JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.06.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『池田の渡し歴史風景館』を後にし、天竜川に向かって歩くと道路角にあったのが
『池田橋の跡』碑。
明治16年(1883年〉、幅2.72m、長さ765mの当時日本初の有料木橋が掛けられた。
現在は「池田橋跡の碑」が建てられていた。
昭和8年に取り壊され、現在は対岸に渡るには下流の天竜川橋と新天竜川橋を使っている。
池田の渡し場は上中下の3箇所があり、この写真の付近は「上の渡し」であった。
普通は下流の「下の渡し・中の渡し」を使い、増水時に「上の渡し」を利用したのだと。
池田は、古東海道時代は物流も盛んで、宿場として栄えていた。
江戸時代は、渡し場として栄え、茶屋や宿屋もあった。
かつての天竜川は暴れ川で、平安時代は池田の東側を流れていたと。
15世紀末に池田の西側に流れが変わり、その後も流路を変え続けたのだと。



堤防下にあったのが『家康の天竜池田渡船場の許可証』が。



「遠州天竜池田渡船之事 
一、河上・河下雖為何之知行、地形於可燃地船可通用之事
一、棟別参拾五間寺方共仁、此屋敷分扶持与出置、井拾二座二付役等竹木不可見伐之事
一、於分国中、夏秋両度升を入、致勧進之由申上之間、可為先規事
右条々、有河原昼夜令奉公之条、停止諸役、永為不入免許畢、然者彼拾人之者共、為雑色分上者、
聊不可有非分、於背此旨輩者、急度申出之上、可加下知者也、仍如件、    
天正元 癸酉年      十一月十一日  家康  花押          

船守中このお墨付きを要約すると、
一、天竜川川筋で誰の領地にかかわらず、適当な場所で渡船を行うこと。
一、そのかわり渡船方三十五軒と行興寺の家屋敷の税を免除し、渡船差配人である「十二座」の
  者の役を保証してその屋敷の竹木を保護する。
一、遠江国内で今までどおりに年二回渡船運営等に必要な費用を集めることを許す。
右の条々は昼夜渡船に携わることに対する報奨であり、さらにいろいろな役目を免除して
長期にわたって干渉しない。船守の十人に対して、乱暴な行為を禁止する。
このことに背いて訴えられた者は、処罰する。 
御墨付きは、今から約430年前(1573年)、徳川家康が池田の渡船関係者に与えた
天竜川渡船権の許可証です。武田軍が攻めてきた時、常に家康側の味方となって協力を
惜しまなかったことから、与えられたとされています。
これにより、天竜川の渡船権は、池田の渡船にかかわる人だけが持つようになりました。」



堤防上の道路・県道343号線(上野部豊田竜洋線)に上がり天竜川の上流側を見る。



東名高速道路をズームで。



下流側には国道1号線・浜松バイパスそしてその奥に県道261号線。



堤防の下部の遊歩道には写真入り案内プレートが。
『天竜川を上り下りした帆かけ舟』。
「江戸後期から明治に入り、渡船がなくなった後、帆掛け船等により、天衆側上流部へ
生活物資(米など)を送り、上流部からは木材・鉱石(銅など)を陸揚げし、人車軌道
(トロッコ)にて中泉駅(現磐田駅)まで運搬するための中継点として活躍しました。
しかし、昭和になり、道路の整備やトラック運送が発達し、川にはダムが出来て、今までの
船で物資を輸送することもなくなり、それと共に見かけなくなりました。」



『有料だった池田橋』。
「時代が江戸から明治へと変わり世の中が変化したように、天竜川の渡船も橋へと変わりました。
旧豊田町でも天竜橋・池田橋が明治初期にでき、このうち池田橋はこの付近にかけられました。
この橋は木橋で『橋銭』をとる有料橋であり、大人三銭、小人二銭でした。
昭和八年に旧国道の天竜川鉄橋が完成したことにより、廃止されました。」



『江戸時代の天竜池田渡船』。
「江戸時代に入ると、大きな川には政治的な理由等により、橋をかけませんでした。
渡船賃は、武士等の特別な人を除き一人当たり十二文かかったそうです。
天竜川は、渡船による川越でしたが、水位が七尺(約2.1m)を超えると川留になり、その間
旅人で旅籠屋がにぎわったそうです。」



『旧豊田町指定文化財 遠州一言村十景之図「天竜夕照」』。



なんと刻まれていたのであろうか?『常夜燈』であろうか?



県道343号線下に在った常夜燈?祠の中を覗いてみれば良かったのだが・・・。



十一番、十二番、十三番と刻まれた石仏像。



『池田の渡しの秋葉山常夜燈』



西法寺公園の藤棚も巨大。



『遍照山西法寺跡』。
「ここには『遍照山西法寺(へんしょうざんさいほうじ)』という寺院がありました。」
西法寺は、今から約770年前の鎌倉時代の貞永年間(1232年)に創立された真言寺院で、
本寺は高野山普門院、本尊は不動明王でした。
真言宗は平安時代に空海(弘法大師)によって開かれたもので、遠州では袋井市の
法多山、油山寺、磐田市の医王寺、浜北市の岩水寺、浜松市の鴨江寺、龍禅寺。三ヶ日町の
摩訶耶寺などがあり、いずれも古い時代より続く大きな寺院です。
豊田町の寺院も多くは真言宗により創立されました。しかし、鎌倉時代に広がった新仏教は、
奈良・平安時代以来の貴族中心の信仰から庶民信仰の仏教へと大きく変化し、その流れの中で、
町内寺院もほとんどが曹洞宗と時宗に改宗されました。
江戸時代に書かれた『遠淡海地志(とおとうみちし)』によれば、この時代の町内四二カ寺のうち、
曹洞宗三九、時宗二で、真言宗は西法寺の一カ寺のみとなっています。おそらく、西法寺は、鎌倉時代に広がった庶民仏教とは一線を画し、武士層など比較的経済的に恵まれた人々の信仰を集めていた
寺院だったのではないでしょうか、現在では、お寺は浜松市に移り、五戸の檀家衆のうち
豊田町内三戸の檀家衆によって法灯が守られています。 」



豊田熊野記念公園、ここにも大きな藤棚が。



『熊野伝統芸能館』に立ち寄る。



紫そして白の藤棚や能の写真が。



この絵画は??



『伊藤深水画 仕舞熊野 』。



『能装束』



池田宿の長者で、平宗盛に寵愛され都に伴っていた。
平家物語「海道下り」本文中ではこのようなエピソードが述べられている。
宗盛に寵愛された熊野は、故郷の母が病気のため宗盛に暇を請うが許されず、かえって
花見の伴を言いつけられる。 酒宴が始まっても心の浮かぬ熊野は舞を舞うが、にわかに雨が
降ってきて花を散らすのを見て、 この歌
『いかにせん都の花も惜しけれど馴れし東の花や散るらん』
(都の花も惜しまれますけれど、こうしているうちにも、 馴れ親しんだ東の花が散るのでは
ないでしょうか) と和歌をよむ。 これを聞いた宗盛は熊野の心を哀れに思い暇を与えた。
このエピソードを典拠につくられたと言われているのが謡曲『熊野(ゆや)』である。



『熊野伝統芸能館』前の広場の先に大きな藤棚が拡がっていた。



磐田市熊野伝統芸能舘の能舞台。
謡曲『熊野』は名高く、藤棚を借景とした屋外型の能楽堂。



舞台の老松・若竹は、皇太子殿下御成婚奉祝記念能の際に、老松・若竹の描画を担当された
谷勝郎氏の制作で、揚幕は東京の観世能楽堂と同じ様式のもの。



藤棚には一輪だけ花が。



『西法寺大子堂』、







開花時の見事な姿の写真を紹介させていただきます。
紫の藤との二色を楽しめるようです。


        【 http://shizuyashizu.jugem.jp/?cid=19 】より




            【 http://shizuyashizu.jugem.jp/?cid=19 】より

『誓渡院』に立ち寄る。



『曹洞宗 済縁山』。



『誓渡院』。



『本堂』。
済縁山誓渡院は永正元年(1504 年〉の開創で、当時lま誓渡庵と号した。
曹洞宗である本尊は地蔵菩薩。
本堂には護法拈茎帝釈天、池田渡船船玉大明神を奉っている。
新四国八十八ヵ所第五番札所である。



境内の『安養地蔵菩薩』。



『粒見堂観音』前には火の見櫓が。
そしてこの脇が『天白神社』入口。



昔懐かしい「火の見櫓」



『粒見堂観音』
永享6年(1434年)妙法寺二代目僧侶が天竜川に聖観観音の尊像が浮かぶ夢を見て、
その通り尊像が発見されたという。当時の村人らが穀物(粒)の喜捨を乞い「粒見堂」を
建立した。」



『粒見堂観音』堂内部。



天白神社脇入口。



『石鳥居』。



扁額『天白神社』。



『手水舎』。



『社殿』。
猿田彦命を御祭神とする、池田村の鎮守で、祭りの際、天竜川を境に東西に別れ
行われる喧嘩角力が毎年行われていると。



神社の起源は、奈良時代の女帝・孝謙天皇の頃。鎮守は猿田彦命。
江戸時代には池田宿大明神とも呼ばれていた。



マンホール蓋には藤の花が。



天竜川堤防の下に石碑が。
ここが『中の渡船場』だったようだ。



『天龍川渡船場跡碑』



『板塀の家』。



『常夜燈』。




                              ​ その4 ​  に戻る。

                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.05.01 12:17:41
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