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「岡田美術館」を後にして、車で5分強の場所にあった「箱根強羅公園」に到着。正門から入園する。神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300。550円で入園券を購入して。「強羅公園」配置案内図。「強羅公園」は、正門は標高約574m、西門は標高約611mという傾斜になっている。季節を通して様々な花が咲く園内には、様々な施設があるのだ。冬でも暖かい熱帯植物館や、歴史ある茶室、カフェ、工芸体験クラフトハウスなど、 1日中楽しむことができる園内 と。まずは「熱帯植物館」に向かって坂を上る。「ヒメツルソバ」の花であっただろうか?見事な紅葉が青空に映えて。青空を背景に紅葉が輝く。「山粧う(やまよそう)」いや「園粧う」。そして「熱帯植物館」を訪ねた。フィリピン原産の常緑小低木。樹の高さは2m前後で分枝が多いで魂濃緑色の大きな蕓をもち、枝先から房状に大きな花を下垂して咲かせていた。色鮮やかな花と独特の姿が南国情緒たっぷり。咲き始めたものをズームして。名前は「熱帯ノボタンメディニラ東南アジア、熱帯アフリカ、太平洋諸島に150種類以上分布する低温にも耐えるが、生育するには、10℃以上の温度が必要です。」と。バナナに似た木であるが。スラッと高く伸びて。「芭蕉」であっただろうか?こちらは「ピンポンノキ」と。「ピンポンノキピンポンのような実がなるので「ピンポンノキ」じゃないよ中国の言葉で「ピンボーノキ」、それがなまって「ピンポンノキ」になったんだ。にてるでしよう?タネを焼けば甘い「栗」のような味がするので「栗子(くりこ)」ともいうよ。白ガラス細工のようなきれいなオハナが咲くよ。」とネットから。花の写真もネットから。こちらが「バナナの木」。太く短いバナナが。「熱帯植物館」内にも小さな滝が設置されていた。「熱帯植物館」内の湿度を上げているのであろうか。赤いツヤのあるハート型の花がユニークな「アンスリウム」。食中植物・ウツボカズラ(ネペンテス?)「アナナス多年草で、果実以外はアナナスと呼ぶこともあります。和名は「鳳梨(ほうり)」」といいます。苗を植えて2年目以降の充実した株に実をつけ、花は紫色の花がまとまって咲きます。このパイナップルは、観賞用で食べられません。花言葉:あなたは完璧 完全無欠」。アナナスの実。この大木は?「強羅公園 標高590M」と。こちらは白の「エンジェルズトランペット」か。「キダチチョウセンアサガオ」とも言うと。朝顔のようなラッパ状の白花を咲かせるチョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)の一品種 と。「ブーゲンビリア」。近づいて。ピンクの花も。「ハイビスカス」。「企画展関東大震災と箱根箱根町立郷土資料館令和5.10.14(土)~12.10(日)」「ちびゴジラデジタルパズルラリー!in箱根」。ストレリッチア(極楽鳥花)ストレリッチア(極楽鳥花)は、極楽鳥が羽ばたいているような姿をイメージさせる植物。その花姿はとても鮮やかでエキゾチックな魅力。そして噴水。そして屋外に。「白雲洞茶苑入口」。「「白雲洞茶苑」は、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山のおもむきを保存して、見るからに山家の風情の濃い茶室群です。 ここは大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝(三井コンツェルンの設立者で男爵)によってはじめられ、特に白雲洞は、翁の創案になる田舎家の席として貴重な茶室とされています。大正11年(1922)、この茶苑は三渓・原富太郎(横浜の富豪で美術品収集家として著名)に譲られ、この時三渓はあらたに対字斎を増築しました。 昭和15年(1940)、茶苑は再び原家より耳庵松永安左衛門(電力界の重鎮、松永コレクション創設者)に贈られ、こうして茶室は、明治・大正・昭和と3つの時代を代表する3人の茶人の間に伝えられてきたものです。」と。「鈍翁・三渓・耳庵の遺席登録有形文化財「白雲洞茶苑」ご案内ここに保存される三棟の茶席は大正時代のはじめ鈍翁・益田孝によって創始され、ついで三溪・原富太郎、耳庵・松永安左ヱ門と近代の三代茶人と称される人々に継承されてきたものです。益田鈍翁による開席当時、ここには不染庵、白雲洞の二席が営まれ、これに寄付と白鹿湯が附属していました。これらは一代の数寄屋師とうたわれた仰木魯堂の設計と言われています。大正11年原三溪に伝えられ、新たに対字斎一棟が増築されました。ついで昭和15年松永耳庵に受け継がれました。耳庵自筆の「白雲洞の主人となるの記」によって知られます。耳庵没後次第に荒廃していましたところ、当社に移譲されより全面的に補修の手を加え昭和57年5月に旧観に復しました。全苑の構成には山中の岩かげに建つ山家の趣が深く、岩上に根を占める巨桜の下に軒を低く佇むのは不染庵です。また囲炉裏に自在釣を掛け粗朶で瀗縁のある田舎家の席は白雲洞です。茶道界に鈍翁創案の田舎家の茶席はあまりにも著名ですが、現在その多くは失われここ白雲洞は唯一の遺構としてかけがえもなく珍重されています。益田鈍翁、原三溪、松永耳庵という偉大な茶人であり、明治・大正・昭和の日本経済に大きな役割を果たした稀代の経済人たちが遺した「白雲洞茶苑」は近代数寄の茶道の風雅を偲ぶ茶室群です。 箱根登山鉄道」。紅葉に囲まれた「白雲洞茶苑」を望む。茶苑は比較的高いところに建てられ、白雲洞、不染庵、対字斋、白鹿湯から四つの席から構成されていると。そして巨岩の間に点在していた。これぞ日本の秋!!ここも!!こちらは「白雲洞茶苑」の裏口門であっただろうか。「パンパスグラス」か? パンパスグラスは、『しろがねよし(白銀葭)』や『しろすすき(白薄)』とも呼ばれている。周囲に「和の植物」があると和風映えし、和風料理店や日本家屋、旅館の庭にもよく映えるのだ。穂が強風?で倒れてしまっていたが。この一面に黄葉した樹の名は?? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.18
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この日は11月21日(水)、会社の同期入社の同僚9人による同期会を仙石原にある会社の温泉保養所にてす開催ることになり、我が愛車で向かう。箱根湯本駅で同僚1名と合流し、箱根の紅葉を楽しんだ後に、温泉保養所に向かうこととし、10時に合流するために自宅を9時前に出発し新湘南バイパスを利用して西湘バイパス方向に向かう。茅ヶ崎料金所を通過。カメラをセットしてリモーと撮影。リモートで、電源・シャッター・ズーム・動画撮影が可能。但し、カメラの位置・向きは手動でしか操作できない。そして海岸に出て、西湘バイパスを進む。前方に箱根の山々が姿を現していた。西湘二宮IC手前を通過。左から下二子山、上二子山、駒ケ岳、神山。二子山が正面に。南側(左)が下二子山1,065m、北側(右)が上二子山1,099mとなる。西湘バイパス「橘料金所」を通過。一時停止し「光る海」・「相模湾」、そしてその右にある「大島」の姿を。そして西湘バイパスから国道1号に入り、予定時間の10時前に「箱根湯本駅」に到着し同僚と合流。最初に「岡田美術館」の庭園の紅葉を訪ねることとした。正月の箱根駅伝と同じ国道1号の箱根の山道をひたすら進む。そして箱駅駅伝の固定カメラが毎年設置される「箱根小涌園ユネッサン」前を通過。そして大きく左にカーブして坂を上って直ぐ右側にあった「岡田美術館」の駐車場に入り散策開始。「施設マップ」足柄下郡箱根町小涌谷493−1。美術館の正面の壁にあったのが岡田美術館の象徴ともいえる縦12m、横30mの大壁画。江戸時代から、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一など琳派の画家たちに描き継がれてきた「風神・雷神図」・「風・刻(かぜ・とき)」を日本画家・福井江太郎が現代に蘇らせ、開館以来、美術館の守り神として来館者を迎えていると。雷鳴と稲妻をおこす「雷神」。風袋から風を吹き出し風雨をもたらす「風神」。ネットから原画を。風神・雷神の大壁画「風・刻(かぜ・とき)」の正面には、100%源泉かけ流し(加水・加温なし)の足湯が。ゆうくり浸かりたかったが・・・。風神・雷神の大壁画「風・刻(かぜ・とき)」の前に足湯があるのだ。足湯に浸かりながら壁画が鑑賞できるのであった。モニュメント「浪誘(なみさそう)」諸井謙司。ブロンズ、高さ約2メートル、幅1.7メートル、重さ1・3トン。振り返って。廻り込んで。「岡田美術館 入口」。「開館10周年記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)」喜多川歌麿「深川の雪」の一部。「画狂老人卍 齢八十八歳 「雪中烏図」 1847年」。「葛飾北斎」は晩年「画狂老人卍」と名乗ったのだ。入口から内部を覗いて見た。チケットコーナーか?「現在開催中の展覧会開館10th 記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)」「ようこそ、岡田美術館へイベントスケジュール■開館10周年特別企画 特別対談 河野氏元昭氏と小林忠館長が語る歌麿・北斎 2023年9月30日(土)午後1時~午後2時30分講師:小林忠田美館長)■講演会 講師:小林忠(岡田美術館 館長) ①2023年7月29日(土) 歌麿の「雪月花」3大幅 中止 ②2023年10月28日(土) 北斎の「富嶽三十六景」と「富嶽百景」 時間: ( 上記2講演ともに) 午後1時~午後2時30分 会場 : 5階ホール 参加費:無料(要入館料)」江戸時代の浮世絵師・喜多川歌麿が晩年描いたとされる浮世絵「深川の雪(ふかがわのゆき)」の一部。2023年秋に開館10周年を迎える岡田美術館では、これまでの展覧会で人気を博した画家4人を選び、2人ずつ2部に分けて展覧会を開催中。第2部では、喜多川歌麿と葛飾北斎を中心に、2人と同時代およびその前後の画家たちの作品など約40件を展示していたのであった。「開館10th 記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)喜多川歌麿(?~1806)出生地は不明。少年の頃、江戸で狩野派の鳥山石燕に絵を学ぶ。版元の蔦屋重三郎と組み、版画や絵本の挿絵を精力的に発表。生涯に手がけた版画は2000図以上といわれ、美人画の名手として人気を集めた。歌麿を対象とする幕府の禁令にも屈せず、挑み続けた反骨の絵師でもある。葛飾北斎(1760~1849)江戸本所(現在の墨田区)に生まれる。数え年19歳の時、人気浮世絵師の勝川春章に入門して絵を学ぶ。版画、版本、肉筆画制作のすべてに情熱を注いで森羅万象を描き、90歳の長寿を全うした。北斎のほか戴斗、画狂人、卍など度重なる改名、生涯に93回という転居癖をはじめ奇行も多い。岡田美術館は、本年 10月に開館 10周年を迎えます。記念展第 2部に登場するのは、浮世絵師の喜多川歌麿と葛飾北斎。次々と新しいスタイルの作品を生み出し、大衆の心をつかんだ浮世絵界のスターです。2人はほぼ同時期に画壇にデビューしましたが、先に歌麿が美人画で一躍人気を集め、一方の北斎は美人画にとどまらず、風俗画、風景画、花鳥画、武者絵など多彩な分野に挑戦し、90年の長い生涯に数えきれないほどの作品をのこしました。本展では、当館が収蔵する歌麿 3件と北斎 10 件の肉筆画(一点ものの絵)を中心に、北斎の版画の代表作「冨嶽三十六景」や春画の名品「浪千鳥」を一堂に展示します。現存する歌麿の肉筆画は世界に約 40 件ともいわれる中、2012年に再発見された幻の大作「深川の雪」を含む 3件をご覧いただける貴重な機会です。歌麿と北斎に加え、同時代およびその前後の画家の作品を併せた約 40 件の展示をお楽しみください。喜多川歌麿「深川の雪」 江戸時代 享和2~文化3年(1802~06)頃 【展示期間:9/8~12/10】※左記以外は高精細の複製画を展示 歌麿最晩年の傑作は、縦2m、横3.5mの大迫力。左:喜多川歌麿「三美人図」 右:喜多川歌麿「芸妓図」 喜多川歌麿「三美人図」をズームして。江戸時代中期 歌麿だから描けた、遊女たちの素の時間。右:喜多川歌麿「芸妓図」 江戸時代中期 これぞ粋! きりっと決めた芸者の立ち姿。葛飾北斎「堀河夜討図」 江戸時代後期 北斎得意のかっこいいヒーロー像。そして「美術館」を後にして「庭園巡り」へ。見事な紅葉、いや黄葉の世界に迷い込んだのであった。この場所の黄葉は、秋の美しさを静かで温かみのある色合いで表現していた。紅葉が目立つ空間に比べて地味に感じられるかもしれないが、その静かな魅力には心が落ち着き、温かな感覚が広がるのであった。やや赤が混じって。黄葉の美しさは、深い秋の光によって輝き、木々や景色に穏やかな柔らかな色彩を与えるのであった。それは、深い熟成された色調が秋の季節に対する感謝と静かな喜びを表現するようなもの。そして再び黄葉の世界へ。黄葉は、秋の風が木々の葉をやさしく包むような、穏やかで優しい美しさを持っていた。その色は深く濃い黄色から、柔らかな金色や蜜色へと移り変わり、光と影が織りなす幻想的な世界。風がそよぐたび、黄葉の葉たちはしずくのような微かな音を奏で、自然の息吹を感じさせたのだ。そして前方から水のささやきが聞こえて来た。「湯雨竹(ゆめたけ)」と。「竹製温泉冷却装置」であると。「湯雨竹(ゆめたけ)90℃の源泉を数秒で冷却させる竹製の装置です。加水をせずに温度を下げるため、泉質や鮮度を損なうことなく、源泉そのままをお楽しみいただけます。」そしてここが足湯の場所になっているのであろうか?椅子等はなかったが。それとも集湯用の箱か?そして正面に建物が。お食事処「開化亭」と。昔の別荘だった建物を利用したお食事処であると。そしてここ岡田美術館は、明治時代に建設された欧米人向けのホテル「開化亭」の跡地に2013(平成25)年、開館した私設美術館であるとのこと。入口横には石仏が2体。2体の石仏の上の紅葉。「開花亭」は準備中であった。「うどん」のメニューが。庭園入場料は300円とネットにあったが。「お知らせ源泉の工事を行っている関係で一部、通行が出来ないところが午後ざいます。ご迷惑をお掛けいたしますが、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。なお、工事期間中は入園料を無料とさせて頂きます。」と。さらに紅葉のメッカを赤と黄色の美を求めて歩く。赤やオレンジ、黄色に染まった葉が木々を飾り、まるで自然が鮮やかな絵画を描いたかの如し。紅葉の美しさは季節の移ろいと共に、山々や公園、神社仏閣の周りで人々を魅了し続けているのであった。秋の訪れと共に木々が鮮やかな赤、オレンジ、黄色に染まり、風に揺れる葉が光の中で輝いていた。ここが源泉の場所であっただろうか。四阿の上の紅葉も鮮やかに輝いて。そしてさらにオレンジ色の紅葉を追う。この場所のように、日本の庭園や寺院の周りで見られる紅葉は、静寂と美しさが調和した空間を創り出しているのであった。紅葉の美しさは季節の移ろいを感じさせ、日本の文化や自然と人々のつながりを象徴しているのである。そして「庭園」を後にして、再び「岡田美術館」に戻る。再び「風神」に近づいて。「雷神」。正面の木々がガラスに映り込んで。「輪廻熾(りんねし)」柴雅臣作。そして「岡田美術館」を後にしたのであった。 ・・・つづく・・・
2023.12.17
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船舶の係留所前の岸壁上を歩きフエンスの隙間から「帆船・明治丸」👈リンク を撮影する。左側が船尾方向。1875年(明治8)2月横浜に回航され、灯台視察船として任務についた。当時1000トン以上の船は日本にほとんどなかったことから、76年の明治天皇の東北巡幸に際しては、函館(はこだて)から天皇を乗せて同年7月20日に横浜に帰着した。このため、この日が「海の記念日」として定められた(1996年、「海の日」として国民の祝日となる)。1896年に商船学校(のち東京商船大学。現東京海洋大学)に貸与、翌年移管され、三檣シップ型に改装された。その後長く係留練習船として使用されたが、1978年(昭和53)5月、国の重要文化財に指定され、東京海洋大学に復原保存されているとのこと。「リバーシティー21」の高層マンション群を見る。「明治丸記念館」。「明治丸記念館」は、平成23年に始まった本学の明治丸海事ミュージアム事業である「次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動」、「先端の海事技術講座などのセミナー開催」を目的に平成27年に建設され、平成 28年7月18日より公開している。延床面積462m2の館内には、展示室とセミナー室、準備室を備えている。展示室では明治丸の140年にわたる活躍をパネルで解説するとともに、明治丸で使用されていた食器類などが展示されている。こちらは「東京海洋大学 百周年記念資料館」。明治丸(めいじまる)は、灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注し、天皇の乗る御召し船や練習船としても使用された。国の重要文化財に指定されている。当初は外輪船とする計画だったが、スクリュープロペラ船として建造された。帆装は2本マストのトップスルスクーナーであったが、1898年に品川にある緒明造船所で3本マストのシップに改造された。さらに1937年にはミズンマストの腐敗からバークになったが、1983年からの修復工事で再びシップ型に戻された。また、船首と船尾にはアカンサスの文様が描かれている。係留船杭越しに「相生橋」そして「リバーシティ21」高層ビル群を振り返る。タイル敷きの遊歩道から「豊洲水門」そして豊洲地区の高層ビル群を見る。船首部を見る。船首部をズームして。船首には、拳(こぶし)鼻状(ばなじょう)の渦巻文様を持つ頭部とそれに続く膨らみで鳥の形を表し、その後方に長く伸びる縁取りの中に、アカンサス状の文様を嵌め込んで羽根を象徴している。ここにはローマ字で「MEIJI MARU」と船名の文字板が打ちつけられている。即ちこの鳥形が本船のフィギュア・ヘッド(Figure head)・船首像と言うことが出来る。船首近くから「リバーシティー21」高層ビル群を再び。ズームして。船尾方向を見る。煙突にズームして。三段膨張蒸気往復動機関は昭和20年頃まで航洋船の主機関として採用された。現在は全くその姿を消してしまい、旧東京商船大学百周年記念資料館に完全な姿で展示されている本機関は大変貴重なものとなっている。 船尾方向の2本のマスト。中央マストをズームして。上甲板の船首部にはバウスプリット(Bow Sprit 斜檣)が突き出ており、振り向いて上を見れば3本のマストが空に聳えている。前からフォア・マスト(Fore mast 前檣)、メイン・マスト(Main mast主檣)、ミズン・マスト(Mizzen mast 後檣)であり、各マストには夫れ夫れ5本のヤード(Yard横帆桁)が簪(かんざし)のようにならび、それに掛けられた帆に風をはらませた昔日の勇姿を彷彿させるのであった。「明治丸」の船尾部分を見る。船尾にはアカンサス(Acanthus)の横帯文様があり、ローマ字で「MEIJI MARU」と船名が配されていた。マストをこれでもかと。そして「明治丸」を後にして、「通り」に出ると「明治天皇聖蹟の碑」が右手にあった。「明治天皇聖蹟(めいじてんのうせいせき)」と。ズームして。「明治天皇聖蹟」は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物である。そのうち377件が史蹟名勝天然紀念物保存法にもとづいて史蹟に指定された。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされて、1948年6月29日、指定を一斉に解除された。その後、建物が失われても、聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合が多いとのこと。「紀元二千六百年記念建設 昭和十八年十一月三日竣成」紀元二千六百年記念とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の記念行事を指す。「深川區町會聯合會」と。ここが「重要文化財 明治丸」の入口?であろうか。しかしこの日は見学可能日でないのは承知していた。フェンスの隙間から船尾を正面から。船尾をズームして。中央に漢字で「明治丸」と。マストをズーム。ここが東京海洋大学のエントランス。前身は「商船大学」。明治時代から続く、船の幹部乗組員を養成する学校であった。「東京海洋大学 越中島キャンパス海洋工学部大学院海洋科学技術研究科」。「G.E.O.ラムゼー功徳碑」この碑は、G.E.O.ラムゼー船長の優れた人格に対する尊厳と称賛を永く記憶するために1886年(明治19年)3月の彼の没後1周年に門弟達が建てたものです。ラムゼー船長は、1876年(明治9年) 6月1日に三菱商船学校(本学部の前身)の運用学教員として教壇に立ち、学生に航海術を教えた最初の先生でした。この碑は1992年(平成4年)に江東区登録文化財(歴史資料)に指定されました。「第一観測台1903年(明治36年) 6月建設。赤道儀室と呼ばれ、内部には当時東洋一と言われた天体望遠鏡を備え、教育研究に使用された。1997年(平成9年)12月国の登録有形文化財に指定された。」第一観測台は現存する日本最古の天文台と推定される。商船教育においては天測による船舶の位置を知ることが重要であり、天文学は必須であった。航海用天体暦および 航海天文学教授用として使用された内部には当時東洋一と言われた最新鋭赤道儀望遠鏡を備えていた。望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。また、屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり、窓は二重になっていた。平成9年12月12日に国の有形文化財に登録された。 「第二観測台1903年(明治36年)第一観測台と同時に建設。子午儀室と呼ばれ、内部には子午線測定用の望遠鏡を備え、教育研究に使用された。1997年(平成9年) 12月国の登録有形文化財に指定された。」第二観測台第一観測台と同時に竣工され、第一観測台と並び現存する最古の天文台と推定されている。内部には子午儀を備え,天体の子午線通過時刻を精密に測定して正確な経度の測定およびそのときの天体の高度から緯度の測定等が可能であった。第一観測台と同様平成 9年12月12日に国の有形文化財に登録された。この先の十字路を右折。「越中島通り」を進む。ここにも入口があったが、鎖で閉ざされていた。この先に横断歩道がないので、歩道橋を利用して道路の反対側に向かう。「越中島通り」の「浜園橋」方向を見る。そしてJR越中島駅に到着。現在地はここ。JR東日本 京葉線の「越中島駅」。そして「東京」駅で下車。「八重洲南口」へと向かう。京葉線に続く連絡通路を彩るステンドグラス「天地創造」は、洋画家・福沢一郎の原画を元に1972年に制作された大型作品。近づいて。壁一面に広がるステンドグラスは、この場所が駅であることを忘れさせるほどの異彩を放っていたのであった。この作品は、パブリックアートを推進する日本交通文化協会が、昭和47年に設置。原画は画家の福沢一郎が描き、当時の国鉄総裁、磯崎叡(さとし)は「洋々たる国鉄の未来を象徴する感動的な絵だ」とほれ込んだという。ステンドグラスは、駅の象徴として長年親しまれてきたが、駅の復元工事のため、一時撤去された。だが、駅利用者から「あの作品はどこにいった」との問い合わせが協会に相次ぎ、工事を終えた平成24年に今の場所に移された。40年以上、駅を見守ってきたステンドグラス。国鉄はJRへと変わったが、作品は設置された当時と変わらず、輝き続けている とネットから。「天地創造 原画 福沢一郎」と。正面左から。中央部分。右側。そして久しぶりの「動く歩道」を3回も乗り継いで。そしてようやく東京駅南口に到着し、山手線でこの日の待ち合わせ場所の品川駅へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.12.16
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正面に「三井不動産レジデンシャルサービス㈱ ピアウエストハウス」が見えた。高級賃貸マンションのようであった。外装工事が行われていた。歩道横には造船所の遺跡の如き赤レンガの建造物が。江戸末期になると、石川島は洋式造船所となる。幕府が水戸藩に命じて作らせたもので日本最初の軍艦「旭日丸」は、ここで建造されたのだ。明治に入り、造船所は民間に払い下げとなり「石川島重工」が誕生、1979(昭和54)年には全工場が豊洲に移転したのであった。「中央区立佃児童館」、「中央区立シニアセンター」。入口。内部。中央区立佃島小学校前の歩道に設置されていた円錐形状のモニュメント・「希望の像」。そして石段を上り、「リバーシティ21 イーストタワーズ 10号棟」南側の広場へ。「リバーシティ21」案内地図。Googleマップによると、ここに「オーロラの門」と呼ばれるオブジェがあるとのことであったが。遊んでいる子供に訪ねると、いつのまにかなくなってしまったと。在りし日の「オーロラの門」をネットから。そして近くにあった巨大な卵の如き建物。「風の卵-Egg of Winds-」伊藤 豊雄作。佃の超高層マンションが林立する大川端リバーシティ21のメインゲートである。メインゲートと言いながら駐車場入り口で、上部に長径16m、短径8mのアルミパネルでつくられた卵型オブジェが浮かんでいた。オブジェは細い斜めの柱によって支えられていて、浮遊感を出すために正面からは柱がほとんど見えないようになっていた。ただ、全てを裏側にするのは無理だったためか1本だけ前から支えていた。ちなみにこのオブジェは内部にプロジェクターが設置されていて、夜になると表面に映像を映し出すようになっていると。中央区佃2丁目2。そしてリバーシティ21・5号棟の中央付近に設置されていたのが「街の鼓動」。中央に釣ってある風車の如きオブジェ。夜になると光るのか?「佃ニ北」交差点が右手に。そして「相生橋」の佃2丁目側の橋の袂に到着。お疲れ気味の「相生橋」案内板。相生橋は、隅田川派川(はせん)に架かる橋で、上流の永代橋に相対する橋として名付けられた。形式は、大正8年(1919)に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならいトラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組み立てて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるように整備ました。橋の長さは149.1m、幅員36.8 mです。平成10年(1998) 12月19日に全線開通しました。新しい「相生橋碑」。「佃島が埋め立てられて月島となって、人々が住む町が開けるとともに、交通の便や、水道が必要になった。そこでまず、深川との間にこの相生橋が架けられた。明治36年(1903)のことであった。その後改修され、中ノ島で、大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川が、ここで左右に、大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正15年(1926)11月に、震災復興事業の最初の架橋として完成した。 昭和59年(1984)3月 東京都」トラス構造の「相生橋」。「派川(はせん)」とは1本の川には、一般に多数の川が次々に集まってくるが、水量、河道の長さ、流域の広さなどにおいて有力なものを幹川あるいは本流と呼び、幹川に合流するものを支川(支流)、幹川から分派して直接海に入るか再び幹川に合流するものを派川または派流(分流)という と。現在地はここ。トラス構造に近づいて。名称:相生橋構造種別:3径間鋼トラス桁河口からの距離:0.9km橋の長さ:149.1m有効幅員:31m竣工:2000年(H12)「相生橋」。「永代橋」方向を見る。「清澄通り」と交差する「八重洲通り」の横断歩道を渡る。渡りながら「相生橋」を見る。「隅田川」の「派川」越しに「豊洲1丁目」のビル群を見る。ズームして。ビル群の手前が「豊洲貯木場跡」。「相生橋」の下流側の歩道を進む。右手前方・係留杭の先に3本マストの瀟洒な「帆船」の姿が見えて来た。「豊洲水門」をズームして。門扉型式 複葉ローラーゲート有効幅員 17.4m×2連上空制限高(A.P.) +5.7m竣工年度 昭和37年「豊洲水門」の下流で隅田川派川に豊洲運河が合流。また、隅田川派川の右岸から朝潮運河が分流する。「春海橋」方向を見る。「相生橋」の中央付近を通過。前方、橋の下に石灯籠が現れた。ズームして。「中の島公園 感潮池」にある「石灯籠」。隅田川河口部で本流から分かれ、晴海運河・豊洲運河に通じる派川に架かるのが相生橋で、中央区佃と江東区越中島を結んでいる。両岸の間にあった中州が中の島で、明治36年に初めて橋が架けられた時、島を中継地として2本の木橋が架けられ、佃島側が相生大橋、越中島側が相生小橋と呼ばれた。しかし、これらの橋は関東大震災で焼失し、大正15年に再建、その後、昭和2年に中の島は隅田川唯一の水上公園として整備された。相生橋は木橋の時代から月の名所でもあり、中の島公園も大いに賑わったということだが、隅田川の水質汚染が進むにつれ、訪れる人も少なくなり、昭和48年に公園は閉鎖されてしまった。その後、隅田川の水質も改善し、昭和53年の花火大会の17年ぶり復活に続き、中の島公園も昭和55年に再び開園した。この時、中の島は越中島と地続きになり、園内に新たに池もつくられた。江東区越中島1丁目3−26先。再び豊洲の高層ビル群を見る。左側に「キャナルワーフタワーズW&E塔」、右側に「アーバンドックパークシティ豊洲タワー」。「中の島公園」碑が。「中の島公園」に下りて石灯籠を。「石灯籠」越しに「相生橋」を見る。「感潮池断面見取図」。池は感潮池(潮入の池)で、隅田川との間に通水管が設けられ、潮の干満により水位が変化する仕組みになっているとのこと。この時は潮の干潮時で、池には水が入って来ていなかった。通水菅がこれであっただろうか。石灯籠越しに、この後に訪ねた「帆船・明治丸」を見る。「帆船・明治丸」。左に豊洲の高層ビル群、右に「春海橋」を挟んで月島の高層ビル群。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.15
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「住吉神社」を後にして、「中央区立佃公園」の「隅田川」の川岸を上流に向かって歩く。中央大橋の南側に位置する細長い公園である。中央大橋から北側は石川島公園であり、隅田川テラスで繋がっている。公園内には、大川端リバーシティ21の超高層マンションが立つ。また、公園内を佃川支川が流れる。公園内には石川島灯台がある。これは復元されたものであり、1階は公衆便所である。佃公園は、夜景の名所として知られる。この夜景は、大川端リバーシティ21などのマンションの灯や、石川島灯台・中央大橋・東京スカイツリーなどのライトアップによるものである。また、公園内には桜も多く植えられており、桜の名所としても知られる。佃公園は隅田川テラスを擁しており、ロケーション撮影等に使われる機会も多い。佃堀周辺も佃公園の一部として設定されているが、この部分のみは、ジャリ公園と通称される。案内地図。現在地はここ。「石川島人足寄場1790年「鬼の平蔵」として知られる長谷川平蔵の建策によリ、石川島の地に人足寄場をつくり、無宿人等を収容して職業指導をおこないました。明治中期以降は石川島造船所(現、石川島掲磨重工業)の敷地となりましたが、工場は1979年に閉鎖され、その跡地は「大川端リバーシティ」の高層ビル群に生まれ変わりました。」「中央大橋1993年に、佃大橋と永代橋との間に新しく架けられた橋です。高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並として生まれ変った佃地区と都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並にマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすように、タワーを有した斜張橋となっています。隅田川とセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市の協力によりフランスの彫刻家オシップ・ザッキンが製作したモニュメント「メッセンジャー」像が設置されています。」前方に「中央大橋」が姿を表した。「佃大橋」を振り返る。「聖路加タワー」頂部付近から陽光が。中央大橋は、隅田川にかかる橋で、東京都道463号上野月島線中央大橋支線(八重洲通り)を通す橋である。西岸は中央区新川二丁目、東岸は中央区佃一丁目。1994年1月に開通した架橋であり、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の架橋である。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされている。隅田川はフランスのセーヌ川と1989年(平成元年)に友好河川を提携しており、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼した。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。また上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座する。彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからの方が見やすい。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈している。紅葉も始まって。「中央大橋」をカメラで追う。・構造形式 二径間連続鋼斜張橋・橋長 210.7m・幅員 25.0m・竣工 1993年(平成5年)8月26日(レインボーブリッジと同日)・橋桁製作 石川島播磨重工業横浜工場「中央大橋」越しに「東京スカイツリー」の姿が。更に「中央大橋」越しに「永代橋」の姿も確認できた。主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されているのだ と。「中央大橋」下を通過し上流側の「メッセンジャー」像を見る。正面に「永代橋」と「東京スカイツリー」。ズームして。「東京スカイツリー」をズーム。これでもかと。隅田川に架かる三大名橋の一つ「永代橋」は、夜にはライトアップされて夜景が美しい美橋で勝鬨橋、清洲橋と共に、国の重要文化財に指定されているのだ。ライトアップされて夜景が美しい「永代橋」をネットから。「石川島公園」内、「リバーシティー21」前、右側にあったのが「あした」重岡 建治。ズームして。この後も重岡 建治の作品がこの付近にはいくつか展示されていたのであった。東京湾クルーズ船が姿を現した。「ジュビリー」であっただろうか?そして「中央区立石川島公園」の先端部に到着。「晴海運河」が前方に。「永代橋」が前方に。「中央大橋」を振り返る。階段を下りて最先端部に向かう。「都市公園コンクール 建設大臣賞」プレート。ズームして。「施工(造園修景)部門中央区立石川島公園平成12年10月27日施工 株式会社 泰正」と。現在地はここ。「晴海運河」の「相生橋」方向を望む。階段の上が「パリ広場」、その後ろに「リバーシティー21 センチュリーパークタワー」。この時は干潮時あったのだろうか?ウッドデッキ上には船の係留用の「係船柱曲柱」が設置されていた。周囲を芝生?に囲まれた階段を上る。ここが「パリ広場」。「パリ広場 PLACE DE PARIS」。佃島の北端、石川島公園の一角にある「パリ広場」。1999年の「日本におけるフランス年」を記念して作られたこの広場には、日本のシンボル桜とパリのシンボルマロニエの木が植えられている。セーヌ川のほとりのような雰囲気を作り出していりのだと。この地形がパリのセーヌ川に浮かぶシテ島に似ているから??このモニュメントは子供たちが手を繋いでいる様子がモチーフだと。「友情から未来へ」と名付けられてるとのこと。「友情から未来へ L'Amtié pour Avenir」。「パリ広場記念碑 「友情から未来へ」1996年、日本とフランスは21世紀に向けて両国の友好と交流の更なる発展を祈念し・・・・???」。以下は転記不可・・・・。台座。台座の絵は何をモチーフにしているのか?ズームして。土台に敷きつめられた中央区の小学生とフランス人学校の児童が描いた250枚の絵。日仏友好の未来が生き生きと表現されていると。子供たちが手を繋いでいる様子 と。「パリ広場」を後にして「晴海運河」に沿って進む。現在位置図。「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」案内プレート。中央区佃2丁目1。「初の蒸気軍艦 千代田形米国ペリー艦隊 が来航した1853年(嘉永6年)幕府の命を受けた水戸藩 がこの地に石川島造船所 を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計・建造された最初の上記軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。明治維新後の1876年(明治9年)平野富二 によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートしその後1889年(明治22年)には渋沢栄一 などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は1939年(昭和14年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、1979年(昭和54年)の工場大移転によりその長い歴史を終えた。」「初の蒸気軍艦 千代田形」。「石川島資料館のご案内」。この日は水曜日であったが訪ね忘れたのであった!!「センチュリーパークタワー」前を進む。正面に「スカイライトタワー」。東京都道463号上野月島線中央大橋支線(八重洲通り)側の「センチュリーパークタワー」入口。「中央大橋南詰」交差点。正面に見えたのが「中央大橋」の支柱。兜をイメージした「中央大橋」の支柱をズームして。「ピアウエストスクエア」。1993年竣工のノースウィングと1991年竣工のサウスウィングに分かれている地上3階建ての賃貸オフィス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.14
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そして正面の「拝殿」。「拝殿」前の石鳥居(右)。「拝殿」前の石鳥居(左)。正面から。さらに「拝殿」に近づいて。賽銭箱は無数に鋲を打った金属製で重厚感に溢れていた。防火の為だろうか、それとも防犯なのか。さらに、天井は格子天井。扁額「住吉神社」。「住吉神社略縁起御祭神 底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(ながつつのおのみこと) ・表筒之男命(うわつつのおのみこと)(住吉三神) 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神宮皇后) 東照御親命(あずまてるみおやのみこと)(徳川家康)例祭 八月六日「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」とト部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。神功皇后三韓征伐の祭、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。遥か後、天正年問に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年問に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島エ事を起こし、正保ニ年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月ニ十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。」そして境内を戻ると、「水盤舎」の奥にあったのが「鰹塚」碑。「鰹塚鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(七〇一年)、「養老律令」(七一〇年)に海産物調賦に、堅魚、岩堅魚、堅魚煎汁(岩詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存料、調味料としても利用してきました。東京鰹節類卸商業協同組合は、の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和ニ十八年五月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合邑九十六名の積み立てによる浄財でまかなわれました。塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。表面の揮毫は、日展審査委員で組合邑・節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。 東京鰹節類卸商業協同組合」歴史を感じさせる石塔。1798年(寛政10年)、江戸住吉構が佃住吉神社に石灯籠を奉納したのだと。基壇には「住吉組」の文字が刻まれていた。藤棚の下の木柱には文字が。近づいたが・・・??藤棚の様子をネットから。その奥に「信」と刻まれた石碑。住吉神社の末社「疱瘡神社」・「疫神社」。祭神 素戔嗚命(すさのおのみこと) 疫神(えきじん)御神徳 麻疹(流行病・疫病)退散。佃島では文久2年(1862)に麻疹が流行し、多くの人が命を落としました。その際には7尺の船を造り、そこへ災いを移した藁の人形(ひとがた)を乗せて、漁師の子供らの手によって沖へ流させたという記録が残っているとのこと。扁額「疱瘡神社」。扁額「疫神社」。こちらは、住吉神社の末社である「船魂神社」が「疱瘡神社」・「疫神社」の左隣りに。1869年(明治2年)、大伝場町(おおでんまちょう)1丁目(現在の東京都中央区日本橋本町2・3丁目)の太物店(ふとものだな)が入船稲荷社を佃住吉神社の境内へと遷座したのだと。太物店とは綿織物・麻織物などの太い糸の織物(太物)を商う店舗を指す。「御大禮記念植樹碑」?が石鳥居の横に。「船魂神社」に近づいて。御祭神 船魂神(ふなだましん) 住吉三神(すみよしさんじん)御神徳 船体安全・大漁満足・航海安全社殿の左右に見事な龍の彫刻。扁額「船魂神社」。末社「入船稲荷神社」。住吉神社の拝殿の右奥にある宮神輿庫の隣りにあった。手前左には、板で塞がった水盤が。明治2年2月27日に鎮座。佃島(佃1丁目)にはこの他に「森稲荷神社」・「浪除稲荷神社・於咲稲荷神社」の三か所四社の稲荷神社が鎮座し、毎年初午祭が行われる と。石鳥居に近づいて。狛狐(右)。狛狐(左)。御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)御神徳 五穀豊穣・産業発展扁額「入船稲荷神社」見事な龍の彫刻。そして「新神輿庫」。横壁のガラス窓越しに新旧の神輿を。2011年(平成23年)秋山三五郎が佃住吉神社の八角神輿を新たに制作した。これを機に旧い八角神輿が神輿としての役割を終え、現在は東京都中央区の中央区民文化財として、このコンクリート造りの神輿蔵に鎮座していると。旧神輿は1838年(天保9年)芝大門の大仏師・万屋利兵衛が佃住吉神社の八角神輿を制作した。かつての神輿渡御(みこしとぎょ)は氏子が八角神輿を担ぎ、隅田川や江戸湊の水中に入って執り行った。気密を高めるために、八角神輿の内部は漆で仕上げられている と。こちらは2011年(平成23年)秋山三五郎が新たに制作した佃住吉神社の八角神輿であっただろうか。こちらはネットから。「住吉神社宮神輿 八角神輿【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定【左】平成二十三年製作芝大門の万屋利兵衛により天保九年(一八三八)に製作されました。八角の型は天皇陛下の御座 高御座(たかみくら)を擬したといわれています。古くは海中渡御が行われていたため、内部も漆が塗られ気密性が高められています。一七〇年以上例祭におて使用されてきましたが、保存のため平成ニ十三年に八丁堀秋山三五郎により新しく製作されました。」ネット👈リンク から。【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定【左】平成二十三年製作「入船神社」の奥は水路になっていた。「石井ぎんざ歌碑」「明治は 遠くになっても 江戸が 残る 佃の夏祭り ぎんざ」歌碑の手前にも石灯籠が。「歌川広重 名所江戸百景 佃しま住吉の祭」佃島にある住吉神社のお祭りの風景を描いた作品。画面中央にある氏子旗には「住吉大明神」と書かれ、横には「安政4年6月」と書かれているように、この祭りは6月に行われた。氏子旗の奥には、神輿を担ぐ裸の若衆連中によって海中まで担ぎ込まれている様子が、勇壮に描かれている。初夏の爽やかな空気が感じられる と。お祭りで御輿をかつぐ人々の姿が描かれ、多くの人々で賑わう祭りの様子が伝わって来る と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.13
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そして「住吉小橋」の左手にあったのが「住吉水門」。「住吉水門」は佃煮発祥の地として知られる中央区佃にある佃川支川と隅田川の接続部に昭和40(1965)年に設置された幅員4メートルのこじんまりとしたローラーゲート式水門。そもそも佃は徳川家康が江戸入府の際に漁業の先進地だった摂津(いまの大阪)の佃村の漁民を引き連れ、隅田川河口の干潟を与えて埋め立てさせ、居住地としたのが始まりで、これが佃島の地名の由来となっている。この時、漁民たちが故郷の神々の分霊を祀った住吉神社(その後、徳川家康の神霊も祀る)が川べりに鎮座し、水門の名前にもなっているのだ。中央区佃1-1。「住吉水門」。形式:鋼製単葉ローラーゲート径間:4m×1連門扉高さ:5.75m竣工:昭和40年度平成28年度に耐震化工事が完了し門扉等が新しくなった。その先にあったのが「石川島灯台」。東京都中央区佃1丁目、中央区立佃公園のっ南側の一角に建つのが、「石川島灯台」。隅田川河口、品川沖を航行する船の安全ための常夜灯として築かれた石川島灯台を復元したモニュメントで、佃川支川が隅田川に合流する住吉水門近くに建ち、石川島の歴史を今に伝えるシンボル的な存在になっている。ここ、現在の中央区佃1丁目〜佃2丁目は、かつての石川島。寛永3年(1626年)、船手頭の石川家4代・石川八左衛門正次が幕府から1万7000坪の土地を拝領して石川島、八左衛門島と呼ばれるようになったのだ。石川家は寛政4年(1792年)、11代・石川正勲の時代に島を去るまで、石川島に屋敷を構えていた。寛政2年(1790年)には池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』でお馴染みの火付盗賊改・長谷川平蔵の提案で、老中・松平定信は石川島に人足寄場を設置し、石川家が去った後に石川島全体が人足寄場となっていた。設置の背景には、天明2年(1782年)〜天明7年(1787年)の天明の大飢饉による政情不安、犯罪の増加があった。人足寄場(にんそくよせば)とは、戸籍から外された無宿人、軽罪人らの収容、社会更正・復帰を目的とした施設で、石川島の佃島側を埋め立て、長谷川平蔵が自ら初代責任者に就任している(ここれが日本における刑務所のルーツです)。人足寄場での仕事は、大工、建具、塗物、紙漉き、米搗き、油絞りなどで、就労すると賃金が支給され、一定の金額に達した場合には、身元引受人を探して(戸籍を付与)釈放され、社会復帰を果たしたのだ。慶応2年(1866年)、人足寄場奉行・清水純崎(しみずじゅんき)が人足寄場で生産した油絞りの益金を利用し、人足寄場の西岸に築いた六角2層の常夜灯がこの石川島灯台。灯台の完成で江戸湾から日本橋方面に入る船の航路、近在漁師の安全が図られたのだ。現在の石川島灯台は、モニュメントで灯台としての機能はなく、公衆トイレになっていると ネットから。「石川島人足寄場」案内板。「江戸時代末期の佃島・石川島」。「佃島は摂津国西成群田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出して一行を助け、ここに徳川家と佃漁民の間に固い絆が結ばれることになった。その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築造し故郷攝津国の住吉神社の分霊を奉祝し、島の名を佃島と命名した。石川島の灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純崎が隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。平成元年 3月中央区土木部公園緑地課」「石川島灯台」前から「隅田川」そして「パークシティ中央湊ザ・タワー」を見る。「隅田川」の岸にあった少女像。「みどりの風」、作者は・・・。左手前方・隅田川、佃大橋越しに「聖路加タワー」を見る。隅田川の下流方向。左手奥に「亀島川水門」、右手に「霊岸島水位観測所」が見えた。「みどりの風」と「石川島灯台」を振り返る。「みどりの風」と「石川島灯台」のコラボをズームして。「住吉水門」を振り返る。海鼠壁の「石川島灯台」。「住吉小橋(すみよしこばし)」越しに「住吉水門」。住吉小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。「住吉小橋」越しに「石川島灯台」を振り返る。外観は、木目調である。路面は、煉瓦調である。橋長 : 33.0m架橋 : 1997年(平成9年)4月上部工形式 : 2径間連続鋼床版I桁橋橋種 : 鋼橋管理者 : 中央区「住吉小橋」の中央付近に石川島灯台と潮干狩り風景を描いたタイルが嵌め込まれていた。そして鳥居越しに住吉神社の参道を見る。住吉神社朱の一の鳥居を振り返って。2016年(平成28年)2月、佃住吉神社の総代会が一の鳥居を建立した と。そして「住吉神社」の入口に到着。1646年8月10日(正保3年6月29日)佃住吉神社が創建された。祭神は大坂の田蓑神社の分霊・住吉四神と、東照御親命(あずまてるみおやのみこと・徳川家康)の合わせて五柱で、海運業や問屋組合を始めとする多くの町人から海上安全・渡航安全の守護神として崇敬を集めました。当初は旧暦6月29日を例大祭の祭日とし、現在は8月6日を例大祭の祭日とします。摂津田蓑神社の宮司が19代にあたり、ここ江戸佃住吉神社の宮司が13代にあたるとのこと。田蓑神社の社家が本家にあたり、ここ佃住吉神社の社家が分家にあたり、両家共に現在も同じ姓を名乗っていると。中央区佃1丁目1−14。社号標石「住吉神社」。左手に「住吉神社社務所」。右手に「水盤舎」。「奉獻」と刻まれた天保12年(1841)造立「手水鉢」(区民族文化財)は、海上安全を祈願して木綿問屋組合・白子組が奉納したもの と。住吉神社の水盤舎は、明治2年(1869)に再建した現在の社殿と同時期に建てられ、その後、明治44年(1911)に改築されている。構造は、棟を境にして本を開いて伏せたような形式の切妻造で、中心には四方転びの柱に囲まれるように石造の水盤が置かれていた。水盤舎の細部に目を凝らすと、欅材を用いた欄間や木鼻に見事な浮き彫り彫刻が施されていることに気付きく。四方に見られる欄間彫刻の表面には、石川島の灯台を背景にした佃の渡し風景・帆をはった二艘の廻船・網を打つ小舟・磯辺の風景を題材とした彫刻、内側にも、潮干狩りの風景などの彫刻が施されています。さらに、木鼻には躍動感のある唐獅子の彫刻が見られるなど、風情と風格を備えた水盤舎といえるであった。また、参拝者が利用する石造の水盤は、天保12(1841)に江戸の木綿問屋仲間の白子組(越後屋・白木屋・大丸などが所属)が奉納したもので、背面に「天保12年 丑正月 白子組」の刻銘が見られる。住吉神社境内の水盤舎と水盤は、区内の歴史や文化と関わりの深い文化財であるのだと。切妻造りの手水舎の欄間には、佃島の時代背景が分かる彫刻が施されていた。正面「石川島灯台と佃の渡し」。左側面「網をうつ2艘の小舟」と蟇股。懸魚「雲間を飛ぶ3匹の鳥」。背面だけは両面彫刻で外側「波間で網をかける人など、磯の景色」、内側「潮干狩り風景」。木鼻「獅子」、持ち送り「波と亀」の彫刻。「住吉神社の水盤舎・陶製扁額所在地 中央区佃1-1-14住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならす、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治ニ年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄問は、明治ニ年再建時のものを使ったと推定されています。欄問の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十ニ年白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。正面鳥居の上にある篇額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(一八八ニ)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。いました。水盟舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。 平成九年三月 中央区教育委員会」正面「ニの鳥居」の上にある篇額は、珍しい陶製。「ニの鳥居」は平成元年(1989年)1月15日建立の石鳥居。白地に呉須(ごす)で額字や雲文を染付けている。呉須とは、古くから染付などの磁器に使われている青色の顔料のこと。 江戸時代初期に中国より有田にもたされたと考えられており、今日では、特定の産地にとどまらず広く陶磁器に使われている。 他の絵の具と違い、呉須は素焼きの状態で着色するため、その青が色あせることはないとのこと。明治十五年(一八八ニ)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王 と。狛狗(右・阿形)。狛狗(右・吽形)。右に「神楽殿」。藤棚の手前にあった巨大な青銅製灯籠。1925年(大正14年)10月頃、佃島の住民が佃住吉神社の境内に金子政吉(かのこまさきち)を讃える唐金(からかね・銅や錫などの合金・青銅)の灯籠を建てた と。金子政吉(1857年・安政4年-1934年・昭和9年3月8日)は佃島の親分で、二つ名に「魚河岸の政」がある。製作者は岡崎雪聲という人物。彼は日本橋の麒麟像も手掛けたとのこと。五世川柳 水谷緑亭句碑。五世川柳 水谷緑亭句碑。「水谷緑亭(1787~1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名手をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒章を受けました。文化年間(1804~1818)初めに二世川柳柄井弥惣右衛門の門に入り、川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号しています。二世没後は四世川柳人見周助に学び、天保8年(1837年)50歳の時に五世川柳を継承しました。五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた『誹風柳多留』が、167編で刊行を終えますが、天保12年(1841年)から『新編柳多留』を刊行し、嘉永2年(1849年)の終刊まで55編を数えました。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に『柳風狂句』と名付けています。編著には『狂句百味篳筒』をはじめ『住吉社奉額狂句会』等があります。文筆業に長じ、川柳とは別に著作も多く、『遊仙沓春雨草子』『祥瑞白菊物語』などの草双紙や、『俳人百家撰』などの伝記物等も著しています。この句碑は、昭和41年(1966年)11月に佃の人々によって建立されたもので、 『和らかで かたく持ちたし 人ごころ』と緑亭の句が刻まれています。 平成9年3月 中央区教育委員会」境内から「ニの鳥居」を振り返る。社殿に向かって左側にあった末社の「龍神社」。扁額「龍神社」。「内陣」。「龍神社龍姫大神(たつひめのおおかみ)(豊玉姫神)於迦美大神(おがみのおおかみ)・竜王弁財天文政五年(1822)住吉神社の境内に水を司る神、龍姫大神(豊王姫神)が龍神社として創建されました。その後佃島に白蛇が現れ、人々はこれを龍神(於迦美大神)と崇め佃の町の中に祠を建てて祀りました。しかしこの祠は漁師が網を渋釜で者る作業場の近くにあったため火熱の害を受け易くある時網元の夢枕に祭神が現れ、住吉神社の境内へ移りたいとの神託(神のお告げ)がありました。これを受けて天保九年(1838)に住吉神社境内社の龍神社に合祀されました。翌年になると日本橋老舗白木屋の守護神として祀られていた大弁財天の御神徳が大き過ぎるため、持ちきれず龍神社へと合わせて祀られました。龍神社と大弁財天を合わせて「龍王弁財天」とお呼びするようになり、今日では開運出世・金運上昇・問売第盛・学業成就・芸能達者・病気平癒の御神徳を持っ神として、崇敬を集めています。また弁財天の縁日が「巳の日」であることから、多くの方々が「の日に参詣しました。現在龍神社の例祭は「さくら祭り」期問中の三月下旬頃行われます。巳成金龍神社の出世開運・金運上昇のお守りとして年間を通して頒布されています。持つ人の身(巳)」に福・金運が訪れるよう祈願されたお守りです。巳の守毎年初めの龍神社の縁日である「初巳の日」に頒布されるお守りです。年の初めにその一年間の個人で家庭の徳・出世・開運を導くお守りです。」拝殿の左・佃川支川側にあったのが「旧神輿庫」。煉瓦ニ階建(イギリス積み)の「神輿庫」。1910年(明治43年)12月に860円を投じて神輿蔵を建てたのだと。イギリス積みは、レンガの長手(長い面)だけの段、小口(短い面)だけの段を交互に積み上げる方式。「旧神輿庫形状:煉瓦ニ階建(イギリス積み)坪数:四坪五合八勺竣成:明治四十三年十ニ月費用:八百六十円住吉神社では明治四十三年(一九一〇)に大規模な修繕・改築等を行い、その事業の一環としてこの神輿庫が新築されました。当時東京府へ提出した工事開始願書には、神輿庫について(下)の様に記されています。神輿庫ノ儀ハ従来神輿ヲ拝殿ノー隅ニ置キ候為ニ平時甚タ不便ヲ感シ候ニ付今回新築致シ神輿ヲ納置シ度(後略)明治四十三年十一月ニ十五日(意訳)神神輿については、今まで神輿は拝殿の隅へ置いてあり、その為普段大変不便を感じていたので、この際新築して、ここへ神輿を納めようと思います。神社境内にレンガ造りの神輿庫は同時から珍しいものだったかもしれません。平成ニ十三年の震災で破損致しましたが、貴重な歴史的建築物として、補強工事を行い現在も使用されています。尚、宮神輿(八角神輿)は現在、社殿に向かって右側のコンクリート造りの庫に安置されており、こちらの煉瓦の庫はその他の祭具が納められています。」「古河神社(ふるかわじんじゃ)」祭神:不詳御神徳:水辺の守護佃島周辺の水辺を守る神様で、石の祠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.12
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「佃天台地蔵尊」を後にして、「佃小橋(つくだこばし)」を渡る。佃小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。橋長 : 12.5m架橋 : 1984年(昭和59年)3月上部工形式 : PC単純I桁橋橋種 : RC橋管理者 : 中央区外観は、朱塗りである。欄干の柱の上に、装飾として擬宝珠が設けられているなど、歴史的な意匠が施されていた。「佃小橋」の下の、佃川支川の川底には、3年に1度行われる住吉神社の例大祭に用いる「抱木(だきぎ)」(大幟の柱)が、保存のため埋設されているとのこと。佃小橋から見ることができる位置には、佃住吉講によって、このことを知らせる案内板が設置されていた。中央区佃1丁目10−11。大幟の柱や抱木は、空気に触れて木が腐ってしまわないように、三年の間、川底に埋められている。例大祭の際には、水の引く干潮時を狙って掘り起こされるのだと。「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(一七九八年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立入ったり掘り起こしたりしないで下さい。佃住吉講」。「佃小橋」の先、右側にあったのが「日の出湯」中央区佃1丁目6−7。大栄マンションの1階にあった、男湯と女湯の入口が分かれた銭湯。「本日臨時休業」と。そして次に訪ねたのが「旧飯田家住宅」。佃島は、徳川家康公の命で摂津国(現在の大阪府北部周辺)佃村などから移住した漁師達によって、江戸湊の要・隅田川河口の干潟が造成されて1644年に完成しました。近代になってから、月島の埋め立てなどがありましたが、約400年前の地割りをほぼとどめています。関東大震災や太平洋戦争時の空襲からの被害も免れたので、歴史的な建造物や家屋も多く残っています。開発が進んだ現代の東京では、きわめて稀有な存在と言えます。中央区佃1丁目3−6。「飯田用水」と。「■■■田島邸 荷物撤去についてお知らせ■■■」とあったが・・・???。ネットには「佃島に建つ築100年の魚問屋 旧飯田家住宅は、亡き田島恒夫さんを想い起こす住まいです。」との文章があったが・・・。「旧飯田家住宅」👈リンクは、「佃喜八」という屋号をもつ日本橋魚市場の魚問屋の併用住宅として大正9年(1920)頃に建築されました。佃島の「中通り」に面して建つ2階建の出桁造(だしげたづくり)町家で、魚問屋らしく北側に生け簀(いけす)と手押しポンプの井戸を配した広い土間をもち、南側には住宅への玄関を独立して設けていることが特徴です。土間の入口の鴨居には、商家のステータスとなる背の高い人見梁(ひとみばり)を用い、大八車が入りやすいように敷居が外れるようになっています。また2階には榁(むろ)の変木を用いた数寄屋風の続き間座敷があり、昭和のはじめには、東京宝塚劇場の開設にあわせて阪急電鉄社長の小林一三(こばやしいちぞう)が滞在したとも伝えられています。この銅板には文字があったのであろうか。懐かしい手動井戸ポンプ。振り返って。そして正面に見えて来たのが「佃まちかど展示館」。中央区佃1丁目2。近づいて。「中央区は江戸時代より、わが国の文化・商工業・情報の中心として発展してきた長い歴史と伝統を誇る由緒あるまちです。面積は小さいながらも、江戸五街道の起点である名橋「日本橋」、世界のショッピングストリート「銀座」、日本のウォール街「兜町」、食文化の中心「築地」、佃や月島をはじめとした豊かな水辺等さまざまな魅力に満ちあふれ、多くの人たちが集う活気とにぎわいのまちとして、めざましい発展を遂げてきました。以来400年余り、中央区は歴史と伝統を育み、江戸以来の老舗や地域のお祭りなど、多様な文化資源が脈々と息づいています。この中央区の魅力を皆様に広く知っていただくため、地域の文化資源を「まちかど展示館」として整備し、開設しています。展示館は、小さな老舗内の伝統工芸品を飾ったショーケースから企業のものづくりや歴史を展示したもの、あるいは下町の祭事に使用する神輿など、規模や展示方法はそれぞれですが、中央区が誇る文化の一端をかいまみることができます。中央区の“ちょっとすごい”を是非、お訪ねください。」と。中央区佃1丁目2。内部をネットから。「佃まちかど展示館 👈リンクまちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記憶を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開をすることで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が公認し設置しているものです。佃島は、攝津国西成郡(現在の大阪市西淀川区)佃村・大和田村の漁師たちが、大川(隅田川)河口付近の干潟百間四方を拝領し、正保元年(1644年)に埋め立て造成した島です。故郷の名をとり佃島と名づけられました。漁師たちは、移住以来徳川将軍へ日々の鮮魚を献じていました。特に白魚は将軍の食膳に不可欠なものだったといい、今も佃島漁業組合に白魚献上箱が伝えられています。また、住吉神社は正保3年(1646年)に大阪の住吉神社の分霊を移したもので佃から月島一帯の氏神となっています。3年に1度の大祭には、神興が繰り出し月島地域が沸きかえります。佃まちかど展示館には、こうした佃島の歴史や伝統を象徴する千貫神輿や区民文化財である龍虎の獅子頭、佃例大祭の写真などを展示しています。また、この他にもたくさんの貴重な文化資源が残されています。」龍虎の獅子頭は写真が展示されていた。下には龍(左)虎(右)の獅子頭。「この龍虎の頭は制作年代不詳にして最も古きものなり既に天保初年発行の「東都歳時記」夏の條に 六月廿八、九日佃島住吉明神祭礼 龍虎の頭を渡す云々とあるは之れにして江戸時代佃ハ幾多の火災に罹り全島焼土と化したる事もあれと何時もこの龍虎の頭ハ不思議にも其の災いをまぬがれてり大正十年頃迄ハ大祭の時に此の頭を渡せしが大獅子頭新造以来之れを渡さず尚大祭の時ハ此の場所に庭を造り飾る事古例なり佃住吉講」黒駒の獅子頭(左 雄獅子・右 雌獅子)。「黒駒の頭について(中央区指定文化財 指定第七号)制作年代文政ニ年六月で佃島で二番目に古い頭です。獅子の頭ですが漆黒に塗られている為、黒駒と呼称されています。製作完成時に、あまりの出来栄えに、塗りの良否を試そうと、渋釜の煮えたぎった熱湯に漬けられたが少しも剥げる事なく漆黒を保ち、塗りがいかに良いかを示したと言い伝えられています。昭和四十年位までは子供達によって渡御していましたがその後、渡御はぜずに大祭時には安置のみとなりました。尚、平日は紫外線による劣化防止の為、写真での展示となります。」そして「千貫神輿」。もとは終戦後に千葉の寒川神社の宮神輿として新調されたものですが、あまりの重さに200人の怪我人を出したというエピソードが残っています。この神輿があまりの大きさと重量のためにその後、人形町末廣神社を経て、昭和34年に佃住吉講が譲り受けたのですが、担ぎ棒があまりに長く、狭い佃のまちに合わせて短く切ったといいます。3年に一度の住吉神社の例大祭にこの千貫神輿とともに若衆(わかいし)によって担がれるのが、中央区有形民俗文化財に指定されている文政年間作の龍虎と黒駒、2対の獅子頭です。竜虎の獅子はその昔、収蔵された藏が焼けた時、水を吹き鎮火したという伝説が残されていて、佃が震災や戦災を逃れたのも龍虎のお陰と言い伝えられているそうです。展示館の右手には「佃島渡船」の石碑が立っていた。江戸時代から佃大橋ができるまで渡し船が隅田川を行き来していました。そしてこの地がルーツとして知られる佃煮の老舗。町の氏神である住吉神社。さらには戦災を逃れた情緒ある家並みなど、佃には見所がたくさん。歴史ある住吉神社の威勢のいい例大祭はとても有名で魅力的ですが、昭和の面影を色濃く残した日常の静かな佃には格別の趣きがあります。人家の声が聞こえそうな細い路地や、そこに隠れるように祭られた佃天台地蔵尊。とても小さいけれど歴史ある森稲荷神社。古い駄菓子屋のような店構えの漆芸店など、展示館とともに訪れたいまちです。中央区佃1丁目2−10。「佃島渡船場跡所在地 中央区佃1-11-4 湊3-18先佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸時代初期、初代将軍徳川家康の招きによって摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃)から下ってきた漁師たちは、鉄砲洲東の干潟百間四方を埋立てて佃島を築きました。そしてこの島と対岸の船松町(現在の佃大橋西詰付近)との間に通された渡船が佃の渡しです。佃の渡しは、佃島住民だけでなく、住吉神社への参詣や花見見物などの人々に利用されました。明治時代には渡し賃が一人五厘であったことから「五厘の渡し」と呼ばれました。大正15年(1926)に渡船の運営が東京市に移ってからは定期的に運航されるようになり、昭和2年(1927)以降は有料の手漕ぎ渡船から無料の曳船渡船となりました。同年、渡船場の諸施設が整ったことを記念して、佃一丁目と湊三丁目にそれぞれ石碑が建てられました。昭和31年(1956)には一日平均60往復、1万6000人もの利用者がありましたが、昭和39年(1964)8月に佃大橋が完成したため、佃島の渡船は廃止されました。佃島渡船場跡は、渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されています。」「佃島の渡船(昭和30年代)」。「佃渡し跡広場」。中央区佃1丁目2−9前。右側の小さな広場・「佃渡し跡広場」にあった北條秀司句碑。佃まちかど展示館の横手、佃島渡船の碑に向かい合うようにあった。「雪降れば佃は古き江戸の島 秀司」「劇作家北條秀司は佃島が好きであった。新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和32年(1957年)12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北條の代表作をまた一つ世に残すことになった。」「佃公園のご案内」。テラスへの石段の手前には現在地周辺の地図が。現在地は、「隅田川」に架かる「佃大橋」南側、隅田川の左岸。「佃島の歴史佃島は江戸時代初期、摂津国佃村と大和田村の漁師たちが鉄砲洲沖の干潟を拝領して埋め立て、漁師町を形成しました。漁師たちは将軍に白魚献上の御用を勤めました。佃煮が生まれた地としても知られ、現在も3軒の佃煮屋が営業しています。関東大震災、戦災の難をまぬがれたため、長い年月の変容も受けながらも昔のたたずまいを今に残しています。」「住吉神社住吉神社は、江戸時代初期に摂津国佃村の漁師たちが江戸に移住したのち、大阪の住吉神社を分社し、1646年に現在地に創建した佃島の鎮守社です。以来、佃島の人びと、水運関係の人びとから厚い信仰をうけています。正面島居に掲げられた陶製扁額(区民有形文化財)は、有楢川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の揮毫によるものです。」テラスから「隅田川」に架かる「佃大橋」、その先にブリッジで繋がる「聖路加タワー」👈リンク。「隅田川」の上流方向。「隅田川」はこの先で「晴海運河」と二手に分かれているのだ。「佃島の街並み」、「佃まちかど資料館」前を引き返した左側にあったのが「佃煮 ㈱天安本店」。店内には様々な種類も佃煮が並んでいた。再び「佃島の街並み」を「住吉神社」の朱の鳥居に向かって歩く。前方に「住吉神社」の朱色の一の鳥居が見えて来た。古い民家。再び「聖路加タワー」。朱の鳥居越しに「住吉神社」の参道を見る。中央区佃1丁目1−18手前。正面に見えたのがこの後訪ねた「石川島灯台」。「佃川支川」を見る。反対側には「住吉水門」があった。現在地はココ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.11
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「月島もんじゃストリート」を後にして「西河岸通り」に出て「新富晴海通り」に向かって進む。前方に再び高架の「新月陸橋」が見えて来た。その先の歩道脇に案内板が。「佃島砲台跡」案内板。中央区月島1丁目1−8。「佃島砲台跡所在地 中央区月島一丁目一・ニ・十三・十四番地域江戸時代末期、佃島 の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台 」が築かれました。江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永6(1853)年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2か月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場 (砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に「第一~第三・第五・第六・御殿山下」の六基(品川台場)を完成させました。佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久3年(1863)に勃発した薩英戦争 や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件 などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体勢を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡三拾九間(約70メートル)、南北凡四拾間(約72メートル)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治に至リ修理ヲ加ヘ、陸軍省ニ属ス」とあります。明治期には、陸軍省 所管の砲台となりましたが、明治20年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地 (現在の月島1~4丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。平成22年3月 中央区教育委員会」明治17年「五千分の一東京図測量原図(部分)」。明治33年頃の佃島砲台。そして「佃公園 佃堀広場(ジャリ公園)」に到着。中央区佃1丁目8−9。その先、左手に神社があった。正面から。江戸時代に33人の漁師たちが昼夜休むことなく造った島。それが佃島あると。かつては東京湾に囲まれ、漁師町として栄えた地域。そんな佃に1つの鳥居を共有する2つの珍しい神社があった。左手が正一位とされている「波除稲荷神社」、右手が「於咲稲荷神社」。中央区佃1丁目8−4。石鳥居の扁額「奉納 於咲 浪除 稲荷大明神」。神社の玉垣(たまがき)。玉垣とは、神社・神域の周囲にめぐらされる垣のこと。周囲の玉垣にはこの神社に深い関わりのある水産業関連の社名や地域の方々の名前が彫られており、地域の人たちにとても大切にされてきたことが分かるのであった。「手水舎」。波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)。波除稲荷神社を正面から。江戸開府に伴う江戸市街地の整備工事の最後、激しい波風に困難を極めた海面の埋立工事をピタリと納めた御神徳に「波除」の尊称を奉られ、雲を従える龍・風を従える虎を一声で威伏させる獅子の巨大な頭が奉納され、此を担ぐ事に祭礼も始まったと。御祭神は「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」。扁額「正一位 波除稲荷大明神」。社殿内陣。「さし石」。若者たちの力試し、力競べ用の石。イチョウの木の根元には大きなまん丸の石が。「さし石」と書いてあった。力石は、一般的な力石にみられるような楕円の形で、表面に凹凸が少ない安山岩系の自然石で造られていた。寸法は、概して長径60から64cm・短径36から43cm・厚さ18から23cmほどの石。重さは80~100kgもあろうか?さらに、力石には、「さし石」「奉納」の刻字とともに、「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など、実際にさし上げた(持ち上げた)者の名を読み取ることができるのであった。この「さし石」は、佃島の若い力自慢の漁師たちが力比べでさし上げた石であり、漁業を主たる産業としていた佃島の人びとの風俗習慣・信仰・郷土愛の発露によって当稲荷神社に奉納・保存されてきた貴重な民俗文化財といえるであろう。石垣再建碑。碑の裏面には発起人の名が。「於咲稲荷神社(おさきいなりじんじゃ)」。オサキという狐が疫病を退散したと言われており、当時の流行り病を鎮めるために作られたと。この神社はできて300年くらいの歴史があると。当時も現代のように、感染症に苦しめられていたのであろうか。神に祈りたくなる気持ちは今も同じ!!「疫病退散願」と書かれた御札が。祭神:稲荷大神。扁額「於咲稲荷大明神」。「令和八年例祭 住吉講参部 若衆募集」と。「三年に一度、心地良い疲れと充足感ある夏を共に佃住吉講参部では令和八年八月の住吉神社例祭に参加する若衆を募集しています。・中学生から四十代程度まての健康な方・八月の例祭を含む前後約三ヶ月の作業(主に日曜日)に参加できる方入部希望の方、ご質問のある方は下記へご連絡下さい。※募集締切 令和七年十一月末予定 ※面接がございます。※入部の際に入講金一万円貰い受けます。」正面に見えたのが「佃小橋(つくだこばし)」。佃小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。外観は、朱塗りである。欄干の柱の上に、装飾として擬宝珠が設けられているなど、歴史的な意匠が施されていた。橋長 : 12.5m架橋 : 1984年(昭和59年)3月上部工形式 : PC単純I桁橋橋種 : RC橋管理者 : 中央区中央区佃1丁目8−1。「於咲稲荷神社・波除稲荷神社」の前にあったのが「佃天台地蔵尊 入口」案内板。中央区佃1丁目9−6。近づいて。人がすれ違うこともできないくらい細い路地の奥にお地蔵様がいたのであった。さらに奥に。家と家のスキマのような道を行くと、右側大銀杏の樹の手前に手水場が。近づいて。大銀杏の樹の奥に提灯がずらりと並ぶ立派な御堂が右奥に。佃天台地蔵尊と大銀杏を紹介する東京新聞の記事も掲示されていた。「巨樹古木に合いに行く稲荷(いなり)大明神前の細い路地を入ると、中ほどに灯火が。優しく温かな佃天台子育て地蔵尊の煌(ひ)。家々に挟まれたわずかな空間のお堂。しかし、そこは佃一丁目の人々の深く自然な信仰と心のぬくもりがこもっていた。チリ一つなく、美しく清掃された空間の心地よさ。自然石に刻まれた、とても珍しい地蔵尊も幸せそう。堂内の二抱えあるイチョウの大木も、やはり幸せそう。心豊かな小世界。「かって文化財の指定を遠慮されたので樹木の資料がない」と、中央区役所の話。そうか、なるほど、合点のゆくことです。信仰も大木もあるがまま、佃の人々と一つになって生きている。本来、文化財とは指定されるものではなく、人の心の努力がつくり守るもの。まさに、ここに住む人々の真骨頂を見た。房州通ひか、伊豆ゆきか、笛が聞える、あの笛が。渡わたれば佃島。メトロポオルの燈(ともし)が見える 木下杢太郎」昭和三十九年八月 江戸の名所「佃の渡」は三百十九年間の歴史に終止符打った。だが・・・・」正面から。「皆様へお願い地蔵尊の御影がいたんできましたので永く保存するために手をふれたり水をかけたりしない様にお願い致します。佃天台地蔵尊」小さな石祠も奉納されていた。石板に線刻で描かれたお地蔵様が祀られていた。江戸時代の中期正徳五年(1715)~元文三年(1738)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩を厚く信仰され、自ら地蔵尊造立を促された。その崇徳院宮法親王が淨名院建立の際に描かれた地蔵尊を後に地蔵比丘といわれた第三十八世の妙連大和尚が八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、地蔵尊を拝写して全国の信者に賜ったとのこと。この天台地子育地蔵尊には「天台地蔵比丘妙連」の刻名があり、この地蔵尊もその八萬四千体のひとつではないかと。狭い空間ながらたくさんの奉納提灯も飾られ、近隣の人たちによって守られていることがよくわかるのであった。奉納提灯に近づいて。大きな提灯「佃天台地蔵尊」も。「佃天台子育地蔵尊縁起」。「佃天台子育地蔵尊縁起江戸時代の中期正徳五年(一七一五)~元文三年(一七三八)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたわまり、地蔵尊造立を促されたと伝えられています。享保八年(一七ニ三年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(八萬四千体とは、仏典に『無量壽仏 有八萬四千相十一相客 有八萬四千随形好・・・』に拠る。)妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850年)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手に錫杖を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることもたいへん珍しいといわれています。この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったことから。いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃からか定かではないのですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。この佃天台子育地蔵尊は頑是ない子供衆の様々なことを御守護下さる本願がおありになりますと同時に長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っております。平成十年一月佃天台地蔵尊信徒一同」そして再び、人がすれ違うこともできないくらい細い路地を戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.10
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さらに「桜の散歩道」を進むと、左手には「電気ケーブル」専用の橋「朝潮運河専用橋」。電線路専用橋のようであった。1960年代初期に架橋されたもので、もちろん立入禁止。再び、「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワー X棟&Y棟」を振り返る。「朝潮運河専用橋」の歴史を感じさせる橋の基礎の前後には保護杭が設けられていた。右手前方に見えて来たのが「ビュープラザ6号棟」その後ろに「晴海アイランドトリトンスクエアビュータワー1号棟」。いずれも高層マンションのようであった。前方に見えて来たのが「晴月橋(せいげつはし)」。文字通り、晴海と月島を結ぶ橋。「桜の散歩道」の右側の路は「さざなみ通り」。中央区晴海1丁目8。「晴月橋」手前の横断歩道を渡る。中央区月島4丁目18−3。橋銘板「晴月橋」。狭くなった「桜の散歩道」を更に進む。桜の葉も紅葉が始まっていた。前方には「朝潮橋」。中央区晴海1丁目。長さ86m。「朝潮橋」。「朝潮橋」を左に見ながら、手前の横断歩道を渡る。「竣功 昭和二十六年三月 拡巾 昭和三十八年十一月 あさしおばし 朝潮橋」。ここは「朝潮運河親水公園」と。中央区晴海1丁目2−1。「朝潮運河親水公園」は中央区晴海地区にある区の管理する公園。平成21年12月にオープンした公園で、運河を望む眺望スペースが川沿いに長くあり、釣りをする人も大勢いるとのこと。朝潮運河は中央区の勝どき、月島、豊海町と晴海の間を流れていて、ここではハゼが釣れることで有名で、他にセイゴ、スズキも釣れるようです。小型船の停泊場が。ここ「朝潮運河」周辺の橋。屋形船も停泊中。そして「朝潮大橋」。その先に見えたのが「佃水門」。佃水門の機械室。「朝潮大橋」への階段を上る。「朝潮大橋」を進む。振り返ると、「BIPROGY本社ビル」その右に「アーバンドックパークタワーA棟」。遠く「東京スカイツリー」も見えた。さらに「朝潮大橋」を北西・「初見橋」交差点方向に進む。「朝潮大橋」から「朝潮運河」の「朝潮橋」方向を見る。ズームして。「佃水門」機械室。「東京港建設寺務所 佃水門」と。道路を横断できなかったので、「佃水門」のゲート・門扉をネットから。<佃水門>門扉型式 複葉ローラーゲート有効幅員 11.4m×2連上空制限高(A.P.) +6.6m竣工年度 昭和38年中央区晴海1丁目。「朝潮大橋」の先の「新月陸橋」を左に下りて坂を下る。「初見橋」交差点へ。中央区にある清澄通りと晴海通りがクロスする交差点。東京メトロ有楽町線・月島駅が最寄り駅である。現在陸橋(都道473号線・新富晴海線)が通る位置には運河が横たわり、月島と佃島とを分けていたと。「初見橋」は当時月島通りと呼ばれていた大通りがこの運河に架かる橋でした。今では名前だけが往時の記億を留めています。中央区佃3丁目6。「初見橋」。ここに「初見橋」が架かっていた。1919(大正8)年発行の地図の月島部分。この緑の高架橋・「新月陸橋」の下が運河であったのだ。「新月陸橋」に沿って進み左折し「西仲通り」を進むと、交差点の角にはモニュメントが。中央区月島1丁目8。「輝きー月島 2003 望月菊磨」と。その先右側には「月島名物もんじゃだるま 海鮮処」にあった「巨大ダルマ」。下町情緒を色濃く残す「月島」。この街はもんじゃ焼き屋さんが立ち並ぶ「西仲通り商店街(通称・もんじゃストリート)」としても有名なのである。中央区月島1丁目9−15 西仲住宅1F。「もんじゃ 竹の子」。中央区月島1丁目9−15西仲住宅1F。「もんじゃストリート月島西仲通り商店街」案内板。中央区月島1丁目3−丁目。近づいて。もんじゃ焼きは溶いた小麦粉に具を入れて鉄板で焼いて食べる東京のローカルフード。その昔、子どもたちが文字を覚えながら食べていた文字(もんじ)焼がルーツとか。発祥の地、東京の下町、月島にはもんじゃ焼き屋が軒を連ねるストリートがここと。「月島西仲通り一番街」。現在の西仲通りは明治末期にはその原型がつくられ、関東大震災後の復興により、現在のモルタル看板建築の町並みが形成された。帝都復興事業により、明治期の街区に整備された路地には長屋が立ち並んだ。西仲通りに直交する路地を中心に長屋が残り、震災後の町並みを今日に伝えているのだと。「月島西仲通り二番街」。月島西仲通り二番街に面した高層マンションMID TOWER GRANDが竣工したのが2020年10月。コロナ禍も続き、1階店舗の入店も遅れ、営業も制限されていた。しかし、仲見世通りらしいアーケドが残されて、日除け・雨避けのある、公共空間ができた。マンション側の公開空地とともに、西仲通りの午後の歩行者専用時間には、「居心地が良くあるきたくなる」まちなかの暮らしかたを、つくり合ってゆける場であると。「もんじゃ風月 月島店」。中央区月島1丁目19−4。美味そうな「ねぎやき」。「月島西仲通り二番街」を望む。左手に「もんじゃ太郎」。中央区月島1丁目22−1−103。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.09
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「朝潮運河」脇の遊歩道から「黎明橋」を見る。晴海通りが通り、南東端の晴海と北西端の勝どきとを結ぶ。橋長88.2m。なおは運河のすぐ北東側・「黎明橋」の先には、動く歩道を備えた歩行者専用の「トリトンブリッジ」が並行して架けられていたのであった。近辺の橋は(上流) - 晴月橋 - 桜小橋 - トリトンブリッジ - 黎明橋 - 黎明大橋 - 朝潮水門 - (下流)「黎明橋」と。「中央区立黎明橋公園」内にあった石碑・「平和之礎」。佃島月島の戦没者400有余名の慰霊顕彰。碑文「副碑」郷土の英霊に捧ぐ祖国の命運を賭けた大戦終わって二十有余年国敗れて山河ありと雖も今日の平和と繁栄あるは戦の庭に華と散つた勇士の賜である。佃島月島地区出身の英霊は実に四百柱に達す その霊を慰め、その功を伝えるのは後に続くものの大いなる責務であることに思いを致し、昭和三十四年以来島友会を中心に同志相計り広く協賛を得て今この碑を中央区晴海公園の一角に建つ。この碑の名は ”平和の礎”諸霊の勇名刻してここに納む 今こそ安らかに眠り給え。そして平和の尖兵となり、永久に郷土を守らんことを 昭和44年9月23日 島友会 建立」と。「平和の礎建設発起人」碑。「晴海通り」に出たが横断歩道がないので、「れいめい橋公園通り」まで戻る。歩道橋を渡る。歩いて来た晴海3丁目方向を見る。「黎明橋」方向。そして「黎明橋」方向に進むと右手にあったのが「トリトンスクエアガーデン」。「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワー 」入口のエスカレーター。中央区晴海1丁目-8。「Triton Square」塔。トリトン「Triton」とは、ギリシャ神話で、海神ポセイドンの息子。上半身は人間、下半身は魚形または蛇形の姿をとる。「2001年3月31日竣工竣工からの経過時間がデジタル表示されていた。「22年214日13:06」と。季節ごとの花々が目を楽しませてくれる、「晴海トリトンスクエアガーデン」。秋の花が元気に咲いていた。「トリトンスクエアガーデン」案内図。そしてこちらが「トリトンブリッジ」。東京都中央区勝どき2丁目・晴海1丁目、「朝潮運河」をまたぎ、大江戸線・勝どき駅方面と、ここ晴海トリトンスクエアを結ぶ人道橋が、「トリトンブリッジ」。世界的にも稀なのは、内部が動く歩道で、しかも屋根付き全天候型という点。中央区勝どき2丁目 ・晴海1丁目。「INFORMATION」。「トリトンブリッジ」内の「動く歩道」を見る。こちらからの「動く歩道」は「故障中」で停止していた。よって、反対側を停止して徒歩にて相互通行であった?近づいて。再び斜めから。夜は夜景にアクセントを添えているとのこと。ネットから。こちらが「黎明橋」。中央区勝どき2丁目。豪華なアーケード。「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワー」の「X棟とY棟」を見上げる。中央区晴海1丁目8−11。再び「免震用ブリッジ」を反対側から。「さくらの散歩道」を歩く。中央区晴海1丁目8付近。「さくらの散歩道」。4月の「さくらの散歩道」をネットから。再び「トリトンブリッジ」を。前方にも人道橋が見えて来た。「桜小橋」と。中央区勝どき2丁目。2017年10月に開通した比較的新しい橋。「桜小橋」。「2019年度 土木学会デザイン賞 優秀賞 桜小橋」。「朝潮運河の歴史」案内板。「朝潮運河の歴史朝潮運河は、佃・月島・勝どき・豊海と晴海地区との間を流れる延長約2.2kmの人工水路です。この運河は1931年(昭和6)以降における晴海地区の段階的な埋め立てに伴って形成されました。かっては資材運搬航路として多くの船船が行き交う時代もありましたが、その後の宅地化などにより運河の周辺環境は大きく変貌を遂げています。現在では、新たなまちのにぎわいと古い石積み護岸や行き交う屋形船の風情とが調和し、多様な生物や緑豊かな自然環境をもっ貴重な水辺空間となっています。」その先にも橋?が。「トリトンスクエアガーデン」内を散策に。石段のて手前にあった、花の如きモニュメント。朝潮運河に対して"港町に船が停泊している"をイメージコンセプトに据え、運河沿いに作られた400mほどの桜の散歩道のほぼ中央に、入江に停泊している船をイメージに建てられたトヨタモビリティ東京中央晴海店(レクサス晴海)があり、花のテラス・水のテラス・緑のテラスも広がる。内部はトリトン通り2~3階の2層にわたる吹抜けとなったモール空間で、飲食・物販・サービスなど約60店舗が営業しているとのこと。再び「トリトンスクエガーデン」案内。晴海トリトンスクエアのテラスに架かる赤い橋。橋は湾曲していて曲線的なフォルム。その先に像が立っていた。橋の北東側にあるオブジェは「トリトン像」と。 噴水はトリトン(ギリシャ神話の海神であり、人間の上半身と魚の尾を持つ姿で表される)が、巨大な貝殻の上に座っている姿を描いていた。トリトンスクエアの名前の由来にもなったギリシャ神話の海神で、それを意識してか橋と像のある広場は海底神殿のような造りになっていた。中央区勝どき2丁目。横から。トリトンは右手で貝殻の口を開け、水を噴射すると。下半身は尾っぽを持つ人魚の様な神様。イメージとしては、人魚(姫)の男性版?。筋肉ムキムキの力強い人魚!?彫刻は大理石?で作られており、そのデザインや細部へのこだわりが見事に表現されていた。法螺貝を吹く「トリトン像」。下には勤勉を象徴する蜂をデザインしたバルべリーニ家の紋章が。バルベリーニ家の紋章である3匹の蜂の図柄。足元には目つきの激しい4頭のイルカが睨みを効かせて像を支えていた。裏に廻り込んで。トリトンは海の神様であるので、海を自由自在に扱うのだ。法螺貝を吹いて海の波を立てたり静めたりしているのであろうか。「トリトンの噴水」ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作 (レプリカ/オリジナルの50%縮尺サイズ)日本におけるイタリア2001年の記念に永久の印を捧げるイタリアより晴海トリトンスクエアへローマ「トリトンの噴水」の由来についてローマ・バルべリーニ広場のトリトン像は1642 ~ 1643年当時、バルべリ一ニ家から唯一法王となったUrbanoⅧ(ウルバーノ8世)に捧げるためベルニーニによって制作された。そのため、トリトンの下には法王の王冠が配され鍵の意匠も法王を象徴する。イルカの間にある紋章は、勤勉を象徴する蜂をデザインしたバルべリーニ家の紋章である。それまで使われていた大理石ではなく初めてトラバーチンを使って作られた彫刻で、1800年代にはローマ絵画の典型的なモチーフとして盛んに描かれた。」様々な角度から。トリトンの姿は、エネルギッシュでダイナミックでありながら、繊細なディテールも見られた。彫刻された大理石の中で、筋肉の力強さや表情の生き生きとした表現が見事に描かれていたのであった。この法螺貝の先端から噴水が出るのであろうか?赤い橋の下には、青いタイルで仕上げた海が広がっていた。曲線美の手摺。青いタイルにも色のうねり・アンジュレーションが。橋の上から。2層にわたる吹抜けとなったモール空間の広場を見下ろして。「桜小橋」、「トリトンブリッジ」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.08
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「晴海緑道公園」を進むと、芝生の中に木製のベンチが数多く置かれていた。「選手村ビレッジプラザで使用された木材を再利用したべンチOlympic Village Plaza Wooden Benchこの木材は、東京2020オリンピック・パラリンピックの選手村ビレッジプラザで活用された木材です。」「東京2020オリンピック・パラリンピック期間中の選手村ビレッジプラザ👈リンク の外観」。前方に見えたのが高層マンション「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」。2棟構成・総戸数1744戸の大規模・超高層ツインタワーレジデンス「ザ・パークハウス晴海タワーズ」。「ザ・パークハウス晴海タワーズ」は、クロノレジデンスとティアロレジデンスの2棟構成。いつの時代も色褪せることなく、輝き続ける存在であるように、王冠の意味を持つエスペラント語の「クロノ」、ティアラのエスペラント語「ティアロ」という名がそれぞれの棟に付けられているのだと。この赤い花は「デイゴ」であっただろうか。遊歩道にはヤシの木が。「晴海大橋」。東南アジアにいるが如き風景。「豊洲大橋」、「レインボーブリッジ」を振り返る。高層マンション「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」がだんだんと大きくなって来た。三菱地所レジデンスと鹿島建設が手がけた「クロノレジデンス」と「ティアロレジデンス」の2棟からなる総戸数1744戸の大規模・超高層免震ツインタワーマンション。2016年度グッドデザイン賞を受賞したその美しい外観は都心湾岸エリアの美しい水辺都市景観を創造する一部となっており、リゾートを思わせる開放的なガーデンテラスや眺望を楽しめるビューラウンジなど安らぎを感じられる共用施設も魅力のひとつであると。そして「晴海緑道公園」の「晴海大橋」側の入り口。「晴海大橋」下を歩き見上げる。東京の中心部と臨海副都心を結ぶ新たな幹線道路として整備された東京都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線支線(有明通り)の一部。豊洲埠頭と有明1丁目を結ぶ有明北橋とともに2006年3月25日に開通した。橋脚は幅広く造られており、当初より中央部には首都高速10号晴海線の桁が架設できる構造となっている。この区間の10号晴海線は2018年3月10日に開通した。晴海大橋は一般道と首都高速晴海線がセットになった橋梁で、首都高速晴海線が一般道の上下線に挟まれたような構造になっている。現在の首都高速晴海線は晴海大橋の北側でそのまま一般道に降りている(晴海出入口)。晴海大橋の一般道には、2×2箇所の「イカの耳」と呼ばれる延伸準備個所が存在していた。「イカの耳」は形状が似ているからマニアの間でそう呼ばれているだけであるとのこと。すなわち「晴海側のイカの耳は、晴海三丁目交差点の一般道どうしの立体交差の準備」であると。「晴海大橋」を潜ると前方には、江東区豊洲2丁目のマンション群が広がっていた。「豊洲船着場」も前方に見えた。東京都観光汽船の浅草行き「ヒミコ」が発着する豊洲船着場。メモリアルドックと呼ばれるように船が出入りする際には入口の跳ね橋(アーバンゲートブリッジ)が跳ね上がるユニークな構造になっているのだ。左に「跳ね橋(アーバンゲートブリッジ)」、中央の曲線ビル「SMBC豊洲ビル」、写真右に「ブランズタワー豊洲」。左折し、「晴海大橋」下を進む。「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」。そして「晴海大橋」の歩道に合流。前方に見えて来たのが「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワーX棟&Y棟」。オフィスタワーはX・Y・Z・Wの高層ビル4棟が連なっていた。中央区晴海1丁目8−10付近。タワーを見上げる。そびえたつ2棟の最上部のあたりでブリッジが渡る。この「ブリッジ」👈リンク は一見通路のように見えるが、地震が発生した際に重要な働きをする。ブリッジは地震時にビルの揺れに追随、伸縮し、揺れを抑える制震装置となっているのだと。揺れが大きいときにブリッジは最大2.4m伸びるという。この装置、超高層ビルへの適用は世界でも例がなく、地震はもとより強風によるビルの揺れも抑え、安全で快適なオフィス空間の実現に貢献しているのだと。「中央区立晴海臨海公園」内にあったのが「ふるさと晴海資料展示館」。中央区晴海2丁目4−27。「中央区立晴海臨海公園」入り口手前。「有明通り」には防音壁が設置されていた。「中央区立晴海臨海公園」と。中央区晴海2丁目4−27。「ふるさと晴海資料展示館」。内部には入れなかったので、外側から。「ふるさと晴海資料展示館平成23年に造営された大小神輿と曳き太鼓。地域の歴史的写真及び資料、地域活動の写真などを展示。沿革と特徴晴海地域は今も開発が進んでいる中央区の中でも新しい地域です。晴海運河側に「水辺のテラス」やプロムナードを備え、べイエリアの夜景も楽しめ、東京の新しい観光スポットとしても注目される晴海臨海公園。この公園入り口にあるのが「ふるさと晴海資料展示館」です。建物はまるで神輿を模したような方形(ほうぎよう)屋根。屋根の一角には蕨手のように反り返ったデザインを取り人れて、そこに「晴海」の文字が金色に輝いています。展示館には大きなガラス越しに町会の神興3点セット(大人、子供、山車)を見ることができます。これらは晴海の「海」をイメージした青がイメージカラーになっています。この神輿は、成長を続ける町の地域コミュニティーを育むシンボルとなり、これから増大する国内外の観光客の鑑賞に堪える美しさと迫力を備えたものと言えるでしよう。祭り住吉神社の例大祭で、この神興は担がれます。晴海地域は昭和になってから完成した土地で、祭に参加する人が少な過ぎるために、最後まて神輿を担げないこともありました。元々、晴海には自前の神輿がなく、住吉神社の大祭にはレンタル神輿で参加していましたが、40年来の住民の念願が成就し、平成23年に浅草の神興師・宮本重義氏によって晴海の神興が完成しました。また、晴海地域に人口が増えたことで人手不足が解消され、今では地域の子供たちで賑わっています。展示品の紹介■晴海連合町会役半纏■担き半纏住吉神社大祭で着用されます。晴海をイメージしたブルーの生地に背中に晴海の文字を入れています。」「令和五年 住吉神社例祭」👈リンク ポスター。この日は「神輿」は出張中であったのでネットから。「晴海町内神輿由緒この神輿は、昭和四十年来より永年に亘る晴海住民の一途な想いと憧れの心が一つになり造営されたものである。東京浅草聖天町 平成二十三年八月完成台輪寸法 二尺五寸真鍮鋳物製台輪角金具、極上龍巻蕨手を有した屋根唐破風型神輿 白木造彫刻・彫金・螺鈿など随所に江戸神輿の伝統技法が施され更に青染め鍍金を施した透かし金具、七宝焼を施した瓔珞(ようらく)や吹き返し金具などを用いて晴海色を表現。匠の伝統技法と斬新さが融合した総欅造りの逸品である。 平成二十六年六月吉日」提灯タワー「晴海連合町会 住吉連合睦会 晴海睦」と。「大太鼓」には左三つ巴紋(ひだりみつともえもん)が。そして「中央区立晴海臨海公園」から再び「ザ・パークハウス晴海タワーズクロノレジデンス」を。「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワーX棟&Y棟」を再び。中央区晴海1丁目8−11。「ブリッジ」にズームして。ビルの揺れの全ての方向に対応出来るのであろうか?「晴海三丁目」交差点から「晴海アイランド トリトンスクエア オフィスタワーX棟&Y棟」を見る。北東「春海橋」方向を見る。「中央清掃工場」方向。まずは「朝潮運河 人道橋」を訪ねることに。前方は「中央区立黎明橋公園」。中央区晴海3丁目1−6。「黎明橋公園」交差点を横断。右手に白い橋の姿が。ここは「朝潮運河親水公園」。勝どきと晴海の間を流れる朝潮運河。左右にタワーマンションが立ち並ぶ、このエリアに、新しい白い橋が架けられていたが、未だ工事中のようであった。中央区晴海3丁目6−番7号付近。真っ白で、ひねりの入ったユニークそして印象的なフォルム。「橋の名前を募集します応募期間 2023/10/1 (Sun)~2023/10/31(Tue)」と。既に前日で締め切られていたようだ。どんな名前になるのかも気になるのだが。朝潮運河には、すでに「朝潮小橋」という名の橋がかかっている。また、この辺りは桜並木が美しいのであるが、「桜小橋」という橋もすでにある。使用開始は令和6年4月予定とのこと。中央区勝どき・晴海地区は近年大規模な再開発・まちづくり計画により、多くのタワーマンション群が完成しており、人口が増え歩行者交通量が急激に増加をしている。この橋の完成で勝どきと晴海を行き来する手段が増え、パークタワー勝どきの入口に新設される「都営地下鉄大江戸線・勝どき駅」の入口が近くなり、利便性が向上するのだと。「黎明大橋」そして「パークタワー勝どきサウス」が右手手前に。「黎明大橋」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.07
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前方に見えたのが「O.GARDEN MEAT & BREAD CAFE」。「O.GARDEN MEAT & BREAD CAFE」のカラフルな看板。海と緑に囲まれたカフェ「オー・ガーデン」。焼き立てパンに切り立ての肉を挟んだミート&ブレッドと美味しいコーヒーが楽しめる店 と。中央区晴海5丁目8。「遊びの広場」には帆船をイメージした遊具が。船の中が探検できるようになっていた。「遊びの広場」。中央区晴海5丁目8。そして前方に「波のエリア」。滑り台になっているエリアが大人気であると。この写真の中に、以前は「晴海客船ターミナル」があったのだが。以前はもちろん、大型車駐車場、その先にも洒落た建物があったのだ。在りし日の「晴海埠頭」の上空からの写真をGoogleマップから。在りし日の「晴海客船ターミナル」をネットから。「晴海客船ターミナル」は2022年2月20日の営業をもって閉館。約30年にわたって東京港のランドマークとして親しまれてきた三角形の屋根が特徴的なターミナル施設は、同年7月から解体工事に入り姿を消した。跡地には中・小型のクルーズ客船に対応した客船受け入れ施設を新たに整備し、お台場の東京国際クルーズターミナルと合わせ、客船バース(係留施設)の2バース体制を確保する予定と。中央区晴海5丁目7。そして「展望広場」に向かって進む。ここはジョギングコースにもなっていた。「展望広場」の下には噴水池が。中央区晴海5丁目8。「展望台」から瀧のごとくに流れ落ちる水。「東京2020 オリンピック&パラリンピック競技大会」選手村Olympic Village 開村期間:2021.7.13ー8.11Paralympic Village 開村期間:2021.8.17ー9.8晴海ふ頭公園選手村は、宿泊棟21棟のほか、24時間営業のメインダイニングホール、全国の自治体から借り受けた木材を活用したビレッジプラザなどの施設で構成され、その広さは44haに及びました。大会期間中は、選手等が安全、安心、快適に生活できる環境を提供しました。」「大会当時の全景①宿泊棟 ②メインダイニングホール ③ビレッジプラザ」①宿泊棟。オリンピック時:18,000ベッド パラリンピック時:8,000ベッド②メインダイニングホール 【メニュー数】 約700種類 【座席数】オリンピック時 3000席 パラリンピック時 2400席③ビレッジプラザ 雑貨店やカフェ等の店舗など選手の様々な生活を支えるサービスを提供「東京2020 オリンピック エンブレム」組市松紋(くみいちまつもん)格子柄は、歴史的に世界中で愛され、日本では江戸時代(1603-1867)に「市松模様(いちまつもよう)」として広まった。日本の伝統色である藍色を使ったこのデザインは、日本の洗練された優雅さや粋を表現している。形の異なる3種類の四角形を組み合わせて、国や文化・思想などの違いを示している。そこには「多様性と調和」というメッセージが込められ、オリンピック・パラリンピックが多様性を認め合い、つながる世界を目指す場であることを表した。デザイナー:野老 朝雄(ところ あさお)氏プロフィール 1969年生まれ 東京都在住 職業:アーティスト 最終学歴:東京造形大学卒業、建築専攻「東京2020 パラリンピック エンブレム」エンブレムの組市松紋は、3種類の四角形(小18、中18、大9の合計45個)を組み合わせたものであり、オリンピックのエンブレムは和を意識した円形、パラリンピックのエンブレムは上昇を思わせる上部が空いた形になっている。両者共にパーツ数は全く同じで、組み替えることでそれぞれのエンブレムができるようになっており、共に同じパーツを使用することで平等を表現している、とも。東京2020オリンピックマスコットが「ミライトワ」。名称 「未来」と「永遠(とわ)」というふたつの言葉を組み合わせて生まれた。 世界の人々の心に希望に満ちた未来をいつまでも輝かせたいという願いが込められている。デザイナー:谷口 亮氏東京2020パラリンピックマスコットが「ソメイティ」。桜を代表する「ソメイヨシノ」と「非常に力強い」という意味の「so mighty」から生まれた名前で、桜の触角を持つ。「展望広場」からの絶景。「O.GARDEN」案内板がここにも。ここにも「晴海ふ頭公園」案内が。「HARUMI Flag Sun Village A棟」、右に「HARUMI FLAG Sun Village F棟」。再び往路と同じ道を、「朝潮運河」を左手に見ながら引き返す。右手に「HARUMI FLAG Sun Village B棟、C棟、D棟」。そして右折。左手にあったのが「三井ショッピングパーク ららテラス HARUMI FLAG」。中央区晴海5丁目2−505。「工事のお知らせ」が絵入りで詳細に。「月島警察署」方向に戻る。「月島警察署」。中央区晴海3丁目16−14。「月島警察署前」交差点を渡る。交差点を渡りながら、歩いて来た方向を振り返って。そして前方には「豊洲大橋」が見えて来た。東京都中央区。下の道を歩き進むと「晴海運河」の堤防が見えて来た。右側には「東京都道484号豊洲有明線支線(環二通り)」が走る。そして「晴海運河」沿いにあった「晴海緑道公園」案内板。「晴海運河」に掛かる「豊洲大橋」。晴海運河をまたぎ、東京都中央区晴海5丁目(晴海埠頭)と江東区豊洲6丁目(豊洲埠頭)を結ぶ道路橋である。東京都道484号豊洲有明線支線(環二通り)が通る。環状第2号線の一部を構成し、橋長は550メートル、幅員は32.3メートル(展望部分では36.1メートル)。並行する晴海大橋と同様、展望部分が歩道上の4箇所に設置されている。本体架橋工事は2008年11月に終了し、2013年前半から街灯の設置や周囲の道路の舗装工事などが行われた。しかし築地市場移転問題等により環状第2号線の開通が延期されたため、東京都は2020年東京オリンピック選手村工事車両に限定して2017年2月より通行可能としていた。2018年11月4日、環状第2号線豊洲 - 築地間暫定開通に伴い、豊洲大橋の一般への供用が開始された とウィキペディアより。「豊洲大橋」下から「晴海運河」の先に「レインボーブリッジ」が。「晴海ふ頭H-Iバース」にも船が停泊中。中央区晴海5丁目7。「鳳翔丸(HOSHOMARU)」と。漁業取締本部配属の漁業取締船で、我が国周辺水域等において、違法な操業及び漁具の設置を行う外国漁船等の指導・取締を行うことを目的にしている。最新鋭の漁業取締船として高い耐航性と容易な操船性を有するとともに、不測の事態に備えて、船橋等を強固な構造とし、航海船橋甲板には統合管制室を設け、悪質・巧妙化する外国漁船への漁業取締活動が効率的に行えるよう最新鋭の取締設備や通信設備などを装備。「鳳翔丸」主要目 ・全長 87.00m ・型幅 14.00m ・型深さ 9.10m ・ 総トン数(国際) 2,515トン ・定員 40名「豊洲大橋」下から「レインボーブリッジ」を。上層部が有料の首都高速道路であるのに対して、下層部は無料で通行できる一般道路である。眺望は上層部に比べ、ゆりかもめの軌道があるため進行方向右側の景色が見えず、左側も橋げた、フェンスがあるため、見通しが悪いなど劣っている。橋げたの高さは、設計当時、豪華クルーズ客船の象徴と言われていた「クイーン・エリザベス2」の通過・晴海埠頭(晴海客船ターミナル)への接岸を想定し、橋げたの高さは52メートルあるが、完成後に、クイーン・エリザベス2がレインボーブリッジをくぐることは一度も無かった。クルーズ客船の大型化が進み、水面よりの高さが60 - 70メートルに達するものも登場しており、パナマックスサイズのクルーズ客船は、レインボーブリッジをくぐることができない(日本最大のクルーズ客船である「飛鳥II」はくぐることができる)。このため、レインボーブリッジ以南の貨物用埠頭である品川埠頭や大井埠頭を利用するクルーズ客船もあった。2020年、レインボーブリッジ以南の青海地区に、大型クルーズ客船の発着に対応した「東京国際クルーズターミナル」が開業。晴海客船ターミナルは2022年2月20日に閉館となり、客船対応の暫定施設を設置した後、将来的には埠頭機能も縮小される予定となっている とこれもウィキペディアより。正面のアンカレイジの基礎は平面寸法:45.1m×70.1m、躯体長:51.0mで当時、世界最大規模のものであったと。アンカレイジとは橋のケーブルの端を定着する大きなブロックのこと。「豊洲大橋」の基礎部分。「晴海運河」の対岸に見えたのが右・「IHIステージアラウンド東京」、その後ろに「東京ガス豊洲スマートエネルギーセンター 」、左・「ホテルJALシティ東京 豊洲」。「晴海大橋」。「晴海大橋」に向かって、「晴海緑道公園」の遊歩道を進む。再び振り返って。「豊洲大橋」。「晴海大橋」。対岸にあった「新豊洲Brilliaランニングスタジアム」。東京ガス用地開発(2019年より東京ガス不動産)が推進する「TOYOSU22」プロジェクトの一環として、膜構造を得意とする太陽工業を建築主として全天候型のランニング施設が建設され、2016年にオープンした。東京建物が創業120周年記念事業として参画し、ネーミングライツを取得して同社のマンションのブランド名であるBrilliaを施設名に冠した。全長108mのトンネル状の構造内部に60mのランニングトラックが6レーン設けられており、障害者スポーツの利用を念頭に置いてシャワー室等は車椅子でも利用できるバリアフリー構造となっている。館長には、為末大が招聘された。隣接するオフィス棟には、Xiborg社による競技用義足の研究所が開設されている と。江東区豊洲6丁目4−1。全長108mのトンネル状の構造内部に60mのランニングトラックが6レーン とネットから。さらに遊歩道を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.06
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「朝潮運河」に掛かる「朝潮小橋」を渡る。東京都中央区、臨海部の島状工リアを流れる朝潮連河岸の勝とき六丁目地区と晴見五丁目地区を結ぶ人道橋「朝潮小橋」。途中2カ所のそれぞれ上流側と下流側に計4つのベンチが設置されており、それぞれの方向の夜景が楽しめるようであった。下流側にはレインボーブリッジ、上流側には晴海〜越中島方面が運河越しに眺めることが出来るのであった。中央区勝どき6丁目3。「あさしおこばし・朝潮小橋」。下流側には「レインボーブリッジ」。上流側には朝潮水門そして晴海〜越中島方面が運河越しに眺めることが出来るのであった。先程歩いた「朝潮運河」の右岸を望む。先程、横を歩いた東京海洋大学の練習船「汐路丸」をズームして。「朝潮小橋」から振り返ると、右側には「ザ・トーキョータワーズ シータワー」が。「朝潮水門」の先には「パークタワー勝どきサウス」(写真右)。朝潮運河の「朝潮水門」の先に見えたのが黎明大橋」。晴海通りが通り、南東端の晴海と北西端の勝どきとを結ぶ。橋長88.2メートルの橋。なお、この後に訪ねたのだが、運河のすぐ北東側には、動く歩道を備えた歩行者専用の「トリトンブリッジ」が並行して架けられていたのであった。運河の右側に見えたのが「ドゥトゥール ウエストタワー」。「朝潮小橋」を渡り、「れいめい橋公園通り」に出てここを左折して進む。「晴海通り」に突き当たりここを右折して進むと「月島警察署前」交差点に出た。右側には「中央地区清掃工場」の煙突が再び。「月島警察署」。「補助第314号線」を南西に向かって進む。右に「パークタワー勝どきサウス」左に「ザ・トーキョータワーズ シータワー」。この先には「東京国際見本市会場記念碑」があるはずであったが、工事中の為進めなかったのでネットから。「記念碑 東京国際見本市会場 1959ー1995晴海見本市会場 (東京国際見本市会場)は、昭和34年4月、わが国最大の見本市会場として、この地に誕生しました。以来、数多くの見本市・展示会が開催され、年間600万人を超える来場者で賑わいましたが、平成8年4月、江東区有明に新しい国際展示場「東京ビックサイト」が開場したのを機に、37年間に及ぶ活動の幕を閉じました。平成8年4月 株式会社 東京国際貿易センター 社団法人 東京国際見本市協会中央区晴海5丁目2。在りし日の「東京国際見本市会場」の写真をネットから。当時の晴海見本市会場は、上図のような配置になっていた とネットから。中央にある一直線の通路は、以前、飛行機の滑走路だったという。「中央地区清掃工場」の煙突方向に向かって進む。「中央地区清掃工場」正門。中央区晴海5丁目2−1。「東京二十三区清掃一部事務組合 中央清掃工場」。さらに、補助第314号線の歩道を南西に向かって進む。バス停「ほっとプラザはるみ前」を通過。中央区晴海5丁目2。工事中の為、直進禁止で右折して進む。「歩行者・自転車案内板」。次の目的地の「晴海埠頭公園」には「HARUMI FLAG SUN Village」を廻り込んで行け と。HARUMI FLAG(はるみフラッグ、晴海フラッグ)は、東京都中央区晴海で行われている2020年東京オリンピック・パラリンピック選手村跡地における大規模まちづくり事業のタウンネームであるここ中央区晴海に建設予定の高級マンション「HARUMI FLAG(晴海フラッグ)」は2020年のオリンピック・パラリンピックの選手村として活用された後、新築住宅へ一般向けに販売される予定でしたが、オリンピック中止に伴いイベントの開催を延期するといった対応をおこなった。東京2020大会で建物は選手村施設に活用され、高層階は選手が宿泊施設、低層階は各国のNOC/NPCがオフィスとして利用を計画。大会後に内装工事を施し、2023年(令和5年)3月から入居が始まる予定だった。しかし、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行によって、開催は2021年(令和3年)7月 - 9月に延期となった。これに伴って入居等のスケジュールも1年間の順延が生じた。全棟が完成すると総戸数5,632戸(うち分譲4,145戸)、約1万2000人の暮らす街となり、分譲マンションとしては国内最大の住戸数になる。すでに940戸は販売を終え、開催延期で休止となった販売は、2021年11月に再開された。入居は2024年(令和6年)3月下旬以降となる見込みである。総工費は約540億円(特定建築者の整備費を除く)「HARUMI FLAG Sun Village C棟」、「HARUMI FLAG Sun Village B棟」が左手前方に。中央区晴海5丁目5−3。対岸の東京海洋大学の練習船「汐路丸」を再び。ズームして。その先に「晴海ふ頭H-2バース」も。朝潮運河を挟んだ高層マンション群を振り返る。「朝潮ふ頭」に停泊する「大型化学消防艇」。中央区晴海5丁目8。船名は「みやこどり」。「みやこどり」は東京消防庁保有の消防艇の中で最も大きく、広域応援隊として東京湾以遠を航行する能力も有する消防艇。本船はタンカー火災や沿岸危険物施設等の火災に対応するため、毎分70,000Lを放水することが可能な消防ポンプを装備している と。ネットから「みやこどり」の全体写真を。船体形式・構造:V型・鋼/軽合金全長:43.2m船幅:7.5m全深(喫水):2.0m総トン数:195トン巡航速力:約20ノット航続可能距離:約581km(理論値)放水砲毎分15,000L×2基毎分10,000L×2基毎分 5,000L×2基正面に「東京消防庁 臨港消防署」が現れた。中央区晴海5丁目8−20。昭和23年3月7日、自治体消防発足に伴い、消防が警察から分離独立し、同年5月1日に名称を東京消防庁東京水上消防署に変更した。その後、数々の機構改革を経て昭和44年4月1日、船舶災害や重要な港湾施設に対応できる消防力を備えるべく、水上消防署を臨港消防署に改称し、港湾消防として東京湾の海の守りに就いたのだ と。「119 臨港消防署」と。そして目的地の「晴海ふ頭公園」に到着。中央区晴海5丁目8。「晴海ふ頭H-2バース」に向かって進む。前方に再び「レインボーブリッジ」が姿を現した。「晴海ふ頭H-2バース」前からズームして。「晴海ふ頭公園」案内図。晴海ふ頭公園は、東京都中央区晴海にある東京都港湾局が所管する都立の海上公園(ふ頭公園)である。東京港晴海埠頭の南西端に位置する。中央区観光協会から「夜景八選」の一つに選ばれ、レインボーブリッジや東京タワーなどを望むことができ、夜景スポットとして知られている。2020年東京オリンピック・パラリンピックの際には、周辺に選手村(HARUMI FLAG)の整備が計画され、当公園も選手村の一部となるため、2017年(平成29年)10月1日から休園となった。その後、リニューアル工事を経て、2022年(令和4年)10月7日に解放が再開された。 なお、都は開放再開に併せて、当公園において海上公園としては初の飲食店の設置・運営等を行う事業者を公募。フロンティアコンストラクション&パートナーズ(代表法人) が事業者に決定し、カフェとコワーキングスペースからなる「ConnecT HARUMI」(店舗名 O.GARDEN)を運営している。園内では、東京湾大華火祭の花火の一部が打ち上げられていたが、選手村整備に伴い、2016年(平成28年)をもって花火大会は休止となった。また隣接していた晴海客船ターミナルは、2022年2月20日に閉館している。移動して「レインボーブリッジ」をこれでもかと。橋長:798m、中央径間 (主塔間):570m。千葉県方面および神奈川県方面から東京都心へ向かう交通を分散させ、慢性的な交通渋滞が発生していた箱崎ジャンクション・江戸橋ジャンクションや首都高速1号羽田線の渋滞緩和と共に、開発の進められていた東京臨海副都心と既存都心部を結ぶために建設された。橋梁としては芝浦側アプローチ部1465m(陸上部439m+海上ループ部1026m)+吊橋部918m+台場側アプローチ部1367m(海上部905m+陸上部462m)が一体で建設されたが、通常は吊橋部からアンカレイジ部の60m×2を除いた吊橋本体(P22-P25間)の798mをレインボーブリッジと称することが多い。◯の部分が「レインボーブリッジ」なのだと。前方にも船が停泊。「東光丸(とうこうまる)」と。東光丸は、水産庁が運用している漁業取締船。1971年就航で老朽化した東光丸 (2代)の代船として、住友重機械工業で建造され、1996年に就航した。 船名の揮毫は当時の農林水産大臣であった大原一三によるものである。照洋丸の転用までは、水産庁所属の漁業取締船で最大であった。2代目同様、遠洋海域での国際漁業に従事する漁船の指導取締を主な任務とするが、近年の海洋資源管理の国際的な強化により、取締対象海域が北洋海域からインド洋、大西洋海域など広範囲に拡大、特に海況の厳しい高緯度海域で取締の強化が必要とされており、従来より広く海況の厳しい海域で指導取締活動を行うため、新造船は大型化、高速化が求められた。そのため、前船と比較して総トン数が約500トン増加した。北洋での行動を考慮して日本海事協会基準に準じた耐氷構造(ID級)となっており、荒天下の航海を想定して、船体海水の打ち込み防止を図った船首および船尾構造を採用、良好な耐航性、復元性、凌波性を有する。レインボーブリッジを背景に。総トン数 2,071トン(国内) 2,451トン(国際)全長 86.90 m幅 14.00 m機関方式 ディーゼル主機関 1基出力 8,000 PS搭載人員 45名「水産庁」の文字が。「船舶係留許可板占用場所 中央区(晴海埠頭公園前水域)専用面積 5640.00平方メートル占用目的 水産庁所属船舶係留のため工作物の種類 渡り桟橋占用期間 平成2◯年4月1日から 平成◯◯年3月31日まで占用者の住所氏名又は名称 水産庁長官」占用期間が平成??のままになっていたが、その理由は?この日は埠頭入口は閉鎖されていた。中央区晴海5丁目。前方に「晴海信号所」。中央区晴海5丁目7。「レインボーブリッジ」手前の有明側のカーブ橋を見る。「東光丸」を前方から。「晴海ふ頭公園」の先、「晴海ふ頭H-Lバース」前も工事中であった。「花木のテラス」を歩く。たくさんの円形ベンチが設置されていた。中央区晴海5丁目8 都立晴海ふ頭公園内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.05
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「豊海おさかな ミュージアム」を後にして、「清澄通り」を「豊海水産埠頭(とよみすいさんふとう)」に向かって進むと岸壁に突き当たる。岸壁の先には作業・荷揚げ・荷下ろし用の仮設高架道路が走っていた。その先に見えたのが「竹芝埠頭」、「竹芝客船ターミナル」。「豊海水産埠頭」には白い大型船が停泊していた。中央区豊海町14−25。「東京海洋大学」の文字が。現在地はここ。「東京海洋大学」。船の名は「海鷹丸」。練習船「海鷹丸」は主として海上における関係教科目の実習教育にありますが、内外の寄港地での水産、港湾関係機関や施設の見学調査も行っている。調査研究海域は東京湾・相模湾などの沿岸海域から黒潮域、さらには赤道海域・南極海にまで及んでいるとのこと。総トン数:1886t全長:93m航海速力:17.4ノット「豊海水産埠頭」から「レインボーブリッジ」を見る。ズームして。左方向を見ると、台場に建つ「フジテレビ 本社ビル」が見えた。ズームして。パノラマ撮影にTRY。東京都公園協会が運航している水上バスの姿が。「あじさい」号。展望デッキには観光客の姿が。再び「レインボーブリッジ」。「レインボーブリッジ」の「有明JCT」方向を見る。左「日の出桟橋」と「㈱東芝 本社」ビル、右に「東京ガス株式会社 本社」ビル。「日の出埠頭」には停泊中の「シンフォニークルーズ」の船が停泊中。。左・「シンフォニーモデルナ」、右・「シンフォニークラシカ」。その奥に右から芝浦1丁目にあるビジネスセンター「シーバンスN館」と「シーバンスS館」。「晴海ふ頭H-2バース」と「信号鉄塔」。「東京消防庁 臨港消防署」。そして「朝潮運河」の岸壁に沿って進む。前方にも船が停泊中。ズームして。左手に「パークタワー勝どきサウス」、右に「ドゥトゥール ウエスト&イーストタワー」。振り返ると豪華クルーザーが。「レインボーブリッジ」をこれでもかと。「中央清掃工場」の煙突。煙突長は177.5mであり、これは豊島区上池袋にある豊島清掃工場・210mに次ぎ東京都で2番目に高い工場煙突である。卸売業「築地フレッシュ丸都」。マルハニチログループの一員として、各種鮮魚の一次加工・水産物販売を手がけている と。中央区豊海町12−14 大都豊海ビル。多くの巨大な冷凍庫・冷蔵庫が。船の名は「汐路丸(しおじまる)」。この船にも「東京海洋大学」の文字が。「汐路丸」。「汐路丸」は東京海洋大学海洋工学部が管理していた練習船。現在は汐路丸4世がその任務を引き継いでいる。令和3年10月14日より運航を開始。総トン数 :775トン長さ(全長) :60.73m幅(型、登録) :11.10m深さ(型、登録):6.50m(船楼甲板)航行速力 :12ノット定員 :70名道路の角にあったのが「マグロ卸のフィッシャリーズテラス」。中央区豊海町3−13。再び「清澄通り」に向かって進む。そして次に訪ねたのがスポーツジム「シーサイドアネックス」。「朝潮運河」に掛かる「朝潮小橋」が前方に。「朝潮運河」その遥か奥に「レインボーブリッジ」。右手の曲線の建物が「シーサイドアネックス」。中央区勝どき6丁目6−6。「SEASIDE ANNEX・シーサイドアネックス」。朝潮運河沿いにあるガラス張りのアネックス棟。船のような外観であった。廻り込んで。「フィットネスジム」を覗く。ウッドデッキ仕上げの遊歩道を歩く。「朝潮水門」を見る。東京都中央区勝どきと晴海の間を流れる朝潮運河にある水門。1964年(昭和39年)竣工。有効幅員11.4mのものが2連あり、門扉型式はこの付近では珍しいスイングゲートを採用している。東京都が管理している水門は、河川の水門(東京都建設局所管)と、運河の水門(東京都港湾局所管)がある。 この朝潮水門は、東京都港湾局の管理する運河の水門である。朝潮水門が建設された当時は貨物船が航行したため、高さ制限の無い「スイングゲート」が採用されたとのこと。中央区晴海5丁目1−9。「朝潮運河」に掛かる「朝潮小橋」を斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.04
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「中央豊海郵便局」の2階に「豊海おさかなミュージアム」があったので訪ねて見た。中央区豊海町5−1 豊海センタービル2階。現在地はここ。エスカレーターに乗り2階へ。豊海水産埠頭の冷蔵倉庫群の手前に、「豊海おさかなミュージアム」があった。おさかなといっても、水族館ではなかった。ここでは「水産」の視点から学ぶミュージアム。例えば全国の大漁を願う祭り・神事の紹介や漁法の紹介、魚の誕生の瞬間や稚魚の姿など、そのジャンルは歴史・地理・生物など多岐に渡る。大人も言葉では知っていても見たことはないような貴重な映像が多く、親子で学べる場所。自由研究の課題にもおすすめ。図書の数も多く座席もあるのでゆっくり見ることができる。月に1~2回のペースで内容が変わるパネル展示も充実した内容。「ホヤ」「海藻」のように1つのテーマで生態から漁業・食文化まで!フルカラー20ページの解説ノートも頂けるので、帰宅してからも楽しめるようであった。中央区豊海町5−1 豊海センタービル2階 豊海センタービル。11月の特別展示テーマの一つは「ハゼが教えてくれること」と。日本には400種類以上のハゼの仲間が棲んています。その代表がミュージアムの近くの運河にもいるマハゼで、江戸時代から釣りや食用て親しまれています。マハぜなと全国各地のハゼの生態や漁法についてミュージアムで学んでみましょう! と。「GOBIES」は「GOBY:ハゼ」の複数形表記。入口には大漁旗「魚勢丸」が。近づいて。「日本でみかける魚の漢字」と「秋田県で獲れるさかなの漢字」。以前、テレビのクイズ番組で、魚へんの漢字は全部で244個👈リンクあると。「日本でみかける魚の漢字」。「秋田県で獲れるさかなの漢字」。「漢字でわかる魚のかんじ」2023年版👈リンク。「漢字でわかる魚のかんじ」2021年版👈リンクミュージアム館内。ハゼのコーナー。「メスが産んだ卵はオスが守る。マハゼはイクメンの師匠」。卵を産みっぱなしの魚が多いなか、ハゼ類の共通の特徴の一つが、メスが産んだ卵を、孵化するまでオスが面倒を見ることです。「みんな違って、みんないい。ハゼは多様性のお手本」ハゼは」日本産だけで」400種以上。見た目も、生息地もさまざま」。それぞれの環境に適応したものが生き残っていきました。「こんなハゼもすんでいるよ。東京湾奥でよく釣れるハゼ類」。東京湾岸の運河や河口で釣れる主なハゼ類です。ほかにも東京湾には、いろいろな種類のハゼの仲間が生息しています。アカオビシマハゼ、ドロメ、ウロハゼ、マハゼ、アゴハゼ、チチブ。にっぽんのハゼ・東京湾。シロウオ、トビハゼ。にっぽんのハゼ・琵琶湖。ビワヨシノボリ、ウキゴリ、イサザ。にっぽんのハゼ・有明海。ワラスボ、ムツゴロウ。「世界でも珍しい、大衆文化として花開いた江戸の釣り。」釣りが文化として花開いたのは江戸時代、身分も老若男女も問わず夢中になったようで、錦絵にも釣りをする風景が多く描かれています。「東都名所 御茶之水之図」歌川広重。「隅田川両岸一覧 首尾松の鉤船 椎木の夕蟬」。「東都花暦十景 木場魚釣」渓斎英泉。「東都名所 てっぽうづ」歌川国芳。「海のギャラリー豊海おさかなミュージアム・ホームページの海のギャラリーては、海や魚、海藻などの貴重なアート作品とアーティストについて紹介しています。」杉浦千里工ビ・カニの博物画家円谷プロのキャラクターデザインに携わる一方、独自の博物画技法で工ビやカニをテーマに作品を描き続けた。39歳で急逝。作品集に「美しき工ビとカニの世界 杉浦千里博物画図鑑」がある。夢中で生きた少年時代 、大人になってもその熱い心は走り続けた。ウルトラマンをデザインした男杉浦千里(すぎうらちさと)杉浦千里の大型エビの絵図。右から「ウチワエビモドキ」。ウチワエビモドキは、セミエビ科に分類されるエビの一種。インド太平洋の熱帯域に分布し、混獲されたものが食用に供される。中央「イセエビ」。イセエビは、イセエビ科に属するエビの1種。広義にはイセエビ科の数種を指す。別名に外房イセエビ、志摩海老、鎌倉海老など。 熱帯域の浅い海に生息する大型のエビで、日本では高級食材として珍重される。俳句では新年の季語。左「ゴシキエビ」。神奈川県以南に分布する。体長40cmに達する。暗緑色の地に白と黒の複雑な模様があり、腹部には黒色で縁取られた鮮やかな白色黄帯がある。イセエビ類の中では、非常に美しい種類である。魚の缶詰も並んでいた。「おさかな探検 ~調べよう・学ぼう~」。そして最後に2階の「豊海おさかなミュージアム」前から再開発現場の工事状況を見る。東京都中央区豊海町2周辺。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2023.12.03
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「新月島川」に架かる「清澄通り」の「新島橋」を渡る。中央区勝どき13 清澄通り。「新島橋(にいじまばし)」。先程下車した都営大江戸線「勝どき駅」方向に向かって進む。「新島橋」から先程訪ねた「浜前橋」そして「浜前水門」を見る。「浜前水門」のゲートは開いていることが判ったのであった。「新島橋」を渡り終えると「清澄通り」の向かいに寺の姿が。横断歩道を渡る。中央区勝どき4丁目12−9。山門の右には石碑と案内板があった。山門左手にあったのが「防災 まなぶ不動尊(不動明王像)」。中央区勝どき4丁目12−9。「防災 まなぶ不動明王尊縁起東京消防庁臨港消防署員 消防指令佐藤学君は、昭和五十七年五月五日深夜 中央区勝どきのマンション火災に出場 猛火を掻いくぐって七階ベランダに突入し 熾烈なる火炎に対し 我が身を母子らの楯とし身を焼かれながらも庇護し 次々と四名の救出に成功した そのあと リフターに自分も乗れば 重量が超過して墜落 する危険があることを考慮し 救出活動と酸素欠乏で極度に疲労した体にむち打ち 一人火炎を分けて無枠のはしご車の先端に飛びついたのであった しかし悲情にもそのはしごは噴出する火炎に赤く焼けていて 灼熱のはしごを握る両の掌は焼けただれ ために握力が弱まっていた所に 一挙に拡大して噴射した火炎と熱風に圧せられて殉職なされた 享年三十才 新婚三ヶ月であった 消防官は命綱を携帯し その訓練を積み 危険にひんすればその場を脱する術を有しながら あえて修羅の場に踏み留どまり最後の最後まで我が身を犠牲とし尊い人命を救助した 同君は先のホテルニュージャパン火災においても宿泊客四名を救助するなど 数多くの災害に出場し 積極果敢に職務を遂行した優秀な消防官であった 同君の殉職に対し全国の未知の方々から赤心溢れる弔慰を受けて感激した遺族が この度私どもが味わった深刻な悲哀を二度と何人にも嘗めさせたくはないという悲願と 志なかばにして倒れた故人のみ霊を その終焉の地に消防官として留どめたいとの念願である事を知り かの熾烈なマンション火災における同君の人間愛と消防官の使命感に燃えたぎる 鬼人も泣く壮烈極まる人命救助の活躍を目撃して感動した一人として これに応え都立瑞江葬儀場に於いて故人を荼毘に付した際に 同所係員が 出炉して来た台上の遺骨のみ仏の扶座するお姿にも似た喉仏を指し「このような形で残ることは極めて稀であって 私どもは 善根を積んだお人に顕れる現象と見ており そしてそのお人は真に成仏なされたものと信じている」と語られた その喉仏を分骨し「妙法蓮華経」第一部八巻と共に不動明王の胎内に納めて 市民を火災及び交通事故など諸々の災難から守り 併せて首都の防衛に任ずる警察、消防関係者の安全を祈願して安置するものである昭和五十八年五月五日 真円山東陽院 第三十世 栗塚正行 謹書」。山門右側に近づいて。寺号標石「眞圓山東陽院」。中央区勝どき4-12-9。「東海道中膝栗毛 作者 弥次喜多道中記 十返舎一九 墓所」碑。台石中央には一九が用いた印形(熊手と(貞)の組合せ)が施されていた。道路沿いにあるこの「十返舎一九 墓所」(徳川夢声筆)は、昭和33年2月、東京映画会社が『弥次喜多道中記』(監督・千葉泰樹、弥次さん役・加東大介、喜多さん役・小林桂樹、十返舎一九・徳川夢声/イーストマンカラー作品)の制作にあたって寄進したものであると。中央区勝どき4丁目12。題目碑「南無妙法蓮華経」追善供養の文字が。「十返舎一九墓」案内板。「十返舎一九墓所在地 中央区勝どき四丁目一二番九号 東陽院江戸時代後期の戯作者として知られる十返舎一九は本姓を重田といい、明和二年(1765)駿河国(現在の静岡県)に生まれました。その後、江戸に出て日本橋の出版業者・蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)のもとで黄表紙(きびょうし)を発表し、以後多くの黄表紙・洒落本を書きました。中でも「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどり着くという旅行記の形式をとる物語です。この作品は続編に続編を重ね、一九の代表作となりました。一九は、天保二年(1831)に没し、浅草永住町(現在の台東区元浅草)の東陽院に葬られました。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移されています。なお、墓石には次の辞世の句が刻んであります。此の世をは とりやお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら一九の墓は、区の歴史や文化に関わりの深いものとして中央区民文化財に登録されています。 平成三十年三月 中央区教育委員会」「十返舎一九肖像 歌川国貞画 国会図書館像」。境内を本堂に向かって進む。「百度石」碑。「本堂」手前の右側にあったのが「手水舎」。「南無浄行菩薩」。「南無浄行菩薩」水桶とタワシが。水盤。「本堂」(右)正面。内陣(右)。内陣(左)。石製の蛙が。「本堂」、「手水舎」を見る。「東陽院」を後にして「新島橋」を再び渡ると、その先に「環二通り」の高架があった。「勝どき陸橋」交差点が前方に。東卸豊海住宅1号棟、2号棟跡地は「豊海地区第一種市街地再開発事業」が行われていた。地上54階地下1階建(直接基礎・制振構造)、総戸数2,077戸(予定)の高層マンションが2棟出来るとのこと。反対側の岸壁には「共勝丸」が停泊していた。中央区勝どき5丁目12−9先。株式会社共勝丸が運航する「第二十八共勝丸(きょうしょうまる)」は、東京港月島と小笠原諸島(父島・母島)を結ぶ貨物船。月2~3往復の不定期便の運行予定で、片道約1,000キロを約46時間で運行。一般的な貨物や、定期船「おがさわら丸」では運べないガソリンなどの危険物や、車、廃棄物など資材を運搬している。共勝丸は貨物船であるので、運航はあくまでも貨物優先であるが、定員9名のキャビン(客室)が設けられており、 荷物の付き添いや、小笠原諸島の住民、その他、緊急と認められる場合は乗船可能であると ネットから。そしてその先、道路の反対側・左手にあったのが「中央豊海郵便局」。中央区豊海町5−1。バス停「豊海水産埠頭」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.02
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「勝鬨橋」の下を潜り隅田川左岸の「隅田川デッキ」を進む。前方に見えて来たのが、「築地大橋」その奥に広がる緑は「浜離宮 恩賜庭園」。「築地大橋」をズームして。その後ろにゆりかもめの竹芝駅周辺の高層ビル群。隅田川で最も下流に位置する橋梁。2018年(平成30年)11月4日、環状2号線豊洲 - 築地間の暫定開通に伴い接続する豊洲大橋とともに開通した。東詰側は勝どき陸橋と接続しており、朝潮運河に架かる黎明大橋まで高架が連続する。西詰側で築地虎ノ門トンネルと接続する。西詰側は旧・築地市場に隣接している。左手のオフィスビル・「イヌイビル・カチドキ」を見上げる。中央区勝どき1丁目13−1。小舟が高速で隅田川上流へと。「勝鬨橋」を振り返る。赤いビルは「住友生命保険相互会社 東京本社」ビル。その左に「ニチレイ東銀座ビル」。下流側から「勝鬨橋」の重要文化財に指定されている「二葉跳開橋」部分をズーム。現在地案内地図。ズームして。「勝鬨橋(かちどきばし)築地と月島の間を渡していた渡船場が、1905年の日露戦争での戦勝を記念し、「勝鬨の渡し」と命名されました。1930年に架橋が計画され、大型船の通航ができるように、シカゴの双葉跳開橋にならってはね橋とし、1940年に開通しました。1970年から大型船の通航もなくなり、また交通渋滞の緩和のため、「開かずの橋」となりました。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的建造物に選定されました。付近にある「かちどき・橋の資料館」は勝鬨橋を開くために使用していた変電所を改修したもので、この勝鬨橋をはじめ、隅田川の橋について貴重な資料や関連情報を展示、公開しています。」「十返舎一九墓十辺含一九(1765 ~ 1831)は、江戸の滑稽本の代表作である、弥次喜多の活躍する「東海道中膝栗毛」などの作品で知られる江戸時代の作者です。1930年、東陽院の移転により浅草から現在地に移されました。石には5名の名が刻まれており、右から2番目「心月院一九日光信士」が一九の戎名です。左側面に辞世の句「この世をば、どりゃお暇に線香の煙と共に、はいさようなら」が刻まれています。(中央区教育委員会より提供)」勝鬨橋長寿命化工事(塗装)の工事は来年2月末までの予定とのこと。「勝鬨橋」👈リンク の開閉部を再びズームして。「隅田川テラス」の横壁にあった壁画。中央区勝どき3丁目14−10手前。「風」と。隅田川の対岸奥に「東京タワー」が見えて来た。ズームして。さらに。東京タワーの右側は「パークコート浜離宮ザ・タワー」。総戸数572戸、地上37階建て、高さ133mの大規模高層マンション。「1998年1月隅田川(勝どき三丁目中央地区) 築堤修繕工事⬅延長49m 東京都貝島・山九・大成建設共同企業体施工」「隅田川テラス」を「築地大橋」に向かって進む。再び「勝鬨橋」。その後ろに左から「ニチレイ東銀座レジデンス」、「住友生命保険相互会社 東京本社」、「聖路加ガーデン 銀座クレストン」。ここにも壁画が。「水」と。石段の上に「日本紙パルプ商事フォアフロントタワー公開空地」。ポールが6本。中央区勝どき3丁目14。黄葉の始まった樹に囲まれたこのベンチで水分補給。再び「築地大橋」。橋梁形式 : 鋼3径間連続中路式アーチ橋橋長 : 245 m幅員 : 32.3 m - 48.0 m施工主体 : 東京都そして橋の中央にあったのが「浜前水門」。中央区勝どき3丁目15−1。橋の名は「浜前橋」。中央区勝どき3丁目15−1。勝どき3・4丁目と5・6丁目の間を流れ、隅田川と朝潮運河を結ぶのが「新月島川」。明治時代に造成された月島二号地(今の勝どき1~4丁目)の沖に大正2(1913)年に埋立地・月島三号地(今の勝どき5・6丁目)が造成され、二つの埋立地の間にこの運河が誕生した。この500メートルほどの運河と隅田川との接続部に昭和39(1964)年に設置された防潮水門が浜前(はまさき)水門で、有効幅員8.4メートル×1門のローラーゲート式水門。上空制限高はA.P.+4.4メートル。普通、ローラーゲート式水門の上部には操作室があるものだが、この水門にはありません。上流側を見ると前方には「新島橋」。「新月島川」とウッドデッキ。折しも、臨港消防署の「はやて」が訓練中。海上の災害現場で消防部隊の指揮をとる指揮艇 と。「臨港消防署」。「築地大橋」のアーチ部が見えた。ウッドデッキを「新島橋」に向かって歩く。ウッドデッキ上で座って遊ぶ保育園児。前方の高層ビルは「パークタワー勝どきサウス」。中央区勝どき4丁目7−7。「環二通り」の先に高層マンション「ザ・トーキョータワーズ ミッドタワー」。中央区勝どき6丁目3−2。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.01
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この日は11月1日(水)、品川駅で現役時代にお世話になった協力会社の社長と17:00に待ち合わせの約束をしていた。先日の10月7日(土)に「隅田川屋形船の旅」を楽しんだが、屋形舟から見た隅田川そして運河沿いの様々な場所を歩いて訪ねて見たいと思い、この日は自宅を7:00に出て、小田急線、新宿駅から都営大江戸線を使って「勝どき」駅で下車する。地下道にあった、海に棲むギリシャ神話の神々を描いた壁画。ギリシャ神話風の人魚や妖精?たちが描かれていた。塙雅夫(Masao Hanawa)作フレスコ画・「海 ― Living Sea ―」。人魚が見上げているのは、勝どきの街の風景。近づいて。場所を移動して。そして「A4a」出口から地上に出ると正面にあったのが「勝どき駅前」交差点。中央区勝どき1丁目8-1。道路の反対側には勝どき駅「A1」出口。現在地の「勝どき」駅とこの日に巡った「隅田川河口の島々」の2島をGoogleマップから。高層マンション「勝どきビュータワー」。地上53階 地下3階建。中央区勝どき1丁目8−1。「晴海通り」にあった地図。右260m「勝鬨橋」、左280m「黎明橋」。そして「勝鬨橋」方向に歩く。右手にあったのが「中央区立子ども家庭支援センター」。18歳未満のお子さんや子育て家庭のあらゆる相談に応じるほか、ショートステイや一時預かりなど在宅サービスの提供やケース援助、サークル支援やボランティア育成等を行っているとのこと。中央区勝どき1丁目4−1。「中央区立こども家庭支援センター きらら中央」。「中央区立 勝どき保育園」。センター内に入ると正面に、抽象的なモチーフの可愛らしいステンドグラスがあった。右。中央。左。その先にあったのが「月島警察署 勝どき橋交番」。中央区勝どき1丁目3番8号。近づいて。「中央区立月島第二小学校」の時計塔。時間は9:20。中央区勝どき1丁目12−2勝鬨橋の南詰にある「プラザ勝どき」の敷地内にあった「三五稲荷神社」。中央区勝どき1丁目1。正面から。奥へ進むと「さわやか保育園」があり、その校舎の手前に鎮座していた。乾汽船株式会社(旧・イヌイ倉庫)が奉斎する稲荷神社であると。木彫りの鳥居の扁額も「三五稲荷神社」。社殿。創建したのが明治37年の3月5日、祭礼は3月5日と会社の創立記念日の10月19日。とりわけ社名由来が創建日だと明記されているわけではないが、大筋で由来とみて間違いなさそう。よって「三五稲荷神社」。狛狐(右)。阿吽の表現はなされてなく、どちらも口を閉じている。右が子抱き、左が玉を抱える。抱かれている子供の懐き方がとてもかわいらしいが、顔はどうみてもヒゲを蓄えたおじさん。狛狐(左)。耳が大きくまっすぐ上に伸び、彫の深い個性的な狐像。四角い小顔に濃いあごヒゲ、奥目にしっかりした鼻筋。社殿に近づいて。「三五稲荷神社由来当稲荷神社は 明治三十七年(1904)三月五日に 京都伏見稲荷神社の分神として創建されたものであります 以来 勝どき河岸倉庫地区の守護神として 当地に鎮座されて居ります。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのかみ)であります 『倉稲』(うか)は食物の意味で五穀を司り 農作物を護る神といわれています 初期の倉庫業においては 米穀を主とする農作物が主要な貨物であった為 稲荷神社を祭り倉庫の守護を祈るということが ごく自然な発想で行なわれたようであります毎年三月五日と当社創立記念日には 日頃の御加護に感謝し 社業の発展と 地域の平安を祈願して 三五稲荷祭を執り行って居ります平成三年十月十九日 執行施主 イヌイ建物株式会社」そしてその裏にあったのが「月島川水門」。・形式:鋼製単葉ローラーゲート・径間:11m×1連・門扉高さ:8.9m・竣工:昭和39年度・平成28年度に耐震化工事が完了し門扉等が新しくなった。中央区月島3丁目25−9。隅田川と月島川を隔てる水門で、1964(昭和39)年度に竣工。水門は、堤防の役割を果たす構造物。月島川は、1892(明治25)年に完成した埋立地である月島1号地(現・中央区月島)と、1894(明治27)年に完成した埋立地である月島2号地(現・中央区勝どき)の間で埋め残した水面。さらに南西側にある新月島川、月島・勝どき地区と晴海地区を隔てる朝潮運河とともに、月島川水門を含む4つの水門によって浸水被害から守られている。月島川に浮かぶ屋形舟を見る。「月島川水門テラス連絡橋」から「月島川水門」を見る。隅田川上流を見る。左手の高層ビルは「聖路加レジデンス」:地上38階/高さ146.1m/1994年竣工。「聖路加レジデンス」の32~38階には「ホテル 銀座クレストン」がある。上流側の「佃大橋」その先に隅田川にかかる斜張橋・「中央大橋」、更に先には「東京スカイツリー」が見えた。「中央大橋」、「東京スカイツリー」をズームして。「中央大橋」は隅田川で2番目の斜張橋で、1993年に完成。隅田川は、北区の荒川から分岐し東京湾に注ぐ全長約24キロメートルの1級河川で、数多くの橋が架けられている。中央大橋は、高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並みとなった佃地区と都心を結んでおり、曲線桁を採用し、X字形のタワーで32本のケーブル形式が特徴の斜張橋形式の橋である。1989年に、隅田川とパリのセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市長から贈られたメッセンジャー像(オシップ・ザッキン作)が、橋の中央、上流側の橋脚上に設置され、行き交う人々を見守っている。橋上からは、川上に永代橋、川下に佃大橋を望むことができる。「東京スカイツリー」の天望回廊(450m)と天望デッキ(350m)をズーム。そして隅田川の下流方向にあったのが「勝鬨橋(かちどきばし)」。以前に訪ねた「はとば公園」の井上 武吉作の「my sky hole 水の情景」を隅田川越しにズームして。「月島川水門テラス連絡橋」から「勝鬨橋」を見る。「勝鬨橋」は昭和15年に国家的イベントとして計画された万国博覧会のメインゲートとして計画された。昭和8年6月10日に工事を着手し、資材が不足する中、7年をかけ、昭和15年6月14日に完成。東京市(当時)、錢高組を主体とし、石川島造船所(現IHI)、横河橋梁製作所(現横河ブリッジ)、川崎車両(現川崎重工業)で工事を行った。当時は、隅田川を航行する船舶が多く、陸運よりも水運を優先させる可動橋として設計され、大型船舶の通航を可能とした。 午前9時、午前12時、午後3時の1日3回、1回につき20分程度開いていた。さらに昭和22年12月24日には都電が開通している。しかし、東京オリンピックが開催された昭和39年以降は、跳開回数は年間100回を下まわるようになり、昭和45年11月29日を最後に跳開されることはなくなった。跳開橋部分をズームして。ハの字に開いた勝鬨橋の姿をネットから。「隅田川テラス」を下流に向かって歩く。工事中の「勝鬨橋」。下流側は足場が組まれて、全体が板張りに。ズームして。「勝鬨橋塗装工事のお知らせこの度、勝鬨橋を塗り替えることになりました。工事期間中は、桁下が低くなりますので、ご通行の際は十分こ注意くたさい。ご迷惑をお掛けしますが、ご協力を宜しくお願いいたします。」と。仮設足場に囲まれた「勝鬨橋」の下を通過。 ・・・つづく・・・
2023.11.30
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次に登場したのが「湘南みどりが丘幼稚園」。湘南台駅の先、小田急線沿いの高倉地区にある幼稚園であるようだ。全園児が鼓笛部に入らなくてはならないとネットには。学校法人冨田学園の幼稚園。イベントに力を入れており、家族参加型のイベントも多く、親としても楽しめるとの書き込みも。可愛い衣装に身を包み元気な演奏を披露してくれる鼓笛隊。友だちと力を合わせ、一生懸命演奏する姿は沿道の人たちを笑顔にしてくれるのであった。緊張した顔、しかし一生懸命に。「明治安田生命保険相互会社 一輪車内田姉弟」。「一輪車内田姉弟」👈リンク の演技披露。お姉さんと弟さんの息がぴったり。弟さんのジャンプ!!「一輪車内田姉弟」の後ろから「明治安田生命保険相互会社」の社員の方の行列が。再び姉の上をジャンプ。軽トラックに音響装置を載せて登場。「dk∞FREAKS(ディーケイフリークス)」👈リンク。地元湘南台誕生の「dk∞FREAKS(ディーケイフリークス)」がキッズとともに登場。よさこいを超える力強いダンスを披露。「大きな旗で祭りの風を吹かせ湘南台ファンタジアを盛り上げます」と。「アメリカ海軍第七艦隊音楽隊」👈リンク。横須賀に前方配備された旗艦ブルーリッジ艦上に司令部を置く、アメリカ最大の前方展開艦隊「アメリカ第7艦隊」。その担当区域には、常に70隻以上の艦船、200-300機の航空機、そして4万人以上の海軍兵や海兵隊員が展開していると。体に巻いているように見える、白くて大きい楽器の正式名称は「スーザフォン」。「Bravura March ブラヴューラ行進曲」👈リンク。そして次の曲は「星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)」👈リンク。そしてオオトリは圧巻の「神奈川県立湘南台高校吹奏楽部」。「県立湘南台高校 吹奏楽部 White Shooting Stars」👈リンク。「県立湘南台高校吹奏楽部 White Shooting Stars」は、2021年12月17日開催の「2021JAPAN CUP全国高等学校マーチングバンド選抜大会」で優勝。16連覇という偉業を達成したのであったが、そして昨年度も金メダル獲得と。英語で「流星(流れ星)」は、“shooting star” 。マーチング日本一に輝いた演技。この日は全身黒の衣装で。白い羽付き帽子で。横浜市営地下鉄と相鉄いずみ野線の湘南台駅開業を記念して平成11年に始まったこのお祭りは、市民の皆さんの支持で今日まで続く、みんなの力で作り上げたお祭りなのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.11.29
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「開催ファンファーレ」👈リンク。神奈川県立湘南台高等学校 吹奏楽部WSS Shonandai Senior High School。「湘南台老人クラブ連合会 湘南台民生委員児童委員協議会」。「湘南台音頭」👈リンク の披露。我が地元の「六会ふるさと音頭保存会」。「六会ふるさと音頭」👈リンク の披露。白バイが先導。「神奈川県警察音楽隊」。「神奈川県警察第ニ交通機動隊 神奈川県警音楽隊」。ボーイスカウト&ガールスカウトのパレードが続いた。「ボーイスカウト 藤沢第12団」。「ガールスカウト 神奈川県第56団」。「藤沢市から交通事故を無くそう」と横断幕を掲げてのパレード。「湘南工科大学電動自転車」。「湘南工科大学」と書かれた幟。「電動アシスト4輪自転車」👈リンク であっただろうか?次に湘南台地区の「マスコットキャラクター」の登場。「ゆめみん」。デザインの生みの親はビッグ錠先生と、名付け親の堀内藍子さんとのこと。「湘南台のアイドル」と。「ゆめまる」。「ゆめまる」が私に挨拶してくれました!?。本格的な音楽隊!!「海上自衛隊 横須賀音楽隊」。「海上自衛隊 横須賀音楽隊」👈リンク の「宇宙戦艦ヤマト」の演奏。女性の姿も何人か。高校生と小学生のコラボ。「シャイニーダンストワラーズ 、鵠沼高校マーチング・バンド部 Albireo Nova」。チーム名「Albireo Nova」は、鵠沼の「鵠」が白島を意味することから、「私たちマーチングバンド部が白鳥座のニ連星Albireo (アルビレオ)のように光輝く新星Nova (ノヴァ)になる」という思いが込められているのだ と。2004年に男女共学になった「鵠沼高等学校」。同じく2004年に「鵠沼女子高等学校」から「鵠沼高等学校」に校名を変更。「湘南なぎさ連」。湘南藤沢地区に初めて誕生した阿波おどり連。2012年3月3日創連。本場徳島の正調阿波おどりを志し、着物は藤沢市のシンボルフラワー『藤の花』と湘南の海・徳島藍色を織り交ぜ繋がりを大切にしたい想いがあるとのこと。「湘南なぎさ連」👈リンク の阿波おどり。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.28
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この日は10月29日(日)、 10月28日(土)、10月29日(日) 両日ともに10:00~17:00の予定で、「藤沢市民まつり湘南台ファンタジア2023」が湘南台公園・原谷公園・駅地下アートスクエア・四ツ辻公園・湘南台駅周辺で行われており、この日・10月29日(日)は湘南台駅東西大通りにてパレードが行われるとのことで、自宅近くからバスにて湘南台駅東口に向かったのであった。湘南台駅東口でのパレードのスケジュールは下記のごとし。・オープニングセレモニー 11:05・パレード 11:40~15:00湘南台駅東口・終点でバスを下りて、湘南台公園方向に向かう。地球儀の形状の「湘南台文化センターこども館」の近くには既に神奈川県警の車そして警察官の姿が。「湘南台駅東口」交差点のT字路の先にあったのが「湘南台公園」。公園の前の道路は国道467号。「湘南台公園」の御祭案内図。ハンバーガーチェーン「モスバーガー」のキャラクターの姿が。創業から50年にあたる、今年4月1日から「モスバーガー」の新コーポレート「リルモス」であると。「リルモス(LilMos)」を正面から。モスバーガーという名称の由来は、Mountain(山:山のように気高く堂々と)Ocean(海:海のように深く広い心で)Sun(太陽:太陽のように燃え尽きることのない情熱を持って)この3つの単語の頭文字をとっていて、これらが象徴する自然や人間への限りない愛情を込めてつけられているのだと。そして、ハットのデザインは頭文字である「M」をあしらったロゴマークは、丸みを帯びた食材であるパンをイメージしているのだとか。そして、メインカラーとして使用されている赤色は、力強さや真心を象徴しているのだとも。「リルモス(LilMos)」の案内をネットから。多くの食べ物や出店。テントの色は青と白。この祭りのシンボルカラーなのであろうか?銀杏の葉も色づいて。多くの家族連れの姿が。地元商店約30店舗・イベント組合約50店舗・キッチンカーが出店と。キャンピングカーの展示コーナー。そしてステージも設置されていて、子供たちのダンス披露が始まっていた。「LOICX☆チアダンススクール」と。ここ湘南台にスクールがあるようだ。元気いっぱいに笑顔で。地元の企業「いすゞ自動車」のバスも展示されていた。自衛隊の募集案内所も。出店が所狭しと。いかやき。お好み焼き。南米料理には長い列が。そして「湘南台公園」を後にして再び地球儀の形状の「湘南台文化センターこども館」を見る。「通行止めのお知らせ」。「円行東口大通り線」はこの日はパレードの為に11:00~14:00の間は通行止めと。地球儀の形状の「湘南台文化センターこども館」と左には帆船の如きモニュメントも。既に、来賓の方々も着席していた。一番右に藤沢市長 鈴木恒夫氏。我が大学の2年先輩。そして地元選出の衆議院議員の星野剛士氏、阿部知子氏。星野剛士氏は先日・10月28日(土)に白旗神社で行われた「湯立神楽」でも来賓としての姿を見たのであったが。パレードのオープニングは「遠藤谷太鼓保存会」👈リンクから。まずは、荷台に舞台をセットし、太鼓を叩く子供たちも準備万端にて、ウィングボディのトラックが道路中央に乗り込み、バンボディの両側が開く見事な演出!!「遠藤谷太鼓保存会」の「北原太鼓保存会」。そしてオープニングセレモニーが始まった。実行委員長・酒井一二氏の挨拶。藤沢市長・鈴木恒夫氏。衆議院議員・阿部知子氏。衆議院議員・星野剛士氏。その後も来賓の方々の挨拶が続いたのであった。そしてパレードの開始へ。下記写真の左側にはパレード・セレモニーの出演団体が記載されていた。パレードは午前中に東口、午後引き続き西口で行われるとのことであった。待ちに待ったパレードが開始された。最初に「湘南ユナイテッドBC チアリーダーズ」と。「湘南ユナイテッドBC」👈リンクは、日本のプロバスケットボールチーム。B3リーグ所属。ホームタウンは神奈川県藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町。2020年創設。藤沢商工会議所メンバーと湘南地区で活動していた社会人チーム「湘南STATE」が団結し2020年に設立。2022-23シーズンからのB3リーグ参入。メインスポンサーは木下グループが務めている と。今秋開幕するプロバスケットボールB3リーグ2023―24年シーズンに参戦する「湘南ユナイテッドBC」の2代目チアリーダーが7月1日に決定したとのこと。今回メンバーとして選ばれたのは8人。5人が初代メンバーから続投する。そのうちの1人、岩崎美陽さんは「昨年は活動の中で湘南の人の温かさを感じた。今年もイベントを通じて湘南らしさを発揮しながら、地域の活性化に貢献したい」と意気込む とのネット情報。 ・・・つづく・・・
2023.11.27
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「龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠」を楽しんで帰路に。「日蓮大聖人滝ノ口龍口寺御法難之霊跡 日蓮宗霊跡本山龍口寺」と。龍口寺前の交差点に江ノ島駅から海岸方向に向かう江ノ電電車。こちらが進行方向、次の駅は腰越駅。ホームの藤沢方は併用軌道と踏切が重なり、踏切は、ちょうど併用軌道に乗り入れる場所にあるため、遮断機が山側1基しかない(警報機は道路側にもある)。また鎌倉方も踏切となっているため、この腰越駅では4両編成の列車は鎌倉方の1両がホームからはみ出て停車するためドアが開かないのだ。急な右カーブの江ノ電の線路。「電車接近」と。そして藤沢駅行きの江ノ電が交差点に入り、江ノ島駅に向かう。ズームして。国道467号を江ノ電・江ノ島駅に向かって進んで行くと右手にあったのが湘南モノレール・湘南江の島駅。大船駅からモノレールに乗り込み、住宅街の上空を快走すること14分。トンネルを抜けた先に待つ終着駅が、ここ湘南江の島駅。ビルの5階にあるホームの窓の向こうでは、相模湾がお出迎え。さらに改札を通ると、海と湘南の街並み、そして富士山を一望できる展望台があるのだ。1本の桁を挟んで、降車専用と乗車専用の2つのホームがある構造の湘南江の島駅の写真をネットから。そして「江の島駅入口」交差点を左折すると正面に、江ノ電・江の島駅の踏切が見えた。江ノ島駅方向を見る。江ノ電・江ノ島駅入口にあったのが小鳥付き車止め「ピコリーノ」。いつもお洒落な手編みのお洋服を着て地元の方々や観光客を出迎えているのだ。「江ノ電 江ノ島駅」。藤沢駅行きの電車が出発。藤沢方面のホームに設置されていたジオラマ。左手に「龍口寺」。撮影角度を変えて。「このジオラマは、平成10年11月11日に当社が当時闘病生活にあった新田朋宏くんの「江ノ電の運転士になりたい」という夢の実現をお手伝いしたご縁で、朋宏くんのお父さん新田和久さんのご友人でおられる石井彰英さんからご寄贈いただいたものです。寄贈先を探していた石井さんが当社への寄贈を決められたのは、「息子をジオラマの運転士にして欲しい」と熱望された新田さんの優しさに感動して、「ジオラマは朋宏くんが愛した江ノ電の利用者に見ていただくのが一番」とお考えになられたからです。なお、まことに残念ながら新田朋宏くんは平成10年11月15日に亡くなられましたが、ジオラマ上を走る江ノ電の運転士としてこれからもご活躍されることでしょう。」「ばくの小さなパラダイス昭和40年頃、両親・祖父母と何度も来た江の島。海で泳ぎ、あじさいの花を見た懐かしい情景をジオラマにしたくなり、当地を何度も取材しながら制作に費やした期間は約2年。静寂の中の極楽寺駅、明るい学生さんが乗り降りする鎌倉高校前駅、子ども達の笑顔がまぶしい江の島海岸、皆さんを乗せて元気に走る江ノ電。私の前に広がる風景は、当時の頃と何ら変化はありませんでした。皆様にこのジオラマを楽しんで頂けましたら、制作者としてはこれほど嬉しい事はございません。 2008年11月吉日 石井彰英氏より寄贈されました。」美しい、秋を感じさせる生花。「江の島」駅案内。鎌倉駅 - 藤沢駅 営業キロ10.0 km 駅数15 信号場1併用軌道区間だけでなく、わずか10kmほどの短い路線でありながら、多数の特徴的な鉄道風景があるのだ。「AQUA GARDEN LAB」。「江ノ島電鉄株式会社では、魚の陸上養殖と野菜の水耕栽培を掛け合わせたアクアポニックス事業の検証を行うため、今般、当社線江ノ島駅構内においてアクアポニックス施設を設置し、2023 年3月31日から「Aqua Garden Lab(アクアガーデンラボ)」として本稼働いたします。「Aqua Garden Lab」は、アクアポニックスを身近に感じていただくため、多くのお客様が利用される江ノ島駅の藤沢行きホームに面した場所に設置いたしました。現在、魚はティラピアを養殖し、野菜はレタスと小松菜を育てており、今後も随時様々な野菜を栽培していく予定です」 と。2009年3月31日(火)に江ノ島駅上りホームに冷暖房完備の待合室がオープン。室内には展示スペースを併設し、往年の303号車運転台カットモデル、プラレールのジオラマ、1001号車の模型、電車のヘッドマーク等を展示しています。また、モニターも完備しており、江ノ電沿線の地域情報を放映しているのだ。往年の303号車運転台カットモデル。近づいて。「303号車についてこの303号車は303+353号として走った連接車の藤沢方の車両です。この偏成は1929 (昭和4 )年製の江ノ電最初のボギー車101~104号車4両を改造して1957 (昭和32 )年につくられた2偏成の連接車のうちの1偏成です。もう1つの偏成である302+352号は1997(平成9)年、レトロ調電車10形偏成と入れ替えに廃車となりましたが、この303+353号は車体内外を改造・冷房化し、台車、機器を新造車両と同じものに更新するなどして新車と同様の性能になり活躍しました。しかし、惜しまれながら2007 (平成19)年ついに廃車となりまいた。」貴賓室の扉と1001号車の模型の展示ケース。1001号車の模型。貴賓室の扉。「「貴賓室の扉について」明治35年の開業(藤沢一片瀬間の3.42km )当時、全4両の車両のうち、半数の2両には、一般の3等席に加えて1等席が設けてありました。当時から、葉山の御用邸をはじめ鵠沼の秩父宮邸など、近隣には多くの高貴な方のお住まいがあったため、江ノ電(当時は江之島電気鉄道)は1等という特別列車を用意したのです。記録によると、1等と3等の合造車はこの扉を仕切りとして車内を3つに分け、個室を確保したようです。大正2年4月8日の『横浜貿易新報』によれば、大正2年4月6日に伏見宮博仁王ほか3殿下が、この特別仕立ての列車で片瀬(現江ノ島)ー長谷間を移動されたという記録が残っています。」待合室の壁には様々な写真等が展示されていた。「江ノ電 駅シリーズ乗車券全集」。「江ノ島」。「昭和49年(1974) 藤沢駅 江ノ電ビルへ乗入れ開始」左:「昭和54年(1979) 48年ぶりの完全新造車両 1000型(1001・1002) 就役」右:「昭和55年(1980) 最後のタンコロ 107号車・108号車引退」「昭和56年(1981) 社名変更 「江ノ島鎌倉観光」から「江ノ島電鉄」へ」。「江ノ島名所案内龍ロ寺 0.2KM 徒歩約3分江の島 1.1KM 徒歩約16分江島神社 1.2KM 徒歩約18分江の島展望灯台 1.4KM 徒歩約20分稚児ケ渕 2.0KM 徒歩約30分(岩屋) 」。亀の背中に江の島 のこのポスターは??そして江ノ島駅のホームを。藤沢駅が入線。そして藤沢駅から小田急線で帰宅の途へ。龍口寺で開催された滝の口・竹灯籠は、竹を使った灯籠が境内に並べられ、幻想的な世界を演出するイベントであった。このイベントは、毎年10月最後の週末に開催され、地元のボランティアの方々が集い、願い事が書かれた竹の灯籠を境内に並べていた。今年は約3000基の竹灯籠が並べられ、夕刻になるとロウソクに火が灯され、幻想的な世界が広がったのであったこのイベントは、静かで神秘的な雰囲気が漂い、参加者は心を落ち着かせ、自然と調和することができるのであった。竹灯籠の光が、境内に幻想的な世界を作り出し、参加者を魅了。また、竹灯籠に願い事を書くことで、自分自身の内面を見つめ直す機会にもなっていた。私も、このような幻想的な世界を演出するイベントに参加することができ、素晴らしい時間を楽しんだのであった。そして自宅への帰路での10月の満月。10月の満月は『ハンターズムーン』と呼ぶと。10月の満月は狩猟を始める頃である事に由来していると。そして月の右側には木星が急接近。『ハンターズムーン』。さらにズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.11.26
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さらに「龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠」の幻想的な世界を山門の先からデジカメで追う。竹灯籠は、その繊細な美しさ、和風の雰囲気、そして夜に灯る温かい光の融合によって、日本文化の深さと美意識を象徴する存在となっているのであった。周囲に優しい光を灯し出す「竹灯籠」。この光は穏やかでありながらも存在感があり、周囲の空間に静謐な雰囲気をもたらしているのであった。日本の伝統的な美しさを象徴する素晴らしいアートピース!!参道を進み、本堂への石段の上から山門方向を振り返って。ズームして。廻り込んで。そして前方に進む。天水桶の周囲にはキャンドルが並べられていた。近づいて。一つ一つの炎が、闇を照らし、希望を紡ぎ出す。キャンドルの美しさは、その独自の輝きと静寂の中に宿るのであった。炎の躍動感、灯りが作り出す幻想的な雰囲気、そして独自の温もりによって、この空間に深い感動と穏やかな魅力を与えていた。微風がやさしく触れ、炎は踊りながら語りかけ、キャンドルは秘められた物語を語り出すのだ。右手の竹灯籠の灯りは「2023」と。そして本堂内を。本堂を出て一方通行を進む。竹灯籠を上から。蝋の芯が心臓となり、その先に灯される炎は生命の息吹そのもの。反対側の天水桶にもキャンドルが。そして更に進むと、瀧口会館の横には消防自動車が待機していた。そして再び山門前に戻ると、石段上の竹灯籠は見事な輝きに変身していた。本金蒔絵の漆塗り大箱の如し。竹灯籠の作り方。①竹にデザイン紙をマスキングテープで仮止めする。 穴の径毎に色を変えると間違いが少ない。簡単なもののデザインはチョークなどで竹に直接描 いてもOK。②透明テープでデザイン紙を竹にしっかりと貼り付ける。③固定用の台に竹をセットし、竹用ドリルで穴をあける。 竹が動かないようしっかり固定して穴をあける。そしてこれが完成品と。龍口寺には龍は欠かせないのであった。しかしこちらは、円形の穴ではなく、長方形の穴の集合デザインであるため、作業量が莫大であることが容易に想像できたのであった。近づいて。そして再び仁王門の仁王像を。手前に金網があるため、焦点合わせがなかなか難しかったのであった。仁王像の影も美しかったのだ。玉眼入り。口の開け方も生々しく。山門も再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.25
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この日は10月29日(日)、藤沢市片瀬にある龍口寺は日蓮宗の寺院で、日蓮にまつわる4つの受難のひとつ、龍ノ口法難👈リンクに関わる地にある。境内には神奈川県では珍しい五重塔や白亜の仏舎利塔があり、また、大本堂には藤沢七福神のひとつである毘沙門天も祭られている。季節に応じたさまざまな行事も行われるが、今回はこの日に行われた「龍の口竹灯籠」に行ってきました。藤沢駅から江ノ電にて向かいました。日蓮の弟子日法が1337年(延元2年)に龍ノ口法難の霊場であるこの地に堂宇を建立し、日蓮の像を安置したのが始まりといわれています。その後信者であった島村采女が1601年(慶長6年)に土地を寄進し、本格的な寺院としての格式が整えられました。龍口寺は、江ノ電・江ノ島駅および湘南モノレール・湘南江の島駅近くにある日蓮宗の寺院。「江ノ島」駅で下車。龍口寺に向かって、国道467号を歩く。「瀧の口竹灯籠」と書かれた幟。「瀧の口竹灯籠」とは、龍口寺境内に並べられたおよそ3千基の竹灯籠に灯るろうそくの光の中、本堂前に施餓鬼壇を設けて、参詣者の先祖や亡くなった方の供養を行うのです。例年8月に行われていましたが、昨年・2022年からは10月下旬の開催となりました。時間は16:59。少しずつ暗くなって来ました。「瀧の口竹灯籠」と書かれた行灯が歩道横に。青海波(せいがいは)の模様。この柄の発祥は古代ペルシャとされています。シルクロードを経て日本に伝わったのは飛鳥時代、平安時代に書かれた源氏物語の中に『青海波』という雅楽を舞う若き光源氏の姿が描かれているとのこと。この神楽を舞う舞人の衣装の柄が青海波で、青海波の名はこの神楽に由来すると言われている と。そして左にあったのが「龍口明神社(元宮)」。龍口明神社の創建年代は、ここ片瀬・津・腰越の境界地(龍口明神社元宮地)に欽明天皇13年(641)創建、江島神女の霊感により降伏した五頭龍を祭神としています。明治維新後の社格制定に際して村社に指定されていた。昭和53年、鎌倉市腰越1548-4へ遷座しているのだ。社殿の姿は既に無く。そして「龍口寺」に到着。藤沢市片瀬3丁目13。「龍口寺」と彫られた竹灯籠には既に灯りが点っていた。「仁王門」横の「瀧口会館」に向かう石段にも一面に竹灯籠が。近づいて。まだ暗さが足りないので最後にもう一度訪ねることに。こちらの竹灯籠には「龍」の姿が。様々な紋様が輝き始めていた。今年の「第十三回瀧ノ口竹灯籠」のポスター。2023年10月29日(日)、龍口寺境内にて午後五時~午後八時まで開催と。「龍ロ寺境内に並べられた約3,000基の「竹灯籠」に灯るロウソクの光に包まれながら本堂前に施餓鬼壇を整え、参拝の方々のご先祖様や、亡くなられた方のご供養またはお願いごとなどの祈願を行います。竹灯籠の灯りが描き出す幻想的なタベを大切な人とお楽しみください。」と。「瀧の口竹灯籠会場図会場内は一方通行です。矢印に沿ってお進みください。」と。「七面大明神例大祭」案内。七面大明神は法華経を信仰するものを守護し、苦しみを除き安らぎを与える神様です。例祭では加持祈祷を行い、七面大明神の御守護をお受け戴きます。どなたでもご奉拝下さい と。「竹灯籠 受付」、1基 1000円と。山門の手前右側に黄色いテントがありここが受付。灯籠代金(千円)を支払い申込用紙に必要事項(住所・氏名・電話番号)を記入し、「供養」または「祈願」の各項目のうちのいずれかひとつを選ぶのであった。その横では、和太鼓の演奏が。太鼓集団「ふじ」と。2009年8月に藤沢市で誕生した太鼓グループ。その名もズバリ藤沢の「ふじ」!!太鼓集団「ふじ」のプロデューサーは、FIFAサッカーW杯公式閉会式にて日本人初の2大会連続で演奏した、世界的な太鼓ドラマー“ヒダノ修一”。藤沢市のPRと活性化の目的のために発足した「ふじ」は、太鼓演奏を通じて多くの人々との交流を持ち、藤沢の更なる認知度アップを目指します。現在は藤沢市内外の各イベントに出演し、活動しています。太鼓集団名の「ふじ」は日本一の富士山と藤沢の「ふじ」。また「ふじ」は当て字だが「不二」という意味も含んでいて、「二つとない」団体という意味もある。「ふじ」の花言葉も「歓迎」「恋に酔う」など良い意味が多く、また「4月1日」の花でもあり、「4月1日」=始まりという意味もあって、今回新たに結成した団体が「始まる」という意味から「ふじ」と名づけているとのこと。太鼓集団「ふじ」が本堂内でライブ演奏と。藤沢市消防局の防水用水槽のマンホール蓋。そして仁王門の仁王像のお顔をズームして。阿形像。吽形像。石段の上に「山門」。扁額「龍口寺」。山門には、中国の故事に由来する素晴らしい木彫りの見応えある彫刻の美が。黄石公(こうせきこう)と張遼 張良(ちょうりょう)。黄石公の試練に耐え続けた張遼 張良がついに兵法の奥義を授かる話。羽目板彫刻では定番。???襄子(じょうし)の衣服を切る予譲(よじょう)。何度も襄子の暗殺を試みるが失敗し、とらわれの身となった予譲が最後に襄子の服を貰い受け、その衣服に三回切りつけて主君智伯の無念を晴らし自決する、という話。三国志演義の桃園結義かも知れません。左から長髭の関羽 長耳の劉備 虎髭(には見えないけど)の張飛ではないでしょうか。そして山門を潜ると、目の前には境内一面の竹灯籠の世界が広がっていた。約3000基の竹灯籠が所狭しと並べられ、本堂や五重塔と共に幻想的な空間を創り出していたのであった。竹灯籠一つ一つには、本物の蠟燭の火が灯されて。山門の先で留まり、しばし幻想的な竹灯籠を我がデジカメで追ったのであった。本堂を見る。本堂右奥には「五重塔」。「龍口寺 総受付」への建物への石段の上にも。正面から。 ・・・つづく・・・
2023.11.24
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十、射祓(いはらい または弓祓と書く) 四隅に矢を放ち悪霊を退散させます。最後に正面(神前)に向かいますが、悪霊がいないため 矢を放たず鳴弦(めいげん)にとどめます。四方に放たれた矢を授かると開運招福・息災延命 になると伝えられています。舞の音を奏でる神職達。鈴と弓を持って舞う。邪気を射祓い、邪悪を射据えて、招福除災を祈念し天の下平らけく氏子安らけくあるべきを祈念する、静かな中にも力強い舞である。弓矢の威力で悪魔を調伏する神楽で、この矢を授かると開運の御神矢としての信仰がある。赤い面を被る神職。後ろで別の神職が手助けして。そして十一、剣舞(けんまい) 赤面の天狗(猿田彦)が剣を持ち邪悪を清め、悪しき大気を体内に吸い込み浄化され、二本の 指で空中に九字を切り、護身・除災・勝利のまじないをしながら豊年万作・大漁満足・ 天下泰平を祈念し、天地運行の乱れを正します。神楽の終段である。赤面の神は鉾を執って進み出て九字を切り、五風十雨、雨風時に順ひ、豊年万作・大漁満足・天下泰平を祈念して気息を整え、醜(邪悪)を踏み鎮め、天地運行の乱れを正し、邪霊を鎮めて散供する。赤い面を付けた天狗が空気を体に吐き入れそれを吐きだすことで空気が浄化されたりして天下泰平を舞う。護身、除災、勝利の舞をしながら豊年満作、大魚満足、天下泰平を祈念し天地運行の乱れを正すだと。十二、毛止幾(もどき) 剣舞の途中より黒面の山の神がしゃもじを持って現れ、天狗の真似をしたり滑稽な仕草を しながら、斎場にいるすべての人の心に平安と安らぎを取り戻させる『もどき』で神楽は 終了します。赤面の神の所作をまねたり、おどけたりして笑いを招きつつ座の雰囲気を和めながら散供する。そして参列者が心に平安と和らぎをとりもどし、平常心即ち普段の心の状態に戻り、新しく充実し、増進した生命力をもって、再び日常生活に励むようにさせるという「もどき」(真似をする意)の所作である と。斎場にいる全ての人の心に平安と安らぎ取り戻させる舞い、黒い面の山の神は神社での神事に参列され緊張された方が家の帰る前に普段の生活の戻す舞い、という神楽舞で構成されいると。黒面の山の神が近くまで来て。大きな叫び声をあげ、邪気を払ってくれた。そして再び神前に戻り舞う。そして十二座に亘る「湯立神楽」の終了を告げる宮司。神楽が終わると斎場に取り付けられた紙垂(しで)を持ち帰り、家の神棚に祀り、災い除けにする風習があるとのこと。櫃にぎっしりと入った紅白の「福餅」。「福餅」を一つ頂きました。5色の紙垂(しで)と竹で作られた天蓋(てんがい)を見上げてそして境内にあった今年の巨大な絵馬。「令和5年癸卯(みずのとう)歳 干支絵馬」この絵馬は藤沢市在住の漫画家 佐野絵里子先生による原画をもとに奉製した絵馬 と。牛若丸と今年の干支である兎が八艘飛びのように船上で戯れている様子が描かれている。そして「湯立神楽」のこの日に合わせて来年の絵馬が。「令和6年甲辰(きのえたつ)歳 干支絵馬」。旭日を背に舞う縁起の良い龍の姿が。原画は例年通り、藤沢市内在住の漫画家 佐野絵里子先生に依頼、絵馬作成は藤沢市長後の㈱グロリア工芸さんにお願いしたとのこと。今回の図案は、義経公が来年の干支である龍(辰)に乗って雲の上を駆けている様子が描かれている。架空の存在である龍が登場しているだけあって、幻想的な絵となっているのだ。そして順序が逆になってしまったが、「白旗神社」に参拝。「白旗神社御祭神 寒川比古命 源義経公配神 天照皇大神・大国主命・大山祇命・国狭槌命由緒古くは相模一の宮の寒川比古命の神社のを祀って、寒川神社と呼ばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝 の勘気をうけ、文治5年(1189)閏4月30日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害された。その首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、此の神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」石段の上に拝殿。石段下左手に義経公に纏わる「鎮霊碑」が。白旗神社の御首と宮城県栗駒町半官森御葬札所の御骸、両地の魂土を合祀し、義経公の兜を象った鎮霊碑で1999年(平成11年)に建立された と。「源義経公鎮霊碑文冶五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衝に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御薗は奥州箆を経て、同年六月十一二日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき。藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。」拝殿に参拝。現在の拝殿は、文政11年(1828)から7年をかけて、天保6年(1835)12月に完成した。本殿、弊殿、拝殿を連ねた典型的な流権現造り(ながれごんげんづくり)で、外壁部の彫刻は江戸時代の匠の技が光る貴重な文化財。昭和55年7月に大改修工事が行われ、平成16年2月に社殿回廊に高欄が設置された と。そして、往路と同じくバスにて帰路についたのであった。藤沢・白旗神社の「湯立神楽」を鑑賞する貴重な機会に恵まれ、その神秘的な雰囲気に心が引き込まれたのであった。神社の広い境内に響く神楽の音と、神聖な舞台の上で繰り広げられる踊りが、まるで別世界にいるような感覚を呼び覚ましたのであった。神楽の舞台は厳かでありながらも美しく、神聖なエネルギーがその場に満ち溢れていた。独特の楽器の音色と共に舞われる踊りは、神秘的で迫力があり、見る者を引き込んで離さない。演じる神職たちの表情や仕草は、神話や伝統の中に息づく神々との交信の一端を感じさせ、自分も神聖な儀式に参加している気分に陥ったのであった。特に、神社の雰囲気と神楽が調和して、自然の中での演技が一層印象的。神聖な木々のそよ風や、境内に鳴り響く神楽の音が、訪れた者に心地よい穏やかさと神聖な感動を頂いたのであった。この貴重な経験から、日本の伝統や神聖な儀式に対する深い尊敬の念を抱きつつ、湯立神楽を通じて日本文化の美しさと豊かさに触れ、心に深く刻まれる一時になったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.11.23
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そして「中入れ(なかいれ)」の短い休憩時間になり、狩衣(かりぎぬ)を脱いで白衣・袴の姿に。六、中入れ(なかいれ) 前半の清め・祓い・神招きが終了して短い休憩となります。神職は狩衣(かりぎぬ)を 脱いで白衣・袴の姿になり、後半の新人共楽の神楽に備えます。また神前にお供えされている お神酒とお赤飯を参列者に分かちます。前段は祓の所作が中心で、生れ出た尊いお湯を献ずるまでの経過であって、奉仕の神職も後段の「湯立神事」に備えて狩衣を脱しての所作に移るため心気を整える。又、神楽の場に集う参列者にも撤下の神酒など分かち、お下がりをお受けすることで神気を直接に自分の体にいただき確実に納めようとするのである。氏子代表の方々から赤飯を手のひらにいただきました。この後にお神酒も。後半の「座」について説明する「白旗神社」の宮司。七、掻湯(かきゆ) 御幣(ごへい)で四方を舞い鎮め、舞が終わると大釜の前に進み、煮えたぎった湯釜を 御幣の串で掻き回すと、渦巻きが生じて湯華(湯玉)が立ち昇ります。古くはこの湯立ちに よってその年の吉凶を占いました。湯立神楽を象徴する舞です御幣を手に大釜に向かう神職。御幣(ごへい、おんべい、おんべ)とは、神道の祭祀で、捧げられ、用いられる、幣帛(へいはく)の一種で、2本の紙垂(しで)を竹または木の幣串に挟んだもの。湯華神楽(湯立神楽)のクライマックスである。神招きの祈念をこめた御幣を持って、煮え立っているお湯を掻き、釜底から立ち上がる「湯の泡」の様子で今年の豊凶をトする。沸騰し、気化した気泡を「湯華」という。釜の湯を御幣でかき回す神職。移動して横から。釜底から立ち上がる今年の「湯華」は数も多く吉兆と。湯釜の「湯華」を覗き込む宮司。八、大散供(だいさんく) 初能(はのう)の二人舞で、祓い清めの舞です。このお祭りに招かない八百万神 (やおよろずのかみ)に洗米を散供し、四方を和め鎮めます。勇壮かつ優美な二人舞です。中入れ後の二座目の神楽で祓い清めの神楽である。羽織を着用し白扇の上に神饌の白米を捧持、二人で対角線上に舞いながら四方に散供をする神楽である。白扇の上に神饌の白米を載せて踊る2人の神職。「白旗神社」の宮司は横笛を吹く。二人で対角線上に舞いながら。四方に神饌の白米を散供する。正面にも。九、湯座(ゆぐら または笹の舞という) 二人の舞手が笹の葉で四方を舞鎮めた後、交互に大釜に向かい、熱湯を笹に浸して参列者の 頭上に散らし掛けます。このしぶきを浴びると災難病魔を祓い除けると言い伝えられて います。二人の舞手が笹の葉で四方を舞鎮める。そして湯釜に向かう。1人の神職のみ、もう1人は舞台に残る。大釜の前に立って。そして笹の葉を湯釜に入れて、それを外に出し、観客に向けて振り払うのであった。観客の前を移動して、様々な場所から。私も熱湯の飛沫を浴びさせていただきました。この飛沫を浴びると災難病魔を祓い除けると言い伝えられているのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.22
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白旗神社の宮司が神前に詣でる。そして宮司がこれから行われる「湯立神楽」👈リンク の「十二座」について順次説明してくれたのであった。そしていよいよ「湯立神楽」の神事が始まったのであった。一、打囃子(うちはやし) はじめに笛・締太鼓・大胴の楽器によって音合わせをします。神職一同でこれからの奉仕に 備え祈念をし心意気を高め調子を揃えるのが打囃子です。この場において神楽を奏することを神々に祈念し、神楽の楽を調べ合わせる為に一通り楽曲を奏して奉仕者はもとより、参列者の心意を昂めるための所作であるのだと。二、初能(はのう) 宮司が左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち四方にお米を散供(さんく)して、 諸々の霊を和め清める舞です。左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち。神楽の聖域をととのえつくるため、白扇の上に神饌の白米を捧持し、これを四方に散供して稲霊の呪力によって、神楽の場に侵入しようとする邪霊や邪気(もの)を遠ざけて聖域に神霊の降臨を仰ぎ、神楽の滞りない進行を祈念する浄めの舞であると。四方にお米を散供。三、御祓(おはらい) お神酒とお祓いの道具を持ち、舞に使うすべての道具・斎場(さいじょう=神さまが 降臨される場所・釜場・火・水)を祓い清め、神様の降臨を待つ舞です。神楽の座及び神々の降臨を仰ぐ「ひもろぎ」となる山、お湯、釜をはじめ参列者を合わせて、ひろく「聖域」の清め祓いで、神々の降臨を仰ぐためのお祓いである。我々観客も清めていただく。そして神前を離れて。窯場に向かう神職。窯場を祓い清める。大釜の蓋を開け神様の降臨を待つ。大釜からは湯気が濛々と。大釜をズームして。四、御幣招(ごへいまねき) 神楽の対象となる産土神(うぶすなのかみ)・火の神・水の神をお招きする舞です。 舞が終わると参列者に恩頼(みたまのふゆ=神様の御霊魂)を授ける神事があります。邪霊や邪気(鬼・もの)を遠ざけ清め祓ひも終えて、斎庭・聖域の正面に設けられた山(やま)、ひもろぎに神々の来臨を仰ぎ祈る神招きの舞である。(神々は産土大神・火産皇霊神・水波能売神の三神である)。五、湯上(ゆあげ) 火の神と水の神が結びついてできた熱湯に湯たぶさ(笹)を浸し、熱湯を桶に汲み取り、 神前に捧げます。火の神と水の神が結びついてできた熱湯に湯たぶさ(笹)を浸す。介添人が装束の袖を支えて。用いる湯たぶさ(笹)は必ず生き生きした笹をもって作る。密生した笹むらが風も無いのに互いに触れ合ってサササ・・・とかすかに音を発する。この様子が神々の降臨を仰ぐ時の、依り来る神の出現の様子に似つかわしいとされることから用いられるとのこと。そして熱湯を桶に汲み取る。桶を手渡す。神前に向かって。神前に熱湯の入った桶と湯たぶさ(笹)を奉納。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.21
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藤沢・鎌倉・葉山地区の神職がお供物を順次神事舞台へ奉納を始めた。神棚に奉納。次々と別の神職がお供物を神棚に。大きな木桶に入っていたのは「福餅」であった。そして「湯立神楽」で神事を務める、藤沢・鎌倉・葉山地区の各神社の神職・宮司が「義経藤」の下に整列を始めた。8名の神職・宮司が「笏」を持ち並ぶ。「笏」は礼服(らいふく)、束帯のとき威儀をととのえるため右手に持つ細長い板。元来は君命などを書きつけた備忘用の板であった。五位以上は牙(げ)、六位以下はイチイ、サクラなどの木製で、天皇の笏は上下の縁が方形、臣下のは丸みを帯び、すそすぼみである。明治以後は神官にも用いられている。そして「湯立神楽」の神事が始まろうとしたのであった。そしてここ白旗神社の宮司も列に加わり「湯立神楽」の神事が始まった。横笛を奏でる神職。宮司の列が舞台横の定位置に向かう。一番奥に「白旗神社 宮司」が。まずは「秋季大祭」の神事がスタートした。「湯立神楽」の司会進行の神職。湯立の大釜の下の火も確実に燃えて。②初能(はのう)の開始。 宮司が左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち四方にお米を散供(さんく)して、 諸々の霊を和め清める舞です。祝詞奉上。招待者の「玉串奉奠(たまぐしほうてん)」が始まった。まずは、白旗神社の別当寺である真言宗白王山荘厳寺(しょうごんじ)の住職による「玉串奉奠」。荘厳寺は、明治8年までの133年間、現在の白旗神社社務所辺りに本堂が建てられており、また、神仏分離後には、荘厳寺43世 原王照代徒弟英経師が近藤内記と名を改め白旗神社の宮司となったとのこと。氏子代表・総代の「玉串奉奠」。副総代。氏子一同も合わせて。関係団体長の玉串奉奠が続く。藤沢市長の「玉串奉奠」。地元の衆議院議員・星野つよし氏の「玉串奉奠」。藤沢市議会議長の「玉串奉奠」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.20
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この日は10月28日(土)、「白旗神社」の「湯立神楽」神事が14時から執り行われるとのことで自宅近くから神奈中バスで向かう。「湯立神楽」は「白旗神社秋祭り」の特殊神事で、約800年前に京都の石清水八幡宮から鎌倉の鶴岡八幡宮に伝わった「神楽」と言われ、両社では一時期途絶えことで原型を残しておらず藤沢・「白旗神社」で行われている「神楽」が原型に一番近いとされている、と言われる神事とのこと。「白旗神社」には初詣、藤の花見物等で今まで何回も訪ねているが、「湯立神楽」神事に行くのは初めてなのであった。バス停「白旗神社前」で下車し、「白旗神社」に向かう。「白旗川」に架かる「御典橋」を渡る。社号標石「白旗神社」。平成8年8月に建立された。社名の「白旗」は平家の赤旗に対する源氏の旗。源平の戦いの時に敵味方を区別するものとして使われ、このとき以来、源氏の象徴として白旗が用いられることになったのだ と。正面に「大鳥居」。日本初のグラスファイバー製の大鳥居であると。高さ8m、幅6mの明神鳥居で、昭和59年12月に建立された。地震対策のために軽量で耐久性のあるグラスファイバーを取り入れ、建設時には新聞、テレビ、週刊誌等で報道されたのだと。「大御神灯」慶応元年(1865)6月に建立、高さ17尺(5.1m)、台座の底辺は7尺(2.1m)。石段の上に拝殿が見えた。参道左手に「手水舎」。この「手水舎」は平成5年7月に建てられた。手水石は真鶴の銘石、小松石で作られている。参拝の前に身を清める場所。唐破風下の見事な唐獅子の彫刻。小鳥、馬、猿。唐獅子、菊の花、亀、飛龍などの彫刻があり、江戸時代や明治なら通常ではあり得ない多様さであるのだ と。四隅にある木鼻は龍であり、懸魚は鶴であることから鶴亀をテーマにしていることは確かだ。亀の姿が。源義経は、文治5年(1189年)閏4月30日に奥州衣川館で自害した。首級は鎌倉に送られ首実検された。しかし、首級は腰越で曝されたあと江の島の対岸にある片瀬の浜に捨てられたが、泥にまみれたまま亀に背負われ境川をのぼり藤沢の里にたどり着いたとされる。また、社殿が建つ山は亀の形をしていることから亀尾山と呼ばれている。それで、亀が大切にされているのであろうとのこと。そして右手には「源義経公武蔵丸弁慶公之像」。この「源義経公武蔵丸弁慶公之像」は2019年(令和元年)10月竣工。源義経公没後830年の「記念事業」👈リンク の一つとして建てられたのだ。馬に乗る「源義経公」。平安武将の大鎧を再現した見事な源義経騎馬像。鎧だけでなく、馬具・轡(くつわ)なども忠実に再現したのだと。顔にズームして。そして「武蔵丸弁慶公」。武蔵坊弁慶が主君の義経を仰ぎ見る忠義の士の姿。ズームして。さらに顔をズームして。「義経公・弁慶公の御首は、文治5年(1189)6月13日に腰越の浜で首実検の後、金色の亀に乗り当地に辿り着いたと伝えられています。義経公の首塚は、現在の位置より北に40メートル、当社から南に150メートルの場所にあり、その御霊は当社に祀られました。一方、弁慶公の弁慶塚は藤沢宿 常光寺内にあり、その御霊は常光寺内の八王子社に祀られていましたが、現在は塚のみを残しています。一般的に神社は南向きか東向きに建てられていますが、この八王子社に限っては、主君 義経公が祀られている白旗神社の方を向いていたため北向きに建てられていたと謂います。此度、令和御大典の嘉年と主従役儀830年の佳節を吉年とし、ここに源義経公・武蔵丸弁慶公の銅像を建立し、御霊の平安と隆昌を永年に亘り祈り奉ります。」そして「湯立神楽」の見学席に座る。正面に神事の舞台の奉納品が。「湯立神楽」の説明書をいただく。「湯立神楽白旗神社に伝わる湯立神楽は江戸時代から承け継がれて来た神職が演じる格調高いお神楽です。大釜に熱湯をたぎらせ湯華(湯玉)の立ち昇りでその年の吉凶を占います。」神事の舞台を確認する宮司そして神職の皆様。「湯立神楽 十二座」の案内。「湯立神楽の解説(十二座)」。「湯立神楽の解説(十二座)一、打囃子(うちはやし) はじめに笛・締太鼓・大胴の楽器によって音合わせをします。神職一同でこれからの奉仕に 備え祈念をし心意気を高め調子を揃えるのが打囃子です。二、初能(はのう) 宮司が左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち四方にお米を散供(さんく)して、 諸々の霊を和め清める舞です。三、御祓(おはらい) お神酒とお祓いの道具を持ち、舞に使うすべての道具・斎場(さいじょう=神さまが 降臨される場所・釜場・火・水)を祓い清め、神様の降臨を待つ舞です。四、御幣招(ごへいまねき) 神楽の対象となる産土神(うぶすなのかみ)・火の神・水の神をお招きする舞です。 舞が終わると参列者に恩頼(みたまのふゆ=神様の御霊魂)を授ける神事があります。五、湯上(ゆあげ) 火の神と水の神が結びついてできた熱湯に湯たぶさ(笹)を浸し、熱湯を桶に汲み取り、 神前に捧げます。六、中入れ(なかいれ) 前半の清め・祓い・神招きが終了して短い休憩となります。神職は狩衣(かりぎぬ)を 脱いで白衣・袴の姿になり、後半の新人共楽の神楽に備えます。また神前にお供えされている お神酒とお赤飯を参列者に分かちます。七、掻湯(かきゆ) 御幣(ごへい)で四方を舞い鎮め、舞が終わると大釜の前に進み、煮えたぎった湯釜を 御幣の串で掻き回すと、渦巻きが生じて湯華(湯玉)が立ち昇ります。古くはこの湯立ちに よってその年の吉凶を占いました。湯立神楽を象徴する舞です。八、大散供(だいさんく) 初能(はのう)の二人舞で、祓い清めの舞です。このお祭りに招かない八百万神 (やおよろずのかみ)に洗米を散供し、四方を和め鎮めます。勇壮かつ優美な二人舞です。九、湯座(ゆぐら または笹の舞という) 二人の舞手が笹の葉で四方を舞鎮めた後、交互に大釜に向かい、熱湯を笹に浸して参列者の 頭上に散らし掛けます。このしぶきを浴びると災難病魔を祓い除けると言い伝えられて います。十、射祓(いはらい または弓祓と書く) 四隅に矢を放ち悪霊を退散させます。最後に正面(神前)に向かいますが、悪霊がいないため 矢を放たず鳴弦(めいげん)にとどめます。四方に放たれた矢を授かると開運招福・息災延命 になると伝えられています。十一、剣舞(けんまい) 赤面の天狗(猿田彦)が剣を持ち邪悪を清め、悪しき大気を体内に吸い込み浄化され、二本の 指で空中に九字を切り、護身・除災・勝利のまじないをしながら豊年万作・大漁満足・ 天下泰平を祈念し、天地運行の乱れを正します。十二、毛止幾(もどき) 剣舞の途中より黒面の山の神がしゃもじを持って現れ、天狗の真似をしたり滑稽な仕草を しながら、斎場にいるすべての人の心に平安と安らぎを取り戻させる『もどき』で神楽は 終了します神楽が終わると斎場に取り付けられた紙垂(しで)を持ち帰り、家の神棚に祀り、災い除けにする風習があります。我が座席の真ん前に「大釜」が。「大釜」、木材の確認をする宮司。「大釜」下に木材を差しいれ、火入れの準備を。神さまが宿るとされる榊(さかき)という木の枝に、紙垂(しで)や麻を結びつけた「玉串」の確認。そして「大釜」への火入れ。新聞紙を挿入して火起こし。神棚をズームして。左から塩、野菜、ご神酒、米、餅、榊。その下に赤、黒の鬼の面が。奉納品の神酒瓶、稲束、米袋。「藤沢市指定重要無形民俗文化財湯立神楽白旗神社を中心に神官により継承されている神事芸能。湯立てを伴う神楽で、湯花神楽、鎌倉神楽等の名称で、藤沢、鎌倉から三浦半島一円におよんでいる。古くは、関東一帯に分布したとされる神代神楽を源流とし、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の神楽男が伝承し、次第に近隣に定着したものとされる。「湯立て」という神事手法に組み込まれた神楽には品格があり、舞にも洗練されたものがある。演目は十一で打囃子、初能、御祓、御弊招、湯上、中入、掻湯、大散供、笹の舞、弓祓、最後の剣舞・毛止幾で神人共楽の内に終了する。 白旗神社神事 十月ニ八日 平成ハ年三月一日指定 藤沢市教育委員会」火がついた大釜。赤い炎が激しく。「湯立神楽」の神事舞台を再び。観客も増えて。準備完了。「大釜」の火の面倒を見る方も真剣に。再び鬼の面をズームして。剣舞を行う赤面の天狗(猿田彦)。黒面の山の神。準備された「玉串」をズームして。白旗神社の社紋・義経(源氏)の紋章「笹竜胆」。白の地下足袋を履いて、あくまでも白。笹竜胆紋は、笹に似た5枚の葉を下向きに広げて描き、その上に3つの花を描く。村上源氏、宇多源氏一門の代表家紋。また、清和源氏の一部でも使用されている。舞台を丸く半円で囲む観客。社のカメラマンも神事の舞台を写真撮影。 ・・・つづく・・・
2023.11.19
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「江の島・湘南キャンドル2023」を大いに楽しんで、会場の「江の島サムエル・コッキング苑」を出て、振り返る。江島神社の「美人守(ストラップ)」案内。美白・美肌・美笑・美形・美髪のお守りは、ストラップに掛けて・・・。「江の島で キレイ はじめる」と。帰路も「中津宮」前を通過。帰路も「展望台広場ウッドデッキ」から「江の島夜ヨットハーバー」そして「七里ヶ浜海岸」方向を見る。右手に石碑が2基。左は安岡 正篤(やすおか まさひろ)の感載碑。「明神降鑒衆生福智」安岡正篤撰竝書と刻まれていた。昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた人物とのこと。「江島神社、御鎮座千四百年祭」の石碑。左前方にあったのが「神事が行われる場所」であっただろうか。「洪鐘祭(おおかねまつり)御朱印」案内。「洪鐘祭(おおかねまつり)開催日 令和5年10月29日(日)小雨決行江島神社 60年に1度の大祭円覚寺江の島囃子 120年ぶりの大行列参加」と。円覚寺にある国宝「洪鐘(おおがね)」は北条時宗公の遺志を継ぎ、子の北条貞時公が鋳造させたもので「江島弁財天」への参籠、弁財天の啓示を受け、1301 (正安3 )年、鋳造に成功しました。洪鐘は720年の間、時を伝え、人を集めることのみならず、「円覚寺」の梵鐘として、鐘の音とともに功徳を広く伝えてきました。「江島弁財天」への鋳造成功のお礼として「円覚寺」と「江島神社」が共同で神事・仏事を行い、儀式に併せ、山ノ内の村人が「洪鐘弁財天」を奉載し盛大にパレードする「洪鐘祭(おおがねまつり)」は、1480 (文明12 )年に開催され、その後も60年毎の庚子(かのえね)年に続いてきました。「円覚寺」建立・開山の目的、梵鐘である洪鐘の歴史を再確認し、60年後、120年後の後世に繋げるべく、2023 (令和5)年の「洪鐘祭」として開催いたします。 主催:円覚寺洪鐘祭 実行委員会 連縮先: 2023ooganematsuri@gmail. com」「洪鐘弁財天大祭斎行記念 奉拝 江島神社」の御朱印も頂けると。「江島神社奉安殿」を左に見て進む。そして「辺津宮」。「江島神社 瑞心門」に向けて石段を降りる。「脚長爺さん」を自撮りする。さらに脚を長くして。前方に「江島神社 瑞心門」。前方に「江島神社 朱の鳥居(大鳥居)」。右手に「江の島エスカー乗り場」。崖の下の「無熱池(むねつち)」。インドに伝わる伝説の池を真似たもので、龍が住みつき、どんな干ばつのときでも水が涸れたことがないと伝わる池。 「江の島弁財天仲見世通り」沿い右側にあった「磯料理専門店 丸だい 仙水」。美味そうな海鮮料理が並ぶ。舟盛り「伊勢えび入活造り盛合せ 7000円」と。そして「江の島弁天橋」を歩く。人道橋の江ノ島弁天橋が架けられたのは明治24年だったが、台風でよく流されたため、昭和24年に橋脚をコンクリート杭とし、その後昭和28年、PC橋に改修された。横の車道橋の江ノ島大橋は、前回の東京オリンピックのヨット競技のため江ノ島港が建設されたことによって架けられた。目の前に対になった巨大な龍の灯籠が。江ノ島神社御鎮座千四百五十年記念事業を記念して奉納された、江の島の弁天橋出口の巨大な「大灯龍」。向かって右の龍は「阿形」。 向かって左の龍は「吽形」。国道134号「片瀬橋」入口から「江の島」を振り返る。国道134号「片瀬橋」を渡る。国道134号「片瀬橋」出口から「江の島」を振り返る。「片瀬橋」の下にはクルーザーが。そして「新江の島水族館」のイルミネーションを期待してここまで来たが・・・。「新江の島水族館」。国道134号を引き返して小田急線片瀬江ノ島に向かう。小田急線の片瀬江ノ島駅を正面から。駅舎は神社仏閣に用いられる「竜宮造り」と呼ばれる技法を採用。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ装飾も施されている。1929(昭和4)年の開業時から「竜宮城スタイル」の駅舎で知られた片瀬江ノ島駅。新駅舎は2018年2月に着工し、長年親しまれた旧駅舎のイメージを残しつつ、より「竜宮城らしい」駅に生まれ変わったのだ。楼門上層の窓ガラスには、江の島に伝わる「天女と五頭竜(ごずりゅう)」の伝説にちなんで天女の絵が描かれていた。向かって右。向かって左。屋根の上には鯱ならぬイルカが。向かって右。向かって左。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が(右)。波間から立ち上がる黄金の龍の姿が(左)。向唐破風付け根の装飾。黄金に輝く竜の姿が。向かって右。向かって左。改札口横には、新江の島水族館の協力で、クラゲが漂う常設の水槽が。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れている。二十匹ほどのミズクラゲがゆらゆら浮遊するしているのであった。新江ノ島水族館によると、館外に水槽を常設するのは初めて。少し離れた場所にろ過装置があり、地中を通した配水管でつなぎ、水温調節機能も備える。異常が生じれば、近くの同館に警報が伝わり、対応する仕組みになっていると。マリンブルーの神秘的な彩りの中をクラゲが回転しながらゆったりと浮遊しているのであった。片瀬江ノ島駅は。観光スポットの江島神社、江ノ島水族館やマリンレジャーで賑わう江ノ島海岸への最寄駅です。装飾類の内、龍と天女は江島神社に伝わる「江嶋縁起」に因んでいます。「江嶋縁起」の第二巻に「五頭龍は、江島に降り立った天女の美しさに目を奪われ一目惚れ。江の島に渡り結縁を求めるが、天女は五頭龍の所業を非難し諭すのである。そして五頭龍は悪行をやめ人々のため尽くす誓いを立て、天女と結縁する。(遊行寺宝物館発行、特別展江嶋縁起パンフレットより抜粋)」くだりがあります。この物語をテーマに、コンコースの天井には五頭龍を、竜宮門とその周辺に五頭龍と天女を配しました。コンコースの天井には、長さ15m×高さ90cm×厚さ18cmの巨大なケヤキの彫刻が。右側の彫刻を見上げて。左側の彫刻を見上げて。ズームして。左へと。出発を待つロマンスカー新宿行き。そして小田急線藤沢行きを利用して帰路に。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.11.18
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最後の展示エリアを、これでもかと歩き回りカメラでその美を追ったのであった。キャンドルの炎がゆらゆらと揺れ、周囲の影を舞い踊らせる光景は、まるで魔法の如し。その光と暖かさは、私を穏やかな気持ちに導いてくれたのであった。これ以上のキャプション(写真や挿絵に添えた説明文)は不要なのである。自ずと、キャンドルが語りかけてくれ、美しさを感じることが出来るのでは と。キャンドルの炎は、その小さな存在が持つ美しさを最大限に引き立て、暗闇を優しく照らし出してくれるのであった。「江の島シーキャンドル」と「昆明広場」の「春澤園」のコラボ。美しさに囲まれて、心が静まり、心地よい感触が心に残る瞬間の連続なのであった。そして、その美しさを言葉にすることが難しいことであることも、キャンドルの魅力の一部と言えること間違いなしであった。「江の島・湘南キャンドル2023」は、今年も素晴らしいイベントであった。幻想的なキャンドルアートが、江の島の美しい景色と調和し、訪れる人々の心を魅了。キャンドルの灯りが空を彩り、静寂に包まれた場所が一層神秘的に感じられのであった。多彩なデザインのキャンドルが、一つ一つ物語を語りかけるようで、心に深い印象を残した。また、イベントの雰囲気はとても穏やかでリラックスできる空間であり、家族や友人との素晴らしい時間を過ごすことができること間違いなしであった。「江の島・湘南キャンドル2023」は、美しい芸術と自然の融合が楽しめる素晴らしい体験であった。『江の島の 湘南の灯り 美しき 炎が踊り 海風に灯る』・・・詠み人知らずそして、「江の島・湘南キャンドル2023」の会場を後にして、往路と同じルートで「江の島」を下り、「江の島弁天橋」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.17
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「LONCAFE 湘南江の島本店」を後にして進むと「温室遺構」の炭にあった松の木も僅かにライトアップされて。そして「温室遺構エリア」内にはカップルの記念撮影ベンチが設置されて、係員がカメラマン役を請け負っていたのであった!!ベンチの周囲は、赤いキャンドル中心で白のキャンドルがアクセントに。オレンジ色の灯りはあたたかいだけでなく、アンティークな印象を醸し出していた。この下に記念撮影用ベンチが置かれていた。ズームして。江の島シーキャンドルを再び。そして赤、白、緑、紫・BEST MIXの「chaos」の世界へ。キャンドルの灯りはイルミネーションとは一味違うあたたかみが感じられるのであった。そして「昆明広場」の建物「騁碧亭(ていへきてい)」を見る。中国伝統様式の「四阿(あずまや)」。扁額「騁碧亭」。様々なアイデアが盛り込まれたキャンドル。キャンドルの台座も様々なアイデアを駆使。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.16
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入口から「江の島シーキャンドル」へのメインルートの出口。アーチ門の頂きには、漁師が海で使用するガラス浮き球に似たものが白く輝いていた。そしてここは地上、そして樹からぶら下がる白の世界。そしてガラス浮き球の世界へ。小さなSailorの姿も。ガラス浮き球の白の世界を追う。通路両脇にも。ススキもライトアップされて。ヤシの樹とシーキャンドルとのコラボ。ズームして。「UMIYAMA DO」前。この通路にはアーチ門が並ぶ。そしてここは「温室遺構」の上部。そして前方左手にあったのが「LONCAFE 湘南江の島本店」。通路脇の赤レンガの上にも。そしてここが「LONCAFE 湘南江の島本店」。「LONCAFE 湘南江の島本店」の横の庭から「江の島大橋」、「江の島弁天橋」を再び。月もますます輝いて。「LONCAFE 湘南江の島本店」の店内を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.15
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そして「江の島シーキャンドル」の展望台へのエレベーターの列に並ぶ。湘南のシンボルとして親しまれる「江の島シーキャンドル(タワー)」は、2002年の江ノ電開業100周年事業の一環として建設され、2003年4月29日にリニューアルオープンした。避雷針まで入れた高さは59.8m(海抜119.6m)あり、その斬新なスタイルは江の島の新しいシンボルとして親しまれている。高さ41.75m(海抜101.56m)のところにガラス張りの展望フロア、さらにその上には屋外展望台があり、富士山や丹沢などのワイドな眺望が楽しめるのであった。エレベーターを5台ほど待ち、高さ約42m(海抜約100m)のガラス張りの展望フロアに到着。ガラス越しに「江の島大橋」、「江の島弁天橋」そして左に境川河口、右に片瀬東浜海岸を見る。展望台に置かれていた案内板。左方向に目をやれば片瀬西浜海岸、鵠沼海岸。階段を上がり「屋外展望台」へ。「江の島サムエル・ コッキング苑」内の「湘南キャンドル2023」会場を見下ろす。写真左上には、なまこ壁の「UMIYAMA DO」。屋外展望台から、境川河口、片瀬漁港、片瀬西浜海岸を見る。再び屋外展望台から「江の島大橋」、「江の島弁天橋」そして左に境川河口、右に片瀬東浜海岸を見る。稲村ヶ崎、由比ヶ浜方面。渋滞する国道134号の車列のライトが点線状に続いていた。高さ約50mの屋外展望台から「湘南キャンドル2023」を楽しむ。後ほど訪ねた「ウインザー広場」の赤の輝きが美しかった。「江の島大橋」、「江の島弁天橋」の街路灯が水面に映りオレンジ色に輝いていた。そして帰路はエレベーターではなく屋外階段をゆっくりと一歩一歩下る。下部で輝く三角形の屋根の建物が「THE SUNSET TERRACE」。「THE SUNSET TERRACE」の屋外展望フロアのイルミネーション。「UMIYAMA DO」近くでライトアップされたヤシの樹。そして老木からぶら下がった優しい灯りが夜に浮かび幻想的!!ズームして。さらに。屋外展望フロアのウッドデッキに下りて。右は???幻想的な世界のようではあるが・・・。中央は「SEACANDLE」のシンボルマークか?左は???「江の島シーキャンドル」を見上げて。そして更に階段を下りて地上に。そして再び、老木からぶら下がった優しい灯りが夜に浮かび、幻想的なカオスの世界。全体を見渡す光景も美しいが、キャンドルに寄って見てみると、柔らかい色合いが魅力的なのであった。この展示場所は写真映えするキャンドルの演出が見事。幻想的な雰囲気のキャンドルに心を奪われいつまでも佇んでいたい空間なのであった。ファンタジックな世界に近づいて。そしてこちらが入口からのメインストリートの出口。近づいて。そして再び白色の世界に迷い込む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.14
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そして「江の島サムエル・コッキング苑」手前の広場に到着。「江の島Guide Map」。「湘南Candle 2023 入口」案内。「湘南Candle 2023」と「江の島シーキャンドル」のセット券を800円で購入。「江の島サムエル・コッキング苑」入苑門から入る。「湘南Candle 2023」のポスター。「穏やかに流れる時間 淡く広がるキャンドルの海」。開催:10/14(土)~11/5(日)開催期間中の行事一覧。キャンドル配置エリアマップ。エントランス右側のエリアには入れずに、最後の見学コースになっていた。「立ち止まらないで進んでください」と。右側奥にあったのがライトアップされた「昆明広場 (春澤園)」。中国風の四阿(あずまや)を中心に庭園のようになっている場所。四阿は色も鮮やかで美しい。しかしこの場所も近寄れず、帰りのコースになっていた。「江の島シーキャンドル」へのメイン通路を進む。蠟燭の灯が無色のグラスの中で輝く。所所にアクセントの如き色ガラスが。吊るされたランプの如き赤き輝き。近づいて。そしてライトアップされた「江の島シーキャンドル」を見上げる。こちらは赤き世界。テーブルの上で。月の姿を。ヤシの木もライトアップされて。再び白の世界に青のアクセントの輝きが。振り返って。そして老木から吊り下げられた、数えきれないほどのキャンドルが。大きな老木から吊り下げられたキャンドル。色とりどりのグラスに灯るキャンドル。観る場所、角度によってもいろいろな光景が楽しめるのであった。マヒナセイサクジョ・KENTA-ROHさんによるキャンドルツリーの作品 と一番奥にあったのが、子ども用遊具「ふわふわドーム」。青くライトアップされたヒョウタン形のこぶが二つ。トランポリンのように弾力があって上で跳ねたり滑ったり駆け回ったして遊ぶ子どもたちの姿が。ヤシの木の下には、オレンジ単色の輝きが一面に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.13
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「辺津宮」を後にして、左手に進むと「辺津宮」の「おみくじ掛け」。右手にあったのが「江島神社」の「泰安殿」。「辺津宮」の南隣にある八角円堂。「裸弁財天」とも呼ばれる妙音弁財天像と八臂弁財天像を安置している。源頼朝は奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請したと「日本三大弁財天 八臂 妙音 弁財天 拝観受付所」と。神奈川県の重要文化財に指定されている八臂弁財天(はっぴべんざいてん)。江島神社のHP(http://enoshimajinja.or.jp/gohoumotsu/)よりの転載です。同じく日本三大弁財天のひとつとして有名な妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)。 「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の意外に小さい座像。女性の象徴をすべて備えられた大変珍しい真っ白な姿で、鎌倉時代中期以降の傑作。 これも江島神社のHP(http://enoshimajinja.or.jp/gohoumotsu/)よりの転載です。 近づいて。見事な「蟇股」の美しい彫刻。「奉安殿江の島弁財天への参詣の歴史は古く、広島 の宮島、滋賀県の竹生島と並び「日本三 大弁財天」として篤く信仰されて来ました。 弁財天は当初、武人守護の神として信仰を 集めていましたが、時代が進み泰平の世に なることで、次第に“芸能・音楽・知恵 ・ 福徳の神”として信仰されるようになりました。奉安殿では勝運祈願の神として信仰される八臂弁財天(国重要文化財)や音楽芸能の上達を願う人々の信仰を集めている妙音弁財天(市重要文化財)の御尊像をお祀りする他、多くの宝物を収蔵しています。」その先右手にあったのが「八坂神社(やさかじんじゃ)」。 「八坂神社御祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。例祭日 七月十四日旧称 天王社御祭神の建速須佐之男命は八岐大蛇(やまたのおろち)退治で知られる日本神話の英雄で、神仏習合時は牛頭天王と呼ばれました。疫病を始めとするあらゆる災難からお守り下さる神様で、江島神社に祀られる三女神の父神でもあります。」「藤沢市指定重要無形文化財江の島天王祭令和ニ年(ニ〇ニ〇)四月一日指定八坂神社(江島神社境内社)の江戸時代以来の例祭。腰越で祀られていた神体(建速須佐之男命)が大波に流されたのを、江の島の大海士(素潜り漁師)が海中より、すくい上げて祀ったと伝わります。この伝承を再現したのが、今日では毎年七月第ニ日日に行われる神幸祭(神興の海上渡御・東浦祭典・小動神社渡御)です。その前後数日間の一連の祭礼が天王祭で、「かながわの祭り50選」に選ばれています。祭祀の始まりを再現する形態が、伝承通りに江の島島内の漁師を主体として伝えられていること、特殊神饌として調理した麦を供した後、参拝者に振る舞うことに特色があります。神興渡御の際に先導して奏でられる「江の島囃子」は、神奈川県の重要無形民俗文化財に指定されています。」江の島天王祭の写真。海に入る神輿の写真。「八坂神社」の先にあったのが「稲荷社・秋葉社」。「八坂神社」の隣にある小さな社。江島神社の末社だと。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。江の島随所にあった小祀(秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など)を合祀した社とのこと。「稲荷社・秋葉社」。社殿に近づいて。石段の途中にあった「石鳥居」。「猿田彦大神」碑。「猿田彦大神」案内。「猿田彦大神この碑は庚申塔の一つで、天保3年(1832年)に建てられたものです。碑の執筆者である阿部石年は、藤沢宿の儒者として、また書家として知られ、天保6年(1835年)に没し、その墓碑は鵜沼の万福寺にあります。この碑に書かれている「猿田彦大神」とは、古事記・日本書記の神話に登場する神で、天孫「ににぎのみこと」降臨の際、高千穂までの道案内を務めた神といわれ、中世以降、「庚申信仰」や、「道祖神信仰」と習合しました。※庚申信仰とは人間の体内には、三戸という三匹の虫がいて、常に人間が犯す罪過を監視し、庚申の晩に体内から抜け天にのぼり天帝に罪過を報告し、人間を早死にさせるという。だから庚申の晩は、常に徹夜をしていれば体内から抜け出し報告できないので、早死にを免れ長生きできるという、中国道教の教えからはじまっています。猿田彦の名前から庚申の「申」と結びついたといわれています。」「展望台広場ウッドデッキ」から「江ノ島ヨットハーバー」が眼下に。上空には月の姿が。ズームして。対岸は逗子・葉山を走る国道134号。「江島神社・中津宮(なかつみや)」に到着。平成11年に江の島歌舞伎が行われた時の5代尾上菊五郎、7代菊之助の記念手形。近づいて。「平成十一年(一九九九)九月七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助出演の「江の島大歌舞伎」が盛大に開催されました。当地ゆかりの「弁天娘女男白波」を演目とし、菊之助が演じた弁天小僧は大いに観衆をわかせました。開演に先立ちお錬りで弁財天に詣でた際、菊之助御自身の手植えにより献樹された「しだれ梅」であります。」「江島神社・中津宮(なかつみや)」の狛犬(阿形、右)。狛犬(吽形、左)。「中津宮中津宮には三女神の一柱である市寸島比賣命をお祀りしています。853年に慈覚大師によって創建され、明治時代までは辺津宮が「下之宮」と称されたのに対し、この「中津宮」は「上之宮」と呼ばれていました。現在の社殿は1 9 9 6年に全面的に改修されたもので、創建当時の朱色が鮮明な社殿を再現しています。境内には江戸時代に歌舞伎関係者によって奉納された石灯籠のほか、多くの奉納石造物があり、信仰の深さをうかがい知ることができます。」見事な朱の社殿。見事な彫刻。扉の紋様。扁額「中津宮」。「中津宮市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀りしています。創建は文徳天皇仁寿3年(853年)。その後、元禄2年(1689年)に改築され、朱色が鮮明な現在の御社殿は、平成8年の全面的な改修により、元禄2年改築当時の中津宮(権現造り)を再現したものです。幣殿・拝殿の天井には花鳥画や、彫刻が施され、境内に奉納された石燈籠等は、江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さを物語っています。美しい恋したい。「美しい弁財天さまにあやかり、綺麗になりたい!」と願う女の子たちの象徴として、弁財天様の羽衣をイメージした中津宮独自のマークです。三姉妹の女神様の中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)が「もっと綺麗に、もっと美しく恋をしたい。」女神である女性達に贈る願いが込められております。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.12
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「江の島弁財天仲見世通り」を更に進むと、前方に「江島神社 瑞心門」が垣間見えて来た。社号標石「江島神社」。日露戦争・日本海海戦の名将・東郷平八郎元帥の揮毫により、大正十年(1921年)に建立されたもの。前方に「辺津宮 大鳥居(朱の鳥居)」。この朱塗りの大鳥居は、文化二年(1805年)に建立され、明治元年に再建された石の鳥居を、昭和11年(1936年)に鉄筋コンクリート造りで再建したもの。東京・山田流筝曲家元・林敏子さんの寄進とのこと。辺津宮(へつみや)の鳥居の左手前には、「日本三大弁財天 江島神社」と書かれた琵琶を模した案内板が。江島神社の妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)御尊像は「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の座像なのである。そして、正面を見上げると、「瑞心門」が聳え、昭和12年(1937年)に整備された大石段には登り口に石灯篭、中段に朱塗りの春日灯籠が見えた。この大石段の近辺には由緒ある観光ポイントがたくさんあるのだ左手奥には「江の島エスカー乗り場」。「江の島エスカー乗り場」は、江の島2丁目3にある「江の島弁財天仲見世通り」を抜け、江島神社の鳥居の左手にある。屋外エスカレーターで、頂上まで石段を上っていくと20分かかるところを、わずか4分でアクセスできる。エスカー乗り場は1区、2区、3区の3か所がある。「瑞心門」そして朱塗りの春日灯籠を見る。今年も、7月15日(土)~8月31日(木)に開催された「江の島灯籠2023」のライトアップ。江の島に1000基の灯籠を設置してライトアップし、幻想的な世界を演出したのだ。以下の3枚の写真は友人から送られて来たものです。今年も「光の絵巻」が江島神社 瑞心門に登場。ベルベッタ・デザイン演出による「光の絵巻」がエリアを拡大して今年も登場!期間中、江の島エスカー1区で、江の島の伝説「天女と五頭龍」をイメージした映像を映しだしたのであった。昨年の江の島灯籠でも、夏の夜空に浮かぶ瑞心門を彩る光のインスタレーションは大変好評。2年目の今年はスケールアップ!瑞心門〜階段〜辺津宮まで広がったエリアで「天女と五頭龍の恋物語」をフィーチャーし、今年のモチーフ「花火」を加え、さらに華やかに“光の絵巻”を演出して江の島の夏の夜を彩ったものだと。 ここ瑞心門では「江ノ島誕生」 「五頭龍」 「天女降臨」 「天女と五頭龍の出会い」「五頭龍の御加護」加え、新たに「花火」のモチーフによって厄災を祓う気持ちと現代の美しい江の島の夜を表現したのだと。そしてこちらは、今年2023年に送られて来た写真です。朱塗りの春日灯籠に近づいて。瑞心門の両側には唐獅子画が。右側は青の唐獅子。左側は緑の唐獅子。「瑞心門唐獅子片岡華陽 筆中央アジアからもたらされたライオンが古代中国で幻想動物として描かれ、我国には密教曼荼羅の中の唐獅子が9世紀に渡来し、定着していきました。以後、仏法のみならず邪悪なものを退け、国家鎮護を祈念する形代として飾られるようになりました。この瑞心門唐獅子は御祭神の守護と合わせてご参拝の皆さまに厄災なきことを祈願して飾りました。平成7年4月初巳日 江島神社奉納 東京 中村明」「瑞心門」下から振り返って。石段を上ると正面にあったのが「弁財天 童子像」。近づいて。斜めから。優しいお顔の「弁財天 童子像」。「弁財天 童子像 建立之記平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を迎へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり平成十四壬午歳十二月吉日 江島神社 宮司 相原圀彦」。「江島神社全景絵地図御祭神は、三人姉妹の女神様社殿によると、欽明天皇十三年(552)に、「欽明天皇の御宇、神宜により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあります。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました」。「江島神社全景絵地図」「江島神社 三宮の御案内」。「江島神社 三宮の御案内 辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す。辺津宮(へつみや 下之宮)御祭神 ・・・・・ 田寸津比賣命(たぎつひめのみこと) 土御門天皇 建永元年(1206) 源實朝が創建。 弁天堂には日本三大弁財天の妙音・八臂弁財天御尊像を始め十五童子像・後宇多天皇の勅額 ・弘法大師の護摩修法による弁財天像が奉安されている。宋国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池 ・御神木の結びの樹等があり八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する。中津宮(上之宮)御祭神 ・・・・・ 市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと) 文徳天皇 仁寿3年(853) 慈覚大師が創建。 現在の社殿は元禄2年(1689)の御造営で平成8年の御改修により、格天井には花鳥画が施され 彫刻等が復元された。境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある。奥津宮(御旅所・本宮)御祭神 ・・・・・ 多紀理比賣命(たぎりひめのみこと) 天保13年(1842)再建。源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の力石・鎌倉 四名石の一つ亀甲石・御神木・山田流箏曲開祖 山田検校像等がある。龍 宮(わだつみのみや) ・・・・・ 龍神をまつる(例祭9月9日)岩 屋 波の浸食で出来たもので第一・第二霊窟からなり約150メートル深奥が当神社発祥の地であ る。欽明天皇13年(552)にこの地に鎮座された。 春季大祭 初巳例大祭 四月初の巳の日 秋季大祭 古式初亥祭 十月初の亥の日 一歳両度の祭祀として欽明天皇の御代より連綿と継承されている」さらに石段を上って行った。右側にあったのが「杉山和一の墓」。江戸時代に日本独自のはり技術である「管鍼法(かんしんほう)」を創案したとされる盲目の鍼医杉山和一検校(1610~1694)。「杉山和一総検校(すぎやまわいちそうけんぎょう)」像」台座には和一の歌「よばばゆけ 呼ばずば見舞へ 怠らず 折ふしごとに おとづれをせよ」が。銅像は生誕410年の記念に藤沢市鍼灸・マッサージ師会などが計画し、2020年9月に建立された。写真左側に、杉山検校和一の建てた江ノ島弁財天の道標とその後ろに『福石』と刻まれた比較的小さい石碑が。杉山検校は、江ノ島の弁財天で21日間の断食をし、祈願したところ、その満願の日、帰り道にこの石につまずいたと。その時、体を刺すものがあったので確かめてみると、松葉の入った竹の管だったいう。この出来事が、管鍼(かんしん)の技術を考案するきっかけとなったといわれていると。朱塗りの橋・「御幸橋(みゆきばし)」を下に見る。「御幸橋」は、江島神社と旧片瀬小学校江ノ島分校(今は「江ノ島市民の家」)を結ぶ橋で、下を奥宮に続く裏参道が通ります。 旧片瀬小学校江ノ島分校のあった場所には、かつて閻魔堂と杉山検校により元禄七年(1694年)建立された三重塔がありました。 なおアーチ形の現在の橋は、戦後架け替えられたものです。葛飾北斎 「富嶽三十六景 相州江の嶌」に描かれている「三重塔」。そして更に石段を上がると正面に「手水舎」が現れた。江島神社「十月 社頭歴」。江島神社の十月の祭礼・行事予定が書かれていた。手水舎でお清め。手水舎に龍の吐水口(とすいこう)。近づいて。日本では昔から龍神が水を司る神さまとして崇められて来た。水はすべてのいきものにとって命の源。命をつなぐ水は尊いものであり、神道(自然信仰)では穢れや邪気を祓う神聖なものとされた。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は、心身を清めるために行うものですから、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しているのだ。そして更に石段を上ると「辺津宮」の屋根が現れた。石段を上り終わるとそこは辺津宮境内。弁財天を奉る江島神社は、田寸津比賣命を祀る「辺津宮」、 市寸島比賣命を祀る「中津宮」、多紀理比賣命を祀る「奥津宮」の 三社からなっているのだ。辺津宮は本社。田寸津比売命(たぎつひめのみこと)が祀られている。右手にあったのが「茅の輪くぐり」。古歌を唱えながら茅の輪をくぐると罪などが清められるのだそうだ。 毎年、正月は中央に置かれてあったがこの日は脇に。正面から。正面には唐破風屋根が。唐破風はその名称から、中国由来と思われがちだが、日本特有の破風形式。その歴史は平安時代にさかのぼると。日本では中国の先進的な文物を「唐物(からもの)」と呼んで珍重し、何か目新しいものに「唐(から)」という名を付ける傾向があったので、「唐破風」と呼ばれるようになったものと。懸魚(げきょ)と扁額を見る。扁額「邊津宮」と。江島神社の社紋「向かい波三つ鱗」。鎌倉時代に崇敬された北条氏の家紋である「三枚の鱗」をモデルに、海の波で囲んだ「三つ鱗」を表現しているのだと。そして「辺津宮」に向かい合うのが、江島神社の辺津宮の「白龍王黄金浄水(銭洗白龍王)」江の島の弁財天は、かつては岩屋洞窟に安置され、その御霊水で金銭を洗うと金運向上・財宝福徳の御利益があるといわれてきた。水源には徳力製の純金の小判が秘められてあり、この御霊水で金銭を洗うと、金運向上、財宝福徳のご利益が授かると。 製作者は、相模彫の創始者・鏡碩吉(かがみけんきち)。辺津宮の賽銭箱も同人の作 と。弁財天の神使「白龍王」をズームして。「龍神と弁財天水辺に鎮まる龍神は古来より気象を司る国土安泰の神とされました。江ノ島では弁財天の夫神として財宝福徳の神として信仰を集めています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.11
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この日の夕日の絶景を楽しんだ後は「江の島弁天橋」を「江の島」に向かって進む。「江の島サムエル・コッキング苑」内に建つ「江の島シーキャンドル」を見る。イギリスの貿易商、サムエル・コッキング氏が明治時代に造った洋風庭園を整備。高さ約60m、海抜約100mの展望灯台からは、南に大島、西に富士山、東に三浦半島を望むことができるのだ。「江の島シーキャンドル」の灯りは未だ。時間は16:50。未だ、箱根の山の端の上の雲は赤く染まっていた。「境川」の河口を見る。「境川」は、県北部の城山湖付近を源として都県境を南下し、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ、流域面積約211平方キロメートル、延長約52キロメートルの二級河川。「片瀬漁港」越しに「大山」の姿を。丹沢大山(たんざわおおやま)国定公園に位置する大山(おおやま)は、神奈川県伊勢原市を表玄関に、標高1252mのピラミッド型の美しい山容を誇る。大山が別名「雨降山」(あふりやま)と呼ばれるのは、相模湾の水蒸気をたたえた風を受け、雨が降りやすい(また上がりやすい)山容に由来し、別名「あめふりやま(雨降山)」転じて「あふりやま(阿夫利山)」となったため と。相模湾にも夕闇が迫りつつあった。片瀬漁港・西プロムナードの先端には「白灯台」、その先には丹沢の山々が。「江の島シーキャンドル」をズームして。最上階に灯室、その下に屋外展望台、さらにその下にガラス張りの展望室。屋外展望台には多くの観光客の姿が確認できた。夕日が沈んだ箱根・二子山をズームして。これぞ「残照」。そしてこの日の月も輝きを増して来た。波静かなこの日の相模湾。海鳥もネグラに戻るのか?「江の島弁天橋」その先に「江の島ヨットハーバー」の街路灯が。江の島唯一の天然温泉と絶景に癒される HOTEL & SPAで豊かな自然環境に恵まれた江の島入り口に位置する「江の島アイランドスパ」2020年4月より江の島ホテルが併設され、宿泊もできるホテル&スパへと生まれ変わった と。屋根から天に向かって突き出た金属製「相輪(そうりん)」を持つ「中華飯店 吉祥楼」が正面に。正面に「江島神社」の「青銅の鳥居」が見えて来た。「江の島アイランドスパ」の前庭のあるライトアップされたハート型のオブジェをズームして。江の島の玄関口にある「貝作」。湘南の海を眺めながら海の幸から洋食まで美味しい料理を楽しめる店。また新鮮な海産物をその場で焼き上げてくれる店。デッキで潮風を感じながら海鮮を楽しめる店。海産物を中心とした土産も豊富。「中華飯店 吉祥楼」、「江の島アイランドスパ」の入口。1Fエレベータホールの壁に描かれた花を中心にした和風絵画も見事。歩いて来た「江の島弁天橋」を振り返る。「江の島アイランドスパ」の前庭のあるライトアップされたハートのオブジェ。引き返して再び反対側を。牡丹、菊等が豪華に描かれていた。そして戻って「江島神社」の「青銅の鳥居」前に。江の島弁財天信仰の象徴である青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建された。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめているのだと。「江嶋大明神」と書かれた鳥居の扁額(後宇多天皇による直筆の複製)と。「青銅の鳥居江の島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の島居でしたが、1 8 2 1年に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており信存の篤さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。鎌倉時代、我が国にモンゴル軍が襲来した戦い(文永の役)で敵側が退散した事への神恩感謝として、第91の後宇多天皇が奉納したとされる勅額(天皇から賜った額)を写したものです。1997年に藤沢市の指定文化財に登録されました。」この先の商店街の道「江の島弁財天仲見世通り」は神奈川県道305号江の島線なのである。右手にあったのが「しらす問屋とびっちょ 江の島弁財天仲見世通り店」。美味そうな丼が並ぶ。「しらすのかき揚げ丼」。「シェルランプ工房」。美しい貝殻の中で電球を光らせるシェルランプをガラスボトルや浮き球の中に組み込んだ、オリジナルのシェルランプとのこと。透き通ったガラスの向こうに広がる小さな海の世界をやわらかい光と共に楽しめたのであった「江の島弁財天仲見世通り」沿いに置かれていた行灯。伝統文様「青海波(せいがいは)」と鎌倉幕府執権北条氏が用いた家紋「三つ鱗」。「青海波」は三重の半円を連続して波を表した幾何学文様発祥はササン朝ペルシャとされる普及したのは江戸時代とされる未来永劫への願いが込められた吉祥文青海波は日本以外でもエジプトやペルシアなど各国で見る事ができる文様とのこと。古くは埴輪の着物に見られるが、水の意味として描かれるようになったのは鎌倉時代以降と。「青海波」という名前の由来は、雅楽の青海波という演目から来ている。江戸時代の舞人の袍にはこの文様が描かれている。平安時代にも源氏物語で青海波を舞う場面があるのだが、この時の装束はどのような文様か明確ではないのだ と。「創作ちりめん「布 遊舎」江ノ島店」の中には猫の面が並んでいた。江の島は猫が多い事でも有名とのことだが・・・。近づいて。洒落た和傘。その下には吊るし飾り玉? 「葛飾北斎 富嶽三十六景 相州江の島」。そしてその先右手にあったのが「岩本楼本館」入口。「旧岩本院(岩本楼)」案内。「旧岩本院(岩本楼)江の島の歴史の中て、置重な役割を担ってきたのが、この岩本院てす。中世、江の島には弁才天を本尊とした、「岩屋本宮」・「上之宮」(現中津宮)・「下之宮」(現辺津宮)の三宮があり、それそれ岩本坊・上之坊・下之坊の各別当寺が管理にあたっていました。この三坊の中で「岩本坊」は、「岩屋本宮」及び、弁才天の御旅所であった「奥津宮」の別当寺で、江戸時代に、院号の使用を許され「岩本院」と称し、江の島全体の別当でした。この岩本院の先祖は源氏一族の中の「宇多源氏」の流れをくむ、近江源氏として有名な「佐々木氏」です。江戸時代には、文字や芸能にもとりあげられ、中ても歌舞伎の「青砥稿花紅彩画(通称「白浪五人男」)に出てくる「弁天小僧菊之助」は、「岩本院の稚児」がモデルといわれています。」豊原国周「当世五人男」。右から桐野利秋/坂東彦三郎、篠原国幹/尾上菊五郎、西郷隆盛/中村芝翫、村田新八/市川左団次、田村啓二/市川団十郎詞書坂東彦三郎「遠からん者は鉄砲の音に、音羽の紋所九字ひしなりに曲んだる頑固士族の三隊長、 見かけて山鹿、木留口、数度戦場ゑくり出し、さつま造りの刀にて、多くの者を桐野利秋。」尾上菊五郎「さて其次に備へしは、名も梅幸と花の兄、まづ魁にすゝんだる、肥後熊本の城攻に、力も運も つき、弓も引て返さぬ武士の意地、暴徒が噂、高瀬へ行んと吉次峠の切所にて、重ね扇の 七重八重、取かこまれて閃きし、剣の雨の篠原国幹。」中村芝翫「事もおろかや大軍の、総大将と成駒屋、どふせ終はとふ丸の、かごしま県を出陣し、肥後川尻の 本営も、やぶれかぶれと日向路へ、引あげ方のともし火や、消る間近き西郷隆盛。」市川左団次「名のるもちつと嗚呼がましいが、うつ大砲の音もろとも、その名は早く高嶋屋、米といふ字の 兵粮奉行、横に東の我侭は、花に嵐が照る月に、むら雲ならぬ村田新八。」市川団十郎「さてどん尻の後陣は、暴徒の長と成田屋が、指揮の手配りかけ逐を、人も三升の三の嶽、 くま取りならで隈府の陣も、うち崩されて一名を、延岡辺の士族を煽動、こゝやかしこへ 集合なす、屯ろにあらで田村啓二。」「黄金水汲取記念碑」。【碑文】 昭和四年五月廿四日己巳歳巳月己巳日巳刻執行 江之嶋岩屋前海中に於て推古天皇以来我國最初行事也 隠遁術三十六法之内浪切法玄武之法則子孫永久末代開運基 神仙金龍一生一代之法術六十一年目黄金の潮汲黄金水汲取記念碑 江の嶋乃こかねの水や皐月晴昭和六年五月建設 東京市赤坂區青山/神理教 明徳教會 隠遁術三十六法極意神仙鈴木金龍【現代語訳】 昭和4年(1929年)5月24日午前10時執行。 江の島岩屋前の海中で、(これは)推古天皇以来、我が国最初の行事である。 隠遁術三十六法の内、浪切法と玄武之法は、すなわち子孫が末代まで永久に運が開ける 基盤となるものである。 神仙・(鈴木)金龍が一世一代の秘術を駆使して、61年目に黄金の海水を汲んだ。ちなみに黄金水というのは、修験者が精進潔斎の後、神通力をもって汲み取った水だと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.10
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この日は10月26日(木)、江の島サムエル・コッキング苑で行われている湘南の秋の夜を美しく彩る人気のイベント『湘南キャンドル2023』を楽しむために江の島に向かう。夕日の光景も楽しみたいので、自宅を16時過ぎに出発し。小田急線で「片瀬江ノ島駅」に向かった。2020年に完成した新駅舎は、先代の神殿調の駅舎デザインを引き継ぐとともに、社寺に用いられる「竜宮造り」の技法を取り入れて、江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ天女と龍の装飾を施している一方、イルカの像をしゃちほこのように設置するなどの品格と遊び心を共存させたデザインとなっている。また、コンコースには新江ノ島水族館の協力を得てクラゲ水槽を設置しているのである。そして夕日を楽しむために「江の島弁天橋」に向かって急ぐ。「境川」に架かる「弁天橋」から国道134号の「片瀬橋」越しに江の島を見る。「弁天橋」の彫刻「雲の形」も夕陽を浴びて。「弁天橋」からの夕陽。そして「江の島弁天橋」を「江の島」に向かって進む。夕日が箱根・下二子山の左に沈みかかっていた。二子山(ふたごやま)は、神奈川県足柄下郡箱根町にある、標高1,099mの火山である。二子山は箱根火山のカルデラ内の南東側に位置し、約5,000年前の噴火で形成された溶岩ドームである。箱根駒ヶ岳、神山、台ヶ岳などとともに中央火口丘を構成する。その名のとおり、双生児のように二つの峰が並んでおり、北側が上二子山1,099m、南側が下二子山1,065mとなる。「江島神社御鎮座記念龍燈籠」が前方両側に。江の島は弁財天と五頭龍の伝説がある。この龍燈籠は「江島縁起」による江の島湧出の時から、数え1450年を記念に平成13年(2001年)に建てられたもの。片瀬漁港の「海釣りゾーン」の「東・西プロムナード」越しに夕日を見る。ズームして。夕陽をズームして。これぞ「真っ赤な太陽」。夕日が箱根の山の端に傾き、その真っ赤な太陽はまるで巨大な火の玉のようで、その鮮やかな赤はまるで天空に燃える炎を灯したかのようであった。太陽の周りには、深いオレンジ色と赤色の光線が広がり、空を美しく染めているのであった。しかし、箱根の山々の右側には富士山の勇姿が見えるのであったが、残念ながらこの日は・・・。「名勝及史蹟江ノ島」碑。オブジェ「潮音」。「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子の作、長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られている。平成元年4月、藤沢のライオンズクラブが結成15年を記念して建てたものである。日時計の位置は、東経139度29分11秒、北緯35度18分秒。日時計にはこう刻まれている。「時は形がなく見えません。しかし、私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。人々は大昔、太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる時に区切りをつけました。それが日時計と時刻です」と。海面に映る朱の帯はまさに幻想的で美しい景色。移動して。太陽が西の地平線に沈みかかると、海面に広がる朱の帯が現れた。海は深い青から徐々に朱の色に変わり、太陽の余韻が海上に続いてたのであった。この朱の帯は、まるで大海が燃えるように美しく輝き、その美しさは心に焼き付くのであった。帯の輝きも刻々と変わって。朱の帯は、海の水面に広がり、太陽の色と海の静寂が絶妙な調和を奏でているかのように。それはまるで大自然が演じる壮大なシンフォニーであり、朱の色は海面に魔法の絨毯を敷いたかのようであった。波は穏やかに押し寄せ、太陽光の輝きが波間にキラキラと踊るのであった。夕日をズームして。海の上に広がる朱の帯は、美と静寂の共鳴を体現し、その光景は自然の贈り物として魅了し続けるのであった。太陽光の輝きが波間にキラキラと踊り、砂浜をも赤く染めるのであった。再び夕日をズームして追う。これぞ「落陽」。そしてこれぞ「落日」。夕日が西の山の端に沈みかかると、その温かな光が海の表面に触れる瞬間、海は魔法のように変身したのだ。海の帯は、まるで宝石のような輝きを放ち、その美しさは言葉では十分に表現できないほど圧倒的!!。雲の端も赤く染まり夕日との共演を。夕日が西の山の端に沈む瞬間、大地は神秘的な魔法に包まれるのであった。夕日は山の尾根にゆっくりと沈み、山々の輪郭を美しいオレンジ色で彩る。そのオレンジ色の光線は山の頂上に触れ、空を燃える炎のように染め上げていた。夕日は山々の間から徐々に消え、一日が静かに終わろうとしているのであった。デジカメ、ズームでその瞬間を追いかけたのであった。そして日没の瞬間。夕日は山の尾根にゆっくりと沈み、山々の輪郭を美しいオレンジ色で彩るのであった。そのオレンジ色の光線は山の頂上に触れ、空を燃える炎のように染め上げた。夕日は山々の間から徐々に消え、昼間の一日が静かに終わろうとしているのであった。時間は2023年10月26日、16:47:36。そして山の端は完全に黒く染まって。上空を飛行機が、海上自衛隊厚木航空基地から離陸したものか?この日の日没後の西の空の絶景。雲の姿はムンクの『叫び』を想い出したのであった。東の空には月の姿が。瞬く間に変わりゆく雲の色彩をしばし楽しむことができたのであった。そして「湘南港灯台(江ノ島白灯台)」も点灯して。1964年(昭和39年)9月26日 にこの灯台を設置。2002年(平成14年)4月1日 : 位置:北緯35度17分56秒 東経139度29分17秒、灯質:等明暗緑光 明2秒暗2秒、光度:700 カンデラ、光達距離:8.5 海里へ変更する。2010年(平成22年)3月15日 : 光度を820 カンデラへ変更する。とウィキペディアより。 ・・・つづく・・・
2023.11.09
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さらに「筑土八幡神社」の散策を続ける。参道右手に境内社の「宮比神社(みやびじんじゃ)」が鎮座。享和2年(1802)造立の「明神鳥居」風が立つ境内社「宮比神社」、技芸・芸能の御利益ある祭神・宮比神(大宮売命・おおみやのめのみこと、天鈿女命・あめのうずめのみこと)を安置。 古くは下宮比町(新宿区北東部、新宿区・千代田区・文京区の区境)の旗本屋敷の邸内社として祀られていたが、明治40年(1907)境内に遷座された と。扁額「宮比神社」。一木から彫り出したものであろうか。扉の隙間から内陣を。左手には神輿を格納する「神輿庫」。「神輿(みこし)について右側の黒い漆塗りの神輿は、延宝六年(西暦一六七八年)に、当時の氏子崇敬者が神徳に報謝して製作したもので、戦前から昭和四八年までの渡御に用いられました。左側の白木の神輿は、鉄製の飾り綱、支え棒のついた重厚で堅牢な造りで、慶応ニ年(西暦一八六六年)に製作されたものです。昭和五ニ年に修理されて、その後の渡御に用いられています。」正面の黒い漆塗りの神輿を格子の隙間から。その横の囲いは純米大吟醸「白鷹」の積み樽が。「白鷹」は灘の蔵元の清酒だが、明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛に見出され、神楽坂の料亭などで広く販売したとのこと。「奉献 清酒「白鷹」菰冠積樽清酒「白鷹」は、全国の蔵元から唯一つ、伊勢神宮の御料酒として選定され、現在に至るまで日々神前に供えられている灘の銘酒であるが、当地牛込・神楽坂とも浅からぬ縁を持つ酒でもある。「白鷹」蔵は江戸末期、「超一流の酒のみを造る」という志で「白鹿」辰馬本家から分家した初代辰馬悦蔵によって興された。しかし超一流主義の造りは結果として高価なものとなり、酒質の評価は得たものの、市場ではなかなか受け入れられるに至らなかった。その中で、江戸・明治と、この白鷹を盛り立てたのが、神楽坂の料亭街と牛込揚場・神楽河岸に蔵を構えた酒問屋であった。神楽坂などの安定的な顧客を得た白鷹はその後着実に超一流の酒造りに取り組み、大正13(1924 )年には伊勢神宮の御料酒として選定されるに至ったのである。こうした経緯から、現在でも神楽坂では白鷹が愛されており、路地裏には白鷹の看板も散見される。また、江戸城外濠を隔てた飯田橋・東京大神宮でも、年間数万本の御神酒「白鷹」が参拝客にお頒(わ)けされている。そして、白鷹の関東一手捌元として名を馳せた酒問屋も牛込揚場・神楽河岸から津久戸町、そして筑土八幡町・御殿坂に移転し営みを続けている。斯くなる御縁に感謝し、この地の産土神たる筑土八幡神社に「白鷹」積樽を奉納する。」「社務所」。そして「筑土八幡神社」の「神殿」。狛犬(阿形・右)。狛犬(吽形・左)。神殿の向唐破風(むこうからはふ)、蟇股(かえるまた)を見上げて。神殿の正面。御祭神 應神天皇(おうじんてんのう) 神功皇后(じんぐうこうごう) 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)。過去には、参拝の際に鳴らす大きな鈴があったようだが・・・。コロナ禍の名残それとも音の問題??扁額「築土八幡神社」はピンボケ。社殿内陣。ズームして。「本殿」を廻り込んで。「本殿」の裏にも各自治会の神輿庫?が並んでいた。引き返して参道を戻ると前方に見えたのが「JCHO 東京新宿メディカルセンター」。全国の社会保険病院、厚生年金病院、船員保険病院の3団体は、平成26年4月1日より「独立行政法人 地域医療機能推進機構・Japan Community Healthcare Organization(JCHO:ジェイコー)」が直接運営する公設・公営の病院へと移行することとなった。このことに伴い、昭和27年創設当時より長年親しまれてきました「東京厚生年金病院」は、「独立行政法人地域医療機能推進機構 東京新宿メディカルセンター」と名称変更して、新たにスタートしたとのこと。なお「JCHO 東京新宿メディカルセンター」を通称として用いているとのこと。石段を下る。石鳥居を潜り振り返って。「築土八幡町」交差点を渡り「三年坂」に入る。神楽坂善国寺から少し下ったところから筑土八幡神社に下るのがこの「三年坂」である。通常「三年坂」は寺や墓地があるものだが、ここの坂にはない。 この坂で転ぶと3年以内に死ぬという伝説から名付けられているとのこと。この坂の別名は「本多横丁」。 通りに坂名の標柱はないが、「本多横丁」の説明板がこの先にあった。右手に寿司屋「江戸前 福寿」。「ヤマト運輸 神楽坂営業所」の角に標柱があった。「本多横丁」。石畳の路地を歩く。「三年坂」はこの坂。そしてこの日の最後の目的地の「寒泉精舎跡」に向かって「大久保通り」まで戻る。右手の壁に案内板があった。「東京都指定旧跡寒泉精舎跡(かんせんしょうしゃのあと)所在地 新宿区揚場町二・下宮比町三指定 大正八年十月岡田寒泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名は恕(はかる)、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文五年(一七四〇)十一月四日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政元年(一七八九)松平定信 に抜擢されて幕府儒官となり昌平黌(後の昌平坂学問所)で経書を講じた。柴野栗山(彦輔)・尾藤ニ洲(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸の代官に転じた後は古賀精里が登用された)。寛政六年(一七九四)から文化五年(一八〇八)までの十四年間は、代官職として現在の茨城県内の七郡八十二村五万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。寛政二年(一七九〇)八月十九日この地に幕府から三二八坪余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵を開き給えりしに、門人賓客にみちみちて、塾中いること能わざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮士信が『寒泉先生行状』に記している。文化十二年(一八一五)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化十三年(一八一六)八月九日七十七歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学指要』『三礼図考』『寒泉精舎遺稿』などがある。 平成十三年三月三十一日 設置 東京都教育委員会」。全ての予定の散策を終え、JR飯田橋駅に向かって進む。「飯田橋」交差点の標識。水道橋から新宿方面の外堀通りと九段下から江戸川橋方面の目白通りが交差し、さらに大久保通りの起点になっている「飯田橋」交差点。「飯田橋」交差点には巨大な歩道橋が。「飯田橋」交差点の四角形の歩道橋は、JR飯田橋駅の東口前にある。目白通り、外堀通り、大久保通りが交わる都内有数の大型交差点を渡る歩道橋で、見た目もインパクトが大!!。南北に目白通り(都道8号)、東西に外堀通り(都道405号)、そして北西から大久保通り(都道25号)が交わる5差路だが、目白通りに沿って交差点東側を流れる神田川を挟んでもう1本、南行き一方通行の都道が外堀通りに交わっていた。飯田橋交差点からすぐ東側に、もうひとつ交差点が近接している形だが、信号は両方の交差点で連動しており、変形的な7差路と見ることもできるのだ。Googleマップより。交差点にあった案内地図。現在地はここ。そして「飯田橋」交差点を渡り、JR飯田橋駅(東口)へ。先日は、ここ「JR飯田橋駅(東口)」をスタートして「目白通り」の東側を散策し「飯田橋ウォーキングガイド・東京の歴史と文化を巡る」👈リンクと題してブログアップしたのであった。この日の帰路も新宿駅まで戻り小田急線で帰宅の途へ。JR飯田橋駅のホーム前、線路沿いの看板には東京国立博物館で開かれている「大和絵」👈リンクの展覧会のポスターが。これも興味深いのであった。神楽坂の坂道、そして周囲に広がる町・街を散策した。その美しい町並みと魅力的な雰囲気に心を奪われたのであった。石畳の坂道が風情を漂わせ、歴史的な建物や伝統的な日本の家屋、料亭、飲み屋が街を彩っていた。神楽坂の飲食店やカフェも見逃せないのであった。美味しい和食や洋食、スイーツなど、さまざまな料理を楽しむことができるようであった。また、古民家を改装したおしゃれなカフェで、ゆったりとしたひとときを過ごすことができそうであった。街の中には大小の神社や寺院も点在しており、歴史と宗教の要素が共存していた。神楽坂の独自の文化と雰囲気は、訪れる人々に深い感銘を与えること間違いなし。坂道の上からは、都心の景色を一望できる絶好のスポットもあり、日中はもちろん、夜にライトアップされた神楽坂の景色も素晴らしいものであろうと感じたのであった。神楽坂👈リンクの魅力は、日本の伝統と現代の融合から生まれる、独自の魅力に満ちていたのだ。是非また訪れ、この地で酒を飲みたいと思う魅力ある場所であった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.11.08
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「赤城神社」の境内社の「赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社」の朱の鳥居の前の石段を下ると、下り坂のカーブの場所にあったのが標柱「赤城坂赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所図絵』によれば、『・・・俊悪にして車通ずべからず・・・』とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。」「赤城神社」のすぐ西側に、北と西に向かって下る2つの坂道があるが,北に向う急な坂とそれにつながる南に上る坂が「赤城坂」。西に向かって下る坂道の名は?この奥にあったのが「貴乃花道場」。Googleマップから。再び「赤城坂」。再び「赤城神社」の境内に戻り、「赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社」の横を歩き「赤城神社」の本殿の裏に廻るとあったのが「井戸・赤城幼稚園祉碑」。新宿区赤城元町4。「赤城幼稚園祉碑」と。さらに路地を東に向かって進む。築地塀に沿って進む。そして新宿区赤城元町の住宅街に出る。左手にあったのが「相生坂」。「相生坂『続江戸砂子』によると「相生坂,小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また『新撰江戸誌』では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。一方、『御府内備考』『東京府志料』では仮名の由来は、神田上水の対岸の小日向新坂(現文京区)と南北に相対するためであると記されている。」次に坂も「相生坂」。「相生坂上記と同じ内容が記載されていた。」更に進むとT字路の正面に標柱が現れた。「御殿坂(ごてんざか)」。「江戸時代、筑土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ、寛永の頃(1624~1644)三代将軍家光が鷹狩りの際に仮御殿を設けたという。坂名は御殿山に因む。」「御殿坂」を下り振り返る。「大久保通り」に出て左折して進む。「築土八幡前」交差点の手前を左折する。正面に見えて来たのが「築土八幡神社」。右側にあったのが、「田村虎蔵先生顕彰碑 入口」碑。石段を上って行った。7段ほど上ったところに一の鳥居。石柱(注連柱(しめばしら))に横木を渡しただけの簡素なもの。「納」の彫り込みがあり、右の柱は「奉」であろう。石段の途中、右手に案内板が。「築土八幡神社由来嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋郡(こおり)牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、 目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀った。その後、伝教大師(でんきょうだいし)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文政年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地を産土(うぶすな)神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。現在、境内地は約2200平方メートルあり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の人々が浄財を集めて、 熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽可視・ 神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。御祭神 応神天皇 神功皇后 仲哀天皇大祭 九月十五日宮比神社由来御祭神は宮比神(みやびのかみ)て大宮売命(おおみやのめのみこと)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)ともいわれる。古くから下官比町一番地の旗本屋敷にあったものて、明治四十年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災て失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。」「築土八幡宮同明神社」江戸名所図会より をネットから。石段途中の二の鳥居・「石造鳥居」が前方に。扁額は台座のみ。左手にあったのが「田村虎蔵先生をたたえる碑」。この碑には、「金太郎」👈リンクの音譜付きの歌詞と、「田村先生(1873-1943)は鳥取県に生まれ東京音楽学校卒業後高師付属に奉職言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました。」の説明文が刻まれていた。♫まさかりかついで きんたろうくまにまたがり おうまのけいこハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウあしがらやまの やまおくでけだものあつめて すもうのけいこハッケヨイヨイ ノコッタハッケヨイヨイ ノコッタ♫「神楽のさくら」と。平成22年(2010)に東京神楽坂ライオンズクラブが植樹したもの と。右側に「手水舎」。「区指定有形民俗文化財 庚申塔」。寛文四年(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186センチ、黒褐色安山岩。最上部に日月、中央部に雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がって実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。牡猿の左手首及び牝猿の顔面の破損は昭和20年の戦災によるといわれている。二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、貴重である と。「百度石」明治十五年(1882)に置かれたもので、信仰篤い人々が百度参りした時に使用したもの と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.07
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「早稲田通り」を飯田橋駅方向に進み左手に折れると「赤城神社」案内柱・標柱があった。正面に「赤城神社」の「一の鳥居」が見えた。朱の鳥居。朱の「一の鳥居」を潜る。扁額「赤城神社」。「赤城大明神」と。「赤城神社 お祀りしている神様「磐筒雄命(いわつつおのみこと)」合殿「赤城姫命(あかぎひめのみこと」.後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十余年を経て寛正元年大田道灌持資が牛込毫へ遷座。其後大胡宮内小輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。」「螢雪天神 本宮ご祭神 菅原道真公かって横寺町に鎖座し朝日天満宮と称され、江戸二十五社の一つに列しておりました。その後信徒なき為、明治九年三月當境内にご遷座。先の戦災により焼失したものを、平成十七年十月現在横寺町にある旺文社の御寄進により「螢雪天神」として復興した。「螢雪」とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。「学問の神様」として全国の受験生の皆さんを応援しています。」「赤城出世稲荷神社ご祭神 宇迦御霊命(うかのみたまのみこと)/保食命(うけもちのみこと)赤城神社が当地にお遷りする以前(弘治元年1555年)から牛込の鎖守とされ、奉祀してきた産土神です。出世開運、五穀豊穣、商工業繁栄のご神徳があり、サラーマンの出世祈願、神楽坂商店街の商売繁盛で人気があります。」「八耳神社ご祭神 上宮之厩戸豊聰八耳命(別称・・聖徳太子)一般に八耳大神として親しまれている。聡明な知恵を授かるご利益があり、なにか悩み事がある時は「八耳様・八耳様・八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。」「葵神社ご祭神 徳川初代将軍徳川家康公牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎖座していましたが、明治元年神仏混合を廃止された際に常境内へ遷座。かっての祠は明治十八年に御造営したが戦火にて焼失。平成二十二年秋に再建された。」「手水舎」はシンプル。更に表参道を進むと、道が二手に分かれます。まずは真っ直ぐ進んで本殿・拝殿方面へ。。背の高い石燈籠(右)。背の高い石燈籠(左)。「御神木」は楠であっただろうか。モグラのマスコット「モグハル」くんが宮司、巫女さんに変身して。神楽坂にオフィスを構えるクリエーティブ会社「モルスハルス」(新宿区神楽坂6)が制作したモグラのマスコット「モグハル」くん。「モルスハルス」の小原州開(くにはる)社長は「モグラは土に生息していることから、その土地に根付く縁の下の力持ちという意味を持たせた。土地にしっかりと根付き続けてほしいという願いに加え、由緒ある赤城神社で祈とうしてもらうことで、招き猫やだるまのように、このかいわいの商売繁盛の象徴となってほしい。新型コロナウイルスの影響で経済が不安定な今だからこそ、モグハルを通して神楽坂を応援したい。取材先の企業や店に温かく迎えていただき、少しでも明るくなってくれれば」と期待を込める とネットから。本殿・拝殿の手前左には境内社「蛍雪天神」。扁額「螢雪天神」。「螢雪天神 本宮繰り返しになるが、ご祭神 菅原道真公古来より天神様として広く民衆に崇め奉られております。ご祭神は『学問の神様』菅原道真公を祀ります。この神社はかつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称されておりました。江戸二十五社の一つに列しておりましたが、その後信徒なき為、明治9年(1876)3月當境内にご遷座。その後、戦災により焼失したものを、平成17年(2005)10月現在横寺町にある旺文社の御寄進により『螢雪天神』として復興しました。社名額には社長赤尾文夫奉納の銘がある。『螢雪』とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。全国の受験生の皆さん、螢雪天神はそんな皆さんを応援しています。」赤城神社の「拝殿」。国立競技場の設計を手掛けた隈研吾氏が監修したおしゃれな拝殿・本堂等。伝承によれば、正安2年(1300年)、後伏見天皇の御代に、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460年)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555年)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。天和3年(1683年)、徳川幕府は江戸大社の列に加え牛込の総鎮守と崇め、「日枝神社」「神田明神」と共に、「江戸の三社」と称されました。この三社による祭礼の際における山車、練物等は江戸城の竹橋から内堀に入り半蔵門に出ることを許されていました。その後、明治6年に郷社に列することになります。しかし、街の発展に伴い電柱や電燈などの障害物ができたので、盛観を極めた山車行列は明治32年の大祭が最後となりました とネットから。赤城神社の狛犬(右)。狛犬(左)。まるでスフィンクスを思わせる狛犬。「赤城神社の狛犬江戸時代、加賀白山犬とよばれて流行りましたが残っている物はわずかです。型や表情はシンプルでスフィンクスに似ていますが胸を張り力がみなぎっています。高天原からかみさまのお供をして来たような表情で澄まして座っていますが前肢は力強く全体に緊張感がみなぎっています。」赤城神社のガラス張りの「拝殿」に近づいて。御祭神「磐筒雄命」 ( いわつつおのみこと ) 「磐筒雄命」は伊邪那岐命が火の神、迦具土神を御刀で倒されたときにお生まれになった 神様で、智、仁、勇のすぐれたお力をお持ちになり、殖産興業、厄難消除、学問芸術の神又 特に火防の神として高い御神徳を発揚せられます。「赤城姫命」(あかぎひめのみこと) 一説に「赤城姫命」(あかぎひめのみこと)は大胡氏の息女ともいわれていて、旧別当は 天台宗東叡山寛永寺末、赤輝山円明院当覚寺(江戸名所図会には東覚寺と記載)で同寺の 本地仏は乗馬姿の地蔵尊でありました。 かつての神仏混淆の頃、赤城大明神の御神影であると称して当覚寺から氏子中へ頒布した ことがあるので、今なお折々氏子中の旧家に散見されるため、 当社の祭神である「磐筒雄命」(いわつつおのみこと)とはかかわりはないが、合殿と されています。「赤城神社」。「赤城神社」の様々な種類の絵馬が。「赤城神社」の御神紋 「左三つ巴」。こちらは「狛犬」。こちらも。「螢雪天神」の絵馬。「社務所」。様々な御札、御守りが。近づいて。境内を引き返して、「拝殿」左の奥にあった境内社への参道を進む。前方、上に見えたのがさきほど訪ねた境内社「蛍雪天神」の横からの姿。よって「蛍雪天神」の下も参道になっていたのであった。「赤城山と大百足」。「赤城山」に巻きつくが如くに。手前に「赤城山」その奥に「大百足」。「お百度まいり赤城山と大百足 作 島 久幸昔、赤城山の神様は「ムカデ」👈リンクとなり中褝寺湖の領有をめぐり、ニ荒山の「マムシ」となった神様と戦いをされました。これが奥日光の「戦場ヶ原」の由来となりました。この百足を撫でご祭神のお力を頂き、ご本社や末社をお詣りください今回、氏子会長の飯島光幸氏がコロナウィルス感染症鎮静を願って寄進されたものです。 令和ニ年五月吉日」「大百足」をズームして。左手には石仏・石碑が。「観音菩薩立像」。病気平癒、厄除け、開運などのご利益があると。ふっくらしたやわらかい雰囲気の観音様。やさしいお顔に癒されたのであった。「観音菩薩立像赤城神社の北に位置した宝蔵院 (今の西五軒町にあたり、現在は 廃寺となっている)より移された。 舟形光背には「慶長18年丑年5月16日(1613年)」と刻まれています。ふっくらとした顔立ちで全体におおらかな雰囲気のある菩薩像である。俳人巻阿の碑巻阿は江戸期の俳人であり、幕府の家士でもあった人物。「梅か香や水は東より行くちがひ」「遠眼鏡には家もありかんこ鳥」「名月や何くらからぬ一とつ家」「あるうちはあるにませて落葉哉」の四句が刻まれている。」江戸時代中期の俳人加藤巻阿の句碑であり、4句が刻まれているのだと。「神楽の白梅」。「神楽の白梅」碑。そしてその先にあった「赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社」鳥居に近づいて。手前にあったのが「手洗石」。「昭和五十年四月神楽坂商栄会通り歩道拡幅工事完成を記念し、合わせて赤城神社の隆盛と商栄会通りが門前町として、より発展する事を祈念して鉄製朱塗り灯篭六十基を、当社境内より参道を経て商栄会通り迄建立されました。幸に地元諸氏の熱意により、予定の奉納金額も集り更に橘田篤氏の奔走に依り、ここに記念水盤を奉納し、協賛者全員の芳名を不朽に記します。昭和五十六年九月吉日。 神楽坂商栄会灯篭及手洗石建立発起人篠原文吉 橋爪省三 橘田篤小松咲夫 橘雅茂 山本善夫」「赤城出世稲荷神社ご祭神 宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)/保食命(うけもちのみこと)創記は詳らかではありませんが、赤城神社が当地にお遷るする以前(弘治元年1555年)から地主の神と尊ばれ鎮座。出世開運のご利益があるとして大名・公家の崇敬を受けておりました。また穀物・食物を司る神様として、五穀豊穣、衣食住、商工業繁栄のご神徳を備えておいでです。現在は神楽坂商店街などの商売繁盛と近隣サラリーマンの崇敬を集めております。戦前まで5月5日の例祭日にはお神楽が奉納されていました。八耳神社ご祭神 上宮之厩戸豊聰八耳命(うえのみやのうまやどのとよとやつみみのみこと) (別称・・聖徳太子)戦火で焼失した昔の「太子堂」です。この八耳様(やつみみさま)は「あらゆる事を聞き分ける天の耳」を持つ聖徳太子であり、聡明な知恵を授かることができます。なにか悩み事のある時は「八耳様・八耳様・八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。合殿に大国主大神、丹生大神、を祀ります。葵神社ご祭神 徳川初代将軍徳川家康公牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年、神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。徳川家初代将軍として江戸時代の政治、文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。かつては江戸市民の家康公への振興の対象でしたが、現在は神楽坂の「東照宮」として親しまれ、学問と産業の祈願成就を願って、参拝する方に心の安らぎを与えてくれます。」狛狐(右)。狛狐(左)。3社の拝殿。中央に「赤城出世稲荷神社」、右に「八耳神社」、左に「葵神社」。それぞれ3社の扁額。左の「葵神社」の扁額は「東照宮」と。中央に「赤城出世稲荷神社」の賽銭箱。右に「八耳神社」の賽銭箱。左に「葵神社・東照宮」の賽銭箱。「賽銭箱」は各社個別に!!。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.06
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「神楽坂通り」を北西方向に進みすぐ先を左折。右手にあったのが「正蔵院」。新宿区神楽坂6丁目54。「天台宗 正蔵院」。「草刈薬師如来 閻魔大王尊 安置」と。入口左にあった石碑は?民家の如き「正蔵院」。正蔵院は賑やかな繁華街神楽坂通り商店街の北側のはずれから、一歩脇に入ったところにあった。以前は通寺町と言い、隣の横寺町に続いて当寺の西側の通りには各宗の寺が並んでいたと。当寺は長禄年間(1458年頃)僧圓觀の創立。もと豊島郡千代田村にあった後、田安門に移り慶長5年(1600)取払いとなり、元和2年(1616)僧圓海が今の地に再興。明治44年7月には同町にあった養善院を合併した。江戸名所図会によると、当寺は東叡山に属し、開山圓觀律師。長禄年間(1458年頃)太田左金吾道灌が当寺を創建。前は梅林坂(御城内)にあり、後年田安の地に移され元和2年今の地に替えさせられたと。戦災で堂宇全焼失、その後小宇を再建、現在に至っている。本尊は薬師浄瑠璃如来、1寸8分の小さな御本尊。通称「草刈薬師」と言い、その由来は略縁起にると、太田左金吾道灌が今の宮城の基である江戸城を築こうとして、千代田の野辺に茂る草を刈らせている時、一人の僧が現れ一体の薬師如来を道灌に授け、「この尊像は後醍醐天皇に味方し奥州白河に流された北条高時が日夜護念していた伝教大師真作の薬師如来である。このご利益は国家の安泰のみならず庶民の現世災厄を除き未来得脱の果報が得られる有難き尊像である。今国家の乱れを鎮めようとして城を築こうとしているあなたに授けよう」と言ったと。そして尊像を授けられた道灌が城内の平川梅林坂に正蔵院を建て、圓觀上人を別当に補したと。又、脇本尊は合併した養善院の本尊であった閻魔大王尊。以前のお閻魔さまは坐像7尺、鎌倉期の大仏師運慶の作と伝えられていましたが、戦災で焼失。その後府中の在家の方が持仏としてお守りしていたお閻魔さまとお不動さまを寄進していただき安置。昨今のお寺巡りブームにより都内のお閻魔さま巡りも盛んになっているが、「草刈薬師」が何時の間にか「草刈閻魔」となって一部で知られるようになっていると ネットから。路沿いの境内にあった「稲荷祠」。祠内にはお狐様が2体。しかし、境内にはそれ以外の石碑や石仏等はなかった。更に進むと左手にあったのが「龍門禅寺」の表示。「曹洞宗桃嶽山 龍門禅寺」と。新宿区横寺町33。山門前から本堂を見る。右側に幟「南無身がわり地蔵尊」が並んでいた。「新宿区 横寺町 三三 竜門寺」と。「身がわり地蔵尊」。山門近くに祀られていて、千羽鶴が奉納されていた。祈りのときに唱える言葉は「オン・カー・カー・カ ビサンマーエイ・ソワカ」と。地蔵菩薩さまの真言(マントラ・お地蔵さんをたたえる短いお経)で7回繰り返すのだと。オン=お願いします。カーカーカ=お地蔵さまの笑い声ビサンマーエイ=ほめたたえることソワカ=そのようになる、成就すること。 という意味があるのだと。つまり、「地蔵菩薩様、地蔵菩薩様、地蔵菩薩様、あなたにすべてを投げ出して従い、讃え、願いを成就させます」という意味である と。ここにも奉納された幟が。ここにも小さな稲荷神社が。そして「本堂」。曹洞宗寺院の龍門寺は、桃嶽山菩提園と号す。龍門寺の創建年代等は不詳ながら、後に吉祥寺9世となった寰国龍鶯和尚(正保2年1645年寂)が創建、元和2年(1616)牛込門内田安から当地に移転したと。扁額「龍門禅寺」と。「竜門水子地蔵尊」。この場所にも何かあったのだろうか?そして「龍門寺」を後にして、さらに南西に進むと前方に標柱が。標柱「朝日坂」。『御府内備考』にはかつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた(『東京府史料』)。正蔵院横から円福寺付近まで140mの緩やか(高低差6m,平均斜度2.5度)な登り坂。「朝日坂」の途中、右側の突き当りの路地に案内板が。「芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地」。「新宿区指定史跡芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地所在地 新宿区横寺町九・十・十一番地指定年月日 平成三年十二月六日この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。明治39年(1906)には、坪内逍遙の文芸協会に参加し、西欧演劇移植に努めたが、大正2年(1913)内紛から同協会を脱会し、芸術座を結成した。その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。 平成28年3月25日 新宿区教育委員会」島村抱月と松井須磨子。「芸術倶楽部(芸術座の専用封筒より)」。「朝日坂」を引き返し、新宿区横寺町32 TR神楽坂ビルの前の狭い路地へと左折して進む。左手にあったのが「鈴木家住宅主屋」。神楽坂地区の小路に北面する。木造平屋建、建築面積116㎡。切妻造妻入桟瓦葺で、正面に深い下屋を設ける。中廊下式で東から南にかけて居間や食堂、居室を配する。格子戸をたてるなど和風を基調としながら、煉瓦貼玄関や名栗仕上げの軸部などを散りばめる。そして「一水寮(いっすいりょう)」。一水寮は、1951年(昭和26年)、高橋博が開設した高橋建築事務所によって、現在地に大工寮として建られたものである。高橋は、山口県出身の建築家で、イギリスのロンドンで建築を学び、帰国後の昭和初期、神楽坂地区に高橋建築事務所を開設していた。一水寮は、数年後、隣家からのもらい火で、屋根、小屋裏を焼いたが、住込みの大工の手により復旧した。その後、数度にわたる改修工事が行われた後、大工寮から一般の貸出アパートへと使用目的が変更された。1990年(平成2年)、アパート経営をやめ、高橋博の娘婿である鈴木喜一の住宅兼建築設計事務所となり、1995年(平成7年)には、建築設計事務所のスタッフ、学生、芸術家、編集者などの住居となる。2016年(平成28年)には、耐震補強を含めた改修工事が行われ、現在は店舗・事務所として使用されている。なお、同じく高橋博の設計により1947年(昭和22年)に建築された鈴木家住宅主屋、及び、1954年(昭和29年)に建築された高橋建築事務所社屋も、登録有形文化財に登録されている。そして「日本調剤 神楽坂薬局」横の路地から「神楽坂通り・早稲田通り」に出る。「神楽坂通り」。神楽坂のAYUMI GALLERY前庭に「エルサレムの形のない図書館」と書かれたプレートが展示されていた。「エルサレムの形のない図書館」と書かれたプレートに近づいて。「工ルサレム形のない図書館Si hortum in bibliotheca habes, nihil deerit.「もしあなたに庭と図書館があるなら、あなたは人生に必要なものを全て持っている」~キケロこの庭は、建第家であり旅人でもあった故鈴木喜ー氏かデサインしました。世界中を巡り歩き、場の瞬間を捉え共有することを追求した彼は、1 9 8 1年の復活祭の頃、エルサレムを訪れました。円屋根の連なる街の風景は、祝祭の雰囲気とあいまって彼に強い印象を与えました。数千年の歴史を持ち、世界で最も古い都市の一つであるエルサレムは、活気に満ち、想像カをかきたてると同時に、複雑な街でもあります。時間は独特な流れ方をしており、過去が未来に反響しています。街の石の一つ一つ、まにそれぞれの地層には、多くの物語や記憶が刻まれておりそれらはここで日々起こる特別な出会いの数々や色とりどりの情景に溶け込んでいます。このインスタレーションを図書館だと想像してみてください一それは場所の本質を捉えるえ試みです。知識を得るだけでなく、遠い地のさまざまな文化を体験する場所です。この類まれな街の、万華鏡のように変化する瞬間を垣間見る機会です。ここでは、時間と空間に固有の状況、瞬間、言語、伝統、音が、ギャラリーの庭の周囲や木の下に広がっています。QRコードをスキャンすると、都市の一部とその土地の空気(植物の匂いや、場所特有の音、語られる物語、儀式など)を体験することができます、エルサレムの地図が庭の大きさに縮図されており、それぞれのQRコードから実際の場所と瞬間にリンクされます。街の東側の瞬間は庭の東側にあり、西側の瞬間は庭の西側で見出すことができます。アユミギャラリーの庭は豊かな文化を内包する生きた円屋根に姿を変えています。ここでは、エルサレムに見られる典型的な円屋根(旧市街だけでも2048ヵ所もある)は、新たに解釈されています。頑強な円屋根ではなく、その特微的なシルエットを形作るポールで建てられた、架空の円屋根になっています。それぞれのポールは、街に刻まれた豊かな瞬間、色、状況、そして物語を表現しています。どうぞこ自由に歩き回り、木の下に座り、街の音で瞑想し、エルサレムの瞬間を集めてみてください。めぐりくる季節によって、様々なイベントが庭のインスタレーションのまわりで間催されます。ぜひご期待くだきい。2019年10月24日-2020年9月30日」文章を数回読み返したが、私には難解な内容なのであった。さらに「神楽坂通り・早稲田通り」を飯田橋駅方面に進む。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.05
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次に訪ねたのが、「繁榮稲荷神社」の先にあった「法正寺」。新宿区岩戸町8。正面に本堂。榮松山念想院法正寺と号す。開山 雲蓮社昌譽上人助見和尚。寛永6年(1629年)7月23日示寂。創建年代は不詳ながらかつては清水門の外にあり、その後 田安屋形の近くに引っ越し、市谷本村(現防衛省)への移転を経て、元和元年(1615年)今の地に移転したといいいます。ここ本堂には本尊阿弥陀仏(立像)とその脇侍である観世音菩薩と大勢至菩薩の阿弥陀三尊を安置しています。寺号標石「浄土宗榮松山法正寺」。本堂に近づいて。本尊:阿弥陀如来。扁額「法正寺」。本堂の左側には墓地が。「まなざしの塔」有縁・無縁合同供養墓であるとネットから。墓地の入口左にあった「災害時協力井戸」。「法正寺遺跡」は、現在も岩戸町に所在する浄土宗法正寺の南側、江戸時代には同寺の境内であった範囲にあたる。1次調査では、甕棺を含む131基の埋葬施設と地下室、採土坑等が確認された。埋葬施設の多くは、法正寺がこの土地を手放す際に改葬されていたが、84号墓からは金蒔絵の漆箱が出土した。棺内に蓋石が落下していたため一部欠損するが、発見時には一面に描かれた鉄線唐草文が金色に輝いていた。中には鉄漿や白粉の道具、懐中鏡や琴爪、煙管そして一分判金が1枚納められていた とネットから。84号墓から発掘された金蒔絵の漆箱他様々な出土品の写真をネットから。そして「早稲田通り / 神楽坂通り」に出て、「寺内横丁」を目指す。ここが「寺内横丁」の入口。右側に「第一勧業信用組合 神楽坂支店」。「寺内横丁」を振り返る。左手に焼き鳥屋「酉玉 神楽坂」👈リンク。その先にあったのが「新宿区立寺内公園」。新宿区神楽坂5丁目7。「寺内公園の由来この寺内公園の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、 兵庫町の肴屋が肴を献上したことから肴町と呼ばれるようになりました。江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして 貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行元寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目になっています。)行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王・柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの「寺内公園」に託し、末永く皆様の思い出の場、憩いの場として大切に護り育てましよう。 平成十五年三月吉日 新宿区」公園内の緑地には雑草が!?!?・??。そして「大久保通り」に出る。「牛込消防署」まで160mと。そして「大久保通り」の「神楽坂上」交差点を渡り、「牛込警察署 神楽坂上交番」方向に進むと手前にあったのが「安養寺」。「江戸三十三観音十六番札所厄除・疫病 大仏薬師如来開運・繁昌 大聖歓喜天」 と。「神楽坂上」交差点にある天台宗のお寺で、本尊薬師如来と大聖歓喜天王を安置する。「大聖歡喜天王 安養寺」と。「本尊薬師如来 天台宗」と。「聖天堂」。浄土宗寺院の安養寺は、清光山林泉院と号す。安養寺は、心蓮社深譽上人安阿貞公和尚が開山となり天正2年(1574)に創建、明暦2年(1656)市ヶ谷富士見から当地へ移転したと。通称:神楽坂聖天・江戸観音16番。「洗心寶生水」。銭洗いの水場。「洗心寶生水」と。安養寺の宝生弁財天は、銭洗い弁天。お堂の右手前にある「洗心宝生水」でお金を洗います。境内の「寶生觀世音像」。「子育地蔵尊」と「出世地蔵尊」。近づいて。境内には「洗心宝生水」、「宝生弁財天」、「宝生観世音」、「出世地蔵尊」、「子育地蔵尊」が安置されていたのであった。「洗心宝生水水は生命の源であり潤おいの徳は私共に施しの心を教えています。水天さまご真言 オンバロダヤソワカ」。「宝生弁財天(銭洗い)金融圓満芸能上達ご真言 オンソラソバテイエイソワカ」「宝生観世音私共のいろいろのお願いをおきヽ下さいますご真言 オンマカキャロニキャソワカ」「出世地蔵尊平成二年地中より出現された江戸期のお願いをもとにおまつりしました。出世開運の徳をお与え下さいます」「子育て地蔵尊除病延命学業増進等お子たちをお守り下さいますご真言 オンカーカーカービサマエイソワカ」「聖天堂」に近づいて。伝教大師最澄上人の高弟、天正十九年( 1591年)に徳川家康が江戸城築城の際、慈覚大師円仁(えんにん)和尚が開基といわれています。城内平河口より田安へ換地し天和三年( 1683年)に現在の神楽坂の地に移されました と。扁額「歡喜天」。この御堂に歡喜天=聖天がお祀りされているのだ。歡喜天(かんぎてん)とは、仏教の守護神である天部の一つで、頭は象、身体は人間の姿をした神様。インド神話の魔王が仏教にとり入れられたもので、ヒンドゥー教のガネーシャ(Gaṇeśa)がルーツとされている。歡喜天は、仏法(ぶっぽう)を擁護し、衆生に利益を施して諸事の願いを成就させる善神として信仰されている。特に、密教において歡喜天信仰がさかんに重視されるようになり、造像もさかんとなった。歡喜天は、ヒマラヤ山脈のカイラス山(鶏羅山)で9千8百の諸眷属を率いて三千世界と仏法僧の三宝を守護するとされている とネットから。「聖天と身をあらわして福聚海 無量の誓いたのもしきかな(當山ご詠歌)十一面観音さまが聖天さまとなられて私共の願いをおきヽ入れの上、お救い下さることを詠ってあります。」「お願いやお悩みのある方はお気がねなく寺務所へお申出下さい。住職が心をこめてお祈りします。」本堂内陣。ズームして。最奥には聖天厨子がある。あの中に大黒様?が入っていた。「第十六番札所本尊 十一面観世音大聖歓喜天(聖天さま)三寳荒神愛染明王毘沙門天・大黒天」と。「大仏薬師如来ご奉安當寺本尊薬師如来は徳川家由来の霊仏で、太平洋戦争の空襲にあわれながらも、そのご生命である御顔薬壷・手首は無傷のまま殘られました。これをもとに復原申しあげ人々の難病をはじめ心身の病いを癒し、やすらぎの生活にと、お導き下さっています。ご真言 おん ころころ せんだりまとうぎそわかご祈祷のお申込は寺務所へおいで下さい。」内陣の扁額は山号「醫光山」。「醫光山」の山号は、本尊薬師如来に由来するとのこと。「本尊薬師瑠璃光如来 丈六尺像 総金箔 金銅仏」ズームして。低い位置から。「本尊薬師瑠璃光如来 丈六㘴像 総金箔 金銅仏三百有余年の歴史を有す霊仏で病気平癒・厄難消除の霊験あり毎月八日午後二時薬師供祈祷御祈祷のお申込みは寺務所へどうぞ。ご真言 おん・ころころ・せんだりまとうぎ・そわかとお唱え下さい。 醫光山 安養寺」そして「安養寺」を後にして、「牛込警察署 神楽坂上交番」手前の路地を入って行った。左手にあったこの階段が「駒坂」と。これもいわば「袖摺坂」といっていいサイズ感。道幅2mほどのタイル貼りの階段にクラシックな手すり。一応これでも新宿区の「区道」なのである と。石段の先の「駒坂」。ここまでとし、石段を下って引き返す。さらに北に進むとY字路に出会う。左手に進む坂が「瓢箪坂(ひょうたんざか)」。白銀公園の南端から南東に向かう狭い40mの、こちらからは登坂の道。「瓢箪坂坂の途中がくびれているため、その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。」前方の緑が「新宿区立白銀公園」。左折して早稲田通り方向に進むと「神楽坂マップ」があった。「早稲田通り・神楽坂通り」に合流し左折すると左手にあったのが「コボちゃん像」。4コマ漫画「コボちゃん」のブロンズ像。「コボちゃん」は、漫画家・植田まさしさんが描く、刈り上げ頭がトレードマークの少年・コボちゃんを主人公とする4コマ漫画。1982年(昭和57年)から30年以上にわたり連載され、1万4000回近くを数えるほか、1990年代にはアニメ化されるなど、長く幅広く愛されている。作者の植田さんは、神楽坂地域に35年以上居住しており、「コボちゃん」も連載初回の原稿が神楽坂で書き上げられた「神楽坂生まれ」。これらの縁から、東京メトロ・神楽坂駅出口に設置された商店街の案内板にコボちゃん一家が登場するなど、これまでも「地元」商店街のキャラクターとして活躍してきた。設置されている「コボちゃん像」は、台座約20センチ、像本体が約80センチのブロンズ像1基。神楽坂商店街振興組合が東京都や区の補助を受け、彫刻家・山田朝彦さんが制作したのだと。4コマ漫画「コボちゃん」。「神楽坂マップ」を再び。現在地はここ。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.04
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「大信寺」を後にして「弁天坂」を進み突き当りを右折した場所右手にあったのが「正定院(しょうじょういん)」。「浄土宗 正定院」。新宿区横寺町40。浄土宗寺院の「正定院」は、不退山宝国寺と号す。正定院宝国寺は、然蓮社廓譽上人不退阿實和尚(ぜんれん しゃかくよじょうにん ふたい あじつおしょう)(寛永5年1628年寂)が開山となり、慶長7年(1602)麹町に創建、江戸城拡張に伴い当地へ移転したとのこと。参道を進む。お墓を継ぐ方がいなくても、お寺で、23回忌までお墓を維持・管理・供養を行う『永代供養制度』があるという寺。本堂はコンクリート製なので、歴史的な古さは感じられなかったが、本堂建物の上部に、二つの紋様が付けられていて、面白いデザインの寺。寺紋であっただろうか?本堂正面。本尊:阿弥陀如来立像。斜めから。特に石仏等はなかった。道路の向かいにあったのが「圓福寺」。新宿区横寺町15。「圓福寺」の山門の右側。文禄5年(1596年)9月3日、加藤清正公により創建された日蓮宗の寺。江戸時代には徳川家の祈願寺となり、大奥女中の信者が多くいた と。題目塔「南無妙法蓮華経」。日蓮宗では、法華経に帰依する意味で「南無妙法蓮華経」という題目を唱えると、その功徳によって成仏するといわれている。この題目を紙にして本尊としたり、石塔に刻んで寺や村々の辻などに立てていたと。右側面に「寛政十戊午歳(一七九八)十月日」と刻まれていた。山門の左側。「江戸三祖師 厄除開運祖師」「江戸三祖師 厄除開運祖師」は、日蓮聖人が49歳の時に自ら開眼した祖師像です。龍ノ口法難という迫害を奇跡的に免れたことから「厄除け開運祖師」と呼ばれ、堀ノ内妙法寺、赤坂圓通寺とともに「江戸三祖師」と言われているとのこと。「江戸城奉安 夜光鬼子母神」もともとは、江戸城紅葉山に祀られていたが、明治維新に際し、江戸城で徳川家および大奥の怨念、魔などを鎮めるために祀られていた夜光鬼子母神・七面大明神・妙見大菩薩が圓福寺に奉安されたとのこと。夜光鬼子母神は、真夜中に両眼が光り、暗いところで拝むことができる。鬼子母神は、子授け・安産・子育てなど子供の守護神として広く信仰されていた と。「文久元酉年従三月中旬、駿川岩本安国日蓮大菩薩 六十日之問於牛込圓福寺境内開悵之砌諸講中朝詣之図」「文久元酉年従三月中旬、駿川岩本安国日蓮大菩薩六十日之問於牛込圓福寺境内開悵之砌諸講中朝詣之図文久元年(一八六一年)三月、福寺において駿河国岩本實相寺の安国祖師像を六十日間開帳したときの賑わいを描いた版画です。このときの願主には牛込通寺町、牛込肴町など圓福寺近辺のニ十三町の講中が連名して参加していますが、日本橋、馬喰町、赤坂、東神田、麭町、品川、千住、内藤新宿などの幟や提灯もみられ、江戸と周辺の信者が多数参集している様子がみられます。信者の中には当時の歌舞伎役者の名もみられ、圓福寺が江戸の人々に熱心に信仰されていたことと、特にこの開悵がたいへんな評判であったことがうかがわれます。境内にはゆかりのある清正公の山車も入り、数々の出し物も演じられ、江戸庶民の信仰の熱意が伝わってきます。」文久元年(1861年)3月、駿河国岩本安国日蓮大菩薩が牛込圓福寺境内で60日間開帳された。この図は、開帳の際に諸講中が朝詣でをしている様子を表しているとのこと。「妙徳山圓福寺由緒当山は文禄五年(1596年)九月三日加藤清正 公により創建され、『妙法蓮華経』の功徳により福徳円満の御利益を授かるという意味が、山号、寺号の由来です。江戸時代の初期より祀られている祖師像は日蓮聖人 が四十九歳の時に彫られた御像で、聖人自ら開眼(魂入れ)なされ、その直後に龍ノ口法難(1271年)を免れたことから、生御影(生きるお姿)厄除開運の祖師と称され、古来より多くの参詣者を集めてきました。また、江戸時代末期に徳川家の祈願寺となり、大奥女中の熱心な信者も多く、明治維新には、江戸城紅葉山より夜光鬼子母神、七面大明神、妙見大菩薩が当山に奉安されました。」正面の「本堂」に向かって進む。左手に「妙徳稲荷大明神」。本堂に近づいて。本堂扁額は「廣布殿」。「廣布」の意味は『法華経の教えを広く宣(の)べて流布すること』と。御堂の手前には、「日蓮上人像」。「日蓮聖人像日蓮大聖人は、世の中の真の平和 人々の真の幸福とは何かと問い続け、法華経お題目によってそれが実現するとの確信に至り憂国の気持ちで立正安国論を鎌倉幕府に建白しました。その頃の気魂溢れるお姿を想い建立した御像です。平成十年十一月吉日妙徳山 ニ十五世 日達 記」「南無日蓮大菩薩」碑。「浄行堂」。手前に水桶と柄杓が置かれていた。扁額「浄行堂」。「浄行菩薩像」。「浄行菩薩法華経四菩薩の一人で率先して世の人々を哀れみ苦を除き楽を与える菩薩。病む人は正しく信仰し患部を洗い清めると平癒するという。別名洗い仏」。「南無妙法蓮華経 十方四生六道法界萬霊・・・」と刻まれた石碑。十方四生六道法界萬霊(じっぽうしせいろくどうほうかいばんれい)とは、迷いの中に生まれるすべての精霊を合祀して供養するために建てられた塔であると。法界とは、真理の世界、全宇宙のことで、万霊とはこの世の中の、一切の生きもののこととされているのだ。左に「宝篋印塔」。石碑、石塔が並ぶ。寺務所。「過去の罪、心からお詫びする。過去の行いにより今があり、今の行いにより未来が決まる。懺悔守りとは、心から懺悔(さんげ)することで過去の罪を消し、①健康運②仕事運③良縁、3つの運気に三化(さんげ)させ、朝日が昇るごとく、上向きに変化することを祈る御守りです。」私には、いまさら遅い「さんげまもり」!!「懺悔(サンゲ)守りの意味(サンゲが三化に、健康・仕事・人の緑が良い方向へ変化する)お釈迦様は、過去世の行いが原因となって、この世に結果として現われ、この世の行いが原因となり、来世結果として現われると言われています。私たちは大なり小なり罪を作ってきているのです。過去の罪があれば結果として悪い、不運なことが起きてくるという考えです。過去の罪はサンゲ(お詫び)によって消す事ができると信じて、自分の遠い過去世より今迄の罪、自分に係わる先祖の罪を心からサンゲすること、そして布施の気持(世の中が少しでも良くなるように見返りを求めずに奉仕すること)で努力することが大切です。・・・以下略・・・」日蓮宗の宗紋「井桁に橘」。「圓福寺」👈リンク の「当山 年中行事」。そして次に訪ねたのが「古今亭志ん朝旧宅」。Google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは何も見当たらなかった。「古今亭志ん朝」は昭和から平成にかけて、名人の名をほしいままにした落語家だが、神楽坂の矢来町に住んでいたところから「矢来町の師匠」とも呼ばれていたと。東京都新宿区矢来町。在りし日の「古今亭志ん朝」👈リンク。今はどなたがお住まいなのか?次に訪ねたのが「尾崎紅葉旧居跡」。新宿区横寺町47。細い路地を進んで行った。尾崎紅葉がこの地に住んだのは、明治24年2月、二十五歳のときから。紅葉が当時盛んになってきた言文一致の文章を用いだしたのが、『二人女房』(同年8月―)からであるから、紅葉なりの新しい文体は牛込移住と並行してはじまったといえます。その後『心の闇』(明治26年)、『青葡萄』(同28年)などの代表作を生み、同29年2月からは、言文一致の労作『多情多恨』を執筆。翌年1月に書きはじめた『金色夜叉』の完結をみず、同36年10月30日この地に没した。紅葉の家は鳥居家となっているが、紅葉がふすまの下張りにした俳句が二枚残っています。それは「初冬やひげそりたてのをとこぶり十千万はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな十千万堂紅葉」というもの。十千万堂とは、緑山・半可通人などとともに紅葉が用いた号です とネットから。「新宿区指定史跡尾崎紅葉旧居跡所在地:新宿区横寺町四十七番地指定年月日:昭和六十年三月一日この地は、小説家の尾崎紅葉(一八六七~一九〇三)が、明治二十四年(一八九一)から明治三十六年(一九〇三)十月三十日に亡くなるまで十二年間暮らし、代表作「金色夜叉」など多くの作品を執筆した場所である。紅葉は、本名を徳太郎といい、江戸の芝中門前町(現在の港区浜松町)に生まれた。東京府第二中学 や三田英学校 で学び、明治十六年(一八八三)、大学予備門に入学、同十八年には山田美妙 らと硯友社 を結成、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊した。同二十一年には帝国大学法科大学(現在の東京大学)政治科に入学、翌年には文科大学国文科に移るが同二十三年に退学した。在学中から読売新聞社 に入社し、「伽羅枕」「三人妻」などを連載して人気作家となり、やがて明治文壇の重鎮として幸田露伴 とともに紅露時代をきずいた。紅葉は鳥居家の母屋を借りて居住したが、自らの号でもある「十千萬堂(とちまどう)」と称した。二階の八畳と六畳を書斎と応接間にし、一階には泉鏡花ら弟子が起居したこともあった。当時の家屋は戦災により焼失したが、鳥居家には今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆が保存されている。 平成二十八年三月二十五日 新宿区教育委員会」「尾崎一葉」。そして再び「袖摺坂」まで引き返し坂を振り返る。大久保通りを飯田橋駅方面に引き返し、次に訪ねたのが旧な坂を登る途中にあったのが「繁榮稲荷神社」。新宿区岩戸町14。朱の鳥居が社殿前に並ぶ。扁額「繁榮稲荷神社」。内陣。横から。「繁榮稲荷神社創立 明治二十三年十月二十五日所立 東京都新宿区岩戸町十四番地。崇敬 創立と同時に無格社に列格宍戸ま津の崇敬殊に厚く併せて明治ニ十三年十月ニ十五日当時 東京深川六間堀所立の分霊を勧請し奉斉す。昭和ニ十五年五月ニ十五日 戦災により社殿焼失し、仮社殿に奉斉す。昭和ニ十八年十ニ月三日 宗教法人として認知さる。昭和三十四年六月七日 官弊大社伏見稲荷大社の御分霊を更に勧請し仮社殿が 東京都新宿区岩戸町八番地に設立さるに際し仮還宮す。昭和四十一年三月ニ十四日 東京都新宿区岩戸町八番地に岩戸町々会設立の新築社殿に 奉斉す 以上 新宿区岩戸町々会 この年譜は、令和元年五月一日に新たに書き掲示す」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.03
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再び「地蔵坂」を引き返し、右に曲がり都営大江戸線「牛込神楽坂駅」方向に向かう。左、そして右に大きくカーブした坂道を下る。都道433号線・大久保通りに出て左折し進むと左側にあったのが「南蔵院」。新宿区箪笥町(たんすまち(たんすちょう))。たんすの町と書くのだから、文字通り、昔からたんすを作っている家具職人が多く住んでいた?と思いがちだが、実はそうではないのだと。東京都公文書館ホームページによると、箪笥町の「箪笥」は、”家具”ではなく、実は”武器”に関係するものなのだと。江戸時代、箪笥町のあたりには、幕府の武器をつかさどる具足奉行・弓矢鑓奉行組同心の拝領屋敷があった。幕府の武器を総称して、「箪笥」と呼んだことから、正徳3年(1713)年、町奉行支配となった際、町が起立し、牛込御箪笥町となった。その後、「御」と「牛込」がとれて、現在の箪笥町という名前になったのだと。たんすが武具のことだとは、びっくり。山門には「弘法大師 天谷山南蔵院」、「御府内八十八箇所之内 阿波國平等寺👈リンク模廿二番」と刻まれた石碑。『天谷山 (山号)南蔵院(院号) 竜福寺(寺号)』と号する真言宗豊山派の寺御府内八十八箇所(ごふないはちじゅうはちかしょ)は、東京都内にある弘法大師ゆかりの寺院で構成された八十八箇所の霊場。宝暦5年(1755年)頃に開創したと伝えられる。25番札所(長楽寺、日野市)および77番(仏乗院、神奈川県秦野市)以外すべて東京都23区内にある。25番および77番札所も元々23区内にあったが移転して現在地となっている。御府内八十八ヶ所 寺院マップ をネットから。「大聖歡喜天」石標。歓喜天は、仏教の守護神である天部の一つで、ヒンドゥー教のガネーシャに相当する尊格。頭は象、身体は人間の姿をしており、現世に福徳を授けるとされているがのちに仏教にとり入れられた。弘法大師空海が唐から日本に持ち帰った神様でもあるのだ。入口の壁には「神楽坂霊園」と。「南蔵院」内にある霊園で、宗旨宗派は不問で、神道、キリスト教、他宗教など宗教自由な霊園とのこと。「本堂」。真言宗豊山派寺院の南蔵院は、天谷山竜福寺と号す。南蔵院は、牛込城主の牛込勝重が正胤法印に請い、吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天二体を上宮・下宮として祀っていたと。御用地となったため、延宝9年(1681)上宮と共に当地へ移転、天谷山竜福寺南蔵院と改号した。もう一体の下宮は弁天町の宗参寺に祀られ、弁天町の起源となったという。御府内八十八ヶ所霊場22番。創建:元和元年(1615年)。御本尊:千手観世音菩薩。扁額「南蔵院」。境内の石仏。比較的新しい地蔵さま。「南蔵院 案内」。内容は上記に同じ。本堂右には「歓喜天堂」。歓喜天の梵名(ぼんめい)はナンデイケーシユヴァラといい、仏教の守護神。狛犬(阿形)。狛犬(吽形)。扁額「歡喜天」。「南蔵院」の「本堂」、「歓喜天堂」を見る。ここが「神楽坂霊園」であっただろうか。アルファベットの墓標もあった。「南蔵院」を後にして都道433号を西に進む。横断歩道を渡った場所近くにあった案内板。「弁天坂 昭和五十九年三月 東京都」と。「坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門前にあまざけやおでんを売る屋台が立ち,人通りも多い様子が描かれている。坂上近くの横寺町47番地には、尾崎紅葉が、明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟 泉鏡花、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは 庭続きの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または 紅葉塾と称した。」案内板の設置位置が大久保通り沿いにあり緩やかな坂になっているので、大久保通りのここを「弁天坂」と勘違いしそうになったのは私だけであろうか?「新撰東京名所図会」よりネットから。都道443号・大久保通りに平行に走る「弁天坂」を上る。地下鉄牛込神楽坂駅の上、南蔵院という寺の前から 大久保通りから分岐して、大久保通りと平行した後に、直角に曲がって北西に上る。途中で袖摺坂の階段が分岐している。坂上は 朝日坂の坂上につながる。約110mの緩やかな坂であった。左手、狭い路地の先にあったのが「常念寺」。吉孝山常念寺。大久保通り沿いですが、北側の高台を併走する小道・弁天坂に面し、目立ちません。民家のごとくに。宗派:単立(浄土真宗東本願寺派)。廃寺なのだろうか?直角のカーブの場所にあったのが「袖摺坂(そですりざか)」案内柱。「俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺合わしたという(『御府内備考』)。」地下鉄大江戸線の 牛込神楽坂駅 東出口近く。大久保通りの‘箪笥町’交差点付近の北に上る 20段ほどの石段!!これが「袖振坂」。下まで降りて。途中から。ここは新宿区箪笥町一番地。「弁天坂」をさらに上って行った。左手にあったのが「大信寺」。新宿区横寺町43。「浄土宗 大信寺」。「大信寺」は、金剛山如来院と号す。大信寺の創建年代等は不詳ながら、室町時代に真言宗寺院として麹町に創建したと伝えられます。その後浄土宗に宗旨を改めて大蓮社超誉上人常然和尚(舟町西迎寺八世)が開山、番町への移転を経て当地へ移転したと。本尊:阿弥陀如来像近づいて。寺紋「抱き花杏葉(だきはなぎょうよう)」。この紋抱き花杏葉紋は、2枚の蔕(へた)の上に、半円の蘂(しべ)を置き、段々に毬花をつけた杏葉を2つ並べて左右から抱くように描く。境内の石仏。飛鳥時代の金銅仏風な石仏。寺務所。近づいて。ここにも石仏が。その先T字路に面した場所にあったのが「長源寺」。新宿区横寺町20。「曹洞宗 長源寺」。参道を進む。「本堂」。曹洞宗寺院の長源寺は、妙徳山と号す。長源寺は、徳翁寺三世在天智和尚(永徳12年1569年寂)が開山となり永禄元年(1558)麹町に創建、元和2年(1616)当地へ移転したと。扁額「長源寺」。「永代供養墓」。「有縁塔 永代供養墓です。」と。「石田鉄次郎翁之碑」。「石田鉄次郎翁之碑翁は安政五年江戸牛込揚場に生まれ資性朗膽侠氣に富み鳶方として三大区二番組に入り業務上異例なる手腕を認められ宮内省御用達を仰付れ亦他面数多の難工事を仕上げ其間子分身内を養成し業界に偉大なる足跡を遺せしは誠に斯界の亀鑑となす昭和十年九月廿二日病歿す榮名以て長に傳ふるに足る我等身内有志は敬慕の餘り記念碑建設を企つ幸に彫塑界の巨匠小倉右一郎先生は翁を知るあり之を賛助丹精に成り茲に此碑を建つ昭和十六年四月 親敬會」」「石田鉄次郎翁」。境内の石仏。墓地。「永代供養墓」。寺務所。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.02
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「光照寺」の墓地を巡る。「忠烈無窮」と刻まれた石碑であると篆書体(てんしょたい)の師匠から。「忠烈無窮」と。忠義の心で困難に永遠に打ち勝った と。「故陸軍歩兵特務曹長勲六等功六級佐々木雄之助君碑記」と。「新宿区登録文化財 史跡便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)の墓」「新宿区登録文化財 史跡便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)の墓」所在地 新宿区袋町十五番地登録年月日 平成2年3月2日登録江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生れた。幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。はじめ、牛込二十騎町に住む幕臣で狂歌師の朱楽菅江(あけらかんこう)に狂歌を学び、その後、唐衣橘州の門下に転じ、世に知られるようになった。大田南畝(なんぽ・蜀山人)とも親交があり、代表作「三度たく 米さえこわし やわらかし おもうままには ならぬ世の中」を、南畝が揮毫した文政2年(1819)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、新宿区指定文化財に指定されている。文化15年(1818)4月5日、享年70歳で没した。 平成3年3月30日 東京都新宿区教育委員会」墓石は、高さ152センチである。隣にも石碑が。廻り込んで。墓地の奥から「本堂」を見る。◯◯家の墓 と。歴史を感じさせる古い墓であったが。「無縁墳墓地等改装公告墓所整備のために、無縁墳墓等について改葬することとなりましたので、本墓地使用者等、死亡者の縁故者及び無縁墳墓等に関する権利を有する方は、本公告日より一年以内にお申し出ください。なお、期日までにお申し出のない場合は無縁墓地として改葬することとなりますので、ご承知ください。詳細は寺務所窓口へお問い合わせください。本墓地番号: E57 ◯◯家之墓公告年月日 令和5年7月3日墓地管理者」今後もこのような墓地が増えていくのであろう。少子高齢化が加速する現代において、社会問題化しているのがこの無縁墓の問題。自分の親や先祖のお墓の管理をこのまま継続していけるのか、あるいは、自分の死後、お墓の購入や維持管理の負担で子どもや孫に迷惑をかけたくないなどの心配をしている人がますます増えて行くのであろう。墓地の奥にも張り紙が。「お知らせとお願い墓石が古く、先の東日本大震災により一部転倒し、大変不安定で危険になっております。関係者以外立ち入りを禁止します 当山住職」と。無縁墓地とは別にこのような問題も発生していることを知ったのであった。「奥田抱生墓」と。墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものです。 奥田は文政8(1825)年10月10日生まれ、儒学者奥田大観の子であり、儒大観に学び、文教家で金石学研究家。魚貝や書画骨董を収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、考古学の先駆者。 著書には「今瓦譜いまがわらふ」、「日本金石年表」、「明清書画名家年表」など。昭和9(1934)年没、享年75歳。『奥田抱生墓先君諱普、字弐齋、氏奥田、抱生・紫燕・飯沙・三山行者等號、大観先生長子、幼承家學從曽祖鶯谷先生、世為尾張徳川氏奥御儒者、明治元年藩命撰十少年、就清人金嘉穂學、先君年甫十一亦入其撰、弱冠任内閣屬、既而辭之不復仕、下帷教授、明治四十三年入都ト居牛籠、著有日本金石年表・金石私記・主客説・詩堂集』森敦(あつし)が眠る「森家之墓」。森敦は作家で、明治45年生まれ。昭和49(1974)年、61歳で芥川賞を「月山」で受賞。平成元年没。享年76歳。右側にある碑文は「われ浮雲の如く 放浪すれどこころざし 常に望洋にあり 森敦」と。そして境内の東側にあった「出羽松山藩主酒井家墓所」を訪ねた。「この墓域は出羽の国松山(松嶺)藩主酒井家一族の墓所である。松山藩は徳川の譜代大名であり、庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒が分家として正保四年(一六四七)ニ万石で創設された。明治の廃藩置県に至るまで八代を数える。このうち、三代藩主忠休が寛延ニ年(一七四九)よりニ十六年間幕府の若年寄の要職を務めた功により、安永八年(一七七九)上野国に五十石が加増され、築城も許された。光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があるが、一族のうち江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは、酒田市松山心光寺に葬られた。現在同寺には国元の有志により三代の廟所が設けられている。八代以降数代は、カトリックに改宗したため、墓所は台東区谷中に移された。江戸期における大名墓は、一般に国元ではよく保存されているが、府内のものは次々に消失している。新宿区内では当寺のものを含む数箇所のみである。」墓地の全体図。数字は造営順。主なものは①初代忠恒(1639ー1675)⑭三代忠休(1714ー1787)④四代忠崇(1751ー1824)④五代忠禮(1780ー1821)⑩六代忠方(1808ー1887)㊷七代忠良( 1831ー1884)㊻忠方第六子忠量(1856ー1913)及び開係者合葬手前から①初代忠恒 ③二代忠豫 ②同夫人? ④?初代酒井 忠恒(さかい ただつね)は、出羽松山藩の初代藩主。左衛門尉酒井家分家初代。庄内藩初代藩主・酒井忠勝の三男。寛永16年(1639年)8月8日生まれ。正保4年(1647年)12月11日、本家の庄内藩から2万石を分与されて、支藩である松山藩を立藩した。駿府加番や江戸城二の丸の石垣普請、酒井氏の菩提寺である心光寺の創建に努めた。延宝3年(1675年)8月6日(または1674年)に死去し、跡を長男・忠予が継いだ と。手前から㊴、㉚、⑯、・・・。⑭、㉓、⑧であっただろうか??上記墓石の案内図。全ての番号と名前のリストが欲しい!!??????右から㊷七代忠良(1831-1884年)、㉑五代忠禮(1780-1821年) ㉖??の墓上記案内図をズームして。㉖をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.11.01
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次に訪ねたのが「地蔵坂」に面した「光照寺(こうしょうじ)」。新宿区袋町15番。寺号標石「浄土宗光照寺」。光照寺は、増上寺の末寺で「樹王山 正覚院 光照寺」という。牛込城の跡地に建つ。入口にあった掲示板。「考え過ると人間は臆病になる」、「浄土宗開宗 八百五十年」と。参道を進む。正面に「鐘楼堂」。「梵鐘」。「鐘楼堂光照寺は、慶長8年(1603)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺町に起立、正保2年(1645)ここ牛込城跡に移転しました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開山の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名に由来するものです。鐘樓堂は、明治元年(1868)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏棄釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、60年の歳月を経て昭和12年(1937)に復興を見ましたが、昭和20年(1945)第二次大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還されて永く境内に保存されていましたが、この度の鐘樓堂の新築により復元しました。 平成5年(1993)1月 浄土宗光照寺」そして「本堂」光照寺は慶長8年(1603年)、神田元誓願寺町に開かれた。開基は松平次郎左衛門信貞(松平昌安)、開山は清誉上人光照と伝わる。正保2年(1645年)に現在地へ移転した。また、出羽松山藩江戸屋敷の菩提寺となったため、境内には同藩主家の酒井家歴代の墓が残る。寺務所。「私たちの宗旨名称 浄上宗宗祖 法然上人(源空) (一一三三~一二一二)開宗 承安五年(一一七五)本尊 阿弥陀仏(阿弥陀如来)教え 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、 社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄士に生まれることを願う信仰です。お経 お釈迦さまがお説きになった『無量寿経』「観無量寿経』『阿弥陀経』の三部経を よりどころとします。」寺務所入口の扁額も「光照寺」。「本堂」を正面から。創建:慶長8年(1603年)神田元誓願寺町 正保2年(1645年)に現在地へ移転。開基:松平次郎左衛門信貞(松平昌安)開山:清誉上人光照出羽松山藩江戸屋敷の菩提寺本堂内陣。「本堂」前から境内を。牛込城は牛込氏の居城として知られています。牛込氏は大胡氏を祖とする一族で、当初は扇谷上杉氏に仕えていましたが、天文年間に当主・大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となりました。重行の子、勝行の代から牛込氏を名乗るようになります。北条氏滅亡後は、徳川家康に従い、城は廃城となりました。現在、城址は光照寺の境内になっており、遺構は残っていませんが、門前に案内板が建てられています。「新宿区登録史跡牛込城跡所在地 新宿区袋町15番登録年月日 昭和六十年十二月六日光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城跡である。牛込城の城館や築城時期は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。牛込氏は、赤城山の麓上野国勢多郡大胡(現在の群馬県前橋市大胡町周辺)の領主、大胡氏を祖とする。大胡氏は、天文年間(一五三ニ~五五)に南関東へ進出し、北条氏の家臣となり、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近を領有した。天正十八年(一五九〇)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、江戸時代は旗本として徳川家に仕えた。なお、光照寺は、正保ニ年(一六四五)に神田から当地へ移転したものである。 平成三十一年三月ニ十九日 新宿区教育委員会」なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓」などがある。「新宿区登録有形文化財 絵画光照寺の涅槃図所在地 新宿区袋町十五番地発録年月日 平成三十年十月ニ十四日涅槃図とは沙羅双樹の下で入滅する釈迦を描いた仏画で、一般的に釈迦が頭を北に、顔を西に、右脇を下にして臥し、周囲には悲しむ菩薩らや仏弟子などが描かれる。浄土宗増上寺の末寺である光照寺の涅槃図は、総寸法三一七・ニセンチメートル、横一九六・四センチメートルを測る大振りな涅槃図である。人物表現などの描写の特徴から、元祿から正徳年間(一六八八~一七一六)頃の、画技に習熟した江戸狩野派の画家によって描かれたものと推定される。区内に存する貴重な江戸時代初中期の涅槃図として、また珍しい狩野派の涅槃図として、重要である 平成三十一年三月二十九日 新宿区教育委員会」「涅槃図」。光照寺に伝来する涅槃図で、縦317.2cm×横196.4cmの大振りな涅槃図である。画面の地には、約9cm角の金箔が全面に貼られ、釈迦には金泥が塗られているが、切金等の技法は見られない。本紙上部に剥落箇所も見られるが、すでに修復済みであり、保存状態はおおむね良好である。さらにズームして。お釈迦様を囲うように8本の樹が描かれています。こらは沙羅双樹の樹であり、実際にお釈迦様は沙羅双樹の木の下でお亡くなりになられたと伝えられています。涅槃図は時代や作者によって描かれ方に違いがあります。沙羅双樹も違いがあり、4本の場合もあれば2本の場合もあるそうです。基本的には8本ある描かれ方をしています。図を見ると、8本のうち4本は緑の葉の色が変色し、枯れてしまっています。これは、お釈迦様が亡くなられて、樹木でさえ悲しみのあまり、葉を枯らしてしまったと一説には言われています。また残りの青々とした沙羅双樹はお釈迦様の教えは色あせることがない永久的な真理を表していると言われています。この二つを描くことにより、死は必ず逃れる事のできないもので、悲しみではあるが、お釈迦様の教えは未来永劫残るものという普遍的な両方の真理を表しているとみる事ができます。これを四枯四栄といいます。あの有名な「平家物語」の冒頭文、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」の沙羅双樹はこの時の情景をもとに謳われている事がわかります と。そして右上に摩耶夫人(まやふじん)と阿那律尊者(あなりつそんじゃ)が描かれている。この雲にのって先導している老人は阿泥樓駄尊者と同一人物だといわれている阿那律尊者になります。そして阿那律尊者と一緒に乗っている中央の女性が、摩耶夫人になります。お釈迦様の涅槃が近い事を悟り、摩耶夫人に知らせに行き、摩耶夫人は両脇に天女を引き連れて駆け付けている図になります。摩耶夫人はお釈迦様の実母であり、お釈迦様が生まれて七日後に亡くなったと伝えられています。お釈迦様が涅槃に入らしむ事を嘆き、なんとか助けようと、長寿の薬をもってきたが、間に合わず、お釈迦様は涅槃に入りました。同じ人物が一つの図にいる事と、お釈迦様の涅槃前と後での時間軸に違いがあるのがわかります。サンスクリット語のニルバーナという言葉を音訳して涅槃といい、意味は「煩悩の火が消えた状態」をいいます。まず画の中心で金色に輝き、横たわっている方が涅槃にはいられた直後のお釈迦様になります。「頭北面西(ずほくめんせい)」で横たわり、今日でも亡くなった方を北枕か西枕で安置するのはこの故事からきています。左上に沙羅双樹に錫杖と風呂敷のようなものに何か包まれているように見えます。これは一説によると、摩耶夫人が涅槃の間際のお釈迦様に向けて、錫杖に薬を括り付けて投げたが、沙羅双樹の木に引っかかってしまい、結局間に合わなかった事を表していると言われています。もう一つの説が、錫杖が当時最低限に許されている僧侶の持ち物だとされている為、袈裟と器(食事をいただく)だという説もあります。この場面については、様々な逸話があり、薬は間に合ったが、お釈迦様がそれを拒んだ、という話や、ねずみが薬をお釈迦様に届けようとしたら、猫に食べられてしまった等、後の創作話でしょうが、面白い話がいくつもあります。寺院によって説明が一番違うポイントではないでしょうか。摩耶夫人が投げた薬袋を投薬といい、現在の「投薬」の語源になっているそうです。下の絵の一番右ではお釈迦様の足を擦る老婆の姿が。この謎の老婆は何者か?これもいくつか所説があります。沢山の菩薩や如来など、悟りを開いた方々を差し置いて、唯一お釈迦様のお身体に触れている事から憶測を呼ぶ人物です。一説にはお釈迦様が苦行を辞め、下山したとき、ミルク粥を施した「スジャータ(難陀婆羅(なんだばら)」だという説もあります。スジャータはお釈迦様にミルク粥を施した時は、小女だと言われますので、少し年を取りすぎている印象です。一般的な定説では、須跋陀羅(スバッダラ)という120歳にもなる老汝だと言われています。お釈迦様の45年間の布教活動を労い、足を擦っているのです。その時の定説によって描かれ方が違うため、作者の意図が大きく反映されてはいると思いますが、鎌倉時代にはお釈迦様と阿難陀尊者とこの老汝だけ描かれている図が確認されています。それだけ、重要な女性である事は間違いなさそうですが、謎が多い老汝です。涅槃図には様々な登場人物がいます。お釈迦様の弟子たち、八部衆と言われる「天、龍、夜叉、阿修羅、迦樓羅、緊那羅、摩ご羅伽、乾だつ婆」や帝釈天と四天王、様々な諸菩薩、大臣や長者たち、そして伝説上の動物や現存の動物たち。多くの登場人物がお釈迦様の入涅槃を聞きつけ、悲しみ、嘆かれています。涅槃図の中には猫が描かれていない事が多いのですが、これは摩耶夫人が投げた投薬が沙羅双樹の木に引っかかってしまった時に、仏の使いであるネズミが取りにいきましたが、途中猫に食べられてしまった為だと伝えられています。猫がいる図といない図は、完全に作者の遊び心が大きく反映されています。作者の飼い猫をいれたり、依頼されて書いたり等があるようです。もう一つ有名な話があります。「十二支の順番」が関係しています。お釈迦様の入涅槃の話を最初に聞いたのは牛です。ネズミは牛の頭に乗り移動しました。移動の途中猫が寝ていましたが、日頃より仲が悪かった、ネズミと猫でしたので、ネズミは起こさず向かったそうです。お釈迦様の元に近づくと、ネズミは牛の頭から、飛び出して、一番に到着しました。猫は結局お釈迦様の涅槃に間に合わず、十二支にも入らなかった、というお話です。恐らく、時代が遡り江戸時代頃につくられた寓話だと推測されますが、中々面白い話です。「涅槃図」について、ネットから多くを学んだのであった。「新宿区指定有形文化財 彫刻木造地蔵菩薩坐像所在地 新宿区袋町十五番地指定年月日 平成九年三月七日寄木造り、黒漆塗り。像高三十一センチ。十三世紀末(鎌倉叶代)の作品で、区内で最も古い仏像彫刻のびとつである「御府内備考続編』に掲載された縁起によると、この像は安阿弥(あんみみ・快慶)の作と伝えられ、もとは近江国(滋賀県)の三井寺(園城寺)に安置されていた。弘安年間(一ニ七八~八八)に、後宇多天皇の皇后が難産で苦しんだ際、本像に祈願して無事に男子を出産した(のちの後ニ条天皇)ことから、「泰産地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺へ移され、正徳年間(一七一一~一七一六)に増上寺の末寺である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰を集めた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである」新宿区登録有形文化財 彫刻木造十一面観音坐像発録年月日 平成九年三月七日一木造り、素木仕上げ。像高七十センチ。十八世紀末(江戸時代後期)の作品で、作者は木食明満である。明満(一七一八~一八一〇)は、円空とならび称される造仏聖で、全国を旅して鉈彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。 平成三十一年三月ニ十九日 新宿区教育委員会」「木造地蔵菩薩坐像」。「木造十一面観音坐像」。「新宿区指定有形文化財 絵画阿弥陀三尊来迎図所在地 新宿区袋町十五番地指定年月日 平成十年ニ月六日絹本着色、木製の板に張り付けられた状態で、厨子に納められている。縦一〇ニ・ニセンチ、縦三十九・四センチ(画像寸法)。画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至のニ菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるため降りて来る)様子を描いたもので、十四世紀後半(室町時代)の作品と推定される。新宿区指定有形文化財 絵画法然上人画像指定年月日 平成十年ニ月六日絹本着色、掛軸装されている。縦八十九・五センチ、横四十一・三センチ(画像寸法)。浄土宗の宗祖法然上人の画像で、十五世紀後半(室町時代)の作品と推定される。 平成三十一年三月ニ十九日 新宿区教育委員会」「阿弥陀三尊来迎図」。「法然上人画像」。境内の石仏、石碑。境内の石仏。境内の石碑。永代供養像。本堂の南側にあった墓地を訪ねた。最奥にあったのが「無縁塔」。近づいて。中央の台座には「倶會一處(くえいっしょ)」と。「倶會一處」は、仏教の用語で、「倶(とも)に一つの処(ところ)で会う」という意味です。阿弥陀経に「諸上善人、倶會一處」とあることから出た言葉で、極楽浄土に生まれたものは、みな一つ所で会うことができるという意味。右の石仏群。左の無縁墓石群。そして「諸国旅人供養碑」。「新宿区登録有形文化財 歴史資料諸国旅人供養碑所在地 新宿区袋町十五番地登録年月日 昭和六十一年六月六日神田松永町の旅籠屋紀伊国屋主人利八が、旅籠屋での病死者の菩提をとむらうため、文政8年(1825)に建立した供養碑である。はじめは、文政2年(1819)から建立までの7年間に死亡した6名の名前を刻み、その後は死亡者があるたびに追刻した。安政5年(1858)までに合計49名の俗名と生国が、塔身の向かって左側面と背面に刻まれている。当時旅先で客死する例が多かったことを示す歴史資料として、また珍しい供養碑として希少である。 平成31年3月29日 新宿区教育委員会」右側の石碑。「諸国旅人供養碑」。左側面。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.31
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「鰻坂」を歩き終わり、突き当りを右折し「牛込中央通り」に向かって進む。新宿区払方町の住宅地を進む。左折して市谷鷹匠町3−1 市ヶ谷ヒルズの先を右に進むと案内板があった。「掲示板」の横にあった小さな「案内板」。「新宿区指定史跡浄瑠璃坂の仇討跡所在地 新宿区市谷鷹匠町浄瑠璃坂上・鼠坂上指定年月日 昭和60年11月1日浄瑠璃坂と鼠坂の坂上付近は、寛文12年( 1672 ) 2月3日、「赤穂事件」、「伊賀越えの仇討」(鍵屋の辻の決闘)とともに、江戸時代の三大仇討のひとつと呼ばれる「浄瑠璃坂の仇討」が行われた場所である。事件の発端は、寛文8年( 1668 ) 3月、前月に死亡した宇都宮藩主奧平忠昌の法要で、家老の奥平内蔵允が同じく家老の奥平隼人に、以前から口論となっていた主君の戒名の読み方をめぐり刃傷におよび、内蔵允は切腹、その子源八は改易になったことによる。源八は、縁者の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年2月3日未明に牛込贋匠町の戸田七之助邸内に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討ち入り、牛込見附門付近で隼人を討ち取った。源八らは大老井伊掃部守直澄へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり、6年後に許されて全員が井伊家ほかに召し抱えられた。 平成28年12月2日 新宿区教育委員会」この付近は、再開発工事中で路地沿いはフェンスで覆われていた。ここが「鼠坂(ねずみさか)」。中根坂の途中、大日本印刷の工場前を東に入った先を北に曲がり,そこから大日本印刷の若葉寮に抜ける70mの小道。工事中の為か、案内柱は見つからなかった。正面に見えたのが、「大日本印刷㈱ ・DNP本社」ビル。DNP:Dai Nippon Printing Co., Ltd.右に「中根坂東公園」。「中根坂東公園」は今風のマンションにピッタリの雰囲気で軽い傾斜、綺麗な芝生そして雑木林をイメージした木々に囲まれた静かな公園であった。新宿区納戸町44。「安藤坂」の先にあったのが「市谷の杜 本と活字館」👈リンク。新宿区市谷加賀町1丁目1−1。「市谷の杜 本と活字館」は、2020年11月に市谷に誕生した本づくりの文化施設。テーマは「リアルファクトリー」。活版印刷を中心とした印刷所であると同時に、モノづくり工房として、印刷の美しさや奥深さ、楽しさを体感できる施設と。残念ながら「本日は休館日です」と。「中根坂」を北に進む。「中根坂昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。」「中根坂」と「銀杏坂通り」のT字路交差点から「大日本印刷㈱ ・DNP本社」ビルを振り返る。T字路を左折して「銀杏坂通り」標識を見ながら西に進む。外苑東通りの“市谷柳町”交差点から 南に進み、2つ目の信号(長昌寺前)から東に向かう坂。「市谷の杜(いちがやのもり)」を左に見ながら「銀杏坂通り」を西に進む。市谷地区敷地内の、緑豊かな樹木や植物が育つエリア。市谷地区再開発の一環として誕生したこの公開空地は「市谷の杜」と名付けられた。かつての武蔵野の雑木林をイメージして造られたと。「市谷の杜」案内板。前方左手に案内板が。新宿区市谷加賀町2丁目4−31。「『遠野物語』誕生の場所柳田國男旧居跡日本民俗学の父・柳田國男(1875~1962)は、現在、大妻女子大学加賀寮となっているこの地にあった旧柳田宅で、小説家・水野葉舟の紹介により岩手県遠野市出身の佐々木喜善(1886〜1933)と出会い、佐々木が語った遠野に伝わる不思議な話を百十九話にまとめ、明治四十三年(1910)に『遠野物語』として発表しました。柳田は、明治八年(1875)兵庫県神崎郡福崎町に松岡家の六男として生まれ、十五歳で上京。青年期から文学に親しみ、田山花袋、島崎藤村、國木田独歩らと交流がありました。東京帝国大学卒業後は農商務省に入り、翌年の明治三十四年(1901)に大審院判事であった柳田直平(なおへい)の養嗣子として入籍し、昭和二年(1927)に世田谷区成城に移るまでの二十七年間をこの地で生活しました。『遠野物語』の話者となった佐々木は、当時早稲田大学在学中で、この旧柳田宅から徒歩で一時間弱の所(現在、凸版印刷株式会社トッパン小石川ビルがある文京区水道一丁目)に下宿しており、毎月のように、柳田の求めに応じ旧柳田宅を訪れ遠野の話をしました。『遠野物語』は、日本民俗学黎明の書として、また、日本近代文学の名著として、今なお多くの人に読み継がれています。 平成二十二年十一月 岩手県遠野市」「佐々木喜善旧居跡」と「現在地・柳田國男旧居跡」を示す地図。日本民俗学の父・柳田國男(1875~1962)と「遠野物語」初版本。柳田家邸宅平面圖。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。「日本銀行 加賀町寮」新宿区市谷加賀町2丁目6。加賀町の名の由来は、江戸時代前期の加賀藩主・前田光高夫人(徳川家光の養女大姫)の屋敷があったことに因んでいる。明暦2年(1656年)に大姫が亡くなると江戸幕府によって屋敷地は収公され、多くの旗本に土地が分割して与えられたことから武家屋敷が建ち並んだ。しかし以後も本地域は加賀原や加賀屋敷などと呼ばれた。二丁目には縄文時代(約4千年前)の遺跡である市谷加賀町二丁目遺跡があり、古代から人が住んでいた とネットから。そしてその先のユニークな形状の建物は芸能プロダクション「オフィスさかや」であったことを帰宅後ネットから。新宿区二十騎町1−14。二十騎町は、先手与力の屋敷地であったことに由来。 1組10人で構成される先手与力が、2組20人居住していたことから、二十騎町と俗称され、現在の二十騎町となった と。社長は峰竜太の夫人みどりさん、所属タレントに峰竜太、下嶋兄(峰の長男)がいると。峰竜太氏の自宅でもあると、いずれもネット情報。近づいて。潜水艦の如き丸窓。Googleマップで上空から。上空からは、角が丸い四角形の家であるが。新宿区市谷加賀町1丁目の住宅街をさらに進む。右手に学校が姿を現した。「祝76周年 新宿区立牛込第三中学校」。路地の角に。「東京都立(府立)第四中学校の跡都立四中は明治二十一年九月私立補充中学校として麹町区飯田町に開校した後、共立中学校、東京府城北尋常中学校と改称、同三十四年四月東京府立第四中学校となる。同三十七年一月には牛込区市ヶ谷加賀町の此の地に木造二階建ての校舎が建ち、以来明治・大正・昭和前期にわたる深井鑑一郎校長の薫陶の下で、礼を基底とした人間教育と学問の基礎の確立を通して、世に「天下の四中」の名を得るに至った。時が移り第二次大戦の末期、昭和二十年三月十日および四月十三日の大空襲により明治以来の校舎、講堂その他建物一切は灰燼に帰し、さらには敗戦後、学制改革もあって、昭和二十二年、二十三年における旧制中学五年生の卒業を最後に、都立第四中学校は六十年にわたるその歴史の幕を下した。併し不易流行の校風は、都立戸山高等学校に受け継がれ現在に至っている。最後の卒業生となった昭和十七年入学者一同、四中終焉五十周年を記念して此の碑を建てる平成十年三月 昭和十七年入学者一同」「新宿区立なんど児童遊園」。新宿区納戸町19。「牛込中央通り」を横切りさらに東に進み「新宿区立中町図書館」前を通過。その先、左にあったのが「宮城道雄記念館」。新宿区中町35。「宮城道雄記念館」の掲示板。本日休館と。石段の先が「宮城道雄記念館」入口。名曲《春の海》の作曲家として知られる宮城道雄は、8歳で失明の宣告を受けて以後、自らの道を箏曲に定め、やがて西洋音楽の要素を邦楽に導入することによって、新しい音楽世界を開拓し続けました。彼の後世への影響は大きく、現在、「現代邦楽の父」とも称されています。また、八十絃など楽器の開発と改良を行う一方、優れた演奏家として、さらには感性豊かな随筆家としても人々を魅了するなど、多方面にわたって活躍しました。当記念館は、この宮城道雄の偉業を顕彰すると同時に、日本音楽の発展に寄与するため、昭和53年(1978)12月6日に開設された、日本で最初の音楽家の記念館です。宮城道雄が晩年まで住んだ敷地に建設された当館には数々の遺品のほか、生前書斎として使われていた離れ「検校の間」(国登録有形文化財)も保存されており、ありし日を偲ぶことができます と。中に入れなかったので「宮城道雄記念館検校の間」をネットから。昭和23年建築。昭和30年移築。 宮城道雄の書斎として建てられ、開放的で洗練された意匠をもつ。宮城道雄本人の意向にそって茶室風に造られたと。敷地の西北隅に位置する。木造平屋建、建築面積21㎡の小規模な建物。寄棟造桟瓦葺とし、東・南面には深い庇を出し、外観に陰影を与える。6畳の主室には西面中央にトコ、その両脇に琵琶トコと違棚を構える。洗練された意匠をもつ瀟洒な書斎。「宮城道雄氏略傅宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る 生後二百日にして悪質の眼病あり九歳遂に失明し2代目神戸中嶋検校の門に入る その芸術的天分は夙に音楽に発現し十六歳にして処女作「水の変態」を成し 爾来「春の海」👈リンク「秋の調」「落葉の踊」「桜変奏曲」等幾多の名曲あり 独自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音楽と称せらる昭和五年東京音楽学校に迎へられて講師となり同十二年には同校教授たり 十九年高等官三等正五位に任せられ 昭和24年には東京芸術大学講師たり 三十一年六月正四位勲四等に叙せられ 旭日小綬章の授與を受く その間芸術院会員の拝命放送文化賞の受賞 世界民族音楽舞踊祭に日本代表として渡欧などの栄譽ありしを 昭和三十一年六月二十四日関西交響楽団との競演のため大阪市に向ふ途上列車銀河より東海道刈谷駅付近の鉄路に転落せるを発見 手当中翌二十五日光輝ある六十二年の生涯を終りぬ口述及び点字写字機に依る「雨の念仏」「騒音」「垣隣」の詩趣多き随筆の類を收めたる全集三巻の遺著あり 亦その詞藻を見るに足る 右 七周忌に当り属により 遺友 佐藤春夫 撰」「宮城道雄記念館」👈リンクを見上げて。入口の表札「宮城宗家」、「宮城會」と。「宮城道雄記念館」を後にして、次の目的地「新坂」に向かって進む。「新坂(しんざか)」案内柱。「『御府内沿革図書』によると、享保十六年(1731)4月に 諏訪安芸守(戸田左門)の屋敷地の中に新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。」都営大江戸線「牛込神楽坂駅」に向かって新宿区北町2の住宅街を北に進む。右手に見えたのが「地蔵坂」。案内柱が右手に。「地蔵坂この坂の上に「光照寺」があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また藁を売るお店があったので、別名「藁坂」とも呼ばれた。」「地蔵坂」を西に進む。「坂道、通り・路・道、横丁」 案内図をつくって見ました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.10.30
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