JINさんの陽蜂農遠日記

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2023.08.09
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カテゴリ: 国内旅行
次に「 昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式) 」。



昔 使われた自動電話交換機(ステップバイステップ方式)
昭和32年9月、県下4番目の自動開式は電話数1,200でスタートしました。
行田市が当時のお金で3千万円の債券をお客さまに代わって負担した上、かって病院だった
土地を電話局へ提供し、開始時には町で提灯行列をして祝ってくれました。その後、
昭和58年1 1月電子交換機に変わるまで26年間活躍しました。」



600号形自動式電話機
昭和39年(1964)にわが国電話網の急速な発展にあわせ、通話性能と経済性に優れた電話機として
誕生し、昭和46年(1971)からホワイト・グレー・グリーンのカラー電話機が登場しました。
国産1号電話機の誕生からほぼ1世紀、通話性能においてほとんど申し分のない電話機の出現
でした。
【特徴】
4号電話機に比べ3倍以上も感度が高く、電気回路にはプリント配線が導入されました。
デサイン面では送受信器が自然に正しい位置に収まる様に工夫がされ、ダイヤルもボディに
埋め込むなどキメ細かい配慮がされています。」



行田・東京間記念通話 」。



東京都と「自動電話」がつながった!
明治42年 113年前 行田に電話がつながる
140年くらい前(日本は明治時代のはじめごろ)、
アメリカで電話機が発明されました。
日本での最初の電話は明治23年(132年前)、東京と横浜の間で始まりました。
行田につながったのは明治42年のことです。」



行田の夜が明るくなった!
明治43年 112年前 行田電灯株式会社ができる。
なんと、忍城のあと地に火力発電所をつくってしまった!
(本丸のあと地 いまの博物館の駐車場)
埼玉県のなかでも、川越につづいて2つめの電力会社。
コークス(石炭からつくるねん料)をねん料とする最新式の発電機で、工場にも電気を
おくれました。
大正8年 103年前 火力発電をやめ、水力発電の電気を買うようになる。
昭和16年 東京電灯(のちの東京電力)の一部になる。



行田電灯株式会社をつくった人たち
発起人(会社づくりの中心になった人)
今津徳之助(いまづにくのすけ)  印刷を中心とした実業家
                まちづくりに熱心に取り組み、
                「行田の渋沢」と呼ばれました。
社長 橋本 喜助(はしもときすけ)  大きな足袋屋のあるじ。
                                               実業家てもあり、まちづくりに関わりました。」



足袋だけじゃない!
洋服だってつくれるまちへ
大正時代 100年くらい前 足袋工場がふえ電動化がすすむ。」



昭和10年代の被服工場 」。



銀行とまちの発てん
明治29年 126年前 忍商業銀行ができる
銀行とは、みんなからお金をあずかり、そのお金をひつような人や会社にかします。
かしたお金はふやして返してもらい、銀行とあずけた人で分けます。」



上:「忍商業銀行(創業当時)」
下:「忍商業銀行本店 1935年(昭和10年)」



近代産業の発展
忍城の城下町として発展した江戸時代から明治時代へと世の中はうつり、行田のまちも
近代化への道を歩みはじめた。
交通手段の発展
明治時代に入り、鉄道は旅客・貨物の輸送に重要な役割を担うようになった。
明治16年(1883年)、日本鉄道が上野-熊谷駅間で開業(現在のJR高崎線)、
また、明治34年(1901年)には上武鉄道が熊谷-寄居駅間で開業(現在の秩父鉄道)するなど、
行田の周辺でも鉄道を中心とした交通網が整い始めた。
電灯会社の設立
明治15年(1882年)、東京銀座に初めて電灯(アーク灯)が灯ったが、行田のまちに電灯が
灯ったのは明治43年(1910年)のことだった。
忍城址公園内(現在の郷土博物館駐車場部分)にコークスを燃料とした火力発電所がつくられ、
行田電灯株式会社が設立された」
銀行の設立​
明治29年(1896年)、忍商業銀行が設立された。行田周辺の商人や地主などの資本によって
設立した地元資本の銀行は、足袋産業と深く結びつき、その発展を支えていくことになった。

​足袋産業のあゆみー大正から昭和へー
大正時代になると行田の足袋産業は大きな転機を迎えた。明治時代の中頃より始まった
ミシンによる縫製が全ての縫製工程に導入され、現在に続く分業の形が整った。
関東大震災で京浜地方の足袋屋が大きな打撃を受けると、発注が行田に集中し震災特需となった。
大正時代後期からは足袋に用いる生地もコール天や別珍、キャラコなどへと多様化していき、
ファッション化も進み、女性用には赤や紫などの色足袋が流行した。また震災後の衣服の洋装化に
より、シャツやズボンなどを製造する足袋屋も現れた。
やがて日中戦争が始まると忍町に陸軍被服廠行田出張所が開設され、統制経済のもと足袋生産第は
減少し、軍需被服品の生産を担うようになった。」



馬車鉄道 」。



馬車鉄道
明治時代に行田周辺で始まった鉄道の整備だったが、足袋屋が集中するまちの中心部には
鉄道が通らず、最寄駅の熊谷駅・吹上駅まで荷馬車などで足袋を運んでいた。
行田周辺の鉄道年表​
明治16年(1883年) 日本鉄道が上野-熊谷駅間を開業
明治33年(1900年) 忍馬車鉄道が行田-吹上駅間を開業
明治34年(1901年) 上武鉄道が熊谷-寄居駅間を開業、翌年秩父鉄道となる。
明治37年(1902年) 忍馬車鉄道の事業を行田馬車鉄道が継承、
                          自動車輸送も並行して行うようになる。
大正10年(1921年) 北武鉄道が羽生-行田駅間を開業
大正11年(1922年) 北武鉄道が熊谷-行田駅間を開業、
                          その年のうちに秩父鉄道に合併。
大正12年(1923年)行田馬車鉄道が廃線



馬車鉄道が通った道
馬車鉄道は、吹上駅と長野村の間をつなぐ予定だったが、資金難などを理由に計画は変更された。
明治33年(1900年)、忍馬車鉄道が吹上-佐間駅の間でひとまず開業、翌年に忍町まで延伸された。
しかし、経営はなかなか軌道にのらず、明治38年(1905年)に行田馬車鉄道が事業を継承する
ことになる。
大正12年(1923年)、秩父鉄道の延伸をきっかけに廃線となるまで、馬車鉄道は行田の人々の
大切な足となった。」



秩父線行田駅 の変遷写真。



埼玉縣北埼玉郡
忍馬車鐵道株式會社線 吹上行田間 平面図 」。



吹上村 」周辺の地図。



成田町 」周辺の地図。



盤師 吉田寅義 氏



二代目 吉田寅義 氏
昭和2年(1927)、羽生市に生まれる。同25年、初代吉田寅義に師事し、基盤・将棋盤制作に
従事、同29年、吉田流太刀盛り皆伝、二代目を襲名した。
「太刀盛り」は、日本刀の刃に漆をつけて盤に線を引く日本古来の伝統技法である。作品は
木性を生かし盤の個性を表現するため、特に足の彫り、線の流れを強調、裏面の「音ウケ」
には物理的理論を基に工夫をこらし、実用面の利点を重視した。作品の多くが、本因坊戦、
将棋名人戦などの著名な戦いに使用されている。
平成24年(2012)に二代目と三代目吉田寅義氏の技法が「基盤製作技術吉田流太刀盛り」として
市指定無形民族文化財に指定された。」



吉田流太刀盛り皆伝・ 二代目 吉田寅義 氏



靴を脱いで比べてみよう!
「足袋のサイズに実測とあるものは、洗濯後の足袋をこちらで測った数字であり、新品の
足袋のサイズより1.5~2cmくらい縮んでおります。」



力士の足の大きさ
左から貴ノ花 29.0cm
   若ノ花 28.0cm
   小錦  34.0cm
   舞の海 25.5cm



力士の足袋
上段左 曙 太郎(白足袋)   上段右  小錦八十吉
下段左 貴ノ花光司      下段右  若ノ花 勝 



左から鏡山親方(柏戸) 、大鵬親方(大鵬)、二子山親方(貴ノ花)。



行田市の誕生
昭和24年5月3日、忍町は市制を施行し、行田市となった。
昭和29年~ 32年までに周辺の8ヵ村、平成18年に南河原村が合併し、環在の市域が確定した。」



行田市の歴史 」。



町のうつりかわり
明治30年代の行田 」。



町のうつりかわり
行田市は、15世紀後半の忍城築城以来、忍城の城下町として発達してきた。以後江戸時代を
通して、たびたび城下町の拡張整備が行なわれ現在の町並みが形づくられてきた。
明治22年の忍城誕生から、昭和24年の行田市誕生までの60年間は、まさに行田足袋の全盛期から
衰退期までの時代であった。
町には、足袋屋の店先が軒を重ね、家々からは足袋内職のミンンの音が響き、足袋一色に包まれた
時代であった。
市政施行なら32年の太田村の合併までの行田市域の拡大、30年代以降には学校・公共施設の建設
及び上下水道の完成など、町の近代化が進められてきた時代であった。現在は、21世紀に向けて、
付加価値のある町づくりを目ざしている。」



炭火アイロン 」、「 蒸気式アイロン 」。



学校のうつりかわり



学校のうつりかわり
天保7年(1836年)、忍城下では藩士の子弟を教育する機関として藩校進脩館が設立され、
のちには培根堂・洋学館・国学館などが時代の流れに応じて開設された。また、庶民の子ども
たちには手習師匠や寺子屋などが教育を施していた。
明治時代を迎えると、明治5年の学制発布により、全国に小学校がつくられた。その後、
町村合併や小学校令、学校教育法の整備により学校の統廃合新設などが進められることになる。
戦後には中学校の整備、校舎の近代化、通学域の再編成などを経て今日の市内小学校13校・
中学校8校が整えられている。」



小学校のうつりかわり
明治19年の(1886年)第一次小学校令発布から明治22年(1889年)の「明治の大合併」と呼ばれる
町村合併にかけて、1つの町や村ごと、または複数の村の連合によって設けられていた多くの
学校は新しい村ごとに統合されていった。
昭和24年(1949年)の市制施行を経て、昭和20年代後半~ 30年にかけての「昭和の大合併」期
には、14校の行田市立小学校が誕生、昭和40年(1965年)の西小学校・大井小学校の統合により
13校となる。
昭和時代後半には、人口増加や市街地の拡大から泉小学校・桜ヶ丘小字校が新設、さらに平成19年
(2007年)の南河原村合併により市内の小学校は16校となる。
しかし、昭和60年代をピークとして行田市でも少子化が進行、適正な学校規模を維持するため、
「学校再編」が進められることとなった。」



明治5年の学制発布
明治5年(1872年) 8月、近代教育の始まりとして、小学・中学・大学を基本とする「学制」が
発布された。
のちに行田市となる地域でも、いちはやく小学校の開設が始まることとなり、明治9年段階で
29校が開校していた。寺院の建物などを仮校舎としたこれらの小学校は、合併や閉校、新設などを
経ながら現在の行田市立小学校へと続いている。」



大木商店足袋蔵・・模型 
昭和20年に建てられた蔵です。昭和20年代は行田の足袋産業が復興しはじめ、このような
石藏が多く建てられました。」



斎藤医院・・模型
斎藤医院は、田山花袋の『田舎教師』に原田医院と出てくる病院で、明治の近代建築でしたが、
昭和61年に取り壊されました。」



行田が舞台 田山花袋の小説『田舎教師』
明治42年 113年前 小説「田舎教師」が書かれる
『田舎教師』ってどんなお話?
〇お話の場所 行田・熊谷・羽生(主人公が住んていたまちが行田)
〇お話の時代 明治30年ごろ 120年くらい前
◯書いた人  田山花袋(明治時代の小説家)
〇主人公   小学校の先生になったばかりのまずしい若者 林清三
くあらすじ>
 まずしくて勉強をあきらめ、小学校の先生になった清三てすが、
 やりたかったことはほとんどうまくいきません。なやみながらも
 先生として生きていくことを決めました。
 しかし、しばらくして病気になり、何もてきないままに死んて
 しまうのてした。
清三のモデルは本当にいた人て、かざらないありのままのてきごとをえがいた作品てす。」



「斎藤医院」は、作品のなかで「原田医院」として出てきます。
主人公の清三が病気になり、心配した友だちが「原田医院」に連れて行くのです。
「行田の町の中程に西澤道のペンキ塗りの際立って目につく家があった。陶器の表札には
医学博士原田龍太郎と鮮やかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。
午前十時頃の晴れた日影は硝子を通した診察室の白いカアテンを明るく照らした。」
『田舎教師』には、他にも本町通りや忍沼、今はもうない牧場やおふろやさんなどが出てます。



昭和30年代の行田
忍川のさくら、行田市の10周年を記念して消防隊がパレード、行田の街並み」



戦争・防空訓練 」、「 戦争・出兵兵士 」の写真。



当時の「 人力車 」。




                                    ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・


行田天然温泉 ハナホテル行田







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Last updated  2023.08.16 08:59:07
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