全36件 (36件中 1-36件目)
1
海上自衛隊の海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」。対潜戦のパッシブ戦化に伴って、海上作戦の効率的な遂行には海洋環境資料の収集が求められるようになり、海底地形・底質や潮流・海流、地磁気、水質(水温・塩分など)や海上気象などを相互に関連付けて、精密に測定する必要が生じた。このことから、海上自衛隊では昭和42年度計画で「あかし」を建造、1969年にはその運用部隊として海洋業務隊を新編して、海洋環境情報活動に着手した。その後、昭和50年代にふたみ型(51/58AGS)2隻と「すま」(54AGS)を整備して、4隻体制での海洋観測を実施してきた。本艦は、このうち、1990年代後半の除籍が予定されていた42AGSの代替艦として計画され、中期防衛力整備計画に基づき、平成8年度計画で建造が認可された と。女性自衛官の乗組みが考慮されており、女性用居住区として、02甲板の士官室付近に士官寝室(2名分)が、第1甲板中部に科員居住区(8名分)が配置されている。また本艦では、自衛艦として初の試みとして、艦長室のデザインを民間のデザイナーに発注しており、非常に優れたものとなっている と。進水 1998年6月11日就役 1999年3月24日要目基準排水量 3,300 t満載排水量 4,500 t全長 111.0 m最大幅 17.0 m深さ 9.0 m吃水 4.5 m機関 統合電気推進主機 ・ 三菱S16Uディーゼル発電機×2基 ・三菱S8Uディーゼル発電機×1基 ・推進電動機×2基出力 最大8,660馬力 / 定格5,800馬力 推進器 ・ 可変ピッチ・プロペラ×2軸 ・サイドスラスター×3基速力 最大20ノット / 定格18ノット航続距離 15,000海里 (14kt巡航時)乗員 80名搭載艇 ・11メートル観測作業艇 ・11メートル作業艇 ・無人潜水装置(ROV)レーダー OPS-20 航海用ソナー シービーム2112 マルチビーム測深儀探索装置 ・海洋観測装置一式その他装置 ・音響観測装置一式」こちらは、海上自衛隊の掃海艦「あわじ JS Awaji, MSO-304)」。進水 2015年10月27日就役 2017年3月16日要目排水量 基準 690トン全長 66.8m最大幅 11.0m深さ 5.2m吃水 2.7m機関 ディーゼルエンジン × 2基出力 2,200PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸速力 最大速 14ノット(26㎞/h)乗員 54名兵装 JM61-RFS × 1門レーダー OPS-39H 対水上捜索用 光学式監視装置(レーザー・レーダー)ソナー OQQ-10-1 掃海艦ソーナーシステム ZQS-4 可変深度式機雷探知機 OZZ-2 水中調査用UUVその他 掃海装備 小型係維掃海具1型改 感応掃海具1型改 掃討装備 自走式機雷処分用弾薬(EMD)」海上自衛隊の海洋観測艦「しょうなん(JS Syonan, AGS-5106)」。一般海洋観測のため、自記表層水温塩分計、海底設置型超音波多層流向流速計、水温記録装置、CTD観測装置、係留式自記流向流速計などを装備している。また海中音響観測のため、音響環境測定システム、曳航式音源装置、観測用測位装置などを装備している。海洋測量装置としては、艦橋下方の艦底に設置されたマルチビーム式測深儀をはじめとして、採泥器等を装備している。進水 2009年6月29日就役 2010年3月17日要目基準排水量 2,950 t満載排水量 4,150 t全長 103.0 m最大幅 16.4 m深さ 9.0 m吃水 4.5 m機関 統合電気推進方式主機 ディーゼル発電機×3基出力 4,895馬力推進器 ・アジマススラスター×2基 ・バウスラスター×2基速力 16ノット乗員 80名レーダー 航海用ソナー マルチビーム式測深儀」ズームして。手前に海上自衛隊の掃海艇「えのしま(JS Enoshima, MSC-604)」。進水 2010年10月25日就役 2012年3月21日要目排水量 基準 570トン満載 660トン長さ 60.0m幅 10.1m深さ 4.5m吃水 2.5m機関 CODOE方式主機 三菱6NMUディーゼルエンジン × 2基 補助電動機 × 2基出力 2,200PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸速力 最大速 14ノット乗員 48人兵装 J M61-M 20mm多銃身機銃 × 1門搭載艇 4.9m型複合作業艇 × 1隻 ジェミニ・ディンギー処分艇 × 1隻C4ISTAR OYQ-201 掃海艇情報処理装置レーダー OPS-39 対水上捜索用ソナー ZQS-4 機雷探知機 サイドスキャンソーナー4型その他 水中航走式機雷掃討具S-10 一式 小型係維掃海具1型一式 感応掃海具1型 一式奥には海上自衛隊の掃海艇「ちちじま(JS Chichijima, MSC-605)」。進水 2011年11月24日就役 2013年3月21日要目排水量 基準 570トン満載 660トン長さ 60.0m幅 10.1m深さ 4.5m吃水 2.5m機関 CODOE方式主機 三菱6NMUディーゼルエンジン × 2基 補助電動機 × 2基出力 2,200PS推進器 クリュープロペラ × 2軸速力 最大速 14ノット乗員 48人兵装 JM61-M 20mm多銃身機銃 × 1門搭載艇 4.9m型複合作業艇 × 1隻ジェミニ・ディンギー処分艇 × 1隻C4ISTAR OYQ-201 掃海艇情報処理装置レーダー OPS-39 対水上捜索用ソナー ZQS-4 機雷探知機 サイドスキャンソーナー4型その他 水中航走式機雷掃討具S-10 一式 小型係維掃海具1型一式 感応掃海具1型 一式」。ズームして。左:掃海艦「あわじ JS Awaji, MSO-304)」と右:「海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」を再び。掃海艦「あわじ JS Awaji, MSO-304)」をズームして。「海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」をズームして。「海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」。海上自衛隊の「護衛艦たかなみ(JS Takanami, DD-110)」を再び。「たかなみ」は、中期防衛力整備計画に基づく平成10年度計画4,600トン型護衛艦2239号艦として、IHIMUに発注され、住友重機械工業追浜工場で2000年4月25日に起工され、2001年7月26日に進水、その後、住友重機械工業浦賀工場において艤装の後、2002年8月20日に公試開始、2003年3月12日に就役し、第1護衛隊群第5護衛隊に編入され横須賀に配備された。左から、横浜税関・監視艇「みらい」 総トン数:64トン、船質:軽合金、全長:27.0m、最大幅:5.6m、深さ:2.8m 機関:ディーゼル機関×2、推進軸:2軸、速力:25ノット以上中央、海上保安庁・巡視船「はたぐも(PC-32)」 総トン数:85トン、全長:30.01m、最大幅:6.0m、深さ:3.2m 機関:ディーゼル機関×2、出力:1,957馬力(1,440kW)、最大速力:32.37ノット 最大登場人員:船員5名、他4名、他(24時間以内)26名右、海上保安庁 大型巡視艇 「巡視艇うらゆき(PC-72)」 総トン数:123.7t(旧) 全長:26.0m 最大幅:6.3m 深さ:3.0m 船質:軽合金 主機:ディーゼル3基、3軸 出力:3000馬力 速力:22kt 航続距離:220浬 最大搭載人員:10名「吾妻島」を見る。ズームして。「田浦港S-1岸壁」には潜水艦の姿が。ズームして。さらに。潜水艦名は不明。波が打ち寄せて。そして再び「新井堀割水路」を「汐入桟橋」に向かって進む。吾妻島の西側は、元々は陸と繋がっていた半島だったのを、明治時代に水路化し「新井堀割水路」と呼ばれていると。吾妻島は現在米海軍の敷地となっていて、一般人は立ち入りできないとのこと。ところで島にトンネル倉庫らしき扉が数カ所あった。今は使っていないようだが、元々は弾薬庫だったのであろうか?トンネル倉庫らしき扉にズームして。吾妻島は、旧日本海軍の燃料・弾薬貯蔵所を米軍が接収した施設で、航空機燃料や艦船燃料の貯油施設として使用されている。吾妻島全域と旧田浦送油施設地区からなり、37基のタンクがあるのだと。タンクへの給油所が左手前方に。そして「新井堀割水路」を通過して、横須賀港へ。「楠ケ浦桟橋」方向を望む。米海軍第7艦隊の原子力空母「ロナルド・レーガン」を再び。「横須賀海軍基地」の北側・東京湾方向を見る。逸見岸壁に停泊中の海上自衛隊の護衛艦「おおなみ(S Oonami、 DD-111)」を再び。ズームして。「横須賀システム通信隊」の通信鉄塔と地上31階建ての高層マンション「ウェルシティ横須賀 天空の街」が見えた。海上自衛隊の護衛艦「あまぎり(JS Amagiri、DD-154)」。原子力空母「ロナルド・レーガン」を再び。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」。Y−1・2岸壁に停泊中の護衛艦「むらさめ 101」と 護衛艦「あまぎり 154」。護衛艦「あまぎり 154」。護衛艦「むらさめ 101」。左:護衛艦「むらさめ 101」と 右:護衛艦「あまぎり 154」を正面から。「横須賀本港」越しに東京湾を見る。護衛艦「むらさめ 101」を振り返って。護衛艦「むらさめ 101」越しに護衛艦「あまぎり 154」を。反対側の岸壁の潜水艦。ズームして。ミサイル駆逐艦 「シャウプ(USS Shoup, DDG-86)」。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」が見えて来た。ズームして。空母「いずも」。「DRY DOCS 2&3」と書かれた建屋を見る。江戸から明治時代にかけて建造された横須賀製鉄所の3基のドックは、軍港横須賀の景観を特徴付ける艦艇修理用の石造ドライドックであり、日本遺産の構成施設の一つです。これらのドックは、米海軍横須賀基地の中に残っており、今もなお現役で使われています。中でも1号ドックは、日本で最古の現存するドライドックで、小栗上野介やヴェルニーの尽力により1871(明治4)年に完成しました。 1号ドックから3号ドックまでの海に面した壁面は、対岸のヴェルニー公園から見ることができます。ドックの底までは、年に数回ある「見学会」👈️リンク で見ることができます。ヴェルニー公園の中央にはしゃれたドーム式の洋風東屋風の建物が。そしてクルージングを楽しんだ吾妻島方向を振り返って。そして「軍港めぐり汐入桟橋」に到着。既に15時出航のクルージング船を待つ観光客の列が。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」の建物内に入る。「国史蹟・東京湾要塞 無人島・猿島」案内板。「クルーズターミナル」チケットカウンター。「お楽しみ抽選会 当選ナンバー」私のチケットナンバーは980でハズレ!!様々な種類の「よこすか海軍カレー」👈️リンク が土産物として並んでいた。船のハンドル・「舵輪(だりん)」。艦船や部隊のロゴマーク、階級章、国旗などがかわいいピンバッチになり土産物として販売されていた。クルージングコースの案内板。詳細MAPをネットから。エルビス・プレスリーが空母上甲板でコンサートを。雑誌「ぴあ」の表紙を描き続けたイラストレーター・及川正通さんの個展が横須賀美術館で開催された際に展示された、ライフワークとして取り組んでいる街シリーズの第1作「YOKOSUKA」であるとのこと。「Dream Map 「YOKOSUKA」-----及川正通目の前に広がる港は潸水艦や空母、街は米兵であふれ、ーつの街にアメリカと日本が存しているヨコスカ。昭和30年当時、昼はさいか屋デパートのデザイン課で仕事し、夜は米兵向けのバーやキャバレーの看板やインテリアのデザインをしたり、ステージでプレスリーの「ハートブレイクホテル」をを歌って水兵たちの喝采をあびた。僕の青春はアメリカそのものだった。及川正通1939年大連生まれ。1955年横須賀さいかデザイン課人社。1969年横尾忠則氏と共同スタジオ発足、以後フリーランス。1970年寺山修司の「天井桟敷」公演ポスター、舞台美術を手がけ、「平凡パンチ」「プレイボーイ」などでイラストレーションを掲載。1975年よリ情報誌「ぴあ」の表紙を描き、2011年まで36年間描き続けギネス記録に認定される。2019年よりデジタル「ぴあアプリ」の表紙が始まっている。」地上20階建ての「メルキュールホテル横須賀」を見る。そしてこの日の全ての行程を完了し帰路に。横浜横須賀道路の「横須賀」ICを通過。そして「六ッ川」料金所で降り、横浜駅東口に向かったのであった。そして、横浜駅西口でこの日の旅友3人でこの日の反省会を行い、夜空の月の姿を楽しみながら帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完了・・・
2024.03.31
コメント(0)
そして米海軍の軍艦がここにも。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」👈️リンク。イージス武器システム搭載。艦名は朝鮮戦争で戦死し、名誉勲章を受章したエドワード・クライド・ベンフォールド三等衛生兵(Edward Clyde Benfold)の名に因むと。ミサイル駆逐艦は、ミサイル艦として建造された駆逐艦。アメリカ海軍では対空戦を重視して艦対空ミサイルを搭載した駆逐艦をこのように称してDDGの記号を付しており、艦対艦ミサイルや艦対地ミサイルを搭載しているだけでは該当しない。「メインマスト」には補修工事用の足場・手摺が全面に。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」の「65」が。その奥には、アメリカ海軍ミサイル駆逐艦「ハワード(USS Howard、DDG-83)」。ハワードの船首には多くの隊員の姿が。そして一番奥に原子力空母「ロナルド・レーガン」が停泊中。アメリカの空母で唯一海外を母港としている。ロナルド・レーガンの改修に伴う停泊で、2024年春をめどに出港し、ジョージ・ワシントンが同年後半に入港する予定だという。ズームして。さらにズームして。「ロナルド・レーガン(Ronald Reagan:CVN-76)」の「76」の文字が。CVNは原子力空母を指す記号(” Carrier Vessel、Nuclear”の略)とのこと。原子力空母「ロナルド・レーガン」進水 2001年3月4日就役 2003年7月12日要目満載排水量 101,429 t全長 333 m最大幅 76.8 m吃水 11.3 m主機 蒸気タービン 4基原子炉 ウェスティングハウス・エレクトリックA4W加圧水型原子炉 2基推進 スクリュープロペラ 4軸出力 260,000hps(210 MW)速力 30ノット (56 km/h) 以上乗員 士官・兵員:3,200名航空要員: 2,480名兵装・RIM-162 シースパロー短SAM 2基・RIM-116 RAM 2基・ファランクスCIWS 2基・Mk 38 Mod 2 25mm機関砲 3基搭載機 90機前後(平時66機前後) とネットから。原子力空母「ロナルド・レーガン」を以下3枚ネットから。再びアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド」。アメリカ海軍のミサイル駆逐艦・ハワード (USS Howard, DDG-83) が東京湾へと。米海軍 港内曳船 YT-805 「 セミノール(SEMINOLE )」が航行中。我が卒業会社の横須賀造船所のガントリークレーン(gantry crane)の姿が。ズームして。新造船建造からは撤退したが。再びアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」を正面から。横須賀本港を遠望。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」を斜めから。左手にY−3・4岸壁を見る。護衛艦「むらさめ 101」前述護衛艦「あまぎり 154」進水 1987年9月9日就役 1989年3月17日要目基準排水量 3,500 トン満載排水量 4,900 トン全長 137m最大幅 14.6m深さ 8.8m吃水 4.4m機関 COGAG方式主機 川崎ロールス・ロイス スペイSM1Aガスタービン × 4基出力 54,000PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸最大速力 30ノット乗員 220名兵装 62口径76mm単装速射砲 × 1門 Mk.15 Mod2 高性能20mm機関砲(CIWS) × 2基 ハープーンSSM4連装発射筒 × 2基 GMLS-3型A シースパロー短SAM8連装発射機 × 1基 74式アスロック8連装発射機 × 1基 68式3連装短魚雷発射管 × 2基搭載機 HSS-2B/SH-60J哨戒ヘリコプター × 1機(最大2機)C4ISTAR OYQ-7B-1 戦術情報処理装置 OYQ-101 対潜情報処理装置 SFCS-6C 水中攻撃指揮装置レーダー OPS-14C 対空 OPS-28C 水上 OPS-20 航海用 81式射撃指揮装置2型-22A/2型-12Eソナー OQS-4A OQR-1曳航式電子戦・ NOLR-8 ESM対抗手段 OLT-3C ECM Mk.137 デコイ発射機 × 2基その他 AN/SLQ-25 曳航式デコイ 」とウィキペディアより。ズームして。護衛艦「おおなみ 111」。進水 2001年9月20日就役 2003年3月13日要目基準排水量 4,650トン満載排水量 6,300トン全長 151m最大幅 17.4m深さ 10.9m吃水 5.3m機関 COGAG方式主機 IHILM2500ガスタービン × 2基 川崎スペイSM1C × 2基出力 60,000PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸最大速力 30ノット乗員 175名兵装 54口径127mm単装速射砲 × 1門 Mk.15 Mod12 高性能20mm機関砲(CIWS) × 2基 90式艦対艦誘導弾 (SSM-1B)4連装発射筒 × 2基 Mk.41 VLS × 32セル HOS-302 3連装短魚雷発射管 × 2基搭載機 SH-60J/K 哨戒ヘリコプター × 1/2機C4ISTAR OYQ-9C 戦術情報処理装置 OYQ-103 対潜情報処理装置レーダー OPS-24B-1 対空 OPS-28D 水上 OPS-20 航海用 81式射撃指揮装置2型-31B × 2基ソナー OQS-5 OQR-2 曳航用電子戦・ NOLQ-3-2 電波探知妨害装置対抗手段 Mk.137 デコイ発射機 × 4基その他 曳航具4型 対魚雷デコイ とウィキペディアより。おおなみ(JS Oonami、DD-111)。手前に輸送艇 LCU-2002 「 輸送艇2号 」。ズームして。外洋は風が強いとのことで、クルージングルートを変更して「新井掘割水路」に向かって進む。この日のクルージングルート。このあたりが横須賀湾と長浦湾をむすぶ新井掘割水路の長浦側の出入口にあたる。ここは箱崎半島の吾妻山ふもとの北側にあたり、半島のうちでもっともくびれたところである。安政元年(1854)に公郷村名主永嶋庄兵衛は、幕末の海上交通が増えたのにともない、半島先端にある暗礁が危険なため、多額の費用をかけ半島前方部に掘割を377m掘削し、水運の便をはかった。これにより武蔵国野島浦(現在の横浜市金沢区)から横須賀村への航路が作られた。このときの土石は江戸品川に運ばれ、台場築造に使われたという。(旧掘割)その後、明治18年に長浦に海軍の水雷営、水雷武庫、水雷練習艦がおかれてから横須賀港との交通が頻繁になり、交通に不便となったため、現在の場所を掘削するよう鎮守府は横須賀造船所に依頼して、明治19年、海底27メートルの掘割工事に着手し、明治22年に完成開通した。これにより旧掘割は埋め立てられ、周辺は旧海軍時代より現在まで燃料庫地帯になっている。現在地はここ。「新井掘割水路」を進む。左手の山の下・横須賀市田浦港町には「横須賀弾薬整備補給所」があると。前方海上自衛隊「F−10岸壁」に停泊中の「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」が現れた。海上自衛隊の試験艦。海上自衛隊としては15年ぶりの試験専用艦で、省力化やステルス化を目的とした艦載兵器実験艦。曹士女性自衛官(7名)が初めて乗り組んだ自衛艦でもある と。海上自衛隊「F−10岸壁」越しに鉄塔を見る。「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」。海上自衛隊護衛艦DD116「てるづき」であっただろうか?ズームして。そして「田浦港」を引き返して振り返る。再び見慣れたガントリークレーン。「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」を振り返る。ズームして。「海上自衛隊 自衛艦隊司令部」棟か。ゴムボートが疾走。再び「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」。護衛艦「たかなみ(Takanami 、DD-110)」。ズームして。「たかなみ(Takanami 、DD-110)」試験艦「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」を再び。再び見慣れたガントリークレーンをズームして。試験艦「あすか(JS Asuka, ASE-6102)と左の艦は? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.30
コメント(0)
「三笠公園」を後にして、県道28号線を利用して「軍港めぐり汐入桟橋」近くの駐車場に向かって進む。車窓左手に見えたのが「逸見波止場衛門跡」。かつての旧軍港への入口として、多くの軍人が行き交った旧横須賀軍港逸見門付近は、春秋にバラが咲き乱れるヴェルニー公園として整備され、衛兵詰所が当時の面影を残している。八角形の衛兵ボックスが左右2棟あり、左側は「逸見上陸場」、右側は「軍港逸見門」との文字が見えた。高さは約4m、屋根は銅板ぶきドーム型。本体は鉄筋コンクリート造りで、外壁はタイル張り。建築年代は昭和4年頃と推定され、当時の珍しい建築物の面影が。「アメリカ海軍横須賀基地」とその手前に「YOKOSUKA軍港めぐり」のクルーズ船の姿が。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」の建物が現れた。バスを降りて「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」に向かって進む。「YOKOSUKA軍港めぐり」案内板。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」前から「逸見岸壁」に停泊していた「海上自衛隊「空母」型護衛艦いずも」を見る。海上自衛隊最大の新型ヘリコプター搭載護衛艦「いずも」(DDH183)が2015年3月25日、就役した。いずもは基準排水量1万9500トン、全長248メートル、幅38メートルで、艦首から艦尾までつながった「全通甲板」を備え、哨戒ヘリなど9機の運用(5機の同時発着)ができるとのこと。右手の岸壁には「護衛艦・むらさめ 101」の姿が。艦名は「ひとしきり降ってはやみ、やんではまた降る雨」(村雨)に由来し、この名を受け継ぐ日本の艦艇としては、旧海軍春雨型駆逐艦「村雨」、白露型駆逐艦「村雨」、海上自衛隊のむらさめ型護衛艦 (初代)「むらさめ」に続き4代目に当たる とのこと。「YOKOSUKA」モニュメント・「YOKOSUKAじゃん」。汐入桟橋(しおいりさんばし)は、海上自衛隊と米海軍横須賀基地の艦船を間近で同時に見られる日本で唯一のクルーズ、YOKOSU軍港めぐりが発着している船の乗り場。京急線汐入駅近くにある大型ショッピングモール「コースカべイサイドストアーズ」の裏手(海側)にあったYOKOSU軍港めぐりの乗船チケットが販売される汐入ターミナルは、「コースカべイサイドストアーズ」の2階に。公募名:「YOKOSUKAじゃん」は「分かりやすく、シンプルにYOKOSUKA の地名と、スカジャンのジャンと、神奈川の方言である~じゃんの方言も兼ねて名前にしました」と。「横須賀港への海洋ごみ横須賀港は、東京湾の湾ロ部に位置しています。そのため、潮の流れや風向きの影響により、東京湾のごみなどがちょうどこの場所に流れ着いてしまいます。特に冬場は、北風の影響や、入り組んだ地形により、この付近にごみが堆積してしまいます.横須賀市では、市民や事業者と協力し、定期的に清掃を行うなど、積極的に海洋ごみの対策を行っています。こうしたごみの削減に向けては、私たちひとりひとりの意識や行動が大切です。みなさまのご協力をお願いします。」と。「YOKOSUKA軍港めぐり料金大人 2,000円小学生 1,000円※曜日や時期によって料金に変動あり」土、日の料金であり、平日のこの日は1,800円であった。乗船したYOKOSUKA軍港めぐりクルーズ船「Sea Friend 7」👈️リンク。2016年4月に就航。YOKOSUKA軍港めぐりの新たな主力船として登場した。大きく取られた1階客室の窓は曇りにくい特殊2重ガラスで、2階デッキには雨や直射日光を避ける屋根を採用し、快適性も格段にアップ。2階後部の赤いファンネル(煙突)が目印であると。全長 26.20m全幅 7.00m喫水 0.75m総トン数 99トン定員 平水 250名」と。横からの姿をネットから。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」を振り返って。再び「海上自衛隊「空母」型護衛艦いずも」を。緑の屋根は「海上自衛隊横須賀資料館」。この日のチケット。14:00出航便にて「YOKOSUKA軍港めぐり」のスタート。そしてYOKOSUKA軍港めぐりクルーズ船の乗り場。乗船後に利用した「Sea Friend 7」の2階デッキには、雨や直射日光を避ける屋根が。「YOKOSUKA軍港めぐり JAPAN HERITAGE CRUISE」.ショッパーズプラザ横須賀跡地に出来た「Coaska Bayside Stores」(コースカベイサイドストアーズ)。「COASKA」は「海の街 横須賀」を連想させるCOASTとYOKOSUKAの連結ワードとしている と。右手には以前に見学したことのある「アメリカ海軍横須賀基地」👈️リンク の施設が並ぶ。前方右から潜水艦が浮上。潜水艦を押すタグボートが2隻。曳船・YT03 75号50t型。海上自衛隊の第1種支援船で、小型の曳船。全長 17 m全幅 4.8 m と。艦橋(ブリッジ)上には人の姿が。艦橋の最上部は見張り台になっており、艦橋内にはレーダーアンテナ・潜望鏡・シュノーケルといった機器の水密収納筒や、艦橋にのぼるラッタルがあり、これらの整流カバーともなっている と。そして、飛行機の水平尾翼とも思えるフィン(潜舵)が横に出ています。水中を走行する時、横に倒れない様にバランスを取る重要な部分と言えます。曳船が海上自衛隊のものなので日本の潜水艦か?こちらは、原子力潜水艦の構造写真(オハイオ級潜水艦)をネットから。艦橋(ブリッジ)の最上部には、「潜望鏡」、「IFF、UFFアンテナ・敵味方識別装置」、「通信アンテナ」「シュノーケル」が設置されているとのこと。「シュノーケル」は、水中で潜水艦のディーゼルエンジンを運転するために用いられる吸気管とのこと。じわじわと岸壁に近づいて。そして岸壁に。潜水艦の前部を曳舟が押す。岸壁に近づいて。タグボートが2隻が息を合わせて。後方のタグボート・曳舟 YT06海上自衛隊支援船で小型の50t型タグボート「75号型」の曳船06号(YT-06)基準排水量: 50t全長: 17.0 m幅: 4.8 mセイル(上構)の中央付近には、水中で潜水艦のディーゼルエンジンを運転するために用いられる吸気管・シュノーケルが見えた。日章旗も見えた。更にズームして。タグボート・メノミニー(MENOMINEE, YT-807)の姿が潜水艦の船尾に。ズームして。再び「空母・いずも」👈️リンク。SHOUP・シャウプ (ミサイル駆逐艦)。2022年12月19日、日本に到着し神奈川県にある横須賀基地と第7艦隊に前方配備されたと。海上自衛隊の護衛艦・むらさめ。空母・いずもを再び。広い飛行甲板を備える海上自衛隊最大のヘリコプター搭載護衛艦「いずも」(全長248メートル、1万9950トン)。後部艦橋の張出し部は「航空管制室」。艦橋前部の台座には「RIM-116 SeaRAM」近接防空用艦対空ミサイルシステムが搭載されている と。艦艇に接近する航空脅威、特に対艦ミサイルの撃墜を目的とするCIWS(Close-in weapon system)として運用されると。 目標が射程内に入ると20mmバルカン弾を発射。 弾道をレーダーで追尾し、目標とのズレを計測するのだと ネットから。183の文字が。空母・いずもの写真をネットから。建造期間 2012年 - 2017年就役期間 2015年 - 就役中建造数 2隻前級 ひゅうが型次級 最新要目基準排水量 19,500トン満載排水量 26,000トン[1]全長 248.0m最大幅 38.0m水線幅 29.6m深さ 23.5m吃水 7.3m機関方式 COGAG方式主機 LM2500IECガスタービンエンジン (28,000 ps)×4基推進器 スクリュープロペラ×2軸出力 112,000 ps電力 14,000 kW電源 LM500-G07ガスタービン主発電機 (3,500 kW)×4基最大速力 30ノット搭載能力 最大14機乗員 約470名[注 1]兵装 ・高性能20mm機関砲 (CIWS)×2基 ・SeaRAM 近SAMシステム×2基搭載機 ・SH-60K哨戒ヘリコプター×7機 ・MCH-101輸送・救難ヘリコプター×2機C4ISTAR ・洋上ターミナル (MTA) ・OYQ-12 戦術情報処理装置レーダー ・OPS-50 3次元式(AESAアンテナ×4面)×1基 ・OPS-28F 対水上捜索用×1基 ・OPS-20E 航海用×1基ソナー OQQ-23 艦首装備式×1基電子戦・ ・NOLQ-3D-1 電波探知妨害装置対抗手段 ・Mk.137 6連装デコイ発射機×6基 ・OLQ-1 魚雷防御装置 (MOD+FAJ)一式」と ウィキペディアより。再び海上自衛隊の護衛艦「むらさめ(JS Murasame DD-101)」。艦橋構造物はステルス性を考慮し傾斜させ、マストは強度確保のためトラス式。前甲板に62口径76mm速射砲、その直後にVLS、高性能20mm機関砲CIWS、前後煙突の合間にSSM装置、前方煙突直下に短魚雷発射管を各々配置。DD-101は個別の艦艇の識別用番号で、「艦番号」と呼ばれるものです。 数字は下二桁が個別の番号、最初の1~2桁が任務や種類の目安になります。 1XXなら大型護衛艦、2XXなら小型護衛艦、 6XXは掃海艇 、4XXXは輸送艦 、5XXなら練習艦 という風に種別や任務で番号が付けられているとのこと。ズームして。護衛艦・むらさめ。進水 1994年8月23日就役 1996年3月12日要目基準排水量 4,550トン満載排水量 6,100トン全長 151m最大幅 17.4m深さ 10.9m吃水 5.2m機関 COGAG方式主機 IHILM2500ガスタービン × 2基 川崎スペイSM1C × 2基出力 60,000PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸最大速力 30ノット乗員 165名兵装 62口径76mm単装速射砲 × 1門 Mk.15 Mod12 高性能20mm機関砲(CIWS) × 2基 90式艦対艦誘導弾 (SSM-1B)/ ハープーン4連装発射筒 × 2基 Mk.41 Mod6 VLS (VLA SUM) × 16セル Mk.48 Mod4 VLS (ESSM 短SAM) × 16セル HOS-302 3連装短魚雷発射管 × 2基搭載機 SH-60J/K 哨戒ヘリコプター × 1/2機C4ISTAR OYQ-9 戦術情報処理装置 OYQ-103 対潜情報処理装置レーダー OPS-24B 対空 OPS-28D 水上 OPS-20 航海用 81式射撃指揮装置2型-31 × 2基ソナー OQS-5 OQR-2C 曳航式電子戦・ NOLQ-3 電波探知妨害装置対抗手段 Mk.137 デコイ発射機 × 4基」 とウィキペディアよりDD-101から「101」と。ズームを戻して全景を。輸送艇2号👈️リンク(JS LC No.2, LC-2002)は、海上自衛隊の輸送艇(LCU)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.29
コメント(0)
さらに「三笠公園」内から「歴史博物館・記念艦三笠」前の散策を続ける。「記念艦三笠」と。「記念艦三笠」の入口階段。観覧はシニア(65才以上)は500円と。見学順路案内。「記念艦 みかさ」。「常設展「三笠」秘蔵連合艦隊模型コレクション」案内。艦前部の主砲塔と前艦橋。40口径15センチ砲 副砲。副砲(ふくほう 英:Secondary gun)は艦砲の一種である。主砲では対応できない水雷艇などの小型艦艇、また航空機を攻撃するために用いられる。概要小型艦艇・航空機など高速、小型のものを攻撃する場合、主砲では弾薬は限られており、旋回速度も遅いため、副砲が使われる。副砲には、15センチ前後のものがよく使われた。 副砲には砲塔式とケースメイト式がある。当初、巡洋戦艦として建造された赤城 (空母)には、ケースメイト式の副砲がついていた。大和型戦艦の15.5センチ副砲は元来最上型重巡洋艦が軽巡洋艦として建造された当時の主砲であったが、とても強力な砲であった。2本のマストの間に、2本の煙突。錨と吊上げ用ダビッド。30センチ前部主砲が見えた。その後方のマストには見張り台が。戦艦三笠の艦首には、日章旗と菊の「御紋章」が付けられていた。この御紋章は、十六弁表八重菊をイメージしたものと。写真のものはレプリカであるが、艦内には就役当時のものが保存・展示されていると。移動してズーム。猿島をズームして。東京湾に浮かぶ、唯一の自然島。 釣り・海水浴・バーベキューなど、四季を通してアウトドア・アクティビティを楽しめます。 面積は横浜スタジアムのグランドの約4倍。 三笠桟橋からの約10分の船旅で、気軽に訪れることができます。旧日本軍の要塞として、一般人の立ち入りは、終戦まで禁止されていました。 島内には緑深い木々のなか、レンガ積みのトンネルや砲台跡などの旧軍施設が残っていて、ちょっとした探検気分が味わえます。 かつて、仮面ライダーのショッカー基地として撮影が行われたことでも知られています。 釣り・バーベキュー・海水浴など小さな島いっぱいに魅力がつまっています。 横須賀海軍の球技場方向を見る。組曲「横須賀」碑。「合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」作曲 團伊玖磨」👈️リンク。「みどりのちかいわたしたちの郷土横須賀は、すぐれた自然環境に恵まれ、祖先はこれからの環境の中で生活し、自然を愛し、親しんできました。私たちは、祖先から受けついだ資産を子孫に引き継ぐため「人間都市横須賀」の建設を目指し「人間と人間をとりまく、すべての生命を大切にする都市」を基本精神として、健康でみどり豊かな環境を創造するため横須賀市制施行80周年を祝賀して実施する「かながわ都市緑化横須賀フェア」を契機に、さらにみどりいっぱいの都市づくりを目指して邁進することを誓います。1987年(昭和62年)10月3日 かながわ都市緑化横須賀フェア実行委員会」「合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」 作詞 栗原 一登1. 序章 ふるさとよ 東海の 三浦を分けて ふるさとよ 大洋(わだつみ)広く 山青く 先史に開く 悠久の 歴史を生きて われ等あり ああ 横須賀 われ等あり 磯波に 富士を映して わが街よ 英知を集め 地と人の 栄えを創る 喜びは 自立の誇り 希望(のぞみ)あり ああ 横須賀 希望(のぞみ)あり 近代の 夜明けを告げし 横須賀よ 試練を越えて 立ちしいま 平和を願う 新たなる 門出の街よ 未来あり ああ 横須賀 未来あり2. 黒船 来たる 霧こめし 浦賀の海の 波を巻き 国を開けと 黒船 来たる 大いなる 歴史の朝ぞ 黒船 来たる 波とどろ 浦賀の海の 高鳴りは 目覚めし国の 暁の歌声 大いなる 歴史の街ぞ 黒船 来たる 久里浜よ 浦賀の海を 見はるかす 碑(いしぶみ)高し 時を経し いま 大いなる 歴史の海ぞ 黒船 来たる3. 衣笠城跡 山城は 樹々深くして 木漏れ日に 草は青みぬ 雄叫びの 充ちたる谷も 静まりて 興亡空し いず方か ほととぎす鳴く 山城の 道は細みて 藪椿 紅きが悲し 血ぬられし 物見の岩も 苔むして 亡びし城よ 衣笠に 春は巡れど 4. 谷戸の物語 1 じいちゃんの そのまた じいちゃんと ばあちゃんの そのまた ばあちゃんが 好いて 好かれた 昔の話 いせき娘の ばあちゃんが ひとり 谷戸の山越え たずねて行けば じいちゃんの そのまた じいちゃんが 海から小舟で 送ったそうな 褒め申そう 褒め申そう 谷戸の この家 褒め申そう 2 製鉄勤めの じいちゃんが 谷戸の向うの ばあちゃんに 会いたさ 見たさに カンテラさげて トンネル抜け抜け 走って行った 三年三月で 所帯を持って 淡島さまに 願かけて わが家の とうちゃん 生まれたそうな 褒め申そう 褒め申そう 谷戸の この家 褒め申そう」「合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」演奏時間 案内。戦艦三笠を振り返る。「東京九州フェリー 横須賀フェリーターミナル」を振り返る。米国横須賀海軍基地の住宅をズームして。「芝生広場」にあった「野外ステージ」。ステージの前には芝生の広場と海が広がり、海に向かって歌うことができるオペラハウス状のステージとなっていた。再び戦艦 三笠を振り返って。ズームして「さざなみの階段」とアーチ型の「サブモニュメント」。正面から。昼間はさざなみの音が流れているのであった。公園の北東の「モニュメント広場」には高さ18mもある「メインモニュメント」が。近づいて猿島を背景に。引き返すと「三笠公園案内図」が。「中央公園」の正門側の入り口付近。蒸気機関車が・・・???「横須賀市緊急用飲料貯水槽(100m3)」と。蒸気機関車(SL)に似せて造った同市の「緊急用飲料貯水槽」が設置から40年以上を経て今なお人気を集めているのだと。「この蒸気機関車は、いつか来る大地震のために、生活には欠くことのできない「水」を貯えておくための非常用貯水槽(通称100トンタンク)です。大地震が起こったとき、この三笠公園に避難してくる10,000人の人たちに、一人当たり1日3リットルの水を約3日間配ることができるように、100m3 ( 100,000リットル)の水道水が新鮮な状態で循環しています。」「記念月桂樹」。「記念月桂樹の由来昭和36年(1961年)5月27日、記念艦「三笠」の復元記念式に際し、記念艦「三笠」復元に多大な尽力をされた米国の「チェスター・ニミッツ海軍元帥」、「アーレイ・バーク海軍作戦部長」、「ジョン・コナリー海軍長官」のお三方の名前で、この地に3本の月桂樹が植樹されました。しかしながら、それらは55年の年月を経て立ち枯れ、1本を残すのみとなりました。「チェスター・ニミッツ海軍元帥」らの功績を後世に伝えるため、後継樹として向かって左側に新たに1本を植栽しています。 平成28年3月 (公財)三笠保存会」巨石が施された池は清掃中。池を振り返って。正門前花壇。再び戦艦三笠を。ズームして。「東郷平八郎像」と「戦艦三笠」。手前にあったのは「サイクルスタンド」か?管理棟内には記念艦三笠の関連品などを売っている売店・土産物屋もあった。「公園案内」板。「横須賀港(新港)の紹介横須賀市内の北は追浜から南は野比に至る港湾施設のある区域をまとめて横須賀港といいます。向こうに見える島は東京湾唯一の自然島「猿島」です。伝説によると日蓮上人が上総の国から鎌倉へ行く途中、嵐に遭い漂着した所といわれています。この島は四季を通して市民が海と親しめる所でもあり、島内には弥生時代の洞穴住居あとや、かっての要塞、特に明治時代の赤しンガなどが残されています。さらに沖合には、第1海堡、第2海堡、水没している第3海堡の人工島要塞あとや千葉の新日本製鉄(株)君津製鉄所がながめられます。左に見える記念艦「三笠」は日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破り大勝を収めた時の旗艦であります。大正15 (1926)年三笠公園に保存されることになりました。ペリー提督の率いる船が浦賀沖に来航して以来、わが国の立ち遅れを痛感した徳川幕府は勘定奉行小栗上野介忠順に製鉄所(後の造船所から海軍工廠と改称された)の建設を命じ、それを受けたフランス人技師レオン・ヴェルニーは横須賀湾に着目し、建設しました。これがきっかけとなって一寒村であった横須賀が大きく発展することとなり、やがて海軍がその施設を拡張するにつれて貨物船等の横須賀湾内の航行が制約されました。そこで貨物船等は現在の稲岡町あたり、白浜海岸を使うようになりました。白浜は漁民の集落でしたが明治11 (1878 )年三浦郡長小川茂周によりこの辺一帯が埋立てられ、郡長の名をとって小川町と名づけられました。そのころ鴨居「若松屋」の高橋勝七により石松町、明治22 (1889)年、その北側に後の工機学校敷地、大正(1915)年、肥後富一郎、葦名金之助等により大滝町地先に埋立地がそれそれ造成されました。埋立地ができあがると縁ヶ丘にあった市役所や諏訪小学校、平坂付近にあった警察署をはじめ銀行や商店なども進出、活気のある下町が形づくられてきました。昭和5年、今の京浜急行が浦賀まで開通されると埋立地は横須賀の都心としてにぎわいのある町となっていき、人々は「中央へ行こう」「下町へ行こう」と言って新しい町に来ることを楽しみにしていました。造船所開設以央、次第に都市として発達した本市にとって、交通機関の整備は第一の要件であり、特に谷間の多い地形などによる道路網の不備もあって海上輸送は、物資輸送幹線の上で中心的な役割を果していました。海軍の施設拡大のため横須賀湾、長浦湾の一般利用が閉ざされてからは、小川港は近くの安浦港とともに整備され、京浜急行からの生活必需物資や石炭、建築用材等の港湾貨物の取扱いに重要な役割を果してきました。なお戦後わが国の食料危機救済のため、長浦に外国貿易港が、また久里浜に遠洋漁業基地及び国内貿易港が、それそれ整備されてきました。一方戦後の目覚ましい経済成長を背景に、三浦半島及び湘南地域を主とした海上輸送貨物の門戸として新港建設に昭和41 (1966)年着手し昭和49 (1974)年完成に至りました。現在新港では、ソーラス条約に対応し、完成自動車の輸出や、水産物(冷凍マグロ)の輸入が行われています。平成25年には地場産物総合販売所の「よこすかポートマーケット」がオープンし、平成27年には官公庁の移転が完了しました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.28
コメント(0)
「浦賀ドック」を後にして、バスにて昼食会場の「いちご よこすかポートマーケット」に向かう。県道208号線を北に向かって進む。京浜急行「浦賀駅前」交差点が前方に。「浦賀駅前」。「国道16号」に出て「横須賀魚市場前」を通過。「カナリー椰子(ヤシ)並木」が続き、南国の風景。カナリーヤシ(カナリー椰子)は、ヤシ科の常緑樹で、大西洋のカナリア諸島(スペイン領)が原産。別名は「フェニックス」で、伝説上の不死鳥「フェニックス」を連想させる樹形をしているのであった。そして「いちご よこすかポートマーケット」に到着。横須賀や三浦半島の豊かな作物を、様々なジャンルの飲食店が調理。オーシャンビューが印象的なウッドデッキで、いつでも誰でもお食事を楽しめるマーケット&フードコー と。「いちご」とは、人との出会いを大切にする「一期一会」からのようだ。施設の運営主体は、2015年に東証一部(2022年4月にプライム市場に移行)に上場した「いちご株式会社」とのこと。「YOKOSUKA PORT MARKET」。”網元 房竹丸”の海鮮丼 、 ビーカープリンで人気の”マーロウ” 、 創業50年以上・横須賀の老舗ハンバーガー店”HONEY BEE” 、 10種類のクラフトビールが楽しめる”横須賀ビール” 、宮内庁御用達の精肉店”横須賀松坂屋”のソーセージ 、 関口牧場のソフトクリームが食べられる”YOKOSUKA GELATO FACTORY” などなど、地元有名店が一堂に会した食のテーマパーク。2022年10月28(金)、オープンしたのだと。長井水産(NAGAI SUISAN)相模湾や東京湾で水揚げされた鮮魚をはじめとした魚介類だけでなく、三浦野菜など、生鮮食品を販売していた。海鮮丼の店「あがっとこ」。横須賀の長井で水揚げされた地魚や三崎のマグロが食べられる店。「あがっとこ」の意味は??「MARLOWE」「ビーカー入り手づくり焼きプリンで人気のマーロウが、三浦半島東海岸に初出店。添加物を一切使用せず、北海道産の新鮮な牛乳と植物性飼料で育てられた食菜卵など、こだわりの食材を使用しています。ビーカーは食べ終わったあとにも、ご自宅などで大活躍。お土産にも是非どうぞ。」とネットから。そしてこの日の昼食は「ヨコスカネイビーバーガー」。「レギュラーネイビーバーガー」セットを大きく口をあけて楽しみました。店のベランダから見えた「横須賀新港ふ頭」には、輸出乗用車が所狭しと並んでいた。車の名前に疎い私には車種の名前は??右手奥にあったのが「東京九州フェリー 横須賀フェリーターミナル」。神奈川県のここ横須賀新港と北九州の新門司港を結ぶ「東京九州フェリー」が、2021年7月1日に就航。976kmの距離を約21時間で航行し、観光はもちろん、物流・トラックの安定輸送に寄与することが期待されているのだと。巨大ハンバーガーを完食後には、出発時間まで近くにあった「三笠公園」を徒歩で訪ねた。前方右手に現れたのが「新三笠桟橋(猿島渡船乗船場)」。猿島(さるしま)は、神奈川県横須賀市猿島に所在する無人島。東京湾最大の自然島である。1995年に国から横須賀市へ移管され、横須賀市が猿島公園として観光などに活用している幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本国では数少ないフランドル積みが見られる。使用された煉瓦は愛知県の東洋組士族就産所で製造された。国の史跡に指定されている。当時の煉瓦は素材や焼成温度が均一でなかったため、結果として色とりどりの煉瓦が積まれて現代に残り、観光客に人気がある。なお、砲台は2000年に「猿島要塞」として土木学会選奨土木遺産に指定された と。新三笠桟橋(三笠公園内)よりトライアングル(運行事業者)の船で10分。船は、3月から11月までは毎日運航、12月から2月までは土日祝日のみ運航。往復運賃は入島料込みで大人2000円、中学生1750円、小学生1000円で横須賀市民には割引があるとのこと。Sea Friend ZERO〈シーフレンドゼロ〉👈️リンク が出航を待っていた。2014年に就航。猿島航路を中心に、各種イベントクルーズやチャーターでのご利用などマルチに活躍する船。全長 19.83m全幅 7.10m喫水 0.80m総トン数 19トン定員 平水 236名 主な航路 三笠~猿島 沿海 94名前方に歴史博物館「記念艦三笠」の姿が現れたが、修繕工事中のようであった。塗装の退色が著しかった船体側面の塗装剥離・再塗装作業を4月中旬までの予定で実施しているとのこと。「三笠公園」案内図。「三笠公園」は「コ」の字型をしていて、公園の周囲半分が海に面しています。広さは東京ドーム0.8個分とそれほど広くはありませんが、様々な施設が充実した公園である。世界三大記念艦の「三笠」に加え、遊具がある中央広場、音楽噴水池、モニュメント広場などがあり、噴水は音楽に合わせて噴き出たりと、親子で楽しめる公園であった。「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれた横須賀を代表する公園。「行進曲 軍艦」👈️リンク 歌碑。行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ 未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである 世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で 作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。碑裏面には、鳥山啓作詞の「行進曲 軍艦」の「守るも攻めるもくろがねの・・・」の歌詞が刻まれていた。(この写真は以前に訪ねた時の写真)。歴史博物館「記念艦三笠」と「三笠公園」。「三笠公園」の入り口広場の円形噴水池の中心にあった「東郷平八郎像」。近づいて。「日本海海戦後言志日の本乃海にととろく かちときは 御陵威かしこむ 聲とこそしれ 東郷平八郎 (花押)」裏面には「昭和42年5月27日 清水多嘉示作」と記されていた。さらにブロンズ像「東郷平八郎像」👈️リンク に近づいて。「皇國興廃在此一戦 元海軍大将 長谷川清書 大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之」と。「皇国」とは天皇の国、つまり日本のこと。興廃とは「栄えるか滅ぶか」という意味。要するに「この一戦で日本が栄えるか滅亡するかが決まる」よって各員一層奮励努力せよ いう意味である。碑高150㎝、幅250㎝、厚さ30㎝、台石30㎝。裏面には「三笠公園 本公園は昭和三十六年五月二十七日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである 三笠艦は日本海々戦-一九〇五年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り 云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた」台石に大正七志会、七洋会の会員67名の名簿が記載されていた。「昭和42年5月27日 清水多嘉示作」と。再び歴史博物館「記念艦三笠」を見る。日清戦争に勝利した我が国は、下関条約により賠償として清国から遼東半島を割譲されましたが、強力な軍事力を極東に展開している露独仏三国の強い干渉を受け、遼東半島を清国に返還せざるを得ませんでした。欧米列強の軍事脅威から主権と領土を守るためには軍事力の強化が急務と痛感した時の政府は、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊整備計画」を推進しました。「三笠」は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦であり、明治35年(1902)3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した明治36年12月、連合艦隊に編入され、その旗艦になりました とネットから。全長は132メートルもあり、乗員数はなんと860名と。船首には「旭日旗」がはためいていたが。我が国の基本的立場(2021年5月18日加藤官房長官記者会見午前(抜粋))「旭日旗の意匠は日章旗同様、太陽をかたどっており、大漁旗や出産・節句の祝い旗等、日本国内で現在までも広く使用されているものであり、特定の政治的・差別的主張である等の指摘は当たらない。政府として、韓国を含め国際社会に向けて、旭日旗の掲示が政治的宣伝にならないという考えを累次の機会に説明しており、今後ともそうした説明を継続していきたいと考えている。」と。「戦艦大和型 主砲砲弾」。「記念艦 三笠の由来」案内板。「記念艦 三笠の由来三笠は1904年(明治37年)2月に始まった日露戦争において、東郷大将が率いる連合艦隊の旗艦として、終始敵の集中砲火の中で奮戦し、同年8月10日の黄海海戦では露国東洋艦隊に大打撃を与え、遂に1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を全滅させる遺功をたてた日本海軍の代表的な軍艦であります。日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自身を新たにするとともに、その栄光を永く後世に伝えるために、その「シンボル」として、三笠は1926年(大正15年)以来収蔵する多数の記念品とともに、ここ白浜海岸に保存され、多くの人に親しまれてきました。要目排水量 15,140トン 全長 132メートル 幅 23メートル 軸馬力 15,000 HP速力 18ノット 砲 30cm x 4 15cm x 14 8cm x 20 発射管 45cm x 4」「世界三大記念館「三笠」記念艦三笠は1902年にイギリスで竣工しました。日露戦争では、東郷平八郎司令長官が乗艦し、連合艦隊の旗艦として日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した後、1926年に記念艦として横須賀に保存されました。旅行サイト「トリップアドバイザー」2020年度日本全国博物館トップ2 0にも選出されています。世界三大記念艦「三笠」は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。」「昭和五十ニ年市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 記念艦三笠」碑「日本遺産 鎮守府・横須賀・呉・佐世保・舞浜 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~ 記念艦三笠」碑「主砲砲身伏見宮恭王殿下(当時少佐)砲台長としてご奮戦の後部主砲の右砲身の一部です。明治37年(1904)8月10日の黄海海戦で被弾し破損脱落したものです。」日露戦争時の「ロシヤの主砲砲弾」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.27
コメント(0)
船首方向からドックゲート方向に向かい、ドックの底に降りる白く塗装された鉄骨階段を利用して進む。鉄骨階段途中から、船首方向を見る。鉄骨階段からドッグのフランス積みの赤レンガ壁を見る。壁も階段状になっており、足場として利用したのであろう。浦賀ドックを象徴する施設の一つてあった大型のタワークレーンも、近年までアーム部分が取り外れた状態で残されていたが、現在は撤去されて、クレーンが移動していたレールのみとなっているのであった。正面に「盤木」が並ぶ。盤木は、鉄筋コンクリートと、樫と松の木から成り立っているとのこと。盤木はドックに入る船の形により配置を変える。図面を見ながらそれぞれの船に合わせて変えていくという大変な作業が窺えるのであった。移動にはフォークリフトやクレーンを使うため、爪やワイヤを掛ける穴が開いいるのだと。精密に並べられた盤木の穴を覗くと、はるか先の盤木まで見通すことができるのであった。盤木に近づいて。延長されたという船首方向を見る。船首方向をズームして。船首部分の上部歩廊は鉄骨製。振り返って、ドックゲート方向を見る。昇降用の鉄骨階段の近くの壁は、レンガ積みではなくコンクリート構造となっていた。鉄骨製階段を上りながら、コンクリート壁には、ドック内の海水移送用の配管が確認できた。ズームして。ドック底部の四角い開口は海水移送用のポンプに繋がっているようであった。ドックゲートとその上部の連絡歩廊を見る。右手奥の房総半島をズームして。千葉県館山市の館山港の裏側の山々であろうか?「川間ドック」方向を見る。現在の「川間ドック」をGoogle Earth より。ドライドックだが、ゲートが取り払われているので、海水が入っているのだ。よってドックの底は水の中で見えない。長さ136.7m、幅16.4m、深さ9.7m とネットより。「川間ドック」内にクルーザーが停泊している写真をネットから。そして「浦賀ドック」👈️リンク のドックゲート上部の連絡歩廊より、「浦賀の渡船」👈️リンクが確認できた。「ポンポン船」の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルになっている渡船は、港に隔てられた東西の浦賀の町を行き来する人にとって、大切な交通手段であると。この渡し舟は、浦賀に奉行所が設置されて間もない享保10年(1725年)ごろから記録に登場しているとのこと。現在も時刻表は無く、渡船が対岸にいるときは、呼び出しボタンを押すと、すぐに来てくれるのだと。約3分ほどの船旅ですが、浦賀造船所跡地に建つクレーンやドックを海から眺めることができるのだと。約3分で対岸に着くという船旅。この渡し舟の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の横須賀市道(2073号線)になっていると。全長9.5m、朱色を基調にした船体で毎日この「浦賀海道」を往復している。この「愛宕丸(あたごまる)」、名前の由来は西浦賀町にある愛宕山から来ている。船が機械船になったのは昭和37年以降のことで、以前は「伝馬船(てんません)」と呼ばれる櫓(ろ)こぎの船であった。現在の愛宕丸は2代目で平成10年の浦賀渡船120周年を機に就航している。この船のデザインは、かつて「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしているのだと。料金 大人:400円、小・中学生:200円。営業時間 朝7時から夕方5時まで。約3分ほどの船旅●であるが、歩く●と30分以上かかるのだと。ワイヤー牽引機のハンセン減速機。ドックゲート上部の連絡歩廊を渡る。ドックゲート上部の連絡歩廊から船首方向を。この1号ドックは修理専用で、船を建造していたわけではない と。ありません。海水移送用の配管、水中ポンプ。ここのドックゲートは「フラップゲート」とも呼ばれていると。内外の水位差で水密性を保つことが出来ると。海水面との差がよく理解できるのであった。ワイヤーロープ牽引装置・ウィンチ。「船台」の案内。船台(せんだい)。造船所で船体を建造・修理する場所と設備。ふつう水辺に直角に造られ、進水に適当な角度で水辺に向けて傾斜をつけ、後端部は相当深く水中に延長して、開閉可能の扉を設け、進水時には船尾の浮揚を早めるため水を入れる。数万tの船殻(せんこく)重量に耐え得るように堅固に造り、中心線上にキールをおく竜骨盤木(ばんぎ)、両側に腹盤木、支柱を備える。「マンモス船台完成昭和33年総額10億円、1年3か月工事作業者のべ105,000人」と。「1984年2月15日、皇太子殿下(現上皇陛下)ご臨席のもと美智子妃殿下(現上皇后)が支綱切断(しこうせつだん)により、浦賀工場にて、練習船「日本丸」の進水式が行われた。」「練習帆船「日本丸」(2代目) 別名:太平洋の白鳥総トン数: 2 , 5 7 0トン全長 : 1 1 0. 0 9 mマスト高:約4 5 m航海速カ: 1 3 . 2ノット実習生定員: 120名姉妺船 :海王丸別名 :海の貴婦人「浦賀・追浜百年の航跡」より転載」2代目「日本丸」の写真をネットから。対岸の住友重機械工業の工場跡地(横須賀市西浦賀)にあった「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。18~22階建てのマンション8棟(計約2500戸)と。優しく親切に説明下さいました。手前には船を係留する黄色の杭は「係船柱(けいせんちゅう)」・「ボラード(bollard」と呼ばれると。係船柱は、桟橋や埠頭などに設置され、船舶をワイヤーやロープで係留するために使用されるのだ。台風で屋根が飛んでしまったというポンプ室。ポンプ室にあった海水排水用の縦軸斜流ポンプ。「護衛艦たかなみ起工:2004年4月25日就役:2003年3月12日排水量:6300トン(満載)全長:151m全幅:17.4m」明治30年に設立され106年余の伝統を誇るその浦賀ドックが、浦賀にぺリーが来航して150周年に当たる2003年、その歴史に幕を閉じることになり、快晴の3月12日最後の建造船となった海上自衛隊の「護衛艦たかなみ」の引き渡し式が盛大に行われたのだと。「護衛艦たかなみ」👈️リンク の勇姿。「機関工場」案内パネル。「機関工場」は、エンジンの組み立てなどを担っていた代表的な建物。2003年に閉鎖された浦賀ドックでは、15年に一部工場が解体され、2019年11月から機関工場が老朽化のため解体されたのだ と。「浦賀船渠(株)」。そして「浦賀ドック」の見学を終え、バスに戻り昼食会場に向かって進んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.26
コメント(0)
この日は2024年2月26日 (月)、 横浜発 浦賀ドック【世界に4か所しか現存しない造船所跡】見学と軍港めぐりYOKOSUKAクルージングツアーに元同僚2人と参加しました。横浜駅中央南改札口に9:30に集合し、ツアーの出発場所に向かう。 途中、道に迷ったがが定刻の9:50に集合場所に到着し、大型バスで出発。参加人数は合計10人と極めて少人数。横浜横須賀道路に向かって進む。左手に「横浜ランドマークタワー」。首都高速神奈川1号横羽線を進む。前方に「富士山」の姿が現れた。「首都高速神奈川3号狩場線」を進む。横横道路方面に。「六ツ川料金所六ッ川料金所(むつかわりょうきんじょ)」を通過。「六ツ川料金所」から横浜横須賀道路に入り横須賀方面へ。「佐原」ICで「横浜横須賀道路」を降り、国道134号をJR久里浜駅方向に進む。「尻こすり坂通り」と書かれた道路標識。1853年、開国を求めにアメリカからやってきたペリーが初めて日本の地を踏んだのが、現在の横須賀市久里浜。ペリー上陸の地から車で5分ほど、国道134号線沿いに「尻こすり坂通り」という標識が掲げられていた。急坂のため荷車を押して坂を通ると、荷車の後部が擦れてしまうことから名付けられたという。「尻こすり坂通り」の全長は約3.3km。そしてこの日の最初の見学場所「浦賀ドック」に到着。バスを降りると、前方に造船所跡の巨大な構造物とクレーン(一部解体)が目の前に。ここは、一世紀以上にわたって約1,000隻にのぼる艦船等を造り続けてきた住友重機械工業株式会社旧浦賀工場の跡地。平成15年(2003)に閉鎖されるまで、日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦などの船がこの造船所で建造され、街で働く人たちでにぎわったのだ。『レンガ造り』のドライドック(明治32年(1899)建造)を見られるのは国内で唯一ここだけとのこと。令和3年(2021)にドックを含む周辺部について住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄贈されたのであった。ドックサイドに現在も残る唯一のクレーンを見る。クレーンには「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれた銘板が掲げられていた。終戦2ヶ月前の昭和20年6月に設置されたクレーンなのであった。浦賀船渠(うらがせんきょ)👈️リンク は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック。日本海軍の駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年(平成15年)に閉鎖された。2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付されたと。現在の社名「住友重機械工業株式会社」は、昭和四十四年(1969)に浦賀船渠(株)にはじまる浦賀重工業(株)と合併してからのもの。正面にクレーン用のレールが残されていた。造船マンたちにも、このレールを敷く作業はなかなか難しかったとみえ、レールの敷設工事にはJRマン(旧国鉄の技術者)の技術を借りることがあったと聞いた。クレーンが数十トンの鋼材をつり下げて高所へ運び上げる際に、下のレールの数ミリの誤差によって大きな事故が起きることのないようにと、細心の注意を払って敷設作業を行っていたのだと。レールの先には「浦賀ドック」の建造物が拡がっていた。控室入口には「URAGA DOCK HOUSE」と。そして、説明員の方の案内で「浦賀ドック」の見学開始。浦賀ドック(浦賀レンガドック、住友重機械工業浦賀工場)は、1899年(明治32年)から1世紀以上に亘って約1 , 000隻以上の船舶の製造や修理を行ってきた、世界に4か所しか現存しない(諸説あり)とされるレンガ積み「ドライドック」の一つ。「ドライドック(乾ドック)」とは、船体の検査や修理などのために水を抜くことができるドック。船渠(せんきょ)、乾船渠(かんせんきょ)とも呼ばれるのだ。レンガ積みドライドックは、国内では同じ浦賀工リアにある川間ドックと浦賀ドックだけしかなく、明治期の産業革命の技術や歴史を知るうえで、貴重な近代化遺産。なお、川間ドックはマリーナとして利用されているため、海とドックを隔てる門が撤去され、常時海水が満たされた状態である。そのため、保存状態は浦賀ドックのほうが良好とのこと。浦賀ドックの寸法は長さは約180m、幅は約28.2m、深さは約10m。創建時の規模は長さ約148m、幅約18(下部)~21(上部)m、深さ約10mであったと。船舶の修理・メンテナンス用のドライドック。フランス人技師による設計で、レンガの長手の小口を交互に積み重ねる「フランス積み」という技法で造られている。海とドックを隔てる門・ドッグゲート(扉船式)の方向を見る。ズームして。中央に「船台(せんだい)」が並ぶ。船体を水から上げることは「上架(じょうか)」と呼ばれ、その際に船体を載せる台は「船台(せんだい)」と呼ばれるのである。以下 ネットから「浦賀船渠株式会社 第1号船渠設計図」。明治31年3月設計 担任技師 杉浦栄次郎「ドックの構造1.レンガ 船渠側壁・底部用:約130万個 (上等焼過レンガ等を愛知県安城市の岡田煉瓦製造所創業者 岡田氏から購人) 船渠裏込用:約85万個 (久比里・久我氏から購人)2.セメント 外国産(イギリス・ドイツ) 総量1430.6 t ( 8,300樽) ※1樽380ポンド入3.石 相州産堅石と割栗石 総量 約1377m34.ドックゲート(扉船式) 当初国内製を採用予定だったが、物価高騰によりイギリスから購入ドックの大きさ1.長さ: 148m (488.140尺)2.渠ロの幅:上部21m (70.290尺) 下部18m (59.070尺)3.深さ(渠口) : 10m (33.660尺)」「明治三十一年四月起工 明治三十ニ年十一月竣工 担任技師 杉浦学次郎」私が生まれた1950年代の浦賀ドック全景。◯部分が今回見学した「第1号ドック」。浦賀ドックの歴史案内。①ドック底を収めた写真②参画した咸臨丸フェスティバルでは、機関工場横にステージを設置し、地元中学校の 吹奏楽コンサートなどが多数開かれた。③ドックゲート部を掘削中の写真。⑤練習帆船 日本丸の進水式で、支綱切断を美智子妃殿下(当時)が行われた。④レンガドック建造中の写真。 現在ドックがある場所にはもともと山があり、建造にあたり山を人の手で切り崩し現在の形が 出来上がった。⑥レンガドックの改造工事図面。明治32年の竣工時点で 全長148m、最大幅28.2m、深さ82mであったが、昭和58年に28mの延長が工事行われた。⑦明治33年に軍艦 「吾妻」がドックへ入った(入渠)ときの写真。左奥に見える煙突を持った建物はポンプ所で、 ポンプが格納されている地下部分は現在も当時のまま残っている。「浦賀ドック120年あゆみ」。船首方向を見る。船の大型化が進み、船首部分は昭和58年に28m延長されたと。ズームして。桜の蕾はまだ固かった。「浦賀ドック(住重旧浦賀工場1号ドック)浦賀駅の目の前に広がる工場跡地は、かって住友重機械工業株式会社浦賀工場でした。1 8 9 6 (明治29 )年に浦賀船渠株式会社が創設され、浦賀ドックが建造されました。2003 (平成1 5 )年に閉鎖されるまで、一世紀以上にわたって帆船日本丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦など多くの艦船を建造・修理してきました。ドックの底まで見学できる総煉瓦造りのドライドックは国内で唯一ここだけです。」船首方向からドックゲート方向を見る。全長180mあると。船渠側の壁にはフランス積みのレンガ壁が。右手には、この後にドック底部まで降りた白く塗られた鉄骨製階段が見えた。「横須賀 浦賀レンガドック PHOTO SPOT~浦賀レンガドックと写真を撮ろう~」「浦賀船渠(うらがせんきょ)昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを振り返って。近代化遺産の宿命とも言えるのが、施設の老朽化。使用されなくなった建造物や機械は、ほとんどメンテナンスされなくなることから、老朽化が加速していく。ここ浦賀ドックも例外ではなく、放置することで危険をともなう施設は、解体や撤去されていっているのだ。浦賀ドックを象徴する施設の一つてあった大型のタワークレーンも、近年までアーム部分が取り外された状態で残されていたが、現在は撤去されて、クレーンが移動していたレールとわずかな部品を残すのみとなっているのであった。説明員の方から「ドライドックの仕組み」についての説明が。船舶・艦船をドックに入渠(にゅうきょ)させる前に、まず盤木と呼ばれる支えを構築しなければならない と。その後に扉を閉じて海水をドックに入れる。そして外部海面と同じになったら扉を開け船が入渠(船がドックに入ること)する。そしてポンプにて海水を抜く。盤木を設置することで、ドックが排水された後でも艦船を直立させておくことが可能となる。船体の形状に合ったものを設置する。いわば、船の模型を置くための台のようなものをつくるのである。盤木の材質はコンクリート、鉄、木などである。盤木の一例を紹介したページがネットに有ったので紹介します。下記の写真に示す盤木は、鉄筋コンクリートと、樫と松の木から成り立っています。盤木とタッチする船体形状に合わせて、硬い樫と柔らかい松を組み合わせて使います。船体が盤木全体とタッチする場合は、松を船体にあてその下に樫を敷きます。船体が盤木の一部分にだけタッチする場合、船体には樫をあて、その下に松を敷くことによりクッション性を保ちます。当社で使用している盤木の重量はおよそ 2~3.5ton ほどで、フォークリフトの爪やワイヤーを鉄筋コンクリート部分にあいている 2 つの穴に通して移動させます (写真 1 参照)。一船の盤木をセットするのにかかる時間は、船底がフラットな船であれば 1~2 日ですが、曲がり部が多くかつ精度が要求される船の場合は 4~5 日かかることもあります。当社には修繕で様々な船が入渠しますので,各々の船型にあわせた盤木配置とする必要があります。大型のタンカーやバルカーの場合,船底のフラットな部分にだけ盤木を配置しますが、曲がり部が多い船はほとんどの盤木が曲がり部に配置されます。下記写真2に盤木配置の一例を紹介します。きれいな船型になっていて、まるで船体に優しいベッドのようです。このような曲がり部が多い盤木配置の場合、盤木の高さ調整等の苦労があるようです。スタビライザー、シーチェスト、ボトムプラグ、ソナードームなど、盤木が当たってはいけないものには注意が必要です。かなり以前の話ですが、改造で船底に追加設置されたソナーが船渠係に手渡された図面に反映されていなかったために、船体と盤木との間でソナーがサンドイッチになったことがあるそうです。ベッドは体に合ったものでないといけないように、体の状況 (船体の状況) はしく伝えないと怪我につながります と。写真2スタビライザー、ソナードームの位置の紹介パネル。スタビライザー: 船底近くの両舷に魚のひれ(Fin)のような金属板が突き出しており、船の 揺れに対応して航行時の水流に対する角度が自動的に調整され、この時生じる 揚力によって揺れを最小限に抑えるよう働く。船体に沿って流れる水流を 利用しているため、船速が早ければ効果は強く、遅ければ弱く現れ、船が停止 すれば全く効果を失うソナードーム: 軍艦ではバルバス・バウの内部にソナードームを備えた艦艇が多数存在する。 主に敵潜水艦の位置や動きを把握するために使用される軍用ソナーを配置する 場所として、船首部水中にあって大きな球状のバルバス・バウはうってつけで あるためである。すぐ近くを通る県道に鉄粉や塗料が飛ばないようネットを張るための柱であったと。現在は半分ほどの長さに切断されていると。切断面には草たちが元気に生えていた。手前の2台の装置は、船舶が真っ直ぐにドックに入渠するように制御する装置であると。こちらも入渠時に船舶をワイヤーで牽引する際の巻き上げ装置・ウィンチであろうか。ドックに海水が満たされている時の写真。牽引装置・ウィンチ。再びクレーンを見る。今回の説明員の方。浦賀奉行所の与力、中嶌三郎助。1853(嘉永6)年の黒船来航時、浦賀奉行所与力の中島三郎助はペリー側の「最高位の役人以外とは面会しない」との強固な姿勢に対し、同行した役人を「副奉行である」と嘘をつき黒船に最初に乗船した日本人です。中島は、大砲などの装備を探るため、ちょこまかと動きまわるのでペリー側の記録には「大胆で出しゃばりしつこく詮索好き」と残されています。しかし、その行動は、西洋型軍艦鳳凰丸の建造に大いに役立ちました。その後、勝海舟・榎本武揚らとともに長崎の海軍伝習所へ派遣され、江戸に戻ってからは海軍操練所教授方として後輩の指導にあたり、海国日本の造船・操船の第一人者となりました。戊辰戦争で函館五稜郭にて新政府軍を迎え撃ちますが武運尽き、ふたりの子供ともども壮絶な死を遂げました。再びドックゲート部方向を、その先には浦賀湾が。再び右側の船渠側の壁にもフランス積みのレンガ壁が。反対側をズームして。レンガ積みの説明。浦賀ドックは「フランス積み」で施工されていると。フランス積みは、長手と小口を交互に並べていく方式。正面から見ると、長さが違うレンガが順番に並んでいます。積み上げていくと、長手の中央部分に小口がくる規則性もフランス積みの見た目の特徴。フランス積みには、小口のみ長時間加熱する「鼻黒(はなぐろ)」という技法があると。加熱することで独特な色合いが出て、長手との濃淡の差から「外観を最も美しく見せる積み方」として、明治初期頃、洋風の建造物に多く使用されて来たとのこと。また、フランス積みで知られる方式ですが、発祥の地がフランドル地方とされているため、正式名称は「フランドル積み」、または「フレミッシュ積み」と言うのだと。フランス積みの耐久度建造物に多く用いられてきたフランス積みですが、その後日本に登場したイギリス積みの方が耐久度に優れているとされ、徐々に衰退していったとされています。しかし、明治後期以降もフランス積みを用いた建物は残っています。イギリス積みは、レンガの長手(長い面)だけの段、小口(短い面)だけの段を交互に積み上げる方式。イギリス積みは、土木構造物や鉄道の橋梁などでよく見られる。日本では時代的にフランス積みよりも後に採用された積み方であるとのこと。ネットからの写真。 ・・・つづく・・・
2024.03.25
コメント(0)
「河津桜」を後にして、ひたすら国道135号線を走り、小田原市根府川にある「離れのやど星ヶ山」を訪ねたのであった。訪ねた目的は、「根府川駅」周辺の「おかめ桜」であったが、まだつぼみの状態であった。「根府川おかめ桜まつり」は2月24日(土)~3月24日(日)の開催予定であったのだ。以下は以前に訪ねた時の写真である。「離れのやど 星ヶ山」。清流、白糸川のせせらぎが流れる自然の中の一軒宿。木樹の温もりに囲まれて、ゆっくり・のんびり・ほのぼのとした時間をお過ごし頂けるように願いをこめて、全室離れのログハウス、そして、露天風呂付きの客室もご用意致しました。木の暖かな感触と大自然を近くに感じられ、日常から離れリフレッシュできる空間です とネットから。そして「離れのやど 星ヶ山」の敷地内にある「豆相人車鉄道」の展示を訪ねた。「豆相人車鉄道明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を4時間を要して走る人車鉄道が熱海ー小田原間を運行していました。その実車復元車両を展示して走らせています。」線路の先に復元車両の姿が。近づいて。こちらにも「豆相人車鉄道明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を4時間を要して走る人車鉄道が熱海ー小田原間を運行していました。その復元車両は当時の資料を基に製作しました。」と。「車両内部」には木製の座席が向かい合って。明治末期の写真をネットから。小田原と熱海方面とを結ぶ交通の近代化は明治29年(1896)に全線が開通した豆相人車鉄道に始まります。トロッコクラスの小さな車輛を2~3人の車丁が押すもので、人力車の鉄道版といったところです。定員は1車輛6名、4~5輛がグループになって走行していました。豆相人車鉄道は最初から地元住民が必ずしも気軽に利用できるような交通機関ではなく、乗客はもっぱら湯河原温泉や熱海温泉を訪れる湯治客や観光客であったと考えられることから、(中等、下等の)乗客が上り勾配区間で下車させられたり、高額な運賃を支払っていたにもかかわらず客車の後押しも手伝わされたりしていたとの話もあるのだと。正面に「ミニカーハウス」。米国大統領・世界の消防車・ハーレー他1500台以上を展示しています と。正岡子規の句碑。「根府川や石切る山の青蜜柑」「離れのやど 星ヶ山」を開業した内田 昭光さん👈️リンク。「夢に向かって協力し汗をながして努力する 昭光」と。手作りの板葺の屋根を持つベンチも。「ねぶかわ文学碑」。小田原市根府川地区で宿泊施設「離れのやど 星ヶ山」を経営する内田昭光さん(82)が、このほど「ねぶかわ文学碑」を建立した と。「ねぶかわ文学碑文学とはほど遠い生活をしてきました私が、このような「文学碑」建立を思いつきましたのは「根府川地区」の古き時代に関わっていただいた文学者の歴史を伝えることができれば、との思いからです。吉川英治吉川英治さんの曾祖父、銀左衛門さんは大久保の藩士で、根府川関所の役人として務めており、その昔には、根府川岳の山にあったといわれます狼煙灯台の守りの役していたとも聞いています。福田正夫大正時代に片浦村分教場の教論として、地域の学童の教育に尽力され、地域の発展に新風を吹き込んだと伝わっています。その後民衆の詩人福田正夫として、勤労や身の回りの生活等の作詩活動に邁進して多くの作品を残しています。茨木のり子若き日の茨木のり子さんが戦中下、東海道線「根府川駅」を通るたびに兵隊さんとの恋の思いとともに、駅から見渡す、赤いカンナの花の先に広がる大海原へ、戦後の復興を夢見た想いが感じられます。森鴎外箱根、三種の落葉樹として「ヤマボウシ」「姫沙羅の木」「エゴの木」があります。その中の沙羅の木と根府川石を絡めて謳った・・その昔庭の敷石として名をはせた「ねぶかわ石」との情景が見えてきます。正岡子規 歌碑は未完成です。「根府川や石切る山の青蜜柑・・・正岡子規がこの地域を訪れた時、当地を代表する産業の、「石と蜜柑」にふれあった事からこの句ができたと思われます。」「宮本武蔵新平家物語 吉川英治」「根府川の海👈️リンク根府川東海道の小駅赤いカンナの咲いている駅たっぷり栄養のある大きな花の向うにいつもまっさおな海がひろがっていた 茨木のり子」。「沙羅の木褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)に白き花はたと落ちたり、ありとしも靑葉がくれに見えざりしさらの木の花。 森林太郎」沙羅の木(サラノキ)は、日本では「夏椿(ナツツバキ)」とも呼ばれ、椿に似た美しい白い花を初夏に咲かせる落葉樹 と。「われらは郷土から生まれる われらは大地から生まれる われらは民衆の一人である 福田正夫」「あじさいの小道」を歩く。簡易コンクリートで舗装した小道。小川の上のくつろぎの場。「サンタの森」と。この植物はクレソン?清流、白糸川。食事も出来るテーブルセットが小糸川の上に。「離れのやど星ヶ山」Area Map。ログハウスを見上げて。「希望の鐘」ログハウスが並ぶ。カフェレストラン「ななつの星」の入口。そして「離れのやど星ヶ山」を後にする。途中、JR根府川駅に立ち寄る。根府川(片浦海岸)案内板。「根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東地震の際の駅裏の斜面の地滑りやその南を流れる白糸川で起きた岩屑なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれた戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれたため、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します。」ここは小田原市の根府川駅。相模湾を見下ろす崖の上にある駅舎。駅前やホームから見る相模湾の眺望は絶景、特に人気なのは、「初日の出」とこの日の「桜」。東京駅から一本で行ける距離にあるため多くの『カメラ爺』がやって来ると。元日に限り、根府川駅で日の出を迎える臨時列車も運行され、一年で最も賑わう瞬間を迎えると。無人駅の改札口を入り右手にあった池とその横に石碑が。「関東大震災殉難碑」👈️リンク。1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により地すべり👈️リンク(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車(8両編成、乗客約150名)が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没した。列車に乗車していた約110名とホームに居た20数名の計約130名が死亡したのだと。「昭和四拾八年九月吉日根府川駅職員一同建之協力者神崎・・・」改札口を入った場所から「海」を見る。待合室の展示品。「日の出が差し込む根府川駅」「根府川・白糸川橋梁走行の国鉄時代の貨物列車」「根府川・白糸川橋梁走行の国鉄時代の特急列車」そして「JR根府川駅」を後にして小田原市早川にある「漁港の駅 TOTOCO小田原」にて海鮮丼を楽しんだのであった。そして西湘バイパス、新湘南バイパスを利用して17:31に帰宅したのであった。2日間の走行距離は418.7kmであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.03.24
コメント(0)
「河津川」の右岸を歩き「豊泉橋」まで戻る。「豊泉橋」の中央のコンクリート橋脚の河床部分から湯気が出ている事に気がついた。ズームすると、温泉が噴出しているようであった。北西300mほどの場所には「峰温泉大噴湯公園」内には伊豆の中でも珍しい噴泉・「峰の大噴湯」👈️リンク があるのだ。「1926年に掘削された温泉で、摂氏100度の温泉が、1日7回、地上30メートルの高さまで噴き上がります。本当はいつでも噴き上がるのですが、管理上普段は止めていて、1時間ごとに噴き上げています。温泉はとても熱いのですが、噴き上がった温泉が降ってくる頃には冷えていますので、噴湯の様子を近くで眺めていても大丈夫です(濡れますが)。迫力の噴湯をぜひ体験してみてください。9:30~15:30まで1時間ごとに1分間噴湯が公開されています。金曜・火曜は源泉維持管理作業のため休み。」とネットから。ズームして。温泉が1m以上の高さまで噴き上がっているのであった。「豊泉橋」の先に移動して。同様にズームして。「東洋一の大噴湯」案内板が駐車場脇に。「豊泉橋」を渡って左岸に向かう。「豊泉橋」から下流側を再び見る。左岸の白き流れと河津桜を見る。橋を渡り終わって、右岸を振り返ると、右岸には花をつけていない河津桜の樹が数本並んでいたのであった。ズームして。病気?寿命によるものか?心配なのであった。ところで、河津桜は1955年に原木が発見されてから広がり、河津川沿い4キロに850本が咲き誇る。毎年100万人が訪れ、経済効果は300億円ともいわれる。しかし、桜の寿命は60年とされ、20年後には枯れる心配がでてきた。だったら少しずつ植え替えていけばよさそうなものだが、これに法律上の壁が立ちはだかっているのだ。1997年に河川法が改正され、「根が弱ると地面にすき間ができ、堤防決壊につながる可能性があるため」(静岡県土木事務所)と、川沿いの植樹ができなくなったのだ。特に川表(堤防を境にして河川側)への新たな植樹は出来ないのだ。さらに、植樹基準では、「治水上等の支障となる場合は、樹木の有する治水機能及び環境機能に配慮しつ つ、支障の大きなものから順次伐採することを基本とする」としており、支障があるものについ ては、伐採・移植等を行い治水の安全性向上に努める必要があるのだと。 「河津川河津桜の現状と課題河津川における河津桜の植樹状況は、下表等(表-1:河津桜の植樹状況一覧表、図-1:河津川 における河津桜植樹状況)に示すとおり、941 本のうち、679 本(約 72%)が川表(堤防を境にして河川側)に植樹されている。 植樹基準を満たさない堤防への植樹は、堤防の弱体化を招き、破堤・越水の原因となることが あり、堤防の安全性を損なう恐れがある。(図-2:植樹基準を満たしていない桜が堤防に与える 影響) 表-1:河津桜の植樹状況の一覧表(平成20年2月時点)「河津川の危険度と桜状況マップ上表の如く、941 本のうち、679 本(約 72%)が川表(堤防を境に して川側)に植樹されているとのこと。河津川の右岸、左岸別そして地域ごとに❀:川表側に植樹されている桜、❀:川裏側に植樹されている桜の本数が纏められている図をネットから。「植樹基準を満たしていない桜が堤防に与える影響川表側の「桜が倒木し、堤防が欠けると、堤防が破堤し浸水する恐れがある。」「桜が倒木し、流下阻害物となった場合、河川の水位が上昇し、堤防から水が溢れる(越水)する恐れがある。」と。「新たな桜並木の形成現在の河津川沿いの桜並木は、街中や河川背後地へ、 新たな桜並木の形成を検討していくことが必要である。 特に、河津川の背後地は、既に植栽帯を整備している場所や建物が立地している場所、農地等、様々な土地利用がされている。そのため、町全体の中でも河津川沿いをメインとする場所においては、桜のボリュームを下げないよう背後地に「2列・千鳥植栽」での新たな桜並木を形成することを検討している。 また、川沿いの美しい河津桜並木の景観も出来るだけ鑑賞期間を長くするため、引き続き既存桜の適切な維持管理を実施していくとともに、川表の桜については、伊豆縦貫道の発生土を活用した、背後の農地かさ上げによる対応も検討していくことにより、治水安全度向上にも寄与できるようなまちづくりとしていきたい。 町全体の桜計画策定については、桜の植樹年代や全体のネットワーク、治水・津波対策の整備必要区間を考慮しつつ、町全体の桜のボリュームを確保しながら決定 していく。」 と。要約すると●現在の川表の河津桜は、維持管理を十分に実施し、長寿命化を企図する。●現在の川表の河津桜は、新たな追加植樹は出来ないので、将来的には消滅する。●上記を考慮し、川裏側の農地を盛土し、2列・千鳥植栽による新たな河津桜並木の形成を 目指す。ということか。いつまでも、残しておいきたい早春の日本の姿・河津桜なのであるが。そして我が地域・引地川にも同様な問題が発生しそうな場所が。以下、2枚は昨年の引地川沿いのソメイヨシノの桜並木の写真です。このように、河川の川表側に桜が植樹され、人気の場所は日本全国に数え切れないほどあることは間違いないのである。再び現在の河津川の白き流れをズームして。そして再び河津桜の花見の報告です。「この橋は豊泉橋です」と。「河津川」には大きな黒い鯉の姿が。ズームして。左岸に戻って引き返す。人気の河津桜の大樹まで戻る。まだまだ多くのカメラマンの姿が。そして2月1日から2月29日まで、まつり開催期間中は毎日18:00~21:00に夜桜がライトアップ👈️リンクされるとのこと。以下の写真はネットから。「来宮橋」まで戻る。やきそば、たこ焼きの店。さらに「河津桜」のトンネルに向かって進む。再び菜の花とのコラボをカメラに収める。近づいて。再び「河津川」の白き流れを。「ぼくに話しかけてネ!ピョコピョコ動きながらものまねするヨ!一緒にあそぼう☆」再び菜の花とのコラボを。川原に白き鳥を発見。足指が黄色いので「コサギ」であっただろうか?ズームして。そして駐車所のある路地まで戻る。藍染の商品が並ぶ店舗。今年も「河津桜まつり」👈️リンク を大いに楽しみ、帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.23
コメント(0)
「かわづいでゆ橋」手前まで辿り着く。ヒヨドリであっただろうか?満開の「河津桜」が青空に映える。「かわづいでゆ橋」を歩く。左岸を振り返って。橋の上から下流方向を。上流方向を。2本のピンクの帯が緩やかに左にカーブして。さらにズームして。名所案内板。「かわづいでゆ橋」までとして、帰路は対岸を引き返すことに。「オオキバナカタバミ」であっただろうか?「二本三大寝釈迦霊場・涅槃堂」👈️リンク 案内板。民家の横にも大きな「河津桜」が満開なのであった。ここにも「河津桜」のピンクのトンネルが。「河津川」の水面を花越しに。小さな石祠。さらに下流に向かって進む。「音蔵の桜」はどれか分からなかった。ズームして。見上げて。「セグロセキレイ」が石の上に。全長21cm。全体が白黒模様のセキレイの仲間の鳥。頭から背と胸は黒色で、頭の黒色の中に額の白色が良く目立ちます。翼は白色部分が多く、腹は白色なので、飛ぶと白い鳥に見えます。着地の折には腰を上下に振ることが多く、セキレイ類の特徴の一つになっています。最近になって韓国での繁殖例が知られましたが、世界的には日本特産種と言ってよいでしょう。北海道から九州までの河川や池沼畔などに棲息し、海岸には出ません。飛行は上下に揺れる波型を描き、その時には「ジジッ ジジッ」といった濁った声を出しています。近年、日本では急速に分布を拡げているハクセキレイとの軋轢(あつれき)があり、個体数が減少する傾向にあります とネットから。人工的並べられた?石の場所が眼下に。川面に落ちた花びらが枝に捕まえられて。花筏(はないかだ)のミニ版か?やはり人工的!!目的は??ループ橋にあった「河津桜」案内板と同じものが。そして右手にあったのが「豊泉の足湯処」。峰温泉の河津川堤に、2003年2月オープン。目の前に続くトリムコースでハイキングや散策を楽しんだら、ここへ立ち寄ってリフレッシュしよう。2月に行われる河津桜まつりの会場のひとつでもあり、同時期にオープンした「さくらの足湯処」とともに、人々の交流の場として親しまれているスポットであると。散策の疲れを癒そうと思ったが、時間がなくて・・・。隣には温泉が湧き出していた。ズームして。「足湯時間 9:00~17:00」と。河津桜まつり開催時のみの足湯なのであろうか?この先にも、「河津桜」観賞用?の大きな石段が。見事なピンク色に染まって。「遊漁について漁業権漁種漁法あまご うぐい・・・・ルアー フライ テンカラ 餌釣にじます おいかわ ・・・・餌釣うなぎ ・・・・餌釣 もじりモクズかに ・・・・もじり1人3籠以内あゆ・・・・・・・・・掛針はイカリ針1段又はチラシ針3本以内のいずれか遊漁期間あまご うぐい ・・・3月1日より10月31日までにじますおいかわ・・・・・・・7月20日より2月末日までモクズかに・・・・・・10月1日より2月末日まであゆ・・・・・・・・・6月1日以降組合が定める日より12月3 1日までうなぎ・・・・・・・・3月1日より9月3 0日まで●鮎のエサ釣は下記期間のみ解禁となります。 ・7月20日から10月10日まで来宮橋から下流域 ・8月1日から10月10日まで河津橋から上流域●保護期間として豊泉橋よリ河口まで 10月11日以降は全面禁漁です。●空カン・ごみを川へ捨てないで下さい。 河津川非出資漁業協同組合」ルアー: ルアー(lure)とは、釣りで使用する疑似餌(おとり)です。 ルアーは、肉食魚のエサになる小魚や甲殻類(エビ)などに見た目を似せて プラスチックや木、金属などで作られています。ルアーを使って魚を釣るのが ルアーフィッシング。フライ: 小昆虫などを餌にして魚を釣ること。フライはハエの意であるが,一般には小昆虫を 模した擬似餌をいう。鳥の羽や髪の毛などを針に結びつけて仕上げるもので,日本では 在来から毛針(けばり),蚊針(かばり)と呼ばれてアユ釣りなどに使用されていた。 フライが水面に浮くものをドライフライ,水中に沈むものをウェットフライと呼ぶ。 イワナ,ヤマメ,アマゴ,ブラウントラウトなどの淡水魚を対象とする。テンカラ:テンカラとは、古くから日本で行われてきた毛バリ釣り。 水生昆虫や陸生昆虫などを模した毛バリ(針に毛を付けてエサに見せかけたもの)を 使い、ヤマメやアマゴ、イワナなどの渓流魚を狙います。 テンカラの仕掛けは非常にシンプル。1本ののべ竿に、1本のライン、1本の毛バリ だけを用いて、渓流魚とのスリリングな駆け引きを楽しみます。 ラインを太くし、毛バリのサイズを大きくすることで、本流域に潜む大型の渓流魚や ニジマスも狙えます。また、毛バリにアタックする魚の姿を間近で見られるのも、 テンカラならではの魅力といえるでしょうと、ネットから。釣りの方法に疎い私には良く解りませんが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.22
コメント(0)
そして私も「河津川」の河原に降りる。右手には、石段を踏み外し転げ落ちた妻を心配する夫の姿が。この後にお巡りさんも来たが、何とか夫に支えられて石段を上って行かれたが・・。二本のピンクの帯の曲線がどこまでも。低い位置から、菜の花と一緒に河津桜を仰ぎ見るのも目線が変わって面白いのであった。人工的に造られた河原か?河津川はこの時期・2月上旬から3月下旬にかけて河津桜の濃いピンク色で包まれるのであった。河津川沿い約4キロ👈️リンク には、河津桜約850本が立ち並んでいるのであった。河原で記念撮影されている方々。下流側方向を振り返って。ズームして。山の名は「天嶺山・349.8m」と。川には多くの大きな石の姿があったが、人工的に置かれたものか?「田中親水園地周辺案内図」。田中親水園地にはトイレ施設もあるので、休憩のポイントになるのであった。さらに上流に向かって。テレビ中継も行われていた。テレビ朝日「大下容子ワイド!スクランブル」か?時間は10:46。この河津桜の木を背景に放送中。静岡朝日テレビ・林輝彦アナウンサー?右手奥に菜の花畑があった。ここにも河津桜が欲しいと身勝手に!!廻り込んで河津桜とのコラボを。西洋ミツバチの姿も。上手く撮れました。「河津川」の西・「峰温泉大噴湯公園」近くの山の斜面にも「河津桜」が一面に開花中。ホテル「玉峰館」からの景観用のものか?「峰温泉大墳湯公園」➡️800m、「涅槃堂」👈リンク 630m と。さらに「かわづいでゆ橋」に向かって進む。しばし、ノーキャプションにて、河津桜を愛でていただきたく。花にズームして。前方に色の濃い、赤い桜の花が開花を迎えていた。琉球寒緋桜(かんひざくら)に似ていたが。本州で桜といえば「ソメイヨシノ」が一般的だが、沖縄で桜といえば「寒緋桜」。この「寒緋桜」は、ひと足早く1~2月にシーズンを迎えるのですが、その姿を見た人の多くが「梅? 」と思いがちですが、実は「寒緋桜」……。花びらの色は濃いピンク。花の向きは下向き、さらに、桜吹雪といわれるソメイヨシノのような「散り方もなく、ボトッと花が木から落ちるのも、寒緋桜ならではの特徴とのこと。蕾をズームして。メジロの姿を発見。メジロを追いかけるが、なかなか・・・・。「周辺案内図」。ズームして。「かわづいでゆ橋」の手前。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.21
コメント(0)
「来宮橋」から対岸の河津桜を見る。そして再び河津川左岸を上流に向かってさらに進む。川の右左は、上流から下流に向かって右側が右岸、左側が左岸と決められている。そしてこの日の一番人気の見事に開花している河津桜の大樹。多くのカメラマンの姿が。ズームして。さらに進む。「スチールタングドラム」👈️リンク を演奏する若者の姿が。現地で採れたフルーツの販売。メジロの鳴き声が聞こえるが姿は・・・?対岸を見る。ズームして。「日本三大和牛 米沢牛(よねざわぎゅう)」。米沢牛は、山形県置賜地方で飼育された黒毛和種の未経産雌牛の牛肉。米沢牛銘柄推進協議会が認定した生産者が、登録された牛舎で18か月以上飼育された牛肉のみが米沢牛として認められているのだと。食べ物の露店が並ぶ。地元生産の柑橘類売り場。肉、やきそば、だんごと、この周囲は香り豊かに。前方に「豊泉橋」が垣間見えて来た。そして「豊泉橋」から「河津川」の「河津桜」の並木を見る。ズームして。「豊泉橋」からの左岸を見る。左岸をさらに上流に向かって。「河津桜ビール」があったが・・・!!「桜色」のビールです。桜咲く春風薫るお酒です と。遊歩道脇の花壇も綺麗に管理されていた。さらに「かわずいでゆ橋」方向に進むと前方に河原に降りる大きな石段があった。そしてその河原から「河津桜」の絶景を楽しむ多くの人の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.20
コメント(0)
「旧天城トンネル(天城山隧道)」を後にして、ひたすら国道414号を南に進む。途中、「河津七滝ループ橋(七滝高架橋)」に立ち寄る。河津七滝ループ橋は「かわづななだるるーぷきょう」と読む。大きな2重ループ橋(道の高低差を2重らせんで継いだ高架橋)です。地震による土砂崩れの教訓を生かして採用された工法によって生まれたもの。全長1,064m、高低差45m、直径80m。昭和56年以来、河津の名所になっているのだ。駐車場に車を駐め散策開始。「河津七滝ループ橋(七滝高架橋)」の周囲の河津桜も満開間近になっていた。720度・2回転するループ橋を見上げて。ループ橋ができる前は東側の山の中をつづら折れになった国道が通っていたが、1978年の伊豆大島近海地震の際に起こったがけ崩れをきっかけにして、このループ橋が作られた。険しい天城の山を克服するための人々の工夫のひとつ。ループ橋は、その構造や耐震性が評価され、土木学会田中賞を受賞。下図が河津七滝ループ橋周辺の地図。赤いラインが国道414号線であるが、地図のほぼ中央で円を描いているのが分かる。これが、河津七滝ループ橋。そして、緑色のラインが河津七滝ループ橋ができる前の「旧道」👈️リンクとなる。ループ橋下の河津桜をカメラで追う。720度・2回転するダイナミックな直径80mのループ橋の上空からの映像をネットから。ループ橋下に駐車場が見える。中央に移動して見上げる。メジロの姿が。「河津桜カワヅザクラはわが国のサクラの中では早咲きの桜です。開花時期は天候等に左右されますが毎年1下旬から開花が始まります。開花期間は約1ヶ月と長期に及び他の桜にない特徴がみられます。河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃の2月のある日河津川沿いの冬枯れ雑草の中で芽咲いているさくらの苗を見つけて、現在地に植えたものです。1966年(昭和41年)から開花がみられ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続け注目を集めました。伊東市に住む勝又光也氏は1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献しています。一方、県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や河津町等と、この特徴ある早咲き桜について調査をし、この桜は河津町に原木があることから1974年(昭和49年) (カワヅザクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)には河津町の木に指定されましたカワヅザクラはオオシマザクラ系とカンヒザクラ系の自然交配種と推定されています。まだ肌寒い時期にお花見がいち早く楽しめる「河津桜まつり」は毎年2月上旬から3月上旬まで開催され1ヶ月で100万人もの来場者で賑わいまた夜にはライトアップされた幻想的な河津桜が楽しめます。」河津桜原木カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から駅の横を通る町道大堰浜線を天城山に向かって1 .2kmの地点、河津町田中飯田氏宅の庭にあります。2009年現在樹齢約61年、樹高10m、樹巾約10m、幹周約115cmの通称「小峰の桜」河津桜原木物語昭和三十年頃の二月のある日この家の主であった飯田勝美氏が河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約一メートル位育った桜の若木を偶然みつけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和四十一年一月下旬やっと花が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠しました。後にきれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜の為手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰の桜」と呼ばれ親しまれてきました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和四十九年に河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和五十年四月河津町の木に指名されました。」「全建賞我が国の良質な社会資本整備の推進と建設技術の発展を促進するため(社)全日本建設技術協会により昭和28年い953年)に創設された歴史と伝統のある賞で毎年優れた建設事業を実施した機関に授与されるものです。七滝高架橋耐震補強工事はその技術が認められ平成28年度の道路部門において受賞しました。 平成29年6月 静岡県 下田土木事務所田中賞土木学会における、橋梁工学の権威者田中豊氏(1888~1964)の意志と功績をしのび制定された賞て優秀な橋梁及び関連する構造物に対して授与されるものです。この賞は土木学会においては高く評価されている賞で七滝高架橋( ループ橋)建設の技術が認められ1982年作品部門において受賞されたものです。 昭和57年6月 静岡県 土木部」ループ橋の支柱の立つ斜面にも河津桜が拡がっていた。中央の特設ステージは建設作業中であった。ズームして。河津桜まつりの開催期間中、河津七滝ループ橋に特設ステージが出現!2月18日(日)15時から、“旅のSPAC一座”による『伊豆の踊子』👈️リンク パフォーマンスを上演いたします。劇団SPACと演出家の多田淳之介がタッグを組み、川端康成の小説を舞台化した観光演劇『伊豆の踊子』。2023年10月~ 2024年2月下旬まで静岡、下田、修善寺、浜北、沼津と、静岡県内各地を大好評ツアー中です。旧天城トンネルや川端康成も滞在した湯ヶ野温泉の老舗旅館「福田家」など、原作の聖地である河津町。その目玉イベント・河津桜まつりで、『伊豆の踊子』出演メンバーが30分の野外パフォーマンスをお届けします! とネットには。「伊豆の踊子」パフォーマンスの様子をネットから。車に戻りながら。ライトアップの写真をネットから。そして国道414号、県道14号線を30分ほど走り「河津桜まつり駐車場」に到着し駐車料金1000円を支払い、散策開始。静岡県賀茂郡河津町笹原91−23付近。「河津桜」は、濃いピンクの花を咲かせ満開で、私たちを迎えてくれた。「今年・2024年」の「河津桜まつり」のポスター。「河津桜の特色落葉高木、樹形は広卵状で樹皮は紫褐色で光沢があり、若枝は褐色、無色。葉は開花後に展開する。成葉は倒卵状楕円形で先は尾状鋭尖形、基部は円形、長さ12.5~15.0cm、巾6.0~6.8cmで厚い。縁は単鋸歯だが、重鋸歯が混じり、鋸歯の先は芒状、腺はない。表面は濃緑色、裏面は淡緑色、両面ともに無毛。側脈は約10本。葉柄は長さ2.0~2.2cmで無毛、上部に一対の蜜腺がある。托葉は長く、分岐多い。(日本サクラの種・品種マニュアル<財>日本花の会)」と。こちらも「今年・2024年」の「河津桜まつり」のポスター。春を求めて、毎年多くの人が訪れる大イベント「河津桜まつり」が2/1(木)~2/29(木)の期間で開催されていたのであった。桜の木の本数は、河津川沿いだけでも約850本、敷地全体ではなんと約8,000本になるという。その数全てが満開になった風景はまさに圧巻の一言。菜の花も彩りを添え、春色の景色が一面に広がっていたのであった。「河津桜」マップ。河津川の遊歩道の横にあった店には様々な手作りのつるし雛が展示販売されていた。静岡県東伊豆町稲取の雛のつるし飾りは日本三大つるし飾り(福岡県柳川市:さげもん、山形県酒田市:傘福)のひとつでもあるとのこと。五段雛飾りも。2月1日から静同県河津町て始まった河津まつりですが、12日に「見頃宣言」が発表され、大勢の観光客て賑わっていたのであった。河津川沿いに立ち並ぶ約850本の河津桜。例年にない早さて花が開き、河津桜まつりの実行委員会は12日に早くも「見頃宣言」を発表していたのであった。2/10~13日の連休となった会場は大勢の観光客で埋め尽くされ、写真を撮ったり団子を食べたりして早咲きの桜を楽しんでいたのだ と売店のオバチャンから。菜の花とのコラボも見事な情景。これ以後、しばしシャッターを切る手が止まらなかったのであった。「河津川」の上流に向かって河津桜のトンネルになっている遊歩道を進む。今年は雲一つない青空。「河津桜」の魅力は、早咲きの桜であることと花色。ソメイヨシノの淡いピンクに比べ、はっきりとした明るいピンク色。「河津桜」はソメイヨシノと同じように花の後から葉が出て来る山桜の種類などは花と葉が同時に出て来るので、葉の出るタイミングが違うのだ。「河津桜」は、花が咲いている間は木全体が花で覆われたようにピンクに染まって見えるのだ。歩いて来た遊歩道を振り返る。こちらの樹の上部はこれからの開花。そして全体が満開の樹が続く。「河津川」の川面を。菜の花とのコラボを再び。菜の花の黄色と、「河津桜」のピンクの色合いが美しいのであった。河津川の清水の白き流れを。河津桜の一番の特徴は、「長く咲く」ことと「花びらの変化」。パッと咲いてパッと散ってしまうソメイヨシノとは違い、河津桜は約1ヶ月に渡って咲き続けるのだ。また、つぼみや咲きはじめは濃いピンク色をしていますが、満開時にはピンク色、そのあとはだんだんと色褪せていくので、見頃は六~七分咲き頃だと言われてはいるのだが。対岸には巨大な土嚢袋が積み上げられていた。護岸堤防の補強工事用であろうか?遠く山の上には風力発電装置が。「ユーラス河津ウインドファーム」は静岡県伊豆半島の賀茂郡東伊豆町と河津町境界に位置する三筋山山頂付近に設置された風力発電所である。三筋山山頂付近から尾根伝いに10機の風車が設置されているとのこと。総出力 16.7MW風車数 10基運転開始 2015年5月「河津町立河津中学校」の横を通り進む。時間は9:30、人出も増えて来た。右側の堤防上には土産物屋が並ぶ。「金目鯛ひもの」売り場には人の列が。更に進む。こちらは「さくら満開餅」。桜の花の塩漬けも付いていて甘さも程よく!!河津桜の苗木の隣には「ミモザ」の苗木も。春の訪れを告げる花として知られる、ミモザ。黄色の小さな花々が印象的なミモザは、ドライフラワーや結婚式のブーケとしても人気で、イタリアでは男性が女性にミモザを贈る風習も。ミモザの日とは、3月8日に国連が制定した「国際女性デー」の別名。女性の社会的地位や権利を守り、女性のすばらしい活動と勇気ある行動を世界的に称える日です。イタリアでは、国際女性デーに男性から女性にミモザを贈る風習がありました。この文化は世界中に広まり、ミモザの日として定着していったといわれています。ミモザを贈られた女性は、ミモザを胸や髪に飾るだけでなく、仕事や家事、育児からつかの間離れて、お出かけや外食を楽しむと。「生わさび」2本で1500円と。前方に朱の色の橋が見えて来た。河津川に架かる「来宮橋(きのみやばし)」。「来宮橋」に到着し、橋の上から河津桜の絶景を見る。静岡県河津町峰にある来宮橋は、河津川沿いに咲く河津桜を鑑賞できる穴場スポット。この橋から東に200mほど進むと「川津来宮神社」が鎮座しているのだ。来宮橋から荒倉橋までの区間には桜並木と菜の花ロードが続き、桜並木のピンクと菜の花の黄色が美しい景観をつくっていたのであった。川辺へ降りれば、河津桜を見上げるようにして観賞することもできたのであった。堤防上から「河津桜」の巨木が、川を覗き込むように枝が伸びて。この橋は「来宮(きのみや)橋です」と。「峰温泉大噴湯」まで1kmと。「東洋一を誇る峰温泉の大噴湯」は大正15年11月22日正午、爆音と共に地上約50mの上空を突き刺し誕生しました。以来90年以上ひとときも絶えることなく噴き上げ続けています。毎分600リットル100度の温泉が高さ30mまで噴き上がる自噴水です。また、温泉で大噴湯たまごを作ったり足湯を楽しんだり出来ます と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.19
コメント(0)
「伊豆の国市」のホテルに1泊し朝を迎えたこの日は、伊豆・河津桜へ向かう。国道414号をひたすら南下し、「旧天城トンネル」に立ち寄ることにする。「水生地下駐車場」先を左折し、「天城路・踊子歩道」👈️リンク に車で入る。「踊子歩道 総合案内踊子歩道は、小説「伊豆の踊子」の舞台となった天城路を歩く、「浄蓮の滝」から「湯ケ野」までの約18.5kmのコースです。東海道三島宿から下田へと続く古くからの伊豆の主要道であった下田街道をたどることができます。今でも小説に描かれた当時を偲ぶ道標や天城隧道(旧天城トンネル)や宗太郎杉並木などの見どころがそのまま残っており、四季折々の自然、温泉、歴史文化を楽しめます。踊子歩道は整備された歩道ですが、距離が長いので自分の体力に合った無理のない計画をたてたうえでお楽しみください。」踊子歩道 地図。そして狭い「踊子歩道」しばらく進むと、カーブの先にあったのが苔生した「川端康成の碑」。1981(昭和56)年に天城山隧道に向かう旧下田街道沿いの林のなかに建てられた。二つに切り左右を少しずらしてつけた巨大な自然石に「伊豆の踊子」の冒頭部分と川端のレリーフがはめ込まれていたのであった。名作『伊豆の踊子』誕生秘話川端康成は、一高生であった大正7年(1918年・106年前)、20歳の時に初めて伊豆へ旅をした。修善寺から湯ケ野へ向かう道すがら、旅芸人の一行と出会い、14歳の踊子が川端に好意を寄せていく。その時の体験を綴った『湯ケ野での思ひ出』が、のちに不朽の名作『伊豆の踊子』となる。踊子歩道には今も、彼が目にしたのと同じつづら折りの道や杉林、旧天城トンネルなどの風景が点在するのであった。この踊子歩道は平成27年に新日本歩く道紀行『文化の道100選』にも選ばれている。踊子の面影を追って、名作の詩情あふれる旧天城街道を進んだのであった。「伊豆の踊子道がつづら折りになっていよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた 川端康成」と。川端康成の名作『伊豆の踊子』の書き出しである。この石碑は自筆によるものと。「川端康成」のレリーフ。斜めから。「踊子歩道」から見上げて。その先の急カーブの場所にあったのが「日本の道 100選」碑。「日本の道100選」👈️リンク は、1986年に8月10日が「道の日」と制定されたことを記念し選定された104本の道路。建設省と「道の日」実行委員会によって1986年度(昭和61年度)に歴史性および親愛性を基準に53本、次に1987年度(昭和62年度)に美観性および機動性を基準に51本の道路が選定されたと ネットから。「道 日本の道100選 天城路 昭和61年8月10日」と。手前にあった各種案内板。「遊歩道と国有林歩道の案内図湯ヶ島国有林この一帯の国有林は、昭和天皇在位50周年を記念して昭和52年3月に「昭和の森・天城山自然休養林」に指定されました。八丁池やブナの原生林、「伊豆の踊り子」で名高い天城隧道や狩野川源流など、優れた景勝に恵まれており、国立公園第2・3種特別地域及び水源かん養・保健保安林の重複指定も受けています。森林のもつ癒し効果を求めて訪れるハイカーや登山者は多く、遊歩道のほか、国有林も利用されています。当署では、森林の快適性増進効果をより多くの方に味わっていただくため、生活環境保全林整備事業として周辺の整備を行いました。 林野庁 伊豆森林管理署」「富士箱根伊豆国立公園 踊子歩道」案内板。ここにも「踊子歩道 総合案内踊子歩道は、小説「伊豆の踊子」の舞台となった天城路を歩く、「浄蓮の滝」から「湯ケ野」までの約18.5kmのコースです。東海道三島宿から下田へと続く古くからの伊豆の主要道であった下田街道をたどることができます。今でも小説に描かれた当時を偲ぶ道標や天城隧道(旧天城トンネル)や宗太郎杉並木などの見どころがそのまま残っており、四季折々の自然、温泉、歴史文化を楽しめます。踊子歩道は整備された歩道ですが、距離が長いので自分の体力に合った無理のない計画をたてたうえでお楽しみください。」。「踊子歩道全体図・周辺図」。「湯ヶ島国有林」案内板」。「八丁池」案内板。「八丁池」の写真をネットから。八丁池は標高1,173mにある池で、以前は天城火口の火口湖とされていましたが、最近の調査で湖と断層のズレに水がたまって出来た池であることがわかりました。周囲がスズタケに覆われていたことから別名 「アオスズの池」とも呼ばれ、「モリアオガエル」の産卵地としても知られています。池の名の由来は周囲が八丁(870㍍)あるところから名付けられた と。※実際には560m程度、この場所から歩いて、4.8km、3時間以上かかるようであった。近くにある「水生池」からの水の流れはなかった。苔生した四阿風の休憩場所。「熊出没注意「令和5年10月20日河津町の梨本国有林内にてツキノワグマが捕獲され、放獣されました。入山の際にはご注意ください。 昭和の森・天城山自然休養林管理運営協会」と。「旧天城トンネル」まで1.0kmと。そして「旧天城トンネル」北入口の手前右側にあった石像は「江藤延男追慕碑」。天城山での遭難者救助のために、昭和38年に設立された「天城を守る会」の初代会長との事。天城山中では、昭和32 (1957) 年12月、満州国皇帝溥儀の姪の愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)と、同級生大久保武道が、ピストル自殺を遂げた事件が起こった。このことが、「天城山心中」、「天国に結ぶ恋」とマスコミに騒がれたことで、天城山にやってきて自殺する男女が多く、その捜索活動もしていたと。環境省の地域環境保全功労で大臣賞も受賞。『昭和の森』で定期的に自然観察会を続けるとともに、学校や地域住民への環境教育にも力を注いだ人物であると。近づいて。「江藤延男追慕之碑」。そして正面に「旧天城トンネル(天城山隧道)」の北口が現れた。「旧天城トンネル北口園地こは「旧天城トンネル北ロ園地」です。トンネル辺には、天城の豊かな自然を満喫する様々なコースがあります。これよりトンネル横を登って行くと、数々の自然歩道の分岐点でもある「天城峠」へと出ます。峠を左へ行けば「八丁池」へ、右へ行けば「ニ本杉」を経て「仁科峠」へと続いています。事前計画を十分にたててから利用してください。」トイレ休憩を。冬季には利用できないようであった。入口に近づいて。「天城山隧道」と。入口左側の石碑、そして案内板。「重要文化財 天城山隧道天城湯ヶ島町湯ケ島河津町梨本この隧道(トンネル)は下田街道の改良工事の一環として、明治三十四年(一九○一)に貫通、同三十七年に完成した。全長四四五.五メートル、幅員四.一メートル、トンネル両端の坑門及び内部全体が切石積で造られ、川端康成の小説「伊豆の踊子」をはじめ多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。平成十三年六月十五日、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治期を代表する隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。平成十三年十二月建立 静岡県」「天城山隧道天城山隧道(田方郡天城湯ヶ島町~賀茂郡河津町)ー天城湯ヶ島町と河津町をつなぐトンネルである。陸の弧島を嘆く南伊豆の人達の熱い思いによって、総工費10万3,016円の巨費を投じて明治38(1905)年に開通した。地元上河津村では1万2,361円余(実際には郡費補助の名目で賀茂郡が支出)を負担した。さらにトンネルまでの道路工事費も1万円余を負担した。このトンネルの完成によって北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮し、難所の天城越えは解消した。延長 446.00m幅員 3.50m有効高 3.50m標高 708.74m」日本の道100選( 昭和61年8月)登録有形文化財(平成10年9月)重要文化財(平成13年6月)「切り石巻工法工事は石巻といって、石を積み上げていくエ法で施工され、石は、大仁町吉田地区の吉田石が使われた。」標準横断断面図すると、入口で準備中の工事関係者の方から、この「天城山隧道」は工事中であり、隧道を出た所から通行止めになっているとのこと。今日は隧道内の電気工事のため、隧道内の照明は消える可能性もあると。よって慌てて車に戻り「天城山隧道」👈️リンク の中に入ったのであった。静岡県伊豆市と、河津町を結ぶ国道414号(旧道)のトンネルで、1900年(明治33年)に起工、1904年(明治37年)に竣工、1905年(明治38年)に開通しました。全長は445.5メートルで、トンネル壁面や入口アーチなどはすべて切り石で作られています。現存する石造トンネルでは国内最長であるとのこと。1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録された(登録名「旧天城隧道」)。その後、2001年(平成13年)に「天城山隧道」の名称で道路トンネルとして初めて、国の重要文化財(建造物)に指定された。※この指定にともない登録有形文化財としての登録は抹消された と。ズームして。工事は石を積み上げていく「切り石巻」工法で施工されていることが確認できたのであった。設定を変えて。工事は石巻といって、石を積み上げていくエ法で施工され、石は、大仁町吉田地区の吉田石が使われたのだと。路面に近い石は、上方の石と比較して表面の粗さが目立っていると感じたのであった。南側出口が大きくなって来た。そして出口へ。天城トンネル南入口の先で駐車。「登録有形文化財旧天城隧道この隧道(トンネル)は、明治三十八年に築造され、川端康成作「伊豆の踊り子」のトンネルとして広く親しまれている。トンネル入口や馬蹄形をしたトンネル本体とともに総石造構造のものは珍しく重厚な構えとなっている。明治末期を代表するこのトンネルは、国土の歴史的景観に寄与しているとして、平成十年九月二十五日 有形文化財に登録された。 平成十ニ年三月二十四日建立 静岡県」「登録有形文化財 第22-0013この建造物は貴重な国民的財産です。文化庁」旧天城隧道の南側入口を望む。「踊子歩道 案内図」。「全面通行止め」のお知らせ国道414号(旧道)寒天橋から天城山隧道(河津川入口)まで。伊豆市側(水生地下)からは天城山隧道は通れます。天城山隧道を通り抜けた駐車場でUターンできます。そして河津川方向へは全面通行止め。そして我々も引き返して、「旧天城隧道」を通過し、来た道をひたすら引き返したのであった。そして伊豆市側(水生地下)からは天城山隧道は通れます。天城山隧道を通り抜けた駐車場でUターンできます。 との表示があったのだ。ハングルの案内板も置かれていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.18
コメント(0)
第1展望台からの眺め。清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。流量も年間を通してほぼ一定を保っていると。水が地下から湧き出しているところがハッキリ見える「わき間」👈️リンク が湧き出る様子は感動的!。こちらにも。過去の仕事から砂濾過器の逆洗時の濾材表面の状況を想い出す。 ズームして。再び第1展望台から柿田川の流れを。いつまでも見ていたい光景なのであった。「第1展望台」。公園案内図。現在位置はここ!!再び「火山がもたらす柿田川の湧水約10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士火山が誕生しました。富士火山は、約1万年前を境に新富士火丘と古富士火山に分けられています。新富士火山がはしまったばかリの約1万年前の噴火では、愛鷹山と箱根にはさまれた谷を大量の溶岩が流れ下り、現在地付近まて到達しました。三島駅周辺に露出する「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は、柿田川付近ではその後の土砂などによって地下数10mに埋もれています。富士山の雪解け水や雨は、亀裂やすき問の多い新富士火山の溶岩や火山灰の中にしみ込み、水を通しにくい古富土火山などの地層の上を地下水として流れ下ります。三島溶岩の中を流れてきた地下水は、溶岩の末端に近い三島付近から柿田川にかけて豊富な水をもたらしています。」自然石に彫られた「柿田川公園」。 ここにも「柿田川公園 案内図」。「柿田川公園 見どころ紹介柿田川(国指定天然記念物)市街地のまん中で、こっ然と湧き出した水は、集まって川幅30 ~ 50メートル、延長約1,200メートルの河川となって、伊豆天城山を源とする狩野川と合流します。柿田川の水は、豊富な水量に加えて、水温は15℃と夏も冬もほぼ一定を保っています。水質もきわめてよく、静岡県東部地域の飲料水・工業用水として大切な水源となっています。水が地下から突然湧き出して、そのまま河川となっている柿田川は、その流域に豊かな自然環境をつくり、貴重な生態系を維持しています。」「おすすめ見どころコース」が紹介されていた。「清水町内のジオポイント」「柿田川公園建設の記柿田川は、富士山の雪溶け水が無数の湧水群を形成し、千古の昔から・・・」池に水や噴水はなく。池の先に石碑が見えた。石碑に近づいて。「柿田川讃歌」「天地のゆたけき 心ここにあり この富士の山 この柿田川」と刻まれていた。「太古よりこの豊けさにここに湧く泉頭に今日も息呑む若鮎とあまごの群れか影なしていま湧水の釜に近づく水霞は見る見る消えて沈透きたる川藻さ緑になびきつつあり日日に湧く百二十万トンこの水を護りて永久に傳へざらめや 利雄」「作者紹介大悟法 利雄(1898~1990)歌人 若山牧水記念館初代館長柿田川をこよなく愛し、その感動を「柿田川讃歌」40首に詠んだ。」「大悟法利雄大悟法利雄 略歴歌人、大分県生まれ。明治31年12月生まれ、平成2年11月没。享年91歳。大悟法利雄氏は、大正1 1年に沼津で初めて若山牧水に出会い、以後牧水の高弟、助手として牧水宅に同居し『創作』や『詩歌時代』の編集助手として青年期を沼津で過ごしました。牧水没後は、『牧水全集』の編集をはじめ『若山牧水伝』『牧水新研究』等、数多くの著書を出版して師の顕彰に努め、沼津市若山牧水記念館の初代館長に就任するなど、牧水研究家として不減の業績を残す傍ら、自身も『翼』「伊豆』『薔薇の散歩』等の歌集12冊を発行しています。氏は晩年、しばしば柿田川を手漕ぎの船で遡行、湧水噴出のさまをつぶさに観察し、その美しさに感銘を受け、「人里の秘境」と称し、「柿田川讃歌」40首 (歌集『飛魚とぶ』に所収)を詠み、人々にその素晴らしさを広めました。大悟法利雄 略年譜以下 略」「柿田川讃歌抄①太古よりこの豊けさにここに湧く泉頭(いづみがしら)にけふも息呑む②日日に湧く百二十万トンこの水を護りて永久(とは)に伝へざらめや③若鮎とあまごの群か影なしていま湧水の釜に近づく④静もるやまた湧き立ちて黒々と砂の躍れるここの湧釜⑤さ緑に白玉の小花ちりばめてしづきつつそよぐ三島梅花藻⑥水靄は見る見る消えてしづきたる川藻さ緑に靡きつつあり⑦川とんぼ一つ草葉に想ひたる姿にも見るこの川の味⑧若葉のなかみなぎり走る柿田川を思ひつつ寝しゆゑの夢らし⑨ここよりは靡き見えねどしづきつつ続く川藻のとりどりの色⑩妻つれて必ず来むぞこの川に影映しつつ富十晴るる日に⑪山翡翠(やませみ)を時に見るとふこの川にせめてとわれは翡翠(かはせみ)を待つ⑫ひとすぢの雪糸引きて夏の朝の富士ま上なり柿田川の富士⑬今朝時れし柿田川の富士見せましと起きぬけのわれを友のみちびく⑭遂に師は知り給はざりき湧水(わきみづ)のみなぎり走るこの柿田川⑮天地(あめつち)のゆたけき心ここにありこの富士の山この柿田川」地図の番号はそれぞれ短歌を詠んだ場所を示しています。柿田川公園案内図その先にあったのが「泉頭城(いずみがしらじょう)」案内板。「泉頭城泉頭城は柿田川の水源地泉頭に築かれた戦国時代(15 ~ 16世紀)の城郭です。城或は東西400m、南北500mあり、ニノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これをとり囲んで北ノ曲輪、東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪、小郭(おぐるわ)、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノロ出丸が築かれています。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空掘で防禦されており、土橋と木橋で結ばれていました。この城は戦国時代の終り頃には小田原後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目をはたしていました。永禄12(1569 )年後北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津三枚橋城や清水町の戸倉城、三島の伊豆徳倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵攻に備えました。天正8 (1580)年武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将が各々百騎づゝ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していました。天正9(1581)年戸倉城が武田軍に降参すると泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われてしまいました。天正18 (1590)年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は韮山城と山中城へ引上げました。元和元(1615)年徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め家臣土井利勝、本多正純に、隠居御殿の城を造営することを命じましたが、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更されました。その後城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく残っていたということです。現在、城址の一部は柿田川公園として多くの人々に親しまれています。」「泉頭城復元見取図」。現在地はここ。「泉頭城址」と。国道1号・三島バイパス沿いにあった「柿田川湧水群」案内板。そして次に、豆腐料理店「食事処かわせみ本館」を訪ねた。案内図。「食事処 かわせみ本館」。「高野ニ三」像。近づいて。「高野ニ三(胸像人物)明治十六年、福井県今立町の和紙漉きの家に生まれました。製紙に適した水を求めて富士山麓を探索し、柿田川の水が最適であると決め昭和六年当地に高野製紙所を設立しました。現在の町営駐車場の場所に高野製紙所があり境川から水を引き柿田川に井戸を掘り、汲み上げた水で特殊な紙(海図・壁・襖などに使う和紙)を作り、作られた和紙は施設内にある蔵に保存されていました。 昭和十五年十一月ニ十日建設」「高野ニ三の母屋」。「高野ニ三の母屋この建物は昭和十ニ年高野ニ三がこの地に製紙会社を設立に当たり住居として建てられました。高野ニ三の生誕地が福井県のため使われている木材はすべて福井県産を使用し職人も呼び寄せ越前の風土に適した構造で建築されました。一、ニ〇〇坪の庭園には茶窒も設けられています。」「柿田川豆腐館」・「名物 とうふアイスクリーム」。「とうふアイスクリーム」。「キッチンかわせみ」。富士山の恵みである柿田川百年水豆腐の料理が楽しめると。「cafe lirio」案内板。人形の猫が。「家康が求めた幻の隠居所泉頭城址泉頭城は、北条氏が柿田川上流部東側の自然の川を堀として利用し、築城したといわれているが、豊臣秀吉の小田原攻めのときに廃城となった。徳川家康は、親しみのあったこの泉頭の地を、側近の以心崇伝が記した『本光国師日記』にも記載されているように、元和元年(1615年)の年末に隠居場所として決定した。しかし、家康が縄張リのためにこの地を訪問する予定まで決まっていたにもかかわらず、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更された。現在、域址の一部は柿田川公園として多くの人々に親しまれている。柿田川は、1985年(昭和60年)に「名水百選」に選ばれ、2011年(平成23年)には「国指定天然記念物」に指定された。」「稲荷大神」。扁額「稲荷大神」。社殿。柿田川の水汲み場。幹が黒い竹の姿が。「黒竹(くろちく)」であっただろうか。「クロチクは、イネ科マダケ属の常緑タケ類。 桿の直径は2~3センチほどで、高さは3~5メートルほどになる。 桿ははじめ緑色で、夏を過ぎるとだんだん黒くなり、2年ほどで真っ黒になる。 60~120年周期で開花をする。 そのため滅多に見ることが出来ない。 日当りのよい乾燥地では鮮やかな黒色となる。」とウィキペディアより。そして駐車場に戻り、再び河津桜を。そして、この日の宿のある伊豆の国市に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・
2024.03.17
コメント(0)
「三保の松原」を後にして、この日の最後の目的地の静岡県三島市内にある「柿田川湧水群」に向かって進む。富士由比バイパスを利用して「薩埵峠展望台」手前下から富士山を望む。現在、「薩埵峠」への旧東海道は崖崩れ?の影響で、通行止めになっているとのことで、この日は訪ねるのを諦めたのであった。そして更に1時間ほど走り「柿田川公園 町営駐車場」に到着し、「柿田川湧水群」の散策開始。駐車場脇の河津桜を見る。時間は16:30。ズームして。「伊豆箱根ユネスコ世界ジオパークへようこそ南から来た火山の贈りもの本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かっては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前のできごとです。伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んた地形をもつ魅力的な半島が形作られています。海と陸の記億を刻み込んだこの伊豆半島で、大地からの恵みである美しい景色や食、温泉、文化といった、たくさんの「贈りもの」を楽しんでみませんか?」「柿田川公園の見どころ」案内板。現在地はここ。「JR三島駅」の南、国道1号・三島バイパス沿いにあった。柿田川公園内の拡大地図。現在地はここ。ここにも「柿田川公園案内図こちらからのコース(青矢印)は、上り板のコースとなります。「湧水の道」内を通り、公園内を散策するルート(赤矢印)をお勧めします。」木道「八つ橋」を「貴船神社」の方向かって進む。八つ橋公園の散策路として利用されています。また八つ橋から柿田川中流の優雅な流れを見ることができ、ここでも豊富な湧水を感じることができるのであった。「湧水ゾーン」に向かって進む。「湧水」は「spring water」と思っていたが「crossing」?「天然記念物 柿田川説明源は約40km北方の富士山に降った雨や雪である。これらが地下水となり三島溶岩流の間を長い年月(十数年といわれる)を経て流れ、ほほ無菌で適度にミネラルを含む、日本有数のすばらしい湧水となり、ここに湧き出している。概要全長約1.2km、狩野川と合流し、駿河湾に注ぐ。全川全て湧水。湧水量約10 0万トン/日。湧水口は数十ヶ所、主として上中流部に集中する。静岡県東部(沼津市、三島市、熱海市、函南町、清水町)の飲料水。水質pH7.2、色度0、濁度0、溶存酸素9.5前後、電気伝導度約14ms/m、水温年間15度C前後。動植物の特徴1.陸上~水辺~水中に至る連続した植物相が見られる。2.街中を流れる清流で、流域はケヤキ、エノキ、ヤプニッケイ、ヤブツバキ、シイ等の 温帯性広葉樹林に囲まれ、清流にしか生息しないホタル等の昆虫、アユ等の魚類、かつて 田園地帯に見られたハンノキ、トウカイタンポポ、セリ等、市街地から消えつつある動植物が 多数見られる。3.貴重な動植物 ミシマバイカモ、オオアカウキクサ、ヒンジモ、ニホンカワヂシャ、 ナガエミクリ、カワセミ、ヤマセミ、ゲンジボタル、ヘイケボタル、アオハダトンボ、 ホトケドジョウ、ウツセミカジカ、アマゴ。 カキダヒメトビケラ等の新種の水生昆虫も発見されている。 柿田川湧水群は世界に誇る貴重な湧水河川です。 湧水や動植物を保護し、後世にこの貴重な自然を残していきましよう。 公益財団法人 柿田川みどりのトラスト」「柿田川」の川岸に出る。「柿田川」の中央付近から湧水が川面から吹き出していた。「湧き間」公園内においても大小さまざまな湧き間を見ることができますが、通称船付場と呼ばれる湧き間にはかって製紙会社が使用していた2つの井戸の跡からきれいな水が湧いているのであった。ズームして。20数年?を経て地下から湧き出して来ているのだと。さらに。レンガ積みの水路用トンネルが前方に。かつての製紙工場の跡地ということだが、現在は国道1号沿いに突然現れた森林公園といった雰囲気の場所。トンネル手前にはフエンスと扉が設置されていた。安全対策であろうか?案内板が多くの場所に。「八つ橋」・「湧水広場」案内板。「湧水広場」を見る。夏になると水遊びを楽しむ親子連れでにぎわうと。「水五訓一、自ら活動して他を動かしむるは水なり。二.常に己の進路を求めて止まざるは水なり三.障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり四.自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり五.洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり 雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう) たる鏡となりたえるも其(その)性を失はざるは水なり 貴布禰総本社 貴船神社宮司 和大書水というものを通して、人間としての生き方を教えてくれる言葉です。一が伝えたいことは、「率先垂範せよ」ということ。水は自らが動くことで周りのものを動かし、運んでいきます。人間も、自らは何もしないままで、ああしろ、こうしろと言っても、誰も動くはずがありません。自ら模範を示すことによって周囲を牽引する人になってください。二が伝えたいことは、「自ら考えて道を拓くことを心がけよ」ということ。水はどんな環境の中でもその流れを止めることなく動いていきます。何か失敗をした時に、周りのせいにしていませんか?自ら考え、努力することで道を切り拓いていく人になってください。三が伝えたいことは、「あきらめることからはなにも生まれない」ということ。順調な水の流れもダムという壁によってさえぎられることもあります。そんな時は、その力を満々と内に蓄えます。蓄積された力があるからこそ、解放された時に巨大なエネルギーを発揮できるからです。困難に直面して、自分の可能性をあきらめてしまってはいけません。苦しい時もじっと耐えて努力を続けていけば、大きな力となってかえってきます。四が伝えたいことは、「人を追いやることをせずに共に頑張ろう」ということ。学校や社会にはさまざまな価値観を持つ人が集まっています。感覚、リズム、方法、価値観の合わない人を排除するのではなく、「長所をみつけてそれを生かす」ことをまず考えましょう。川は、脇から濁った水が注がれてきても、「入ってくるな」とか「出ていけ」とは言いません。さまざまな水を一つにまとめ、大きな目的に向かって集約してゆくような、そんな度量を持つ人になってください。五が伝えたいことは、「常に自然の理(ことわり)にそって物事を考えよ」ということ。水は温度の変化、器の形によって次々と自らの形を変えます。しかし、その本質は一切変化することがありません。我々人間もまた、変化に対応するのに常に柔軟でなければいけません。与えられた環境の中でいかにして最大の努力を行えるかが大切です とネットから。そして「貴船神社」の石鳥居。「貴船神社所在 清水町伏見泉頭古来、泉川の清冽な湧水にちなみ京都市貴船川上流深山幽谷の地にある貴船神社から御霊分けされたものである。祭神は高龗神(たかおかみの神)で水の神である。この神は祈雨、止雨の神で雨の少ない時は雨を降らし、雨の多い時はこれを止めるあらたかな神である。又、本宮は縁結びの神としても世に広く知られている。尚、この地は戦国時代に北条氏が造った泉頭城西の丸にあたる。」「貴船神社」の参道を進む。狛犬が迎えてくれた。参道は「えんむすび通り」と呼ばれているようです。訪れた方々に良縁を授けるという言い伝えから、「ふじのくにエンゼルパワースポット」に登録されているとのこと。「案内板」と「石碑」。「清水町 貴船神社この神社は、京都貴船神社本宮の分社です。水の神様ですが、「恋を祈る神」縁結びの神としても知られています。石碑の上の白の丸い石「おむすび」に触れると良縁に恵まれると、言われております。 清水町貴船神社奉賛会」「手水舎」。「二の鳥居」。社号標石「貴船神社」。前方に「社殿」。「参拝者 各位お供え物は、御心のみとし、ご持参いただきました。品物は、環境保全の為、お持ち帰り下さいますようお願い申し上げます。 清水町貴船神社奉賛会」社殿の内陣。引き返して「一の鳥居」を境内側から。「柿田川天然記念物指定記念」、「平成二十三年十二月吉日 寄進 ・・・」と。「第2展望台」入口には通行止と。「柿田川公園「第2展望台」通行止めのお知らせ日頃より清水町公園行政にご理解とご協力をいただきありがとうございます。柿田川公園第2展望台へ続く階段の破損に伴い緊急工事を下記のとおり行います。なお、工事期間中は、階段を閉鎖するため第2展望台の見学ができなくなります。来園者の皆様には、ご迷惑をおかけいたしますが、安全に通行するため必要な工事でありますので、ご理解とご協力をお願いいたします.工事箇所 柿田川公園 第2展望台階段工事期間 令和6年2月13日(火)から令和6年2月16日(金)まで( 4日間)その他 工事期間中は、第2展望台の見学ができなくなります. 第2展望台への迂回ルート等はございません. 天候によりエ事期間が変更となる場合がありますのでご承知ください。」「第2展望台■第2展望台からの眺望 ここの湧き水は、昔、紡績工場が井戸として利用していたものです。日の光と砂が思わぬ 水の色を作り出しています。一定の水温を保ち、水位もほとんど変わらないため、手付かずの 河川の姿を今日まで残しています。■柿田川湧水のしくみ 都市河川でありながら、比類のない水質を誇る柿田川は、富士山系の伏流水てす。約8500年 前の富土山の大爆発で大量の溶岩がこの柿田川の上流まできました。 「三島溶岩流」と名付けられたこの溶岩は、多孔質層で水を通しやすいという特徴をもって います。その下の古富士火山の表層が水を通しにくいという特徴があるため、富士山周辺に 降った雨や雪が三島溶岩流の問を地下水となって流下します。約40キロ離れた清水町の 国道1号の直下から、こんこんと湧き出る水量は、1日約100万トンと推定されます。」下記は以前に訪ねた時の写真、キャプションです。こちらのわき間は感激のエメラルドブルー。超神秘的な色合いに感激。わき間の水面には周囲の樹林が映り鏡の如し。まさに水鏡。昔の紡績工場が使用していた井戸の跡とのこと。公園内の最強パワースポットだそうです。「公園案内図対岸に見える施設は静岡県企業局(駿豆水道)と沼津市水道の施設であり、清水町全域及び近隣市町である沼津市、三島市、熱海市、函南町にも20万人以上の飲料水として送られています。柿田川は、「21世紀に残したい日本の自然百選」(昭和58年)、「日本の名水百選」(昭和60年)、「国指定天然記念第」(平成23年)などに選定されました。しかし、この川の周辺にも宅地化の波が押しよせ、このまま放置すれば、川を保護・保全する事が極めて困難となると懸念されました。このため町では、「自然の保護・保全」と「コミュニティ広場の確保」を目的に"柿田川公園"づくりを進め、昭和61年4月、町民憩いの場として、柿田川公園が開園しました。公園の整備は今後も続け、すべての整備が完了するまでには大きな経費と長い歳月が必要になりますが、町では着実に進めてまいります。自然のすばらしさを学ぶ場、自然を守る心を養う場として、柿田川の自然を後世に残していきたいものです。■柿田川で見られる生物淡黄色の花が、梅の花に似ているので、この名前・ミシマバイカモがつきました。水の汚染に敏感で、柿田川でも中・上流部にしか生息していません。柿田川を代表する植物の一つで、清涼な湧水中の砂地に根を下ろしています。花の咲く時期は、一般に5月から9月頃ですが、柿田川では一年中咲きます。三島市の楽寿園小浜池で発見されました。かつては、三島市内の河川などにも見られましたが姿を消し、柿田川は平面群落として残る准ーの場所となっています。(カワセミの)頭は緑色で青い小斑点があり、体は青緑色とオレンジ色をしています:渓流の翡翠(ヒスイ)と呼ばれる美しい鳥です。水辺の木の枝から、あるいはホバリングから、水中に落下して魚を捕らえて食べます。カワセミは、清水町の町の鳥として制定されています。」対岸に見える施設は静岡県企業局(駿豆水道)と沼津市水道の施設。「霊峰富士の名水柿田川 守りつゞけて 子や孫に」「第1展望台」に向かって進む。母子像。「第1展望台」。ここは柿田川の最上流部です。富士山など上流に降った雪や雨が地下水となって国道下から忽然と湧き出る、大小数十箇所のわき間を見ることができます。また、12月には遡上してきたアユなども見ることができます。■柿田川湧水のしくみ富士山周辺に降った雪や雨が地下に浸透し、柿田川に湧き水として湧き出しています。この湧き出す期間は、諸説ありますが、国土交通省のトリチウム濃度の分析によると26 ~ 28年という推定値が出ています。■柿田川で見られる生物(アユは)清流に住むアユ科の淡水魚で、全長は約30cmに達します。体は流線型で脂びれをもっています。川にさかのぼって来た成魚は1m2ほどのなわばりを作り、川底の石に付着した藻類を食べて生きています。」「火山がもたらす柿田川の湧水約10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士火山が誕生しました。富士火山は、約1万年前を境に新富士火山と古富士火山に分けられています。新富士火山がはじまったばかりの約1万年前の噴火では、愛鷹山と箱根にはさまれた谷を大量の溶岩が流れ下り、現在地付近まで到達しました。三島駅周辺に露出する「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は、柿田川付近ではその後の土砂などによって地下数10mに埋もれています。富士山の雪解け水や雨は、亀裂やすき間の多い新富土火山の溶岩や火山灰の中にしみ込み、溶岩の水を通しにくい古富土火山などの地層の上を地下水として流れ下ります。三島溶岩の中を流れてきた地下水は、溶岩の末端に近い三島付近から柿田川にかけて豊富な湧水をもたらしています。」「天然記念物 柿田川湧水群源は約40km北方の富士山に降った雨や雪である。これらが地下水となり三島溶岩流の間を長い年月(十数年といわれる)を経て流れ、ほぼ無菌で適度にミネラルを含む、日本有数のすばらしい湧水となり、ここに湧き出している。全長 約1200m、狩野川と合流し、駿河湾に注ぐ。水質 pH7.2、色度0、濁度0、溶存酸素9.5前後、電気伝導度約14ms/m、水温年間15℃前後特長1.全川全て湧水。湧水量約120万トン/日。湧水口は数十ヶ所、主として上中流部の集中。2.陸上~水辺~水中に至る連続した植物相が見られる。3.都会の清流 流域はケヤキ、エノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、シイ等の豊かな温帯性 広葉樹林に囲まれ、清流にしか生息しないホタル等の昆虫、アユ等の魚類、かつて田園地帯に 見られたハンノキ、トウカイタンポポ、セリ等、市街地から消えつつある動植物が多数見られる。4.貴重な動植物 ミシマバイカモ、オオアカウキウサ、ヒンジモ、ニホンカワヂシャ、ナガエミクリ、 カワセミ、ヤマセミ、ゲンジボタル、ヘイケボタル、アオハダトンボ、ホトケドジョウ、 ウツセミカジカ、アマゴ。カキダヒメトビゲラ等の新種の水生昆虫も発見されている。5.静岡県東部(沼津市、三島市、熱海市、函南町、清水町)約35万人の飲料水。 柿田川湧水群は世界に誇る貴重な湧水河川です。湧水や動植物を保護し、後世にこの貴重な自然を 残していきましょう。 公益財団法人 柿田川みどりのトラスト」「未来へ残そう柿田川の自然 清水町」。「日本の自然・100選柿田川湧水群 清水町殿」。「名水百選」認定書名水の名称 柿田川湧水群所在地 静岡県駿東郡清水町「静岡の自然100選 認定書柿田川湧水群 清水町殿」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.16
コメント(0)
安倍川餅を楽しんだ後は2019年3月オープンの「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」を訪ねた。「「みほしるべ」とは三保松原の玄関口の施設として、名勝及び世界文化遺産「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産としての価値や魅力、松原保全の大切さをわかりやすくガイダンスし、後世に継承する役割を担っています。これまで三保松原が芸術の創造にインスピレーションを与えてきたように、世界中から訪れる方と地元住民との交流を通し、三保松原で新しい文化の創造につながるような活動を行っていく未来志向の施設を目指しています。施設名の山来この名前には、「三保を知る」、「道しるべ」という、2つの意味があります。来訪者の皆様にここで三保の歴史文化やマツのことを知っていただき、富士山と松原の美しい景観へご案内する場所として機能し、また、未来に向けて松原を保全し文化を創造する道筋を示す場所となるように、との意味を込めました。三保松原の価値や魅力の発信、保全活動の国内外への発信を通して、三保松原を次世代に引き継ぐとともに、新たに世界中から三保松原を訪れる人たちや地元住民との交流を通し、三保松原における文化的な価値と自然的な価値を融合させ、磨き上げた新たな魅力ある「三保松原文化」を作っていきたいと願いが込められています。」とネットから。「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」のフロアガイド「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」入口。松原と館をつなぐ渡り廊下。見事な木材による天井部分。展示コーナー・「全国の身近な松原展」に近づいて。「全国の”名勝”松原名勝とは、文化財の種類の一つで、庭園や海浜、山岳などのうち、芸術上または鑑賞上価値の高いものです。大正11年3月8日に日本で初めての名勝として「三保松原」と「天橋立」が指定されその後全国で5か所の海沿いの松原が名勝に指定されています。12月10日の「松原フォーラム・才の木トークカフェ」では、この7ケ所の松原の関係者が集まり、海沿いの松原の美しい景観を未来に引き継ぐための方策について議論します。」高田松原(岩手県陸前高田市)昭和15年(1940)11月13日指定東北地方稀ニ見ル壯大優美ナル松原ニシテ前ニ廣田灣ヲ控ヘ後ニ氷上山、雷神山等ノ翠巒ヲ繞ラシ山紫水明ノー勝區ヲ成セリ 樹種ハ黒松ヲ主トシ林相整美 樹下荊棘ノ繁茂スルモノナク境地清淨ニシテ林内ノ逍遙ニ適ス「気比の松原(福井県敦賀市)昭和3年(1928)6月28日指定敦賀湾ニ面シ前方ハ黒松多ク 後方ハ赤松ヨリ成リ樹勢の美ナルモノ少ナカラズ北陸地方著名の松原ナリ。気比の松原が、松くい虫の被害等によりマツ林が袞退しつつあり、防災林機能の低下等が危惧されたことから、平成25年3月に、後世に引き継ぐべき貴重な財産として松原の適正な保全管理に資することを目的に、学識経験者、地元関係団体、行政機関等の多様な主体の協力の下、「気比の松原100年構想」を策定しました.その後、福井森林管理署による松くい虫被害の防除に加え、各主体が連携しながら松原の保全活動を継続して行っています。特に、市民参加型の保全活動ては、毎年、近隣の小中学校・高校の児童・生徒の皆さんと松葉かきや外来植物の駆除を実施しています。」「天橋立(京都府宮津市)大正11年(1922)3月8日指定昭和27年(1952)11月22日特別指定」宮津湾内ニ在リ其ノ砂嘴江尾ヨリ南々西ニ互リテ突出スルコト約二十三四町殆ト文珠ノ地ニ接シテ宮津湾ト内湾トヲ分チ幅廣キ處約二丁世狹キ處ハ一丁ニ滿タス内湾ニ於ケル砂嘴トシテ唯一ノモノナリ加フルニ白砂青松ノ美景ヲ以テス磯清水神社及智恩寺ノ境内ハ全体ノ風景ヨリ分ツヘカラサルモノニ属ス成相山上部ノ郡有山林ニハ地ヲ拓キテ小亭ヲ設ケタルアリ天橋ヲ望ムニ好適ノ地點ナリトス宮津湾内にあり、江尻より南々西殆んと文珠の切戸まで長さ約3600m幅約15mの砂嘴を示して内湾を抱く。砂嘴は白砂青松をなし、成相山の中腹傘松からの展望は特にすぐれた美観を呈する。古くからわが国の詩歌文章にあらわれ、日本三景の一としてひろく知られている。「慶野松原(兵庫県南あわじ市)昭和3年(1928)10月13日指定」淡路島の西岸、播麿灘に面する、南北1km,最大幅60mの海浜とその松原。起源は中世と見られるが、文献上の初見は寛文年間(1661〜72)である。江戸時代の松原は藩の所有として育成がはかられたが,明治維新に伴って一旦官有林となり,やがて民有林として払い下げられた。第二次世界大戦下では陸軍省の管轄となり、燃料用の新炭材として用いられたほか、食糧増産のために開墾され、江戸時代の規模が大きく損なわれた。淡路ノ西部松帆浦ニアリ瀬戸内海ニ臨メル一帶ノ松原ニシテ老松枝ヲ交ヘ其ノ景觀虹ノ松原ニ彷彿タリ北方五色浜ニ接シ南方雁來崎ヲ望ミ風光明媚近畿地方ニ於ケル松原トシテ優秀ナルモノナリ「入野松原(高知県黒潮町)昭和3年(1928)2月17日指定」土佐ノ西南部太平洋岸ノ砂丘ニアリ延長三十町西方蹉 岬ノ諸山ヲ望ミ東方井ノ岬ニ対シ海山ノ風光ヲ一眸ノ中ニ収ム四國ニ於ケル屈指ノ松原ナリ「虹の松原(佐賀県唐津市)大正15年(1926)10月27日指定昭和30年(1955)3月24日特別指定玄海灘ノ波濤ニ浸サレ古来歌詠ニ入リテ著名ナル松浦潟ノ弯曲自ラ弧状ヲ成セル海洋線ニ連リ青松白砂ノ一帶唐津浜崎両町竝鏡村ニ亘レルモノナリ、海岸線ノ形虹ニ似タルヲ以テ其ノ名ヲ負フ松林トシテハ数百年経タル老松ヲ始メ穉松ニ至ルマデ生意旺盛ニシテ枝柯根幹盤屈趣ヲ成セルモノ多ク砂丘トシテ亦屈折ナリ鮮明ナル弧線ヲ成スヲ以テ其ノ主要ナル特色トナシ斯ノ種砂丘松林ノ九州ニ於ケル代表的ノモノナリ」静岡新聞「富士山 世界文化遺産 三保松原含め登録」。2013年6月22日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は、山梨県と静岡県にまたがる富士山を世界文化遺産に登録することを決定した。登録には、イコモスが除外を求めていた静岡県の「三保松原」も含む形となった。世界文化遺産への登録理由は、富士山が山岳信仰の対象であり、歴史的な側面からも浮世絵など多くの芸術作品に描かれるなど、芸術文化を育んだ山として高い評価を受けたこと。日本国内での世界遺産登録は富士山が17件目で、2011年に岩手県の平泉が世界文化遺産に、東京都の小笠原諸島が世界自然遺産に登録されて以来2年ぶりだ と。「みほしるべ2階展示室」へ。松の標本や顕微鏡、松を使った楽器など松原に関する展示があった。左窓側にあった「ギャラリー」。「三保の航空写真」近づいて。2階の展示コーナーへ。こちらのコーナーでは、縄文時代から現在までの三保の歴史年表が展示されていた。三保ではかって海苔や真珠の養殖が盛んだったことや、明治20年から昭和16年頃まで多くの人々がアメリカに渡航したため、「アメリカ村」といわれた時代があったことなど、興味深歴史のトビックが紹介されていた。「三保の歴史年表縄文時代から現在までに至る三保の歴史をまとめた年表も展示されていた。近づいて。2階展示室の内容は好奇心をくすぐるものが多く、普段なら見ることのない地中に埋まった松の根の展示が。『龍の松』と呼ばれる巨大な松の断面も展示されており、数人が座れるほどの大きさに圧倒されたのであった。江戸時代中期からの歴史を刻む『龍の松』。樹木の年輪の幅や木材の成分から、当時の環境について情報を得る学問を樹木年輪年代学という。「龍の松」は根元部分は腐らずにほぼ芯まで年輪が残っていたため、その歴史は江戸時代までさかのぼることができた。「松原の地下をのぞいてみよう三保半島は、駿河湾岸を漂う砂と小石が長い年月をへて堆積してできた"砂嘴(さし) "であり、どこを掘っても砂(土壌分類名に"砂質未熟土"とよぶ)である。この土壌は常に乾いた状態で、養分も非常に乏しい。この厳しい環境下でクロマツは、まるで砂を鷲づかみにするように、地面と車直方向あるいは水平方向に太い根を伸ばし、菌根菌と共生して限られた水分や養分を得ている。垂直のみならず水平根をしっかり張ることにより樹高も高くなり、防風効果の高い松原を形成できる。」標本「根つき土壌剥ぎ取り標本」「マツ材線虫病対策」「松原を維持するために」「マツ材線虫病対策」「松原を維持するために」「松と日本文化」「三保松原の松」1階の「通り土間」に再び戻る。第10回「富士山写真コンテスト」入賞作品が展示されていた。最優秀賞「駿河路」最優秀賞「駿河路」小松 啓示静岡県と一目でわかる新茶の畑の造形と、富士山を青空と組み合わせて駿河の富士山を表現しました。「心の色」ASANKA GUNARATHNA 人間の感情は多様で、一人一人の心は異なります。ある人は感情豊かで柔らかい心を持ち、他の人は感情を表にせず固い感情を持ち個人差があります。遠くに見える富士山と周囲の石の柱はこの差を表すだろう。「二人だけの富士山」島川 一 「極寒の山伏山頂、大雲海の日の出」下田 隆「虹と燃える富士」入賞「虹と燃える富士」鈴木泰信早朝に富士山が赤く輝く時間があります。そのタイミングに合わせて虹が出ました。急いで広角レンズに変更して撮影した一枚です。「富士と富士」入賞「富士と富士」辻森章浩寝台特急富士にあたえられた、富士山のテールマーク。冬の富士山と共演する数少ない構図でどうしても写しておきたく、最高の条件で撮れるまで通いました。「天の川と登山者の灯り」入賞「天の川と登山者の灯り」能澤 昌弘富士宮ロ五合目から第1火口縁までナイトハイキングをしている途中、登山者の灯りと天の川の美しさに感動し、シャッターを押しました。「夫婦岩と王冠富士」入賞「夫婦岩と王冠富士」 峰岸 昭子 1O年前から、こちらからのダイヤモンド富士をずっと狙っていました。ちょうど娘夫婦が10年前の今日、6月30日三重で夫婦になった日で、結婚10周年を迎えた日でした。その後のIO年後に、こちらの夫婦岩で初めて夢が叶い、ダイヤモンド富士を撮ることができました。6月30日、娘夫婦に結婚10周年と私が夫婦岩で、初めてダイヤモンド富士が撮れ、夢が叶った日になりおめでたがニつになりました。富士山まで、200km先のこちらからのダイヤモンド富士は、10年に一度くらいしか撮れないと言われています。改めてこのダイヤモンド富士が撮れて一年経ち、条件の良い日に出会えたことに感謝しております。この一枚は、一生の宝物になりました。「精進湖秋景」渡辺 英基「みほしるべ 静岡市三保松原文化創造センター」浮世絵が並ぶ。「六十余州名所図会 駿河 三保のまつ原」嘉永6年(1853)広重晩年の作品であり、日本六十余州の国々の名所をくまなく描いた全七十図の一図。縦長の画面に中景から遠景を重ねた俯瞰構図に加え、前景の三保半島を短縮法的に斜めに配置することで奥行と広がりを出している。「富士三十六景 駿河三保之松原」安政五年(1858)広重が最晩年に手掛けた富士山を題材にした全三十六図の一図。左奥に富士、右から松原の先端が伸びてくる構図で、広重は松原に近づき、ひときわ富士山を大きく捉えている。縦長の画面に中景から遠景を重ねた俯瞰構図で奥行と広がりを出している。「月百姿 きよみかたそらにも関のあるならば 月をとゝめて三保の松原」月に取材した歴史・巷説・風俗・鳥獣などさまざまな題材で描かれる全百図の一図。内容は能や歌舞伎に基づいた作品も多く、武将や美人画など多肢に渡る。駿河侵攻の際の武田信玄が、三保松原から清見潟を眺めている。信玄の姿は明確に、風景は月の光を浴びて幻想的な雰囲気となっている。「東海道五十三對 江尻 三保の浦羽衣松の由来」幕末期の歌川派を代表する絵師・広重、三代豊国、国芳が筆をとった全五十五図の一図。主題は東海道の風景ではなく、宿場とその地方に伝わる物語や伝説の人物か描かれ、画面の上部の梓内には宿場に関係する歴史古事、狂歌などが記されている。本図は漁師に奪われた羽衣を取り返し、空高く舞い上がる天女の姿が、枠を突き抜けて描かれている。「三保の浦 羽衣松の由来 江尻の東 清水の湊より海濱を廻りて壹里余 三保の洲崎へ至る駿海(しゆんかい)一の名所にして風色世に知る所なり 羽衣松は同所にあり 里言にいふ むかし天人降(くだ)りて松に羽衣をぬき置しを 漁師(れふし)ひろひ取て返さず 天女かりに漁師が妻となり 辛労(くらう)して羽衣を取りかへし 天に帰りしと言傅ふ 羽衣の松 今猶存せり 「東海道名所之内 三保松原」文久三年の十四代将軍徳川家茂の上洛を題材にした全百六十ニ図の一図。三保の松原を描いた作品の中でも、他と異なり富士山が描かれていないことは珍しい。御穂神社と、浜際にしっかりと根を張る羽衣の松、奥に久能山と家茂の行列が描かれている。「雙筆五十三次 江尻 三保の松 羽衣の松」広重初代 豊国三代安政元年(1854) 下部に広重が風景を、上部に役者・美人画で名を馳せた三代豊国が人物を手がけ一枚の作品をかき分けて東海道を描いた全五十五図の一図。この揃物内では唯ー天女が上部に、風旻が下部に配冒されている。天に舞い上がった色鮮やかな天女は鳳凰の尾をつかった羽衣と共に、美しい姿で描かれている。富士山を眼下に望み天へ上る姿は、三保松原の羽衣伝説を見事に描いている。「東海道名所之内 清見寺」文久三年の十四代将軍徳川家茂の上洛を題材にした全百六十二図の一図。興津の清見寺は奈良時代の創建で、かって関所も置かれ、様々な歴史の舞台として名高い場所であった。現在は清見寺から三保松原は見えないが、当時は遮るものが無く三保松原は見下ろせたであろう。清見寺、三保松原、富士山には密接な関係があり、浮世絵はじめ多くの絵画に描かれた。「五十三次名所圖會 十九 江尻 田子の浦 三保の松原」広重の晩年の作品であり、縦の構図で描かれているため「竪絵東海道」とも呼ばれる全五十五図の一図。右手から延びる三保松原と、海上には清水港に出入りする舟か描かれている。対岸には愛鷹連山と雄大な富士が望まれ、手前の浜に描かれた網干と、遠景の富士との三角形が相似形を成している。「東海道名所之内 久能山」文久三年の十四代将軍徳川家茂の上洛を題材にした全百六十ニ図の一図。徳川家康が祀られている久能山東照宮と三保松原が描かれている。久能街道から見た風景であろう。富士山と三保松原の眺望と共に、久能山東照宮へと続く長い石段も描かれている。「東海道五十三次之内 江尻 弥次郎兵衛」東海道の各宿場とともに、宿場から連想される芝居の配役と、その配役に相応しい役者を見立てた全百四十枚以上といわれる揃物の一図。十返舎一九著「東海道中膝栗毛』の登場人物、弥次郎兵衛(中山文五郎)と、背景には広重の「東海道五拾三次之内(保永堂版東海道)」より「江尻 三保遠望」が借用されており、表題は羽衣伝説に登場する「天女の羽衣」に縁取られている。「新たな時代へつなぐ悠久の美三保松原 名勝指定100周年」ポスター。三保松原が誇る「白砂青松と富士山」の美しい景観写真を使用したPRポスター。写真は、静岡市在住の富士山写真家・橋向真氏に、ポスター用に撮影 と。【富士山と笠雲について】富士山は、古代中国の影響により仙人が住むと考えられていました。平安時代前期の漢詩人である都良香(みやこのよしか)が著した『富士山記』では、白衣(びやくえ)の天女が富士山頂で舞う姿が記されています。これは、笠雲や吊るし雲がかかる様子を見立てたものと考えられています。そして外に出て「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」を振り返る。「富士山世界遺産10周年記念新デザイン『天女シズラ』」シズラ(SHIZULLA)清水の「シ」に方言の「ズラ」を合わせた造語。特徴静岡市清水区に生息する恐竜のような架空の生物趣味・・・「コスプレ」特技・・・「変色」と「巨大化」好きなこと・・・「サッカー」と「食べ歩き・飲み歩き」と。横向き立ち姿がひらがなの「し」の字になっているのだと。駐車場に戻る途中、右手奥には石碑と案内板があった。「山梨勝之進詩碑」1877年(明治10年)7月26日 - 1967年(昭和42年)12月17日)は、日本の海軍軍人。海兵25期次席。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。 主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐ人と目されていた、いわゆる条約派の1人。また帝国海軍の77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。見やすい写真をネットから。「天女の池(羽車稲荷御神池)の由諸此処は今では海岸砂丘の後退のために埋もれて平地になっておりますが、大昔にはきれいな清水を湛えた池であって、その周囲は麗峰富士を背景にして野鳥をはじめ兎、雉、野鳥が群れ遊び松露をはじめいろいろのきのこの生える松林が茂っていたところでありました。神代に葦原ノ中ッ国を天孫に平和の中にお譲り遊ばされた大国主命即ち三穂津彦命はその妃三穂津姫命を伴い天の日鷲に御同乗になられ遠く出雲の国(島根県)から有度浜即ち三保の洲の羽衣海岸に御降臨になり旅塵をこの池で洗ひ流されたと言はれております。更に又当海岸に安閑天皇の御代に天降った天女が海で水遊びして玉躰の塩気を洗ひ浄めた池でもあると伝えられております。その当座空ばかりみる 三保の海士(あま) (江戸川柳より) 羽衣メルヘンの会長 宮城島重男 昭和61年10月3日」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.15
コメント(0)
「日本平」を後にして、国道150号、県道199号線・三保駒越線を利用して「三保の松原」の駐車場に到着し散策開始。「三保の松原」に向かって進む。「羽衣の松」に向かって松林の中を進む。 「天女に会える、そんな気がする薪能毎年秋に行われる「羽衣まつり」では、能「羽衣」を上演します。「羽衣の松」の前に作られた能台で、かがり火の中、幽玄の世界か繰り広げられます。エレーヌの碑日本の能楽「羽衣」に傾倒したフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、1651年7月憧れの三保の松原を見ぬまま、パリで没しました。この碑は、「私の髪をぜひ羽衣の松近くに埋めて欲しい」という遺言により建てられたもので、この碑の下には彼女の遺髪が埋葬されています。羽衣伝説その昔、三保の松原のとある松の枝に美しい衣が掛かっていました。漁夫の伯梁がそれをとって帰ろうとすると、どこからともなく天女が現れ、それは私のものだから返してほしいと言います。それならばなおさら返すわけにはいかないという伯梁に、天女は天に帰れないと嘆き悲しみました。伯梁は天人の舞を見せることを条件に羽衣を返すと、天女は喜んで舞を舞って見せましたが、やがての彼方に消えてしまいました。謡曲「羽衣」より天女「うれしやさては天上に帰らん事を得たり。・・・月宮を廻らす舞曲あり。ただいまここにて 奏しつつ、世の憂き人に伝ふべし さりながら、衣なくてはかなふまじ。さりとてはます 返し給へ。伯梁「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上り給ふべき。天女「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを。伯梁「あら恥ずかしやさらばとて、羽衣を返し与ふれば。・・・「謡曲「羽衣」と三保の松原地上に舞い降りた天女が浜辺の松に掛け忘れた羽衣を漁夫白龍に拾われ、それを返してもらうために天人の舞いを舞うという「羽衣」伝説は日本各地にありますが、駿河国三保ノ松原を舞台としたのが本曲です。そのときの舞が後世に伝わって東遊の駿河舞となったと言われております。謡曲では、天女は漁夫から羽衣を返してもらい、愛鷹山や霊峰富士山を見おろし乍ら昇天してゆきます。そのさまは一幅の絵のようで、能の中でも、最も優れた曲として、多くの人々に愛好されてきました。 謡曲史蹟保存会」「名勝 三保の松原霊峰富士の眺望、絶景をもって天下に識られているここ三保の松原は、遠く万葉歌人に詠歌され、また、日本の伝統芸術である能「羽衣」によって多くの人々に親しまれている名勝地である。大正5(1916)年5月には、日本新三景のひとつに選ばれ記念碑が建っている。四時緑たたえ、東遊の駿河舞を偲ばす。また、欧州各地で「羽衣」を演じ、まだ見ぬ三保の松原にあこがれながら若くして逝ったフランスの舞姫ジュグラリスの碑などが観光客に美しい夢を抱かせる。 国指定名勝 大正十一年三月八日指定 静岡市教育委員会」さらに海岸に向かって進む。「エレーヌの碑」。「羽衣の碑」能「羽衣」に魅せられ、三保松原に憧れつつこの地を訪れることなく亡くなったフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスを記念し、1952年に建立された。このエレーヌの碑(羽衣の碑)には、能面を見つめるエレーヌ夫人のレリーフがはめ込まれ、夫マルセル・ジュグラリス氏が亡き妻に贈った6行のフランス語の詩が刻まれている。「羽衣の松」。「国指定史跡 三保松原 羽衣の松羽衣伝説昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は「天人の羽衣なら、お返しはできません。」と言いました。すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞ながら、富士の山に沿って天に昇っていきました。」「廬原の 浄見の先の 見穂の浦の 寛けき見つつ 物念ひもなし田口益人(たぐちのますひと)万葉集」「世界遺産 富士山」碑。右側に「羽衣の松周辺案内(老齢大木エリア)」案内板。「世界遺産 富士山」案内板。「世界遺産 富士山信仰の対象と芸術の源泉”富士山-信仰の対象と芸術の源泉”は、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」のの世界遺産一覧表に登録されています。 2013年6月26日登録人々は噴火を繰り返す富士山を神が宿る山として恐れ敬うとともに、美しく雄大な富士山を詩歌や絵画に描いてきました。このような「信仰の対象」と「芸術の源泉」としての文化的価値を持つ富士山は、全人類共通の保護すべき宝として、2013年6月26日、世界遺産に登録されました。世界遺産として登録された範囲は、山そのものだけではなく、信仰や芸術と関係する山麓の神社や湖・湧水地・滝・松原などの25か所です。」「25/25 三保松原「万葉集」をはじめ、数多くの和歌の歌枕となり、16世紀以降は三保松原と富士山を描いた多くの絵画作品のモチーフとして取り上げられました。また、富士山への登拝の道筋に位置付けられた重要な霊地でもありました。松原、砂浜、海の彼方に富士山が聳える風致景観は極めて日本的な原風景であり、名勝に指定されています。」「ここは羽衣の松」。「新羽衣の松」「三保の松原のシンボルとして長い間愛されて来た先代「羽衣の松」に代わりその後を引き継いだ「新・羽衣の松」平成ニ十ニ年十月に数世紀ぶりの世代交代が行われました。 静岡市」「羽車神社」は、二代目「羽衣の松」の隣に鎮座する御穂神社の離宮。創建年は不詳だが、羽車に乗って三保の浦に降臨した神を国土和平のために御穂神社に鎮座し、離宮として羽車神社が設けられたと伝えられ、江戸時代には羽車磯田社と呼ばれていたという。現在の羽車神社は1956年(昭和31年)の再建。「羽車神社」の社殿。左手には、昭和31年の羽車神社「再建乃碑当羽車神社御祭神は三穂津彦命(大国主命)三穂津姫命の二神を斎き奉るその昔彦神国土を天孫瓊々杵尊に譲り給ひて後みめ麗はしき姫神を大后と定め二神相携へて天の羽車に召され「三保の浦」に鎮坐せられ当社を離宮として設けられたる由古伝に伝ふ爾来特に縁結び歌舞音曲農耕海上安全大漁守護神として海内に尊崇せられ御神木として「羽衣の松」を現存す更に霊峯冨士の眺望は将に天下随一の景観にして近時その風光を賞する者踵接すと雖も当社殿は永く荒廃に任せられたり此の状を痛嘆せし氏子崇敬者有志は御神慮に副ひ奉るべくその再建を謀り大方江湖各位の絶大なる賛同を得て御造営の業終に遂ふ即ち御造営の次第を慎みて茲に誌す。 昭和三十一年八月 羽車神社再建委員会撰文」そして「三保の松原」の海岸から富士山の姿を追う。これぞ世界遺産『富士山と三保の松原』!!。この日は、雲一つない天気ということが幸いして素晴らしい風景を堪能できたのであった。世界遺産に指定されるとコテコテの観光地化されると思いきや…まだまだ、『三保の松原』は大丈夫なのであった。三保松原の海岸からの富士山の姿をジワジワとズームして。有名なビュースポットだが、広がる青空の下、松林越しに山頂から山裾に白き衣を纏った富士の姿は格別なのであった。反対側を振り返って。流木が横たわっていた。東側には伊豆半島の姿が。風が強く白波が押し寄せていた。「羽衣海岸」方向を再び。再び富士山の勇姿をズームして。海岸から松林に戻ると「新三景之碑」があった。大正5年、実業之日本社が、日本新三景を全国に募り、北海道大沼公園、九州耶馬溪と共に三保の松原が選ばれ、これを記念して建てられたのだと。裏側は解読不能。「ここは羽衣の松」。現在地は●。「清見潟 ふじの烟や 消えぬらむ 月影みがく みほのうら波 後鳥羽院(玉葉集)」「土壌をほぐしています」と。平成26年度に「羽衣の松」の樹勢の衰えが確認され、その原因として来訪者の踏圧により形成された土中の固結層(硬く締まった土層)が根や菌根の生育を阻害していることが明らかになったことから、平成28年度より、羽衣の松周辺の老齢大木エリアを対象に、木炭と菌根菌による土壌改良を進めました。令和2年度から、踏圧防止のため木柵による通行ルートを設定し、一部を一方通行として通行部は定期的に土壌のほぐしや穿孔を行い、固結層が再形成しないよう維持管理をしています と。「忘れめや 山路打出て 清見がた はるかに三保の 浦の松原隆祐朝臣(夫木抄)」。そして「お土産処 いちまる水産」にて休憩。「緑茶抹茶付きあべかわ餅とおはぎ」を注文し楽しんだのであった。様々な土産品や食べ物の案内が所狭しと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.14
コメント(0)
「久能山東照宮 神廟」そして「社殿」を後にして、参道を下る。左手に「鼓楼」を見る。そして正面に「楼門」の姿が。「神厩」。「寒桜」。「寒桜」は、カンヒザクラとヤマザクラの雑種と推定されている桜。名前は似ているが、種類は異なる。花は淡紅で一重咲、大きさは中輪。東京での開花時期は例年3月上旬頃だが、名前のとおり、場所によっては1~2月に咲く早咲きの桜だ。そして「楼門」を再び社殿側から見る。中央の「蟇股」。「獏(ばく)」という霊獣。獏の特徴は、熊の身体に、象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の脚を持つといわれています。一般には「悪夢を食う」動物として知られ、古くは正月に獏を描いた絵を枕の下に入れて寝ると良い初夢を見るといわれています。『白氏文集(はくしもんじゅう)』という中国唐代の詩文集によると、獏の食料は鉄や銅で、世の中が乱れているときは食料となる鉄や銅が武器になってしまうので、武器を必要としない平和な時代にしか生きることができない動物である、と記されています。平和の象徴ともいうべき獏の彫刻が楼門中央部分に用いられているということは、家康公が神に祀られることによって平和が維持されていることをあらわしていると考えられています。楼門には全部で4体の獏の彫刻があるのだと。右。左。そして「久能山東照宮博物館」まで戻る。「久能山東照宮博物館」は、徳川家康公を御祭神とする久能山東照宮に付属する歴史博物館。収蔵している資料は久能山東照宮に奉納された伝世の宝物中心で、中でも徳川家康公の日常品(手沢品)がまとまっている事、徳川歴代将軍の武器・武具が充実している事が特徴であり、その総数は2,000点を超えるとのこと。「久能山東照宮博物館」入口。この日は、「展示室」👈リンク に入らなかったが、様々な展示品があるとのこと。さらに参道を下る。右側にあったのが「久能山東照宮『司馬温公の甕割り』」案内板。「この絵は中国北栄の政治家、司馬温公の少年時代のお話です。ある日、一に遊んでいた友達が水甕の中に落ちて溺れてしまいました。もう一人の友達はハシゴをかけて助け出そうとします。いっぽう聡朋な司馬少年は「それでは間に合わない!」と、近くの石で甕を割って助け出しました。この故事の彫刻が久能山東照宮拝殿の正面に施されております。御祭神徳川家康が現代の私達へ向けて、「命の尊さ」を説かれているといえるでしょう。」「久能山東照宮博物館」下から「久能海岸」そして「御前崎」が見えた。「史蹟 久能山一、指定年月日 昭和三十四年六月十七日一、指定理由 久能山はおよそ七世紀の頃に開かれ久能忠仁の建立した久能寺、武田信玄の 築城した 久能山城、徳川二代将軍秀忠公の創建した東照宮と、その時代時代の 歴史の変遷の跡を見ることができる。一、久能寺 久能山縁起によれば七世紀ごろに秦氏の久能忠仁が一寺を建て、補陀落山久能寺 とし、久能山と称したと伝えられる。その後平安時代から鎌倉時代にかけて 隆昌を極めたが山麓の失火により山内の殆どの坊寺が焼失した。今川時代には 相当復興した。一、久能山城 永禄十一年(一五六八)一二月武田信玄は、当山が要害であることを知って 寺院を清水北矢部に移し、城砦を築いて久能山城と称した。 天正十年(一五八二)武田氏が滅亡したことで、徳川氏の所有となった。 山上の勘介井戸、愛宕の曲輪寺等は当時を物語るものである。一、東照宮 徳川家康公は、生前久能山城を駿府要害の地なりとして重要視し、且つ風光を 愛せられた。元和二年(一六一六)四月十七日家康公が、駿府(静岡)に歿する ときの遺言により、この地に埋葬され二代将軍秀忠公は、壮麗な権現造りの 社殿を造営した。これが現在の東照宮で十四棟が国宝・重要文化財に指定 されている。」「久能山の植物について一、地質 久能山は、日本平と共に有度丘陵に属し、基部は第三期鮮新世の後期に、海底に堆積した 砂泥層より成り、その上に洪積世に海底で堆積した厚い砕層に被われている。その後に 土地が隆起したり、傾動が行われて独立した丘陵塊が出来た。一、植生 海岸に直面して黒潮の影響で気温が暖かく、従って植生も伊豆紀伊半島等と同じで、 四国九州の南岸まで似たものが多い。植物地理学上で暖帯クスシイ帯に属し、海岸物が 多く侵人して甲信東京以北では見られない色々の草木が見られる。一、種類 約五百種に達する主要木の樹令四百年以上の古木や目通り周囲三米以上の巨木が相当 混生している。 楠、椎、松、杉、樫、ホルトノキ、竹、カクレミノ、モチノキ、ムラサキシキブ、 ヤブニッケイ、イヌマキ、ムクノキ、アオキ、トべラ、ヤツデ、イヌビワ、タブ、 カエデ、クロガネモチ、ツバキ、イズセンリュウ、ツルコウジ、フウトウカズラ、 ツワブキ、ヤブラン、ヒトツバオオイ、タチシダ、オニヤブソテツ、クルマシダ等 落葉樹は割合に少なく常緑樹、蔓植物、下草、シダ類等が多い。 一、珍しい植物 コウヤマキ、ボダイジュ、ビロウ、ハナノキ、ナチメヤシ、ソテツ、ハマユウ、 アメリカデイゴ、マツバラン、ムヨウラン等がある。一、保護 久能山全体は史跡・風致の指定地であり、植物採取は禁止されているので大切に しましよう。 久能山東照宮社務所」「久能山東照宮博物館」下の石垣を左に見るながら下る。その先、左手の広場には建物が。「勘助井戸「勘助井戸」は久能山東照宮の参道沿いに位置しています。案内板によると「甲斐の大名、武田信玄の軍師、山本勘介が掘ったと伝えられる井戸で、およそ33メートルの深さがあります。」とあります。久能山東照宮の境内は平安時代に創建された久能寺があった所で、中世以降は武装化し、城砦となっていました。南北朝時代には南朝方の入江駿河守や中野掃部助が利用し、永禄12年(1569)に武田信玄によって本格的な城郭として大改修し久能山城と呼ばれるようになりました。久能山城は天正10年(1582)に徳川家康に包囲され開城し徳川家の持城となりましたが、武田三名城の1つとして数えられています。この井戸が山本勘介が掘ったものかは不明ですが久能山城の二の丸東隅に位置し重要な井戸だったと思われます。」と。「旧久能山東照宮博物館」。さらに1159段もあるという参道石段を下ると正面に工事用フェンスが現れた。ズームして。「久能山東照宮 一ノ門」が修繕工事中のようであった。「久能山東照宮 一ノ門」の写真をネットから。ネットから。そして我が写真の駿河湾そして奥に伊豆半島。伊豆半島をズームして。引き返して、1159段もあるという参道石段を上り、「久能山東照宮博物館」下の石垣を正面に見る。さらに石段を上って行く。再び「久能海岸」そして「御前崎」をズームして。そして「社務所」まで戻る。「駿府 静岡市 歩いて歴史探訪(江尻宿・興津宿エリア) 17」👈リンク 案内板。様々なお守り、御札が販売されていた。「久能山東照宮の御朱印」を頂きました。そして「日本平ロープウェイ 久能山駅」まで戻る。日本平ロープウェイ にて日本平駅に向かう。 途中、屏風谷、地獄谷と呼ばれる断崖も眼下に広がっていたのであった。巨大な鉄塔支柱の先に、日本平駅の姿が見えて来た。殿様をイメージした横壁が漆黒の「あおい号」と交差。ほぼ満員のようであった。そして日本平駅に到着し下車。巨大な徳川家康の「三葉葵」の家紋とその前に身長159cmであった家康公の姿が。奥には「家康公手形」も。「徳川家康公と海外交流」が東照宮博物館で開催中なのであった。家康公が生きた16~17世紀は、ヨーロッパの列強がキリスト教の教線拡大と植民地を求めた「大航海時代」と呼ばれ、アジアへも進出してきました。アジアにおいても豊臣政権時代の日本は、朝鮮半島への派兵を行いました。慶長12年(1607)朝鮮の使節が日本を訪れ、家康公とも駿府で対面し、国交が回復しました。アジア、ヨーロッパ諸国から多くの外国人が訪れ、貿易も盛んにし、それらの品々は駿府が繁栄するもととなりました。今回の展覧会では、アジア、ヨーロッパ諸国の外国人から家康公への贈り物をの中から、遺愛品を中心に展観します とネットから。そして日本平ロープウェイ駐車場から、再び「日本平デジタルタワー」をズームして。静岡市の消火栓マンホール蓋。久能山東照宮と駿河湾、一富士 二鷹 三ナスビ(折戸ナス)を織り込んだデザインで、「家康公が愛したまち 静岡市」の文字入りの丸型消火栓蓋。そして「日本平公園 東展望台」を訪ねた。全国的にも知られている日本平から、清水の夜景を望むことができます。富士山・清水港・工場の夜景と変化に富んでおり、見ていて飽きない夜景です。かつては、日本平のメイン展望台で、富士山をバックに清水港やエスパルスドリームプラザの観覧車などの夜景を楽しむ人がいました。2018年11月に日本平夢テラスのオープンにより、こちらには人が流れず、人気のない展望台になってしまった とネットから。日本平「はじまりの鐘」が設置されていた。私も「はじまりの鐘」をならして「老化のはじまり」を実感!?「日本平はじまりの鐘「「日本平はじまりの鐘」は、静岡県日本平ロータリークラブが創立50周年を記念し設置しました。ここ日本平は、その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が駿河の地で火攻めに遭いながらも、三種の神器のひとつとされる草薙剣で危機を脱し、この山頂で再起を誓った場所だとされています。数々の苦難を乗り越えて観る日本平からの眺望は、さを見事だったことでしよう。雄大で素晴らしい景色を前に次なるステージへの"はじまり"を誓ったヤマトタケルノミコト。その想いは時を超え、今でもこの日本平の地に残されているに違いない。私たちはそう考え、「はじまり」を誓う際の合図として鐘を鳴らし、決意を新たにする場となることを願い「日本平はじまりの鐘」と命名いたしました。"まじまり"は新たな挑戦に限らず、再挑戦ややり直し、復活なども含みます。くじけそうになったときに再訪し、初心を思い起こす場所として。そして夢や希望が叶った際はヤマトタケルノミコトのように日本平の眺望を改めて感じるために。これからもずっと人々に愛される日本平であることを祈念して。 Rotary 令和3年9月静岡日本平ロータリークラブ寄贈」「日本平からのながめ富士山がもっとも良く見られのは。11月頃から2月頃です。ここは〈東展望台》です。《吟望台》はここから徒歩5分です。《吟望台》からは、よりワイドな眺望が楽しめます。園内の案内図は、この下の1階にこざいます。ここ日本平は標高308メートル。四季折々の姿を豊かに変える富士山を正面にのそみ、眼下に広がる清水港・三保半島・駿河湾などから、遠く伊豆半島の山なみや、南アルプスを見渡す眺めは昼夜と問わず素晴らしく、我が国を代表する景観のひとつです。 日本平県立自然公園運営協議会」そして「日本平公園 東展望台」からの絶景。清水の夜景も美しく人気のスポットであると。伊豆半島に井田、大瀬海水浴場の方向をズームして。「日本平公園 東展望台」を後にして、駐車場方向に向かう。「蝋梅」の花。「日本平登山道開鑿記念碑昭和九年十二月建之 清水市長 大石惠直書」。清水港越しの富士山の勇姿。車に戻り向かったのが「日本平ホテル東照宮(分霊)」。「世界遣産たる富士山、駿河湾から伊豆半島を一望する絶景地日本平に、東照宮が御鎮座されました。全国東照宮の創祀久能山東照宮より、御祭神徳川家康公のご分霊が、芝生公園の東端に創建された御社殿に分祀され「日本平ホテル東照宮」として、ホテル全域に御神慮と御加護を載くことになりました。この名勝日本平に足を運んで頂いた皆様にも益々の御加護が、有りますようとの願いが込められています。ここの御本社であります、国宝久能山東照宮も、日本平に隣接する久能山に御鎖座されていますので、ご参拝されますことをお勧め致します。※日本平ホテル東照宮の敷地縁石は、静岡市葵区にある駿府城の外堀に使用されていた石積みの 一部を、補修工事の際に譲り受け、移設したものです。 平成二十五年十二月十七日」そして日本平の最後に訪ねたのが「日本武尊像」。日本平の広い駐車場に立っていて日本平の山頂を睨みつけていた。賊を前にして戦いに挑む姿であろうか。「古事記」「日本書紀」の伝説で活躍する、景行天皇の皇子で、わが国の古代伝説の代表的英雄。仲哀天皇の父。景行天皇から、食事に出てこなくなった、双子の兄の大翼碓命を諭せと命じられ、殺して筵に包み投げ捨ててしまう。乱暴を恐れた天皇に、熊襲建兄弟の討伐を命じられ、女装して宴席に入り、兄弟を刺し殺し、熊襲から日本武尊の尊称をえる。帰途に出雲に寄り、出雲建を、騙し討ちにして殺す。帰国するとすぐに、東国征伐を命じられ、伊勢にいた叔母ヤマトヒメから草薙剣を授かって東国の蝦夷を平定。帰途、伊吹山の神を退治しにいき、その神の毒気にあてられて重病となり、三重の能煩野で力尽き息絶えたのであった。そして往路と同じ「清水日本平パークウェイ」を利用して「日本平」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.03.13
コメント(0)
「拝殿」前を後にすると、突き当り左にあったのが「大蘇鉄」。近づいて。「樹齢六百五十年 大蘇鉄 幹の太さ二メートル よく実を結びます」と。左にあったのが「絵馬掛所」。「開運 唐獅子は強さ(百獣の王) 牡丹は優しさ(百華の王) 久能山東照宮」。拝殿を西側から見る。久能山東照宮では、「三つ葉葵」のご神紋を至る所で見ることができるのであった。特に、屋根の軒丸瓦と垂木には、黒地に金色の葵紋が無数に並び、荘厳な眺めなのであった。下の写真は「拝殿」の西側の一番左の垂木!! 「三つ葉葵あおい」のご神紋が逆のむきになっているのであった。「~逆さ葵~よく見ると葵の御紋が「逆さ」に。これは建物が未完成であることを表し、さらなる発展への願いが込められていると言われています。」と。下の写真は「本殿」の垂木。写真中央にも「逆さ葵」が。葵紋を逆さにした理由は…「及ばざるは過ぎたるより勝(まさ)れり」家康公の遺訓です。完璧に創り上げてしまうと、これ以上の発展の余地がなくなってしまう。わざと不完全にすることにより、徳川家、そして、東照宮が ますます栄え、永遠に続くようにという願いが込められているのであると。久能山東照宮には、この様な逆さ葵紋が5箇所あると。そして、江戸幕府は256年も続いたのであった。上空を見上げると、航空機の飛行機雲が。本殿左側面にあった「獅子絵」。家康公か?反対側の「獅子絵」の場所近くは立入禁止だったのでネットから。その先にあったのが「本殿」への渡廊門。以前は御宝塔御門といったそうです。さらにその先にあったのが「久能山東照宮 廟門」。廟所に通ずる門。唐破風をズームして。鳳凰の姿が。 「廟門」を潜って振り返る。「牡丹の絵」。更に進むと「廟所」への廟所参道(国重要文化財)の両側には「石灯籠」が並んでいた。「本殿」を振り返って。「久能山東照宮における廟所の「添石垣」について 重要文化財久能山東照宮廟所の石垣は、元和3年(1617年)の久能山東照宮造営時に築かれましたが年を経て崩落の恐れが生じました。 このため、天保4年(1833年)、廟所宝壇西側の石垣の一部に「添石垣」を設けて、石垣を二重にし、当 初の石垣の崩落を抑えてきました。この度の重要文化財久能山東照宮社殿等の修復事業にあたっては、廟所の石垣について創建当時の景観に復することとしました。後年築かれた「添石垣」は撤去するものの、史跡久能山の歴史を知るうえで貴重な石垣遺構でり、その歴史的価値を後世に伝えるため現在地に移設しました。 平成19年3月 久能山東照宮」前方に「神廟」への石段をさらに上る。廟所参道の石鳥居。城壁の如き石積の先は右に直角に曲がる参道が。そして更に石段を上ると、正面に「神廟(国重要文化財)」が現れた。寛永17年(1640)に三代将軍徳川家光により、木造桧皮葺の造りから現在の石造宝塔に造替された。中央に立つ塔が墓標に相当し、重要文化財となっている。家康の遺命によって西向きに建てられているとのこと。 「神廟」の手前の広場の中央にあった「石灯籠」に近づいて。近づいて。右手に思いのほか質素な「手水舎」。その奥にあったのが「金の成る木」。見上げて。巨木の「金の成る木」。「「金の成る木」についてご祭神、徳川家康公にまつわる多くの遺話の中に「金の成る木」があります。これには前面石の楠の大樹がふさわしいと思われます。家康公が家臣たちに「金の成る木」について問われたところ誰も知らず、家康公は自ら筆を把られて三本の木を描き、「よろず程のよ木」「志ひふかき(慈悲ふかき)」「志やうぢ木(正直)」と書かれ、「これを常々信用すれば必ず富貴が得られよう」と仰せられました。その後、細川忠興公がこれに左右の枝を描き「あさお木(朝起き)」「いさぎよ木」「しんぼうつよ木」「ゆだんな木」「ようじょうよ木(養生)」「かないむつまし木」と書き加えられ「左右の枝が繁昌するならば一段と富貴が得られるであろう。皆々この金の成る木を写し取って家内のものに教えるように」と命ぜられたといいます。ご参拝の皆様にはこの「金の成る木」にあやかられ、毎日が心豊かで健やかな生活をおくられます様ご祈念申し上げます。」「神廟・宝塔」を見る。国指定重要文化財の神廟は 御祭神徳川家康公の御遺骸を最初に埋葬しところで 墓形が宝塔であったので 以前は御宝塔と呼ばれていた。元和2年(1616)の創建当初は 木造桧皮葺造、寛永17年(1640)に 3代将軍徳川家光公が石造宝塔に造替したと再び。方位は西 高さは550センチメートル、碑銘はナシ。方位を西にしたのは 次の理由によるといわれている。1.家康公の両親が子授け祈願した鳳来寺が西にある2.岡崎の松平家の菩提寺大樹寺と家康公誕生地である岡崎城が西にある と。近づいて。日光東照宮の奥社宝塔と比較して屋根の大きさが小さいと感じたのであった。「神廟(しんびょう)徳川家康の御遺体が納められた廟です。当初はこの地に小さな祠が建てられていましたが、三代将軍徳川家光公によって石造りの塔に改められました。その事から江戸時代は御宝塔と呼ばれ、明治時代以降は神廟と呼ばれています。家康の遺命に従い、西向きに建てられています。」お賽銭箱の上に掲げられていたのは「東照宮遺訓人の一生は 重荷を負て 遠き道をゆくが如し いそぐべからず不自由を常とおもへば 不足なし こころに 望おこらば 困窮したる時を 思ひ出すべし堪忍は 無事長久の基 いかりは 敵とおもへ 勝事ばかり知て まくる事をしらざれば 害其身にいたるおのれを責めて 人をせむるな 及ばざるは 過ぎたるより まされり 久能山東照宮宮司 落合偉洲」御宝塔に近づいて。御宝塔前の柵扉はもちろん閉じられていた。~徳川家康の遺言~『徳川実紀』によると・・・1616年(元和2年)4月2日、徳川家康は側近の崇伝・天海・本多正純を呼んで、次のように遺言したのだという。〇 遺体は久能山に埋葬すること。〇 葬儀は江戸の増上寺で行なうこと。〇 位牌は三河国の大樹寺に納めること。〇 下野国の日光山に小堂を造営すること。〇 京都の南禅寺の金地院に小堂を造営すること。右手にあったのが「家康公愛馬乃霊所」と書かれた木柱。「家康公愛馬を埋めた所」と。「御宝塔」の周囲を廻って。裏側。斜めから。再び「御宝塔」をズームして。「金のなる木」を再び見上げて。「金のなる木」前から「神廟」を。そして「神廟」を後にして「本殿」方向に参道を戻る。石段途中からズームして。石段途中から、「金のなる木」を振り返って。更に「本殿」、「石の間」、「拝殿」をズームして。石垣を見る。「透塀(玉垣)」とその下には見事な彫刻が並んでいた。渡廊の見事な彫刻を追う。渡廊は元和3年(1617年)に建てられた22間の建造物となり、社殿前面の石の間と神饌所(しんせんじょ)を結んでおり、社殿同様朱塗りとなっていた。また唐門同様、門の両側には鮮やかな彩色の彫刻を見ることができるのであった。国の重要文化財に指定されている。ズームして。「白兎(しろうさぎ)の彫刻」「白兎(しろうさぎ)の彫刻」と。国宝の御社殿のそば、お守り授与所の隣に設置されていた。久能山東照宮の造営を命じた2代将軍徳川秀忠公は卯年であると。「大河ドラマ「どうする家康」完結」。実際に撮影で使用されたレプリカが博物館に展示中 と。NHK大河ドラマ「どうする家康」の絵馬であろうか?「令和4年12月26日に斎行された、「徳川家康公御生誕480年誕辰祭」に参列されました。左・井伊直政役:板垣李光人さん 中央・徳川家康役:松本潤さん 右・榊原康政役:杉野遥亮さん」再び拝殿を西側斜めから。日光東照宮と比較して、白色の使用が少ないと感じたのであったが。下段の蟇股。雀の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.12
コメント(0)
久能山東照宮「唐門」(重要文化財) 。拝殿正面にあり、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造という(重要文化財)普段は通り抜けが禁止されているため階段を登ることはできなかった。久能山東照宮唐門は元和3年(1617)に建てられたもので、久能山東照宮の中核部である本社社殿(拝殿・石の間・本殿)の正面に配され、聖域の正門的な役割を持っています。形式は四方唐破風造り、四脚門、一間一戸、本瓦葺き、四方唐破風造りとは屋根の4方向に唐破風を設けたもので、格式の高く、聖域の正門として相応しい意匠となっています。構造部は朱色で塗られ、木鼻や門扉、蟇股、唐破風などには唐獅子(左右に阿吽)や鳥類、植物など多彩な彫刻が随所に施され、彫刻は極彩色で彩られ、金物や本瓦の軒先、獅子口には金を使用しています。久能山東照宮唐門は江戸時代初期に建てられた唐門建築の遺構として大変貴重な事から明治45年(1912)に国指定重要文化財に指定されています。さらにズームして。。「高野槙」。コウヤマキ(高野槙、高野槇、学名:Sciadopitys verticillata)は、マツ目コウヤマキ科の日本および韓国済州島の固有種。常緑針葉樹で高木となる。別名ホンマキ。「高野槙」。コウヤマキとは・・・・高野山で多く見られ、高野山では「霊木」として保護されている。・成長が緩やかで手入れが比較的簡単である。・ヒマラヤスギ、ナンヨウスギとともに「世界三大庭園樹(世界三大公園木」)に数えられる。また、サワラ、ヒノキ、クロベ(ネズコ)、アスナロ(ヒバ)とともに「木曽五木」とされる。・秋篠宮悠仁親王の「お印」とされている とネットから。石段の上には「神庫」が。「神庫」への石段下の「末社 竈(かまど)神社御祭神(火の神)台所の神様です。御希望の方に神札をお頒ちしております」と久能山東照宮神庫は元和3年(1617)に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行5間、梁間3間、建物の構造体が朱色に壁が黒色に彩色され、瓦と木組の端部が金箔欄間部は極彩色で彩られています。久能山東照宮の境内の中で唯一の校倉造(建材を横に組合せ、積重ねることで壁とする工法、調湿性能に優れ正倉院などにも使用されました。)の建物で奉納された神宝や鉄砲などが置かれていました。久能山東照宮神庫は境内を構成する要素として大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。「河津桜」も満開。「河津桜」。ズームして。ここにも2基の石灯籠があったのだろうか?「日枝神社」。「重要文化財 日枝神社(ひえじんじゃ)祭神 大山咋命(おおやまくいのかみ)旧御本地堂で薬師如来を安置してあったが、明治三年神仏分離の際に仏像を廃し後に今の名称に改めた。元和三年(西暦一六一七年)の建造である。」久能山東照宮日枝神社は元和3年(1617)に建てられたもので、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り、建物全体が朱色で塗られ、蟇股や向拝の蝦梁の彫刻などが極彩色で彩られ、金物や瓦の軒先などが金が使用されています。当初は久能山東照宮の本地堂として薬師寺如来像が安置され薬師堂と称されてきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により明治3年(1870)に薬師寺如来像が大正寺へ移され、天台宗の守護神である山王社の御神体を遷して日枝神社に改め久能山東照宮の末社となりました。久能山東照宮日枝神社は江戸時代初期の御堂建築の遺構として大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。歴史を感じさせる青銅製の吊り灯篭。ここにも歴代将軍の様々な葵の御紋が。「天水桶」。「拝殿、石の間、本殿」への入口門・「東門」。久能東照宮・東門は元和4年(1618年)に造られ、日枝神社より社殿に向かう際にくぐる門。小さな門となっていますが、彫刻などが間近に見ることができ社殿同様の極彩色の朱塗りが施されていた。国の重要文化財に指定されている。入口から、「石の間」、「拝殿」を見る。この写真はネットから。「透塀」。久能山東照宮透塀(玉垣)は元和4年(1618)に建てられたもので、本社社殿周囲を囲っている。塀は銅瓦葺、飾金具は金、壁は朱色で塗られ、腰部に施された精緻な彫刻には極彩色が施されている。東門も同年に建てられたもので本社社殿の東側に位置し、門の周りは透塀(玉垣)によって囲われていた。東門は切妻、銅瓦葺、一間一戸、棟門、透塀と同様に朱色を主体として彫刻部が極彩色に彩られている。透塀と東門は久能山東照宮の境内を構成する要素として大変貴重な事から明治45年(1912)2月8日に国指定重要文化財に指定されています。玉垣の「玉」は神聖なものや美しいものを意味し、「神聖な神様を囲む垣」という意味と言われている。「透塀」沿いにあった「家康公御手植えのみかんー駿府城より分木」。「拝殿」を横から。「国宝」の文字が。移動して。「国宝 本殿 石の間 拝殿」と。「拝殿」、「石の間」、「本殿」の間取り図。拝殿 : 桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、銅瓦葺石の間 : 桁行一間、梁間一間、一重、両下造、銅瓦葺 C&Dの出入口あり。本殿 : 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、銅瓦葺写真中央が「石の間」。出入口の扉が確認出来た。久能山東照宮拝殿は元和3年(1617)に建てられたもので、入母屋、銅瓦葺、屋根正面には千鳥破風、桁行5間、梁間2間、3間向拝付、棟梁は中井正清(初代京都大工頭)。外壁は黒の漆塗り、金物の多くは金で仕上げられ、組物や木鼻や蟇股、海老虹梁などの彫刻、桁に描かれた絵画は極彩色が施されています。本社社殿は本殿、拝殿、石ノ間が接続し一体となっている所謂「権現造」でこの後、造営される日光東照宮(栃木県日光市)はじめ全国の東照宮の規範となっています。久能山東照宮拝殿は極めて貴重な事から平成22年(2010)12月24日国宝に指定されています。「中井大和守正清は、永禄8年(1565)に法隆寺門前の西里で誕生しました。正清は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦後に、徳川家康公より上方の大工支配を仰せつかったと伝えられています。その直後には徳川家の御大工として二条城、伏見城の作事に携わり、慶長11年7月に従五位下大和守に叙任され、公儀大工の第一人者となりました。徳川家康公は、二条城、伏見城、江戸城、駿府城の城郭や、知恩院、増上寺の作事でみせた正清の手腕を高く評価しました。そして、「何事も御普請方之儀、大和次第」と言い、正清に全幅の信頼を寄せ、名古屋城、内裏の作事を命じました。正清はまさに東奔西走の日々を過ごし、慶長17年(1612)に従四位下に昇叙しました。その位階は大名に与えられるもので、大工棟梁としてはきわめて異例の出世でありました。この時期の正清の作品で現存するものは少ないですが、仁和寺の金堂(国宝)は、慶長18年に上棟した慶長度内裏の紫宸殿を、寛永年間に移築したもので、京都に残っている正清の代表作として貴重な建物です。元和2年(1616)4月、徳川家康公は駿府城に薨去されました。御遺骸は遺言により久能山に埋葬され、正清に社殿の造営が命ぜられました。これが久能山東照宮で、正清が渾身を込めて造った社殿は四百年の時を経て今もその姿を伝えています。久能山東照宮の造営を終えた正清は、元和5年正月21日、徳川家康公のあとを追うかのように、近江水口で55歳の生涯を閉じました。このように、久能山東照宮は、徳川家康公の側近として仕えた中井正清の最晩年に全身全霊を込めて造った最高傑作といえるでしょう。」と ネットから。唐門は四方唐破風造りであることが解かるのであった。黄金の木鼻、精緻な彫刻を見る。木鼻にズームして。団扇型の松の彫刻をズームして。「唐門」から上って来た石段の下の石鳥居を見る。ズームして。唐門の扉?の見事な彫刻。白梅?と青い鳥の姿が。近づいて。反対側の扉?同様に。唐門の横梁の見事な彫刻。そして振り返って「拝殿」の入口部を。江戸時代奥に入れる者は将軍だけ、御三家の徳川家も立ち入る事は出来なかったと。近づいて。中央の蟇股の彫刻・「甕割りの彫刻」。中国の故事、政治家・司馬温公の「甕割り」の彫刻。子供の頃、一緒に遊んでいた友が水甕に落ちてしまったのを救うため、その甕に石を投げつけると、甕に穴が開き、仲間が水と一緒に流れ出てくる場面。高価な甕を割った少年の物語で『命の大切さ』を表しています と。別の場所にあった案内板「久能山東照宮『司馬公の甕割り』この絵は中国北宋の政治家、司馬温公の少年時代のお話です。ある日、一緒に遊んでいた友達が水甕の中に落ちて溺れてしまいました。もう一人の友達はハシゴをかけて助け出そうとします。いっぽう聡明な司馬少年は「それでは間にあわない!」と近くの石で甕を割って助け出しました。この故事の彫刻が久能山東照宮拝殿の正面に施されております。御祭神徳川家康公が現代の私達へ向けて、「命の尊さ」を説かれているといえるでしよう。」右側。左側。内陣を望む。蟇股内部を花鳥の透彫とするなど細部も整った意匠が。下段中央。その左。下段最左。下段右。その右。最右。拝殿(右側)最奥の下段の蟇股。吊り灯篭。木鼻(右)。ズームして。吊り灯篭越しに「拝殿、石の間、本殿」への入口門・「東門」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.11
コメント(0)
今朝・3月10日(日)の我が菜園からの富士山の姿です。先日の雪で西側の裾野の雪の白さが拡がっていました。今年・2024年のニ十四節気のひとつ「啓蟄(けいちつ)」は5日前の3月5日(火)から3月19日(火)までと。「啓蟄」とは、土中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃のこと。そして3月20日(水)が「春分の日」。このところ毎朝、日の出の時間がどんどん早くなるのを感じていますが、昨日3月9日よりいよいよ日の出が6時前になり、朝の明るさに春の訪れを感じるようになりました。富士山をズームして。さらに富士山山頂を。そして、この日の農作業は、ジャガイモの植え付け。今年も男爵系の「キタアカリ」の種芋を購入し、この場所に植え付けました。肥料は、種芋の間に化成肥料と牛糞を。種芋には既に新芽が数カ所に。そして「インカのめざめ」も植え付けました。少し珍しい名前の「インカのめざめ」。南米アンデスで、お祭りでしか食べられなかった高級じゃがいもを日本向けに改良し誕生した品種。「インカのめざめ」の魅力は何といってもその甘味!一般的なじゃがいもの糖度が4~5℃に対して「インカのめざめ」の糖度は 6~8℃もあるのだ。 食感は栗やサツマイモを思わせるホクホク感とバターのようなねっとりした濃厚な口当たり。 肉質はやや粘質できめが細かく、なめらかな舌ざわり。風味はナッツに似ているとも言われている。 旬の時期は9月〜11月。長期保存がむずかしく流通期間も限られるのだ!。栽培が難しい事から、作る農家さんが少なく流通量も少ない希少種のようである。他のじゃがいもにはない、スイーツのようにしっとりと甘く、希少種である事から「幻のじゃがいも」と呼ばれているのだ。そしてスナップエンドウには支柱とネット掛けを行いました。黄色いペーパーは「ハモグリバエ」対策用に虫取りシート(黄色粘着テープ)を。農薬は極力使いたくないので。ハモグリバエは、主に野菜や草花に寄生する害虫です。小さなハエである成虫は、葉の組織中に卵を産み、ふ化したウジ状の幼虫はそこで成長し、やがて俵形の蛹(さなぎ)になり、その後、成虫になります。幼虫が葉の内部を蛇行しながらトンネル状に食害するため、緑色の葉にあたかも白い線を描いたようになります。それゆえ、エカキムシとも呼ばれます。多数の葉が白く見えるほど食害がひどくなると、株の生育は悪くなり、野菜では収量と品質が低下し、草花では著しく観賞価値を損なうのです。移動して。既に白い花が咲き初めて来ました。そして既にブロッコリーの花が満開に近づいています。ズームして。我が畑のブロッコリーは食料用とミツバチ用の二つの目的があるのです。そして我が?ミツバチが訪花中。ブロッコリーの花はミツバチは大好きなのです。花が密集して咲くことから、仕事しやすいのでしょうね!!そして我が菜園には花桃(ハナモモ)も開花中。「ハナモモは、花を観賞するために改良されたモモ。サクラの花の咲く時期に前後して開花の最盛期を迎え、あでやかなピンクや赤、白の花が春の庭を彩ります。モモは古来より中国では災いを除き、福を招くとされてきました。日本への渡来は古く、弥生時代といわれています。『古事記』にもイザナギが黄泉の国から逃げ帰るときに悪鬼にモモを投げつけて退散させたとあることから、古い時代から栽培されていたことがうかがえます。その後、平安時代には3月3日の桃の節句が祝われ、モモの花が観賞されるようになりました。このようにモモは太古から日本人に親しまれてきましたが、観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからです。現在もハナモモの品種改良はあまり進んでおらず、栽培されている園芸品種には江戸時代に作出されたものが多くあります。」とネットから。ここからも「ブーン ブーン」と音が聞こえて来ました。そして花桃の花に頭を突っ込む我が?ミツバチです。こちらは花蜜を集めに来ているのでしょう。「桃源郷」とはこのことかと毎年思うのです。上手く撮れました。そして、明日は2011年3月11日に発生した東日本大震災から13年目!!2024年1月1日に発生した能登半島地震から70日目!!「誰一人取り残さない社会の実現」を!! ・・・END・・・
2024.03.10
コメント(0)
久能山東照宮の楼門を潜り振り返って。右手にあったのが「家康公御手形」。(i家康公三十八歳の時のもの)推定身長 一五五cm~一五九cm程度御手形を写した色紙は授与所にて一五〇〇円で頒布しております。」「家康公御手形天正八年(1580)辰十一月ニ日家康」と。自分の手を重ねてみると意外と小さいと感じたのであった。手形には知能線と感情線がつながった一本の線がはっきりと。これはますかけ線と呼ばれるもので、「天下取りの手相」としても知られているのだと。現代でもこの手相の持ち主は、天下を支配するほどの天運・強運の持ち主が多いとされていると ネットには。楼門の狛獅子(右)。お顔をズームして。楼門の狛犬(左)。お顔をズームして。楼門の先、左手にあった仮設の建物は何であっただろうか?売店?極彩色の楼門・右側を見上げて。極彩色の楼門・左側を見上げて。中央の蟇股の獏(ばく)の彫刻。右の蟇股。左の蟇股。「久能稲荷神社」と「厳島神社」は 合殿され楼門を入った右手に建っていた。朱の鳥居が並ぶ。久能稲荷神社(左)御祭神 保食神御例祭日 4月9日東照宮の創建前から 久能山頂近くに鎮座していたが 明治年代に暴風で社殿が倒壊し 現在地に遷座したという。厳島神社(右)御祭神 市杵島姫命御例祭日 6月17日明治期の神仏分離により 元辨財天が厳島神社になったという。「おもと」園。「おもと奉納 平成二十八年五月吉日」平成28年5月10日家康公を祀る久能山東照宮へおもとを奉納公益社団法人日本おもと協会名誉会長青木慶祐他日本おもと協会会員13名おもと品種44種、本数152株をお祓い所周辺に地植えしました。植え付けたおもとの品種は薩摩富士・外輪山・東天光・桜島・太陽殿の虎・雪中の松・残雪・五大州・駿河富士・福の光・錦秀の松・霧島・白峰・曙・阿賀野川・天光閣・聖光都の図・紫雲楽・他と。「久能山東照宮全景」「家康梅」。「家康梅 奉納 丸子梅園」。「家康梅奉納者 丸子梅園静岡県駿河区丸子徳川家康公は“梅”をこよなく愛され、中でもこの「家康梅」は水戸の初代藩主頼房公(家康公第11男)の出産を祝い、無事成長を祈り家康公自らお手植えされたと伝わる。当初は浜松城内で栽培されていたが、後に水戸に移され、その後静岡の丸子梅園にて接ぎ木して育成したものを由緒深き久能山東照宮に植樹されたものである。」 「家康梅」の花。「手水舎」を正面から。近づいてそしてこちらは「河津桜」か?久能山東照宮「神厩(しんきゅう)」家康の愛馬を飼育するために建てられた厩舎。その昔、愛馬は夜になると家康の神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。ある朝、馬が厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、静かに眠ったままの姿で見つかり、その話を聞きつけた名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられています。近づいて。「神馬 縁結び・子授け・安産・無病息災」と。金網越しに。金網の隙間から。名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと。「久能の唐椿(トウツバキ)」「久能の唐椿(トウツバキ)中国の雲南省、貴州省、江西省の原産でナンキンツバキ、カラツパキとも呼ばれる。延宝元年〈1673〉にわが国に渡来したと言われている。八重・濃赤色の花は四月頃開く。唐椿は日本の椿とは植物分類上全く別種であり、繁殖は極めて困難であるが長命・強健であるという。 奉納者 静崎園 川口厚夫 平成十ハ年三月」花が咲くと(ネットから)。石段の途中から「河津桜」越しに石鳥居を見る。石灯籠が並ぶ。「久能山東照宮 五重塔跡」。三代将軍家光の命により建立された五重塔は30mを超えるもので久能山のシンボルだったが、神仏分離令を受けて明治6年に取払われ、現在は礎石が残るのみ。ここでも、明治の廃仏毀釈、神仏分離の影響を受けていたのであった。「五重之塔 舊跡」碑。「五重塔跡三代将軍家光公の建立て高さ約三十米輪奐(りんかん)美を極めたものである。明治六年神仏分離で取払われ現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したものてす。」正面から。残存する久能山五重塔の、明治維新直前・直後のカラー化写真をネットから。明治39年(1905)にカラー化 、大きさ : 26×38cm。「五重塔跡」横には奉納された酒樽が並ぶ。東照宮の参道に展示されているは、「菰(こもだる)」と呼ばれるもの。この酒はまこもという植物で編んだ「菰(こも)」と呼ばれるむしろのようなものをまとっているため、「菰」または「菰冠(こもかぶりだる)」と呼ばれます。ただし、現在はまこもをわらや別の素材で代用することが多くなっています。菰は、もともと、江戸時代に上方(大阪や京都など)から江戸に船で酒を運ぶ際、大きな酒樽が壊れないように巻いていたものであった。表面には他の銘柄と区別するために、それぞれの銘柄が特徴的な文字や絵を描いたのですが、そのデザインがユニークでインバクトが強いことから、店頭に並べられるなどして広告や装飾の役割も担いました と。石灯籠の奥の「鼓楼(ころう)」。創建以来、鐘楼として扱われて来たが、明治時代の神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であるということから中身を太鼓に替え、現在の「鼓楼」となったとのこと。石段上の「久能山東照宮 唐門と透塀」を見る。「八房梅」。「八房梅」案内板。「八房梅(紅梅)」の花。「唐門」を正面下から。「神楽殿」。久能山東照宮神楽殿は元和3年(1617)に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、桁行5間、梁間3間、建物全体が朱色に彩色され、瓦と木組の端部、金物が金箔で彩られています。現在はサッシが嵌め込まれていますが当時は開放的な建物でした。東照宮に奉納される神楽が行われる施設でしたが、実際には行われず絵馬が奉納される絵馬殿のような扱いだったようです。久能山東照宮神楽殿は江戸時代初期に建てられた久能山東照宮の境内をとして大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。左に「実割梅(白梅)」。「実割梅(白梅)。「神楽殿」の内部。徳川家康公。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」絵画・家康公像。「葵の御紋」葵紋は徳川氏の家紋として有名。もともとは京都の賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の神紋だが、江戸時代は葵紋の使用が制限された。また徳川家康が天皇家から菊紋や桐紋の下賜を断って葵紋を使用し続けたことからより格を上げることとなった。徳川葵:徳川葵紋は、3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。 江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。日光市日光東照宮の神紋、東京増上寺の寺紋、 京都市清凉寺の寺紋徳川家康公:[三つ葉葵―みつばあおい] 二葉葵の変形紋。「丸に三つ葵」とも言う。俗に言う「徳川葵」。 徳川御三家では同じ「丸に三つ葵」を使用しているが、葉脈や芯の数など、細部に 微妙な違いが見られる。植物のフタバアオイには三つ葉のものは非常にまれで、 三つ葉葵は架空のもの。上賀茂神社の神紋であった葵を正式な家紋としたことから、 上賀茂神社の出身であったと言われる。家康は威厳を知らしめるために、三つ葉葵に 限らず「葵」を使用した紋の他家での使用を厳しく禁じた。岡崎二郎三郎信康公:徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永(瀬名義広)の娘で今川義元の 姪・築山殿。また、後に安祥松平家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を 務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った丸に三葉葵:三つ葉葵紋は、徳川家康が三河国(現在の愛知県東部)の岡崎城主だった頃に 出入りしていた呉服商人「後藤縫殿助」の御紋控書にも記録があり、徳川家康が 天下人になる前から家紋にしていたことが分かります。松平三葉葵:徳川将軍家の家紋である三つ葉葵の一種。徳川将軍家の家紋は「三つ葉葵」と呼ばれ、 徳川家康が江戸幕府を開いた際に家紋として用いました。水戸三葉葵:徳川家の家紋として知られる葵の一種で、葵の葉を3つ描いた家紋です。 微妙な違いがあり、種類が多いのが特徴です。尾州三葉葵:徳川御三家である尾張名古屋藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、 通常の太さの丸で囲んでいます。尾州三つ葵とも尾州中納言葵とも呼ばれます。紀州三葉葵:徳川御三家である紀伊和歌山藩徳川氏の家紋。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、 通常の太さの丸で囲んでいます葵紋の移り変わり三つ葉葵紋は、徳川家一門だけが使うことを許されていました。徳川家一門とは、将軍家と家康公の子孫である4家…御三家(水戸・紀州・尾張)と会津松平家のことです。葵紋は将軍により少しずつ変化しています。葉の芯の数が減ったり増えたり、並び方が変わったり、茎の太さや形が変化したり。四代目以降の将軍たちが、家康、秀忠、家光の三代の将軍を崇敬し、同じデザインでは恐れ多いと変化させたそうです。そして、御三家と会津松平家も将軍家に対し遠慮して、少し図案を変えました とネットから。そして「神楽殿」の壁の手前にあった展示ケース。多くのプラモデルが展示されていた。「「プラモデル」のはじまりは静岡から静岡には『ガンダム』のプラモデルで有名なバンダイの工場をはじめ、青島文化教材社、タミヤ、ハセガワ、フジミ模型とい。た世界的に名を知られている模型メーカーがあります。その歴史をさかのぼると、徳川家康公が崇敬された静岡浅間神社の修繕や、久能山東照宮の造営に際し、日本各地から優秀な職人が集められた事につながります。職人達は工事が終わった後も温暖で風光明媚かっ、最大12万人の京、大坂、江戸に匹敵する大都市の駿府に残り、雛人形や竹細工などの木工製品の製作に携わりました。この技術が昭和に入り、木製の教育玩具や学習教材を生み出し、戦後の木製模型、プラスチック模型の発展につながったのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2024.03.10
コメント(0)
「日本平ロープウェイ」の「日本平駅」手前にあった売店。前方右手にあったのが「みかんジュースが出る蛇口」が。私も一杯。そして「乗車券売り場」。ロープウェイ往復運賃+久能山東照宮拝観券の2点セット券を\1750で購入。久能山東照宮の「御朱印」案内。「久能山東照宮 朱漆塗紅絲素懸威山形兜(富士山に御幣前立)」。「見どころMAP」(左)。「国宝・久能山東照宮久能山東照宮は、徳川家康の御遺骸が埋葬された地に創建された最古の東照宮です。当時最高の建築技術や芸術を結集した荘厳な神社で、権現造・総漆塗・極彩色の御社殿は日光東照営より19年前に造られました。彫刻・模様・組物等に桃山時代の技法も取り入れられた、江戸初期の代表的な建造物として国宝に指定されています。」①国宝御社殿 家康公をお祀りする本殿と参拝するための拝殿を「石の間」でつないだ「権現造」と呼ばれる 様式で、全国東照宮の原型となりました。当時最高の建築技術と芸術が結集した、棟梁 中井正清の晩年の傑作と評価され、国宝に指定されました。②愛馬の彫刻 家康公のお墓~毎日お参りした愛馬を名工・左甚五郎がそっくりに彫刻。眼球には当時大変 貴重だったギヤマン(ガラス)が使用されています。良縁・安産・子授けにご利益があると いわれています。③瓶割りの彫刻 拝殿・蟇股(かえるまた)部 中国の故事、政治家・司馬温公の「瓶割り」の彫刻。子供の頃、一所に遊んでいた友が水瓶に 落ちてしまったのを救うため、高価な瓶を割った少年の物語で「命の大切さ」を表しています。④逆さ葵 社殿・屋根 よく見ると葵の御紋が1ヵ所だけ「逆さ」に。 これは建物が未完成であることを表し、さらなる発展への願いが込められていると いわれています。⑤金のなる木 御神木 久能山東照宮の隠れた人気スポットが、家康公神廟そば、大きな楠の「金の成る木」。 家康公は「すべてにほどほどがよ木」「志ひふか木」「辛抱つよ木」「むだのな木」 「家内むつまじ木」など様々な木を挙げて、何が必要か説いています。⑥久能山東照宮博物館 家康公を御祭神とする久能山東照宮に付属した歴史博物館。 家康公の遺愛品や徳川歴代将軍の武器・武具など約2000点の資料を収蔵しています。 見どころ配置図。①楼門(ろうもん)②神厩(しんきゅう)③鼓楼(ころう)④神饌所(しんせんじょ)⑤神楽殿(かぐらでん)⑥神庫(しんこ)⑦日枝神社(ひえじんじゃ)⑧唐門(からもん)⑨透塀(すきべい)⑩廟門(びょうもん)⑪廟所参道(びょうしょさんどう)⑫神廟(しんびょう)「見どころMAP」(右)。「名勝地・日本平標高307mの丘陵地で、過去には観光地百選(平原の部)で第1位となり、富士山や験河湾など静岡を象徴するような景色を堪能できる絶景スポットです。1959年には国の名勝にも指定され、2016年には「日本夜景遺産」にも認定されました。」①ちゃっきり節 1927年(昭和2年)、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド19333年 閉園)のコマーシャルソングとして静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)の依頼によって製作されました。 静岡電気鉄道は、当時すでに名のある詩人であった白秋に懇請して作詞を依頼したものの、 取材のため静岡を訪れた白秋は、静岡の花柳地・ニ丁町・蓬莱桜で芸者遊びを続け、一向に 詩作に取りかかろうとしなかったそうてす。豪遊続きの長逗留に作詞依頼の取り下げも検計し 始めた頃、老妓の方言によるふとした一言にインスピレーションを得て、白秋は30番まである 長大な歌詞を書き上げたといわれています。②日本平夢テラス 静岡市の代表的な観光スポットで、屋外の展望回廊は富士山や駿河湾、清水港、三保松原などを 望む360度のパノラマビューが楽しめます。施設内には日本平の歴史や文化を学べる展示 工リアや、ラウンジスペースも。③赤い靴母子像 多くの人に愛唱されてきた「野口雨情」作詞、本居長世作曲の「赤い靴」。この歌のモデルと なった女の子とその母は、現在の静岡市清水区の出身でした。女の子と母親をふるさとに 里帰りさせたいと、全国から寄せられた浄財をもとに「赤い靴母子像」がこの地に建立 されました。④日本平梅園 2月から3月にかけて約350本の蝋梅、白梅、紅梅が咲き誇る日本平梅園は、梅と富士山の コラボレーションが楽しめます。開花が退むと散策路には赤、白、ビンクの梅の花の トンネルができ、多くの見物客で賑います。⑤万葉歌碑 「水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来けにて今ぞ悔しき」 日本平周辺で育った有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)の詠んだ歌です。防人とし筑紫に派遣 されることになった際に、両親に別れを告げる間もなく慌ただしく出発したことを悔やんで 詠んだものとされます。⑥日本武尊の碑 「日本平」の呼び名は、日本武尊の伝説に由来します。日本武尊は東征の際、草薙の原で 有名な火攻めの謀略に遭いますが、草薙の剣で賊を平定した後、この山の頂上で勝どきを 上げたことから、「日本平」と呼ばれるようになったといわれています。⑦静岡市立日本平動物園 1969年に開園。約160種700点の動物を飼育し、面積約13ヘクタールと国内でも有数の 動物園です。動物の本来の野性味を感じられる施設が充実しており、特に行動展示が特徴の 動物園です。「家康公と駿府(静岡市)」家康公は100年以上続いた戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開いて260余年にわたる「泰平の世」の礎を築いた人物です。家康公は、幼年期、壮年期、晩年の3度、駿府(現静岡市)で過ごしました。温暖な気候で食べ物も美味しい駿府を健康志向の高い家康公は気に入っており、晩年、秀忠公に将軍職を譲った後、駿府城を居城とし、そこで「大御所政治」を行いました。その当時、駿府は10万人以上が暮らす世界屈指の大都市となり、政治・外交の中心として栄えました。波乱に満ちた75年の生涯をこの地で閉じた家康公。生前、自分の死について「遺体は駿河国の久能山に葬るように」と遺命を残していました。これを受けて遺骸を久能山に埋葬し、2代将軍秀忠公により久能山東照宮が創建されました。「一富士 ニ鷹 三茄子」「初夢に出ると縁起がいい」と言われることえわざですが、語源は諸説あります。その1っとして、家康公と縁のある駿河の名物を並べたという説です。日本の象徴とも言われる「富士山」とそこに住む「鷹」、家康公も好んでいたとされる「初物の茄子」を並べたといわれています。「東照宮を巡る聖なる三本のライン1本目・・・御前崎から久能山東照宮を線で結んだ延長上には富士山、更に延長上に------ 群馬県の世良田東照宮、更に延長しますと日光東照宮にいたります。2本目・・・久能山東照宮から真西には駿府城、更に延長しますと鳳来山東照宮、------ 更に延長上には、家康公が生まれた岡崎城、更に延長しますと京都に至ります。3本目・・・日光東照宮の真南には江戸城、南面に立つ陽明門の真上には不動の北極星が輝き、------ 星々はこれを巡ります。江戸城・日光東照宮・北極星を結ぶ南北線を中心に、 この世の総てが運行するのです。家康公の御遺言本光国師(金地院崇伝)日記によるとえ元和ニ年(一六一六)四月ニ日、徳川家康公は病の重態なるを知り、本多上野介正純、南光坊天海、金地院崇伝等を召して、死後の処置に関し、遺体は駿河の久能山に葬るべきこと、葬礼は江戸の増上寺に於いて行うべきこと、位牌は三河の大樹寺に立つべきこと、一周忌の過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請すべく、これによって関八州の鎮守となるべきことを遺命した。」「東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望」画中に広がる海は駿河湾、前景の港は清水港である。白い船の帆や港に停泊する船のかたちが様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景を描いている。「日本平ロープウェイ」に使用されているロープ見本。「日本平ロープウェイ」の「改札口」。竹灯籠。下って行くロープウェイ車両を見る。日本平山頂と徳川家康公ゆかりの史跡「久能山東照宮」を約5分で結ぶロープウェイ。軽快なガイド付き。四季折々姿を変える眼下の屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中散歩を楽しめるのであった。11時~14時までは10分毎に出発。11:30発に乗車。前方眼下に駿河湾の姿が。上り車両とすれ違う。殿様をイメージした「あおい号」と、お姫様をイメージした「たちばな号」があると。屏風谷の山あいを通り抜け46mの鉄塔を越えると右側に駿河湾が広がって来た。海岸近くには「石垣いちご狩り」のビニールハウスが並んでいた。そして前方に「日本平ロープウェイ 久能山駅」が見えて来た。駅舎にゆっくりと滑り込む。左手下に見えたのが「旧久能山城石垣」であると。永禄十一年(一五六八)十ニ月武田信玄は、当山が要害の地である事を知って、寺院を清水北矢部に移し、城砦を築いて久能山城と称した。天正十年(一五八ニ)武田氏が滅亡したことで徳川氏の所有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである と。「クスノキ 推定樹齢 500年」と。巨大鉄塔2基で支えられている「日本平ロープウェイ」。「久能山東照宮」👈️リンク の神紋「三つ葉葵―みつばあおい」三つ葉葵の文様のモチーフはフタバアオイです。本来「葵」の読み仮名は「あふひ」、「ひ」は神様のこと。「神様に会う」植物と考えられていました。徳川家が葵紋を家紋にした由来は、各説あります。1.徳川家の祖先の松平家が、京都賀茂神社の氏子であり、賀茂神社の御神紋が フタバアオイ紋だった。2.家康公の祖父、松平清康が城攻めで勝利をおさめた。祝いの席で、家来がアオイの葉を お皿にして肴を出したところ、清康は その粋な計らいを喜び、その家来の家紋であった 葵紋を譲り受けた。(この家来は、本多正忠とも酒井氏忠とも言われている)実際の植物には、三つ葉の葵はありません。二葉より三葉の方がデザイン性が高いこと、葉の並ぶ形が巴の形に似ていることから、三つ葉の図案になったとされています。こちらが[フタバアオイ」。「久能山東照宮全景」。「久能山東照宮 社務所」に向かって石段を下る。「久能山東照宮久能山には、推古天皇(592年~628年)のころ、久能忠仁がが建立したと伝えられた久能寺があった。静岡茶の始祖といわれる聖一国師がここで修行し、また、多くの名僧が往来し隆盛を極めた。下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を現在の鉄舟寺に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。徳川家康公は、大御所として駿府城に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。元和2年(1616年)駿府城にて薨去後、その遺言によりここに葬られた。元和3年(1617年)二代将軍秀忠公によって社殿が造営され、我が国最初の東照宮となった。権現造、総漆塗、極彩色の社殿は、江戸時代を代表する大工棟梁、中井大和守正清の手によって造営され、平成22年には、本殿・石の間・拝殿が国宝に指定された。そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。彫刻、模様組物等は桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を伝えている。」前方左手に社務所。「史蹟 久能山」碑。「国指定史跡 久能山 指定年月日 昭和三十四年六月十七日久能山の歴史久能寺久能山には、古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、山の上には多くの僧坊が建てられていた。久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然の要害の地をつくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の観応の擾乱(1350~1352)や室町時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、次第に寺院城郭としての一面をもつに至った。久能山城駿府に攻め入った武田信玄は、永禄11年(1568)に要害の地久能山にあった寺院を移し、本格的な山城を築いた。この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの拠点として重要な役割をになった。久能山東照宮元和2年(1616)4月、大御所徳川家康公が駿府城にて薨去。家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。2代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。」御朱印受付。御朱印帳を渡し、帰路に受け取ることにする。正面に様々な案内板が。「久能山東照宮のご案内●御祭神 徳川家康公 相殿 豊臣秀吉公 織田信長公●御社殿 ニ代将軍秀忠公の命により、中井大和守正清を大工棟梁として元和ニ年(一六一六)五月着工、 同三年十ニ月に至る僅か一年七ヵ月と云う短期間に造営された。権現造り、総漆塗、 極彩色の社殿は、江戸時代初期の代表的建物として、平成ニ十ニ年十ニ月ニ十四日国宝に 指定された。他、十三の建造物が国の重要文化財に指定されている。●御廟所(家康公の墓所) 家康公の御遺骸を埋葬した場所。 塔は高さ五・五m、外廻り八mの石造りで御遺命により西向きに建てられている。●博物館 久能山東照宮伝世の宝物を中心に、資料総数ニ〇〇〇点を収蔵する。収蔵品の特色としては、 家康公がスペイン国王より贈られた洋時計を始めとする舶載の品々がまとまっていること、 徳川歴代将軍の武器・武具が多いことである。」ここにも「久能山東照宮全景」。石段の上に「楼門」。「社務所」。楼門への石段を上る。「重要文化財樓門前面に後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称する。元和三年の建造である。 西暦一六一七年」徳川家ゆかりのものらしく、豪華な造り。中央の蟇股(かえるまた)には、“獏(ばく)”の彫刻があることでも知られている。左の蟇股。右の蟇股。扁額は後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」。「天水桶」。表側には、随身(ずいじん)が・・・。随身は、天皇皇后のお付きの者。 主に外出するときに、天皇をお守りする役で、今で言うSPのようなもの。 随身は別名、左大臣・右大臣と呼ばれていますが、実は正しい呼び方ではないと言われている。 と言うのも、左大臣・右大臣は、かなり高位の存在。 とくに左大臣は一ノ上(いちのかみ)とも言い、公卿(くぎょう)の筆頭であった。 今で言う内閣総理大臣のような役割。 実は、そのような位の者が、随身を兼任することはまずないのだと。 よって、左大臣・右大臣と呼ばれているのは俗称と考えた方が正しそうである と。左大臣・右大臣は、年配者と若者のペアであるが、左大臣が年配者、右大臣が若者 であると。随身(右)・左大臣。ズームして。横から。随身(左)・右大臣。ズームして。横から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.09
コメント(0)
静岡県と静岡市が約17億円をかけて整備したとされる「日本平夢テラス」。新国立競技場を設計した世界的な建築家・隈研吾(くまけんご)さんが手がけた、3階建てのシンボル施設と日本平からの景色が360度見渡せる展望回廊、そして約1200平方メートルの庭園で構成されているとのこと。「日本平夢テラス」や「久能山東照宮」、「日本平ロープウェイ」、「吟望台」のQRコードによる観光案内板。そしてその先にあったのが「日本平夢テラス 展望回廊」からの風景案内板。①焼津市 ⑨国道150号線②駿河湾 ⑩南安倍川橋③虚空蔵山 ⑪高草山④大崩海岸 ⑫東名高速道路⑤静岡市風力発電施設「風電君」 ⑬安倍川橋⑥用宗海岸 ⑭東名高速道路静岡インターチェンジ⑦用宗漁港 ⑮満観蜂⑧花沢山 ⑩安倍川」実際のこの日の風景を写真に。さらに右側も。この後に訪ねた「日本平ロープウエイ駅」が西側下方に。再び「日本平デジタルタワー」を「日本平夢テラス 展望回廊」上から見上げる。さらに「日本平夢テラス 展望回廊」を時計回りに北側に向かって進む。①ツインメッセ静岡 ⑪静岡鉄道新静岡駅②八幡山 ③安倍川 ⑫国道1号線バイバス ⑬静岡県庁④静岡科学館る・く・る(工スパティオ8 ~ 10F) ⑭駿府城公園⑤JR静岡駅 ⑮東海道新幹線 ⑯新東名高速道路⑥静岡ホビースクエア(サウスポット静岡3F) ⑰静岡浅間神社⑦藁科川 ⑧安倍川大橋 ⑱賤機山⑨静岡市美術館(葵タワー3F) ⑲谷津山⑩静岡市役所・葵区役所実際の写真。ズームして。さらに天望回廊を進む。①賤機山 ⑦静岡県第台芸術公園②JR東静岡駅 ⑧国道1号線バイバス③グランシップ(静岡県コンべンションアーツセンター) ⑨あさはた緑地④谷津山 ⑩静岡市中央卸売市場⑤静岡県立総合病院 ⑪東名高速道路⑥新東名高速道路実際の写真。南アルプスの白き山の姿も。「竜爪山」、「南アルプス」方向案内板。①南アルプス②電爪山③東名高速道路④山原無線中継所⑤日本平ホテル(日本平公園)⑥新東名高速道路清水連絡路実際の写真。南アルプスの姿。更にズームして。右手の白い尾根は「明石岳・3121m」辺りか?「愛鷹山」を見る。前方には「日本平夢テラス」の建物が。「富士山」と「日本平夢テラス」を「日本平夢テラス 展望回廊」から見る。ズームして。移動して富士山、駿河湾を。そして再び富士山をズームして。屋外の展望回廊から、富士山や駿河湾、三保松原など、360度のパノラマ展望と絶景を楽しんだ後は2018年11月に日本平山頂にオープンした「日本平夢テラス」の内部を訪ねた。入館料無料で、新国立競技場を手掛けた隈研吾建築都市設計事務所による、木材をふんだんに使用した展望施設であった。3階から天井を。天井を見上げて。2階には横山大観モチーフのステンドグラスも。景色を楽しみながら、くつろげるラウンジスペース(24席)になっていた。ステンドグラス(LED照明内蔵)「群青富士」。そして1階の展示室。1階では、日本平の地形の成り立ちを、プロジェクションマッピングで知ることができた。他にも、日本を代表する名勝となった「日本平」の歴史を、神話・伝説の時代から絵巻のように、グラフィックパネルで紹介されていたり、日本平周辺の観光スポットが、タッチパネルで紹介されていたのであった。1階の展示コーナー。「神話と伝説」、「久能寺」案内板。「日本平夢テラス」を後にして「日本平ロープウェイ」駅に向かって進む。「久能山東照宮」案内板。日本平ロープウェイにて5分 と。駐車場の先に、「日本平ロープウェイ」駅の姿が現れた。駐車場内を「日本平ロープウェイ」駅に向かって進む。「日本平ロープウェイ」駅横からロープウェイのホームを見る。「日本平夢テラス天望回廊」そして「日本平デジタルタワー」を振り返た後は「日本平ロープウェイ」駅ビル内に入ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.08
コメント(0)
日本平の無料駐車場に車を駐め散策開始。富士山を背景に「日本平」と刻まれた石碑。静岡県静岡市清水区村松4046−1。この「日本観光地百選」1位受賞記念碑は駐車場内に設置されていた。「日本観光地百選首位当選」と刻まれたこの記念碑は、昭和25 年毎日新聞社主催の「日本観光地百選」平原の部で1位に選出されたときの記念碑。「日本平」と刻まれた石碑と並んで撮影すると富士山を背景に入れ込めるため、定番の撮影スポットとなっているようであった。富士山をズームして。「日本平デジタルタワー」方向を見る。左手には「河津桜」がピンクに染まり開花が始まっていた。ズームして。「日本平の碑」。裏面には。「日本平は、昭和26年3月6日に県立自然公園に、昭和34年6月17日に国の名勝に指定されました。すぐれた自然の風景地として、また、眺望地として保護されています。」駐車場から富士山を望む。「日本平 山頂 MAP」。「日本平」の地図部分を。「日本平 川崎家」へ休業中?右側の屋上は「パノラマ展望台」になっていたようであった。坂道を上って行った。「日本平夢テラス」に向かって進む。石仏の姿が。「享保ニ(1717年)丁酉三月廿五日 守屋源右衛門」と刻まれていた「日本平公園 案内図」。「日本平夢テラス」に向かって坂を上って行った。「日本デジタル放送所」の巨大アンテナタワーが聳える。静岡県のテレビ放送を送信する集約電波塔。静岡県のテレビ放送の親局送信所であるとのこと。2005年度グッドデザイン賞・静岡県建設業協会賞優秀賞を受賞していると。ズームして。アナログテレビ放送の送信所であった日本平テレビ・FM放送所に隣接する敷地に建設されたため、これまで日本平からの電波を受信してアナログテレビ放送を視聴していた世帯の多くでは、デジタルテレビ放送の視聴のためにアンテナを増やしたり、方向調整などをする必要がない。地上波アナログテレビ放送で、静岡瀬名、静岡麻機、静岡賤機、静岡籠上、静岡羽鳥、静岡丸子、静岡興津などの中継局の放送波を受信していた世帯も、そのほとんどが日本平デジタルタワーの受信エリアに集約された。これらの地域の世帯で新たに地上デジタル放送を受信するためには、アンテナの増設か、アンテナの向きの調整が必要になる場合がある とウィキペディアより。山頂に向かう途中に駿河湾と富士山を一望できる見晴台が整備され、2つの石碑が設置されていた。いずれもまだ新しく、平成25年の富士山世界文化遺産登録を記念して建てられたもの。この2つの石碑が設置された場所は見晴らしも良く、大人数での記念撮影の人気のスポット と。そして、日本平夢テラス庭園の手前には富士山の山頂をイメージしたイルミネーションケーブルが。日本平夢テラス庭園をズームして。向かって右側の赤茶色の石碑は平成27年2月23日(富士山の日)に寄贈された石碑で、表面には元内閣総理大臣中曽根康弘氏による題字「眺望の地 富士山」が刻まれていた。向かって左側の石碑は平成27年6月に寄贈されたもので、表面には梅原猛氏による題字「草木国土悉皆(しっかい)成仏 国土は富士なり」が刻まれていた。富士山をズームして。さらに。そして日本平夢テラス庭園を後にしてさらに坂を上っていくと左手には母子像が。見つめ合う母と娘。「赤い靴」は履いていなかったが、以前は赤く塗られていたが消えてしまったのであろうか?「赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった」👈リンク。廻り込んで。娘の顔を。「童謡 赤い靴をはいていた女の子を尋ねて野口雨情の詩になる童謡"赤い靴"をはいていた女の子にはモデルがありました。 明治37年7月15日清水市宮加三(旧不二見村)に生まれた「岩崎きみ」がその子です。「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、 まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、この時すでに、「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼な子を孤児院に残して旅立ちました。「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見ることもかなわぬ母を慕いながら、わずか9歳の短い生涯を終えたのでした。いま、この女の子は、東京六本木にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っております。私たちは、この幸せ薄い母と子のかなしみに思いを寄せ、母と子をふるさとの地、不二見村を見おろすこの日本平山頂に、再び相いあわせようと考えました。ここに全国数万人に及ぶ人々からの浄財を得て、この像の建立ができましたことに、 人間の善意と尊厳に大きな感動と希望をおぼえるものであります。 母と子よ、永遠に安らかなれ 昭和61年3月31日 「赤い靴」の女の子母子像建設委員会 母子像制作 高橋 剛」八角形の「日本平夢テラス」を見る。そして石段を上り、「山頂 吟望台」から「日本デジタルタワー」を見る。手前に八角形の「日本平夢テラス 展望回廊」が「日本デジタルタワー」の周囲に。「山頂 吟望台」からの絶景。ズームして。さらに。「吟望䑓昭和5年、日本平観光の発展を図る道路整備に着手した清水市では、徳富蘇峰に委嘱して眺望の良い場所を4か所選び、それぞれ「望岳台」「超然台」「鐘秀台」「吟望台」と命名されました。4箇所には記念の石柱が建てられ、そのうちの一つが日本平山頂にある「吟望台」の石柱です。駿河湾、伊豆半島、富士山を一望できる絶景ポイントでもある吟望台は、近年では清水の港あかりを含めた夜景スポットとしても好評を得ています と。「吟望䑓」の後方から「日本平デジタルタワー」を見る。「日本平夢テラス 展望回廊」手前から「日本平デジタルタワー」を見る。吟望䑓の周囲のフェンスにあった展示パネル。「名勝 日本平」「日本平の価値◎自然的要素景観 :・山頂部から一望できる四周眺望・雄大な富士山 ・清水港、三保半島(三保松原)、清見潟、久能山、 伊豆半島から御前崎にかけての駿河湾一帯、南アルプス地形・地質:・北東から北西側・・・活しゅう曲をあらわす、なだらかな丘陵 ・南東から南西側・・・浸食によって形成された急峻な崖地植物 ・ソメイヨシノ・オオシマザクラ・スジダイ・タブノキ・ヤブツバキなど」◎歴史文化的要素[日本武尊伝説] ・その昔、日本武尊が賊を平定した後、この山の頂上に登り、四方を眺めたところから 日本平と呼ばれるようになった。[久能寺への参詣道] ・平安から中世にかけて久能寺への参詣道が通る[徳富蘇峰が富士山展望地点を名付ける] ・4箇所の展望地点に石碑を建立「日本平公園基本計画基本理念 「富士山に代表される四周眺望」の魅力や「富士山」を介した文化性を視座とし 視点場となる緑地環境の再生と「名勝日本平」の文化的資産としての価値を 継承・発展させる基本テーマ 「風景美術館=日本平」 日本平は国の名勝地、県立自然公園に指定され、日本観光地100選「平原の部1位」 に選ばれた標高高307メートルの丘陵地です。山頂部からは2013年6月に 世界文化遺産に登録された「富士山」を北北東に望み、銀下にはその構成資産と なった「三保松原」や日本三大美港の「清水港」の美しい景色が広がります。」「日本平の文化と周辺の史跡「日本平から描かれた富士山世界遺産「富士山」は、その崇高さから数多くの絵画作品に描かれています。その中でも伝雪舟「富士三保清見寺図」(永青文庫蔵)は、富士山絵画のひとつの手本となっており、日本平か富士山を眺めることで、絵画の風景を味わうことができます。」「清見寺蔵 富士三保清見寺図」横長の画面に富士と三保松原、清見寺を中心とする景観を描いた本図は、近年の研究により雪舟の原画ではなく、室町時代に描かれた忠実な模本と考えられているが、現存作例の極めて乏しい雪舟の真景図を考える上で非常に重要な作品と位置付けられている。また本図は、二代藩主・細川忠興に雪舟門人の祖父をもつ松田円斎が献上したものである と。「日本平周辺の史跡他」。「日本平の地形・地質日本平のある有度山には、東西約6キロメートル、南北6キロメートルの範囲に広がる。標高307メートルの独立した丘陵です。北側は緩やかな斜面となっている一方、駿河湾に面する南側は急な崖が連続する地形になっています。山の北側斜面には茶畑やみかん畑が広がる一方、南側の崖のふもとでは石垣いちごの栽培が盛んです。日本平を散策すると、所々に地層を見ることができます。地層の中の石は角が取れた丸い形をしており、安倍川の河原にある石と良く似ています。この石は円礫といい、有度山の成り立ちを示すものです。有度山は、古い方から順に、根古屋層、久能山層、草薙層、子鹿層、国吉田層の5つの地層によって造られています。根古屋層は約44万~27万年前の海底の地層で、深層の所々に円礫の層が挟まれています。この地層からは、貝やサメの歯など、海に住む生き物の化石が見つかります。久能山層は、大昔の阿部川が造った扇状地の礫層で、ナウマンゾウの歯が見つかっています。さらに、草薙層は浅い海(内湾)の泥層、その上に重なる子鹿層と国吉田層は扇状地の礫層です。これらの地層は、およそ10万年前から急速な隆起を始め、丘陵へと姿を変えてきました。隆起にともなって地層が北向きに傾くとともに、駿河湾に面した部分は波によって削られ、崖地形ができました。波で削り取られた地層の砂礫は北東方向に流され、三保半島の一部になったと考えられます。」「富士山の高さと駿河湾の深さ日本一高い富士山の標高は3776メートル、日本一深い駿河湾の水深は2400メートル以上もあります。海底から山頂までの高低差は6000メートル以上で、ヒマラヤ山脈の高さに匹敵します。日本一深い駿河湾では、陸のプレートの下に、伊豆半島を乗せた海のプレートが沈み込んでいます。日本平の降起は、プレートの沈み込みにともなう地般変動に関係していると考えられます。」「4つの石碑と徳富蘇峰日本平が富士山眺望の名所として知名度を高めた要因のひとつが、徳富蘇峰の存在です。大正15年に日本平に登り、山頂からの風景を絶賛、昭和10年に徳富蘇烽が選んだ4箇所の富士山展望地点に、顕彰碑が建てられました。」01望嶽台 日本平から下った東斜面の舌状に突き出した台地が展望台の1つに選ばれました。 登山道と接しており、遠くに富士山、眼下に清水区市街地と清水港を望むことが できます。02吟望台 日本平山頂広場にあり、蘇峰はこの情景に藤田東湖の「秀でては不ニの嶽と為り 巍々として千秋に聳ゆ」を口ずさみ、わが大和民族の国民性は、この霊山に由って 代表すると感嘆を禁じ得なかったと伝えられています。03鐘秀台 久能寄リの有度山山頂で、前面に富士と三保を、背面に久能の峡谷と駿河区市街地を 望み、さらに御前崎灯台も遠望できる場所です。 ※現在は木々に囲まれています。立入禁止範囲です)04超然台 有度山山頂( 307.2m )で、吟望台と鍾秀台の三角形の一頂点です。 「四顧さえぎるものなき雄大な眺望は、正に超然台の名にふさわしい」と当時の新聞に 掲載されました。 ※整備範囲外です」「静岡市のお茶お茶のはじまり我が国のお茶は、平安時代に最澄や空海などの僧侶が唐(中国)へ留学した際にお茶を持ち帰ったのが始まりとされています。その後、鎌倉時代には栄西禅師(1141 ~ 1215 )が「喫茶養生記」を表し、「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とお茶の効能を紹介したため、お茶への関心が高まりました。静岡市のお茶は、鎌倉時代中期に栃沢(葵区)生まれの聖ー国師(1202 ~ 1280)が、仏教の修業を終え、宋(中国)から帰国した際に持ち帰ったお茶の種を、足久保(葵区)に蒔いたのがはじまりだと伝えられています。また、同じころ、栄西禅師からお茶の種を譲り受けた明恵上人(1173 ~ 1232)が全国に広め、その内のー箇所が「駿河の清見」(清水区興津付近)との記録があり、これらが清水のお茶のはじまりとされています。ブランド茶について徳川家康公も愛した歴史と本物の味わい静岡本山茶静岡本山茶は安倍川・藁科川流域で栽培され、静岡市を代表する茶産地です。静岡本山茶は豊かな自然環境に恵まれ、上品な味と香気が強いのが特徴で、高品質のお茶が生産されています。徳川家御用達のお茶として愛飲されました。針のような形状の茶葉 金色の水色清水のお茶清水のお茶は、鎌倉時代の「駿河の清見」(清水区興津付近)に始まり、明治時代には「清水港」が日本一の茶輸出港となリ発展を遂げました。「小島」「両河内」「庵原」「日本平」と4つの茶産地があり、山霧が育む繊細な茶葉に適した浅蒸し茶作りにこだわり、針のような形状の茶葉と金色透明な水色が特徴です。ここから広まった「やぶきた茶」日本各地に広がる茶園の約8割を占める優良品種「やぶきた」は1908 (明治41)年、静岡県安倍群有度村(現在の静岡市)の杉山彦三郎翁が選抜した品種です。やぶを切り開いた茶園の北側に植えた茶樹から優良品種を選抜したことで、「やぶきた」の名前が付けられたと言われています。1955 (昭和30)年、静岡県の奨励品種に指定されたことで、急速に普及しました。現在、やぶきたの原樹は静岡県立美術館の近くに移植され、大切に維持されています。」「静岡市のお茶産地」👈リンク。「日本平 夢テラス日本平夢テラスは、静岡県と静岡市が、日本平山頂において一体的に整備をしました。日本平夢テラスからは、富士山や三保松原、駿河湾、市街地を広く見渡すことができます。展望回廊は標高300.5mにあり、1周約200m、八角形の形状をしており、静岡市内で育てられたオクシズ産の木材を使用しています。デザインは新国立競技場を設計した隈研吾建築都市設計事務所が担当。」「日本平夢テラスからの眺望 三保松原」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.07
コメント(0)
この日は、二宮に住む先輩と、静岡県静岡市清水区草薙にある「日本平」そして「久能山東照宮」を訪ねることとした。7:30に自宅を出て二宮に向かう。藤沢バイパスから新湘南バイパスを利用して茅ヶ崎料金所に向かって進む。前方の富士山の勇姿を楽しみながら進む。茅ヶ崎料金所手前。茅ヶ崎料金所を通過し、緩やかな右カーブから。そして茅ヶ崎海岸料金所を通過し、国道134号を進み相模川に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡り「西湘バイパス」へと進む。大磯港を過ぎると、正面に箱根の山々が姿を現した。中央に「神山・1438m」、左に「駒ケ岳・1356m」。「駒ケ岳」の左には「上二子山・1091m」。そして、大磯西ICで西湘バイパスを降り、国道1号を利用して先輩のお宅に向かう。予定時間の8:30に到着し、先輩を助手席に乗せ、東名高速道路の「秦野中井IC」へ向かう。そして東名高速道路を利用して清水ICに向かって進む。そして助手席の先輩に我がカメラを渡し、富士山の勇姿の撮影を依頼。「大井松田IC」手前1kmから。右手に見えて来た富士山。「駒門PA」にてトイレ休憩。「駒門PA」からの富士山。ズームして。さらに。「富士川SA(上り)」にあった大観覧車「Fuji Sky View(フジスカイビュー)」を見る。高さは地上から60m、1周約12分。ゴンドラは36台 と。そして、前方に駿河湾の由比海岸、その先に「薩埵峠」の姿が現れた。「由比PA」まで3km、目的地近くの「日本平PA」まで20kmと。左手に「由比港漁業協同組合」の建物。正面に「薩埵峠」とその上の「立花山?・499.9m」の姿が。「清水JCT」まで4.7km新東名高速道路その先中部横断自動車道へのJCTである。そして「清水IC」で東名高速道路を降り、国道1号、静岡県道157号線➡158号線を南に進む。右折して「清水日本平パークウエイ」👈リンクに入る。「清水日本平パークウエイ」のルート図、そして途中、景色の良い場所で一時停止して撮影。富士山そして右側の裾野の右に「愛鷹山(あしたかやま)」、そして手前に駿河湾。最高峰は標高1504.2mの越前岳。狭義には南方にある1,187.5mの愛鷹山峰を指す。「愛鷹山塊」の詳細をネットから。愛鷹山は第四紀の成層火山である。およそ40万年前に箱根火山や小御岳火山とともに噴火を始めた。10万年前に黒岳溶岩ドームと火砕流を噴出したのを最後に火山活動を終えた。山体はフォッサマグナ地域に含まれ、富士山と同じく、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界付近に位置する。位牌岳の西側に火口があったと考えられているが、活動の終息から長期間が経過し、開析が進んでいるため明瞭な火口地形は残っていない。山体の北側が、後からの火山活動で成長した富士山のすそ野に取り込まれている とネットから。以前に訪ねた薩埵峠からの富士山、愛鷹山の姿。富士山をズームして。さらに。さらに。やや進んで再び一時停止。右手前がこの後訪ねた「三保の松原」の先端部。清水港の防波堤も確認できた。 ・・・つづく・・・
2024.03.06
コメント(0)
次に訪ねたのが「宇佐神社」。東京都世田谷区尾山台2丁目11−3。社号標石「宇佐神社」。石鳥居を潜り、神社境内を進む。石段を上る。正面に「宇佐神社」の社殿。 御祭神:[誉田別命・ほんだわけのみこと)[応神天皇・おうじんてんのう]御由緒源頼義公が、永承六年安部一族定のために尾山の地に陣を張り勝利を誓い、そして康平五年(1063年)安部一族を平定し、ここに八幡社を建て神に勝利を報告し感謝したのが当社の起りであります。また境内に五世紀頃の八幡塚古墳があります と。創建 康平5年(1063年)別名 尾山台宇佐神社。神楽殿であっただろうか。「宇佐神社由緒祭神 誉田別命(応神天皇)当社は今から約九百年前八幡太郎義家の父源頼義公の創建になるものであります。第七十代後冷泉天皇の御代の永承六年に安倍頼時その子貞任宗任が朝廷に謀反をおこしました。頼義公は朝廷に討伐を命ぜられ京より武蔵の国に入り、ここ尾山の地に陣営を張りました。すると大空には白雲が八つに分かれてたなびきその形が源氏の白旗のように見えたので大いに喜び頼義公は地に跪き源氏の氏神である八幡様に勝利の勝利の暁にはこの地に必ず八幡社を建てる事を誓い蝦夷地に向かいました。戦いは九年に及びようやく康平五年安倍一族を平定し意気揚々と京に凱旋する道すがら尾山の地に立ち寄りました。そして頼義公は先年の誓いによってこの地に社を建てて八幡様をまつり戦勝を報告し神に感謝しました。これが宇佐神社の起こりであります。以来宇佐神社霊験あらたかな神として人々の尊崇厚く平和を導く尊い神様武運の神様として広く崇められてきました。」 手水舎。社務所。拝殿。狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」にさらに近づいて。 「飾り瓦」。 「命の言葉 令和五年十二月 神社は心のふるさと 未来に受け継ごう「美しい国ぶり」 人の行ふべきかぎりをば行ふが人の道 本居宣長解説 自分の出来ることを一所懸命にやる。報われる報われないは、人の力の及ばないこと。このことを心得て、大いなる事にあたるべし『玉くしげ』」。 「拝殿」の影が石垣に映って。「庚申塔」が木製祠の中に。 近づいて。青面金剛立像。寛延元年(1748)奉納。石垣に張り付いた蔦の紅葉。「本殿」。 「宇佐神社」の東側にあった「八幡塚古墳」に向かって駐車場を進む。 これが「八幡塚古墳」であっただろうか。 「関係者以外 立入禁止」と。 墳頂に上る場所も見つからなかった。入り口に「八幡塚古墳」の石柱が。奥に見える階段がある場所が古墳であった。宇佐神社社殿の裏。社務所脇の細い坂道をあがっていったところにあった。八幡塚古墳墳頂には柵に囲まれて小石祠が四つある。「八幡山古墳」を後にして、「環八通り」に向かって北に進むと、右手にあったのが「寮の坂」碑。 右:多摩川 左:籠谷戸 「寮の坂の由来松高山傳乗寺は、区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(一三一六)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本道とならんで僧侶の学寮が建てられていたために、この坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると、この坂の名称の由来が思い起こされる。なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は、室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主大平出羽守は、上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたともいい伝えられている。さらに時代は下り、江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。設置者: 不 明設置日: 昭和六十年三月」と。 そして更に北に進み「環八通り」の「尾山台一丁目」交差点に出る。 左折して「環八通り」を西・等々力渓谷方向に進む。 「尾山台」交差点を通過。 左折して「等々力不動尊」に向かって歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.05
コメント(0)
そして道路脇の巨大な「六地蔵」を訪ねた。「温顔和楽」と刻まれた碑。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。近づいて。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいたのであった。右から、「ほかほか地蔵」と名前が刻まれていた。「らくらく地蔵」。「ふくふく地蔵」。「にこにこ地蔵」。「すくすく地蔵」。「いきいき地蔵」。塀の角にあった石碑。これも以前のブログにて高校時代の友人から教えて頂きました。「古松談般若(こしょうはんにゃを だんじ)幽鳥弄真如(ゆうちょう しんにょ をろうず)」👈リンク という一対の禅語の言葉であると。古い松の木が風に吹かれて悟りの智慧を説き、山奥に棲む鳥が真実の教えを説きながらさえずっている。すなわち、周囲を見渡せば森羅万象が等しく尊い教えを説いている。この世界そのものが悟りの世界にほかならない と。この先にも石碑が。この石碑には「純未生流之碑」と刻まれていると、これも以前に師匠から。歴史を感じさせる石灯籠。そして引き返して、「山門」右手の大きな台座に鎮座する「聖観世音菩薩立像」を見る。ズームして。右手に開蓮と未開蓮を刺した水瓶を持つ。「聖観世音菩薩立像」の下に向かってっ進む。途中、左手に「山門」を見る。蕾も未だ小さい「八幡桜」。「若宮大路 八幡桜」碑。「鎌倉八幡宮若宮大路の段葛より移植された晋山記念の桜である八幡桜の銘は吉田宮司による平成廿八年降誕会 天嶽院廿九卋正三謹誌」「聖観世音菩薩立像」を斜めから。お顔をズームして。正面から。「慈光遍照」と刻まれた石碑。「お大師様(空海)は、常に私どもにお救いの御心「慈光(じこう)」を遍(あまね)く照らされておられますので、いつでもお大師様の存在を感じる心をお持ちください。そしてお大師様を心に念じながら合掌して『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』をお唱えすることにより、本来自身に備わっている穢(けが)れのない清浄なる心の鍵が開き、御仏に包まれ抱かれている境地と共に、どんな場面でも常に仏様と共に歩んでいるという安らぎと喜びを実感できると思います。」と。左手は、親指と中指を合わせて輪を作る「九品印」・「中生(ちゅうしょう)印」と呼ばれる印相で。紅葉をこれでもかと楽しむ。サザンカであっただろうか?再び山門前から。山門に近づいて。再び掲示板を。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院 写経会」案内。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院 参禅会」案内。最後にもう一度。2023年も様々な場所を訪ねて紅葉を楽しんだが2023年の紅葉も見納め!! ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.03.04
コメント(0)
丸子川沿いに更に進み、右折して「八幡橋」を渡り北に進むと前方左手に寺院が現れた。「浄土宗 傳乗寺」の東側にあった通用門・山門。東京都世田谷区尾山台2丁目10−3。「浄土宗 傳乗寺 法然上人浄土開宗八百年記念」。二階建ての建物は参集殿。そして高さは15m程の立派「五重塔」。木造の五重塔は2005年の建立と。 「五重塔」と境内。 こちら、正門の「仁王門」を境内から。紅葉と五重塔。五重塔を見上げて。「相輪(そうりん)」をズームして。「相輪」の部分名称。相輪とは、五重塔などの仏塔の屋根から天に向かって突き出た金属製の部分の総称。仏教の開祖、釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚であるストゥーパの上に重ねられた傘が起源とされる。 インドは気候が高温のため、釈迦を暑さから守るためと言われている。上から順に宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。 お釈迦様が火葬されたことをあらわす。九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる[注釈 1]。受花(請花):飾り台。蓮華の花。伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。露盤:伏鉢の土台。宝珠は仏舎利が納められるため、最も重要とされる。 なお、中心を貫く棒は「擦」(または「刹管」)と呼ばれる。 また、仏舎利は塔の中に安置されていることもある。近寄って見上げて。寺務所と参集殿。寺務所。参集殿。摩尼車。「本堂」。 浄土宗寺院の伝乗寺は、松高山法生院と号します。伝乗寺は、住誉良公和尚が開山となり創建したと本尊:阿弥陀如来像。本堂は文化4年(1807)3月に、庫裡は享和2年(1802)2月に建てられていると。世田谷区尾山台2-10-3唐破風屋根に近づいて。「「唐破風」とは、中央部を凸型に、両端部を凹型の曲線状にした破風のこと。破風とは、東アジアに広く分布する屋根の妻側の造形のことであり、切妻造や入母屋造の屋根の妻側にも取り付けられている。破風は、妻側の垂木や母屋、桁の部材の先端部分を隠すために取り付けられる板、またはその部位のことをさす。形状によって名称が変化する。唐破風は日本特有の破風形式で、平安時代にはすでに同様のものがあったと考えられており、現存する最古のものと考えられているのは、鎌倉時代に建てられた出雲建雄神社の拝殿だ。古いものは勾配が緩やかで、新しいものほど急である。神社建築や城郭建築、近世の寺院などに多く見られる様式であり、装飾性が高い。」とネットから。中央下部に「唐破風懸魚」もしくは通称として「兎の毛通し(うのけどおし)」。「蟇股横木(梁・桁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれるようになった」と。扁額「松高山」。 木鼻(右)。頭貫(かしらぬき)の先端が柱より出ている部分のことをさしている。簡単にいうと、木の端という意味である。神社や寺院では、本殿や堂の入り口の柱に木鼻をとりつける。鎌倉時代初期のものは直線的で単純な装飾である。室町時代を迎え禅宗が入ってきたことも関係して、複雑な装飾を施すようになった。木鼻には、獅子鼻貘鼻、龍鼻、雲形花や葉をかたどった植物鼻などがある。獅子鼻獅子をかたどった彫刻・ライオンのこと。インドでは王や仏の守護神とされている。各種の装飾に用いられた。木鼻(左)。貘(ばく)鼻中国の想像上の動物の彫刻。鼻は象、目は犀、毛は牛、足は虎で銅や鉄を食べ、人の悪夢を食べてくれるという。「本堂」の左手、墓地の入口にあった地蔵様。墓地。コエビソウ(小海老草) キツネノマゴ科苞(ほう)とよばれる赤褐色の葉がエビのように見えるので「コエビソウ」の和名があります。エビの胴体ような部分は「花序」とよばれ、実際の花はその間から覗いています。仁王門への参道を進む。紅葉に陽光が射し込む。五重塔を振り返って。ここにも石仏が2体。そして「仁王門」と「五重塔」。 近づいて。仁王像(阿行)。仁王像(吽行)。そして次の目的地の「宇佐神社」に向かう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.04
コメント(0)
再び石舟の如き鉢?の上に乗った「聖観音菩薩像」をズームして。移動して。鉢に「感應」の文字が刻まれていた。仏教の語で「感応」とは 「信心が神仏に通じること」である と。二人の童子が支える蓮華座に結跏趺坐で鎮座する「聖観音菩薩像」。二重円光を背負い、左手に開蓮を持つ、右手の印相は来迎印。左下に「龍の吐水口(とすいこう)」。日本では昔から龍神が水を司る神さまとして崇められてきた。水はすべてのいきものにとって命の源。命をつなぐ水は尊いものであり、神道(自然信仰)では穢れや邪気を祓う神聖なものとされた。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は、心身を清めるために行うもので、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しているのである と。「相生松」。「昭和平成伽藍恢興之碑」「昭和」の文字がひっくり返した鏡文字のようになっていたが、「昭和」の『異体字』であると以前に師匠より。「道元禅師御道詠の碑」「峰の色 渓(たに)のひゞきも 皆ながら 我釈迦牟尼の 聲と姿と」。【季節の移ろいとともに変わってゆく峰々の色、そして聞こえてくる谷川のせせらぎ、自分を取り囲んでいる自然の姿そのものの中に仏(釈迦牟尼)の姿を見る、道元禅師の澄んだ心の有り様を素直に感じさせてくれる歌。仏は、お経やお堂の中だけにいるのではありません。山や川や海や雲や、世の中全てのなかに仏はいます。】とネットには。右手に入母屋造銅板葺で妻入の「淨聖殿」。大棟と向拝の唐破風に獅子口、軒廻りは一軒繁垂木で組物は舟肘木、拝は猪目懸魚で唐破風の兎毛通も猪目懸魚、妻飾は狐格子。両開きの桟唐戸と上に菱格子欄間、脇間に花頭窓本尊の「千手千眼観世音菩薩坐像」を安置。「浄聖殿」内に安置されている本尊「千手千眼観世音菩薩像」をパンフレットから。像高34.5センチメートル、総高83センチメートル、玉眼、金色相、寄木造の坐像。室町後期の作と。扁額「淨聖殿」。そして切石敷の参道を進んで行くと正面に切妻造銅板葺の「中雀門」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた中雀門を通して本堂(法堂)が見えた。扁額は「湘中早雲禅寺」。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院」と。「常香炉」越しに「本堂・法堂」を見る。中雀門の真ん中に「常香炉」が置かれ、香炉に乗っている鞠を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿形吽形の龍が参拝者を迎えてくれたのであった。「常香炉」には寺紋の「北条鱗」が。「常香炉」に近づいて。鎌倉の北条と小田原の北条(後北条)。家紋も同じ三つ鱗のようでいて微妙に違うらしい。「正三角形の三つ鱗」は、「鎌倉時代の北条氏(特に得宗家)」が使用していたと言われている。一方、「二等辺三角形の三つ鱗」は得宗家以外の北条氏や「戦国時代の後北条氏」が使用しており、「北条鱗紋」と呼ばれる事がある。ただ、得宗家が二等辺三角形の三つ鱗を使用していた形跡もあるのだと。こちらに関しては厳密にどちらが使用していたかを区分するのは難しいと言えるのだ と。「中雀門」の前、「淨聖殿」の対面に建つのは入母屋造銅板葺の「寺務所」。「中雀門」前から「山門」方向の境内を見る。玄関前には「掃除小僧」の姿が。「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」。「木々の色鮮やかな紅葉に目を奪われ、葉が落ちる様子に少しの物悲しさを覚えます。はらはらと庭先で積もる落ち葉は、日々増えて毎日掃いてもきりがないように感じます。今月のことばは、そんな落ち葉の様子を人の心になぞらえた道歌です。心は常に清浄でありたいと願うものの、人との小さな摩擦や日々の出来事で、簡単に人の心はささくれ立ちます。苛立ちや怒り、自分の価値観で凝り固まった自尊心は少しずつ塵のように自分の中に溜まっていくのかもしれません。宮城顗先生のことばに、次のようなものがあります。「いつとはなしに積もってしまう塵とは、自分の体験のみを絶対的なこととして誇る自負心、驕慢心であります。どこからともなくにじみでてきて肌をおおってしまう垢とは、自分のしたことや考えについての執着心であります。その塵と垢とを払い除かないかぎり、努力すればするほど人をへだて差別し、軽蔑する人間になってゆくのです。人々への愛に生きているつもりが、いつしらず、愛に生きている自分自身への自己満足と自己固執にすりかわり、人々がその愛に生きる自分を理解しないときには、逆にその人々を軽蔑し、憎みさえしてしまいます。」自分では気づかないそのような心を掃き清めるのは、一日の終わりの感謝のことばではないでしょうか。静かに一日を振り返り、真摯にわが身を問いかける、そして他者にかけてもらったあたたかいことばや出来事を思い出し、一日が無事に過ごせたことに感謝の思いを抱きます。「ありがとう」の思いでその日を閉じ、「ありがとう」の心を明日へと繋ぎます。感謝とわが身を振り返る生活が、知らず知らず積もっていくわが身の塵に、少しでも気づくきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。」とネットには。可愛らしい小さな石仏も。「淨聖殿」を振り返る。この四角い穴の空いた石碑は?石灯籠?獅子像を中雀門側から。再び「聖観音菩薩像」を見る。獅子像越しに紅葉を。「大悲願力透徹◯永劫」と刻まれた石碑。「六地蔵」の手前のここにも掲示板があった。「時の流れに心せよ「まだ」は忽ち「もう」となる」。高齢者にとっては、身にしみる言葉なのであった。「六地蔵」。庫裡の建物の一部であっただろうか?「早雲閣」と。「早雲閣」の玄関。「東司」は手洗い。手洗の中の額に書いてあった言葉を紹介させて頂きます。「禪寺では御手洗のことを東司(とうす)と申します。一、佛殿(ぶつでん)ニ、法堂(はっとう)三、僧堂(そうどう)四、庫裡(こり)五、山門(さんもん)六、東司(とうす)七、浴室(よくしつ)以上が禪寺に於ける七堂伽藍であります。」と。「庫裡」前から「鐘楼」を見る。「梵鐘」越しの紅葉。「鐘楼」越しの紅葉。そして「不動殿」横の小径を進む。紅葉を見上げて。三体の石仏が祠の中に。近づいて。突き当りを右に折れて、山門の横に向かって進む。奥に「山門」の茅葺きの屋根が。「山門」を見る。紅葉を愛でながら引き返す。「中雀門」への参道入口まで戻る。再び右手奥に「中雀門」を。そして山門に向かって引き返す。寺の方が落葉をハンディブロワーで清掃されていたが・・・・・。石畳の上の落葉も綺麗に??苔の上の落葉は残り風情を保っていたのであった。山門手前。「千寿桜」「千寿桜天正十九年夏日 徳川家康公御手植」と。そして「山門」まで戻って再び仁王像を見る。阿形像。お顔を横からズームして。吽形像。お顔を横からズームして。「仁王尊像」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.03
コメント(0)
「照善寺」を後にして「丸子川」に架かる橋を渡ると正面の民家の塀に庚申塔が塗り固められていた。照善寺の門前にあたる場所である。ここは筏道でもあったので、江戸時代には青梅の筏師が続々と帰途を行った道で、途中には休み処もたくさんあったと。右隣りも昭和期までは酒屋をやっていて、賑わった街道筋だった痕跡があるのだと。庚申塔は駒型で、青面金剛像に三猿の図柄。造立年は元文元年(1736)11月と。正面右にシンプルに「奉納 庚申」とあるが、側面が埋められて見えないのでそれ以外の情報は分からない。大田区田園調布5丁目50-3 その先にあったのが「お鷹の圦(いり)堰」。用水の余水を多摩川に流す分水堰。現在もこの場所には多摩川への分水路の水門。さらにその下流の田園調布一丁目の多摩川浅間神社付近の丸子橋の上流で多摩川左岸に合流する。丸子川はここで終わるが、六郷用水は現在の大田区の東部まで続いているとのこと。 「お鷹の圦(いり)堰」を振り返って。鯉がのんびりと。丸子川沿いは桜並木となっていた。「樹木の根元に腐朽があり倒木の恐れがあったため伐採を行いました。」と。右手にあったのが「田園調布八幡神社」。 扁額「八幡神社」。 「八幡神社 案内」。 「御祭神 誉田別之命(ほむたわけのみこと) 創建 建長年間(西曆一二四九~一二五六年 鎌倉時代) 所在地 東京都大田区田園調布五丁目三〇番地 新建築物 社務所 木造モルタル 寄棟造 鉄板葺 その他の現存構築物 社殿 本殿 木造 一間社流造 板葺 年代 推定明治三十三年 社殿 本殿覆屋 木造モルタル 流造 瓦葺 幣殿 木造 切妻造 鉄板葺 以上二棟の年代 昭和四十六年 拝殿 木造 入母屋造 瓦葺 年代 推定 明治三十三年 稲荷神社 木造 一間社流造 鉄板葺 鉄造鳥居 鳥居 石造明神型 年代 享和二年(一八〇二) 石造明神型 年代 昭和十五年 狛犬 石造 年代 大正十年 手水舍 木造 年代 昭和四十七年 手水石 石造 年代 昭和十四年」 「由緒創建 田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(西暦一二四九~一二五六)と 伝えられる。 この時代、鎌倉幕府は執権北条氏が実権を握り、国内基盤固めを 行なっていた。各地では 武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を示す意味もあり、 源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛ん で、多くの八幡神社が建てられた。 当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと…今もそう呼ぶ 年配者もいる)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、 物資を積 んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ 貫いて鎌倉街道が 通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一帯には 多くの鎌倉武士が駐屯し、 鎌倉街道の要衝の地となっていた。そして、この 八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所で あった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て、 八幡神社を勧請した。以来、この 八幡神社の地は聖地となり、人々に崇められてきた。 中興 天正十八年(西暦一五九〇年) 小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏照の旧臣、 落合某が この村に庵を結び、主家の冥福を祈った。 そして、寛永年間(西暦一六二四 ~一六四四年)、 落合某の孫、落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建 され、ご神体が祀られた。 江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田ヶ谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併 まで 村社であった。 寛政四年(西暦一七九二年)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とする など、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。」 「丸子川」に架かる橋の先には、石段がありその先に一の鳥居が。 「八幡橋」 丸子川を見る。石段を上って行った。ユニークな手水場。手水鉢には「浄心水」と。 龍の吐出口に竹が。正面に社殿。御祭神 誉田別之命(ほむたわけのみこと) 創建 建長年間(西曆一二四九~一二五六年 鎌倉時代)狛犬(右・阿形) 石造 年代 大正十年。狛犬(左・吽形) 石造 年代 大正十年。本坪鈴(ほんつぼすず)。移動して。境内社・稲荷社。幟には「正一位 稲荷大明神」と。 朱の鳥居の先に小さな稲荷社社殿が。近づいて。さらに。社務所。境内のイチョウの黄葉。そして「田園調布八幡神社」を後にして、丸子川に沿ってさらに北方向に進む。 「庵谷橋(いおりやばし)」を過ぎて「吹上橋」へ。 「吹上橋」の欄干には花菖蒲の木彫りの姿が。吹上橋の前にあったのが「ゆうちょ銀行ATM 田園調布五郵便局」。 その先にあったのが「上の橋」。 丸子川に架かる橋の名前。更に丸子川に沿って進んで行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.03
コメント(0)
季節外れの、昨年の紅葉見物の最後のブログアップです。この日は2023年12月12日(火)、この秋も多くの場所の黄葉・紅葉を楽しんで来たが、地元市内にある「天嶽院」の参道の紅葉も美しいので、訪ねたのであった。駐車場に車を駐め、この日も散策開始。「天嶽院」の「山門」は西向きに建っているので、紅葉の参道に陽光が入りこむのは15時前後からが良いのである。この日も15時過ぎに到着。駐車場に車を駐め散策開始。神奈川県藤沢市渡内1丁目1−1。「功徳山 早雲禅寺 天嶽院(てんがくいん)」。頂いたパンフレットから「天嶽院境内案内図」を。「参道」入口の門柱。この門柱に書かれている文字は、数年前に、我が高校時代の友人Sさんから教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」と。「雨花佛境を知り 流水禅心を識る」と。「雨花知佛境」(右側)の門柱。「流水識禅心」(左側)の門柱。山門に向かって進む。「山門」とその前の「寺号標石」と「金剛力士像・仁王像」。寺号標石「天嶽院」。・真言密教の古寺「不動院」から始まる。・治承四年、源頼朝公は、伊豆で挙兵、鎌倉を目指すが、途中「不動院」に立ち寄り 不動明王様に大願成就祈願をされたとの伝説がある。・明応四年、北条早雲公によって伽藍の一宇が創建され、「不動院」を改めて曹洞宗の禅寺とし、 虚堂玄白禅師を迎えて開山。・天正四年、火災に遭い伽藍は全焼。・中興開基 玉縄城主北条綱成公、氏繁公父子。・再中興開基 紀伊大納言徳川光貞卿。・昭和平成伽藍復興。向かって右側の「阿形像」。上半身をあらわにした2体は、筋骨隆々。カッと両の目を見開いて、睨みをきかす迫力たっぷりの表情。左手に長い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を下に向けて大きく開いて。向かって左側の「吽形像」。左手に短い金剛杵(こんごうしょ)を抱え、右手の五指を正面に向けて大きく開いて。「掲示板」。「過ぎて 悔やむな 人生は 空しく 生きるな 今日の日を」と。「山門」前から「参道」の「モミジトンネル」を望む。「不許並葷酒入山門」と。【くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず】多く禅宗の寺の門前に立つ結戒の一つ。「不許葷酒入山門」とあり、臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内に入ることを許さないということ。山門を絵画の額縁に見立てて。「山門」を潜りながら。モミジのトンネルに続く切石敷の参道....石畳とその左右に敷き詰められた苔の緑が絨毯のようで美しいのであった。「参道」を歩く。モミジのトンネルの中から眺めた石段上の堂宇境内。言葉は不要の絶景!!石畳の上には、前日の雨で、濡れ落ち葉?が。近づいて。苔の上にも。再び真っ赤に染まった紅葉を追う。正面奥に「中雀門」が見えて来た。そして参道の石段を上る。石段の上から紅葉を振り返る。山門を振り返って。ズームして。「中雀門」入口の獅子像(阿形)。獅子像(吽形)。自然石を刳って作ったのであろうか、「手水場」が。「舟落葉」が水面に。「鐘楼」を見る。「梵鐘」。安永3年(1774年)の銘のある梵鐘。総高161.8センチメートル、口径81.6センチメートル、鐘身111センチメートル。銘文の文中には「功徳山早雲禅寺天嶽院北条氏繁公草創」とある と。鐘楼とは反対側の紅葉。「参道」の右手にあったのが「不動殿」。「参道」には「獅子像」、その手前に「八角青銅燈籠」が。「八角青銅燈籠」。「不動堂」への入口の紅葉。ズームして。「不動殿」前には、石舟の如き鉢?の上に乗った「聖観音菩薩像」が。巨大な手水鉢なのであろうか。そして再び山門方向の参道を振り返る。「不動堂」を正面から。内陣に近づいて。不動殿には「不動明王像」、「大黒天像」、「愛染明王像」を安置。「天蓋」。中央に「不動明王像」。火焔を背負って鎮座する宝剣と羂索を持つ濃い青色の「不動明王像」。「愛染明王像」。「大黒尊天像」。この美しい線刻の如き絵画が描かれていたのは、これも燈籠であろうか。 ・・・つづく・・・
2024.03.02
コメント(0)
「蓬莱山古墳」を後にして、田園調布4丁目の高級住宅街を北方向に向かって進む。 左折して、多摩川方面の下り坂を進む。正面に武蔵小杉の高層ビル群が見えた。右に折れると左側には大山、丹沢山の姿が。さらに西に向かって進む。「大田区田園調布四丁目 34-2」と。右手にあったのが「秋葉のクロマツ」。東京都大田区田園調布五丁目に生育するクロマツの巨木。「都天然記念物 秋葉のクロマツ所在 大田区田園調布五ノ三ノ一九号指定 昭和三十八年三月十九日主幹は直立し、根もとから約7mのところで枝を四方にのばし、傘状に拡がる。目通り幹囲3.9m、高さ約15m。根もとに照善寺の守護神として秋葉神社の小祠が祀られているので、「秋葉のマツ」といわれている。多摩川の台地の上にあって、遠くからも望見することができ、樹勢は旺盛である。都内におけるクロマツの巨大なものとして指定。クロマツは海岸地方に多く自生する常緑樹で樹皮は暗褐色、四月に開花する。オマツとも呼ばれる。昭和43年10月1日 建設東京都教育委員会」 推定の樹齢は約300年といわれ、多摩川近くの台地上に生育していることから遠くからもよく目立つ木である。この木は、1963年(昭和38年)に東京都の天然記念物に指定された。「秋葉のクロマツ」を廻り込みながら住宅街を歩く。 そして見事に紅葉する木々も。塀の紅葉も見事。そして坂を上り終えた場所にあった案内柱「馬坂(うまさか)」。 「この坂道は、大正の頃まで、馬がひく荷車で台地へ上る唯一の坂道であるため、馬坂と呼ばれた。昔は荷車が通るだけの狭い道幅であったが、耕地整理により道幅も現在に近いものになったといわれる。また、寺坂と呼ばれたこともあった。」 「馬坂」を振り返って。「大田区田園調布五丁目5」と。 そして「馬坂」を引き返して、下り、右手にあった「照善寺」を訪ねた。「照善寺」。先ほど訪ねた「秋葉のクロマツ」が生育している場所は、昔は照善寺の所有地内であったと。照善寺は山号を「常光山」、院号を「無量光院」といい、1586年(天正14年)にこの地にできた草庵をもとに、1639年(寛永16年)に相蓮社廣誉全公が開山となって創建した寺院で浄土宗に属する。「東門」を入ると左手にあったのが「地蔵堂」。 境内の南側にも山門があった。正面に「本堂」。「常光山無量光院照善寺」、本尊:阿弥陀三尊。「本堂」の向きからして、上記山門が正式な正門か? 「宗歌月影の いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ 宗祖 法然上人御詠」。月の光は、野山や里をくまなく平等に照らしていても、その月をながめる人でなければその美しさは心に伝わらない、という意味であると。「月影」は仏さまの光。「ながむる」とはみ教えを聞く「ご聴聞(ちょうもん)」のことと。法然坊源空像。 「求道青年法然坊源空 廿四歳」と。 保元元年(1156) 法然上人は24歳の時、広く人々を救うための仏教を求めて釈迦像の前に七日間おこもりになったのだと。角塔婆「奉修 本尊阿弥陀如来遷座供養之寶塔」と。 廻り込んで。四角柱状の卒塔婆のこと。四角塔婆ともいう。年忌法要等の際に墓の傍に建てる薄い板状の板塔婆に対する柱状の塔婆。本堂落慶式、秘仏開帳、祖師大遠忌、十夜等の法会において境内に建てられる。幅五、六寸(一五センチから一八センチ)、長さ一丈(約三メートル)くらいから、大きいものになると幅一尺(約三〇センチ)以上、長さ二丈(約六メートル)をこえるものもある。特に長野善光寺で、七年に一度行われる本尊開帳のときに建てられる回向柱えこうばしらといわれる角塔婆はよく知られている。形状は五輪塔を模したもので、上から空輪・風輪・火輪・水輪を刻し、一番下の地輪の部分を長くしてある。浄書するときには、下部の土中に埋める部分に文字がかからないように、また四面の文字が均一におさまるように、字配りに工夫が必要である。秘仏開帳や大寺院の十夜法要などには、本堂の本尊と角塔婆の間を、本尊から内陣と外陣の境までは五色の紐で、そこから角塔婆までは白布を紐のようにしてつなぐ。角塔婆の正面を、本堂の本尊と同じ向きにする場合と、向かい合わせにする場合とがある。本堂の向きによっては、角塔婆の正面が東方の面(発心門)とならない場合もあるとのこと。「本堂」に近づいて。 屋根の飾り「巴蓋(ともえぶた)」には獅子の姿が。 扁額「照善寺」。 内陣を観る。さらにズームして。本堂脇の墓所入口にあったのは無縁塚か?石仏が多数集められており、その中の一基が馬頭観音。舟型に三面六臂の馬頭観世音菩薩を陽刻、頭上に馬頭を持つので馬頭観音ということがわかる。施主名落合次郎兵衛とのみあり、年紀は不明だが明治ではなく江戸時代のものかと思われる。石仏群の左端のひときわ大きな2基の石仏はどちらも庚申講中によるものである。右の石仏の尊像は阿弥陀如来像。造立年は寛文12年(1672)12月で、尊像脇には「石佛造立旨趣者」「為庚申供養成就」そして講衆十人とある。左の石仏は地蔵菩薩立像で、こちらの造立年は寛文5年(1665)7月。尊像脇には「於當寺地蔵建立趣者」「為庚申講供養成就也」とある。下部には落合氏、長氏の願主名が残っている。聖観世音菩薩像であっただろうか。穏やかなお顔に近づいて。本堂の左側には墓地が。再び地蔵堂を。地蔵堂の屋根には「火焔宝珠」が。境内から「山門」を再び。 掲示板には・・・・。山門の扁額は「常光山」。 振り返って。山門手前の左側の石碑には「浄土宗 照善寺」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.02
コメント(0)
次に訪ねたのが「目黒通り」沿い「満願寺坂」を更に進んだ場所にあった「玉川神社」。東京都世田谷区等々力3丁目27−7。社号標石「玉川神社」。石段の上に「玉川神社」の「一の鳥居」。「玉川神社祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉再尊(いざなみのみこと)、 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)例祭 九月二十八日文亀年間(一五〇一~四)に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、別当は、満願寺で等々カ村の鎮守であった。明治五年に村社に定められ、同四十一年に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御獄神社を合祀した。境内には、郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。 昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会。」せたがや百景97 等々力の玉川神社とその周辺巨大な石灯籠(右)。巨大な石灯籠(左)。狛犬(右)。狛犬(左)。石鳥居の先に忠魂塔。忠魂塔。「手水舎」。龍の吐水口(とすいこう)が2体。参道の先に「拝殿」。左手に「神楽殿」。境内の銀杏の木の黄葉。拝殿に向かって進む。右手に社務所。「おみくじ結び所」。ここにも古そうな狛獅子(右)。古そうな狛獅子(左)。「祓戸社」。近づいて。「祓戸の神様は諸々の禍事・罪・穢を祓ってくれる神様です先に「祓へ給へ清め給へ」と唱へて、身を清めてから本社・末社をお参りしてください」拝殿。御祭神は天照大御神・伊邪那岐神・伊邪那美神・事解男神・大国主神・少彦名神・ 日本武尊・建御名方神 八柱と。拝殿は昭和十五年(1940)に再建されたもの。旧社殿は大正七年(1918)に不審火によって焼失。この石碑は?裏側であったか?「髙屋直弘翁 留魂碑」。「郷土開發之偉人 豐田正治翁之碑」。「整地記念碑」。「境内社」。天満宮と八幡神社の合殿。「大國社」。手前に二対の狛犬が。内陣には鏡が。朱色の鳥居が設けられ稲荷社。正一位稲荷大明神の幟。多くの狐様が迎えてくれた。「神明社」。「三峯神社」。「三峯神社」。神明社の小祠。「社殿再建之碑」。そして「石獅子のオブジェ」。近づいて。獅子が千尋の谷に子を突き落とすという故事に因んだもの。「石獅子(いわしし)獅子は子を生むと その子を深い谷底に投げ落toし生き残ったものだけ育てるという俗説から自分の子に苦しい試練を与えその才能をためし 立派な人間に育てることのたとえとして 遠き昔よりこの様な子育ての信仰があった」父獅子。子獅子。母獅子。神符授与所。境内から石鳥居を見る。移動して境内を。右手に社務所。「クスノキ」。形状から「とっくりクス」と呼ばれていると。太い幹から新芽が伸びて。「名木百選 クスノキ 世田谷区昭和62年3月選定令和2年1月再選定」そして「玉川神社」を後にして「等々力駅」に向かって「目黒通り」を戻る。先ほど訪ねた満願寺の山門方向に進む。「満願寺」の黄葉を見上げて。等々力の旧家を再び。映画ポスター「アントニオ猪木を探して」。プロレスリングポスター「ベルク Presents WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」。そして駅近くで遅い昼食を。中華丼を。そして「等々力駅」から帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.01
コメント(0)
そして「古墳展示室」を後にして外に出る。見事に黄葉した多摩川台公園第一広場の隅のイチョウを再び。右手奥に見えたのが「カトリック田園調布教会」。 1931(昭和6)年にカナダ・フランシスコ会の宣教師によって創立された「カトリック田園調布教会」。アシジの聖フランシスコを保護の聖人としていることから、「聖フランシスコ教会」とも呼ばれている。現在の聖堂は1955(昭和30)年に建てられたもの。時間は11:00。「平和都市宣言」像。「平和の像・愛し子」と。1984年(昭和59年)8月15日「……大田区は平和憲法を擁護し核兵器のない平和都市であることを宣言する」とあった。 母子のお顔をズームして。多摩川台公園第一広場を振り返って。左にメタセコイヤ、右にイチョウの大木が黄葉して。多摩川台公園第一広場の紅葉を楽しむ。左手に「第2号墳」。 その先に「第3号墳」。「古墳展示室」を振り返る。「東京都指定史跡多摩川台古墳群所在地 大田区田園調布一丁目六十三番 同四丁目三番 指 定 平成十二年三月六日多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都都指定史跡宝莱山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(四世紀)に築造されている。古墳群は、最初に二号墳が六世紀前半に築造され、二号墳を前方部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長三十九メートル)が六世紀後半に築造された。その後、三号墳から八号墳までの円墳(直径十三~十九メートル)が七世紀中頃まで継続して築造された。発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄鏃等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでなく、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。平成十三年三月三十一日 設置 東京都教育委員会」 広場から一段上の遊歩道へ。「第?号墳」。展望所前にあった案内板と休憩所。「多摩川の自然」。ふなやこいが釣れるようです。鳥では、ひよどりやきじばとなどが見られると。「多摩川台公園からのながめ」。 丹沢の山々の奥に富士山の姿が見えると。富士山の姿を探す。前方に「Uvanceとどろきスタジアム by Fujitsu」の姿も確認できた。 ズームして富士山の姿を確認。①~⑦までの古墳群の配置図をズームして。武蔵小杉周辺の高層ビル群。「第4号墳」。 さらに遊歩道を進む。「第5号墳」。 「多摩川台古墳群の案内」。 ズームして。「第6号墳」。「第7号墳」 。そして「虹橋」が前方に。8号墳と宝萊山古墳はこの橋の先にあるのだ。「虹橋」。 「虹橋」の下には車両が通過できる道路が(北方向)。南方向。「虹橋」を渡る。 「大田区立 多摩川台公園 案内板」。ズームして。現在地はここ。「大田区自然観察路「雑木林のみち」ポイント2 多摩川台公園の植生雑木林は人の手によって作られた林で、クロマツなどの高木やムラサキシキプなどの中低木で形成されています。また、園内にはアジサイなども植載されています。それそれの植物の特徴や季節ごとの変化について観察してみましよう。」 「第二広場」が前方に見えて来た。 周囲の紅葉・黄葉はピークに。ここにも「多摩川台古墳群」案内板が。 近づいて。見事な紅葉の下を歩く。「第8号墳」。 公園内のいたる場所に「大田区立 多摩川台公園 案内板」が設置されていた。 現在地はここ。「第二広場」北側の紅葉を楽しむ。黄金ヒバの黄葉であっただろうか?モミジ葉は炎の如くに。そして「多摩川台公園」の北側入口にいったん出る。「多摩川台公園」。 そして再び「宝莱山古墳」前の広場に向かって坂道を南に向かって上る。広場にあった案内板。「東京都指定史跡蓬莱山(ほうらいさん)古墳」案内板。 「東京都指定史跡蓬莱山古墳蓬莱山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、大田区多摩川台公園西端の標高三十七・五m付近に築造された前方後円墳である。国史跡亀甲山古墳に次ぐ全長約九十七メートルの規模をもち、古墳時代前記前半(四世紀前半)に築かれたこの地域最古の前方後円墳である。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約百七メートルの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。昭和九年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土槨の埋葬施設が発見され、倣製四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣、槍等が出土している。現在、この出土品は、慶応義塾大学と大田区立郷土博物館に展示・保管されている。また、この出土品のレプリカは、多摩川台公園内の古墳展示室に展示されている。平成七年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「撥状」に広がる形をとり、前方部南側の墳丘裾から台地の際まで張り出していることが明らかにされた。墳丘は、後円部三段、前方部二段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要な遺跡として、平成八年三月十八日付けで、東京都指定史跡に指定された。大田区」 現状と現在地。断面図と古墳の規模。「蓬莱山古墳」の紅葉をカメラで追う。「多摩川台公園(蓬莱山古墳拡張部)の樹林多摩川台公園は、都市の中にありながらもまとまった緑と豊かな自然が残る公園です。また、丘陵地にあるため遠くからでも挑めることができる貴重な樹林です。でも、もともとの自然林ではありません。人の影響を受け、管理されながら自然を保っている二次的な公園型雑木林です。この宝来山古墳拡張部も人の影響を受けた樹林ですが、人の手が入らなくなってからだんだん樹林が荒れ始めてきました。これガらは適度に管理して、樹木を守っていきます。」 「蓬莱山古墳」の北口入口にはゲートが。「大田区立 多摩川台公園 案内板」。 「この門は下記の時間で開閉します」 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.01
コメント(0)
全36件 (36件中 1-36件目)
1