JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

はなたちばな3385 @ Re:小田原城下を歩く(その14):松原神社(2/2)(10/10) 小田原の歴史というのは深く広い、貴方の…
はなたちばな3385 @ Re:小田原城下を歩く(その10)(10/06) 小田原は1970年以前に、その線路をはさん…
オジン0523 @ Re:3か月でマスターする数学・『モンティホール問題』(09/23) 最近は、難しいことをやっていますね! 私…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…

Favorite Blog

【天神の新しいビル… New! Gママさん

新磯地区の寺社史蹟… New! オジン0523さん

2024年版・岡山大学… New! 隠居人はせじぃさん

クリアランスランプ… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2022.08.04
XML
カテゴリ: 国内旅行
そして「拝殿」の先にあったのが「唐門」・(国指定重要文化財)。
左右に「透塀」が。



その先に世良田東照宮本殿(国指定重要文化財)があったが、保存修理工事中であった。
1間社流造
屋根は、安永6年(1777)の大修理時に銅瓦葺となり現在に至る。
正面扉上部頭貫につがい親鷹の彫物、親鷹の中間にある蟇股上に3羽のひな鷹の彫物がある。
昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。



ネットに詳細に紹介されている「​ ページ ​」👈リンクがありましたので
リンクさせて頂きました。



右側の「唐門前石燈籠
一、正保二年(一六四五)
  忍藩 五万石 老中 阿部忠秋」



左側の石灯籠。



「重要文化財 東照宮 保存修理工事の紹介①」





「本殿」。



蟇股の彫刻。



⑥本殿
巣籠りに鷹
家康公の嗜み(たしなみ)(鷹狩り)をよく表した彫刻。
松の木に作られた巣に3羽のひな鳥が籠り、左右の親鳥がひな鳥の育成を見守る。
家族愛、子孫の安泰、家内を守護している。」



「本殿」正面の彫刻。



④本殿
塗装の傷み具合
修理前の本殿は、絢爛豪華(けんらんごうか)に塗装されていましたが、色が落ちたり、
変色していました。



こちらも鷹の彫刻。



次に「宝物保管陳列所」を訪ねた。



「御供所
この御供所は、東照宮創建時に幕府の命により建てられました。
本殿へ供える神撰を調理する場、神前から撤した神酒を戴く直合場として
使用され 大宮大修復と共に修繕が成されてきました。」



「東照宮宝物保管陳列所」
昭和三十九年(一九六〇)に宝物館に生まれ替わったようだ。
設立: 1964(昭和39)年
建築面積:70㎡(木造建築一階建て)
収蔵点数:約2000点
開館日:原則無休

開館時間:——
入館料:大人300円
関連博物館:新田荘歴史博物館

設立経緯
寛永21年(1644)に御宮創建時に御供所として同期に造宮され、天保15年
(1844)に造替、昭和39年(1964)宝物館として再度造替している。
昭和31年に社殿・宝物などが重要文化財に指定された事により、昭和31年から同41年に亙り
文化庁による修復の一環で御供所が陳列所として改装された。

所蔵品と展示の概要
展示はケース内の提示型展示を基本とする。
重要文化財の太刀(刀身鎌倉末期了戒作・拵沃懸地銀装菊花紋散)御金幣、家康公の
「御鎧召初式」に用いられた甲冑、三十六歌仙図(群馬県指定重要文化財)、神饌器具、
狛犬、棟札(8回の修理記録を記した7枚の棟札、重要文化財)等々、他多数。


この日は館内は撮影禁止であったので、「​ ネット ​」👈リンク を参照下さい。



そして「世良田東照宮」の「御黒門」。
「世良田東照宮」の創建当時、幕府によって建てられた門が現存しているのだ。



「御黒門(縁結び門)
東照宮創建時、幕府により建てられた門で、左右には八十メートルの白壁の塀がありました。
江戸時代は平常閉ざされ、門前での参拝。正月・四月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の
階段前までの参拝が許されました。

この門の蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると云われ、縁結び門とも
言われています。




「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内」碑。



「国指定重要文化財 東照宮」と。



「東照宮
      所在地: 
元和二年(一六一六)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、
遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、
社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と
長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。
当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺を
その別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の
費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の
拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂
(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめいていた。
東照宮の鎮座により地元世良田の住人はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を
奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を
許されたり、種々の恩典に浴することができた。

 東照宮の文化財
(国指定重要文化財)
 建造物─本殿・唐門・拝殿・附鉄燈籠・棟
 工芸品─太刀銘了戒・附拵銀造沃懸地太刀
(県指定重要文化財)
 絵画─板面著色三十六歌仙図
(県指定史跡)
 法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡
 真言院井戸」



「御黒門(縁結び門)」を潜って境内に入ると左手にあったのが「上番所」。



「世良田東照宮 上番所」。
上番所は世良田東照宮の防衛拠点として、江戸時代に運用されていた警備施設だそうです。



「顔出しパネル」。



「上番所
江戸時代 徳川幕府は東照宮を護る為上・下の二ヶ所に番所を設け、昼夜警備に当らせた。
この番所は二間と一間半の建物で、ここに川南(埼玉県深谷)の中瀬・横瀬・北阿賀野・
南阿賀野・町田・血洗島・上手計・下手計・大塚・成塚・新戒・高島の村々、川北
(群馬県太田市・伊勢崎市)の世良田・粕川・出塚・大館・堀口・上田中・下田中・上江田・
中江田・下江田・高尾・八木沼・平塚・中嶋・高尾・境・女塚の村々から二~四人出仕していた。

出仕の村々には、助郷の課役が免除されるなど他の地域とは異なる優遇を受けた。
 番所にあった道具
一、三ッ道具(突棒・刺股・袖搦)
一、棒十本
一、鳶口三本
火災時には、縦横三尺の大団扇を以って数十数百人一団となり、火消しを行った



「三ッ道具(袖搦み・ 刺股 突棒 が展示されていた。
「東照宮御宮番
江戸時代、世良田の東照宮は、将軍家先祖の地として徳川府の手厚い庇護を受け、その警固には
深甚なる注意か払われた。
下記村々は、その警固を勤めた村で、「火の番助郷」とも言われ、他の地域とは異なる優遇を
受けた。
川北(群馬県側)  下田中(新田町)
世良田(尾島町)  高尾  〃
小角田 〃    
粕川  〃    川南  (埼玉県)
出塚  〃    中瀬 (深谷市)
大館  〃            横瀬    〃 
境  (境町栄) 北阿賀野  〃     
八木沼(境町米岡)  南阿賀野  〃
平塚(境町)     町田        〃
女塚 〃     血洗島  〃
上江田(新田町)  上手計  〃 
中江田 〃    下手計  〃 
下江田 〃    大塚   〃 
・・・      ・・・   」


「手水舎」。



「駕籠」の顔出しパネル。



そして帰路に。
一面に白のアジサイ・アナベルが拡がっていた。



近づいて。



「世良田東照宮」を後にして、昼食会場の割烹レストラン「楓」に。
深谷市大塚334。



「割烹 楓 創業 昭和五十年」と。



2階に案内される。



深谷出身で、明治時代に活躍した実業家、渋沢栄一氏も愛した「煮ぼうとう」を楽しむ。
「煮ぼうとう」とは、小麦粉が比較的容易に手に入れることが可能であった土地ならではの、
工夫と知恵がたっぷり入った深谷の郷土料理。
特徴は、幅広の麺(およそ2.5cm、厚さ1.5mm程度)と、特産である深谷ねぎ、地元で
収穫される野菜類をたっぷり使い、生めんの状態から煮込んでいると。
生めんから煮込むことで、適度な「とろみ」があり、しょうゆで味をつける、深谷の冬の
定番メニューであるのだと。
そして生ビールもオーダーして。



小天丼。



赤身の刺し身。



とろろ。



デザート。



「煮ぼうとう」を楽しむ旅友。



「幽静」と。



「幽静 鈴木響泉」と。



「美人画」。





「郷土の自然料理 「煮ぼうとう」について
遠い祖先が 四季折々の農産物を活用し 知恵と真心を込めた この地の栄養食です。
実業界の王 渋澤青淵翁は 天保十一年(一八四〇年)此の地の富農の家に生まれ 二十一才まで
郷土の血洗島で過ごしました。
翁はこの煮ぼうとうを こよなく好み 今尚庶民的な近親感を残し伝えています。
青淵翁の薫陰により 立派な先覚者が此の地より輩出し また利根川小山川の大洪水で難渋した
この地域も 現在では日本屈指の野菜の大手産地として 活況を呈しています。



洪水に依る肥よくな沖積土の形成 その地に生産される地粉緑滴る深谷葱等が 調和され
巾の広い手打ちうどんを煮込んだものです これが魅力ある本当の「煮ぼうとう」なのです
毎年十一月十一日 青淵忌には市内の名士百名程が公民館に集い 翁の遺徳を追慕顕彰して
盛大裡に「煮ぼうとう会」が催されます
昔 武士が戦場で腹ごしらえに帯刀で切って陣中食として食した「煮宝刀」ともいわれる
「煮ぼうとう」です。
 昭和五十九年霜月
   文化財保存委員
    小山專一 撰文」



「郷土の偉人 渋沢栄一(男爵当時)」



様々な「渋沢榮一」の写真が展示されていた。



「耕地整理記念碑」の横で。



「漢詩」。



ここにも「美人画」。



「飾り花」。



「楓」自慢の「たれ」の自販機が外に置かれていた。



「もんじゃ」や「カレー」の自販機もあった。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.08.04 16:47:32
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: