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8時にドブロヴニクへ向けてホテルを出発。
昨日は雨のため見ることができなかったアドリア海沿岸の街並みを楽しむ。
アドリア海に面したPlat地区付近の街並み。
城壁に囲まれ赤い屋根の密集した部分がドブロヴニク旧市街。
年間1千万人もの観光客が訪れるというヨーロッパ屈指の観光地は,四方が500mくらいの
頑丈そうな城壁に囲まれ、アドリア海の紺碧を背景に白壁とオレンジ色の屋根が連なる。
その街並みは「アドリア海の真珠」(pearl of the Adriatic)と呼ばれているのです。
英国の作家バーナード・ショーは「ドゥブロヴニクを見ずして天国を語るなかれ」と讃えたとか。
旧港には多くのプレジャーボートやヨットが停泊。
海側は断崖の上に城壁がそそり立ち、澄んだアドリア海に囲まれていた。
ドブロブニクの旧市街は立派な城壁にすっぽりと囲まれている。その長さは1940mと。
背後にそびえるスルジ山。
再びバスに戻りドブロヴニク旧市街に向かう。
旧港の全体の姿が見えた。 後ほどこの旧港からクルージングするのだ。
ドブロヴニク旧市街のピレ門前 ↓ でバスを降りる。
ドブロヴニク旧市街案内図。
バスを降りると小広場には、男の足が獣の足の如く、下半身が毛で覆われていて
何とも不思議な像。
ギリシア神話のケンタウロス(半人半馬の怪物)の像?か。
ピレ門。
バスの客はここから入城することになる。
旧市街への入口となるこの門は西側に位置しており陸、海等からの攻撃に
耐えられるよう強固な造りとなっており、14~16世紀にゴシック様式で建造された門る
門の手前下の空堀も、なかなか大規模。
ピレ門の上には守護聖人聖ヴラホ像(Sveti Vlaho)。
この聖ヴラホは、街の模型を手に乗せた像。
316年に殉教した司教で、10世紀ごろから街の守護聖人として親しまれて来たと。
ピレ門前の空堀に架かる橋は、跳ね橋になっていた。
当時は日没になるとこの門を閉じていたとのこと。
西側を向けば、空堀と旧市街の最奥のボカール要塞(Tvrđava Bokar)が見えた。
ボカール要塞は、ピレ門を守る役目を果たしたと。
ドブロブニクの旧市街の西側に位置するロヴリイェナツ要塞(Tvrđava Lovrijenac)の
光景。ボカール要塞と向かい合う、城壁外にある要塞
最も分厚いところで城壁の厚さが5mもあると。
門の裏側には跳ね橋を開閉する鎖と錘がぶら下がっていた。
ドブロヴニク説明のこの日の現地ガイドから説明を受ける。
ガイドによると街の起こりはローマ帝国以前からとも言われており、
イタリア語でラグーサと呼ばれるこの街は中世の時代「ラグーサ共和国」として
海洋貿易で栄え街を守るため堅固な城塞都市が築かれた。
街は1806年ナポレオンが率いる軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の
3,000発の砲撃によって共和国は陥落フランスの支配下に、更に1814年
オーストリア=ハンガリー帝国によって支配されハプスブルク領ダルマチア王国となり、
この支配は世界大戦まで続いた。第一次大戦後にセルブ・クロアート・スロヴェーン国が
発足したときに街の名前がラグーサから現在のドゥブロヴニクに変更され、
第二次世界大戦後ユーゴスラビアの一都市となったが1991年の6月に
ユーゴスラビアからクロアチア独立。街の旧市街は「ドゥブロヴニク旧市街」として
1979年にユネスコの世界文化遺産に登録されたが、1991年の10月1日に
ユーゴスラビア人民軍(JNA)が攻撃を開始し、その後ドゥブロヴニク包囲が
7ヶ月間続いたことにより大きな被害を受けたものの、現在では一部で
その傷跡が残るものの見事に修復が行われ大勢の観光客でにぎわっているのだと。
1438年に造られたオノフリオの大噴水はこの時には補修工事中であった。
オノフリオはナポリ出身の建築家。
ピレ門を入ってすぐの広場にある壁面に16のレリーフがあるこの噴水、
市民のために15世紀にナポリの建築士オノフリオに依頼して造ったもので、
ここから10キロメートル以上離れたスルジ山の源泉から送水していたと。
ガイドの説明によると、この時代に下水道も造っていたと。
中世から貿易港として発展した都市だけに、多数の外国人が出入りした。
大きな問題は他国から未知の疫病を持ちこまれること。その防止策としても
公衆衛生の意識が早くから発達していた証拠でもあると。
また、伝染病対策として、流行地域からの船は1ヶ月間沖合に足止めするという
制度を作ってもいたと。
噴水の絵が描かれたダミーの工事用フェンスの隙間から本物を撮影。
こんなレリーフが16面あるとのこと。
不気味な顔の悪魔(?)の口から蛇口が出ており,ここから貴重な生活用水が供給され,
今もなお美味しい水として定評があり多くの観光客が飲んでいると。
プラッツア通り(ストラドゥン通り)。 9時前の為か未だ人出はすくなかった。
ピレ門の入り口から中心部ルジャ広場まで約300m続くドブロブニクの目抜き通り。
通りの両側にはカフェや銀行、土産屋などが軒を並べていた。
この場所は、最初は水路であったが、埋め立てて通りとしたのだと。
狭い路地が網の目のように延びていて、地元の生活音が耳に届き、はるかな昔に
タイムスリップした如し。
オノフリオ大噴水と向かいあってあるのが、救世主教会、別名 聖スパサ教会。
ピレ門とフランシスコ会修道院の間に建っている救世主教会は、
1667 年の大地震でも倒壊せずに残った数少ない建物の1つ。
小さく控えめな建物はルネサンス様式の建築として有名で、この地域の
ほかの教会の設計に影響を与えたと言われていると。
この建物の特徴は美しい装飾がなされた丸い窓。
そのクラシカルな窓の下には、ラテン語で命が救われたことに対する感謝の念が
書かれていると。さらに下には小さな天使の顔が彫られていた。
その東隣には高い塔のあるフランシスコ会修道院が。
ロマネスク様式の修道院で1337年に建造が始まり、15世紀になって完成。
1667年には大地震で崩壊し、再建。回廊はダルマチア地方を代表する建造物で、
フランシスコ会修道院の尖塔は後期ロマネスク様式。
ここクロアチアは、人口430万人の9割弱がローマカソリック教徒とのこと。
狭い路地を入ったところが修道院の入口。
入口とのことでしたが裏口のような狭い路地を入っていく。
さらに進むとフランシスコ会修道院の入り口に。
後期ロマネスク様式の回廊は、ダルマチア地方を代表する建築と。
回廊の柱には当時の生活や土地柄を示す多くの装飾が施されていた。
内部には1391年創業というヨーロッパで3番目に古い『マラ・ブラーチャ薬局』が
現在も営業中と。
当時は修道士達が中庭で薬草を栽培し、薬を調合していたと。
貿易都市として人の出入りの激しいここドブロヴニクでは、街の衛生と市民の健康管理が
何よりも優先課題として徹底していたのだと。
しかしこの日は日曜日で残念ながら閉店中。