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冤罪をテーマにした裁判もの。電車内でのちかんの容疑をかけられて逮捕され、拘留され、裁判、そして、判決。普通の裁判ものは、法廷の弁護士と検事のやりとりの面白さ。明らかに有罪とみえた犯罪が最終的に無罪になる爽快な面白さのドラマなのだが、この映画は違う。日本という国における裁判というものがいかに、形骸化され、意味のないものになっているかがよくわかる。 どんなものでも形骸化させてしまう日本ていう国はすごい。形骸化は日本のお家芸とでもいえるんじゃないか。 何度も法廷を開いて裁判をするのに、結局ほとんどの裁判では有罪の判決が出されてしまうらしい。なぜかといえば、いかに多くの有罪を裁判で出せるかで、その裁判官の能力が判定され、裁判官の出世や将来がきまるかららしい。 つまり、裁判なんて金と時間の無駄遣い。そんんことにエネルギーを使うより、裁判官に賄賂でも贈って、無罪にしてくれるように裁判官を懐柔したほうがよっぽど話が早そうだ。 高校生の男の子を育てている身としては、わが子がこんなことになったらどうしようと思いながら見ていた。ものすごく怖い。なにしろ、一度痴漢の容疑をかけられ捕まってしまったら、どんなにお金と時間と労力をかけて裁判をしても、かならず有罪にされてしまうからだ。 しかも、一度拘留されたら、まともな人間の扱いじゃない。江戸自体とほとんど変わらない。有罪であろうと、無罪であろうと、警察や検事はまず有罪であることを前提にして容疑者に接してくるのだ。頭ごなしのものいい、容疑者側の意見なんてほとんどきかないし、拘置所での扱いもひどい。まだ、有罪でもなんでもないのに、既に犯人のような扱い。すでに人間扱いされていない。そして、すごく威張っている警察官のひとたち。おまわりさんて、そんなにえらいのですかと聞き返したくなりました。「職業に貴賎はない」っていうけど、どーみても、警察官のひとたちは、自分たちの職業は『貴』だと思っているみたいだ。見ていて非常に腹立たしかった。 痴漢の容疑をかけられたら、絶対その場でみとめず、駅の事務室にいかず、否定しまくって、少しづつあとずさりしながら、自分の位置をずらしてその場から逃げるしかないんだろうか。 有罪か無罪かなんて当事者以外には誰もわからない。 そして、一人の人間の人生を裁判官というたった一人の人間によって決められてしまう怖さ。 最近、裁判員制度が出来始めていて、もうじき実施されるらしい。裁判官ひとりに任せておくと、どんな裁判であろうと、自分の出世の方が大事な裁判官によって容疑者はみんな有罪にされてしまうからだ。 かつて、日本でも、陪臣員制度がおこなわれた時期があった。けれど、どうしても日本にはあわなかったらしくて、結局今のような裁判官による判決になってしまったらしい。 けれど、いままた、裁判員制度を作ろうという変化が起きている。裁判員制度の実施は、忙しい今の日本の社会にはきびしいことだけれど、それでも、この映画をみてつくづく実施すべきなんだと実感した。 そしてまた、裁判官や検事というような仕事にたずさわる人材を育てている進学校は、生徒の人間性の教育の重要性を実感し、その責任の重さを、もう一度自覚してほしい。 わが子が冤罪でつかまり、その裁判の裁判官がかつての教え子であったことに愕然とする進学校の勉強至上主義の冷徹な高校教師なんていうストーリーの映画もいいかもしれません。そんなのぜひ作ってみてください。 ところで、この主人公。就職のための面接に行くために電車に乗っていたんだけど、履歴書を忘れたかもしれないということで一度電車を降りている。結局履歴書は忘れていたのだけれど、取りに戻るとおくれるからと、履歴書のないまま、また、電車にのってしまった。けれど、現実には、就職試験の面接で履歴書を忘れてきたら、もうその時点でまず就職には合格できないと思うんですけど。遅刻以前に面接でどんな内容のことを話して頑張っても、就職の面接で履歴書を忘れてくるように人間を採用する会社なんて日本にはまずないと思うんだけど。そういう話の出だしで既にへんなんだけど。映画をみながら、どうもそのあたりが引っかかっていた。主人公が急ぐ理由として就職の面接の場に向かうために電車に急いでのったという設定なのだけれど、26歳でもまだフリーターで、しかも、面接の日に履歴書忘れるようじゃ、おわってるなあ。 それと、痴漢の容疑をかけられた友達のためにこれほどまでにしてくれる友達なんてちょっていない。うらやましい。
2008年01月31日
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「○ッセイのおばちゃん~今日もまた~笑顔をはこーんで~~~♪」 という歌は結構知っている人多いと思う。かつては生命保険というと女性の勧誘員によって契約するものだった。会社の出入りの生命保険のおばちゃんととか、ばあいによっては、子育てに一段落した主婦が、生命保険をはじめて、また最初だからぜひ入ってと、人脈だよりに、親戚や友達に勧誘していたものだ。しかし、それらの人たちはひととおり知り合いへの勧誘が終ると、それ以上の人たちになんのコネもなく、しらない人に生命保険を勧誘するほどの力などあるわけもなく、そのうち人脈で入ってくれたひとでも、保険料の支払いが滞れば、勧誘した本人が自腹で払うしかなく、ほどなく、どうにもならなくなってやめていく。かんゆうにさいしては、もちろん納得のいく詳しい説明なんてものもされない。なにがどうなっているのかもわからないまま、なあなあのながれのまま、生命保険に入っていた人がほとんどなのではないだろうか。 ところが、ここ数年。テレビでの保険コマーシャルが異様に増えたことにきずいている人は多いだろう。バブルあたりから、理系出身者が文系の職場である、金融関係の会社に就職し始めたからのようだ。 それまで、人脈や人情や接待が押しの一手で売り込んでいた金融商品を理系出身の社員たちがきちんと理詰めで顧客に説明して、金融商品を販売する。理系の能力を使い、ただしく、理論を使い、きちんともうかる金融商品を作り始めてからのようなのだ。 だから、最近は、保険勧誘員を使った保険販売ではなく、きちんとした商品をきちんと説明して販売するという方向に、変わり始めているらしいのだ。 テレビコマーシャルの保険は電話でという時代の変化がどんな意味をもつのか。この本を読んで改めて理解できて感じだ。なるほどーーーーー。 保険だけでなく、株や銀行にも理系出身の人材が流れた。かつて、理系学部をでたら、大学に残って博士になるか、メーカーにはいって商品開発のための研究をする。そんなコースを選ぶはずだった理系の学生たちが、バブルの時期、文系の会社の給与のよさにひかれて、人生の方向を変え始めたのだ。 その結果、成功したものもいるし、逆に文系の世界があわなくて、結局理系の世界に戻ったものもいるし。一時期、新卒の社員が三ヶ月から三年以内に会社を辞めてしまうと騒がれたけれど、もしかすると、こういった理系出身者のせいかもしれない。かれらは、文系の会社は辞めたけれど、もともとの理系の知識で自分たちにあう職場や大学の研究室に戻った行ったようだ。 一方で、文系社会に入り込み成功したものもいる。かれらはその数学的センスを駆使して、理にかなった商品やよいものをつくったり、売り始めたりしているらしい。それまでの、人脈や接待による営業ではなく、本当に商品を説明することで営業活動をするといったことで、文系の会社社会を変え始めているようなのだ。 これからは、いらない残業や、くだらないゴルフ接待、料亭接待がなくなって、本当にいい商品が世の中に出回ってくるのだろうか。そうだといいなあとわたしは思う。 だって、ゴルフ接待や、料亭接待にかかったお金って回りまわってわたしたち消費者が負担しているわけだし。しかも、そういう売り方で売られている商品て。いいものを作るっていうことから離れてるでしょ。本当に売るためには、いいものを作ることが一番大事なのに。 ゴルフ接待がなくなれば、男の人たちは家庭に戻って、チャンと子育てをてつだってくれるのかな。そうだといいですね。
2008年01月30日
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子供の入試で始めて昨今の高校は高2あたりから、文理わけがされていることを知った。長男の私立中学入試で私立の学校の高校部分が高2から文系理系に別れているのを見て、私立の中高一貫校は大学進学のために効率よく勉強するためにこんなシステムになっているのかすごいなあと思った。 しかし、よくよく調べてみると、私立に限らず、都立高校でも、今は、文系理系にコースわけがされているようだ。 実際には、この文理わけは、30年ほど前から徐々にはじまっていたらしい。都立高校だったわたしははっきりした文理わけはなく、物理も化学も生物も日本史も世界史も倫理も政治経済も勉強した。高三でやっと、受験に対応した授業選択になった。しかし、3歳年上の夫は私立高校で既に当時もう文系理系のコースわけがされていたのだそうだ。 一見効率よくみえる文理わけだけれど、実際には、このシステムに悩ませられている高校生は多い。実際、高校生をもってみると、大学受験でこのシステムが逆にじゃまになる。文系でも、経済や商科なら、数学は必要だからだ。しかし、高校の文系コースの数学の授業は手ぬるい。また、数学が好きでも、理科が好きとは限らない。同じ理科の中でも、生物はやりたいけど、物理は苦手で、赤点すれすれ、ということもある。社会と数学が好きな場合もあるし、国語と理科が好きな生徒だっているだろう。 そういう人間ひとり一人の個性を無視した文理わけによって、悩ませられている高校生は多い。そして、そのせいで、理系の生徒は世界史や倫理をほとんど学ばずに終ってしまうし、文系の生徒はうっかりすると、数2Bすら勉強できなくなる可能性もある。 最近、小学校や、中学校でのゆとり教育が非難されて、改善され始めているが、実は高校では、既に30年以上前から、ゆとり教育が始まっていたと言える。小中のゆとり教育ばかりが話題にされているが、高校の文理わけはそれ以上に怖いことだ。そして、このことにきずいている人間も少ないのではないだろうか。 ほとんどはそんなものかと思ってしまっているだろう。うまく勉強できない子供が悪いと思っている親も多いかもしれない。 わたしも、この『理系白書2.「理系という生き方」』を読むまでは、こんなことに悩んでいるのは、自分たちだけだと思っていた。しかし、実際には、そうではなくて数多くの高校生とその親たちが悩ませられているのだ。 本当は、自分たちの好みや、将来の職業、受験したい大学の科目などなどいろいろなことを加味して、選択制の授業をとることができればそれが一番望ましい。しかし、実際には、それらをふまえて、授業の時間割を組むことは、パズルのように難しい。 実際のところ、都立高校では、最近、授業のほとんどを選択制にできる、単位制高校も作られてきてはいるのだが、それはそれで、またむずかしい。 単位制高校は、ようするに大学のようなシステムなわけだから、クラスメートとほとんどかかわることなく、高校を卒業することにもなりかねない怖さがあって、私はあまりよいとは思えないからだ。 こうなると、高校受験において、志望校を選ぶ場合、進学実績以上にその学校のカリキュラムをよく吟味する必要があるかもしれない。高校選びは、偏差値、立地、環境、進学実績なとが選択のポイントなのだけれど、こうしていろいろと考えてみると、子供にあった科目を授業で学ぶことが出来るか、そのことを重要なポイントとして、よく調べて高校を選んだ方がいいかもしれない。 ほとんどどこも同じように思えるかもしれないが、実際には、高校によって、学べる科目が微妙に違う。学校によっては、理科一科目、社会一科目が効率重視で固定されてしまっている場合もあるからだ。また、最近は同じ高校の中でも、学力によってコースわけされているので、子供のいけそうなコースの場合、どんなカリキュラムになっているかもチェックしたほうがいいと思う。 子供の得意な科目や、将来の職業、大学、学部の受験科目も調べた上で、それらの科目の出来そうな高校を選ぶべきなのだと思う。そうでないと、受験の押し迫った、高校三年生あたりで、選択肢をものすごく狭くされてしまい、困った結果にならないとも限らない。 そういう、今の日本の現実をわたしは、わが子の受験とこの本でつくづく認識した。 中3や、高一くらいで、将来なんて決めようがないのに、決めざるを得ない今の日本の教育界の現状をもっとよく認識し、改善をもとめていくために、社会的認識をもっともっと広げていくべきなんだろうと思う。
2008年01月29日
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センター試験も終わり、私立高校の推薦試験も終った。結果として何とか二人とも行く先を確保して、母としては、ほっとしました。とりあえず、息子は浪人しなくてもすみそうだし、娘もとりあえず行き先をひとつ確保。いまどきの私立は確約つきなので、ほぼ合格とはわかっていても、やっぱり何があるかわからない。本当に合格をもらうまでは、ほっとできない。内心もしかして落ちたらどうしようなんてはらはらのしどうしだったから、ほっとしました。中学受験ではアンナに大変なのに、高校受験だと私立校はほとんど、入試の前に合格の保証がされてしまう。高校受験て、なんて楽なの。とにかく内申さえとれれば、入試の前にほぼ決まる。私立の単願推薦なら、ほとんど勉強らしい勉強もしないで終る。難関校をめざすとか、少しでもいいところにいこうとさえ考えなければ、楽チンだ。もっとも、いい内申をもらうために娘はそれなりにしんどかったのだろうけれど。 とにかくほっとしました。 ココまでの間にわたしは、信じられないくらいいろんなことを想像して、悪い結果を予想して、一歩間違えれば、不安神経症なんじゃないのと、おもえるくらい、よくこんなにいろいろ考え付くなあと思うくらいいろいろとトラブルを想像しました。横でわたしの心配を聞いている息子が最後にはもうあきれ果ててしまったくらい。 ようするに、試験の当日にインフルエンザになって試験を受けられなくなるかもとか。電車が止まって会場にいけなくなるかもとか。願書だしそびれるかもとか。確約とったはずなのに、落とされるかもとか。東京マラソンのせいで試験会場にいけないかもとか。 だいいち、センター試験の会場に下見に行くことすらしない息子に心配で心配でなんども下見をすすめた結果、やっと、試験の二日前になって行ってくれたので、その時はやっとほっとしました。なにしろ会場に行くには、渋谷で井の頭線に乗り換えるんだけど、とにかく渋谷という駅はすごく複雑な立体構造なので、なんど行っても、どこがどこだかわからない。地図や方向感覚は得意と自負するわたしでも、渋谷だけは、駅の中でどっちが北でどっちが東なんだか、何度行ってもわからない。 基本的に試験の本番前には試験場に下見に行くものではと思い、何度も進めた結果やっといってくれたので、ほっとしました。でもってね。試験場である東大の構内で、わたしのつくったお弁当食べて帰ってきました。やっぱりさすがに、ちょっとどきどきして圧迫感を感じたそうです。わたしのお弁当が東大の中で消化されたのか。おそれおおい。あとにもさきにもこんなことは今回だけだ。 でも、当日は試験場の席の右も左もあっちもこっちもみんな学校の友達だらけなんで、学校とかわんないよね。しかも、さすが東大。環境抜群。あったかいし、うるさい騒音やミスをする試験官もいないし。停電もないし。わたしも本当は見に行きたかった。 それにしてもうちの子たちは母の心配をよそに受験票を忘れるという最大の愚挙を二人とも犯しているのだ。 センター二日目。六時すぎには帰ってくるはずの息子がなかなか帰ってこないとおもったら、受験票を席に忘れて、戻ったんだそうだ。しかし、物理の試験が終らないと教室には入れてくれないので、試験が終るまで待ってたんだって。信じられない。 しかも、娘もきのう、行ったと思ったら帰ってきて何忘れたのかと思ったら、受験票わすれちゃた。だって。信じられない。 学力がどうこう言うよりも、予想外のトラブルで駄目になるんじゃないかという種類の不安が次から次へと沸いてきて、母はおかしくなりそうでした。 もっとも、志望校の試験はこれからなので、まだまだ心配の種はつきません。 何でもいいから早く終りますように。
2008年01月23日
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友情と恋情は、紙一重なのかもしれない。あの松田優作の長男、松田龍平が主演。新撰組を舞台にした物語です。松田優作と松田美由紀にそっくりですね。すごい美少年です。こんな顔してると生きていくのは大変なんじゃないかなあと考えてしまいました。これだけの美貌だともう俳優としてやっていくしかないでしょうねえ。たってるだけですごい存在感があります。18歳にして既に独特の雰囲気を持っています。でも、わたし的には先日みた『ライアーゲーム』に出ていた弟の松田翔太の方がいいなあ。 新撰組に新規入隊した、加納惣三郎(松田龍太)と、田代彪蔵 (浅野忠信)。惣三郎のその美貌に振り回される隊員たち。当時の新撰組の中でも、衆道は流行っていたらしいのですが。ま、あれだけ男だらけのところにいたら、そりゃぁ欲求不満にもなるでしょうねえ。隊士たちは、遊郭にも行っていたようですが、平の隊士はそんなにお金もないしねそうしょっちゅう行くわけにもいかないし。となると、身近にいる男同士で解消するしかない。しかも、そんな状況で目の前にあれだけの美貌の少年がいたら、その気になって不思議じゃない。ですね。 松田龍太の美貌を際立たせるためにあえて、本来ならイケメンだった土方歳三や伊東甲子太郎もビートたけしや伊武雅刀を起用していました。 さてここから私的ネタバレ。 遊郭であれだけおいらんとの初体験を拒否したわけですから、惣三郎は女嫌いなんじゃないかと思います。裕福な商家の息子でありながらなぜ新撰組のようなところにきたでしょう。それは、女ぎらいでありながら、家にいれば、女性と結婚せざるを得ない。しかし、彼はどうしても女性を抱くことが出来ない。それゆえに男ばかりの新撰組にやってきた。女性とかかわらなくてすむからです。 その新撰組で初めてホモセクシュアルの世界を知ってしまうわけです。初めての相手は田代でしたが、その後彼は新撰組のなかで人物的にもスター的存在である沖田総司に憧れを抱き、それはやがて恋のようなものに変化していきます。前髪をそらずにいた彼がかけていた『願かけ』とは、沖田と恋人になることだったのではないかと思います。けれど、沖田の方には全くその気はありません。 惣三郎の美貌ゆえに隊の風紀が乱れ始めたことを憂えた近藤と土方からの命令で、山崎は惣三郎を遊郭に連れて行き、女性を知って彼が普通の男になるようにと画策しますが、惣三郎は山崎の誘いを断り続けます。それでも、やっと遊郭に行くことを承諾し、山崎と二人で遊郭に向かう途中、彼は山崎を誘惑してきます。遊郭で山崎と関係を結べると思っていたのに、結局本当に女性をあてがわれた惣三郎は、そんなことをした山崎に対して怒りと恨みを抱いて、ある夜山崎を襲いますが、失敗してしまいます。ところがその場にうっかり落としてしまった「田代のこづか」によって、山崎を襲った犯人として田代に容疑がかかり、その田代を処罰する役目があろうことか惣三郎に振られてしまいます。 惣三郎が田代を成敗するところを確認するために土方と沖田が影でみはっています。 その時に二人がかわす会話の中に出てくる『雨月物語』の中の「菊花の契り」というエピソード。ふとしたことでしりあった二人の男がなかよくなり、一年後の同じ日に同じ場所で再開することを約束しますが、一人の方は捕まってしまい、どうしても約束の場所にいかれない。彼は約束を守るために自らの命を絶って幽霊となって、友人に会いに来るのです。 沖田はこの説話の二人は友人ではなく、恋人同士だったのではと言います。その話を聞きながら、土方が想像する場面が三回でてきます。白い着物をきた惣三郎のところにおとづれる土方。これは違うと土方によって否定されます。次に、惣三郎のところにいく沖田。これも違う。次に沖田が待つところに赤い着物を着た惣三郎が来るシーン。これだ。と、土方が納得します。このシーンは、『菊花の契り』で恋人のところに幽霊となっておとづれる男をあらわしています。 待つ男惣三郎とやってくる幽霊役の土方。待つ男惣三郎とやってくる幽霊役の沖田。惣三郎は沖田に惚れているのですから、幽霊となった沖田が自分のところに来てくれるのが望みなわけですが、沖田にはまったくその気がないのですから、これは叶わないことです。 だとしたら、自分が幽霊の男となって、沖田のところに行くしかないのです。 けれど、惣三郎の剣はかなり強いので、湯沢にしても、田代にしても、まともに戦っても惣三郎の方が勝ってしまいます。新撰組の中で彼を殺せるのは唯一沖田だけなのでしょう。田代との対戦では、あえて手を抜いて田代に殺してほしいと願いますが。結局かないません。 ラストノシーンで新撰組を惑わす存在としての惣三郎に気づいた沖田はさらりと彼を切り殺してしまいます。その時の惣三郎の「沖田さん」という声がとてもうれしそうです。彼を切り殺せるのは沖田しかいない。そして、沖田は決して自分を好きになってはくれない。だとしたら、幽霊となって沖田に会いに行くために、沖田に切り殺してもらうことが惣三郎の望みなわけですから。ラストで沖田に討たれることが出来たのは、惣三郎にとっては、ハッピーエンドともいえるし、新撰組を乱す惣三郎を殺すことで新撰組にとってもハッピーエンドの結末です。 最後に咲いている一本の夜桜は惣三郎を意味しています。そして、惣三郎が殺されたように桜の木もまた土方によって切られてしまいます。物語の中でずっと惣三郎の存在を追いかけていた土方はココでやっと彼の問題を解決しえたわけです。 男に生まれながら女性を愛することも出来ず、好きな男に好かれることもなく、自分という存在を確立することが出来ない惣三郎はかわいそうですね。 でも、隊士の中で太陽のように輝く人気者の沖田総司役としての武田君はどうもいまひとつそれほど魅力的には見えませんでした。ちょっとわたしには物足りなかった。沖田君がもっと魅力的で目だってかっこよくないと面白くないように思いました。 『三条蹟乱刃』のエピソードの部分がこの物語の中でどんな意味合いを持つのかはまだ不明です。 でも、人間的にバランスの取れた井原とかかわることで惣三郎が人としてもう少し成長してくれることを沖田は望んでいたのではないでしょうか。硬派パリパリの戦闘集団として有名な「新撰組」がたった一人の美少年によって組織をがたがたにされてしまう。志をもって活動しているはずなのに、欲望を断ち切るのはむずかしい。厳しい戒律をつくり、『御法度』として、隊を引き締めようとしても、やはり守りきれるものではない。友情と恋情は紙一重なのか。男色でないはずの隊士たちまでもが、惣三郎の魅力と色気に引きずられていく。それは、人として好きなのか。恋として好きなのか。あこがれなのか。恋なのか。ただの色欲として求めているだけなのか。本当に惚れて求めているのか。自分自身でもわからなくなっていく、人と人との感情。どれほど厳しく『法度』をつくっても、人の中の内実をまでしばることは出来ない。男ばかりの集団に擬似女性としての美少年をいれてみると、その少年を中心にして、組織はがたがたに崩れていく。崩すまいと土方は必死になる。一輪の花が組織を徐々にほころばせていく。組織をまもるためには、その花を取り去るしかない。映画のラストで土方は一本のかぼそい桜をばっさりと切り捨てる。けれど、花を取り去っても、組織の中にいる人間たちの本性が変わるわけでもない。人の心を本当にしばることなんかできない。 ワダエミデザインの黒の隊服がかっこよかったですね。あれで、映画のよさがかなり上がったし、キャラ一人ひとりの存在感もすごく際立って見えました。 御法度@映画生活
2008年01月22日
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センター試験も今日で二日目。どきどきするとか緊張するとか言うよりも、毎日寒いわ、腰は痛いわ、疲れてるわ、ストレスたまってるわで、盛り上がる元気もない。いたって平常心で落ち着いてます。というよりも、この二日間は長男がいないので、音をだしてテレビも見れるし、のんびり家族でおしゃべりも気兼ねなく出来るし、なんか逆にのんびり出来てうれしい。あしたは登校日で長男は学校に行って、センター試験での回答のデータを提出しなくてはなりません。それを学校で取りまとめて、三大予備校にデータとして送るんだそうです。でもって、その結果を見るために金曜日にまた学校にいきます。でも、その結果を待たずに月曜化火曜に振込みして、出願しちゃいたいなあ。私大の受験票もぞくぞく届いてます。あと一つ来ればオッケーなのだ。おとといジャスコにいって買ってきたゲンかつぎの合格お菓子です。最近はかなり無理やりのこじ付け的なものも増えてきたけど、『うカール』と、『きっと勝つと』だけは、やぱり定番になりつつあるかな。このお菓子をいろいろ食べて、気分を盛り上げて、長男はセンター試験に行きました。 桜塩のポテチが結構桜の香りがしておいしかった。真ん中の赤い合の字のまんまるマークはアンパンです。味は普通。『うカール』の合格神社が今年はバージョンアップしてました。絵馬のコメントがなかなか楽しい。
2008年01月20日
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うちの長男は敬語でしゃべるし、親にそれほどひどい反抗もない。総じて、温和でやさしくあたりがやわらかい。青春期特有の反抗期もあまりなかったし、荒っぽい言葉で親に激しく反発することもない。(だからって全部親の言うこときくわけじゃないけどね。) 「いいのかこんなことで」、と、思っていたけれど、昨日の読売新聞(1/14)の『反抗にあこがれぬ若者』という記事を読んでいて、ちっょと納得した。いまどきの若者はほとんどみんなこんなタイプらしい。別にうちの子だけじゃなかったのだ。「若者は大人世代に反抗するもの」と思い込んでいたけれど、実は昭和の一時期の『流行』にしか過ぎなかったのかもしれない。 尾崎豊や、学生運動、不良、そんなものは実はあの当時のマスメディアに洗脳されて、自分たちは若者なんだから、大人に反抗しなくちゃいけないと思い込まされていた故の行動だっただけなんじゃないか。私自身もよく母親と衝突したけれど、それは、母親が昔の価値観をやたら私に押し付けてきたこととともに、心のどこかで、親には反抗しなくちゃいけないと思い込んでいたせいだったよう気もしないではない。親の言うこと大人の言うことにあんまり素直に従っちゃいけないんじゃないかと、思い込まされていたからかもしれない。それはまた、よく見るテレビや本や雑誌から、知らないうちに刷り込まされたものだ。 一方、父親は当時の大人の男性としては、めずらしく、話のわかる、そして、自分の価値観を強引に子供に押し付けないような人だった。父にも父なりの価値観はあって、いつもゆっくりとそれを語ってはくれたけれど、それがまさに、軍隊に入っても上官の言うことをきかなかったとか、大人の頭ごなしの物言いに素直に従わないというような、当時のまさに最先端の考え方であり、それは、その少し後に流行した価値観、考え方といえる。 だから、当時の兄は青春期にあっても、父親と対立することも反抗することもなかった。家庭の中で、親子の対立はなく、荒れることなく、静かで楽しく、まさに家族と楽しくすごす父親だったわけで、それはまさに今の世の中の父親とおんなじだ。 今の大人は「若者に自分の価値観をおしつけない」という「いまどきの流行の価値観」にすっかり洗脳されているので、若者に優しい。おかげで今の若者も、大人に反抗することもなく、やんわりとやさしいのだそうだ。 まさに今の時代の価値観であり、それはやっぱり、毎日のテレビや本や雑誌やコマーシャルやインターネットという情報によって無意識に洗脳された考え方そのものだ。なにしろ、男の象徴の「車」のコマーシャルでは、家族で乗る車、家族で楽しく遊ぶための車のコマーシャルがやたらと多い。「家族と遊ぶことが自分の行き方を貫くよりも大事だという考え方」をすっかりすりこまれているのだから、無理もない。 かって、パックツアーがブームになった時には、パックツアーではなく、自分で旅程をくみ、自分で交通機関を手配し、自分で地図をみて、宿を予約するオリジナルな旅行のしかたが、マスメディアによって報道されて、そんな自分の力でいく旅が、自身のオリジナリティを表現し、行動する、オリジナルな旅をすることが流行った。『地球の歩き方』という有名な本によって多くの若者が世界をバックパッカーとなって旅行することが流行した。そう、流行したのだ。「パックツアーではないオリジナルな旅行をするという流行」にみんながはまった。こうなればもう既にそれは、オリジナルでもなんでもない。みんなと同じことをしているに過ぎない。パックツアーとなんらかわらない。 一時期流行った、ど素人までが参入した株もまた、情報産業によってうごかされた流行に過ぎない。 オリジナルな生き方をしているつもりがいつの間にか情報産業からの刷り込みだとしたら。 自分の頭で考え、決定し、行動している。と思い込んでいるいろんな生き方や考え方が、実は情報産業によって、無意識にすりこまれた、考え方や生き方に過ぎないとしたら、わたしたちはいったい、どうやって、それらの情報産業から影響を受けない、真にオリジナリティのある生き方をすることが出来るのだろう。 たとえ、テレビや、本や、ネットをすべて隔絶して、情報産業に触れることをやめたとしても、毎日接触する友人や同僚や家族との接触でも、間接的に情報産業からの影響を受けてしまう。人間が社会的生物であるかぎり、人間と接触することまでは、やめることはできない。 いっそ仙人のように、人間との接触まで断ち切って、山篭りしたとしても、みんなが仙人を目指して山篭りをはじめたら、それもまた、時代の流行であって、オリジナルではなくなってしまうだろう。 親や大人や管理社会に反抗する生き方も、大人に逆らわず仲良く楽しく生きる生き方もどちらも、情報産業により作り出された生き方の流行に過ぎないとしたら、実際のところ、オリジナルな生き方なんて出来ないのかもしれない。 けれど、やさしくて逆らわないうちの息子もその内側には心の強さを持って生きている。やさしいからやわだとは限らない。流行だろうと、オリジナルだろうと、その内側に芯の通った強さがあれば、どんな生き方であろうと、かまわないのかもしれない。
2008年01月15日
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もうあと少しで子供たちの受験も終るなあと思う。受験が終ったからって、子育てが終るわけじゃないけど、一段落はすると思う。それもかなり大きな一段落。下の子が小学校に入学した時みたいだ。受験なんてたいしたことじゃないけど、人生の中で受験はやっぱり大きい。長男が中高一貫校に入って以来、六年間、大学受験を目指してすごしてきたようなものだし。 もちろん毎日毎日がんがん勉強させたわけじゃないし、ラスト一年になるまでは、なるべくのんびり、せっかく入った学校の生活を無理せずのんびりすごしてきたつもりだけど、やっぱり、大学受験を目指して進学校入ったわけで、ゴールは大学に入ることだったから、のんびりしつつ、心のそこではいつもそのことがこころに引っかかり続けてきた。入った頃は6年間はとても長く感じたし、はたしてどうなるかわからない不安をかかえつつ、あまり長男に気持ちの付加を与えたくないなあと思いながら送ってきた。進学校なので、実力テストがあったり、順位の発表があったり。上位の成績であれば、親は安心できるし、気分もいい。でも、そんな時期に好成績をとらせるのは、子供にとっては、そんなにいいことじゃないし、精神的にも疲れる。だから、とりあえず、落第しないように。勉強がついていけなくなるほど、落ちないように。とりあえず、平均点より少し上が取れればいいと思ってきたし、塾もいかせなかったし、定期試験の時だけはチャンと勉強することと、学校の授業をチャンと聞くことだけは、守らせてあとは、好きなことをしながらのんびりと暮らしてきた。娘も、今の時代の公立中といえども塾漬けになりかねない生活になりそうなのをぐっと抑えて、親とすれば、三年間夏休みも冬休みも塾にいかせれば安心できるけれど、そんな生活はおかしいと思ってぐっと抑えて、最後の一年だけはしっかり勉強するように。それだけで、送ってきた。親なので、やっぱり、子供たちの進学はすごく気になる。心中はらはらしつつ、とうとう二人の受験も間近になった。あと、二ヶ月弱でそれも終る。なんだかんだいいながら、学校には長男をやさしく暖かく守ってもらっていたなあと思う。学校って入るまでは敵みたいなものだけど、はいっしまうと味方みたいな感じ。長男にそういう話をしたら、本人はあんまりぴんとなかったみたいだけど。娘の中学校も公立にしては、落ち着いていたし。 こどもたちの受験が終ったら、どうしようかなあ。子育ては、このあとだって、まだまだ続くけど、とりあえず、一段落。終ったら、ぼーっとしちゃうかな。やることがなくなって、心がぽーっとしちゃうかな。それとも何か他の別のことを始めたくなるかな。それとも、今までとぜんぜんかわらずに、家事とブログとゲームと読書の生活を同じように続けていくだけかな。 早く終ってほしいなあ。でも、終らずにこのふわふわな気分がずーっと続く方がいいかなあ。『レイクサイドマーダーズケース』にでてきたお母さんみたいに、子供の未来が一瞬だけちらっと見えたらいいのに。いややっばり、それも怖いかな。 よい結果が待っていますように。
2008年01月14日
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『 外国映画用投票フォーマット 』【作品賞】(5本以上10本まで) 「 ブラッドダイヤモンド 」 4 点ディカプリオ主演が理由でたいした作品じゃないだろうとおもい、見るのを控えていたのだけれど、いざ見てみたら、予定外の力作でした。アフリカの現実を、このような娯楽大作という形で普段社会派の映画をみないような一般の人たちにも伝えることが出来たことに意義深さを感じました。 「 ミス・ポター 」 4 点ピーター・ラビットで有名な人ですが、実はナショナルトラストの先駆者だったことのわかる有意義な作品でした。 「 マリー・アントワネット 」 4 点『ベルサイユのばら』とは、全く違う現代的な視点で、マリー・アントワネットという人物を見直させてくれた作品です。マリーの立場を現代の女の子が生きたら、ものすごくしんどいんじゃないかということを実感させてくれました。 「 パフューム 」 4 点今年最大の話題作ですね。いままでにありえなかった「臭覚」を画像でみごとに表現してくれました。 「 世界最速のインディアン 」 5 点予定外に面白くて感動的でした。好きなことを追求する生き方が素敵でした。 「 不都合な真実 」 4 点やはり、地球温暖化は年々切実になっていきますね。政治的などうこうなんてこのさいすっ飛ばして、真剣に対策してほしいです。この映画はぜひ、みんなみてね。 「 麦の穂をゆらす風 」 5 点アイルランドの歴史は、世界史でもあまりやらないし、日本ではほとんど知らない人のほうが多いでしょう。けれど、アイルランドとイギリスの壮絶な対立。力づくで他人を動かしちゃいけないと思います。 【コメント】 わたしの評価は上記の通りだけれど、実際のところ今年の話題作はなんといっても、「パイレーチオブカリビアン」と「パフューム」だろうと思います。たぶん、この二つのどちらかが今年の受賞作となるだろうと思います。昨年2007年は2006年ほど映画を見ていないので、いい作品を選びきれなかったと思います。すみません。-----------------------------------------------------------------【監督賞】 作品名 [ ソフィア・コッポラ ] (「 マリー・アントワネット 」)【コメント】マリーアントワネットを女性らしい視点で描き出してくれました。おしゃれでポップなファッションやオカシや音楽も素敵でした。【主演男優賞】 [ レオナルド・ディカプリオ ] (「 ブラッド・ダイヤモンド 」)【コメント】アフリカのいろんな言葉や風習まで独自に自力で吸収しての熱演だったと、思います。【主演女優賞】 [ ] (「 」)【コメント】【助演男優賞】 [ ] (「 」)【コメント】【助演女優賞】 [ ] (「 」)【コメント】【新人賞】 [ ] (「 」)【コメント】【音楽賞】 「 」【コメント】このあたりはまったくわかりませんので、投票なしです。すみません。-----------------------------------------------------------------【勝手に○×賞】 [ 墨攻 ] (「 」) 「 」【コメント】原作は日本の小説と漫画。それを外国の監督が映画化。俳優もアジア各国からの出演。インターナショナルでグローバルな映画です。意義深い。----------------------------------------------------------------- この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。-----------------------------------------------------------------
2008年01月09日
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お正月のこんなゴールデンタイムに4時間以上もこんな知的な番組が放送されるなんてかなりうれしいことでした。3日の午後6時半からTBSで4時間半の放送でした。しかも、見てみたら、すごく面白かった。かなりわかりやすくて見やすく作ってあって、我が家の夫や娘、さらに塾から帰ってきた息子までが面白いと、見入っていました。とてもよく工夫してあって、本来はとっつきにくい、ローマ帝国の興亡史を漫画やドラマをうまく組み込んでわかりやすくつくってありました。TBS新春超歴史ミステリー古代ローマ1000年史!!空前の巨大帝国全解明スペシャル 昔、『ローマ帝国の興亡』のダイジェスト版を通して読んだことはありました。原作はものすごい長編なので、ダイジェストでも、読み通すのはたいへんなのですが。でも、あれを読んでもよくわかっていなかった、ローマ帝国のいろいろな事件がどんな意味をもっていたのかが、よくわかりました。現在では映画のタイトルで有名な『ハンニバル』という名前が実はローマ帝国に戦いをいどんだ「カルタゴ」のものすごく強い将軍の名前だったことも再認識できたし。ハンニバルの戦略は今の時代にも評価の高いものなのですね。 そして、共和制からはじまったローマの政治形式が、ローマが大きくなるにつれて、皇帝制にかわり、やがては、独裁政権になっていくのに驚きました。 今までわたしは、専制君主制から、近代的な政治形態として民主主義が出来たんだと思っていたのですが、ローマ帝国では、最初は民主的な共和制の制度がやがて皇帝による政治にかわり、最後は独裁政権になってしまうというのは、目からウロコのオドロキでした。 初期の皇帝は、今でいう大統領みたいなもので、国民ないしは、市民の代表として、市民に代わって政治をする人。 けれど、たった一人に政治の全権を任せるといつかは独裁政権になってしまう怖さ。一人のリーダーによる統治はその人物が有能であれば、すごくいいことなのに、独裁になった時は、非常に怖いことになる、諸刃の剣なわけで。 アメリカの大統領が独裁者になったりしないのかな。今現在でも、大統領の権限で戦争始めちゃってたりするわけだし。 それはそれとして、一番すごいなと思ったのは、ローマ帝国という国が、1000年という歴史を通して「寛容」の精神を貫いていたことです。初期には、周りの民族と戦い勝ったあとは、奴隷化せずに同等の身分で相手の民族にもローマの市民権をあたえ、支配するもの、されるものという関係ではなくて、たたかいのあとは、相手をゆるし、同じ立ち居地になろうとするあり方。最初の皇帝シーザーも、戦った後に敵を許しますが、もしかしてその相手から恨みを買って殺されてしまうかもしれない。けれど、それでも、いいから、相手を許したいという覚悟。さすがにジュリアス・シーザーは偉大ですね。自分という存在よりも大切なものがある。この長い年月を通してもうしなわれることのなかったローマという国の『寛容の精神』が国をささえ、繁栄させていた最大の理由だったのですね。 とにかく、お正月から、こんな面白くて知的な番組を作ってくれて、ありがとう。
2008年01月07日
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日本の食料自給率は四割くらいなんだそうだ。だから、戦争になったら危ない。自給率ほぼ100パーセントにすべきだといわれる。でも、今のこのグローバルな時代にそんなことほんとに出来るんだろうか。そんなことの出来る国は世界でいったいどれほどあるんだろう。自国の自給率100パーセントをめざすより、自給率が低いことを心配しなくてもいいようなグローバルな世界にしちゃった方がいいとおもう。世界が完全平和になれば、こんな心配は要らないんじゃないの。というのも無理そうかもしれないけれど、いっそ、世界中の国が徹底的に他国に食料を依存するような、食糧依存率100パーセントにしちゃえば、いっそのこと、戦争なか起きないかも。 お互いがお互いに世界中のすべての国と食べ物で依存してつながってたら、もう戦争なんてやりたくても出来ないと思うんだけど。 今の時代に完全に食料自給100パーセントなんてどう考えたって無理だし。世界中のすべての国がそれぞれに得意な食料を作ってみんなで分け合って食べた方が絶対いいと思うんだけど。だめかなあ。
2008年01月05日
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昨日は増上寺に初詣にいきましたが、いつも車を止めるパーキングで、ふっとみると、ベンチの下に何か落ちています。ひろってみると、なんとプラダの黒いお財布でした。しかも、ぱんぱんにふくれてる。おもわず中を空けてみたくなりましたが、それをやると何か盗んだことになるかもと思って、そのまま、その場にいた駐車場の誘導係りの人に渡しました。プラダのお財布なんて、何万もするすごい高いものなのに。お正月からあんなすごいお財布を落とすなんて、いったいどんな人なんでしょう。落とした人はどうしてるのかな。今頃気づいてはらはらしてるかなとか、きがついて、あのパーキングまでいったかなとか、すごく気になりました。でも、ほんとにぱんぱんで、あの中には、いったいいくら入っていたんだろう。万札が何枚も入ってたのかな。それとも、カードばっかりで、お金はそんなにはいってなかったのかなあ。ううう。中身見ればよかったかな。みたかったなー。あのお財布、ちゃんとあのあと持ち主に見つかったかな。「おかあさん、なんで自分ものにしないで、警備の人にわたしちゃったのー?」なんて、娘に聞かれてしまいました。そんなこといっても、これから初詣に行くのに、そんなことしたら、ゲンが落ちるじゃなーい。お財布の数万のお金より、子供たちが志望校に受かるかどうかの方が大事だものー。それにあの場所で、あんなすごいお財布なんて、ひろって届けずにふところいれちゃったら、ばれやすそうなんだもの。超高級マンションの一階にあるパーキングだからね。警備のための防犯カメラとかにも、写ってるかも知れないしね。あのお財布。ちゃんと持ち主に戻ったかな。きになります。それにしても、ぱんぱんですごいお財布だったなあ。ひゃあ。 ↑こんな感じのやつでした。
2008年01月04日
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今年もよろしくおねがいします。受験がおわらないと、年はあけないんだけどなー。その年の一番最初にかくプログも今年のブログ事始ということで「書き初め」と読んではどうかということで、私の今年の書初めはこれです。毎度よみにきてくださる方ありがとうございます。先日うちのダンナに「いつまでやるの。まだやるの?」と、いわれましたが、まだやります。最近サボリ気味ではありますが、でもやめる気はありません。みなさま今年もよろしくおねがいしますね。年末からまた腰が痛くなり、何をするのも一苦労。たっているのもつらいのでした。一度ぎっくり腰をやって以来、冬になってさむくなると、どうしても、ぶり返してしまいます。接骨に行けばいいのに、どうにも嫌でがんばって、シップと腰ベルトで過ごし、しんどい時はひたすら休んですごしていましたが、どうにもこうにも、家事が滞ることこの上なし。正月が明けたら、いくらなんでも、接骨に行こうかなあ。おかげでブログの更新もままならず。年末年始のご挨拶もままならず。はがゆいことこのうえなしです。今年はもう少し運動して体力つけたいです。今年一年健康で元気に過ごせますように。今年はよい年でありますよう。
2008年01月01日
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