航空宇宙産業、海洋エンジニアリング、先端的鉄道交通、省エネ自動車、新素材、バイオ医薬などが挙げられ、現代経済の先進部分が全て網羅されている。 先に述べたように、世界の喫緊の課題は、2020年頃に始まるとされるIoTやAIの社会を支える「5G」への転換だ。通信の高速化と大容量化で、通信速度が今の100倍となり、1平方キロあたり100万の端末、装置と接続できるようになる。5Gは、建物、電化製品、機会、自動車、医療機器などのあらゆるモノがインターネットを通じてつながるIoT、つまり「モノのインターネット」にとって不可欠な通信技術の変革なのである。 アメリカとしては、その技術で中国に主導権を握られると、アメリカのインターネットを利用する覇権が崩れ、中国に取って代わられる恐れも出てくる。そこで、5Gを巡る米中の争いが地球規模で先鋭化しているのだ。 2017年のハイテク分野の品目別の世界1位の国を調べてみると、アメリカが24品目、日本が10品目、中国が9品目で、中国は携帯通信インフラ(基地局)の建設技術、監視カメラでは、世界で突出している。つまり5Gの移行に欠かせない基地局の建設では、中国のファーウェイが首位(約3割)、ZTE(中国の大手)が4位(約1割3分)を占めているのだ。 しかもファーウェイは、人民解放軍が母体になってつくられて急成長した企業である。そこでアメリカは、議会も大統領府も、5Gへの移行を機に中国にIT産業の覇権が移ることを恐れ、ファーウェイ潰しに乗り出した。このことは2018年12月にファーウェイのCFOがカナダで逮捕された事件もあって記憶に新しいだろうが、現在進行形なのである。 中国としてもビッグ・チャンスなので、何とかファーウェイの地位を保とうとして対抗し、5Gが米中の覇権争いの最前線になっているのだ。ウン ファーウェイ副会長が24日に、司法取引で釈放され、中国の空港へ到着するシーンがニュースで流れたが・・・赤い絨毯が敷かれたなかを花束を抱えて凱旋するという中国的な演出が見られましたね。『覇権の世界史』3:ウェット・ランドへと拡大する「陸」の世界『覇権の世界史』2:騎馬遊牧民の出現『覇権の世界史』1:四大文明 「〇」 (〇) (笑)。
2021.09.27
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<『覇権の世界史』3>図書館で『覇権の世界史』という本を、手にしたのです。めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。【覇権の世界史】宮崎正勝著、河出書房新社、2019年刊<「BOOK」データベース>より悠久の歴史を編んできたドライ・ランドは大航海時代以降、海からイギリスに統合され20世紀後半になると強大なエア・パワーを持つアメリカが地球規模で一強体制を掌中にした。つまり、人類は「二度の空間レベルの覇権交代」をへて今の世界をかたちづくってきたのだ。それらの興亡はなぜ起きたのか?どうしてその国だったのか?読み進むほどに、歴史の必然が見えてくる!<読む前の大使寸評>めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。rakuten覇権の世界史『第1章』からウェット・ランドを、見てみましょう。p64~67<『第1章 長い時間をかけて「陸」の世界は形成された』>7. ウェット・ランドへと拡大する「陸」の世界■水が豊富なウェット・ランド。なぜ開発が遅れた? 約3000年前以降に、「陸」の世界は、ドライ・ランドからウェット・ランドへと広がった。ウェット・ランドの中心は、ユーラシア南部のモンスーン地帯、北の北欧、ロシアなどである。 ①東アフリカの大地溝帯から始まる人類社会がドライ・ランドで展開され、軍事的優位に立つドライ・ランドから自立することが難しかったこと、②多様な植物が繁茂したため開発に手間がかかったこと、③モンスーン地帯には雨季と乾季があったこと、④ヨーロッパは冷涼で農業が不振だったことなどの理由で、ウェット・ランドの開発は意外に遅れた。 主なウェット・ランドは次のようになる。■ガンジス川流域 多産かつ遊牧民に襲われにくかった アフガニスタンから侵入した遊牧系のアーリア人はウェット・ランドのガンジス川流域に至り、そこで多産なコメ栽培により都市国家を成長させた。今から約3000年前のことである。(中略)■長江流域 ドライ・ランドからの自立が難しかったわけ 漢帝国が崩壊した後の混乱期に、遊牧民が傭兵として活躍した。4世紀になると、傭兵として利用された五つの遊牧民(五胡)が黄河中流域を占領して多数の国を建てる。これを五胡十六国時代(304-439)という。 そのために、そこから押し出された漢人が長江、朝鮮半島、日本列島へと移動し、大混乱の中でウェット・ランドの開発が進んだ。魏晋南北朝時代(220-589)は、民族移動により東アジアのウェット・ランドが一つの世界に変わる転換期で、日本の歴史の黎明期になる。 中国では、ツングース系の鮮卑人がドライ・ランドを北魏として統合して(北朝)、ウェット・ランドの南朝としたが、結局、遊牧系の鮮卑人が南朝を征服して隋、唐を建て、中国全体がドライ・ランドに組み込まれた。 鮮卑人は漢人の支配層との結婚で中国社会に同化する一方で、豪族から土地を奪い、均田性、租庸調性、府兵性により支配を強化した。隋・唐は、ドライ・ランドの遊牧部族が、南部のウェット・ランドを強力に支配した王朝だったのだ。 10世紀末になると、長江流域で作られるコメが中国の中心的な食糧になり、「蘇・杭、熟すれば天下足る(江南の蘇州、杭州が豊作ならば中国の食糧は賄える)」といわれるような状態になった。宋、南宋、明などのウェット・ランド(長江流域)を基盤とする王朝も成立する。 ただ、ドライ・ランドのウマを利用した軍事力が強く、金(満州人)、元(モンゴル人)、清(満州人)などの遊牧帝国が黄河と長江流域を支配する時代が長く続いた。最後の帝国・清は、満州人、モンゴル人が軍事力により打ち立てた典型的なドライ・ランドの王朝である。 その領域を全面的に引き継いだ現在の中国は、「陸」「海」「空」の諸段階を複合させる超帝国を目指すが、基本的には軍事力に依存するドライ・ランドの国である。党の軍隊を持つ共産党の支配が、かつての部族支配とどう違うのかが、丁寧に説明される必要があるだろう。『覇権の世界史』2:騎馬遊牧民の出現『覇権の世界史』1:四大文明
2021.09.25
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図書館で『覇権の世界史』という本を、手にしたのです。めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。【覇権の世界史】宮崎正勝著、河出書房新社、2019年刊<「BOOK」データベース>より悠久の歴史を編んできたドライ・ランドは大航海時代以降、海からイギリスに統合され20世紀後半になると強大なエア・パワーを持つアメリカが地球規模で一強体制を掌中にした。つまり、人類は「二度の空間レベルの覇権交代」をへて今の世界をかたちづくってきたのだ。それらの興亡はなぜ起きたのか?どうしてその国だったのか?読み進むほどに、歴史の必然が見えてくる!<読む前の大使寸評>めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。rakuten覇権の世界史『第1章』から騎馬遊牧民を、見てみましょう。p61~64<『第1章 長い時間をかけて「陸」の世界は形成された』>6. 騎馬遊牧民の出現が「陸」の世界をリードした■騎馬技術の発明が、軍事的略奪の始まり ドライ・ランドのもう一つの大世界は、草原に散居する遊牧民だった。遊牧民の世界では、部族という血縁集団が社会の基礎となった。部族性は現在も、サウジアラビア、イラン、韓国などに強固に残っている。 草原のウマは、牧畜の規模を10倍にした。一家族の生活には200頭のヒツジが必要であり、えさとなる草の関係から1ヶ所には5家族程度しか生活できなかった。そのため、10キロ程度離れた広い空間で牧畜民は結び付かざるを得ず、ウマは草原の交通でも欠かせなかった。 ウマを使う牧畜民が「遊牧民」だが、遊牧民の力をパワー・アップしたのが、黒海北岸のウクライナのスキタイ人である。 彼らは前6世紀頃に、ハミとタズナ、馬上で射る短弓を開発し、騎馬軍団による機動的な集団戦法を開発した。これによって騎馬遊牧民という大軍事勢力が出現する。騎馬技術は草原の諸部族に広がり、農業社会をターゲットにして略奪が繰り返されることになる。 騎馬により高速で自由自在に兵力を集中・分散させる遊牧民の軍隊は、馬上から射ることのできる射程距離200メートル以上の短弓の開発と騎馬技術を組み合せることで、軍事面で圧倒的優位にたった。 スキタイ人の馬具は草原の道に沿って伝えられ、ウマと一体化した遊牧民がドライ・ランドの覇者となった。■遊牧民、ビジネスとしての「征服」に目覚める 部族ごとに分かれて生活する遊牧民は、部族長の会議で王(ハーン)を選び結束を守った。遊牧民は、時に有能な指導者が現れると瞬く間に大空間を支配する遊牧帝国へと成長を遂げたが、有能な指導者が去ると、部族ごとに分散して帝国は跡形もなく消え去った。帝国は、穀物などの物資を安定して確保するために形成されたのである。 遊牧民が世界史の展開に大きな役割を果たしたのは、彼らの貧しさに一因があった。家畜の飼育、狩猟に依存する遊牧民の生活は極めて不安定であり、機会に恵まれれば農耕社会を征服して貢納させたり、オアシス地帯の商業圏を支配して商人から税を取り立てたりして、貧しい生活を補ったのである。やはり「欠乏」が原動力になっているのだ。 伝統を固守する農耕社会とは異なり、常に変化する自然に柔軟に対応していかなければならない遊牧民は思考が柔軟で、必要に迫られれば商人から得た情報と軍事力を結合して、ユーラシアに勢力圏を広げた。 戦争や侵略だけではなく、遊牧民と農耕民の間には共存の関係もあった。スキタイ人とギリシャ人の間の貿易、匈奴と漢帝国の間の絹馬貿易などはその例である。モンゴル高原の匈奴は漢帝国や西方のパルティア(現イランあたり)と絹馬貿易を行った。『覇権の世界史』1
2021.09.25
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図書館で『覇権の世界史』という本を、手にしたのです。めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。【覇権の世界史】宮崎正勝著、河出書房新社、2019年刊<「BOOK」データベース>より悠久の歴史を編んできたドライ・ランドは大航海時代以降、海からイギリスに統合され20世紀後半になると強大なエア・パワーを持つアメリカが地球規模で一強体制を掌中にした。つまり、人類は「二度の空間レベルの覇権交代」をへて今の世界をかたちづくってきたのだ。それらの興亡はなぜ起きたのか?どうしてその国だったのか?読み進むほどに、歴史の必然が見えてくる!<読む前の大使寸評>めくってみると、たくさんの地図を引用しながら世界史を語っています。目のつけどころとしたら、黄河文明に対するモンゴル帝国の侵略あたりになるのです。大使の場合。amazon覇権の世界史『第1章』から四大文明を、見てみましょう。p42~49<『第1章 長い時間をかけて「陸」の世界は形成された』>1. 農業を誕生させたのは「乾燥」だった!■ラッキーだった「欠陥ムギの発見」 「陸」の世界史の起点は農業の出現である。のうぎょうは約1万年前に、東アジアの大地溝帯とユーラシアの大乾燥地帯の接点に位置する、ヨルダンの渓谷で始まった。それを可能にしたのが「欠陥ムギの発見」である。 突然変異で種を地面に落とせなくなったヒトツブコムギの種子の発見と栽培が、飢えの克服につながったのだ。通常、ムギは熟すると種子を大地にバラ撒く。これは「種」の保存のために当然のことだが、そうすると人は、細かい種子を拾い集めなければならない。 突然変異で成熟しても種子をバラ撒けなくなったムギを偶然に発見できたことが、人類にとって大変なラッキーになったのである。農業は、種子を落とせないムギに特化しての栽培から始まったのだ。人類は欠陥ムギ(人間にとっては都合の良いムギ)を選んで栽培し、不安定な狩猟・採集を併用しながら定住生活へと移行することになる(農業革命)。 なお、普通、植物は毒、すなわち「苦味」「渋味」などで動物から「種」を守ろうとするのだが、乾燥して痩せた大地のムギには毒を作る栄養分が得られず、土中のケイ素を取り入れて種子を覆う堅い殻を作るしか方法がなかった。そのため、ムギを食べるには、堅い殻ともども種子をすり潰して粉にする必要があった。この粉からパンが作られたのである。 畑に集まったオスを中心にメスが群れる習性を持つ家畜(偶蹄類)を飼育して、乳、肉、皮などを得る牧畜も始まる。ドライ・ランドの繊維質の固まりのような草の葉・茎を食べる動物は膨大な量を食べなければならず、反芻の能力が必要だった。家畜となったヒツジ、ヤギ、ウシなどがいずれも反芻する動物なのは、牧畜とドライ・ランドの関係を示している。■なぜ砂漠で、ムギの栽培が広まった? ユーラシアのドライ・ランド(大乾燥地帯)を構成するのは、広大な砂漠・草原と内海の地中海である。しかしムギは、特定の砂漠でのみ生産できた。だが、なぜ雨が乏しい砂漠で、ドライ・ランドのムギの大部分が作られたのだろうか。これには当然、理由がある。 今から5000年前頃に温暖化が進むと、北緯30度付近の中緯度帯の乾燥がさらに激しくなった。例えば、アフリカ3分の1を占めるサハラ草原がサハラ砂漠に変わっていく。多くの牧畜民が乾燥により難民となって砂漠を流れる大河(その水源は外部の湿潤地帯に降った大量の雨や、周辺の高山の雪解け水)の流域に移住し、ムギ不足が一挙に深刻化した。 そうなれば、砂漠を流れる大河の水を利用して畑を造るしかない。外部からの乾燥難民の移住で人手は十分だったため、堤防、水路などが整備されて灌漑農業が始められることになる。灌漑とは「植物の生育を維持する目的で、人口的に土地に水を引く」ことだ。 大河の「水」を、簡単な道具だけで農業用水に変えるのは並大抵のことではない。しかし、王や神官のカリスマ性、官僚による民衆の組織、職人の技術などを組み合わせた人海戦術により、「水の循環システム」に支えられた広大な畑が出現した。「外部から流れ込む川の水」を利用する灌漑農業が始まったのだ。■都市は水のコントロール・センター 広大な畑を生み出すのは、簡単なことではなかった。 「河川文明は、水流の高低をコントロールしたり、洪水が消し去った境界を区分したり、共同の使役を義務化したり、諸税を徴収したり、交易を監督したり、法典を編集したり、国境を見張ったりする必要をともなった」 (『人間 過去・現在・未来』岩波新書) 考古学者マンフォードは、灌漑のメンテナンスには複雑な作業が必要だったことを、このように指摘している。それに当たった王や特定の部族、神官、官僚などは、メンテナンスの代償に税を取った。まさにギブ・アンド・テイクで、これはムギの大量生産に必要不可欠だった。 「水の循環」にかかわる特殊な人々が住み着く大集落は、やがて「都市」へと姿を変える。都市は、人工的な「水の循環」を維持するコントロール・センターとなり、人々の結合の核となって社会の広域化を促進した。都市の形成にともなった人類社会の変動を「都市革命」と呼ぶ。 エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の四大文明は、「陸」の世界の四つの「核(コア)」地帯になっていく。月並みだが、次に四大文明とそれぞれの特徴を見ておこう。2. 四大文明も乾燥地帯で起こった■エジプト文明 ナイル川流域の循環型農業社会 夏のモンスーンが、定期的にナイル川上流のアビシニア高原に衝突することで降り続く長雨が青ナイルに流れ込み、1ヵ月の時間をかけて地中海に流れ込んだ。6~10月まで続くナイル川の穏やかな増水(洪水)は、梅雨と同様に夏のモンスーンがもたらす降雨だった。 エジプト王国の都メンフィスの年間降雨量は26ミリ、中流のテーベはわずかに1ミリにすぎない。外部からナイル川が流れ込み、多くの労働力により灌漑インフラが整えられたからこそ、砂漠が穀倉地帯に奇跡的な変貌を遂げたのだ。(中略) エジプトは、東と西を砂漠、北を海、南を瀑布により囲まれているために牧畜民との交流が乏しく、洪水期と渇水期からなる循環型の農業社会が持続したことに特色がある。 つまりは孤立した文明であり、そのために世界史の中心にはなれなかった。(中略)■黄河文明 唯一、海から切り離された内陸の文明 黄河流域は、エジプト、メソポタミアと比較すると雨量が多く。ほぼ草原(年間降水量500ミリ以下)といってよかった。おのために、灌漑インフラの必要がなく、アワが栽培された。西のムギ社会とは、全く異なる農業社会だったのである。 黄河中流域には、黄土を固めた壁により囲まれた邑(ユウ)が造られ、支流のイ水流域から開発が進んだ。邑の集合体が殷、周である。 殷では骨占いによる神権政治が行われ、占いの結果は甲骨文字で書きとめられた。周は典型的な血縁支配で、その体制が封建制度である。 黄河文明は、他の三つの文明とは異なり、陸に閉じ込められた文明だった。その理由は、以下のごとく黄河にある。 中国の西北部を水源とする5400余キロの黄河は、上流の蘭州付近から西安までの間、黄土高原を湾曲して流れるために多量の「黄土」を溶かし込み、その量は1平方メートル当たり37キロにも及んだ。そのため、流れが緩やかになる下流では年10センチもの割合で土砂が堆積し、3年に2度の割合で流路が変わるほどの大洪水を起こしたのである。 ゴビ砂漠から偏西風に乗り運ばれてきた黄土は養分と通気性・透水性に富み、水に恵まれさえすれば肥沃な「畑」に変わった。
2021.09.22
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