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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
枡形道を抜けると、門扉の閉ざされた『福正寺』・『光林寺』があり、続いて左手に
『義仲寺(ぎちゅうじ)』があった。
『義仲寺』は無名庵ともいい、元暦元年(1148)に木曾義仲の死後、巴御前が草庵を営み
供養を続けたので巴寺と称したのに始まると言われ、戦国時代に荒廃したが天文22年(1553)
近江守佐々木義文によって再興された。
山門脇には、巴御前を弔うために祀った巴地蔵があり、境内には義仲供養塔・芭蕉句碑
などがある。
この前の通りは、旧東海道。かつてはこの辺りは粟津ヶ原といい琵琶湖に面した景勝の地
だったと。
『山門』前の石柱群。
左から『朝日将軍木曽義仲御墓所』碑、『芭蕉翁墓所』碑、『史跡義仲寺境内』碑
そしてその右には歌碑があった。
一番右の碑は
紫金句碑
「しぐれても 道はくもらず 月の影」
この灯籠はキリシタン灯籠だと言う人もあるとのこと。
「義仲寺境内 (大津市馬場1丁目)
義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に、
佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。
「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
境内にはこの句をはじめ。芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの
句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和四二(一九六七)年一一月に国指定の史跡となりました。」
『義仲寺』山門横にあった『巴地蔵堂』は巴御前を追福(ついふく)するための御堂。
『巴地蔵堂』では巴御前を追福するため『石彫地蔵尊』を祀っていた。
境内は細長く、そのあちこちに20余句碑、墓、供養塔、神社などが並んでいた。
受付で頂いた『義仲寺境内見取図』。
『義仲寺境内の俳句案内』
境内は有名人の墓や句碑や記念碑が所せましと並んでいた。
受付で頂いた『義仲寺境内見取図』を片手に句碑を追いかける。
羽州 句碑
「身のほどを かえり見る日ぞ 初しぐれ」
露城 句碑
「粟津野に 深田も見えず 月の萩」
芭蕉桃青 句碑
「行く春を あふミの人と おしみける」
朝日堂(義仲寺本堂)内陣
本尊は聖観世音菩薩で、厨子には木曽義仲と嫡男・義高の木造が納められ、
義仲、松尾芭蕉などの31柱の位牌が安置されていりと。
『佐渡の赤石』
今や「幻」といわれる日本三大銘石の一つであると。
蝶夢幻阿佛 句碑
「初雪や 日枝より南 さり気なき」
蝶夢法師は義仲寺を中興する。
蟻洞 句碑
「よい処へ ちればさくらの 果報かな」
魯人 句碑
「月の湖 鳰(にお)は浮たり しづみたり」
朴因居士 句碑
「いく夜寝ぬ 身のおろかさよ ほととぎす」
双玄 句碑
「木曽殿と 脊中合せの 寒さかな 」
三浦義一翁 歌碑
「かくのごとき をみなのありと かってまたおもひしことは われになかりき」
芭蕉 句碑
「古池や 蛙飛こむ 水の音」
『巴塚(供養塚)』は巴御前の墓所。
「木曽義仲の愛妻 巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが、義仲が
強いての言葉に最期の戦を行い、敵将恩田八郎を討ち取り涙ながらに
落ち延びた後 鎌倉幕府に捕えられた。和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは
尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり 亡き義仲の菩提を弔っていたという。
それより何処ともなく立ち去り、信州木曽で九十歳の生涯を閉じたと云う。」
『山吹供養塚』は義仲の側室・山吹御前の塚は『身余堂文庫』の前に。
「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと
大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも
捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが
大津駅改築のため此の所に移されたものである。」
巴御前と共に信濃から京へと付き添ってきた召使。
『木曽義仲墓』
義仲の忌日(義仲忌)は毎年一月の第三日曜日。
近寄って。
土壇の上に宝篋印塔をすえる。芭蕉翁は木曽塚ととなえた。
『芭蕉翁墓』
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