JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.01.08
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
「中雀門」の左にあった 「黒門」から中に入ると正面に「寺務所」、左に「僧堂」、
右に「御番方」 が姿を現した。



寺務所 」。



ここで「御朱印」が頂けるようであった。



正面には「 兵才無用(ひょうがむよう) 」と書かれた巨大色紙?が。
「『仏説無量寿経』というお経には、「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉が出てきます。
武力も武器も用いる必要が無いという意味 の言葉です。この言葉が出てくる一節は、「仏が歩み
行かれるところは、国も町も村も、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に
治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよいときに降り、災害や疫病
(えきびょう)なども起こらず、国は豊かになり、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うことも
なくなる。人々は徳を尊び、思いやりの心を持ち、あつく礼儀を重んじ、互いに譲(ゆず)り
合うのである。」とネットから。



右隣にあったのが「 御番方 」。
境内北西を占める住居部の正面中央に建つ。
入母屋造銅板葺で、正面の軒唐破風付の大振りな入母屋玄関は精緻な彫刻で飾り、遊行上人の
出立などに用いる。内部は六間取方丈形式で、上間奥室に床などの座敷飾りを備える。
寺格に相応しい品格を備えた接客施設 と。
この建物は明治13年(1880)11月の大火で類焼し、大正2年(1913)2月23日上棟された。
関東大震災によって、本堂・大書院その他多くの建物と同様に倒壊したが、すぐに倒壊当時の
古材をもって再建された。なおこの建物に施されている彫刻類は、一部江戸時代の彫り物を
そのまま使用したのではないかと言われているのだと。

屋根の下には金網で保護された鳳凰・鳥の 「懸魚」の彫刻



唐破風下の 向拝虹梁の上下の彫刻



扁額「 御番方(ごばんかた) 」。



こちらには「 遊戯三昧 」と。
自由気ままに遊びほうけること。 物事にふけって、夢中になること。 もとは仏教のことばで、
何ものにもとらわれることなく、自由であることの意。
「三昧」は、あることに一心になって他のことをかえりみないこと と。



「中雀門」を内側から見る。



懸魚の彫刻。



そして 「中雀門」の 見事な彫刻 を内側から更に追う。





「中雀門」の扉を内側から見る。



「僧堂」、「寺務所」、「御番方」 を振り返る。



「放生池」手前には石碑が2基並んでいた。
元禄7年(1694)五代将軍徳川綱吉の時代、「生類憐れみの令」発布にともない、次のような
”おふれ”が出された。 「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など
正直に報告し差し出すべし」こうして江戸市中の金魚・銀魚が集められ、この遊行寺の池に
放生された。 現在も、毎年、春季開山忌に放生会などでこの放生池で行われている と。



放生池
この池は一名放生の池とも称し、江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄七年十月の日記によれば、
金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かっ放生の際は、その
員数をしるし目付へ届出づべしと記録されている。
古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿
を保っとされている。」 



静雲 』と。



河野静雲の句碑
生きて居て相遇(あいあ)ふ僧や 一遍忌   静雲 』。



放生池の前に「 魚鱗甲貝供養塔 」があった。
魚鱗甲貝供養塔 遊行一雲
平成九年四月遊山會 」と記されていた。
遊行七十三代・藤沢五十六世他阿一雲上人 平成9年(1997)遊山會 と。



正面にある「 太鼓堂 」が水面に映り込んで。 



ズームして。



「放生池」の島には 聖観世音菩薩像 のお姿が。



再び「 御番方 」、その右の「 信徒会館 」を振り返る。



「信徒会館」、「太鼓堂」、 「聖観世音菩薩像」。



五重石塔 」。



そして新しくなって 黒くない「黒門」 出る。



左手にあった「​ 鐘楼 ​」👈リンク。 



近づいて。
この鐘楼は南北朝時代、正平11年、北朝の延文(えんぶん)元年(1356)に造られています。
当時の遊行寺の住持は遊行八代他阿渡船(とせん)上人です。この上人は遊行上人として初めて
佐渡に渡って念仏勧進された方で、記録によると、佐渡を巡り終わって越後柏崎に上陸、国内を
遊行中、その年の12月22日に藤沢遊行寺に独住されていた遊行六代一鎮上人が入寂されています。



鐘楼に脇には、この写真の 左側に「円意居士」、中央に「南無阿弥陀佛」碑、 そして
右側に「中里 理安・理益」の墓 があった。



円意居士墓
境内鐘楼の前に「円意(えんに)居士供養塔」があった。円意居士は江戸鍛冶橋の小林宗兵衛の
父で、浅草日輪寺にあった宗学林の建物にあたって、金500両を寄進し、また月供料として
15両も施している大施主。また、『一遍上人語録』の刊行にあたっての施主としても知られた
人物。この本宗の篤信に対して建てられたものは供養塔。自然石を二個積み重ねたような碑は、
円意居士の人柄そのままのようだと。」 



「中里 理安・理益」の墓碑
小田原北条氏によって持ち去られた梵鐘は当町大鋸の住人、中里八郎左衛門理安によって、
梵鐘は無事取り戻すことができたのである。寺では遊行三十五代法爾(ほうに)上人いらい
『遊行藤沢両御歴代霊簿』の裏に、代々の上人の自筆でこの功績を讃えることばと
一族の戒名を載せるのが例となった。そのため遺骸も鐘の近所に埋葬されました。
現在鐘楼の前には理安の墓と、その子理益の墓碑があります。



梵鐘 」。
この鐘は、総高168cm、口径(こうけい)92cmで、この金の池の間4面に489文字の漢文の
序文と銘文が陽刻されている。その奥書には、「時也延文元年7月5日 沙弥(しゃみ)重阿 
住持他阿弥陀仏 遊行八代冶工大和権守(やこうやまとごんのかみ)光連 願主沙弥給阿等 
南無阿弥陀佛」と刻まれています。延文元年は北朝の年号で、南朝では正平11年(1356)。
沙弥とは、時衆では出家の僧と在家の信者との中間にあり、半僧半俗的な存在で、客寮
(きゃくりょう)とも呼ばれていた。冶工大和権守は、鎌倉地方の鋳物工物部氏の一族で、
南無阿弥陀佛は渡船上人の自筆である。
平和を願って造られた鐘ではありますが、この鐘自身も数奇(すうき)な運命をたどりました。
それは永正10年(1513)1月29日、遊行寺は兵火のために全山焼失するという災難にあいました。
戦国の時代の到来です。ここ相模国では伊勢長氏(北条早雲)と三浦義同(入道道寸)との
戦いが繰り返され、遊行寺はその戦場となって焼きはらわれたのでした。それ以後、徳川時代に
なるまでの約一世紀の間廃寺同様となり、住職である藤沢上人もここに住むことができません
でした。梵鐘も北条氏によって小田原城に持ち去られました。



天正18年(1590)7月小田原城は豊臣秀吉によって落城。慶長12年(1607)遊行寺の再建が完成し、
遊行三十二代普光上人が遊行寺の住持となった。伽藍は再興されたが、鐘はありません。
藤沢大鋸の中里八郎左衛門里安(りあん 理庵とも)という人が、小田原城主と談判を重ね、
新しく鐘を造って交換するということで、その費用を負担して新しい鐘を鋳造し、古鐘を
引き取って寺に寄進したのだと。寛永3年(1626)12月下旬のことと記録されていると。
新しく造った鐘は小田原市荻窪の寿昌寺にあり銘文に「藤沢山清浄光寺」とのみ陰刻(いんこく)
されている。



絵馬掛け 」。



おみくじ結び所 」。 



「大イチョウ」を振り返って。



宗祖 一遍上人像 」。



ズームして。
先代のものは太平洋戦争中に供出されたが、昭和45年(1970年)5月23日、
林霊雲作「宗祖銅像」が仙台阿弥陀寺から寄進建立されたのだと。



さらに。



「本堂」に向かいながら、「大イチョウ」を振り返って。  



そして登録有形文化財「 手水舎 」。



明治100年記念として、ここ手洗鉢が新設されたとのこと。



近づいて。



「明治百年記念碑
住古より余ってかへる遊行寺の手洗鉢と世人の諺にまで謂われ文化財にも比すべき本堂前の
手洗鉢が大東亜戦争の戦災に遭い資源不足のためにやむなく供出され、茲に25年篤志家の
御賛同を得て復元いたしました 
昭和四十四年 三月廿六日」
とあり、発起人6名の名前が裏面に記されていた。 



そしてその先にあったのが「 俣野大権現 」。 



地蔵堂前に建つ小さな社は「 俣野 またの 大権現」社で、埼玉県長久寺によって寄進建立されたものです。
祭神は俣野五郎景平であり、開山呑海上人の兄であり、また当時の大檀越でもありました。
貞和年中(1345~49)に没し、のち俣野大権現として山内の文学蔵と称される土蔵の前に祀られて
いました。また灯籠が一基あり、文政6年(1823)7月17日と記されていた。



俣野大権現
時宗総本山清浄光寺(遊行寺)は、正中二年(一三二五)に遊行第四代呑海上人によって
創建されました
遊行寺は呑海上人の実兄に当る 地頭俣野五郎影平公 が大檀越となって広大な敷地と大殿堂を
寄進され総本山としての基礎を創られたものであります
影平公は 貞和年中(一三四五~四九)に没しておりますが後に 俣野大権現として山内に祀られ
今日に至っております
 平成十年七月吉日
      藤沢山」 



句碑
2012(H24).10月に建てられた 清水 浩の句碑 と。



春愁と いふ傘さして ひとりかな 浩 」。
一遍上人の【花の事は花に聞け、雲のことは雲に聞け、私は知らない】という有名な言葉が
ありますが、その教えに応える”春愁に落ちて孤独に悩んでも、人の助けを借りずに自分で自分を
見詰め直しなさい”ということを俳句にしたもののようです。
奇しくも一遍上人像のすぐ後ろに建てられたことに何か意義がありそうです とネットから。



「提灯」越しに「大イチョウ」 、「いろは坂」方向を振り返る。 



こちらからもズームして。



「境内案内図」も新旧、歴史を感じることが出来るのであった。
年中行事
 元修正会    一月一日
 初賦算     一月十二日
 節分会     ニ月三日
 釈尊涅槃会   ニ月十五日
 釈尊降誕会   四月八日
 春季開山忌   四月ニ十ニ日・二十三日
 大施餓鬼法要  六月ニ十七日
 薄念仏会    九月十四日
 秋季開山忌   九月十四日・十五日
 別時念仏会   十一月十八日~ニ十八日
   減灯(一つ火)  十一月ニ十七日
   大御台式      十一月ニ十人日
   除夜法要          十ニ月三十一日




                                  ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2024.08.28 09:16:58
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