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敗者の理 備中松山城の三村元親、その妹の備前常山城の鶴姫、阿井の渡しの山中鹿之介、備中高松城の清水宗治、戦国時代のこれらの敗者の最期は、それぞれに理のあるものに思う。命をかけた、本領安堵、家臣の助命、武士の誉れ、忠義が語り継がれ、敬われ、弔われている。 古代の温羅について鬼伝説が有名だが、郷土史に詳しいこの地の人と話すと逆に思っているようで、地域では、鬼を敬い、祭ってもいる。古代にも敗者に理があったように思えてくる。温羅ゆかりの地が残されていて、鎮魂の場のよう。鬼ノ城に設けられた温羅の碑。24吋別窓表示鬼ノ城の北の山中にある鬼の差し上げ岩と呼ばれる岩屋。24吋別窓表示鬼ノ城の東門の北にある屏風折れの石垣といわれる城壁。屏風折れの石垣は、あたかも出丸のよう。この近くに温羅の碑がある。屏風折れの石垣から北の谷をのぞいた景色。この谷底に流れているのが温羅が流して染まったと伝えられている血吸川の源流となる。24吋別窓表示にほんブログ村
Oct 29, 2020
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備中兵乱の末期、備中松山城の下流の山間部が終わろうとする地点にある荒平山城を小早川隆景が制した。この城は高梁川を挟んで北と東の対岸に山城があったらしい。城跡に登ると、東向きから南向きに大きく方向を変える高梁川を一望でき、要衝であったことがよくわかる。 この城の陥落の数ヶ月後に、備中松山城、そして最後に常山城がおちて、毛利と宇喜多勢が備中を支配することになったらしい。尾根の頂上が荒平山城跡。地図272。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 南側に深い堀切が残っていた。その先には、古墳時代前期、中期、後期の古墳群が尾根に沿ってつづき、麓には、秦廃寺の古代の遺構もあった。高梁川は、上流から鉄を運ぶ水路であったとのことで、この地域は古くから盛んな土地であったようだ。秋葉山と井山城跡。地図342。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 秋葉山から下の低い丘に城があったことになる。その裏には、宝福寺があるが、備中兵乱で伽藍は焼け、三重ノ塔のみが当時からの現存らしい。雪舟の小僧時代の伝説の舞台となった方丈の柱も焼け、今ある方丈は再建されたものと。志良計(しらけ)城跡。地図341。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 三つの城が互いによく見える位置にあったことになる。谷筋の奥にある山の向こう側に古代の鬼ノ城が位置する。 ここから下流域には平安時代から灌漑された豊かな平地が広がっていたらしい。湛井堰と十二箇郷用水の原型が平安時代にでき、改修と郷をまたがった調整運用は現代まで続けられてきたそうだ。 田は潤い、収穫後に鬼ノ城から十二箇郷地域を眺めると、野焼きの煙があちこちからあがっていた。24吋別窓表示山城を頂くパノラマ写真 24吋別窓表示にほんブログ村
Oct 28, 2020
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24吋別窓表示平安時代の模型と2000年前に荒神谷遺跡に埋納されていた銅剣とその復元。ブロンズの輝きに目を奪われた。24吋別窓表示真名井遺跡で17世紀に発見された銅戈(どうか)の復元と。ひすいの勾玉とともに出土して出雲大社所蔵と。1400年前の大刀。刀研ぎ師の手により輝きがよみがえった刀身と。柄と鞘は金銅板に覆われ、さびを落とすと見事な文様が浮かび上がったと。24吋別窓表示にほんブログ村
Oct 25, 2020
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岸壁の階段に腰掛けて鞆の浦を眺めていたら、陽が差しこんだ水の中を細かい糸が帯のようにゆらいでいるので、よくみたら、極細のしらすが群れをなして階段にそって流れていた。しばらくすると、澄んだ水に戻っていた。現役の港幕末の三条実美ら七卿都落ち、上洛時の宿と。保命酒造の酒屋。龍馬がいろは丸事件に対処していた時の隠れ部屋と。山中鹿之助は、備中阿井の渡しで謀殺された後、鞆にて足利義昭に首実検され、静観寺で葬られたと。毛利勢は、対信長の拠点として鞆に陣を構えていたらしい。鞆城の本丸跡から見た鞆の浦にほんブログ村
Oct 21, 2020
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奥吉備街道から本宮山を目指して途中で道が閉門されていて歩けず、出直すことにした際、手ぶらで帰るのもなんなので、吉田牧場にてチーズを買って帰りましたところ、旨いこと、旨いこと。 三種ほど求めましたが、カチョカバッロは、愉快な形もさることながら、食感もよく、焼きましたら止まらぬ旨さで、二日で半分に。安くはないですが、珍味でお酒もすすんでしまいます。 こちらの牧場は、ブラウンスイスという乳の濃い牛で、全頭放牧と。なるほど、旨いわけだ。蒜山のジャージー牛の濃厚な乳製品に舌鼓をうってましたが、この牧場も、格別でした。 標高400m弱の高原に、北には、本宮山582mを見晴らせる立地で、山奥ですが、快適な広域農道に面していて案外便利でした。通いそう。
Oct 16, 2020
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鎌倉時代、水路として瀬が開削された地らしい。今は水中に没したが、当時、この事績を刻んだ岩があるそうだ。舟で鉄を搬出していたらしい。 成羽川の水源は、道後山で、その山頂部は、たたら場の薪にされて木がないとの書き込みがあったが、どうなのだろうか。いつか辿ってみよう。六甲の緑は植林で明治開化時は薪にされて禿山だった写真が残っているので、案外そうなのかもしれない。 右岸の山の頂には城跡があり(紫城跡 資料はこちら)、向かいの左岸の奥の山頂にも城があったらしい。戦国時代も要衝であったらしい。ダム直下の成羽川右岸にある谷を上りきると平川氏館跡、金子山城跡があり、備後との国境となるらしい。平川氏は戦国期に城下町を創り上げたそうで、毛利とは昵懇であった記録が残っているらしい。 ダムは昭和40年代の瀬戸内の工業用水と電力を確保するために設えられたらしい。今も重要な水源らしい。湖の名は備中湖。没して立ち退いた多くの家の名が石に刻まれていた。歴史のある村落だったのではなかろうか。 竣工後、半世紀経つが、重力式アーチダムとしては、国内最大らしい。堤体に立つと鈍い響きが聞こえ、盛んに発電していた。 鎌倉時代からの産業史のある地に吉備高原の開析を足場に湾曲した堤が水をたたえ、その高さは100メールを超え、山中に鎧の様にそびえていた。104:軽尾城跡 110:袈裟尾城跡 111:紫城跡 109:北丸城跡吉備高原の高梁川と成羽川による開析がわかる。高瀬舟が通う川では、合流地域が要衝のようだ。にほんブログ村
Oct 12, 2020
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高梁川に成羽川が流れ込む地。渡しの痕跡はわからなかったが、山中鹿之助の碑が高梁側右岸に建っていた。 この地点から上流に少し行けば、高梁川左岸の山上に備中松山城が構えている。高梁川と成羽川が吉備高原を刻んだ開析は、深く、長い。合流点は、要衝にちがいない。18世紀の建立成羽川の合流高梁川上流方向観泉寺の碑にほんブログ村
Oct 11, 2020
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切り立つ岩肌の間の渓流を進むと、轟音が響く細い谷間の空に降ってくるような滝がたっていた。白い羽衣が岩肌を覆うように流れているようだった。 勝山の奥の名瀑。星山が水源と。 背後を猿が横切り、岩を上り森に入る姿をしばらく目で追った。自然な猿の様子にこの森が神聖に思えた。臥牛山の主のような仕草の猿とは様子が違った。落差 110m幅 20m野生猿 160匹
Oct 7, 2020
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