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「南京事件15(完)」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。写真の「300000」の数字は今後も変わらないだろうしもちろん中国側からは変えようともしないだろう。河村名古屋市長の南京事件はなかったのでは?との発言に対し、名古屋市との交流を一時凍結すると日本のマスコミが騒いだようであるが、こちらのメディアでは大きくは取り上げられてはいない。また河村市長は昨年、南京市へ書面にて南京事件の事柄を送っており、今回の交流一時凍結も南京側の面子もあるが、交流団の中止は安全面を考慮して全て中止としたが中国にいる日系企業はたまらない。私は右翼主義者でも左翼主義者でもない。中国での日本人に対する言動についても出張ベースで中国へ来られる人には南京事件の事については何も言わない。また片言しか中国語を話せない人にも南京の虐殺については言わない。上の写真は旧館の日本が造った記念館の遺骨だが日本人の心を持っているならば、このようなこれ見よがしの並べ方はしないであろう。私のように中国の片田舎で20年近く中国の人達の中で知人も増え交流が多くなる中で日本人の残忍さを言われ続けた者にしかブログに書いた辛さは分からないだろう。上の写真は強制労働させられ病気で体が弱ると日本人による残虐な殺人が行われた炭鉱労働者の事柄を歴史教科書に載せて中学生に教育する。犠牲者は10万人ほどと中国側では発表しているがその満州吉林「万人坑」で掘り起こされた遺骨が南京の大虐殺記念館に展示し青少年教育している。日本人の残虐性の教育ばかり受けた若者たちが日本人を憎むようになるのは当然の摂理であろう。1992年以降の反日教育は共産党の思惑通りになった。下の写真の花は「紫金草」や「二月蘭」と呼ばれる。別名「諸葛菜」と呼び、孔明が占領陣地に食料として栽培したということで諸葛菜とも呼ばれるようだ。南京陥落から南京の紫金山麓で無邪気な少女が日本兵へ手渡したとされる花であるが、南京では有名な話である。紫金山の麓で少女から手渡された紫金草の花の種を採集して日本へ持ち帰り紫金草花の普及に努めたのが今から70年以上前のことになる。紫金草の花は「平和の花」として日本でも多く咲いているので見た人もいることだろう。2007年南京記念館の拡張工事で当時83歳の故・山口誠太郎さんの息子さんが日本各地で1000万円の募金を集め南京に寄付した。南京市は記念館に紫金草花園を造園し紫金花少女の像も建て日中両国人民が共に平和を祈念するシンボルとして多くの人が少女を訪れる。紫金花少女が左手に持つのが紫金草の花である。反日デモも南京だけは一度も起こってはいない。まだ南京大虐殺の写真は有ったが「大虐殺」の活字は目にしたくないと言う少数ブロガーの意見を尊重し、今回で終了と致しました。私は一時帰国のための準備に入りブログの更新は帰国してより、その時まで・・・。次回は日本からの更新になりそうです。
2012.03.28
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「南京事件14」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。旧日本海軍は朝鮮半島、現在の韓国済州島や東支那海の空母から爆撃機で中国沿岸部を爆撃し中華民国の首都南京へ兵を進め、南京を攻略した。下の画像は中国の軍旅詩人「王久辛」が書いた「狂雪」詩集で、王久辛は1956年生まれる。「狂雪」は1990年に発表、1995年記念館へ。大虐殺の事柄は1991年中国高校歴史教科書に載る。翌年の1992年には中学の歴史教科書にも載った。1991年当時、17歳として37歳ほどになっており、中学で教育を受けた人でも34歳ほどである。最近起こっている反日デモに参加している人々は若い人や大学生が多く反日教育の副作用である。 1937年11月、旧日本軍は上海を占領し上海から南京まで移動する中、蘇州、無錫、揚州などで潜む中国国民党革命軍に神経を集中させながら南京へと向かい南京を包囲した。蒋介石は南京を易々と日本軍には渡さない6ヶ月間守りぬくと述べたが、6日間で陥落してしまった。そして蒋介石は最後まで戦わず重慶へと逃げ去った。取り残された国民党軍5万の将兵と25万の南京人民が日本皇軍兵から大虐殺を受けたと主張するのが所謂、南京事件であり南京大虐殺と呼ばれている。下の画像の足型は、78歳から89歳の人達が多い。南京事件の証言者の足跡の形をとったものである。
2012.03.27
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「南京事件13」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。上の写真は南京大虐殺を描写した油絵であるがリアルさを超えて実に奇妙な油絵である。旧日本皇軍の二人の将校が腕組みをして仁王立ちしている姿を描いたのは旧日本軍の兵士が如何に残忍だったと印象付けたいからだ。多くの中国人は、この油絵を見て日本人の残虐さを確信しただろうし、日本鬼子と呼ぶに相応しい絵に仕上げられているが、もし私がその場に居たのなら、直視は出来ないと思う。南京大虐殺は中国共産党により捏造された。中国国民党の調査で大虐殺前の南京の人口は20万人であったと報告されている。だが、南京大虐殺での犠牲者数は30万人とされまた同じく南京安全区国際委員会の事務局長の報告では旧日本軍の南京陥落の3ヶ月後の人口が25万人であったとされ、旧日本軍が南京へ入り物資を配る噂で人口が増えたとしている。万が一にも中国共産党の主張する南京大虐殺が本当に有ったとするならば、南京の人々は我先に逃げ出しているのではないだろうか?
2012.03.26
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「南京事件12」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。 「通州事件」の事も手伝い旧日本皇軍が南京占領時に復讐心で南京事件が勃発した。孫文と結婚した宋慶齢の妹の宋美齢は蒋介石と結婚したが、南京事件の事をアメリカにおいて反日運動の目的で世論に訴えたが反応なしだった。宋美齢は南京事件の犠牲者の数を大幅に改ざんし中国兵が犯した「通州事件」の残虐な写真をレイプ・オブ・南京として日本兵の仕業だと発表。中国側が行った満州馬賊の惨たらしい公開処刑写真も日本軍の残酷な仕業の証拠写真として発表した。レディー・ファーストの国アメリカは人道主義に敏感でレイプ・オブ・南京のテーマで反感ムードが一気に高まり、ここでも宋美齢の策略の罠に落ちた。アメリカ大衆は南京での日本軍の野蛮行為に憤り悪い日米関係に火を注ぎ反日の感情は高まった。このアメリカ世論の意識を行動へ誘導した中国側のプロパガンダ作戦は成功し更に中国側に武器を提供アメリカの武器により旧日本軍兵士の多くが死亡した。(画報は大阪毎日と東京日日の特派員の写真を掲載)
2012.03.25
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「南京事件11」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。初め難色を顕にした中国共産党幹部に日本社会党が資金を提供してまで推し進めた大虐殺記念館とは何か。それまで日本が大好きと言っていた中国の青少年までがアンチ日本となり反日デモの先陣を切っている。反日デモをする彼らに、大虐殺記念館を建てたのは日本だと話した所で信じないだろうし逆効果でしかない。1937年7月7日盧溝橋付近に駐屯する旧日本軍に中国共産党革命軍は中国国民党と日本軍の緊張状態の中ゲリラ軍の共産軍が発砲し両軍の戦闘を招いた。旧日本軍は中国国民党革命軍と思い込み発砲したが問題が大きくなると判断し発砲を中止した。これを中国共産革命軍は日本が弱腰になったとさらに発砲を続け盧溝橋事件勃発へとつながった。旧日本軍は完全に共産革命軍の罠にはまった。ゲリラである共産革命軍はその場を逃げ去った。盧溝橋事件が勃発したが、停戦協定がなされ落ち着いたものの今度は中国国民党が協定を破り攻撃を仕掛けてきた。更には通州事件へと発展する。中国支那保安隊による虐殺は日本本土へ知らされ日本国民の世論も手伝い軍部を激怒させた。日本では直ぐに派兵をするべきか意見が分かれた。中国側は戦争を継続させる為、停戦協定も何度となく破られ、遂に日本は派兵を採決し支那事変となる。中国国民党に対し米英は、武器と資金を支援し日本に対しては経済制裁を行なうなどの行動をとった。日本海軍は空母から爆撃機で中国沿岸部を爆撃し中華民国の首都南京へ兵を進め、南京を攻略した。
2012.03.24
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「南京事件10」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。上の絵の写真は虐殺を始めたところの1シーンだが日本皇軍で使用されていた機関銃は九九式軽機関銃。1分間に550発を発射させる事ができるが装弾可能は30発なので何度も装弾しなければならない。1ヶ月余りの期間、南京市内を巡回して残党兵を射殺するだけでも大変な精神的苦痛を受けるだろう。その前に残党兵は戦意を喪失して士気が下がり白旗を掲げて投降して来たのではないだろうか。中国の映画やテレビでは、投降した便衣兵を集め虐殺に及ぶシーンを延々と映し出しているが当時の日本皇軍の機関銃では延々と射撃できない。中国側が問題にしているのは日本の残虐行為だけで南京攻略までに至った前後関係には口を閉ざしている。日本人が忘れ去ろうとしている。または全く知らない中国軍による日本人居留民の虐殺「通州事件」の事を。中国の居留区に暮らす大勢の日本人を虐殺した。「通州事件」日本の世論を奮い立たせ日本皇軍を動かし南京攻略に踏み切り命を下したが上海で戦死者が続出した。下の写真は「支那事変」で皇軍連戦勝利の「画報」である。
2012.03.23
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「南京事件9」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。東京裁判で日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るか競ったとされる将校が死刑になった。将校が腰に掛ける軍刀は指揮を高めるためのもので武士の魂の日本刀ではない。日本刀であっても一度に人を3人斬れば刃こぼれがしてしまうであろう。座頭市のように一度に何十人も斬れるような映画の世界ではない。人を斬れば血糊が付着し切れ味が悪くなってしまう。骨まで斬れば刀は曲がりくねる。それとも将校は30本以上の軍刀を事前に用意して100人斬りを行ったのだろうか。不思議である。上の写真は5連発発射できる小銃だが、例えば日本皇軍兵士3千人で1人が100人虐殺すれば中国共産党の主張する「300000」の数字には到達できる。戦後66年過ぎた今でも、多くの中国人の恨みを残す「南京事件」が今でも日本との政治の駆け引きに必ずと言ってよいほど使われてしまう。「南京事件」はあったのは事実であり認めてもいる。中国の各工場を訪問した折、初めはピリピリしていた中国の若い人達も、私に慣れて来ると南京事件の問題を必ず言い出すが、どこの工場の作業員も同じである。私が黙っていると、黙っているのは認めているからと薄笑い顔で言い出すので、何とも辛い思いをしていた。(館内は全面撮影禁止であるので注意)
2012.03.22
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「南京事件8」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。写真は「平和の鐘」の書かれた中国文をアップで撮ってみたが上手に撮影できていない。内容は1937年12月13日に日本侵略軍は南京を占拠し6週間の長きに渡り残忍な暴行大虐殺を行ったと書かれ、レイプの事も書かれている。平和の鐘は2006年9月24日に寄贈されたが寄贈したのは日本2団体中国5団体を含む10団体。2011年12月13日の南京大虐殺74周年記念の追悼集会に平和の鐘が撞かれ鐘の音が響き渡る。中国の報道では、日本は南京事件を避けているがそれでは双方の国民感情のわだかまりは解けない。何故日本は南京事件に向き合って話が出来ないのか日本の首相が南京を訪問し犠牲者に献花し謝罪すれば必ず分かり合う事が出来る筈だと報道した。2012年の12月13日には75周年儀式を挙行しその儀式に日本の首相が参加し犠牲者に献花する事が一番望ましく日本人に対するイメージも大きく変わる。中国人の日本人に対するイメージは74年経った今でも何も変わってはいないし、テレビや映画で描かれる抗日戦争の日本人は極悪卑怯で小心者として描かれる。中国国民の日本人に対するイメージは毎年ダウンし現在の多くの若者は極悪日本人と記憶されている。だが、そのようなイメージ作りを誰がして来たのか日本ではなく中国共産党の政治戦略の中で中国国民が騙されていた事実を知ったならば、どうなるのだろう?
2012.03.21
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「南京事件7」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。(写真は日本軍の大虐殺が行われたとされる1937.12.13-1938.1までの刻印である)「南京大虐殺」いわゆる「南京事件」は捏造や虐殺人数を改ざんし、いつの間にか変化していった。一人歩きしたと評論家は言うが、私はそうは思わない。毛沢東は日中国交回復の時点で周恩来総理に中国共産党が勝利を収めたのは日本が蒋介石軍と戦い打撃を与えた為、共産党は国家を樹立出来たと言った。南京大虐殺記念館は大日本帝国皇軍と中華民国国民党の蒋介石政権との間で行った日中戦争で中国抗日戦争にまつわる記念館として中国最大規模の記念館である。然るに一人歩きではなく、中国共産党が故意に捏造し代々の首脳陣に受け継がれたがゆえに、今回の河村市長の南京事件はあれほど酷くは無かったのではの発言にまるで反抗期の子供のように友好凍結などと言い出したと思う。抗日戦争で死亡した中国軍は380万人余りで中国人民の死亡者数は1000万人と発表していたが1985年の抗日戦争勝利40周年記念の折に2000万人と2倍の死亡者数にすると、改ざん数を発表した。大日本帝国の犠牲者は軍人230万人余りで一般市民は広島長崎の原爆犠牲者も含めても80万人余りである。この死亡者数から推測しても南京での虐殺が30万人とは、誰が考えても不思議この上ないと思う。南京大虐殺記念館は抗日戦争の代表格として中国共産党の愛国主義教育基地に指定されており、この記念館を事もあろうかユネスコ世界文化遺産に立候補している。(写真の平和の鐘を支える柱は1本で10万人を意味する)
2012.03.20
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「南京事件6」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。私が初め記念館に行った翌年に小泉政権が誕生した。だが靖国神社参拝問題が浮上すると、中国人の心を逆なでする発言で、中国に居る日本人は中国人の標的の的となり私の見解まで聞いてくる始末だった。酒場などでは、私のお客様とは関係ない中国人があまりにも不愉快な態度に「私は日本を代表して中国に居るのではない」と開き直った事もあった。中国人がこれ程日本人を威嚇するようになったのかは南京大虐殺記念館を日本が建てたからで社会党の思惑は完全に的を外れ反日感情へ拍車を掛けた。旧大虐殺記念館には社会党議員や社会党団体による中国人への謝罪文が相次いで提出され張り出された。修学旅行で訪れる日本の生徒たちには千羽鶴を折らせ日本は2度と過ちを犯しませんなどと謝罪文を書かせていたが、何処に証拠があって高校生の心に圧力を掛けているのだと思うと、教師さえも憎かった。時には中国の新聞やテレビでも紹介され中国人はやはり南京での大虐殺は真実だったと確信を持った。2002年5月民主党の菅直人幹事長夫妻一行6名が南京大虐殺記念館を訪れ花輪を捧げ詫びを伝えた。何故、そんな余計な事をするのだと言いたかった。「南京への道」で南京事件を書いた本多勝一氏は中国に大虐殺を教えた事で2006年に表彰状が送られた。
2012.03.19
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「南京事件5」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。私が2回目に大虐殺記念館を訪れたのは2006年4月の事で、2ヶ月すれば建替えの為半年以上見学できなると思ったからだった。3回目に訪れた時には建物が立派になり驚いた。中国南京の子供たちは社会科の授業の一環として南京大虐殺記念館へ見学に行き感想文を書かせる。中国の歴史教科書に至っては1冊の40%を割いて旧日本軍の侵略を学び反日感情を植え付けている。コメント欄でも書いたが、南京大虐殺記念館は建築資金が無く難色を示していた中国共産党幹部は日本が設計と資金提供で建てる密約を結び建った。1983年当時中国側は記念館建設には乗り気でなく社会党から資金援助をするという事で中国共産党も納得し日本の設計と建設で1985年オープンした。社会党も村山総理が連立政権で担がれ総理になった。だが総理引退後の1996年以降社会党は見る影もない。
2012.03.18
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「南京事件4」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。画像は新しく建てられた南京大虐殺記念館の入口までの通路脇に作られたモニュメントである。どのモニュメントを見てもリアルな表現で作られているが、作った人達は戦争を知らない若い芸術家達なので想像でしかない。話ではモニュメントの製作に入る前、中国で製作された旧日本軍による虐殺の映画を見せイメージ作りに拍車を掛けたとの事である。私も中国語の南京大虐殺の映画をDVDで見たことがあるが、日本兵が妊婦の腹を銃剣で突き刺し、腹を割き、銃剣の先に突き刺した未熟児を空高くかざし、日本兵は笑っていた。いくら時代が違うとしても日本兵が、そんな事を本当にしたのだろうかと疑問の思いで見ていたのに対し中国人の若手芸術家は憎しみを込めた思いで見ていたに違いないとモニュメントを見て確信する。
2012.03.17
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「南京事件3」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。南京大虐殺記念館は旧日本軍の非道行為を内外にアピールする為に建てられたのが南京大虐殺記念館だが実際とは異なる。 中国国民すら知らなかった南京事件は1971年日中国交樹立前に朝日新聞紙上に掲載された本多勝一の「中国の旅」という連載記事から始まる。私が中国へ居住した1993年当時は南京事件で気が重く中国人から攻め立てられる度に謝罪ばかりしていた。それは大虐殺は本当にあったと信じていたからだった。今回で3回目となる南京への旅だが初めて来た時の事を記念館を歩きながらも思い出していた。2000年11月雨の降りしきる南京空港へ降り迎えの車で南京大虐殺記念館へと走らせたがまだ地理に疎い私は南京大虐殺記念館の距離が結構遠かったように記憶している。12年前は南京大虐殺記念館へ入った時に入口の「300000」の数字に驚きながらも説明を受けながら、中へ中へと進んでいった。
2012.03.16
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「南京事件2」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。私が初めて南京大虐殺記念館を訪れたのは12年前の雨が降りしきる日だった。その頃の記念館は現在とは違い大分小さかった。写真の記念館に入っていくスペースに置かれたモニュメントなどは無かった。初め訪れた時の私には大虐殺の知識が乏しく彼ら中国人の話すことを信じざるを得なかった。南京攻城戦で大虐殺があったと主張しているのは1937年12月13日から6週間行われた事を指す。1937年12月日本軍は南京を攻略、南京陥落前に南京から逃げ出した蒋介石は重慶に逃げ込んで国民党政府は重慶に首都を移していた。国民党の兵士達も重慶へ移動し南京には5万ほどの兵士しか残ってはいなかったが、日本軍は南京で残虐な大虐殺を行い30余万人を殺害したとされた。
2012.03.15
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「南京事件1」 「中国写真ライフ」では、江蘇省南京「南京大虐殺記念館」の写真を公開しています。河村名古屋市長の発言に対して南京市から河村市長が発言の過ちを認め謝罪しなければ双方の友好関係は凍結すると発言した。政治上の問題なのかも知れないが中国にいる日本人にとっては迷惑な話である。ところで、松井石根さんって名前を知る人は最近では少なくなってしまったようだ。中国人に言わすと「さん(先生)と呼ぶのは止めてほしい」と言われたことがある。 中国人から見れば中国へ上陸をし大虐殺をしたA級戦犯なのだから仕方が無いが、太平洋戦争でA級戦犯になり絞首刑で散った人は7人いる。その中で陸軍大将の松井石根さんは中支那方面軍の司令官であり上海派遣軍司令官でもあった。南京大虐殺いわゆる南京事件は中国の捏造と心の中では思っているが、多くの中国人の前では大きな顔をして、南京大虐殺は無かったと言えない。
2012.03.14
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「桂林旅情25(完)」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「印象・劉三姐」はチャン・イーモウ監督により映画が公開され中国で大ヒットとなり劉三姐の悲恋物語は中国の誰もが知るところとなった。上の画像は望遠で撮影しているのでブレを起こし見にくい画像だが、皆一人が一つの筏に乗り演技をする姿は感動的だった。「印象・劉三姐」の物語は「桂林旅情24」の所で少し触れた。劉家の三女である三姐は美人で心根も優しく誰からも慕われていたが地主の番頭が「掛け合い歌」に負けた事を腹いせに主人に妾にする女性がいると話す。金持ちの主人である老人は三姐を見るなり一目惚れし妾になるよう強要したが、三姐には村の「歌垣」で出会った青年に恋をしていたため断り続けた。劉家は裕福ではなく兄が金を目当てに妾になれと強く勧めるが三姐は恋人を慕っており幾度も拒絶する。だが、執拗に迫られた三姐は仕方なく「掛け合い歌」に負けたら妾になってもいいと答え「歌垣」対決が始まる。 金持ちの爺さんは三人の秀才を雇って三姐に対抗するが全て負かされ、今度は役人と結託し三姐が歌う事を禁じた。三姐は村の娘達に写真のように陣を張らせ抵抗するが追い詰められた三姐は崖から身を投じ死んでしまった。だが、三姐は水底から魚に乗って昇天し天女となり村人を守り続けたという物語で代々受け継がれて来た。これで桂林旅情は終わりとなり、明日よりは今問題の南京大虐殺記念館の写真を元に私なりに書いてみたい。ちなみに、私は南京虐殺は無かったと信じている。「中国の旅」
2012.03.13
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「桂林旅情24」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「印象・劉三姐」のチケットを360元で購入。日本円に換算すると約6000円ほどであるが前の方がチケット代が高いのかと思ったら屋根付きの座席が一番高く650元もする。「印象・劉三姐」の「三姐」とは三女の事で広西自治区桂林に受け継がれる悲恋物語である。「歌垣」に似たような感じで、若い男女が集まり互いに求愛の歌謡を掛け合う風習が今も残る。(写真は山にライトを点け大掛かりな舞台)万葉集に「山に雪が降ったのかな~、それとも愛しい彼女が白い布を干しているのかな~」と「歌垣」に似た歌詞もあり遣唐使の時代からである。唐代から語り継がれる「劉三姐」は唐のころ広西チワン族の娘で歌と踊りが上手だったので「歌仙」と呼ばれ美人でとても人々に慕われていた。劉三姐が兄と船に乗って親戚の所へ行く途中に地主に仕える番頭が村人を苦しめているのを見かけ三姐は掛け合い歌で番頭をやり込め漁民の妹を助ける。つづく「中国の旅」
2012.03.12
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「桂林旅情23」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。夕方になると「印象劉三姐」の野外ショーを見るためにチケットを購入する事になった。初めは「印象劉三姐」と言われてもパンフレットを見せられても、どのような物語か分からなかった。出発まで2時間あったのでホテルのフロントにお願いして「劉三姐」のDVDを見せてもらった。ミュージカル風の物語だったが時間もなくなり簡単に説明をしてくれたものの意味が分からない。会場となる漓江山水劇場へ着くまでの間に二人の中国人が早口で教えて頂いたが分からない。開園までまだ時間があり山水劇場の写真を撮った。辺りは、かなり薄暗かったが数値を換え撮影した。野外ステージで漓江の山並みが目の前にあり一枚目の画像の山にライトアップされ本当に自然劇場である。会場には筏に乗った多くの若者たちが長い布を巧みに操っていたが水上での動きが乱れず目を見張るものがあったが丁度雨が降り出した。松明の火で小雨と風が吹いているのが分かる。「中国の旅」
2012.03.11
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「桂林旅情22」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。筏のあとガイドは私の前を歩こうとはせずぴったり後について歩いたために他の中国人の女性達も同じようにガイドについて歩いていた。私が振り返ると「貴方の所為ですからね」と言わんばかりの表情であったり指差す女性もいた。だが、写真の鍾乳洞へ入るとワクワクする表情に変わったり、中には「暗いからブレないようにしっかり撮りなさいよ」などと、言葉は違えども心は皆同じと思った。引率していた地元旅行社のガイドは暫し休み鍾乳洞専属のガイドが付いて説明してくれていた。蘆笛岩と呼ばれる全長2kmの巨大な鍾乳洞で800mが観光客用のルートとして許可されている。洞内には数多くの鍾乳石や石柱、また石の花が見られ七色のライトアップで幻想的である。 広大な中国の中でも桂林の蘆笛岩ほどの大きさは他に類を見ないとの説明であったが、鍾乳洞の出口の所に赤提灯が飾られており居酒屋を思い出す。「中国の旅」
2012.03.10
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「桂林旅情21」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。漓江下りの船着場から少し川沿いを見渡し石段を下り写真のような二人乗りの筏が岸に繋がれているのを見ていた。女性現地ガイドが日本人は何処へ行ったのと大きな声で探しているようだった。私が手を振りながら声を掛けると「そんな所で何やっているんですか」と「皆さんバスへ乗って貴方が最後ですよ」と声高らかに言う。バスに乗り込んでより「日本人早くしろよ」と言うので中国人からは大きな笑い声が上がった。あんな筏に乗る人なんか居るんですかねとガイドに聞くと「何言っているの、明日あの筏に乗るんですよ」と言うと、また笑い声が起こった。上の写真は筏から望遠で撮影したが鵜飼の鵜を間近で見たのは、この時が初めてだった。長良川の鵜飼は夜舟遊びした事があるので鵜匠が鵜を巧みに操り魚を獲って来るのかと思ったら鵜匠が魚を川へ投げ込み、鵜が潜って魚をくわえて上がって来ると言っていたが日本もそうなのかな。「中国の旅」
2012.03.09
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「桂林旅情20」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。陽朔のホテルで一夜を明かし朝食を食べようとバイキングレストランへ行った。大きな皿に少しずつ野菜類を載せて目玉焼きコーナーで目玉焼きが出来るのを待っていると昨晩も食事をご一緒した女性から今日は筏乗りですからご一緒して頂けませんと声を掛けられたので、宜しくとお願いした。彼女は50半ばの裕福な中国家庭の奥さんで一人旅で来ていたが、何度も食事をご馳走して頂き申し訳ないような心持ちがしていた。筏乗り場まで地元ツアーのバスで行くと沢山の二人乗りの筏が連なり泊められていた。私と女性の二人で筏に乗り込み、女性から色々と話をされるが、私はただ相づちを打つだけで、もっぱらカメラのファインダーを覗き見ながら切り取る構図を探していた。ふとカメラを太腿に乗せ、辺りの風景を見渡すと目の前には陽朔特有のパノラマに山が連なる。筏は静かに陽朔の川を下り船頭の竹竿が川面に跳ねる水の音が気持ち良さに拍車を掛けていた。「中国の旅」
2012.03.08
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「桂林旅情19」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。桂林市の漓江西岸に陽朔県があり陽朔県には秀麗な景観があるとのこと。「桂林山水」の詩に「陽朔は桂林で一番」と詠われるほどに中国内では有名な所である。 改革開放を打ち出して以来、対外開放の観光都市の第一番として、陽朔はその美しく独特の風景により多くの観光客を呼んだ。陽朔一帯の自然景観は独特であり桂林山水の真髄で精華が集まっていると言われている。張芸謀(チャン・イーモウ)監督の映画の「劉三姐」の撮影が行われた大榕樹景区も陽朔地区にあり監督指揮による大規模な山水を背景にした野外ショー「印象劉三姐」に多くの観光客が訪れている。夜に「印象劉三姐」の中国初の野外ショーを見たが野外でもあり途中から雨に降られた。写真はホテルの前の道路から街並みを撮影した。陽朔中心から少し離れているので田舎町の風情。「中国の旅」
2012.03.07
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「桂林旅情18」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。各観光地の土産屋売り場の定番商品は写真の小物入れの巾着袋であろう。桂林では桂林山水と刺繍がしてあり雲南のシーサンバンナでは西双版納と巾着袋に刺繍ミシンで地名が刺繍してある。マチが付けてある巾着や小さなポケットが付けてあるものなど3種類ほどあるようだ。巾着の価格は1袋10元(150円)と言われて買おうかなと思っていると、隣で中国人が値切り倒しているのを聞いていた。束の間の時間だったが最終4袋10元で買い私は思わず10人民元を財布に仕舞い込んだ。土産屋の人は2袋10元にするからと言っていたがあまりに衝撃的なシーンを見てニッコリ笑った。生地やデザインなどは少数民族のものであり各観光地で売る人達も少数民族の人達が多い。中国の少数民族は55民族あり、漢族と併せ56の民族で構成されているが一番多い漢族が無国籍を含まず13億人で少数民族は1億人いる。その中で一番多いチワン族が1600万人であり満州族が1000万人と回族950万人が続いている。「中国の旅」
2012.03.06
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「桂林旅情17」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。漓江から陽朔までの漓江下りを終えた後中国人ガイドから「ここからは徒歩で行きます」「出来るだけ近くまでバスを呼んでありますからまた写真ばかり撮って遅れないようにね」と釘を刺されたが、やはりシャッターを切っている。写真の記念壁飾りは少数民族の女性を刺繍で表現したものであり、少数民族のチワン族の女性の手作りで他にも沢山刺繍を施した物が並んでいた。 桂林市の人口は約480万人で少数民族は約70万人いる。桂林は多くの民族が集まって住む街で漢族以外にチワン族、ミャオ族、ヤオ族、トン族が暮らしている。この少数民族の中でも取り分け一番人口が多いのがチワン族で手織の生地を使って多種多様なデザインの服を作り女性は色とりどりのロングの巻きスカートを穿いたりウェスト切り替えのワンピースを着ている。若者は前にチャイナボタン式の中華民国時代とよく似た上着を着て腰に紐を結び肩から織物に刺繍を施したバッグを提げる事も多い。「中国の旅」
2012.03.05
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「桂林旅情16」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。2億5千年前の地殻変動によってできた無数の山が海水のひいた後に、そのまま残され出来た地形との事だが目を奪われる。漓江下りは桂林観光のハイライトで船の上から観る何百という奇峰奇巌の風景は正に壮大なパノラマであり、小雨降る中で船が進む事で風が吹き、衣服が直ぐに濡れてしまった。カメラにはビニール袋をかぶしレンズ部分のみ穴を空け出していた。他の中国人を見ると連れ合いが傘を差し出して微笑ましかった。 桂林は黄山に並び賞される中国屈指の景勝地の一つであり花鳥風月で、正に山水画の世界である。男性的な黄山、女性的な桂林と写真的には興味が尽きないが、思ったより早く陽朔へ着いた。桂林が歴史の舞台に登場するのは紀元前214年秦の始皇帝が広東と広西地方を統一し運河を造った時まで遡り、その頃の桂林は街中を漓江が流れているため「南連海域、北達中原」と呼ばれる軍事上の基地として栄えた。また宋代には広西地方の政治文化の中心地として賑いをみせていた。「中国の旅」
2012.03.04
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「桂林旅情15」「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「では、もし船に乗る時、他の係官が発見したらどうなります」と続けて聞いたところ・・。「先程私共のチーフが書類に書き込みましたので貴方がしゃべらない限り発見されませんよ」と。どうして質問を受けて話してはいけないのだろう?その疑問に彼はこう答えた「貴方は、口が不自由で話が出来ないと明記しました」と言う。上手い方法を考え付いたものだと思い、また、あのタクシーの運転手も粋な計らいをするものだと感心した。小雨が降るデッキに立ち川風に吹かれながら目の前に繰り広がれる奇観を眺めていると不思議な気分に。下から「食事の用意が出来ましたよ!」と呼びに来てくれた。「私達には見慣れた景色でも、始めての方は感動されますね~」「早く食事にしましょうか?」と催促する。まだシャッターを切っていると「何処も同じ景色ですよ!先に行けばもっと良い景観の所が有りますよ!」私を早く下へ降ろさんがための方便とも受け止めれた。桂林は中国屈指の景勝地として中国のみならず世界から知られており「山青し、水清し、石美しく洞窟奇異なり」といわれる山水画の世界が広がる。「中国の旅」
2012.03.03
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「桂林旅情14」「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。写真は今回の桂林の旅で撮影した画像だが出来事の内容は1995年始めて一人で桂林へ来た時の事を思い出しながら書いている。現地旅行社の人は忙しそうに、小走りで列の先頭へ行ったが助手の人を私に付けてくれた。私は「ここでは中国語で話しても良いですか?」と「問題ないですが問題は船に乗るときです」と語る。彼は「8年間この仕事やってますが、初めてですよ!」「何がですか・・?」ととぼけて聞くと困ったように「日本人と同じ船に乗るとはな~・・・」と・・。 今の日中問題など起こっていない時であるので彼も深い意味合いで話したのではなく、日本からの観光客ツアーは全て旅行社が便宜を図り日本語の話せるガイドを付け、当時中国人専用の船に日本人が紛れ込みフォローをしている彼の真実の言葉だった。「もし、貴方が日本人と発見された場合、私達の責任になってしまいます」説明では「並んでいる間に私達が船会社に替わって身分証明書等検査し、その時に発見できれば切符を買い直して頂くことになります」「もし故意に乗せた事が発覚した場合、会社が罰金刑にされます」と「では、もし船に乗る時、他の係官が発見したらどうなります」と続けて聞いたところ・・。つづきは明日更新します。「中国の旅」
2012.03.02
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「桂林旅情13」 「中国写真ライフ」では、広西自治区「桂林」の写真を公開しています。「漓江下り」は桂林の旅で最も人気の観光スポットであり出発地の竹江が近づくにつれて奇岩奇峰を縫うようにタクシーは走った。1995年当時の事柄で今回の旅の話ではありません。船着場は幾つも有り、外国人用の船着場と中国人用の船着場と違っていたために自分が乗る船の船着場を運転手と探した。ツアーの場合にはガイドの指示に従えばよいが個人の場合は運転手も不安で「何が起こっても私は知りませんからね?」と船まで案内してくれた。私の乗る船の前の船がまだ出発してないし全てが中国人である。10分くらい待ったところで中国人2人が私の所へ来て「貴方は日本人ですね?」といきなり中国語で聞いてきたので少し驚いた。私に「日本人ですね」と声を掛けた人は運転手の友人で「偶然にもここで出会い、貴方を守ってやってくれ」と言い残したそうだ。「船着場で、係官が一人ずつ切符を確認し中国人かどうか検査しますから貴方が話せば外国人と分かってしまうので何も話さないように」「船に乗ってしまえば、何を話しても良いですから必ず守ってください」と丁寧にゆっくりと話してくれた。「中国の旅」
2012.03.01
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