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現在、偶像崇拝を厳しく禁止しているのがイスラム教とユダヤ教です。この偶像崇拝の禁止は旧約聖書の中に書かれていることです。モーゼの十戒の2番目の項目として「偶像を作って崇拝してはならない」と書かれております。しかしキリスト教はイエスの十字架の像を作ったり、マリア像を作って拝んでおります。又、仏教は仏像、ヒンドゥー教も神の像を作って拝んでいます。何年か前にアフガニスタンのタリバン政権がバーミアンの巨大な石仏をダイナマイトで破壊しました。世界遺産にもなるような重要文化財を破壊した野蛮な行為として全世界から非難されましたが、実はタリバンは敬虔なイスラム教徒なので彼らにとってはごく当たり前のことをしただけなのです。すなわち真面目な信仰心で偶像を破壊したということです。その後、9.11の同時テロの報復としてアメリカに攻撃されタリバン政権は崩壊しますが今だに、その後遺症でアフガニスタンは混乱が続いています。我々はあまり偶像崇拝を意識しない訳ですがイスラム教とユダヤ教の国では死ぬほど意識しているということです。しかし偶像崇拝をしている信者は「偶像を拝んでいるのではなく、偶像を通して主を拝んでいるのです。見えない主を身近に感じたいから偶像を利用しているだけです」と言うそうです。それも分かるような気もします。我々も仏像や観音菩薩像を拝む時は、知らず知らず、そのような気持ちになっていると思います。
2007年12月31日
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イエスは磔刑(ハリツケ)になりました。この磔刑というのは苦しむ時間が長いため一番残酷な死刑の方法だそうです。手のひらと足首に釘を刺して十字架を立ち上げる訳ですから激痛が走ります。足に痛みが走るから手で支えようとします。そうすると今度は手に激痛が走ります。その繰り返しで悶絶することになります。手のひらが裂けてしまうこともあったらしく手首に釘を刺すこともあったそうです。磔刑の場合何故か最後は窒息死するそうです。そのままにして置くと割りと早い時間に死んでしまうので苦しみが長引くように腰のところに小さな腰掛けをつけていたといいますから用意周到です。イエスは朝9時頃にハリツケになり午後3時頃に亡くなったと言われております。磔刑になった者の中には3日間も苦しみながら生きていた人もいたといいます。しかも全裸で恥部をさらけ出している訳ですから屈辱的な死刑の方法です。イエスは強盗と一緒に磔刑になりました。イエスは逮捕される時、抵抗しなかったそうですから覚悟していたようです。しかし逮捕される前は悩み苦しんだことが聖書にリアルに書かれています。尋常な悲しみではなかったようです。イエス自身が人間の死の苦しみを自ら体験し、いかに人間を愛しているか人間に示したいと思ったのでしょうか。そして人間が早く「主」の元に帰れるように自分自身を生贄にするデモンストレーション(「主」に対して)したのでしょうか。しかしイエスが息を引き取る寸前に「主よ何故私を見捨てたのか!」と絶叫したと伝えられています。この言葉が何を意味するのか以後世界で議論が絶えませんが、言葉のとおりだとすると現在のキリスト教の基盤は根底から崩れます。しかしキリスト教ではイエスは最後にダビデの詩を朗詠しただけだと説明しています。たしかにダビデの詩は「主よ何故私を見捨てたのか」から始まり最後は神を称える言葉で終わっています。そうであって欲しいと願いたいところですが、どうもスッキリしないのが私の素直な気持ちです。私は既存の宗教を否定する気はありません。又否定するだけのレベルに到っておりませんので出来ることでありません。先にブログにも書きましたがヒンドゥー教のシュリー・ラーマクリシュナ聖人が悟ったように「全ての宗教は同一の「主」を求めており至る道が違うだけである」と思っております。
2007年12月29日
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イエスが十字架で流した血が人類の贖罪になったというキリスト教の教えは良く知られている話です。本当にそうなんかどうかは別問題です。新約聖書は4つの福音書が中心ですが、外に色々な信者の手紙も、そのまま聖典として載せられています。この「イエスの血が人類の贖罪となった」というのは、この手紙の中で書かれているものです。つまり直接の「主」の啓示ではなく人間が人間にしたためた手紙に「私はそう思う」と書かれていたということです。ユダヤ教とキリスト教は兄弟の宗教で旧約聖書は共通の聖典です。しかしユダヤ教はイエスを認めていません。ユダヤ教はイエスを偽メシヤとして処刑しています。当然ながら「イエスの血が人類の贖罪となった」というのはユダヤ教では認められていないということになります。イエスは何故ハリツケになったのか良く知られていないと思いますし、その辺に興味がある人も結構いると思いますので以下のとおり整理しておきましょう。イエスは2重の罪で死刑になりました。一つは宗教裁判の判決です。イエスが当時のユダヤ教の律法違反をした罪とユダヤ教の教えを批判した罪です。もう一つはローマ法に違反したことです。それはエルサレムの神殿において露天商の机を全部引っくり返して逃走した刑事犯です。さらに人心を惑わして暴動を策略したとして当時の治安維持法のようなものに抵触したことです。この判決が正当であるかどうかは分かりませんが、ただ当時の判決はそうであったということです。ちなみに当時、ユダヤ国はローマの植民地となっていたのでローマ法が適用になった訳ですが、宗教の自由は保証されていてユダヤ教は認められていたようです。しかしイエスが10歳の頃にはユダヤ人の暴動が起こり逮捕された2000人のユダヤ人がハリツケにされる事件がありました。そのためローマ帝国は暴動を起す可能性のあるイエスを警戒していたということです。宗教上の律法違反としては、イエスが安息日を守っていなかったこと(安息日に説教していた)、神通力を乱用したこと(病人の癒し)と、自らを神と名乗り神を冒涜したとする罪です。実際イエスは神通力を乱用することに「後ろめたさ」を感じていたようで神通力で癒しをした後は「このことは黙っているように」と口止めをしております。イエスの布教の期間は、たったの2年間でした。30歳まで、ただの大工で、何の変哲もない普通の人間だったのですが、ヨハネの洗礼を受けてから急に目覚めて布教を開始し32歳でハリツケになるまで布教しました。そのままであれば、その後の世界に大きな影響を及ぼすことはなかったでしょうが死後3日後の復活がキリスト教の基盤を造ることになったようです。たった2年間の布教で世界にこれだけの影響を及ぼしたというのは凄いことです。釈迦は45年間の布教期間でした。ムハンマドは約20年です。
2007年12月26日
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キリスト教の原罪についてコメントです。キリスト教ではアダムとイブが禁断の実を取った罪によりエデンの楽園を追放され、その後の子孫もその罪を背負っているとしています。そしてイエスが十字架で流した血により、その原罪は贖われたのでイエスを信じるものは救われると言っています。どうも分りません。というのは、もしそうだとすると今まで「主」の「赦し」にあまりにも矛盾が出てきます。例として上げたいのがユダヤ人のダビデ王(紀元前1004年~967年在位、現在イスラエルで最も尊敬されている王でイスラエル国旗にダビデの星が書かれています)です。彼は部下の妻が欲しくなり、その部下を殺してものにするという極悪非道なことをしています。当時ダビデ王には7人の妻と10人の側女がいたそうです。相当にスケベな男だったのでしょう。ところが「主」はそのことについては一時罰を与えるものの最終的に赦した上に祝福さえも与えています。この違いを考えて見てください。同じ「主」がやることとは思えません。たかが禁断の実を取った罪を末代まで背負わせ、極悪非道なことをした者を即赦すというのはどういうことでしょうか。慈悲深く心が広いはずの「主」がやることではありません。キリスト教ではダビデ王の「主」もアダムの「主」も同じあると主張していますので、このチグハグをどのように考えているのか聞いてみたいものです。ダビデ王の子孫からメシアが現れると旧約聖書には書かれています。キリスト教ではイエスがそのメシアであるとしていますがユダヤ教ではまだメシアは現れていないことになっています。つまり、ユダヤ教ではイエスをメシヤとして認めていないということです。 原罪は12月15日の日記に書いたように「出来の悪い分身が宇宙のリズムを壊す行為をした罪」と考える方がスッキリします。まあ、これを比喩的に「禁断の実を取った」と表現しているとすれば分らないでもないですが、とすれば何故このような混乱するような説明をするのでしょうか。ちなみに現在イスラエルはダビデと同じようにパレスチナに対して国連の決議を無視して極悪非道なことをしているようです。やはり血を引いているのでしょうか。それと、そのイスラエルを支援しているのがアメリカです。現在アメリカの政治も経済もユダヤ人が実権を握っていますので必然的にこのようになってしまうのでしょうか。
2007年12月24日
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先日のブログで「身の程知らずのことを書きました」が、これも今の情報ネットワークがあればこそ出来ることであり、又許されることなのでしょうか。良い世の中になったものだと喜んでおります。お釈迦さまが悟りを開いた時に、彼は自分の悟ったことを布教する気はサラサラ無かったと伝えられております。実際当時のヒンドゥー教で悟りに達した僧は、ほとんどが布教することを拒否し早くこの世にオサラバして「主」の国に行くことを望んでいたそうです。これは私の勝手な推測ではなく、ある本に書かれていることです。釈迦も例外では無かったのです。つまり自分の悟ったことは人間が理解できる訳がないと判断したのです。しかし釈迦の前に梵天が現れて、「チョット待ってプレイバック!プレイバック!」と釈迦を引きとめて人間に布教するように求めたのです。梵天は懇願しました「生まれながら純粋で今生が最後の輪廻の段階の人間は理解できるから布教して欲しい。結果的に一人でも良いのです」と。釈迦も妥協して布教を開始したのですが悟りを開いた35歳から入滅の80歳まで献身的に布教をしました。この梵天はガブリエル天使であると思います。これは私の推測ですが根拠があります。その後1200年という短い(?)期間にガブリエル天使は色々な形で人間界に天の使者として何度も現れております。当時の地球担当大臣の立場にあったのではないかと思います。新約聖書にもイエスの支援天使として何度も現れ、コーラン(イスラム教の聖典)にもムハンマド(マホメット)の支援天使として何度も現れております。釈迦に現れても何の不思議はない訳です。釈迦は布教するのであれば自分の考えでやりたかったのでしょう。つまり「主」と霊のことは人間に封印したのです。小学生に算数を教える前に微分・積分を教えたら頭が混乱するから微分・積分は当面封印した方が懸命であると判断したのでしょう。現在の実際の仏教には神、霊魂、「主」の概念はありません。釈迦は弟子からの「主」と「霊魂」のヤンヤの質問に対し「不記」として何も答えなかったそうです。彼は知らなかったのではなく、あえて封印したと思うのです。
2007年12月21日
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森本達雄(名城大学名誉教授)の「ヒンドゥー教―インドの聖と俗」を読んでみました。森本教授が25年の歳月を要して書かれた400ページの本ですが大変参考になりました。ヒンドゥー教はガンディス川への沐欲等の姿を見るにつけても「不潔で野卑な宗教」のイメージが強かったのですが私の固定観念は一掃されました。高潔で教義においても幅の広さを感じます。ヒンドゥー教は現存している宗教の中では最も古い宗教で紀元前1300年頃に成立しています。最初はバラモン教と言っていましたが大衆用にアレンジされてから名前をヒンドゥー教として急速に広まったようです。仏教はヒンドゥー教の一派でしたが苦行を批判して分離独立していきました。仏教は一時、インド全体の半分以上まで布教されましたが現在は2,3%程度までに衰退して、ほとんど壊滅状態になっています。インドに生まれた宗教ですがインドでは布教に至らなかったということです。代わってヒンドゥー教が復活して現在はインド全体の80%がヒンドゥー教の信者になっています。釈迦は「主」と「霊」のことは封印して、欲と執着を捨て去ることに専念するように説いています。多分「主」と「霊」のことを知ろうすると、知ろうとする欲と執着が生まれ、益々分らなくなると考えたからではないでしょうか(あまりにも身の程を知らぬ私の推測です)。この変わった手法は悟りにいたる近道かも知れませんが結果的に布教という観点から見ればインドにおいては失敗だったようです。しかしタイ、ミャンマー、ベトナム、中国、韓国、日本には広がっていきました。現在、世界で仏教の信者は3億5314万人に対してヒンドゥー教の信者は7億4679万人です。半分以下の数字になっています。ちなみにキリスト教は19億2998万人、イスラームは11億4749万人です。キリスト教の信者は年々激減しており深刻な状態になっていますがイスラームとヒンドゥー教は増えているそうです。ヒンドゥー教が幅の広い教義を持っていると思う理由には聖者シュリー・ラーマクリシュナ(1836年生まれ)の存在があります。彼は霊感により全ての宗教は同一の「主」を求めており、至る道が違うだけであることを悟ったそうです。いわば世界宗教的な考え方を根底に持っているということです。このラーマクリシュナの考え方が現在のインドにおいて主流になっているかどうかは分りませんが彼が少なくともインドの中で最も尊敬される聖者の一人になっていることは確かです。ヒンドゥー教には釈迦クラスの多くの聖者がいて、釈迦と同じように苦行を批判している派もありますので仏教の存在意義がインドでは問われてしまうのは当然かも知れません。最後にインド建国の父でありヒンドゥー教指導者であるガンディが常時愛唱していた聖者トゥルシーダースの讃歌の最後の部分だけを書いておきたいと思います。 そして「主」よ、我らの心の中で、ひそかにささやいてください 「おまえは私自身だ」と
2007年12月19日
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16日は娘の祥子のピアノコンサートに行ってきました。会場は大和町の仙台ピアノ工房ですが60人程度しか入れない狭い会場で、ほとんど満員の状態でした。娘は国際ピアノコンクールで優勝経験もあって、今まではドイツ在住でヨーロッパを中心に演奏活動をしてきましたが今年7月の結婚を機に拠点を東京に移すことになりました。狭い会場ですと演奏者の心も聴衆の心も身近に通じ合うようです。娘自身も楽しく演奏できたと後で言っておりました。最後のシュウマンの曲を弾く時に娘から聴衆にコメントがありました。「人間は自分で勝手にフィルター作って良い音楽を拒絶してしまうところがあります。元々は音楽に感動する素養を全ての人間が持っているのにフィルターが邪魔しています。今日のこの曲は少しでもフィルターを開けて聞いて下さい。」ということでした。そのコメントを聞いたためなのか、演奏が終わった時に多くの聴衆の目は潤んでいたそうです。娘が演奏を終えて聴衆の目を見た時に分ったそうです。女房は涙を堪えるのが大変だったと言っていました。実は私も目が潤んだことは確かです。「主」と分身の人間はこのフィルターで遮断されているのでしょうか。このフィルターは自分で勝手に作ったものですから自分で取り除く努力をしなければならないようです。それにしても娘の成長ぶりを見て嬉しく思いました。演奏が円熟味を増していることも確かですが人間的にも一回りも二回りも大きくなったようです。まだ娘として同じ道を歩いていたと思ったら、いつの間にか別の大きな道を歩いていたのです。今日は私が「子離れ」するメモリアルな日でした。それは嬉しくもあり寂しくもあることです。来るときは吹雪いていましたが帰りは嘘のように穏やか天気でした。
2007年12月17日
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先日カタカムナの事を書きましたが、今日は、そのパート2です。少し私の推測と仮説を入れますのでご容赦願います。カタカムナ文献によるとカムナが宇宙を創造する時に同じ空間に潜象世界と現象世界を一緒に創造したそうです。潜象世界からは現象世界が見えますが現象世界から潜象世界が見えないようです。潜象世界とは、よく言われる霊界を指しているのだと思います。カムナが分身を繰り返す段階で「出来の悪い分身」が生まれたようです。この「出来の悪い分身」は「主」から分身したことを忘れ宇宙のリズムを壊す行為をするようになりました。「主」はこの分身を再教育するために現象世界に研修所を沢山作りました。その一つが地球であると思います。そして現象世界に創造した生物の中に分身を住まわせて目覚めるまで教育することにしました。いわば地球は罪を背負った分身の刑務所ということになります。おまけに死ぬ苦しみを味わねばならないという罰も与えられました。この罰は罰というよりも自分が「主」の分身であることを気づかせる有効なツールと考えた方が良いかも知れません。「主」は自分の分身は全て愛しています。「親は出来の悪い子供ほど可愛い」というではないですか。そのため使いを研修所に派遣して何度も目覚めるように教育して来ました。それが今日の宗教として残っている訳ですが、残念ながら人間に勝手に解釈されて歪曲されて伝わっているものが多いようです。「主」は「早く目を覚まして私のところに帰って来ておくれ!」と嘆いているのでしょうか。
2007年12月15日
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先日、「カタカムナの謎」の本を読みました。工学博士の深野一幸さんが書いた本ですがオモシロイ本でした。1万年前の日本人が既に宇宙のビッグバンや相対性理論を説いていたと言うのです。タマゲマシタ!謎のカタカナで書かれていたので解読出来なかったそうですが楢崎さんという天才が解読に成功して分ったそうです。それによるとカムナという潜象世界の「主」が宇宙をビッグバンで創造したとのこと。全ての被造物はカムナから分身を繰り返してビッグバンと一緒に無数に増えていったのだそうです。即ち我々人間も「主」であるカムナの分身であるということですね。イエスキリストが「神は人間の中にいる」とか、御釈迦さんが「我が身即ち仏なり」とか言っているのも何となく分るような気がします。それにしても我が民族の先祖が現代の宇宙科学を1万年前に説き、さらに宗教の基本原理を包含する理論を展開していたのですからスゴイことです。日本民族は素晴らしい!
2007年12月14日
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日記を書かなくなってから何ヶ月も経ちました。現在は航海している訳ではないので書くことがないのです。これからはヨットのことだけでなく諸々感じる事を「つれづれなるままに」書いていきたいと思います。従ってブログのタイトルも変更しなければならないのでしょうが、馴染みが出たタイトルなので、そのままにしたいと思います。11月から総武建設株式会社の非常勤で仕事をすることになりました。主にホームページの管理の仕事になりそうですが、その他諸々の仕事もしていきたいと考えています。従って建設関係の情報も書いていきましょう。 最近の生活は夕方ジョギングしてお風呂に入って晩酌というパターンです。私にとってこれは幸せパターンそのものです。いつまでも出来る訳ではないでしょうが最低でも80歳位までは続けていきたいものです。寝るのは8時頃で朝は3時頃には目を覚ましてベットの中で本読みをしています。まさに「お年寄り」の生活ですね。市の図書館がすぐ傍にあるので助かります。図書館は我が家の本棚と思っています。最近は宗教関係の本を読みあさっております。次元の違う世界を旅しているようでワクワクしています。もっと若い時に読んでいれば良かったと思う本にも出会っています。 私はどこの宗教にも入っていませんが、以前にもブログで書いたとおり「サムシングクレート」の存在は感じています。残された短い人生でどこまでの心境に到達できるか楽しみ(?)です。これから時々読んだ本の感想も書いていきましょう。
2007年12月13日
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