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住宅保障会社からの使用停止通告と退去勧告に法的拘束力がない事は私にも分かっていたが、根本的原因は私が家賃を滞納したことだから仕方が無い。三月には一旦は、必要最小限の身の回りのものだけを知人のところに預けることにして部屋から退去することにした。ところが知人の車を借りて荷物を運ぶ最中に私は物損事故をおこしてしまった。その後、負債の督促に車の修理代の請求まで重なって、精神的ストレスは募るばかり。結局友人の弁護士の勧めもあってマンションのオーナーが裁判所に訴えるのを待ち、その判決が出るまで部屋に居座る事にした。社会人としてはやってはいけない、図々しい卑怯な始末の仕方だ。そして4ヶ月。有り金14円で1週間過ごしたり、3日4日食べれなかったり、電気、電話、ガス、水道、ネットを度々止められたが、それは収入を得るために働かなかったから当たり前のことで、むしろ充実した穏やかな癒される時間を過ごす事が出来て私は本当に幸せだった。読みたい本を読み(半年間に約70冊)、季節を感じさせる川辺の道を散歩し、走り、近くの川で釣りをしながら過ごす事の充実感。ネットの束縛から離れ、煩わしい電話に邪魔されることなく過ごしたゆったりとした時間の流れは本当に貴重なものだった。 そんな私に向かって、「将来の事を考えない浅慮! なんて自分勝手!」と多くの人は思うかもしれない。 実際元『相棒』はよく言った。「自分勝手な人! オーナーの事考えなさいよ!どれだけ迷惑してる事か!」って。 確かにその通りだろう。しかし彼女にとっては、私の事より、オーナーの事が心配だったのだろうか? 彼女の常識外の私の感覚をかたきの様に感じたのだろうか? 五月に判決が出て六月末日までに部屋を退去しなければいけなくなった。その決定は住宅保障会社の都合で、七月半ばに変更になった。引越し代も無い私は住宅保障会社の言う処理方法に従わざるを得ないのだ。やはり、熊本に帰ろうと私は思った。障害者であった妹のために熊本に帰る事は私にとって既定の事で、実際におよそ20年前、一旦は帰熊しようとした。それが色々な事が重なり、その事を果たせず、妹も亡くなってしまった。妹の事はさておき、それ以来私は熊本での自然との一体感のある生活を望んできた。平たく言えば、土いじりと釣りの出来ない生活に私は耐えられないのだ。ところが荷物を搬出する5日前、仕事仲間から連絡があって、熊本に帰るのを一ヶ月位延ばせられないかと言う。三食付けて彼の家に居候させてやるから、今度彼が手がけることになったプロジェクトを手伝えというのだ。突然の事でどう返事すれば分からなかったが、あまりリアリティーのある話にも感じられずとにかく断った。しかしそれから何回も電話がかかってきた。プロジェクトのテーマ自体は非常に面白い。すでに失いかけていた、仕事に対する興味が少し復活した。結局、引越しの前日OKの返事を出し、私は彼の家に3週間居候した。居候して早くも2日目に私は激しく後悔した。仕事仲間の彼は、気の良い優しい奴だが、私も彼も長年リーダーを務めてきた。二人とも個性は強い。そんな個性と自意識が強い人間が24時間一緒にいれば、哲学も社会感も生活感覚も違う人間から、激しくぶつかり合うのは当たり前の事で、しかも彼の奥さんも同じ仕事を以前やっていたので、たちまち仕事と言わず人間関係が大波に翻弄された。何の因果で…と思いつつ、それでも3週間我慢した。その間、私は彼から「お前は口を挟むな!」と怒鳴られ続けた。私は貝になって日を送った。本当はすぐにでも彼の家を出たかったのだけど、結局私の主張した方式でプロジェクトを進めていくのが、一番合理的だと彼も納得して、その方式でやる事になったので、言った手前責任も生じて、3週間我慢した。煮詰まったのは彼の方。大体の方向性が定まった日、体制が整ったのでお前はもう熊本に帰って良いよと言われた。態の良いお払い箱。でもホッとした。 同時に困ってしまった。実は私の熊本の実家はすでに無い。熊本には姉の家があって、部屋の家財はそこに送った。ところが姉は東京の人間と再婚しているので、熊本には月の内1週間位しかいないのだ。そしてその頃、姉は熊本にいなかった。つまり、熊本に帰っても、姉の家に入ることも出来ず、泊まる処が無いのだ。そこで以前から暫く過ごさないかと声を掛けてくれていたここ埼玉北部の街に2週間前にやって来たという次第。友人の父親が一人で暮らすこの家を訪ねたのは初めての事。父上とも始めて会った。それから2週間。人生の道半ばにして 正道を踏み外したわたしは 目が覚めると暗い森にいた(ダンテ『神曲』地獄偏1.1~3より) ここに来る時には電車でやってきたが、先週末東京に仕事の事で呼び出された帰り、電車賃も無くなったので、親戚に預けておいた自転車を走らせて帰ってきた。直線にすれば約60キロであるが寄り道をしたりしたので約90キロ。7時間かかった。12時を過ぎた夜中の道を一人帰ってきた。数日前までの暑さが嘘の様に肌寒い日であった。それは熊本まで自転車で帰れるかというテストも兼ねていた。自転車で熊本まで帰るかもしれないと話すと、周りから呆れられ、リアリティーがないと言われた。熊本までの航空運賃を出そうかと言ってくれた人間もいた。それらに対して私は上手く反論出来なかったけれど、私にとって、(実際にやるやらないは別にして)自転車を使って帰熊は凄くリアリティーのあることなのだ。釣りをしながら帰ることは私には生きる意味のある行動だと思える。決して航空運賃がないから自転車で行こうというのではない。第一自転車で帰った方が余程高くつくのだ。山口県防府市に生まれ、放浪の旅に生涯を送った自由律の俳人、種田山頭火。彼は熊本でも長く暮らし、熊本の事を第二の故郷と呼んでいる。分け入つても分け入つても青い山まつすぐな道でさみしい昨年仕事で御一緒した著名な劇作家は、以前NHKのためにその山頭火を主人公にしたドラマを書いておられる。打ち合わせをしている時に、その話が出て、「私、山頭火が好きなんです」と先生に話したら、「君、山頭火に気質が似てるかもしれないね」と笑いながらおっしゃった。おちついて死ねそうな草萠ゆるいい気なもんだと思うかもしれないけれど、自転車での帰熊は、私にとって山頭火の放浪吟行と同じなのだ。自然の呼吸と行為と感覚が一体になること。それこそが生きる意味だと思う。熊本では友人に頼んで熊本市から車で2時間程かかる九州山地の山の中(そこは祖父と父の生まれ故郷でもある)と海に面した天草の2箇所で仕事を見つけてもらっていたのだけど、それは、仕事の内容で頼んだのではなく、場所、生きる意味のある感覚を味わえる場所に行きたいと思ってリクエストしていた。別にどうしてもやりたい仕事だったわけではなかったから、熊本に帰るのを延ばして、仲間の仕事を手伝った。後から熊本での仕事は他の人を採用したと連絡があった。仲間の仕事を手伝って、改めて長年携わってきた仕事の面白さに興味を持った。その意味ではどっちつかずの宙ぶらりん。今までの仕事をしながら生きていければ幸せだろう。しかし、現実には、身に一銭の金も無く、オーダーが入っても意に叶わぬ仕事ばかり。だったら、やはり生きる意味を感じられるところで生きていった方が良いのかとも思う。高村薫の『照柿』の中に「階段を上りながら、この右足は憎悪、左足は未練だ等と考えた。一段事に入れ替わる。憎悪、未練、憎悪、未練」という一節があった。私は元『相棒』への激しい『想い』の中で生きてきた。つまり『未練と憎悪』。元『相棒』への想いだけではなく、仕事に対してもそうかもしれない。意味の無い仕事はもうやりたくないという想いは、ここ数年強くなっていたし、去年会社を辞めた時点でやはり人からオーダーされた仕事はもう止めようと思った。辞めた後仕事のオーダーは幾つかあったし、今でも営業活動をすれば幾つかの依頼はあるだろう。しかし、自分が意味があると思えるテーマ以外のものはもうやりたくない。この街に来てからも釣りに行った。この時期の私の釣りはヤマベの毛針釣りばかり。私は毛針が一番好きだ。毛針は基本的に『むこうあわせ』である。浮き釣りの様に、駆け引きしてこちらから仕掛ける事はない。相手の魚の引きに単純に反応して竿を上げる。 相手の(魚の)強い引きを待つばかりの釣り。今までの私の生き方もそうであったと思う。相手の思いと行動を待つばかり。こちらからは仕掛けない。行動しない。相手のアタリ-食いつき(想いと行動)を待つばかり。 やりたいテーマを持ちながら、自ら努力してその実現を目指すことの無かった仕事もそうであったし、元『相棒』との関係もそうだったのかもしれない。3月以来、「いつかは分かってくれる」と、じっと元『相棒』の心の変化を待って、そして結局元『相棒』との距離の遠さだけを感じ、1つの季節の終わりを実感した。 私の彼女に対する想いと彼女の私に対する想いの違い、遠さを実感した。 私は彼女を愛していた。しかし彼女は私をそんなには愛していない。その想いの違いに絶望した。 生きている意味が無いと思ったその絶望から立ち直り、それでも生きていこうと思ったのは、私の中から彼女への愛が薄らいできたからなのだろうか。私の日常から彼女の影が段々と消えていったからなのか?。 「何でそんなにいちいち彼女に過剰に反応したの? 彼女の事はもう放っておけば良かったのに! 人生失敗したね。もっと良い仕事が出来たのに」と言ったのは私の元助手。その言葉が改めて身に染みる。 後悔はしていないが、私は確かに人生を失敗したのかもしれない。まだ雨が降っている。けふも濡れて知らない道を行くわれとわれに声かけてまた歩き出すこゝろつかれて山が海がうつくしすぎる 山頭火
2008年08月25日
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死にそこなつて虫を聴いてゐる 山頭火一週間前にはかしましい蝉の声に包まれていたのに、今日聞こえるのはかそけき秋虫の泣き声である。まだ八月だというのに肌寒く秋雨の様な小糠雨が降っている。一年5ヶ月振りのブログ更新。現在私はやさぐれてホームレス状態。いや、言葉の正しい使い方から言えば、「家出をする」「家出人」が原義の「やさぐれる」という言葉はあっていない。明日まで埼玉県の熊谷近くの知人の家に寄留している。つまり居候。明後日、故郷の九州熊本に向けて出発する。夏の里帰りではない。言わば都落ち。熊本に帰ったらもう二度と東京で生活することは無いと思う。尤も悲壮感は殆どない。飛行機で行くのか新幹線で行くのか、はたまた自転車で行くのか、まだ決めていない。自転車と書くと「?」と思われる方も多いと思う。しかし、私は至極真面目にその選択肢も考えている。要は、道中好きな川釣り(毛鉤釣り)をしながら帰りたいと思っているだけだけど。状況から言えば、とてもそんなノンビリした事等考えられない刹那なのだけど…このみちやいくたりゆきしわれはけふゆくしづけさは死ぬるばかりの水がながれてこの書き出しで始まる種田山頭火の『行乞記』をここ二週間ばかり繰り返し読んでいる。山頭火の覚悟に比べれば私の感慨等甘いものだとしきりに想いながら。この一年色々な事があった。いや、色々な事をやらかした。後継者になってくれと社長に懇願されて役員で入社した会社は去年の年末近くに退社した。いや首になったと言う方が正確だろう。同時期私が連れて行った仲間を初め、私のいたセクションの半数の人間が退社した。その他の人間の辞表も預かっていたのだけど彼らには辞めない方が良いと言って引き止めた。つまり入社早々経営方針をめぐって対立した社長との争いに敗れたのだ。正直に言えば、仕事は楽だった。只精神的に疲れた。挫折と言えば言えるかも知れないけれど、本人にその自覚はあまり無い。辞めた後無気力になったのは事実だし、鬱病状態でもあったけれど、しかし、仕事的には失敗したとは考えていない。ただ何事に対しても意欲が無くなった。別に「死にたい」とは思わなかったけれど、「生きたい」とも思わなくなっていた。私本来の仕事もやりたくなくなっていた。その意味では本当に鬱状態。その精神状況から回復するのに二ヶ月近くかかった。只漫然として為す事なく時を過ごした。食欲は無く、夜も眠れなかった。救ってくれたのは、忙しさから忘れていた読書。例えば小説。例えば歴史の本。例えば民俗学の本。その中に息衝く人間達の「生命」の感覚。それを知る喜び。昔、仕事に疲れ、長期間唯々家で本を読みながら過ごす事が度々あった。朝から晩まで家の者とも殆ど言葉を交わず、寝っ転がって本ばかり読んでいる。そんな時でも、元女房は殆ど文句を言わなかった。収入の無さにも文句も言わず、もっと働けとも殆ど言わなかった。唯黙って生活の下支えをしてくれた。そんな生活を送りながら、仕事の師匠(もう90歳を超えているけど健在)と会うと、先生は「俺達はチエホフの『厄介叔父』やツルゲーネフの『余計者』の様にしか生きられないのだから」と言う。 良い気なものだと感じるかもしれないけれど、先生も私も現実にそんな風にしか生きられないのだから仕方がない。 所詮、生きる事の捉え方が人と違うのかも知れない。私には仕事上も個人的にもかなりの負債がある。去年暮れに退社した会社へ入社する条件が仕事上の負債の肩代わりだった。社長が提案した。それを信じて非常に安い給与設定にもOKした。ところが入社してみたらその約束は反故にされ、入社後数回支払われた会社からの負債への返済は、会社に対する私の借金という形になった。それを月々の給料から更に差し引かれるのだ。納得いかなかったが、返済に対する会社の関与を止めてもらった。すると会社からの給与だけでは、月20万の赤字になった。情けない話だが、月後半の昼飯代にも事欠く有様。私は意外とまめに毎日弁当を作って出勤していたのだけど、月後半は金欠病でそれも出来ない。月末には、砂糖を多めに入れた珈琲を昼飯代わりに飲む事が多く、若い女子社員に「常務はこの頃珈琲ばかり飲んでいますね」と言われる始末。接待費どころか営業経費も殆ど出してもらえず、名ばかりの役員に出るのはため息ばかりの有様だった。そして、まだ退社する前から、住んでいるマンションの家賃も払えなくなつてしまったのだ。退社の時にも色々あって、いよいよ金欠病は極まった。退社から日を置かず、マンションのオーナーとの間に入っている住宅保障の会社から、部屋の使用停止通告と退去勧告が出された。負債の督促も毎日の様に来る。日銭を稼が無ければいけない。それは重々分かっていた。しかし、現実には鬱状態の私は金を得るための勤労意欲が殆ど無かった。と言うか生きたいという気力がまるで無かったのだ。このまま何も食べずに死んでも良いと思っていた。多分このまま死ぬだろうと思っていた。言い訳めいて聞こえるかも知れないが、私の父が常日頃言っていた、金のため、生活の為の仕事を絶対にするなという戒めを思い出していた。私の父は、私が物心つく頃から脳梗塞で倒れるまで、始終、金のための、生活の為の仕事をするな! 只食うためだけの生きるためだけの仕事をするな! 意味のある仕事をしろ! それで無ければ死ぬ方がましだ!と言い続けた。父は研究のために生活を省みず、かなりあった祖父の身上を全て使い尽くしたからそれで良かったかもしれないが、使い尽くされて潰すべき身上のない私にそれを言われても…と、昔よく苦笑いしたもんだ。しかし、人が生きるのは唯食って寝てウンチをする為ではない、物理的に生き永らえるのではなく、精神的な生を全うしなければ、思想哲学、諸々を考えて、そのために生きていかなければ、生きていく意味がない。死んだ方がましだと改めて私は思っている。気力が回復したのは読書と体操と釣りのお蔭。鬱状態になってから二ヶ月目に、以前やっていたトレーニングを再開した。トレーニングと言っても、ストレッチとラジオ体操と木刀の素振りとジョギング。生きる気力が無いといってるくせに、何故に体を鍛えるんだ?と、自分でも笑いながら、徐々に運動量を増やしていった。以前やったことの無かった早春の鯉釣りから始めた今年の釣りは、一番好きな夏場のヤマベの毛鉤釣りまで続き、殆ど一日置きに通って、これが気力回復に一番効果があったかもしれない。実は生きる気力がなくなった原因は、対会社の仕事の事ばかりではない。深く信頼していた人間(同僚・先輩)に裏切られる事が再三あって、それも原因。一番大きな原因は、元『相棒』との事。私は今でも元『相棒』の事が大好きだし、女性として深く愛している。生涯のパートナーと決めていた元『相棒』とは一昨年一旦は別れた。しかし仕事上でも個人的にもグズグズとした腐れ縁が続き、去年末、会社を退社する頃は、付き合いが復活し、殆ど毎日の様に逢っていた。しかし、逢った時も電話でもメールでも、二回に一回はお互いの感情・考えを主張しあい、激しくぶつかってしまう。限りなく元『相棒』の事を好きだとしても、彼女に接するたびに感じてしまうやり切れなさ、絶望感、行き違う想いを起こさせない様にという緊張感、つまりはこんな事では、癒され幸せを感じる時間も空間も永遠にやってこないのではないかという想い。 つまりは彼女との『明日の幸せ』がどうしてもイメージ出来なかった。 例えば、元『相棒』と食卓を囲む幸せや癒しの時間をどうしても想像出来ない。 季節を感じさせる料理、例えば筍と若布の炊きあげの上に山椒の若芽を載せたものを肴に一杯やりながら、穏やかにたわいのない話をしながら笑うという、そんな時間・空間をどうしてもイメージ出来ない。 私の描く幸せのイメージ等そんなたわいないものだ。別れて暮らす息子や元女房とのそんな幸せな明日はイメージ出来ても(何故なら三人で暮らしていた頃は毎日がそんな風だったから)、元『相棒』とのそれはイメージで出来なかった。 実際、元『相棒』と逢う時は外で飲む事が多かったし、彼女もそれが好きだった。部屋で過ごす時は、彼女は一切料理をしなかった。実は私は、外で飲食するのはあまり好きでないし、外から出来合いのものやインスタント食品を買って来て肴にするのも大嫌いだ。 しかし、私が望んだのは、元『相棒』との幸せな明日であって、息子や元女房ととのそれではない。 私は、元『相棒』との幸せの明日のために生きていきたかった。しかし、そんな明日がどうしてもイメージ出来ないと分かった時、もう生きていても仕様がないと思った。 もし生きていくとしても、元『相棒』のいないところで彼女と縁を切って生きていくしかないと思った。二人の仲が以前の様になったと思っていた去年の暮れに、何故私が生きる意欲を失せたのか、恐らく彼女にはその訳が分からなかったと思う。マンションを出た後どうすれば良いのか?私は故郷熊本に帰ろうかなと思った。30年間やってきた仕事を一切辞めて熊本に帰ろうかなと思った。それはひとえに、元『相棒』と精神的にも物理的にも交わらない処で過ごしたかったから。 そして熊本でのより自然との一体感のある生活を望んだから。今年の初め、元『相棒』が仕事帰りに酔っ払って夜中に部屋を訪ねてきた事がある。その時、元『相棒』はタクシーの中に携帯電話を忘れた。次の日の朝、私は自転車で往復3時間かけてタクシー会社まで彼女の携帯電話を取りに行った。私にとってそう行動する事は当たり前のことだった。それは、そうすれば元『相棒』が喜ぶだろうという気持ちもあったけれども、それ以上に、彼女が物を忘れたなら私が取りに行くのは当たり前の事。つまり自分自身が物を忘れた時それを取りに行かねばならないというのと殆ど同じ様な感覚だった。 人を愛するとはそんなものだと思う。 愛する人のために何かをやるのではなく。自分の事の様に当然の事として何かをやる。 同じ頃、私は元『相棒』に対して、「施しはいらない」と言って、彼女を怒らせた。 私が生きる気が失せ、物理的には金欠病で生活が立ち行かなくなって来た頃だ。彼女は何くれと無く援助の手を差し伸べようとしてくれた。愛する誰かの〈為〉に何かをやる。しかしそれは往々にして愛する誰かの為でなく、愛する誰かの〈為〉に『私は(或いは私が)』何かをやるという想いの中にある。過剰な自意識。つまりそれは愛する誰かの為ではなく、結局『私』の愛するという想いを満足させるための、つまりは自分のために何かをやる事が多いのではないか。私はそう思う。本当に愛していたら、あなたのために等という想いはないはずだ。やるのが当たり前、ごく普通の事。自分が生きていくためにやらねばならないと同じ筈なのだ。元『相棒』の好意の中に、私はあなたのためにやっているという想いを感じたから、それを『施し』と表現した。彼女は激しく怒って、せっかく私が好意でやってあげたのにと言う。せっかく〈私〉が○△をしているのにという元『相棒』の想い。そんな行為はいらないと拒絶する私。 私は多分元『相棒』に過大なものを期待しすぎていたのだろう。 元『相棒』と出会い、彼女を愛し、彼女と付き合った事を後悔しているかと問われたら、後悔はしていないと答える。 何故なら、 彼女出会えて幸せだったし、 彼女を愛する事が出来て幸せだったし、 彼女付き合えて幸せだったから。 出会わないより、出会えて良かったに決まっている。 後悔はしていない。 後悔はしていないが… とにかく、これから生きていくとするならば、元『相棒』とは縁の無いところで生きていくしかないと思った。
2008年08月25日
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桜の花の散る下に、小さな村の停車場がある… 何故か私その詩の出だしをそうだと思い込んでいた。 小学校の教科書に載っていた詩である。 40を過ぎて、春が来るたびに、理由は分からないけれど、頻りにその詩の事が想い出された。 しかし、全文は覚えていなかった。 図書館で探しても、ネットで検索しても分からなかった。 『桜の花の…』ではなく『さくらの花の散る下に』で検索すれば分かったのだ。 それは、『花ふぶき』という題の阪本越郎の詩であった。 花ふぶき さくらの花の散る下に、 小さな屋根の駅がある。 白い花びらは散りかかり、 駅の中は、 花びらでいっぱい。 花びらは、男の子のぼうしにも、 せおった荷物の上にも来てとまる。 この村のさくらの花びらをつけたまま、 遠くの町へ行く子もあるんだな、 待合室のベンチの上にも、 白い花びらは散りかかり、 旅人は、花びらの上にこしかけて、 春の山脈をながめている。 私はこの詩が好きだったけれど、4行目からの記憶は違っていた。 この頃毎日、目黒川沿いの桜の下を仕事に通っている。 もうすっかり葉桜になったけれど、それでも昨日までは、穏やかな陽の光の中をハラハラと花びらが散っていた。 ジャケットや鞄に花びらが付く。 そんな川沿いの道を歩きながら、春の憂鬱、気が塞がれた様な毎日を送っている。 私は、若い頃は桜があまり好きではなかった。 故郷のお城の桜は有名だったけれど、それを見てもあまり感動を覚えなかったし、20代の頃、『薄墨の桜』を見ても、それ程の感激はなかった。 何故か30を過ぎてから、桜が好きになった。 結婚してからは妻と2人で、子供が出来てからは3人で、毎年善福寺川緑地公園に花見に行った。 花見と言ってもゆっくりと川沿いの桜の下を歩くだけ。 シートを敷いての飲み食いはしない。 一昨年、妻と息子と3人で川沿いの道を歩きながら花見をしていたところに、元相棒から電話がかかってきた。 私は無性に元相棒に逢いたくなった。 急に仕事が入ったからと嘘をついて、2人を残して元相棒に逢いに行く。 取り残された2人の気持ちはどうだったろう? 特に妻は、私と元相棒との関係に気付いていたので、それが嘘だと分かっていて堪らなかったと思う。 妻はその時もその後も何も言わなかった。 何と惨い事をしたんだうと、ずっと胸が痛んだ。 今でも済まないという気持ちでいっぱいになる。 一年後、元相棒との仲は上手くいかなくなり、妻との離婚も目前だった。 仕事の帰りに、江戸川橋や外堀の夜桜の下を一人でよく歩いた。 淀みに浮かぶ花びらの白さに胸を塞がれた。 自分の所為と分かっていても、一人で見る桜に堪らない孤独を感じた。 今年、息子は中学を卒業した。 卒業式。息子から頼まれてビデオを撮影した。 そのビデオを見て元妻が電話をかけてきた。 話していた元妻が、急に泣き出した。 「パパ有難う、有難う」と言って、電話の向こうで泣いている。 聞けば、式典の画も良かったけれど、その後、何となく撮影した、学校の校庭の画を見て泣いたらしい。 電話しながら、それを思い出したら、また涙が出てきたというのだ。 式典が終わった後、在校生と教諭、保護者がアーチを作って送り出すまでに時間があった。 その待ち時間を使って、息子が暑い日も寒い日も練習に打ち込んだ野球のバッターボックス付近の情景を撮影した。 立てかけてあるトンボ(グランド整備に使う)、その黒く円くなった握り棒付近のup、昼休みに友達と良くやったというバスケのゴール、そして1本の大きな桜の木、その膨らんだ蕾等々を撮影したのだが、その画を見て、息子も元妻も泣いたというのだ。3年前の入学式、満開ののその桜の木を背景に撮られた記念写真。私も元妻も息子も、新しい級友、その父兄達と一緒に並んでそこに立っていた。ヒラヒラと舞い落ちていた薄紅と言うよりは白に近い花びら。 その校庭の桜も、もうすっかり散っているだろう。 一昨年、目黒川沿いの桜の下を元相棒と歩いた。 花見客がいっぱいいた。 しかし不思議と人気を感じず、花の妖しさばかりを感じた。 命の輝く妖艶さばかりを感じた。 私の命も燃えていたのだろう。 妖しく命が燃えるのは、よく夜桜に感じるという。 しかし、昼間の桜の花の一輪一輪に、 その白さに その薄紅色に、 命の燃える時の狂わしさと香しさを感じた。 私はこの桜を来年も彼女と一緒に見る事が出来れば、死んでも良いと思った。 次の年、私は彼女と一緒に桜を見る事はなかった。 桜の花の下を歩く事はなかった。 今年、私が毎日通っているのは、もっと下流の道で、通る人はまばら。 咲く桜よりも散る桜ばかりを感じながら、その下を毎日一人歩いて仕事場に向かった。 そして、花はなくなった。 散る桜のこる桜も散る桜 良寛
2007年04月15日
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友からの手紙に詩が載っていた。 それは蕭然とした私への励ましと、私には読めた。 李白の詩で『奬進酒』である。 君見ずや 黄河の水 天上より来るを 奔流し海に至って 復(ま)た廻(かえ)らず 君見ずや 高堂の明鏡 白髪を悲しむを 朝(あした)には青糸(せいし)の如きも暮れには雪と成る 人生 意を得れば須(すべか)らく歓(かん)を尽くすべし 金樽をして空しく月に対せしむる莫(な)かれ 天 我が材を生ずる 必ず用有り 千金散じ尽くせば 還(また) 復(また)来たらん 羊を烹(に) 牛を宰(さい)して且(しばら)く楽しみを為さん 会(かなら)ず須からく 一飲三百杯なるべし 続けての歌中の一節、 但だ長酔を願いて醒むるを用いず に私は心惹かれる。 除夜、私の心は、 旅館の寒燈 独り眠らず 客心 何事ぞ 転(うた)た悽然 故郷 今夜 千里を思う 霜鬢(そうびん) 明朝 又一年 高適『除夜作』 の想いであった。 白くなった髪の毛は明日また一つ、齢を重ねるのだという想い。 今、励まされた私は、 人生は根蔕(こんてい)無く 飄(ひょう)として陌上(はくじょう)の塵(ちり)の如し 分散し風を逐(お)って転じ 此れ已(すで)に常に身に非(あら)ず 地に落ちて兄弟(けいてい)と為(な)る 何ぞ必ずしも骨肉(こつにく)の親(しん)のみならん 歓(かん)を得て当(まさ)に楽しみを作(な)すべし 斗酒(としゅ) 比隣(ひりん)を聚(あつ)む 盛年(せいねん) 重ねて来たらず 一日(いちじつ) 再び晨(あした)なり難(がた)し 時に及んで当に勉励(べんれい)すべし 歳月(さいげつ)は人を待たず 陶淵明『雑詩二首、其の一』 の心である。 この詩、普通は、 若い元気な年は、再びこないし、一日のうちの朝は、二度とこない。 それ故、学ぶべき時によくつとめ励んで充分勉強しておかなければならない。 歳月は人を待つものではないからいつの間にか、すぎ去ってしまうのである。 と、えらくシャチホコばって四角く四角く訳すのが普通だが、その解釈だと、 歓(かん)を得て当(まさ)に楽しみを作(な)すべし 斗酒(としゅ) 比隣(ひりん)を聚(あつ)む のところが一寸苦しい。 岩波文庫から出ている、松枝茂夫編『中国名詩選』では、 若い時は二度とやって来ないし、一日に二度目の朝はない。 楽しめるときには、せいぜい楽しもう。 時というものは人を待ってくれないぞ。 と訳してある。 勉励とは、楽しみを勉励せよと言っていると解釈しているのだ。 私が時々覗いているサイト、 えごいすとな思想では、 人のイノチは根もヘタもないねん 支えになるようなモンはないねん 道ばたのホコリみたいに 風の吹くままアッチャコッチャ飛んでいくだけや 自分の姿でいるんでさえ出来へんのや この世界に落ちてき仲間やから みんな兄弟みたいなもんや 肉親だけやて限定したない うれしいコトあったら 楽しみつくそやないか ご近所さんを呼ぼうや 酒はいっぱい準備しヨ 若い時間は二度とない 一日に二回の朝もない チャンスはちゃんとつかもうや 時間は待ってくれへんのやから と訳してあった。 霜鬢(そうびん) 又一年。
2007年01月04日
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このところ(昨日を除いて)、毎日ヘベレケに飲んでいる。 どうも情緒不安定。 辛い苦しいと言って酒を飲む。 単なる甘えん坊の現実逃避。 私は飲んだ時は眠ってしまう事が多い。 だから、近頃、飲み屋で寝るわ、電車で寝るわ… それなのに部屋では、ソファーでウトウトと微睡むだけ。 そんな状態で先日また飲んで、そしてその帰りにラーメン屋で寝てしまった。 どうやらラーメンを1杯食べ終わった後、カウンターで一寸眠っていたらしいのだ。 で、眠りから覚めた後、またラーメンを注文してしまった。 「えっ? お客さんさっき1杯食べられましたけど?」 「えっ?」 私は食べたことを忘れていた。 酔って一眠りして記憶が遠い彼方に飛んでいったらしい。 お腹に満腹感もなかった。 「え~っ 嘘でしょう? とにかくもう1杯下さい。」 結局私は、ラーメンを2杯食べて部屋に帰って来た。 で、またソファーでウトウト。 朝起きると、おでこと髪の毛にラーメンの汁が付いて固まっていた。 どういう姿勢で寝ていたのだろう? 食べ終わって、そのまま頭をラーメンの丼に浸けて眠っていたいたのだろうか? アルコール性記憶喪失症と言うよりは、ほとんどアルツハイマー。 私は、呆然としながら再びソファーに腰を下ろした。 もうとうに諦めなければならない事をクヨクヨと悩んで来た。 サッパリと、キッパリと思い切れば良い事に、ウジウジと執着してきた。 その事を、いやその人を、その人との事を忘れるために酒を飲み続けてきた。 私は思う。 時間が早く過ぎてほしい。 いや時間が止まってほしい。 出来る事なら、時間を遡りたい。 あの日に帰りたい。 ラーメン屋での微睡みの様に、この2年半の記憶を消し去りたいと。 私は、その事を心優しい友達にメールで書き送った。 返事が来た。 『…決して冷たい気持ちで言うのではないことをわかって欲しいのですが「時間は戻らないよ。」 戻って欲しい気持ちはわかるけれど、「戻らないのだ!」と心して生きて行くのと、「戻って欲しい」と願いながら日々過ごしていくのでは、最初は少しのズレでも、時が経つに連れて大きな差がでてくると思う。 転機があっても見逃してしまうような気がするのです。 だから、辛いこともわかるし、お酒飲んじゃっても、睡眠不足でもいいから「時間は戻らない」ことだけは、腹に据えて明日を迎えて下さい。 』 涙が出た。 嬉しかった。 その事は良く分かっている。 分かっていながら、まだ過ぎゆく時間の底で、執着心に囚われ、思い悩みながら流されていく自分がいる。 この2年半の時間は、微睡みでも何でもなく、ずっしりと重たく、ドロリと、生々しい現実として今も胸の中にある。
2006年12月23日
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祖父は酒を飲まない人であった。 飲めないではなく、飲まない。 多分そうだったと思う。 何しろ、物心ついてから、祖父が大酒を飲んだところを見た 記憶がない。 父や私の事を考えると、若い頃は、或いは、大酒飲みだっ たのかもしれないけれど、今となっては知る術もない。 とにかく、私が小さかった頃、祖父は医者から、酒を止めら れていて、日本酒の類は一切飲まなかった。 その代わり、毎晩食事の時、小さなカップで2杯だけ、葡萄 酒を飲む事を楽しみにしていた。 あえてワインと呼ばずに葡萄酒と呼ぶ。 その自家製の酒は、ワインと言うより、やはり、当時呼んで いた葡萄酒という呼び名の方がふさわしいと思う。 ついでに言えば、入れる器もワイングラスではなく、小さな ガラスのカップとしか言い様がない。 先程自家製と書いた。 昔も今も、酒税法では、梅酒等、焼酎等につけ込んだ果実 酒を家庭で作る事は許されているが、どぶろくや葡萄酒等 を醸造する事は禁止されている。 つまりその自家製の葡萄酒は、密造酒であった。 毎年秋になると、祖父は、そのささやかな楽しみのために、市場に行って葡萄を買い付けて くる。 でもそれは、決してささやかな量ではなかった。 何しろ1年分の葡萄酒を作るのだ。 幾ら、小さなカップに2杯ずつとは言え、1年分ともなると… いや、それだけではない、孫、つまり私達子供もお相伴にあずかるのだ。 小学校低学年までは、カップに半分、高学年になると1杯だけ、それも毎晩は駄目と厳格に 定められていたのだけれども。 小さいうちから、アルコールを飲ませて大丈夫なのか?って声が聞こえて来そうだけど、 小児科医だった父が許していたので、たいした事なかったのだろう……(と信じたい)。 子供達だけではない、時には祖母や母も飲む。お客様にもお出しする。 御近所や親戚にもにも配る。 祖父には私の父も含めて4人の子供がいたのだけど、同居していた父を除くそれぞれの家に も相当量を配る。 かくして、密造の量はとてもささやかとは言えない量だったのだ。 当時葡萄は、今みたいに段ボール詰めではなかった。木の箱に入れられていた。 それが何十箱も配達されてくる。 それらを洗った後、瓶に漬け込む。 大きな瓶で、焼酎の製造や、漬け物作りに使われた陶器製のものである。 高さが、6~70センチもあったろうか。洗って庭に干してある時、良く隠れん坊をして遊 んだ。つまり、小学1~2年生でもすっぽりと入れる位の大きさ。 その瓶に漬け込むのである。 瓶は10幾つあったと思う。 房から実をバラバラにして瓶に入れる。 それを私達子供と、母や祖母が素足で踏みつぶしていくのだ。 私は、口に葡萄をいっぱいに含んで、つまりムシャムシャ食べながら、夢中になって、踏み つぶしたものだ。 クチャクチャ、ヌルヌル。甘酸っぱい独特の匂いが辺りに漂う。くらくらする位の甘い匂い。 足も、手も、口の周りも真っ赤に染まる。 葡萄を食べ過ぎると、祖父に叱られる。 それでも、食べる事を止めずに仕事を続ける。 その後、何故か大量の砂糖を入れて掻き回し、雑菌が入らない様に、油紙と木の蓋で密封す る。 それを床の下に入れておく。 2~3日すると、甘酸っぱい、一寸とすえた様な匂いがしてくる。 1週間、2週間、その間に匂いはいよいよ増してくる。 時々、蓋を取って試飲する。 ワクワクする様な楽しみ。 何しろ大量の砂糖が入っているから甘いのだ。甘く、酸っぱく、濃厚な味。 かくして、特製密造葡萄酒が出来上がるのだ。 当時の地方都市では、今みたいにワインが多量に売られてはいなかった。 せいぜい赤玉ポートワインが出回っていた位。 我が家の葡萄酒は、あの甘いポートワインでさえも辛口で渋く感じる位に甘かった。 頑固一徹、肥後もっこすを絵に描いた様な祖父は、毎晩、ニコニコではなく、ニコ位には笑 いながら、葡萄酒を2杯飲み続けた。 私も、世の中に、これ位甘く美味しい飲み物はないと思いながらその葡萄酒を飲んでいた。 未だに、あの甘酸っぱい匂いが鼻腔に残っている様な気がする。 そして、その匂いを想い出すと、何故だか切なくなる。 もう45年も前の事である。
2006年12月12日
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昨日も安酒(ジン)の飲み過ぎ。 かつ食い過ぎ。 夕方6時過ぎから、ほぼ3週間振りに買い出しに行く。 食料品&洗剤等の日用品。ついでに散髪にも行く。 本当ならば、それこそサッパリとして、『もの』を買ったという ささやかな満足感が少しは起きるのだろうが、それは全然 無し。 パンパンに詰まった8つの袋を自転車のハンドルにぶら下げ、 部屋に帰って来た。 多摩川を渡る時、黒い川面が鉄橋の灯や街の灯を反射して 冷たく光っていた。 実際に寒かったのだけど、それ以上に心の底が冷え冷えと していた。 普通だったら、帰ってから、1~2週間分のおかずを作り置き しておく。 しかし、昨日は作る気がしなかった。 それに、ここのところ忙しくて外食が多い。 今週も夜が遅そうだし… 取り敢えず、夕食分の材料を取り分け、後は全部冷蔵庫冷凍 庫に放り込む。 テーブルの上で肉や野菜を焼く。それに刺身。後は、小松菜のお浸しとか… 1人なのに、それぞれ2~3人分。 一寸控えようと思っていた酒も杯を重ねる。 間にややこしい仕事の電話。 溜め息をついてソファーに横になる。 そのままウトウト。 11時過ぎに目覚めて片付けもの。 終わって、またソファーに横になり、本棚から引っ張り出してきた候孝賢を特集した昔の雑誌を 読む。 池澤夏樹が書いた「懐かしさを超えて」という文章。 「観客は映画を選ぶが、映画の方もまた観客を選ぶ。 候孝賢の作品を見ていると、自分が彼の作品に選ばれた、なかなか特権的な立場にいる観客 だという気がしてくる。彼の描く世界を最も深く理解するのはもちろん台湾の人々である。…。 しかし、彼らの次にこの世界を懐かしく見ることができるのが、終戦の前後に日本に生まれた ぼくの世代なのだ。 ぼくたちは彼の映像にヨーロッパやアメリカの人々よりもずっと親しく感覚的に共感する。 そのための素地がある。 特権的とはそういうことだ。 …。 候孝賢の世界は懐かしい。だがそういう視点からのみ彼の映画を見たのでは、その価値を充分 に受け止めたことにはならない。彼は映画で歴史を書くという大きな野心を持っており、…。 人はこの様に生きてきたし、政治はこの様に人生に関与した。 芝居は愉快で、博打は楽しく、愛は切なく、運命はきびしく、風景は美しかった。 僕は、特権的な観客という立場を一度捨てるべきなのかもしれない。風俗に対するノスタルジ アなどではなく、ここに人間の普遍的な資質をこそ読みとるべきなのだろう。しかし、そのた めのきっかけとしても、この懐かしさは大いに役に立つのだ。」 私は、一人で食事をしながら、家族との夕餉の団欒を想い出していた。遡って、実家での少年 の頃の団欒を思い浮かべていた。更に、祖父や祖母が生きていた頃の事。 7人家族であった私の家は、祖父が亡くなり、祖母が身罷り、姉は嫁ぎ、父と妹も亡くなった。 母は今一人ホームに暮らす。ホームの近くに姉の家があるのだけれど、姉は東京の人と再婚し て、子供の半分が暮らす故郷と東京を行ったり来たり。 故郷の実家も取り壊されて今は無い。 上京してから結婚するまで、基本的には一人暮らしだったけれど、心の中には常に故郷の家族 がいた。 例えば、上京した頃、夕方住宅街を散歩すると、どこからから聞こえてくるピアノの音、漂っ てくる家庭料理の匂いに、懐かしい家庭の温かさを想い出し、胸が締め付けられる様な感情を 覚えた。そんな事はあったけれど、心にはいつも故郷の家族がいて孤独はあまり感じなかっ た。 結婚して家庭をもうけ、息子も生まれた。 一人が二人になり、三人となった。 今頃は、炬燵で私の好きな鍋料理を囲む事が多かった。 そして今は一人で食事する。 別れた妻や息子は今頃どんな食事をしているのだろうと考える事がある。 高校受験を控え、塾通いの毎日で、息子は慌ただしく一人で食事をする事が多いらしい。 私は、若い頃から小津安二郎の映画が好きであった。 それは、スタイリッシュな映像やリズムのある編集が好きである事以上に、人生の孤独を見据 えたその眼差しが琴線に触れたからだ。 多くの小津作品は家族崩壊の物語だ。 『晩春』の最後、娘を送り出した笠智衆が一人林檎の皮を剥きながら、うとうと眠る場面の残 酷さ、荘厳さ。 実は候孝賢の作品もまた多くが家族崩壊の物語である。 崩壊した果てに感じる懐かしさ。 池澤夏樹が書いている。 「…人間とはそういうものであり、人生とはそういうものだと教えられて育った。そして、 大人になった時には、すべてが変わってしまっていた。」 人は人生の永遠を信じる。愛の永遠を信じる。 必ず終わりがある、別れがあると知っていながら。 例え愛を全うしても、人生に死がある限り、終わりがあり、別れがある。 諦観という言葉がある。 10代から感じていた諦めに似た淡々とした人生に対する想い。 20代、30代と歳月が重なるに従って強くなったその想いに、今も強くとらわれている。 今夜も、酒を飲もうと思う。
2006年12月04日
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『暗い艀(はしけ)』 ポルトガルの国民的ファド歌手アマリア・ロドリゲスが、1954年公開のフランス映画『過去 を持つ愛情』の中で唄い、世界的に大ヒットした曲である。 裏切った妻を殺してしまった男と、英国貴族の夫を殺した女。 リスボンで出会い愛し合った2人の恋の物語。 アマリアがファドハウスで唄う『暗い艀』が悲しい恋の運命を暗示する。 1954年は私の生まれた年。 第2次世界大戦が終わって9年目のこの年、アメリカはビキニ環礁で水爆実験を行った。 東西対決は先鋭さを増し、アジア・アフリカでは独立運動が激化。 ヨーロッパの人々の暮らしには、まだ戦争の跡が色濃く残っていた。 その様な人々の心に、哀しい愛を切々と歌い上げるこの曲はフィットし、ヒットしたので ある。 『暗い艀』という邦題は実は誤訳、或いは邦訳する時に意図的につけた題名で、正しくは 『黒い小舟』。 暗い波間に消えた漁師である夫。その愛する人の面影を追い求める妻の心を歌ったものだ。 しかしそのポルトガル語の歌詞も、実は映画のために新たに作詞し直したもの。 多くの人がファドの名曲と思っているこの曲は、実はファドではなく、原曲はブラジルの曲。 奴隷制時代を題材にした、『黒い母』というのが原曲の題名である。『黒い母』というのは、 アフリカ人の乳母の事。 「黒人の乳母が白人の主の子供を揺りかごであやしている時、自分の子供は農園で鞭に打た れ働かされている。彼女は息子を思って涙を流す。」という内容の曲である。 ファド自体が、大航海時代にポルトガル人達が植民地ブラジルへ連れて行ったアフリカ人 奴隷達の踊り「悲しげな舞曲 Fado」が、その起源だと言われている。 19世紀に入り、植民地支配の栄光の時代が終わり、黄昏の時代を迎えたポルトガル。 その暗い世相の中で、現在歌われるスタイルのファドが、貧しい人々が集まる下町の中から 歌い出され、石畳に響いた。 やがて、あまりにも有名なアマリア・ロドリゲスの出現によって、ファドは世界的な人気を 得る様になったのである。 この曲がヒットした1954年、ポルトガルはエスタド・ノヴォと呼ばれる独裁体制下にあった。 その頃アジア・アフリカでは反植民地独立運動が高まり、インドにあったディウやゴア等の ポルトガル植民地では度々インド人との衝突が繰り返えされていた。 またアフリカのアンゴラ、モザンビーク等の植民地においても独立運動が高まっていた。 これに対し、ポルトガル政府は徹底的な弾圧を行い、植民地維持に必死になっていた。 植民地に派遣され、それを担わされたのがポルトガル国軍の若い兵士達。 泥沼の様な戦いにすさんでいく彼らの心。 その厭世的な心に響いたのだろうか、兵士達の間で、この『暗い艀』がよく唄われた。 海外でファドを聴けば必ず涙すると言われているポルトガル人。 この歌は若い兵士達の郷愁を誘ったのだろう。 アフリカ人奴隷の悲惨さを歌った曲が、題名を変え、歌詞を変え、アフリカ人を弾圧する役割 を担わされた者達の間で流行るという皮肉さ。 歌がヒットしてから20年後の1974年。国軍の青年将校達は「カーネーション革命」と呼ばれる クーデターを起こし、「20世紀最長の独裁体制」に終止符を打った。 その後の変遷を経てポルトガルは民主化の時代を迎えるのである。 皮肉な事に、独裁政権下で国家的歌謡として擁護されていたファドから人々の心は離れ、 国民的なカリスマとして尊敬されていたアマリアでさえも一時は批判の対象となった。 しかしその後30年の時を経て、再び若者を中心にファドは人気を集めだしている。 『暗い艀』は、日本では、岩谷時子の訳詞で岸洋子が唄いヒットした。 愛する事の切なさ、哀しさを歌ったこの名曲。 ファドの女王アマリア・ロドリゲスが歌って大ヒットしたこの歌は実はファドではなかったと いう意外性。 ブラジルで作られ、奴隷制の悲惨さを歌った曲が、アフリカで植民地維持のために戦った兵士 達の間で流行ったという歴史の皮肉。 日本語の題名も実は違っていたというエピソード。 何も知らず、唯暗い情念に縁取られたこの曲を昔から好きだった私の前に、ずっしりとした 歴史の現実がひろがっている。
2006年12月02日
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3年前に亡くなられた鈴木明氏の著書『リリー・マル レーンを聴いたことがありますか』。 『…もう1人の放送局の友人はふしぎな話をきかせて くれた。彼が仕事を兼ねてフィジー島に行った時のこ とだが、その島めぐりの小さな遊覧船の中で、たしか にその歌を聴いたというのである。 その船は定員二十名ぐらいの小さな船で、彼以外は 全部「外人」だったそうだが、皆がそろそろ退屈しか かっている頃、一人のカナダ人が何気なしに口笛を吹 いたのが、このメロディだったのである。 この時奇妙なことが起きた。傍にいたオーストラリ ア人が、この口笛に合わせて英語でこの歌を歌いはじ めたのである。すると、そこに徐々に集まってきた各 国の観光客たちはある者はドイツ語で、またある者は 明らかにスペイン語で、この同じ歌を歌いはじめた。 どういうわけか、これほど「有名らしい」と思われる 曲の名を、音楽好きの彼は、知らなかった。 それは、美しいともふしぎとも思える、ある異様な光 景であった。世界の政治や激動から全く隔絶したと思 われる南海の島で、同じメロディを、それぞれの国語 で、皆がくり返しくり返し合唱し、ただ、最後の「リ リー・マルレーン」のリフレーンだけは、同じ歌詞で あった。 それはあたかも、国も習慣も考えもそれぞれ違う人た ちが、「リリー・マルレーン」というただの一言で、それぞれが結び合おうと必死に叫び合って いるようでもあった。…』 ドイツ出身でハリウッドで活躍したマレーネ・ディートリッヒが歌って一躍有名になった『リリ ー・マルレーン』。 第二次世界大戦中、アメリカ、ドイツ、敵味方の別なく、戦場の兵士の口から口へと歌い継がれ ていった曲である。 1968年8月発売されたビートルズの『ヘイ・ジュード』。 ポール・マッカートニーの作。 ポールが、ジョン・レノンと妻が離婚した時、落ちこんでいたレノンの息子ジュリアンのために 作った曲である。 「ジュード、そんなにくよくよするなよ。悲しい歌でも 気分ひとつで明るくなるものだよ」 同じ8月、ソビエト軍がチェコに侵攻した。 いわゆる「プラハの春」に対する弾圧の始まりである。 「強く生きて」というメッセージを込めて作られた『ヘイ・ジュード』。 チェコの若い女性歌手マルタ・クビショバはこの歌を抵抗の歌として、チェコ語バージョンで歌 う。 やがて『ヘイ・ジュード』は、プロテスト・ソングとしてチェコ中に広まり、ソ連に対する民衆 の抵抗運動を支える歌となる。 『ヘイ・ジュード』は、「プラハの春」崩壊後のチェコの人々には特別の意味を持つ歌として 歌い継がれたのだ。 それから21年後。1989年のビロード革命の時に、この歌は再び民衆によって高らかに歌われた。 チェコ語版の歌詞では、「ジュード」は女性の名前になっているそうだ。 この『ヘイ・ジュード』にまつわるエピソードは、NHKの番組『世紀を刻んだ歌』で日本に紹 介された。 今仕事で、この『リリー・マルレーン』や『ヘイ・ジュード』の様に、知られざるドラマやエピ ソード、時代との深い関わりのある曲の事を調べている。 しかし、なかなかそんな曲はない。 そんなエピソードのある曲の事をどなたか御存知ないだろうか? 取り敢えず、私は以前から大好きであった、ポルトガルの歌手アマリア・ロドリゲスが唄った 『暗い艀(はしけ)』という曲について調べている。 ポルトガルの国民的ファド歌手アマリア・ロドリゲスが、1954年公開のフランス映画『過去を 持つ愛情』の中で唄い、世界的にヒットしたこの曲。 実はポルトガルのファドではなく、原曲はブラジルの曲。 『暗いはしけ』というのは実は誤訳(?)で、『黒い小舟』が正しいらしい。 暗い波間に消えた漁師である夫、その愛する人の面影を追い求める妻の心を歌ったものだ そうだ。 しかしその歌詞も、実は映画のために詩人のモーラン=D.J.フェレイラが新たに作詞したもの。 元々は、奴隷制時代を題材にしたブラジル生まれの曲で、『黒い母』というのが原曲の題名ら しい。 しかし、アマリアの歌を聴くと、なんとなく港を思い浮かべる。 小舟に乗って帰ってくる恋人を待つ黒い服を着た女。 何となくそんな情景を思い浮かべてしまうのだ。 今の私の心に響く歌である。 暗い情念。 霧のかかった情景。 モノトーンの色彩。 私は、昨晩、そんな仕事とも個人的興味とも判別しがたい事の資料を調べながら夜をあかした。 強い酒と濃い珈琲を飲みながら。
2006年11月27日
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先々週、仕事で群馬の山奥にいた。 一寸遅い紅葉と初雪の跡。澄んだ空気と蒼い空。天気には恵まれた。 1日、猿ヶ京の近くの一軒宿に泊まった。 湯治湯として知られたところ。 宿に向かう途中、紅や黄色に彩なした木々の向こうに、冠雪と言うよりは全山雪で白く光る 谷川岳が望まれた。 秋の陽に輝く、紅、黄、白。 澄んだ空気の中で見る鮮やかな色に被われたその景色が、心に直接飛び込んで来る。 仕事は、毎日朝の9時から、夜の10時過ぎまで。 それから、飯を食べて、酒を飲む。 その後、温泉に浸かる。 仕事で御一緒した中に、私より一寸年上の方がいて、初めて遇った方だけど妙に気があった。 食事の後、彼と飲んで、それから連れ立って、露天風呂に入る。 その宿の温泉は、『ぬる湯の名湯』として知られている。 肩まで浸かっていなければ、寒い位。 満天の星を眺めながら、トロトロと温泉に浸り続ける。 谷川の音とかけ湯の音だけが響く。 岩を枕にうつらうつら。 こうして、2時間以上もお湯に浸かるというか、お湯の中で眠っていた。 ぬる湯だから、汗が噴き出すわけでもない。 元々の源泉の温度が39.5度。 露天風呂では、夜の冷気に冷やされて、お湯の温度は、おそらくは人肌よりも一寸温かい 程度。 そんなお湯の中で、ゆっくりと手足を伸ばす。 汗はかかないけれど、体の中に溜まった、色々なものが、静かにゆっくりと体の外に 出ていく様に感じられる。 心の中に澱の様に溜まり、固まっていたものが少しずつ溶けていく。 こうして、私は上州の山奥で5日間を過ごした。 東京に帰る時、若い仕事仲間が、私の平均睡眠時間は2時間半位だったと言う。 それなのに元気過ぎると彼はぼやいていた。 一ヶ所に留まるのではなく、山奥を経巡るという感じだったけれど、大半が携帯電話の 電波の届かない処。 その事も幸いした。 他の仕事や、色々と心を悩ます連絡やら雑音から逃れられて、一息つけたという感じ。 実は料金の振込を忘れていた私の携帯は、帰る1日前から不通になっていたのだけど その事も気付かなかった。 物理的には慌ただしく忙しい仕事だったけれど、私は少し元気になって東京に帰ってきた。 東京では、私が出張していた事を知らない仕事先で、私が行方不明になったと大騒ぎに なっていたらしい。 部屋の電話は、留守電とFAXの山。 PCにも読みたくない仕事メールがこれまた山の様に届いていた。
2006年11月26日
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アメリカ生まれの日本語詩人アーサー・ビナードが、今月新しい絵本を出した。 『はらのなかのはらっぱで』(フローベ館・刊) この絵本は九州国立博物館が収集展示している『針聞書』を基に書かれたもの。 この『針聞書』は、戦国時代、織田信長が活躍した頃(1568年)に書かれた鍼灸治療の 解説を中心にした本。 全体が4つの部門で構成されていて、その一つが『(腹の)虫の図』。 当時の日本人が、お腹の中で病気を起こすと考えていた63の虫の図、そしてその虫によって 引き起こされた病気の治療法が書いてある。 『肝癪持ち』『腹の虫が治まらない』等、今でも使われている言葉の基になった想像上の 虫達。 監修の長野仁氏が書いている通り、顕微鏡のない時代、日本人の想像力が生み出した 戦国時代のバイキンマン達だ。 アメリカ生まれのアーサーが、何故この『虫の図』に興味を持ったのか? 時間に追われ、自分自身を大事にする生き方が出来ないと、未だに携帯電話を持っていない アーサー。 科学的・客観的真実も大事だけど、主観的な想像力による真実も大事だと、彼は考えている のではないのか。 私は『肝癪持ち』だし、『腹の虫が治まらない』事ばかりだ。 そしてそれは、それ以外では表現の仕様がない。 私の腹の中では今でも沢山の虫達が蠢いている。 大人のクセに『肝の虫』だっている。 しかし、私の胸に巣食う虫は、腹の虫達以上に元気が良くて、留まる事を知らずに 暴れまわっている様だ。 『愛』を食らい、より大きな『愛』と『憎しみ』を吐き出している。 私は胸の虫に苦しめられている。
2006年11月25日
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ブログを閉鎖するか続けるかどうか迷っていると話し、決断の猶予を願ってから、長い時間が 経ってしまった。 もう、秋が終わろうとしている。 未だクヨクヨ悩んでいる訳ではないけれど、正直言えば疲れている。 猶予願いのブログを書いた8月の終わりから10月半ばにかけて、ここ10年で最も徹夜を 重ねる日々を過ごした。 仕事に終われる日々。 徹夜か、そうでなければ酒を飲み明かす夜が続き、体力的にも精神的にもボロボロ状態。 しかし、ここに来て小康状態と言おうか、周りからは妙に元気だと言われる日が続いている。 でも、励ましの手紙をくれたある方にも述べたのだけど、自分が感情の起伏に乏しくなって きている、日々の生活に必要な感覚や感情が麻痺してきていることに、数日前に気付いた。 『不感症』と言うよりは『無感症』。 鏡に映る姿は、一回り小さくなった様に自分では感じる。 お腹も大分へこんでしまって、もうポンポコと鳴らないのではないか。 髪の毛は抜け落ち、残った髪や眉や髭はすっかり白くなってきた。 本当にもう私のお腹はポンポコ鳴らないのか? 時々、間歇的に、熱い感情と言うよりは、激した怒りや、どうしようもない哀しみが噴出して くる。 それらは激し過ぎて音を鳴らすと言うよりは、爆発音に近く、周りに迷惑を与えるだけ。 無感覚、無感動、反動的な感情の爆発。 人に伝えるべき事は何もない。 それでも少しずつ、また日々の事、自分の想いを書いていこうかとも考えている。 前の様には書けないかも知れないけれど少しずつ少しずつ。 数日前、ブログの友達が、このブログの日記を書けないならば、場所を変えてはと、mixiに 誘ってくれた。 嬉しく思い登録してサイトを一つ作った。 でも先ずは、ほっておいて、多くの人に心配をかけ、声をかけて頂きながら、御礼と謝罪も していないこのブログをきちんと再開したいと思う。 mixiに限らず、他の場所でと声をかけてくれる方もあったけれど、恥をかき、迷惑をかけ、 悶々とした姿を晒し続けたこの場所こそ、私の想いにもならない想いを発信する場所として 相応しいと思う。 また、少しずつ少しずつ書いていきたいと思う。 宜しくお願いします。 心配して、声をかけていただいた方には、またそれぞれに御礼に参りたいと思っています。
2006年11月23日
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7月23日、私はこのブログを1ヶ月後に閉鎖する旨を皆様にお知らせした。 その後、多くの方から、心配、励ましの書き込みやメールを頂いた。 本当に有り難く、唯々頭の下がる想いである。 同時に多くの方にご迷惑もかけてしまった。 一番嫌な思いをしたのは、元相棒であったと思う。 彼女の書き込みは、私の理不尽な文章等に対する、 止むに止まれぬ想いからであった。 更に、その前提となった彼女に対する私の理不尽な行動への抗議であった。 その書き込みを、ブログとして掲載したのは、 更なる彼女への、酷い仕打ちであったと、今反省している。 事情を知らない多くの方は、掲載された元相棒の書き込みを読んで、 彼女への印象を悪くされたのではないだろうか。 しかし実際は、私が、彼女や私の家族等周りの人間に 多大の迷惑と被害を与えたというのが実体である。 改めて詫びたいと思う。 さて、多くの方から、励ましと同時に貴重なアドバイスを頂いた。 それらを、何回も何回も読ませて頂き、この1ヶ月色々と考えた。 心が乱れた。 私は1ヶ月前に、 このブログを書く事により、 『私は励まされ、癒され、ある意味蘇生させて頂いた。 1人になると、虚ろな気持ちで仕事も出来ず、なす事なく過ごしていた時間。 酒で紛らわしていた1人の時間。 その時間が、ブログを再開してから、徐々に前向きな時間へと変わっていった。 この歳になって、自らの感情を制御出来ない情けなさ。 自分でもみっともない生き方だと思っている。 その今の自分を書き出す事によって、曝す事によって、ある種の覚悟も定まってきた。』 と書いた。 その想いは今も変わらない。 1ヶ月前にブログを閉鎖すると宣言したが、続けたいという想いも半ばある。 しかし、私が書く事によって、人に迷惑をかけてしまった以上、 続けてはいけないという想いもある。 私の中では、23日が過ぎた今でも迷っている。 そして、まだブログを閉鎖せずズルズルと時間だけが過ぎている。 今暫く時間を下さい。 こうお願いして許してもらえるだろうか。
2006年08月26日
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私が1年振りにブログを書き始めてから1ヶ月が経った。 その間に、多くの人達との交流が出来た。 1年前からのお仲間。新しく知り合った人々。 私は励まされ、癒され、ある意味蘇生させて頂いた。 1人になると、虚ろな気持ちで仕事も出来ず、なす事なく過ごしていた時間。 酒で紛らわしていた1人の時間。 その時間が、ブログを再開してから、徐々に前向きな時間へと変わっていった。 この歳になって、自らの感情を制御出来ない情けなさ。 自分でもみっともない生き方だと思っている。 その今の自分を書き出す事によって、曝す事によって、ある種の覚悟も定まってきた。 訪問して頂いた方、色々な想いを、意見を、寄せて頂いた方々に、本当に感謝している。 ありがとうございました。 さて、それらの方々の厚情を無に帰す様で心苦しいのだけど、思うところあって、 今日で日記を書くのを止めようと思う。 この御礼を最後の書き込みとし、1ヶ月後に閉鎖する事を決意した。 色々と心配し、励まして頂いた方々には本当に申し訳なく思っている。 ゴメンなさい。 1ヶ月前ブログを再開した時、ある若い方からお叱りを受けた。 あなたが1年前に書くのを休止した後、大勢の方が心配したのに、再開後、それらの人に 対して、感謝と御礼とお詫びをきちんとしていないのではないかと言われたのである。 確かにその通りだと思う。 そして、その非礼を再び繰り返そうとしている。 本当に申し訳なく、唯々頭を下げるしかない。 どうか私の我が儘を許してほしい。 いつの日にかまた、交流出来る事を信じて筆を置く。 天候不順の折り、どうか御自愛下さい。 雨、雨、雨、まこと思ひに勞れゐきよくぞ降り來しあはれ闇を打つ (牧水)
2006年07月23日
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東京の大学の助教授をしている米国人と話す。 日本文学。特に戦中の文学について研究している。 日本とアメリカの戦時文学について聞く。 彼曰く、「負けた方の文学は屈折があって面白いが、勝った 方の文学は、単純で底が浅く、あまり面白くない。」 彼は、アメリカはデープサウスのアラバマ出身。 いまだに黒人差別が一番残っているところだと自嘲的に 話す。 『アラバマ物語』…と私が言うと、端正な顔を一寸歪めなが ら、隣のジョージア州に生まれたキング牧師の話をする。 日本の作家で誰が好きかと尋ねると、一寸考えて、含羞の 表情で、やっぱり谷崎かな…と答える。 私も谷崎が大好きだ。 嬉しくなって、アメリカには谷崎的な作家はいるかなと 更に尋ねる。 それって『変態的』なって事? と彼が聞き返す。 そうじゃなくって、必ずしも道徳的じゃない事を書きながら、文豪と称せられたという意味でと 私が言うと、暫く考えた彼は、フォークナーに似ているかなと言う。 話はそれから、フォークナーと中上建二の比較になり更に発展(脱線?)した。 谷崎と答え、『変態的』と話した時の彼は、日頃の毅然とした表情が消え、少し赤味さえ帯び ていた。 谷崎の『痴人の愛』。 男には、多かれ少なかれ、ナオミ的なものに惹かれるところがあると思う。 ナオミの様に若い女でなくともよい。 ナオミ的性格に惹かれるのである。 そして、多くの女性にナオミ的なものがあると思う。 私にもある。 息子が小学4年の頃、聞いた事がある。 「お前どんな女の子が好きなの?」 「えっ? ウーン… 美人で、性格がよくって…」 息子は考え考え話す。 「…頭が良くて…」 「ふんふん…」 「あっ、忘れてた!」 「えっ? 何?」 息子は真顔で答える。 「やっぱり、女の子は、何てったって、気が強くなくっちゃ!!」 「……」 やっぱり息子は、私に似ていると思った。
2006年07月22日
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たらやんさんに紹介されてRI-RI 1978さんのブログを訪問する。 彼女が作った『オルゴール・キス』を聴く。 涙が出た。 私の我が儘から、今は別れて暮らす妻と息子。 今年の春、彼らが家を出ていく一週間位前、中学3年の息子と炬燵で昼寝をしていた。 横で寝ていた息子が無意識に手を伸ばしてきて、私の耳たぶをそっと掴み、撫でる様に指を 動かした。 赤ちゃんの頃からの癖。 私や妻の耳たぶに触ると安心して眠れるみたいなのだ。 その時もすやすやと気持ち良さそうに、まるで3歳4歳の子供の様な表情で眠っていた。 その日の夜半、息子は悪夢にうなされ、大声を出して目を覚ました。 どんな夢を見たのかは知らない。 私が家の者と別れる一週間前。 『オルゴール・キス』 涙が止まらない。
2006年07月18日
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すっかり忘れていたけれど、今日は海の日。 私は山も好きだけど、海も大好き。 とにかく泳ぐ事、潜る事が大好きなのだ。 潜ると言っても、単なる素潜り。 本当は本格的なスキューバーダイビングをしたかったのだけど、以前右耳の鼓膜を破ったことが あり、その後怖くて諦めた。 しかし、そんなに好きな海なのにここ数年まともに行っていない。 行けば行ったで、例えば去年ブログに書いた様な珍談(事件?)を引き起こしかねないのだ けれど… そこで、今日は海での閑話、失敗談を2つばかし。 藍よりも青い天草の海。 岩場と言っても荒々しく波が打ち寄せる辺りではなく、波穏やかな内海で、私は義兄と一緒に 素潜りを楽しんでいた。25年位前の事である。 澄み切った海の中、珊瑚の前後ろには色鮮やかな魚達が泳いでいて実に気持ちがよい。 但し時期が8月も下旬の頃で、波間にはクラゲがプカプカと浮かんでいた。 丁度息継ぎに海面まで上がった時、私はそのクラゲに左腕を刺された。猛烈な痛さが走る。 私は慌てて岩場に上がり、我が情けなき息子を水着の横から取り出した。 その頃はまだ、クラゲなどに刺されたら、小水をかければ良いと、つまり小水のアンモニアが 腫れに効くと信じられていたのだ。 私は岩場の端で、伸ばした左手に向かって放水を開始した。 左腕にかけられた小水はそのまま海に。 泡立つ波打ち際であったけれど、明らかに海水のそれとは違う白い泡が そのアタリに漂い出し た。 そこに、海の中から、ひょこっと義兄が顔を出したのだ。 丁度その漂っている白い泡の真ん中アタリに。 兄は立ち泳ぎしながら、のんびりした表情で、「どぎゃんか、したとー?(どうかしたの?)」と 私に聞く。 「い、いや…」 そのまま暫く、兄はニコニコと笑いながら、私は引きつった笑い顔でお互いを見つめていた。 丹波の海の蒼さ、美しさは例えるものもない位であった。 たまらず、小舟から飛び込んで、海の中を泳ぐ。 夏の暑さを忘れ、実に爽快。 その気持ち良さに、休む事もせず泳ぎ続けて、さすがに疲れた。 立ち泳ぎしながら、足で探りを入れると、丁度40センチ位後方で岩が盛り上がってきていて、 顔を出したまま立てる位の深さになっている。 私は、後ろに下がり、岩の上に立った。 立ったと同時に- 「ぎゃー!」 右足の裏に猛烈な痛みを感じた。 慌てて足を海面に上げる。 上げたところで、右足の裏についていた黒い固まりがポトリと海の中に落ちる。 黒い固まり? ウニであった。 足の裏を見ると、ウニの黒いトゲが数十本突き刺さっている。 突き刺さったまま皮膚近くで折れているのだ。 私は慌てて小舟に戻り、海岸に向かった。 海岸は白砂の続く綺麗な海岸であるけれど、町からは車で30分位の距離。 丁度漁師さんが網の手入れをしていた。 一緒に行っていた後輩が、手入れに使う太い針を借りてきて、応急処置。 日頃の恨みを晴らさんとばかり、手加減せず、針をぶすりぶすりと突き立てて、ウニのトゲを 取り除いていく。 随分取ったけれど、もうシロウトでは無理と分かり、20本余りを残して、車で町の病院に向か う。 病院に着いた頃には、足は赤く腫れ上がり、熱で震えが出てきた。 結局病院で医者に残り19本を抜いてもらう。 「もう大丈夫です。レントゲンで調べても、もうトゲはありませんから」 医者にそう言われて安心したけれど、晴れ上がった足では歩く事さえ出来ない状態だった。 東京に帰ってきてからも、腫れはひいたけれど、歩くと足の裏が痛い。 「すぐには無理か…」 そう思ったけれど、足の痛みはいつまでも続いた。 「??」 どうして痛みがひかないのか? 特に親指の先と付け根のアタリが、歩くたびに痛い。 2ヶ月半位経った頃。親指の先の皮膚の下が黒くなっている事に気付いた。 もしかして? 私は、針やら、とげ抜きやら、カッターやらを使って、その辺りに『穴』を掘ってみた。 しかし、何も出てこない。 いや、でも、ヒョッとして… 私は2週間掘り続けた。 こうして『事件』から3ヶ月後、親指の先から、突然トゲの残り1本が姿を現した。 直径1ミリ、長さ6ミリのトゲであった 何てこった! あのヤブめ! 私は心の中で思い切り悪態をついていた。 でもこれで一安心。今日から颯爽と歩ける。とにかく私は嬉しかった。 ところが… 颯爽と歩けなかったのである。 親指の付け根の辺りに、歩く時時々刺すような痛みが走るのだ。 しかしそこには、親指の先に見られた様な黒い影はなかった。 でも私は確信していた。 間違いない! それから3ヶ月後、最後の一本が、まるでミサイルサイトからミサイルが飛び出す様に、 ニョキッと姿を現した。 本当に皮膚と直角に皮を破る様に、グイと出てきたのである。 今度のは長さ8ミリもあった。 事件から半年後、既に年を越していた。
2006年07月17日
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私は眠りたいと思っていた。 このままずっと眠りたいと思っていた。 しかし眠れない。 仕方なく酒を飲む。 酒を飲んで、酔って眠ろうと考える。 数時間の微睡み。 目覚めようする時、痺れる様に痛い頭の奥で、 目覚めるな! 目覚めるな! 目覚めさせないでくれ! と私は叫んでいる。 しかし確実に目覚める。 目覚めると、現実という時のきざはしは、これもまた確実に一段上がっている。 ゆっくり起きあがり、飲み残しの酒を飲む。 苦く感じながら一気に飲む。 そんな毎日をついこないだまで送っていた。 『哀しみの朝』と題されたangel's tailさんの詩 眠れずに 指を数えて 待つ朝の 冷たい空気に 痛む傷 白々と 明けいく夜を 指に止め 涙で描く 過去の夢 とりとめの ないほど哀しい この朝に 心は失せて 時ここにあらず 気を紛らわす為に仕事を入れる。 勿論現実の生活の為でもある。 そして確かに、忙しさが哀しみを忘れさせてくれる ところが、今度はその仕事が自分を苦しめる。 大勢の仲間と仕事をこなしていく時は問題ない。 一人になった時、心の中は、忘れた筈の哀しみに、相も変わらず満たされている事に 気付く。 たちまちやる気が失せ、全く仕事が処理出来なくなる。遅々として進まなくなる。 しかし現実という時のきざはしは、確実に一段一段上がっていく。待ってくれない。 かくして、 私はまた眠れない夜を過ごす事となる。 私は眠りたいと思っているのに、今度は仕事という現実が私を眠らせてくれない。
2006年07月14日
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Papillon1204さんのブログで『言葉責め占い』というのが紹介されていた。たらやんさんや、ネコ0283さんとかが早速やって楽しんでいる。私もやってみた。やってみて、ハタと困った。困ったのは「あなたの好きな食べ物は?」という質問。私は食いしん坊で、好き嫌いがない。食べるものは何でも大好き。和食、洋食、中華にエスニック。本当に大好きなのだ。素材も魚に肉、野菜、果物…、これまた何でも大好き。そこで仕方がない。好きな食べ物を変えて何回かやってみた。『肉』が好きと入れた時は、甘い言葉に酔うマゾタイプ。 甘い言葉に酔うマゾのあなたは、好きなことに対しては異常な集中力を発揮します。けど、それ以外のことは全然ダメです。自己中心的な部分があり目立つのが大好きです。争いごとは嫌いなので、自分の意見を押しつけるようなことはしません。目立つ色が好きです。恋愛について:熱しやすく冷めやすい傾向があります。特に努力をしていなくても不思議とモテます。恋愛中は相手を振り回す傾向があります。失恋すると落ち込みが激しいですが、次の恋が始まるとあっという間に立ち直ります。愛するよりは愛されたいタイプです。 好きな言葉責めは: 「ご主人様が喜んでくださるなら…」 『魚』の時は、罵倒されるのが好きなマゾタイプ。 罵倒されるのが好きなマゾのあなたは、人を見る目が確かです。どんな人に付いていけば得かを嗅ぎ分ける能力を持っています。一見いい人だと思われますが、心の底では人を押しのけてでものし上がって行こうという野心を持っています。参謀タイプで、自分が浮ノ出るよりは、裏で糸を引くことが多いです。恋愛について:強引なアプローチに弱いです。恥ずかしがり屋なので自分からアプローチすることは苦手ですが、一度好きになるととことんまでのめり込んでしまいます。普段は相手に対して傲慢な態度をとっていますが、振られてしまうことへの危機感を常に持っています。 好きな言葉責めは: 「めちゃくちゃにしてください…」 『果物』と入れた時は、 露出マゾタイプ。 露出マゾのあなたは、情報に敏感で好奇心が旺盛です。旅行が好きで、死ぬまでに必ず行っておきたい場所が世界中にあります。対人関係が巧みで、初めて会った人に不快な印象を与えることはほとんどありません。周りの意見に流されることが多く、すぐその気になってしまいます。押しの強さに欠けます。なぞなぞが得意です。恋愛について:ムードに弱く、恋に恋するタイプです。最初はそれほど好きでは無かった相手に押し切られて恋愛が始まることも多いです。嫌われたくない気持ちが強いので、自分を強く押し出すことができません。友達以上恋人未満の微妙な関係になった経験もあります。 好きな言葉責めは: 「もっと・・・たくさんください・・・」 最後に『豆腐』と入れたら、『魚』の時と同じ結果が出た。好きな言葉だけが違っていた。好きな言葉責めは: 「恥ずかしいです、ご主人様・・・」ウーン… どれも当たっている様な、いない様な…自分の事がよく分からない…ホントに分からない。恥ずかしいです、50歳にもなって… あっ51歳にもなって。…51の男が占いをやっているのは、もっと恥ずかしい…てか…
2006年07月14日
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世の中の女性達は、いや一部のブログ仲間の女性達は、『お願い・・・・・いれて・・・』ネタで 大いに盛り上がっているらしい。 みんな元気だな~… 今の私にはその話題は一寸生々しすぎてついていけない。 いえ、Hな話は大好きなのだけど、ついていけないのはそのシチュエーション。 『携帯の天ぷら』みたいな素敵な言い方をされたらどれ程救いがあったろう…。 家と仕事場を往復するたびに、相棒と家の者から出される『お願い・・・・・いれて・・・』に応え 切れず、こじれにこじれ、そして誰もいなくなった今の私は、馬鹿みたいにマジに感じてしまう のだ。 全く情けない。 でもたらやんさんが紹介しているミニmickyさんのブログに載っているeroticななぞなぞにしろ、 Papillon1204さんの『お願い・・・・・いれて・・・』にしろ、言葉遊びって楽しいな。 一寸恥ずかしくドキドキしながら読み、クスクスしながら考えてしまう。 私の話は、もっと直截的な品のない話。 東南アジアのある地域では、俗語で男性自身ををコ×、女性自身をプ〇とは言うらしい。 私は彼の地に愛すべき友達が一人いる。 彼は昔、日本企業で研修するため1年間日本に滞在していた。その間、私の故郷の親戚の 家にホームステイしていた。 それで覚えた日本語は九州弁。 「そぎゃんね~。ほんなこて? ほんなこて?」 彼は覚えたての九州弁を、大いに楽しみながら使った。 だって、『ほんなこて?』の後半部は… そう、そうなんです。 彼が東京に来た時、一緒に電車に乗っていて、『ほんなこて?』を連発されたのには本当に 閉口した。 彼をホームステイさせた親戚は、数年後、仕事で東南アジアを訪れ、彼の実家に泊まった。 暑かったので、やはり日本に留学した事があり日本語の分かる彼の姉に、扇風機を貸して ほしいと頼んだ。そうしたら、いきなりはたかれたとの事。 どうやら「セン…を貸して…」のセンの音が小さくて聞こえなかったらしい。 …… いやはや言葉を使うのは難しい…。 彼が東京に来た時、一緒にスーパーに買い出しに行った。 飲み物売り場で、彼はいきなり若い女性店員に英語で質問した。 「プ〇ジュースありませんか?」 いきなり英語で質問されたその店員は、目を白黒させながら固まった。 私だってビックリした。 「何て事を!」 困った店員は、「彼は何と言っているのです」と私に話をふってきた。 「えっ? いやーぁ…」 今度は私の方が固まってしまう。 そんな私を見て、彼はおかしそうに笑いながら、 「お前、日本語に訳せ」と言う。 「オイオイ!」 あっけにとられる私に、彼はたたみかける様にオックスフォード仕込みの英語でまくし立てた。 (彼は日本に来る前、英国に留学していた) 仕方なく私はしどろもどろに日本語に訳す。 訳も何もあったものじゃないんだけど… 「えー、あのー、彼は、プ〇のジュースありませんかって聞いているみたいなんだけど…」 「プ〇? プ〇って何ですか? 果物?」 今度は彼女の質問を英語に訳す。いや訳すフリをする。(だって私は、英語なんてほとんど話 せない) また彼が英語で滔々とまくし立てる。 「えー、えーと… プ〇は果物と言えば言えるそうで… 甘い匂いがして…」 「プ〇? 聞いたことないなー…」 首を傾げる店員。 汗を吹き出しながら益々私はしどろもどろになる。 「と言うか果物と言うよりは木の実? 木の実みたいなものもついていると言った方が 正確みたいで… 何だか二股に別れた木の、その別れた所にその実がついていて、そこらから液が出るのを 集めて…」 私の説明を聞いて、ますます分からなくなった店員が質問する。 「それってどこの国にも生えているんですか? 栽培されているんですか?」 彼が答える。 「私の国ではごく一般的にあります。 日本にもあると思います。 現に私の目の前にも…」 そこまで聞いて、私は彼を睨みつけた。 「全く!」 今で言うセクハラである。 「あのー、暫くお待ち下さい。今、英語の出来る者を読んでまいりますので…」 「いえ、良いんです。もう良いんです。 彼もそれ程、ほしがっていませんので…」 「ボクは、ホシインダケド…」 「もう!」 私は彼を押す様にしてその場から退散した。
2006年07月13日
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今から30年近く前の話である。 河原を歩いていて、大きな橋の下にさしかかった。 「ブ、ブ、ブ…」 小さな鳴き声ではあるが、確かに豚の鳴き声が聞こえる。 「?」 立ち止まってキョロキョロと辺りを見回す。 しかし豚らしきものは… 勿論いなかった。 何だ空耳かと再び歩き始めようとすると、また、 「ブ、ブ、ブ…」 確かに鳴き声がする。 今度はさっきよりは丁寧に辺りに目をやる。 ガサガサガサ… 丈の高い草が茂っている方で何かが揺れている。 私はそちらに近付く。 揺れていたのは草の間に置かれていた和菓子の箱。 蓋を開けてみると、4匹の豚が入っていた。 いや豚ではなく犬の赤ちゃんだったのだけど、白い皮にほとんど毛が生えておらず、耳は大き く、胴体に比べて足が極端に短く細い。とても犬の子とは思えなかった。 体長は15センチもない位。 生まれて間もなくみたいで、目はほとんど開いてない状態。 狭い箱に隙間もなく押し込められて、クンクンと言うよりはブーブー泣いている。 ほとんど青息吐息の様子で、ふたを開けても立ち上がろうとしない。出来ない。 誰かが捨てたのだ。 何てひどい事を! と思うと同時に、さてどうしようと途方に暮れた。 当時私は、そこから電車で1時間以上離れた街の小さなアパートで一人暮らしだった。 とても飼える状況じゃない。 一緒にいた何人かの者に聞いても解決策がない。 保健所に届けようと言う者がおり、それじゃあ殺されると別の者が反対する。 お前の家は広いから飼えるんじゃないかと言えば、家では既に猫を飼っていてとても無理だと 答える。 仕方がないので私が部屋に連れ帰る事にした。 大きな紙袋を買い、タオルを敷いてそこに4匹を寝かせ、アパートまで運んだ。 運んだのは良いけれど、さて困った。 実家では小さい頃から犬を飼っていたけど、ほとんどが母乳で育てた後、牛乳や離乳食でも 大丈夫な時期になって貰ってきていた。こんな生まれたての犬の育て方は分からない。 ミルクはどうすれば良いんだろう? 取り敢えず薬局に行って人間の赤ちゃん用のミルクと哺乳瓶を買ってくる。 部屋は4畳半一間の古いアパート。ペットを飼う事など論外。 大家にばれない事を祈りつつ、段ボールの箱を貰ってきて、彼らの住まいにする。 お湯で湿らしたタオルで、ウンチまみれになっていた体を拭く。 ミルクを人肌のお湯で溶かし哺乳瓶で与える。 2匹は吸ってくれたのだけど、後の2匹がどうしてもミルクを吸わない。 泣き声もか細くなってきている。 心配で徹夜で世話をしたのだけれど、次の日、1匹が亡くなった。 3日目。もう1匹。 近くの公園の林の中に(本当はいけないんだろうけど)埋葬する。 悲しかった。無力感で一杯になっていた。 しかし、そんな事言っていられない。後2匹いる。 彼らはミルクはよく飲んでくれるのだけど下痢が続いていた。 私は心配で、ペットショップに行って飼い方を尋ね、図書館や本屋で必死で調べた。 人間のミルクでは駄目な事が分かった。 人間と犬とではお乳の脂肪の割合が違うので、人間用のミルクでは下痢をするのだ。 犬用の粉ミルクを買って来て与える。 ようやく下痢がおさまる。 一安心。 しかし、2週間後、突然1匹が亡くなる。 ガックリ。 気を取り直して、もう1匹だけはどうしても生かしてやりたいと子育てに励む。 生き残った1匹には、オスだったにもかかわらず、当時私が好きだった女の子のニックネームを つけていた。 当時私は一人暮らし。 ペットショップや図書館、本屋、そして買い物に行く時等、1時間以内に帰ってこれる時は 良いのだけど、学校やバイトに行く時が本当に困った。 哺乳瓶を持ち、子供達を紙袋に入れて登校、御出勤。 講義の間、泣かない事をひたすら祈り、休み時間に授乳した。 しかし、さすがに1ヶ月半を過ぎると疲れがひどくなってきた。 それ以上に、行動が制約されて、色々と滞りが起き、ニッチもサッチもいかなくなってきた。 そんな時に一寸大きな仕事が入ってきた。 受けるかどうか悩んでいた私に、救いの手を差し伸べてくれたのは友達の彼女。 6月28日のポンポコ日記『できごころ(2)』に登場した、月に向かって吠えるのが好きなあの 友人の彼女である。 彼女の家で暫く預かってくれるというのである。 私の子供より大きな猫を買っているし、マンションなのでそう長くは預かれないけれど、1ヶ月 位だったら大丈夫だという。 本当に助かった。 例によって子供を紙袋に入れ、彼女の家に連れて行く。 なごり惜しかったけれど、彼女にも彼女の両親にもすぐに慣れた様子だったので安心した。 それから3週間位たったある日、彼女から電話がかかってきた。 ここ2~3日衰弱がひどかったので動物病院に連れて行ったら寄生虫がいると言われたと いう。 母親の胎内にいる時、体内感染(?)したらしい。 虫の駆除はしたとの事だったけど心配だったので、すぐに会いに行った。 喜んで飛びついてくる私の子供。 元気だった。安心した。 同時に驚いた。 会っていない3週間の間に、彼の背丈はグンと大きくなっていたのだ。 後ろ足立ちすれば、前足は私の胸まで届きそうだ。 こんなに大きくなったんじゃ、彼女の家に迷惑を掛けているのではないかと心配になった。 聞けば、飼っている猫君とどうやら相性が悪いらしい。 これ以上迷惑を掛けられない。しかしどうすれば良いのか… そんな私にまたしても僥倖。 別の友人の実家で犬を飼いたがっているというのだ。 私は里子に出す事にした。 車に乗せて2時間半。 東関東にある彼の実家は庭も広く、自然にも恵まれ、これならノビノビと暮らしていけそうだ。 良かったな、元気で暮らせよと別れを告げて車に乗った後は、さすがにドッと落ち込んだ。 彼は、キャンキャンといつまでも吠えていた。 それから半年後、私は彼に会いに行った。 繋がれている犬小屋から40メートル位の所で車を止める。 彼は見えるか見えないか位の遠い距離。 友人が先ず車を降りる。彼は吠えない。 続いて別の友人が降りる。同じく吠えない。 最後に私が車から降りようとドアを開けた瞬間、彼は鎖を引きちぎらんばかりの勢いで飛び 出してきて、私に向かって吠え出した。 尻尾を激しく振って、後ろ足立ちしながら吠える、吠える。 私が急ぎ足で近付くと、私に飛びかかり、覆い被さり、顔中を、体中をペロペロと舐める舐め る。分かった、分かったと言ってもしがみつく事を止めず、舐める事を止めない。 私は嬉しかった。 ちゃんと覚えていてくれた。ちゃんと! いや、覚えていてくれて当然だ。彼にとっては、私は母親だったのだ! ゴメンな! ゴメンな! 最後まで面倒見てやれず! 彼の唾か私の涙か分からないもので、顔中グシャグシャになりながら私は彼に向かって謝り続 けていた。
2006年07月10日
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夏の宵であった。 そいつが私の実家に遊びに来て2人で呑んだ。 将棋を指しながら焼酎を飲む。 勝ちつ勝たれつ。 負けず嫌いが2人。 散々指して、散々呑んだ。 冷房も入れず、男2人、デカパン1枚のあられもない格好。 酔って暑さが増し、汗が噴き出している。 一寸酔いを醒ましに散歩しようという話になった。 歌を歌いながら、酔い覚ましの筈が何故かしら一升瓶を手に持って、近くの湖に向かう。 実家から15分余り。 旧藩主家の別荘から続く湖。 中村丁女さんが 「とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな」 と詠んだ湖である。 いたる所から清冽な水が湧き出している。 馴染みの一角に来て水に飛び込む。 ザブーン! ザブーン! 水深は1メートルもない。 そいつは水泳部。私も泳ぎは嫌いではない。 これは良い、気持ちが良いとはしゃいでいた。 が、しかし… 何せ、夏でも冷たい湧水である。 たちまち体は冷え、酔いは醒めてしまった。 早々に岸に上がったのだけど、体がガタガタと震え出し止まらない。 明るいところで見たら、唇は蒼くなっていたろう。 何しろ焼酎以外は、タオル一枚持ってきていない。 これはいかん、飲み直して体を温めようと場所を探す。 近くに東屋が建っていた。 テーブルがあって椅子がある。 格好の場所ではあるが、何だか面白くない。 そこで二人して、一寸斜めに立ててある柱を伝って、東屋の屋根に登る事にした。 屋根はコンクリートの打ちっ放しでWの字の形をしている。 屋根に大の字に寝そべり、一升瓶を廻し飲みする。 見あげれば、満月にはまだ少し日があるけれど、いい形の月が出ている。 昼間の熱が残っているのか、屋根のコンクリートの温かさが気持ちよい。 「いい月だ!」 私は呑んで吠えながら、月を見つめ、まばたきをした。 確かに一回ゆっくりと、まばたきをした。 が、しかし、一回まばたきをして目を開けると、あるべきところに月がない。 えっ? 慌てて目をあちらこちらに走らせる。 何故かしら暗い夜空は明るい青空に変わり、あるべからざるところに太陽があった。 どうやら、まばたき1回するのに6時間以上かかったらしい。 オイ! 起きろ! 隣で太平楽に幸せそうに寝ているそいつを起こす。 ウ~ン? どうした? そいつが寝ぼけ眼を開けた時、下の方からラジオ体操の音楽が聞こえてきた。 ええ~ッ? 体を移動させ、屋根の端からそっと下を覗いてみると、30名余りの老若男女が東屋を中心に 集まり、今まさに健康な体操を始めるところ。 「ラジオ体操第いち~!」 こりゃいかん! 私とそいつは、息を潜めそのままの姿勢で2~30分を過ごした。 朝とはいえ、南国の朝の太陽はジリジリと体を焦がす。 体操が終わってからもお喋りに興じて、人々はなかなか立ち去らないのだ。 ようやく人々がいなくなるとノロノロ起き出して東屋の下に降りた。 そしてデカパン1枚の姿で、家まで走って帰った。 アルコール分はすっかり抜けきったけれど、帰り着いた時にはドロドロの汗まみれであった。 30年前の話である。
2006年07月09日
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先日、駅の構内で転びそうになった。 階段を登り降りしていたわけではない。 何かにつまずいたわけでもない。 点字ブロックの上を歩いていたわけでもない。 何もない、フラットなタイルの上を歩いていて転びそう になったのだ。 足腰が弱ってきていると言えばそれまでだが、結構 歩く方だし、イラチだからエレベーターを待つのが 嫌で階段の登り降りはしょっちゅうだ。 それなのに、何もないところで転けそうになるとは。 いや、何もないところだからこそ転びそうになったの かもしれない。 山歩きをする時や、川釣りで流れを遡行する時は あまり転ばない。 岐阜にある『養老天命反転地』は、あちこちに身体の バランスを崩す仕掛けが施され、身体を安定させる 場所がない。 いわゆる『常識』とはかけ離れた空間が作られて いる。 訪れた者は安易な経験則を捨て、五感を研ぎ澄ま せてその場その場に対応しないと転んだり、壁に ぶつかったりしてしまう。 この『養老天命反転地』を創った荒川修作さんは、「バランスを失うことを恐れるより、むしろ (感覚を作り直すつもりで)楽しむこと」と書いている。 感覚を研ぎ澄ませていれば、不思議と転んだり、ぶつかったりしない。 荒川さんは別の場所で、「身体は使い方次第で『生命』と呼べる現象を外在化できる」と書いて いる。 障害物のないフラットな平面。 そこでは研ぎ澄まされるべき感覚は惰眠を貪り、唯、無自覚的に体を動かしているだけだ。 障害がある時、初めて人は感覚を研ぎ澄ます。 それは、医学や分子生物学における免疫や生体防御の仕組みに似ている。 快適性、利便性を追い求めた現在の私達の暮らし。 その暮らし自体が生きる事の意味を見失わせようとしている。 「この生活に抵抗を感じている生命があり、その抵抗感があるはずだ。そこから出発しなけれ ば、いかなる芸術も本質的には成り立たない」(『私の現代芸術』より) と述べたのは岡本太郎。 その岡本太郎が、私が生まれた年1954年に出したのが『今日の芸術』。 150万部の大ベストセラーになり、芸術革命、生活革命のバイブルといわれた。 この本を遊女asomeさんがブログで紹介している。 有名な、 「今日の芸術は、 うまくあってはいけない。 きれいであってはならない。 ここちよくあってはならない」 という言葉は、同時に芸術を受け取る側の意識の変革をも訴えているのだ。 遊女asomeさんが述べている様に「見る側も自分の今までの既成概念を取り除き、新しい 価値、新しい魂の自由を創造して」いかなければならない。 芸術とは生き方である。 太郎は言っている。 「私は確信していた。芸術表現は人間の存在、その運命全体を、無条件に突き出すものであっ て、色と形の基準に安定する、いわゆる「美学」であってはならない。 色を超えた色、形を超えた形、それが生命の実感であり、実在なのだと。」 私が駄目なのは、フラットなタイルの上で転けそうになった事。転けなかった事である。 中途半端な感覚、中途半端な意識の覚醒。 「芸術とは生きること,作品は生命が燃えたその軌跡にすぎない」 私は生きていない。
2006年07月08日
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私の父はいつまでも旧制高校気質いわゆるバンカラの抜けない人で、50になっても60に なっても、外で友達と飲んで酔っぱらい、一緒に連れて帰ってきて、庭の芝生の上で寮歌を 放歌高吟。 大きく手で調子を取りながら踊り回る様な人だった。 50を過ぎた私は、昨晩も日付が変わってから友達と御帰還。 しかし父と違って踊り回る様な事は無し。 仕事が遅い時間までかかり、途中から仕事先の事務所で缶ビールを飲みながら打合せ。 その後、やはり仕事の打合せで友人に会う事になったのだが、それはもうかなり遅い時間。 一杯だけ注文した生ビール片手に打合せを終わった時には、呑み足りない欲求不満がかなり 残っていた。 当然の事のように、友人と2人、場所を移して馴染みの店で飲んだのは良いけれど、飲み終え た時には既に電車は走っておらず、仕方なく飲み代の3倍かけてタクシーで帰ってきた。 男2人、直ぐにパンツ一枚になって別々の部屋で高鼾。 どうも今の都会で飲むのは味気ない。 先日友人から電話がかかってきた。 小学校以来の友達である。 今は、山陰地方のある街に住んでいる。 と言ってもそこに住み始めてからまだ1年。後1年するとまたどこか別の街に引っ越すはずだ。 仕事の関係で、大体2年ごとの転勤。20代からずっと単身赴任を続けている。 土曜か日曜、一人晩酌するのは寂しいとみえて、時々ひょいと電話をかけてくる。 今は仕事上の地位がかなり上がり、やれどこそこから頼まれて講演をした等と無邪気に自慢 話をする友達だが、若い頃は2人で随分馬鹿をやった。 20を過ぎた頃、夏冬の休暇には故郷の街でよく一緒に飲んだ。 そいつと飲むと困る事が一つ。 高校以来水泳で鍛えたそいつは、とにかく体力がある。 加えて、一度身の内に入れた物は絶対に無駄にしない。つまり吐かないという信念の持ち主。 散々飲んで、その後に、必ず馴染みのラーメン屋に行きたがる。 ゆで卵を二つも三つも入れた大盛りの豚骨ラーメン。 こっちは見ただけで気持ちが悪くなるというのに、そいつは焼酎片手に、必ず全部食べる。 しかし、その後が大変。 そいつだってほぼ限界点に達しているのだ。 ラーメン屋を出て10歩も歩くと立ち止まり、「フーッ… 気持ちが悪い…」と言いながら、 両手を膝にやって、背中を大きく波打たせている。 しかし絶対に吐かない。 信念があるそいつは、死んでも吐かないつもりなのだ。 かくして、10歩歩いちゃ立ち止まり、また歩いては立ち止まりを繰り返す事になる。 そいつの家まで送り届けるのに、えらく時間がかかり、こちらは途中から酔いが醒めてくる。 そのラーメン屋からそいつの家までの間に、彼のマドンナの家があった。 街灯もあまりなく、しーんと静まりかえった地方都市のお屋敷町。 彼女の家の前の道路は、江戸時代に掘られたという用水に沿っていた。 大体そのアタリまで来ると、2人とも水分放出がしたくなる。 そこで2人仲良く並んで用水に… というのがいつものパターン。 ところがその時だけは違っていた。 私は用水に向かっているのに、そいつは急に狭い道路の反対側に歩いていって、つまり 彼女の家の板塀に向かって、音高らかに放水を始めたのだ。 犬じゃないんだから、マーキングしなくたって… その時、彼女の家の2階の窓がガラガラと開いた。 そして「誰だ!」という野太い声。 彼女の父親だ。 ヤバイ! 2人とも慌てに慌て、仕舞う物も仕舞わず、一目散にすたこらサッサ。下駄を鳴らして逃げ出す はめになった。 いくら酔いが醒めかけていたとはいえ、全速力で走りに走ったのでは堪らない。 暫く走った後、気持ち悪くなって立ち止まる。 私は不覚にも戻してしまった。 しかし、そいつは根性の人。 絶対に戻さない。 私の横で、「ウエーッ…気持ち悪い!」と言い、「卵が喉まで上がってきた」と声に出しなが ら、絶対に戻さないのである。 「吐いた方が気持ち良くなるぞ」と言えば、 「そんなもったいない事出来るかー!」と苦しそうな声で答えるのであった。 かくして。10歩歩いては立ち止まり、そしてまた10歩歩く時間が再び訪れた。 そんな根性の持ち主なのに、そいつには、彼女に想いを伝え、愛情を獲得すべく努力する根性 だけは… まるでなかった。 それから数年して、そいつは見合いで結婚した。 (そいつと見た朝の太陽の話はまた明日)
2006年07月08日
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夏蜜柑肝臓燃ゆる口に合ふ (相馬遷子) という句が、すっと心に入った。 思えば、あなたとの日々は、肝臓と 脳が燃え続ける様な感覚の時間が 続く日々であった。 お酒を飲み過ぎた翌日にも、肝臓が 熱く腫れている様に感じることが あるけれど、それとは違う。 想いで胸が熱くなり、アドレナリンが 体中を駆け回って、眠れぬ夜を 過ごす。 その翌日に感じる、頭と肝臓が疲れて 膨れて重たい様な感覚。 あなたと共に歩んでいこうと決めてから、常に心の中にせめぎ合いがあった。 正直言えば疲れている。疲れていた。 いつか「心が引き裂かれた様に思えて…云々」とあなたに話したことがある。 その時あなたは、私の心があなたと家族との間で引き裂かれていると勘違いしたみたい だけど、そうではない。私はあなたとあなたの間で引き裂かれた様に感じていたんだ。 好きで堪らないあなたと、反発し憎悪すら感じるあなた。 暫く前から、あなたとの関係を維持していこうという気持ちが萎えてきたと度々話した。 それはあなたを好きだという気持ちが無くなってきたということなのか? そうではない。それは違う。 好きだという気持ちは、想いは、そのパッションは全然変わらない。 いや、前にも増してそう思う。 本当にどうしようもない位、あなたの事が好きだ。 理屈ではない、とにかく心の裡から好きだとしか言い様がない。 押して再度「どこが?」と聞かれれば、あそこがここがと答える事は出来るだろう。 あなたの中に好きなところはいっぱいある。 まるで10代の少年の様に好きな点を挙げることが出来る。 その弾む様な心。 前向きな生き方。 何事にも素直にストレートに進んでいく。 無邪気さ。 同時に持つ、傷付きやすいナイーブな感性。 人よりも悩み苦しみながらも、前を向く事を、前進する事を怖れないその強さ。 人まで前向きにさせる話し方。 ウェットに富んだ文章。 発想の豊かさ。 弾む様な心を表すイキイキとした表情。 笑顔。 でも切れ長の眼は、一寸ブラウンがかっていて、溌剌とした笑顔に隠された、深い哀しみを 静かに湛えている。 そして、大人の女性としての魅力。 10代の少年としてではなく、大人の男から見たあなたの魅力。 よく「ダイエットしなくっちゃ!」と口にしてたけど、その必要なんか無い。 魅力的なスタイル。プロポーション。 長く伸びた細い足。 色香漂う仕草。 白い手。 透き通る肌。 うなじの綺麗さ。 円熟した女の色気。 息づかい。 まるで10代の様な柔らかな透き通った肌。それでいてきめ細かで湿りを帯びている。 「小っちゃいから」と恥ずかしそうに言うけれど、弛みのない、形の崩れていない柔らかな 乳房。 白く豊満お尻。 豊かなヴィーナスの丘は弾力にとみ、溢れ出す泉の柔らかさ清らかさ。 引き締まったヴァギナ。 交わった時の奔放さ。 豊かな腰の動き。 喘ぎ漏らす湿りを帯びた声のなまめかしい美しさ。 歓喜の中にいる時の美しい表情。 あんなに美しいものを私は見た事がない。 そして終わった後の微睡みの表情。 無邪気さ。 本当に、あなたは魅力的な女性だと思う。 それらの全てが好きだった。 そして今も、昔よりずっとずっと好きだ。 無邪気に、真っ直ぐに、ストレートに生きていきたい。 他の誰でもない、他の誰にも囚われない。 一人の独立した人間として生きていきたい、生きていく。 そんなあなたが大好きだ。 そんなあなたと出会え、愛することが出来て、私は本当に幸せを感じた。喜びを感じた。 しかし同時に不安も感じていた。 その真っ直ぐさ、ストレートさに あなたは真っ直ぐにストレートに自己を主張する。 隠す事なくストレートに感情を表す。 あなたの事は好きで好きで堪らないけど、その頑なさ、自己主張の強さについていけない。 いや今はついていけても、将来そう出来なくなる日が来るかもしれないと フッと怯えを感じ出したのはいつの頃からだろう。 2人の間に諍いが絶えなくなるずっと前からの様な気がする。 『独立した人間として生きていきたい、生きていく』 『独立』という花言葉をもつのはアザミの花。 そう、あなたはあの美しい紫の薊の花ににているかもしれない。 薊には棘がある。 薔薇の様な鋭く大きくハッキリ分かる棘ではない。 葉や総苞にさりげなくついている無数のトゲ。 美しく生き続けるためのトゲ。 アザミという名前自体が棘に由来すると言う。 沖縄方言に残る古語「あざ」。棘の事である。 棘のある木、「あざ」の木、「あざぎ」が「あざみ」になったという。 「驚きあきれる」「興が覚める」という意味の「あざむ」の言葉に由来するという説もある。 花が美しいので手折ろうとすると棘にさされて痛いので、「驚きあきれ、興が覚める」という ことから名前がついたと言うのである。 薊は他にも「権威・触れないで・独立・厳格」等の花言葉を持つという。 あなたは大地に根を張って野に咲く一個の独立した花。 美しいからといって、手折ろうとしてはいけない花。 紫の薊の花は野におきて 名を知らぬ花折りて帰りぬ (清水比庵) 名を知らぬ花を折ろうとは思わないが、いやどんな花でも手折ろうとは思わないが、 特にあなたは野で咲き続けていてほしい。 そう思う。 そう思った。
2006年07月05日
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昨日、今日と仕事で東京都美術館にいた。 仕事の合間を利用して、今日が最終日だったプラド美術館展を駆け足で見る。 普段だったら絶対にやらない見方。 いつもはすいた時を狙って、じっくりと時間をかけて見る。 駆け足してでもと思ったのは、3枚の絵が見たかったから。 エル・グレコ『寓話』 リベーラ『聖アンデレ』 ムリーリョ『貝殻の子供たち』 傾向の違う3枚の絵。 エル・グレコの中にある暗い情念。 ホセ・デ・リベーラ。明暗の対比を強調し、聖人を美化せず、厳しく見据えたリアリズム。 柔らかく明るい色調がもたらす甘美な味わい。 ムリーリョの描く子供たちには癒しがある。 バラバラの選択は、そのまま今の自分の不安定さを現しているようだ。 現実を認めなければと思い悩みながら、認める事の出来ない暗い情念に翻弄され、 疲れ切って、救いを求めている、今の自分。
2006年07月02日
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お昼近くまで仕事場(兼自宅)の机に向かっていたのだけど、何も出来ず、何もする気が起きず、唯ボンヤリとして過ごした。このところずっとそうである。 私の仕事は大勢の人とかかわる部分と、一人だけでやる部分がはっきりと別れている。 約束する相手がいて、時間を調整しながらやるのは まだ良い。 否応なく体を動かして、処理していかなくてはならないから。 ここ1ヶ月近くの間に50回余りの打合せ、会議があった。 それ以上に大勢の人とかかわる仕事も5~6日あった。 ある意味これは助かった。 能動的にものを考えなくて良いから。 しかし困るのは、一人でやる仕事。 こちらの方が仕事の量としてははるかに多い。 なのに、まるで手がつかない。やる気が起きないのだ。 締め切りの過ぎた仕事が溜まっていく一方。 気にはなるのだが、どうしようもない。まるで書けない。 スランプと言えば体裁は良いけれど、それ以前の心の問題。 時間や約束に対する倫理感が欠けてしまったのかとも思うのだが、 一人になるとまるで緊張感がなくなってしまう。 締め切りを過ぎてもそれ程の罪悪感を、正直覚えていない。 昨日の夜も机の前に座ってなす事もなく過ごし、ハッと気付くと夜明け近く。 薄明の中から鳥のさえずりが聞こえだしていた。 珈琲を飲み、お茶を飲み、酒を飲む。気分転換をしようとするのだけど、全然効果がない。 お昼近くになって出かけ、昼からの仕事を代理のものに頼み、その打合せをやってさっき帰ってきた。 昼からの仕事は夜中近くまでかかるもの。今日はそれを処理する気力もなかった。 また机の前に漫然と座っている。 きちんと気持ちを入れ替えられるPapillon1204さんが羨ましい。そうなんだよね。もう7月なんだ。2006年の半分が過ぎた。
2006年06月30日
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昨日、都内の大学のゼミに、ハンセン病訴訟の原告に連なった元患者の方が講師として招かれた。 縁あって、私は彼女の話を聞く事が出来た。 苦悩という言葉ではとても言い尽くせない日々を送ってきた彼女の言葉は重く、彼女にその様な半生を強いた国家というものに改めて激しい憤りを感じた。 同時に、同じこの社会に暮らす者として、隣人としての自分の生き方にも反省を覚えた。 以前から知ってはいたが、彼女の口から強制堕胎の話を聞くと、涙が止まらず、やり場のない怒りに震えた。 騙されて療養所に入れられた彼女は、そこから出る事を諦め、進める人があって同じ収容所に暮らす男性と結婚する。 結婚生活と言っても、仕切りのない12畳の部屋に4組8人の夫婦が押し込められての生活。 子供を欲した彼女に先輩が苛めとも思える烈しい口調で忠告する。 子どもはつくるな。どうせ間引かれるのだと。 しかし、子どもがほしかった。 何とか療養所を出る事を模索する彼女達夫婦。 その可能性を探る為にご主人が帰郷している間に、彼女は強制的に処置室に連れていかれる。 妊娠7ヶ月であったという。 そもそも御主人が帰郷出来たのも療養所が計画的に許可したとしか思えない。 入所者の外出を一切許さず、逃亡は職員による監視、入所者による相互監視、周辺住民による監視密告によってほとんど不可能。逃亡が失敗したものは、名前は違うけれど実質的な懲罰房に押し込められる。 そんな中での外出許可。 明らかにご主人を排除しておいての強制措置を狙ったのだろう。 連行され人間性を無視した強圧的な言葉で処置台の上に上がらされた彼女は、両手両足を縛り付けられて堕胎処置を受ける。 「ほら見てごらん。可愛い子よ。瞼に焼き付けておいたら」と看護婦に言われて、目を開けると、傍らにまだ臍の緒で繋がっている我が児が寝かされていた。鼻口は塞がれていたが手足はまだピクピクと動いていたという。 彼女が再び我が児を見たのは、ホルマリンに浸けられた標本としてであった。 彼女を一番傷付けたのは、それまでは親切にしてくれていた医者の言葉であったという。男の医者ではなく女医。同じ女として今でも許す事が出来ないと、怒りに打ち震えながら彼女は語った。 若い学生達は声もなく聞き入っていた。 ゼミの後、女子学生に感想を聞く。 唯単に彼女たちは被害者で、日本という国家が悪いというステレオタイプの考えではなく、この世に生を受けたもの達が、自由に生きる権利を奪われ、人権を奪われるこの社会の構造、成り立ちをきちんと見つめ考えたいと彼女は話した。 患者のコミュニティーの中にもあった差別の構造や、何よりも隣人として暮らしていた私達の心の中にある問題、私達の社会が抱える問題を、これから考えていきたいと彼女は語った。 元患者さんが受けた絶望と苦悩は私達に重くのしかかっているが、まだ明日に希望はあると私は思った。
2006年06月29日
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serenskyさん の要望にお応えして30年前の私。 なんや! 下駄はいて髪伸ばしてるだけやんか! そうです。あの頃は、下駄を鳴らして酔っぱらってました。 髭ははやしていませんでしたが、 代わりに髪の毛はフサフサでした。
2006年06月29日
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これはあまり話したくない ほんの出来心でやった昔の話、いたずらの話。 serenskyさんのブログを読んで思い出した。 もう30年も昔の事。 酔っ払って悪友と2人、そいつの下宿に帰ってくる途中、何しろ2人とも浴びる程飲んでいたので、 自然の摂理に催された。 とある大邸宅の塀に向かっての連れ〇〇。 その時目についたのが、門柱に掲げられた大きな表札。墨痕鮮やかな立派なものである。 その昔、浪人生の間で密かに流行ったという、名士の表札をいただくと次の年は合格するというゲン担ぎとは、動機は全然違ったのだけど、何故かしら2人とも同じ衝動に駆られていた。 2人顔を見合わせ、どちらからともなく表札に手を伸ばし、そしてダッシュ。悪友は表札を小脇に抱えて走っている。 30秒も走ったろうか。酔っ払った2人はそれだけで青息吐息。立ち止まりぜーぜーと大きく息をつく。 丁度そこにくたびれて一寸傾いた様な古い木造モルタル2階建てのアパートが建っていた。 玄関脇には茶褐色に変色したボロボロの表札。レトロな第一〇〇荘という名前。 考える事は一緒だっと見える。これまた、どちらから言うともなく表札に近づき、黙って持って来た大邸宅の表札と取り替えた。 それからまたダッシュ。 今度息切れしたのは、小さな町工場の前。〇〇製作所〇〇工場という表札が掲げてある。そうなるとやる事は決まっている。 黙ってもう一仕事してから最初の大邸宅に戻る。 かくして、大邸宅は〇〇製作所〇〇工場となり、木造アパートは大富豪のお屋敷となり、第一〇〇荘という工場が新たに誕生した。 いくら若気の至り、酔いに任せての事とはいえ、とんでもない事をしたもんだ。 酔いが醒めてから重々反省したのだけれど、正直言えば、今では懐かしい青春の想い出となっている。 その悪友とはよく飲んだ。 ある夜、そいつの下宿に行くと、玄関前で急に雨が降り出した。 雨か…と思って見あげると、二階のそいつの部屋の窓から、そいつが気持ち良さそうに放尿していた。 彼女の事でそいつをからかったと言っていきなり殴られ、出来た目の周りの隈が数年間消えなかった事もある。 そいつは酔うと電柱によじ登るくせがあり、よく月に向かって吠えていた。 文学を愛し、およそ建築とか実業とかには縁遠く見えたそいつは、大学を卒業すると田舎に帰り、父親が創った建築会社を黙って継いだ。 数年後、建築デザイナーとして将来を嘱望されていたそいつの彼女は、本当は田舎では暮らしたくなかったのだろうけど、これまたその事は何も言わず結婚してそいつの田舎に移り住んだ。 その後2人は3人の子どもに恵まれた。1人が病気がちでその点では苦労したけど、まずは順風満帆の人生。十年後には、引き継いだ会社とは別に、インテリアデザインの会社を2人で起こした。 しかしバブルが弾けた後しばらくして、二つの会社は倒産し、その後音信不通となる。 元気で何とかやってるよ。今、実家近くの町に住んでいるという年賀状が届いたのは今年の正月。 6年間の空白があった。
2006年06月28日
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この頃「できごころ」をよく使う。 「できごころ」で作りすぎてしまうのは、うたかたの恋ではなくヨーグルト。 「できごころ」というのは日本軽金属という会社が1980年代に売り出した家庭用果実酒製造器。 例えば梅酒。 青梅とホワイトリカー、それに氷砂糖ではなくグラニュー糖を、炊飯器に似た形をした機械のアルミ製の窯に入れてスイッチを入れると、一晩で梅酒が出来る。 高周波による振動を与えて発酵や溶融を促すらしい。 20年前に買った。 当時はそれなりに話題になっていた。 開発チームのリーダーの髪が薄かった。 そこで発毛を促す機械を開発して売り出そうと考えたらしい。 アルミの釜をパーマの様に頭に被せ高周波を出し頭皮を刺激する。 研究したがこちらの開発は上手くいかず、代わりにひょんな事から家庭用果実酒製造器を完成させたとの事。 「できごころ」という名前を考えたのは開発チームの女性だと読んだ記憶がある(ウロだけど…) 当時日本軽金属はヘンテコ名前の商品を幾つか出していた。 手動アイスクリーム製造機「どんびえ」等々。 「できごころ」もその一つ 買った当初はもっぱら果実酒作りに使っていた。 何しろ通常だったら作るのに数ヶ月から1年近くかかる果実酒が一晩で出来上がる。 面白いので色々な果実酒やあやしげな酒を作った。 梅酒は申すまでもなく、イチゴ酒やらリンゴ酒、桃酒。マンゴ酒にアロエ酒。椎茸酒なんてのも作ってみた。 色々な酒を作っては一人悦に入っていた。 しかし、‘出来心’で作るせいか、どうもコクがない。 瓶詰めしてゆっくりと熟成させたものに比べて味に深味がないのである。 そこで工夫した。 果実酒には適度な酸味が必要で、イチゴ酒等を作る時は、最初はイチゴにレモンを1~2切れを加えて作っていた。そのレモンの代わりに青梅1~2個を加えるのである。 格段に味は良くなった。 でも、青梅は季節限定。 それに梅酒を作る時、梅に梅を加えても味は良くならない。 やっぱり‘出来心’で作っちゃ深味は出ない? ここ数年はもっぱらヨーグルト作りに使っている。 市販のヨーグルトを適当な量を放り込んで、そこに1パックの牛乳をドボドボと入れ、スイッチを入れれば5~6時間でヨーグルトの完成。 この頃沢山出ている機能性のヨーグルトをあれこれ買ってきて、大さじ1杯ずつ混ぜ入れて種にすれば、何やら体に良いような気もしてくる。 かくして出来上がったヨーグルトはタッパに詰めて冷蔵庫に。 毎日食べて残り少なくなってきたら、その残りのヨーグルトを種にまた作る。 しかし、そうやって「できごころ」で作り続けていると、4~5回経つと、あまり固まらない緩めのものが出来るようになる。 そこで、市販のちっちゃなヨーグルトを買ってきて種に加える。 ‘出来心’で作り続けたものは、やっぱり‘薄く’なるのかな…? この頃、朝食はバナナ1本と黒豆きな粉とスキムミルク、オリゴ糖を振りかけた「できごころ」製ヨーグルト、それにいれたての珈琲という事が多い。 風の噂に、「できごころ」に安酒を入れると数時間で味が良くなると聞いた。 本当だろうか? 今度試してみよう。 しかし、もし本当だったら、朝夜‘出来心’に頼る様になってしまう。 ゆっくりと熟成させなくちゃいけないものを一晩で作り、安いものの味を誤魔化す…
2006年06月28日
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二十年ぶりに自炊を始めた。 正確に言えば、比較的マメに、ほぼ毎日自炊していた頃からだと30年近くたつ。 気取って『男の料理』等ととても言えない代物。 唯々食らうための餌である。 毎日毎日では飽きっぽい私には耐えられない。 だから、常備菜の様なものを多めに作り、タッパに詰めて 冷蔵庫に入れておく。 品数は結構多い。 それを小分けに皿に出し、大体1週間位で平らげる。 もっとも外での食事も多いし、家にいても、呑んべいの私の事、酒を飲み始めたら、もう食事を作るのが面倒くさくなり、ほとんど何も食べないという事もある。 これまで暴飲暴食を散々重ね、病気のデパートと呼ばれる体になった私。 しかし、自炊しだすと、体によいもののを意識し、品数を数多く作ってしまうのには笑ってしまう。 昨日は、RoseGray catさんのブログに載せられていた美味そうな餃子を見て、無性に餃子が食べたくなったけれど、時間と手間暇を考えてパス。 家の者と一緒だった頃は、餃子やコロッケを作るのを手伝った事もあったけれど、1人では作る気が しないというのが本当のところ。 ルル父さんのブログを読みチャーハンも良いなと思った。 冷蔵庫で、ほとんど干からびている古漬けの高菜を使った高菜チャーハン。 早速仕事から帰って冷蔵庫を確かめたら、干からび過ぎ痛み過ぎていたのでこれまた断念。 高菜チャーハンはまた今度。 いつもの常備菜の幾つかが切れていたので、まずそれらを作る事にした。 常備菜と言っても簡単なもの。 切り干し大根の煮付けとひじきの煮付け。 切り干しとひじきの違いはあっても後の材料と作り方はほぼ一緒。 お揚げ、人参、水煮の大豆、生椎茸。 それに昨日は、切り干しには豚の挽肉を入れ、ひじきにはシラス干しを加えた。 糖尿病が悪くなってきている私は、糖分も塩分も控えめ。 昨日はその上に余計な事を考えた。 ステビア系の甘味料があったのでそれを使ってみたのだ。 これが大失敗のもと。 味見をしたら、何かが物足りないというか、味が変。 結局他のものをあれこれ加えたりしてますます味が変になってしまった。 普段から体の事にもっと気をつけていれば良いのだろうけど、普段は何も考えず突然思いつきで 考えるからこうなってしまう。 体の事をきちんと考え、ちゃんと管理しているserenskyさんには叱られそうかな… もう一品はサバの南蛮漬け。 このところ酢ッパイものを食べたくてしょうがない。 アジの南蛮漬けを作ろうと思った。 しかし、お店に行ったのが遅い時間で小アジは売り切れていた。 仕方がないのでサバを買ってきて、切り分けて素揚げにし、酢汁につけ込んだ。 サバを使ったのは初めてだったけれど、一見美味そうに出来上がった。しかし、一番美味しいのはつけ込んでから2~3日経ってから。 昨日は少しだけいただいた。 良く釣りに行っていた頃は、渓流釣りで釣った岩魚や山女は塩焼きにして食べた。 (6laiさんのブログの写真を見て思わずゴクンと唾を飲み込む。) 中流域にいるヤマベ(オイカワの事。私の故郷ではハエと呼ぶ)を釣ってきたら、甘露煮か素揚げ、 そして南蛮漬けにして食べた。 小さな魚のはらわたを取るのは大変だとよく家の者にぼやかれた。 ぼやいても変わらず料理してくれた甘露煮や南蛮漬けを、美味い美味いと言ってよく食べた。 それらを食べなくなってからもう2年。 釣りに行かなくなって、いや行けなくなってから1年あまり経つ。 最後の一品は、ゴーヤチャンプル。 ゴーヤに豚肉、ニラ、もやし。 最後に豆腐を加える。 その最後に加えた買い置きの豆腐が木綿ではなく絹ごしだったので…、 ウーン、これも失敗作だったな…… トホホ。 それらの品に、昨日の朝作った豆腐とタマネギとお揚げのみそ汁、一昨日作ったもやしのゴマ和え、高野豆腐と大根と牛肉を炊きあげてあんかけ風にしたもの、それにいつもの刻み昆布と生野菜のサラダを並べて完成。 飯は玄米に十種の雑穀を加えたもの。 こう書くと、量も品数も多く、それなりの食事に聞こえるかもしれない。 しかし、それぞれの品、1回に食べるのは一口二口で食べ終わる位の量。 大ぶりの皿に品良く並べたら、それなりに豪華に見えるかもしれないけれど、仕事場として使っていたこの部屋には、料理を美味しく見せてくれる食器はほとんどない。 しかしそれらの食器がなくとも、例えば、夕暮れ時、仕事を終えてから相棒とビールを飲みながら、 出来合いのものを少しずつ摘んだ時の充足感。 何でも美味しいと感じたその充ち足りた時間は、本当に食べる事の幸せを感じさせてくれた。 しかし、今はその相棒もいない。 Papillon1204さんのブログを読んで、思わず過ぎ去った日々の情景を思い出す。 結局、成功失敗取り混ぜて、幾種類の料理を作っても、ちっとも美味しくない。 美味しいと感じられない。 昨晩もメインディッシュは酒。 奄美の黒糖焼酎を苦く感じながら、それらの料理を唯々胃の腑に流し込んだ。 今晩は飲みの誘いがあるので、部屋にいない。 それらの料理は、冷蔵庫の中で眠っている。
2006年06月26日
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1年間ブログをお休みする前、時々読ませていただいていた 遊女asomeさんのブログ。 久し振りに訪問したら、岡本敏子さんの著書『奇跡 岡本太 郎に捧げる究極の愛の物語り』について書かれていた。 以前仕事で敏子さんに会った事がある。 実際に出会った敏子さんは実にチャーミングな女性だった。 しかしひとたび太郎さんについて語り出すと、 尽きせぬ想いが溢れ出す様に、言葉がとどまる事を 知らない。 まさに彼女は『岡本太郎』の伝道師であった。 太郎さんの言葉に、 「芸術は太陽のエネルギーである。 陽光のごとく無制限に、エネルギーを放出し、 怖いほど与える」(岡本太郎著『黒い太陽』より)というのがある。 『芸術』という言葉を『愛』に代えたら、 それは太郎さんの愛であり、 敏子さんの愛だったような気がする。 私は『惜しみなく奪う』事はあっても、 『怖いほど与える』事はなかったのではないか。 昨日を振り返ってそう思う。 色々な事があって、 近頃は鬱々として楽しまない日々を過ごす事が多い私。 絶望さえも感じている。 太郎さんは別の本に書いている。 「私は絶望を、新しい色づくりで塗り、きりひらいて行く。絶望を彩ることが芸術だ!」と。 絶望を激しい色づかいで塗りあげて、その中から希望を切り開こうとした岡本太郎。 私も太郎さんの様なエネルギーを持ちたいと思う。持てたらと思う。 しかし、今の私にはそのエネルギーはない。 奔放とした生命力がまだ私の内には満ちてこない。 しかし、やがてその力が満ちてくる事を信じて、 絶望の中でトコトンのたうちまわって生きていこうと思う。 オロオロと泣き叫び、壁に頭をぶつけ、不格好に生きていこうと思う。 少なくとも昨日までは、生きていこうという気力さえもなかったのだから。 そうだ1歩前進したのだ。
2006年06月24日
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離れて暮らす息子にメールを送った。 「頑張ってるかい? 試験どうだった?」 直ぐに返事が来た。 「試験の事は聞かないでぇ」 「ハッハッハ(笑い) また今度頑張れば良いさ。野球の方は どうだい?」 「夏の大会昨日だったんだ… …最終回にスグイズで1点いれられてさぁ…1対0で負けたよ…」 「そっか1点差か… 惜しかったなー」 息子は中学3年。夏の大会が終わると、部活が終わる。 小学3年から打ち込んできた野球。 汗まみれの練習の日々と暫くサヨナラするのだ。 「明後日から修学旅行だよぉ」 「えっ来週じゃなかったっけ? そっかそっか。 班は、野球部ワルガキトリオだって? こりゃあ夜寝られんな!(笑い) 楽しんでこい! オミヤはキーホルダーで良いよ」 「へいへい、キーホルダーね」 「うん。大仏のキーホルダーとか」 「わかったぁぁぁ」 2日後、息子は関西への修学旅行に出かけていった。 それから3日たって、またメールを送る。 「修学旅行どうだった? 楽しかったかい?」 「楽しかったよ!!」 「どこがよかった?」 「南禅寺と龍安寺かな??」 「渋いじゃん!」 「派手なもんはあんまり好きじゃないんだよね……」 「プッ! ほんまかいな! でもお父さんも龍安寺凄く好きだよ。 で、夜は眠れたかい?」 「夜はどんちゃん騒ぎ。 そうそう二日目は調子にのりすぎて説教くらっちゃった。まぁ良い思い出になんじゃん?」 「うん、そうだな」 「オミヤは奈良の仁王像の栓抜きキーホルダー」 「サンキュー! 仁王像って運慶のやつ? 」 「よくわからんがコレだよ」 息子は直ぐに携帯で写真を撮って送ってくれた。 「うん運慶のやつだ。 サンキュー。もらうの楽しみにしてるよ。」 約束通り息子は土産を買ってきてくれたのだ。 酒好きの私のために唯のキーホルダーではなく栓抜きタイプのものを。 しかし残念ながら、私はまだその栓抜きキーホルダーを受け取っていない。 離れて暮らす様になってから、私はまだ1度も息子に会っていない。 電車を乗り継いで1時間でいけるのに、その距離を遠く遠く感じる。
2006年06月24日
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老眼と感じたのはいつの頃だったか。 7・8年前、初めて老眼鏡を作った。 それから幾つ作ったろう… 去年白内障の手術を受けた時、「今の眼鏡は目に合わなくなっている」と医者から言われた。 しかし、その時は新しい眼鏡を作らなかった。 眼鏡って結構高い。 去年、知り合いから100円ショップで老眼鏡を売っていると教わった。 お洒落じゃないけど、沢山買って、家中に置いておくと便利だと言う。 100キンの眼鏡? 大丈夫か? 最初は疑問符だらけだったが、一度買ってみると、これがなかなか便利なのである。 私は若い時から、『歩くアルツ君』と呼ばれていた。 お酒を飲んだ時はもちろん、普段でも度々物忘れをする。物を無くす。 お財布に鞄。傘に書類。好きな本だけは何故かほとんどなくさない。 電車に乗っていて切符をなくす事はしょっちゅうである。 眼鏡をなくさなかったのは奇跡的。 多分、眼鏡は私にとってはまだ違和感のある、意識する『もの』だったのだろう。 だから、意識して丁寧に丁寧に扱ってきた。 しかし、老眼が進んでくるとそんな事も言ってられない。 もっと日常的に、惜しげもなく使いたい。 そんな私にとって100キンの眼鏡は、すこぶる便利なのである。 ゾンザイに使い、壊れても、なくしても、直ぐに代わりが手にはいる。 私は、寝る前に必ず布団の中で本を読む。 読みながらウトウトと微睡んでいく気持ち良さといったら! そのまま夢路につく幸福感! しかしオーダーメイドの眼鏡を使う時は、いちいち、きちんと外し、 安全な場所に閉まってから眠るので、ちょっとその幸福が阻害される。 それに比べると100キンの眼鏡の気安さと言ったらありゃしない。 眼鏡を着けたまま眠る事がしょっちゅうである。 私は寝相が悪い。 朝起きてみると、眼鏡は頭の下にあり、肩の下にあり、ひどい時はお腹の下にある。 そしてほとんどが、リムとテンプルの接合部が折れてしまっている。 しかし大丈夫。代わりはいくらでもある。 その日も新しい眼鏡を気楽に使う。 かくしてツルのない老眼鏡が一山溜まった。 愛はオーダーメイド。 他に代わりのない唯一個のもの。 壊してしまい、なくしてしまったら、その愛はもう2度と戻ってこない。 私はいつの間にか、100キンの眼鏡の様に、その愛を、あるのが当たり前、 壊れても大丈夫と、気安くゾンザイに扱っていた。 微睡む一瞬の刹那的な幸福を邪魔されたくないと、 永遠に持ち続けられた筈の幸福の事を忘れていた。 忘れていなければ、例えこの世に永遠がなくとも、 目覚めの朝にはその事を信じられたはずだ。 しかし、目が覚めると、もう戻らない壊れた愛の残骸だけが残っていた。 新しい100キンの老眼鏡をかけても、もうどこにもその愛は見えない。
2006年06月22日
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携帯にかかってくる電話、送られてくるメール。 名前を登録していなければ、何回かかっても、 送られてきても、 唯の数字の羅列、アルファベットの羅列。 ロクに確かめもしない番号であり メルアドに過ぎない。 ひとたび名前を登録すると、 過去に遡って 履歴の中にあるその人からのコンタクトは、 全てその名前に変わる。 頭の中に『裏切り』という名前を登録したら、 今まではその名前とは思わなかった『記憶』の 履歴が、いっぱい『裏切り』という名前に 変わった。 近頃の履歴はその名前で埋め尽くされている。 しかし私は本当に裏切られたのだろうか? 甘えた、弱い心の私は、相手を思いやることなく、何遍も何遍も、生のままの感情を 石つぶての様に投げ付け、言葉の暴力で相手を威嚇し、傷付けた。 私から離れていくのは当然ではないのか? そうだ『裏切り』とい名前じゃない。『必然』だ。 私は登録をやり直す。 『履歴』は『必然』という名前で溢れかえる。 『しかし』とまた思う。 憎しみから発した言葉の暴力ではない。 確かに包み込む様な優しさはなかったけれど、露わな剥き出しの感情をぶつけずには いられない程、私は愛していたのではないか。 感情と感情のぶつかり合い。 その結果は『必然』だとしても… 私はまた登録の名前を変える。 『絶望』─ もうこの名前を登録し直す必要はない様だ。 『絶望』という名前は、登録した後も増え続け、今『記憶』の履歴はその名前に埋め尽くされている。 いつの日か『希望』という名前を登録出来るのだろうか?
2006年06月21日
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1日2日休む積もりが、 目覚めてみれば1年も眠っていた。 いゃ~あ よく寝たもんだ! 自分でも驚く。 と言っても、本当に自分が目覚めたのかも 良く分からない。 眠っているのか起きているのか… 辺りを見回してみる。 誰もいない? 誰もいなくなっている! 私一人がポツンと取り残されている。 もちろん物理的には、私は1年間、起きて眠って、 眠って起きてを繰り返していた。 そして大好きな酒を飲み続けていた。 酔い続けていた。 酔生夢死。 今となっては夢か幻か判らない様な1年間。 やはり私は眠り続け、夢の中にいたのだ。 夢の中で 私は相棒と坂のある町に仕事場を確保し、大半をそこで過ごす様になった。 しかし、相棒とも家の者とも諍いが絶えず、 やがて相棒は私のもとを去り、そして家の者も去っていった。 目覚めた私は、坂のある町の仕事場に一人でいる。 寝ぼけまなこで鏡を見れば、ポンポコ髭太郎の頭の毛を1本減らさなければならない様な、 しょぼくれたオヤジがぼんやりと写っている。 ポンポコ鳴っていたビヤ樽の様なお腹は、哀しみの涙がだいぶ溜まったはずなのに、 何故だか少しほっそりとして。 目覚めたばかりなのに、今日も酒を飲む。 酔って酔って、酔い続けて、夢かうつつか、うつつか夢か自分でも判らない。 しかし判らないなりに、また日記を書き始めようと思う。
2006年06月21日
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まだ6月だというのにもう夏バテです。日記の書き込み後1日2日お休みします。コメント色々書き込んで頂き有り難うございます。ご返事遅れて申し訳ありません。
2005年06月30日
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結婚して20年たつ。新婚旅行の時に沖縄で泡盛を買った。買った時に20年以上熟成させてあった43度の古酒。今では40年物。銀婚式と金婚式の時にでも飲もうと思って、ずっととって置いた。3年前に障害を持っていた妹が植物状態になった。その後、色々あった。色々なこころの葛藤があった。その時、その古酒の栓を開けた。とろんとして微かに色が付いている芳醇な香り。色々な味が濃縮しているという感じ。一寸甘い。この3年間で少しずつその古酒はなくなっていった。昨晩、その酒を飲み干した。甘くはなかった。缶ビール1本の他には、その古酒を2杯飲んだだけなのに、今朝は二日酔い気味である。
2005年06月24日
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『相棒』とビールを飲んでいた。些細なことから、感情が行き違った。『相棒』は憤然と席を立ち、店を出ていった。私は呆然として、それを見送った。暫くして、私は溜め息をつきながら、よろよろと店を出る。そしてハタと問題点に気付いた。その店は先払い制だったので良かったのだが、私は殆ど金を持っていなかった。全くと言って良い位。ズボンのボッケに200円入っているだけ。つまり帰りの電車賃がないのだ。ヤバイ!家までは14~5キロ。近くの友達に金を借りる。もしくは、家までタクシーで帰る。そういう手もある。しかし、私は家まで歩こうと思った。2日続けて自転車で遠出した翌日である。少々足腰が筋肉痛。しかし、私は歩こうと思った。履いている靴は、カジュアルな革靴。肩から書類の沢山詰まった仕事用の重い鞄。私は夜の街を歩き始めた。最初はビールでよろめいていた足どりも、汗が滲んでくる頃にはゆったりではあるが確かなものに変わっていく。しかし、心は憂鬱で晴れることはない。東京の街は、暗くはない。街灯やネオン、家の灯り。しかし気分は、暗夜行路。光は目に入らず、頭の中の色々な想念だけが、具体的な形となって、まるで映画の一場面の様に、うたかたに現れては消えていく。私は何をしているのか?何をしたいのか?この八方塞がりの状況を打開出来るのか?『相棒』は、もう忘れていた夢を、夢で終わらせることなく、希望に変えて、目標として歩んでいくことを教えてくれた。私は『相棒』と新しい道を歩みたいと思い、歩もうとした。しかし、直ぐに現実の壁とぶつかる。こちらでぶつかり、あちらでぶつかり、もうにっちもさっちもいかない状況。このところ、その中でもがく日々。一歩も二歩も歩めないでいる私が、夜の街を一歩一歩歩いていく。途中で『相棒』にメールを送る。直ぐに電話。口論。また重い気持ちとなって、大きく息をしながら、重い足を運ばせる。目の前に、まるでよじ登れと言わんばかりの急な坂道が現れる。その頃になると、鞄は肩にくい込んでいる様に感じられ、腰も痛くなって来ていた。それでも、私は喘ぎながら、遅い足どりで、一歩一歩坂道を登っていく。登りたいと思っている訳ではない。唯、右足の後に左足が機械的に出るという感じ。途中で休むこともなく、フラフラと坂道を登っていく。登り切ると、足が軽くなった様な気がした。そこは、外灯もあまりない暗く静かな住宅街。しかし、ひっそりとして佇む家々の中には、明るい灯がともり、楽しげな談笑が交わされているのかもしれない。私の家の中にも、笑いは満ちている。明々とした灯もともっている。しかし、私は別の道を歩もうと思った。『相棒』と歩いていこうと思った。その道は、この街の様に、暗く静まりかえった道なのか。やがて、幹線道路に出る。深夜なのに車が行き交う。ゴオーッという音と振動が体を包む。大きな車道の脇の細い歩道をトボトボと歩く。追い越し走り去る車に取り残される様に、遅い足どりで歩いていく。段々と、地面に体がめり込む様に重く感じられてきた。想念から我に返り、自分の歩みの遅さに私は苦笑する。池波正太郎さんの小説を思い出す。単純なこと。昔の人は良く歩いた。1日に何キロも歩いた。それに比べて…私は歩みを速める。大きく息を吐きながら早足で歩いていく。ジトっと脂汗にまとわりつかれていた体のあちこちから、ドッと水の様な汗が吹き出し流れ出す。シャツやズボンは、まるで雨にでも濡れた様にぐっしょり。『相棒』とメールでやり取りする。歩もうとしている思いは同じなのに、かみ合わない言葉と言葉。お互いの心を理解しようとしながら、互いに主張しあい傷付けあう。また歩みが遅くなる。吐き気がしてくる。空の胃から胃液が上がって来る。息を吸うと頭が真っ白になる。歩き始めて4時間。その位で着くだろうと予想していた時間を過ぎても、まだまだ遠い距離。泣きたくなる。また『相棒』からメール。「体大丈夫?」その問いかけに、意地になって、自分の主張を繰り返し、返信する。素直でない私。しかし、体は素直。足が軽くなった。頬の筋肉が緩くなったのが自分で判る。一言の言葉で再び体にエネルギーが満ちる。後少しだ!後少しだ!何度も自分に言い聞かせ、スピードを上げる。歩き始めて5時間後、私は家に到着した。しかし、私はまだ歩かねばならない。歩こうと思う。私の、私達の歩く道は後何キロ?
2005年06月22日
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梅雨の晴れ間。昨日、久し振りに自転車に乗る。勿論、近くまではちょくちょく乗っている。昨日は一寸遠出。延べで35キロ。寄る年波には勝てない。途中で膝から太股にかけて痛みが広がる。パンパンに張れると言うよりは、攣ったという感じ。現在中学に通う息子が、小学校2年の時から毎年二人で自転車でツーリングに出かけた。夏休み、キャンプ道具を積んで、3泊4日位の日程で山道を走った。最初の年は、父親優位。…に振る舞うことが出来た。本当は3日目に、私はギブアップ寸前。土砂降りの雨を理由に止めようと言ったのだが、息子は目的地までは絶対に行くと主張。内心、参ったなーと思いつつ、「偉いぞ!」と、それこそ偉そうに言って目的地まで走った。2年目。私は熱中症でヘロヘロ。最後に走った2年前は、途中で膝と足首を痛め、5分漕いでは休むという悲惨な状態。それから、自転車で遠出をするのは控えていた。というか、怖くて出来なかった。走ってもせいぜい15キロ位まで。で昨日。理由あってママチャリで出かけた。最初は快調。「何だまだまだやれるぞ!」とニンマリ。ところが15キロを過ぎるあたりから、足は重くなり、やがて膝から太股にかけて攣った様な痛みが広がる。「エッ! この位で!」途中で、自転車を降りて、押して歩く。足は、もつれる様にヨレヨレ。情けなかった。やっぱり歳だなー…つくづくそう思った。明日になれば、足がこってるぞー…そう思うと気が重かった。今朝起きると、思いの外、足腰に痛みがない。それじゃあ!…意地になって、息子のマウンテンバイクを借り、今日も40キロ走ってきた。
2005年06月19日
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ルル父さんの日記を読んで思い出した昔の話。その日は車で出張であった。同僚3人と出かけた。東京から2時間。一箇所で仕事をした後、更に別の場所へ。間が3時間も空く予定であった。私は朝から体調がすぐれず、悪寒がしていた。熱も出ていた。無理をして、最初の場所での仕事は何とかこなしたが、その頃になると、顔からは脂汗が吹き出し、腕に一寸触っただけで鳥肌が立った。熱は一段と高くなり、車に座っているのもしんどい状態だった。同僚達は、医者に診て貰った方が良いと言う。しかし、知らない土地である。取り敢えず、薬局に寄ってもらった。親切な薬剤師がいて、熱の具合を確かめ、解熱剤の座薬を薦めてくれた。熱を下げるには一番効くという。私はそれを購入した。さて、それを挿入する場所である。そこは街中ではなかった。当時は、郊外にファミレスも少なかった。それに次の仕事まで、3時間もある。同僚の一人にパチンコの好きなやつがいて、朝から頻りに行きたいと話していた。私は、郊外パチンコのトイレを借りる事にした。そこで座薬を挿入して、車で休んでいれば良い。その間同僚達はパチンコをして時間を潰せば良い。パチンコ店の入り口で同僚達と別れる。トイレに行って座薬を挿入。私は歩くのも、トイレの便器に座るのも、きつくて堪らない状態。這う様にして車に戻り、横になっていた。ところが、熱で体中が弱っていたと見える。座薬が刺激となって、急激にお腹が痛くなってきた。私は慌てて、また這う様にしてトイレへ向かった。ひどい下痢であった。長いこと便器に座り、腹痛が収まるのを待った。収まったところで、また座薬を挿入。しかし、車まで戻るのが怖かった。またさっきの様に腹痛が襲ってくることを考えると、とても場所が離れている駐車場まで戻る気がしない。私はトイレを出ると、その前のパチンコ台の椅子に腰を下ろした。店は混んでいた。台の空きがなく、立っている人もいた。私が座れたのは幸運だったのだろう。しかし、何もしないで、唯呆然として座っていると、通りかかる客や店員が胡散臭気にジロジロとこちらを見る。気が弱い私は、ポケットを探り、お金を取り出し投入。まだ今の様にカード等を使わない時代である。腕を上げているのも辛かった。そんな状態で、20回位回したところで当たりが来た。大当たり。エッ! 驚いたがそれ以上に困ってしまった。暫くそこにいて腹痛が起きなかったら、車に帰り、寝ている積もりだったから。ところが1回で終わるだろうと思っていた当たりが止まらない。当たりは続き、私は車に戻れない。嬉しい誤算というのだろうが、私はそれどころじゃなかった。熱で節々が痛く、思考回路はほぼ停止状態。早く止まってくれ!私はそればかりを念じていた。結局、出発の時間まで私はそこに座り、4万円程の臨時収入があった。同僚3人は…3人ともオケラになっていた。彼らは、「そんな馬鹿な! 信じられない!」という目で私を見ていた。車に乗り込み、次の仕事の場所に向かう頃、私の熱はスーッと下がって来た。本当にその座薬はよく効いた。翌日私は、熱もなく快適な朝を迎えた。
2005年06月17日
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百恵ばあちゃんが亡くなったのは、春、桜の季節である。連絡を受け、百恵ばあちゃんの家を訪れた。百恵ばあちゃんは静かな顔で横たわっていた。穏やかな表情をしていた。しかしあのニコニコの笑い顔はそこにはなかった。私は通夜を手伝う事にした。当時、私の故郷では、通夜は自宅で、葬儀は自宅か寺でやるのが一般的であった。通夜は文字通り、家族、親類縁者が夜通し起きて、死者を送り弔らった。私は夜の9時過ぎまで家の前で受付の手伝いをした。それから、親類の方や近所の方に交じって、祭壇の前で酒を飲みながら、ばあちゃんの生前の話にふけった。何故かしら、親戚の方の中に私のことを知っている人がいて、他の方に話している。「へエー」「ホントに!」「まあ!」私のことを聞いた方は決まって、私の方を見つめ、そしてニコニコしたり、くすくす笑ったりした。そのうち、残っているのは、ほとんどが親戚縁者になると、座から堅苦しさはなくなり、くつろいだ雰囲気になってきた。その頃になると、私は親類の方達とも親しくなり、そして、酒が進んだ。暫くして、私は、祭壇のロウソクが消えかかっていることに気付いた。新しいロウソクに替えるために、祭壇の前に座る。その頃、私はすっかり出来上がっていた。後ろから友達が「おい百恵ばあちゃんのために、お経をあげてやれよ!」と声をかける。「えっお経が出来るの?」親戚の一人がビックリして声をあげる。亡くなった祖母が時々お経をあげていた。幼い頃それを聞いていた私は、簡単なお経をうろ覚えに覚えていた。止せば良いのに酔っぱらった私は、数珠を持ち、お経を唱え始めた。うろ覚えのお経は酔いのために一段と怪しい。鉦を敲く。酒で力の加減がおぼつかなく、鉦はぐらぐら揺れる。くすくす… やがてウァッハッハ…私のいい加減なお経に、座は笑いの渦。敲いたことのない木魚を敲く頃には、笑い声で私のお経は聞こえない位だった。敲く度に木魚は揺れ、祭壇が揺れた。「おいおい力の入れ過ぎだよ!」友達が心配して声をかける。「大丈夫だよ。これ位でないと、あの世まで聞こえないよ!」「まだあの世までは行ってないよ!」「えつ?」「だってまだ葬式前だし、骨焼いてないし…」慌てて百恵ばあちゃんの遺影を見る。心なしか厳しい表情をしている様にも見える。私は繰り返していたお経を端折って無理矢理終わらせることにした。ポクポクポク…テンポも早くなる。祭壇は一段とぐらぐら。ようやくお経の最後の部分。ホッとした私は最後の鉦を力強く敲いた。チーン!…一寸力強過ぎた。ごろごろごろと鉦が転がった。祭壇が一段と波打つ。そして…ガターン!遺影が滑り落ちた。私は慌てて前のめりになり、お棺越しにそれを受け止めようとする。シッカと遺影を受け止めたが、一寸前のめりになりすぎた。お棺に抱きつく様な形になり、祭壇にぶつかる。一瞬間をおいて、祭壇が音を立てて崩れ落ちた。シーンと静まりかえる室内。やばいなー…私はそっと後を振り返った。皆こちらをじっと見ている。そして…次の瞬間爆笑の渦。「あーあ! やっぱりばあちゃん、彼のことが心配で心配で戻って来たんだ!」「これじゃー成仏出来ないわねー!」皆好き勝手なことを言いながら笑い転げている。それから座が弾む事弾む事。不謹慎のそしりを免れないが、本当に座が弾けにぎやかになった。百恵ばあちゃんの長男の方が言う。「いや、こっちの方が良いよ。ばあちゃん、賑やかな事が好きだったから喜んでるよ!」「そうそう」相づちをうちながら皆の笑いが続く。それこそ生きた心地がしなかった私に、「気にするな。ばあちゃん、逢いに来たんだよ」と皆さん声をかけてくれ、そして盃に次々に酒をさす。朝。小用に立った私は、親戚の女性が一人、玄関の土間に立っていることに気付いた。こちらに向けた背が波打っている。泣いているのかと思い、直ぐには声をかけられなかった。暫くして「どうかなさいましたか?」と声をかけると、その方は、顔を上げて振り返った。笑い顔であった。「いやー、いくら何でも、笑い転げながら出ていくわけにはいかないでしょう!通夜やってたんだから。隣近所の方から何て言われるか分からないわ!今、呼吸整えて、表情作ってるの!」その方はそう言うと、2・3度大きく深呼吸をして厳しい表情をして出て行かれた。暫くして、私も友達の家を出た。一寸と霧が出ていた。芽吹き始めた木々の葉がしっとりと濡れている。桜の花びらが落ちてくる。辺りからは、まだ暮らしの音は聞こえなかった。私は、何となく友達の家の方へ振り返った。一寸、上を見回す。まだ百恵ばあちゃんが、その辺りにいる様な気がしていた。
2005年06月16日
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30年以上も前のことである。山口百恵の『ひと夏の経験』が流行った頃、私には別の愛しの百恵ちゃんがいた。酒を覚えたての頃である。唯闇雲に飲んで飲んで、悪酔いし、放歌高吟。まだ、バンカラの風の残る地方都市。その頃流行っていた中村雅俊の青春ドラマではないが、下駄を鳴らして咆吼彷徨。今思い出せば、唯々二日酔いの頭の痛さだけが記憶に残っている若かりし頃である。ある日。久し振りに会った友達と飲んで、飲み過ぎて、肩を組んで千鳥足。途中で、ジイさんの形見の腕時計を無くしても気付かず、歌を唄って、友達の家まで帰ってきた。今ではもうほとんどない、横開きの玄関のガラス戸をガラガラと開けると、一人の女性が立っていた。酔眼朦朧とした目にはそれが誰だか判らない。「誰?」「俺の…の百恵…ちゃん」「エッ? 百恵ちゃん? 百恵ちゃ~ん! … 百恵ちゃん愛していま~す!」そう雄叫びを上げると、僕はいきなり百恵ちゃんに抱きついた。気がつけば、縁側に朝日が差し込んでいた。友達の家の客間で大の字になって寝ている事に気付くまで随分と時間がかかった。起きあがれない位頭が痛く、気分が悪い。そして、昨晩の記憶がまるでない。起きて来た友達が言う。「お前、昨日とんでもないことをしてくれたなー!」「えっ?」「お前覚えてないの? うちの百恵ばあちゃんに抱きついた事!」「ええっ?」痛い頭の脳髄を絞り出すようにして、必死に昨晩のことを思い出す。断片的に場面場面を思い出す。しかし、良く分からない。「…ばあちゃん?」「そう、百恵ばあちゃん」「…」そう言えば、百恵という名前を聞いて誰かに条件反射で抱きついた様な…その百恵さんという名の女性は、彼の祖母であったらしい。「よくまあ八十歳のばあさんに抱きついたもんだ!」「えっ、八十!」彼からそう聞かされても、顔まではとても想い出せなかった。彼が言うには、私は抱きついたと思う間もなく、「わー、ばあさんだ!」と失礼極まりないことを言って、百恵ばあちゃんを突き飛ばし、上がり框にひっくり返って寝てしまったとの事。それから百恵ばあちゃんと二人で、意識を失った私を客間まで運んだらしい。てんやわんやの大騒動だった。…らしい。「ばあちゃんが朝飯出来てるって」仕事に出ている彼の母親に代わって、百恵ばあちゃんが朝食を準備してくれているという。私はとても、朝食を食べられる状態ではなかったが、のろのろと這うようにして、茶の間に行った。「お早うございます。昨日はどうも…大変な事を…」私はしどろもどろになりながら、わびを入れた。その後、飯を摂ったかどうかの記憶は定かでない。唯々消え入りそうな気分で、這々の体で逃げる様に辞去した事だけを覚えている。恥ずかしくてもう二度と、百恵ばあちゃんには会えないと思った。もう二度と彼の家の敷居は跨げないと思った。それから暫くして彼から電話がかかってきた。「ばあちゃんが遊びに来いと言ってるよ」「えっ?」「とにかく来いよ」もう二度と行けないと思っていた彼の家を訪れると、百恵ばあちゃんが、炬燵でニコニコ笑いながら待っていた。炬燵の上には、お菓子やら果物やらが沢山準備してあった。それから百恵ばあちゃんと四方山話をして時間を過ごした。「お前うちのばあちゃんに惚れられたな」友達が半ば真顔で言う。「はぁーっ?」「少なくともお気に入りであることは間違いない」百恵ばあちゃんが彼に、「お前の友達の中では、私が一番モゾラシカ」と話したという。モゾラシイとは、私の故郷の方言で、『可愛い』という意味である。「やっぱりうちのばあちゃんも女だったんだなー…」友達が一人で納得するようにポツンと言う。それから私は彼の家を、いや百恵ばあちゃんの家をちょくちょく訪れるようになった。彼がいなくても、図々しく上がり込み、百恵ばあちゃんと話し込んだ。話さなくても、茶をすすりながらテレビを見たりしていた。百恵ばあちゃんは、いかつい顔をしていた。頑固できかん気の強さが目や口の表情に出ることもあった。しかし、私の前では、いつもニコニコ笑って穏やかであった。私と友達は凝りもせず、酒を飲んでは失敗を重ね、青春を浪費していた。百恵ばあちゃんは、そんな私達を叱りもせず、始終ニコニコ笑って見守っていてくれた。翌年私は上京した。休みで帰郷する度に百恵ばあちゃんの家を訪れた。私が来ないので寂しがっていると聞いていたから。上京して3年目、帰郷しても百恵ばあちゃんは家にいなかった。入院していた。見舞いに訪れた時、ばあちゃんの顔は寂しそうであった。翌年、百恵ばあちゃんは亡くなった。ばあちゃんの通夜での大失敗談は今度また書こう。後にも先にも八十歳の女性を抱き締めたのはあの時だけである。
2005年06月13日
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先日、部屋を探して、川縁の街を歩いた。緑の多い、坂道のある街である。住む家ではない。仕事場として使う部屋。『相棒』と探しに行った。駅を降り、街を歩く。新築のマンションがあり、良さそうに見える。近くの不動産屋に飛び込み聞いてみる。不動産屋は親切に(熱心に?)そのマンションの中まで案内してくれた。一寸狭い。狭い上に家賃が高い。それならば、古いけれども良い物件があるという。そちらにも案内してくれたが、私達が考えていたイメージとだいぶ違う。諦めかけた私達に、家賃は一寸高いが、広くて良い物件がもう一つあるという。そちらに行ってみると、確かに良い部屋だ。古くはあるが、使い勝手の良さそうな間取りと部屋数。私達はすっかり気に入った。しかし、問題は家賃が高いこと。私達が予想していた家賃よりかなり高い。二人で溜め息をつき、答えを保留して出てくる。「一寸疲れたね…」カフェテラスのあるレストランに行ってビールを注文する。暮れなずんでいく街をぼんやりと眺める。汗をかいていた体にひんやりとした風が心地よい。道路と線路を挟んで見える並木道の木の梢がサワサワと揺れている。「あの部屋良かったなー…」「うん…」言葉少ない私達。そこに先程別れた不動産屋がひょっこり顔を出した。「やっぱにここでしたか。そうじゃないかと思って…」彼はにこやかに笑いながら、一枚の券を差し出した。「裏の神社、来週お祭りなんです。これその時のにやる抽選券。良かったら御夫婦でいらして下さい」彼はそう言って券を渡すと出ていった。私達は、顔を見合わせて、静かに笑った。「御夫婦か…」暗くなってきた街のあちこちには、温もりを感じさせる家の灯りが点り始めていた。一週間たって、私達はまだ答えを決めかねている。その街の祭りは終わってしまった。
2005年06月07日
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昼寝が大好きだ。土曜の昼下がり。窓を開け放ち、レースのカーテン越しに爽やかな風を入れながら、床に大の字になる。大好きな音楽を大きく流しながら微睡む。至高の一時。音楽はジャズかクラッシックが多い。時にはカントリーになり、シャンソンになりカンツォーネになる。民俗音楽であったり演歌であったりする。昔、まだCDがない頃、LPを廻しながらウツラウツラしていて、ハッと気付くと、もうレコードは終わっている。プツンプツンと針が飛ぶ音だけが聞こえていたりした。仕方がないので、FMを流した。 しかし、自分の好きな曲ばかりでないし、途中にアナウンスも入る。その点、今はCDがあるし、ネットのラジオで外国の音楽専門局の番組を聞くことも出来る。しかし、今は家人がうるさい。大きな音量で音楽を流そうものなら、隣近所の迷惑になるから小さくしろと言う。この音楽に包まれる感じが良いから、下げられないと言うと、だったら窓を閉めろと言う。自然の風が吹き込んできて、季節の空気、匂いを感じさせてくれるから気持ちが良いんだと答える。晴れた日の薫風も気持ちが良いが、紫陽花の咲く頃、雨だれの音を聞きながら微睡むのも気持ちがよい。やっぱり、窓は開けておきたい。それこそ丸山健二さんの様に、スピーカーを担いで、信州の山奥に行って、誰憚ることなく、大音量で音楽を流しながら陶然たる気分で午睡をしたい。それが適わぬ私は、少しだけ音量を下げて、今日はマーラーを流しながら昼寝をしようと思う。
2005年06月04日
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飲食(おんじこ)のいとまほのかに開(あ)く唇(くち)よ我が深淵も知らるる莫(な)けむ (安永蕗子)小さい頃、歌人安永蕗子さんの家の近くに住んでいた。安永さんがやっていた書道塾に通った事もある。習ったのは書道ではなく、いわゆる習字である。私の悪筆乱筆を知る周りのものは誰も信じない。安永さんが故郷について書いた文章がある。『時代の波にゆられてないまじってしまった風俗のなかで、ゆるがぬものがあるとすれば、この風土の底を流れる豊かな水とおいしいお米につきるだろう。そのせいかお酒に恵まれて酒豪が多い。飲めない私もいけそうな顔をしていないと座が白ける。やはり少々熱い感じの土地であろうか。』私が酒を飲み覚えた頃、今の様に焼酎ブームではなかったが、土地柄か、焼酎もよく飲んだ。友と語らい一升瓶を何本も空けた。昔は沢山で飲むのが楽しかった。今は、一人で飲むか、心を許した少数の友、そして何よりも、心に決めた『相棒』と飲むのが楽しい。安永さんの歌に色感のなき夜に想う湖の心炎もゆるときの深霧という歌がある。飲む酒を時として苦く感じ、時として甘く感じる事がある。酔いに任せて心の裡を現し、酔いに任せて心を隠す。昔よく『圓』という球磨焼酎を飲んだ。ラベルに書かれたは『圓』の字の、円く円くという書風に惹かれたのだろうか。飲めば、角突き合わせて議論ばかりしていた、その酔い方を反省したのだろう。今は、「しょう」という球磨焼酎をよく飲む。「しょう」という字は漢字であるが、残念ながらパソコンでは打ち出せない。その酒偏の漢字の意味は、「飲み干す、飲み尽くす」という意味。飲んで酔って、自分の裡のもゆる炎の色を密かに見る。酒のアルコールが、炎を燃え上がらせるのか、水の様に炎を消すのか。それは判らない。判らないが、とにかく酒を飲み干し、胸の内の想いを飲み干し、飲み尽くす。昨晩も酒を飲んだ。
2005年06月02日
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当ポンポコデパートには成人病ならなんでも揃っております。29歳の時からの高血圧。心臓肥大。31歳の時、過労で倒れた時は、脂肪肝と言われ、半年頑張って7キロ痩せて肝臓の脂肪を落としたのに、肝臓検査の数値はちっとも良くならなかった。勿論、高脂血症やら何やらには当然のごとくかかっている。で、40歳の時からは糖尿病が加わる。病気も、1つ2つならば、一寸は気にするが、こう種類が多いと、「エエイ、もうどうとでもなれ!」って感じで、ほったらかしにしていた。一昨年。左顔面が麻痺した。左目は閉じられず、開いたままの口からはヨダレを垂れ流していた。脳神経外科での見立ては、末梢神経症。知人の中には、そりゃ脳梗塞を起こしかけたんだという者もいた。ステロイド剤を投与された。ステロイド剤は副作用で血糖値や血中コレステロールの数値を上げる。医者に糖尿病、高脂血症の事をアピールしたが、何よりも麻痺を治すのが先決と押し切られた。そして、案の定、糖尿病と高脂血症がグンと進んだ。それに慌てた医者が出した薬の副作用で、見るもの全てが二重に見えるという症状があらわれ、暫くは立ち上がる事も出来なくなるというおまけまでがついた。で、糖尿病は確実に進み、方々に悪さをする。まず眼にきた。小さな眼底出血が仰山ある。もし万が一大きな出血があったら失明ですよと医者から脅かされ、さすがに嫌になった。二ヶ月程前から、眼のかすみが一段と進んだ。老眼が進んだのだと思っていた。何か白い靄の様なものがかかっている感じ。暫くして、外の日向に出ると、その白い靄が一段とひどくなることに気付いた。日の当たっている所とそうでない所の明暗の差が激しく、途中のグラデーションが無い様に見える。日向では、本の活字や携帯電話の画面が本当に見辛い。1週間程前、車を運転していて、そう見えるのは右目だけだと気付いた。あっ! これは…慌てて目医者に行った。やっぱりそうでした。白内障。唯でさえ、頭の中に白い靄がかかっている様に感じているのに、それ以上にものを見にくくしてくれていたわけだ。五里霧中が十里霧中になっている。いや、その倍かもしれない。十十霧中。このところ色々と悩むことが多かった。これから先の人生が見えなくなっていた。ようやく出口が見えてきたかなと思える様になってきたのはここ数日である。無我夢中で闇雲にもがいてきて、錯覚かもしれないが、出口が見えてきた。希望らしきものが見えてきた。しかし、希望の明かりは見えても、そこは白内障を持つ身。薄くかかった霧の彼方に微かに見える程度。だが十十(とうとう)霧中の中にいても、私は、「そうとう」夢中である。生きることに。白内障の手術は7月下旬に受けることになった。
2005年06月01日
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ラーラのテーマで有名なデビッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』。あの映画の途中に3コマの黒味が入っている箇所がある。パルチザンに拉致されていたジバゴが難民に出会い、家族とラーラのもとに帰ることを決意するシーン。ジバゴが見あげた太陽のカットの後、一瞬ではあるが黒味が入っている。1秒24コマの映画フイルムで3コマ。約0.125秒。普通の観客は多分気付かない一瞬の黒。監督は、何故3コマの黒味を入れたのか?カットとカットとの間に一瞬関係ない画を入れる手法は、サブリミナル効果を狙ったもの等が有名だが、映画の中では意外と多く使われている。昔は『パン流し』と言えば、撮影時に行ったものだが、今は編集時に一瞬、何が映っているか分からない程に横に流れている画を挿入する事が多い。例えば、車の衝突場面。主観映像。ぶつかった瞬間、ぶれた映像や黒味や白味を挿入したりすることもある。その事により、不安定感を増したり、観客の不安感を増大させたりする。映像派、技巧派と言われているのブライアン・デパルマ監督はよく白味を使ったフラッシュ効果を取り入れた編集をしている。で、『ドクトル・ジバゴ』の黒味。リーンは何故3コマの黒味を入れたのか?ジバゴが見あげた太陽は一つの象徴である。革命という時代の大波に翻弄され、パルチザン拉致されたジバゴが、愛する家族と愛するラーラのもとに帰ることを決意する、その心を表すための3コマの黒。愛するものを意思の力で取り戻そうとする、その決意を表すための一瞬の黒。流されて生きている時間を遮断するための黒味。約201分12060秒289440コマのうちの3コマ。96480分の1。私はここのところ日記をお休みしていた。その間に色々なことがあった。悩み、絶望し、そして再び希望を持ち、一歩一歩歩んでいくことを決意した。この10日足らずの日は、或いは私にとっての3コマの黒味の様なものかもしれない。愛するものとの時間を意思の力で獲得する、その決意を表すための一瞬の黒。流されて生きている時間を遮断するための黒味。私は今清々しく爽やかな気持ちに満たされている。明日の時間が待ち遠しい程にワクワクしている。また元気に日記を書き続けようと思う。
2005年05月30日
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四十にして迷わず。 五十にして天命を知る。 と言う。 私は五十なのに、天命を知るどころか、無明長夜の闇の中で、のたうちまわり、泣き叫び、 もがき続け、迷い続けてきた。 夜の闇の中で、まんじりもせず、彼方を見つめる。 しかし私は何も見ていない。 焦点なく唯闇を見つめるだけ。 それなのに時計は時を刻み続け、 夜は明けようとしている。 陽はまた登ろうとしている。 しかし、私には夜明けの明かりは見えない。
2005年05月22日
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