2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全30件 (30件中 1-30件目)
1
「月刊ビジネスデータ」(日本実業出版社)という会員制雑誌に連載を始めた。「リーダーのマネジメント&データ誌」と銘打ったビジネス雑誌。「ファシリテーションの技術」というテーマだ。http://www.njh.co.jp/njs/bd.htm---------月刊『ビジネスデータ』は、人を使う人のためにだけ編集した、経営幹部・管理者向けの月刊誌です。毎月、人材育成、配置法、指導法などのマネジメントに関する問題や“部課長になって初めて関わる実務”に役立つ“ウラ技”的なテクニックやヒントなど、「他人に聞けない仕事術」を満載!さらには、「メンタルトレーニング」や「子供の学費問題」など、個人的な問題も取り上げて、難しい時代を生き抜くマネジャーを公私にわたり応援します。 (雑誌のホームペジから引用)---------------以下は、第1回の最後の部分。---------------------------------------------------------------------(前略)組織は人でなりたっている。その人を束ねる方法は、昔から皆の切実な関心の対象だった。多くの場合、それは人物論に矮小化されたり組織論に拡散する。 組織の仲間と一緒に問題の解決にあたる、その中でごく自然にリーダーの役割を果たしていく、今そういう新たなリーダーのあり方が求められていると思う。この連載では、新しいリーダーの仕事ぶりについて考えてみたい。--------------------------------------------------------------------
2005/11/30
コメント(0)

このブログに、写真や図解を入れたいと考えてきた。今日はその実験。プラトンの国家論の図解国立民族学博物館の梅棹忠夫先生を訪問したときの写真
2005/11/29
コメント(2)
団塊の世代のノンフィクション作家・佐野眞一が書いた渾身のルポ。面白かったので、新潮文庫上巻・下巻を数日で一気に読んだ。プロローグ:本の悲鳴が聞こえる!第1章:書店 「本屋」のあの魅力は、どこに消えたのか第2章:流通 読みたい本ほど、なぜ手に入らない?第3章:版元 売れる出版社、売られる出版社第4章:地方出版 「地方」出版社が示す「いくつかの未来図」第5章:編集者 「あの本」を編んでいたのは、だれか第6章:図書館が「時代」と斬り結ぶ日第7章:そして「書評」も、消費されていく第8章:電子出版 グーテンベルク以来の「新たな波頭」エピローグ 「本」の生死をわけるもの検死編 蔵書の死 読者の死 書店の死と雑誌の死 「本」の復活を感じさせる小さな予兆本を巡る状況を余すところなく調べ、それぞれのトップランナーにインタビューをして、全貌を浮かび上がらせた問題作だ。この問題は、広く、そして深い。
2005/11/28
コメント(0)
文京区立鴎外記念本郷図書館を訪ねた。子供連れのお母さんや、子供一人で来ているケースも多い。また区民サービスセンターも併設されている。また印鑑登録や住民票や戸籍のサービスが行われていたり、本のリサイクルコーナーもあり、住民が持ち帰れるようにもなっているなど、区民に密接な図書館だとの好印象を持った。ちょうど職員が子供に説明する内容が聞こえてきたが、あたたかい感じがした。明治の文豪・森鴎外を記念した記念室の入り口には、遺書が飾ってある。東大の同期生で生涯の友人である賀古鶴所に口頭で説明しまとめてもらったもので「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎之墓と書き、書は中村不折に依託。宮内省や陸軍の栄典は絶対に取り止めを請う」とある。(鴎外の漢字はこのブログではきちんと出ないでのこの文字を使っている)千住にある「かもめの渡し」という地名をもじったものとする説が有力だ。「かもめの渡し」は吾妻橋の上流にあり、歓楽街の吉原を指す名称だった。遊興の地に近寄らず、遠く離れて千住に在るという意味が込められている。鴎外は1862年に津和野町の典医の長男として生まれ、10歳で上京し、西周邸から進文学社でドイツ語を学んだ。2歳ほど年齢を詐称したようで、12歳で東京医学校予科に入学、最年少記録の19歳で東大医学部を卒業する。卒業時の席次が8番であったので、海外留学の夢をあきらめて、陸軍に入る。その後、衛生学研究・衛生制度調査を目的に4年間のドイツ留学をするライプチヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで生活する。滞在中は西欧の文学・哲学・美学にも関心を払う。ミュンヘンでの「うたかたの記」の主人公・巨勢のモデルである画家の原田直次郎らと友人との写真がある。洋服、帽子、ステッキ、そして腰に手をあててきどった若い鴎外の姿が微笑ましい。帰国後は、赤松則良男爵の長女・赤松登志子と結婚し、赤坂の上野花園町に住むが離婚する。最後に、見晴らしのよい千駄木に両親・祖母を呼び寄せ320坪の広い土地に1階77坪・2階10.25坪と5坪の家を建て、観潮楼と名づける。陸軍軍人として勤務しながら文学活動に力を注ぐ35歳の鴎外は露伴、緑雨と三人冗語という新作合評を行い、樋口一葉の「たけくらべ」を評価している。またドイツ三部作として舞姫(有望な留学青年の異国の恋、挫折と再生)を書いたり、慶應技術大学の美学の講師も兼ねる。慶應の福沢と写った写真もある。勤め人としての鴎外は、必ずしも順風満帆ではなかった。軍医監・第12師団軍医部長という職位で九州の小倉に左遷される。「小倉日記」には雌伏の時代の公私の生活や心情が記されている。1902年には大審院判事・荒木博臣の長女・荒木しげと再婚するが、これも短い期間で終わっている。小倉時代は文学、美術、評論活動を一切中断するが、第一師団軍医部長として東京に戻る。東京では、原作以上と言われた9年かかった即興詩人の翻訳などを著した。途中、日露戦争に第二軍(黒木大将)軍医部長出征し、奉天に進軍する。この時も、戦地から詩や短歌を書いた手紙を家族に出し、それが「うた日記」となる。観潮楼の歌会には、与謝野寛、伊藤左千夫、佐々木信綱らと歌会を行っており、石川啄木も寛の紹介で参加している。本職では軍医総監・陸軍医務局長に栄進している。1909年から1915年は文学活動がもっとも盛んな時期である。「青年」「雁」「イタ・セクスアリス」乃木将軍の殉死に衝撃を受け一夜で書き上げた歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」などを書いている。西園寺公望候から贈られた「才 学 識」という見事な書もある。昼は陸軍軍医、夜は文学・歴史・哲学の研究という二足のわらじを履いていた鴎外は、渋江抽斎という人物に興味をひかれる。抽斎は昼は津軽藩御典医、夜は中国古典の考証学者であった。自身の境遇との関係で共感を持った鴎外は「渋江抽斎」も書く。陸軍を定年退官した鴎外は、帝室博物館総長・宮内省図書頭としても活躍する。鴎外の55歳の写真では、まばらな髪、こけた頬などもう老人の風貌である。鴎外は1922年に60歳で没するが、与謝野寛は死の枕元で「鴎外の顔クリストに似たり」と記している。年表を見ると大正4年(53歳)には7冊の本を出版しており、その前後が創造のピークだったということがわかる。貞献院殿文○思斎大居士。「歴史小説にゆかりの地を歩く」という企画展をやっていた。鴎外は史伝という独特の文学の形を模索している。史実に忠実であると同時に一族や同時代にまで及ぶというスタイルでらう。忙しい軍務の傍ら、多くの人々に会ったり、故人の墓を訪ね、その記録をもとに史伝を執筆している。鴎外に関する書物を200冊ほど集めた書棚があった。「鴎外と漱石」「芭蕉・鴎外・漱石」「森鴎外 不遇への共感」「仮面の人 森鴎外」「両像・森&鴎外」(松本清張)「美神と軍神」「不遇の人 鴎外」「逍遥・鴎外・漱石」「鴎外 小倉左遷の謎」「新説 鴎外の恋人エリス」「小説 鴎外の恋」「鴎外 逆境の人間学」(吉野俊彦)「鴎外語録」(吉野俊彦)「鴎外百話」(吉野俊彦)、、、。これらの本を、本棚のまえに座り込んで、いくつも読んでみた。・鴎外は夕食後、暗い部屋で横のなり12時に起き、午前2時まで、創作や翻訳に励む。・56歳の時に、「生きている限り考えるという作用を続けるに違いない」「そこで残る問題は、私がその考えるという作用の対象として何を選んでいるかということである」「主として書物、創造的な側面(詩歌・伝記)」・私は毎月毎日自分に与えられた義務を果たしてゆけばそれで十分だという、、」。何かほんとうの生き甲斐のある生活が他にあるはずだという思い思いしつつ、もうかなりの年になってしまった」・私は長いこと、本職の余暇にいろいろな文学活動もやってきたが、それをほめてくれる人はいなかった」日銀の理事から山一證券経済研究所理事長として活躍して、最近亡くなった吉野俊彦氏(1915年生まれ)の鴎外本は13冊もあった。サラリーマンと執筆活動の両立という境遇を生きた鴎外に関心を持って研究した人物だ。吉野氏が活躍していたひと時代前には鴎外の行き方も脚光を浴びたが今の時代ももっと陽があたってもいいと思う。一般に自分と似たところのある人を研究する人が多いのもうなづける。離婚するなど家庭面でもいろいろな障害があったが、鴎外は、軍人としての本職をゆるがせにすることなく、文学活動として数多くの名作を発表した人物である。知っているつもりだったが、鴎外の作品は何一つまともに読んでいないことにも気がついて恥ずかしくなった。。何を読もうかな。
2005/11/27
コメント(0)
土曜日の午後は、もう10年以上(11回目)続いている毎年の秩父行き。今回は12人が参加。西武池袋から2時間ほどかけて秩父へ。途中、1年ぶりの富田先生と談笑。富田先生の人柄はあたたかく、ふんわりして、心地よい。来年はキムタク出演の、藤沢周平作品の音楽を担当するとのこと。最高の蕎麦を提供する小池さん夫妻の笑顔に今年も出会えた。この蕎麦屋は知る人ぞ知るという感じの名店。こんなうまい蕎麦があるのかといつも感動する。菊姫大吟醸、四季桜の聖、上喜元などの名酒を富田先生が今年も手配をしてくださった。素晴らしい蕎麦と一緒に菊姫や聖を、仲間と一緒に飲んでいると、「幸せ」を感じる。こういうことはこの会以外にはあまり経験がない。あっという間の3時間半。来年は、秩父夜祭にあわせて開催したいということになった。深夜、仙台に帰着。午前中は、文京区の鴎外記念本郷図書館の森鴎外記念室でゆっくり過ごし、その後、近くの竹久夢二美術館、立原道造記念館を駆け足で訪問した。
2005/11/26
コメント(0)
気が付くともう手帳の季節。日本能率協会マネジメントセンター編(JMA)で上記の本が出た。JMAのホームページに各界の仕事師にインタビューしたものを掲載していた。これをまとめた本である。昨年は大判の雑誌風のつくりだったが、数人のインタビューがあり、私も出ていた。今年は本のスタイルをとっている。「1年12ヶ月52週365日8760時間、遊びも仕事も大充実」というキャッチフレーズ面白い。以下は掲載されている39人。私の部分の紹介は「時間も図解思考でとらえるタイムマネジメントを実践」だ。斉藤孝・佐々木かおり・梨元勝・西村晃・野口悠紀雄・久恒啓一・湯川れいこ・熊谷正寿・渋井真帆・高橋俊介・戸田菜奈津子・西和彦・野村正樹・室井祐月・渡辺美樹・青木陽子・秋元康・海原純子・斉藤正勝・中谷彰宏・平野岳史・吉永みち子・米倉誠一郎・和田秀樹・秋山をね・生島ヒロシ・いわむらかずお・木村政雄・進藤晶子・中西哲生・藤巻幸夫・泉麻人・太田垣晴子・塚本昌彦・綱島理友・南場智子・花田紀凱・弘兼憲史・養老孟司。
2005/11/25
コメント(0)
夜7時半から虎ノ門の商工会館でPHPから出した「図で考えれば文章がうなくなるーー図解文章法のすすめ」出版記念の講演会。終わって名刺交換した方々などを以下に記す。養護学校教諭・富士ゼロックス・旭化成情報システム・海外技術者研修協会・あいおい損保・日本航空・全日空・人間工学研究センター・アクセル・関東短期大学助教授・足利銀行・第一生命・資生堂・V Age Network・新座高校校長・岡山商科大学職員・日本能率協会マネジメントセンター・仙台市役所、、、。終わったあとは、霞ヶ関ビルの地下で2次会。
2005/11/25
コメント(2)
講演の内容を記事風にまとめるという仕事を頼まれたので、やや真面目に聞いて、様子を記者になったつもりで記したものが下記。-----------------------------------------------------------宮城大学祭で例年好評の宮城大学後援会と実行委員会主催の講演会の講師は、世界的数学者でテレビ「世界一受けたい授業」などでおなじみの秋山仁氏でした。テーマは「青春とは若き肉体の中にあるのではなく、若き精神のなかにこそある」です。講堂の一階席は満員で2階にも人があふれる状態で、人気の高さがうかがえました。「数式を使わない変な数学者です。講演は年間300回、3か月は外国、9か月は日本、という生活。数学は苦手だったが好きだった。」から始まった講演は、前半は数学の話、後半はやる気・元気の出る話と2部構成でした。前半は、世界の数学四大難問への挑戦の失敗から毎年一つのテーマを追いかけていること、そして昨年のテーマ「風呂敷はなぜ正方形か」に取り組む様子などを実演してくれました。白っぽいシャツ、黒い上着とズボン、灰色の髪というモノトーンの服装と風貌、やさしくなめらかな語り口、手と大柄の体全体を使って舞台を歩きながら広く使うという講演スタイルは、手品師のようです。後半は、講演テーマにもなっているサミュエル・ウルマンの「青春」という詩の朗読と解説と「頭は関係ない。誰でもやればできる」というメッセージから始まりました。楽器が苦手だったが3年間の毎日の練習で150曲のシャンソンを弾けるようになったというアコーディオンの演奏。若者へ向けての12のメッセージも心に残るものでした。1.デカイ志を立てよ 2.大いに読書をしよう 3.感動を求め、ドンドンでかけよう(海・山・コンサート・展覧会・寄席) 4.職業について学ぶ、擬似体験をし、自分探しをしよう 5.外国語を次々とスタートしよう(NHKテキスト、、) 6.体力をつけよう 7.失敗を恐れず、挑戦しよう 8.自立しよう(自分の金ならよく勉強する) 9.各地を訪れ、大きな視野を持とう 10.真実を語れる友や、尊敬する師を持とう 11.創作的な日々を送ろう 12.何人の人を喜ばすことができるだろうと考え、朝起きよう最後に、今取り組んでいる、網走を数学の町にするという「オホーツク数学ワンダーランド」の話がありました。映像を使って、廃校を拠点にして数学の定理500をすべて形にしたプロジェクトの様子を紹介してくれました。笑い、音楽、品物、シャンソン、映像、そして気さくな人柄、気取らず子供に話しかけるようにメッセージを発し続け、数学者というよりエンターティナーとの印象。数学をエンターテイメントにした秋山仁氏の講演会は余韻を残しながら大成功のうちに終わりました。
2005/11/23
コメント(2)
プレジデントというビジネス雑誌が、雑誌の記事の中から、言葉を選び出して編集した本(非売品)を手にした。「上司と部下との人間関係」「すぐ使えるビジネスの知恵」「できるヤツは、ここが違う」「ライフスタイルを見直す」「家族の絆とは何か」の5つの章に分かれている。その「ライフスタイルを見直す」の中に、自分の言葉を見つけた。2003年9月1日号「二兎を追うべ!凡才のための『生涯設計図』」からとった言葉のようだ。以下、いいと思った言葉を抜書きしてみた。-------------------------------------------------「信頼できる上司」を持つことこそが会社という組織の中では、もっとも強力な「元気になる力」となる。 (河合薫)毎日、正しいことを繰り返しやれば、人間は甦る。人間は誰でも必ず育つ能力を持っている。教育で人は育つ。 (廣岡達郎)小さな改善でも甘くみないで取り組んでいくことで、巨大な生き物を変えて甦らせることだってできる。 (張富士夫)私は業務の95%をコミュニケーションに費やしています。 (カルロス・ゴーン)人間が変わる方法は3つしかない。一つは時間配分を変える、二番目はすむ場所を変える、三番目は付き合う人を変える。 (大前研一)人を採用するときに私が見るのは、6割が人格、2割が生活習慣、そして3割が学力なんです。 (渡邉美樹)-------------------------------自覚した凡才は才能を過信した秀才より前向きな生き方ができる。 (久恒啓一)
2005/11/22
コメント(2)
団塊の世代以降をターゲットにした大人のライフスタイル提案誌「ほんとうの時代」(PHP)に連載をしている「人物記念館の旅」の3回目は福沢諭吉記念館を書いた。郷里の偉人・学問のすすめ・学校と新聞・独立自尊・文部省は竹橋にあり文部卿は三田にあり・増田宗太郎・福翁自伝・大観院独立自尊居士という戒名、、、。次号は、原敬総理大臣を書こうかな。
2005/11/21
コメント(0)
東洋美術史学の研究者、歌人、書家として多彩な活動をした会津八一を記念した博物館は、早稲田大学キャンパス正門近くに位置する旧・図書館を用いている。坪内逍遥記念演劇博物館訪問の帰路に見つけて入った。この建物は1925年に建てられ、早稲田大学の中でも最も古くかつ優美な建物と言われている。様々な機会にこの人の名前を聞くことがあった。20年以上前に勉強会の先輩の言葉の中だったり、中津市の池大雅の書や絵を保存している自性寺で出会ったりしている。いつもこの人はどういう人なのだろうかと関心を持っていた。演劇博物館の表にある逍遥の銅像に添えた歌も会津八一だった。会津八一は、1881年8月1日に新潟県で生まれた。すべて8と1で構成されていたので八一と命名された。19歳の頃、新潟での坪内逍遥の講演会に出席し、逍遥の態度と雄弁に感動し、後に生涯の師と仰ぐ端緒となった。1900年に上京するが、脚気を病み帰郷する前に、俳句の正岡子規を訪ねている。八一は逍遥と子規を文芸の師として尊敬する。早稲田大学文学部を卒業した八一は、26歳で新潟県の有恒学舎の英語教師となる。その後、早稲田中学の英語教師となり、33歳の頃早大文学科講師、40歳で東洋美術史講師となり、美術品の収集を開始する。51歳文学部教授、54歳文学博士、58歳文学部芸術学専攻主任教授、65歳辞任、76歳死去。早稲田中学の教頭職に就いたときのことが小説にもなっているが、生徒想いの優れた教育者だった。大正3年に小石川に一軒家を借りて、郷里新潟から上京した学生を預かり、監督指導にあたったときに、「秋草堂学規」を定めており、深く考えさせる。 1.深くこの生を愛すべし 1.省みて己を知るべし 1.学芸を以て性を養うべし 1.日々新面目あるべし 秋草堂は我が別号なり。学規は吾率先してきゅう行し、範を諸生に示さんことを期す。主張この内にあり、同情この内にあり、反抗また此内にあり。昭和2年、大隈講堂において早稲田大学創立45周年祝賀式典が行われ、会津八一が講演をしている。演題は「実学論」であった。この博物館の2階の入り口に掲げてあった額が、この言葉だった。------実学には世の中のためになる学問と、自分の身になる学問の二つがある。自分がいいたいのは後者で、この学問がそうすれば真に自分の身につくようになるか。早稲田では学の独立とは、外国語から独立して自国語で研究するとか、官学に対して実力をもって対抗するとか、と教えられた。しかし文献や伝説から独立していくことが必要な態度であり、それでこそ今の世に要求される真の学問の独立である。-----会津八一については、まだまだ研究が必要なようである。-----------------------------------------------------------------三木武夫記念館--「信なくば立たず」数ヶ月前に南平台にある政治家三木武夫記念館を訪問したが、会合のため入ることができなかった。今回は2度目の訪問である。亡くなるまで住んでいた邸宅には睦子夫人が住んでおり、2階が三木武夫の記念館になっている。平山郁夫先生が語る三木武夫が飾ってある。「ご夫妻で絵、書、陶器に親しんでいる。三木武夫は人物が一回りも二周りも大きい。将来、きっと宰相となる器だ」井上靖「大きい識見、高邁な信念、志の高さ」「無信不立」という三木の信念を書いた書も見ることができた。この言葉は自由民主党の総裁選出馬の時に言った言葉である。睦子夫人によれば「若い頃は字が下手だった。40数年書道教室で習い、個展をひらけるようになった」とのことだ。政治家・三木武夫の大きな写真もあった。どこを見ているかわからない細い眼、強く引き締まった口元が印象的である。この記念館には書、絵、陶器が飾ってあるというだけだが、事務所で三木武夫に関する最新刊でまだ書店に並んでいない「操守ある保守政治家 三木武夫」という国弘正雄の著作を手に入れて読んでみた。そして筑紫哲也が書いた「旅の途中 巡り合った人々」というエッセーの中で三木を扱ったものも頂いた。これは「三木武夫 クリーンとバルカン」というタイトルで、世評の二つの面から見た三木武夫論であった。田中角栄総理大臣の後、有名な椎名裁定で総理になり、田中角栄を逮捕させる。石橋湛山、松村謙三、宇都宮徳馬、鯨岡兵輔、梶山静六、後藤田正晴といったリベラル派の系統の政治家である。三木武夫については、いずれ詳しく書いてみたい。
2005/11/20
コメント(4)
早稲田大学の大隈講堂を背に歩いて行くと、創学の父・大隈重信の銅像がある。朝倉文夫の作だ。下から見上げると大隈の像が紅葉を背景に空に映える。その少し前を右に折れると木立の向こうに、白い漆喰の壁とハーフティンバーの柱の英国風の古い洋館が目に入る。ロンドンにあったエリザベス朝時代のフォーチュン座を模した建物である。この建物は坪内博士の顕彰と演劇資料の消滅を防ぐため、坪内逍遥が「シェークスピア全集」全40巻の完訳を終えた古希(70歳)の1928年(昭和3年)に1500余の人の協賛を得て完成し、早稲田大学に寄贈されたものだ。450余坪のこの館事体も演劇史研究の資料でもある。正面の張り出し舞台では演劇が催されることもある。一階は、演劇関係書籍の閲覧室・事務室・インフォメーションカウンターを挟んでシェークスピアの世界展示室と特別展示室がある。2階には「逍遥記念室」と2つの企画展示室と民族芸能室。3回は日本の演劇に関する古代から、中世、近世、近代、現代と続く歴史が展示されている。坪内逍遥は1859年に岐阜県美濃加茂市に生まれる。開成学校(東大)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に迎えられる。文学部創設、雑誌「早稲田文学」創刊、早稲田中学校長を歴任するなど、早稲田大学の発展に大きく貢献する。この間、小説の分野では27歳のとき文学論「小説神髄」とその実践作「当世書生気質」などを発表、演劇界では文藝協会を設立し実践と理論を推進した。そして「教育が本業」という逍遥は優れた感化力で熱心に教育にあたっている。会津八一なども逍遥に大きく深い影響を受けている。文学・演劇・舞踏・児童劇・美術・教育の多方面にわたって、革新的で先駆的な業績を遺している。また逍遥はシェークスピア全集の翻訳に終生専心して、1935年77歳で没した。逍遥は近代日本文化の偉大な開拓者だった。逍遥記念室に入る。逍遥の生涯を通じた多彩で豊かな活動に驚きを覚えるが、その目標は近代日本文化の創造にあった。革新と創造、理論と実践、和漢洋の調和、民衆の教化という考えが貫かれている。77歳で「新修シェークスピア全集」を完訳した際、「これのみはおほしたて得つほかの花はただ苗のみを植えすてしわれ」と読んだ。ロシア風の黒い帽子を被り、メガネをかけ、白いヒゲ、コート、ステッキ、カバンを持つ在りし日の逍遥の写真に見入る。この写真は1927年(昭和2年)12月16日のシェークスピア最終講義時の写真である。愛用した原稿用紙には、真中に「逍遥用紙」と印刷されている。筆や硯、墨などが展示してあるが、隣の印、筆、朱肉などは弟子でもあった会津八一から助言を受けた。西洋文化に造詣の深い逍遥は、不思議なことに生涯英国を訪れることはなく、教え子たちの洋行のお土産であるシェークスピア人形や豆本などを大事にしていた。翻訳の分野では、小説から戯曲へ関心が向かうが、その目的は国劇向上のための実演にあるとし、古語・現代語・方言語・漢語を駆使した自由訳を推進している。シェークスピアは、沙翁と書く。明治42年から大正12年にかけて発刊された20巻、対象15年から昭和3年にかけて発刊された20巻が展示されている。そして用語、文体の統一を目指したライフワーク「新修シェークスピア全集」も見ることができる。幅広い分野にかかわりながら「教育者が本業」という自覚があった逍遥は、1896-1903年の間、早稲田中学の教頭、校長も歴任している。青少年教育・倫理を扱った実践倫理の講和や論考をまとめた「通俗倫理談」は逍遥の著作の中で最も多く読まれたものの一つだ。また論語・バイブルなどを系統的に編纂した「中学修身訓」巻一の第一課には「悪と知らばすな 善と知らばなせ」とある。「演劇」面では、近松門左衛門、鶴屋南北、錦絵の研究(歌舞伎の画証)、シェークスピア、イプセンの研究、東西の劇場比較を行った。そして童話劇が娯楽本位だったことに対し、教育的要素に欠けていると批判し「家庭の芸術化」を掲げ、児童劇を提唱し、公演活動も行っている。演劇研究実演団体として「文芸協会」を設立し、1909年には演劇研究所をつくり新時代の俳優の養成を行い、「ハムレット」「人形の家」などを上演した。新劇運動の先駆として松井須磨子や澤田正二郎を生んだ。またわが国の古典演劇の音楽性、舞踏性を踏まえた新しい国民的楽劇の樹立を目指し、ワーグナーの研究も行い、「新楽劇論」と「新曲浦島」を発表するなど新舞踏の向上発展に努めた。劇作面では、演劇革新を志し、シェークスピア、近松門左衛門の研究を行い、新史劇「桐一葉」等の新歌舞伎作品を発表、また近代戯曲「役の行者」、喜劇や翻訳劇を書いている。文学の面では、少年時代に影響を受けた滝沢馬琴の勧善懲悪主義から写実・客観・心理主義を提唱した。上巻が原理・下巻が作法(小説技法)である「小説神髄」、それを実践した小説であり新時代の書生の生態を描いた「当世書生気質」を著した。「小説の主脳は人情なり 世態風俗これに次ぐ、、」と小説神髄で述べている。「民俗芸能室」では、部隊芸能と民俗芸能のなど芸能の豊かな国である。双方が影響を与えあった。歴史を展示している。清め・祓い・鎮魂のための芸能である神楽、田に関する芸能である田楽、盆踊り・獅子舞などの風流(ふりゅう)などの説明がある。常設展示の「日本の演劇」では、古代、中世、近世、近代、現代と時代に沿って私たちの身近な演劇の歴史を展示している。古代では、伎楽、散楽、舞楽。中世では、田楽、延年、能・狂言。近世では、歌舞伎、人形浄瑠璃。近代では、新派、新劇、新国劇、喜劇、軽演劇、ストリップ、少女演劇、ミュージカル。現代では、古典芸能・商業演劇・新劇・小劇場の演劇など多種多様な演劇についての情報を提供している。2階から3階の廊下には、シェークスピア演劇に関する資料や映像、実物などが展示されている。1階で逍遥に関する書籍を求めたがない。わずかな販売品に「逍遥日記」があった。明治20年の29歳から昭和10年の77歳まで書かれている。「逍遥日記」の大正5年から大正8年までの巻と、大正15年から昭和3年までの巻を購入する。大正5年は逍遥58歳。前年早大教授を辞任し、閑暇を得た逍遥は、創作、翻訳、研究の道に邁進した年である。年末には自分の将来の仕事の目標11ケ条を定め、着実に実行していく。大正7年には大隈候からの学長就任要請を辞絶している。この演劇博物館の開館式が行われた昭和3年10月27日の日記には「土 快晴 深沢来、揮毫依頼 一時より演博開館式了」と簡潔に記している。逍遥は謝辞として、約1時間に及ぶ名演説を行い、参列者に大きな感動を与えたという。演劇博物館を出ると逍遥の像があった。シェークスピアを講義する逍遥の銅像である。台座には「むかしひと こゑもほからに たくうちて とかししおもわ みえきたるかも」という会津八一の筆の歌が刻まれてある。近代歌人、書家とし屹立した存在であり、東洋美術史として独自の世界を切り拓いた会津八一は、逍遥の愛弟子である。この八一が「さすがに気廊の大きさ、学識の深さ、廣さ、燃ゆるばかりの熱意、行き届いた親切心、明確な道義心、かぞへ来ればかぞへつくせぬ偉さに、驕慢な私も、頭を下げたのは坪内先生であった。私が五年間、早稲田で。すなほに辛抱していたのは。この先生一人居られたためであろう」と述べているのをみても、明治に生きた教育者としての逍遥の懐の深さを感じる。坪内逍遥は、近代日本の偉大な開拓者であったと実感した訪問だった。
2005/11/19
コメント(0)
夜7時から9時半まで、南青山の「ラ・ロシェル南青山」で第6回GIN総研文化イベント--晩秋から冬本番--魅力たっぷりの北陸路の食を満喫する会、に参加した。この会はよく出ており、以前の宮城県、長野県などの会にも参加したことがある。日本各地の食材を使った料理や酒を楽しみながら、その土地にまつわる話を寺島実郎さん(日本総研理事長)がして、参加者同士の交流も行うという会である。北陸電力の会長さんのお話では、北陸は渤海の頃はオモテ日本であり、敦賀に招待所があり、琵琶湖を通って平城京へ使者が来たのだそうだ。金沢までの北陸新幹線が開通すると東京から2時間の距離になるという。金沢鴨・細野屋の口子・金沢一本ネギ・加賀つるまめ・加賀れんこん・能登黒豚・富山りんご、など富山・石川・福井3県の名産を使った料理とボジョレー・ヌーボーも。恒例の寺島さんの短いスピーチは以下。文京区の小石川や白山神社の地名は北陸の名前をつけたもの。1905年に仙台医専に留学した中国の魯迅のノートに赤字を熱心にいれてくれた藤野厳九郎(「藤野先生」で有名)の話題。藤野は福井県の出身で、晩年は町医者として活動。「藤野先生」は後年、どうして中国人留学生にを熱心に指導したのかと聞かれたときに、自分は若い頃から漢籍に鍛えられた。心のどこかに中国に対する尊敬の気持ちがあったかもしれないと答えたという。福井藩は当時、文化が厚かったということだろう。「藤野厳九郎はなぜ藤野先生になったか」という小論を「世界」に書いているので読んで欲しいとも。日曜日のTBS朝6時からの「時事放談」で、宮澤喜一さんと語っているという情報ももらった。最後の音楽演奏は西本梨江さんで、バイオリンは漆原直美さん。ノクターン、渚のアデリーヌ、ワルツ7番、火祭りの踊り、赤とんぼ、里の秋、道、リベルタンゴ。
2005/11/18
コメント(0)
夜は昔の勤務先の仲間との飲み会。ロサンゼルスから帰ってきたTの帰国歓迎会で、中国担当のA、情報システム担当のS、CS担当のS、そして上司だったNさんと、気の置けないメンバーでの楽しい会合となった。私の同期や1-2年前後の友人だ。みんなの近況や現在の状況がわかった。次回はゴルフをやろうということになって幹事も決まった。
2005/11/17
コメント(0)
ファンである松井秀樹がヤンキース残留で、4年間じっくり楽しめることになって嬉しい。-----------------------------------------------------------------年俸総額は5100万ドル(約60億7000万円)とみられ、日本選手史上最高となる。総額を単純に一年平均にすると、1275万ドル(約15億1725万円)となる。これまでの最高はイチロー外野手(マリナーズ)が結んだ二〇〇四年からの「四年契約、総額4400万ドル」。松井は二〇〇二年オフに三年総額2100万ドル(約25億円)でヤンキースと契約。三年間で打率2割9分7厘、70本塁打、330打点を記録した。高給ぞろいのヤンキースの年俸ランキングは、以下のとおり。A・ロッドの26億2500万、2位はD・ジータの21億円、3位はM・ムッシーナ投手の17億8500万円、4位はR・ジョンソンの16億8000万円、5位はJ・ジオンピの16億2700万円、6位はK・ブラウン投手の15億7500万円、G・シェフィールドの13億6500万円、J・ポサーダの12億6000万円、B・ウィリアムス12億6000万、M・リヴェラの11億2500万円。ゴルフの尾崎将司は生涯賞金26億円、岡本綾子の生涯賞金が8億円、そして野球の日本最高年俸が6億円の佐々木、5億円の清原。タイガー・ウッズの昨年の獲得賞金は6億弱で生涯(現在29歳)で47億円。昨年の日本の丸山茂樹(35歳)は2億円。比べてみると、やはり、メジャーの年俸は高く、夢がある。この4年の契約期間、松井は30代前半の絶頂期を迎えることになるから、楽しみだ。そろそろタイトル争いに加わって欲しい。
2005/11/16
コメント(0)
「図解・ 杜拉克管理精華」(先覚出版)というタイトルの翻訳本が台湾より届いた。眺めてみると、今週95歳で亡くなった経営学の父・ドラッカーは、台湾では「杜拉克」というらしいことがわかる。杜はド。拉はラ、克はカーということなのだろうか。管理は経営理論のことか。精華は神髄という意味だろう。翻訳の李湘平さんは東海大学経済系卒業で淡江大学日本研究所法学浩修士とある。今年から来年にかけて、中国・韓国・台湾での拙著の翻訳本が多数予定されている。東アジアでは図解ブームが始まる予感がする。
2005/11/15
コメント(0)
古希を迎えた野村克也監督が50年以上の歳月をかけて学んだものを記した本を読み始めた。オビは「楽天再生のカギはここにある!」。読み終えるのが楽しみだ。「はじめに」で監督の5原則をあげている。・仕事を通じて人間形成、人格形成をする・人生論が確立されていないかぎりいい仕事はできない・目(目のつけどころ)・頭(考えろ、工夫しろ)・感性(感じる心)・コツ・ツボ・注意点(意識させる)が重要・無形の力をつけよ・目次から興味を持った項目を以下あげてみる。教育こそ監督に求められる第一の使命。心が変われば人生が変わる。指揮官の最初の仕事は戦力分析にある。才能は学から生まれる。中心なき組織は機能しない。エースと4番は育てられない。足と肩にスランプなし。指揮官の重要な仕事はひとづくりである。監督は「気づかせ屋」でなくてはならない。チームづくりの終着は「まとまり」。士は己を知る者のために死す。人間学のないリーダーに資格なし。
2005/11/14
コメント(0)
土日、両方とも西仙台カントリークラブ(会員。自宅から車で15分)でゴルフとなった。土曜日は、野田一夫先生と、私のゴルフの師匠・富田さん(宮城リコーの前社長)とまわった。朝まで続いた雨もなんとかあがり、午後は晴れた。野田先生は後半はよく飛び、満足の様子。次につながるスコアだった。日曜日は、シングル(6.5)の安井さん(大手企業を退職し最近人材派遣会社を引き受けた)、最近進境著しいという評判の斉藤さん(整骨院経営)、そして富田さんの4人で回る。名手が多いのでアドバイスも的確でありがたい。安井さん、齋藤さんは1年前にはよくご一緒したのだが、久しぶりのラウンドだった。天気は快晴でゴルフ日和。両日とも、私自身はアウトかインのいずれかがよくて、他が悪いという不安定なスコアだったが、収穫もあった。
2005/11/13
コメント(0)
エッセイを連載している雑誌の特集に関する論考(人生の時間割)と、タイムコンシャスライフというテーマの7回目(計画づくりは不真面目に)を寄稿した。---------------------------------------------------○人生の時間割 人生の時間割は、自分の人生を生きたいようにデザインするために必要である。それには、現在、自分は人生のどのあたりに位置しているのかを考えてみることが最初のステップだ。 人生の区切りや人生のとらえ方には、いくつか考え方があるが、その中から自分に合ったものを選びたい。なかには、私たちの未来に希望や元気をなくすような人生の区切り方や人生訓はたくさんあるが、そうしたものに惑わされていると不幸になってしまう。これからの人生80年時代には新しい考え方が必要になる。これから紹介する人生の区切りと考え方も目安にすぎない。これらを参考にして、自分はどんな人生を送りたいのか、理想のライフデザインを描きたいものである。以下、続く、、、。----------------------------------------------------------タイム・コンシャスライフのすすめ:連載7回目○計画づくりは不真面目に 私にとって年末・年始は、今年の計画の総括と来年の計画づくりの期間である。年末は、「今年の計画」を眺めながら、自己採点をする。完全にクリアしたものには二重マル、まあまあできたものはマル、中途半端なものにはサンカク、まったく手付かずに終わったものにはバツをつける。大晦日のレコード大賞、紅白歌合戦、そして除夜の鐘がなる頃には、終わっているが、大半はサンカクやバツだ。年始の三が日は、昨年の失敗は気にせずに、気分も新たに「今年の計画」を立てる。生活全般にわたっての総論と各分野の予定を書き込んでいく。仕事、知的生産、生活、学習、健康、家庭、財産、余暇などの欄をつくり、欄内に大まかなことから細かいことまで書き入れる。だいたい暮れのうちから頭の中で考えているから、すらすらと書けていく。この時間は私にとってこよなく楽しい時間だ。以下、続く、、。
2005/11/12
コメント(1)
10時--11時半:八乙女小学校父母教師会(130人) 「頭のいい子は図で育つ」12時半--13時半:東北大学大学院工学研究科産学連携組織 21世紀の材料戦略フォーラム(60人) 「図で考える人は仕事ができる」 大学教員等30名、 新日鉄等企業の開発・技術部長や人事部担当者14時半--16時45分:仙台市教育センター(70人) 「仕事力を高める図解表現のスキルとその実際」 仙台市内の小学校から中学校の教諭その後18時からは日本オラクルの5周年記念パーティに参加。20時からは、野田一夫先生、野口正一先生、宮崎先生らと懇親の食事会。
2005/11/11
コメント(3)
宇都宮地方裁判所・宇都宮家庭裁判所で事務官に対する講演を行った。朝8時2分の新幹線で向かって、9時28分に宇都宮に到着。到着後、大野所長にご挨拶。その後、10時から2時間の講演。テーマは「職場の活性化とモチベーションの向上について」。最高裁、東京高裁、仙台高裁、そして今回の宇都宮地裁で、3審制の上級から下級まで講演をやったことになる。裁判制度や裁判所が抱える問題点がわかった。来月は最高裁で3度目の講演。今は、どこも大変だ。
2005/11/10
コメント(0)
6年8ヶ月という長い間、秘書として活躍してもらったかすみさんに今日、男の子が生まれた。母子ともに健康ということで安心した。子供の名前は、「怜哉」、力丸怜哉。新しい命が生まれるということはすごいことだ。
2005/11/09
コメント(0)
東京財団(日下公人会長)発行の政策研究誌「日本人のちから」の11月号の特集「纏り力」(まとまりりょく)に、「説得型合意形成から納得型合意形成への転換」を執筆し、それが届いた。政治家、官僚、ジャーナリスト等政策形成に影響力のある人たちに配布されている。以下、11月号の目次------------------巻頭言 政の纏り方・官の纏り力 日下公人IT社会の政事「人口減少」は日本文明の見事な生き残り戦略日本は中国の海洋進出にいかに対応すべきか「社会の統合」機能を失いつつある米メディア「教師の民営化」こそ教育改革の本丸説得型合意形成から納得型合意形成への転換「在日米日本軍再編協議」と日本の国益リーダーで変わる日本単独制裁の発動で「戦後の呪縛」を解き放てイラク駐留米軍が直面する「深刻な悩み」ベルリンで取り交わされた「二つの契約」日ロ関係におけるサハリン州というファクター自衛隊「イラク駐留」への新視点
2005/11/08
コメント(0)
東京での一般向け講演のお知らせ。NPO法人知的生産の技術研究会HPより。http://www.tiken.org/modules/piCal/index.php?smode=Daily&action=View&event_id=00000252&caldate=2005-11-8----------------------------------------------------「図で考えれば文章がうまくなる」 ~図解文章法のすすめ~(PHP研究所)出版記念セミナー 第369回知研・東京セミナー&人脈フォーラム講師・・・久恒啓一氏 宮城大学事業構想学部教授 NPO知的生産の技術研究会理事長とき・・・2005年11月24日(木)PM7:30~8:50ところ・・商工会館6F(虎ノ門・特許庁隣のビル 霞が関ビル裏 電話 03-3581-1634 最寄駅営団地下鉄銀座線「虎ノ門」より徒歩4分。霞が関ビルを右に見ながら特許庁の角を右折、霞ヶ関ビルの裏側、1Fは弁理士会)参加費・・2000円(会員のみ 非会員は3000円)-----------先に図解してからそれを文章化するというのは、これまで誰も考えつかなかった盲点である。というより実に合理的で賢いやり方である。これだったら楽に文章が書けるようになるし、物を教える立場の人は必ずこの方法を生徒や部下におしえるべきだ。どの書評もこの点に注目している。以下、3つの批評は読者の感動を伝えている。「・・今まで漠然と抱いていた「上手な文章の書き方」イメージが180度ひっくりかえされた感じである。作者の主張をまとめると、「文章を書く前によく内容を考えよう」というただそれだけのことなのですが、今までに読んだことのある文章読本よりも実際的で、物になりそうです。・・・練習方法が的確ならば、上手になるのも格段に速いというものです」。(bk1)「図で自分の考えをまとめていくと、自分のいいたいことの全体像が見えてくる。これは文章の設計図と言っても過言ではない。・・図という文章の設計図を用いるやり方は非常に有用であるし、図を用いることでより文章が明快になることも、この本で示されている・・。」(bk1)「なぜ文章を書く前に図解するのがよいかというと、図解はあいまいなものや、美辞麗句、過剰な形容詞づくめの表現やくだくだしいおしゃべり、こけおどかしの個性などは表現できず、最初から抑制してしまうから、正確で合理的なものしか内容にのこらない。こうしてすっきりまとまったものを文章にするのはたやすい。先ほどの5氏(この本がとりあげている読書論を書いた著名な文章の専門家)が共通して言っている「正確に、明解に書け」という教えにここでぴったり符節があうのである。・・」(amazon.co.jp)この日の講演を聞いて帰った方は確実に文章がうまくなる自信がつきます。 (実際に文章を書く実習もあります)著書:『図で考える人は仕事ができる』がベストセラーになり、近著『合意術』(日本経済新聞社)『図で読み解く!ドラッカー理論』(かんき出版)など多数。---------------------申し込み方法メールかFAXでお送りください。その時点で参加OKです。Mail:tiken.org@nifty.com BCCでweekendmaster@nifty.comFAX:042-365-5744-----------------------------------------------------------------
2005/11/07
コメント(0)
いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つたはむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまずこころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふはたらけど はたらけど猶わがくらし楽にならざり じっと手を見る友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくにふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかなこころざし得ぬ人々の あつまりて酒のむ場所が 我が家なりしかなよりそひて 深夜の雪の中に立つ 女の右手(めて)のあたたかさかな朝の湯の 湯槽(ゆぶね)のふちにうなじ載せ ゆるく息する物思ひかなこころよく 春のねむりをむさぼれる 目にやはらかき庭の草かなやや長きキスを交はして別れ来し 深夜の街の 遠き火事かな何となく、今年はよい事あるごとし。 元日の朝、晴れて風なしその親にも、親の親にも似たるなかれ- かく汝(な)が父は思へるぞ、子よ-----------------------------------------------------------・啄木の真実先週、「人間啄木」という同級生が編集した本を興味深く読みました。啄木の歌と実像の差異に驚きました。啄木はエニアグラムのタイプ3です。----うぬぼれが強くハッタリが上手で、やみくもに負けず嫌いな啄木、嘘を言ったり、一時のごまかしを屁とも思わず、おのれのためには友情や世間の義理など踏みにじって昂然とうそぶく若い啄木。何かしくじると、いつも頭をコチョコチョとかいて、ニコッと笑うクセ。筆跡がうまかった。いつも景気のいい話をする。強気。借金上手。ほら吹き。眼が澄んでいた。平気で嘘をつく。空想家。貧乏に屈託しない。自称反逆児。身長五尺二寸二分。えくぼと広いひたいが特徴。朝寝坊。人の真似がうまい。大食漢。交際家。膨大な借金メモの存在、、、。-----------------「啄木を 豚木と書いて 叱られる」(私の作った初川柳です。(^^;)
2005/11/06
コメント(7)
「平民宰相」として知られる原敬記念館を11月3日に岩手県盛岡市に訪ねた。翌日の4日が、首相在任中に東京駅丸の内南口で18歳の青年によって暗殺された命日である。原敬は1921年(大正10年)に65歳で世を去る。今年は1856年生まれの原の生誕百五十周年にあたるため、記念館では「原敬、故郷を想う---老死なば滋に朽ちなん花のもと」という企画展覧を開催していた。暗殺の噂があったこともあり、原は遺書をしたためていた。死をも覚悟して事にあたっていたのだ。「死去の際位階勲等の付与は余の絶対に好まざる所なれば死去せば即刻発表すべし」「墓石の表面には余の姓名の外戒名は勿論位階勲等も記すに及ばず」など原の政治を行う決意をうかがい知れる言葉が並んでいる。原敬の墓は「原敬墓」である。再婚した妻の墓も隣に「原浅墓」とある。家族に対しては「家計は現在の財産より生ずる利益利息等の収入により質素に之を営むべし」と諭している。父が早く亡くなったため母リツの女手で育てられた。「どうかみんな世間から笑われないような人間になっておくれ」という母の口ぐせだった。歴代総理の出身地の地図が貼り出されてあった。それによると44歳で就任した最年少の伊藤博文から77歳の最高齢の鈴木貫太郎までの歴代総理の出身は、西日本70%、東日本30%だ。県別にみると、7人の山口県が飛びぬけて多く、4人の岩手県と東京都が続く。東北と北海道で総理が出ているのはこの岩手県だけであとは0(ゼロ)が並んでいる。原敬、斉藤実、米内光政、鈴木善幸。東条英機は確か盛岡中学校出身のはずだがと考えていると、「東条英機は東京生まれ」との注釈がついていた。岩手県には新渡戸稲造、後藤新平、宮沢賢治、石川啄木など偉人・賢人が多い。1900年11月25日の日本経済新聞の「日本の政治家10傑」が掲示されていた。識者へのアンケート結果。それによると、10位:田中角栄、9位:三木武夫、8位:石橋湛山、7位:山縣有朋、6位:浜口雄幸、5位:池田勇人、4位:西園寺公望、3位:伊藤博文、2位:吉田茂、そして1位が原敬である。また、平成12年4月の「現代」で行った「20世紀最高の内閣」という企画も興味深かった。外務大臣:幣原喜重郎、大蔵:池田勇人、文部:石橋湛山、通産:岸信介、運輸:後藤新平、郵政:田中角栄、労働:石田博英、建設:福田赳夫、内閣官房:後藤田正晴、総務庁:佐藤栄作、防衛庁:中曽根康弘、環境庁:大石武一、国土庁:松下幸之助、金融再生:高橋是清、そして総理大臣は原敬だった。要するに原敬は近代最高の総理大臣だったといいうことだ。このような評価をみると改めて、この人物に対する関心が高まる。8冊の著書を書いているのも歴代首相のなかで最多である。23歳のときの露西亜国勢論(翻訳)、33歳の埃及(エジプト)混合裁判、36歳の現行条約論、38歳の陸戦公法、42歳の新条約実施準備、43歳のでたらめ、43歳の外交官領事制度、63歳の米麦混合食の奨励。「でたらめ」という一風変わった著書がある。これは大阪毎日新聞の社長時代にでたらめ記者という筆名で、食事の作法、もてなし、酒の飲み方などエチケットを論じて好評を博した記事をまとめたものだ。目次を並べてみる。「訪問の事・時刻の区別・宴会の事・夜会と酒宴・無益の謙遜・衣服の事・養殖の食方・帰りの土産・帽子の事・靴とシャツ・葬式の弊風・名刺の折方・内外人の交際・男女交際の事・御役人風・席順の困難・贈物の幣・公演の事・道路修理・宴会の時刻・宴会の作法」など。外交官であった原は「一から十まで欧米の真似するにも及ばずという云う人もあらんが、去りとて頑固に習慣を維持せんとの論には何人も同意せざるべし」と緒言に書いている。復刻版を買って少し読んでみたが、原の日常の生活態度が見えて面白い。しかし、何といっても19才から65歳までの日記83冊の「原敬日記」の存在が凄い。遺書には「余の日記は、数十年後はとにかくなれども、当分世間に出すべからず、余の遺物中この日記は最も大切なるものとして永く保存すべし」とあった。このため本箱ごと盛岡に送られ、保存されていたため、関東大震災にも東京大空襲にもあわずに後世に遺すことができた。この日記は没後30年たった1950年に公開されて、出版された。原はどうやってこの日記を書き続けてきたのだろうか。毎日、簡単なメモを取っていてそれを材料に一週間に一回詳細にきちんとまとめた。パソコンやブログのような便利なツールがない時代に、激務の中で継続して書き続けた意志力には驚きを禁じえない。「任すずんば、任するの気力起こらず」「地方分権なくして地方の衰頽免れない。議会と行政官に権限を与えよ」「日本人はとにかく一局処に眼光をうばわるるの幣あり」「最も便利を得しは、酢を携帯せしことなり(天津紀行)」。原敬は、62歳から65歳までの3年2ヶ月の間、第19代総理(10人目)を務めた。爵位を持たない衆議院議員が首相になったのは初めてで、世間は平民宰相といって歓迎した。原内閣は、藩閥、官僚、貴族院の勢力を排して完全な政友会内閣を組織した。藩閥の弱体化、文官任用による軍閥の弱体化、政党政治の確立、高等教育機関の大増設(国立高等学校の倍増、大学の学部増設、昇格、早慶明法立中日などの私立大学の認可)、狭軌地方線の拡大、臨時国語調査会の設置、選挙資格の拡大(直接税納入額10円を3円に。小選挙区制の導入で有権者は142万人から306万人へ)、文官登用にあたり自由任用範囲の拡大、アメリカ重視、シベリア撤兵、中国との関係改善、国際連盟常任理事国、皇太子の外遊(右翼の反感から暗殺)と業績は素晴らしい。政治家として、そして個人として、原敬はまことに立派な人物だったと感銘を受けて、記念館を後にした。
2005/11/05
コメント(0)
サトウハチロー記念館は岩手県北上市にある。38年間住んだ東京文京区弥生の自宅の資料を区長選挙のごたごた(記念館をつくるという公約など、、)でイヤになった、ハチローと2番目の妻の次男四郎が、父佐藤紅緑の故郷青森と母佐藤はる(河北新報の一力健次郎社長夫人の妹)の故郷仙台の中間であり、四郎の妻の出身地である北上に建てたという変な理由が記念館に書いてあった。思っていたより大きな木造の造りで、資料もふんだんに展示されている。館長がハチローの身内なので、率直にコメントがついており、笑を誘う。1903年生まれのハチローは「ああ玉杯に花うけて」で始まる一高寮歌をつくった佐藤紅緑(1874-1949)の長男として生まれた。紅緑は正岡子規の弟子で、四天王と呼ばれた。作家佐藤愛子は、紅緑と2番目の妻である女優三笠万里子の間にできた子供で、ハチローとは異母兄弟となる。七女でハチローとは20歳ほど年が違う。この佐藤家は変人が多く出ており、愛子の近作「血脈」に詳しい。「まともに育たないのは佐藤家の家系らしい」と書いている。ハチローの述懐によると、紅緑も「あっぱれなるおやじ」だったらしい。小学校落第の時に「そうだろう、そうだろう、当たり前の話だ。わしはお前がもしも進級したら学校へ文句をいいに行こうと思ったんだ」「まァゆっくりやれ、それより方法はない」と言ったとのこと。ややこしいことに、三笠万里子の付き人の間瀬くらとハチローは最初の結婚している。愛子はハチローに随分と可愛がられており、ハチローを描くエピソードは愛情に満ちている。ハチローの祖父弥六(1842年生まれ)は、福沢諭吉の勧めで脱藩した人物で、弥六の嫡八人目の男子という意味で八郎とつけたというが、後で数えたら実際は九番目であったという。初めての単行本が出た時、愛子に本を送ってくれて「この世で一番エライ兄さんより 愛ちゃんへ」という言葉がついていて、素っ裸のデブがバンザイしている自画像が添えてあった。ハチローは夏の間は素っ裸で毎日暮らしていた。小学校時代の同級生で「姿三四郎」の著者である富田常雄が「ハチローは神武以来の不良少年」と語っている。記念館にはヘソでたばこを吸ってみせるサービスをするハチローの写真も飾ってある。交流のあった著名人と並んで警察の名刺が多い。あらゆる刑務所に入った縁で知り合った人たちと友人になっており、罪滅ぼしのつもりか、壮年以降は不良防止、犯罪撲滅、警察官互助運動にも参加しているのは愉快である。落第3回、転校8回、勘当17回、中学中退というから、その素行は推して知るべしだ。「ビールは一日8-10本。ウイスキーが3日で1本、日本酒も同量ていど。タバコは一日100本、ほとんどアル中、ニコチン中毒に近い、、」と本人も書いているが、結果70歳まで(1973年)生きたから不思議である。ハチローは「ボクは日本一の個人的酒税納税者」と自慢していた。私自身はNHKの人気クイズ番組「話の泉」という番組で活躍する姿を覚えている。恩師となる西条八十は「サトウハチローなる”大”少年来たる」と日記に記している。強い印象を与えたのだろう。記念館で買った本には、最も尊敬する徳川夢声と最愛の弟子菊田一夫とに挟まれた還暦祝いの祝宴の写真が載っている。ハチローは立ち上がって何か変な棒を持っている。・ちいさい秋みつけた(誰かさんが 誰かさんが、、、) 1962年 日本レコード大賞童謡賞・ちいさい母のうた・かわいいかくれんぼ(ひよこがね お庭でぴょこぴょこ かくれんぼ、)・長崎の鐘(こよなく晴れた 青空を、、)・うれしいひな祭り(あかりをつけましょ ぼんぼりに、、)・うちの女房にゃ髭がある(何か云おうと思っても 女房にゃ何だか、、)・二人は若い(あなたと呼べば あなたと答える、、)・もしも月給が上がったら(若しも月給が 上がったら 私はパラソル 買いたいわ ぼくは帽子と 洋服だ、、)・りんごの唄(あかい林檎に くちびるよせて、、、)・悲しくてやりきれないこうやって並べてみると、随分と知っているウタが多い。サトーハチローにはお母さんをうたった詩が多い。詩集「おかあさん」は180万部の売り上げを記録した。今でも詩集としては日本記録である。天真爛漫なハチローと一緒に写っている人々はみんな心から笑っている。こちらも思わず笑がこみあげてくる、そんな人柄である。なんだかこちらも幸せな気分になって記念館をあとにした。
2005/11/04
コメント(9)
車で3つの記念館を訪問。サトウハチロー記念館は岩手県北上市にある。父の佐藤紅緑の出身地である青森と詩に出てくる母の出身地である仙台の中間地という理由で北上市に建てたという珍しい記念館。盛岡市では、歴代総理の中で最高の評価を受けていて、平民宰相として名高い原敬記念館を訪問。翌日の11月4日は原敬の死去の日であり、イベントが予定されていて、訪問者も多い。玉山村渋民に建つ26歳で散った天才詩人・石川啄木記念館を訪問。啄木の「一握の砂」や「悲しき玩具」から採録した巷間よく知られている詩集も購入。各記念館の訪問記は、明日以降に記す予定。
2005/11/03
コメント(0)
8時:仕事開始10時:ゼミ4年生の卒論指導11時:ゼミ3年生の演習12時半:企業訪問者対応13時:学科懇談会14時半:学科会17時半:インターンシップ学外発表会(ホテル白萩)19時:参加者との懇親会20時半:友人と懇談懇親会では、夏休みに2年生インターンシップ生を4人も受け入れていただいた(株)サイエンティアの方々と情報交換。郵政公社へのインターンシップ生と七十七銀行へのインターンシップ生からも様子を聞いた。
2005/11/02
コメント(0)
この3月に宮城大学を定年退職されて、今は非常勤講師で大学に見えている粟田先生・恩地先生と、大学のそばの仙台ロイヤルパークホテルで飲んだ。2人とも、元気なので嬉しく思った。率直なアドバイスもいただき、感じるところも多かった。-------------------------------------------今日はマスコミへの対応が多い日だった。・河北新報報道部長・ダイヤモンド社編集者・R25編集者
2005/11/01
コメント(1)
全30件 (30件中 1-30件目)
1
![]()

